運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1953-02-18 第15回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第7号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十八年二月十八日(水曜日)     午後二時十分開議  出席委員    委員長 佐藤洋之助君    理事 飯塚 定輔君 理事 森下 國雄君    理事 受田 新吉君 理事 帆足  計君       川野 芳滿君    中山 マサ君       野澤 清人君    森   清君       亘  四郎君    石坂  繁君       武部 英治君    堤 ツルヨ君       柳田 秀一君  出席国務大臣         国 務 大 臣 緒方 竹虎君         厚 生 大 臣 山縣 勝見君  出席政府委員         法務政務次官  押谷 富三君         法務事務官         (公安調査庁調         査第二部長)  福島 幸夫君         外務政務次官  中村 幸八君         外務事務官         (大臣官房審議         室勤務)    中村  茂君         引揚援護庁長官 木村忠二郎君  委員外出席者         外務事務官   杉山千万樹君         大蔵事務官         (主計官)   大村 筆雄君         厚生事務官         (引揚援護庁長         官官房総務課         長)      山本浅太郎君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      壱岐 信子君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      京   昭君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      原  金司君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      井上 真久君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      金子 三郎君     ――――――――――――― 本日の会議に付した事件  参考人招致に関する件  引揚援護に関する行政機構改革について説明  聴取  中共地区残留胞引揚に関する件     ―――――――――――――     午後二時十分開議
  2. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 これより会議を開きます。  本日は、引揚援護に関する行政機構改革について説明聴取、及び中共地区残留胞引揚に関する件について議事を進めることになりました。  その前に、お諮りいたします。中共地区残留胞引揚げにつきましては、ただいま引揚げについて交渉中であります。在華同胞帰国打合せ代表団の昨今の電報によりますれば、相当交渉が進展している状況のようであります。本委員会といたしましては、この状況に即応し、引揚げ援護等参考に資するために、本日、中共地区より最近引揚げられた人より、引揚げ実情聴取いたしたいと存ずるのであります。先日の理事会におきまして、本日委員会に出席するように手続をとつておいたのでありますが、これら中共地区引揚者京昭君、壱岐信子君、金子三郎君、井上真久君、伊崎行夫君、原金司君、山口文子君、そのうち欠席せられた方が伊崎さんと山口文子さんであります。以上の諸君を本委員会参考人として事情聴取することに御異議はありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 さよう決しました。     ―――――――――――――
  4. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 つきましては、引揚援護に関する行政機構改革について、この際委員長より政府当局所見を伺いたいと存じます。  多年の懸案でありました中共地区からの引揚げが近く実現を見んとするに至りましたことは、当委員会としても深く喜びとするところであります。これに関する政府の施策、なかんずく、これら引揚者受入れ援護につき従来に比し一段と手厚い処置を考慮されていることにつきましても、これを了とするのでありますが、ただ一点、この際政府所見をただし、善処を促したいことがあります。それは、厚生省設置法の規定によれば、引揚者受入れ援護及び未帰還者調査究明並びに留守家族援護の任に当る引揚援護庁が、本年四月一日から、すなわち引揚再開時に際し、機構を改変縮小し、厚生省の一内局に転移することについてであります。行政機構簡素合理化は、現下の国情からかんがみて原則としては望ましいことであり、究極的には、このような機構が解消されてさしつかえない時期が一日もすみやかに実現されることは、われらのむしろ念願とするところでありますが、昭和二十三年暮れソ連地区からの集団引揚げが絶えてから今日まで、あえて引揚援護庁が旧来の機構を維持して来たゆえんは、一に引揚げ問題が戦争の跡始末として残された深刻な問題であり、この問題が世界の正義と人道にかかわる問題であるとの認識のもとに、政府が政治的にも道義的にも深く責任を感ぜられて来たことにあると判断いたすのであります。引揚援護庁は、集団引揚げ停止後数次にわたり定員を減少して参りましたが、機構は、今日ある日を期待し、存続いたして参りました。しかるに、今国民待望引揚げ再開を前にして、今日あるに備えて維持して来たせつかく機構を縮小改変することは、関係職員の志気を動揺させ、人事の任命がえ、簿冊物品類の引継ぎ、名称の変更等に伴う著しき事務能率の低下を来し、受入れ援護業務の遂行に少からぬ混乱を来すおそれがあるのであります。政府においては近く行政合理化人員の整理を行わんとしておるように聞いておりますが、このように特に圧縮して来た引揚援護庁は、本来引揚げ実現の日においてはむしろ増員をはかるの必要があるくらいの点を考うべきであります。このことは、こういう実務の支障を招くと思われるほか、引揚げ問題の解決を国際社会に訴えて来たわが国の立場から見ても、はたまた留守家族の心理に及ぼす影響から見ても、すこぶる慎重な判断を要することであろうと存ずるのであります。また、引揚者受入れ援護と並んで、在外未帰還者調査究明政府の重大な任務であり、今回予期される集団引揚げ実現によつて、必ず有力にして広汎な調査資料が得られることが期待せられ、引揚げ開始相当の期間は、この面においても引揚援護庁の機能を一層活発化することが必要でなると信ずるのであります。なお、明年度においては、本年度に引続き多数の遺族に対する年金、弔慰金裁定支給業務がありますほか、われわれが多年にわたつて、要望した留守家族に対する援護立法、施行と、遺骨の収集が予定され、加うるに軍人恩給の復活に伴う厖大な進達事務も当然引揚援護庁が担当しなければならないと思料されますが、このような緊急多岐にわたる諸業務年度の更新とともに新機構に移しかえて処理することは、きわめて時宜に適しないものであると言わなければならないのであります。よつて委員長としては、この問題が普通の一行政部局の編成がえの問題にとどまる問題として扱うべきでないという観点から、あえて政府責任者の信念と最高方針を承り、もしいまだ方針が決定しておらないとすれば、引揚援護庁は二十八年度一ぱい、やむを得ない場合においても本年末までは、現機構を維持し、むしろこの際は関係職員を鞭撻し、直面する前述の諸問題につき万遺憾なきを期すべきものと存ずるのであります。  以上の点につきまして、所管大臣たる山縣厚生大臣並びに内閣官房長官所見を承るとともに、委員会一致の見解を要望として申し上げて、委員長意見がすみやかに満たされるように善処されることを望む次第であります。
  5. 山縣勝見

    山縣国務大臣 ただいま、厚生省外局であります引揚援護庁の新年度、すなわち昭和二十八年度における行政機構の問題について、委員長お話を拝聴いたしました。引揚援護庁は、かねて引揚げ、あるいは留守家族援護、あるいは復員事務、これらの重要な事務を担当いたして参つたのであります。厚生省外局としてこの重要任務を担当いたして参り、かねて、昭和二十八年の四月一日以降内局にいたすことにいたしまして、現在まで至りましたが、ただいま委員長お話のごとく、国民待望中共地区よりの引揚げで、今まさに最も事務繁忙を来し、またこれらの引揚げに対しましては、手厚い受入れ態勢を整えなくちやならぬのであります。政府といたしましても、万全の措置を講じてこの受入れ態勢を整えんといたしておる際でありますし、なおまた、ただいまお話のような各般の事務もありまするので、一応昭和二十八年の四月一日以降内局になることにいたしておりますけれども、この重要な、ことに時期的に申しましても一番繁忙を来し、またその事務の内容もきわめて重大でありますから、できますれば、ただいま委員長の御提案のごとく、一応一年間の外局のままで参つて、担当いたしておりまする引揚げ事務あるいはその後の援護事務等に対して万全を期したいと、ただいま考えておりまするが、これに対しまする財政措置あるいは法制的な措置は、今後政府内においても協議をいたしまして、善処いたしたいと考えております。一応担当の所管大臣といたしまして所見を申し上げます。
  6. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 この際、内閣官房長官より御発言を願います。
  7. 緒方竹虎

    緒方国務大臣 お答えをいたします。ただいま所管厚生大臣からお答え申し上げたので尽しておりまするが、先ほど来委員長お話にもありましたように、今日あることを期して、かねて機構を整えておりました引揚援護庁でありますので、今や眼前に中共残留同胞引揚げ、それに引続きまして未帰還の人々の世話あるいは留守家族世話等、いろいろな事務が、今後にこそ最も手厚い扱いを要するときでありますので、ただいま厚生大臣から申し上げましたように、今後一年の間外局のままにして、一層引揚者方々の御期待に沿うようにいたしたい、そういう考えでおります。いろいろな手続はまだ政府内の打合せを残しておりますが、政府といたしましては、そういう方針で進めて参りたい、かように考えております。
  8. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 ただいま山縣厚生大臣並びに緒方官房長官から、それぞれ御答弁がありました。御答弁の要旨は、この引揚援護庁外局としての存置は当然であるというような、きわめてはつきりした御意見でありまして、委員会の総意に対して満足を得る回答があつたのでありますが、この問題は、早急を要する、きわめて肝要な時期になつておりますから、これが目的達成につきましては、一日もすみやかならんことを希望いたしまして、この取扱いに対しましては、委員長理事に御一任願いたいと存じますが、いかがでございますか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  9. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 異議なしと認めまして、さよう決定いたします。     ―――――――――――――
  10. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 次いで、厚生大臣に対しまして、委員を代表いたしまして、委員長より、未帰還者留守家族等援護法の問題につきまして、一、二お尋ねをしたいと存じます。ぜひこの問題につきまして厚生大臣より明快なお答えを願いたいと存ずるのであります。  第一点は、政府においては、未帰還者留守家族に対し援護を行う立法をとり進めていると聞きますが、この考え方の基本を承りたいのであります。なお、この新しい法律による援護は、従来の未復員者給与法及び特別未帰還者給与法による場合に比し、いかような留守家族処理改善が期せられるか、あわせて承知いたしたいのでございます。  第二点は、政府考えている新法による未帰還者及び留守家族範囲並びにその見込数はどのくらいであるか、現行復員者給与法並びに特別未帰還者給与法による現に処遇を受けている数もあわせて御答弁願いたいと存じます。
  11. 山縣勝見

    山縣国務大臣 ただいま委員長から、政府の本件に対する考え方お尋ねがありましたから、大要申し上げたいと思います。  現在は、未帰還者留守家族方々に対します処遇につきましては、元の軍人、軍属の方々に対しましては、未復員者給与法によつて援護いたしております。なおまた一般邦人につきましては、そのうちソ連におきまする未復員者と同様の実情にある方々限つて、特別未帰還者給与法によつてそれぞれ本人に対する俸給月額千円を扶養手当に合せ、所定留守家族に対して前渡しをいたしておるのであります。しかしながら、現に国家的の庇護のない未帰還者に対して、国が本人に対して俸給という形式でもつて俸給支給するということは、給与法建前から言いましても適切な方法とは申されないことであります。なおまた、未復員者以外の一般邦人について見ますと、ある者は特別未帰還者として、その留守家族には国が援護を行つておるに対しまして、特別未帰還者と認められないその他のいわゆる一般邦人留守家族方々に対しましては、国はただいま何らの処遇をいたしていないのであります。厚生省といたしましては、これらのいわゆる一般邦人方々に対しましても、国の援護範囲を広げまして、広くこれらに対して国家援護を及ぼしたいということは、かねて考えておつたのでありますが、今回この機会に、これらの点を是正いたしまして、従来の未復員者給与法、特別未帰還者給与法、これらを廃し、なおかつ、あわせて未帰還政府職員に対する給与も廃しまして、一本で未帰還者留守家族援護法を制定いたしたいと考えておるのであります。  そのような構想のもとに、新法におきましては、自己の意思により帰還しない者を除きまして、今日ソ連邦、千島、樺太、北鮮、関東州、満州、または中国本土において未帰還の状態に置かれておる者すべてを対象といたして、そのうち本法にあります所定留守家族が直接援護を受け得られるようにいたしたのであります。従つて新法によりますと、第一に、留守家族範囲が拡大されたのであります。従来におきましては、いわゆるソ連等において軍に徴用されるとか、そういうふうな明らかな事実がありまして、それが認定された以外の一般邦人に対しましては、国家援護が及んでいなかつたのでありますが、終戦後すでに相当の年月を経ました現在におきましては、留守家族方々に対する国家援護という見地から申しますれば、同様に扱うのが当然と考えまして、今回は、いわゆる援護対象範囲を拡大いたした次第であります。なお、かように援護対象を拡大いたしましたとともに、新法におきましては、この留守家族手当は、基本給月額二千百円、その以外のいわゆる第一順位者を除く家族一人について月額四百円を家族加給として加算いたして支給いたしたいと考えておるのであります。この面よりも処遇改善を期しておる次第でございます。なお、未帰還者帰還した後におきまする、いわゆる援護でありますが、詳細の点は後ほど援護庁長官からも申し上げますが、従来支給しておりました費用――旅費、あるいはまた遺骨埋葬費、あるいは遺骨の引取り費用、あるいは障害の一時金、療養の給付、これらにつきましても万全を期して、大体現行通り援護をいたしたいと考えておるのであります。  なお、第二の御質問でございますが、新法によりまする未帰還者及び留守家族範囲並びに見込数についてでありますが、これまた詳細は援護庁長官から御説明申し上げますが、基本的な考えといたしましては、昨年の八月に外務省が国連に提出いたしました未帰還者統計のうち、その生存者と、生死不明者中の未復員者及び死亡処理未済の未復員者を加えまして、これにその地域以外、――主として南方の少数の未復員者並び戦争裁判受刑者を加えましたものが、一応本法対象となります未復員者でありますが、そのうちから、本年度内に死亡処理を終えましたもの、及び帰還あるいは釈放を見込まれます数を差引きまして、昭和二十八年度初頭におきます対象人員といたしましては、一応九万余人が本法の未帰還者として考えられるのでありますが、そのうち、本法所定留守家族を有し、留守家族手当支給を受けられると考えられますものが、大体三万六千人と見込んでおるのであります。  大体基本的な新法考え方並びに第二の点の見込数につきまして、大要お答え申し上げました。詳細につきましては援護庁長官から説明申し上げたいと思います。
  12. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 この際帆足委員より特に発言を求められておりますので、これを許可いたします。帆足君。
  13. 帆足計

    帆足委員 ただいま引揚使節団中国に参りまして交渉も円滑に進捗いたしておりますことは、まことに御同慶の至りでございます。右に関しまして、国内の受入れ態勢につきましても、政府、民間協力いたしまして、非常な努力をいたしておることにつきましてもまた、はなはだ慶祝の至りでございますが、今後の対策につきまして、急ぐ問題から逐次決定して参らねばならぬ段階になつたことと存じます。そこで、委員長お許しを得まして、緊急な、一、二の問題だけをまずお尋ねいたしまして、政府当局善処を要望いたしたいと存じます。  第一には、一番重要な問題は、一時帰国につきまして政府当局はどのようにお考えであるかという私ども質問に対しまして外務次官の最初の御答弁は、慎重に考慮して善処したいというふうに速記録に残つておりますが、その後お考えを多少かえられまして、一時帰国を認めることは当局として困難であるという意味の御返答がありました。そこで、私どもは大いに憂慮いたしまして、また同僚各派議員諸兄とも御相談いたしまして、かくのごとき問題は超党派的に考え、最も公正、合理かつ適切に、実情に即した考慮をいたさなければならぬというようなことで、寄り寄り意見の交換もいたしておるような次第でありますが、昨日私、旅行先でちよつと新聞を拝見いたしますと、外務省渡航課長から、一時帰国原則として認めるという趣旨説明が詳細に出ておりました。実はこの問題につきましては、すでに帰国した方から伺いましても、きわめて重要な問題でありまして、ただいま中国で待機の姿勢にありまする同胞諸君は、一時帰国が許されることを希望している者も相当おるようで、ございまして、一時帰国かまたは永久帰国かということになりますれば、向うでのおわかれの杯のやりとりの仕方も多少はかえなければなりませんし、荷づくりの仕方にも影響いたしますので、引揚げ交渉団に対しましても適切な指示をいたさなければならぬ問題であろうと思います。  また、政府の親心によりまして、今度は逆に、日本からかの地に独身または家族と離れくになつて御滞留なさる方に、ある家族範囲限つて向うに参ることを認めるという、まことに親切な御答弁がありました。その場合の家族範囲はどの程度にするかということをお尋ねいたしましたのに対して、実情に即してやると言われましたけれども、やはりこれをある程度まで明示しておきませんと、こちらの準備の心構えもあることでございますから、第二にはその問題についてお答えを願いたいし、また本日お答えできませんでしたら、可及的すみやかに委員長のもとにでも政府のお考えのほどを示していただきたい。  第三には、一時帰国または先方家族が参ると申しましても、一方においては中国側の許可をも必要とするものでありますから、当然今次の交渉の題目として、早く向う電報で依頼しておかねばならぬ問題でありますが、かくのごとき緊要な問題を、政府は、旅券問題とからんで、とにかく日本は幕末の鎖国と同じような状況にあるかのごとく錯覚されておりまして、こういう問題に対して熱心でないということは、まことに遺憾なことでありますので、この問題について、はつきりした御答弁を承りたいと思います。  まず、この点を一言お尋ね申し上げます。
  14. 中村幸八

    中村(幸)政府委員 一時帰国並びに家族呼寄せの問題につきましては、前回委員会におきましてお答え申し上げた通りでありまして、その後別段外務省方針はかわつておらないのであります。今お話の、渡航課長が一時帰国については再渡航を認めてよろしいというような発表をせられたいというお話でありますが、それは何かの間違いではないかと考えております。墓参等のために一時帰つて参りまして、再び中共に帰りたい、こういう方の御心情につきましては、十分お察しするに余りあるのでありますが、もう一つの家族呼寄せの問題とは多少そこに違いがあるわけでありまして、家族呼寄せの問題につきましては、前回委員会におきましてもお答え申し上げましたが、これは人道上の問題であるから、ぜひとも呼寄せができますように努力いたしたい、かようにお答えいたしました。  但し、その家族範囲はどうかという重ねての御質問でありましたが、その点につきましては、私どもといたしましては、まず第一に中共におります方の妻あるいは未成年の子供というようなものは第一次的に考えたい。その他の家族の方でも、中共にとどまつている方が扶養責任があるような方、たとえば父母、祖父母あるいは弟妹というような方につきましては、これまたぜひとも呼寄せができるようにいたしたいと考えております。こういうような家族呼寄せの問題は、ほんとう人道上の問題でありまして、これと第一番の問題である一時帰国の問題とは、そこに非常に事情の異なつたものがあると考えますので、事情、はなはだお気の毒な点も認めるにやぶさかではないのでありますが、目下のところ、一時帰国によつて渡航する場合は、外務省として認めることはできない、さようなわけであります。
  15. 帆足計

    帆足委員 こういう重要な国民的な問題につきましての政府当局措置というものは、政府が自分の思うがままにするというのでなくして、国民の心と利害を代表しておやりになるというのが民主国家建前でなくてはならぬと思うのでありますが、先方に呼び寄せますのは人道上の問題であつて、そして今度は一時帰国、すなわち父が病気、母が会いたい、墓参りに帰る、父の危篤のところにかけつけるということは人道上の問題でないと言われるのは、どういうお考えでございましようか。人倫五常の道に多少もとつておるのではなかろうかと存じまするが、なぜその二つを区別なさるのか。一方は人道問題である、そして父危篤、お葬式に一時一箇月でも帰りたいという方は人道問題でないというのは、どういうことですか。人道というものが二つあるものでございましようか。
  16. 中村幸八

    中村(幸)政府委員 元々中共地区渡航するということ自体が禁止せられておるわけであります。ただ、ただいまの家族呼び寄せのごとき問題は、これは御家族等生活そのものに関係するほんとう人道上の問題でありますので、特別の例外といたして認めたい、かように考えます。それと墓参等の問題は、これは非常に人として考えなければならぬ問題ではございまするが、差迫つて生活の問題でもないように考えられますので、一般原則に返りまして、再渡航は認めない、こういうわけでございます。
  17. 帆足計

    帆足委員 時間の点もありますから、簡単に申し上げましてそう長く質問を繰返しませんから、お許しを願いたいのです。  そういたしますと、まず事務的にお尋ねいたしまするが、先般来の帰国におきまして、先方に夫だけが残りまして、とりあえず様子を見に妻と子供が帰つたような例もあるように聞いております。その場合には、その妻や子供たち日本に帰つてみたけれども、家も焼けておつた、身寄りもちらばらになつてつた、適当な就職口もない、そしてかたがた国会移民促進決議案にも賛成されておることであるから、もう一度夫のもとに中国にもどりたいという方は、これは先ほどの人道上の問題に合致するわけでございまするから、それは向う家族つれもどりということでお許しくださるかどうか、お尋ねしたいと思います。
  18. 中村幸八

    中村(幸)政府委員 具体的のいろいろの問題、事情があろうと思いまするが、それらにつきましては、その都度個々の問題についてよく研究いたしまして、御趣旨に沿うように努力いたしたいと思います。
  19. 帆足計

    帆足委員 その都度外交では困るのでありまして、これは一般的な原則でございますから、その都度というのは、だれの何兵衛をどうするかという問題はその都度でございまするけれども一般的原則として妻や子供がこちらにおる場合には、とにかく向うに帰ることを政府は認められるかということで、これは今切迫した問題でありますし、一体こういう問題は箇条書にして中国に今電報で送らねばならぬ問題であるのに、政府は一体何と心得ておられるか。先方方々は、一時帰国は許されるか許されないか、知りたい。また、こちらにもどつておる妻が、日本の様子を見てよくわかつた、あるお方では、家庭の事情も案外戦災も少くて、おじ様がよい職を探してくださつたから、夫も帰つてくれという希望のところもあるし、帰つてみたところが、案外うちの事情もかわつていて、いにくいから、やはり夫のところへもどろうという方もおるように聞いておりますが、これは今急いでいる問題ですから、次官から即答いただきませんと、私ども手紙で知らしてやらなければならぬ問題でありますから、お答え願いたいと思います。
  20. 中村幸八

    中村(幸)政府委員 私どもは、決してその都度外交をやつておるつもりはないのであります。一般原則としては、中共渡航は認められない。但し、お気の毒な、生活にもお困りになるような事情にある御家族の呼寄せについては認めたい、こういうわけであります。但し、中国からお帰りになつた方の事情、立場等は、いろいろの方があろうと思います。それを一々ここで全部につきましてはつきりきめるということも困難のように存じまするので、そういう個々の問題については、ケース・バイ・ケースで、十分人道的の立場に立つて考慮いたしたい、かように考えております。
  21. 帆足計

    帆足委員 そういたしますると、ただいまのようなケースは、原則としては認めるというふうに了承してよいのかどうか、それを第一に承りたい。  それから第二に、日本から家族の人を向うにやる、これはよいことでありまするが、その場合に、それは新たなる日本の移民であります。追加移民になるわけです。その移民を、中国側は認めるものという見通しなのか、またその約束ができておるのかどうか。自分の方からどんどん人をやることだけ認めまして、今度は向うからの一時帰国日本側は認めないというような一方的なことで、はたして交渉がうまく行くのかどうか。とにかく、島津団長に対してそういうふうに交渉を今していただいているのかどうか。こちらでもまた心構えの都合がありましようし、先方でも、日本から妻や子供たちが来るならば、それではせつかく過剰人口の国でもあるし、自分は特殊の技術を持つて、よい待遇を受けておるから、中国にとどまろうという決心はそこからきまるわけでありますから、従いまして、こういう問題については、早く政府が対策をおきめになつて島津さんに政府の気持を御通知しておくことが必要でありますが、一体そういうことをてきぱきとおやりになつておるかどうか。おやりになつておるとしたならば、政府の独断でおやりになるのでなくして、引揚委員会は幸いにしてやや超党派的に、国民的な心持でみな心配しておる場合でありますから、ことごとくこの引揚委員会に諮つて、衆知を集めて万事摩擦のないようにしていただきたい。どのような経過になつておりますか、きわめて事務的にお伺いしたいと思います。
  22. 中村幸八

