○康
参考人 ただいま大体諸先生
たちから御報告がありましたので、簡単に要点につい、て申し述べたいと思います。
今生存者から聞いておりますこれら労務者の性格について申し上げたいと思います。
日本政府では、これら殉難者に対して、
政府との間の契約による労務者という表現をされております。しかし、
中国政府及びわれわれが生残りの
人たちから聞いたところによりますると、契約上ならば、本人の希望あるいは募集によ
つてなされたものであろうと考えられるのでありまするけれ
ども、これらの
人たちは、
日本政府軍による当時の捕虜であり、また一部は強制的にひつぱ
つて来られた住民であることが明らかにな
つているのであります。
それから、
東京華僑総会が
日本政府に対してこれらの
遺骨の
送還をお願いしましたのは本年の一月初旬でありまして、当時
外務省と折衝の結果、陳副
会長に対しまする
外務省の回答が、
日本政府としては
送還については問題はないだろうということであります。しかし、これは人民
政府の承諾がなければならぬ問題であるからという
お話がありましたので、
東京華僑総会はさつそく中華人民
政府僑務
委員会に対して電報で照会しましたところ、三月十九日に、
花岡の犠牲者に対しては重大なる関心を持
つており、そうしてこれらの
遺骨がもしも
日本人の皆さん及び
華僑の努力によ
つて送還していただけるならば、まことに感激するものであるから、これについてはすでに三
団体の
代表、すなわち日僑の
帰国について
北京においでになりました三
団体の
代表と
打合せをした
通りであるから、日僑を乗せるためわが国に来る、すなわち
中国に行かれまする船舶を使
つて送還してよろしいこと、
遺骨を
送還する船舶が出港する前に、あらかじめ電報で到着の日時あるいは数について知らせてもらいたい、かかるときに自国の人民は荘厳なる儀式をも
つてこれを安置するであろうという返電を得たのであります。
それから、今の
中国に帰られまする
華僑の
帰国者の
遺骨に対する考えであります。御
承知の
ように、新
中国は、人民大衆に対して権利を与えるかわりに、人民また社会的の責務を負わなければならぬという
状態にありまする
関係上、彼らが帰る前に、もうすでに、日僑の
帰国について
乗船代表が
中国へ行かれまするたびごとに
遺骨を持
つて来ていただいたかどうかという
質問を受けていることを、耳にしているのであります。その
関係上、同じ
中国人であり、同じ
ように
日本に滞在しているために、自分
たちだけ帰ればいいというわけには行かないし、必ず自分
たちが
帰国したあかつきにおいては、
遺骨の問題について聞かれるであろうという考えを持
つておるのであります。その場合、
遺骨がどうな
つておるかわからない、あるいは
遺骨がいつ帰るかわからないということになりますと、おそらくはその責を問われるであろうという考えを持
つているのであります。そのために、彼らは、少くとも自分
たちが帰るときには、その
遺骨も同じ船に乗せていただきたいという考えを持
つてお
つたのであります。
それからさらに、この
遺骨の
送還について、
日本政府として最も困難を生じているという
理由は、
国民政府の強い
反対があるということで、それを
新聞あるいはいろいろな
人たちから耳にしておりますが、この
遺骨の収集、さらに慰霊祭等についても、特に
東京華僑総会、また
中国政府においても、
日本人の皆さんに感謝しており、
東京においてすでに一九五〇年から毎年慰霊祭を執行していただいておるのでありますが、特に強く
反対されましたのは、一九五一年における慰霊祭の執行であります。このとき、総評を初め
日本の民主
団体あるいは労組その他の
団体によ
つて慰霊祭の執行をしていただいたのでありまするが、当時の駐日
代表団は、この慰霊祭の執行さえも強く
反対されたのであります。その
反対された
理由は、これらの犠牲者は中共軍であるからということであります。しかし、この
遺骨の調査によりますと、ごくわずかではありますが、一部国府軍の捕虜も含まれているのであります。それについて、われわれが
代表団数次交渉をした結果、
代表団もやむを得ずして、慰霊祭の執行を妨害しなくな
