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1953-02-17 第15回国会 衆議院 内閣委員会公聴会 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十八年二月十七日(火曜日)     午前十時十五分開議  出席委員    委員長 船田  中君    理事 富田 健治君 理事 熊谷 憲一君    理事 大矢 省三君 理事 武藤運十郎君       岡田 忠彦君    砂田 重政君       田中 萬逸君    森 幸太郎君       北村徳太郎君    笹森 順造君       粟山  博君    吉田 賢一君       井手 以誠君    原   彪君  出席政府委員         総理府事務官         (賞勲部長)  村田八千穂君  出席公述人         日本放送協会会         長       古垣 鉄郎君         東京大学教授  宮沢 俊義君         日本商工会議所         会頭      藤山愛一郎君         読売新聞論説委         員       伊佐 秀雄君                武者小路公共君         日本労働組合総         評議会組織部長 石黒  清君         毎日新聞論説委         員       住本 利男君         日本学術会議会         長       亀山 直人君         関西経済団体連         合会会長    関  桂三君         日本農民組合中         央執行委員   伊藤  実君  委員外出席者         専  門  員 龜卦川 浩君         専  門  員 小關 紹夫君     ————————————— 本日の公聴会意見を聞いた事件  栄典法案について     —————————————
  2. 船田中

    船田委員長 これより栄典法案につきまして、内閣委員会公聴会を開会いたします。  開会にあたりまして、委員長より一言ごあいさつを申し上げます。御承知のごとく、今回栄典法案が提案されまして、当委員会において審議中でありますが、わが国独立にあたりまして、新しい栄典制度がいかにあるべきかは広く国民方面の御意見を承つて定めるべき事柄と存じ、今回公聴会を開くことといたした次第であります。公述人方々には、御多忙中わざわざ御出席をいただきまして、厚く感謝いたします。どうぞ十分に御意見をお述べいただきまして、栄典法案審議に資したいと存じております。ただ時間の制約もございまするので、公述人の各位におかれましては、二十分以内でお述べをいただきたいと存じます。  本日午前中に公述されまする方々は、日本放送協会会長垣鉄郎君、東京大学教授宮沢俊義君、日本商工会議所会頭藤山愛一郎君、読売新聞論説委員伊佐秀雄君の諸君でございます。  それではまず日本放送協会会長垣鉄郎君に御意見をお述べいただきたいと存じます。
  3. 古垣鉄郎

    ○古垣公述人 最初結論から申し上げます。勲章を含めましてここに問題となつております栄典制度は、人間の本能や習性等に照しまして、必要と認めるものでございます。しかしここに必要と申し上げますのは、それは避けられないから必要であるというほどの意味でございまして、この制度はその内容運用上よほど注意しないと、かえつて悪い結果を来すと思うものでございます。  以上結論最初に申し上げましたので、次に総括的な意見を申し述べ、さらに最後に十項目ばかりにわたりまして細目の点について意見を述べさせていただきたいと思います。  栄典制度につきまして私が思い出しますのは、有名なロシヤの生理学者パブロフの犬について行いました条件反射実験でございます。すなわち犬に肉とベルの音を何回も同時に与えますと、遂には肉を見せないでもベルだけ聞かせましても、犬はよだれを出すという実験であります。これはパブロフの犬として有名な話でございますが、このような現象は犬だけに限つたことではなく、よく熱心に仕事をしております最中に、正午のサイレンの音を聞いて空腹を覚えるというようなことは、われわれが常日ごろ実験するところでございます。さらにかような現象は単に肉体的な方面に限らず、われわれの精神的な方面でも見られるところであります。そしてこれがわれわれの日常生活におきまして行動の面に現われる、究極におきま要してわれわれの性格や品性までもつくり上げるのであります。たとえばここによい行いをすると、必ず勲章を与えるというようにしておきますと、やがて勲章を与えなくともよい行いをする者がだんだんふえ参ります。それらの人がふえて行つて社会全般がよい行いを自然になすようになり、そうしてそのよい行いをなすことによつて人間品性を高め、やがて社会全体が向上して行くという現象が起るのであります。しかしまた反対に感心できない人に、あるいはまた感心できない行為に対しまして、誤つて勲章賞与を与えるというようなことがたび重なつて繰返されますと、人間はみな虚栄心を持つておりますから、勲章賞与がほしさに虚偽の行為をなし、ときには金銭や利権をもつて勲章栄典を買うというような人間がふえて参るのであります。こうなりますと、栄典制度はかえつて有害無益となり、世の中を暗くし、人間品性を悪くするものといわねばなりません。とにかく栄典というものは、私の考えますところでは、ちようど建築をいたしますときの足場のようなものだと思います。家を建てますためには足場が絶対に必要であります。しかし家ができ上りましたならば、この足場は取払うべきものであり、またその足場を取払いましても家は倒れないのであります。そのように人間のよい行いや高い品性が、この栄典ということによつて勲章とか賞与とかいうことによつて拍車をかけられ、助成され、育成されまして、おしまいには栄典がなくとも、勲章がなくとも、その高い品性が持続されることが最も望ましいのであります。それはちようど家が建つて足場をそのままにしておいては体裁も悪いし、目ざわりであり、じやまになるようなもので、人間の品格がさらに向上し、確立いたしましたならば、これは不要であり、じやまにすらなるという性質のものであります。ところがこれを制度化するということになりますと、遂に純粋な気持でよい行為をなし、ほんとうに高い品性を完成いたします上には、かえつて障害となるという点も、われわれは忘れてはならないと思うのであります。  もう一つ栄典制度にまつわる私の考えます危険は、これが制度となり習慣となるにつれまして、人々はとかくこれをもつて人間評価の尺度となし、もつと公正で自然の尺度というようなものがあるということを忘れ、自主的に、良心的に人を評価することを怠るに至るおそれがあるということであります。賞罰というものは人間社会において一つの有力な手段として必要であります。しかしこれが常道となりますと、それは人間性を信用せず、また人生そのもの信頼を置いていないことを示すことともなるかと思います。理想といたしましては、われわれはあくまで人間を信じたい。真実を追求するところの人間の本性を信じたいのであります。人為的な尺度、しかも相当不確かな尺度頼つて、このゆたかな人間性、くめどもくめども尽きないゆたかな人間性そのものを傷つけたくはないのであります。われわれは理想においてはあくまで天尺に満足したいと念願するものであります。  大体以上のような考えのもとに、私は国家制度として功労のあつた人人、尊敬すべき人々を示す一つ方法として、またその労をねぎらい、人間行為品性を高める一つ手段といたしまして、栄典制度をお設けになることは必要であると考えます。ただ繰返して申し上げますが、問題はその制度内容運用がよろしきを得まして逆効果を未然に防ぎ、同時に先ほど申し上げましたような、この制度の持つ不可避の欠点、避けることのできぬ弱点をもできるだけ少くするようなくふうが必要であると考えます。  以上総論的に述べましたが、次にこの栄典制度内容運用につきまして、十項目にわたつて意見を述べさせていただきます。  その第一はフランス言葉に、女は真珠を恋し、男は年をとるとともに赤いリボンに恋をするという言葉がございます。これはフランス人が、フランス勲章レジヨン・ド・ヌールに対する執着と愛着とを諷した言葉であると思います。と同時にフランス国民に、このレジヨン・ド・ヌールというものが明るい親しみを与えておることを示すかと思います。どうか日本勲章においても、国民に明るい親しみの持てるようなものであつてほしい、明るい親しみのある栄典制度であつてほしいと私は願います。これまでのように勲章といいますと金鶏勲章を連想し、主として軍人につながる観念、こういう観念を破つて新しい構想とくふうがほしいと思います。  第二に、しかもこの明るい親しみ感じは、ひとり国内ばかりに限らず、広く国際的に外国人にまでも広げられるものであつてほしいと私は考えます。フランスレジヨン・ド・ヌールは、広く外国人にも親しまれております。その意味わが国でも外国人に贈るものとして、特別な勲章を制定されることも一方法かと思います。そういたしまして、それには等級をつけない方がよいと考えます。あるいは大きく区別いたしまして、政治外交等功労のあつた者と、教育、文化社会事業等に貢献した者と区別して、別々の勲章設けることも一方法ではないかと考えます。従来外国外交官軍人には、わずかな滞在でも、一つ事件に対してでも、その功労に対してたとえば勲二等とか、勲三等というような高い勲章を贈る反面、日本に四十年も五十年も、つまりその人の一生をささげて、わが国社会文化事業等に尽したような外国人に対しては、たとえば勲五等とか勲六等とかいうような低い勲章を贈られるというようなことを見ましたが、これらは実に当を得ないことでありまして、明るい親しみ感じを妨げる一つの例であると考えます。  第三、栄典制度は、できるだけ簡素なものであつてほしいと思います。あくまで功績の大小によつて区別をつけるべきであつて、その人の地位、身分、財産などによる差があつてはならないと思います。栄典制度に対する国民のこうした希望は、国立世論調査所調査結果にもはつきり出ており、この点はぜひ明確にしていただきたいと思うものであります。  第四に、位の制度でありますが、この位の制度は必要ないと私は考えます。かつて栄典制度が軍、官への恩典と見られがちでありましたのにかんがみまして、今後は官尊民卑的な制度に堕しないように、また官僚万能の風潮のこれが誘い水となりませんように、格別の御配慮が望ましいと考えます。そのためにも位階制度は不必要と考えます。功労の差は、勲章などの差別等級によつてすでに明るく親しみやすく示されるといたしますれば、それ以外にさらに位階設けることは感心できません。  第五、これらの趣旨から申しましても、文化勲章産業勲章制度の御構想はけつこうであると思います。ただ産業勲章などは、経営者的立場にある人たちのみの表彰に終らないようにしてほしいと思うのであります。むしろ実際に産業の発達に特別な功労のあつた人々に対して顕彰をして、それらの人たちのなし遂げた事業研究、実績の顕彰にあたられるようにされたいと思います。  第六、栄典制度国民の栄誉に対する希望にこたえるという意味のものでありますが、他方本人が望むと望まざるとにかかわらず、国家社会に貢献した人々に敬意を払い、感謝するという道義的な考慮があると思います。この点は大切であると思います。がしかし、あくまで本人自由意思を尊重することはもつと必要であると考えます。そこでこの案の中に、第十六条でございましたか、返還の条項が設けられておりますが、これはたいへんけつこうであると考えます。  第七、褒章授与項目の中に、第九条の四の中に「私財又は労力の提供により公益のため著しい貢献をした者」というのがあげられてあります。これは広く行われておるところで避けられないものかもしれませんが、私財提供ということは、とかく誤り用いられるおそれがあり、あるいは悪用される危険も少くないことは、すでに旧栄典制度証明済みであると考えます。そこでこの項は省くか、どうしても避けられないとすれば、他に適当な具体的内容と表現を御考慮願いたいと思います。  第八、この案によりますと、外国勲章等着用に、総理大臣の認可を必要といたしております。しかし公の場合の着用等につきましては、別に方途があることでありますから、国際親善立場などから考えまして、先ほど来申し上げます明るい親しみ感じ、これは相互的なのでありまするから、必ずしも本法でこれを規定する必要があるかどうか、再検討の余地があると考えるものであります。  第九、栄典審議会についてであります。栄典制度を生かすも殺すも、授与の案件を実質的に決定するこの栄典審議会というものの双肩にかかつていると考えます。ところが、この大切な委員は、総理大臣の指名によるということになつておりますが、政党政治の現段階におきまして、これでは審議会委員の構成や、受勲者功労判定等に党派的な偏向が現われるおそれがあると思います。またたといそれが公正に行われましても、一般国民先入観としてそうした印象を植えつける結果ともなりますが、もしそうであれば、せつかく公正に行われたものがそういう先入観を与えられるとすれば、これはまずいことでありますから、この点は十分に検討を要すると思います。ことに本案の規定するごとく、漠然と、「公正で識見のある者のうちから、内閣総理大臣が任命する。」こういうことになつておりますが、これではあまりに抽象的であり、無組織であり、無系統的であると思います。制度としてはこの点を明確に規定しておくべきでありましよう。すなわち委員の選考にあたつて、官、民両方面を考えること、特に政治経済文化学術労働、婦人、その他国家社会各界各層がよく代表されますように考慮され、それぞれの分野の総意を反映させるような方法を、単に運用の場合ばかりでなくて制度そのものの中にもこれを明文化し、制度化することがきわめて必要であると私は考えます。またこの審議会委員が、よく国民の信望をつなぐ人々であるということを保証する意味において、一たび任命され、仕事をされましたあとにおいて、これらの委員国民信頼によくこたえるということを示す意味におきまして、たとえば最高裁判所の裁判官に対する国民一般信任投票、これはいろいろの批判がございますが、これを参考にいたしまして、さらによいこのような趣旨制度をお設けになることも一つ方法ではないかと考えるものであります。  最後に第十番の項目といたしまして、私は勲章を含むこの褒章は、常に厳選して真に価値ある人々にのみ贈るべきであり、濫発を慎みますと同時に、贈るに値する人を逸しないように、あらゆるくふうをされんことを切に望むものでございます。以上で私の公述を終ります。
  4. 船田中