    中村(幸)政府委員 お説のように、当方だけが家族を差向けたいと考えましても、中共側がどういう考えを持つておるか、それによつて実現もできないことになるおそれもあるわけでありますが、先ほど来お話申し上げておることは、もちろん中共側の承認というものを前提としてのことであります。しからば、中共側とその点について交渉しておるかということになりますが、さつそく島津団長とも連絡をとりまして御希望に沿うようにとりはからいたいと考えております。
  23. 帆足計

    帆足委員 それでは、あと一点だけお尋ねいたしますが、先ほど中共への旅行は禁止されておると申しましたがこれは、現在の内閣が非常に保守的であり過ぎて、もちろん保守でも筋道のたつた保守でありますればけつこうでありますし、自由党の議員の方にもすぐれた方がおられることはよく知つておりますけれども、とにかく今の岡崎外交は保守反動的であり過ぎてかつてにそういうふうにおきめになつておるだけであつて、現に中国におられる方が親の死目に会えない。せつかく嫁を送ることを認めるとおつしやいますが、行つた人は瞬間花嫁で、あれよあれよと言ううちに泣きの涙で行つてしまつて、二度と中途では帰れない。たとえば、向うの満鉄におられる方に私は話を聞きましたが、幸いに、かつて日本の満鉄であつた時代の在勤年数を現在の勤務年数に加えてもらつて、退職年金なり在勤加俸なり、特別の便宜をはかつてもらうようになつておる。そうすると、この年金をもらいますような関係上、あと一年ばかり勤めて帰りたい、あと二年ばかり勤めて帰りたいというような人もあるわけでございます。また自分の仕事が責任のある技術などで、この工場がもうここまで来ておるから、工場の完成まで勤めて帰りたい、そのために結局一時的に今度は三箇月だけ休暇をもらつて日本に帰るとか、または父が非常に身体が悪いから、一ぺんだけ死目に会いたい、そうして三箇月ゆつくりしたあとは、もう心おきなく、青山至るところに墳墓の地ありだから、また向うで働いてみたい、こういう例は非常に多いのでありまして、先日渡航課長が、非常に長いああいう声明書を出され、次官はお読みになつたでしようか、私は旅先の新聞で読みました。ああいう声明書を出しましたために、私のところにもたくさんの問合せが来るのでございます。さつき人道上ということをおつしやいましたが、まことにけつこうですが、一体父親が病気で、そこに一時的に三箇月の許可を得て帰る、それをすら妨害するということは、幕末鎖国の時代ならとにかくとして、今日なぜそういうやぼなことをなさる。世界資本主義の親戚筋とも言われる英国でもそれを認め、また大部分の世界の国々が今日それを認め、かの地に全然旅行してはならぬ、特殊の思想関係の人だけは行かせないという法律は、御承知のようにカナダとアメリカだけは持つております。しかし、一般の善良な国民、貿易業者、新聞記者などが全然旅行できないなどという国は、世界にただ一つ日本だけしかないような、非常識な状況でございます。従いまして、人道という問題をおつしやるならば、ひとつ今日はこの程度でけつこうですから、この次に釈然として態度を改めていただきたい。大体外務省当局は、高良さんにも法律を守るために旅券を出さぬ出さぬと言つておりましたが、どの法律に即して出さぬと言うたかというと、大して法律上の基礎はない。そうしてとうとう出してしまつた。どの法律を破つて出したかというと、別に法律を破つていない。それならば最初から出せばよかつた。自由党の代議士の方もそれを指摘された通りでありまして、君子は豹変すと申しますが、よい方の豹変でありますならば、まことにけつこうでございまするから、ぜひとも大至急豹変していただいて、次の理事会までに、もう少し渡航課長とも相談して――私は渡航課長の言われたことは正論だと思うのです。あれで渡航課長が次官にしかられるようなことになつたら、それは筋が違つておる。渡航課長は年が若いから正当なことを言われた。あれでいいのでありますから、ぜひそういう方向に進んでいただきたい。もし政府当局があくまで反対であるとするならば、私たちは同僚議員の方ともよくおはかりし、引揚援護関係の留守家族の皆様とはかつて政府当局の意のあるところで、くみとらなければならぬところは、私自身は野党でありますけれども、そういう立場を離れて、私どもの方も十分考慮いたします。同時に政府当局も、国民の意あるところで、くみとらなければならぬ点は、もう一度再考慮を願いたい。これは、早くきめませんと、引揚げなさる方方々の心組みに影響する重大な問題でありますから、もう一度だけ切に切に再考慮をお願い申し上げます。  時間をとりますから、あと一言だけ援護庁長官にお願い申し上げたいのでありますが、先般から中国より帰つて参ります者が、思想的なこと等につきまして、アメリカ軍当局から調査を受けておるということが明らかになりまして、援護庁長官としては、前からの行きがかりがあつて、それに協力したことは遺憾であつたが、今後はきつぱりとおやめになるというお約束をされましたので、私どもも胸をなでおろした次第でございまするが、今日も同じように、ちやんとそのように措置をしておられますか、どのような心境でおりますか、これだけをとりあえずお尋いたしまして質問は後ほどいたすこととし、予定通り議事の進行を願いたいと存じます。
  24. 木村忠二郎

    ○木村(忠)政府委員 先般お答えいたしました通り、その後は通知は一つもいたしておりません。またその通知につきましては、お断りいたしまして、その後の通知に関しましては全然取合わないというふうにいたしております。
  25. 帆足計

    帆足委員 この問題につきましては、あとでまた御質疑申し上げます。失礼申し上げました。
  26. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 この際、受田新吉君より、中村外務政務次官の質疑があるということで発言を求められております。これを許可いたします。受田新吉君。
  27. 受田新吉

    ○受田委員 先ほど厚生大臣より、留守家族援護法の対象となる数字について、大体三万六千人の予定と発表せられたのでありますが、生存者生死不明者とを合せて現在九万余人という数字があるのに、その約三分の一しかこの適用を受けないということになつておるようであります。この点から、未帰還一般邦人の中で国家の保護を受けることのできない者は非常な数に上ると思うのでありますが、いまだ帰還されざる一般邦人の数字はいかほどあるのか、この点を確かめておきたいと思うのであります。
  28. 中村幸八

    中村(幸)政府委員 中共地区に残留いたしております邦人の数につきましては、前回委員会で詳細に御報告申し上げましたが、外務省の調査したところでは五万八千九百四十一人となつております。
  29. 受田新吉

    ○受田委員 今の九万余人というのは、中共地区その他ソ連地区等を含んだ大きな線での数字であると思うのでありますが、この意味の一般邦人の数字をお伺いしたいのであります。
  30. 中村幸八

    中村(幸)政府委員 ただいま申し上げました数字は、中共地区だけでございます。
  31. 受田新吉

    ○受田委員 いまだ帰らざる一般邦人の総括した数字をお尋ねしておるのであります。
  32. 中村幸八

    中村(幸)政府委員 手元に資料を持つておりませんので、あいまいなことを申し上げても悪いと思いますから、後ほどお答えいたします。
  33. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 受田君に申し上げます。今の数字は、印刷いたしまして至急外務省から出させるようにいたしましよう。
  34. 受田新吉

    ○受田委員 至急にそれを出してください。  さらに、一昨日の代表団の公式電報によると、同時に五千人の引揚げという場合も考えられると思いますが、五千人を同時に受入れるについて、最も新しい政府受入れ態勢の構想をお伺いしたいのであります。
  35. 木村忠二郎

    ○木村(忠)政府委員 先般参りました電報は、中間的な電報でございまして、これが向うの決定した意思ということには相なつておりません。昨日の晩参りました電報によりますれば、三月中に三千人ということになつております。これに対してどういうふうな配船をするかということにつきまして、本日それに対する電報を出したのでありますが、これにおきましては、十五日に高砂丸、十九日に興安丸、この二隻を派遣する、つまりそれ以後ならばいつでもよいということであります。この二隻の人員は、両方合せますと三千七百名でございまして、ただいま申した三千名を七百名超過いたしております。なおそのほかに、十五日に白龍丸を出すこともできるので、その方の準備もいたしておりますが、これは五百名乗船ができます。合計いたしまして、現在のところ四千二百名は乗船できるのですが、もしもそれ以上になりますれば、さらに手配をすることに相なります。
  36. 受田新吉

    ○受田委員 受入れ態勢について、舞鶴のこれに対する準備は十分進められておるか、また都道府県庁に対して住宅対策その他の受入れ態勢について正式な通牒を出しておるのかどうか、この点も確かめておきたいのであります。
  37. 木村忠二郎

    ○木村(忠)政府委員 舞鶴の方は、現在あります舞鶴援護局の一棟のほかに、もう一棟こちらの方にまわすことにいたしまして、その準備をいたしておりますので、大体五千人程度が同時に入りましても、大して問題はないように考えるわけであります。なお、地方におきますところの受入れ態勢につきましては、先般すでにその通牒を出しておきましたほか、張る十三日、全国民生部長会議におきましても、この問題について十分打合せをいたしたわけでございます。
  38. 受田新吉

    ○受田委員 さらに、この際帰還者の調査に対してお尋ねしたいのでありますが、引揚援護庁が米軍の帰還者調査に独立後も協力をしたということは重大な問題であつて前回委員会委員質問に対して長官お答えしたことに対して、私はいささかここにその真意を確かめておきたいのであります。それは、独立国になつてもなお一国の調査に協力をするということは、占領の継続のような印象を与えるものであり、真の独立国となつておらない一つの証左になつておると思うのでありまするが、この米軍の調査に御協力なさつた政府の真意は、日本の真の独立を傷つけるという責任感をお感じにならなかつた結果であるかどうかを確めたいのであります。
  39. 木村忠二郎

    ○木村(忠)政府委員 調査に協力したということをおつしやるのでございまするが、ただ手紙を出したというだけでございます。手紙を出す以外のことは何もいたしておりません。別に調査に協力したのでなくして、依頼を受けて手紙を出したというのが事実でございます。それ以上のことはいたしておりません。ただ、こういうことは私もあまり好ましくないことと考えておりましたので、この問題につきましては、独立後一応拒否いたしたのでございます。その後どういう事情があつたか存じませんけれども引揚援護庁におきまして手紙を封筒に入れまして投函するという仕事をいたしただけでありましてそれ以外のことは何もいたしておりません。
  40. 受田新吉

    ○受田委員 これは、後ほど証人の証言もあることでありまするので、そのあとで確かめたいと思いましたが、政府責任者がお帰りになるといけませんので、一応その真意を確かめておきたかつたのであります。特に封筒に入れて出したということも、それは事実上協力したことになるのであつて、独立国の名誉にかけても、われわれはわれわれの強い線によつてそういう手紙を出すことにも協力すべきでない、こういう考えを持つております。この点、結果的には協力になるということを長官はお考えにならなかつたのですか。協力したのでないとは断言できないと思うのでありますが、その真意を確かめたい。  もう一つは、今度舞鶴へ最初の船でお帰りになる方々に対して、あとに残つている人がだれが残つておられるかは、留守家族は一刻も早く知りたいところであるので、これは思想調査などと違つた意味で、今度最初に上陸する人から、今残つておる人はだれだれであるかということを早く聞いて、留守家族にお知らせすることは、これは政府としても大事な仕事の一つであると思うのでありまするが、この点についてはどういう対策をお持ちでございまするか。舞鶴へ上陸直後における印象深いときに、留守家族に知らせてあげるということは、非常に大事だと思いますので、その準備態勢についてお伺いしたいのであります。
  41. 木村忠二郎

    ○木村(忠)政府委員 第一の点につきましては、これはいろいろ意見にもなりますので、申し上げません。私どもとしましては、いずれにしましても、あまり好ましいこととは思つておりません。特に援護庁としては、なるべくいたしたくないと思つておりましたので、先般のお話を機会に、私の方ではやめたのであります。従いまして、私どもの気持がどういう気持かということはおわかりかと思います。
  42. 帆足計

    帆足委員 ただいまの受田さんの御質問に関連しまして、御了解を得まして、新しい事実がございますので、一言長官お尋ねしたいのであります。  一昨日、またもや米軍から呼出しを受けておる実情でございましてそれらの方々は市ヶ谷のホテルに呼び出されて、そこへとまつておるということでございます。これらの人は、いつお呼出しになつたのでありましようか。そうして、そういうような外国の軍隊に日本国民がほしいままに権力をもつて調べられる、――たといそれがやわらかに、参考までにどうぞ御足労くださいという名のもとにおいてであろうと、そういうことが行われることについて、先日引揚委員会でこれほど警告を受けたのでありまするから、ただちにそういうことをやめるようにアメリカ軍に対してなぜ申入れをなさらなかつたのか。こういうことを続けておられると、今後の両国の引揚げ問題に重大な暗影を投ずることになる。満州における建築物の大きさから、川の大きさから、それから爆弾の落ちたときにどういう反応が来るというような参考資料までも求めておるということは、この引揚げという問題が人道の問題である以上は、そういうことをそれに利用すべきではないし、また今はそのような客観情勢でもないと思うのです。英国のイーデン外相やインドのネール首相があれほど平和のために努力しておるときに、全日本国民が何とかして戦争に入らないように努力しておるときに、こういうことが東京の足元で行われるということは、まことに遺憾であります。その真相を、長官、明らかにしていただきたい。
  43. 木村忠二郎

    ○木村(忠)政府委員 その後は一切手紙を出しておりません。従いまして、もしそういうことがあるといたしましたならば、その以前に出したもので、期日がそのころになつてつたのがあつたかも存じません。われわれといたしましては、間に合いまする限りにおきましては、この期日以後のものについて取消しをいたしております。
  44. 帆足計

    帆足委員 なぜそれを打切らせるようにあなたの方からなさらなかつたのかというわけです。外務省当局の御答弁でもけつこうです。
  45. 木村忠二郎

    ○木村(忠)政府委員 私の方としましては、先ほど申し上げました通りに、直接それらの点につきまして他の国に交渉すべきもので、ございませんので、いたしておりません。  それから受田委員の第二の御質問でございまするが、これにつきましては、お説の通りに、調査究明の仕事というものはきわめて重要なことと思いまして、われわれとしましては、この仕事はどうしてもしなければならぬ、――つまり、向うへ残つております方が生きておられるか、なくなつておられるか、そうしてそれがどういうふうにしておられるかということにつきましては、十分調べまして、こちらの家族方々、遺族の方々にお知らせする義務があるわけでございます。従いまして、これにつきましては、できるだけの措置をしなければならぬというふうに考えておるのでございまするが、今回舞鶴におきましても、その際におきまして、引揚げて帰られました方々がお宅にお帰りになるのにあまり支障にならない程度をもちまして、できるだけの資料をとるようにいたしたい、そういうふうに考えております。なおその他、お帰りになりました後におきましても、各種の情報につきまして、そういうような向うに残つておられます方々の情報につきましては、その後知らせていただくような連絡はとりたいと思います。
  46. 受田新吉

    ○受田委員 もう一つ、この間代表団があちらへ行くときに、未帰還者の名簿を渡さなかつたというので、問題になつたということですが、このまだ帰らざる人々の名簿は、各府県にはちやんとしたものがあるのです。従つて、だれが帰らないかは、はつきりしておる。これを向うへ渡さなかつたという真意を、まだこの席で公式に発表していただいておりませんので、それをお聞きしたい。この名簿に載つている人に対しては、あるいは載つていない人に対してもあるかもしれませんが、多数の方々が代表団に手紙をおことずけになつておられる。こういうことを考えると、いかに留守家族がそのお帰りを切願しておるかがはつきりするのでありますが、このまだ帰らざる人々の氏名というものは、すでに各都道府県では新聞紙によつてはつきりと発表されておるところがたくさんあるのです。こういうことは、政府はいまさら隠す必要もないと思うのでありまするが、この未帰還者の名簿を今日まで隠して、代表団に渡さなかつた真意を、十分御説明いただきたいのであります。
  47. 木村忠二郎

    ○木村(忠)政府委員 この問題につきましては、この前にもお答え申し上げたと思いますが、引揚援護庁といたしましては、この名簿に関しましては何ら責任を持つておらないのであります。名簿につきましては、すべて外務省がその責任を持つておられまして、外務省におきましてその名簿を持つておられます。われわれとしては、未復員者につきまして、つまり元の軍人、軍属に対しましては責任を持つておりますが、その他の者につきましては責任がないということは、この前申し上げた通りであります。従いまして、これらのことにつきましては、私どもの方では取扱うべき筋合いではないと考えておるわけでございます。
  48. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 ただいまの受田君の御質問に対して、数字を発表したいということでありますから、これを許します。中村外務政務次官
  49. 中村幸八

    中村(幸)政府委員 名簿をなぜ代表団に渡さなかつたかというお尋ねでありますが、この点につきましては、いろいろ研究はしたのでありますが、結局一人でも多く引揚げていただきたいというわれわれの希望に支障を起すおそれがありはしないかということをおそれたのでありまして、別段そのほかに他意のあるわけではございません。  なお、先ほどお尋ねで、中共以外の未帰還者の数字等を発表しろという御注文でございます。資料が手元に参りましたので、お話申し上げます。これは、昨年の八月、ジユネーヴにおきまして開催されました国連の捕虜に関する特別委員会第三回会議におきまして、わが西村代表が演説いたしました際に引用いたしましたソ連及び中共地区の未帰還者の総数でございます。この数字は、昭和二十七年五月一日現在でございますので、先ほど中共地区だけの数字を申し上げました数字と多少違つております。と申しまするのは、先ほど申し上げました数字は、昭和二十七年の十二月一日現在でありまして多少数字が減つております。これは死亡等が確実になつた者を落しておる関係でございます。以下詳細に御説明申し上げます。  生存者数、シベリア及びソ連領一万七千二百三十人、南樺太及び千島二千六百二十二人、北鮮二千四百八人、中共五万九千二十八人、合計八万一千二百八十八人。  死亡者数、シベリア及びソ連領四万二千六百四十三人、南樺太及び千島七千六百十二人、北鮮三万三千四百八十四人、中共十六万一千六百八十八人、合計二十四万五千四百二十七人。  生死不明者、シベリア及びソ連領ゼロ、南樺太及び千島九百三十四人、北鮮一千五人、中共一万七千七百四十三人、合計一万九千六百八十二人。  以上合計いたしまして、シベリア及びソ連領は五万九千八百七十三人、南樺太及び千島は一万一千百六十八人、北鮮は三万六千八百九十七人、中共二十三万八千四百五十九人、合計三十四万六千三百九十七人。  以上でございます。
  50. 受田新吉

    ○受田委員 今正式の発表をいただいたのでありますが、これが今後中共地区引揚者実現によつてどういうふうな形で明らかにされるかをわれわれは期待しておるものであります。  と同時に、先ほどの外務政務次官の、今この名簿を渡すと支障が起るというお答えについて私は考えるのでありますが、あの名簿よりも別の生存者があつた場合には、これはまことに喜ぶべきことで、その留守家族のお喜びはまことに多いものがあるのであります。もしできれば、われわれはあのときに何とかこの名簿のおことずけを願いたかつたのです。そして今度引揚げられる方々の実態をつかむ際にも、この名簿がある方がむしろはつきりするのであつて、われわれは、秘密で、あ名前を隠したままで引揚げを待つということでなくして、明らかにこの実態をさらけ出してお帰りを待つという態勢が大事ではないかと考えておるのであります。この点について、外務政務次官の御答弁の中の、引揚げ促進に支障があるというその理由をお答えいただきたいと思います。
  51. 中村幸八

    中村(幸)政府委員 この点は、あまりはつきり申し上げない方が引揚げ促進になるのじやないかと思いますので、この点はこの程度にしておいていただきたいと思います。
  52. 受田新吉

    ○受田委員 その理由がどうだということだけは、はつきりしておかないといけないと思うのでありまして、別にわれわれはするどく追究あえてするというわけではないのであつて、ほんとに早く全員が引揚げていただきたいという熱願を持つておるがゆえに、こういうお尋ねをするのでありますが、今申し上げたように、名簿以外の生存者があれば、さらに大きな喜びである。こういう観点からも、調査にはとかく疎漏があるのでありますから、率直にあるだけの資料を向うに差上げ、手紙が来ている者の名前を知らせる、こういうことは、こちらの引揚げに対するほんとうの熱意の現われじやないかと思うのでありまして、この点をあえてお尋ねしておるのであります。これがやみに葬られておることは、引揚げ促進にはならぬと私は思いますので、その理由をはつきり願いたい。たとえば、この名簿を送達すると、先方で何か陰謀的な数字の発表があるか、これに書いてない氏名があるときには、そこに何かの暗影がただようとかいう意味のことかどうか。私は、その点、政治には秘密があつてはならないと思うのでありまして、秘密外交でなくて、特にこういう大事な人道問題の処理にあたつては、全部さらけ出して、これを明らかにした上でお帰りを待つ、こういうことが今の日本の政治のほんとうに明るいあり方であると思うのでありまして、あえてお答えをお願いする次第であります。
  53. 中村幸八

    中村(幸)政府委員 私どもといたしましては、一人でも多く、一刻でも早く多数の方々に帰つていただきたいという念願からいたしまして、先ほどお答えいたしましたように、氏名を発表上なかつたわけでありますが、もう一つの理由といたしましては、わが方といたしましては五万八千九百四十一人という数字を持つておりますが、中共側では三万と申しております。この間の数字の食い違いをいかにするか、この数字の問題で、今日差迫つた際にとやかくこれを議論をしておつたのでは、かえつて引揚げも遅れるのじやないか、こういうような観点もありまして、氏名の発表を差控えておるようなわけであります。
  54. 受田新吉

    ○受田委員 この質問はさらに継続することとして、今日は保留しておきます。     ―――――――――――――
  55. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 これより、中共地区残留胞引揚に関する件について、参考人より実情聴取することといたします。  ただいまお見えの参考人方々を御紹介いたします。京昭君、壱岐信子さん、金子三郎君、井上真久君、原金司君、以上五名の方々でございます。  この際、委員会の運営につきましてお諮りをいたします。参考人より事情聴取することについてでありますが、まず委員長より、引揚げられるまでのいきさつ等について概括的に質問をいたし、その後各委員より質疑していただくことといたしたいと思いますが、御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  56. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 御異議なしと認め、それではさようにいたします。  では、これより中共地区残留胞引揚げに関しまして事情聴取することにいたします。参考人の皆様におかれましては、御多忙のところを御遠路御出席いただきまして、まことにありがとうございます。委員長より厚くお礼を申し上げます。どうぞかたくならないで、楽な気持で御答弁を願いたいと存じます。  まず順序として、壱岐信子さんを御紹介申し上げます。  壱岐さんにお尋ねいたしますが、引揚げられるまでのいきさつについて概略お話をお願いいたします。
  57. 壱岐信子

