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1953-08-04 第16回国会 衆議院 法務委員会 第30号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十八年八月四日(火曜日)     午前十時二十三分開議  出席委員    委員長 小林かなえ君    理事 鍛冶 良作君 理事 佐瀬 昌三君    理事 田嶋 好文君 理事 吉田  安君    理事 古屋 貞雄君 理事 井伊 誠一君    理事 花村 四郎君       大橋 武夫君    押谷 富三君       林  信雄君    高橋 禎一君       中村三之丞君    猪俣 浩三君       細迫 兼光君    木下  郁君       佐竹 晴記君    岡田 春夫君  委員外出席者         証     人         (帝国電波株式         会社社員)   三橋 正雄君         証     人 瀬口  貢君               (鹿地  亘君)         証     人 板垣 幸三君     ―――――――――――――         専  門  員 村  教三君         専  門  員 小木 貞一君     ――――――――――――― 本日の会議に付した事件  証人出頭要求の件  人権擁護に関する件(鹿地亘関係事件)     ―――――――――――――
  2. 小林錡

    小林委員長 これより会議を開きます。  人権擁護に関する件中、鹿地亘関係事件について調査を進めます。  本日は、当委員会の去る一日の決定に従いまして、鹿地亘君こと瀬口貢君、三橋正雄君及び板垣幸三君、以上三名の証人より証言を求めることといたします。  証人に申し上げます。今御出席になつておるのは、筆名を鹿地亘君といわれる瀬口貢君、それから三橋正雄君、板垣幸三君。お三人に間違いありませんね。――いわゆる鹿地事件につきましては、当委員会は、人権擁護立場から、これをきわめて重視しまして、昨昭和二十七年十二月十日に瀬口君に証人として証言を求めて以来、第十五回国会におきましては、一方においては、今日で当委員会出席三回目の瀬口君を初め、九名の証人証言を求めるとともに、他方、外務省を通じてアメリカ大使館見解をただす等、鋭意慎重なる調査を続けて来たのであります。しかるに、ようやく本件についての当委員会としての調査最終的段階に入ろうとしたときに、第十五回国会の解散を見たため、不幸にして結論を見出すに至らずに今日に及んだわけでございます。その間新聞等を通じて種々の見解が表明せられ、世論もまたいろいろあつたのでありますが、当委員会といたしましては、あくまで公平な立場に立ちまして、本件についての正しい結論を見出し、よつてつてわが国民の信託に十分こたえたいと念願しておる次第であります。証人にはこれらの趣旨をよくくみとつていただきまして、十分なる協力をお願いいたします。  それではこれより証言を求めますが、証言を求める前に証人に一言申し上げます。昭和二十二年法律第二百二十五号、議院における証人宣誓及び証言等に関する法律によりまして、証人証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならないこととなつております。  宣誓または証言を拒むことのできるのは、証言が、証人または証人配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係のあつた者、及び証人の後見人または証人の後見を受ける者の刑事上の訴追または処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するとき、及び医師歯科医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁理士弁護人公証人、宗教または祷祀の職にある者またはこれらの職にあつた者がその職務上知つた事実であつて黙秘すべきものについて尋問を受けたときに限られておりまして、それ以外には証言を拒むここはできないことになつております。しかして、証人が正当の理由がなくて宣誓または証言を拒んだときは、一年以下の禁錮または一万円以下の罰金に処せられ、かつ宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処せられることとなつておるのであります。一応このことを御承知になつておいていただきたいと存じます。  では、法律の定めるところによりまして、証人宣誓を求めます。御起立を願います。  三喬君、三人を代表して宣誓書を明読してください。     〔証人三橋正雄君朗読〕    宣誓書   良心に従つて、真実を述べ、何事もかくさず、また何事もつけ加えないことを誓います。
  3. 小林錡

    小林委員長 それでは宣誓書署名捺印を願います。なお鹿地君は本名の瀬口貢君と御署名を願います。     〔証人宣誓書署名捺印
  4. 小林錡

    小林委員長 これより証言を求めることになりますが、証言証言を求められた範囲を越えないこと、また御発言の際には、その都度委員長の許可を得てなされるようお願いいたします。なお、こちらから質問をしておるときはおかけになつていてよろしゆうございますが、お答えの際は御起立を願います。瀬口君はからだのぐあいでそのままでもよろしゆうございますが、そのときのぐあいによつて適宜お願いいたします。なるべくからだを自由にしておつてください。  これよります三橋証人に対して証言要求めます。まず委員長より所要の事項についてお尋ねをいたしまして、そのあと委員各位の御発言を願うことにいたします。  まず委員長からお尋ねいたします。お名前は三……。
  5. 三橋正雄

    ○三橋証人 三橋正雄です。
  6. 小林錡

    小林委員長 住所はどこですか。
  7. 三橋正雄

    ○三橋証人 東京都北多摩郡保谷町下谷二百三十八番地でございます。
  8. 三橋正雄

    ○三橋証人 生れたところは、東京麻布であつたことだけは知つておりますが、その前はよく知らないのです。
  9. 小林錡

    小林委員長 今職業は何をしておられますか。
  10. 三橋正雄

    ○三橋証人 ただいま会社員であります。
  11. 小林錡

    小林委員長 何という会社ですか。
  12. 三橋正雄

    ○三橋証人 帝国電波株式会社であります。
  13. 小林錡

    小林委員長 それはいつころからですか。
  14. 三橋正雄

    ○三橋証人 私が入つたの昭和十二年七月ごろに入つたのであります。但しその当時は白山電池合名会社と社名はかわつておりましたけれども……。
  15. 小林錡

    小林委員長 あなたのこれまでの経歴を、きわめて簡単に述べていただきたいと思います。
  16. 三橋正雄

    ○三橋証人 私は東京麻布で大正二年十月十四日生れまして、麻布我善坊におりまして、小学校四年のときに東京震災にあいまして、父が死にましたものですから、鹿児島の親戚の方に引取られたわけであります。その後東京岩倉鉄道学校に入学いたしまして、そこを出ましてから、しばらく満洲の満鉄医科大学病院に三、四箇月勤務したことがありますが、その後再びまた東京に出て参りまして、ラジオ商店に勤務しておつたのであります。昭和十二年にただいまの帝国電波の前身である白山電池という会社に移りまして、昭和十九年七月の十日だつたと思いますが、召集が参りますまで、そこに勤めておりました。それから満州の新京にありました七五八〇部隊のいわゆる関東軍固定通信隊という部隊でありますが、そこに終戦までおりまして、終戦ソ連に捕虜として抑留されたわけであります。当時ソ連においては、マルシヤンスクという収容所昭和二十一年一月に着いたのでありますが、それから二十二年四月までそこにおりまして、それからモスクワ収容所転属になつたわけであります。その間ソ連諜報部の仕事を命ぜられまして、昭和二十二年十二月の三日に舞鶴に上陸いたしました。それから再び現在の帝国電波に復職いたしまして、今日に至つたわけであります。
  17. 小林錡

    小林委員長 あなたは電波法違反事件取調べを受けたようでありますが、どういう事件でしたか、簡単でよろしゆうございますから。
  18. 三橋正雄

    ○三橋証人 ソ連から東京帰つて東京大使館からの指令に従つてソ連本国との間に秘密無線局を開設しろという命令を受けて参つたのであります。通信を始めましたのが昭和二十四年の四月ごろからだと思いましたが、その前に昭和二十四年の一月にCICの取調べを受けた際に、その事実をすべて申し述べたのでありますが、その後は米軍命令従つて今まで通りソ連との連絡を続けるようにとの命令を受けまして、その後現在、昨年の十二月の――最後は二日でありましたが、二日までソ連から命ぜられた通り通信をただいたまの自宅から行つてつたのであります。
  19. 小林錡

    小林委員長 ソ連との通信をやるようになつた初めからのいきさつは、どういうことからそういうことをするようになつたのか……。
  20. 三橋正雄

    ○三橋証人 マルシヤンスク収容所におりましたころ、これは昭和二十二年の二月ごろだつたと思いますが、モスクワから調査団という名前で、日本語の非常にうまい人物が参りまして、いろいろ私の過去、経歴、技術の状態なんかを調べて、モスクワに帰つたことがあるのであります。その後四月ごろになつて、急にモスクワ収容所転属命令が出まして、そして六月の未に、また前の調査団という名前で来た日本語のうまいロシヤ人収容所に参りまして、私に対して日本帰つてから、ソ連秘密通信をやつてもらいたいという依頼を受けたのでありますが、そのときの私の立場としては、それを拒絶することはできなかつた状態でありましたので、そこで誓約書を書かされたわけであります。日本内地帰つてソ連代表部命令従つて無線通信を行うこと、もしこれを他言した場合には、厳重な処罰を受けてもかまいません、というような内容の誓約書を書いたのであります。その後七月初めに特別の通信教育所に移されたわけであります。それはモスクワの郊外で、私ただ一人だけそこに入りまして、約三箇月の教育があつたわけであります。それから十一月の末にモスクワを出発して、ハバロフスクまで私一人だけで送られたのであります。それからハバロフスクで一般の引揚者の中にまじりまして、十二月の三日に舞鶴に上陸したわけであります。
  21. 小林錡

    小林委員長 そうすると日本帰つたのは……。
  22. 三橋正雄

    ○三橋証人 昭和二十二年十二月の三日に舞鶴へ上陸しました。
  23. 小林錡

    小林委員長 それから東京へ来たのはいつですか。
  24. 三橋正雄

    ○三橋証人 九日の日に東京に着きました。
  25. 小林錡

    小林委員長 それからその通信をする端緒は、どういうふうでしたか。
  26. 三橋正雄

    ○三橋証人 最初は二十三年の四月中旬に、ソ連側連絡がついたわけであります。その後は別に何の任務も与えられずに、毎月一回ずつ会つておりましたが……。
  27. 小林錡

    小林委員長 それはどういう人に会つたのですか。
  28. 三橋正雄

    ○三橋証人 それは私の裁判のとき氏名がはつきりわかつたのでありますが、ただいまちよつと忘れましたのですが、それはソ連代表部の人間であります。
  29. 小林錡

    小林委員長 ソ連代表部の人。どこで会いましたか。
  30. 三橋正雄

    ○三橋証人 上野の池ノ端が一番初めでありました。
  31. 小林錡

    小林委員長 それからどうなつたのですか。
  32. 三橋正雄

    ○三橋証人 それから翌年、昭和二十四年の四月ごろ、その男から無線機を測されたわけであります。それでそれをその当時私が下宿しておりました練馬の下宿に持ち帰りまして、そこでその翌月の五月ごろからだつたと思いますが、そのソ連代表部指示に従いまして、通信を開始したわけであります。
  33. 小林錡

    小林委員長 それはソ連代表部の人ですか。
  34. 三橋正雄

    ○三橋証人 そうであります。
  35. 小林錡

    小林委員長 それは確かにソ連代表部の人ということが言えますか。どういう根拠で言えますか。
  36. 三橋正雄

    ○三橋証人 それは私を案内して、ソ連代表部に数回行つております。ソ連大使館の乗用車を使用しております。
  37. 小林錡

    小林委員長 麻布のあそこのソ連代表部の中へ、あなたも一緒に行つたことがありますか。
  38. 三橋正雄

    ○三橋証人 一緒に行つたことがたびたびあります。代表部員の中の写真に、その人物がちやんと出ております。
  39. 小林錡

    小林委員長 その名前は覚えておりませんか。
  40. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのあとの二名は覚えておるのでありますが、一番最初の人の名前はつきり……。
  41. 小林錡

    小林委員長 それからどうやりました。簡単に径路だけでよろしゆうございますから……。
  42. 三橋正雄

    ○三橋証人 その後私とソ連大使館員との間に、もう一人の日本人が私との直接連絡をするために入つたのであります。その人は佐々木克巳という人でありましたが、その方は現在なくなつておられないのです。その方がなくなつたものですから、その後しばらく連絡がとだえておつたのでありますが、昭和二十六年の初め一その方がなくなつたの昭和二十五年の十一月だつたと思います。
  43. 小林錡

    小林委員長 ちよつと待つてください。そうするとその佐々木克巳という人は、あなたとどの間を取持つたのですか。
  44. 三橋正雄

    ○三橋証人 結局ソ連側指示佐々木克巳受取つて佐々木克巳から私に対してまた連絡が来る。
  45. 小林錡

    小林委員長 ソ連側というのは代表部からですか。
  46. 三橋正雄

    ○三橋証人 代表部です。
  47. 小林錡

    小林委員長 あなたは直接代表部行つているのではないのですか。
  48. 三橋正雄

    ○三橋証人 私が直接代表部に行くというのは、特に必要があつたときだけでありまして、通常月に二回、三回という電報の一々受渡しは、その佐々木克巳という人が間に入つたわけであります。
  49. 小林錡

    小林委員長 その佐々木克巳が死んでからどうなつたのですか。
  50. 三橋正雄

    ○三橋証人 佐々木氏が死んだものだから、しばらく連絡がとだえておりました。昭和二十六年二月から再びソ連代表部連絡がついたのであります。ての後二十六年八月の末でありますか、ソ連側指示によつて、またいわゆる佐々木氏にかわるべき日本人が間に入るから、その者と連絡するようにご言われたのであります。
  51. 小林錡

    小林委員長 それはだれから言われたのですか。
  52. 三橋正雄

    ○三橋証人 それが鵠沼レポでありますが、その当時名前を一切聞かされていなかつたのでありますが、ただいまここでお顔を拝見して、ここにおられる鹿地さんであることははつきりわかります。
  53. 小林錡

    小林委員長 それはどういうことから会うようになつたのですか。
  54. 三橋正雄

    ○三橋証人 ソ連側指示によつて、たしか八月三十日午後六時という時間を指定されまして、八月三十日の午後六時に藤沢から出ている江ノ島の電車に乗つて鵠沼一つ手前で降りて、線路伝いの道を鵠沼方向へ歩いて行きました。そのとききれの帽子をかぶつて、手にズツクのカバンを持つようにと言われた。それを私は当時登山帽を持つておりましたから、登山帽をかぶつて、ボストンバツクをさげて、指定された時間に指定の位置参つたのであります。
  55. 小林錡

    小林委員長 それはだれからそういうふうに言われたのですか。
  56. 三橋正雄

    ○三橋証人 それはソ連代表部リヤザノフ……。
  57. 小林錡

    小林委員長 それはどこで言われましたか。
  58. 三橋正雄

    ○三橋証人 それは私の自宅付近で会つたときに言われたのです。八月のたしか十七日ごろ、中旬ちよつと過ぎたころだと思います。
  59. 小林錡

    小林委員長 八月三十日の何時ごろですか。
  60. 三橋正雄

    ○三橋証人 午後六時。
  61. 小林錡

    小林委員長 六時ごろどこへ……。
  62. 三橋正雄

    ○三橋証人 六時に鵠沼一つ手前の駅で降りましたところ、それは柳小路という駅でありました。
  63. 小林錡

    小林委員長 それは登山帽をかぶつて、それから……。
  64. 三橋正雄

    ○三橋証人 きれの帽子をかぶつて、きれのカバンを手にさげて行くようにという……。
  65. 小林錡

    小林委員長 そうして行けばどういう人が来るのですか。
  66. 三橋正雄

    ○三橋証人 そうしますと、ある日本人がやつて来まして、あなたに対して本鵠沼へ行くにはどう行きますかということを聞きますから、その場合に私は三橋ですと言えば連絡がとれるから、こう言われたように記憶しております。ちようどそのときは、六時ちよつと前に柳小路の駅に着きまして、五分くらいあのホームにおりまして、時間を見て、線路の左側に道路がありますが、その線路伝いの道を鵠沼方向に歩いて行つたわけであります。そうしますと向うから開襟シヤツを着て、ハンチングをかぶつて、そうして開襟シヤツのすそをズボンの外にたらしておりました。柳小路の駅から大体五十メートルくらいだつたろうと思います。その地点で向うからそいううかつこうをした人と出会つたわけであります。その人が近づいて本鵠沼に行くにはどう行きますか、こう言われたので、私と一緒に行きましようと私、返事をしたのであります。そうしたところがその人は、お名前はと言われるので私は三橋だ、こう返事をしたのです。そこでお互いにこれが相手であるということがわかつたわけであります。
  67. 小林錡

    小林委員長 そのときはどういう話でわかれたのですか。
  68. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのときの話は、私はまず会つて、私はロシア語がよくわからないものですから、どうもこの会見がうまく行くかどうか心配しておりました、私はそう言いました。
  69. 小林錡

    小林委員長 それはあなたが言つたのですか。
  70. 三橋正雄

    ○三橋証人 私が言つたのです。私が、私自身ロシア語をよく知らないので、またその相手リヤザノフというものは日本語が非常に下手なのでありまして、なかなか意思がうまく通ずるのに骨が折れのであります。そういう状態でありましたから私もちよつと心配しておつたのでありますが、それはうまく会えたので――そうしますとその相手の人は私に対して、いつごろこちらへ帰られましたか、ですから二十二年の十二月に帰つております、何年くらい、二年向う――向うというのはソ連を意味しているわけであります。そうしてそのとき、その相手の人は、この位置はあなたの方から遠くて不便かもしれないけれども、私はちよつとこの地域を離れることは危険だから、レポの場合にこちらまで出て来てほしい、そういうことを言われました。
  71. 小林錡

    小林委員長 レポの場合にはこちらへ出て来てもらいたいと言うのですか。
  72. 三橋正雄

    ○三橋証人 レポという言葉は使わなかつたように思います。会うときにはこちらに出て来てほしい、そうしてもし私に急に用事があつたときにどういう連絡の方法をとりましようかと先方の人が言いましたので、私は会社電話をかけてもよろしいですよと言つて、自分の会社名の入つた私の名刺を渡したのであります。ところが電話ちよつとまずいですから速達横浜から出すことにしましよう、それでその差出人名前は何ということにしましようかというので、私は山下義雄という名前でよろしいです、こう申し述べたわけであります。
  73. 小林錡

    小林委員長 山下義雄ですね。
  74. 三橋正雄

    ○三橋証人 ええ。用事があつたときは横浜から山下義雄という名前速達を出しますから、その速達がついたら、その速達の差出のスタンプ日付の翌日に――そのときはたしか……。
  75. 小林錡

    小林委員長 スタンプ日付の翌日というのですか。
  76. 三橋正雄

    ○三橋証人 二十六日というスタンプが押してあつたら二十七日というわけです。
  77. 小林錡

    小林委員長 そこでちよつと聞きますが山下「よしお」というのはどういう字を書くのですか。
  78. 三橋正雄

    ○三橋証人 その場合に「よしお」という字はどう書きますかと聞かれたので忠義の義、「お」の字はと言うので「お」の字はどちらでもいいと私は答えたように思つています。
  79. 小林錡

    小林委員長 どちらでもいい……。
  80. 三橋正雄

    ○三橋証人 「お」の字はいろいろありますから。
  81. 小林錡

    小林委員長 スタンプ日付の翌日というのだけれども、スタンプがいつもはつきり出て来る場合はいいけれども、出ない場合はどうするのですか。
  82. 三橋正雄

    ○三橋証人 スタンプはつきり押せない場合もあるかもしれません日付の翌日――もちろん日付差出人日付が入つてつたし、一回受取つていると存じますが、それで日付の翌日と言われたのだと思います。
  83. 小林錡

    小林委員長 そのときにはもう少し二人の間に何か話があつたのですか、どういうことをこれからやるという……。
  84. 三橋正雄

    ○三橋証人 相手の人が私に対して、あなたが向うからどういうふうに言われて来ましたかと言いますので、私はただ今後あなたのさしずを受けるように、こういう命令で来ましたと申し述べましたところが、その相手の方がいや、それは今後は私の方の籍に入つたのだから――私たちのグループの籍に入つたというような言葉を使つておられました。でありますから一切のことを私に相談してもらいたい、こういうことを言われたのです。そのときに話したことは大体その程度つたように思うのでありますが、そのとき電文、たしか薬のあきびん、薬の入つて容器ですね。その中にびんも入つているわけです。そのびんの中に電報が入つている、お金は別だつたと思います。この中に電報が入つておりますからと薬のあき箱をよこしたわけであります。
  85. 小林錡

    小林委員長 薬のあき箱というのはどんな……。
  86. 三橋正雄

    ○三橋証人 小さな売薬の錠剤などの入つているようなあき箱、その中川
  87. 小林錡

    小林委員長 木ですか。
  88. 三橋正雄

    ○三橋証人 外わくは紙で――一番最初はつきり覚えておらないのでありますが、ただすつぽりした錠剤が一列に入つているようなまつすぐのびんつたように思う。そこで小さな文字で書いた電報――暗号電報でありますが、それが畳んで丸めて入れてあつた
  89. 小林錡

    小林委員長 びんの中に……。
  90. 三橋正雄

    ○三橋証人 びんの中に入れて、また外の容器の中に入れて……。
  91. 小林錡

    小林委員長 せんがさして……。
  92. 三橋正雄

    ○三橋証人 せんがさしてありました。そのとき別に金が封筒に入つていたか紙に包んであつたかを取出して、これだけだそうですと私に渡した。
  93. 小林錡

    小林委員長 金もその中に入つていた……。
  94. 三橋正雄

    ○三橋証人 金は薬の容器と別に…。それから次の約束、この次にはいつ会おうかという約束をしたわけであります。
  95. 小林錡

    小林委員長 それはそこにおられる鹿地氏に間違いないですか。
  96. 三橋正雄

    ○三橋証人 ちよつと申し上げますが、その当時は現在の鹿地さんはもつとやせておられたのであります。それから私の前で帽子を脱いだことは一画もないのでありますが昼間明るいと山きに約二回ほど会つているのでありますから、そのとき帽子の外のはえぎわを見ましてほとんどこま塩程度、非常にしらがが多い、年齢から見てしらがの多い人――ただいま見ると黒いようですが、染めておられるのじやないかと思う。
  97. 小林錡

    小林委員長 そのときごま塩しらがの、しらがが多かつた、今黒いが、これは染めているじやないかと思う……。
  98. 三橋正雄

    ○三橋証人 私はそう考えました。とにかく八回会つているのでありますから、顔を見れば多少太つたりやせたりくらいで、間違わないと思います。
  99. 小林錡

    小林委員長 間違いありませんな。
  100. 三橋正雄

    ○三橋証人 間違いありません
  101. 小林錡

    小林委員長 その日の服装は。
  102. 三橋正雄

    ○三橋証人 一番最初の日は白い開襟シヤツハンチングズボンをはいていた。
  103. 小林錡

    小林委員長 くつをはいておりましたか。
  104. 三橋正雄

    ○三橋証人 たしかくつをはいていたように思いました。
  105. 小林錡

    小林委員長 その後何回ぐらい……。
  106. 三橋正雄

    ○三橋証人 その後七回です。それを入れて全部で八回です。
  107. 小林錡

    小林委員長 二回というのはどこで……。
  108. 三橋正雄

    ○三橋証人 第二回目は、わかれるときに鵠沼の駅の近くに踏切りがある。その駅から踏切りまでの間の、ちよつと坂道みたいになつたところに薬屋さんがあるのでありますが、その付近でたしか八時の約束をしたように思うのでありますが、それは九月六日の午後八時という約束をしたように思う。
  109. 小林錡

    小林委員長 そのときはどういうことがあつたのですか。
  110. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのときは、前受取つた電報を承知したということ、その状況、向うからは電報がなかつたということ、それとその次に会う約束ですね。
  111. 小林錡

    小林委員長 第二回目は昭和二十六年の九月六日ですか。
  112. 三橋正雄

    ○三橋証人 六日であります。
  113. 小林錡

    小林委員長 そのときの事情を話してください。
  114. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのとき会社が四時半に終るのでありましたが、五時ごろ会社を出まして向うへ行きましたらあまりに早過ぎて七時ごろもうついてしまつたのであります。その当時夏時間でありましたから七時ではまだ明るかつたのでありますが、あの付近鵠沼の駅のすぐ付近に橋があつて、そこで魚つりなんかしている人がありましたもんですから、その魚つりなんかをながめたりして時間をつぶしたのでありますが、八時ちよつと前ごろ、八時十分か十五分ぐらい前だつたと思うのですが、その駅の現場に引返して来たところが、そこで鹿地さんと出会つたわけです。
  115. 小林錡

    小林委員長 それでその打合せは何でしたのですか。その日会う約束は。
  116. 三橋正雄

    ○三橋証人 結局一番前の八月三十日にわかれるときにあなたの都合は何時ごろがいいですかと鹿地さんが言われるので、私は会社が四時半までですから、どうしても会社を出るのは五時ごろになるのと、また初めであるからどのくらい時間がかかるかはつきりしないので、十分余裕を見ておこうということで八時ごろなら大丈夫だろうというので八時という約束をしたように思います。
  117. 小林錡

    小林委員長 それはあらかじめ約束ができておつたわけですね。九月の六日という……。
  118. 三橋正雄

    ○三橋証人 ええ、九月の六日と……。
  119. 小林錡

    小林委員長 参その日には何を受取つて……。
  120. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのときには電報だけです。
  121. 小林錡