    船田委員長 ただいまの古垣鉄郎君の御意見に対しまして御質疑はございませんか——。御質疑がないようでありますから、次の公述人東京大学教授宮沢俊義君にお願いいたします。
  5. 宮沢俊義

    宮沢公述人 栄典というものが社会において必要であること、また日本国憲法栄典に関する規定設けております関係上、その基本的事項法律で整備する必要があることは申すまでもありません。従つて栄典法が準備されることはきわめて自然でありますが、問題はいつそれを制定することが適当であるかということにあろうかと思います。この点につきましては、程度問題でありまして、それをいつ整備するのが適当であるということをはつきり申すことはもちろんできませんが、私の感じといたしましては、全体として、ただいま栄典法を制定するということは無用だといいますか、あるいは少し早過ぎるのではないかという感じを持つのであります。それならばいつになつたらいいかということをはつきり申すわけには参りませんけれども、何分長い占領期間を過ぎまして、独立になりましてからも、まだ時が十分たつておりません。そうしてその善後措置というものが山のようにたまつております。国民生活という点から考えましても、まだまだほかに急いですることがあるのではないかという感じが、一般国民に抱かれているのではないかと思います。その際に、前から問題ではありましたが、栄典法を取上げて問題にするということが、はたして国民多数の十分の納得を得るであろうかどうか。その点に私いささか疑いを持ちまして、私の感想といたしましては、この際栄典の問題を御研究になることはけつこうでございますけれども、法律をおつくりになるということは、まだ少し早いのではないか、もう少し研究をお続けになつあとでよくはないかという感じを持ちます。これが全体につきましての私の感想であります。  次に、栄典制度を確立するといたしまして、私の感想を若干述べさせていただきたいと思います。栄典制度は、過去におきまして、少くとも君主国においてはどこの国においてもそうでありますが、君主地位というものと密接な関係を持つております。そこで日本の今までの栄典というものは、言うまでもなく天皇皇室と非常に関連しております。そこにいろいろ問題があるのではないかと思います。御承知通り、今度の憲法によりまして、天皇地位皇室地位というものが根本的にかわりました。そのかわつた今日に栄典設けます場合は、よほど注意いたしませんと、また明治憲法時代天皇皇室地位がそのまま復活するような感想を与えるおそれがある。またそういうふうに現実に利用される危険もないではないと思います。その意味において、栄典設けます場合には、宮廷色と申しますか、そういつた色合いをできるだけ除くことが必要ではないかと私は考えております。その意味において、この栄典法案に現われましたところを拝見いたしますと、たとえば「菊花勲章」というようなもの、それからことに「位」というようなものは、そういつた意味宮廷色がはなはだ濃厚なように感ぜられますので、新しく整備する栄典制度としては、いかがなものかと考えるのであります。ことに「位」の方は、ただいま古垣君の言葉にもありましたように、そういう宮廷色という点を離れて考えましても、あまり合理的な制度のようにも考えられませんが、古くから皇室天皇と密接な関係のある制度でありますので、それをこの際復活するということはどういうものであろうかという感じを持つのであります。  その他の勲章につきましても、いろいろ一つ一つ問題にすれば問題はあるでしようが、勲章設けるといたしますれば、ここに定められているような勲章は、いずれも相当にリーズナブルであるように思われます。ある種の階級がそこに定められますことは望ましくないとも言えますが、しかしすでに勲章というもの、栄典というものが認められます以上、栄典自身一般国民の間の一つの種別、デイステインクシヨンでありますから、その勲章の中に階級設けられるということは、それほど不自然なこととは私は考えません。ただその中に「記章」という規定がございますが、これはどういうものでございましようか、特に御研究をお願いいたしたいと思うのであります。以前から記章というものはございましたが、この第十三条にも「国家的祝典又は事業の記念の標章として記章設ける。」とありますが、これが栄典として設けられるということはどういうものでありましようか、そこに若干疑問があるのではないかと思います。まあ記章の問題は重要な問題ではありませんし、従来からの例にならつたことと思われますが、栄典としましてはいささか疑問がありますので、一言した次第であります。  それから栄典審議会制度は、栄典というものを授与する以上、これはきわめてけつこうな制度と思います。ただその場合には、これもただいま古垣君からお話がありました通り、そのメンバーの選任ということには十分注意を要すると思います。ただ私は古垣君の言われたような方法がいいとは思いませんが、最小限度必要なことは、その委員の顔ぶれが頻繁にかわることだろうと思います。どうしても同じメンバーが続きますと、自然にそこに一定の色合いが出ます。これを防ぐには、メンバーをしばしばかえることが必要であろうと考えます。  それからこの全体の法案につきまして、ちよつと拝見したところで、言葉の問題が問題とされていいのではないかという気がいたしました。私十分に研究したわけではございませんが、たとえば「褒章」というような言葉が、ある場所ではかなで書いてあり、ある場所では漢字で書いてあります。そしてまたある種の漢字は、読み方がむずかしいせいですか、ふりがながついております。せつかく今度の憲法以来、法律の文章が非常にやさしくなりまして、ことにその後制限漢字、新かなづかいで、ますます民主的になつて来た際でありますので、栄典に関する法律も、やはりその線に従つてもう少し読みやすいやさしい言葉を使つていただけたらと思うのであります、ことにふりがなをつけなければ読めないというような言葉は、十分再検討を要するのではないかと考えております。  最後に、先ほど古垣君が言われた点とちよつと違つた感想を私は申し上げたいと思います。栄典制度設ける以上は、厳格にこれを施行せよというようなことを先ほど古垣君は言われましたが、この点は私は相当に問題ではないかと思うのであります。あえて濫発しろとは申し上げませんけれども、いやしくも栄典という制度設けました以上は、むしろゆるやかめにこれを出すということが、かえつて成績を上げるのではないかと思うのであります。やかましくするということは非常にけつこうなことでありますが、やはり人間人間の能力を判断するということは、そう神様のように厳正公平には参りません。そこで結局、そこに不公平だとかいう声がどうしても出て来るのであります。またやかましくしますと、非常にやかましくした結果として、その厳選によつて選ばれた少数の栄典というものの価値を、不当に大きくすることになると思うのであります。そうしてしかもその選択は、どうしても神様のように公平というわけに参りませんから、そこで国民の間にいろいろ不満が出て来るわけであります。これをある程度ゆるめますと、当然にそれだけ栄典価値は幾分下るでしよう。そのかわり不公平という非難はそれだけ少くなるわけでありまして、私としましては、全体の栄典というものの価値が多少下りましても、不公平というような不満がなくなることの方が、栄典制度の精神に合うのではないか思うのであります。もともと栄典というものは、先ほど申し上げました通りデイステインクシヨンで、国民の間から特に選ばれてある種の差別待遇を受ける地位でありますから、そういう差別が非常に大きな価値を持つことは、むしろ望ましくないのであります。その意味で、不当な厳選ということはかえつて弊害があるのではないかと思うのであります。ことに過去の日本におきましては、一面官僚などには相当勲章が濫発されたようでありますが、他面非常に厳重なところがありまして、かえつてその意味で、勲章を持つている人を不当に保護した結果になるというようなこともございましたので、栄典は厳選授与するのがよろしいというのがきわめてもつともなように聞えますけれども、その結果は必ずしも望ましいものではない。むしろ栄典設ける以上は、栄典に値する人は漏れなく拾うという考え方を強める方がいいのではないかと考えますので、その点も最後感想として申し上げたいと存じます。  要するに私は、一番初めに申し上げました通り栄典という制度が必要であることは十分に認めますけれども、現在栄典法をただちに制定するということは、どうも少し早過ぎるのではないか、もう少しほかのことに力を注ぐべきではないかという感じを多数の国民が持つであろうと考えまして、栄典法は尚早だということを申し上げた次第であります。
  6. 船田中

    船田委員長 ただいまの宮沢俊義君の御意見に対しまして、御質疑はございませんか。笹森君。
  7. 笹森順造

    ○笹森委員 一点だけ公述人の方にお尋ねしておきたい点があるのでございます。それは後半のお話で、この栄典制度の中に等級があるということはそうさしつかえないと思う、なぜなれば、そこに一般の人との間にすでに差別設けているのだからだというような意味のお話があつたように承りました。しかもまた、この栄典を与えられることにおいて特に不当に保護せられるとか、また不当に取扱われるというようなことがないようにするために、厳選主義によるよりはむしろこれをゆるやかにした方がよいという意味のように伺つたのでありますが、お尋ねしたい点はこれであります。これは原則的な問題だと承知しておりますが、憲法において天皇栄典を与えるという国事におきまして、栄典はいかなる特権をも伴わないというのが根本の精神のように私どもは承知しております。国家功労があり、社会に大きな貢献をした方に対して、その点を栄典制度によつて明らかにするということだけであつて、これには特権を伴わないことになつておると私ども承知しておりますが、特権を伴わないという根本の精神においても、何かそういう区別された、差別されたというような考え方の根拠か理論が残るものでありましようか。あるいはまたどういうつもりでお話になつたのか。そういうような区別があつても、別に特権を伴わないものならば、その点についての今の議論にはちよつと了解しかねる点がありますので、お尋ねいたします。
  8. 宮沢俊義

    宮沢公述人 私が栄典差別されておるということを申し王げたのが、栄典というものは特権であるというふうに聞えたのかと思いますが、あるいは御質疑趣旨を少しはき違えておるかもしれませんが、一応お答え申し上げます。  一般の国民から区別されて栄典を受けるということは、考えようによつては特権と言えないこともないのであります。つまりある種の勲章を、普通の人はぶら下げてはいけないが、しかしもらつた人はそれをぶら下げて、それだけの名誉をみずから主張することができ、また他人から尊敬を受けることもできるということは、公に認められた差別された地位でありますから、それをもし特権と言うならば、栄典ということはそれ自身何らかの意味の特権になるわけであります。私が先ほど申しましたのは、栄典というものはすでにそういうものでありますから、その栄典の中にいろいろな種類ができ、またかりに等級ができたとしても、それは別に平等という大本の原則に反するものではないと考える、こういう意味でありまして、栄典の中に等級があるのもないのもあるようですが、かりにあつたところで、別にそれほどおかしいわけではありません。私が栄典をなるべく厳選しない方がよかろうと申し上げたのは、厳選といい、あるいはその反対にきわめてゆるやかにやると申しましても、程度問題でありますからはつきり申し上げるわけには参りませんが、全体の方針といたしまして、もし設けるならばあまりやかましくない方がよいのじやないかということを私は申し上げたわけであります。過去の経験におきましても、たとえば一般の民間の者に勲章を与えるというような場合に、非常に功労がありまして——いつでしたか先代の六代目菊五郎に初めて勲章をやつたときはたしか勲六等であつたと思います。それでももらつた方はまだよいわけでありまして、普通の役者は全然もらえない。しかしいきなりやつたものが勲六等というようなところでありましたが、はたから見ておりますと、とにかく日本の一流の舞台芸術家で、もしそれに勲章をやるというならば、普通の行政官がそこらで始終もらつているような勲六等という勲章をわざわざやるというのは、何かやる方ももらう方もおかしいような気がしたようなことを記憶しております。これは一つの例でありますが、やはり勲章というものはあまりやかましくいたしますと、勲章価値が不当に上り過ぎやしないか、むしろこれをゆるめることによつて勲章あるいは栄典差別地位が不当に大きくなることを妨げて、しかも大勢の人に行きわたるようになつてむしろいいのではないか、これは程度問題でありますが、そういう感想を申し上げた次第であります。
  9. 笹森順造

    ○笹森委員 お話の意味はわかりましたが、私のお尋ねしたいことをもう少しだけお答えを願いたいと思います。私ども心配しておりますのは、今のお気持に対しては、大体私どもも同調したいと思つておりますし、同じように考えておりますが、さつきもお話がありましたように勲章を佩用するということは、これはそれを受けた者の特権といえばそれは特権と考えられるというお言葉があつた。これはさして問題にするに足らぬと思うのですが、栄典自体が特権を伴わないという原則だけは、どこまでも確保すべきだ。これは国家制度としての重要点だと私は考えておりますので、その点はお話の趣旨と私の了解とは少し食い違いがあるようですが、それはそれでよろしゆうございます。そこで国家功労があり、社会に貢献した者に対して、これを明らかにするという点においてこれはけつこうなことだと私は思うのですが、それを勲章という一つの形をもつて現わすということになると、これをみずから佩用し、あるいは佩用させることによつてこれを評価せしむるということになる。このことが栄典制度として一体必要なる存在であるやいなやという根本の問題を実は考えたいと思うのであります。従いましてあるいはこれを、記録に明らかにするとか、あるいはまた官報にこれを明らかにするとか、あるいはまた免状の種類のようなものを出すことにして、本人自身が形に現われた勲章というようなものを佩用しない方が、むしろこの精神にかなうのではないかというようなことも考えております。さつきのお話では、皇室とつながる菊の御紋を形どつたりなどするということについても、御批判のお言葉があつたようでありまするが、さらに進んでそういう形のあるものを佩用せずに、ほかの方法で、もつと精神的にしかも不変的に、永久的に行くことで、また対象となる国民にこれを強要するということもないでしようが、強要するがごとき誤解を持たれる形をとらないということがいいと思うがどういうものであろうか、ということを敷衍して考えましたので、今の公述人の方からこの点に対するお意見だけをお伺いして、私の質問を終りたいと思います。
  10. 宮沢俊義

