運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login

1952-03-18 第13回国会 両院 両院法規委員会 第5号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十七年三月十八日(火曜日)     午後二時五分開議     〔衆議院両院法規委員長牧野寛索君が会 長となる〕  出席委員    衆議院両院法規委員長 牧野 寛索君       金原 舜二君    藤枝 泉介君       鈴木 幹雄君    加藤  充君    参議院両院法規委員長 九鬼紋十郎君    理事 岡部  常君       小野 義夫君    竹下 豐次君       堀木 鎌三君  委員外出席者         衆議院議員   芦田  均君         参議院議員   一松 定吉君         参  考  人         (一橋大学教         授)      田上 穰治君         衆議院法制局長 入江 俊郎君         参議院法制局長 奧野 健一君     ————————————— 本日の会議に付した事件  憲法第九條の解釈に関する件     —————————————
  2. 牧野寛索

    会長牧野寛索君) これより会議を開きます。  本日は、前会に引続き憲法第九條の解釈について、衆議院議員芦田均君及び一橋大学教授田上穰治君から御意見を伺うことにいたしたいと存じますが、御異議ございませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 牧野寛索

    会長牧野寛索君)御異議なしと認め、さよう決します。  次に、先般衆参両院委員長より、京都の佐々木惣一博士参考人として御出席をお願いいたしたところ、健康上の理由により上京不可能につき、書面にて意見を述べたいとのお申出がありまして、本日それが私の手元まで届きました。貴重な御意見でありますので、委員各位には謄写して配付いたさせますが、なおこれを本日の速記録の末尾に掲載することにいたしたいと存じます。このようにとりはからうに御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  4. 牧野寛索