    小林委員長 どんなものを受取つたのですか。何か書いてあつたのですか。
  122. 三橋正雄

    ○三橋証人 もちろん暗号電報が書いてあるものですが、そのときはタバコの中に入つていたように思います。新生のタバコに……。この点はつきり断言できないのですが、タバコに入れて受取つたことが二回あるのです。そのほか薬のあきびんを使つておりましたが、二回だけ人形に入つていたことがありまして、あとは全部薬のあきびんかタバコの中、新生のタバコの中を二、三本抜いてそのかわりに電報が入れてありました。
  123. 小林錡

    小林委員長 そのとき金を受取つたですか。
  124. 三橋正雄

    ○三橋証人 金は受取つておりません。金は月末に一回だけですから、月末に一番近い日に大体受取るようになりております。
  125. 小林錡

    小林委員長 それから第三回目は。
  126. 三橋正雄

    ○三橋証人 その次は大船の駅の近くにありますが、このこまかい場所のここは……。
  127. 小林錡

    小林委員長 簡単でようございます。大船の駅のそばで……。
  128. 三橋正雄

    ○三橋証人 そこは七時四十分ごろ会うような約束つたように思うのですか、ちよつと鹿地さんの説明が、――山会いの場所の説明が私によく了解できなかつた点がありまして、行き違いになりまして、約四十分くらい歩きまわりまして約束の時間より四十分くらい遅れてやつと会つたんです。
  129. 小林錡

    小林委員長 その日も何か暗号……。
  130. 三橋正雄

    ○三橋証人 その日も電報受取つておりますが、そのときはたしか九月の二十日だつたと思います。
  131. 小林錡

    小林委員長 第四回目はいつですか。
  132. 三橋正雄

    ○三橋証人 それから四回目は九月の三十日で、これが鵠沼海岸です。バスの停留所の近くであります。たしかそのとき非常に雨が降つてつたんであります。午後七時という約束でありました。行つたところが海岸で非常に風が強くてかさをきすのに骨が折れた記憶がはつきりつております。
  133. 小林錡

    小林委員長 大体服装はいつも同じですか。
  134. 三橋正雄

    ○三橋証人 いや、第二回目からはハンチングをかぶつてレイン・コート、但し断りに申し上げますが、レイン・コートというのは、私の観念でレイン・コートと申し上げたのであつて、いわゆる正式に言えばスプリング・コートというのかもしれませんが、いわゆる冬の厚い生地のオーバーとか何とかいうものではないのであります。大体九月の初めでしたから、そのころ着ているのですから、まだオーバーの生地ではないし、レイン・コートだという観念が私にあつたわけであります。その後はいつもレイン・コートを着てハンチングという形でいつも来ております。
  135. 小林錡

    小林委員長 第五回目はどこですか。
  136. 三橋正雄

    ○三橋証人 それからその次は、約束の日に私が行けない事情ができたのであります。ちようどその日にはソビエト大使館に行かなければならないことになつてしまつたものですから、鹿地さんと会う約束が果せなかつたわけであります。
  137. 小林錡

    小林委員長 第五回目は。
  138. 三橋正雄

    ○三橋証人 ええ。そのために連絡が切れまして、そうしますと、そのときはもう十月ですが、十月の二十七日に速達が来たのであります。
  139. 小林錡

    小林委員長 十月の二十七日……。
  140. 三橋正雄

    ○三橋証人 ええそうです。午後でしたが、帝国電波株式会社三橋の三という字が光という字が書いてありましたか、三橋正雄、裏側には横浜にて、山下義雄という名前で、ラジオが故障して困つておるから近いうちに一回海の家の方においでを願いたいということだつたのです。それで私はその翌日神宮外苑に行つたわけであります。神宮外売で会うのが六時という約束つたのであります。手紙が来たのは文の内容にかかわらず、神宮外苑の絵画館の前で午後六時に会うという約束をしてあつたのであります。ところが六時に鹿地さんが見えないのであります。そうしたところがその翌日結局二十九日にはりますが、十月二十九日の午後二時十ごろ会社山下という名前電話があつたのであります。それで私が出ましたところが、ただいま丸の内にいるのだが、これから君のところにすぐ行きたいのですが、君の会社はどの辺かと言われるので、会社の所番地を申し述べましたところが、では三十分後に指ヶ谷町の停留所のところで待つていてくれと言われたので、三時に私ちよつと客があつたりして、三時二分くらい過ぎたのでありますが、指ヶ谷町の停留所のところに出て行きましたら、もう鹿地さんが来てそこに立つておられた。それで狭い横町に入りまして、そこでまた今まで行違いで会えなかつた事情をお互いに話し合つたわけであります。今後こういう間違いがないようにはつきりしておこうということになりまして、一箇月以上全然連絡が絶えてしまつた場合には、毎月二十六日に絵画館の前に行く……。
  141. 小林錡

    小林委員長 もし連絡が絶えた場合には毎月二十六日……。
  142. 三橋正雄

    ○三橋証人 ええ。会えるまでですね。それからもしはがきが来た場合には大船のいつも会う場所に来るようにという話をはつきりきめ直したのであります。
  143. 小林錡

    小林委員長 あなたの会社はどこにあるのですか。
  144. 三橋正雄

    ○三橋証人 白山上であります。白山前町四十四番地です。
  145. 小林錡

    小林委員長 指ケ谷町はそばですね。
  146. 三橋正雄

    ○三橋証人 ええ、そうです。
  147. 小林錡

    小林委員長 それは第五回目ですか、第六回目ですか。
  148. 三橋正雄

    ○三橋証人 第六回目です。
  149. 小林錡

    小林委員長 第七回目はどこですか。
  150. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのときは十一月三日に鵠沼海岸……。
  151. 小林錡

    小林委員長 それは前もつて打合せがあつたのですか。
  152. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのときに別れるとき、十一月三日に鵠沼海岸で……。
  153. 小林錡

    小林委員長 いつもやはり暗号電文を受取つておるのですか。
  154. 三橋正雄

    ○三橋証人 電文を受取つております。  次に会う日というのは、ソ連と私と無線通信をやるプログラムがあるわけであります。そのプログラムの通信をやる日の二日前だつたように記憶しておりますが、二日前に会う。そこで受取つて日後の通信日に電波を打つというふうにするために、その二日前に会つた。二日前に大体きめるという約束になつておりました。十一月三日にそこで会いまして、それから江の島線の鵠沼の駅まで二人で話しながら歩いたのであります。
  155. 小林錡

    小林委員長 そのときは別にかわつたことはなかつたわけですか。大体いつも同じですか。
  156. 三橋正雄

    ○三橋証人 同じですね。そのときは割合に時間が長かつたので、二十分ぐらい会いましたから、いろいろ雑談その他をしました。
  157. 小林錡

    小林委員長 その時分の相手の健康状態はどんなふうでしたか。一緒に歩いて……。
  158. 三橋正雄

    ○三橋証人 私としてはそう病人と気がつくほどのかわつた様子は見られなかつたのです。顔色がちよつと赤味がかつた桃色の美しい顔色をしておるというふうな感じはいたしましたが……。
  159. 小林錡

    小林委員長 桃色の美しい顔色をしておつた
  160. 三橋正雄

    ○三橋証人 ええ。
  161. 小林錡

    小林委員長 それから第八回目はいつですか。
  162. 三橋正雄

    ○三橋証人 今度は七回目になります。
  163. 小林錡

    小林委員長 七回目は。
  164. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのときは大船のいつも会う場所で七時――その当時は時間がはつきりしませんが、六時二十五分の電車で着くという約束になつておりました。
  165. 小林錡

    小林委員長 六時二十五分の電車で……。
  166. 三橋正雄

    ○三橋証人 大船に六時二十五分ごろですけれども、はつきり記憶はないのです。御殿場線まわりの沼津行の列車に乗つて来るということで、そのときは、駅の改札を出ましたらすぐ前の待合所のベンチに鹿地さんが腰かけておられた。そこでお互いに顔を見合せて、私は鹿地さんのあとについていつも会う場所まで行つた。そこでまたいろいろ情報を交換して、その次会う日の約束をしました。そのとき鹿地さんから私の子供に、みやげにこれをあげてくださいと言つて人形をもらつたのです。
  167. 小林錡

    小林委員長 どんな人形ですか。
  168. 三橋正雄

    ○三橋証人 それは抱き人形と普通称しておる、おなかに笛があつて、押すとピーピー鳴るきれのお人形であります。
  169. 小林錡

    小林委員長 それじや相当大きいものですね。
  170. 三橋正雄

    ○三橋証人 大体一尺ぐらいでしようね。
  171. 小林錡

    小林委員長 箱へ入つているのですか。
  172. 三橋正雄

    ○三橋証人 ただデパートの包み紙に包んでありました。その人形の胸の中に電報が入つているということでした。
  173. 小林錡

    小林委員長 胸の中に。
  174. 三橋正雄

    ○三橋証人 服の下側ですね。服と胸の間に入つておるからというので受取つたわけです。それで電車の中で見ると、電報一緒にそこに金が入つていたのです。その人形を子供に持つて帰つてつたわけです。
  175. 小林錡

    小林委員長 金は幾ら入つておりましたか。
  176. 三橋正雄

    ○三橋証人 一万五千円です。毎月毎月一番最後に会うときにもらつておりますが、その月だけは、十九日にその月の分として一万五千円受取つたのであります。
  177. 小林錡

    小林委員長 毎月どのくらい。
  178. 三橋正雄

    ○三橋証人 一番最初は一万二千円で、その後は一万五千円ずつであります。
  179. 小林錡

    小林委員長 一月に一万五千円ずつですね。
  180. 三橋正雄

    ○三橋証人 そうです。
  181. 小林錡

    小林委員長 第八回目は。
  182. 三橋正雄

    ○三橋証人 十一月二十五日です。これは午後七時で、鵠沼の駅の踏切りの付近で会い、鵠沼から柳小路の方に線路伝いに歩いて行くという約束つたのです。
  183. 小林錡

    小林委員長 何時ごろですか。
  184. 三橋正雄

    ○三橋証人 時間は七時です。
  185. 小林錡

    小林委員長 その日はどこで会つたのですか。
  186. 三橋正雄

    ○三橋証人 鵠沼の駅と柳小路の中間です。線路わきの、藤沢の方に向つて線路の右側の道路であります。その踏切りを通つてちよつと行つたところで、鹿地さんが後から追いついたわけであります。私の方が先に着きまして、線路伝いの道を藤沢の方向に向つて歩いておつたら、踏切りから五十メーしトル行つたところだと思いますが、うしろから鹿地さんがおいでになつた
  187. 小林錡

    小林委員長 そのときはどんな様子をしておつたか。
  188. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのときは、帽子ハンチングで、レイン・コートですか、スプリング・コートですか、いつもと同じものかどうかは手にとつて見たわけでもありませんし、夜ですからわかりませんけれども、昼間一回指ケ谷町で見たときには薄いねずみがかつたような色だつた記憶があるのです。ギヤバみたいな生地のものですね。スプリングというのか、レイン・コートというのか、正式には私はわかりませんが、それを着ていた。
  189. 小林錡

    小林委員長 二人で会つて、そのときは暗号電報をもらつたのですか。
  190. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのときはちようど電報がなかつたのです。鹿地さんから、ソ連側からの連絡が切れてしまつて、きようは電報がないのですかと言われた。そのとき私の手元に打てないで残つておる電報がありましたから、今度はこれを打つておきますから、この次までにまたお願いしますと言つたら、この次までにはソ連側連絡がとれるだろうからと鹿地さんは言つておられたのです。
  191. 小林錡

    小林委員長 それで、二人そろつて散歩でもしたのですか。
  192. 三橋正雄

    ○三橋証人 二人そろつてそういう会話をかわしながら、結局柳小路方向に向つて――藤沢の方向ということになります、線路伝いの道を歩いて行つたのです。そうして初め藤沢の方から一台の乗用車が来たのでありますが、それが私たちのわきを通り抜けて、鵠沼の駅の方に向つてつた
  193. 小林錡

    小林委員長 鵠沼の方に行つてしまつたのですね。
  194. 三橋正雄

    ○三橋証人 行つてしまつたのです。ところがまたしばらく歩いておりますと、またその車――私としては確かに同じ車だとはつきり記憶しております
  195. 小林錡

    小林委員長 それは乗用車ですか。
  196. 三橋正雄

    ○三橋証人 乗用車です。夜でしたから、たしか黒塗りのシボレーの四十八年型だと思いますが、私、専門家でないからはつきり断言はできませんけれども、当時CICが使つてつたのが四十八年のシボレーを使つておりましたので、同じ型であつたと思います。その自動車がまたうしろから引返して来た。それで私たちは自動車をやり過すために、道のわきによけた。そして私たちのわきに来て自動車がとまつて、とまると同時にルーム・ライト、明りをつけたのです。うしろの座席のたしかまん中に女が一人乗つてつて、その両側に男が乗つていた。
  197. 小林錡

    小林委員長 男二人ですか。
  198. 三橋正雄

    ○三橋証人 男が二人です。前の運転台に運転手、それから助手台に一人。
  199. 小林錡

    小林委員長 男四人に女一人ですか。
  200. 三橋正雄

    ○三橋証人 男四人に女一人。そうしてとまつて、女がこの付近にタイヤの修繕をするところはありませんかと聞きましたところが、鹿地さんは、この辺では藤沢まで行かなければありませんよとこう言つたのです。そのときに助手台におつた一人の外人が……。
  201. 小林錡

    小林委員長 それは服装は軍人ですか。
  202. 三橋正雄

    ○三橋証人 それは制規の軍服は来ておらなかつたように思います。
  203. 小林錡

    小林委員長 軍服を着ておつた者はおりませんか。
  204. 三橋正雄

    ○三橋証人 その中には軍服を着ておつたものはいなかつたように思うのですけれども、はつきり一人々々確める余裕もなかつたのであります。その外人は、私がいつもCICで顔を合せ、いわゆるおやじおやじと私たちが言うつてつたのですが、隊長格の人です。その人が降りて来まして、ごめんなさいと言つて――私が道路の付近で先に立つて鹿地さんは私のうしろに立つてつたわけです。先と申しますと藤沢の方向を先として、私のわきを通りまして鹿地さんのわきに行つて鹿地さんの右手をつかんだのです。
  205. 小林錡

    小林委員長 右手をつかんだ。
  206. 三橋正雄

    ○三橋証人 右側に行つたのですから右手をつかんだのだと思います。そのとき私はもう事態を察しましたものですから、その場を急に離れたわけです。そしてすぐ横道に曲つて歩いているときに、その自動車がうしろから藤沢の方に通り抜けて行つたわけであります。
  207. 小林錡

    小林委員長 そうするとあなたはすぐに逃げたのですか。
  208. 三橋正雄

    ○三橋証人 急いでその場を離れたわけです。
  209. 小林錡

    小林委員長 向うは気がついておるのでしよう。
  210. 三橋正雄

    ○三橋証人 もちろん先方は知つておるわけです。
  211. 小林錡

    小林委員長 そうすると、二人そろつておるところを一人だけつかまえたのだから、向うは目的の人をつかまえたわけですね。
  212. 三橋正雄

    ○三橋証人 そういうわけです。
  213. 小林錡

    小林委員長 あなたには別にどうともしなかつたのですね。
  214. 三橋正雄

    ○三橋証人 はあ。
  215. 小林錡

    小林委員長 それからその自動車はずつと行つてしまつたのですね。
  216. 三橋正雄

    ○三橋証人 行つてしまつた
  217. 小林錡

    小林委員長 あなたはどう思つたのですか。
  218. 三橋正雄

    ○三橋証人 それは、米軍が逮捕したのだろうということはすぐ確認したわけであります。
  219. 小林錡

    小林委員長 だれが逮捕したのですか。
  220. 三橋正雄

    ○三橋証人 それはいつも私が出入りしている部隊の隊長で、正式の名前も階級も知りません
  221. 小林錡

    小林委員長 そうすると、あなたとしてはちつともこわくなかつたわけですか。
  222. 三橋正雄

    ○三橋証人 こわくなかつたです。
  223. 小林錡

    小林委員長 二人一緒におつて一人つかまつて、同じことをしておりながらあなたはこわくなかつた
  224. 三橋正雄

    ○三橋証人 大体自動車も見覚えておつたし、そのところへ出て来た人物が日ごろ顔を知つている人物ということがわかりましたから。
  225. 小林錡

    小林委員長 あなたが話したのじやないか。鹿地というのがこうだということをアメリカの人に知らせて、それでつかまえたということじやないんですか。
  226. 三橋正雄

    ○三橋証人 もちろん私と鹿地さんの連絡状況は前々からずつとCICに報告しておりましたから。
  227. 小林錡

    小林委員長 気がつかれておつたのですね。
  228. 三橋正雄

    ○三橋証人 向うでは知つてつたわけです。
  229. 小林錡

    小林委員長 あなたと別に打合せがあつたわけじやないけれども、大体鹿地という者を向うは知つてつて……。
  230. 三橋正雄

    ○三橋証人 いや、その名前は知らなかつたわけです。私が知らないから……。
  231. 小林錡

    小林委員長 あなたも名前は知らな
  232. 三橋正雄

    ○三橋証人 向うも知らないのであります。
  233. 小林錡

    小林委員長 その以後は会わないのですね。鹿地という者と……。
  234. 三橋正雄

    ○三橋証人 全然それ以後は会つておりません
  235. 小林錡

    小林委員長 あなたがソ連にいろいろの電報を打つプログラムがあると言われましたね。
  236. 三橋正雄

    ○三橋証人 ええ。
  237. 小林錡

    小林委員長 それは相手鹿地とかいう人には話してあつたのですか。
  238. 三橋正雄

    ○三橋証人 いや、見せてはありません鹿地さんから、次の通信日はいつですかねと聞かれて、次はいついつではその二日前の九月の三日なら三日に、どこで何時に会いましようというぐあいに約束したわけです。
  239. 小林錡

    小林委員長 まあ、五回、六回、七回、八回と会つているのだから、大体人間に間違いないでしようね。
  240. 三橋正雄

    ○三橋証人 間違いありません
  241. 小林錡

    小林委員長 どうですか、人に迷惑をかけちやいかんですが、よくひとつ……。間違いありませんか。
  242. 三橋正雄

    ○三橋証人 絶対に間違いありません
  243. 田嶋好文

    ○田嶋委員 議事進行ですが、今のお話を三橋君からお聞きになつたのですが、やはりこのあと、それに対する何かの意見を鹿地君からお認めくださつて、それから私たちこまかいところへ入つた方がいいんじやないかと思うのですが。どうですか猪俣さん。
  244. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 それがいいね。
  245. 小林錡

    小林委員長 三橋君は、今までやつた行動についてどういうふうに考えておりますか。
  246. 三橋正雄

    ○三橋証人 大体ソ連側からこういう任務を命ぜられたということは、これは一つの運命でありまして、自分の力でこれをやめるとかということは絶対にできないと考えておりました。
  247. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 あとでいいが、CICとここまで来た関係を一ぺん委員長から聞いておかなくちやいかんと思うのですが。
  248. 小林錡

    小林委員長 アメリカの方のCICとあなたの関係をひとつ簡単に話してください。いつから何か調べを受けるようになつたのですか。
  249. 三橋正雄

    ○三橋証人 二十四年の一月三日に、郵船ビルに出頭するようにという通知があつたのであります。その当時は結局、郵船ビルに毎日のように引揚者の人を大勢呼んでは、ソ連の事情や何かを調べておつたわけです。そこへ呼ばれて、ソ連において経験したことを聞かれたわけであります。そのときにすべてをここで申し述べたのであります。それまでの……。
  250. 小林錡

    小林委員長 あなたに何か嫌疑をかけておつて呼んだわけじやないですか。
  251. 三橋正雄

    ○三橋証人 多分その点は嫌疑を持つていたように思います。全然離れた、外から立ち聞かれるような心配のない特別な部屋に私だけを入れまして、この部屋ならどんなことを言つても決して心配ないから、何でも腹蔵なく言つてもらいたいという前置きがありましたので……。
  252. 小林錡

    小林委員長 そのとき詳しく話をして……。
  253. 三橋正雄

    ○三橋証人 話をして……。
  254. 小林錡

    小林委員長 その以後は、ソ連に対していろいろ通信をやつおることもそのたびごとに話しておいたのですか、向うへは……。
  255. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのときソ連側とは今まで通りソ連の言う通り交渉を保つていて、その都度私の方に報告をするように――そのときはまだ通信はやつていなかつたわけです。通信はその後五月ごろから始まつたのでありますから、通信をやるようになつてもその言われた通りにやれ、それに対しては私の方で許可するんだから別に心配はないからと言われておつたのです。それで一々ソ連側との交渉、鹿地さんとの交渉、その都度そのあとですぐ連絡をとつてつたのであります。
  256. 小林錡

    小林委員長 鍛冶君よろしうございますか、この程度で……。一応あなたお掛けください。  次に鹿地亘君より証言を求めます。
  257. 瀬口貢

    瀬口証人 五分ばかり実は休憩させていただきたいのです。さつきから掛けておりまして息が切れて参りましたから……。
  258. 田嶋好文

    ○田嶋委員 大分からだのぐあいも鹿地さん悪いようでございますから、鹿地氏に対しては前会二回にわたつて詳細な取調べがありましたので、三橋君の今日述べられたことに対して、鹿地君の意見を求められ、そしてその他の点は今までの事実を参考にされるように希望いたします。
  259. 小林錡

    小林委員長 この前述べられて二回おいで願つたのですが、その後何かかわつたこと、あるいは申し加えたいことがありますか。これまでの点は間違いございませんか。
  260. 瀬口貢

    瀬口証人 これまでの点間違いありません。一言言わしていただきたいのは、からだのことを心配してくださるのはたいへんありがとうございますけれども、今日は無理をして、ぜひともこの問題に対して、私の所信を述べたいと思つてつて来ましたから、いい加減にアメリカの謀略工作の出先の方で、ぼくの問願を簡単に処理するというようなやり方でなしに、やはり私どもとしては、この問題は日本国民に対する帝国主義者の人権蹂躙であり、国権の問題であると思いますし、そのアメリカと対決することこそ問題であつて、その芝居に対決することは私としては意思ではないのです。従つてそこに見えておる人物は私はちつとも知りませんけれども、その人の支離滅裂なことに関しては、むろん皆さんが御関心のことと思いますからお答えはいたします。しかし私の今日ここへ出て来た、無理をして出て来た意味はそういう点にないのだということを申し上げておいて、そしてちよつとしばらく休ませていただきたいと思います。もしなんでしたら板垣君を先にやつていただいて、その間私横になつてから出て来てもいいと思います。
  261. 田嶋好文

    ○田嶋委員 その間に三橋君に聞きましよう。
  262. 小林錡

    小林委員長 それでは鹿地君のちよつと休んでおる間三橋君に対する質疑をいたします。発言の通告がありますから、順次これを許します。田嶋好文君。
  263. 田嶋好文

    ○田嶋委員 私は当委員会において取上げております問題は、主としてこれは鹿地亘氏、本名瀬口貢氏に対する不法監禁の事実を究明するための委員会のきようの行動であること、これを前もつて三橋君に申しておきたいのであります。しかし三橋君を今日この席上においで願いまして鹿地君と対決をいたしますことは、これは瀬口貢君すなわち鹿地亘君の言うことが真実性を持つているかどうかということに重点を置いているわけであります。世間ではとかく鹿地亘氏は大うそつきである、この人の言うことは信用できないということが非常に言いふらされておりまして、またわれわれ前回の国会におきまして取調べをいたしましたときにも、やはりその点に対する一抹の不安がありましたことは、これは申し上げなくてはならぬことだと思つております。これを前提にいたしまして聞きます以上は、三橋君におかれましては、誠心誠意真実によつてきようはお答えを願いたいと思うのであります。  そこでまず第一にお聞きしたいと思いますことは、あなたはこの鹿地亘氏がいよいよ裟婆に出て来た、そうしていよいよこれが国会において証人として人権蹂躙問題で取調べを受けるということになりました、その直前か直後でございましようか、自首したように私たちは承つておるのでございますが、この自首したという事実はどういう理由から、どういう動機から自首するに至つたか、これをまず承りたいと思います。
  264. 三橋正雄

