○京
参考人 私は、
京昭と申します。
昭和四年一月十日生れです。私が満州に行きましたのは、
昭和二十年の二月です。二月に、当時大阪農業専門学校に一年生として入
つておりましたが、学徒動員で行
つたことにな
つております。そして、わずか五箇月余りにして終戦を迎えまして、それ以後、一九四五年の九月から一九四六年の五月までソ軍の方に抑留されておりました。それから、一九四六年の五月から八路軍の方に、からだが非常に弱か
つたために、引渡されたわけであります。それから三年間、一九四八年まで、興安嶺、挑南、内蒙の一部、張家口の近辺、それから礼泉、白城子、こうい
つたところを軍とともに行動してお
つたわけです。そして当初は、軍の方から言いますには、技術工作者としてひとつ働いてくれ、こういうぐあいに言われたわけです。但し、その当時の
状況は、いわゆる
国民党と八路軍が
戦争をしてお
つた関係上、仕事という仕事もやらなか
つたわけで、ただ山間地帯の方に逃げて行く八路軍と行動をともにするとい
つたような
状況にあ
つたわけです。それが、一九四八年の二月にハルビンに出て参りました。ハルビンに出て来るまでの間は、いわゆる第四野戦軍の遼吉軍区に勤めておりました。ハルビンに出て来てからは、東北人民
政府の工業局の紡績工廠、これの化学部の方の技師として働くように
なつたわけです。そして一九五〇年まで、一年余りの聞、紡績に必要なところのロート・オイルというものを製造しておりました。そうして、ちようど一九五〇年の一月に北京に無断で出て来たわけです。その当時の外僑といたしましては、旅行あるいは転勤をする場合において、旅行証明書をとらなくてはいけないわけですが、そうい
つた手続をしなか
つたわけです。それはどうしてかといいますと、私の家庭的な問題として、父は七十三歳、母は六十八歳、そして他に兄弟とてありません。こうい
つた関係上、
昭和二十四年に内地から手紙が着くようになりまして、それを見て初めて、自分としてはどうしても帰らなくてはいけない、満州におれば帰れないのではないか、こういう気持に
なつたわけであります。そのために、無断でハルビンから飛び出したわけです。それから北京に出て参りまして、北京ですぐに公安局の方に自首して出たわけです。
向うの刑法によりますと、この自首した場合と、それから
向うが捜査してつかま
つた場合の刑罰というものが、非常に異な
つております。そうい
つた関係上自首した。そして
向うのお金で三十万元の罰金というものを払
つております。それから北京の外僑――居留民としてのパスポートをもら
つたわけです。そして一九五〇年の十二月まで北京におりました。それから、一九五一年の一月に天津に出て参りました。この天津北京間はどういうことをしてお
つたかと申しますと、塗料及びレザーの工場の技術者として奉職しておりました。そして、天津、北京の工場は同一系統でありまして、資本系統から申しましても、
国家の機関ではないわけです。純然たる個人企業の一技術者として働いておりました。そうして一九五一年に、自分としてはどうしても帰りたいという意向が強く出て参りましたので、公安局の方に申請したわけです。そうしたところが、あの当時私
どもの工場が建設時期にあ
つたわけです。だから、君がこの工場から出ることは現在の仕事上非常にさ参しつかえるから、もう少ししんぼうしてくれないか、こういう話が出たわけです。そうい
つた関係上、それではもう少し延ばそうというので、延ばしたわけです。それが、一九五二年の五月になりまして、バターフイールドの船も来ますし、それから天津におります他の
日本人においてもどしどしと
帰国する、こうい
つた環境下におきまして、自分としましても郷里に帰りたいというような希望にかわ
つたわけです。そして一九五二年の五月に公安局の方に
帰国申請書を出しております。それと同時に会社の方もやめまして、五月から、帰るときの十月の十九日まで無職です。そして、この間におきます
生活というものは、過去におきましていただいておりました給料及び退職金によ
つて生活しておりました。それから、許可が正式におりましたのが、一九五二年の九月二日におりております。その前に、天津日報によりまして、外僑
帰国声明を出しております。この文面はどういう文面かと申しますと、私は最近
帰国いたしますが、天津市において債務及び訴訟とい
つたような問題に関し
異議のある方は申し出られよとい
つたような文面を出すわけです。そして三日間待ちまして、三日後において公安局に行く。そうしたところが、まだ文書ができておらないから、もう二、三日待
つておれというような話でありました。そして、ちようど新聞広告しましてから十四日目におりております。
それから、
向うの
生活は、私は個人の化学工場の技術者として奉職しておりました関係上、高額をいただいております。
向うの金で三百二十万元、一月にいただいております。それから、過去八路軍にお
つた当時の
生活というものは、先の
壱岐さんの
お話のように、非常に切り詰めた
生活であ
つたわけです。月に衣食住以外に十万元いただくだけでした。こうい
つたような
生活を三年ばかり続けてお
つたわけです。それが中華人民共和国というものが成立してから、私の身辺においても大きな
生活上の変化が見られたわけです。そして、話はあと先になりますが、帰るときの旅費というのは、
日本政府の方から出していただいております。そして