    会長牧野寛索君) 御異議なしと認め、さよう決します。  それではまず田上穰治君から御意見を伺うことにいたします。
  5. 田上穰治

    参考人田上穰治君) 最初に、簡単に私の考えておりますことを申し上げたいと思います。  憲法九條につきまして、いろいろ問題があると思いますけれども、私の考えは、第一項の方で戦争の放棄についての規定がございますが、これは国際紛争解決手段としての戰争を放棄しているのであつて従つて第一項では、自衛のため、あるいは国際連合憲章にありまする侵略国に対して制裁を科する意味戰争、これは含まれていないというふうに考えるのであります。これは申すまでもなく、日本文の持つ意味と、英訳の日本憲法でありまするが、これの明白に食い違つておるところでありまして、私は一応日本文に従いまして、戰争を無條件に放棄したのではなくて、国際紛争解決手段としての戰争というふうに考えるのであります。けれども、それならば自衛のための戰争はさしつかえないかと申しますると、これは第二項の方で、国の交戰権を認めないというふうにございまして、これは私は必ずしもそういつた紛争解決手段というふうな限定はなくて、むしろ広くあらゆる意味戰争をする国家としての権利、これを放棄したものと考えるのであります。この点も多少異論がございますし、特に御承知のように、第一項、第二項を結びつけまして、第一項の目的を達するために第二項の規定が設けられている、こういう点を強調いたしますと、自衛のための戰争制裁のための戰争は第二項においても放棄していない、そのためにまた軍備も認められる余地があるという御意見が出て来ると思うのでありますが、この点は、私は普通の議論だと思いますけれど、もしも自衛のために戰争ができ、そのためにわが国が武装できる、軍備を持つことができるといたしますと、これは理論上は一応そういうことも許されるように見えるのでありますが、結果は過去の歴史において明らかなように、名目は自衛のためでありながら、実際においてかなり攻撃的と申しますか、侵略的な戦争を行う、そういう危険が十分にある。でありまするから、九條第三項でも、主たる目的は、侵略のため、あるいは紛争解決手段としての戰争、これがいけないので、そのために戰力を保持しないということになると思うのでありますが、しかし私どもは、そのために徹底的にあらゆる意味武装解除といいますか、戰力を保持しないのでありまして、自衛のためであればさしつかえないということになると、これははなはだ不徹底である。もちろん法律論としましては、濫用されるおそれがあるから一切の戰力はいけない、こういう大ざつぱな議論は私には感心できないのであります。濫用する危険があるならば、その濫用を防止するように用意をすればよろしい、こう思うのでありますが、しかし戰力を保持しないという第二項の規定を率直に私どもが見ますと、どうもこれは無條件ではないか。自衛のための戰力はさしつかえないというふうに限定をいたしますと、これは非常にあいまいな言葉になつてしまうのでありまして、程度問題でありまするから、どこまでが自衛のための戰争であり、あるいは戰力であり、どれ以上になると紛争解決と申しますか、あるいは攻撃的な意味戰争戦力になるのか、これはかなりあいまいになると思うのであります。だから、わざわざこの第二項でそういうことを規定したということは、これは紛争解決手段という直接の目的を少し越えておるようでありますが、これを徹底させる意味においてあらゆる戰力を保持しない、また自衛のためでありましても、交戰権は放棄するというふうに規定したと私ども考えるのであります。  ただ、これに関連いたしまして、これも御議論があると思いますが、憲法改正につきまして、私ども一つ意見があるのであります。それは第一項の方の、言いかえますと侵略というか、その意味戦争を放棄すること、この部分は、これはいわば自然法である。言いかえると、日本だけでなくて、どこの国でもひとしく守るべき人類普遍原理である。現に国際連合憲章にも示されておりまするし、またがつて国際連盟の規約、あるいはすでに第十九世紀のフランス憲法——一七九一年の憲法でありますとか、一八四八年のフランス憲法にも現れておりますように、これは古今東西を問わず、ひとしくすべての国が守るべき原則である。でありますから、第一項の規定は、これは絶対に改正できない。けれども第二項の方は、私は希望するというわけではございませんが、しかし法律論としては、憲法改正することが可能である。と申しまするのは、これは人類普遍原理ではなくて、日本憲法、あるいはわれわれ国民が、終戰直後の特に強い決意を表明したのであつて、むしろ多くの国はわが国とは逆に戰力を持つておりまするし、また自衛のためとか、あるいは制裁を科する意味戰争を認めているのであります。そういう意味で、日本憲法は第二項の部分において非常な特色を持つております。でありますから、もし日本国民総意によつてというか、あるいは憲法改正手続をふんで、もし有効投票の過半数が改正やむを得ないということになりますると、法律論としては憲法改正ができると思うのであります。もちろんこの自然法というふうな議論、これも私ども意見とは違つた見方があるわけでありまして、国民主権を持つておる、だからして国民が希望するならば、どのような憲法改正でも可能である、こういうような議論自然法なんという考えは、それは学者なり、あるいは一部の人たちの独断である、だから国民総意によればどんなことでもできる、こういう立場もあるわけであります。そうなりますると、第一項、第二項を区別する必要はないのでありまして、再軍備是か非かというようなことも、とにかく憲法改正手続をふんで、国民投票にかけてみればよろしい、国民がその投票の結果よろしいというならば、どんなことでもできる——極端に申しますと、侵略と言うと少し語弊がありますが、紛争解決手段としての戰争でもさしつかえない、こういう見方考えられるのであります。しかし私どもは、そうではなくて、第一項の方の規定は、これは世界共通な、各国に共通な普遍原理でありまするから、たといわが国民が、投票によつて万一そういう改正案に対しまして賛成をしても、それは許されないことである。言いかえますると、日本憲法は、この人類普遍原理をただ注意的にきめたのであつて、しいて憲法文字に書き表わさなくても同じことである。けれども第二項の方はそうではなくて、もし憲法が黙つておりますると、逆の意味になる。特に書いてあるからこそ、そういうふうに一切の戰力を保持しない、あるいは交戦権を認めないということになつておるのでありまして、そういう規定は、もしこの文字をかえますると、結果は現状が変更されてしまう。そういう点で第一項、第二項は区別すべきものと考えるのであります。結論としては、自衛のための戦争ということは、これは戦争と申しますよりか、むしろ戦力でありますが、これは憲法改正を必要とし、その点は法理論としては改正ができる。手続をふめばできる。当然かもわかりませんが、私はそういうふうに考えるのであります。  それからもう一言つけ加えて申し上げたいことは、今日問題になつておりまする警察予備隊中心とする防衛力の増強といいますか、そういう問題であります。これは私が実は予備隊のことを、実情をあまり知らないものでありますから、現状においてすでに戰力に当るかどうか、あるいは今回の来年度の予算において、相当予備隊の費用が上つておるようでありますから、その点で、近い将来の装備の改善と申しまするか、近い将来に戰力の性質を持つようになるということになりまするか、それははつきり申し上げられないのであります。けれども、これは大ざつぱに申しまして、やはり程度の問題である。人員なり、あるいは装備程度いかんによつて戦力になる。現状がただちにそれに該当するかどうかははつきり申し上げられないのでありますが、程度いかんによつて戰力になると考えるのであります。この点で、私は現在の警察力というものを考えますときに、これは社会情勢とにらみ合せまして、必ずしもそれほど日本警察力が十分であるとは思えない。国家地方警察にいたしましても、自治体警察にいたしましても、いろいろな点で欠点を持つている。むしろこれは終戦直後の情勢考えますると、従来の警察力を弱くする、そして取締りが徹底するよりも、かえつて能率を落すといいますか、そういうところに、基本的人権を重んずる新しい政治のねらいがあつたというふうに考えるのであります。従いまして、今日でも警察力をそう簡単に充実させるということは主張できないのでありますが、しかしこれはやはり社会情勢といいますか、治安の状況とにらみ合せまして警察力というものは考えるべきもので、これも私十分な資料がございませんから、軽卒に申し上げられませんけれども、大体新聞紙上などで見ますると、一昨年あたりでありますか、相当社会情勢がかわつて参りまして、そういう点で警察力の不備な点がよく目について来たのであります。そういう点で、予備隊というものを単純に外敵を防禦する戰力というふうに見てしまうことは、少し賛成しかねるのでありまして、予備隊装備程度いかんによつては、やはり名前通り警察力であり警察力を補強する使命がある。この点は、よく国会の記事をわれわれ見ますと、たとえば外国に予備隊を派遣するかどうかというふうなときに、政府答弁は、それはしない、予備隊はあくまでも国内治安の維持に当るのであるという答弁が見られるのでありますが、私は大砲を用意することがどうとか、あるいはその他原子爆弾がどうかとかいうふうな議論になつて来ると少し極端かと思いますが、しかし内乱と申しますか、国内における暴動、こういうものに対して現在の警察力がはたして十分であるかどうか。警察法におきましても、国家非常事態、あるいは最近考えられる地方的な一種非常事態、そういつた事態に対する対策は、私はまだ十分でないと思う。でありまするから、現在は予備隊が実際に警察目的のために出動した例はあまり聞いていないのでありますが、しかし程度によつては、一種警察——文字通りの警察力を充実させる使命を持つている。こう私は考えるのでありまして、一概にこれが戦力、少くとも現状において警察予備隊戦力に当る、こうきめることは少し論理が飛躍しておるように考えるのであります。けれども、問題はそうではなくて、近い将来にかなり予備隊装備その他の点で増強される、その場合に、一体憲法違反という問題が起きないかどうかということなので、私はこれはむずかしいと思いますが、程度によつてはもちろん憲法違反ということが考えられるように思います。ただその場合に、これも御承知のように裁判所、ことに最高裁判所に持つて行つて憲法違反ではないかということを審査してもらう。この方法は必ずしも私は賛成できないのであります。できないという意味は、それは法理論といたしまして、憲法第八十一條にある違憲合憲性の審査でありますが、この最高裁判所の仕事は、これは広く警察予備隊型のものが憲法違反かどうか、そういう漠然とした、抽象的な、あるいは広く政治的な問題、これについて裁判所判断を求める、あるいは裁判所が審査できるというのではなくて、具体的な事件——事件と申しまするのは通常は訴えました原告の権利を保護するという必要がない限りは、訴えは不適法である。言いかえますると、裁判所では審査しないで、却下すべきものというふうに思うのであります。この点も学者の間に多少の異論がございまして、憲法第八十一條は、普通の民事刑事行政事件裁判とは違つて一種憲法裁判という新しい権能裁判所に認めたのである、こういう意見もございますが、時間をとりますけれども、簡単に私の意見申し上げますると、第八十一條規定もやはり司法権一つの作用である。従いまして、民事刑事あるいは行政事件というふうな形において——民事でありますると、請求の原因と申しますか、争う理由として、具体的な事件に関連ある限度で憲法違反かどうかという問題が起きる。そうなりますと、たとえば予算関係、どうも予備隊予算憲法違反であるから、従つて予算を執行してはいけないとか、そういうふうな形の訴訟、これは通常ちよつと考えられないのであります。だからこういう問題は、裁判所合憲違憲かということを判断するにはあまり適していない。またそれは、私は現行憲法の不備というのではなくて、むしろ民主政治のためには、それでよいと考えておるのであります。と申しますのは、裁判所は御承知のように国民が選挙した裁判官ではない。その意味では国会ほどの民主性はないのでありまして、ある意味においてはまた保守的でもある。でありますから、法律問題として裁判所が手がけるのではなくて、こういう重大なる問題は、むしろ政治問題といたしまして、国会において愼重に批判し、また討議すべきもの、それが民主政治の本来のあり方ではないか。国会で審議しないと申しますか、あるいは結論を出さないで、これを裁判官にきめてもらう、判断してもらうというやり方は、どうもデモクラシーに合わないように考えるのであります。法律問題でないと申しますと、いかにもこれはちよつとおそまつな——憲法に適合するかどうかということが法律問題でないというようなことは、ちよつと響きが変でありますけれども、私ども法律問題と言うのは、何も政治問題よりも重大であるということではなくて、裁判所で審査できる、あるいは審査すべき筋合いというか、責任があるかどうか、そういうふうな意味で使うのでありますが、その意味におきましては、警察予備隊などが一体戦力に該当するかどうか、あるいは自衛のための戰争が許されるかどうか、そういう重大な問題は、直接裁判所ではなくて、国会において審議すべきである。そうして結局最終的にだれが憲法についての解釈権を持つことになるかということになりますと、どうもこれは裁判所というよりは、むしろ国会ではないか。もちろん政府に一応の解釈権があるわけでありますから、政府自身憲法違反でないと考えれば、それを押し通すこともできそうであります。けれども国会行政について政府を監督する権能を持つておりますから……。もちろん国会政府との関係では、国会の方に優越した解釈権能といいますか、権威がある。けれども、それならば、国会判断が最終のものであるかというと、もちろんそうではなくて、やはり国会うしろには国民がある。その点が裁判官とは違うのでありまして、裁判官は独立に、純粋な、法律に適合するかどうか、適法か違法かという判断訴訟手続を通して行うのでありますから、それは独立的な地位を持つておりますけれども国会の場合には背後に国民があるのである。だから国会でなお不明瞭な場合には、必要があれば国民に尋ねるということも必要ではないか。そこらに衆議院の解散でありますとか、あるいは憲法改正手続をとるべきかどうかという問題が起つて来ると思いますが、とにかく申し上げたいことは、程度いかんによつて警察予備隊ごときも憲法違反といいますか、あるいは戰力になる可能性はある。しかしその判断は、政府が独自に行うべきではないし、また裁判所において簡単に訴訟手続によつて決すべきものでもなくて、それは第一には国会、そして場合によりましては、それが十分でない場合には国民投票——国民はもちろん専門家でありませんから、あるいは一部の宣伝によりまして、誤つた判断をするかもしれませんが、それは民主政治を行う上に、ある程度われわれが甘んずべき、覚悟すべき危険でありまして、それを冒しても、やはり必要があれば、国民判断をわれわれは重んずるという態度が必要ではないかと思います。  その他行政協定などにつきましても、あるいは憲法九條の関係があると思いますけれども、一応この辺で私の意見を終りたいと思います。
  6. 牧野寛索