    宮沢公述人 お尋ねの趣旨は、功労のあつた人を何か区別して表彰することはけつこうであるが、勲章というようなものをかけさせるという形によつて表彰するということは適当でないのではないかという御趣旨かと拝承いたしましたが、その勲章という制度がいいか悪いかは私もはつきりした意見を持ちません。栄典法は先ほど申しました通り今考えるのは早かろうという立場でございますので、詳しいことについて一々はつきりした考えを持つておりませんが、しかし功労のあつた人を何らかの形で区別する。そうして記録の上でも何でも、これこれに功労があつたということを公に認めるということになりますれば、もうそれで栄典の目的は達せられたわけでありますから、そのしるしとして勲章を胸にぶら下げることを認めるか認めないかということは、私はそれほど重要な問題ではないのではないかと思います。そもそも功労があつたらその人に何らかの公な表彰を与え、賞状を与えるとか、あるいは紙を与えなくてもそういうことを公にきめるということが、すでにその人に対する名誉を与えることになるのでありまして、それを形の上で賞状という形で現わすか、さらにそれに何かメタルのようなものを伴うかということは、私はそれほど大きな問題ではないように思いますので、栄典という制度をこしらえるならば、胸に勲章をぶら下げるということを認めても、別にさほど弊害はないのではないかというふうに考えております。
  11. 大矢省三

    ○大矢委員 ちよつと一点だけお尋ねいたします。審議会の構成あるいは運営の問題で、長きに失すると弊害があるということですが、この原案では御承知のように二年となつておりますが、二年では長いとお考えになるのかあるいは再任されるおそれがあるから、そうなると非常に長くなるからいけないとおつしやるのか。それからたいていの重要な審議会委員は国会の承認を要するのでありますが、この原案によりますと、内閣総理大臣がこれを任命するとあるので、一方的にきめるということも弊害があると私どもは考えております。先ほどの公述の中に、これに対して官、民間、産業文化経済、その他の方面から出すということを明らかにしておくべきだという御意見があつたのですが、私どもももちろん賛成なのです。そのことはその内容をもつてよろしいのですが、これを内閣総理大臣が任命して、国会の承認を得なくてもよろしいということになつて、ことに任期が二年となつておるのは、先ほど長いという御意見があつたのですが、もしこれが長いとすれば一体どういうふうにするか、あるいはまた再任される場合を御考慮になつてそうおつしやつたのか、この点がよくわからないので伺いたい。
  12. 宮沢俊義

    宮沢公述人 私は委員の任期が長いと申し上げたわけではなく、同じ委員が長く続くことは弊害があるから、なるべくかわる方がいいという趣旨で申しましたので、さてそれでは任期が一年がいいか、二年がいいかということになりますれば、その辺は二年でもよくはないか。ただなるべく始終かわるようにということを申し上げたつもりであります。それから委員の選任は国会の承任を得ることが必要ではないかという御質疑でありますが、その点は私十分に考えてございませんが、単なる内閣総理大臣の指名、任命といいますか、それよりは何らかの慎重な形をとつた方がいいというふうには考えております。そのためにあるいは国会の承認を得るということが、一つの考えられる方法かも存じません。
  13. 井手以誠

    ○井手委員 一点だけ伺います。勲章栄典階級設けることは不自然ではないというお話があつたように記憶しておりますが、ただいま栄典について論議の焦点になつておるような気がいたしまする位階について、どういう御所見か承りたい。
  14. 宮沢俊義

    宮沢公述人 勲章階級があつてもかまわないと申し上げましたのは、私は階級がある方がいいという意見ではありませんけれども、勲章というものを設ける以上は、その中にたとえば二階級なり、三階級なりあつたところで、しいてとがめだてするにはあたらないということを申し上げたわけでありまして、位につきましては私先ほど申し上げました通り、こういう長いいろいろな段階を設けるということは、きわめて不自然でもあり、不必要でもありますから、必要がなかろうということを申し上げたのです。それより私が申し上げましたのは、位というものは従来の天皇皇室というものと長い関係もありますので、栄典設ける以上はそういつた宮廷色を極力除くようにする必要があるのではないか、その意味で位というものには強く反対したいということを申し上げた次第であります。
  15. 原彪

    ○原(彪)委員 私途中から伺いましたので、前半の方はよく存じませんが、最後結論的に、栄典制度を今実施することは時期尚早の感があるというふうな御趣旨をお述べになつておるように承りましたが、その時期尚早という理由はどういうところからなのか。もちろん栄典制度というものが設けられる以上は、表彰される者とされなかつた者との間に差別が出て来ることは当然であります。しかしそれが特権として大きく見られるかどうか、あるいはそれに一つ社会的な力が伴うかどうかということは、一般民衆の栄典制度に対する考え方いかんが相当影響すると考えます。従つて法の前にすべての者は平等だという、いわゆる特権を認めない憲法趣旨から見て、日本が徹底した民主化されなければならない今日、とにかく特権の伴う伴わないは別としても、そういうふうに差別的なものが出て来るような栄典制度を今行うことは、日本の民衆の意識の面から見て、まだ早過ぎるといつたような御趣旨なのか。だとすれば、将来それを置いてもいいということをお認めになつているのかどうか。その点ちよつとお伺いしておきたい。
  16. 宮沢俊義

    宮沢公述人 今最後におつしやつたような意味であります。従つて将来ともに栄典制度設ける必要がないという意味ではなく、憲法も認めていることでありますから、その憲法規定の基本的な事項を法律で定めるということは、いずれ行われてしかるべきことと考えます。ただ現在それを法律の形で定めるということはまだ早いのではないかということを申し上げたわけでありますが、もちろんまだ早いということは、常に栄典法内容に関連して参りますので、その内容いかんによつてはまたそれほど早くないということになるかもしれませんが、一応ここに与えられた、最近論議せられたような栄典法を前提として、まだ早いということを申し上げたわけであります。ことに今私、新聞などを読んでおるだけでありますが、何となく栄典というものを整備するということが、新聞などの記事だけから推測するのですが、宮廷色——宮廷というものと何か密接な関係があるように感ぜられますので、その点において特に私は急ぐ必要がないのではないかというような感じを持つた次第であります。
  17. 船田中

    船田委員長 それでは次に日本商工会議所会頭藤山愛一郎君にお願いいたします。
  18. 藤山愛一郎

    ○藤山公述人 私の意見を申し上げますが、今日申し上げます意見は、日本商工会議所会頭として日本商工会議所意見を申し上げるのではなくて、私個人の意見を申し上げるのを御了承願いたいと思います。  今回栄典法の御審議が進行しておりまして、私どもに意見を徴されることになりました。国家が何らかの形において、国家功労者に対して、公共の功労者に対して、表彰するということは、私は必要であろうと思つております。しかもそれが著しい功労のあつた人を表彰するということであれば、当然でもあり、また人間というものは、ある意味において非常に子供らしい性質をも持つているのでありますから、そういうことによつて一般的な人たちを刺激して行くということも必要なことであろうと思います。栄典法をつくられますことにつきましては、私は賛成をいたすものであります。  ただ私どもが振り返つてみまして、今日までの勲章制度あるいは位階制度等につきまして反対をいたしておりましたことは、今までの授与方法というものが非常に片寄つている。役人が何年か勤務をすればそれで機械的に上つて行くような勲章授与方法につきましては、私ども反対はいたしておりましたし、また軍人が同じような条件のもとにそういう栄典を得ることにも反対なのであります。また逆に広く一般社会公共の福祉に尽力した方々に対しまして十分な栄誉を与えなかつたという点についても、遺憾を感ずるのであります。今回もし栄典法が制定せられるならば、その点が一番根本的に大事な問題であろうと思うのであります。この運用のよろしきを得ませんければ、せつかく制定されました栄典というものが再び過去の愚かなそしりを招くことになり、国民がその栄典をほんとうに尊敬することのできないものになるのでありまして、そういう点を、今回もし制定されますならば、完全に払拭して参らなければならぬと考えております。栄典の結果として勲章を胸に掲げるということは、一面からいえば子供らしいようなことでありますが、何らかの形で表彰いたしますれば、そういうことも一つ手段として適当なことであろうと存じております。ただ栄典そのものができるだけ簡素なものであることが必要なのではないかと思うのでありまして、なるべく階級の数も少く、またなるべく種類が少い方が適当ではないかと考えております。私どもは今日まで制定されております文化勲章に対しまして、十分文化勲章意味を了承いたしておるつもりではありますが、文化勲章がそもそも制定されました理由というものは、文化功労者に対して過去における勲章制度運用が少しも全きを得なかつた、その結果として文化勲章を制定するという声が起つたと思うのであります。それ以外にむろんいろいろな理由もあつたかもしれませんのでありますけれども、結局軍人なり官吏なり、そういうような特殊な場合にのみ栄典授与されて、ことに文化人のごとき者に対しては何らの顕彰方法がなかつた。しかもその人が文化的に非常に高い功労国民全般に与えているというようなことに対する表彰の方法がなかつた。ただいま宮沢さんがお述べになつたように、六代目に勲六等しかやれないということ自体が、文化勲章を生んだのではないかと私は思います。また見ようによりますと、文化勲章をつくりました当時の官僚からいえば、われわれと同じ勲章はやりたくないんだ、別のものをやりたいんだというような意識も逆に働いておつたのではないかというような感じもするのでありまして、今日でも私は文化勲章に対する取扱いというものが、必ずしも当を得ておると思わないのでありまして、先般立太子式の礼に参列いたしまして、私は二つの意外な事実に当面したのであります。一つは、今日皇太子殿下の実質上の補導役である小泉信三先生がわれわれと同じ場所、しかもそれは役所の次官よりもずつと下のわれわれの席に参列しておられた事実であります。もう一つは川合玉堂先生が、文化勲章を胸につつて来られながら、やはりわれわれと同じような列におつて、その前には次官その他が参列しておる。そういうことでは文化勲章に対する正当な取扱いであると私は言えないのではないかと思う。一国の文化を代表して、相当慎重に年々選考された文化勲章の所持者が、そういう式典に参列する場合に、次官以下の席にすわつていいのかということを思うのでありまして、これはやはりある意味におきましては、もし一般的な勲章ができました場合に、文化勲章の位置というものが、もつと相当な高められ方をしなければならぬ。そういう意味において、文化人を何か別個のわく内において、そうして顕彰をするというような意識が、与える方では働いているのではないかと感じるのであります。そういう意味において私は勲章はできるだけ一本にして、そうして同じ意味において、文化人にしても、あるいは役人にしても、あるいは民間実業家にしても、あるいは農村の先覚者に対しても、同じような立場でもつて公平に授与されることが一番適当であるということを、私個人としては考えておるのであります。従つて今般産業勲章というものを制定されることにつきましても、私は文化勲章がある以上、産業勲章を置くことに異存はない。私ども産業界におる者として、産業人を顕彰するということを極力主張して参りたいのでありますが、その取扱いが、今のような文化勲章の形において見られることを好まないのであります。いわんや産業勲章ができますれば、社会勲章というものもあるいはできなければならないということになつて参りまして、相当複雑なものになつて来る。文化勲章産業勲章社会勲章というようなものが続々出て来ることになつて参りますから、原則として、私は実はいわゆる勲章一本で、授与方法が全般的に、各界、各方面をにらみ合せて、最も適当な人に審査の結果授与されるということが適当であると思うのであります。しかしながら、今日文化勲章が現実に行われておりまするし、またその受賞者等も、私ども見まして当を得ておると思いますので、これを今廃止することを私は主張するのではないのであります。そういう意味からいいまして、文化勲章がありますれば、産業功労者に対しても産業勲章を制定せられるならば、必ずしも反対はいたさないものであります。ただそういう意味において、制定されましたときの問題を御考慮をお願いしたいと思うのであります。  なお位階につきましては、私は全然意味がわからないし、こういうものはあるべきでないという考え方を持つております。何の意味でこれがここへ出ているのか私は理解に苦しむのでありまして、こういうものはよろしく廃止していただきたいと思うのであります。  なお委員会をつくつて今回これを審議されるということにつきましては、私は適当な処置だと思うのでありますが、ただいまお話のありましたように、委員総理大臣が任命いたすにしましても、少くとも国会の承認を得て公に適当な委員が選ばれたという形をとりますこと、形ばかりでなく、実質的にそういう方法によつて委員を選任されることが必要であると、こう考えている次第であります。  なお産業勲章を制定せられますときに、褒章との関係が、多少私は複雑になつているのではないか、どういう点から産業勲章功労者として授与するのか。また褒章等につきまして、私どもこの条文を見ましただけでは、あまりはつきりせぬように思うのであります。その辺にいろいろな問題があるのではないかというような感じを持つのであります。そこらをもう少しすつきりしたものにできればしたい、こう考えております。  簡単でありますけれども、これで私の意見を終ります。
  19. 船田中