    ○三橋証人 質問にお答えします。私が十二月六日の日に会社用事で水戸に出張したのでありますが、その帰りに汽車の中で見た夕刊に、米軍によつて監禁されていた鹿地亘という人がいる。その人は昭和二十六年十一月の末に鵠沼付近で逮捕されたのだということと、その写真が出ておつたのであります。まず私はその記事を見て、自分の実際に経験したことと非常に似た記事であつたので、すぐピンと来たのであります。それでその写真を見ますと、非常によく似ておつたのであります。なるほど写真は若いときの写真らしく、そつくりとは言い切れないかもしれませんが、非常によく似ておりました。どうも私が鵠沼方面でソ連側指示によつてレポ行つていた人が、この鹿地亘という人であるということに気づいたわけであります。その日にソ連側約束レポがあつたのでありますが、そのときには向うから電報を置いたという目じるしの石はあるのに、実物はなかつたのであります。そういう事故は今まで一回もなかつたので、いよいよこれは間違いないという確信を得たわけであります。こうなつて来ますと、鹿地氏がもし裟婆へ出て来まして、ソ連側連絡をとつた場合には、さつそく私の身に危険が及ぶということは当然考えられるわけでありますが、私としましては、今までずつと米軍命令によつて指示によつてつていた行動でありますので、私自身で私の安全を守るということは完全に地下にもぐるよりほか方法がないと言えるのでありますが、私にはとてもそういうことはできない状態でありましたので、一応米軍側と会つて向うの意見を聞いてみようという気持になりまして、その後ちようど十二月の八日に米軍側と会う約束になつておりましたものですから、米軍側に行つて、そのとき私からさつそく、どうも困つたことになりましたね、と言いましたところが、向うでも、気がつきましたか、こう言われまして、気がつきましたよ、あの人がたしか鹿地という人ですねと、私も念を押しましたところ、その通りだ。もつともそれまで毎日朝刊、夕刊よく買い集めて読んでおりまして、ますます鹿地さんということに確信を持つてつたわけでありますが、その米軍側に行きましたところ、とにかくまだ状況がはつきりしないから、はつきりしたらもう一回連絡をとるから待機していてほしいと言われたので、その翌日会社に出ておりますときに、急に電話がかかつて参りまして、すぐ来いというので、米軍側と会つたわけであります。そのときに、君のからだの安全を守るためには、現在の状態では警察に自首するよりほかはない、そのかわり今までのできごとを全部発表してもいい、こう言われたのであります。私としてもこの諜報活動というものから早く足を洗いたいというふうに平生考えておつたのでありますが、下手すればこれは命にもかかわることではあり、どうにもならなかつたのであります。ところがそう言われたものですから、ちようど自分としてもここですべてを清算するいい機会でもあるしと思いまして、すべては警察の方に私の方からもよく連絡をとるからと言われまして、それで米軍の自動車でもつて一旦自宅帰つて通信機材一切を持ちまして、付属品から機械から全部持つて東京都本部に自首したわけであります。
  265. 田嶋好文

    ○田嶋委員 ただいまお聞きしておりますと、身の危険を感じたとおつしやつておりますが、この身の危険ということは、ソビエツト側からどういうような身の危険を受けるということになるのか。
  266. 三橋正雄

    ○三橋証人 私が米軍連絡をとつてつたということがわかれば、ソ連としてはさつそく私をどうにかする、とにかく地上から消してしまわない限りにはソ連側にとつて非常に不利であるということが当然言えるわけであります。諜報活動というものは特殊な事件であつて、世間にあまり詳しい報道は非常に例が少いのでありますが、とにかくこれは国と国との真剣勝負であつて、いざとなればどういうことでもやる。相手はとにかく今世界の陣営の片方であるし、大きな実力を持つておるのでありますから、私が一人で自己を守るということは不可能だと考えたのであります。
  267. 田嶋好文

    ○田嶋委員 時間もございませんので、一問一答の形でお答え願つておきたいと思います。委員長さようにお願いいたします。あなたはソビエツトにスパイ活動することについて誓約書を入れたと言つております。この誓約書の中には、他言した場合には、先ほど聞いておりますと、処罰をされてもやむを得ないということを書いたと言われておりますが、処罰というと向うではどういう処罰を意味しておりますか。
  268. 三橋正雄

    ○三橋証人 お答えいたします。この誓約書というものは、ただ私に対するおどかしで向うにおいて書かした。ソ連刑法によつてどういう処罰をするかというようなそういうむずかしいことでなく、実際上はその誓約書なんか向うで書いても、日本帰つて、私が約束不履行だからといつて日本の外務省にその書類を見せて引渡してくれと言うことは当然できないわけでありますから、ただ私に対するおどかしであつて誓約書そのものは何ら価値のないものだとは思つております。
  269. 田嶋好文

    ○田嶋委員 そうすると、さつきあなたは、この世からあなたを消してしまわなくちやならない、こういうことを言つたのですが、これは結局あなたを殺してしまうということを意味しているのですか。
  270. 三橋正雄

    ○三橋証人 そうであります。
  271. 田嶋好文

    ○田嶋委員 大分あなたの取調べの期間は長かつたようですが、しかもこの取調べは接見が外部と断たれてされておつたようですが、これはあなたから求めてやつたのですか、国警の取調べ上そうなつたものですか。
  272. 三橋正雄

    ○三橋証人 私の方から求めたわけではございません
  273. 田嶋好文

    ○田嶋委員 裁判所に参りましても、なかなか長い間接見禁止が解かれなかつたようですが、これは裁判所の必要上ですか。あなたから求めたのですか。またあなたはこれに対して異議を申されたこと等はなかつたのですか、あつたのですか。
  274. 三橋正雄

    ○三橋証人 これはもちろん私の意思ではないのでありますが、別に私も異議を申し立てることはしなかつたのであります。
  275. 田嶋好文

    ○田嶋委員 次に鹿地氏と八回にわたつてつたことについてお尋ねをいたしますが、これは今から考えますと、私たち普通の人間が考えて、こうまで正確な記憶があるかしらんと疑われるような気がするのです。この八回にわたつての事実を委員長の前で詳細に述べられたのですが、これはメモでもあつて、ゆうべこれを読み、御研究なさつてお答えしたのですか、あなたの正確な記憶によつて委員長の前で答えられたのですか。
  276. 三橋正雄

    ○三橋証人 私の記憶がいいので、皆さん非常にふしぎに思つておられる方か多いようでありますが、この特殊なスパイ活動をやる上には、ほんとうに自分の神経を集中してやる必要があります。スパイ活動をやるには、メモをとつたりなんかするということは、あとで証拠が残ることになるために、一切そういうことはしない、すべてを頭に入れなければならないので、自然にそういつた訓練を積んでしまつたのであります。皆さんでも非常に特殊なできごとは、子供のころのことでも死ぬまで忘れないという経験がたくさんおありのことと思いますが、それと同じであつて、私も実際に自分で体験したからこそ、最後まで記憶がはつきりしている。あの取締りの間、最初の警察で申し述べたことと、また最後の公判廷で申し述べたこととの間に食い違いかないということは、メモも何もありませんし、外部との連絡も断たれておつた、ラジオも新聞も見ておりませんし、その間において最初の記憶とあとの記憶がかわつてないということは、でつち上げたことでなく、実際に自分の身をもつて体験したからこそ間違いなく言えるのだと私は思います。
  277. 田嶋好文

    ○田嶋委員 ただきようお答えになつに中で一点、あなたは第一回目に薬の箱――容器ですか、その中に入つた電報文を受取つて、一万二千円のお金をもらつた、こういうことを委員長の前でお答えになつたのですが、裁判所の当時の――これは私の記憶違いかもしれはい、あなたの方が正確かもしれないが、裁判所でのお取調べの場合には、第一回はそうした事実がなくて、第二四に今の薬びんの中に電報文が入つてつて、お金を一万二千円もらつた、こういうふうにお答えになつたのじやないですか。
  278. 三橋正雄

    ○三橋証人 第一回のときには確かに薬びんの中に電文が入つてつたものと、金を一万二千円受取つております。裁判所の法廷でもそう申し上げてあるはずです。
  279. 田嶋好文

    ○田嶋委員 裁判所の法廷では、私の記憶では確かに第二回のときと、こう言つているように思うのですが、これは相当今の証言を正確づける上において私は大切だと思うのです。どうして第一回がそうだということが言えるのですか。
  280. 三橋正雄

    ○三橋証人 一番最初の日にもらつたことをはつきり記憶しておるのであります。電報は、何ももらわなかつたのは一番最後の十一月二十五日の晩だけであつて、その前には会うたびに必ず受取つております。金は月末に近い日にもらつておりましたが、一番最初に会つた日に一万二千円受取つておることは間違いありません電報と一万二千円ですね。
  281. 田嶋好文

    ○田嶋委員 第一回目の裁判所の尋問では鹿地君が「いつごろ帰国されたか」ということを聞いて、あなたが、「二十二年に帰国した、日本語がうまくできないので、連絡できるか心配している」こう言つた。そうすると、鹿地君か「私の方の籍に入つたからには、個人的なことでもなんでも私に相談してもらいたい。」あなたが「了解した。」鹿地君が「もし急用があつて連絡するにはどうするのか。」あなた、会社の名利を出して、「会社電話してくれ。」鹿地君「電話ちよつとまずいね、他の方法で連絡したい、速達で出そう」こうして鹿地一緒に二十分ぐらい話した、これで第一回は終つた、こういうふうに答えているじやないですか。
  282. 三橋正雄

    ○三橋証人 そうしますと、その金と電文をもらつていないとおつしやられるわけですか。
  283. 田嶋好文

    ○田嶋委員 そうなんです。
  284. 三橋正雄

    ○三橋証人 じやそれは落ちているのです。そのときに事実金をもらつた。裁判所で申し落したと思うのですが、二回目には金をもらつていないで、第一回目の八月三十日のときに、とにかく金を一万二千円と電文を受取つたことは間違いありません
  285. 田嶋好文

    ○田嶋委員 そうすると、薬びんは一回ですか、二回ですか。
  286. 三橋正雄

    ○三橋証人 記憶がそこまではつきりしないのでありますが、タバコはたしか二回という記憶をいたしております。八回会つたうちで電報受取つたのは七回ですけれども、一回は人形に入つておりましたから、薬びんまたはタバコに入つてつたのは合計六回になるわけであります。そうしますと、タバコはたしか二回だつたように記憶がありますから、薬びんに入つたのが四回ということになると思うのでございますが、その点はつきりちよつと断言いたしかねるのであります。
  287. 田嶋好文

    ○田嶋委員 そうすると、薬びんは一回ではなくて四回ですね。
  288. 三橋正雄

    ○三橋証人 そう私は記憶しております。
  289. 田嶋好文

    ○田嶋委員 国警並びに検察庁あたりの取調べにあたつて、あなたの方から自首したのですから自白をして、それ基いて国警並びに検察庁は証拠づけとしたのか、それとも向うに何かの資料があつて、あなたに尋問されて、その尋問に基いてあなたが答えられたのか、これはどちらなんですか。
  290. 三橋正雄

    ○三橋証人 これは私の自供をもとにして向うは証拠を集めたわけであります。
  291. 田嶋好文

    ○田嶋委員 わかりました。   あなたは鹿地氏への公開状というものを発表したことがありますか。
  292. 三橋正雄

    ○三橋証人 ございます。
  293. 田嶋好文

    ○田嶋委員 これはいかなる心境、いかなる理由によつて発表するに至つたのですか。
  294. 三橋正雄

    ○三橋証人 保釈で出て参りましてから、鹿地氏が雑誌に発表されたものを読みまして、あくまでも三橋正雄というものはうそを言つておる、こういうふうに私のことを徹底的に否定しておりましたものですから、私はすべて事実は事実として正しく今まで主張して来たし、自尊心を傷つけられておりますので、そういうものを書いたのであります。
  295. 田嶋好文

    ○田嶋委員 今この席であなたもお聞きのように、鹿地氏はアメリカ帝国主、義に対するところの自分の対抗だ、要するにアメリカの手先になつたあなたのような者に対して対決しなければならぬ、自分は決心をしてここへ出て来たというようなことを言つておるのですが、あれをお聞きになつて、あなたはどういうふうに感じますか。
  296. 三橋正雄

    ○三橋証人 鹿地さんの立場としては、ああ言わざるを得ないであろうと思うのです。私はこれは断言いたしますが、事実は事実としてあるのですが、鹿地さんとして、なるほば三橋の言うことがほんとうであると、いまさら死んでも言えないだろうと思います。
  297. 田嶋好文

    ○田嶋委員 鹿地氏がつかまつたときの事情はわかりましたが、鹿地氏がつかまつてから後、どんな状況においてアメリカ関係機関で暮しておつたかということを御存じですか、全然御存じないですか。
  298. 三橋正雄

    ○三橋証人 それは昭和二十七年の八月ごろだつたと思いますが、それまでアメリカ側でも私に何も言わなかつたのであります。二十七年の七、八月ごろちよつとその話が出まして、このごろあの人はからだも大分丈夫になり、気分も逮捕当時とはまるつきりがらりとかわつてしまつて、もう心配ない、君のことをどうこうするような心配はないからというようなことは、米軍の方で私に話したことはあるのでありますが、今病気療養のためにあるところにいるんだということは聞いておりました。非常に経費がかかるんだけれどもやむを得ないというようなことをしやべつておりました。
  299. 田嶋好文

    ○田嶋委員 あなたはある人にこういうことを語つたことがございますか。鹿地氏に対して米軍は協力をさせようとしたんじやないかという問いに対して、鹿地君が全部しやべつてしまつて米軍に協力するという約束もしたと思うんです。しかし米軍としても、鹿地氏に対して、話の通りの信用は持てなかつたわけです。といつて殺すわけにはいかない。殺すほどひどいことはしない。昔の日本の憲兵隊だつたら殺してしまつたんだろうけれども、一応鹿地氏の希望もあつて、病気療養を兼ねて、保護という意味で米人の家に預けられてあつた鹿地氏も何というか、結局すべて白状してしまつたんだから、しやべつてしまつてからでは、出て来て日本の共産党の仲間に顔を出すということもできないし、ましてソ連側連絡をとることは避けたいんですからね。どつちみちそういう意味で保護を求めたんではないかね、信用できるまでの人間に改造しよう。そういう面ではある程度のものが行われたと考えられるね。過去の経歴があつちへつき、こつちへつきしており、その場その場で相手によつて言うことがかわつてしまうようなことを米軍側では知つていた。しかし彼も全然逃げられなかつたほどの厳重な監視ではなかつたはずです。それに山田がそこをやめて、家族には米軍のところにいるということを連絡したんですからね。大体十二月まで駄つていて、急に騒ぎ出したのはどうもふに落ちない。どうしてそのとき騒いだか私にはわからない。こういうようなことをある人にしやべつたことがありますか。
  300. 三橋正雄

    ○三橋証人 ただいまのお話のような話を人にした記憶はありますが、それはあくまでも私の考えであつてはつきりした証拠があつて申し述べたことではないのであります。種々の状況から考えてそういつたものだろうという想像にすぎないのでありますから、鹿地氏の過去のことについてはもちろん私は全然知らなかつたのでありますが、その後の新聞報道や何かによつてそういうふうに考えられたわけであります。
  301. 田嶋好文

    ○田嶋委員 これはもちろんあなたのお考えでありましようが、お考えを持つには、何か鹿地氏に対する体験なりよそからの言葉を聞いたり、見たりしなければならぬのですが、聞いたり見たりした、この言葉を裏づける事実はありませんか。
  302. 三橋正雄

    ○三橋証人 はつきり裏づける証拠というようなものはないのですが、鹿地氏が監禁されているということについて、八月に米軍の人の話によると、そういつた感じは全然受けなかつたのであります。そのころしよつちゆう、その人のところに一週間に二回か三回行つては話をしたり何かしたのでは、気持がまるつきりかわつてしまつてちよつとからだのぐあいが悪くなると、すぐ大事にして暮しているからというような話を聞いておりましたから、別に格子があるところに監禁されているという感じは全然受けなかつたのであります。
  303. 田嶋好文

    ○田嶋委員 その人とはたれですか。
  304. 三橋正雄

    ○三橋証人 日ごろ私が連絡をとつておりました平井と称している人であります。
  305. 田嶋好文

    ○田嶋委員 二世ですか。
  306. 三橋正雄

    ○三橋証人 二世であります。但し私はそれが本名だか偽名だか存じません
  307. 田嶋好文

    ○田嶋委員 あなたはキヤノンという人、G大佐と呼ばれている人、そういう人は御存じないですか。
  308. 三橋正雄

    ○三橋証人 それは鹿地さんの自供の中から、新聞によると、G大佐という名前が出たので、私は全然名前はそれまで知らなかつたのでありますが、とにかく新聞の報道かなんかで鹿地さんがG大佐に逮捕されたんだというような記事があつたようであります。そうするとアメリカはG大佐という人だなと私は考えたのであります。とにかくいわゆる岩崎機関の一番上の隊長をさしているのではないか。名前は私としては全然知らないのであります。
  309. 田嶋好文

    ○田嶋委員 それではもう二、三点。鹿地君が、今あなたが申しております鵠沼でとらまつて、その後もあなたはソ連のスパイ活動に従事しておつたということなんですが、このソ連の仕事をしているうちに鹿地がとらまつたということをソ連は知つてつたようですか、知ならかつたようですか。
  310. 三橋正雄

    ○三橋証人 それは全然知らなかつたと思います。知つていれば、私に対しても相当警戒したはずです。あのとき――二十六年の十二月二十三日に一回大使館に行つたことがあるのでありますが、そのときに鹿地さんの話が出て、どうしたんだと言うから、多分私は病気で寝込んでしまつたんじやないかというようなことを言つたのです。向うも、そうかもしれないな、胸が半分ないんだから、彼はそういうふうに言つたのでありまして、とにかくどうなつたかわからない、病気で寝てるんだかどうなつたかわからないから、とにかくあと三箇月の間はお互いに連絡しないようにしようということになつたわけであります。私はモスクワ時代に、リヤザノフの指導によつていわゆるスパイ教育を受けたわけであります。リヤザノフとしても責任がありますから、私が失敗すればリヤザノフの責任にもなるので、あれはおれが教育したんだからそんな間違いはないだろうというような、自然にそういつた主観がリヤザノフを支配したのではないかというふうに思うのでありますが、私を疑つたかどうかということは、これはリヤザノフ自身に聞かなければわかりませんが、私に接する態度の上には最後まで全然現われなかつたのです。
  311. 田嶋好文

    ○田嶋委員 あなたは他の席上で、鹿地君はソビエトのためにスパイをやつた、自分は、アメリカのためにスパイをやることが日本の国のためになるという信念でアメリカのために働いた、だからお互いにそこをはつきりすればいいじやないかというようなことを言われたと言つておりますが、これは言つたことがございますか。
  312. 三橋正雄

    ○三橋証人 言つた事実はございます。
  313. 田嶋好文

    ○田嶋委員 それはどういうことを意味するのですか。
  314. 三橋正雄

    ○三橋証人 それはその言葉通りで、鹿地氏は左翼系の思想を持つているということは、鵠沼会つているときからときぞれ鹿地氏の話のうちにうかがえたわけでありますし、ソビエトの依頼を受けてその任務を引受けた事実があるのでありますから、私はそう考えたのであります。
  315. 田嶋好文

    ○田嶋委員 わかりました。私はこれで終りますが、鹿地氏が休まれましたすぐあと鹿地氏にお聞き願いたい。そうして私も二、三点尋ねたいと思います。
  316. 小林錡

    小林委員長 猪俣浩一二君。
  317. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員 議事進行について。瀬口君は病人で今休んでおられるようですが、もう大体休まれたのじやないか。あまり長くお待たせするのもどうかと思います。
  318. 小林錡

    小林委員長 猪俣君、どうですか。あまり待たせてはかえつてよくないのではないか。
  319. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 私は三橋氏に質問しますから、そのあと鹿地君に聞いてください。
  320. 小林錡

    小林委員長 あまり長く待たせない方がいいのではないですか。
  321. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 長く休んだ方が答弁もやはり長くできると思います。あの人は五、六分起きているともう寝なければならぬのです。
  322. 小林錡

    小林委員長 それではよろしゆうございます。猪俣君。
  323. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 これは田嶋委員も申されたように、当法務委員会で取上げました事件は不法監禁事件であつて、スパイであるかどうかということは問題でない。ただ世上はなはだデマが飛んでおります。田嶋君は、鹿地君はうそつきのようなデマが飛んでいると言うが、私の方には三橋なるものはでたらめの男であるというデマが飛んでおる。それはそれといたしまして、その意味において、実はこのスパイ問題についてはとても一日や二日では真相はわかりません。キヤノン機関の解剖からしなければならぬ。これは徹底的に私ども調べてあるのでありますが、本日はその段階に来ておりませんので、ただほんとうに簡単な二、三の点だけ確かめておきたいと思います。  三橋君にお尋ねしますが、あなたが最初鹿地に会われたのは、昭和二十六年の八月三十日ということに相なつております。その日の鹿地君の服装は、開衿シヤツにハンチングということになつております。それからそのときにあなた自身の名刺を鹿地に渡されたかどうか。それをお聞きします。
  324. 三橋正雄

    ○三橋証人 名刺は渡しております。
  325. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 その名刺は三橋と書いたあなたの正しい名刺ですか。
  326. 三橋正雄

    ○三橋証人 そうであります。
  327. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 そうすると光橋なんて書いた名刺ではないわけですね。
  328. 三橋正雄

    ○三橋証人 そうであります。
  329. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 それからその日の朝、昼、晩の天候のぐあいを言つてください。あなたは非常に記憶がよくて、何時何分まで覚えていらつしやるようでありますから。
  330. 三橋正雄

    ○三橋証人 その日に私が一番はつきりしておるのは、時間の余裕を見て早く行きまして、三時ごろ江ノ島の海岸に出たのであります。もう涼しい日でありまして、そのときは人が二、三人泳いでおつたことをはつきり覚えております。三時ごろには雲が大分多いようだつたけれども雨は降つておりません。午前中はあるいは雨が降つていたのではないかと思いますが、鹿地さんと踏切りで会つたときに西日がさしていたことは間違いありません。六時ごろですが、夏時間でありましたし、まだ西日がさしておつたのであります。雨はもちろん降つておりませんでした。
  331. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 そうすると鹿地会つたのは八月三十日の六時からどのくらいの時間内ですか。
  332. 三橋正雄

    ○三橋証人 大体二十分くらいだつたと思います。
  333. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 その日の午前中に雨が降つていたかどうか、あなたは記憶ないのですか。
  334. 三橋正雄

    ○三橋証人 はつきりした記憶はありませんが、その日は午前中降つてつたような気がするのであります。その点実際に鹿地さんと会うという重要な出来事の部分ははつきり覚えておりますが、会社行つて働いた午前中のことははつきりしないのでありますが、多分雨が降つていたようであります。
  335. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 あなたが鹿地に会うべく出かけたのは何時ごろですか。
  336. 三橋正雄

    ○三橋証人 会社もたしか午後二時ごろ出たように思います。
  337. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 そのときに降つてつたか、降つておらなかつたか。
  338. 三橋正雄

    ○三橋証人 東京を出るときには雨はやんでおつたように思います。かさを手にさげていたという記憶がはつきりないのでありますが、向うに着いたときにはやんでおりました。
  339. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 そうすると東京を出るときは雨がやんでおつて、かさを持つて行かなかつた、こういうことになりますか。
  340. 三橋正雄

    ○三橋証人 かさを持つてつたかどうかというのは記憶がはつきりしませんが、どつちかというとたしか手に持つていなかつたような記憶があるのであります。
  341. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 君は先ほどスパイの心理状態まで説明して、実に記憶がよくなるんだというような証言をしておるんだが、こちらの聞くことについてははなはだあいまいじやないか。天候なんということはまつたはつきりしたことだ。何時何分ということよりもよほどはつきりしている。午前中雨が降つたか、午後晴れたか、それが何だかあいまいなんだ。どつちなんだい。傘を持つておらぬという記憶ですか。そうですね。
  342. 三橋正雄

    ○三橋証人 天候ということはスパイには関係ございません。(笑声)
  343. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 いや、説明はよろしいから、かさを持つていたかいなかつたか。持つてつたか行かなかつたか。
  344. 三橋正雄

    ○三橋証人 持つていたか、はつきりしないのであります。持つていなかつたように思います。
  345. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 持つていなかつたのだね。それから君の陳述によれば、八月三十日の鹿地の服装は開襟シヤツハンチングで、レイン・コートは着ておらなかつたのだね。
  346. 三橋正雄

    ○三橋証人 レイン・コートは着ておりません
  347. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 君もかさを持つておらなかつたのだね。
  348. 三橋正雄

    ○三橋証人 おらなかつたと思います。
  349. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 はつきりしなさい。
  350. 三橋正雄

    ○三橋証人 はつきり覚えておりません
  351. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 スパイは天候など特に関係がある。
  352. 三橋正雄

    ○三橋証人 天候のいかんにかかわらず、必ず約束の場所に出頭するのが……。
  353. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 天候だけは動かすことができないからね。
  354. 三橋正雄