    会長牧野寛索君) 田上さんに対する御質疑はちよつとお待ちいただくことといたしまして、次に芦田均君より御意見を伺うことといたします。
  7. 芦田均

    委員外衆議院議員芦田均君) 何か私が述べる問題についての箇條書きがありますか。
  8. 牧野寛索

    会長牧野寛索君) 九條の解釈の問題につきまして御意見を伺いまして、質問に移りたいと思います。
  9. 芦田均

    委員外衆議院議員芦田均君) 現行憲法第九條がどういうふうにしてでき上つたかという経過を一言述べることが適当かと思うのです。従来その経過について発表されたものはほとんどありません。従つて、いかなる理由でこういう條文ができ上つたかという経過を知ることが、むしろ困難なような状態だつたと思います。御承知のように、現在の憲法が起案されるときにどういう径路をたどつたかという問題は、いろいろ坊間に伝えられておりますが、公に発表された文書としては、ここに私持つて来ましたが、最近に連合軍司令部が発表した報告書、ポリテイカル・リオリエンテーシヨン・オブ・ジヤパンというものが出まして、その中に、当時憲法の問題に関連して職務をとつてつたハツシーというのが、日本憲法の成立に至るまでの経過を書いております。従つてこの報告は相当権威あるものと見てさしつかえないと思うが、その報告を見ても、日本政府の用意しておつた案と、総司令部日本政府に示唆した案との両案についての交渉経過は、ほとんど略して、書いておりません。でありますから、この報告を見ても、連合軍司令部の案を受取つて、それが幣原内閣において一定の草案につくり上げられたというその経過は、実は不明なのであります。その経過は、松本国務大臣が当時憲法草案担任者でありましたから、多少記録を持つておられると思います。私自身、当時幣原内閣の一閣僚として、閣議その他において知り得たる事実は、大体の経過を筆記して持つております。この両人の記録をつなぎ合してまとめることが、唯一の可能な方法であると考えておりますが、諸般の関係上、まだそこまで照し合せて突き詰めた記録はつつておりません。きようはきわめて簡単にその経過を述べたいと思います。  この総司令部報告を見てわかるように、日本憲法改正の問題が最初に論じられたのは、昭和二十年の九月、東久邇内閣のときに、国務大臣であつた近衛公外交顧問官で来ておつたアチソンとの間に、憲法の修正についての話合いが行われて、アチソン大使から近衛公に対して、憲法改正中心となるべき問題を、ABCからJKに至る箇條にして渡したということが出ております。おそらくこの書類は、近衛さんの手元には残つていないのではないかということをおそれるのですが、アメリカ側でははつきりそういうふうに項目を書いて載せております。それから幣原内閣が成立したときに、マツカーサーから、憲法改正を至急考慮すべきであるということを交渉しております。そのこともここに書いております。そうして連合軍司令部においては、昭和二十一年の二月十日に、一応日本憲法草案として示すべきものを完成した、そうして十二日にマツカーサーの承認を得て、印刷をして、十三日に外務大臣官邸において、ゼネラル・ホイツトニー、ケージスそれからハツシーローエル、これだけの者が松本国務大臣並びに吉田外務大臣会つて、そうして申し渡したことは、従来日本政府から提出されておつた松本案なるものが全然承諾しがたきものであるということを通告したのであります。これは私どもの聞いておることと、連合軍司令部報告とは全然一致しておりますから、間違いはありません。爾来いろいろ総司令部と幣原内閣との間に折衝をしまして両院制度一院制度の問題については日本政府側の主張が貫徹をして、現行憲法のごとき形によつて両院制度を認めることになつたのであります。それ以外の点においては、いわゆる松本案なるものの認められたものはきわめてわずかであります。従つて吉田内閣から議会に提案したる憲法草案は、大部分連合軍司令部より日本政府に示唆された案がそのまま法文となつてできたのであります。  松本国務大臣連合軍司令部側との交渉の中途に話された言葉を引用いたしますが、二月十三日の外相官邸会見において、ホイツトニー將軍は次のような趣意を述べた、日本側の案は全然受諾不能である。アンアクセプタブルである、よつて別案をスキヤツプにおいて作成した、この案は連合国側でも、マツカーサーも承認しておる、もつともこの案を日本に強制するという意味ではない、日本国民がその要望する案であると考えるのである、マツカーサー日本天皇を支持するものであつて、この案は天皇反対者から天皇を護持する唯一方法である、日本憲法は現在よりも左に移行するのがよいのである、日本国民政治意識を得るようになれば、必ずこの案に到達するに違いない、日本はこれによつて初めて国際社会に進出することができるだろう、こういう意味日本側に言つて聞かした趣であります。そうしてできるならば、二月二十日までに連合軍司令部の示唆したる方針を日本政府において受諾するやいなやを回答してもらいたい、もし受諾できないということならば、総司令部は自分のつくつた案新聞に公表して、これに対する日本国民の輿論に問うという決心をしておる、こういうことを言つて来たのであります。そこで二月二十一日に幣原総理大臣マツカーサー会見して、三時間にわたる意見の交換を行つた。これは時の総理大臣幣原男爵より私自身聞いて書きとめたものでありますから、大体間違いはないと考えます。そのときにマツカーサーが力説したのは、主権在民という原則戰争放棄という原則、この二つの原則日本の新憲法としては最も重要なものだという意味を述べまして、戰争放棄並びに国防の問題については、種々幣原総理大臣意見を述べたようであります。その会見の結果、幣原内閣原則として総司令部側の示唆する憲法草案を受諾する決意をいたしまして、翌二十二日の午後二時に、松本国務大臣吉田外務大臣と同道してGHQにその回答をもたらして行つたのであります。  そういうこまかいことは省きますが、政府案の憲法第九條は、幣原内閣においてマッカーサー司令部の示唆する案に基いてつくつたものでありまして、この原案は、ほぼ先方の案と字句も一致しております。その憲法原案が審議されました当時、私は衆議院憲法委員長の職を汚しておりました。その際に私の発意によつて、主として二つの修正を提案して、いれられたのであります。それは第九條の初めに「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」という文字を入れたこと——原案は、「国の主権の発動たる戰争と、武力による威嚇又は武力の行使は、」云々と、こう書いてありまして、いかにもぶしつけにできておつたのですが、それに対して、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」云々と入れることを提議して、それから第二項は、原案によれば、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持してはならない。」と書いてある。それに対して、「前項の目的を達するため、」という文字の挿入を提案したのであります。その提案はどういう気持でなされたかということを、一口つけ加えて申しておきます。第一項に対する初めの文字は、日本国民は国際平和を熱心に求めておるには相違ない、しかしその平和たるや、正義と秩序を基調とする国際平和であることが必要である、どんな平和でもわれわれは甘んじて受けるという趣旨ではないのだ、われわれ日本国民が受諾し得る国際平和は、正義と秩序を基調とした平和でなくちやならぬということをはつきりしておきたいという趣意にほかならぬのでありまして、そのことは、多少第一項及び第二項の適用の場合に、ある種の意味を持つと考えたわけであります。それから第二項に修正を加えたことは、あとにもう少し詳しく申し上げますが、原案がどういうところから戰争放棄の精神をここに書いてあるかという、その沿革的な問題になりますと、御承知のように一九二八年にパリで調印されたる不戰條約というものがありまして、そのときは、日本を加えて英、米、独、仏等十五箇国が不戰條約に調印をしたのであります。その不戦條約の第一條を読んでみると、憲法第九條の第一項の規定とほとんど同じ文字を使つております。ただ違うのは、不戦條約においては、国権の発動たる戰争という前に、国際紛争を解決する手段としての戦争ということを先に書いておる。不戦條約第一條には、「締約国ハ、国際紛争解決ノ為戦争二訴フルコトヲ非トシ、」と書き出しておる。