    船田委員長 ただいまの藤山愛一郎君の御意見に対して御質疑はありませんか——御質疑がないようでありますから、次に読売新聞論説委員伊佐秀雄君にお願いいたします。たいへんお待たせして失礼いたしました。
  20. 伊佐秀雄

    伊佐公述人 栄典ということは国家功労者に対して行うということになつておりまして、当然国家栄典というものとの関係は非常に深いものと考えます。ところで日本も長い間の占領下から脱しまして、ようやく半分の独立でありますけれども、曲りなりにも独立した。こういう際に、やはり栄典制度というものを整備することは、必ずしも悪くはないと思うのであります。私は私自身の気持からいえば、一切栄典などというものはない方がいいと思いますけれども、しかしながら私の個人の気持の上からではなしに、日本の国の発展であるとか、あるいは国民の全体の気持という点から考えてみますならば、必ずしも栄典制度が復活されても悪くはないというような意味において、つまり消極的な意味において私はこれに賛成するものであります。しかしながらこれからの日本というものは、今までの日本であつてはならない、終戦であのさんたんたる敗北をした後の日本は、やはり新しい日本としての体をなして行かなければならないのではないか。そういう意味におきましては、やはり栄典制度というものも、新しい日本というものにふさわしい制度でなくてはならぬ、こういうふうに考えるのであります。しからば新しい日本というものの根本はどこにあるかと申しますれば、言うまでもなく民主政治を徹底させて、民主国家として進んで行くという点にあるわけでございます。でありますからこの栄典制度というものも、やはり民主国家として進んで行くことの妨げをなさないような制度でなければならぬ。こういうふうな観点からも、私は今回国会に提案されるという栄典法案というものを考えてみたいと思うのであります。その前にまず今までの栄典制度というものは一体どんなものであつたかということを、私の考えから申しますと、終戦前の栄典制度でございますが、これは言うまでもなく、皇室を中心とするところの軍国主義的な、あるいは官僚主義的な国家を維持するために必要な制度であつたと思うのであります。たとえば、栄典にあずかつた者は主として軍人と官吏である。少くとも軍人、官吏というものが圧倒的に多くて、ほかの一般の社会の人というものはほとんど栄典に浴しておらない、こういうようなのが常態であつた。勲章のみならずその時分は位階というもの、あるいは爵位というものがあつた。爵位とか位階というものは、これは厳密な意味栄典ということが言えるかどうか、それはわかりませんけれども、少くとも勲章とは大分違う色彩を持つておつた。すなわち非常に身分的な色彩を持つておつたのであります。たとえば位階の四位以上は勅任官とするとか、あるいは六位以上を奏任官とする、七位以下を判任官とするとかいうような区別が截然としてある。これは勲章とは大分趣が違つておりまして、一つの身分制度であつたと思うのであります。従つてそういう位階の所持者は自然に宮中席次が定まり、はなはだしいのは、位階のいかんによつて便所や食堂まで違つておつたというような事実もあるのであります。こういうような軍人や官吏を中心とするところの任階制度、あるいはそれを中心とするところの栄典制度というものをこの際徹底的に捨てなければならないと思うのであります。先ほども勲章授与される人が軍人や官吏が中心であつたというお話がございました。菊五郎だかのお話も出ましたが、私は一つの実例を申し上げまするならば、たとえば国会議員として六十余年勤めた尾崎咢堂先生でありますが、尾崎咢堂先生はたしか正三位勲一等をもらつていたと思うのです。しかしながら、先生自身が私にしばしば言つおりましたが、これは自分は議員としてもらつたのではない、もし議員としてであつたならば六十年開議員を勤めても実は勲三等しかもらつていないのだ、それは大正天皇の御大典のときにそのときの議員には一般に勲三等が与えられたそうでございます。でありますから、尾崎先生の正三位勲一等というものは先生が文部大臣と司法大臣を二回した、つまり行政官をしたということによつて与えられたのであつて、議員としては勲三等しか与えられていないのだというようなことを先生が申しておつたことがありますが、これはちやんとした事実であります。こういうような事実を考えてみましても、今までの栄典制度がいかに軍人、官吏中心であつたかということがわかるのであります。尾崎咢堂先生が国会議員として六十余年勤めたということは、日本においてはもう空前絶後でありまするが、おそらく世界においても空前絶後でありましよう。先生のように三十そこそこで代議士に当選して、そして九十幾つまで生きなければならないのでありますから、おそらくは空前絶後でありましよう。そういうような人に対してさえこの程度の扱いであるということでありまするから、ほかの一般社会の人、文化界で働く人、言論界で働く人、あるいは実業界で働く人々に対して、今までの栄典制度というものがいかに不公平きわまるものであつたかということは、御承知通りだと思うのであります。そこでこの不合理をどうしても是正しなければならない。そういう点から見ますると、今度の栄典法案の中には若干これを不合理として是正しようとする跡も見られないことはないのでありまするけれども、まだまだその点が十分ではない。そこで私どもが最も不可解に考えるのは、前の公述人方々もみな申されておりましたけれども、この位階制度の復活、位階制度についてはいろいろ議論がございましようが、私はこれは勲章制度とは別個のものである、勲章制度はその人の功績その他に対する国家の表彰方法でありましようが、位階制度というものはそれも含めておりましようけれども、どちらかというと身分制度になつて来るのであります。位階制度は御承知通り中国から輸入されたものであつて、しかもそれは千年以上前に輸入されたものであつて、それが今日まで連綿として続いているというのはどういうわけであつたかと申しますると、これはやはり軍人、官吏を中心とした日本の今までの政治というものを維持するのに好都合であつたから続いてあつた、こういうふうに私どもは見るのでございます。そうすると位階制度というものは、勲章制度とはまつたく——まつたくとは言えないかもしれませんが、とにかく非常に元来違つておるべきものであり、また違つていたのであります。それをこの際栄典制度の中にそつとやみ取引のように持つて来て、これを一緒にやつてしまうということは、一体どういう意味があるのか、こういう点はよく研究していただきまして、ぜひともこの位階制度の復活というようなことはやらないようにしてもらいたいと思うのであります。それはまた再び天皇を中心とする、皇室を中心とするところの軍人、官吏国家になるおそれが非常にあるのであります。そういう点から見まして、栄典制度を制定することはさしつかえないといたしましても、それは勲章制度だけであつて、決して位階制度などを持つて来る必要は全然ない。しかもこの位階制度というものは、今おそらく進んだ国々にはこれを採用している国はないと思うのであります。勲章制度はソビエト・ロシヤにもございますし、アメリカのような民主国にすら多少あるのであります。でありますから、勲章制度を持つて来ることは、今日の世界の文明国並な状態において一向さしつかえないと思うのですが、ここに千年も前に中国から輸入して来た日本独得の位階制度というふうなものを持つて来るということは、日本の国際的な進展に将来大いにじやまになるのではないか。そのために日本がまた再び疑いの目をもつて見られるような国に逆転するおそれさえないとは言えないのであります。そういう意味から申しましても、この位階制度というものの復活ということは、これは絶対に私どもは採用してはならない、こういうふうに考える次第でございます。  それから大体私の一番力を入れている点は、この位階制度の復活反対でございますが、その他の点につきましては、文化勲章とか産業勲章、こういうふうなものを設けるということもいいでございましよう。今までの勲章制度では包含できない功労者というものが相当あるとすれば、文化勲章とか、産業勲章というものを設けることはさしつかえない。ただしかしながら文化勲章とか、産業勲章設けるにつきましては、先ほどもお話がありましたように、その勲章というものがほかの勲章との関係において、どのくらいの位置において与えられているかというふうなことは、やはり一応お考えになつていただきたいと思うのであります。今お話がございましたように、文化勲章の佩用者が次官以下の状態に扱われるというふうな扱い方であつてはならない、そのためにはやはり文化勲章とか、産業勲章というものは非常に高い地位を与えられるようにしたい。  それからもう一つ私は文化勲章に加えて産業勲章というものを設けるならば、もう一つだけ技術勲章というものを与えていただきたいと思うのであります。それはなぜかと申しますと、産業勲章ということになると、どうしても階級的な色彩が当然出て来ると思うのであります。産業において相当に貢献のあつたという人は、同時に産業界の非常な有力者である。おそらくは今ここで公述せられました藤山さんなどは、将来そういうふうなものに入る、そうするとこれは一方から見ますと、産業勲章をもらうような人はみな資本家であるというふうな観念になつて来まして、勲章というものが階級的な性格を帯びて来るおそれが多分にあるのであります。そこで私はこの産業勲章設ける以上は、もう一つ技術勲章というものを設けて、技術上に非常に貢献のあつた人に対して、産業勲章文化勲章を与えると同じような位置において与えてもらいたい。そうすれば今まで日本では技術者というものが非常に冷遇されていた。しかも今日人口はいたずらに多く領土が非常に少いところの日本の発展にとつて、何が一番必要であるかと言えば、文化の向上も産業の発達も必要でありましようが、技術を進歩させるということが非常に必要だと思うのであります。その意味において技術勲章というものを設ける、そうすればこの三本建でもつてそのほかの勲章制度から洩れた国家公共に対する功労者というものを、大体これで網羅することができるのではないか、こういうふうに考えるのであります。  それから最後には審議会の構成でございますが、この栄典制度というものは、一番必要なことは運用なのでありますから、この運用の点において相当慎重な考慮がなければ、せつかくよい制度設けましても何にもならない、今までの栄典制度どいうものが間違つて来たのは、主として運用が悪かつたからであります。でありますから今度はこの運用について非常に考慮していただきたい。それについては総理大臣審議会委員を任命するということになつておりますが、これは総理大臣が任命するということもけつこうでございますが、当然にそれは国会の承認を要するという程度のことはあつていいのであります。それから公平を期するために厳重にするためには、たとえばただ総理大臣が公平なりつぱな人を審議委員にするというだけではなく、この審議委員の構成というものを、たとえば国会から幾人出すとか、あるいは言論界から幾人出すとか、実業界から幾人出すとか、学界から幾人出すとか、こういう程度にこまかくきめておくということが必要ではないか。そうすれば各方面からりつぱな人が審議委員になりまして、各方面からりつぱな人がこの栄典の恩典に浴するということもできると思うのであります。簡単でございますが、これが大体私の意見であります。  最後に要点だけを申し上げますと、位階制度は絶対に復活してはならないということ、それから文化勲章産業勲章と並んで技術勲章設けるということ、それから第三には、審議会の構成についてはもつと細分して、あらかじめ各方面からの委員を出せるような組織をつくつてもらいたいということ、この三点でございます。まことに簡単でございましたが、これで私の公述を終ります。
  21. 船田中

    船田委員長 ただいまの伊佐秀雄君の御意見に対して御質疑はございませんか。——御質疑がないようでありますから午前中はこれにて休憩いたし、午後一時より再開いたします。  暫時休憩いたします。     午前十一時四十三分休憩      ————◇—————     午後一時十二分開議
  22. 船田中

    船田委員長 ただいまから内閣委員会公聴会を午前中に引続き開きます。  午後の公述人は、武者小路公共君、日本労働組合総評議会組織部長石黒清君、毎日新聞論説委住本利男君、日本学術会議会長亀山直人君、日本農民組合央執行委員伊藤実君、関西経済団体連合会会長関桂三君の諸君であります。公述人方々の御意見陳述の時間は、はなはだ失礼でございますが、時間の都合もございまするのでお一人当り二十分以内ということにお願いをいたしたいと思います。最初武者小路公共君にお願いいたします。
  23. 武者小路公共