    壱岐参考人 私、壱岐でございます。私は、昭和二十年の三月二十二日に宮城県の仙台を出発しまして、満州の奉天市の宮原、本渡湖の満州製鉄病院の看護婦に自分で志願して行つたものでございます。大阪の阪大養成所を出まして、阪大で終戦の年まで働いておりましたのですが、阪大が空襲と強制疎開でとつても危険地になりましたので、私も自分のうちへ疎開したのでございますけれども、以後県庁の方から千葉の電機工場の方へ行つてくれという動員が二へんほど参りましたのですが、日本は私はこわいから、外地の方へ行きましようと言つて、自分で志願して満州製鉄病院に行つたのが、昭和二十年、終戦の年の三月二十二日と覚えております。あちらへ着いて、わずか四箇月の間に、八・一五を迎えまして、宮原の満州製鉄病院が八路軍に接収されて、院長以下全部そこで八路軍の留用生活に入つたのです。まだあのころ、満州地区は国府軍の勢いが強くて、八路軍の力が弱かつたものですから、奉天から通化、通化から牡丹江、東安、あつちこつち東北を八路軍とともに行動して歩いていたのです。そして東北満州を解放して、やつと今度支那地区――こつちでは中国地区と言いましようね。天津を解放した年に、まだ国府軍がいるうちに第四野戦軍とともに解放地に入つたのです。それから軍隊留用生活四年半か五年で、一九五〇年の三月に、志願して留用を解除してもらつたのです。そのとき、私ももうすでに三十一になつておりました。ある人の世話で結婚したのが動機で、留用解除になつたのです。そして天津では経済的にとつても恵まれました。留用解除された以後に、夫とともに宮崎小児科といつて、きたない旅館の二階でささやかな診療所をつくつたのが、日本人はとつても技術がいいとか、親切だというような評判から、はやつたのです。そして経済的にとつても恵まれていたのです。薬剤師だとかいろんな使いを五、六人使つていましたのですけれども、帰るという話から、人員整理して、労働法で、全部ありつたけと言つていいほど労働局に持つて行かれてしまつたのです。旅費と支度くらいは自分でして帰れると思つたのですけれども、そのときすでにそれだけの余裕がなくて、日本政府の方から旅費を出してもらいまして、昨年の十月の二十七日にイギリス船の岳州号で帰つて来ました。そのときも、主人は心臓が悪く、その前からあつちで働けない状態だつたんです。私は中国のことが一通りわかつたのと、いろいろ軍隊生活をして、長く中国人と交わつて、おもしろいというので、みんなに信頼されたというか、私は満足していたもんですから、帰るときにとてもさびしくて、私だけ残してくださいと主人に言つたんですけど、残すとなると、離婚問題とか何とかで出境許可が出なかつたり、とてもむずかしい問題にぶつかるもんで、それを主人はあれしたのではないでしようか、一緒に行かぬか、日本へ行つたら何とかなるし、親たちもいるんだから、外地に残つても、女のくせにそんな強いことを言つてもだめだから、帰ろう帰ろうと言つて、私の意思がそこまで強固でなかつたので、主人と一緒に帰つたんです。そうして現在まで仙台の方の母の家に居候生活をして、両親もいますけれども、主人は病気で埼玉の実家の方で療養中なんです。
  58. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 旅費は日本政府から出されていると、今おつしやいましたね。手続はどんなふうになさいましたか。
  59. 壱岐信子

    壱岐参考人 手続は、船は天津の川口が凍ると入らないので、年に数えるほどの船しかない。香港にまわれば一箇月に一回はあると聞いておりましたけれども帰国の意思はあつても、主人の病気が長かつたから、いつも早く帰るといつて時期を待つていたんですけれども、どうしても万事が整わず、ずるずるになつて、とうとう人員整理してうちの中の問題を整理したところが、整つて、内地の方へ帰るというので、日本政府の方へ旅費を何とかしてくれということで父にお願いしたら、父がそれで手続をされたんです。大古有限公司という、イギリス租界だつたと思いますが、船会社にちやんと四人の船銭が日本から送られたということだつたんです。私、ちようど何気なしに、とまつているお友達、――その方は奉天の方からお帰りになる人で、船を待つから、お宅に船が出るまでしばらくとめてくれというので、ずつと船会社に通つているんです。その人が、お宅へも船銭が来ておりますというので、その方に調べてもらつた。偶然だと私もふしぎに思つて、次の日一緒に行つたら、四人の船銭が載つておりましたので、私は公安総局へ飛んで行つて日本から船銭が送られているから、ぜひ出境許可を出してもらわないことには困る、船銭が来ているんだ、船銭が来ているんだと、公安総局へ何べんも行つてつたんです。そうしたら外僑地区の組織が調べに来たんです。このおじいさんにはどのように分配したか、この人はどんなふうな退職をさせたのか、その以後に残つた家をどうしたか、ということを調べに来た。ですから、私、一切向うの共同診療所に寄付します、そして、あるものは、そのおじいさんの要求通り、気にいつたようにみな分配しますということを言つて本人もそれを承認しました。それでどうやら、内情を調べた公安局も、じやあ帰してやろうという承諾をしたのです。それから次の日に、では五時までだから、天津日報へ行つて帰国声明をしてくださいと言われた。ですから新聞社に行つて外僑出境声明――私は近々に天津を去りますけれども、私はいろいろ罰せられることや、いろいろな悪いことをしてないということを、三日ほど新聞に書いたのです。そして三日間たつて、三日目に、どうでしようか、異議が来ましたでしようか、出境許可をしていただけますかしらと言つたら、もう三日待て、もう二日待てと言つて、なかなか許可してくれないのです。ですから私、船がもう十九日に出帆なのに、許可するのですかしないのですか、許可してくれないのならくれないでいい、くれるのだつたらくれるとはつきりしてくれと強硬に公安局に言つたのです。そうしたら、まあそうあわてなくても、乗れるようにしてやるから、せかぬでもいいと言いますから、でもそれではとても安心ができぬ、――船会社の方でも、公安局の外僑の出境証がないと船にも乗せられないのですね。出境証がなかつたら、船場に行つても船会社が受付けてくれないのです。ですから、早く出してくれ、早く出してくれと言つた。とうとう、じやあ仮証明書を出してやろうと言つて、私に出してくれたから、その仮証明書で、今度船会社の方へ、こんな証明書をいただいて来ましたから、私たち今度の船にぜひ乗せてください、そして病人ですから、なるべくいいところへお願いしますというふうにお願いしたのです。それから種痘とか、出境書類を受取るのに、手数料を出したり、写真をとつたり、新聞代とか、あともう看板も下しちやつて、船が出るまでそういうことだつたのです。
  60. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 中共に残留中に、中共方々との交友関係、つまり友だち関係はどんなでしたか。
  61. 壱岐信子

    壱岐参考人 私、四年半、私と、もう一人の日本人と、ほとんど日本人がいない中ばかり歩いて来たのです。そんな関係で、わからぬ言葉を覚えるのも早かつたのです。そんな関係で、まあ言いたいこと、話したいことも言うし、言えば通じるで、いろいろ楽しく交わつて、話もしました。そして工作も、かなりできるだけのことをし、看病してやりました。よく八路軍の政治員なんかから労働模範でほめられたことがありました。
  62. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 相当融和された生活をしていましたか。
  63. 壱岐信子

    壱岐参考人 ええ。そして、軍隊ですから、衣食住は全部軍隊が持つてくれるし、まあ小づかいみたいなものはもらいますけれども……。技術やら思想やらを調査して、彼には何金とか何だとかいつて、いろいろな待遇のあれはみな大衆がきめてくれるのです。そして私も、みなより一番よくもらつていたのです。
  64. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 そうすると、ちよつと伺いますが、一九五〇年三月に解除されたのですね。帰国を志願してから何箇月ぐらいで帰られるようになりましたか。
  65. 壱岐信子

    壱岐参考人 ともかく、軍隊から復員したときは、軍服だけだつたし、聴診器一つしかなかつた。それで、もうとうてい帰れないと思つたのですが、旅費を何とかして、支度ぐらいしてと思つていたのです。その間も何とかして食べて行かなければならぬし、生きる道を開きたいと思つていたのですけれども、できたときにぜひ帰らなければいかぬと言つてしたし、気持もやはり同じで、人員も整理したりしましたけれども、いつからといつて区切れないのです。私の主人は年が行つているし、弱いですから、帰るのだけが目的だつたのですが……。
  66. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 ちよつとお伺いしますが、引揚援護庁の課長さんの名前で呼出しが参りましたね。
  67. 壱岐信子

    壱岐参考人 はあ。
  68. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 その呼出し後の事情お話し願いたいのです。米軍当局に御出頭なさつたのですか。
  69. 壱岐信子

    壱岐参考人 はあ。
  70. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 その状況お話願います。
  71. 壱岐信子

    壱岐参考人 私は外地で主人と結婚したので、まだ内地に籍の通知をしていなかつたのです。ですから、神戸上陸のときは、主人が宮崎、子供二人も宮崎で、私一人が壱岐で、引揚証明書をてんでに持つたのです。そんな関係だと思いますけれども、仙台に着いた以後に、主人は十二月十五日から二十八日まで、こつちの新宿の機関へ呼出しを受けたのですが、その呼出状が私の家へ入つたのです。ですから、私はすぐに速達でもつて埼玉の方に送つたのです。そうしたら、主人もすぐその呼出しで出頭したらしいです。それが十二月十五日で、二十八日、未完了のままに一時帰されたのです。また再度呼出しがあるものと思うが、お正月で帰つたのか、そういうことで帰つたというはがきが入つています。私が仙台で呼び出されたのは、仙台の榴ヶ岡にあるCID、――犯罪取調べの何とか機関だと言つていましたが……。
  72. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 仙台のCIDですか。
  73. 壱岐信子

    壱岐参考人 CIDと覚えているのですけれども……。
  74. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 どういうことを聞かれたのですか……。
  75. 壱岐信子

    壱岐参考人 第一回目も第二回目も、第三回目もやや同じようなことですけれども、アメリカの方の通訳も三度とも違つてつた関係で、ちよつとずつ違つておりますけれども、まあ似たようなものです。私は、戦争でもつて、八路軍と奉天、牡丹江、東安等、あつちこつち行つておりましたから、その所々を詳しく調べるのです。私、とてもめんどくさくなつて来るほど、地図を出して来て、字引を開いて、軍隊の配置とか、中国人民の陰の声ですね。何と言つたらいいでしようか、人民が中共政府にどういう反感を持つておるか、悪口を言つたかというようなことを聞きたかつたのでしようね。それから、天津の埠頭の情勢を図解して何トンの船かとか、船の大きさ、川の幅、タンクの長さとか、その辺の倉庫のありさまとか、倉庫の中の在庫品も言つてくれと言うのです。長時間にわたるものですから、その中に入つて見ませんからと言つて、もうわからないところはどんどんわからぬで、あやういこと、知つたようなことを言つたらあれと思いまして、わからぬわからぬで、わからぬことが大分多かつたんですけれどもほんとうに見た正しかつたことを発言しました。それから、第二回目も似たようなものでした。第三回目は、やはり帰るときの手続、方法だとか、なんとか、いろいろ詳しく聞いておりました。そうして、ここの話は秘密ですから絶対外部に漏らしたらいけないとおつしやるのです。ですから、そうですかと言つて、その後世話課の人やら、よく人が見えられて、私の行つたことを知つていらつして、どんなことを聞かれましたかといつて聞かれるけれども、私は、秘密ですから言いません、そう言つていたんです。そうしてアメリカの方が言うには、だれかに、――だれということなしに、だれかに、ここへ来て話をしたらいかぬと、あなたは忠告されましたかと言うのです。これは私の自由意思ですから、別にそんなことは言われません。私の自由意思でしやべるのですから、といつてお答えしたのです。
  76. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 ありがとうございました。どなたか御質疑がありますか。
  77. 帆足計

    帆足委員 ちよつと一言、向う生活を知りたく思いますので、お伺いしますが、御主人様は御病気でおられまして、これに対して向うではどういうふうな機関がありましたか、お困りになつてお帰りになつたのかどうか。  それからもう一つ、司令部で調べられましたときに、厚生省の方から通知が来て調べましたのか、CIDから直接連れに参りましたのか、ちよつとお尋ねしておきたいと思います。
  78. 壱岐信子

    壱岐参考人 アメリカのお呼出しは、何らの組織も経ないものです。ただ、これは司令官の自動車なんだけれども、司令官は横浜に奥さんをお迎えに行つて、ちようどあいておる、あなたを乗せてやる、ちよつとですから一緒に行つてください、と言うのです。どこへ行くのですかと言つたら、いいえ、別にこわいことないですから、私と一緒に行つてくれたらわかるから、というように言われて、連れられて行つたんです。私が中国にいたときから、帰つたら必ずアメリカのお呼出しがあるということは、うわさに聞いておりましたから、ああそのお呼出しだなということを思いましたから、どこへ連れて行かれても、アメリカのお呼出しだということが勘でわりました。
  79. 帆足計

    帆足委員 御主人様の向うでの御病気の手当などはどういうふうに……。生活にお困りになつてお帰りになつたのでしようか。こちらへお帰りになつて御病気になつたのですか。
  80. 壱岐信子

    壱岐参考人 詳しく言つたら切りがないのですが、宮崎は、いわば心臓病なのですけれども、外地生活の環境から来た一種独特のアルコール中毒なのです。第四野戦軍の林彪の病院に何年か御奉公しておつたのですが、八路軍に、おれは金より酒をくれなくちや働かぬのだと言つて、言いたいことを言つて、酒をもらつた働かしてもらつていたのです。ですから、心臓は悪いし、軍隊をやめたときも、やはり体がだめなものだから、急に内地に帰りたくなつたから帰してくれと騒いだのが動機で、天津で復員させられた状態なのです。
  81. 帆足計

    帆足委員 長い時間承つてまことに恐縮でした。
  82. 飯塚定輔

    ○飯塚委員 今の帆足さんの御質問と関連しますが、御主人は、在満当時は民間のお医者さんだつたのですか、日本の軍隊の軍医であつたのですか。それから、八路軍ではやはりお医者さんのお仕事をされておつたのですか。その点をお伺いしたい。
  83. 壱岐信子

    壱岐参考人 私は、彼の履歴をまだはつきり調べ抜いていないのですけれども、終戦前はハルビンの中央病院の医者でした。軍隊にちよつと行つて、すぐ終戦になつてつて来たのです。その後八路軍の幹部の子弟の学校の小児科の医者でした。
  84. 飯塚定輔

    ○飯塚委員 終戦前にちよつと軍隊におられたというのは、日本の軍隊におられたのですか。
  85. 壱岐信子

    壱岐参考人 そうです。
  86. 飯塚定輔

    ○飯塚委員 日本人がたいへん親切で、診療所をお開きになつてから非常に繁昌されたという話でしたが、そのあとはどうされておりますか。
  87. 壱岐信子

    壱岐参考人 何のあとですか。
  88. 飯塚定輔

    ○飯塚委員 繁昌されたあなた方の財産です。それは現地の方に譲つて来られるとか、持つて来られるものは持つて来られたとか……。
  89. 壱岐信子

    壱岐参考人 私たちは、衣類だけを持つて来たくらいです。あと薬局も、診察室も、全部そのまま林士海大夫という人に全部託して、共同で何か大きな診療所ができるらしいのですが、それに使つてくださいと、全部寄附して来たのです。
  90. 帆足計

    帆足委員 一言だけでけつこうですが、給料はどのくらいおもらいになつたのですか。
  91. 壱岐信子

    壱岐参考人 軍隊でですか。
  92. 帆足計

    帆足委員 さようです。
  93. 壱岐信子

    壱岐参考人 その地区々々で軍票がみな違うので、どういうふうに申し上げていいか、天津で……。
  94. 帆足計

    帆足委員 天津でけつこうです。
  95. 壱岐信子

    壱岐参考人 天津の最後の手当は、六万元ぐらいもらつたと思います。軍隊に在職中の手当は六万元でございました。
  96. 堤ツルヨ

    ○堤(ツ)委員  壱岐さんにお尋ねしますが、昨年の十月二十何日かにお帰りになり、きようですでに四箇月近く経つておるわけでございます。あなたは、御主人がお悪くて、そうして小さいお子さんをお連れになつて、あなたのお里に寄寓していらつしやる。今後の御方針もいろいろおありだろうと思うのでございますが、こちらにお帰りになつて四箇月、国内を、ごらんになつての御感想を承りたいと思います。あちらにおいでになつたときと、こちらにお帰りになつてからと、どうでございますか。日本の国内の状態です。
  97. 壱岐信子

    壱岐参考人 どう言い表わしていいか――帰つて悲観しているのです。ただつまらなくてしかたがないのです。引揚者には愛の手とか、極力援助するとか、兄弟のようにとか言つていますけれども、その実現ほんとうに私にはないというか、とにかくそんなことで、つまらぬと思います。     〔委員長退席、飯塚委員長代理着席〕 ただ帰つて落胆している。例をあげろと言われると、どういうふうにして言つたらいいか、わからないのですが、帰つて、みんなにお会いして、御苦労さまなどと迎えていただいたのですけれども、以後において、私に対して、以後の方針をどうするか、だれも親切に心配して尋ねてくれないし、私がお願いに行くのが当然なんですけれども、そんなのもちよつとつまらなく思つたり、それから、あなたは志願して行つたんだから、帰つて来ても、手当といつて千五百円しかないんですよと、仙台の世話課の人に言われたのです。それから、むずかしい――むずかしいといつて、思想的な問題で、こつちへ行つて話をすれば、こつちの人に怒られるし、またあつちへ行つて言えば、あつちの人が話してはいけないと言うように、何か私の自由を束縛されるようで、とても恐ろしいというか、さびしいというか、何か私おちつかないのです。
  98. 堤ツルヨ

    ○堤(ツ)委員  私がこういうことをお尋ねいたしましたのは、私たちが引揚げ促進のために今こうして国民を代表していろいろと促進をはかりましても、お帰りになりました皆様方を社会が快く受入れて、今後の皆様方の生活が成り立つて行くという受入れ態勢でなければならないのです。ことに、あなたのような小さなお子さんをお連れになつてこちらへお帰りになつた方に対して、政府の出先機関であるとか、また地方の行政機関であるとか、また一般社会の周囲の人たちが、あなた自体をお受入れして、そして御主人が病気でいられるのでございますから、あなたの今後の職業などについてもお世話を申し上げなければならない責任があると思うのでございます。ここに五人おいでになつていますから、五人ながらに承つてみたいと思うのでありますが、非常に私たちとしても責任がございます。今あなたが、そうした小さいお子さんをお連れになつて、そうして何だか非常に世間は冷たいし、帰つて来てつまらなかつたというような言葉を私はお聞きいたしまして、非常に申しわけなく存ずるのでございますが、あなたは、看護婦という特殊技能もお持ちでありますから、国家の大きな犠牲を背負われたのでございますけれども、どうかあなたが将来りつばにお生きくださることを切に願うものでございます。こういう席上ではございますけれども、個人的に御相談に応じられるようでございましたら、私も中山委員どもおりますから、どうぞもよりの女の方々にも御相談なさつて、今後のよい御方針をお立てになるようにお勧めしておきたいと思います。まことに個人的な問題で恐縮でございますが、これは一般引揚者全般につながる問題でございますので、悪しからずお許しを願います。
  99. 壱岐信子

    壱岐参考人 ありがとうございます。     〔飯塚委員長代理退席、委員長着席〕
  100. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 壱岐さんに対する御質問はもうありませんか。――なければ、次に京昭君にお願いいたします。
  101. 京昭

    ○京参考人 私は、京昭と申します。昭和四年一月十日生れです。私が満州に行きましたのは、昭和二十年の二月です。二月に、当時大阪農業専門学校に一年生として入つておりましたが、学徒動員で行つたことになつております。そして、わずか五箇月余りにして終戦を迎えまして、それ以後、一九四五年の九月から一九四六年の五月までソ軍の方に抑留されておりました。それから、一九四六年の五月から八路軍の方に、からだが非常に弱かつたために、引渡されたわけであります。それから三年間、一九四八年まで、興安嶺、挑南、内蒙の一部、張家口の近辺、それから礼泉、白城子、こういつたところを軍とともに行動しておつたわけです。そして当初は、軍の方から言いますには、技術工作者としてひとつ働いてくれ、こういうぐあいに言われたわけです。但し、その当時の状況は、いわゆる国民党と八路軍が戦争をしておつた関係上、仕事という仕事もやらなかつたわけで、ただ山間地帯の方に逃げて行く八路軍と行動をともにするといつたような状況にあつたわけです。それが、一九四八年の二月にハルビンに出て参りました。ハルビンに出て来るまでの間は、いわゆる第四野戦軍の遼吉軍区に勤めておりました。ハルビンに出て来てからは、東北人民政府の工業局の紡績工廠、これの化学部の方の技師として働くようになつたわけです。そして一九五〇年まで、一年余りの聞、紡績に必要なところのロート・オイルというものを製造しておりました。そうして、ちようど一九五〇年の一月に北京に無断で出て来たわけです。その当時の外僑といたしましては、旅行あるいは転勤をする場合において、旅行証明書をとらなくてはいけないわけですが、そういつた手続をしなかつたわけです。それはどうしてかといいますと、私の家庭的な問題として、父は七十三歳、母は六十八歳、そして他に兄弟とてありません。こういつた関係上、昭和二十四年に内地から手紙が着くようになりまして、それを見て初めて、自分としてはどうしても帰らなくてはいけない、満州におれば帰れないのではないか、こういう気持になつたわけであります。そのために、無断でハルビンから飛び出したわけです。それから北京に出て参りまして、北京ですぐに公安局の方に自首して出たわけです。向うの刑法によりますと、この自首した場合と、それから向うが捜査してつかまつた場合の刑罰というものが、非常に異なつております。そういつた関係上自首した。そして向うのお金で三十万元の罰金というものを払つております。それから北京の外僑――居留民としてのパスポートをもらつたわけです。そして一九五〇年の十二月まで北京におりました。それから、一九五一年の一月に天津に出て参りました。この天津北京間はどういうことをしておつたかと申しますと、塗料及びレザーの工場の技術者として奉職しておりました。そして、天津、北京の工場は同一系統でありまして、資本系統から申しましても、国家の機関ではないわけです。純然たる個人企業の一技術者として働いておりました。そうして一九五一年に、自分としてはどうしても帰りたいという意向が強く出て参りましたので、公安局の方に申請したわけです。そうしたところが、あの当時私どもの工場が建設時期にあつたわけです。だから、君がこの工場から出ることは現在の仕事上非常にさ参しつかえるから、もう少ししんぼうしてくれないか、こういう話が出たわけです。そういつた関係上、それではもう少し延ばそうというので、延ばしたわけです。それが、一九五二年の五月になりまして、バターフイールドの船も来ますし、それから天津におります他の日本人においてもどしどしと帰国する、こういつた環境下におきまして、自分としましても郷里に帰りたいというような希望にかわつたわけです。そして一九五二年の五月に公安局の方に帰国申請書を出しております。それと同時に会社の方もやめまして、五月から、帰るときの十月の十九日まで無職です。そして、この間におきます生活というものは、過去におきましていただいておりました給料及び退職金によつて生活しておりました。それから、許可が正式におりましたのが、一九五二年の九月二日におりております。その前に、天津日報によりまして、外僑帰国声明を出しております。この文面はどういう文面かと申しますと、私は最近帰国いたしますが、天津市において債務及び訴訟といつたような問題に関し異議のある方は申し出られよといつたような文面を出すわけです。そして三日間待ちまして、三日後において公安局に行く。そうしたところが、まだ文書ができておらないから、もう二、三日待つておれというような話でありました。そして、ちようど新聞広告しましてから十四日目におりております。  それから、向う生活は、私は個人の化学工場の技術者として奉職しておりました関係上、高額をいただいております。向うの金で三百二十万元、一月にいただいております。それから、過去八路軍におつた当時の生活というものは、先の壱岐さんのお話のように、非常に切り詰めた生活であつたわけです。月に衣食住以外に十万元いただくだけでした。こういつたような生活を三年ばかり続けておつたわけです。それが中華人民共和国というものが成立してから、私の身辺においても大きな生活上の変化が見られたわけです。そして、話はあと先になりますが、帰るときの旅費というのは、日本政府の方から出していただいております。そして日本政府から旅費が来るのが、私の名前が一般の人より非常に異なつておる、いわゆる京昭というような名前であるために、援護庁の方としましては、英文で妙な名前を打つて来られたわけです。それでバターフイールドの船会社においてはわからない。こういつた人間はおらないと、早く来ておつたのですが、そういつた電文の行き違いによりまして、非常に長い期日がかかつております。  それから、帰つて参りましてからの生活は、父の資産を継ぎまして、貿易商として、旭産業有限会社の専務取締役として現在やつております。そして仕事は貿易商です。  それから、米軍の呼出しの件については、こういつたようないきさつでございます。一月十四日付で、援護庁復員局の庶務課長から十九日に文面をいただいたわけです。それは、二十八日の朝の九時から午後三時までに復員局に出頭していただきたいというような文面と、それから、貴殿に対して在日米軍が御協議いたしたきにつき、おさしつかえなければ出ていただきたい、こういうような文面をいただいたわけです。そして、米軍の調査という問題に対しては、中国におつた当時から、帰れば米軍からいろいろな問題を調査される、それを拒んだ場合には警察にあとを尾行されるといつたような話も聞かされておつたわけです。それから、日本に帰つて来てからも、やはりそういつた話を今までの復員者からも聞いております。そういつた関係上、自分は非常に仕事の方が忙しくて、どうしても出られない現状であつたわけですが、はたからそういつたようなうわさというようなものを聞きまして自分の身辺に対しても非常に不安を覚えたような次第で、二十八日に出頭したわけです。そして二十八日に出頭しまして援護庁の庶務課の話によりますと、あなたはあしたの七時五十分までに麹町四丁目の宝亭ビルに行つてもらいたい、こういうことを言い渡されたわけです。それと同時に地図もいただいております。それから通行証といつたものもいただいております。それで、二十九日の七時五十分に出頭しております。出頭してからずつと、毎日四時半まで――昼食時間の十二時から一時までの問は、自動車に乗せられて、別の米軍の食堂に食事に行くわけです。それ以外の時間は全部、二世の人を前に置きまして、取調べを受けたわけです。その取調べの内容というのは、一番初めに私の履歴というものを聞くわけです。この履歴につきましては、向うでは一枚の紙を見ております。この一枚の紙というのは、私が神戸に上陸してから、いろいろな調書をあのとき七枚くらい書いておるわけです。あのときの一枚ではなかろうか、こういつたような見方をしたわけです。だから、自分としましては、経歴については全然それと同一のことを言わなくてはいけないというので、同一のことを言つております。それが終りまして、今度は、あなたはハルビン、北京、天津が非常に長いから、順序としましてハルビンからやつて行きたい、そういつた話で、すぐに空軍地図を一枚持つて参られまして、それと同時に、一九四三年に日本軍が使つてつたところの古いハルビン市の市街図、この二枚を持つて来たわけです。そうして、あなたはどこに住んでおつたか、それから、あなたの工場はどこにあつたかといつた点を、非常にこまかく聞かれるわけです。そうして地図の上において示したわけです。そして、毎日工場に出勤するときの道の順序によりまして、この道路はどういつたような種類の道であるか、あるいはこの建物はれんが建であるか木造建築であるか、あるいは屋根はどういうような種類で、何メートルの高さで、その屋根の形はどうか、あるいはこの工場の壁の厚さはどのくらいあるか、基礎工事はどうであるか、――非常に緻密に聞かれるわけです。そうして、わからないと言うと、考えなさいと言つて、五分くらい時間を与える。それでもわからないと言うと、次に進まれる。こういつたような取調べを、二十九日から二日まで受けたわけです。そうして、現在示されておる地図と別に、また自分で地図を一枚書きなさい、――こういつたものを書かされるわけです。地図に至りましても、二枚ばかり書いております。それから、あなたが働いておつたところの工場の図面も書きなさいというようなことを言われまして、これに対しては、私はわからないと言うと、あなたはこの工場で働いておつたのじやないか、どうしてわからないのか、こういうようなことを言われるわけです。だから、やはり書かなくてはいけないというようになり、非常にあいまいな地図というものを書いております。それから、自分は忙しいということを言うと、それでは、ほかの人は土曜、日曜はお休みだが、君は土曜も日曜も出て来なさいということで、土曜も日曜も向うの一室で取調べを受けたわけです。  私は、この問題に対して、何ゆえに猪俣先生と御相談をしたかといいますと、現在この三万名の日本人というものが、帰国も間近にあるわけです。こういつた事実が中国側に知れた場合に、どういうような処置をとられるか、――自分たちの父母やあるいは向うにおられる方の家族の方の非常に痛切な問題であるところの引揚げ問題を遅らす原因になるのではないか、こう思つたわけです。そのために――現在独立国としての日本である別状において、復員局が米軍の手先として働いておる、こういつたように自分には見受けられたわけです。だから御相談したといつたような次第であります。
  102. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 わかりました。  ちよつとお伺いしますが、あなたが天津、北京におるときに、三百二十万元だつたそうですね。大体この時分の一箇月のスタンダード・ベースといいますか、普通の生活費はどれくらいかわかりますか。
  103. 京昭