つたのであります。従
つて、五一年以来慰霊祭を毎年執行されておりますけれ
ども、もちろん
代表団からは何ら焼香も得ていないし、またお供物もいただいた
ようなことのない
状態で、いまさら
国民政府がこれらの
遺骨の
送還について関心を有すること自体が、われわれにも
納得のできない
ようなものであります。
それから、本月十九日、
帰国華僑が
東京駅を出発するにあた
つての紛争であります。私は、当日、最終列車の十時三十分で先に出発しまして、京都で落ち合
つて舞鶴へ一緒に参りましたので、この駅における紛争の模様は直接見てはおりませんが、翌二十日の朝京都
新聞によ
つて紛争のあ
つたことを知り、乗車してから実情調査したところ、ただいま
大谷先生からも
お話がありましたが、二等車の連結云々について、これは誤解があ
つてもいけませんので、特にこの点に触れたいと思うことは、確かにこの問題については、東
舞鶴駅における紛争のときにおいても、交渉の係であります陳副
会長と
援護局の方との話もあ
つたのでありますが、
帰国華僑の
送還については、
日本政府が
日赤に委託し、
日赤が
東京華僑総会に委託するという
ような方針でなされたのであります。その通知は、御
承知の
ように本月の十四日に
北京から日僑
帰国の
配船についての電報がありまして、
東京華僑総会が
日赤から通知を受けたのは月曜日の十五日であります。そうして十九日
東京駅出発ということでありますが、御
承知の
ように、全国から集ま
つて来る
帰国者でありますので、非常に無理はあ
つたのでありますけれ
ども、もともと
東京華僑総会は、この
華僑の
帰国について円滑に努力したいという考えであ
つたので、ただちに電報あるいは速達をも
つてそれぞれに通知をしたのであります。また
帰国華僑においても、これに全面的に
協力したいという
意思があるがために、通知を受けてわずか二、三日あるいは一日のみの余裕しかないのにかかわらず、極力準備をして、十九日に間に合うべく努力なされて参
つておるのであります。そうして、
日赤からのこの汽車に関する通知は、特別急行列車に四両を連結するということであります。十八日に至
つて、ある
帰国者から、
東京華僑総会へ、特別急行列車ということでありまするけれ
ども、
東京駅に照会したところが、貨物車だということを回答されたのだが、どういうものかということであ
つたので、陳副
会長は、ただちに
日赤に
貨物列車であ
つては困ると思うから、何とかその点は心配してもらいたいというお願いをしたのでありますけれ
ども、何しろ時間が切迫してお
つたので、そのままにな
つて当日が参
つたのであります。そこで、いよいよ乗車になりましたところが、四両の連結で三百五十名の乗車をするのであります。計算上から行きますと、あるいはあの汽車の定席に相当する人員であるかもしれませんけれ
ども、ここでお考え願いたいことは、乗車するときに至
つて、はしかの患者が二名も出たのであります。このうち一名は、八人家族で
帰国なさるのであります。
日赤は当時救急車で運んで
東京駅に参
つたのであります。そこで、どうもぐあい悪そうだから、第二次船に延期をしてもらえないかというお医者さんの
意見でありましたけれ
ども、その家族は八人でありまして、しかも
帰国するにあた
つて、自分の住んでいた家屋を家主にお返しして、そうして乗ろうと思
つて来た。これはバラツクの建物であ
つたために、もうすでにこわされておる。家に帰ることもできない。だれに聞いても、八人家族で、世話することができないために、相談した結果が、ある程度隔離して乗車する
ようなことにな
つたそうであります。かかる
状態であ
つたために、小さい赤ん坊とか、小さい子供をたくさんかかえ、とうていそうい
つたような定席だけの列車では乗り切れません。しかも北多摩郡の悦来荘というところにおりまする約百名の
帰国者が、遠方なるがために、おそく参りまして、来てみたところが、みんなに腰かけられまして、すわるところもないということが問題の発端となりまして、これでは困るじやないか、乗るところがないじやないかということを
お話しているところへ、
中国からお
帰りにな