    ○武者小路公述人 さつそく始めます。この栄典というものは、わかり切つた話ですが、歴史の奥行きと現代思想の間口とがあると思うのです。単刀直入に申しまして、近ごろ歴史の奥行きがあまりに狭められて、現代思想の間口があまりに広がり過ぎているような感じを老人の私は持つのであります。しかし今度のこの栄典法案を見ますと、さすがに、このいろいろな調査書によつてもわかるように、みんなの意見がりつぱに渉猟されて、私の今申し上げた感じは毛頭なくなつていることは敬服の至りであります。しかし多少その中で私が意見を述べたいことは、いろいろな問題をなるべく一般の方々がおわかりになつて、盛り上る力を育成される意味において単純化をしようというお骨折りが見えております。これもごもつともなことであります。ですが、その単純化なるものが、いろいろな場合にあとでお困りになるようなことになりはしないかということを私は考えるのであります。それで私は、この条文の中に出て来る問題を取上げて一つ、二つ申し上げようと思います。  それからもう一つ。これはこれに関係はないのですが、この間も私はドイツの福祉法というようなものを研究した方から聞いておもしろいと思つたのでありますが、ドイツの福祉法の中で、ナチのヒトラーのつくつたものですばらしいものがあるといつて、そのまま法律が踏襲されているのがあるそうです。カイザー以来のあの帝政時代のものがそのまま法律になつているのもあるそうです。あるそうどころじやありません。私がカイザー時代にドイツにおりまして、ドイツの大使館の書記に、プライバート・アンゲ・シユテルテンヒツテイ、いわゆる私的な法人の雇い人に対する保険というのがありまして、この間私が三十年目にドイツへ再任しましたときにその書記はまだそこにおりまして、私の手を握つて泣いて礼を言いまして、あなたのおかげで今免職になつても私は月給を全部もらえますと言つたことがあります。いろいろと時代が移りかわつて来ても前の制度のいいものはそのまま喜んでとつて行くというところはどうもおもしろいと私は考えるのであります。坊主がにくいからといつて袈裟をどうかしようというような感じがないことを私は希望するのです。この間も私どもはしかられたのですが、一体昔の外交官は人民の盛り上る力なんていうものをたよりにする考えはなくてかつてに偉そうに物事をしていたところに根本的な間違いがあるといつて批評されたことがありますが、今このいろいろな調査書を見ても、人民の盛り上る力というものがもとになつてこういう制度がいろいろかわつて来たことを、私は、まことに当然でありけつこうだと思います。私は法律のことなんかわかりません。いろいろ法律の詳しいことは、この調査書を見ても下条君が法学博士でなかなかえらいりくつを言つているのは——その当時下条君が賞勲局総裁で私は宗秩寮総裁であつたが、まるで法律の知識の差がひどくて、私は法痴であります。法痴のためにあの理論を読んでみても意味がよくわからない。しかしぼくの方がおそらく多数の方の意見を代表しているものだと思いますから、きようもおめず臆せずここへ出てひとつ意見を述べさしていただこうと思つたわけであります。  時間もあまりないですからこういうことをお話したい。勲章のことですが、勲章は菊花章と旭日章になつて、瑞宝章、宝冠章がなくなつた。これもすべての意味で単純化はいいですが、私はこういう問題で向うで困つたことがたびたびある。私の例を引くのは避けましようが、今度皇太子様がいらつしやつて——ちようど今度は叙勲というようなごさたがないからいいですけれども、お困りになる。たとえば皇太子様がフランスへ行かれるが、レジヨン・ド・ヌール、いわゆる大綬章を向うから贈呈されます。ちようどそこについて行かれる随員の筆頭である三谷君はフランスの大使であつた。おそらく引揚げのときあれでしたから、三谷君は大綬章を持つていないと思いますが、とにかく大使である以上大綬章をもらうわけです。そうすると皇太子と同じ勲章をもらうことは——それがおかしいということはないのですけれども、そこに何だか妙なことがある。もつと適切な例は高松宮がノールウエーへ行かれて、あそこは一つ勲章だつたものですから、高松宮にノールウエーで一番上の勲章を上げた。ところが山県式部官がほかではやはり大綬章を持つているものだから、どうも同じ勲章をやらなければならぬ。向うでもやりたくないというので、とうとうもらいそこなつたという例がある。方々の国は二つ、三つにわかれている。フランスなどは一つですけれども、植民地の勲章があるために何とか逃げ道がある。日本ではその点においてはいわゆる旭日と瑞宝がありますから、よほどその道は広くなつております。ところがそれでも足りない場合が方々で起るのです。そういう問題については、やはりあまりに狭くしておくことはどうか。要するに私がこういうことを申し上げるのは、前の法制局とか賞勲局がなかなかせんじ詰めてやつた問題で、私も宗秩寮総裁として七年苦しんだ問題でありますが、今それを廃止するにしろ、またそれを持続するにしろ、今の私個人の頭でこの時代に一体どうしていいかということは私にはわかりません。ある時期をまだ待たなければ——それは私にはわかりません。私がわからないから皆さんがわからないということは失礼ですが、おそらくはこれは今定める必要のない、先になつてもう少し事態が明瞭になつたときにはつきりさせるという問題ではないかと思う。ここでちよつとお話しましたけれども、一般の栄典法の中で私はそういう問題が多々あると思います。  それからこの勲章の説明がいろいろあるので、これは私どもよくわかります。ちよつと余談ですが、私は委員長もよく知つておるので、ついどうも焦点をはずすことが悪いたちですが、たとえば勲章のつり方に、ここに「リボンで右肩から左わきにたれ、」云々ということがあるのです。この間皇太子さんが大勲位をいただいて、右から左に、この文字通りすつと下げられたのですが、いかにもやぼなんです。イギリスあたりのあれですと、右わき下から左わき下に斜めに立てられる。私はこの間秩父宮、高松宮の両殿下にお会いしておじ君たちは非常にりつぱにおつりになつていらしたのに、なぜおい御さんにそう教えないのですかということを申し上げたところが、秩父宮さんがおかくれになる直前でしたが、いや実は絵を描いて高松宮が教えたんだが、しかし急にいただいたものだから、それができなかつたのだ、こう言われた。日本法律では上から下に斜めにかけると言つてあるのですが、実はイギリスでは右わき下からやる。そんなことは余談ですけれども、いろいろな問題があつて勲章というものはいらないものだという議論からいえば、さらにそれがいらないということを力強くするんだが、しかし今度の戴冠式に行つて、みなの並んでいるときに、せつかくそういうことが国民の支持によつてでき上つていたとすれば、それをいいかつこうにさすことが必要かと思うのです。  それから位です。位は大分反対で、位なんかよせばいいという議論が出ております。私はその位を皆に渡す役目をしていたから、それにとらわれて位が好きだというのではありませんけれども、これももう少しせかずに考えていただきたい。というのは、位というものは実につまらないようなものですけれども、言うに言われない効用がある。第一に金がかからない。ただ御紋服をたまうということと同じで、位をたまうというのはそれでおしまいだ。そうしてそれがときどきは役に立つ。たとえば大臣礼遇というのは今あるかないか——あるのですか。(「ない」と呼ぶ者あり)大臣礼遇というのはみな非常に喜ぶ。そういう人たちが喜ぶのです。三べんか大臣になると大臣礼遇になる。宮内省で呼び出すときに呼び方がおもしろい。宇垣従二位、こう呼ぶ。それはみな勲一等なんです。だから勲一等で呼んでもいけないし、役目は持つていない。それで何でも同じ階級で特徴のあるものを探すと、大体年功が働いて来る。すると、大臣礼遇の中でも従二位と正三位があるという、わきから見ると実につまらない、そんなこと何の意味があるのかというが、それが扱い方に非常にぐあいのよしあしがある。そんなことは今こういうことになつてしまつたから、私も忘れておりますが、何も今一刀両断にいさぎよくやつてしまう必要が、もしないということが皆さんのお考えであれば、あまり性急にそういうことをされないことを私としては希望いたします。  それからこの功労章の中に5に「重ねて同項の功労章を授与すべき功労があるとき」何とかというのですが、同じ勲章を二つくれるところもありますけれども、そうでなしにいろいろなしるしをふやしてやるところがあります。勲章というものは、ばかげたものだといつてしまえばおしまいですが、ばかげていない。また当人にとつてそれが非常に奨励になり、またみなから見ても信望ができるというならば、やはりこれにはだんだん年功による、また重なつ功労による表彰が、形の上で現われることが必要じやないかと思うのであります。それで私は日本のことをお話するよりも、私が二十四年も向うを歩いて勲章でもつていろいろ苦労したことをちよつとつけ加えさしていただきますが、天皇陛下が向うへ、ちようど御二十のときに皇太子として行かれたときに、天皇陛下が行かれれば勲章方々つて歩かなくちやならぬ。これがお供と在外公館の者にはきわめて悩みであつた。今度はそれがないことは、まことに在外公館もお供も楽なんですが……。それでイギリスは非常に勲章についてやかましいだけに、よその勲章についても、そうのどから手を出すようなことをしないのですが、ほかでは実にござんなれとばかり手を出す。ちようどロンドンからベルギーのブラツセルに行かれて王宮に三日おとまりになつたときに、王様の秘書官というのが来て、ずらつと勲章の要求を百何十並べた。そうしたところが、お供をしておる連中が、ベルギーなんという吹けば飛ぶような国が、——ちよつと表へ出しては言えないが、イギリスでほとんど二週間御滞在になつたよりもよけいなものをもらうという法があるかといつて西園寺八郎なんて、私は兄弟なんですが、けんかを始めたのです。ベルギーと戦争じちまえと西園寺は言つたのですが、(笑声)私は国によつて違うと言つたが、しかしあまりに要求のひどいことに私も憤慨して断つたのです。そうすると、向うの国王秘書官のいわく、一体あなたはその国々の風習や伝統を知らないんだ。イギリスでは勲章というものは非常にやかましい。ベルギーでは勲章ほどうれしいことはなくて、勲章をもらえばその略綬を寝巻きにでもつけて、朝夕喜ぶという国なんだから、その国風を考えたらどうかということで、よほど勲章がよけいまたもらわれたというような喜劇があつたのです。ところが今度皇太子さんが行かれるので、私は松井君にそう言つたのですが、これにいろいろなことの御参考にひとつ申し上げますと、勲章はどうしてもやれない、しかし非常に世話になつたという人に何かおみやげがいるというと、まず銀の花いけとかタバコ入れを上げるわけです。私どもは向うで出かせぎのもうけでもつてたくさんそういうものを持つております。そして、大使のときはこんな大きい花びん、公使のときはこんな高い花びん。それから参事官のときにはタバコ入れの大きいの、書記官のときにはタバコ入れの小さいの。それから領事のときは大体カフス・ボタン。私はそれを全部持つているのです。そして、ああ、あそこは公使だつたな、というようなじようだんを——こんなところでこんなじようだんを言つてははなはだ相済みませんが、そんなことでした。ところがそれが大間違いなんです。そういうものをやつたために、たとえばルーマニアに東久邇宮のお供をして行つたときですが、向うの人は勲章がほしくてしようがない。それで勲章をもらえない人にタバコ入れをやつたら、あくる日すぐに古道具屋に入れてしまつた。というのは、もう一息行けば勲章をもらえたのに、そこにちよつと行かなかつたためにもらえなかつたというのはばかげている、といつて憤慨のあまり御紋章付タバコ入れを売りに出たというのです。そういうわけで、勲章のありがた味ということについては、あなた方がここで御想像になれないほど外国で値打ちをつけているのです。従つて国際的にいろいろなところで活動される方々にとつては、宴会とか何とかいうときに、それがやはりある意味で国際的には役立つものだということは、考えていただきたいと思うのです。それは、インドのマハラジヤあたりがとてもりつぱな宝石を頭につけて夜堂々と出て来ると、リツトン卿と一緒に並んでいても、あれでもやはりインドは偉いものだ、というふうにぼくらでも感心するというような人情がありますし、また当人の満足さも日本人よりはよほど多いものですから、そういう意味でも多少はひとつ考慮していただきたい。しかし私がつくづくここでお願いしたいと思うのは、国民の盛り上る力がその裏にほしいということです。国民に、何だばかなことをして、位なんて何だ、勲章なんて何だと言われながら、それをつけることは当人だつてありがたくないのだから、その意味においては、根本の方針はこちらではつきりおきめになつて、その中でいろいろ考慮を払われれば、いただく人も非常におもしろく考えると思います。天皇からいただくとかあるいは総理からいただくとかいう問題は、これは憲法学者とか何とかいう学者に聞くよりほかないので、私どもわかりませんが、とにかく栄典というものはそうばかにしてはいけないということと、しかしそれには、その裏に国民の盛り上る力がついているということを、ぜひお考えを願いたい。私は頭が悪いので、何も要点の方へ入らずにでたらめなことを言いまして済みませんでした。
  24. 船田中

    船田委員長 ただいまの武者小路公共君の御意見に対して御質疑はございませんか。
  25. 大矢省三

    ○大矢委員 今、位のことについてそれが必要だというような御意見があつたのですが、この法文によりますと、御承知のように十六級になつておるのです。こういうふうにたくさんなものが必要かどうか、このことについてだけお尋ねしたいと思います。
  26. 武者小路公共