    ○京参考人 中国人は、大体個人企業と国営企業によつて異なつております。それで、私のおつたような個人企業におきましては、中国人におきまして、日本の見習工と呼ばれるような分類に入ると思います人たちは、三十万元いただいております。この三十万元というのは、いわゆる二人分の生活費であるということが労働保護法によつてきめられておるわけです。だから、三十万元ありますと、最低の二人の生活というものが保障されるわけです。それから、普通の労働者になりますと、四十万元から八十万元程度です。熟練労働者といつた人たちは、八十万元から百五十万元、こういつた程度です。技術者になりますと、百五十万元から四百万元、こういつた程度です。それから、向うでは、大企業にしかありませんが、工程師、いわゆる日本で言いますと技師長に当ります。この人たちは、四百万元から八百万元といつた莫大な給料をいただいておる方もあるわけです。それから、それ以外に、福祉資金としまして、夏服あるいは冬服といつたようなものも向うから支給されるわけです。くつにしましても、革ぐつが一足、防寒ぐつが一足、それから布ぐつが一足、その他手ぬぐいとか、くつ下、こういつたものも支給されております。それから、国営企業におきましては、やはり最低は大体三十万元程度です。そうして技術者になりますと、最高がやはり百五十万元くらいではなかろうかと思います。これは天津市の国営企業の例をとつてお話したわけです。
  104. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 三十万元と申しますと、換算してどのくらいの邦貨になりますか。
  105. 京昭

    ○京参考人 あの当時、一ドルが向うのお金で二万元です。それから日本の百八十円が向うの一万元ということになります。
  106. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 旅費は日本から支給せられたわけですね。
  107. 京昭

    ○京参考人 ええ。私としましては、五月に工場をやめております。それで、五月から十月までの間の生活費というものは、退職金及び給料によつてまかなつてつたわけです。それ以外に、天津市におきまして、隣りにおられる壱岐さんも御承知と思いますが、二人の日本人の方も一緒に援助しておる、こういつた関係にあつたわけです。
  108. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 柳田君。
  109. 柳田秀一

    ○柳田委員 ちよつと京さんにお尋ねしますが、その手紙は援護局から参つたのですか。来た日付はいつになつておりましたか。
  110. 京昭

    ○京参考人 援護庁の庶務課から来ております。向うの文書の日付は十四日です。そうして、私の手元に入りましたのが十九日の日です。
  111. 柳田秀一

    ○柳田委員 一月ですか。
  112. 京昭

    ○京参考人 ええ。一月の十九日です。
  113. 柳田秀一

    ○柳田委員 それでは、ちよつと援護庁長官お尋ねいたします。速記録によつて申し上げますが、これは二月五日の本委員会におきまして、私が、アメリカ軍が従来の引揚げのときにこういうことをやつたがと言つたことに対して、こういうふうに言つておるのであります。私が従来のことを申し述べまして、その後に、「まさか日本政府においてそういうようなことをやられるとは、今度の引揚げでは思いもいたしませんが、アメリカ軍当局の方から、それに類するような取調べをしたり、あるいは日本政府を通じて出せというような要請でもありますかどうか、お伺いしたい」こういう質問をしたのに対しまして、木村(忠)政府委員は、引揚援護庁においては、「ただいま御指摘がございましたことにつきましては、絶対にさようなことはございません」と、ここに明言されておるのでございますが、これはいかがでございますか。
  114. 木村忠二郎

    ○木村(忠)政府委員 そのときのお話は、たしか舞鶴援護局でのお話であつたと思います。援護局におきまして、向うの者が来まして調査したりいたしませんということを申し上げたのであります。
  115. 柳田秀一

    ○柳田委員 それと同時に、アメリカ軍当局の方から、それに類するような取調べをしたり、あるいは日本政府を通じてそれを出せというような要請があるかどうかというお尋ねをしておるが、それに対して、ないとお答えしておるのはいかがでありますか。
  116. 木村忠二郎

    ○木村(忠)政府委員 舞鶴擁護局におきまして、そういうことをいたしたことはないということを申したのであります。
  117. 柳田秀一

    ○柳田委員 私の発言速記録をお読み願いましても、この後文のところにおいて、舞鶴の引揚援護局においてそういうことをするというようなことは一つも載つておらぬのであります。これはどういうふうに解釈されますか。これは一般的解釈になりますが、だれが考えましても、この速記録を見るならば、今の援護庁長官の御説明は詭弁にすぎぬ、――あるいは何と申しますか、言葉を反しておられるようです。私ははなはだしく食言であると思いますが、この点はまた後日に譲りたいと思います。
  118. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 柳田君、京さんに御質問ありませんか。
  119. 柳田秀一

    ○柳田委員 それで終りです。
  120. 佐藤洋之助

  121. 帆足計

    帆足委員 京さんにお尋ねいたしますが、第一番目は、われわれは中国におる方々生活の状態を非常に知りたがつておるわけでございます。私が先般参りましたときに、百万元が大体一万八千円でございまして、東安市場の百貨店などに参つてしさいに調べましたところが、大体日本と同じくらいの物価――多少雑貨で高いものがあるように思いましたが、食糧品の方は逆に安いようでございました。京君の給料が三百二十万元としますと、換算すれば五万七千円くらいになりますが、お尋ねしたいのは、税金がどのくらいだつたかということ。それから第二に、生活費がそう高くないのでありますから、よほど金が残るのですが、そういうことはどういうバランスになつておられたか。それから、退職金はどういうふうであつたか。それから最後に、一般の日本方々――あとの参考人方々お話を伺えばわかるのですが――の水準は、三つか四つにわけて、どうであつたか。先ほどの従軍看護婦さんのように、生活は全部めんどうを見てもらつてつたけれども、毎月もらう小づかいは、ごくわずかであつた、そこで開業医になられてからは困らなかつたけれども、それまでは旅費にも困つたというふうに伺いましたし、旅費に困つている人のうわさ話も伺いましたので、そういうことも知りたいと思います。簡単でけつこうでございますが、どうかその辺の生活の模様をもう少しお聞かせ願いたいと思います。
  122. 京昭

    ○京参考人 ただいまのお話通り向うでは食糧は非常に安いわけです。これは、向うで米五百グラムが一千九百元しておりました。それ以外、雑貨類あるいは輸入品というものは、日本よりかやはり高いといつたようなところです。私が現在着ているこういつた服をこしらえるにしましても、これは英国の生地でございますが、一着が百万元で買えるわけです。オーバーにしましても、大体百万元で英国の生地が買える。こういつたような現状です。  それから、帰るときのそういつた三百二十万元をどのように使つてつたかといいますと、天津、北京におきまして、他に日本人二人ばかりと一緒に生活しておりました。この人たちは、ある事業に失敗されまして、それ以後非常な苦しみを受けておられたのです。そこで、自分は一人で三百二十万元ももらつているから、非常に余つて来るので、こういつた人にまわしておつたわけです。  それから一般の日本人の方、これは、私としましては、北京、天津を標準にとつてみたいと思います。天津、北京におきましては、困つておられるという方はやはりあるわけです。これは過去に例をとつて申しますと、日本の飲食店を経営した方が失敗に終つて、それ以後その借金がいまだに返済ができないといつた人が、天津、北京においては非常に多いのであります。天津、北京におきまして、他に困つておられるという方は、民間人にはほとんどありません。そして天津、北京におられるところの日本人の方というのは、在来から、いわゆる日本中国を治めておつた当時からおられる方が非常に多いわけです。こういう方は、貿易商とか、あるいは工場の技術者とか、あるいは商売をしておられる方とか、いろいろな人があるわけです。そして、商売をしておられる方は、大体非常に優遇されたところの生活をしておられた現状であります。  税金は、働いておる労働者には一銭もかけません。ここでは三百二十万元全部手取りということになりまして、全然税金を払つておりません。
  123. 帆足計

    帆足委員 もう一言だけお尋ねしますが、三百二十万元ももらつておりますれば、そういう困つた方のお世話をするときは別ですけれども、手取りですと五万七千円くらいになりまして、洋服一着が、日本の金にして二万円くらい、そして食料は、私が向うで見ましたとき、肉百匁六十円くらいだつたと思いますが、肉がべらぼうに安うございましたが、一般の技術者は、残つた金をどうするわけですか。享楽機関とか、そういうものが一向にないようで、私はアイスクリームを食べたり、支那料理を食べたりいたしましたが、そういう制度はどういうようになつておりますか、参考のために……。
  124. 京昭

    ○京参考人 それでは私の生活状況をお知らせしますが。私が天津におきまして住んでおつた家というのは、ドイツ人の家です。このドイツ人の家は四階建になつておりまして、私は二階に住んでおりました。三階、四階はドイツ人が住んでおり、一階にボーイが住んでおつた。そして中の設備は、全部完備されております。これは、外国人がおつた関係上、非常に完備されたところの設備であるわけです。だから、電気、水道、燃料、家賃、家具代、こういうものを全部入れまして、五十万元かかります。それから五十万元が、自分一人のいわゆる食費です。それからボーイさんに月十五万元、食費以外に給料として出しております。他に使うところの支出の面は、向うの天津にもきましても依然としてダンス・ホールがありますので、そうした関係上、ダンス・ホールで遊んだ金なんかもそれに入つて来るわけであります。(「百万元ぐらい」と呼ぶ者あり、笑声)いや、そうはかかりません。
  125. 帆足計

    帆足委員 まことに恐縮ですが、もう一言。天津から先般帰りました、――お医者さんだと思いますが、お身元をお調べしたところが、閻錫山の配下の方であつたので、反中共的な感情が相当強い方であつたということをあとで聞いたのですけれども、非常にさんたんたる生活をしておつた、特に住宅難がはげしくて、六畳くらいの部屋に六、七人入つておる、帆足の見たところなんかは、あれはいいところばかりを見たのであつてあいつがうそをつくとは思わぬけれども、しかし、いいところだけ見たので、悪いところを全然知らぬやつだ、こう言われましてまことに汗顔の至りだと思つたのですが、そこらのところを公平に見まして、住宅難、それからあとの技術のちよつと劣る人たち、そういうことも考慮に入れて、大体どういうふうなものかを、一、二補つて承りたいのです。
  126. 京昭

    ○京参考人 天津における住宅難というものは、現在ではありません。これは、一九五一年ごろまでは、やはりそういつた傾向があつたわけです。現在では全部解決されております。天津において、昨年の三月ごろから、三十万戸の労働者に対する住宅というものが建設されております。そういつた関係上、家に対しては全然不足ということは見られないわけです。それから、日本人の方で普通どのくらいの家賃かといいますと、大体三万元から十五万元くらいが日本人の家賃ではないかと思います。
  127. 帆足計

    帆足委員 ありがとうございました。
  128. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 受田君。
  129. 受田新吉

    ○受田委員 京さんにちよつとお伺いいたします。今われわれが最も関心を抱いていますのは、今度帰られる三万人の方々がどのくらいのお金を持つて帰るか、これに対して日本政府としては帰還手当というものを考えており、また住宅その他就職等に特殊の考慮を払つておるのでありますが、中国側といたしましては、帰還する日本人の財産をどういうふうに処理をしておるのか、あなた御自身がお帰りになられたとき、財産をいかなる処理をなさつたか、――今度帰られるであろう三万人の方々は幾ら金を持つて帰るか、日本政府でも見当がつかないと言うておるのでありますが、向うで個人の私有財産を中国側はどういうふうにこれを尊重しようとしておるか、この点をお伺いしたいと思います。
  130. 京昭

    ○京参考人 向うでは、帰国に際して財産をどう処分するということは、全然きめられておりません。そうして、私たちが帰つて来たときにおきましては、荷物は一トン許可されております。自分の持てる範囲の荷物は全部持つて帰りなさいということを言われておるわけです。それ以外に、米ドルで三十ドル許されております。それから金が一両、いわゆる十匁です。ダイヤが一カラツト、こういつたものは全部許されておるわけです。それ以外のダイヤあるいは金というものは、許されておりません。そういつた関係上、こういつた金あるいはダイヤをたくさん持つておられる方は、衣服にかえて持つて帰られるといつた状況であつたと思います。
  131. 受田新吉

    ○受田委員 これから先帰られる方々が、幾ら持つて帰るかに対していろいろまちまちであろうという観測が大きいのであります。自分の財産をいかにこれを処理して帰るか、これに対して中国側政府としてはどういう態度をとつているのか、こういう点について、見通しはきかないのでございましようか。個人の財産を処理して帰るときに、その財産尊重という観念だけは、中国側といえども十分考えていらつしやるだろうと思うのでありますが、向うに残したものを没収する、今おつしやつた許された範囲内のもの以外は向うは取上げるという形になつているかどうかをお伺いしたいのであります。
  132. 京昭

    ○京参考人 向う政府としましては、いわゆる日本人として終戦後において築いたところの財産に対しては、原則としては全然取上げたといつたことを聞いておりません。たしか向う政府としましては、あなた方日本に帰れば、一番初めに困ることは生活の問題だ、だから持つて帰れるものは何でも持つて帰りなさいということを言つておるわけです。そうしてただいま隣りにおられました壱岐さんの問題ですが、あの人の場合は特殊な問題であつたわけです。これの事情を私から言うと、非常に何のようでございますが、あの人としましては、いわゆる人を使つてつたわけです。診療所としまして、中国人を五名ばかり使つてつたわけです。それで、向うの労働法によりまして、人を使つておれば、その使つてつた労働者が退職する場合においては、退職金というものを出さなくてはいけないわけなんです。そういつた関係上、宮崎さんの方としましては、退職金としていろいろな品物を渡されたわけなんです。だから、普通向うで働いておる者、いわゆる技術者の人たち、あるいは労働者の人たちにしましても、すべて持帰り品には制限はございせん。
  133. 受田新吉

    ○受田委員 そうしますと、米ドルで三十ドルといいますると、大体一万八百円でありますが、あなたの場合に例をとりましても、最低一万円の持帰り金は、いかなる引揚げ方々でも持つて帰れるような原則が打立てられておるということになりますか。それと、もう一つは、そのほかの、日本国が戦いに負けて後にあちらで築いた個人の財産は、一切手をつけないとおつしやつたのでありますが、その後蓄積したものが今度お持帰りになつた限度のものではないのでありますが、そういうものの処理をどういうふうにとりはからつているか。売りさばいたものを全部米ドルに引直してこちらに持つて帰れるように向うは認めてはくれないのか。個人の財産を尊重するという点において、あちらの政府としてどういう態度をとつているかを、十分お聞きしておきたいのであります。
  134. 京昭

    ○京参考人 今度帰られる方は、大体満州地方に多いわけです。満州地方は、非常に特殊な環境に置かれておる。といいますと、いわゆる国営企業に働いておられる方、それから個人で医者あるいは一つの商売を経営しておられる方、あるいは日雇い労働者のようなことをやつておられる方、いろいろな人がおるわけなんです。だから、これは一概に、この程度持つて帰れるということは、ぼくとしても断言できないのじやないかと思うわけです。  それから、いわゆるドルの問題ですが、向うでは、三十ドルというのは、いわゆる旅費として持たしてくれるわけです。そうして、向うでは、この金を他の物品にかえて持つてつてくれということを言われているわけです。いわゆる国家に保有しておるところのドルを国外に流す、そういつた為替問題ではなかろうかと思うわけです。
  135. 受田新吉

    ○受田委員 そこで、もう一つお尋も申し上げたいのでありまするが、あなたの今のお話の中に出ていることに関係してでありまするが、あなたは現在警察官に尾行されていらつしやるとお思いでございましようか。
  136. 京昭

    ○京参考人 私が帰つて来てから、十二月二十七日に、神戸のアメリカ領事が私の家に来ております。それに一人の日本人の方、これは通訳の方ですが二人で来られたわけです。そうして、私の家に来まして、どういうことを尋ねたかといいますと、向うの情勢というものについて話していただきたいというようなことを言われたわけです。それから、私の知つている範囲内のことはお話いたしましようと言つたところが、どういう質問かといいますと、現在中国の民衆というものは政府に対してどういうような考えでおるか、あるいは朝鮮戦争によつて中国国内においてどのような動揺があるかとか、あるいは飛行機はどこから入つておるのかとか、あるいは飛行機の写真を見せられまして、こういつたような飛行機は飛んでおるのを見たことがあるかとか、こういつた問題を聞かれたわけです。それから、それが済みましてから、今度は警察官が、ちようど正月前から二月ごろまでにかけまして、合計五回ばかり、自分の家に二人ずつ来ております。それから、一月の十一日の日に、大阪のジヨージ・マーチンとかいう領事です。これもやはり会見を申し込んで来ております。これに対しては、私としては拒否したわけです。そうして、おらないということにして去ります。こういうような今までの実例があります。
  137. 受田新吉

    ○受田委員 お話の中にありました、警察官が尾行するといううわさを中国でお聞きになつた。これはどういう方面からお聞きになつたのか、お尋ねしたいのであります。
  138. 京昭

    ○京参考人 中国におつた当時は、内地からの文面によつてつたわけです。北京から帰られた方だつたと思いますが、帰つたところが、ずつと警察に尾行されて、そうしていつも不安な日々を送つたということを、手紙によつて知らされたことが二、三度ありました。それから、帰つて来てからもやはりそういうことを聞いております。やはり引揚げられた方からです。
  139. 受田新吉

    ○受田委員 そうすると、今の帰つて来られてお聞きになつたというのは、引揚げをされた方から、また向うでお聞きになつたというのも引揚げられた方のお手紙によつてつたということに確認してよろしゆうございますね。
  140. 京昭

    ○京参考人 そうです。
  141. 受田新吉

    ○受田委員 では、私は途中で中座するかもしれませんので、政府委員に一言だけお尋ねしておきたいのでありますが、個別引揚げをなさつた方々に対しては、今度大量に帰られた方々と同様の受入れ態勢はとらないのだという御説明があつたのでありますが、先ほど来お聞きすると、引揚げて来られた方々にいかに残酷であるかということは、われわれの目の前に見せつけられたわけでありますが、今まで個別に帰られた方々の住宅問題、就職問題、こういうものに対しても十分心を配つてあげる必要がないのか。途中で帰つて来られた方々はほうりつぱなしにされているという現状であります。こういう点についても、今度本格的に帰られる方々と同様の受入れ態勢を個別引揚者にも及ぼせという、まざまざとした強い要求がわれわれの目の前にぶら下つたのでありますが、この点について援護庁長官はいかにお考えになるかということと、もう一つは、先ほど来の御説明の中に、持つて帰られる金が幾らあるかわかりませんが、物品で持つて帰られるということになると、帰還手当を出されるのには、現金だけを換算するのか、あるいは今のようなダイヤとか、時計とかいう物品のみをたくさん持つてつて現金は持つて帰らぬ人と、現金だけかつかつ三十ドルくらい持つてつて物品を持つて帰らぬ人とのバランスは、どういうふうにとつて帰還手当を出そうとされるのか、この点をお伺いしたいのであります。
  142. 木村忠二郎

    ○木村(忠)政府委員 引揚者につきましては、個別引揚げでありましても、集団揚げでりましても、われわれとしては同じように扱うつもりでおります。ただ、御承知のように、帰還手当の問題は、今度の集団引揚げから適用するということになつておりますから、これは以前のものには適用になりません。  それから、ただいま御質問のありました問題でございますけれども、私たちは一応、現金または普通の通貨として考えらるべきものということで、たとえば小切手でありますとか、あるいはそういうような種類のもの、つまり有価証券の類のものになりますれば、そういうことになろうと思います。
  143. 受田新吉

    ○受田委員 終ります。
  144. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 野澤君。
  145. 野澤清人

    ○野澤委員 二、三京さんに御質問を申し上げたいと思うのですが、その一つは、最初ソ連に捕虜になつて、それから八路軍に留用されたとおつしやいましたが、その場合には強制的に留用されたのか、御自分で進んで留用されたのか、その状況をお聞きしたいと思います。
  146. 京昭

