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大山郁夫君 私は私
自身の
経験を言うつもりでも何でもなか
つたので、
鹿地君の場合とはかなりケースが違うので、そういう用意もして来ておりませんでした。それでデータとか或いは細かい点において多少間違いがないとも限らないけれども、併しながら大体大筋は間違いないところを
言つて御参考に供したいと思います。私
自身いつも
考えるのは、私
自身が
鹿地君と同じような目に会わなか
つたのは、もう
日本へ帰るときから私は決して単独で
行動しなか
つた。というのは、なぜかと言えば、私は
日本で
帝国主義戦争に
反対だとい
つてずつと以前
労農党で活躍してお
つたし、
アメリカに
行つてもその態度はずつと変えなか
つたし、ですから太平洋
戦争が始ま
つてから唯一の……、
敵国外人の一人として、而も
政府に何を言われても少しも命令を聞かなか
つた。そうして
日本で
帝国主義戦争に
反対してお
つたのだから
アメリカでもやはり同じ
反対でした。又
日本でそう悪いなら
アメリカにしても同じなのだから、だからかなり自分の身辺に相当にそういう点で非常に多くの不便を持
つてお
つたわけで、それで又逆な場合は向うのいわゆる独占資本の誘惑の手も相当に来たけれどもそれを皆払
つてしま
つた。そういう関係で
日本に帰
つて相当にえらい
経験を持つだろうと覚悟はしてお
つたのであります。そうして、だが、併し
日本でやはり
日本の植民地化に対して戦わなくちやならないという
気持があ
つたので……、私はでも手術を受けて帰ることができなか
つたのだけれども、早く帰
つて、帰るときが来たのだから帰
つて昔の闘争を続けたい、そういうようようなこともあ
つたし、又それ以上に丁度船がマリン・スワロー号で、一九四七年十月十日にサンフランシスコを出て
日本に十月二十三日に着いたかと思いますが、船が着く前にたしか読売
新聞だ
つたが、
日本国民に告げる言葉を
言つてくれと言いましたから私は何か書きました。
あとで自分は何がしかの反動
政府と闘
つておる
気持を余りはつきり言い過ぎたら横浜に上陸できないで突つ返される危険があると思
つたから、そういうことがあ
つたから当然警戒しなければならない。
新聞記者諸君にやはりその
気持はうんと伝えたので相当に警戒しなければならないし、あのときは家族の者と歩くか秘書を連れて歩くか、もうずつと変らんのであ
つたのでありますが、一遍だけ一人だで歩けいたときに
事件が起
つたのであります。丁度秘書もいなか
つたので……、それから戸塚署のほうから
アメリカの憲兵本部へちよつと来てくれというから、何か私に聞きたいことでもあるのかと思
つて、おまけに真昼間だ
つたから、大抵は警戒を怠らなか
つたのですが、警戒を怠
つたので、すぐ車に乗
つて……、その目比谷の憲兵本部というのでありますか、看板にはプロヴオースト・コートと書いてありました、私はそこにおる人の服装で少尉か中尉か大尉かわからなか
つたけれども、そのときは名前を覚えておりましたが、今は名前を忘れたが、その大尉がユー・アー・アンダー・アレストと言
つた。私は非常に抗議した。一体何だと言
つたら、あなたは総司令部が吉田
政府と議してこれこれのことをしておる……、そういうふうな馬鹿なことを言いやしないと私は心にそう思
つていても、そんなことはない、ここに証拠がある。何かというと丁度その前に、私は一九四九年の十月の末だと思います。データは間違
つておかも知れないが一九四九年十月の末、その少し前に、同じ月の少し前に中国研究所の講演会に
行つて私は講演をしたときに、このときにポツダム宣言を見て、ポツダム宣言のたしか十二項かそこらに
外国軍の撤退の條項があるので、つまりポツダム宣言にいろいろなことを、軍国主義をやつけてしまうとか或いは
日本の非軍事化をするとか又
日本を民主化するとか、それから
日本の産業の存在を許すとか或いは原料の入手を許すとか或いは
外国貿易、国際貿易への参加を許すとか、いろいろなことが書いてあ
つて、最後に、以上の
目的が完成されたならば
占領軍が撤退するとあるから、その
占領軍の撤退ということに対して、我々は勿論
外国の兵隊が
日本にいて
日本の
独立なんというようなことはあり得るなんて
考えてないから、少し先廻りだ
つたけれども、まあ
外国軍の撤退というようなこういう基礎があ