    ○三橋証人 天候についてはそれほど重要な記憶は残つておらないのであります。
  355. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 ところが君と鹿地との問題はだれも見た者がないのだ。天候だけは科学的にはつきり証明できる。これが唯一の証拠なのだ。八月三十日の君の陳述はでたらめだ。朝から雨が降つているのだ。大船農事試験場の測候所で観測しておる。ちやんと科学的に証明をとつておる。朝から大雨なんだ。かさも持たぬで出て行く道理はない。それからこの日は午後六時から七時にかけてやはり雨があつたことは、測候所の記述にちやんと出ておる。君はそれは思い違いか、うそであるか、どつちかだ。鹿地は雨模様のときは必ずレイン・コートか何か着たろうと思うのだ。君も用心のいい男だから、かさぐらい持つてつたろう。これはどうもおかしい。  それからなおふしぎだがね。あんたが名刺を渡した、この名刺には三橋とちやんと書いてあるというのに、鹿地から君に連絡したと国警の主張するはがき、紛失したと称するはがき、このはがきに光橋と書いてある、こういうのです。鹿地は相当のインテリで三つの橋と光の橋と間違える道理はないのだが、君の名刺を持つてつたというのは、これは君はどう考えるか。
  356. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのことについて、十月二十九日に鹿地さんに会つたときに、あのあて名の名前が違つておりましたよと私が言いましたところが、実は名刺はすぐ焼いてしまつたものですから間違えました、こういうふうに言われました。
  357. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 一ぺん見た以上は三つの橋と光の橋を間違える道理はない。そんなことを一々問答したなどということは、だんだんボロが出るからやめた方がよい。  それはそのくらいにして、今度は逮捕されたその日のことですが、この日は服装はレイン・コートに鳥打帽という陳述になつておる。これはあなたはきようここで言い直したようだね。レイン・コートはどうというようなことを言つたようだか、もう一ぺん言つてもらいたい。
  358. 三橋正雄

    ○三橋証人 私の観念でレイン・コートと申し上げたのであつて……。
  359. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 あなたの観念でレイン・コートとはどういうものなんですか。
  360. 三橋正雄

    ○三橋証人 普通雨の降る日に着るような薄い絹の……。
  361. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 普通雨の降る日に着るようなレイン・コートとは、常識上はつきりしておるわけだ。そのレイン・コートを着ておつたということになるのですか。
  362. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのレイン・コートと申し上げたのは、スプリングとレイン・コートの差別を私ははつきり知らないので、とにかくああいつたものを全部レイン・コートだと考えておつたのであります。逮捕されたときに着ておつたのもそうであります。
  363. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 スプリングとレイン・コートの区別を知らぬので、レイン・コートと言つたというのですね。
  364. 三橋正雄

    ○三橋証人 そうです。
  365. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 この日の天候はどうです。この十一月二十五日逮捕されたときの天候はどうです。
  366. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのときは天候は悪くありませんでした。
  367. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 このときは測候所の観測によると非常な快晴なんだ。快晴のときにやはりレイン・コートを着たわけか。あなたはスプリングとレインとの区別がつかないで間違つたとするならば、天気がいいからスプリング・コートと思わなければならないのをレイン・コートと思うのはどういうわけかな。非常にいい天気なんだ。
  368. 三橋正雄

    ○三橋証人 レイン・コートを天気のいい日にオーバーのかわりに着る人も世間にたくさんおります。そういう意味で普通着ているのを、――オーバーと言えば生地の厚いウールのものが私の観念ではオーバーであるということで、オーバーと申し上げなかつたのであります。
  369. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 しかし天気のいい日にはスプリング・コートが普通です。
  370. 三橋正雄

    ○三橋証人 しかし天気のいい日にレイン・コートを着る人もあるでしよう。
  371. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 いや着る人もあるでしようが、君の間違えた理由を聞きたい。あなたの心理状態を聞きたいと思う。非常に天気のいい日だ。そして何か着ているとするならば、スプリング・コートだと思うのが自然ではないか。雨模様で雨が降つておるならばスプリングだかレインだかわからないでも、一応レイン・コートであると思うのは無理もないことだが、天気のいい日に着ているものを、スプリングとレインと二つあることを承知しながら、これをレインと思つたあなたの心理状態を聞いている。
  372. 三橋正雄

    ○三橋証人 二回目に会つた九月六日の日にすでに鹿地さんはそれを着ておつたのであります。それでその当時九月六日と言えばまだオーバーを着る時期ではもちろんありませんので、そういうときに着ているものをレイン・コートと私は簡単に考えたのであります。そのままずつと最後まで同じようなタイプのものを着ておられたので、私はそのまましイン・コートレイン・コートというふうに申し上げておつたわけでありますが。
  373. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 よろしい、あなたはそう思つたとするならば――なお私がしつつこく聞くゆえんのものは、鹿地氏はこのとき着て行つたそのままの姿で私のところに来たのだが、普通見間違うレイン・コートではない。だれが見ても雨の降る日に着るものではない。それだから私は念を押して聞くのです。  それから鹿地の顔色をあなたは表現している。ほおがまつ赤で色が白かつた。もう十一月二十五日の六時過ぎとなればまつ暗ですが、わかりましたか。
  374. 三橋正雄

    ○三橋証人 私が申し上げるのは一番最初の八月三十日に会つたときと九月六日に会つたとき、明るいとき二回会つております。そのときの状況であります。
  375. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 そうするとつかまつたときの顔色のことではなくて八月会つたときのことを言つた、こうなるのですね。それはわかりました。  それから十一月二十五日に鹿地のつかまつた場所ですが、あなたはどういうふうに思つていますか。
  376. 三橋正雄

    ○三橋証人 どういうふうに思つているかというと……。
  377. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 どの辺だということになつておりますか。私裁判を聞いていないからわからないのだが、つかまつた場所なんです。
  378. 三橋正雄

    ○三橋証人 これは裁判のとき実地検証ではつきり私が場所を示しておりますから……。
  379. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 それは鵠沼駅からどのくらい離れたところですか。
  380. 三橋正雄

    ○三橋証人 鵠沼駅から柳小路の中間くらいのところだと思いますが、現場を私がちやんと示して距離も裁判所ではかつておりますから、はつきりしております。
  381. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 何か鵠沼駅から五百メートル離れたところだという陳述になつているそうだが、あなたは技師だから距離の観念ははつきりしておると思うんだが、やはり五百メートルですか。
  382. 三橋正雄

    ○三橋証人 私の距離の観念ははなはだあいまいなんであります。あそこのところと駅の間が何百メートルか、どのくらいに思うかと言うので、五百メートル、もう少しあるかもしれませんが、実際のところそれが間違いないとは申しません。私としては距離の観念ははなはだあいまいなものであります。
  383. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 君はかんじんなところはどうもあれだが、科学者だから距離の観念なんかはわれわれよりはつきりすると思うんだ。ことに兵隊にも行つていらつしやつた人であります。それが十メートルや二十メートルの違いなら私は問題にしないけれども、あなたは鵠沼駅から藤沢の方へ向つて五百メートルくらいでつかまつた、とこう言うのです。五百メートルというと柳小路を越した先になつてしまう。あなたは鹿地がつかまつたの柳小路鵠沼の中間だと言う。それは確かに鹿地氏もそう言つております。この距離は百五十メートル、百五十メートルと五百メートルとはあまり観測が違い過ぎると思う。だからあなたの言つたことに対して疑問がある。今ははかつて観測してあるからはつきりしているだろうか、とにかく最初どのくらいのところたと言つたら、鵠沼駅から五百メートルくらいのところだと言つた。これは日五十メートルですよ。五百メートルというと柳小路の先まで行つてしまう。これはちよつとおかしいと思うが、あなたはどうして五百メートルと思つたりですか。
  384. 三橋正雄

    ○三橋証人 私があの付近に住んでおつて、しよつちゆうあの付近を歩いた人間であれば、もつと距離の観念がはりきりしたかもしれませんが、あそこを端から端まで歩いたことは結局前後一回もないのであります。線路伝いに嶋沼から柳小路まで全部歩いたことははいのです。ただ電車に乗つてつただけでありますので、距離の観念は私としては不確実なものしかなかつたのであります。ただ何メートルくらいあるかはつきり示す必要があつたので、もつと七百メートルくらいあるのじやないかというような考えから、五百メートルくらいの地点だと警察の取調べのときに申し述べたことはあります。しかし実際には実地検証で示した位置に間違いありません
  385. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 それからあなたが鹿地に会つたという日の詳しいことは私も調べているのですが、しかしこれは最初言うように本件の重要問題でもありませんし、時間もありませんので、あなたに聞きたいことはたくさんあるが全部省きます。  次に鹿地氏から例の光橋と書いたはがきをあなたのところに出したという、そのはがきはどこにあつたのです。あなたのうちにあつたわけですか。
  386. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのはがきはCICの方に提出してあつたのであります。
  387. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 最初あなたのところへ来てからあなたのところで保管しておつたわけか。
  388. 三橋正雄

    ○三橋証人 そうであります。
  389. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 その保管したはがきをどこへ渡した。
  390. 三橋正雄

    ○三橋証人 はがきが来まして、その翌々日あたりCICのいつも連絡をとる機関に渡したわけであります。
  391. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 はがきが来る翌日あたりすぐCICの機関に渡した。何という男に渡したのか。
  392. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのときは小田、私の前では山田というふうに申しておりました。
  393. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 名前は山田という二世。
  394. 三橋正雄

    ○三橋証人 二世であります。
  395. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 それはどこにおつたのですか。
  396. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのとき岩崎邸の中で住んでおるようでありました。
  397. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 そうすると、本郷のキヤノン機関の事務所のあつた岩崎邸に住んでおる山田のところにあなた自身が持つてつたんだね。
  398. 三橋正雄

    ○三橋証人 その通りであります。
  399. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 そうすると、あなたはその岩崎邸へたびたび出入りしましたか。
  400. 三橋正雄

    ○三橋証人 ソ連側との連絡及び鹿地さんとの連絡あとは必ず連絡行つておりました。
  401. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 そうすると岩崎邸なるものには、どういう人がおつたかあなたは知つておりますか。
  402. 三橋正雄

    ○三橋証人 いるときに、私が出入りしておそらく六、七人いるような気がした程度でありまして、私も必要以外の人には向うでも絶対に会わせないのでありますので、直接品をきいたのは山田という男と平井という男、それにおやじやじと言つておる隊長が二回ほどぼくの前に来たことがあります。
  403. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 そのおやじという男は、どんな背かつこうのどういう風貌の男ですか。
  404. 三橋正雄

    ○三橋証人 背は五尺七、八寸だろうと思います。割合にがつちりした顔つきの男でありました。容貌の特徴は、はつきりしたものは私の記憶に残つておりません
  405. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 それはキヤノン中佐という人でなかつたか。
  406. 三橋正雄

    ○三橋証人 一回もその名前を聞いたことがないのであります。
  407. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 山田からも聞いたことはないか。
  408. 三橋正雄

    ○三橋証人 はい、ありません
  409. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 それからいま一点。昭和二十七年十二月八日に、あなたは二世の平井という男に会つて、それから国警に自首することになつた、こういう話であるが、そのときに会合したのは、平井のほかにだれかまだいたんじやないか。
  410. 三橋正雄

    ○三橋証人 ただいまのは十二月八日でありますか。
  411. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 八日だか、五日か、六日か、七日かわからぬが、国警へ出る前に、だれかにあなたは相談して出たと思われる。これはある程度裁判所にも出ております。平井に会つたことは裁判所でもわかつておるが、そのほかの人にどういう人に会いましたか。
  412. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのほかにもう一名、二世の人で平井と同じような仕事をしておる人が一緒におりました。
  413. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 それはだれです。
  414. 三橋正雄

    ○三橋証人 その人の名前は一回も聞いたことがないのであります。
  415. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 平井のほかにもう一、二名……。
  416. 三橋正雄

    ○三橋証人 平井のほかに一名だけです。会つたのは二人だけでした。
  417. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 その席上に日本の警察の人はいなかつたか。
  418. 三橋正雄

    ○三橋証人 おりません
  419. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 そこでその十二月八日か、自首して出る前に、平井そのほかもう一人の人と会つてどういう話をしました。
  420. 三橋正雄

    ○三橋証人 その話は先ほども申し上げておりましたが、私の身を守るためには、今警察に自首してもらうのが一番確実である。そのかわりすべてを世間に発表して、警察の方に発表していいから、という話があつたわけであります。
  421. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 あなたは自分の身の保護を頼んだわけだが、向う側からあなたにどういうことを言うたかということです。
  422. 三橋正雄

    ○三橋証人 それはただいま申し上げた通りに、君の身柄を保護するためには、日本の警察に自首するのが一番いいからということと、すべてを発表してもさしつかえない、警察にすべてを話してもいいから、この二つであります。
  423. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 先ほどの話にちよつと出たのですが、あなたはG大佐、ガルシエー大佐という人に会つたことがありますか。
  424. 三橋正雄

    ○三橋証人 私はそこの隊長の人以外には会つていないのです。名前は私は知りません
  425. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 会つたことはない……。
  426. 三橋正雄

    ○三橋証人 そういう名前の人には会つたことはありません
  427. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 さきの証言に、あの人がG大佐なのかといつたよう証言があつたと思うのですが……。
  428. 三橋正雄

    ○三橋証人 あの岩崎邸にいた隊長のことをG大佐というのだろうと思つただけのことであります。
  429. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 あなたの二重スパイについては、いろんな疑問があります。それをいえば数限りないのです。ソ連大使館なるものがあつて、短波を備えておるものが、何がゆえにそんな妙なかつこうをして、諜報をソ連側へ報道したかというようなこと、これははなはだ奇怪なることであるが、それはまあいいといたしまして、なおあまりに私ども奇怪なことは、あなたの先ほどの証言でも、昭和二十七年の十二月二十三日にソ連代表部行つて、あなたはとまつて来ておりますね。行つただけですか、とまりましたか。
  430. 三橋正雄

    ○三橋証人 とまつております。
  431. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 そうするとあなたはとても恐るべき豪傑だと思う。普通の人間はできないことだと思うのです。まあそれは豪傑とほめ上げておくだけにしておきますが、(笑声)ソ連がこの鹿地のつかまつたのをまつたく知らなかつたということも、何という間抜けであるか、これも実に私どもは奇怪千万である。あなたは知つているかどうか知りませんが、もう昭和二十七年の七月か八月には、鹿地の行方不明問題などについて英文の怪文書なるものが相当多数ばらまかれておる……。  それからあなたに聞きますが、昭和二十七年の十二月の十二日に鹿地の家族から行方不明に対する捜索願が藤沢警察署に提出せられたということが各新聞に報道せられましたが、あなた、それを知つていますか。
  432. 三橋正雄

    ○三橋証人 知りません。気がつきませんでした。
  433. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 知らない。これも異常な神経だと思うのだが、とにかく昭和二十七年十一月二十五日以来行方不明になつた人、あなたは鹿地という名前は知らなかつたにしても、その十一月二十五日にあなたが立ち会つたとするならば、常識上ピンと頭に来るものがなければならない。そうして行方不明になつていると新聞に出ている。  なお、お聞きしますが、同年の十一月十九日に週刊朝日に鹿地の失跡事件が大々的に取上げられておるが、これをあなた見たか。
  434. 三橋正雄

    ○三橋証人 昭和二十七年の十一月ですか。――見ておりません
  435. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 これも私としては異常だと思う。これはあなた自身がはつと思わなければならぬことだと思う。行方不明になつたの昭和二十六年十一月二十五日の午後六時過ぎ散歩に出たまま行方不明になつたという記事であるから、あなたが逮捕せられたときにはたして立ち会つておることが真実であるならば、この新聞報道あるいは週刊朝日、これはあなたにピンと感じられなければならぬのだが、それをあなたは何とやら水戸に行つて帰りに東京新聞とやらの写真を見てやつとわかつたというような――鹿地事件が世の中に発表せられてからわかつたような供述をしておる。どうも私どもは解せない。あなたは鹿地が行方不明になつたとか、そういう捜索願が出ておるとか、あるいはアメリカの機関か何かに鹿地が隠されておるのじやないかというような、こういう新聞記事なり週刊朝日なり、こういうものを自分で見たこともないし、何かそれらしいことを人から聞いたこともありませんか。
  436. 三橋正雄

    ○三橋証人 人から聞いたことはありません。新聞記事も私は見落しております。はつきり十一月の二十五日の午後六時ごろに鵠沼柳小路の間で行方不明になつたという記事が私の目につけば、私はピンと来るのでありますが、ただ行方不明というと、世間にざらにあることでありますし、それほど私の胸にピンと来なかつた
  437. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 新聞記事は、十一月二十五日の午後六時鵠沼海岸を散歩中そのまま帰宅しないとちやんと記事になつておる。
  438. 小林錡

    小林委員長 猪俣君に御相談しますが、鹿地をあまり長く置いてもいかがかと思いますが……。
  439. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 それではこの程度にしまして、またあとでお尋ねすることにいたします。鹿地のお調べをいただきたいと思います。
  440. 小林錡

    小林委員長 それから今猪俣君が問題にされた八月三十日の天候ですが、ここに横浜測候所の調べが来ておりますが、あなたの方のお調べはどこか知らぬが……。
  441. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 私の方は大船農事試験場の観測です。
  442. 小林錡

    小林委員長 これによると、朝曇り、午前九時雨となる、午後三時やむ、午後三時以降曇りとなつております。
  443. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 私のは七時降雨、こうなつております。
  444. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 議事進行。三橋君にお尋ねいたしますが、三橋君はソ連の代表機関と秘密通信をする約束をされて、無電機を渡されたというのが昭和二十四年四月ごろだとおつしやつておりますが、渡された人の名前並びにソ連との秘密通信をする約束をされた相手方並びにその条件はどういうものであつたかをお尋ねしたい。
  445. 三橋正雄

    ○三橋証人 モスクワにおいて誓約書を書かされた相手名前は私は聞いておりません。非常に背の高い人で、日本語が非常に巧みでありました。東京の地理が非常に詳しいところを見ますと、戦前日本ソ連大使館に長いことおつた人物だと考えております。  それから無電機を渡された人物、これは顔を覚えておりましたので、法廷に写真を出されたとき、ちやんと示しております。クリストロフとかなんとか、そういつた名前つたと思います。その点はつきり記憶しておりませんが、顔ははつきり覚えておりまして、写真によつて示しました。
  446. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 ソ連の代表と秘密通信をするに至りました前提となる約束は、どういう約束であつたかを私は聞いておる。東京における約束はどういう約束であつたか、その内容を御答弁願いたい。
  447. 三橋正雄

    ○三橋証人 ソ連の係官が言うには、わが方の代表の命令従つてすべて行動してくれ、ただそれだけでありまして、そこでたとえば報酬を幾らやるとかなんとか、そういう点は全然含まれていない。すべてわが代表の命令従つて行動してもらいたい、ただそれだけであります。
  448. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 しからば承りますが、佐々木克巳という人を仲介にして、秘密通信をやつたという御説明がございましたが、佐々木克巳という人を中に入れなければならなかつた理由、それから佐々木克巳からどういう指示を受けて、どういうような秘密通信をやつたか、その具体的なことをひとつ御説明願いたい。
  449. 三橋正雄

    ○三橋証人 ソ連と私の間になぜ佐々木克巳氏を入れたかというほんとうの理由は、ソ連代表部に聞いてみなければわからないことでありますが、ただ私の想像としましては、私の秘密通信というものは、一朝事があつたときソ連代表部が押えられてしまつてソ連代表部員全部逮捕されたような場合に、実際にソ連本国と日本との連絡をするための秘密通信であつて、私の任務は通信技術だけでありまして、情報を集めたりその情報を電文に組んで私に渡すというような人物が必要なんで、そのための人物として、まあいわゆるテスト・ケースとして私の間にまず最初佐々木克巳氏という人を入れたのだろうと思つております。佐々木氏とのレポにおいては、いつも会うたびに電文を渡されたり、これを今度打つていただきたい、その次にはじや何日何時に会おう、そのときに私からソ連の本国から来た電報佐々木氏に渡し、佐々木氏からソ連側から渡された電文を私に渡すという交渉だつたのであります。
  450. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 どうも私は証人の言うことが解せないのですが、一体ソ連の代表機関というものは東京のまん中にあるのですけれども、あえて三橋のところで受信され、それがソ連の代表の方ですか何か知りませんが、ソ連側に渡されるということがわからないのです。第一に三橋さんは、かようなことをすれば、その結果どうなるか、いろいろな複雑な関係が発生して、いろいろ不利益をこうむるということは常識的に考えられることなんです。特にソ連秘密通信をする場合においては、相当な処置を受けなければならないということは覚悟の上であるにもかかわらず、何らその条件の内容、報酬の関係、その通信をする具体的な事実を知らないで機械的にやるというばかなことはない。でありますからどういう具体的な通信をしたかひとつここで述べてもらいたい。
  451. 三橋正雄

    ○三橋証人 具体的な通信といいますが、通信文の内容というものは私にはわからないのであります。またどういう処置を受けるか、これがもしわかつた場合にはという御質問ですが、当時は占領下でありましたから、米軍から私の方に命令してやらせるのだから、もし発見されても処罰を受ける心配はないからという保証を得ておりましたし、君の生命についても十分考慮する、なおもし通信を発見されても私には手をつけないという約束をかわしてあつたわけであります。またこの約束を実際上私は断ることができなかつたわけであります。私としてももちろんそのほかに方法がなく引受けた仕事でありまして、ほかに逃げる道があれはもちろん逃げていたわけでありますか、それができなかつたのでこれはやむを得ず引受けた仕事であります。それから危険があるからやめさせてくれこいうわけにいかないのであります。
  452. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 ただいま私が伺つておるのはアメリカ軍との関係ではない。ソ連との関係を承つておるのです。米国との関係はそのあとからつくりたのです。ソ連との関係のことをお甘え願いたい。
  453. 三橋正雄

    ○三橋証人 ソ連との関係は、ただあそこでこういう仕事に協力してくれと言われて誓約書を書かされたわけであります。それ以外にどうこう言う余地は許されなかつたのでありますから、引受けるよりほかにはなかつたので引受けたわけであります。どうも質問の要旨がはつきり私にはのみ込めないのであります。ほかに意味はないのであります。
  454. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 占領軍はソ連じやない。ソ連の方から言われて日本人が自分の欲しないことを強要されて断れないはずはないのであります。その点を承りたい。
  455. 三橋正雄

    ○三橋証人 その当時はモスクワの捕虜収容所におつたわけであります。ソ連からそれだけ重要なことを打明けられて、断つた場合にはあとはおそらく生きて帰れないだろう、これは私の想像だけでありまして、ソ連側で承知しなければお前帰さぬぞというようなおどかしはしませんでしたが……。
  456. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 私は、帰つてからソ連側から機械を渡されてやれといつたときのことを承つておる。ソ連との誓約なんか百万べんしても、日本の国へ帰つて来ればさような不自由なことを強要される必要はないし、自由に断われる。その点を承りたい。
  457. 三橋正雄

    ○三橋証人 その点は申し上げたことでよくおわかりのはずなんですが、(「わからぬから聞いておる」)帰りましてから、相手ソ連であり、どこへこの話を持つて行つてよいか私としてもどうも方法がなかつたわけです。たとい日本であつても、日本においてソ連の地下組織があるということは私ソ連でずつと聞かされておつたのでありますから、かつてに自分で誓約を破ると危険であるということを考えましたし、どこの警察へ持つて行つてよいか、たとえば米軍にしろどこへ持つて行つてよいかわからなかつた、そこへたまたまCICから呼出しがあつたのでそこに御報告したわけであります。
  458. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 その当時は占領軍は日本の支配をしておりますから、占領軍に堂々と申し出れば、一切が解決するわけです。特にソ連のスパイになれなどということを命ぜられた場合に、われわれの常識から考えても当時の状況から考えても、占領軍に行けば全部片づいたのです。それが片づけられない、どこへ行つてよいかわからぬというような、相当のインテリがそういうわからぬことをいうのは納得が行かない、その点をはつきりしてください。
  459. 三橋正雄

    ○三橋証人 私は技術一方で生きて来た人間でありまして、非常に世事にうといのでありますが、当時引揚げましてから占領軍に報告するといつても、米軍のどこに行つたらよいか見当がつかなかつた。それは皆さんにすればふしぎに思うかもしれませんが、至つて世事にうとい方でありますし、その点は私としては考えがつかなかつたわけです。
  460. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 もう一つ、CICから命ぜられてアメリカのスパイをやつたわけですが、二重スパイをやつた当時の心理状態を知りたいのです。それが本件の三橋証言の信憑力の重大なことです。人間として、日本人として、両方に平気でやられ、平気でここで証言される、その心理やその当時の心理状態はつきりとここで述べてもらいたい。
  461. 三橋正雄

    ○三橋証人 はつきり申しますと、私自分の意思でその任務を拒絶するということは実際上できませんでした。アメリカとソ連の真剣勝負というような仕事でありますし、非常に重要な仕事で、秘密を保たなければならぬことでありますから、どこにどういうふうに話を持つて行つてよいか、実際のところ初めは見当がつかなかつたわけであります。
  462. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 もう一点で終りますが、当時の占領軍の最高司令官は日本におつたはずです。それはソ連命令などは一挙にして拒絶ができる。司令部へ行つてこういうわけですといえば断れる。なおアメリカのCICから命ぜられて、いかなることをしても罰せられぬぞといわれたと自白しております。それにかかわらず今度はアメリカのいう通りになつて、アメリカにもスパイし、ソ連にもスパイしたというところに私どもあなたの心理状態を疑うのです。そうすると、ただいまのようなどうにもやむを得ないからということでよいのですか。それで一体日本人として――日本のために考えるというようなことをしばしば公判廷でおつしやつていますが、いずれが日本のためになるかということをよく考えると、日本人の道徳ではあなたのような不徳義なことはできないはずなのです。その点を承りたい。
  463. 三橋正雄