第九條の方は、「国権の発動たる戰争と、武力による威嚇又は武力の行使」という字を先に書いて、「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と書いておる。しかしその文字意味は、私の解するところによれば、ほとんど差異はないと思います。この不戦條約が調印されたとき、関係国の間の交換公文が発表されておりまして、その交換公文の趣意によると、自衛権並びに自衛戰争の問題はきわめて明瞭に当時から規定されておるのであります。フランスも、ドイツも、日本も、イギリスも、ポーランドも、皆戦争放棄が何を意味するかということの解釈を公文で発表しております。その趣意はきわめて簡単でありまして、この條約にいう戦争の放棄とは、自衛戦争を放棄するという意味ではないということをはつきり言つておる。フランスの交換公文の中にも、ここでいう戦争の否認とは、調印国から正当なる防衛権を剥奪するものではないと言つております。それから、当時の不戦條約の発案者であつたアメリカ国務長官のケロツグが言つた言葉に、国家自衛権は委譲すべからざるものとみなすということを言つておる。それでありますから、不戦條約は侵略戦争を放棄するという趣意でできた條約であつて自衛のための戰争を放棄する趣意でないということは、当時の各国の間の定説でありました。これに反対の意向はどこにも現われておりません。従つて日本憲法第九條の趣意は、沿革的に見ても、文字の上から見ても、不戦條約の趣意をそのまま採用したものであつて自衛戦争を否認したものでないということは明らかだと思う。ただ第二項にいきなり「陸海空軍その他の戰力は、これを保持しない。」と書いてあると、自衛戰争を認めておるとはいつても、方法がないということになります。おそらく連合軍司令部は、自衛戰争の場合といえども日本には陸海空軍を持たせないのだという趣意で、かような條文を示唆したことかとも想像されるのでありますが、このままでは何らのゆとりがないことになつてしまう。当時この修正案を提案した私の趣意は——前項の目的を達するためという言葉は、いかにもあいまいであつて、どちらにでもとれる言葉であるに違いありません。非常にこれが明確な言葉だとは、私自身考えていなかつたのであるし、今でも明々白々一点の疑いをいれないような文句であるとは考えておりません。しかしながらこれを明確に説明すると、憲法委員会においてかような修正を加えることが許される見込みはなかつた。諸般の情勢から見て、とうていかような修正案を憲法委員会に出すことを認められるような可能性はなかつた従つて私がこの修正案を出したときには、委員会においても何らの説明を行わなかつた速記録をごらんくだすつても、私は一言も説明を加えておりません。幸いにして質問もなかつたので、これに答える必要もなかつたわけです。従つて、前項の目的を達するためという修正を加えることによつて——前項というのは申すまでもなく第一項のことであります。その第一項には「国権の発動たる戰争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と書いておるのでありますから、国際紛争の解決の手段としての戦争と武力行使を放棄しておる。これが第一項であります。そこで憲法軍備を保持しないというのは、第一項に規定されたる国際紛争を解決する手段としての戦争と、武力行使を放棄するという目的を達するためであり、その他の目的のためであれば、軍備を維持してもさしつかえない、自衛というのは侵略に抵抗して自分を守るということであるから、国際紛争を解決するためではない、従つて自衛のためであれば軍備を保持してもさしつかえない、憲法はそれを禁止するものにあらず、かように解釈する余地を残すために修正の文句を入れたのでありまして、その意見は、当時きわめて少数であつたと思います。が、憲法審議が終つた直後、昭和二十一年の十月に、「新憲法解釈」というささやかなるパンフレツトを発行しまして、その中に自分の意見だけははつきり書いて、世の中に出したのであります。その三十六ページに書いておいたことは、第九條の規定戦争と武力行使——武力による威嚇を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合であつて、実際の場合に適用すれば、侵略戰争ということになる。従つて自衛のための戰争と武力行使は、この條項によつて放棄せられたものではない。また侵略に対して制裁を加える場合の戦争も、この條文の適用以外である。これらの場合には戰争そのものが国際法の上から適法と見られておるのであり、一九二八年の不戰條約でも、国際連合憲章においても、明白にこのことを規定しておるのであるということを書いておきました。国際連合憲章のことを引きましたのは、憲法審議のときに、私が当時の政府に質問をして言つた中の一つの箇條として、国際連合憲章は共同防衛を建前にしておるではないか、もし日本憲法自衛のためにも、防禦のためにも、武力を持つことができないということであれば、国際連合に参加する資格は備えておらぬ、武力を持たずして国際連合に参加を求めるということは不可能である、それはどうするつもりだということを私は政府に聞いたのでありまして、そのことは速記録に残つております。それでありますから、自分の意見は、日本国際連合に将来参加しようと思うならば、どうしても国際連合参加国の当然の義務である武装兵力の提供をしなくてはならぬ、その提供すべき武装兵力を持たずして国連に参加することを求めるのは、矛盾撞着のはなはだしいものである。こういうことは、憲法創定の当時から主張して来たのでありまして、その点は、今日においても意見はちつともかわつておりません。それでありますから、この修正案によつて事態が非常に明白になつたとは私は申しません。非常にあいまいな修正であつて、それならばこそ、第二項の「前項の目的を達するため、」という文字解釈については、学者の間にいろいろ説がわかれておる。京都の佐々木惣一郎博士だけは、以上述べました私の意見に同意見でありますが、多くの学者は私の言うような主張には賛意を表しておられません。今もつて少数意見であると思いまするが、そういう事情から言いますと、必ずしも最近になつて自衛のために武力行使をすることは憲法違反にあらずという新しい説を自分が発見したのではなく、憲法草案の審議当時からかような意見を持つてつたということは、種々の文献によつて立証することができるのであります。そういう経過で、この規定ができ上つたわけであります。  それで、もう一つ問題は、予備隊、海上保安隊が戰力なりやいなやという問題であります。軍隊と警察との区別については、すでに多くの学者、專門家から委員会で御意見を述べられたことと思いますから、そういう点を繰返して申し上げることは必要ないと思いますが、現在日本が持つておる警察予備隊と海上保安隊に一番似た外国の制度は何であるか、それはソビエトの内務省が管轄しておる武力、昔はゲー・ぺー・ウーと言つておりましたが、今はエム・ヴエー・デーとかいう名前にかわつたようですけれども、約五十万の部隊を持つておる。戰車も飛行機も持つております。しかしこの部隊は国防省の管轄にはない部隊である。これは明白に内務省の直轄しておる部隊であります。外戰には原則として使わないということになつておりまして、主として国内の暴動鎮圧、秩序の維持に使つておる。しかしその戦力においては、普通の師団にまさるとも劣らないりつぱな装備を持つておる。これは内務大臣の管轄のもとに動いておる兵力であります。そういうものを世界が単なる警察と認めておるか、あるいはまた正式の武力として計算しておるかということを調べてみますと、私もそういろいろ書物を見たわけじやありませんが、アメリカで発行されておる統計などを読んでみると、ソ連の武力の中にはつきり五十万の内務省管轄の部隊が入つておる。世界の常識としては、これを戦力に計上しておる事実は明らかなのでありまして、いろいろ法律的に見て、あるいは科学的に見て、議論もありましようが、世間の常識では、内務省管轄の部隊であろうと、国防省に属しておる部隊であろうと、一定の交戰力を持つておる部隊を戰力と見るということは常識であろうと思います。従つて今日の場合においても、もし戦力を持つことが憲法違反だという論理をどこまでも維持するならば、警察予備隊並びに海上保安隊の戦力を維持することは、憲法違反なりと言わざるを得ない、こういうふうに考えております。  あまり長くなりますから、この程度で一応終りまして、もし私に対する御質疑があれば、さらにあらためて自分の意見を申し述べたいと思います。
  10. 牧野寛索