つた日本人の方がそれを聞いて、われわれが
中国から帰るときは
官民から非常に好意ある歓送を受けたのに対して、
日本政府の今度のこの輸送
状態はあまりにも礼に失する、これではいけないというので、われわれはすわり込んでもとにかく帰してやるというので、その
日本人たちがすわり込んだのであ
つて、
華僑は一人もすわり込んでいないという実情で、私、き
よう東
舞鶴から帰るときにも、当時見送りに行
つた華僑が、何か朝日
新聞に出ていた在留
華僑と
帰国された日僑がすわり込んだという記事に対して不平を
言つておる
ような次第であります。そして、日僑がそこで交渉した結果連結されたのでありますが、私の聞いた範囲内においては、二等車を連結してくれという
要求ではなくて、結局は車庫に問い合せたところが、残
つた箱がそれだけだ
つたので、つまり三等車が
不足のために二等車を持
つて来たのであるというふうに報告を受けております。
それから、乗車の前に歓送会がなされたのでありますが、この
遺骨については、
新聞で御
承知と思いますが、
帰国者大会のときに、
遺骨も自分
たちの乗る船で一緒に
送還するのでなければ
乗船することはできないであろうという決議をし
ようとしたのでありますけれ
ども、
東京華僑総会としては、そういう決議をすることによ
つて日本人の皆さんに誤解があ
つてもならぬから、決議をするなというので、せつかく
帰国者大会で作成されました決議文を、決議させないでおいたのであります。その後実は何らの報告も受ける時間的余裕もなか
つたので、先ほど
大谷先生から、
東京華僑総会は、
大谷先生と
日本政府間における約束と申しますか、それについては同意するという
お話があ
つたのでありますけれ
ども、時間的に余裕もなか
つたので、遂に
帰国者
たちに報告し、了解を受けることができなか
つたために、
東京での歓送会において
帰国者から
質問があ
つたのでありますが、慰霊実行
委員会の方からの報告もあ
つたのでありますけれ
ども、何分にも乗車時間が迫
つたので、これを十分なすことができず、結局
舞鶴で報告を具体的に聞かして、その上で
帰国者の態度を決定するということで、慰霊実行
委員会の
代表の方が一緒に乗車されたということを聞いております。これが
東京駅における紛争
状態であります。
さらに、東
舞鶴駅における紛争
状態であります。私が京都で一緒に乗
つてから、何ら問題は生じておりません。そうして東
舞鶴駅に、六時一分と記憶しておりますが、到着をしまして、
帰国者とともにわれわれが降車しかか
つたところ、関西組――これは、一応計画としては、京都で落ち合
つて一緒に
舞鶴に参ることにな
つてお
つたのでありますけれ
ども、関東方面が遅れたために、関西
関係が先に行かれて、援護寮に入られたのであります。それで、関東組が降車しかか
つたときに、関西組がかけつけて参りまして、降車は待
つてくれ、もう監獄より待遇はひどいから、とにかく待
つてくれということを言われたので、一旦降車しかけた者も、さらにまた入
つたのであります。そうして、その報告は――そのとき見送人が関西の方からたしか十六名か十八名一緒に参
つたのであります。この
帰国者の
状態を申し上げたいと思いますが、今度の
帰国者のうち単身
帰国される方で二十以下の者が相当数ありまして、最年少者が九つになる子供であります。そこで、そうい
つたような単身で
帰国されます方について親
たちが見送
つて参
つたのであります。ところが、関西組が
援護局の寮に入
つたのでありますけれ
ども、これらの見送人の親
たちあるいは兄弟は旅館へとま
つてもらいたいという
援護局の
お話だ
つたのであります。しかし、当日は雨が降
つておりまするし、御
承知でし
ようと思いまするが、駅から
援護局のバスで往服して四、五十分かかるところであります。その他の便も全然ないのです。私
たちも、向うにおりまして、かけず
つてまわるについて、タクシーを拾おうと思
つても、タクシーは全然ないという
ような
状況でありますが、雨の中を歩くわけには行かない。そうして六時一分に着いて、そこでごたごたしておるうちに、雨がどしや降りとなりまして、非常に困