    ○三橋証人 私としまして、まずほかに方法がなかつたということは先ほども申し上げました。日本のためにということは、ソ連日本にスパイ組織をつくろうとしていたことは私にわかつたわけでありますから、そのスパイ組織を破壊するという意味で米軍に協力すれば、結局日本の利益にもなると私は考えたわけであります。
  464. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 ほかにも大事な質問がありますが、それはあとへ保留します。
  465. 小林錡

    小林委員長 それでは鹿地君こちらへおいでください。  この前二回述べられた点に間違いありませんね。
  466. 瀬口貢

    瀬口証人 ええ。
  467. 小林錡

    小林委員長 昨年二回述べられたことに何か加えられることかありますか。  それから前もつてお伺いしますが、あなたは頭を染めておられますか。
  468. 瀬口貢

    瀬口証人 染めております。
  469. 小林錡

    小林委員長 何かつけ加えられることがありますならば……。
  470. 瀬口貢

    瀬口証人 別に事実としてつけ加えることはありません
  471. 小林錡

    小林委員長 先ほどから三橋君の述べられたのを――一時休まれたけれども、お聞きですね。
  472. 瀬口貢

    瀬口証人 ええ。
  473. 小林錡

    小林委員長 三橋君はあなたがお聞きの通りに、二十六年の八月三十日から十一月二十五日あなたが連れて行かれるまで、八回会つておるということを言つておられますが、それはどうですか。
  474. 瀬口貢

    瀬口証人 会つておりません
  475. 小林錡

    小林委員長 この人は見たこともないですか。
  476. 瀬口貢

    瀬口証人 ありません
  477. 小林錡

    小林委員長 どうして見たこともない人がそういうことを言うんです。何か思い当りはありますか。
  478. 瀬口貢

    瀬口証人 これに関しましては、本事件の一番大切な点である米国の戦後における日本への謀略活動というものをお話しなければならないと思います。米国の謀略活動ということになつて来ますと、これはむろん昨今に始まつたことではないのです。しかし日本人は、そういう点については戦後しばらくの間、そういう意味で非常に純朴だつた。彼らのやり口というものは、東条の時代でさえもやらなかつたようなやり口をやつているということについて、日本人はこれまでそういうことに対してあまりに経験を持つていなかつたということのために、この事件の輪郭を明らかにするにはまずそのことから始めなければならぬ。しかしこれは、今になつてはもう大体世界的にもアメリカのやり口がはつきりして来ましたし、ことに最近における東独でのいろいろな挑発的な行動、これは量的なものです。それから朝鮮における捕虜の問題、いわゆる自由送還に名をかりて、兵隊つまりアジア人を使つてアジア人に戦いをさせようというようなやり方、こういつたことが非常に明らかになつて来ておる。しかも私は、このことを注意していただきたいと思います。かつて日本で戦後に起つて来た一連の特徴的な事実が、今になると非常にそのことがはつきりするわけですが、ある種の宣伝目的を持つた、つまり事件のすぐあとにそういう宣伝が計画的に起つて来た列車転覆の陰謀とか、最近に至つてはさまざまな人が怪死をとげる、たとえば下山事件とか、こういつた陰惨な事実、最近では日本の役所の中で人が毒殺されるという疑わしい事件、松本三益氏の事件など、こういうことが連続的に起つておりますが、これは一体終戦以前の日本にあつたことかどうか、この点をよく注意していただきたい。こういう点で私は今それがどういうものだということは断言はしませんが、しかしすぐさま頭に来ることが私の体験の中にも幾つかあるのです。こういうことについては、最近ではアメリカの新聞記者でさえもはつきり言つております。米国は早くから非常に穏和な手段から非常に過激な手段に至る広範囲の謀略活動をやつてつたということを、米国人も認めておる。戦争中私は重慶におりました。太平洋戦争になります、その当時から表には反侵略、平和という共同目的で加わつて来ておる米国の策略の中には、フアシズムが打ち倒されて後に、その状況の中から立ち上つて来る諸民族人民の立ち上りというものに布置する計画的な陰謀が、全世界的に非常に広く行われておつたのです。その担当をしておる機関を見ますとOSSとか、今回私を襲撃した機関の前身であるという点を御注意願います。
  479. 小林錡

    小林委員長 今私がお伺いしたのは、三橋が君を何も知らないのに、会つた言つておるのはどういうわけだと思うかということを聞いているのです。
  480. 瀬口貢

    瀬口証人 ですから、そのことを明らかにすればそこから出て来ると思います。  その機関を見ましても、第一にはそれこそ過激な手段、それから経済的な謀略、たとえば今回の東独におけるああいつた食糧を輸送するといつたような手段で策略をめぐらす、それから一種の謀略宣伝、そうした三つの部門にわかれての陰謀が大きな規模でやられておるのです。その機関を通して米国は、――これは蒋介石の例をとれば一番典型的ですが、蒋介石政権内において、そこの特務機構と結んで大量の……。
  481. 田嶋好文

    ○田嶋委員 議事進行。不法監禁事件で私たちはこの委員会を開いているわけでありまして、今の発言を聞いておりますと、いたずらに時間をとるだけでよそ道にそれているようです。事実について、委員の質問に移られんことを望みます。
  482. 瀬口貢

    瀬口証人 今のところから続けて行けばそこに行きますから……。蒋介石機関内における戦後のそういつた布置のために、大量に外国人の養成をやつております。それから共産党なんかの脱落分子、裏切り者、それから各国人民内のそういつたいろいろな弱い分子、脱落して行つた売国的な者、そういつた者を買収し、脅迫し、そうしてそれを手段として今度は逆に、その国民とそういつた戦後に立ち上ることの予想される人民の運動というものを切り離す宣伝に使うとか、あるいはいろいろなそういう心理的効果をねらつた謀略をやるということが計画的にやられておつた。私は戦後の日本状態を見まして、ソ連の引揚者というようなものの中から、ことに日本の当時の警察の状態を見ますと、警察にしろ、政府にしろ、日本国民の権利を守るということは実際的にやつていない。占領者の下請をずつと系統的にやつている、そういう状態の中で、弱い人がおどされたり、買収されたり、そうしてここにおられる三橋某君のような状況になるというようなことは、きわめてあり得ることだし、それは一、二にとどまらない。その点で、さつき古屋先生が御質問になつた点は非常に重大であるというふうに考えております。
  483. 小林錡

    小林委員長 それではちよつと伺いますが、あなたをとめておいた先方は、あなたの頼みで、からだが悪いとかあるいは外へ出ると危険だからということで、いわば保護をするような意味で置いておいたんだ、こういうのですが、その点はどういうふうにして反駁されますか。
  484. 瀬口貢

    瀬口証人 それはこれまでの多くの証人たちによつて明らかにされておると思いますが、私はずつと自由を拘束せられて一室に閉じ込められておつた。しかもそれは武装した番人によつて包囲されておつた、外界との関係は完全に遮断されておつたという事実だけではつきりしておると思います。
  485. 小林錡

    小林委員長 それでは三橋君、今言われるように鹿地君はあなたを知らぬと言われるのだが、どうですか、話をしかけてやつてごらんなさい。鹿地君と第一回に会つたときあるいは最後に会つたときのことでもいいから……。
  486. 三橋正雄

    ○三橋証人 私は確かにあなたに八回会つています。鵠沼のところで、一番最初は八月の三十日、それから八月の……。私はこの目ではつきりあなたを見ております。なぜあくまでも事実を否定しようとなさるのですか。
  487. 瀬口貢

    瀬口証人 私はこの人物と別に問答をする必要はないと思います。この人物がさつきから他愛もないことを言つておる、そのことに関して若干の事実を申し上げておきましよう。第一に私に会つたときの服装からしてこういうことを言つています。第一回目に会つたというときの服装、八月三十日に私は開襟シヤツを着てズボンをはいてやつて来たと言つているのですが、それによりますと、大体私は夏の間こういうズボンをはいて歩いたことがないのです。ズボンそのものを持つていないのです。私はいつも半ズボンでぶらぶらしている、そういうことも事実と相違する点です。それから会つたときに何だか――それからこのことは前もつてお断りしておきますが、この人は次次にしばらくの間に……。一番最初には、私が強制されて書いたものを土台にしていろいろと相談している、相談してつくり上げている、そういう経緯は非常にはつきりしております。その後陳述が次々にかわつているのです。かわつている経過を見ますと、新聞やそのほかで私に振りかかる火の子は、けがらわしい火の子であつてもこれは払わなければならないのです。そのために私が発言したり、書いたりしたそのことに合わして次々にまたかえて来ている、たとえば裁判所のなにを見ますと、私が会つたときにロシヤ語をよくできないから、どうもまずいから外人の話が聞きとれなかつたのではないかと心配したようなことを言つています。大体私はロシヤ語を勉強したこともなければ、全然知らない、そんなことを相談するわけもない。それから最後の私が襲撃されたときの模様ですが、さつき聞いておりますと、この人もそばにおつたそうです。そうして女がおつたとか、そうして制服を着ていない正規の軍人でない人が私を襲撃したというように言つておりますが、私を襲撃したのはあと名前がわかりましたが、キヤノンという中佐です。それが隊長です。そいつは軍服の上に皮のジヤンバーをみたようなものを着ておりました。しかしもう一人ののつぽで、いきなり私の水落ちに襲撃をくれた先生は正規の軍服を着ておつた、それから女はおりません。そのときの私の服装はレイン・コートであつたというふうに裁判では言つておるようです。それから新聞記者たちにもそう話しているようです。ところが私は当時捕えられたままのかつこうで、ここへ第一回目に出て来ておりますが、そのときはちやんと皆様御承知の通りの霜降りの外套を着ております。それから私がいろいろなものを何かカムフラージュに使つて電文をその中に差込んでやつたとか、たとえば薬品びんをやつたというようなことを言つているのは、これは笑止なつくりごとなんです。私が病人だから多分薬を使つただろう、その薬はひとつどういう箱だつたかお聞きになつてくださるとたいへんおもしろいですが、当時私の病状から言いまして、薬はもう使えない段階にあつた。そうしてまたストマイやパスなんというものはそう安く病人に直接手に渡るものではない、私は当時薬を使つておりません。私はそのほかにも当時は安静にしている安静療法中であつて、薬を使つておらなかつたのですが、一体どういう薬を使つたか、まずそれやこれやです。それから私がこの人と国際問題について討論したようなことを言つておる、あるいはおしやべりしたようなことを言つているが、ごらんの通りの人物なんです。一体この人物は私から国際問題をどういうふうに解説されたか、ひとつお聞きになつていただきたい、大体ソビエトの軍事スパイにでもなろうという人間が、思想的な教育、政治的な教育を抜きにして、そういう大事な活動にひつぱり出されるということは、われわれの常識としては考えられない。一体この人の頭はどうかしているのじやないか、それやこれや総合してみまして、ばかげたことであるということを申し上げておきます。
  488. 小林錡

    小林委員長 三橋君、何か言うことかありますか。
  489. 三橋正雄

    ○三橋証人 ただいま鹿地さんからいりいろお話がありましたが、私の陳述が初めとあとの方とは多分いろいろ違りた点が出て来ておるということを申しておりますが、あれは新聞報道の誤りであつて、私が最初から警察において申し述べた供述調書を調べていただけばはつきりいたします。最初から最後までかわつておりません。実際の新聞報道に非常に誤りがありました。なお大分攻撃されましたが、私の言つていることはあくまで実際に体験した自分の経験を申し上げているのであります。薬の話がありますが。薬の箱に書いてあつた薬の名前ちよつとはつきり記憶していないのであります。ほかに何か……。
  490. 小林錡

    小林委員長 もういいでしような。
  491. 田嶋好文

    ○田嶋委員 それではおからだも悪いようですから、簡単に私は鹿地氏に質問をいたしたいと思います。実はこの前の国会におきましては、私は委員長という立場であなたに尋問いたしましたので、多少尋問のときに公平を期するために遠慮を申し上げたわけでございますが、きようは委員の立場でございますから、遠慮をしないであなたにはつきりとお聞きしたい、こう思つております。さつき私三橋さんに申し上げたのですが、御承知のように、この法務委員会で取上げておりますこの問題は、あなたの人権が奪われておつたかどうかということが問題になつておりまして、スパイを問題にしているわけではございません従つて委員会では、あなたを中心にして、あなたのために、日本のために、また国際正義のためにということで取上げておることをぜひおわかりになつていただかなければならぬと思います。  そこで問題は、不法に監禁をされたかどうかという裏づけをするためには、証拠が不十分な点がございますので、その不十分な点を補いたい、要するに、あなた方の一方的な証拠のみによらないで、なるたけ相手方の証拠も取入れたい、こう考えてやつておるのでございますが、遺憾ながらその相手の証拠を取入れるに不十分な現段階においては、あなたを中心とした方々の言つておることにどれだけの信憑力があるか、うそを言つておるのじやないか、正しいことを言つておるのかどうか、これが問題になつて、本日結論を出すために調べておるのであります。そのためには最もあなたと意見の相違を来しておる三橋君にここに来ていただきまして、あなたと三橋さんを対決させれば――あなたの言うことが信用できるか、三橋君の言を信用して、鹿地というのは、世間で言つておるようにうそを言う人か、こういう点につきまして実は私たちは重大な責任を感じながら聞いておるわけであります。私は率直に申し上げますが、われわれの耳に入る人の言葉では、鹿地という男はとてもうそつきだ、スパイなんか平気でやる男だ、とても信用のできる男ではない、のらりくらりとしているということも耳に入る。しかし一方では、あなたを保護するような言葉も入るのでありきて、その点をわれわれは非常に重要視しておるのです。  そこで私はあなたにお聞きするのですが、あなたはこの法務委員会にはいつも出て来ることを希望して出ていらつしやる。これはもちろんあなたの人権を中心とした問題を取上げておるから出て来られるのでしようが、ふしぎに裁判所に行つて三橋君と対決するという段階あるいは警察に行つて三橋君と対決するという段階になると、どうも忌避しているようにわれわれには考えられるのですが、これはどういう関係でそうなつておるのでございますか。おからだのみの関係でしようか。この点をまず承りたい。
  492. 瀬口貢

    瀬口証人 お答えいたします。その点に関しては、私は確かに過去において警察のある種の取調べの態度に対しては、拒否の態度をとつて来た。そして最近までは、しばらくの間は安静に療養するために非人道的な追究は回避して時を待つたのです。そのことは当時の状況をお話すればよくわかると思います。これはさつきの問題とも関連して来ますが、大体私は非常に重い病気で、そしてまだ一日に十五分――これは私が無理に医者からせびりとつたのですが、その程度の散歩でもちよつと無理なのです。さつき私が東京くんだりでたびたびかけまわつて行動しているようなことを言いましたが、これはお医者さんに聞いてみてくだされば、そんなばかなことができるかどうかすぐわかる。それはもちろんたまに一回くらいは無理をすればこうやつて出かけられるのです。しかしこうやつたあとはてきめんに次の二、三週間から一箇月くらいこたえる。しかしこたえたつてぼくはきようはあなたのおつしやるようなそういう誤解を解きたいためにここに来なければならない。私はそういう状態でいきなり不法な襲撃を受けて、そして不法な監禁を受けたのです。そしてその中で、そのままの状態でやみに葬られるか、それとも国民として不名誉な生き方をするかというばかげた選択を迫られて、結局は自分の命を断とうとするようなことにしか行くことができない状態に置かれて来たのです。それでそのことに関しましては、私はこの問題はあとで解決する、こういう事実は国民に知らせなければならないという気持と、それからもう一つは、自分の病気の苦しさの上に夜昼寝させないひどいいためつけられ方のために、ぼくは遂に自殺も試みましたし、それから最後にはやつらの一言一辞をのがれるためにやつらの言い分に頭を下げました。しかしこのことは、後に国際的に見れば、ローゼンバーグ氏とか、日本においては松本三益氏とか、そういうような人たちが非常にりつぱに行動したその態度というものは、陰謀者などにすきを与えない、正義を守るということの態度はこれでなければならないということで、私は非常に打たれた。それで私は、たといここで額にどろをつけられてもやり抜かなければならない、こう今決心しております。それが今度釈放になりますと――釈放ではない、とにかく国民によつて私は救い出されたのです。救い出されたときに、すぐさま私に降りかかつて来た問題は何かというと、私が弱かつたことのために出て来ておる弱所をつかんで、まだまだ陰謀の継続がずつと迫つてつたということなんです。さつき私がOSSからCICに至る一連の径路の説明をいたしましたが、その中ではつきりしておるように、アメリカの謀略というものは非常に深く、今ではそのにおいが大分世界の各地でして来たわけですが、それが政府の機関の中へさえも食い込んでおるという事情があるわけです。あとでいずれはつきりするでしようが、しかも板垣君の例を見ましても、警察がそういう謀略に手を貸しておる。私の事件にしましても、ちやんと国警長官は知つておるということを米当局者が私に言明しておる。それからそれを知つておる人たちが、その事件が明るみに出そうになつたら、今度はその善後措置を相談しておるという事実も、これは国警長官自身がお話になつておる通りです。そういうような事を糊塗するような形があつたので、私が外に出て事実を暴露したところが、電波法違反事件なるものがあとからくつついて出て来たのです。しかも私の発言、それから国民の怒り、国家の尊厳、国民の誇りを守るための怒りというものが非常に強く立ち起つたときに、その怒りを去らすために、問題の焦点をはずそうとして企てられた芝居があれなんです。しかもその焦点をはずすというやり方でもつて、当時無理をして病気が非常に重大になつておる私のところに、つまり人権を擁護するというここで問題として取上げられた形とは全然違つた形で私のところに迫つて来たのです。
  493. 小林錡

    小林委員長 なるべく要点に触れて答弁をしてください。
  494. 瀬口貢

    瀬口証人 あとは簡単に申します。
  495. 田嶋好文

    ○田嶋委員 委員長ちよつと……。
  496. 小林錡

    小林委員長 田嶋君。
  497. 田嶋好文

    ○田嶋委員 御発言中ですが、私委員長に希望し、また鹿地さんにも希望しますが、なるたけ私の問いに対しては、後刻他の委員からも質問があるようですから一問一答の形でお願いし、事実をお答え願いたいと思います。ここはあなたの思想の宣伝場所ではないと思います。私たちは正義を守つてやろうとしてこの委員会でやつていることは、あなたも御承知だと思う。だから事実をお答え願つて、われわれに正確な判断を与える資料を提供してもらいたい。今の点あなたの気持はよくわかりますが、どこまでもあなたの正義を守つてやろうとしてここで立ち上つている国会は、不当な警察官や検察当局のやり方に対しては、必ずさせないという力を持つているということを、あなたは信用願わなければならぬ。その国会が取上げているのに、何もあなたが自己の立場を自分だけで守ろうとしてあがく必要はない。そこで私はお聞きするのですが、あなたは不法監禁の問題に対しては国会へ出ていらした。そしてまた警視庁にも出て行つて、無理をして調べてもらつた。ところが今の疑惑を持たれているスパイの問題になると一度も出て来ない。私はあなたの正義を守つてやろうという資料摘出にあたつてここに非常な疑問があるわけなんです。私たちは国民としてスパイにはなりたくない。おそらくあなたもなりたくないと思うが、これはあとで聞きたいのですが、スパイになつたということを言われたくないというのは、国民全体の偽らない正義の気持だと思う。あなたはスパイということに対してどんなお考えをお持ちですか。
  498. 瀬口貢

    瀬口証人 私並びに国民の権利を守つてくださるという国会の努力に対しては感謝しております。あなたのその善意もぼくは感謝しております。従つて私は国会のこの問題の取り上げ方を非常に尊重しておるのです。従つて私はさつきの言葉を続けなければならぬのです。問題の焦点に触れようとしているときにあなたはおはずしになつたようであります。
  499. 小林錡

    小林委員長 できるだけ要点に触れて簡単に……。あなたの病気にも悪いから。     〔「質問に答えるだけでいい」と呼ぶ者あり〕
  500. 瀬口貢

    瀬口証人 質問にはその中で答えます。国会がこの問題を取上げてくれておるときに、その結論が出る前に、そつちへ焦点を移して広汎に宣伝をしようとするような意図が、非常に明白に見えておる。ですから私は、当時国会がこの問題を取上げ、結論を出してくださることを待つてつたわけです。ところが国会がその問題について一時休止しているすきに、焦点をはずした形でのいわゆるスパイ宣伝、それでもつて警察が私のところへやつて来る。それで私は、別に警察の調べや何かを恐れたり拒否したりする理由はありはしないのですが、ただそういう謀略的なやり方には反対するのです。そして病気は重態であつた。その重態である病人に対して、むりやりに得体の知れない医者を差向けたり、それからまたそういうやり方がどうもうまく行かなかつたら私の主治医のところへ重圧を加えるというような事件があつた。それから私の家にも、何者か知りませんが、大きな石をほうり込む。そういつた雰囲気のうちでやられているのです。そういう状態の中でこの重い病気をしばらく安静にするためには、警察自体がそういう信用のできないやり方をしている以上、一応この問題の正当なる解決の時期、つまり今回法務委員会が持たれるまでは、私としては一応退避する。そして面会を謝絶しなければならぬというほどの状態であつたのです。数箇月休んだおかげで今はいくらかきようのように元気を取返しておりますけれども、でもこれだつて無理なんです。そういう状態で警察の調べを拒否するとか、三橋という先生と対決するというようなことは、あの状態の中で問題の焦点をはぐらかす危険があつたし、不法な要求で警察はぼくに迫つて来たということは、これは正当な問題が解決した後降りかかつた火の粉を払うという簡単な問題ですから、そういう問題として私は時機を待つた。要するに今日私がここに出て来ておるということで事ははつきりしておると思います。
  501. 田嶋好文

    ○田嶋委員 しかし私たちの考えでは、むしろ疑惑を持たれている点を解消すれば人権問題もおのずから解決するのではないかと思うのですが、どうなんでしようか。あとの解決がいいと思うか。私は、疑惑を払いのけることがあなたの言うことを信用させ、あなたの人権を守る道になるのではないかと思う。
  502. 瀬口貢

    瀬口証人 私は法律家ではないから専門的なことはわかりませんが、どうも田嶋さんのおつしやることは見当はずれのように思われます。たといどういう嫌疑をかけられておるにしろ、日本の国民が、外国の占領当局に国権を蹂躙されておる、そしてそれが戦後におけるる日本の一つの重大問題であるということがわかつておる場合に、それを人にけちをつけるという方法でもつてそういう問題をはぐらかすということは私は許すことができないことである。むしろ疑惑そのものはそれ自体として別の問題です。人権蹂躙の問題は、たといその問題をだれがどうでつち上げに成功するとしても、人権蹂躪の問題は取消すことのできない問題だし、これは国民全般の問題です。
  503. 田嶋好文

    ○田嶋委員 あなたはある人に対して、自分は子孫のためにスパイという汚名を着たくない、これだけは事実あつたとしても否認して通さなければならぬということを語つたことはないですか。
  504. 瀬口貢

    瀬口証人 私は、こういう汚名に対しては私の正義を守つて闘うということはありましたが、自分がスパイだのにそれを押し隠さなければならぬというふうなたわけたことを言うわけはありません
  505. 田嶋好文

    ○田嶋委員 先ほど猪俣委員が三橋君を尋問の途中で、これは語るに落ちたということになるのか、それとも間違つてつたか知りませんが、鹿地君はそのときに着ておつた服装と同じ服装でおれのところにやつて来たんだぞ、だからお前の言つておる服装は違うのだぞ、こう三橋君に言いました。これは記録に載つております。あなたは猪俣君の所へどんな服装で参りました。
  506. 瀬口貢

    瀬口証人 いつぼくがどこえ行つたときの服装ですか。
  507. 田嶋好文

    ○田嶋委員 初めて猪俣君の所へ行つたときの服装だろうと思います。
  508. 瀬口貢

    瀬口証人 法務委員会のときもその服装です。
  509. 田嶋好文

    ○田嶋委員 法務委員会に来たときの服装ですね。(猪俣委員「それがおれの所に来た服装だよ」と呼ぶ)わかりました。あれはたしかレイン・コートのようなものを着ていたのですね。あのときの服装を言つてください。私も忘れたのです。
  510. 瀬口貢

    瀬口証人 それはこちらの方の御意見をお聞きになつたら……。
  511. 田嶋好文

    ○田嶋委員 いや、ここに来たときの服装です。
  512. 瀬口貢

    瀬口証人 それは霜降りの外套で
  513. 田嶋好文

    ○田嶋委員 ちよつと三橋君にお聞きしますが、霜降りの外套のようなものを見たことがございますか。
  514. 三橋正雄

    ○三橋証人 とにかく生地はギヤバみたいな毛の織物で、ウールのようなものじやないということは間違いありません。色は薄い色だつた、紺とか茶の濃いものでなかつたということだけは記憶に残つております。
  515. 田嶋好文