    ○京参考人 一九四五年の九月にソ軍に留用されたのは、いわゆる強制的です。これは、ぼくはあの当時は兵隊には入つておらなかつたわけです。但し、三日間の防衛召集を食らつております。そういつた関係上、お前は若いから、きつと兵隊だろうというようなことを言われたわけです。そうしてそれ以後ずつとソ軍の方で、貨車に穀物を積んだり、あるいは倉庫から貨車にいろいろな品物を積む、こういつたような使役に使われたわけです。そうして、ちようどからだが、小さいときから非常に悪いといつた関係上、四六年になつてからは、めつきり力も出なくなつたわけです。そうしたところが、今度は五月にソ軍が全面的に引揚げ、そしてそのあとに八路軍が入る、こういつた情勢下になつたわけです。それと同時に、お前は八路軍の方に残れ、こういう話になりまして、それで、このときには、自分としましても、現状のままであれば内地に帰れない、だから、一つは生活の問題があるから、八路軍に入つていようという気にもなつたわけです。
  147. 野澤清人

    ○野澤委員 その際、抑留されたときは、どこの地点で抑留されましたか。
  148. 京昭

    ○京参考人 チチハルにおいて抑留されました。それから、すぐに桃南の方に行つております。
  149. 野澤清人

    ○野澤委員 ソ軍に抑留された場合には、チチハルで市民隊としてひつばられたわけですね。
  150. 京昭

    ○京参考人 そうです。
  151. 野澤清人

    ○野澤委員 それから、ソ軍から八路軍にかわるときには、ソ連の人が八路軍に勤めたらいいじやないかというお話をなすつたのですか。
  152. 京昭

    ○京参考人 ええ、そうです。それと同時に、あの当時、日本人民会というのがチチハルにあつたわけですが、その人たちも、現在のところは帰れないといつた情勢であるから、仕事をやつているのが一番得である、仕事をしなかつたら飯も食えないのだからというような話も出ておつたわけです。自分としましても、やはり帰れないのだつたら、その仕事をやらなければいけない、金もその当時は非常に少かつたものですから、仕事に入つた、こういつたような状況にあつたわけです。
  153. 野澤清人

    ○野澤委員 重ねてお尋ねいたしますが、私も終戦当時にはチチハルにおりました。それで、その当時の状況は、一応ソ軍から逃げ出さないことには八路軍には入れなかつたと思うのです。――ソ軍の抑留の名簿から抹殺されない限りは。その辺の状況は、ソ軍があなたの方に八路で働けということを勧誘したかどうか。
  154. 京昭

    ○京参考人 私は、ソ軍が引揚げるときにはチチハルから離れておりまして、昂々渓――これはチチハルに非常に近いところにございますが、その地帯は、ソ軍が引揚げると同時に八路軍がすぐに入つておるのです。これは、チチハルよりか早く入つております。そういつた関係上、すぐにソ軍の方でもやはりそういうことを言つたわけです。
  155. 野澤清人

    ○野澤委員 そうすると、あなたの場合には、多少の勧誘によつて、自分で進んで留用されたと解釈していいのですか。
  156. 京昭

    ○京参考人 はい。
  157. 野澤清人

    ○野澤委員 現在でも中共の軍または政府に留用されている者がおりますかどうか。
  158. 京昭

    ○京参考人 留用という言葉が私にはあまりのみ込めないわけなんです。向うにおきましての生活、あるいは日本人のいろいろな生活状況を見まして、ぼくの考えでは、抑留者と限定されないのじやないかと思うわけです。すべての行動というものは、外国の居留民と同じような取扱いを受けております。ソヴイエト人もやはりそういつたような制限を受けておるし、あるいはアメリカ人にしましても、英国人にしましても、同じような待遇を受けておるわけです。だから、どの程度が抑留者であるかということは、ぼくは断言することはできないのじやないかと思うわけです。そうして、この抑留者という人たちは、向うに戦犯として現在いますところの者こそ抑留者だとぼくは思うのです。ぼくは、戦犯しか当らないのじやないかというふうに思うわけです。
  159. 野澤清人

    ○野澤委員 留用という言葉にこだわるわけではないが、強制的に軍に徴集されたり、それから積極的に自分で進んでお役所の仕事をしたりしている者が何人くらいあるかということであります。要するに、強制でもよいし、任意に自分の発意でもつて軍や政府の仕事をしている者が現にあるかどうかということをお聞きしたい。
  160. 京昭

    ○京参考人 ソ軍が満州地区から撤退してから二、三箇月の間というものは、非常な混乱時期であつたわけです。国民党が入つておる地区もあるし、あるいは八路軍の入つておる地区もあり、それからソヴイエト軍がまだ退去していないところもあるというような、非常な混乱時期であつたわけです。その過程において看護婦さん、あるいは医者というような方は、強制的にひつぱられておるわけです。こういう人は、現在満州には非常に多いわけで、こういうような人に対しても抑留者という名前をつけられるならば、その数は非常に多いものになると思います。
  161. 野澤清人

    ○野澤委員 しつこいようですが、現在北京や天津でもつて政府の仕事をやつておられる日本人があるかどうか、その点をお聞きしたいわけであります。過去の事実ではなしに……。
  162. 京昭

    ○京参考人 北京、天津地区におきましては、医務系統、――お医者さん及び看護婦の人たちは、軍ではありませんが、ほとんど政府の機関の病院に働いております。
  163. 野澤清人

    ○野澤委員 たいへん個人的の問題に立ち入つてお気の毒ですが、米軍の取調べに対してどのような感じがしたかという心境をお聞きしたいのです。つまり、予備的に最初から承知しておつたために、独立国となつ日本で米軍に調べられた事柄に対しては多少恐怖観念を持つてつたというような御説明がありましたが、そこで調べられながらこういうことを感じられたかどうか。第一には、正直にお話しようと考えたかどうか、第一には、いいかげんにしてやろうと考えたかどうか、第三には、質問に対して積極的にお話をして協力をしようとされたか、第四には、聞かれたことだけしか話さないつもりであつたかどうか、この四つの点についてお伺いしたいと思います。
  164. 京昭

    ○京参考人 今の御質問は、ぼくには全部あてはまらないといつたような状況です。ぼくといたしましては、一つは、いわゆる恐怖観念が働いております。そのために、自分の仕事も非常に忙しいし、一日も早く帰りたいというような関係上、ただ早く帰りたい、この場からのがれたいという気で一ぱいであつたわけです。ですから、発言にしましても、やはり向うにおりました関係上、中国でいろいろな人にも接触しておるわけですし、また向う実情もよく見ておるわけで、そういうふうな点から、言つてよいこと悪いことというものは自分でも判断ができる。だから、よいことについてはやはりそのまま言つてしまうといつたような状況であつたわけです。
  165. 野澤清人

    ○野澤委員 ありがとうございました。そういう心境について聞くのは無理だと思いますが、お忙しい中で二日も三日も調べられるというようなことが予想される場合には、申し出れば一日で済ましてくれると思うのです。われわれが引揚げて来た当時は、シベリア帰りだつたのですが、どうしても忙しいからという話をしたら、一日で解除してくれました。私の会社にもシベリア帰りが十九人おりますが、そういうことを話しておきますと、昼飯も食わずに全部これはやつてくれた。また調べられることに対する恐怖観念というものは、地区的に違うと思うのですが、おそらく中共地区から帰る方は、これに対する恐怖観念を持つておると思います。それからシベリアから帰つた者は、ある程度の人たちは、早く調べてほしいという心境を持ち、何でも言つてやるぞという感情を、早いうちは持つてつたように私は感じますので、こうした心境については忌憚のない御説明をお聞きしたいと思つたのですが、やむを得ませんから、これで打切ります。
  166. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 京君に対する質疑はこの程度にとどめまして、進行いたしたいと思います。  次は、原金司君にお願いいたします。
  167. 原金司

    ○原参考人 私は、昭和十七年の二月十一日、忘れもしない紀元節の朝、上海の港に着きました。個人の用事というよりは、上海見物に行くというような気軽な気持で行つたのです。それが、はからずもいろいろの輸送問題で遂に帰れなくなつてしまつて、やむを得ず向うにとまつてしまつたのです。その後、大別しますと、日本人時代は、自分で小さな商売をしておつたのです。戦争が終つてから、国民党時代には、工場に留用になりました。それが大体三年間。それから、解放になりまして、大体一年間遊びました。遊んでいては飯が食えないからと思つて中国人の工場に技術者として入つたのです。そうして帰る一年前まで大体工場で働いていたのでございます。工場の待遇は、私は工程師として入つていましたから、生活は、非常にきゆうくつというよりも、楽に暮しておつたのです。大体上海で二百単位もらつていましたから、当時二百単位というと、向うの金で大体百万元ですから、生活は十分できます。大体最低生活が独身者で五十万あつたらできます。それで、今度の五反問題で、その工場の資本家がひつばられまして、自殺してしまつたのです。それで、工場には勤められなくなつて、やめまして、本業は電気の方でございますから、自分でメツキ屋を始めて、そのときに中国人の職工を六人使いました。そうして、大体一人当り給料として八十万から百万払つてつたのです。それで、大体うまく行つてつたのですけれども、五反問題の直前になつて、いろいろ思想問題がございまして、職工に、いろいろの公開の席で、何だかんだで、資本家も非常に悪辣だというようなぐあいに批判される時代が近づいて来たものですから、私らも、外僑という関係で、中国人にある程度ばかにされるというか、なめてかかられまして、作業中にストライキを起して、電気をとめて遊びに行つてしまつた。予定の仕事をしなければ給料は払わないと言えば、給料をもう少し増さないと仕事をしないと言う。大体私らの工場では、ほかの工場よりいい給料をやつていたのです。それでもそういうぐあいで、一つも仕事をしないで、うまく行かないものですから、工場を畳んでしまつたのです。そのときに、寝台まで売つて、ボーイやら職工の給料その他すつかり払いまして、裸になつて、いなかの百姓の家に行つて部屋を借りまして、一時生活していたのであります。その後、友達の関係で中国人の工場に入りまして二、三箇月働いたのでございます。  かねがね自分としても帰国の心は抱いていまして、東京の義兄に手紙を出しておつたのでございます。それが、神田にあります在外同胞帰趨促進全国協議会でございますか、その方面に行つて、ずいぶん運動してくださいました。私が出境することについてとやかく批判があつたのでございますけれども日本人が出境することについては、日本人同士が極力秘密を守つて、ひそかに出ないことは、もし中傷されたならば、その人は出られぬことになりますから、出境証明が出るまでは秘密に秘密を守つてつてつたのでございます。幸いに出境証明が出まして、それも早くて、私のは二週間で出たのです。
  168. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 何年でした。
  169. 原金司

    ○原参考人 ことしの六月ごろです。それで、出境証が出てから二箇月間猶予があるのですが、そのぎりぎり一ぱいまでおつたのであります。そのときは、新聞に三日間広告を出されまして、もしその人に負債とか法律的な問題がない場合には許可証を渡す、異議のある人は公安局に申し出ろということが書いてありました。三日間過ぎるまでは心配したのでありますが、その間に異議を申し立てる人もなくて、公安局に行つたのであります。そして許可証をもらつたのでありますが、それ以前に、五反問題あるいは三反問題といつたようなことが重なつて、いろいろな人が、自殺したり、あるいは殺されたり、いろいろな悲喜劇もございました。そういうことで、一般外人は、中国の領土から一歩外に出るまでは非常に不安であつた。そういつた例がたくさんあります。外人でありますが、中国人の名前を使つて、親子で広東に行きましたが、広東の警察にひつかかつてしまして、子供を広東の警察にほうりつぱなしにつて、お父さんとお母さんが香港に行つたということや、広東との境目まで行つて、また引返さなければならぬことがあるし、いろいろな点で非常に心配しまして、最後までそういうぐあいに気を使つてつたのでありますが、私の出境証が出る直前に、いなかの大家でありますが、それが少し悪いやつで、私がきちきち家賃を納めているのに、家賃を納めているけれども少いから、もう少し上げてくれ、そうでなければ警察に密告するぞと言つておどかしたので、密告するならしてみろ、おれははつきりと領収証をとつてあるから何でもないと言つたのですが、それがまた、どうしたやつか知らぬが、密告しまして、警察が調べに来た。そこで、詳しくいきさつを話したけれども、あとの問題がまたごちやごちやすると困るからと思つて家財道具全部、ふとんまでやつて、トランク一つで日本に帰つて来たのであります。  それで、私もいろいろ積極的に話したいと思つて参考資料を持つて来ておりますが、今度の引揚げ問題につきまして、上海の状況が比較的こちらにはわかつてないだろうと思います。というのは、上海から引揚げて来た人が少い。そういう関係で、一九四九年十二月に日本人会で発行した日本人名簿をもとにして、その後東北の方から来たり、死んだりした者をつけ加えて、私が統計をとつたのでありますが、もし御希望であれば、一通り説明申し上げてもいいと思います。
  170. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 それはよろしゆうございます。手続などについてお話願いたい。
  171. 原金司

    ○原参考人 手続というと、公安局のものですか。
  172. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 それから、出るまでの……。
  173. 原金司

    ○原参考人 公安局の方は、今申しました通り、思想的の理由が多分にあるのではないかと思います。一概に思想ばかりできめつけるわけには行きませんけれども、金があつても出られない人、それから、金がなくても出られない人もあるわけです。ただ、公安局では、どれを基準にして、その人の思想調査とか、あるいはそういつた調査をして、出す出さぬをきめているか、わかりませんが、私の友人などは、二年半前から出境申請書を出しているのです。それが今もつて出ません。それから、ある人なんかは、女の人ですけれども、一年ぐらい前から出しております。それがまだ出ておりません。それから、私どもは大体カトリツクであります。それで、カトリツクは中共地区では非常に弾圧されまして、警察に呼びつけられて、小さい子供まで何時間にわたつて調べられたのでございますけれども、そういつたカトリツクの団体に入つております私が、何ゆえをもつて二週間で出境許可になつたか、これもわからないのです。そうかといつて、そういう人ばかりではなくて、普通の工場に勤めている人が一つも許可がおりない。そうかといつて、職がなくて遊んでいる人も許可がおりないというようなことがたくさんありまして、どこを基準にして出すか出さぬかということは、判断に苦しみますけれども、私らの場合、出境許可申請を出して、最短期間に出た方じやないかと思います。わずか二週間で出ました。そうして二週間で出てから、二箇月間というものは猶予期間がございます。そうして、警察に出境許可証をとりに行くのでありますが、その場合に、いろいろなことを尋ねられました。今度帰つて行くために旅費はどこからつくつたかとか、あるいは帰る先はどこか、帰つたあとにはだれがいるかとか、あるいは何を目的として帰るのかとか、帰つてどういう生活をするのかとか、そういつたことも聞かれました。それから、金の出所について非常にいろいろ質問されました。ずつと前から、政府援護で帰るということはお互いに言うことをよそうじやないかということで、上海にいる連中は話し合つておりました。政府ということをあまり口に出さないこと、個人の金で帰るということにした方が帰りやすいからということで、政府関係は一切抜きにして、自分らが前から残しておつた金を始末していて、その金で帰るのだというようなぐあいに話していたのです。それで、二箇月間たつ問には、荷物なんか持てる人は、持つて行けるようにしなければなりません。荷物の制限というのは別にありませんでした。ただ、先ほど京さんのお話なつたように、金が一両、銀が二十両、米ドル三十ドル、1米ドルは、以前は百ドルでありましたが、減つて三十ドルになつたのであります。写真は、人物写真以外は持つて行かれないが、衣類の点については別に制限はございませんでした。新しいものでも百五十キロまではよいとかいうことを税関で聞いたのでございますけれども、ほかに制限されるものは、骨董品と国債です。国債は全然持つて出られません。たとえば、戦争中に買いました戦時公債だとか、いろいろな国債は、全然持つて出ることはできません。これは、私も中国人民銀行に行つて許可を受けたが、だめだつたので、持つて帰れなかつた。それから、病人とか子供のある人は、公安局に直接に申し出て、医者が診断をして、適当と認める人は、上海に一月に二回船が入るが、その船でもつて香港まで出ることができます。これは国家の診断書がいります。それから、荷物の点は無制限でございますから、それはあそこのバターフイールド、それからクーリンセンなどに頼んでおきますれば、日本まで運んでくれます。  それで、船に乗つたのが八月の二十一日でありました。それから広東に着きまして、広東で一泊いたしました。広東に一泊したときも、警察に行きまして、出境許可のときと同じようにいろいろなことを聞かれました。その晩は、広東のホテルで、きようは一切出てはいかぬぞという達しがありましたから、広東のホテルでカン詰になりました。翌朝、旅行者のバスが来まして、そのバスに乗つて駅まで行きました。二十一日に出て、二十三日に着き、二十三日の晩にとまつて二十四日の朝十時に乗りました。深川という広東と九龍の間でございますが、そこに着いたのが十二時です。そこで身体検査とか、あるいは荷物の検査をいろいろ受けまして午後の四時に汽車に乗つて、九龍についたのが六時であります。九龍に一泊して、翌日香港に渡つたのでございます。香港で船に乗つたのが八月二十九日で、横浜に着いたのが九月五日だつたと思います。大体そういう順序で帰つて来たものでございます。
  174. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 旅費はどうしましたか。
  175. 原金司

    ○原参考人 旅費は、船賃は国家の負担でございます。手持金としては、三等の寝台車でありましたが、三十八万元、一回の食事が大体汽車の中で五千元くらいのものでございます。広東のホテル代は二万元ですが、香港では少し高くて、香港ドルで一晩十ドルくらいかかりまする手持金は五十万元持つたら十分だと思います。ただ、米ドル三十ドルというのがちよつと少いのでありますけれども、これは、向うが許可してくれないから、やむを得ないと思います。
  176. 堤ツルヨ

    ○堤(ツ)委員 委員長、議事進行について。時間も五時を過ぎておりますし、まだお二人参考人がおいでになりますので、もう少し要旨をつまんで、ポイントポイントを押えて、全部の人に先に聞いてしまうようにされたいと思います。
  177. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 わかりました。それでは、進行の仕方をかえて、要点だけをひとつ聞きます。  帰つてから調べられた点についてはどうですか。
  178. 原金司

    ○原参考人 帰つて来たとき、私は、ちようど上海の留守家族から手紙を預かつて来ましたので、関西の方に一箇月行つて来た。その間に東京の方に手紙が来ていました。その文面にも書いてありますけれども、とにかく、来た以上は、どういうことかわからぬから、一応行つてみようと思つて、行つたのでございます。そこで、行つて向うからいろいろ聞かれましたが、私の方としても別に拒否するという気持ではなかつた。私は積極性の方でございますから、いろいろ積極的なことをお話申し上げたはずであります。それは、個人の上海においてのいろいろな生活状況、そういうところから来ておるのではないかと思つておりますが、とにかく、私はある程度の積極性をもつてお話したので、ございまして、別に向うが強制的にどうこうということは、私といたしましては一つも感じておりません。こちらがお話したというようなのが私の気持で、ございまして、別に喚問されたというような、そういつた気持はみじんもありません。また空気としても、そういう空気は一つもございません。非常に悪感情を抱くようなことは全然ございません。
  179. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 ありがとうございました。  次に、井上真久君。大分時間も経過しましたので、恐縮ですが、かいつまんでお話を願います。
  180. 井上真久

    井上参考人 井上であります。一応簡単に日本から出まして帰るまでの経過をお話申し上げます。  昭和十五年の九月に、新京の満鉄病院の産婦人科に勤務のため満州に渡りまして、その後昭和十七年に、本渡湖の近くの田師付炭鉱というところがありますが、そこにかわりました。それから、昭和十九年の六月だつたと思いますが、満州製鉄の東辺道支社の病院にかわりまして、そこで昭和二十年の終戦を迎えたのであります。終戦当時のいろいろの状況を話しますと、非常に長くなりますので、私が中共政府に入りましてからのことを申し上げます。終戦の年の十一月二十七日に、通化地区日本人民管理委員会というのがありますが、そこの施療所に勤務を命ぜられました。通化といいましても、私のおつたところは、通化市の中昌区、――通化日城内でありまして、日本人民管理委員会の病院に働くようになつたのであります。それが、昭和二十一年の一月に、通化旧市内の日本人の診療所が二箇所ありまして、それと私らのおりました日本人民管理委員会の施療所が合併しまして、通化に省政府の民主病院というのができまして、そこに引続き働くようになりまして、二十一年の二月三日に、多分御存じだろうと思いますが、通化事件というのがございましてそれで、私らも十七日に入りまして、ほとんど日本人の十五歳以上の男はみな入つたのでありますけれども、その後中共軍の方も状況が悪くなりまして国民軍が旬囲して来るものですから、本渓湖、安東から長白に向つて移動を開始いたしましたときに、通化から、二十一年の十月、ちようど朝鮮との国境の臨江というところに参りました。それから、だんだん状況が悪くなつて来るものですから、どんどん長白の方に向つて移動しましたけれども、私らは家族があるし、私自身通化の二、三事件のときに胸部疾患をやりました。もちろん家内の方も肺浸潤があつたものですから、それに子供連れというので、向うに残りまして、省政府の民政課の紹介で、向うの個人の病院に――大徳病院ですが、それは大体政府の委託病院です。そこに勤務をしておりました。それから、二十三年の四月ごろからの中共軍の国民軍に対する反攻が成功しまして、逐次解放されて行つたものですから、二十二年の六月に、今度は鉄路病院に勤務を命ぜられました。そうして鉄路病院と一緒にまた前の通化の方へ出たわけであります。そうして二十三年の六月に、鉄路病院を病気のために三箇月休んで、長期治療しましたけれども、いろんな問題がありまして、どうしても病気がなおらないので、そこをやめまして、町でしばらく休んでおりましたが、その年の十一月、遼東省政府のある安東の工業庁職工病院の方にまた勤務を命ぜられまして、安東に参りました。そうして、二十五年の朝鮮における戦争のために、各機関あるいは工場、そういうものがどんどん移動して疎開したものですから、私らの病院も一緒に、その年の十月遼陽に疎開しました。遼陽に疎開する前に、ちようど私、六、七、八と、三箇月間、初期の胸椎カリエスと肺浸潤のために長期療養をしました。それに引続いて、九月は午前中だけの勤務をしておりましたが、遼陽に疎開しましてから、やはり健康がすぐれなくて、工作が非常に困難だつたものですから、二十五年の十一月に工業庁をやめさせてもらいまして、奉天に日本人民管理委員会の休養所がございます。大体軍とか政府に勤めていた病人を収容しているところでありますが、そこへ入りますために、奉天へ出ましたのが、十一月二十七日です。そうして、休養所に入つて休養するつもりでしたけれども手続が不十分のために、――私のおりました工業庁からの紹介状をもらつてつたのですが、大体民政部の紹介状がいるというので、その手続不十分のために、その休養所に入れなくて、約一週間そこに宿泊させてもらいましたけれども、どうしても出なくてはならないと言う。出ると、今度は食うに困る、自分の病気の治療にも困るというので、ちようど向うにいる日本人の友達の先生方の世話で、和平地区の連合病院に、十二月八日に勤務しました。この連合病院というのは、大体落陽市内の個人の開業医が、政府の衛生局の指導で一緒にまとまりまして病院をつくつたのであつて、組織とか、そういうものからいいまして、大体表面は個人の開業医の資本と医療器材でできた病院ですけれども、大体政府機関と同じような組織で、その連合病院から、かつてにほかの病院へ移るとかいうようなことはできなくて、組織の上でもやはり衛生局の許可がいる。その病院に入りました。そうして、その病院の分院として婦嬰保健という病院ができましたが、これは小児科と産婦人科だけの病院であります。そうして、大体小供の保健問題と婦人の保健問題を取扱い、並びに診療を取扱う病院であります。これは、落陽市各区にそういう病院があります。それが、九月一日に完全なる市立病院とかわりまして、――それまでは、外観は個人の集体の病院でありますけれども、組織的な面からいうと、全部衛生局の関係になるのですが、今度、はつきりとした市立病院という名前になりました。  今度は、帰るときのことになりますけれども、帰つて来るまでそこで働いていたのですが、大体帰るとか、そういうのでも、さつき原さんがおつしやいましたように、お互いに日本人同士で自分の気持をはつきり言えないというのが実情でございます。帰るとか、帰国とかいう問題がありますと、そういうようなことがよくありましたが、私自身としては、前から向うの幹部には、帰りたいのだということをはつきり申し上げておりました。本人が帰りたいと言うのは思想が悪いからだということは、ほんとうの上級幹部になりますとそういうことは言いませんけれども、お互いに日本人同士が帰りたいということを人にわからないように、自分の心のほんとうにわかる親しい二、三の人だけに相談しまして、そうして、私はかねて病気だつたものですから、診断書をつけて、帰るという方法をとるために……。
  181. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 お引揚げの径路はどうでした。
  182. 井上真久