日本政府から旅費が来るのが、私の名前が一般の人より非常に異な
つておる、いわゆる
京昭というような名前であるために、
援護庁の方としましては、英文で妙な名前を打
つて来られたわけです。それでバターフイールドの船会社においてはわからない。こうい
つた人間はおらないと、早く来てお
つたのですが、そうい
つた電文の行き違いによりまして、非常に長い期日がかか
つております。
それから、帰
つて参りましてからの
生活は、父の資産を継ぎまして、貿易商として、旭産業有限会社の専務取締役として現在や
つております。そして仕事は貿易商です。
それから、米軍の呼出しの件については、こうい
つたようないきさつでございます。一月十四日付で、
援護庁復員局の庶務課長から十九日に文面をいただいたわけです。それは、二十八日の朝の九時から午後三時までに復員局に出頭していただきたいというような文面と、それから、貴殿に対して在日米軍が御協議いたしたきにつき、おさしつかえなければ出ていただきたい、こういうような文面をいただいたわけです。そして、米軍の調査という問題に対しては、
中国にお
つた当時から、帰れば米軍からいろいろな問題を調査される、それを拒んだ場合には警察にあとを尾行されるとい
つたような話も聞かされてお
つたわけです。それから、
日本に帰
つて来てからも、やはりそうい
つた話を今までの
復員者からも聞いております。そうい
つた関係上、自分は非常に仕事の方が忙しくて、どうしても出られない現状であ
つたわけですが、はたからそうい
つたようなうわさというようなものを聞きまして自分の身辺に対しても非常に不安を覚えたような次第で、二十八日に出頭したわけです。そして二十八日に出頭しまして
援護庁の庶務課の話によりますと、あなたはあしたの七時五十分までに麹町四丁目の宝亭ビルに行
つてもらいたい、こういうことを言い渡されたわけです。それと同時に地図もいただいております。それから通行証とい
つたものもいただいております。それで、二十九日の七時五十分に出頭しております。出頭してからずつと、毎日四時半まで――昼食時間の十二時から一時までの問は、自動車に乗せられて、別の米軍の食堂に食事に行くわけです。それ以外の時間は全部、二世の人を前に置きまして、取調べを受けたわけです。その取調べの内容というのは、一番初めに私の履歴というものを聞くわけです。この履歴につきましては、
向うでは一枚の紙を見ております。この一枚の紙というのは、私が神戸に上陸してから、いろいろな調書をあのとき七枚くらい書いておるわけです。あのときの一枚ではなかろうか、こうい
つたような見方をしたわけです。だから、自分としましては、経歴については全然それと同一のことを言わなくてはいけないというので、同一のことを言
つております。それが終りまして、今度は、あなたはハルビン、北京、天津が非常に長いから、順序としましてハルビンからや
つて行きたい、そうい
つた話で、すぐに空軍地図を一枚持
つて参られまして、それと同時に、一九四三年に
日本軍が使
つてお
つたところの古いハルビン市の市街図、この二枚を持
つて来たわけです。そうして、あなたはどこに住んでお
つたか、それから、あなたの工場はどこにあ
つたかとい
つた点を、非常にこま
かく聞かれるわけです。そうして地図の上において示したわけです。そして、毎日工場に出勤するときの道の順序によりまして、この道路はどうい
つたような種類の道であるか、あるいはこの建物はれんが建であるか木造建築であるか、あるいは屋根はどういうような種類で、何メートルの高さで、その屋根の形はどうか、あるいはこの工場の壁の厚さはどのくらいあるか、基礎工事はどうであるか、――非常に緻密に聞かれるわけです。そうして、わからないと言うと、
考えなさいと言
つて、五分くらい時間を与える。それでもわからないと言うと、次に進まれる。こうい
つたような取調べを、二十九日から二日まで受けたわけです。そうして、現在示されておる地図と別に、また自分で地図を一枚書きなさい、――こうい
つたものを書かされるわけです。地図に
至りましても、二枚ばかり書いております。それから、あなたが働いてお
つたところの工場の図面も書きなさいというようなことを言われまして、これに対しては、私はわからないと言うと、あなたはこの工場で働いてお
つたのじやないか、どうしてわからないのか、こういうようなことを言われるわけです。だから、やはり書かなくてはいけないというようになり、非常にあいまいな地図というものを書いております。それから、自分は忙しいということを言うと、それでは、ほかの人は土曜、日曜はお休みだが、君は土曜も日曜も出て来なさいということで、土曜も日曜も
向うの一室で取調べを受けたわけです。
私は、この問題に対して、何ゆえに猪俣先生と御相談をしたかといいますと、現在この三万名の
日本人というものが、
帰国も間近にあるわけです。こうい
つた事実が
中国側に知れた場合に、どういうような処置をとられるか、――自分たちの父母やあるいは
向うにおられる方の
家族の方の非常に痛切な問題であるところの
引揚げ問題を遅らす原因になるのではないか、こう思
つたわけです。そのために――現在独立国としての
日本である別状において、復員局が米軍の手先として働いておる、こうい
つたように自分には見受けられたわけです。だから御相談したとい
つたような次第であります。