    ○田嶋委員 時間も参りましたのでこれ以上追究しませんが、私は不法監禁の点を、あなたの言つていることを信用するかしないかという点に対して、今日の三橋君とあなたの対質尋問は非常に重大関係があります。こう考えておりますときに、あなたが一日も早く、この疑惑を持たれている三橋、鹿地の交渉関係、これを明確にされることを、追究してもあなたは言わないのですから、やめておきます。それによつて委員会結論が不利益になつたような場合、これは相当あなた自体としても考えてもらはなくちやならぬ、こう思うのですが、あなたはほんとうに良心に誓つて三橋氏と会つたことはない、こうおつしやるのですか。
  516. 瀬口貢

    瀬口証人 そうです。
  517. 小林錡

    小林委員長 猪俣浩三君。
  518. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 お疲れのようですから一息だけ。実はおとといの委員会におきまして、検察当局に不法監禁事実についての取調べの経過を聞きましたとこりが、第一の岩崎邸と第四の沖繩へ連て行かれたことについてはまだはつきりしない、茅ケ崎C三十一号館にはこうも鹿地がいたようだ、しかし鹿地自身に聞いてみないうちは結論は出せぬというような答弁であつたと思うのであります。ただ岩崎邸については、これはたくさん証人がある。岩崎邸なるものがあつて、キヤノン機関の本部であつたことは、きよう証人に出ております板垣氏もわかるはずだし、そこにおる電波男の三橋君も出入りしておつたことは明らかなことだと思います。そこでただ残るのは沖繩行きでありますが、これはどうも証人日本人にないのであります。そこでこの真実性をどうして明らかにしたらいいかということで、当委員会でも多少煩悶しておるわけなんです。そこで確実に、沖繩へ連れて行かれたことはこういう話でもわかるじやないかという、先般もあなた相当詳しく述べておられたのですが、何かもつと、この前述べられましたほかに、沖繩へ連れて行かれたことについて具体的な説明はないでありましようか。
  519. 瀬口貢

    瀬口証人 沖繩へ行つた状況は、この経過をお話してその中からくみとつていただくよりしかたがないと思います。実際夜の八時に軍用機に積み込まれて、そうして二人の付添いだけで専用軍用機で外国へ行くといつて連れ出されたのです。しばらく外国へ行つてくれということで運び出されたのですが、東京湾を南へ下つてつた。それは下の火でわかりましたけれども、私としては、外国というのを向うへ着くまで教えてくれないのですから、これはサイパンかどつかに変なものでもあるのじやないかと初めはそう思つておりました。ところが夜一時前でしたか飛行機が急にしゆろの木や何かのある海岸からそんなに離れていない飛行場に着いた。そてつがたくさんあつたと思います。夜の飛行場の明りでそれが見えたのですが、そこは非常にそまつなあまり飛行機もない飛行場でした。そこへおろされて、それからの先は目隠しをされて、えらい山道を二時間ばかり運ばれましたから、その間何も見ておりません。着いた所が、日本状態と景色が翌日の朝になつて見て非常に違つてつたのは、気根を出している熱帯樹がうしろの山にたくさんあつたということと、かやが内地のかやとは比べものにならないほど高いということでありました。人間のたけの倍以上もあるそういうかや一面に囲まれた小さな山のくぼみの中の基地で、そこは盛んに建設中でありましたが、その一隅のだれも人のいないバラツクの一聚落の中にほうり込まれて、そこに監禁されたわけです。それから数日の間に沖縄労働者に違いないということを――やせこけて色の黒い、日本人よりどうも色が黒いようですが、その人たちが非常に悲惨な生活をしている状態を外におる労働者から気がついた。それから食堂から私の飯を運んで来る二世達がおしやべりをしておることの中に、この前申しましたような一、二のことがあるわけです。うしろは日本軍が集団的にがけから飛びおりて自殺したところだと話しているその自殺の言葉なんかも非常に私の印象に残つておるから、多少信頼の足しになるかと思いますが、二人の二世が話しておる。一人は日本人二世です。その集団自殺ということに対して若干感動して話しておる。そうするとほかの一人が、オー・ライク・シープと言つた。それはまるで羊じやないかと言つた。それは私にぐつと来たので非常に憤りを覚えた。そういうことがあつた。それから山の中にこれは沖繩特有の火の燃え上つたような赤い花があつた。つばきのような花ですが、そういつた幾つかのことがありますが、そのほかにこれが確証だというふうにここに持ち出す条件は全然ありません。私行動の自由がないのです。以上であります。
  520. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 帰りは、何日の何時頃どこからどういうふうにして帰りましたか。
  521. 瀬口貢

    瀬口証人 多分同じ道で海岸の飛行場に出たのだと思います。しかしとにかく目隠しをされておるので、どれがどれになるのかよくわからないのです。そこで私が解放される日の朝立川に着いたのですから、その前の日の十二時に山を出て、二時過ぎにB一七に積み込まれた。B一七というのは非常に不細工な旧型爆撃機で印象に残つております。それに非常に動揺のはげしい飛行機でした。それで朝になつて明りの中で富士山も見えましたし、伊豆の山々も見えたので、おそらく羽田におりるのかと思つたところが、そうではなくてずつと奥地に行つて立川におりた。立川から今度は代官山に目隠しで自動車で運ばれました。
  522. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 その立川におりたときに、何かアメリカ側の人が出迎えておりましたか。
  523. 瀬口貢

    瀬口証人 ちやんと例の、本名は知りませんが、ガルシエー氏が飛行場まで迎えに来ておつて一緒の車で代官山へ連れて行かれました。
  524. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 その行き帰りの飛行機にあなたと同乗したアメリカの二世はだれとだれですか。
  525. 瀬口貢

    瀬口証人 本名かどうか知りませんが、私に知らされたところではビル光田とジャック高橋、この二人です。
  526. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 ビル光田とジヤツク高橋、これが送つたときもそうだし、帰つたときも付添いだつた……。
  527. 瀬口貢

    瀬口証人 そうです。
  528. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 それから沖繩であるということはどうしてわかりましたか。
  529. 瀬口貢

    瀬口証人 沖繩であるということは、さつき申し上げたことのほかに、着いたときに、光田が沖縄ですよと教えてくれました。
  530. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 それから飛行場というのはどこのどの辺であるかわかりましたか。
  531. 瀬口貢

    瀬口証人 付近に比較的大きい町があると言われておりましたし、そこのところ目隠ししてよくわかりませんが、明るくなつたり暗くなつたりしたところを見ると、町の中を通過したのではないかと思います。それが首里であるか那覇であるか私にもわからないのです。
  532. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 そうするとあなたは沖繩のことは知つていますか。
  533. 瀬口貢

    瀬口証人 調子は多少聞いたことがあります。私鹿児島におりまして、沖繩の友達が若干ありましたから。けれども言葉そのものはわかりません
  534. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 よろしゆうございます。
  535. 小林錡

    小林委員長 古屋貞雄君。
  536. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 時間がありませんから、簡単に二点ばかり伺います。鹿地さんが鵠沼に移転されてからの病状、たとえば大体最高どのくらいの時間散歩し得る状態であつたか。三橋の方では小石川指ケ谷の電車停留所で面会したと言うておるが、さようなことができる状態にあつたか、またあるいは神宮外苑で会うように打合せをしているような話がありましたが、さようなことができたかできないか明確にしたいので、どの程度の散歩ができたか。あなたの主治医北錬平博士の三橋事件の公判における証言を承りますると、本人は二十分くらいは散歩ができるようになつた言つておるけれども、それでも自分は無理であつたということを証言しておりますが、さような状態であつたかどうか
  537. 瀬口貢

    瀬口証人 病気のなおりかけというやつはとかくお医者さんに値切りたい気持になるものですから、そういう意味で私は鵠沼で世話になつたお医者さんにも、さあ、十五分どうだかなと言つて首をひねつているのを、まあ直射日光に当らないようにして、少しつらいと思つたらかげんするのですねというので、十五分という限度で許されました。さつきもそのことはちよつと触れましたが、この病気は自分でかげんがわからないのでよく失敗をやるのです。それで一日くらいはどこかへその十五分の限度を少し越して出かけるということはできないことはありませんけれども、そうしたらてきめんです。翌日からもう苦しくて、今度は十五分ができなくなつて、そんなことを数回繰返せば、病状はてきめんに悪化します。これは鵠沼のお医者さんに聞いていただけばよくわかることでありますし、さつき三橋さんの言つているようなそんなばかなことができる状態ではないのです。
  538. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 そうしますと、さつき三橋さんのおつしやつたような事実は不能な状態にあつたと承つてよいですね。
  539. 瀬口貢

    瀬口証人 もう一言申し添えますが、さつき聞いておりますと、私はこの人と会つて一緒にどんどん歩いていて、病人だということは、顔色や何かで病気上りかなとわかつても、ほとんど気づかれないと言いましたが、これはまたうそを一つ暴露しているのです。この病人は、この病気でこういうふうに胸囲の狭くなつた状態で歩くのは、普通の人の倍の時間をかける速度を越すことはできないのです。それはやはり専門医に聞いていただけばわりますが、歩行訓練に百メートル二分と言われておるのです。それなのに、まだ何も訓練を自分で重ねていない状態のあのときに、健康な人と歩度を合して、しかも肺を活動させるおしやべりをしながらということは一番いけない苦しいことなんです。おしやべりをしながら歩くなんていうことはばかげたことだと思うのです。
  540. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 なお大船あたりまで出かけて行くことがそのころできたのでしようか、それともできなかつたか、しかも二十分、三十分くらいのお話をしておられたようなことを三橋が言つておりまするが、そういう点をできなかつたらできない理由だけ三、三お述べを願いたい。
  541. 瀬口貢

    瀬口証人 それはただ出かけて帰るということは、さつき申し上げたように、一回、二回間隔を置いてできないことはありません。しかしそこで話をしながら連絡をとつて歩きまわる、これはできません
  542. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 なお鹿地さんにお尋ねいたします。長い病気をされて入院もされておつたそうですが、きわめて失礼な話なんですが、あなたのお宅の経済はその当時どんな状態に置かれておつたか。これは前に十五国会のときにあなたの奥さんがこの法務委員会証人として出られましたときに、あなたの第一信のはがきの中に、鵠沼の家賃も切れてしまつて困るから払い込んでもらいたいというようなことをあなたが言われたというはがきが来たということを、ここで述べられておる。さような関係からあなたの経済が、たとえば三橋のおつしやつたように、月々何万円かの金を渡すような経済になつてつたか、その点を承りたい。
  543. 瀬口貢

    瀬口証人 私はむろん人に金をやるような状態では全然ありませんし、それから当時私の療養中は家を売つたり、いろいろ友達の援助によつてささえている状態で、決して余裕のある生活ではありません。私はそのことについてはキヤノンにも、とてもこんなことをされておつては生活ができないから早く帰せと言つたら、家族に金を送つてやると言つた、それを断つた事情もあるくらいなんです。
  544. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 そういたしますと、かように承つてよろしいのですね。長い病気で経済が困つてつて、他人に金を恵むとかあるいは交付するような余裕はなかつた従つて三橋が本日あなたの前で言われた証言はでたらめであるということの裏づけもそれでできる、こう承つてよろしいですか。
  545. 瀬口貢

    瀬口証人 私の金をやつた言つておるのですか。
  546. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 そうです。
  547. 瀬口貢

    瀬口証人 それじやそれはでたらめです。
  548. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 毎月一万五千円なり一万二千円の金をもらつた……。
  549. 瀬口貢

    瀬口証人 それはあり得ないです。
  550. 小林錡

    小林委員長 ちよつと伺います。沖繩へ連れて行かれたというのですが、どうするつもりで連れて行つたのでしよう。また今になつてあなたは考えてみて、何か思い当ることはありませんか。他人ではわかりませんが、あなたが推測されるのは、沖繩行きというのはどういうためでしよう。
  551. 瀬口貢

    瀬口証人 実は一番最初に話しかけて、田嶋さんにちよつとさえぎられて、そのままになつてつたのですけれども、私に対する企てというものは、米国ではずつと系統的にある計画を持つていたらしい、注目を持つていたらしいことは、前にも申し上げた通りです。あの機関のやり方は、中国の例を見ましても、あるいは解放軍が重慶近郊の基地を解放したあとの記録が、一九五一年ごろのピープルス・チヤイナーとか、新華月報とかいう雑誌に出ているのを見ましても、その基地からたくさんの学生や労働者や進歩的な人たちの死骸が出ているのです。私の考えでは奴隷にするか、でなければ証拠隠滅をはかるということがあり得るのじやないかということに過去のそういう見聞から当然結びつくわけです。それで私を沖繩へ持つてつたということを、当時山田善二郎君がどれだけの証拠を持つて事を暴露したかということを、様子を見ながら、どういう処置をとるかという様子を見るために、一応どんな処置でもとれるところへ持つてつたというふうに解釈しております。
  552. 小林錡

    小林委員長 そうすると、生命をなくしてしまうとかいうようなことではなくて、しばらく向うへ置いておいて処置を考えるという意味ですか。
  553. 瀬口貢

    瀬口証人 いや、ああなつたら私は、つまり東京へ置いてはその機密を守つて行くことが非常にむずかしいから、向うへ置いておいて、そうしてこれは証拠隠滅をはからなければならぬとなれば殺すだろうし、それとも山田君の言つていることが大した証拠もなければ、まだ何とか野心をつなごうというようなところもあつたかと思う。この処置を決定する期間を向うへ持つてつたのだ、私はそう解釈しております。
  554. 小林錡

    小林委員長 間もなく連れ帰つたのはどういうわけですか。
  555. 瀬口貢

    瀬口証人 それは山田君の持ち出した私の書いた手紙というものが、これは動かしがたいものとして社会に明らかにされてしまつたからであります。
  556. 小林錡

    小林委員長 もうおおい隠すことができぬというわけで連れて帰つた……。
  557. 瀬口貢

    瀬口証人 秘密を守つてくれと言うて私を帰したのです。
  558. 小林錡

    小林委員長 木下郁君。
  559. 木下郁

    ○木下委員 ごく簡潔に伺つておきますが、昭和の初めに、あなたは治安維持付法の事件で罰せられたことがある、これをまずお聞きします。あなたはあとにも先にも共産党員になられたことはありませんね。
  560. 瀬口貢

    瀬口証人 私はかつて共産党に属しておつたことはあります。ですが、最近また入党したということは、どうも共産党に入党したのだから逮捕してもいいというような宣伝ではなかろうか、こう想像しております。党には入りておりません
  561. 木下郁

    ○木下委員 その共産党に入つてつたというのは、その治安維持法事件の起つた前ですか。
  562. 瀬口貢

    瀬口証人 治安維持法事件そのものです。
  563. 木下郁

    ○木下委員 それで私が伺いたいと思つてつたのは、その事件の判決の前に裁判所に対して共産党を批判した、いわゆる転向派的な手記とか、上申書とかいうような種類の書類をおつくりになつて出したことはありませんか。
  564. 瀬口貢

    瀬口証人 当時私が調べられるときに、一応そのことに関して手記を出したことがあります。そのことは私の恥すべき過去です。
  565. 木下郁

    ○木下委員 今恥ずべき過去と言うたので大体見当はつきまするが、共産党を批判した趣旨の、いわゆる世間で大ざつばに言う転向派のよく書くようなああいう種類のものであつたわけですね。
  566. 瀬口貢

    瀬口証人 私は手記は書きましたが、共産党に反対したり、それを批判したり、寝返つておいて何か悪態をつれというようなことはやつたことはありません
  567. 木下郁

    ○木下委員 悪態をつかないでも、共産党自身を、自分が被告となつて反省していろいろ考えたが、この点は批判するというような趣旨であつたんじやありませんか。
  568. 瀬口貢

    瀬口証人 それがこの事件とどういう関係があるのでしようか。     〔「証人は疲れておるんだから、もつと本体を聞けよ。」と呼ぶ者あり〕
  569. 木下郁

    ○木下委員 いや、それは大事な関係がありますから――私の今伺つたのは、あなたは、恥ずべきことで今後悔しているという趣旨を言われましたが、さような趣旨の手記でありました
  570. 瀬口貢

    瀬口証人 恥ずべきということは、当時仕事をしておつた自分として、あの困難な時代に遂に強く自分の信念を守り通せなかつた、そのことを恥ずべきと言つたのであつて、共産党に対して何か悪いことをした、いわゆる今日CIDやそのほかの手先になつて働いている人たちのようなことをやつた、そういう意味ではありません。ですから私はその後のことを見ていただけばいいのです。私は自分のそういう過去の弱さというようなものを取返すためには、一生懸命にやつて来たつもりです。
  571. 木下郁

    ○木下委員 それでけつこうなんです。私も、逆の陣営に行つてあなたがおやりになつたとか、そういう趣旨によつて聞いたんじやないんです。それで今度の問題に触れますが、二十六年の十一月の二十五日に逮捕された。このことはすでに前二回で詳しく聞いておりますから繰返しません。ただその逮捕されたときにあなたは、逮捕したアメリカの諜報機関は、あなたということを知つてつて逮捕したと、主観的にお考えになりましたかどうでしたか。
  572. 瀬口貢

    瀬口証人 最初はよくわかりませんでしたが、しかしあとから筋道を追つて考えてみますと、ずうつと系統的にねらいをつけておつたということは言えるように思います。それはしかし私がかつて共産党から落ちたということでねらいをつけたというのではなくて、かえつて将来の平和陣営の中においてある種の役を買わせ得る、何とかしてそれを買い取りたいという反戦同盟の活動、これに目をつけたことが原因だと思います。
  573. 木下郁

    ○木下委員 私はその事実のそのときの情勢から、いわゆる三橋証言と食い違いの点を判断する資料にしたいと思つてその点を伺つているのですが、つかまえたアメリカの方は、あなたという名前は知らないけれども、酔いどれのMPがだれかれかまわずぽつとつかまえるというような意味の、盲めつぽうのつかまえ方であつたか、それともやはりその人の名前はわからぬでも、つかまえるつもりで、目ざしてつかまえたような姿であつたか、あなたは、つかまえられたときにぽつと感じたに違いないと思うのですが、どういうふうにお感じになつたか。
  574. 瀬口貢

    瀬口証人 それは計画的につかまえたという印象であります。
  575. 木下郁

    ○木下委員 もう一点だけ伺います。あなたが十二月の初めに自殺を企てられて、自殺未遂に終つた。その後例の山田を通じて家族に第一回の手紙をお出しになつて、そうして山田にこれは中身を見てもいいよと言われたので、山田はそれを見た。山田は証人として出まして、その中に、自分を忘れてくれ、子供を頼む、人に売られたという意味のことが書いてありましたと言つておるのです。これは常識的に解釈しますと、人に売られたというのは、裏切りがあつて、そうして敵の陣営にあなたが渡されたというふうにとるのが普通で、私はそういうふうに山田の証言を聞いたのです。さような意味をお書きになつたことがあるかどうか。
  576. 瀬口貢

    瀬口証人 最初に言われた時間の順序からしてお話が少し違うように思います。自殺の前に、私は山田に何もやつたこともありませんし、品をきいたこともありません。山田は、私がもう自分一人がきれいに死ぬということで片づけるよりしかたがない、そう思つて私のやつた行為で彼も感動したということから近づきになつてつたのです。そのとき最初に手紙を出したのを山田に頼むようになつたのも、山田という人をぼくはどれほど信用が置けるかということをかなり長く注意し、話をし、いろいろなことを教育もしたわけです。そうしていよいよどうもあすこから別のところへ持つて行かれそうだというときに、もうおれの運命はこれでおしまいだ。何者かにはかられているということを言つてつたのです。はかられているというのは、さつき申し上げたような計画的な逮捕であり、またあとになつて筋道を追えば追うほどはつきりして来るところのアメリカの謀略的計画がぼくに向けられておつたということになるのですが、その意味でその言葉を書いたのです。それを売られたというふうに読んだのは、売られたとか、はかられたとか、そういう言葉の使用についてあまり経験のない山田君たちの記憶違いだろう、こう思つております。当時ほかの点では山田君の言つておる手紙の内容は当つております。たとえばぼくはいさぎよく死ぬからみんなあとをしつかりやつてくれ。子供も守るし、みんなりつぱに生活して行つてくれということを書置きしたのです。それからそういう違いについて取上げられるならば山田君の記憶の中にもこういう違いがあります。私が自殺したときに残した遺書ですが、「時計は一時」という論理にならない言葉を山田君は言つておりますが、しかしそうじやないのです。「時計は私の子供への遺物として証拠」こう書いてあるのです。そういうこまかい点の違いはあると思います。
  577. 小林錡

    小林委員長 もう大分時間がたちましたから簡単に願います。
  578. 木下郁

    ○木下委員 もう一点だけ……。今の自殺未遂の後と私は申し上げた。これは日付を見ればすぐわかる。ただその最初に、山田の手を通じて家族に渡するいうかんじんな手紙、山田がまた非常な危険を冒して彼の人道的な感じから持つて行くというときに、手紙の中にあつて、山田がはつきりそういうものだから記憶がある。それにそういう趣旨のことが述べられて、これをまた見た内山完造氏もさような趣旨を述べられておるので、その点を伺つたわけです。  それからもう一点最後に、この自供書をお書きになつた。その自供書を書いて、これは全面的に三橋証言と裏表になるような意味の自供書なんです。その自供書はアメリカからさしずを受けたというのでそれに合せるように書いたというのは、その自供書は項目だけのさしずでありましたか、それとも二十ページ近くの筋のまことに通つた詳細のものでありましたか。これが一点。それからそれ以外にあなたがいろいろの書物を読んだ読後感というものをお書きになつた。それについてこの前私が伺つたのですが、アメリカの諜報機関をじらしているのだということを山田にも言うし、またあなたはそういうことをこの前述べられた。そのじらしているという趣旨は、アメリカの言うことを聞くがごとく、聞かざるがのごとき態度をとつたのでありますと伺いました。敵に言質を与えない、しかし時を待つ、機会を待つという立場から共産主義とも反共とも言質をとられないように、自分の文学的体験を述べたのだというお話がありましたが、この敵というのは単にアメリカの諜報機関だけをさした意味でありましようか、それともすぐ先に共産とありますから、共産陣営以外のものを、いわゆる世間でいう自由主義陣営のものをさした意味でありましようか、その点二つお伺いして終りにいたします。
  579. 瀬口貢

    瀬口証人 どうもそういう御質問が何のために出るのか私了解しかねるのですが、私は別に自由主義陣営を敵にするとか、共産主義者だけを味方にするとか、そういうばかな問題の立て方が今日の日本に一般に行われているのかどうか、それを私は知らないのです。私としては日本の独立、平和という点から、国内について見ましても、国民のあらゆる人々が団結しなければならない。国民は共同防衛を持たなければならぬということを考えております。従つて私が敵というのは、それに敵対する関係にある一部の人をさすのです。権力をさすのです。国際的にも同様に解釈していただければけつこうです。
  580. 木下郁

    ○木下委員 今私が申し上げたのは、あなたの政治的な理論を伺う意味ではないのです。この前記人としておいでになつたときに、自供書は書いた。そして自供書以外に、この諜報機関から出されたいろいろの書物を読んで、その読後感を書いて、それに対しての問題が述べられているから、その一点を伺つただけであります。私はこれで終ります。
  581. 小林錡

    小林委員長 大橋君、関連して御質問があれば質問してください。
  582. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員 先ほど古屋君の御質問にお答えになつておられましたが、昭和二十六年の秋のごろに、御病気で御静養をなさつておられた。その当時は十五分くらいしか散歩にも行けなかつた従つてそれ以上出かけるということは無理だつた、こういうふうに承りましたが、いかがでございますか。
  583. 瀬口貢

    瀬口証人 よく聞きとれませんでしたので、もう一ぺん話してください。
  584. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員 昭和二十六年の秋ごろ御病気でありましたために、御静養中の一つの運動として散歩をなさつてつた。しかし一回十五分程度しか医者から許されなかつた。こういうふうに伺いました。従つてそれ以上の御散歩は事実めつたになさらなかつたと思いますが、その通りでありますか。
  585. 瀬口貢

    瀬口証人 そうです。
  586. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員 そうしますとあなたが米国の自動車におつかまりになつたとき、つかまえられた場所というのは、柳小路の駅と鵠沼駅の中間であつたと思いますが、ここまで行つてお宅へお帰りになるのに、あなたのお足でどのくらいの時間を当時要したと考えられますか。
  587. 瀬口貢

    瀬口証人 たいてい十二、三分くらい。それから疲れがないときにはまた藤沢の方へ向つて行つて、そして疲れれば電車に乗つてそのまま帰るというやり方をしております。
  588. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員 そうすると片道で、あと帰りは電車に乗つて帰られたのですね
  589. 瀬口貢

    瀬口証人 片道半くらいたいてい歩いておりました。
  590. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員 そうするとつかまつたその日は何分くらいかかつて現場までお歩きになりましたか。
  591. 瀬口貢

    瀬口証人 やはりいつもと同じ程度だと思いますが、記憶しておりません
  592. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員 お宅からその現場までどのくらい距離があるとお考えになりますか。
  593. 瀬口貢