    井上参考人 洛陽から天津に参りました。天津からこちらへ……。
  183. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 やはり旅費は日本の方から……。
  184. 井上真久

    井上参考人 船の方は日本政府がやつてくれました。
  185. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 引揚げ後に援護庁からの通知によつて米軍側に調べられたことがありますか。
  186. 井上真久

    井上参考人 帰るときには横浜でいろいろな調査を受けましたけれども……。
  187. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 上陸するときにですか。
  188. 井上真久

    井上参考人 上陸して。
  189. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 それ以後はなかつたですか。
  190. 井上真久

    井上参考人 それ以後、やはり皆さんと同じように通知が参りまして、出頭したことがあります。その間のことは、さつき原さんがおつしやいましたので、別に……。
  191. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 あとで御質問は一括してお願いしますから……。ありがとうございました。  次は、最後に金子三郎さんに、簡単でけつこうですから………。
  192. 金子三郎

    金子参考人 自分は、皆さんと違いまして、学校に行つていたものですから、あまり……。  自分は、中国の天津に生れまして、それで天津の日本人の小学校を出まして、中学一年のときに終戦になりまして、それから、一九四七年に天津の天主教の高等学校へ入りました。あの学校を出まして、それから次に、一九五一年から天津の商品検査局の代理店で物資の輸出入の検査員をやりました。そこで一年間働いていまして、それから、思想を認められないもので、退職になつたわけであります。つまり、自分は、外国の学校へ行つていまして、思想がよくないというので、退職になつたわけなんです。それから約三箇月は遊びまして、一九五一年の初めに、ある貿易会社に入りましてそこも二、三箇月でやめまして、それから帰国したわけであります。
  193. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 今お幾つです。
  194. 金子三郎

    金子参考人 二十です。
  195. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 取調べは受けましたか。
  196. 金子三郎

    金子参考人 ええ。
  197. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 いつ受けたのですか。
  198. 金子三郎

    金子参考人 一月の終りです。
  199. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 ありがとうございました。大体これで五人の参考人の方の大略の公述だけを終つたのですが、これより皆さんの御質疑に入ります。
  200. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 原さんにお尋ねをいたしますが、先ほどあなたは、上海における日本人の名簿をつくつたとおつしやいましたね。
  201. 原金司

    ○原参考人 つくつて、持つて来たです。
  202. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 それは承るわけに行かないものでございましようか。
  203. 原金司

    ○原参考人 ええ、いいですよ。
  204. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 それを御発表願います。
  205. 原金司

    ○原参考人 では、さつそく申し上げましよう。数字の点は多少入れかわつた点がありまして、名簿ができた以後に、人が出たり、あるいは死んだりしておりますが、これは大差ございません。概略申し上げますと、世帯数が二百六十三世帯、そうしてその中の二世帯が外国籍です。それで、日本人同士の結婚世帯数が五十一世帯――大体百二人でございます。それから、中国人を夫に持つて人が七世帯、妻に中国人を持つ日本人が五十四世帯。大体日本人の世帯より中国人と結婚している人の方が多いのです。それから、夫を外国人としておる人が五世帯これは私の知つた範囲内でございます。それから、独身者の男が百六、女が四十三。それから、朝鮮人を嫁さんに持つておる人が二世帯。日本人と日本人の間にできた純日本人の子供が七十九人、それから、中国人との混血児が九十五人、外国人との間の子が一人ということになつております。そうすると、純日本人の男が二百五十三人、女が百四十五人、合計、純日本人三百九十八名。それから、混血児が九十六名います。それから、妻としての中国人及び朝鮮人の合計が五十六名、それを全部ひつくるめて総計しますと、五百五十名ということになつています。それから、これ以外に、旧フランス租界の方に、前に中国人を夫とし、あるいは外人を夫として、その後わかれたり、あるいは死なれたりして今独身とか、あるいは非常に窮乏な生活をしておる人が、推定大体二百名ぐらい。これは女が多いのです。それから、福建省についた人の話によると、福建省には日本人の乞食が非常に多い。子供をおんぶして、そうして中国人の門に行つて物をもらつて歩くという女のかわいそうな人が相当いる。それで、福建省までわざわざその日本人の女の人を連れに行つた人がおりますけれども、連れて来た女の人が四、五人ございます。そういつた話は聞いております。それで、この根拠は、日本人会の帳簿と、それから私が、その後あちこち仕事をしておる間に、相当方々に歩いておりますから、その間にいろいろ聞いたり見たりした、その数を参考にして個人でつくつたものでして、これが大体上海にいる推定の日本人ということでありまして、これ以上あるかもしれないが、大体これより少いということはないと思います。中国人との子供相当多数あります。それで、働いておる人は紡績関係が一番多いのです。大体そんなものでございます。  これは、日本人会の名簿と、それから、私の見たいろいろな資料をつけ加えたものでございます。日本人会の名簿には、そんなに人はたくさんいないのです。
  206. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 お尋ねしますが、この中で、あちらこちらに移動しておる人もありますか。
  207. 原金司

    ○原参考人 現在移動はできないのです。上海から隣村まで行くのに、もちろん日本人は行けませんが、中国人でも、理由がないと公安局の方で許可しませんから、まして日本人などは、あちこち動くことはないのです。主人が転勤になつて、奥さんがついて行くというときには、ついて行かれますが、転勤になるということは、上海ではおそらくないだろうと思います。上海では、ほとんど普通の機関は全部そろつておりますから、その中で働いておる人が多いのです。特殊な人はそういません。
  208. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 それならば伺いますが、日本では、中共あるいはソ連へ行くについて、外務省から旅券を出さないということで非常にやかましくなつておりまするけれども向うにおいては、隣村へ行くのにも移動許可を出さぬということになつて参りますと、日本向うとのこういう点における自由というものは、あなたが向うに行つてつていらつしやつた点からお考えになりまして、どちらの方が非常に寛大であり、自由が多いとお認めになりますか、伺いたいと思います。
  209. 原金司

    ○原参考人 つまり、その自由というのは、人権を尊重した自由ですか、あるいは自由気ままな、のほうずな自由とかいう点でございますか。
  210. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 人間としての自由と申しますか、国がその人の自由を認めてたとえば他地へ行くということについてのパス、そういうものを出すことにおいて、日本の方が自由が多いとお思いになりますか、中共の方が自由が多一いとお思いになりますか。
  211. 原金司

    ○原参考人 私は、別にどつちにも肩を持つわけではありませんが、率直に申しますと、ある面ではいいところがあるし、ある面では悪いところがあると思いますが、自由の面においては、日本があまりにも自由過ぎるのではないかと思います。
  212. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 ありがとうございます。現地のお方からそれだけのことを聞かせていただきますことは、日本外務省が悪いということをしよつちゆう言われておることに対して、新しい光、新しい角度からこれを見ることができます。いわゆる自由を尊重するという共産主義の方にも、そう大した自由はないということが今日はつきりしたということを、私どもの喜びとするというわけには参りませんけれども、現実というものが一番正しいことでございますので、私は、これを聞いたことは、後日の参考になると思います。  それから、帰るということについて思想調査がある、こういう話をあなたに聞いたように思いまするが、思想と、帰るということとは、どういう関係があるのでしようか。これをお尋ねするわけは、もう三年ばかり前に、中共から帰つて来た人たちに舞鶴で聞いた話ですけれども、もう救われない反動、あるいは役に立たないというような人が帰されて来たのだ。――これは現地で聞いたことでございまするが、いわゆる救われない反動なら帰すのか、思想的に救われる見込みがないと見て帰すのか、あるいはこれは、いわゆる向うの思想を把握しているから、もう日本へ帰してもいいという見込みを立てて帰すのか、どつちか、伺いたいと思います。
  213. 原金司

    ○原参考人 私の考えでは、思想が悪いから追放になつたというように、――ほかの人はどうか知りませんけれども、私個人はそう考えております。そうかといつて、別に中共政府に対して反抗的なことをしたわけではないし、ごくおとなしい人間で、まじめな点は、人はどう言うか知りませんけれども、自分でも相当自信を持つていますが、ただ、裸になてしまつて、職がない。それで、食えないから私は帰してくれないかというような理由をつけて申請したのです。職がないということが向うにいれられたのが、唯一の帰られる原因になつたのじやないかと思います。また、一面考えてみますと、思想の非常に悪い人もいます。そういう人は、しよつちゆう思想改造でもつて警察に呼びつけられて、思想調査されたあげく一向うにいろいろなグループがありまして、そういつた人たちに対して学習をするように勧めて、追い追い思想を改造しています。そして、周囲の人がいいと認めれば、公安局も認めるのだろうと思いますけれども、私らは、あまり日本人とは積極的に交際をしないで、おもに中国人と交際することが多かつたので、思想の面ではあまり日本人には知られていなかつたことは、もうけものだつたろうと思います。とにかく、そんなわけで帰つて来られたいと思います。だから、極端に帝国主義的な思想を持つている人は、一応思想改造が済むまでは帰れないだろうと思います。そういつた例も二、三ありますから、多分そうだろうと思います。だから、今までの例から言いますと、帰つて来ようと思えば、何でもかんでも裸になつて貧乏にならなければ、早く帰つて来られないだろうと思います。
  214. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 ちよつと思想調査みたいになつてぐあいが悪いのですけれども、これは、ただ私の参考のためにお聞きしたいのです。現地においてどういう政治が行われておるか。日本におきましては、いわゆる民生委員にかかれば、わずかなお金ですけれども、三、四人なら生活がどうやらできる程度に来ておると思うのですけれども、私も政府の与党議員といたしまして、お話を伺い、他山の石としたいと思います。そして、よりよき政治のために資したいと思います。これはほかの方でもかまいません。いわゆる共産主義というものが実際に行われておるか。共産主義というものは産を共にして初めて共産なんですから、一人でも職がないから生きて行かれないというのは、私は共産主義の政治ではないと思つておりますので、お伺いするのです。まだ社会主義程度の政治しか行われていないかどうか。社会主義というものは、働いて初めて生きて行かれる。これは私の不徹底な理念ですけれども、私の了解している程度で、それを聞かせておいていただきたいと思います。
  215. 原金司

    ○原参考人 お尋ねのように、中共が入つてからまだ間もないのでございますから、そう一足飛びに今までの国民党時代から共産政治になるということはむずかしいだろうと思います。その過程において、あるいは反革命とか、スタハノフとか、五反とか、いろいろな問題がたくさん出て来たのでございますけれども、ある一面では、まだ過去の国民党時代の色が払拭されない場面もあります。たとえば、フランス租界に行きますとよくわかりますが、国民党時代よりも極端になつたというような場面も現出しています。というのは、金持は、この際金に糸目をつけない、――どうせあしたのことはわからないのだからといつて、ダンスをしていい料理を食つていいかつこうをして、じやんじやん遊べというような捨てばち的な考えでもつて、一流の飯店に入つて飯を食べている連中もおるかと思えば、一方では、きようの米も足りなくて困つておるような百姓もおりまで。私の住んでおりました上海近郊は、おもに百姓だけれども、米をつくつておりましたが、その人たちは、ひえをおかゆにしてずつと食つていました。米はどうして食わないのかといつたらやはり農民が……。
  216. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 時間がありませんから、簡潔に願います。
  217. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 もう一点だけ伺つて、私の質問を打切ります。政府から援護を受けて帰るということは秘密にしておるということをおつしやつたのは、どういうわけでございましようか。
  218. 原金司

    ○原参考人 というのは、向うから言いますと、日本政府は反動政府だということを言つていますから、反動政府から金を借りて帰ると、本人も反動だというふうに思われて、出境が許可にならぬ場合があれば困りますから、日本政府のことは秘密にして、個人の金で帰るということで、みな申請しておるわけでございます。これは実際の話でございます。
  219. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 そういう御心配があつたろうと私は思うのですけれども、今度の中共引揚げは、やはり日本政府援護するという建前になつて、代表団が今行つてくださつているのですから……。
  220. 原金司

    ○原参考人 今度の場合は、それはございません。今まではそうであつた
  221. 中山マサ

    ○中山(マ)委員 それでは、私の質問はこれで打切ります。
  222. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 飯塚君。
  223. 飯塚定輔

    ○飯塚委員 時間もおそくなりましたので、きわめて簡単にお伺いします。これは、原さん、井上さんのお二方とも同じようなことをおつしやつたようですから、どちらでもよろしゆございますが、出境命令といいますか、それをとるのに、日本人同士でもごく秘密にしておかなければ、何か困るようなお話でありましたが、これは、お互い同士で早く帰りたいから、何かそこにじやまを入れるとか、あるいは思想的な問題でじやまになるとか、あるいはスパイのようなことで自分がじやまをされるとか、そういうような関係で秘密にしていなければならないということになるのですか、その点を一つだけ伺いたい。
  224. 原金司

    ○原参考人 今までは、まだそんなことはなかつたのでございますけれども、学習問題を始めるようになつてから、いろいろな人間が学習的に進歩したせいか、思想的に意見が合わなくなつたのであります。向うの学習組とこつちの学習組で、しよつちゆう、お前の方は反動的な学習をしているじやないかというような悪口を言つて、お互いに学習しておるような組がたくさんできておるのでありまして、どの学習組が一瞬まじめな学習をしておるのか、これはわからぬのでありますが、そういつた面において、非常に人間と人間が犬猿の間柄になつてしまつて日本人に対する親しみというものがないのでございます。そういつた関係で、ある一部のほんとうに気の合つた人隣同士は話をしますけれども、三人寄ればすぐけんかしてしまう。二人か三人で秘密に物事をやるというようなことだとうまく行きますけれども、公にした場合には、必ず横やりが入れられまして、物事がうまく行きませんから、出境のことに関しても、秘密を守らないと、どういつた連中がまたどういつたことを言い出しまして、――それがために帰れなくなつたというような例もたくさんございますから、これは非常に慎重に、秘密に申請して許可を得たのでございます。向うにいる日本人同士は非常に仲が悪いのです。お互いにけんかみたいなことばかりしております。そういう結果でございます。
  225. 飯塚定輔

    ○飯塚委員 ただいまのお話で大体わかりましたけれどもそれは、日本人同士の間の関係から、その日本人同士が、学習問題なんかから、中国人に対して何か話をしてやる、――極端に言うとスパイ的行動をされるために、たとえば、あなたが日本へ帰られるというようなときに、中国人がじやまをするということになるのでしようか、それとも、日本人同士でそれにじやまするというような問題が起つて来るというのであるか、その点ひとつ御説明願います。
  226. 原金司

    ○原参考人 それは日本人同士でございます。日本人同士がそういつた感情の行き違いでもつて、ねたんだり、うらやましがつたり、原因はいろいろございましようけれども日本人同士がお互いににらみ合いつこして、腹の探り合いをしているような状態でございますから、もしその人たちのグループにおいて出境する場合には、その人たちに大いに応援するでしようけれども、そのグループ以外の人が出境する場合には、グループ以外の反対の立場にいる人たちから、その人のことを、昔、国民党時代にこういうことをした、日本人時代にはこういうことをした、またあいつは担白もしていない、これじや帰せないじやないかというようなことをがやがや騒ぐものですから、それが公安総局の耳に入つて、出境許可を願い出しても、新聞には載つたけれども許可証をくれないということがちよいちよいございます。そういうものは、やはり日本人が日本人を密告するので、そういう結果になるのだろうと思います。
  227. 帆足計

    帆足委員 ちよつとお尋ねいたします。先ほど中山委員から、幾らか誘導尋問的な感触のあるお話がありましたけれども、とにかく日本生活にいたしましても、たとえば自由党と社会党では、現状が非常にいいと思つている方もいるし、非常に改革しなければならないと思つておる方もあるように、人生というものはなかなかむずかしいのでございます。まして異境において、振古未曽有の大きな変革の行われた国におられた皆様の御心境は、さぞかしまちまちでありまして、複雑な御心境のこととお察し申し上げます。従つて私は、野党でございますけれども、決して皆様に誘導尋問をいたしたいとは存じません。明るい面もあり暗い面もあるだろう、いろいろ矛盾もあろう、こう察して申しておる次第でございますので、なるべく客観的にお尋ねいたしたいと存ずる次第でございます。私もたまたま北京、上海を多少見て参りました。相当こまかなところまで自由に歩きましたけれども、何と申しても、外から来ました一賓客でありますから、ことごとくものの真相をつかんでいるというわけではございません。しかし、人生において多少の苦労もいたしましたから、眼光紙背に徹するくらいのことは一応心得ておるつもりでございます。  そこで、まずお尋ねいたしたいのですが、かの地における在留同胞の方々生活、それを知りたい。と申しますのは、例の一時帰国の問題とか、今後親戚や家内などを向うへ呼び寄せられるということもありますので、そういうことに対する心購えとしてでも、今から十分に調査研究しておく必要があろうと思うのです。また、中国日本との間には、いろいろ意見の違いや、歴史的な段階の違いがありましても、長い間柄でございますから、少しでも多く、明暗ともに真相を知つておかなければならぬと存じておる次第であります。そういう心構えをもちまして、できるだけ公平に、あの立場に立つたらこうであろう、自分の立場から見ればこういう点も指摘される、というようにお答え願えますれば、仕合せであると思います。  第一にお尋ねいたしたいことは、新しい政権になりまして、ちよつと見たところ、たいへんきれいになつておりまして、はえも蚊も比較的少くなり、衛生も発達し、病人の数も減り、就学率は倍くらいになつておるようであります。これは私、学校に行つて確かめました。そこで、旧来の中小商工業者や、比較的楽な生活をしておりました大きな問屋さんとか、不覇奔放な商売をなさつておられる方々は、相当御不自由な方もあろうと存じますが、一般大衆、または一般の比較的技術を持つておる日本人の方々にとつては、蒋介石時代よりも生活は安定し、向上しておるでありましようか。それとも、生活、衛生その他はますます悪くなる一路をたどつておるように見受けられますでしようか。まずその一点について御感想を伺いたいと思います。原さんあるいは井上さんからお答えを願います。
  228. 井上真久

    井上参考人 はなはだ潜越でありますが、私の感想を申し上げます。もし間違つていたら御了承願いたいと思います。  帰つて参りましてから約四箇月ぐらいになりましたが、いろいろな新聞を見て感じますことは、大体私、向うにおりますときは、ただ帰国の希望だけに燃えておりました。いつになつたら帰れるか、何とかして一日も早く帰りたいという気持でありました。なぜかと申しますと、私自身も健康がすぐれませず、家内も病気であつたものですし、私の友達で、病気で、向う子供を残して、夫婦ともなくなつた者もあります。そんなことで、何とかして一日も早く帰りたいと希望しておりましたので、帰つてから、せつかく引揚げ代表がきまつたときの高良女史の旅券問題とか、また三、四日前の新聞に、ここで取上げられている問題などが出まして、私ちよつと意外に考えたわけです。なぜもつと真剣に、一日も早く日本人が帰れるようにやつてもらえぬか何か今までのいろいろの質問その他を聞いておりますと、与党と野党と質問の仕方に合わないところがある。もう少し真剣になつて、一日も早く帰つてもらうためにはどうしたらよいかということを考えてもらいたいと思います。残つておる人も、気が気ではないと思います。家族もそうですし、私自身も、友達がたくさん残つております。一日も早く帰つてもらいたいと思います。こうしたことは、さつそく向うの方にわかつておりますし、これではたしてよい結果が得られるかどうかということも考えましてもう少し真剣になつて、残つておる人のためにわれわれはやらなければならぬとも考えます。今の質問に答えます前に、ちよつと感情的になりましたけれども、その点御了承を願います。  私自身が見たままを申し上げたいと思います。別に誇張して言う必要はありませんし、よいところはよい、悪いところは悪いで認めて行きたいと思います。大体私は医者ですから、衛生状態の方面からまず申し上げますと、国民党の時代、まだ日本が統治しておつた時代に比べますと、雲泥の相違です。これは事実であります。はえは少くなりましたし、非常にきれいです。町や公園を歩きましても、日本に帰つて来て公園や道路のきたないのに驚いたくらいに、向うは実にきれいです。私、一番先に医者として心配いたしましたのは、終戦直後日本が行つた防疫体制も全部破壊される、そういう点から行きますと、あらゆる急性伝染病が蔓延して困るのではないかということです。ことに私、新京の満鉄に赴任いたしましたときに、恐ろしいペストが新京ではやりまして、ペストの予防には関東軍の石井部隊まで出動するようなかつこうになつて、非常な大騒ぎになりました。まずペストやコレラ、そういうものが蔓延してたいへんではないかということを恐れましたが、別にそういう状態もありませんし、向う状況として、医療行政といたしましても、予防を主として診療を従にするとうような行き方をしておるようであります。だから、防疫とか、そういう面になりますと、非常に徹底した防疫宣伝をやつておるようであります。  それから次に、日本人同士が反目するとか、あるいは帰ることについて秘密にして帰つたという点。これは、ありのままに申しますと、実際、日本人同士がほんとうのことを腹から打割つて話してなかつたということは事実です。ことに、私のよい中国人の友だちも言つておりましたが、日本人の長所も欠点も知つておる、非常に民族的な優越感を持つてつた日本人が、終戦になつてお互いに日本人同士が苦しめ合つてどうするのだ、もう少し助け合わなければならないときではないか、それがどうしてお互いに密告したりして苦しめ合うか、ということを忠告してくれた中国人があります。これは事実です。何も誇張して言うわけではありません。ほんとうに、いろいろなことでも、何を話すのでも、うつかりしたことは言えないという状態です。ただ帰る問題でも、ちよつとそういう話が出ますと、あの人間は思想的に悪いとかいうようなことを言われるのは事実です。  私らの場合でも、大体奉天から帰つて来ましたのは、十月二十七日に帰つた人が一番最初です。その前から関内から帰つておるのは私もよく知つておりましたけれども、関内の方の状況と東北の状況とはまた大分違います。なぜ私が初め帰れることができたかと申しますと、十月二十七日に初めて奉天から帰つた人が、私の病院におりまして、その人を私がずつと診療しておつたものですから、その人が初めて公安局から出境証明をいただきまして天津に出たときに――大体その前から、日本人の間では、援護庁からの船の世話で帰れるというような新聞の切抜きを送つて来たと言う人がありまして気持の合う人同士でこそこそ話があつたようでありますが、その人が第一回に初めて出境証明書をもらつて天津に出たので、日本人も帰れるのだという希望を持ちまして、それから追い追い、あちこちで、日本人は帰れるそうだ、出境証明をもらつて帰れるという話が出ました。それまでは、ほとんどそういうような話はなかつた状況であります。それで、私もその人に頼んで、天津に行つてからの状況をひとつ知らしてもらいたい、どういうような方法で帰れるかということを奉天の方に知らせるようにと頼んでおきましたところが、さつそく九月十八日に手紙が来た。そのとき初めて、援護庁のあれで、船賃は政府が持つてくれて日本へ帰れるということがはつきりわかつたわけなんです。それまではほとんど知らないのです。一部には、日本からのそういう新聞の切抜きを持つてつてつておる人がありましたが、しかし、そういう人もみなに言えない状況でありました。私も、そのまますぐ、手続日本援護庁にお願いしてもらうように、幸い弟が東京の方で働いておるものですから、それをお願いして、それと同時に、私はまず、病気だから、診断書を出して休暇をもらうということにしまして、休暇願を出しまして、私、小さかつたのですけれども、洛陽市和平区婦嬰保健病院という一箇所の責任者だつたものですから、総院長としても、市立病院の方でもすぐにはできないからというので、局長のところに退職書類がまわりました。休暇願を出しまして、三日して、すぐ退職願を出したわけなのです。
  229. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 井上さんに申し上げますが、いきさつは先ほど伺いましたので、今質問の要旨、――中共生活とかいう点についての感想だけお願いします。
  230. 井上真久