つてできるのだし、そのためにも又
日本の民主化が必要だ、そういう趣旨の私は演説をしたのを覚えておりますが、ちよつとその演説の筆記だというのを見せられましたが、とんでもない筆記なんです。一体
警視庁の一人の巡査がや
つたという、それを連れて来いと要求した。そうしたならばこつちの面子も立ててみせる。その人は困
つてしま
つておりましたが、ともかく身柄を
警視庁に引渡すとい
つて、それから私
自身もそういうような大尉くらいのものを相手にしたところで埓があかないから、
警察庁のほうに
行つて警視庁の誰かを連行して、そうして
警視庁の渉外課に行
つたわけでありますが、それで私
自身の所在がわからんというようなことを非常に心配させたらいけないから、最初の機会に電話を借りるということにして、そうして家族との
連絡をと
つたり又私の知
つておる幾人かの弁護士とも
連絡をと
つたので、それで外部との
連絡がやつとついたわけなんだ
つたのであります。そうしてやはりあそこの監房に入れられて抑留されて、そうして丁度健康を害しておるので、非常に家からいろいろな毛布とか何とか取寄せて、それで老体を保護するつもりだ
つたけれども、
警視庁のほうは許さない。向うの備付品でなければいけない、どういうわけだ
つたか……。けれども
警視庁の私に対する待遇はそう悪くなか
つたので、良くもなか
つたけれども、何も叱言を言うことも何もなか
つたのですけれども、併し私は非常に重大な問題だと思
つて、明くる日渉外課の真ん中に
日本の弁護士四人ほど来てもらいまして、これは軍事裁判にかけるという肚らしいが、軍事裁判ならばトルーマン大統領が
アメリカの憲法のコマングー、チーフだから放
つて置けないだろうと
言つて、多分そこに持
つて行ける方法があるだろうと思
つて、私が協議をしてお
つた。逮捕されたときに……。それからそれともう
一つは、戸塚の
警察署員が来た、
警察が
協力したのか、それとも総司令部の命令でよんどころなくしたのか、非常にわからなか
つたから……、よんどころないとしても
日本人に対してくだらない、殆んど問題ないことをしておるのだから、
常識で
考えて……、私が総司令部を何か危険に導くなんということをする気遣いはないし、過去においてそういう
経歴はないし、過表の
経歴が合法党でかなり
政府の
反対もして来て、軍部に対しても生死を賭して闘
つたけれども、四つに組んで正攻法で闘
つて来たので、
気持からい
つても
警視庁が私以上に私のことを知
つておると思うのですが、なぜその前に抗議もしなか
つたかということが非常に疑問にな
つていたわけでありますが、それは全然別問題として、ともかく私は飽くまで闘うつもりでいたところ、丁度初めて引つ張
つて行かれたその翌日の午後の夕方に近い頃、出ていいということになりました。併し同時に又弁護士もいろいろな
事情を聞いてもらいに行
つたのでありますが、向うのほうの言うことには、何か人に対して
一つの疑いというか、つまり
占領政策違反の罰に問われるような行為をしたということの疑いなんであろうと思う。その疑いがあ
つたので、その疑いが晴れたわけじやないけれども、あの人はともかく世間に信用がある人だということを聞いたから、それを斟酌して出てもらうのだと言うて、この答弁はどうも私は腑に落ちない。そんな馬鹿な、
常識で
考えられない
考え方というのはないのだから、多分謹慎しておれということだろうというふうに聞いたのだが、私は、
アメリカは謹慎なんかしたら余計馬鹿にしてしまうという
考えがあ
つたものだから、何とかこれは正しい
立場に立
つておるものは何も恐れないことを示さなくちやならぬと思
つてお
つた。丁度それから四、五日た
つてから日比谷で国際平和デーというのがあ
つて、大衆や労働者、勤労大衆がうんと集ま
つた。そこへそういうときは必ずMPが取巻きに来ておるので、私はそこで医者も又とめたのだけれども聞かないで、そこへ
行つて、まあそのときには殆んどもう自分としてはそれまでにない大気焔を上げて来たので、それまでにもたびたび、まあたびたびでもないが、数度面倒くさい
経験を持
つてお
つて、一番初め、話が又昔に帰りますが、上陸して間もなく日比谷の
国民大会の歓迎会に臨んで演説した。それが多分元にな
つたのだと思うのでありますが、間もなく放送をしようとしたら、何を放送するか書いて見せろというから、私の言おうと思