    会長牧野寛索君) それでは田上君、芦田君に対する質疑がございましたら、どうぞ。
  11. 堀木鎌三

    ○委員(堀木鎌三君) 私は芦田先生にひとつ伺いたいのですが、日本文を読みますと「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、」こうあつて、国権の発動たる戦争も国際紛争を解決する手段としては……。日本文だとそう一応読めることは読める。ところが英文で読みますと、「リナウンス・ウオー・アズ・ア・ソヴアリン・ライト・オブ・ザ・ネーシヨン・アンド・ザ・スレツト・オア・ユース・オブ・フオース・アズ・ミーンズ・オブ・セツトリング・インターナシヨナル・デイスピユーツ」と書いてありますから、実は「国際紛争を解決する手段としては」というのは「武力による威嚇又は武力の行使」にだけかかるように思われるのですが、いかがでしようか。
  12. 芦田均

    委員外衆議院議員芦田均君) それは、お答えしますが、不戰條約の第一條に、国家の政策の手段としての戰争というものと、国際紛争解決のための戦争ということを二つ並べて書いております。それでありますから、初めの憲法草案の方に書いてある「国の主権の」云々という文字は、不戦條約第一條のしまいの方を先に書いてあるので、それを私先ほどちよつとお話したのですが……。
  13. 堀木鎌三