    井上参考人 生活の状態は、中国人一般は国民党時代よりは非常に貧困者がなくなつたということは事実です。そのかわり、非常に金を持つて自由にいろいろなものをやるという人がいなくなつたということです。しかし、その状況はまた関内のと違います。中共の方はもう完全な社会主義に入つていて、全然関内の方と違います。土地改革からいろいろな運動がありました結果、すつかり独占的な大きな資本家というものはいないのであります。そのかわり、貧民もそういない。大体みんなの服装を見ましても、みんな木綿ですけれども、一応整つて、昔みたいな、きたない、臭い者がいなくなつたのは事実です。日本人の私らの生活も、大体政府機関に働いている者は、給料は中央政府からの標準がございますから、それによつて全部決定する。学校を卒業しまして十四、五年程度の人は、医者ですと、大体百八十万くらいです。私などは、病身だつたり、家族がおりますが、家族の多い人も、非常にぜいたくさえしなければ、生活は何とかして食つて行けるという状況です。日本のように、セビロみたいなものは、私ら向うでは全然手に入りませんでしたし、そういう服はできないようなかつこうです、しかし、年配の方で家族日本におられるという人、それから独身者で技術のいい人は、割合にいい生活をしております。だから、家族とか病人のある人は生活相当困るというような状況なのです。
  231. 帆足計

    帆足委員 それから、お尋ねしますが、私が北京、上海に参りましたとき、こじきが一人、二人広東の方で見当りました。日本人と見ましたら、とたんに元気を出して手を出し、通訳からえらいしかられまして、はずかしいじやないかと言われて、逃げ出しましたが、魔の都上海にパンパンが一人もいないことを見まして、いろいろと考えさせられまして、女を買う自由がなくなつたことは男にとつてまことに不仕合せでございますけれども、妻や娘のことを思うと、これもいいのじやないかと思つたりいたしました。しかしながら、パンパンなどがないとすれば、やはりまじめな結婚ということについても、育つ人に対して考えてやらなければならぬ。そこで、第二婦人、第三婦人のことを聞きましたら、一九五一年の新婚姻法ができるまでの実績は認められているということを聞きまして、なかなかこれは風流なところもあると思つたりいたしました。とにかく、在留しておる方々生活を知り、そのお世話をせねばならぬ私たちの立場として、そういうことも知つておかねばなりませんが、上海にほとんどパンパンがいない。それから、昔はこじきが群れをなして歩いていましたが、洋車はやはりわあつと押し寄せて来ますけれども、こじきはほとんどいない。特に浮浪児を私は見かけませんでした。これはどういうことでございましようか、私の見間違いでありましようか、まずこの一点を伺いたいと思います。
  232. 原金司

    ○原参考人 上海でパンパンをお見かけにならなかつたとおつしやいましたけれども、実際パンパンはまだいるのでございます。というのは、パンパンは、昔みたいに非常に濃厚な化粧をして、いい着物を着て、お客さんに色目を使つてこびを売るというようなパンパンではなくて、このごろのパンパンは、人民服を着て、口紅もつけない。これは、大世界といいますか、あそこへ行くと、まだ昼間でもうろうろしております。もちろん夜は出ております。これを、公安局が一度トラツクをもつてパンパン狩りをしたことがあります。一網打尽にかかつて、パンパンだけを収容する所がありまして、そこでもつて、病人は全部病気をなおす、それから各個人の技能に応じて職業を与える、いわゆる授産場みたいな所がありまして、そこへ収容していたところを見ました。その後しばらく出なかつたのですが、しばらくすると、また出て来た。二回ほどパンパン狩りをしましたが、今度は、本職のパンパンがなくなつてしまつて、おかみさんとか何とかいうような人がパンパンの代用をして前みたいにたくさんではありませんが、いまだ上海にパンパンがおることはおります。これは、大世界に行つたら、はつきりわかります。私は経験はありませんでしたが、見て参りましたので、よくわかります。
  233. 帆足計

    帆足委員 こじきの方はどうですか。
  234. 原金司

    ○原参考人 こじきは、東北から上海、南京にたくさん来まして、坂道で三輪車のあと押しをするとか、あるいは物をもらつて歩く。こういうごじきのような者は、全部政府が一箇所に集めて、そこで大体わけて、胸に各認識票をつけまして、何百名、何千名と、固まつた群れを満州の方に持つて行きまして開墾とか、いろいろな仕事に従事させるために、強制的にこじきを狩つて、そういうところへ連れて行つて職を与えるというようなことをしておりますから、ごじきの出る余地がないわけです。出ると、すぐそういつたところへ入れられますから、事実こじきは今見当りません。その点は、昔とかわつて非常にきれいになつております。
  235. 帆足計

    帆足委員 もう一つお尋ねいたしますが、中国の一般の民衆の日本人に対する感情でございますが、二、三年前のメーデーのころから、過去の失敗は軍国主義の失敗であつたので、日本国民を恨むことは筋違いと考えてもらいたいというような宣伝がぼつぼつ行き渡つて日本人も多少気が楽になつたということを、かの地で伺いましたが、私は、上海に参りまして、二、三千人のたいへんな数の中国子供たちが、一人々々、おじさん平和々々と言つて、握手して来る、それで、握手するのに三時間かかりましておつかさんたちが家の中にかけ込んで、とたんに赤ちやんを連れて来て、この赤ちやんのおててを握つて平和のお約束をしてくださいと言われて、多少祖国のことを思うと涙ぐましい気持になりました。私は、この中で、東洋鬼に対してべつかんこうをして見せる子供の一人くらいあつてもよさそうなものだと思うし、おつかさんも、かわいい赤ちやんを日本人にさわられたらいやで、政府の命令であろうとも、赤ちやんまでは連れて来ないというのが親子の人情であると思いますが、私のような政治家は非常にかわいらしかつたのか、それとも教育が行き届いていたせいか、われわれとしては非常にいい印象を受けました。この点は、親善について、平和がいかなるイデオロギーから来ておろうと第二の問題として、一応民族的偏見をなくすという点では、たいへんいい教育が行き渡つていると思つたのであります。小学校に参りますと、前には三割くらいの就学率でありましたのが、これは衛門口という北京の郊外の小学校でありましたが、七割の就学率になつておりまして、みなスクエア・ダンスをやつておりまして、おじさん、おばさんと、まつわりついて、一日歩いて、踊つて暮して参りました。
  236. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 帆足さんに申し上げますが、なるべく要約して御質問願いたいと思います。
  237. 帆足計

    帆足委員 そういうことについて、どうお考えでありましようか。向うにいる日本人が、私ほどの気持ではなくても、多少緩和した気持で中国諸君とつき合えるという環境ならば、それはよいことであると思いますが、現在の空気は、いろいろでございましようが、大局どういうことか、お聞かせ願いたいと思います。
  238. 井上真久

    井上参考人 私としましては、中国人は個人的に非常にいいのでして私が向うにおりましたときにも、民族的な、おれは日本人だ、君は中国人だというような感情を越えた、非常に兄弟のような感じを持つた人ばかりです。一般に終戦後二、三年までは日本に対してあまりよくなかつたようですけれども、それが一年々々非常によくなつているのは事実であります。今度帰つて来ますときにも、奉天から天津へ出まして、その間でも、われわれ日本人に対して非常にいい印象を与えてくれました。中国人は、個人的にはほんとうに腹を打割つてつき合える人たちだと私は確信しております。  学校の教育なんかでは、最近また日本の再軍備問題なんかが向うで言われておりますものですから、私が向うでいつも中共の幹部から言われるのは、われわれは君ら一般の人が憎いんじやなくて、日本の帝国主義が憎いんだということでして、そういう教育をされますけれども子供はそういうようなあれをされましても、区別はつきませんから、中にはちよつと変な目で見る人もあつたようですけれども、一般にわれわれ日本人に対して非常にいい印象を与えてくれたということは言えると思います。
  239. 帆足計

    帆足委員 学生の金子さんにお伺いしたいのですが、今度向うから来られて日本の学校へ入る方もおられましようし、そういうことについてのあなたの希望、それから向うの学生生活。――実は北京に、四、五十人でしようか、何か小学校があるということで、帆足さん見に来ないかと言われたのですが、見に行く機会がなかつたのです。それで、学校の問題は親として一番大事な問題ですから、学校の問題についてちよつとお尋ねしたいのです。向うの学生生活のいい点、悪い点。それで、就学率が非常にふえておるように聞きましたが……。  それから、日本へ皆さん方学生がお帰りになるときの注文をちよつと聞かせていただきたい。
  240. 金子三郎

    金子参考人 自分は、学校といつて中国の学校に行つていたんじやなくて、外国語を習つているイギリスの方だつたので、はつきり中国人の中国の学校生活は知らないのです。
  241. 帆足計

    帆足委員 外国人の学校というのは、外国人の学校が今でも許されているのですか。
  242. 金子三郎

    金子参考人 今はもう、女子の学校はあるのですけれども、男子の学校は、先生なんかは放追された形なんです。
  243. 帆足計

    帆足委員 そうすると、いわゆる解放後は、あなたはもう学校を卒業しておられたのですか。先生が追放されても、今度は新しい教師の陣容になつてどういう学生生活をしておつたか。それから、外国人の学校が今許されている、――われわれは、そういうことはないと思つておりましたが、それも参考のために聞かしていただきたい。大体どういう学生生活を皆さんしておつたか……。
  244. 金子三郎

    金子参考人 中国の学生生活ですか。
  245. 帆足計

    帆足委員 ええ。それから、あなたの経験した解放後のいろいろな学生生活……。
  246. 金子三郎

    金子参考人 自分の行つていた学校は、中国人も少しいましたけれども、みなブルジヨアのむすこや、そういう者ばかり行つていたので、終戦後一年くらいで通学は禁止されまして、それで、今度外人だけで二年間ぐらいまで続けました。そして、何かちよつとスパイの嫌疑なんかかけられて、校長とか先生方がみな追放されました。それで学校は、しまいに五〇年につぶれたわけなんです。
  247. 帆足計

    帆足委員 それは何という学校でありますか。
  248. 金子三郎

    金子参考人 セントルイス・カレツジです。
  249. 帆足計

    帆足委員 学校を出まして、お若いのに就職されまして、二、三箇月ですぐ職をやめたと言われましたが、そのときはどのくらいの給料をもらいましたか。
  250. 金子三郎

    金子参考人 四十万元。
  251. 帆足計

    帆足委員 もう一つお尋ねいたしたいのでありますが、中国に対して、生活がよくなつたというお話は、私ども各方面から伺います。生活というのは、今のお医者様の申されたような意味の生活です。しかし、三反、五反とか、粛清とかいうようなことを伺いますと、一抹の不安を感ずるというのが、日本国民の多数の気持でございます。三反、五反についての説明などは一応私も書物で読みましたけれども、賄路の横行している国ですから、そういう風俗を直すという趣旨は、常識的にわかるのですが、どういうふうに――先ほど三反、五反で、行き詰まつて自殺したという話を原君に伺いましたが、三反、五反、粛清というものは、どの程度吹きすさんでいるか。私は工場をまわりましたが、いつものんびりしている工場もありましたし、なかなかきつそうな、溜息をついている商店にもあいました。そこで、ひとつ三反、五反の程度をお伺いしたいと思います。原君からでも……。
  252. 原金司

    ○原参考人 三反といつたら、これはつまり官僚主義を打倒する、――おもに機関とか、あるいは役所、部隊、そういつた方面に向けられた運動でございまして、私は、三反よりも五反について身近に体験したのでございますが、五反問題では、私の友人で、ある工場を経営している中国人が、これは大体職工数が八十名くらいいます。その工場は、奥さんの名義になつているのです。主人が技術長で、あと職工が八十名ほど各部門にわかれて仕事している。そのときに、そこの店ではおもに政府に売る機械をつくつているものでございますから、政府機関のいろんな人が非常に多く来る政府機関の人が、自分の方で百万元の領収証をつくつてつて来た。そして現金をよこしたのが、九十五万しかよこしてない。そういつたときに、結局五万というものはこちらで負けてやらなければならない。負けられないと言つても、これだけしか持つて来ないから、負けてくれと言う。では、その五万はどうするかというと結局物をつくつた方の店でもつて五万を出して、その領収証に合せなければならぬようになつています。そういつたことが二、三ありました。大きな問題ではございませんけれども、その場合は金額にして五十万くらいです。その問題がありまして、今度五反にひつかかりました。清査委員会というものがありまして、各工場を検査に来ます。そして帳簿を検査して、徹底的に調べまして、調べたあげくに、五反委員会というものがございまして、そこでもつて徹底的に検討して、それから呼出しがありまして、毎日その白状に行くわけでありますけれども、毎日朝行つて晩方帰つて来るのはいい方の人で、向うに行きつきり、三日、四日、五日、いすに坐つたまま尋問されたというような人も中にはございます。どうせ命の助からぬものなら、飛び下りて死んだ方がいいだろう、――神経系統が麻痺しちやつて、二階から飛び下りたり、あるいは三階から飛び下りたりして死んだ人も多少いました。私の友人の話では、夫婦とも、午後の四時ごろ自動車が来まして、それからひつぱつて行かれました。どこへ行つたか、行方不明です。四十日間というものは牢屋みたいなところへ入つていたのでございますけれども、その間には、五日間というものは寝ないで、いわゆる担白でございますが、つまりどういうわけで政府の税金をごまかしたかとか、いわゆるコミツシヨンをやつたかとかいうようなことでもつて、担白を五日間不眠不休でやらされて、そのあげくに、何も出なかつたものですから、それから思想改造でもつて、あとの三十五日というものは、毎日思想改造について勉強したそうであります。そして、帰つて来るときにほ、頭をちよん切られてしまつて、女の人は断髪、男の人は髪の毛を切られて坊主になつてしまつた。そして四十日目に初めて帰つて来たのでございます。それで、今国に帰るにも帰られないし、政府が許可してくれないし、どうにもならぬ。そこの一年間の総売上高は、中国の人民券にしてわずか八億の売上高でそれに対して、五反のときの罰金がつまり三十億、そういう罰金を科せられた。これでは、さか立ちしたつて、工場を売つたつて払えないというので、結局政府の規格に合つた仕事を政府が注文するから、それを生産しようというようなことになりまして、今政府の仕事をして、本人はもう帰る希望なんていうものはすつ飛んでしまつて、朝から晩まで工場の中で働いておりますけれども、どういう根拠でもつて一年間の売上高八億に対して罰金が三十億来たのか、わかりませんが、そういつたことは、私の身近かな友人が体験したのを、私が見、また本人からいろいろ聞いたのでございます。
  253. 帆足計

    帆足委員 時間もたちましたし、同僚議員の方にも質問がございますので、これをもちまして最後にいたしますが、ただいまの御説明は、私も同じ話は中国で承りました。そして、何しろ賄路と情実の国が多少合理的な国になるのだから、えらい苦労じやわいと言うて、最高人民法院の沈鈞儒さんが私にこぼしておりましたが、実業家諸君は八割方――あらかた始末書を書いたようじやわいというような意味のことも言うておりまして、なかなかそういう大きな変化が行われておると思います。  そこで、最後にお尋ねいたしますが、お帰りになりましてから、今のお二方、それぞれの立場から、人生の苦労をなさいまして、多少また中国に対しても、独自の自主的、批判的なお考えもおありのように察せられましたが、一国の市民が外国の軍人から取調べを受けまして、むしろ積極的な熱意をもつて答えられて、喚問された気持は全然なかつたということでして、こういう方が多いと、アメリカ軍は非常にお喜びでありましようが、どうして原さんはそういうふうにお考えになつたのか。中国生活がよくなつてつても、政治がどうも好ましくないとか、いろいろいやなこともあつたから、ひとつアメリカに協力してしつペ返しをしようというようなお考えであつたのでしようか。普通の市民的感覚から見ると、是非の論議は持つているけれども、何も他国の軍隊からちよつと来い、様子はどうじやつたかなんということを聞かれることはないので、必要なら外務省が呼んで、適当にアメリカに取次げばいいように思いますけれども、何か特別の御理由でもあつたのでございましようか。ちよつとかわつた例でございますので、その点をお尋ねしたいと存じます。まことに失礼なことを申し上げましたが、御心境の一端でもお漏らしくださいますれば、われわれ納得が行く思います。
  254. 原金司

    ○原参考人 それについて申し上げます。これは、私が中国におつた当時の一つの環境から来ておるのでございますが、私自身がそういつた中共政府から圧迫をされ、非常にみじめな生活をしたという面よりも、私の周囲の人が非常な苦しみを受け、そして非常に希望を失つた生活をしておるのでございます。その原因はどこから来ておるかというと、別に大して大きな原因もないのでございますけれども、今度の三反とかいろいろの事件に関連したことにおいて、私らが常識で考える以上の、人間としての権利を認めないやり方に対して、私は非常に不満を抱いておつたのでございます。それで、たまたま今度帰つて来まして、向うがそういつた手紙をくれた。これは私のほんとうに息をつける、大きな声をしてものを言うところが見つかつたというような気持で、私は行つたのでございますけれども、別に日本政府の威信にかかわるというような、そういつた感情は全然私は感じなかつたのであります。ただ、自分の過去の環境において、ただただ共産党は非人道的だというようなことを体験し、そしてまた、いろいろと経験したのですから、その非人道的な行為には私は感心しないというような気持で、私は、積極的というよりも、むしろ自然的にいろいろ話をしたのでございまして、これは私の過去の環境がそうさせたのだろうと思います。それは、向う生活なさらない人にはわからないと思います。
  255. 帆足計

    帆足委員 ただいまの御心境のほどもよくわかるのでございます。そこで、最後に一言だけお尋ねいたしたいのでありますが、中国の中小工業者とか、ブローカーとか、資本家だとかいうのでなしに、一般の勤労者、まじめに額に汗して働いて、これまでは得るところもなく、失業と病気の不安にさらされている一般大衆、または、皆さんのように特別に個性にすぐれている方でなくて、普通の勤労によつて飯を食おうというような平凡な人たち、平凡な市民たちにとつては、やはり蒋介石が恋しくて、現在の毛沢東政権は非常に苦しいというような状況であるかどうか。それからまた、在留同胞で、たとえば今、原さんはちよつと一人やや孤立的傾向があつた。これは、そのときの事情でいろいろのことがございます。また、日本人は一般に気が小さいので、ただいま伺つたことは、大いにわれわれ反省せねばならぬと思いますが、一般の在留民、たとえば五百名の中の四百名なり三百名は、どういう気持で暮しておりますでしようか。いろいろあつて、A、B、Cぐらいにわけられるのでございましようけれども、ひとつお医者さんの方と、もう一人の方と、御両所から伺いたいと思います。京さんからも最後の点だけ伺いたいと思います。私の質問はそれだけで終ります。
  256. 井上真久

    井上参考人 さつき三反、五反の問題が出ましたので、それをちよつと補足したいと思います。私らは落陽の市立病院におりましたから、東北の方とやり方もかわつておるのじやないかと思われますが、三反運動を学習して、それを約三箇月くらいやりました。いろいろな各機関でやりまして、おのおのやり方はかわつておるのですが、非常にいい結果をもたらしたところもございますし、またかえつて悪かつたのじやなかつたかというような場所もございます。私の病院でやりましたときも――悪い結果をもたらした場所と今言いましたけれども、これはちよつと言い過ぎかもわかりませんが、一般的に言いますと、個人々々は今まであまり知らなかつた。大体三反運動というものは、官僚主義と浪費、貧汚行為、こういうものに反対する運動でありまして、われわれ今まで、貧汚というものはどういうものか、浪費とはどういうものか、官僚主義とはどういうものかということは、大体概念的にはわかつておりましたが、その学習をみなでやりまして、自分たちが気がつかないところに浪費があつたり、あるいは貧汚行為があつたりするということを発見いたしました。この点、おのおのみんながそういうぐあいに、機関に入つていない人もそうですが、全体にそういう認識をはつきり身につけたということは、全体の結果から言つて、私はいいことじやないかと思います。しかし、そのやり方によつては、私らが見まして矛盾を感ずるようなところがありました。どういうところかといいますと、大体食汚行為とかに加担してはいけないという中央政府からの方針であつたので、罰として、たたいたりしてやつておる。たたかなければ、実際やつている貧汚行為というものがわからない。それで、たたかなければいけないというので、たたいたところもあります。それを、絶対たたかずに、貧汚行為というものはこういうもであつて、人民の財産にこんなに損害を与えておるということをほんとうに認識させ、自発的にそれを担白するということによつて非常にいい結果をもたらしたところもございます。しかし、たたいたり、飯も食わせないでほうり込んだり、長いこと監禁したために、かえつてつていないことをやつたようにでつち上げて、早くそれからのがれたいというような状況の人もありました。それは、私の市立病院の関係で現にありました。だから、やり方によつて非常にうまく行つたところと悪く行つた場合とがありますけれども、全体に個人個人が公私の区別がはつきりついたということ、それから、貧汚行為のどんな小さなものでも、こういうものは、貧汚行為だということをみんながはつきり認識し得たということは、この三反運動のいいところじやなかつたかと私は思います。  それと、さつきの質問ですけれども向うの民衆の気持といいますと、それはいろあいろりますでしようけれども、大体、私の知つておる範囲の若い人たちの考えておりますことは、やはり国民党の政府より現在の中共政府を謳歌しておるのが多いようでございました。なぜかといいますと、現在ソ連がおるけれども、われわれは初めて外国の権益を脱して、一切がほんとうにわれわれ中国のものになつたのだというような希望に燃えておる者が多いようであります。そのほかに、今までいい生活をしておつた、――ブローカーをやつたり、ちよつとした資本をもつて商売をしておつた人たちは、前の土地改革あるいは三反運動の結果、ほとんどそれをなくしましたものですから、やはり前の富裕――富裕と言うと語弊があるかもしれませんけれども、そういう人は、昔賄賂をもつて政府とどんな商売でもできたというような状況の人が多かつたために、不服を持つておる人も多いようです。しかし、こいつは公然とはつきり言えないわけです。  それから、多数の在留日本人の気持としては、まず帰りたいというのが一ぱいですね。こつちへ帰りたくないという人は、私の知つておる範囲では、一人の女の方で、りつぱな中国の電気の技術屋の人と結婚するという人がおりました。それ以外に、帰りたくないという人はおらないようです。みんな帰りたいと、強調しておるようです。
  257. 帆足計

    帆足委員 もう一つお尋ねします。ただいまの帰りたくないということは、私も北京で聞きましたが、満鉄の方が、永久に帰るのでしたら困る、しかし帰心矢のごとしというのが皆さんの声で、りくつのいかんを問わず、ふるさとに帰りたいのだ、と言つておりました。私どもの帰りましたときに、多少新聞に誤り伝えられたようですが、ただ、永久に帰つたら困る、またこつちへ来たいと言う人もなかなか多いようでございます。そこで、一般の在留邦人の帰りたいということは、これは人情の自然ですから別としまして、向うの新しい時代の生活を一般はどう思つておるか。陰険無比でもつて、非常な苦しい生活をしておる、塗炭の地獄に陥つてつて、故旧忘るべけんやで帰りたいというのか、お迎えするときの手かげんがございますので、その辺のことを伺つておきたい。そして、それが済みましたら、同じことを簡単に原さんと京さんにお伺いしたいと思います。
  258. 受田新吉

    ○受田委員 終了時期をどこに置くのか、まだ残余の質疑者も二名か三名おると思うのでありますが、今最後に最後にというので長引いておりますが、質問者の時間をできるだけ平均してもらいたいと思います。
  259. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 どうです、今の御質問に対しては、原君も京君も大体触れているように思うのです。だから、この程度で、――まだ質疑者も残つておりますから。
  260. 原金司

    ○原参考人 ちよつと帆足さんにお尋ねします。上海にいますときに、帆足さん、高良さん、それから一行の方が北京経由上海にいらつしやつたことがございます。そのときに中国事情をお調べになつてお帰りになつて、NHKでしたか、あるいは新聞だつたか、何だつたか知りませんが、私、ラジオで聞いたように思つていますが、中国にいる在留日本人は非常にいい生活をしておつて、帰りたくないというようなことをおつしやつた
  261. 帆足計