    ○武者小路公述人 その問題ですが、私は今あまりこれに立ち入らない方がいい。というのは、ほかの方の勲章とか、いろいろこちらでもつてみんなが賛成されてやられるのが簡単になつたためにお困りになることが必ず来ると思うのです。それの補助としてというとおかしいのですが、いろいろ御考慮がいると思います。たとえば私自身が困つた話を、失礼ですが申し上げますと、嘉納さんが西洋から帰られてシンガポールで死んでしまわれた。そのときに男爵を出そうという議論がほとんどまとまつておつたのが、死んだ人には男爵はやれないというのでやめになつた。それから、やはりこれも爵の問題ですが、桜井錠二さんが男爵になるというときに、それを西園寺さんのところへ行つて聞くのもおかしいからというので、興津に電話をかけて私は聞いたのです。そうすると西園寺さんは、実は私の方から聞こうと思つていたのだが、あなたの方からそれを言われるのは嬉しいというので、非常にほめられたことを今もつて私覚えております。ところが今になつて私考えるのに、嘉納の息子さんがヨーロツパで大いに柔道の宣伝をやつて成功しているのを見ると、嘉納さんに爵というものはないが、勲章なり位なりがあつたら私はなおいいのではないかと思うのです。というのは、バロン・クーベルタンとかバイエ・ラツールというようなフランスベルギーあたりの、今のオリンピツクの元勲の連中はやはりそれでもらつたのではないか。一つの高い地位を表彰するのに、何かやはりそういうものがついておつたらたいへん値打ちがあるような感じを一般に持つておるのです。  ところでこの位なんですが、今おつしやるように正八位までいるかどうか、そしてまた勲章の方も勲八等をやめられてあそこでとめられたのは私はいいと思うのです。それから私どもいつでも困つたのは、勲一等、勲二等というのを横文字に訳すと、向うの人はグランド・クロスとかコマンダーというような名前で呼びなれている。コマンダーならいいが、自分は三等になつたんだという場合にはぐあいが悪い。何等々々というのは日本だけなんです。そこで位の方も、これは西洋人に何も関係ないし——西洋に行つてこの位をつけると向うは何だと言うのです。私の名前は公共というのですが、私が信任状を捧呈したあくる日の新聞には従四位武者小路と出ておるので、私は自分で自分の名前を疑つたくらいですが、外国では勲章を出すのも何だから位で失敬するとか、また特殊の功労はないけれども、年功によつて実に忠実なるサービスをしたというようなときには、位の方がぴつたりするような場合はたくさんあるのです。そして、  この間も松井君が話しているのに、今度は幸い向うで勲章を上げないけれども、大勲位なんというのは百万円かかるのだそうです。ところがそれを松井君に私は言つたのですが、日本勲章はあまりみえ坊でよ過ぎる。西洋の勲章はその何十分の一だ。私どもはヨーロツパでいただいた勲章を焼いてしまつて、ヨーロツパの方々の大使館へ行つて勲章がないとそこに出られないものだから、パリの裏の方に行つて買つたのですが、五百フランです。五百フランで大綬がみんな買える。だからその点は、今度勲章をつくるときにはなるべく体裁よくて安い勲章をつくるように考えていただきたい。中にはその国の人には勲章をやらないところも多いのです。従つて私はベルギーでもつて勲章をもらつて、その略綬を買いに行つたら、そこににこにこしたベルギーの人が勲章を買つているのです。君は勲章を買うのかと言つたら、勲章を買わないでどうするんだ、こういう辞令をちやんともらつているから、勲章を買うんだと言つて、先生高い金を払つて勲章を買おうとすると、何だか変だ。見るとそれは奢侈税の札がある。勲章をいただくと、自分の方で奢侈税を払う義務があるというようなこつけいなことなんです。それで向うでは議員方が勲章をもらわれるということは非常に少い例で、ルシユールとかブリアンなんかは、レジオン・ドヌールの赤い短かいリボンをつけるだけで、大きな勲章は自分が手盛りする危険があるというのかやらない。けれどもそういう勲章をだれか功績があつてもらつたときは、自腹を切らないで、友だちがみんなで寄つてその勲章を贈呈するのです。これは私は議員の方々なんかが何か旌表のものをおもらいになつたならば、ぜひ議員を選出している方々から、ダイヤモンドつきのそういうものでもおもらいになつて、それをつつて歩かれれば、どのくらいそういう連中から信頼を得ておるかのこれが章表として愉快でもあると思うのです。それはお勧めしますが、要するに金をかけるということは必要ないのです。しかし位というものはただでやるのです。そしてそれがやはりある意味では——私どもでもそんな意味はないと思うのですけれども、だんだん世の中がかわつたら、案外そんなに急によさなくてよかつたなあとおつしやることもあるのではあるまいか。私の旧式な議論で、いくらでも反対があると思いますけれども、ちよつとそういうふうに考えます。
  27. 船田中

    船田委員長 次に日本労働組合総評議会組織部長石黒清君にお願いいたします。
  28. 石黒清

    ○石黒公述人 石黒であります。本公聴会において、私が栄典制度の問題について公述するということは不適当かもしれません。ということは私は一平民でありますから、位だとか勲章というようなものにあまり縁がありません。大東亜戦争で死んでおれば、もちろん終戦にならぬ前に死んでおれば、金鶏勲章までは行かないだろうが、死んだというしるしの勲章くらいはもらえたかと、こう考えております。問題は栄典制度公聴会において、私がこのようなことをこれから申し上げて、はたして公聴会としての意義があるかどうかという問題については、多少疑問があるところでありますが、私は子供のころ、といいますと、今の満でいいますと十一半くらいから社会に出て働いて来たわけですが、そういう過程の中で、この栄典制度というものがどういう状態で日本の場合には使われて来たか、こういう関係をわれわれがはつきり知らないと、今吉田内閣によつて提案されておる栄典制度の意義というものがぼかされて来るのではないか、かように考える次第であります。かつての軍国的といいますか、帝国主義的といいますか、あのような日本がいけないということで、勲章を胸にたくさんつけた方々が市ヶ谷の裁判で絞首刑になつたことは、私たち国民としてはまだ忘れがたいなまなましい現実であります。勲章を多くつけておる人々が絞首刑の一番重い罪になつた。そういうことがかつての帝国主義日本の状態をはつきり現わしているわけでありますけれども、昔の日本というものを私たちが考えてみまして、今ささやかな希望を抱いて、平和な日本をつくろう、民主的な日本をつくろう、ほんとうに汗を流して働く人たち、農民もあるいは労働者もまた家庭の主婦も、そういう人たちが仕合せになるような日本をつくろうということで努力をしているわけでありますけれども、かつて日本はどういう状態であつたか、資本家や地主や、今そこでお話された武者小路さんというような、そういう特権階級といいますか、貴族あるいは官僚、こういう人たちがかたまりになつてつて日本を支配しておつた。この支配の中でわれわれがしみじみと感ずることは、民草よ風になびけ、こういうことでありまして、実際の意味では私たちは人間として認められていなかつた。水害があつた場合には、農村の娘さん方は男のもてあそびに売られて行くのは当然のことになつておつたし、私たちは小学校もろくさま行かないうちに奉公に出されることも当然のことにされておつた。こういう一億か九千万かわかりませんが、そのうちの大半はそういう状態の中でおつたことは事実であります。こういう権力階級といいますか、いわゆる一部の、ほんとうの一にぎりの人たちが私たちの犠牲の上に立つて大きくふくらんでおつたことは間違いがございません。そうしてこの人たちは国内における大衆の収奪が困難になる場合には、軍隊といいますか、軍閥といいますか、こういうのを動員してかつての満州にしても、また諸外国に対しても侵略を開始したことは間違いがありません。国内にはそういう状態で大衆を収奪する場合に、当然起きて来る問題として弾圧法が必要であります。だから治定維持法によつて、吉田総理大臣もこの治安維持法か何かわかりませんが、憲兵に拉致されたことがある。終戦近くなりますと、軍閥が血迷うたので、そういうことがあつたようでありますが、共産主義とか社会主義とか、あるいは労働者がささやかな、生活をよくするとか、そんなことも全然問題にならぬ。そしてほんとうにクリスチヤンまでが治安維持法のために、あのような弾圧を受けたことは歴史が示すところであります。そうしてこのようなことをするためには、警察の強化が必要であります。特にスパイ的な、政治警察的なものを強化しなければならない。それだけではあまりにも、労働者や農民や一般国民大衆を搾取した上に立つてたくさん胸に勲章をつけていることがおもはゆいのでもありましよう。そういう観点に立つてつて栄典制度があつたことは間違いがありません。天皇陛下のためにということで、金鶏勲章功何級かわかりませんけれどももらつて、幾十、幾百万人の人々が死んで行つたことも間違いがありません。しかしその天皇陛下のためにということは何であつたかといいますと、先ほど申し上げました資本家や特権階級、地主、官僚、こういう人たちのほんとうの一にぎりの人たちの幸福のために、宴会のために、ダンス・パーテイのために、数多くの血を流したことは間違いがありません。従つてそういうことが大衆にはつきりわかつたのでは困ります。だから天皇陛下のという名のもとに栄典制度がしかれ、そのような機構に対して協力した者に対しては勲何等とか、従八位とか、そういう位階制度、あるいは一生懸命で労働者を安い賃金で——私は坑内に入つたときに毎日十四時間も働いたことがありますけれども、そのようにして、一生懸命で労働者や農民や一般国民大衆をしぼつて、利益を得た人たちがお金を政府に対して寄付いたしますと、とたんに男爵になる。だから昔の栄典制度のおもかげというものは、勲章が多くなれば多くなるほど、地位が上であればあるほど、そのことは国民大衆をしいたげ、しぼり、殺し、傷つけ、いためつけた証拠以外の何ものでもなかつたのであります。従つてそういうことをはつきり徹底するためには歴史の中で、修身の中で学校の先生に教壇でそれこそくどいくらいに天皇の御真影を中心にして、いとけない子供に人殺しを教える。天皇陛下のために死んで行くことが正しいということを教える。こういうことで教育というものがはつきりとフアツシヨ的な教育、そういう形で天皇制という制度を利用して、資本家や地主や特権階級官僚が生き長らえて行き、その罪悪の結果が大東亜戦争となり、敗戦となつた現実をわれわれは見のがすことができないのであります。ところがこのような過去の栄典制度勲章というもの、地位というもの、こういうものが再びこの公聴会において論議をされておる。私は悲しみを覚えます。そしてこの公聴会において論議されておる栄典制度というものと一緒に、再び教育のフアツシヨ化、警察の強化、ささやかなみじめな生活をよくしようとして行動を起す労働者に対する弾圧、良心的な文書を表わし文字を書く人たちに対する破防法、あらゆるものがはつきりと本国会において総仕上げをされようとしておるのであります。再び私たちは戦前の日本にもどろうとしておることは間違いがありません。そして今度の栄典制度の中では産業功労章だとかいろいろなものがつくられておりますけれども、この産業功労章にいたしましても、これができた場合にどういう形で利用されるであろうか、私は何かまぶたに浮ぶような気がいたします。一生懸命に職場で働いて、働いて働いて、資本家の喜ぶような仕事を一生懸命でした人、わが子もわがからだも犠牲にして、一生懸命で一部の人たちをふとらすために安いお米を出す農民のお方、こういう人たち産業功労章をもらうようになるのでありましよう。もらつた次の日に炭鉱の坑内では、そのもらつた人がもらつた感激に胸をふるわして一生懸命で働いたために、落盤にあつて死ぬのでありましよう。そのようなことを考えてみたときに、私は何のために市ヶ谷裁判があり、何のためにわれわれはポツダム宣言を受諾し、何のためにわれわれは平和憲法の中に生きる喜びをあの虚脱状態の中からささやかに感じて動いて来たのか、働いて来たのかということについて、しみじみと怒りを覚えます。  私は現在の労働運動の中では、吉田政府も言つておりますし、労働組合の中でも、私を盛んに極左的暴力主義だと言い、総評の幹部はどうだこうだと言つておりますが、私は復員後何をやつたかといいますと、一番初めにやつたことは、ポツダム宣言は正しい、従つて労働者のことだけを考えて、国家全体を忘れているのはいけない、だから今こそ経営者も労働者も一緒になつて石炭を増産すべきであるということで、その増産運動が共産党と闘う労働運動の中へ入つたのであります。私は北海道の片すみで共産党と闘つた。増産運動の中で、北海道における三井砂川鉱業所といえば、あの当時増産に輝く鉱業所でした。そこで私は組合の中心的な役割をやつて、一生懸命で増産に邁進をしたのであります。ところが二十三年を過ぎ、四年を過ぎ、五年を過ぎ、そして二十八年の本国会においては、何が論議されているでありましようか。戦前の国民大衆のように、ほんとうに一部の人たちが地下運動とかいいまして、地下にもぐり、隠れ、ピストルで殺され、牢屋で殺される、そういうときの労働運動や社会運動と、現在の日本の運動は違うのじやないか、私のような無学無才な者ですから、ささやかではありますけれども、このようなことをはつきり公聴会で申し上げるだけの力を、敗戦の虚脱状態の中からつかみ出したのであります。ましてや八年間の平和憲法に基く民主的な平和教育によつて育てられた現在のわれわれの後輩、男の生徒も女の生徒も、八年間の教育の中で先生の言うことを最も正しいと信じて営々と学んで行つたその教え子たちに、はたして先生が次の日から教壇に立つて御真影を飾り、皆さん、天皇人間であるということを敗戦後言いましたけれども、これは人間ではなかつたのだ、栄典制度もできたし、単なる象徴ではないのだ、これはやはり神ながらの人である、こういうばかげたことを再び言い得るでありましようか。もしも多くの児童を預かる先生方がそういうことを再びやるとするならば、その先生方は良心がないのでありまして、すばらしく盛り上りつつある日本の民主的勢力がそのようなことを許すわけはありません。従つてこの栄典制度のもたらすものは、昨年の国会、本年の国会ではつきりと打出された破壊活動防止法、警察法、ストライキ禁止法、義務教育費全額国庫負担の美名に隠れて先生をまた、吉田総理大臣天皇かわかりませんけれども、一部の資本家、地主、特権階級官僚、こういう人たちを擁護するための教育に動員するような法律であつて、こういう弾圧政策と結びついて、大衆を栄典制度産業功労章、あるいは昔の金鶏勲章にかわる功労章で今度は金章と銀章ができるそうでありますけれども、こういうものをつくつておいて再び若い青年を朝鮮やインドシナにやる。何のためにやる戦争かわからないで、そういうところに青年がはたして行くでありましようか。ラジオやテレビや商業新聞を通じてどのようなマス・コミユニケーシヨンをやろうとも、とうとうと盛り上りつつある、ほんとうの人間の新しい社会を建設するために努力しつつある日本の青年諸君、夫を恋人を戦場に送つてはならないという婦人、労働階級、農民、しいたげられつつある一切の大衆が、武者小路さんが言つたような、五百円で買えるような勲章をもらつて生命を失うかどうか。こういうことについては、私は国民の予算を使つて国会が運営されている以上は、国会では国民大衆の現在考えていることをもう少し考えて、栄典制度の問題についても考えて行く必要があるのではないか、かように思うものであります。特に栄典制度の問題について、もしもつくるとするならばどういうものが必要なのか、新聞でもラジオでも多く言われておりますから、皆さんも御承知だと思いますけれども、一高等女学校の生徒石川皐月さんが選挙の問題とからんで村八分になつた。憲法には何と書いてある。憲法のもたらすものとして、ここにはつきり書いてありますけれども、これはただ単に日本憲法だけの問題ではない。「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。こういうぐあいに書いてあり、主権が国民に存するとはつきり書いてあるわけですが、その選挙は政治国民にあるという意思表示の最も大事なときであります。この憲法の基本原理は主権在民という形の中ではつきり表われておるのであります。従つてあのような封建的な村で、自分のお母さんやお父さんや自分の運命をもかけて主権在民を守り続けようとしておる石川皐月さんさんのような人こそが、私は栄典制度で第一回に功労章をもらうべき人であると思う。またポツダム宣言において、あるいは憲法においてわれわれは武装を放棄する。マツカーサー元帥もこれをほめたのでありますけれども、平和と民主主義は新しい憲法のバツクボーンである。従つてほんとうの意味での平和民主主義、こういうことのために努力した人こそ功労章に値する。私が総理大臣ならば、こういう人に正一位を与えるのでありましよう。従つてわれわれが考えるものは、国民憲法である、国家国民のものである。正義は国民生活と結びついたものでなければならない。従つて一部の人たちが、箱根で、伊香保で、熱海で別荘をどんどんつくり、一般大衆が坑内で、農村で血みどろになつて働いているときに、芸者をあげ、第何号かを置いてやつておる方々が正何位だとか、大勲位、瑞宝章だ、功労章だ、こういうことを考えただけでも私はさびしくなります。従つて新しい功労章、もしそういうものがありとするならば、そういうものを設けるべきである。  それから最後に一言つけ加えておきますが、今の政府にいたしましても、いわゆる私たちが言う意味での民主的でない人、平和的でない人、こういう人たちは、口を開けば共産主義の侵略、ソ連の侵略、中共の侵略、こう言うことで国内にあるところの私たち国民大衆が収奪され、はつきり侵略されておるところのそういう事態を、そのような大量宣伝によつて、ごまかそうとしておるのであります。そうして栄典制度でごまかそうとしておるのであります。しかしわれわれがほんとうによく見なければならないのは、そうしてまた政府や反動的な人たちが恐れているのは、ソ連や中共ではないでありましよう。栄典制度で、ごまかし、大量宣伝でごまかし、権力で弾圧し、そのようにして労働者や農民、十分に国家の機構について、自由党内閣の政治についてわからない人たちを、ごまかしたり、おどかしたり、弾圧したり、こういうぐあいにして大半の国民大衆を収奪しているがゆえに、苦しめているがゆえに、その苦しめられている人々がいつか立ち上るのではないか、いつか潮が来て流れるのではないか、そういう恐怖におびえているではないか。その証拠に保安隊の強化にしても、警察の強化にいたしましても、その証拠が歴然としておる。二十世紀の後半を過ぎた近代社会において、ソ連にしても、アメリカにしても、特に中共の場合はどうでしよう。アメリカを中心とする国連軍を相手にしながら、二年間も朝鮮で戦争しておる。ところがその戦争をするかたわらに、あの中国の民衆が幾千年にわたつて苦しめられた黄河や、こういうところの護岸工事を完成したではありませんか。偉大なる生産力であります。ましてや水爆、原爆、あるかどうかわかりませんけれども、あるいはあつたとしても使うかどうかわかりませんけれども、細菌、ナパーム弾、ジエツト機、こういう恐るべき近代戦争がもし起るとすれば、地球上が破壊されるような現代戦において——日本は過去において満州を持ち、あらゆる植民地を持つて、多くの大衆を苦しめて軍備を持つたが、その大和も、武蔵も、隼も、あるいは学校にある教練用の木銃一ちようすらなくなつたではありませんか。一兵、一銃、一弾をも余さず、あれだけの力を持つていながら滅び去つた日本が、富士山の上までが植民地になろうとしておるとき、六百幾つの軍事基地があるとき、治外法権の場所が全国津々浦々にあるとき、そうして貿易が不振でほんとうに困つておるときに、何をもつてこのような戦争に参加して勝ち目があるというのでありましようか。もしもソ連が敵だとして、その敵は、根室の岬へ行くと、ソ連の兵隊が歩哨に立つているのが見えるのであります。もしも敵だとして、こういう近接した敵との関係の中で、今ある保安隊ではたして日本が守り得るのでありましようか。守り得ないことは、科学的にも歴史的にも歴然たる事実であります。もし日本を守る道があるとするならば、それはポツダム宣言を守り、非武装の平和憲法を守つて、全世界の人類に対し、われわれは戦争を絶対にやらないのだ、ばかげた勲章もつくらないのだ、こういうことの方がずつと日本を守る道になるのではないかと思う。それなのに、今年度の予算においても昨年度の予算においても、おもちやのような保安隊の強化をやつている。これは国際的な戦争から見ればそうですが、国内的には厖大な威力であります。警察権力の強化や保安隊の強化によつて、もしも起きたとして、相当強力な革命を威圧する力は持ち得るでありましよう。しかし李承晩政権にしても、蒋介石政権にしても、現在の吉田内閣にしても、堕落はもう底をついている。このような腐敗堕落した政治に対して、保安隊や警察力の強化、あるいは教員組合の政治活動を弾圧したり、いろいろなことをやつて栄典制度をつくつたり、新聞でいろいろなことを言つてごまかしても、そのような大衆の抵抗を押え切ることはできないのではないかと思う。私は総評の一幹部として、このような吉田内閣のほんとうに日本の前途を誤り百年の大計を誤る政治に対して、断々固たる闘いを展開しておるのである。しかし私はあの三たび四たび鉄のローラーをかけられた朝鮮民族のような国土には、日本の国土をしたくない。従つてどのような苦しみがあろうとも、平和的に吉田内閣にやめてもらつて、ほんとうに苦しんでいる労働者、農民、一般国民大衆の政治を確立したいということで行動をしているものであります。従いまして先ほど申し上げましたように、戦前のような警察法の問題、教員の問題、労働者のささやかな抵抗を押える問題——四百五十億の旧軍人恩給を出しながら、ちまたで泣き叫んでいる、電車の中で、あの三宅坂の平和の塔の前で騒いでいる、悲しみを訴えている傷病者に対しては、何らのほとんどといつてよいくらいの措置も講じない吉田内閣の本質がもたらす栄典法案に対して反対をいたします。
  29. 船田中