    瀬口証人 一キロ足らずだと思います。
  594. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員 一キロ足らずでなく柳小路鵠沼との中間でありますと、結局どちらかの駅まで行かなければ乗物がないわけです。そうなりますとおそらくお宅から二キロ近くあるのではないかと思うのですが……。
  595. 瀬口貢

    瀬口証人 あの辺の駅と駅の間隔は数百メートルですから、非常に近いのです。
  596. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員 お宅から柳小路の駅に行く、あるいは鵠沼の駅に行く、どちらも千二、三百メートルの場所です。従つてそれから駅と駅の間を五百メートルとすれば、どつちから行つても大体千七、八百メートルあるわけでして、百メートル二分間ということになりますと三十四、五分はかかると思うのです。これは十五分の散歩というのでは、その晩はよほど特別にお歩きになつたということになるのではないかと思うのですが、その点はいかがでございましようか。
  597. 瀬口貢

    瀬口証人 私は千二、三百メートルもあるとは思つておりませんでした。いつも少しは苦しくても、たいてい十五分前後で歩くようにしておりました。海岸の方に出ることもありますけれども、海岸の方に出ればやはり電車で帰つて来る、たいてい同じ距離です。あるいはさつき申し上げたような病人の心理で少しでもよけいに医者からもぎとろうというようなことで、四、五分くらいは乗り越えるということもあつたかもしれません
  598. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員 そうしますと柳小路から鵠沼に行く間の道というものは、散歩道として平生お歩きになつていたところでございますか。
  599. 瀬口貢

    瀬口証人 たいてい家からまわつて電車を利用して帰れる道筋ですね。幾つかの円周の一つになつておりました。ですからときどきそちらにまわりますし、海岸にまわることもあります。ちよつと藤沢に何か買物でもしたいと思えば、鵠沼に出て電車に乗つて行き、電車に乗つて帰るというコースをとつておりました。
  600. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員 すると問題になつております三橋君が第一回にあなたにお目にかかつたと主張され、あなたが否認しておられますのが、大体八月の末だつたと思います。それから逮捕になりました時期まで約三箇月ですか、その間においては東京にお出かけになつたという事実はございませんか。
  601. 瀬口貢

    瀬口証人 東京に一度行つたことがあります。しかしそれも秋に入つて、凉しくなつてから、友人に病気の調子がよければ一度町に出て来たらどうかと誘われて、飯を食つたことがあります。しかしそれはとても自分にこたえましたので、あとそういうことはありません
  602. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員 その間には一回だけ東京に出られたことがあるそうですが、その時期はいつでありますか。
  603. 瀬口貢

    瀬口証人 そうですね、それははつきり覚えておりませんが、多少涼しくなつた時期です。
  604. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員 十月に入るか入らないかというような時期ですか。
  605. 瀬口貢

    瀬口証人 そうです。
  606. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員 それがたまたま三橋君が春日町でお会いしたと言うつている日付と気候の上から偶然一致しているでしようか、どうでしようか。三橋君はいつお会いになつたというのですか。
  607. 三橋正雄

    ○三橋証人 十月の二十九日です。春日町で……。
  608. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員 十月の二十九日ならたいへん涼しいころですが、そのころですか。
  609. 瀬口貢

    瀬口証人 十月二十九日というと十一月二十五日に私が逮捕されたわけですが、そんなにおそくではなかつたと思いますが。
  610. 大橋武夫

    ○大橋(武)委員 そうすると十月ですか、十一月ですか。
  611. 瀬口貢

    瀬口証人 十月の初めごろではなかつたかと思います。
  612. 小林錡

    小林委員長 岡田君、簡単に願います。
  613. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 鹿地さんは大分お疲れのようですから簡単にお伺いしたいと思います。たしかきのうだつたと思うのですが、斎藤国警長官その他の答弁によると、最近鹿地さんに対して逮捕状を出した。これは鹿地さんが何か姿が見えなくなつて逃亡をした。特に新聞においては逃亡するについての宣言を鹿地さんが出されたのが、逮捕の令状を出した直接の原因になつたというようなことを盛んに政府委員らしくないことまで実は言つているのであります。われわれこの点は追究をしたのでありますが、この点はともかくとして、逮捕状を出された直接の原因になつたと政府の諸君の言つているこの事情について、この機会に明らかにされた方がいいと思うし、私も明らかに伺つておいた方がよいと思うので、この点を伺いたいと思う。
  614. 瀬口貢

    瀬口証人 私がしばらく家を離れたことにつきましては、さつきも申し上げた通りなんです。逃げも隠れもするわけではない、時を待つただけなんです。だからそのとき私は誤解を避けるためにわざわざ新聞記者に病気療養のために人と面会謝絶にして当分待機する。そして法務委員会に出るという意味のことを申し上げたのです。しかしそれは新聞記者の方の聞き違いもあつたかもしれませんが、とにかく私に中国に逃げるのではないかというような質問をされるくらいの下心でお聞きになつたものでありますから、だから失踪などと新聞に書いてくれてたいへん迷感したということを申し上げておきます。もしそれが口実になつて私に逮捕状を出したというなら取消していただきたいし、逮捕状そのものは私としては全然根拠がわからないものであるから、ぜひとも皆さんの方でそのことをただして取消していただきたい、こう思つております。
  615. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 今の点で大分はつきりして参りましたが、鹿地さん自身の声明書の中には、失踪という意味のことは全然なかつたようにわれわれ承つてよいと思うのでありますが、この点はやはり逮捕状に関連してきわめて重要な点でありますので、この機会にこの点を明らかにしていただきたいと再度お願いをいたします。
  616. 瀬口貢

    瀬口証人 そういう言葉は一切ありせん
  617. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 大分お疲れのようですから次に進みますが、先ほど三橋君、いわゆる電波男と対決の場面になつて参りまして、三橋君は第一回目の八月三十日ですか、その会見の状況等については大分詳細に話しているのでありますが、それ以降についてはきわめて断片的な話をいたしているのであります。ところが裁判所の公判、あるいは三橋君が会つたと言われる某氏に対する会見の模様等を聞きますと、第二回以降等においても相当あなた自身と詳細な打合せやお話をしておられるようになつているのであります。そこでこれは今後の問題として一つのポイントになると思いますので伺つておきたいのですが、三橋君が第二回目に会つたとき――たしか九月六日であろうと思いますが、そのときに今後会うとき行き違いがあつてはいけないから藤沢の大和橋というところで会おうじやないかということをあなたからお話になつた。それでその大和橋という所で会うことにきめたのだということになつておりまして、しかもなおかつあなたも新聞で御承知でありましようが、人形をあなたから三橋君が受取つたときに、その受取つた場所は大和橋で受取つたのだ、こういうことになつているのであります。この大和橋という藤沢の町の中にあるこういう点についてあなた御存じでございますか。そしてこういう点をお話しになつたかどうか。この点をひとつお話を願つておきたい。  それからもう一つは人形の問題につきましても先ほど質疑がなかつたのであります。人形等につきましては、先ほど三橋君の証言によりますと、人形の中に電報が入つている、そして金も一緒に入つている。それからその包装紙は、先ほどは言いませんけれども、公判廷の証言その他によりますと、何か新宿のデパートの包装紙である、こういうことまで言つているのであります。しかもこの人形の包装紙――この人形を受取つた問題については、実は公判廷における三橋君の細君の証言と三橋君自身の証言においても時間的な点について食い違いがある。このいう点についても人形の問題についてはきわめてあいまいであるような感じがありますし、こういう点についてもお話おきを願つておいた方がよいと思うのであります。この点をお伺いいたします。
  618. 瀬口貢

    瀬口証人 私ははなはだ不注意でありまして、大和橋といいますか、それはきよう初めて聞いたのです。大体そんな橋の名前もよく知りません。どこにある橋か私知りません。で、どこか大船あたり……。
  619. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 藤沢だそうであります。
  620. 瀬口貢

    瀬口証人 それだと私全然知りません従つてそのことに関してはもう申し上げる余地はないと思います。  人形のことに関しましてはこれも私何とお答えしていいかわからないです。大体何のために人形でなければならないか……。
  621. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 私鹿地さんにお伺いしたいのですが、大分長いようでありますから、私は鹿地さんに対する質問はこれでやめまして、三橋君に対する質問を留保いたします。
  622. 花村四郎

    ○花村委員 鹿地さんにお尋ねしたいのですが、この三橋証人の主張しておりますところは大体においてあなたに対して不利益な事柄が多いと思うのですが、不利益ばかりでなくしてことさら犯罪に引き込もうとする意図のあることも明瞭のように考えられるのですが、あなたはどう考えられますか。
  623. 瀬口貢

    瀬口証人 私はその点で人に恨みを買うような覚えもありませんし、ですからこれは私はある種の政治的謀略で、むりやりに人を陥れるということに使われているとしか思われないのです。この人が私に何か恨みを持つということも私には考えられない。それから私の存在が何かこの人にとつて不利になるというようなことも私には全然考えられない。そういう意味でこれは一種の政治的な一つの謀略であつて、おつしやる通りある犯罪に引き込むことで、ある目的を遂げようとしているということにしかならないと思つております。
  624. 花村四郎

    ○花村委員 これはどうも容易ならざることですがね。全然会つたこともない、話したこともない、全然知らぬ人を犯罪に引き込もうというような意図をもつてやるようなことは、おそらくいまだかつてそういうこ事例を、われわれは幸か不幸か聞いておらないのですがね。それを何かの政治的意図をもつてつてつた、とこう言うのだが、その政治的意図とは一体いかなるものですか。これは容易ならざることですよ。
  625. 瀬口貢

    瀬口証人 私このことに関しましてはさつき一番最初にお話しかけて途中でさえぎられたわけですが、そういうことはある種の謀略宣伝に人を使うとか、その謀略が失敗したときにそれを証拠を隠滅するとか、あるいは様々な企てのために、いわゆる今日言われている米国の巻返し政策の中でどんなことが行われているかということは世間にも相当わかつて来ているはずだと思います。しかし日本人の古くからの頭の中で、それは容易ならぬことだ、ちよつと考えられない、そこのところに日本人が過去において相当つけ込まれて来たということは確かにあります。しかし私たちはそういう今の日本の置かれている状態をそう無邪気に見ることはできないと思います。で、私非常に疲れていますからたくさんのことは申し上げられません
  626. 花村四郎

    ○花村委員 一口に言えばいいですよ。
  627. 瀬口貢

    瀬口証人 そういうことは現実に現在の社会で行われていないなどと言われることは私は無邪気過ぎる、とこう考えます。
  628. 花村四郎

    ○花村委員 そうすると謀略宣伝に使われた、とこうおつしやるのですか。
  629. 瀬口貢

    瀬口証人 そうです。
  630. 花村四郎

    ○花村委員 そうするとあなたをことさら謀略宣伝に使つたという点についてあなたはどう考えますか。どうしてそういうものに利用されたと考えるのですか。
  631. 瀬口貢

    瀬口証人 米国の今日における極東政策の焦点がどこにあるか、そうして日本がどういう政策の基地になつているかということを僕はたくさん申し上げる必要はないと思いますが……。
  632. 花村四郎

    ○花村委員 そんなことを聞いているのじやない。謀略宣伝にことさらあなただけがひとぱり出されて使われたというその原因はどこにあるか。あなたにはおわかりにならぬか。こう聞いている。
  633. 瀬口貢

    瀬口証人 そうですが。私は今のところからそれを説明しようとしたのです。結局今日のようなアジアの諸関係の中で彼らが、一種のCIDというようなものが非常に広汎に外国人をその中に取込みながら、広汎な謀略の仕事をやつております。それを取込むためにはあらゆる手段がとられているということはさつき私申し上げた通りであります。過去において私がそういう機関の人たちから目をつけられた、そういう経歴を持つております。それからその後ずつと目は放されていない。それから私清瀬の病院に入つている間にもCIDあたりから特に私の行動を報告さしておつたというような事実もあります。で、いつ退院したいというようなことも当局にはわかつていたんだ。私はそういう点ではこういう謀略政治の布置のされ方というものは非常に深いし、広いし、そういう点を警戒していただきたい、こう考えております。
  634. 花村四郎

    ○花村委員 もう一点です。謀略宣伝というのはどういう意味ですか。謀略宣伝に利用されたとこう言われるのだが、その謀略宣伝とはいかなるものですか。
  635. 瀬口貢

    瀬口証人 私は協力せよと言われて、まだその具体的内容は私は諾言しないから遂に示されずにこの事件は終つたのです。しかし非常にはつきりしていることは戦争中にやつてつたことからの平時からの、それから今日起つている事件からの連想でありますが、たとえば火つけや工場破壊、それでもつてあるいは共産主義者がやつたのだ、あるいは独立運動者がやつたのだというような形で一種の挑発をやる、そのためにその国内に手先を養い込むというようなこともあれば、それからまたさつき申し上げた食糧を輸送するというような手段でつけ込もうとすることもあるし、あるいは自由人何とか亡命者委員会といつた種類のあらゆる団体を養成して、それをアメリカの政策のもとに統括してそこに資金をつぎうぎ込んで、それがさつき言つたような硬軟両様のさまざまな活動をやるとか、アメリカ人が直接やるのでないという形式での広汎な仕事というものは今日やられておるのです。こういつたものから見れば、日本人なら日本人の中でかつて――あるいは中国でも朝鮮でもいいのです、アジアの問題が非常に激化して来ているときに、その中でもアジア人に対して共産主義から引離す、離間というようなこと、あるいは民族運動に依存さすということのために過去に経歴、威信を持つているというような団体や個人をねらうということはこの機関では系統的にやつておるのです。そういうことに関しては私がここでこれ以上申し上げなくたつて今日たくさんの新聞記者諸君、たくさんの人たちがみな知つておることだ、こう思います。
  636. 花村四郎

    ○花村委員 私はこれで済みました。従来から注目されておつたという立場においてこの謀略宣伝の具になつた、こう言われるのだが、それもちよつとわれわれは納得できませんし、また謀略宣伝そのものが今言われるようなことに利用するということと、そしてあなたの今問題になつておる事実とは少しどうもその趣が違うように思うのですが、この点は疑問をとどめて質問を打切ります。
  637. 小林錡

    小林委員長 まだ板垣君がありますからどうでしよう、これで二人とも帰つてもらつてよろしゆうございますね。
  638. 細迫兼光

    細迫委員 ちよつと三橋君に聞きたいのですが。
  639. 小林錡

    小林委員長 それじや今すぐ三橋君に聞いてもらいましよう。なるべく簡単に要点だけ。
  640. 細迫兼光

    細迫委員 由来権力者が仕組む芝居というものは、もちろんその深い知識のもとに仕組まれるのだから、ほとんど九九%合理的に、どこからつつ込まれてもボロの出ないように仕組まれているのが普通ございます。われわれはかように用意周到に仕組まれた中からその人の言うことがほんとうかうそかということを発見するのは、ただ一%の間隙でもこれを重大な全般の運命を決するものとして、いかに小さい矛盾でも重大な意味を持つものとして取上げなくちやならぬと思うのであります。そこで三橋君の言うところに一%かもしれないが、ふに落ちないところがあるので一言聞きますが、この鹿地君の事件が新聞に現われてから身の危険を感じたので自首した、こういうお言葉である。しかしながら当時と今と何ら事情はかわつていない。当時でもあなたはアメリカ官憲から十分な保護を受けられる位置にある、現在でも日本官憲によつてあなたの身柄は安全に保護せられる立場にある、アメリカ当局も非常な支援を与えているというのでありまして、あなたが自首した以来ずつと姿を隠すことができるというのならば――それは身の危険を感じて自首したということは合理的に思えるのでありますが、しかし自首した後におきましても今月こうして大道を歩いておられる。あなたはソビエトの情報機関は非常に地下組織が強力であつて危険を感ずると言われております、その危険は、自首せられるときと今日とちつともかわつていないと思うのであります。危険を感じながら自首をする、しかも公然大道を歩いておられるという中に私は矛盾を感ずるのでありますが、この点いかがにお考えになりますか。
  641. 三橋正雄

    ○三橋証人 それは現在では、私の事件の内容をすべて世間に公表してしまいましたから、いまさらソ連側で私に手をつけた場合には、かえつてソ連側がその事実を認める結果になります。ソ連側としてもそういうばかなことをしないと思います。その当時まだ世間に発表せられない前、私が自首する前に私の身柄をソ連側でつかまえてしまつたら、おそらくそのまま帰つて来なかつたと思います。
  642. 細迫兼光

    細迫委員 いまだ納得をすることができませんが、それはお互いの判断でありまして、ソ連がそれほど恐ろしかつたとすれば、これを契機にアメリカとあなたのつながりがあるということになれば、一そう恐ろしいことになる可能性があるのでありまして、その点より一層ふに落ちない。あなたの判断は、このことは自首することによつてなぜ安全になるかということを考えられたか、いま一応お尋ねいたしたい。
  643. 三橋正雄

    ○三橋証人 米軍側と連絡をとつているということがソ連側に知れた場合には、これは非常に危険なのであります。しかし米軍側のそれに対する注意は非常に慎重をきわめたものでありまして、私は米軍のうちからその秘密がソ連側に漏れるということはないと、まず安心感を持つてつたわけであります。それで米軍側と連絡していることについてはその危険がある、危険を感ずるということは、私自身の行動も非常に慎重にやつておりましたし、米軍側でも非常に慎重な注意を行つておりましたから、私としてはそれほど心配はしなかつたのであります。万一の場合には米軍側に先にソ連側の動きの様子も入るでしようし、米軍側が先に保護の手を差延べてくれると考えておりました。
  644. 細迫兼光

    細迫委員 あなたのみずから供述した電波法違反のいろいろな問題、これについては、あなたの供述をただちに裏書きするようないろいろな資料が、アメリカ側から、あるいは警視庁側からたくさんに提供せられておる。そういうことから考えまして、あなたの供述なるものが、あなた独自のせりふで署とはわれわれはどうもよう解しない。アメリカやあるいは警視庁のいろいろな資料によつての少くとも合作、あるいはしばしばその例を見るところの、物を書き上げてそれにあなたがサインをするというような程度においてつくり上げられたのじやないかというような疑いなきにしもあらずでありますが、あなたのこの事件についての陳述は、みずから自発的に、何者の助けも受けずに、助言も受けずに、自由に独立になされたものであるかをお尋ねいたします。
  645. 三橋正雄

    ○三橋証人 私自身の意思で、私の自由によつて申し述べたものであります。これは当時捜査に当られた警察の方に聞いて調べてもらえばすぐわかると思います。すべて私の実際に体験した事実をそのまま申し述べてあるわけとあります、
  646. 細迫兼光

    細迫委員 あなたの供述によれば、事実かうそかわかりませんが、寝返つたあとでもソ連側の方に行つて寝とまりしておるというぐあいに非常に心臓の強いところが見える。そうかというと、一方ソ連の手が恐しいというような非常に臆病なところが見える。あなたの性格がいかようかわれわれとしては非常に解せない。いろいろ数奇な運命に置かれながら、平然として、しやあしやあとしていろいろな二重スパイのことなどを供述しておられる。どうもあなたの人格、従つてあなたの言われることについて信用が置けないのであります。それで、私はこういうこともやつておるのだ、これで私の人物を信用してくださいというような事実があればひとつわれわれに示していただきたいのです。
  647. 三橋正雄

    ○三橋証人 私の人物を証明せよとおつしやいますが、これは私の今までの生活において常につき合つて来た知人、親戚その他の人々の私にたいする批評をお聞きになつたらすぐわかると思います。これは、私の知合い関係とか、そういつた方面もすべて十分調査をされてあるはずですから、私自身からこれこれと一々申し上げるような大きなことはありませんが、そういつた記録によつてごらんになれば、私が日ごろどんな人間であるかということはよくわかると思います。
  648. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 私は三橋さんに承りたいのですが、先刻猪俣委員からお尋ねしたが、あいまいではつきりいたしておりませんためにこの点を承るのです。ソ連側から三橋さんに対して、佐々木さんにかわつて鹿地さんを推薦さ、れておるという事実、さようにあなたは述べておりますね。それからその鹿地さんが行方不明になつてしまつた。それについてあなはその後ソ連側にも出かけて行つておる。さような状態に置かれて、鹿地の行方不明について、ソ連側からあなたに何も質問したり尋ねたりすることがなかつたということが私どもは納得が行かないのです。根本が、あなたが先にソ連側から秘密通信約束され、佐々木さんがおらなくなつてからは鹿地ソ連側で推薦したのでありまするから、もしも鹿地ソ連のスパイであるというならば、ソ連では自分のスパイがどこかで行方不明になつておるからお前との関係はどうなつたかということを聞くことがこれは当然だと私は思う。それをソ連側が、あなたに対してそのことについては尋ねてもおらないし、ふしぎにも思つておらなかつたというようなことを今述べておりまするが、その点はほんとうでしようかどうなんでしようか。
  649. 三橋正雄

    ○三橋証人 もちろんソ連側は私に聞きました、というよりも、私がソ連側に行けばレポ状況を一々報告しなければならないわけであります。それについて、十一月の十九日の日は会つたが、その次の二十五日の約束の日は鹿地さんが見えなかつたから――鹿地さんとは言いません、私は鹿地さんとは名前は知らなかつたわけでありますから。相手の人が二十五日には見えなかつたからと、こういうふうに私は報告したのであります。向うも、ではあなたはこの次はいつ会う約束になつているかと言うので、その次に会う約束の日にまた私は出かけて行つたわけであります。その次に会う約束の日、つまり十二月の十九日の日に鹿地さんとまた大船で会う約束があつたのであります。十二月十九日に、鹿地さんは来ないことを承知の上で私は出かけて行つたわけでありますが、ソ連側からの、いわゆるリヤザノフ一緒に協力してやつてつたダビドフという男が、大船の私の約束した指定の場所に来て様子を見ておつたのであります。私は指定の場所に行つてぐるぐる歩きまわつたのですが、もちろん鹿地さんは来ないのでそのまま自宅帰つたのであります。そうしてその後ソ連側行つて、実はこの間行つたけれども来なかつたということを報告したわけであります。ソ連側とも、とにかく何か間違いがあつたのかもしれないし、病気かもわからないが、万一危険なことがあるといけないから、当分三箇月間くらいは直接会うということはやめようというように話がついたわけであります。ソ連側でも一応心配はしたけれども、病気で寝込んだのか、あるいは鹿地氏自身の都合によつて自分からどこかへ身を隠したのか、あるいは米軍につかまつたのか、それは全然ソ連側も見当がつかなかつたのではないかと私は思います。
  650. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 私はそんなことを聞いているのではない。十九日のことではない。二十五日に鹿地がひつぱられて行つた後のことを私は聞いているのです。あなたは、私が質問すればすぐそらしてしまうが、はつきり答弁してください。あなたは二十五日に鹿地が拉致されて行つたのを見ていたとおつしやる。そうしてその後になつてあなたも鹿地と会わない。あなたもスパイであり、鹿地もスパイであるならば、鹿地がそれから後一年もずつと米軍に拉致されているのだから、その間にあなたの方へもソ連側から、鹿地はどうしたろうということを聞くのはあたりまえである。それを私は聞いているのです。それからなお、あなたは猪俣委員に対して、十二月二十九日にソ連の方へ行つて代表部にとまつて来たとおつしやついてるが、さような場合に、鹿地の行方についてあなたが詳しく尋ねられることは当然のことだから、そういう事実があつたかなかつたかを私は聞いているのです。十一月十九日のを聞いているのではない。二十五日以後において鹿地がどこかへ拉致されて、いない。あなたと二人で手を組んでスパイしておつたというなら、一方が半年もおらなかつた、一年もおらなかつたということになれば、あなたの方ヘソ連側から、どこへ行つたかしつこく行方を聞いて来る、そうして、あなたも尋ねる、それは当然である。それを聞いているのです。そういう事実があつたかなかつたか、あつたとすればどういうことをあなたは言つたか。その点については、あなたは、うそばかり言つて、すつぽかして、知らぬ顔の半兵衛をきめ込んでソ連側行つて、今度はアメリカのスパイをやつてつたのか、この点を聞いているのです。
  651. 三橋正雄

    ○三橋証人 私は、ただいまおつしやつた質問に対してはつきりお答えしたはずであります。
  652. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 どういうことを。
  653. 三橋正雄

    ○三橋証人 ですから、その後ソビエト側に行つて、いわゆる鹿地さんとのレポの状況を報告する場合に、十九日の目には会つたけれども、二十五日の約束の日には来なかつた、こういうふうに私はソ連側に報告したのであります。鹿地さんが逮捕されたのは二十五日ですけれども、その後十一月の末、二十九日かそこらに一回ソ連側行つているのです。そのときに鹿地さんは、十九日には見えたけれども、二十五日には見えなかつたと、私は報告したわけです。その後、じやもう一回病気で出られないかもしれないから、次に会う約束の日にはもう一回行つてみてくれと言われておつて、そのために約束の日に大船に行つたりなんかしたのですが、最後に十二月の二十三日、大使館にとまつた日に、どうも鹿地さんはやつぱり見えないと、私から報告したわけであります。向うも心配はしておつたのでありますが、それがはたして病気であるかどうか、向うもわからない、私も、病気で、寝込んだのじやないでしようかと、ソ連側言つたのでありますが、向うでも、それははたしてどつちがどうであるかわからない。全然病気で寝込んだか、あるいは自分から姿を隠したか、アメリカ側に逮捕されたのだか全然わからないから、とにかく当分お互いに会わないようにしよう、三箇月会わないようにしよう、こういうふうに話がついて、十二月二十三日の日はとまつて、翌日帰つたわけであります。
  654. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 そうすると、あなたは、でたらめのうそをソ連側行つて、言いくるめて来たということになるわけですね。
  655. 三橋正雄