つていることを書いて出したら、これだけのものを削つちまえ、丁度放送する当日です。そうしたら、削
つたら
意味をなさなくなるからここのところを削らないで入れろと言
つたらば、検閲する人がそれを、私にはパスしていいか、パスしていけないかということを判断する権限がないのだというので、そんなことをしてそれだけ抜いて演説したら
意味は通じやしない、だから放送しないと
言つて帰
つたら、今度は向うのほうから放送してくれということにな
つて、ただ言葉だけ変えてくれということなんで、それじや趣旨は変えないから言葉だけ変えるというので、やりました。それからその後又いろいろ
各地で演説しましたが、演説するといろいろそれに対してかなりいやがらせを向うからや
つて来たのです。例えばいつか一番初め何か東武鉄道の労働者の何かの会で私は演説をしました。その中で原爆の話をして、米国の残虐性の話をしてお
つたのだが、それが気に障
つたとみえて、向うのやはり憲兵が幾らか人を連れてや
つて来て、あなたは原爆の話をしたそうだが、何のことを言
つたか知らせてくれと言うから、それで私は大体極く簡単に害いてや
つたら、私が旅行しておるうちにや
つて来て、これじやいけない、もつと詳しく書けと言うので、私がいない、留守だというのにその日それをやれということを
言つて、家内が非常に抗議したので、できないことはできないと言
つたので、それならば帰
つたらば明くる日か明後日か行くというので私はもう詳しく自分の演説した
通りに演説を嘘を
一つでも混ぜると却
つて余計面倒くさいというので、正しいことをするものは恐れないという
考えで嘘
一つ入れないで
言つてや
つたらば、そういうことはなくな
つたけれども、だけどもやはり演説のほうでいやがらせは相当にあ
つた。それからもう
一つは、それよりも私にと
つて非常に精神的な圧迫を加えたのはあの検閲制度で、プレス・コードによ
つたのか何か知らないけれども、もうそれは殆どそのときの書いたものが削られて
意味をなさない馬鹿なものにな
つてしまう。一番ひどい例は丁度これは一九四八年一月号の中央公論に載せる座談会、私の相手は野坂參三君と長谷川如是閑、この三人で座談会をや
つたのですが、そうしてその当時の時事問題に関していろんな意見を言
つたのだが、大抵こちらの意見を雑誌に出すのだから相当警戒をしながら言
つたのだけれども、削除をしちや
つてわからない。印刷しておりまして十頁或いはそれ以上の長いものが二、三枚にな
つてしま
つて、そうな
つたら全く馬鹿が馬鹿な話をしておるような調子に雑誌に出てしまうというようなことにな
つて、これは一番ひどい例でありましたが、これは併しそれに似よ
つたことはもうずつと毎月あ
つたわけなんで、最後に私の逮捕の問題にな
つたわけで、私はそれで自分は総司令部がきらいなことを知
つているのだから、それに対して苦情は言わないけれども、だけどもそういうことは他に幾つも例があり得る。それから私の場合はともかく私は外部との
連絡を早くと
つてしま
つたから、だから、ずつと前にそういう
経験を幾つも持
つているので、昔の
アメリカの
経験、
日本の
経験、個々の
経験に鑑みてそれをやりましたから、自分が絶えず外部と
連絡をと
つたからあれ以上にならなか
つたのだというふうに
考えておりますが、そんなことは非常にあり得る。それからもう
一つは軍事裁判のこと、それから……、ともかく併しあり得ると思
つたからこれは何とかしなくちやいけない。
従つて当時私がなし得るのはさつき言
つた演説会に
行つてうんと自分の
立場を主張して来たこと、もう
一つは中央公論に丁度私は小さい原稿をや
つたのでいろんなことを書いた最後に、一体
占領政策違反と
言つておるが、あのポツダム宣言の精神を離れて
占領政策があり得るか、私はあのときの
事情をすつかり知
つておるが、そんなことがあるはずがないのに、事実それがあるのだから、そういうような非理があるのだから、それ以上どんな非理があり得るかも知れないということで、ほかにもそういう例があり得ると自分は
考えた。そうして私の場合はそういうので、それからあのときに
警視庁のほうでもやはりじつと見ておいでにな
つたのだから、あのときに当局はどういう
考えを持
つておられたかということは私のほうから伺いたい。
まあ私の言うことは大体これで尽きると思うのです。
〔
委員長退席、理事
伊達源一郎君
委員長席に着く〕