    船田委員長 ただいまの石黒清君の御意見に対して御質疑はございませんか。——御質疑がなければ、次に毎日新聞論説委住本利男君にお願いいたします。
  30. 住本利男

    住本公述人 栄典制度の問題につきまして、私の考えておりますことを申し上げてみたいと思います。  これは憲法規定にありますことで、この栄典制度をやるということ自体については、私は別に反対をしておらないわけであります。この栄典制度自体は、先ほど武者小路氏が言われたように、歴史的な背景というものがいつもあるもののように思います。たとえばイギリスの栄典制度などを見ましてもそうなんです。ところが日本の場合は、この敗戦により、それからまた新憲法その他の新しい制度組織に民主正義的な要素が入つて来ましたために、イギリスのような歴史的な背景をそのまま持つて生きて来たものとは少し種類が違つて来るのではないか。現実に国民もこの栄典制度勲章あるいは位階などに対してはさほど関心がない。資料として与えられましたこの輿論調査の結果を見ましても、一般国民勲章制度あるいは位階の復活に対して興味、関心が少い。こういう点を見ましても、われわれは栄典制度を復活する場合にあたりまして、その点を十分に考えなければならないのではないか。かつて勲章あるいは位階というものが、日本官僚制度と結びついて並行して出て来たような感じを受けます。ことにこの運用にあたりましては、たとえば今度の栄典制度にはございませんが、官吏がすぐに叙位、叙勲を受けるというような制度がありまして、現実の勲章あるいは位階を与える制度を見ておりますと、いわゆる官尊民卑、官僚だけがこの栄典に浴しておつたような傾向が非常に強いのであります。こうした点を顧みるのと、もう一つは先ほど申しました、国民勲章位階というものに対して興味がない、これを復活したいという意欲も至つて少いと私は考えます。こういう二点を考慮して、栄典制度については、設けるとしましてもできるだけ簡素なものにしてほしい。しかもその運用を——今度は法律によつて調査会ができて、その調査会の審議を経た結果行われるようになつておりますから、その点の運営についての監視機関、運営機関がございますから、まだよろしいと思いますけれども、しかしとにかくとして簡素でしかも濫用しないようにしてほしいと思います。文化勲章なども、これは長い間恵まれなかつた文化人に対する栄典制度でありますために、文化勲章をやらなければならない人がたくさんだまつておつたせいかもしれませんけれども、これなども最近は濫発し過ぎるような感じを受けます。ですから簡素化という点と濫用を慎むという点を、特に栄典制度の復活及び運営にあたつては注意してほしい。われわれ野にある者から見ますると、勲章やあるいは位階がなくなつたということは、ある意味ではまことにさつぱりとして気持がよいくらいなのであります。これを復活する意味合いというものはいろいろあると思います。憲法では陛下の国事権になつて規定されている問題でもあります。本質的には反対はいたしませんが、しかし重ねて申すようでありまするが、簡素化と濫用をしないことという点は特に注意していただきたい。イギリスの勲章制度を見ますると、一定の勲章については授与する個数の制限があるようです。この個数の制限をすることなども、見方によつては、濫発を避ける意味で非常におもしろいのじやないかという気もいたします。  今度の栄典法案内容を見まして私一番ふしぎにたえないのは、位階制度であります。正一位以下十六位までにわかれた位階制度、これは確かに宮中の制度とともに発達し、あるいはまた宮中席次によつて設けられたものだろうと思いまするが、今日の新憲法のもと、あるいは今日の情勢からして、位階制度などというものは設けない方がよろしいと思います。こういうものを設けますと、かえつて憲法規定にある特権を伴うおそれが多分にあると思います。栄典を与える場合に特権を伴わないように、しかも戦前のようにもつぱら官僚その他の栄典だけに使われるようなものはやめてほしいと思います。これはもちろんすべての国民は法の前に平等であるという新憲法の精神からしても、こういう位階制度はどうしてもやめていただきたい。勲章制度をいろいろ拝見いたしますと、菊花勲章というのはおそらく宮廷用のものだろうと思います。問題はただ、旭日になると思うのでありますが、旭日なども、私が先ほど申しました簡素化という点から、あまり差等をつけないように簡単なものにした方がよろしいと思います。もう一つは、この法案を見ますると、前に一ぺん与えた勲章はそのままつけてもよろしいというふうなことになつておるようです。しかしこれはどうも私としてはうなずけない。すでに現実に栄典制度にない、たとえば瑞宝章であるとか宝冠章であるとかいうものを着用すること自体、栄典制度の本質にもとると思う。新しく栄典制度設けるという意味合から、すべてのものは御破算にして、新しい憲法のもとで、その憲法の精神に沿つた、簡素で、しかも国民にとつてほんとうに功労のある人たちに与えるようなものにしていただきたい。そういう意味合いで行きますると、栄典法案は前の制度を多少生かし、あるいは新しい憲法の精神を生かすという意味で非常に努力はされているように思いますが、むしろこの際は思い切つて整い、われわれ国民の感情に合つた栄典制度をつくるような立場に切りかえていただきたい、こういうふうに考えるわけであります。大体私の意見はこれだけであります。
  31. 船田中