    ○三橋証人 ええ、そうです。
  656. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 それから、どなたに、そういうことを御報告したか。とまつて来るくらいですから、ソ連代表部のどなたが責任者かぐらいは知らないはずはないと思うのです。だれとも知らずにとまつて来るはずはない。どなたかはつきり言つてもらいたい。
  657. 三橋正雄

    ○三橋証人 それはリヤザノフでございます。
  658. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 それからもう一つは、あなたは公判廷におきまして――六回目にお会いになつたのは当委員会でも十一月の三日とおつしやいましたね。そこで、公判廷におきまして、かようなことをあなたはお述べになつていると思うのですがいかがでしようか。二日の日が日曜で、三日の日は祭日であつた。こういうことを述べておられますか。
  659. 三橋正雄

    ○三橋証人 私は、二日続きの休みであつたという記憶がはつきりしておりました。これはそう言つたように思います。
  660. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 あなたのおつしやつたのは日曜が二日で、三日の日が祭日にあつたと述べておる。これは間違いないでしようか。
  661. 三橋正雄

    ○三橋証人 私は今おつしやつた点は、はつきり記憶しておりませんが、二日続きの休みであつたとこう申し述ベたことは間違いないと思います。そういうふうに記憶に残つてつたのであります。
  662. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 非常に頭のいいお方なのですが、私が調べてみますると、三日の日が土曜日で四日の日が日曜にはつておるはずです。それで、あなたは三日の日にお会いになつたと、こうおつしやるのでしよう。そして、二日の日が日曜で、三日の日が祭日だつた、こういうことを述べておる。
  663. 三橋正雄

    ○三橋証人 私の記憶によりますと、とにかく休みといわゆる祭日が続くという、二日続きの休日の日であつたということまで、はつきりしておつたわけであります。それで二日続きの休みはいつだつたかということをカレンダーで繰つてみましたところ、十一月の二日と三日だ。その日は江の島は非常に込んだ、にぎやかだつたという記憶があつたものですから、それをよく考えてみますと、確かに祭日の十一月三日であつたことは、ほぼ間違いないという確信がついたのであります。
  664. 古屋貞雄

    ○古屋(貞)委員 そうしますと、これは実はおつしやるのは逆なんですよ。二日が日曜で三日が祭日だとおつしやるけれども、四日が日曜で、これは間違つているので、この点にも食い違いがあるのです。これは考え違いだとおつしやればともかくですが、非常に時間までよくおわかりになつている三橋さんですから、私はお問いしたのですが、さようなことで、この点は信憑力がないわけです。四日が日曜で、三日は土曜日です。以上です。
  665. 木下郁

    ○木下委員 あなたは二十四年の四月から、ソ連からのさしずで電波を使つた。そうして鹿地君とあなたの連絡で電波をやつた。その二十四年の四月から鹿地君に初めて会つた二十六年八月の末までの間は、やはりだれかが中に入つてつたですか。
  666. 三橋正雄

    ○三橋証人 それは先ほども申し上げましたが、佐々木克巳という人が間に入つておりました。
  667. 木下郁

    ○木下委員 鹿地君が今度二十六年十一月二十五日につかまつた、あなたはそれをよく知つているわけです、それから後二十七年あなたが自首して出るまで一年、その間電波はやらなかつたですか、やつたですか。
  668. 三橋正雄

    ○三橋証人 その後はソ連側と直接の連絡によりまして、二十七年の十月からまた電波を出し始めたのであります。そうして二十七年十二月二日が最後でありました。
  669. 木下郁

    ○木下委員 その鹿地君と、あなたの言う連絡のつく前の人ですね。その人との連絡のことをその都度アメリカの方には報告せられて、やはりその人も、あなたが報告したために、つかまるかどうかしたのですか。
  670. 三橋正雄

    ○三橋証人 その佐々木という人と私との交渉も逐一CICに報告しておりました。その後二十五年の十一月の末になくなつたのですが、その前に米軍がその人を逮捕して取調べをやつたということが、あとでわかつたわけであります。その当時は、私には全然米軍、CICの方でも何とも言わずに、私と佐々木という人は、ただ二人だけで会つてつたのでありますが、その人がなくなつたので……。
  671. 木下郁

    ○木下委員 それであなたは、その人がやつぱり死んだ。それから鹿地君があなたの言う通りとすれば、手引きでつかまつた。あなたのそういう行為のために二人もつかまつて落し穴に陥れられたようなかつこうになる。それについて、あなたはどういうふうに考えておつたのですか。それについて人間的に考えて、まことに済まぬことをしている。それから鹿地君がつかまつてつたならば、それはその後どうなつただろうかというようなことを、普通ならばたいがい考えるものです。そういう点については、どう考えていますか。
  672. 三橋正雄

    ○三橋証人 佐々木氏がなくなつたことは、病気でなくなつたという報告を私は受けておりましたので、その点については、別に心配しておらなかつたのでありますが、私が自首して出てから、その人がほんとうは自殺したんだということを聞きまして、非常に気の毒なことであつたと思いますが、その責任を私に問われても、はなはだ何とも申し上げようがないのであります。占領下であり、米軍によつて動かされていた機関によつてつた行為でありますので、自分の意思でどうにもできなかつたわけでありますから、この点私としても、そういう犠牲者の出たことは、はなはだ残念だつたと思つておりますが、どうもほかに方法がなかつたわけであります。
  673. 木下郁

    ○木下委員 佐々木という人が自殺したということは、あと知つたという話なんだが、鹿地君が、一緒に会うているところを一人つかまつてつた、あなたはそれで知らぬ顔をしてずつと帰つて来たというのだが、どういうふうにして帰つたのですか。アメリカの方ならしよつちゆう連絡があるのです。それを知らぬ顔をして帰つたという。――そのときどのコースをとつてどこに帰つて、どういうふうにしたか。そこのところをひとつ詳しく言つてください。
  674. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのとき柳小路の駅からまた電車に乗りまして、藤沢に出まして、藤沢から東京駅で山手線に乗りかえまして池袋に出まして、池袋から武蔵野線で自宅帰つたのであります。そこであとから、その晩にCICの者が連絡に一応来てはおりますが、そういう順序で帰つたのです。
  675. 木下郁

    ○木下委員 しかしそれは人間的に考えて――あなたの言うのには、鹿地君が一緒レポをやれというこただつた。そしてその一人がつかまえられた。そのつかまえられる原因は、自分がしよつちゆうそのことを報告しておつてつかまえられた。それをその後鹿地君がどうなつたかということも、これは当然心配もするであろうし、これは何とかすべきものであると思う。これは今の話で、私はあなたの言うこと等の見当は大体ついたのですが、これ以上聞きません
  676. 小林錡

    小林委員長 岡田春夫君。できるだけ簡単に要点をお願いします。
  677. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 三橋君の御答弁が声が小さい関係か、はつきり聞えない場合があるのですが、簡単でけつこうですからはつきりお話を願いたいと思います。  先ほど古屋委員の質問に対してあなたは証言されたと思うのですが、ソ連代表部え行かれてとまられたのはいつでありますか。
  678. 三橋正雄

    ○三橋証人 昭和二十六年の十二月二十三日の夜であります。夜一泊しまして二十四日の夕方五時ごろ大使館を出て自宅帰つたのであります。
  679. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 それから先ほど同じく古屋委員の質問に対して、これは私が聞きとれなかつたのですが、あなたが行つたところが、リヤザノアがほかのところから監視をしておつた、それが十一月の十九日であつたというような答弁をされたように記憶をいたしておりますが、これは速記録を見ればあとでわかるのでありますけれども、あなたはそのときどういうように言われたのですか。もう一度明確にお話を願いたい。
  680. 三橋正雄

    ○三橋証人 もし十一月の十九日と申し上げたとすれば、それは私の間違いで、たしか十二月の十九日であつたように思う。鹿地氏がいなくなつたあとですから、十二月の十九日です。監視に来ていたのはリヤザノフというのであります。
  681. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 それはどこですか。
  682. 三橋正雄

    ○三橋証人 大船の、いつも鹿地氏と会つていた場所です。
  683. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 そうすると十一月の二十五日に鹿地氏が逮捕されている。そのあと十二月の十九日に再度会うようになつたわけなのでありましようか。その逮捕されたあとにおいて、最初の機会として十二月の十九日ということであつたのですか。その前に会つたのですか。
  684. 三橋正雄

    ○三橋証人 その前に会いました。その前に十二月の上旬に一回あるはずでありますが、その日をはつきり記憶していないのでありますが、そのときも私、単独で出かけております。それで約束の指定の場所に行つて、またそのまま黙つて帰つて来ておりますが、その日は全然はつきりとは覚えていないのであります。
  685. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 ほかの点については詳細に覚えておられながら、その日だけはつきりおわかりにならないという理由は、一体どういう理由でありますか。
  686. 三橋正雄

    ○三橋証人 その日はもちろん何らできごとがなかつたわけでありますから、私の印象に残つていないのであります。十二月十九日はそこにリヤザノフがいたというので、またその後米軍側に行けば再び繰返して必ず報告をしておるのでありますから、そういつたことのために印象が深く残つております。
  687. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 その場所は――まず十一月の某日、その次は十二月の十九日というお話ですが、その場所はどこですか。
  688. 三橋正雄

    ○三橋証人 大船の、あれは西口というのでしようか、山の方の出品であります。出口を出まして、それから出たすぐ前にバスが一台とまつておりまして、そのバスのうしろにリヤザノフという男が立つていたのでありますが、私と鹿地さんと会うのはその出口を出まして一つ目の通りを右に曲りますと橋があります。その橋を渡つて向う岸の川に沿つている道路を大船駅の方えもどつて来るわけであります。そうするとまたもう一つ橋があります。それがたしか大和橋だつたと思つておりますが、その二つの橋の間の向う岸の方で会うという約束でした。
  689. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 そうしますと、その大和橋という話が出ましたからその大和橋の話を伺つて参りますが、ここは大和橋であるということをあなた自身が確認されたのはどういう理由でありますか。
  690. 三橋正雄

    ○三橋証人 私はもちろん橋の名前は知らなかつたのでありますが、その後実地検証に行きまして、この橋だと示したところが、そこの柱の名前を見て、ああこれは大和橋というのだなというので覚えただけでありまして、実際は私は、実地検証するまでは橋の名前の記憶はなかつたのであります。
  691. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 しかし公判廷その他におけるあなたの証言によりますと、たしか第二回であつたと思いますが、第二回か三回かのときに会見をしたときに、鹿地氏から大和橋で会いましようと言われた、私はそういうように聞いておるように思いますが、あなたはその点は聞いておらないのですか。
  692. 三橋正雄

    ○三橋証人 それは聞いていないのであります。鹿地さんから大和橋という名前は聞いていないのでありますが、私がその橋の位置を説明をするのに1私はその公判廷のときには名前を知つてつたわけでありますから、駅を出てどつち側の何番目の橋という説明が非常に煩雑になりますから、公判廷では簡単にわかりやすく大和橋ということを申し上げたのでありまして、それ以前警察の取調べのときには全然名前を申し述べていないのであります。
  693. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 しかし鹿地氏から大和橋という話を聞いた場所は、私の記憶をもつて間違いがないとするならば、鵠沼でこれを聞いておるはずであります。そうすると鵠沼で大和橋の名前もわからず、存在場所もわからないで、鹿地氏からそういう大和橋と考えられるようなところを、あなたはどういう形でお聞きになつたのですか。
  694. 三橋正雄

    ○三橋証人 そのとき鹿地氏が口で説明したわけであります。大船駅でおりて山の方に駅を出てもらう、そうするとその駅前の道路を藤沢の方向にずつと歩いて行きますと橋に出る、その橋を渡つてぐるつと山の方にまわつて行くと川口に出るから、川口の道をまた最初つた橋の方向にもどつて来い、それをぐるぐる右側からまわつてもらいたい、私は左からまわるからと鹿地氏はそう言つたのであります。実際私が言つてみましたところ、説明がはなはだ不正確であつたのでありますが、まだ言つたことが私に十分徹底しなかつたのかもしれませんが、堂々めぐりをやつてしまつて会えなかつたのであります。
  695. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 それはいつです。
  696. 三橋正雄

    ○三橋証人 それは九月の二十日であります。そこで、わかれるとき、きようはこんな間違いがあつたから、今後わかるようにといつてこの橋と橋の間で会うことにしましようと、実際の場所でもつて指示を受けたわけであります。ですから名前を知りませんでしたが、道だけははつきり自分の頭には入つたわけであります。
  697. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 それからひとつお伺いをいたしておきますが、あなたはこの本をごらんになつたことがありますか。
  698. 三橋正雄

    ○三橋証人 あります。
  699. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 それではこの本の著者、読売新聞の山本昇君があなたに対して質疑応答をやつているのでございますが、読まれたとするならば当然これについて具体的に、あなたの言われたことと間違いの点がございましたか、どうですか。
  700. 三橋正雄

    ○三橋証人 一言一句のこまかい点まではつきり見ておりませんが、話の筋は、大体大きな間違いはなかつたと思います。
  701. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 この本の中にある鹿地氏への公開状というものは、あなたがお書きになつたのですか、どうですか。
  702. 三橋正雄

    ○三橋証人 それは私の意見を聞いて、記者の山本さんがつくられたものであります。
  703. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 あなたは一問一答のこまかい点については必ずしもわからないというお話ですが、公開状に間関る限りはあなたの名前で出された限り、たといほかの人が書いたものであろうとも、この公開状に対する責任は、当然あなた自身が負わなければならないと思います。従つて、この公開状をほかの人が書いたにしても、公開状に関する限りは少くとも丹念に見られていると思うのでございますが、公開状の内容について、真偽のほどは確かめられたことがありますか、いかがでありますか。
  704. 三橋正雄

    ○三橋証人 公開状の内容につきまして、私としてその当時、ほんとうに真偽をすべて確かめたとはつきり言い切ることはできませんが、私としての考えを申し述べたわけであります。
  705. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 確かめたかというのは、公開状に書いてある事実の信憑性の問題です。これについてうそはなかつたかということを私はお伺いしたのであります。
  706. 三橋正雄

    ○三橋証人 それは一々指摘していただけば申します。ただいま私全部頭に覚えておりませんが……。
  707. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 しかし、あなた自身の責任のある公開状を一々記憶がないという話はおかしいじやないですか。しかも、公開状の内容について、あなたは、事実は間違いがないということでなければならないが、間違いがあるかもしれないけれども、公開状を出したなどという、そういう無責任な公開状をお出しになつたのですか。
  708. 三橋正雄

    ○三橋証人 その点、そこまで責任を問われますと、私として今ここではつきり申し上げ切れません。もうすでに私として今まででき上つて来たことを大体その本にまとめたのでありまして、あと読み返すとしましても、大体目を通した程度であります。その公開状の作文は山本氏がやられたので、私としてそこまで責任を持つて十分翫味したか、全部一言一句やられたかと言われると、はつきり申し上げられないのであります。
  709. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 私はこの本のことを言つておるのでなはい。本の中の一部のあなた自身の署名に基く公開状について、あなた自身は責任を持たないのか、持つのか。
  710. 三橋正雄

    ○三橋証人 責任は持ちます。
  711. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 それではお伺いします。あなたはこの中で、鹿地氏に会つた日にちについては、八回目、七回目、六回目、五回目までははつきり覚えておる、しかし四回目、三回目、二回目、一回目はあまり詳しくは覚えておらない、日時、時間等については、アメリカに提出した書類に基いて自分があとで調べてみてわかつたのだということを言つておられるのです。しかもアメリカのCICには、鹿地氏に会つたあとには、必ず二日後には出頭したというように書いてある。こういう点についてお伺いします。
  712. 三橋正雄

    ○三橋証人 その通りであります。
  713. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 二日後に会つたということは、いつの機会も必ず二日後にお会いになつておるのですか。
  714. 三橋正雄

    ○三橋証人 それはそのときの都合によつて向から日にちを変更されたことはありますが、大体原則的に二日後という建前をとつたわけであります。
  715. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 あなたが二世その他アメリカ人で知つておられる人はだれだれですか。そういう人の名前をお聞かせ願いたいことと、岩崎邸本郷ハウスには、あなたは何度くらいおいでになつておるか、その点をお伺いしたい。
  716. 三橋正雄

    ○三橋証人 岩崎家の本郷ハウスには、非常に期間が長いのでございまして、月に二回ないし十回くらい行つた月もあるのであります。これは鹿地氏とレポを行うために非常に回数が多くなつたわけで、はつきり何回ということは申し上げられませんが、結局向うのCICの取調べを受けてからずつとあそこが解散するまで通つたと思います。
  717. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 ソ連代表部に行かれたあとなんかは、引続いてその足で岩崎邸の方においでになつたのでありますか、どうですか。
  718. 三橋正雄

    ○三橋証人 それはもちろん日をかえて行つたのであります。
  719. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 そうすると先ほどのお話から言うと、最低三回から最高十回まで本郷ハウスの方に通つておいでになつた、その間鹿地君ともお会いになり、ソ連代表部にも行つておられる、そうすると一月の間に会社に出られたことはあまりないような感じがいたすのでありますが、その点はどうですか。
  720. 三橋正雄

    ○三橋証人 その仕事は、会社の仕事がすべて済んだあとで必ず夜に限られておつたのであります。それで会社にはちやんと通つておりました。
  721. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 先ほど御答弁がなかつたのですが、アメリカ人の二世でお会いになつておる方のお名前を伺いたいのです。
  722. 三橋正雄

    ○三橋証人 当時初めのうちは山田と称する二世が私の相手であつたのであります。その後私は平井君と会つたのであります。名前を知つておる者はこの二人で、顔を知つておるのはそのほかにも若干あります。
  723. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 先ほどのお話によると、はがきを受取つたときにそのはがきをCICに持つておいでになつた、こういうことでありましたが、そのはがきを持つておいでになつたのはいつでありますか。はがきを受取つたあと何日目にお持ちになつたのでありますか。
  724. 三橋正雄

    ○三橋証人 二十七日にはがきを受取つて、二十九日に鹿地氏と会つておるのすから、鹿地氏に会つてから向うに行つたのですから三十日だろうと思うのでありますが、何日に向うに提出したかということははつきりいたしません鹿地氏に会つたのが二十九日なら、その翌日だつたですから、三十日にCICに行つておると思います。
  725. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 そういう点があなたどうして正確におわかりにならないのですか。鹿地氏に会つたときの日にちだけはきわめて正確にお話になつておる。はがきを受取つたのは二十七である、そうすれば本来は二日後にCICに持つて行かなければならないとすれば二十九日に行かなければならない、二十九日に行かなければならないのに、その日に鹿地氏に指ケ谷で会わなければならなかつたという事情が起つたならば、その日には行つていないと考えなければならない。するとその翌日か翌々日に行つていなければならなのであるが、そういう事情があつたとしてもCICに行つた日にちが思い出せないというようなことがあるはずはないじやないですか。
  726. 三橋正雄

    ○三橋証人 二十七日に手紙が来たというのは不意に来たわけで予期しなかつたわけであります。普通鹿地氏に会えばこの次はいつ会うという約束をするのでありますから、そのあとにCICに行つたときには、鹿地氏といつ会うから、その二日後のいつにしようという約束をCICでしてしまうのでありますが、この場合には突然速達が来たのでありますから、これはまつたく予期しなかつたわけであります。多分その手紙を受取つた日に私の方から電話か何かでCICに連絡をとつたはずであります。それでその翌日明治神宮外苑に行つたとき鹿地氏が見えない。そうしたらその翌日の二十九日に電話がかかつて来た。そして鹿地氏と会つて、そのあとまたCICに電話をかけて連絡をとつて、それでいつ会うというので三十日に手紙を持つてつたのです。
  727. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 あなたの言われている日にちは非常に正確であるが、それは鹿地氏に会つた日にちだけはきわめて正確なんであつて、そのほかのことに関する限りはきわめて日にちは不正確であります。こういう点について、あなた自身の証言全体に対する信憑性はきわめて疑問であるとわれわれは考えざるを得ません。それが一つ。それからもう一つは、あなたは先ほどだれかの質問の中で、たしかに自由党の田嶋君であつたと思いますが、鹿地氏はあの場所において逃げれば逃げられるような地位にあつたはずであるということをあなた自身が言われたと言つている。あなたはそれまで鹿地氏という人も知らなかつたはずであるし、鹿地氏がどういう場所においてどういうようにして逃げられるはずであつたというような断定を下される根拠は一体どこにあるのか。これを具体的にお話願いたい。
  728. 三橋正雄

    ○三橋証人 それはただCICの私の相手の人の話によつて、それほどひどい監禁を受けてないという印象を受けておる、そういうふうに人に話したので、こういう席で発言するほど責任を持つた発言であるとは申し上げられません。なお鹿地君と会つた日は非常に正確であるということは、警察における取調べにおいて、私の電波法違反の実際の証人としては鹿地氏しかないのだから、鹿地氏の関係の点だけは十分記憶を呼び起してくれと言つてその点は繰返し繰返し非常に慎重にやつたために大体出て来たのでありますが、いよいよ最後にどうしても出て来ない点だけを、米軍の資料ではこういうようになつているがというので、大体私の記憶の日にちと一致していますので、それが正しいということを私は認めたのあります。
  729. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 私はこれで終りますが、米軍の資料によつて日にち等を正確にしたというお話ですが、その米軍の資料をごらんになつたのはどこで、時間はいつであるか、そしてだれに見せられたか。その点を具体的にお答えを願いたい。
  730. 三橋正雄

    ○三橋証人 一番最初米軍の資料はこういうふうになつているのだがと言われたのは八王子警察署において取調べをけ受たとき、七月のたしか十七日ごろで、取調べのとき国警の人から、ゲラ刷か何かを持つて来て、私に直接見せずに、ここにその日にちがこういうふうになつているというようなことを言われたのであります。
  731. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 八王子の署のだれですか。ごく最近のことですよ。
  732. 三橋正雄

    ○三橋証人 そうです。
  733. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 そういうごく最近のことを忘れて前のことはわかつているというのでは……。
  734. 三橋正雄

    ○三橋証人 警察の人は私に対して何十人という人が入れかわり立ちかわり交替々々で取調べをしたので、自己紹介もしないのだから一々人の名前までは覚えておりません
  735. 木下郁

    ○木下委員 この第十四回、十五回とあるのが一つのはがきの表と裏ですが、あなたが速達でもらつたというのはその写真と同じようなはがきでしたか。
  736. 三橋正雄

    ○三橋証人 そうであります。
  737. 木下郁

    ○木下委員 それには光橋というように光という字になつておるが、それを見たときにどう思いましたか。
  738. 三橋正雄

    ○三橋証人 どうしてこういう間違いを起したのかと思いましたので、翌々日の二十九日に鹿地さんに会つたときに、ミツという字が違つておりましたよと言つたところが、名刺を破つてしまいましたのでそういうふうに書いたと言いました。
  739. 木下郁

    ○木下委員 名刺を破つてつてもミツという字はたいては三の字を書く。そのあて名はたいへんこみ入つた会社名前と番地がはつきり書いてある。三橋の三の字を忘れて間違えるくらいならば、そのあて名のこまかい東京の番地とか会社名前なんかはなお忘れそうなものじやないですか。それはどう思いますか。
  740. 三橋正雄

    ○三橋証人 私が申し上げておるのは事実であつて、なぜ鹿地さんが三と光1と間違えたかということは、鹿地さん自身でなければわからないわけで、私が間違えたことではない。
  741. 木下郁

    ○木下委員 それからその後そのはがきをかんじんかなめのときに国警の方で失つたという想像もつかぬばかげたことが起つておるのですが、その話を聞いたときにあなたはどう思いましたか。
  742. 三橋正雄

    ○三橋証人 ずいぶんばかげたことがあるものだ、こんなことがあるかと非常に驚いたわけでありますが、一番大事だと思つてつたものが不注意で紛失されたことはたいへんな失敗をやつたものだと考えておりました。
  743. 小林錡

    小林委員長 これにて鹿地証人及び三橋証人に対する尋問は終了いたしました。証人には長時間にわたつて御苦労さまでした。  この際お諮りいたします。本日証人として出席願いました板垣証人につきましては、本日は時間の関係上その証言を求めることができませんでしたので、明日あらためて証人として本委員会に出頭を願うようとりはからいたいと存じますが、御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  744. 小林錡

    小林委員長 御異議がなければあすの委員会板垣幸三君を証人として出頭を求めることに決定いたします。  明日は午前十時より開会することとし、本日はこれにて散会いたします。     午後三時二十八分散会