    帆足委員 そう申しておりません。
  262. 原金司

    ○原参考人 そういうことが、ちまたの評判になりまして、あつちこつちでそれが問題になりまして、帆足という人は認識不足だ、中国に来て、あつちこつち……。
  263. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 原さん、参考人から委員に対しては質問できないことになつておりますから、委員会後に非公式に帆足さんとお話合いくださることはけつこうですが、今は、帆足さんの御質問に対して簡潔にお答え願えばけつこうでございます。
  264. 原金司

    ○原参考人 一般の日本人は工場に勤めておる人が多いものですから、生活程度はずつと前よりはいいのでございます。それで、農場に働いている人とか、あるいは仕事のない人、そういつた極端な人は、あつちこつち友人のところへ借り歩いて食つていますけれども、大体の人は工場に勤めておりますから、生活に困るというような今はごく少数で、大多数は大体安定しています。  それから、中国人と日本人の間の感情問題でございますけれども、ごく一部の中国人を除く以外は、大体日本人との接触は非常にいいと思います。
  265. 京昭

    ○京参考人 ただいまの質問に答えます、私の現地での生活、それから向うでいろいろの人の意見を総合的にぼくが聞いた範囲をお知らせいたしますと、これは非常に個人的な環境によつて異なつていると思います。だから、一概に、自分は帰りたくないとか、あるいは矢もたてもたまらなく帰りたいというようには言えないと思います。私の考えでは、日本状況が、向うにおりますと、あまりにも知らされておらぬというのが、一つの大きな原因ではなかろうかと思うわけであります。と申しますのは、私の考えでありますが、天津におつた当時、中国において四年間にあれだけの変化が見られておる。これは、いわゆる金持とか、あるいはごく少数の者に例をとつて講ずのではありません。ああいつた中国といつた国家を単位にして見る場合においては、やはりどうしても大衆というものを目標において話して行きたいと思うわけであります。そういつた立場から見てみますと、日本人と中国人というものを比べると、日本人は非常に心の小ささといいますか、島国根性で、日本人間においてもいろいろな軋轢があり、あるいは分派的な問題が存在しておつたわけです。だから、一部の人においては、どうしても帰りたいが、それも、日本状況がわからない。日本では戦争が終つてから八年間過ぎておる。中国では四年間にこれだけの進歩をしているのだから、日本は八年間過ぎておるし、中国以上の工業力、あるいは人種的に言つても、日本は上であつたのだから、もつと住みよいところの国家になつておるのじやないか。こういつた漠然とした臆測というものが、向うの――特に天津でありますが、天津にはそういつた雰囲気があるわけです。そういつたところから、一日も早く帰りたい。それは、今帆足さんの方からもおつしやいましたように、人間として故国に帰りたいというのは当然のことだと思います。但し、帰るにいたしましても、生活の保障、――これは、最近私の方に来ておる手紙の文面を見ましても、あるは大阪のいろいろな家族に来ておる文面を見ましても、第一番に、職があるか、家があるかという問題を聞いて来ております。だから、いわゆる人間としての一番大切な問題は、職業と、それから家の問題でございまして、この点がはつきりすれば、向うにおる方にしましても、はつきりしたところの決断力がつくのではなかろうかと思うわけです。
  266. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 堤ツルヨ君
  267. 堤ツルヨ

    ○堤(ツ)委員 ただいまの京さんの御答弁にも関連するわけでございますが、私は、先ほど女の方にお伺いいたしましたが、京さんのごときは、お父様の遺産をお継ぎになつて、お帰りになるなり早々、警察に行くのも忙しいくらいお仕事がおありになつて、これはまことに超特別階級だと私は思います。それはそれなりに御感想があると思いますし、それから、たとえば、向うでお生れになつて、初めてこちらにおいでになつた学生の金子さん、それから、中年のお二人の方のお帰りになつてからの日本に対する感想、――生活保障の問題、職業があるかどうかというような問題は、非常に大きな関心のようですけれども、この間の私の質問に対しまして、援護庁長官は、生活保護法というものがありまして、決して困らせませんということをきつぱりお答えになつておるのですが、先ほども、お帰りになつて泣いておいでになるようなよい例があつたわけですが、ひとつその点についての御感想を承りたいのです。これは、日本の現在の社会情勢に対する御批判なり御感想であつていいのですが、そこに援護庁長官もおいでになりますから、しつかりと御感想を聞かしていただきたいと思う。
  268. 京昭

    ○京参考人 私の感想といたしましては、ただいまの自分としましては、現在貿易商をやつておりまして、生活上においては困つておりません。但し、こういつた自分のような者ばかりでないということが一つの問題であります。第一番に、自分にしましても、あるいは私たちと一緒に帰つて来られましたところの四十八名の人たちでも、朝日新聞あるいは毎日新聞紙上において豪華な引揚者と言われたくらい、皆さんが荷物を持つてつておられるはずです。それが、神戸から上陸しまして、各現地に帰つたわけですが、帰つてからの援護工作というものを総合的に聞いてみますと、それでも非常に不満の点を皆さんが持つておられるということが言えるのじやないかとぼくは思います。  それからもう一つは、ぼくの聞いた範囲においては、四十八名のうち大体半数は、こういうような状況であれば内地に帰るのではなかつたということをきつぱりと言つておられる方があるわけです。そういつた状況から察しましても、今後三万名の方が帰つて来られるこの援護工作を、できるだけみんなの期待に沿うようにやつてもらいたいということが、ぼくたち先に帰つた者としての皆さんに対する一つのお願いでもあると思います。
  269. 原金司

    ○原参考人 私が帰つて来て一番残念に思つたのは、引揚者に対する援護という面についてでございますけれども引揚げて来てから、職がある人はともかくも、大多数の人は職がないのでございます。それについて、三万円の金を事業資金として貸すといつても、三万円では事業はできないのでございます。その三万円の事業資金を借りるのにも、いろいろむずかしい問題がございまして、形をでつち上げて、これから始めますからどうぞ貸してくださいというような願書を出さないと借りられないような状態では、帰つて来てからの生活という面について非常に不安でございます。その点、もう少し大幅に、一人あて二箇月とか三箇月、職が見つかるまで食べられるだけの金を無条件で貸してもらえるというようなぐあいになれば、帰つて来た人も非常に安心できるだろうと思います。  それから、住宅の問題について、金のある人はどんどん家を建てられますけれども、金のない人はなかなか家も建てられない。電建とかいろいろありますけれども、そういうものもあまり信用できないし、今政府の援助している金で家を建てようとすれば、やはりきまつた収入があつてちやんとしておる人でないと、その金は借りられないし、結局住宅の面でも非常に困りまして、権利金を出さなければ借りられないとか、権利金を出さぬところは家賃が高いとかいつた面で、帰つて来た引揚者でも、私らの知つた範囲内では、困つた人が相当いるのでございます。こういう面は、もう少し積極的にやつていただければ非常にいいと思いますけれども、ほかの面については、自分の努力次第でどうにでもなりますから、あまり多くは申し上げません。
  270. 堤ツルヨ

    ○堤(ツ)委員 今の原さんの御職業は。
  271. 原金司

    ○原参考人 まだ何もしていません。
  272. 堤ツルヨ

    ○堤(ツ)委員 でも、見通しはついていますか。
  273. 原金司

    ○原参考人 まだついていません。ただこちらで小さい商売をしたからといつて、迫つつきはしないし、むずかしいです。
  274. 井上真久

    井上参考人 むずかしい問題のようですけれども、おのおのの人々の環境によつて異なると思います。また向うから帰つて来る人の心構えもやはり違うと思います。私が向うにおります間に、日本状況というものはほとんどわからないのです。一部の人はラジオで聞いて大体見当はついておりましたけれども、とにかく向うでは、非常に日本状況はまだ悪いということしかわかりませんので、戦争に負けて、もともと小さい国だつたのに、よけい今度小さくなつた、そこに多くの人間がこちやこちや入つているのだから、必ず生活は苦しいに違いない、生存競争はもつと激烈だろうということは、かねて覚悟しておりました。しかし、私は兄弟五人みなこの戦争に出ましたけれども、幸いに全部帰つておりまして、両親もおりますし、おのおの兄弟が開業しておつたものですから、とりあえず帰つてからすぐ住まうことと食べることだけは心配はない。しかし、日本で、自分が医者であつても、小さな病院をやるにしても、昔みたいな楽な気持では絶対にいけない、七年間の苦しみをやはりそこへ延長した気持で行かない限り、絶対生存競争には勝つて行けないのだというような気持で帰つて参りましたから、割合に帰つてから悲観したようなあれもありませんでした。ただ一つ、非常に心配になりますのは、向うにおつて日本に身寄りの全然ない人です。戦災で両親、家が全部なくなつて、全然連絡のつかない人も、私の友達におります。帰つて来られて一番困られる方は、そういう方だと思います。だから、その点を援護庁の方ではお考えになつていただきたいと思います。とにかく日本に身寄りがあり、自分の家があるという者は、向うにおりましても非常に心強いものです。東北から医者で帰りましたのは私一人ですが、届けを出すときに、医者なんて絶対に帰れないよと言つておりましたけれども、いよいよ帰ると言なりまして、送りに来た人の話を聞きましても、自分は日本に帰つても身寄りがない、そして自分は年寄りだけれども、ここで何とか生活して行ける、日本へ帰つて生活して行けるかどうかということには実に自分は不安を感ずる、そういう人はまだ相当あると思います。だから、まず身寄りがあつて、うちのある人は、割合に楽な気持で帰つて来られると思いますけれども、そういうもののない人は、非常に不安な気持で帰つて来ると思います。その点よく考えて、今後の方策も、みんなが満足の行くようにしていただきたいと思います。
  275. 金子三郎

    金子参考人 自分は、帰つて来て、そうそう裕福な生活は望めない、自分の決心と努力でやらなければならないと思つています。帰つて来る方は、大体技術者とか、何か事業の経験のある方が多いので、そういう方は努力してやつて行くのがあたりまえじやないかと思うのです。もし全然その仕事もできないとか、あんまり年をとつて、そういうことができない人は、しかたなく援護庁とかそういつたところの保護を受けるほかはないと思うのです。自分の場合には、経験もあまりありませんけれども、帰つて来て一週間後に就職しました。努力をして、最低生活でもいいからと思つて決心をしたら、どうにかなるのじやないかと思つております。
  276. 受田新吉

    ○受田委員 京さんと原さんとに二つだけ……。  あなた方がお帰りになるときに、向うに在留同胞のだれがいらつしやるかは、お確かめになつて帰られたと思うのですが、それを留守家族にお知らせなさつた場合に、留守家族の方では、初めて所在がわかつて、うれしかつたというような方が、おありであつたかどうか、この点をお聞きしたいのであります。
  277. 京昭

    ○京参考人 私は、天津、北京におつた人の名簿、あるいはどのくらいの人数がおつたかということは、私としてはつきりつかめなかつたのです。皆さんがどういうことを言われるかというと、あなたは帰つて来られたが、自分のむすこはいまだに帰つて来られないのだという言葉を言われるわけです。そうして向う生活は非常に苦しいのだろうということ、過去において日本の新聞あるいは放送によつて述べられておつた点を家族の人は非常に不安に思つておられるわけです。だから、それを聞きまして、自分としましては、できるだけ真実を皆さんにお伝えする、――真実を伝えて初めて家族の人たちに納得が行つていただけるということを痛切に感じた次第です。だから、こういつた引揚げの問題は、政治とか、あるいは向う国家から帰つて来る者は赤だからどうだというようなことは別にして、引揚げという問題で解決していただきたいと思つております。
  278. 原金司

    ○原参考人 私の場合は、ただ、上海にいる人から留守家族の方に対してことずけがありまして、まわつたのでございますから、別に、今まで全然知らなかつた留守家族のうちに行つて、あなたのうちにはこうした人がまだ上海に生きておられましたというようなこととは違いまして全部、上海に行つていることはわかる、しかし長い間通信がなくて、どうしているか非常に心配しておつたというような方のうちに行つたのでございますから、生きていることは生きているけれども、どういう生活をしているかということを非常に心配をなさつて見えた方が多いのでございまして、上海の事情をずつと一通り話しましたら、留守家族の方は非常に安心をなさいまして、とにかく生きておればいつか帰つて来るでしようから、まずまず安心しましたというようなわけで、そういううちが多かつたのです。
  279. 受田新吉

    ○受田委員 私が願うことは、皆さんお帰りになられた方々が、知つている限りにおいて留守家族に知らしていただいて、今まで自分のうちには消息がなかつたが、今度帰られたどなたかを通じて、われわれの子供、自分の兄弟が生きておつたという喜びを感じていただくというために、早くお帰りになつた皆様方に、御苦労だと思うのですが、それをお願いするのであります。京さんも、帰られたときに、覚えておられる限りの人名を留守家族にお知らせいただいたかどうか。また厚生省は、そういう途中で帰られた方の知つておられる名前の調査をされたのかどうか。そういうことによつて、現在わからない数字のほかに、行方不明の人が生存していることがはつきりするようなことになれば、非常におめでたいことなので、それを私は確かめていただきたいと思います。この点、今原さんから一つ出て来たわけですが、京さんにはそういう例はなかつたか、それから厚生省としては、今度帰つて来られた方に残留者をお聞きになつておるのかどうか、それを三者の方からお願いします。
  280. 京昭

    ○京参考人 私の場合には、そういつた行方不明者という人が現在おられるということは知らなかつたわけです。向うにおられる方で、内地と文通しておられる方以外には、そういつた実例は私の場合にはありません。大体私はほとんどの県をまわつております。それほ商用を兼ねてまわつております。そして皆さんに、満州の生活状況とか、そういつたものをお伝えしております。
  281. 木村忠二郎

    ○木村(忠)政府委員 在外邦人の調査は、全部外務省でやつております。外務省でその辺の調査はやつておられるはずです。
  282. 受田新吉

    ○受田委員 それでは、井上さんと金子さんに、時間の関係で限定してお尋ねいたしますが、あなた方お帰りになられるときに、個人の財産を処理して金にかえる、または物品にかえる、指輪にかえるとか、ダイヤにかえるとか、そういうふうに物にかえて帰られたか。終戦後蓄積された財産それ以前のものは賠償の対象になるということで、非常に微妙なところがあるんですが、人民共和国としては、そういう終戦後の財産を侵害しないというような立場をとつておられるかどうか。もう一つは、そういうことがされるならば、帰られるときに、終戦後の蓄積された財産は全部荷物か何かにかえて、行李に詰めて帰ることができるか。もう一つは、そうならば、現なまを持つて帰るよりは、そういう物にかえて持つてつた方がいいし、日本政府では、二万円以上ある者は別だ、それ以下の者には差引いただけ帰還手当を出すということになつていて、これは向うに通報されているはずですから、それなら、一万円以上持つてつてはつまらぬ、従つて、これを物にかえて持つてつた方がいいというので、みんな一万円以上の金は持つて帰らぬで、物にかえるというような公算はないか。こういうことをお尋ねしたいのであります。
  283. 井上真久

    井上参考人 大体、東北におります者は、終戦後非常に状況が悪かつたので、私らも二、三事件でほとんど品物をなくしましたけれども方々に軍と一緒に行動した者が多いから、荷物を制限されて、あまり持つておりません。前から奉天、新京、ハルビンなんかにおつた人たちは、荷物をたくさん持つていた人もいますけれども、一般に、あまり荷物を持つておりません。また大体、私も家内も病身の関係で、給料は割合中国人よりはよかつたんですが、治療費その他に行くものですから、終戦後の蓄積した財産はほとんどありません。ただ木綿の着物とか、持つてつても別に売れるようなものはほとんどないような状況です。東北にいる人は、ほぼ軍と行動を共にし、政府と一緒に歩いたので、あまり荷物はないはずです。但し、帰るとき、終戦後の蓄積した財産を持つてつてはいけないというあれは全然ありません。とにかく持てるだけのものは持たしてくれております。私が聞いたのは、二トンまでいいというような話でしたけれども、貴金属類は、さつき京さん、原さんからお話になりましたから……。東北方面から私が帰るときでも、大体子供の着がえをちよつと入れました行李一つだけで、あとはぼろというような状況でしたから、東北から帰る人たちは、あまり荷物はないようです。それで、私帰りますときに、公安局の方でも、荷物の準備ができたかと、非常に心配してくれまして、二、三回来まして、二人とも病身だから、とにかく注意して帰れということで、非常にめんどうを見てくれましたが、別に、日本人が持つて帰る品物について、そうやかましく、検閲してどうしてどうこうということは、奉天から帰るときも別にありませんでした。ただ、前から干津とか、奉天、新京とかいう大都会におつた人たちは、相当まだ荷物を持つておると思いますが、私は大体、売つて食べたり、なくしたりして、ほとんどありませんでした。そういうような状況です。
  284. 金子三郎

    金子参考人 先ほど来の質問に答えます。何か日本に二万円以上の金を持つて来たら差引かれるとか、そういうことは自分は聞いていないので、持てるだけ持つて、持てないものは、売りまして、ドルにかえて帰つて来たわけなんです。終戦後持つていた財産なんか、没収とか、そういうことはありませんでした。
  285. 受田新吉

    ○受田委員 これで終ります。私は中華人民共和国が非常に愛情の徹底せる政治を施して、貧富の懸隔が非常に減つておるということをお聞きして、その姿には深く敬意を表するものですが、戦後六年間も七年間もたつて行李一つしか持つて帰れないような財産しか蓄積できなかつた――、こういうように、その日その日の場当り的な生活しかできない程度の財産しかないような生活がされておるのか、そうであるとするならば、一朝非常な災難にあつたときなんか、非常に生活に困る場合もあると思う。この点、身のまわり品と、ぼろぐらいしかお持ちにならなかつた井上さんの場合、そういうふうな生活が普通の生活かどうか。これは、今度帰つて来られる方々に対するわれわれの心構えとして重大な問題でありますので、これを京さん、原さんに、ごく簡単に御答弁いただきたいと思います。
  286. 京昭

    ○京参考人 発言します。私の考えた点としましては、帰れば何とかなる、家がある、あるいは父も健在でおる、こういつた考えが非常に働くわけです。それからまた終戦によりまして満州におるところの日本人、あるいは中国大陸におるところの日本人を総合的に見てみましても、その日その日の生活をやつて行こうというような考えが非常に濃厚に動いているのではなかろうかと思うわけです。自分たちは外地にいる、帰れば何とかなるのであるからというような考えが働いているような傾向じやなかろうかと思うわけです。私の推測です。
  287. 受田新吉

    ○受田委員 原さん、ひとつ……。
  288. 原金司

    ○原参考人 荷物を持つて来ることにつきまして、これは、大体上海におる人たちは技術者が多いものでございますから、戦争以前から同じ家におつた人たちは、たんすも茶棚も割合によい道具をそろえている人もあるし、あるいは、過去国民党時代にあつちこつち家を追い出されて引越した人は、行李とトランク一つしか持つていない人もありますので、一概に言われませんけれども、金を持つている人は、あそこの大古公司に行きまして、上海から香港まで荷を送らなければいけませんので、それには全部運賃がいります。そして箱屋を頼んで来て荷づくりをしなければならぬ。大体四、五尺ぐらいのくすの木の箱一つ荷づくりするのに四十万元かかる。四十万元というと、一人の一箇月の最低生活費です。くすの木の箱三つ四つつくると、百万元以上の金がふつ飛んでしまう。それに、運送賃が、重さではなくてフイートでございますが、一トンにつき、香港ドルの二百何ドルでございましたか、相当費用がかかる。そうして、持つて来た品物がよいものであればいいのですが、がらくたものであれば、たんすなんか持つて来たつて、途中で壊れてしまつては何にもならないので、金のある人は、そういつたくすの木の箱とか、トランクを買つて、あるいは毛のオーバーとか、あるいは靴とか、最高級の時計とか、そういつたものを買つてつて来るのであります。金のない人は、そんなことをしなくても、トランク一つか二つで帰つて来られますから、ずいぶん簡単ですけれども、大体そういつたようなことです。
  289. 受田新吉

    ○受田委員 木村長官お尋ねして終ります。今お説のごとく、持帰り品については大した期待もできないような状況です。また持つている人であつても、金を一万円以上持つてつてはだめだということです。さつきの三十ドルの例もあるので、おそらくそういう為替関係についても制限がありはしないかと思うのです。この点について、政府としては、二万円以上の持帰りがあるということを、為替関係、取引関係で想定ができたのかどうか。ドルにせよ、あるいは元にせよ、そうした通貨の交換について、二万円以上持ち帰り得る公算をもつてした政府の対策は、どういう観測からそういうことをなさつたのかということが一つ。もう一つは、一万円以上の持参者が、金を物にかえて帰ろうというときに、政府はそれを防止する策はないわけでありますが、すでに一万円だけは帰還手当を出すということは、向うの代表者にも通告はしてあるので、その点、向うから帰る人は、そこを差繰つて、一万円以上持つてつてもだめだ、これは物にかえて、指環か時計一つ持つて帰ればよいのだ、こういうふうなことをされた場合に、問題が起ると思うのですが、前から申し上げる通り帰還者に対して一貫して全部に出すというような大きな幅でこれを政府は出すことができないかどうか。私は、はつきり申し上げますが、二万円以上持つて来た人と、この金を一万円でやめて、あとは貴金属にかえて来た人と、どちらに重点を置くか。こちらでやみで売れば相当高く売れる。正直に二万円持つて来た人と、一万円で打切つて、あとは物にかえて持つて来た人があつた場合に、政府はその点要領のよい人を助けるということになりますが、この点についても、帰還者が多年中共地区で御苦労をされたということに対して、御苦労料としてでも、せめて全員に一様に帰還手当を出すということが正しいのではないか、こういつたことでいろいろな矛盾が出たのでありますが、以上の二点について長官の御答弁をいただきたいのであります。
  290. 木村忠二郎

    ○木村(忠)政府委員 この点につきましては、この前御答弁申し上げた通りでございます。
  291. 受田新吉

    ○受田委員 為替の問題については御答弁がなかつたと思うのですが……。
  292. 木村忠二郎

    ○木村(忠)政府委員 この問題につきましては、この前全部答弁いたしております。
  293. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 ちよつと受田君に申します。時間も大分過ぎておりますし、この問題は次回の委員会にお願いしたいと思います。先回にもこの問題の御質疑があつたようでありますから、これで打切りを願いたいと思います。
  294. 受田新吉

    ○受田委員 今の問題は、その後政府考えておられない。帰還者のお言葉を聞いても、考えない、そういうものはかつてだというような、まことにすてばちの御意見であつて政府としては誠意をもつて検討しようというような熱意がない。この点に非常に私は疑義があるし、また、今でも失業者がおる。失業者は全然ほうつてある。個別引揚げに対する失業対策、住宅問題は、解決していない証拠がここにはつきりしている。こういう問題に対して、政府は親切なる対策を立てようとしないで、十分に手を打つてあると言うが、現にこの席に失業者がおる。住宅で困難しておる人がおる。政府は手を打つておらぬではないですか。こういうところにおいて、もう平気で、そういうことはやつておるのだという態度をなさるについては、政府としてはまことに不親切であり、私は、この点について、個別引揚げの人々に対して今後の一般引揚げの人たちと同様な態勢に持つて行くよう、強力なる要請をして政府当局も慎重なる考慮をせられて、この次の委員会に御発言をいただきたいと思います。
  295. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 この際申し上げますが、先回の委員会において委員長に御一任を願いました舞鶴現地視察の件でございますが、予算委員会の進行の状態を見まして、大体三月一日、二日、三日にしたいと思います。派遣の方々は、委員長を含めた理事六名及び中山さんと堤さんに御足労願います。御異議ございませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  296. 佐藤洋之助

    佐藤委員長 これにて参考人よりの事情聴取を終ることにいたします。  参考人方々には、長時間にわたり、引揚げに関する実情を詳細にお話くださいまして、本委員会としては、今後の引揚げに関する調査の上に非常に参考となりました。ここに厚く御礼を申し上げます。  これにて散会いたします。次会は公報をもつてお知らせをいたします。     午後七時十二分散会