    船田委員長 ただいまの住本利男君の御意見に対して御質疑はございませんか。それでは次に日本学術会議会長亀山直人君にお願いいたします。
  32. 亀山直人

    ○亀山公述人 私は栄典制度の復活に対しては異議ありません。しかし私がここで申し述べたいと思う意見は大体次の三つであります。第一は、位の制度は廃するのが適当と思います。第二に、勲章授与国家公務員に片寄らぬように切に注意せらるべきだと思います。第三に、旭日章、宝冠章及び瑞宝章を有する者については、今後栄典としての効力ないものとせらるべきものと思います。  第一の位の制度の存置せられるにつきましては、法案提出の理由の説明においてもすこぶる漠然としておりまして、ただ表彰の方途に潤いを持たせたいと思つて存置するというだけでありまして、実際それを存置せられるだけの確固たる理由がないのであろうと思います。位は十六階級にわかれておりまして、たいへん小刻みであります。かように国家あるいは社会に対する功績を小刻みに評価するということは非常に困難でありまして、功績を低く評価された者は常に不平を感ずるのが自然であろうと思います。栄典を与えて社会的に優遇を与えるという趣旨に沿わなくなりまして、かような小刻みの評価が困難なために勢い国家公務員の動続年限によつて機械的にこれを与えるというようなことになつて、特に特定な人の功績を認めるといろ意味を持たなくなると思います。結局位は栄典たる本質を失つて、一種の機械的な称号にすぎなくなると思います。栄典に対してせつかく新とい制度設けるには、かような無意味な位は廃されることが適当と思います。  第二に、国家公務員にのみ厚いということのないようにしたい、こういう考えでありますが、敗戦の前には、栄典授与せちれる者は大体官吏と軍人に限られている。限られてはいなくとも、すこぶるそれが多かつたのであります。これらは天皇制時代に天皇に仕えた功績を賞せられたのでありましようけれども、今憲法も改められまして、主権在民になつたのでありますから、これからの栄典日本国あるいは日本社会に貢献した功績に対して、民間人でも十分授与せらるべきであります。何人であつて文化に貢献し、あるいは産業の発達に貢献し、あるいはその他の方面での貢献でもけつこうでありますが、その貢献がりつぱであれば、それぞれに文化勲章産業勲章あるいは旭日勲章授与せられるのは適当と存じますが、その際国の雇人である国家公務員が、雇われたゆえんである仕事をただ瑕瑾なく何年かやつたということにだけ重きを置きまして、戦前にはそれが多かつたのでありますが、それに勲章を与えるというようなことのないことを、切に希望するのであります。  第三に、在来の瑞宝章、旭日章、宝冠章というようなものを今後停止をせられたいと思うのであります。在来の瑞宝章のようなものは、今申しましたように、多くは機械的に官吏の年功に対して与えられたものが多いのでありまして、新しい栄典制度をつくられまして、まつたく気持を新しくする場合に、そういう古いものが同時に行われますと、新しく制定せられた旭日勲章を与えるというような場合に、古いのとのつり合い上、やはりまた官吏としての年功何年というようなことを考えて、そして新しい旭日勲章階級を与えるということになりはしないかと思つて心配するのであります。ですからこの際制度を新たにする場合には、在来のものはさつぱりと無効ということにせられることを切に希望するのであります。そうして新しい栄典制度理想的に作用させてもらいたいと思うのであります。  これを要しまするに、今度の栄典制度の骨子は、菊花勲章というのは私にはよくわかりませんが、大体文化勲章とそれから産業勲章と旭日勲章と、こういう三本建で行こうという御趣意のように感じられます。それで文化勲章につきましては、文化に貢献した人を相当厳選をしているので、今までのところでは大体けつこうだと思つております。産業勲章ができまして、これに階級もなし、おそらく文化勲章と同じような考慮でやられるだろうと思いまして、これもけつこうだと思います。その第三の旭日勲章につきましては、もしも瑞宝章等を廃しまして、それらとのつり合いなどを考えないで、新たに階級なしに単一の勲章として与えられますならば、文化産業と旭日との三本建になりまして、たいへんにいいものとなると思います。それですから私はこの旭日勲章につきましても、階級のない単一なものとせられることを希望するのであります。  大体私の意見はこういうものであります。
  33. 船田中

    船田委員長 ただいまの亀山直人君の御意見に対して御質疑はございませんか。——では次に関西経済団体連合会会長関桂三君にお願いいたします。
  34. 関桂三

    ○関公述人 栄典法案につきましてお呼出しにあずかりましたので、関西財界人の集まりの機会とか、あるいはいろいろの場合になるべく広く財界人の意見を聞いて参りましたので、その結果を総合いたしますと、大体次のようなことが言えると存ずるのであります。そして今申しますことは、私もそれを支持するものでございます。  第一番に、栄典制度につきましては、関西の財界人は現在のところ一般にきわめて関心が薄いのであります。その理由として想像しますところは、戦敗の結果栄典に対する考え方がかわつたということに起因すると思いますが、従来の栄典制度は、大体特権階級のもののような感がありまして、いわゆる町人でありますところの実業人には、すこぶる縁の遠いものであつたというふうに考えられている結果、かように関心が薄いのであろうと存ずるのであります。  第二番目に、しからばこの制度を新しくつくることに反対であるかと申しますと、必ずしもそうではありません。従来のままの制度を従来の通り運用せらるるのであれば、たとえば外国人に対してのみ残しておくとか、あるいは今ある勲章の中でも、国内人に対しても文化勲章のようなものは、割合に評判がいいのでありますから、そういうものは別といたしまして、大部分は無用の制度と考えまして、無視する態度のように見受けられます。しかし真に国家社会に尽した功労を表彰する新しい制度でありますならば、国民精神の作興の上から申しましても必要であろうというのが、大多数の意見であります。つまり従来のごとくに、功労に対してではなく、ある地位にある者にはほとんど自動的に授与せられるというふうな制度には反対でありますけれでも、地位に対してではなく、行為功労そのものに対する国民的感情を表彰する制度であるならば、必要であろうという意見であります。  従いまして三番目に、新栄典制度は現在の制度を全然御破算にいたしまして、まつたく新しいものとして再出発すべきであるという意見であります。この意味におきまして、勲章の名称のごときも、既存のものとまぎらわしい呼称はなるべく避けた方がいいという意見であります。但し先ほども申しましたように、文化勲章のごときは評判もいいのでありますし、国民感情に合致しておりますから、存置せられてもよかろうというのが、第三番目の意見であります。  第四番目に、現在の勲章の中でも、文化勲章が一般から高く評価され、尊重されておるということは、新制度の制定にあたりまして最も考えなければならぬことと思うのであります。つまり文化勲章は、その授与の対象が国民感情によく合致しておるということが、勲章そのものを権威あらしめるであろうと存ずるのであります。  第五に、産業の発達に尽す功労も、国家または公共に対する功労である点におきましては、政治あるいは外交上の功労と何ら区別すべき理由がありませんから、特に産業だけに特別の勲章設けるということは、意味がないではないかという意見相当ございますが、しかし先ほど申しました文化勲章国民から一般に尊重せられ、歓迎せられておるという実情にかんがみまして、たとえば工業技術上の大発明をする、あるいは大改良をやる、あるいは農事改良の上で著しい功績がある、あるいはそのほかに非常な苦心の結果、従来わが国になかつたような新しい産業を確立するのに成功した、そういうふうな顕著な功績、そのものに対して授与せられるものならば、産業勲章制度も意義がある。従つてその制定には賛成であるというのが多数の意見であります。  次に第六番目になりますが、位階制度は、ある行為仕事に対する栄典でなく、いわゆる人の上に人をつくろうとする思想に基く制度であるといたしまして反対する人が多いのであります。積極的に反対しないまでも特権を伴わないといたしますれば、何ゆえかかる制度が必要になるのか理解する人が非常に少いのでございます。かかる国民的理解の薄い位階制度はたとい設けましても権威がないと存じますから、少くともこの際は見合せた方がよかろうというのがほとんど全部の意見であります。  最後に、旧制度が権威を失墜いたしましたのは、濫発濫賞が最も大きな原因であろうと存じますから、新制度による栄典授与は、でき得る限り厳選主義によりまして、常に国民感情によくマツチするということに努めなければならぬと思います。この意味におきまして審議機構は各界におきまして最も信望の厚い公正な人々によつて構成せられねばならぬと存ずるのであります。  以上で終ります。
  35. 船田中

    船田委員長 ただいまの関桂三君の御意見につきまして御質疑はありませんか。——御質疑ないようでありますから、次に日本農民組合央執行委員伊藤実君にお願いいたします。
  36. 伊藤実

    ○伊藤公述人 私もこの栄典制度の復活には異論はございません。ただ今日の国会で審議をされておりまするところの予算案の中身にいたしましても、また独禁法の改正、あるいは武器製造法案にいたしましても、その他重要産業スト禁止法案、警察法の改正、義務教育費の問題等々、そうした今国会で審議されんとしておりますところの法律案、議案を見ますと、どうもこれが再軍備の地ならしをしておる感があるのであります。そこで今のような行き方をいたしますると、結局また日本が軍国主義あるいは警察官僚国家に行くことは、おそらく間違いないのじやないか、そういう際に栄典制度を復活させるということは、やはり再軍備の一環として戦争への一つの備えとして設けられるような感もいたすのでございます。そういう意味では私はやはり栄典制度の復活には賛成しがたい、こういうふうに考えておるのであります。がしかし、もしそうでないとして、そういう再軍備戦争への道に通ずる一つの備えとしてこの栄典制度が復活されるものでない、こういう場合に、そういうものとして復活を認めるといたしましても、この場合まず内容について申し上げますると、先ほども亀山先生が言われましたように、位階でございますが、この位階は、憲法によりまして決して特権が伴わない、あるいは一代限りのものであるというふうにいたしましても、この位階そのものが何か封建的なにおいを持つておる、いわば非常に古い封建的な感じがいたすものといたしまして、またさらに官吏のいわば恩賞のような形でこれが与えられたという点から見ましても、位階制度というものはやめていただきたい、かように考えております。  それから菊花勲章あるいは旭日勲章というものも位階同様、これまた古い封建的な残滓を認めるような、あるいはこれを温存させるような一つ感じを与えるものといたしまして、他のもつと適当な、たとえば平和勲章であるとか、あるいはほんとうに平和の上に立つた愛国勲章といつたような他の名称にこれをかえた方がいいように思うのであります。  さらにまた今までに授与されました勲章の効力につきましても、これは先ほど二、三の方が触れておりましたので申し上げませんが、輿論の調査から見ましても、その勲章をもらつた御本人、あるいはその勲章をもらつた方の細君というふうに、勲章をもらつた最も身近な人たちがこの勲章の権威を否定しておるということが輿論調査によつても明らかになつております。こういう点から見ましても、今までに授与された勲章の効力というものは、やはりこれを認めないというふうにすべきではないかと考えております。  なお、この制度が復活されました場合におきまして、それの運用というものは、十分国民生活と感情を基礎として、これに結びついた仕方を願いたい、かように考えるのであります。最近、農林省、農業協同組合連合会、朝日新聞社などの共催によりまする米作の日本一の記事をごらんになつ方々は多いと思うのでありますが、この米作日本一の賞にいたしましても、確かに賞に入つた方々は、熱心に技術の進歩に努め、いろいろと研究を重ねてそうした光栄を獲得しておるのでありますけれども、しかしながら民間における賞ではありますが、そうした賞を獲得し得る人たちは、一般の農民諸君から見ますととうてい手の届かないような経営の条件を持つておるからこそ、その人の研究なり努力が賞にあずかるような結果になつておるのであります。もしも日本の農民諸君が日本一の賞をもらつた人と同様の経営の条件を持つておるなら、土地なり家畜なりあるいは技術の上におきまして同様の条件を持つておつたならば、日本一の賞に入つた人と同様の成果をあげ得ることは考えられるのでありますが、何せ今の農民大衆の経営の条件というものは非常に劣悪な状態にあつて、そういう状態においてはいかに熱心に研究し、努力しても、とうてい日本一には入れない、こういう状況にあるのでありまして、この点を考えてみましてもよほど栄典制度運用につきましては慎重でなければならないし、またたとい、米作の上から行きまするならば、その数量においては下位にあつても、その経営条件から見ると非常な成績をあげておる、こういうような場合についても当然それが賞の対象になるという考え方において運用されるべきであるし、またそうするようにわれわれは望んでおるのであります。  以上この栄典制度を復活するにつきましては、まず第一にこれが再軍備と戦争のためでないということ、またその内容につきましては、位階制度というものはやめてもらいたい。菊花勲章、旭日勲章等の名称は他にこれを適当な名称にかえて、しかもこれは単一のものとしてもらいたい。今まで授与されたところの勲章の効果がないものとしてもらいたい。さらにこの制度運用については濫用せず、慎重にやつていただきたい。以上が私の意見でございます。
  37. 船田中

    船田委員長 ただいまの伊藤実君の御意見につきまして御質疑がございませんかLうないようでありますから、これにて本日の公聴会を終ります。公述人方々には終始熱心な御意見をお述べくださいまして、委員長より深く感謝の意を表する次第であります。明日は午前十時より公聴会を開きます。  これにて散会いたします。     午後二時四十四分散会