つておりまして、われわれが、とにかく見送人の親族のために何とか心配をしてもらいたいとお願いしましたところが、全然ならぬ、とにかく旅館でとま
つてもらいたい……。それで、
東京華僑総会としては、
帰国者の世話人として世話
委員会がつくられておりまして、
東京からは約三十名、関西の方から約二十名一緒に参
つたのでありますが、事前に、森寮という所がありまして、その森寮にこれらの
人たちをとめるという
お話があ
つたので、それでは、これらの世話人と一緒に森寮にとめさしてもらえないかと交渉したところが、そこは絶対にとめるわけに行かぬ、
日本人でさえもとめたことがないのであるから、とめることはできぬということであ
つたのであります。これは
援護局の次長さんと業務部長さんの主張がそれであ
つたのであります。ところが、その交渉の席上、この話をしておるときに、そばで聞いておりました
舞鶴のある
日本人から、それはうそだ、森寮というのは
日本人の
帰国者をお迎えする留守家族のとまる寮であるのだ、一切そこに
日本人はとめないということはうそかということを聞かされたので、ますます
帰国者が憤慨されまして、それでは差別待遇ではないかという話をしておるときに、さらに関西組から、これぐらいのアルミニウムのおわんに盛
つたおかずを持
つて来られたのであります。そこで
帰国者がそれを見て、これだけではとても話にならぬじやないか、量が少な過ぎて、そうして全然われわれの口に合わない
ようなものでは困りますということで、かけ合
つていたところへ、次長の話では、確かに角がついているはずだということであ
つたのでありまするけれ
ども、調査した結果、結局は魚は一切れもついていない事実を知り、そこで交渉しておるうちに夜の三時になりまして、雨がどしや降りとなり、御飯は食べることもできないし、買いに行こうと思
つても、ほとんどかさを持
つていないし、また
舞鶴市は初めてであるがために、どこで売
つているかもよくわからない。ところで、
ようやつとある
新聞社が、みじめな
状態に同情してくれまして、自動車を陳副
会長に貸してくださいまして、その
新聞社の自動車で、とにかくパンでもうどんでも握り飯でも、何でもいいから、ありとあらゆるものを集めなければ、三百五十人分の食事はとうてい得られないということで、その
新聞社の車でかけず
つてまわ
つた結果、
ようやつと、たしか二時半か三時ごろにな
つて、第一回の握り飯が来まして、全員の食事が済んだのが、到着した翌朝の午前九時ごろであ
つたのでございます。ところが、汽車の中がむし暑いので、最初の約一時間に八名の病人が出まして、そうして親
たちが疲れている
関係もあ
つたと思いまするが、お乳の出ない者が出まして、赤ん坊が乳を吸
つたところが、乳が出ないものですから、その乳首をかじ
つて、しまいには親も子供も泣き出し、まるで修羅場の
ような大騒ぎになり、もう一人の、これはおとなしい男であ
つたのでありますけれ
ども、とてもこの
状態ではたいへんだというので、やけ酒を飲んであばれ出しました。駅のありとあらゆる食べものは売り尽してしまうという
ような非常な混乱を来しまして、遂に
日赤の方も心配してくれまして、午前の三時に
援護局の次長と業務部長が参りました。それは本庁に照会した結果の指示だという回答であります。もつとも、その前の交渉においても、本庁からの指示がありますから絶対に曲げることはできない、すなわち、さきに申し上げました
ような条件以外にはもう絶対に譲ることはできないということでありましたので、三時の会見は三時十分に終
つたのでありますが、やはり本庁の指示がある。すなわち、夜中であ
つても、見送り人等についても、また、さつき申し上げました
ように、
帰国者に対して
遺骨問題を報告すべく慰霊実行
委員会から
代表が三名一緒に参
つたのでありますが、これらの
人たちについても、一緒に寮に入れるわけに行かないということが、中央の指示なりとして報告されたのであります。しかし、それでは困る。
日赤のそのときの希望にも、もうとにかく夜中でありますから、一応今晩はこのまま森寮に収容して、そうして翌朝
解決することにし
ようじやないかということまで強調されたのでありますけれ
ども、