    ○委員(堀木鎌三君) 私途中で来たので、聞き漏らしたかもしれませんが、不戰條約の点は二つあることがわかるのですが、一体この憲法解釈としては「国際紛争を解決する手段としては」という問題は「国権の発動たる戰争」にもかかる、こうお考えでありましようか。
  14. 芦田均

    委員外衆議院議員芦田均君) 「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」というので、やはりあなたの言われる通り、二つとも国際紛争解決手段ということにかかるようですね。
  15. 堀木鎌三

    ○委員(堀木鎌三君) 「国権の発動たる戦争」にも「国際紛争を解決する手段としては」と、こういうふうにかかると解釈するのが、先生の全体の解釈としては統一しておるように思うのです。ただ英文を見ますと、「国際紛争を解決する手段としては」というのは、どうも戦争にかからないように見えるのですね。もつとも英文が正文でないのだからという解釈もできますけれども……。
  16. 芦田均

    委員外衆議院議員芦田均君) 私は、不戦條約の第一條をそつくりそのままの文字を書いても体裁が悪いから、日本憲法草案を書く人が少し文字を直して書いたので、大体ここから来ておるのだというふうに今まで思つてつたのです。
  17. 堀木鎌三

    ○委員(堀木鎌三君) 不戦條約の方から確かにその思想を受継いでおるということは考えられるのでございますが、今先生もおつしやる通りに、当時の事情としては、「前項の目的を達するため」と書くこと自体が相当はばかられ、躊躇された、少くともこれをそう解釈することに躊躇されるような事情だつたとおつしやるのですけれども、その点については当時の事情として、ポツダム宣言の第七項の「日本国ノ戰争遂行能力が破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄」という、こういう、思想もあつたわけです。こういう点もある程度受継いでいた沿革的なものが、当時の事情としてなかつたのですか。
  18. 芦田均

    委員外衆議院議員芦田均君) 松本案と称する政府案には、国防の問題を憲法に書いておつたのです。しかるに二月二十一日に幣原総理大臣マツカーサー会見をしたときに、マツカーサーはその点を取上げて幣原さんにいろいろ話をしておるのです。その一部分に——これははたして向うの言つた通りのものであるかどうかは、私にはお請合いすることはできませんが、少くも幣原総理大臣が話されたことをその場で私が筆記にとつたものです。多少違つておるかもしれませんが、そのときにマツカーサーの言つた言葉は、軍に関する規定は全部削除した、この際日本政府国内の意向よりも外国の思惑を考うべきであつて、もし軍に関する條項を保存するならば、海外諸国は何と言うだろうか、また日本軍備の復旧を企てると考えるにきまつておる、日本のためにはかるに、むしろ第二章——例の戰争放棄ですね。第二章のごとく、国際紛争解決のためにする戰争を放棄すると声明して、日本が道義的指導権を握るべきだと思うとマツカーサーが言つた。幣原総理大臣はこのとき言葉をさしはさんで、指導権と言われるが、おそらくだれもついて来る者がなかろうと言つたマツカーサーは、ついて来る者がなくても日本は失うところはない、これを支持しないのは、しない方が悪いのだということを言つた。こういうことを私が聞いたのでありますが、その言葉はつきり堀木君のお話になつた先方の意向はわかるのでありまして、日本は軍を一切持たないという立場で行けという空気であつたことは、大体間違いないと思います。それでありますから、金森徳次郎君が昨年の朝日新聞かで書いておられる中にも、「前項の目的を達するため」という文句は二つの意味にとれる、「前項の目的」が第一項の「国際平和を誠実に希求し、」という言葉を受けるとすれば、いかなる名目の兵力も保持しないという解釈になる。ところが憲法委員長としての私の報告の中に、日本国民は国際平和を誠実に希求しということを言つておるが、それを受けると解すべきことは疑いをいれないのだ、従つていかなる名目の兵力も保持しないことになると言つておられる。従つてこれは非常にあいまいな文句であります。それだから、憲法改正しなければ軍備を持つことがはつきりしないという御意見に対しては、私はある程度敬意を表しておるのでありまして、それならば憲法改正して軍備を持つことに少しも反対はいたしません。しかし自分の解釈で言えば、自衛のために武力を持つということ、武力を行使するということが、憲法第九條に反するものとは考えないということを述べておるわけであります。
  19. 加藤充

    ○委員(加藤充君) 芦田さんにお尋ねするのですが、先ほど京大の佐々木先生が憲法九條の第一項と二項との関連において、とりわけ二項の意味で、少数説であろうとは思うけれども自衛のための再軍備はさしつかえないというふうなことを言われておる、こう言われたのですが、このことに関連して一点だけお伺いしたいと思うのです。問題点だけ出しますと、二項の「前項の目的を達するため」云々という修正條項を入れた。このときには、なぜ修正條項を入れる必要があるのか、修正をする趣旨というものをはつきり説明しなかつたし、幸いにもその点について質問もなかつた、こういうことが言われた。そうして第二の問題としましては、しかし連合軍は第二項で一切の戰力の否認を命じたといいますか、そういう強い意思を持つてつたということを言われた。そこで問題が出るのですが、そうすると、自衛のための再軍備戰力を持つことはさしつかえないというような意味合いで修正がされたということになれば、その修正は、今の言葉で言えばオーケーはなかつたものだろうと思われるし、またその修正自体が、芦田さんの言われた通り、きわめて文字自体としてはあいまいな問題で、芦田さんの言葉をもつてしても、必ずしも明確な意味合いを持つものだというふうにもとれない、こう言われた。そうすると、さつきの佐々木さんの学説なとも——これは学説ですから、言いますけれども、お話と関連しますと、そういうような修正が特別の意味を持つたものだとするならば、そういうふうなはつきりした意味を持つた文字で修正され、挿入されたとするならば、あの修正はオーケーがなかつた意味のない、どうにもとれる修正だということになれば、結局それは修正ということの実質を持たないのであつて、それは修正にならなかつたから、よけいな言葉を使つてみても本質はかわらない。自衛のための再軍備なんというものは、ほじくり出す余地はないものだという全体としての意味合いで、その修正が通つたのではないか。修正という本質を持たない字句の挿入が通つたのではないか。そうすれば、その第一項の文字の修正によつて、本来的には全面的に禁止されておる再軍備——自衛のためであろうが、禁止されておる再軍備を、修正によつてこれが復活して、それはさしつかえないという強い意味合いを持つたものだという解釈なり、説明には、全然ならぬのじやないかと、こう私は思いますが、いかがでしよう。
  20. 芦田均

    委員外衆議院議員芦田均君) それは金森君が進駐軍に行つて修正案の説明をしておるわけなんです。金森君の言つた言葉は、「国際平和を誠実に希求し、」ということを受けておるんだから、その意味で、その目的を達するためにという意味だと、こう言つて説明して、ケージスに話したところが、ケージスが、しかしそれはそう言うけれども、こういう意味にもとれるのではないかといつて、私の言つた意味を言つたそうです。そこで、いやここではそうではありませんと言つて、オーケーをとつて来た。それで私が言うのは、第一項ですね。憲法第九條第一項と第二項というものは、これは別々の問題なんです。全然関係のないものなのです。なぜかというと、憲法第九條第一項によれば、もしこれだけならば、不戦條約以来の世界の定説によつて自衛戰争は放棄したものにあらずということなんです。これだけなら侵略戰争を放棄するということの意味であることは、憲法第九條第一項の意味としては間違いのない解釈です。しからば、どうして日本自衛戰争をやることが不可能になつたかといえば、第二項があるから、初めて第一項の認めておる自衛戰争さえもできないのだという解釈が生れるわけなんです。けれども本来はこれは別々な思想なんです。それだから、第二項にこういう意味のことを書いておけば、他日これを引用する機会があると考えたが、私が生きておる間にかようなことが問題になるなどとは、当時毛頭考えなかつた。他日いずれの日にかこういうことが問題になるだろうとは思いましたけれども、五年や十年の間に憲法第九條が問題になるなどとは考えられなかつた時代です。そういういきさつでできたものです。だから、あなたの言われる説もある程度までりくつがあるので、私は自分の説が絶対正しいということをここで主張するだけの勇気はないのですが、しかし当時の状況では、もうこれが最小限度の可能なる修正であつた。これ以上はつきりした修正を加えることはできなかつた。これは戰後の事情を知つておる方は、みなわかることです。
  21. 加藤充

    ○委員(加藤充君) くどいようで、わかつたことなんですが、一項と二項とは質的に別なものだ、一項の方は、今まで言われた不戰條約その他国際條約に沿革を持つたものから、独立なものを盛つてあるけれども、二項は別だと言う。ところが、二項と一項との二つが一つの九條にまとめられておるわけなんです。それをあの修正で一項と二項との橋渡しをして、質の違つた二項を一項の方へひつつけて行つたというような意味合いにはならぬのじやないか、こう思うのです。詳しく言うと、先生が言われたように、一項と二項とは質が違つたものだ。二項の修正で質の違つた二項を他の質の一項の方へひつぱりつけて、二項の質を殺したというような修正にはならぬのじやないかというのが、さつきから私が言つておるところなんです。
  22. 芦田均

    委員外衆議院議員芦田均君) 日本戰争放棄の態度を声明したということは、新憲法に始まるのじやないのです。一九二八年に不戰條約に調印したときから、軍部は知りませんけれども、少くとも日本政府の方針は戰争を放棄するのだと言つて来た。何も新憲法によつて戰争を放棄したのじやないのです。新憲法によつて新しくできたことは、武力を持たぬということが新しく生れて来たことであつて戰争は放棄しても、武力を持つてさしつかえないということは、十何年ふれて来ておる。そういう意味から言つても、第二項、第一項は不可分であるという解釈は少し無理がある。
  23. 加藤充

    ○委員(加藤充君) 不可分のものでないから、條文一つになつても、質の違つたものがあつて、どつちみちいけないということになつておる。二項で全面的に戰力が殺されておるわけですね。
  24. 芦田均

    委員外衆議院議員芦田均君) 向うの意思はそうなんです。
  25. 加藤充

    ○委員(加藤充君) こちらの方の国会の意思としても、修正ということが明確に言われて、修正の意図がはつきりして修正になつたものじやないのだとするならば、意味のない言葉をただよけいに入れたということ、それから含み的なものを伏せ学的な形で文章に書いたという形になつておるので、修正というものに対して意味を持たせるわけには、残念だけれども、行かぬのじやないかと思うのです。
  26. 芦田均

    委員外衆議院議員芦田均君) これは立法者の意思というものは、法律解釈の上においてある程度の参考にはなるけれども、そう絶対の権威があるものじやないのだから、問題は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戰力は、これを保持しない。」という、これをどう解釈するかということが重い問題なんで、当時の立法者が何と考えてこういう文字をつけたかということは、單なる参考の一助にとどまるわけです。私はただその点の一端を補足したのであつて、必ずしも提案した者の意思がこうだつたから、解釈がこうなるということまで主張し得ないことは、われわれとしても、それはわかつておる。
  27. 牧野寛索

    会長牧野寛索君) ほかにございませんか。
  28. 加藤充

    ○委員(加藤充君) それから田上さんに伺うのですが、程度の問題だと言われたのですけれども程度の問題ということは、どうもそれだけではわからないのですがね。今芦田さんが言われたと思うのですが、これも解釈の問題でしようし、またその解釈というものは、單に一国の意思だとか、われわれの解釈じやなくて、むしろ国際的な常識の問題だとも言えるのです。これも調べてみなければわからぬのですが、ソ同盟の警察、ゲー・ぺー・ウーとかは、内務大臣の管轄であるが、これは明らかに戰力である。警察だと言つても、アメリカあたりでは戰力に加えておる。こういうことなんですが、そういうふうな関係から考えてみると、警察予備隊というようなものは、程度の問題で、いわゆる一般的な戰力の問題に入らないと言われたところに、少し問題が残りそうなんですが、この点いかがですか。
  29. 田上穰治