援護局の方は、もう絶対ならぬということで、遂に、それではもう一ぺん照会してもらいたいということで、大体の時間を聞いたところが、三十分以内にはできるという話であ
つたので、三時四十分に再会見をしたのであります。そのとき、再照会をしましたところが、絶対に相ならぬということであ
つたので、関東、関西世話
委員会の全
委員たちは、とうていこれではわれわれはこの
帰国者の収容はできないことであるし、また世話をする自信がないから、それでは世話
委員としてもう辞退するというので、出張して来ておられました関西組も、もらわれた
援護局の入門腕章を
援護局の次長にお返しをして、そうして関東組に同調しまして、もうとうていこれでは世話
委員会の
委員たちは世話をするところの自信がないということで、辞退したのであります。そうしますると、結局はあの
舞鶴駅における下車のできない
状態がそのままとなり、また世話
委員会が世話
委員の辞退によ
つて解散をするということになると、とうていこの問題は円滑に運ぶことは不可能であろうというふうに私は考えたのであります。実は、あるいは
新聞等によ
つてお知りにな
つたことかと思いまするけれ
ども、この交渉段階においては、
東京華僑総会としては、あくまでも、多少の悪条件があ
つても譲歩して
解決せんとして、世話
委員代表とともに
援護局の方と昼のうちに交渉したのでありまするけれ
ども、
帰国者
たちの考えでは、どうも
東京華僑総会は譲歩をしたがるからだめだという話もありまして、そうして、交渉するときには必ず
帰国者の
代表を入れてもらわなければならぬという
要求をされたのでありまするから、本来ならば私は単独で
援護局とさらに交渉することはできない
状態であ
つたのでありまするけれ
ども、収拾しなければならない
責任を痛感したので、四時
ちよつと過ぎに
援護局へ参りまして、次長に面会を申し入れて、再交渉を私が単独でひそかにや
つたのであります。そうして、
援護局の多少譲歩されました案を
帰国者
たちに提示し、また私が
援護局へひそかに行くときに、陳副
会長に話をして、
帰国者の説得を頼んで参
つたので、帰
つた後には割合に静かにな
つたのであります。その案というのは、それまではどつちかというと命令的な、また非常にかた苦しいところがあ
つて、結局問題の起りは、自由に
帰国できる彼らではないという
援護局の見方が紛争の
原因だというふうに考えられておりましたので、彼らがさらに案をつくりましたが、要するに私が提示した案に基いてつくられた。すなわち、彼らは強制
送還されるものでなくして、自由に
帰国するのであるから、そういう精神にのつと
つて援護局で扱
つてもらいたいということで、そういう字句にかえられまして回答を得たのであります。すなわち
援護局の方が全面的にその
要求をのんだわけであります。何分にも、輸送中においては
帰国者が自弁で当然食事をしなければならぬのでありまするから、
東京華僑総会としてはそのつもりで参
つたのでありまするけれ
ども、弁当がないというので、結局は三百五十人分の弁当を注文しまして、翌朝と昼、弁当を注文したところが、金がない者が過半数ありまして、ほんの一部の弁当代だけしかもらえなか
つたために、遂に費用が欠乏した
ような
状態に相な
つたのであります。
援護局として、世話
委員会の
委員も、森寮にとめるけれ
ども、食費は自分持ちだということであ
つたのでありまして、世話
委員のほとんどが、それぞれ事業を持
つている者で、その
人たちが犠牲的に世話をするという条件で行かれたのでありまするけれ
ども、弁当代まで自弁ということになると、とうていそれだけの金も持
つて来ていないし、
東京華僑総会もそれだけの準備金は持
つて行
つていなか
つた。それで、
援護局としては、いずれにしても
東京華僑総会、要するに世話
委員の世話がなくても、自分
たちによ
つて帰国業務の手続ができるという考えであ
つたので、われわれは
帰国者
たちを
援護局に送り込んで、みなそれぞれ帰ることに決定したのであります。それがきのうまでの事態であ
つて、昨晩私
東京へ帰
つて参
つたので、その後の模様は、まだ報告を受けていないからわかりません。