    参考人田上穰治君) 今の御質問でありますが、私の先ほど申し上げましたのは、国外に対して予備隊を派遣するというふうな形、あるいは外国から侵略を受けたときに外国の兵隊と申しますか、戰力に対抗する、そういう意味において予備隊が用意されておるといたしますと、これは目的の点から言つて、私は戰力というふうに考えるのでありまして、つまり逆に申しますると、まず第一に戰力であるかどうかということは、目的国内の社会の治安の維持というところにはつきり置かれる。言いかえますると、普通の治安の維持は、保安庁なりあるいは国警、自治警というふうなところでやるわけなんですが、警察法の、たとえば国家非常事態というふうな場合は、内閣総理大臣が布告いたしますが、そういう場合、一応警察全体の統制をいたしますけれども、なおそれでも不十分であるという場合には、旧憲法時代でありますと、国内出兵、つまり軍隊が、戰争ではなくて治安維持のために出動する、たとえば二・二六事件であるとか、あるいは関東大震災の場合に行われた、ああいう手段でありますが、そういうことが一応予備隊には考えられるのではないか。これは現在の予備隊がそうであるかどうかは別として、少くともそのスタートを切つたころには、そういうふうに私どもは受取れたのであります。だからもしその目的が、今申し上げるところと反対に、よその国から侵略を受ける、しかもその侵略というのは、單に事実上スパイの活動をやるとかいつたような形ではなくして、正面から外国の軍隊が侵入して来るというふうなとき、その万一の場合を考慮して、そのために日本の国の防衛に当る、こういう目的でありますと、これは私はやはり戰力であるというふうに思うのであります。しかしどうもこれは、くどい話になりますが、警察予備隊を、初めからもつぱらそういう意味の、外敵に対する防衛のために設けられたというふうにきめてしまうのはどういうものか。ことに現在の警察力は、先ほどから申し上げておりまするように、かなり十分でない。私は多少警察の実態を調べたことがあるのでありますが、今非常にと言うと何ですが、相当不十分である。ただしかし、今申し上げました目的と、もう一つはもちろん装備の点でありまして、国内治安の維持、言いかえますると、内乱とか、そういつた暴動の鎮圧、そういうために警察はどの程度の武力を必要とするか。これはやはりその情勢によつてかわるのでありまして、私ども暴動を予想することは実は希望いたしませんし、またそれほど危險はないと考えますけれども、しかし暴動の程度によつて、つまり取締りを受ける者が武装をしておれば、それに対抗する程度の武装はやはり必要なのである。だから、今日の普通の警察官が持つておりまするピストルのような程度では、常識的に見て少し不十分なんではないかということなのであります。でありますから、大砲とか飛行機とかいうものになつて来ると、これは先ほどのお話にございましたソ連の場合のように、もちろんそうなれば常識的に見て戰力考えるのでありますが、ただ先ほど申し上げました程度ということが、たとえば人員が何万人以上とか、あるいは武器がこの程度以上になれば明らかに戰力であるというふうに、はつきりとその限界をつけることはむずかしい。相対的なことなんでありまして、つまり社会情勢によつて必ずしも同じではないというふうに思うのであります。それならば、率直に現在はどうかと、こう御質問になれば、これは非常に困るのでありまして、うわさというか、新聞その他で間接に聞いております範囲では、相当戰力の範囲に入つておるというふうに思えるのでありますが、これはどうもはつきりした事実を私知らないものでありますから、漠然とお答えするだけなんでありまして、決して現状戦力でない、国民は安心していい、憲法違反という問題は全然起きない、また考えられないというふうな、そういう楽観した気持で申し上げたわけではないのであります。
  30. 芦田均

    委員外衆議院議員芦田均君) ちよつと一言づけ加えて発言をお許し願いたいと思うのですが、この委員会で直接に当面しておられる問題ではないと思いますけれども警察予備隊国内治安の維持のためであつても、相当の実力を持つたものでなければならないという感じは、現在私は持つておるのです。私はちようどロシヤの革命のころに現地におりまして、ケレンスキー政府が共産革命で倒れる前の晩の状態も見ておつた。ケレンスキー政府が倒れたのは、守る力がなかつたから倒れたので、相手が強かつたのではない。相手の当時の赤衛軍というのは、労働者や脱走兵や、実に雑然たる無統制な部隊であつて、ほとんど隊を組んで歩くことさえもできないようなのが、政府の立てこもつておる冬宮へ押しかけて行つた。ところがケレンスキー政府を守る力は、当時の士官学校の生徒が若干と、女の歩兵大隊が一箇大隊、これだけしか政府を守ろうというやつがいなかつた。それだから、三時間ほどの間に事もなくやられてしまつた。今何か東京で事を起そうというやつが警視庁を包囲し、放送局を占領し、内閣の首班や、おもなる者をとつつかまえたら、だれが身を張つて吉田内閣——吉田内閣と言うと語弊があるが、国権の中心である権力を守るのだ。警視庁が動けなくなつたらおしまいです。二・二六事件のときのことを皆さん御記憶でしようが、反乱部隊というごく一部隊が反乱をしたときに、時の軍司令官は、東京におる近衛師団も第一師団も使えなかつた。使えなかつたということは、その指揮があぶないから、あれを使つて、はたして反乱軍が討伐できるかどうかという自信がなかつた。そこで仙台の二師団を電報で呼んで、あれが到達するまでは、反乱軍に自由に東京市中を歩かせておいた。あれほどの国軍がおつて、軍の規律が乱れないときでもそうです。今日のように日本中心がない時代に、少し団結した者が出て来てやれば、国権の中心たる政府機関を守る力はありませんよ。国会政府は守つてくれません。そうすれば、議員が集まつて、あとの内閣を組織しようなんといつても、だれも議員さん来はしませんよ。国会はあき家です。まごまごしよつたら、つかまつてしまう。そうすれば後継内閣はできやしませんよ。わが国現状はそうだと思うのです。政府は、特審局で相当共産党の地下組織などを手に入れられておるにかかわらず、これを発表しないから、国民は知らずにおる。あれを発表してごらんなさい。国民はびつくりしてしまう。今そういうことに対する国民の心構えができておらぬ。そういう状態で、警察予備隊論や憲法論なんかやつてつたつて、無用の議論です。いかにして日本国を守るかということが先決問題です。たいへんわきまえのない発言をするようでありますけれども、実情はこうなんです。そういうことを私は心配するのです。両院法規委員会の取扱われる問題ではありませんから、なおさら私の申し上げることはよけいなことのように思いますけれども、しかし私どもはこういうふうに見ておるんだということを申し上げることが、あるいは多少の御参考になるかと思うから、つけ加えて申したにすぎないのであります。
  31. 九鬼紋十郎

    参議院両院法規委員長九鬼紋十郎君) 今芦田先生から非常に熱意のある御意見を承つて、私どももその御意見には非常に賛成なんですが、そういう意味からいつて、両院法規委員会は国政に関していろいろ勧告するという職能を持つておるのでありますから、むしろそういつたことの実際の国防の程度、国防のいろいろな具体的なことについても、ある程度研究して、政府にこれを要望するといつたことは、私は非常に必要じやないかと思うのです。これも何か希望のような、意見のようなことになりますが、私はただいまの御意見を聞いて、そういうことを切実に感じたのです。
  32. 牧野寛索

    会長牧野寛索君) 大体質問もございませんので、これにて本日の会議は終りたいと存じます。  次会は公報をもつてお知らせいたします。     午後三時三十二分散会