○
参考人(
片山文彦君) 今日こうした
機会を持たせて頂きましたことを
マヌスに残ります二百三十四名に代りまして厚く
お礼を申上げます。
去る九月サンフランシスコにおける長年待望の
講和会議もめでたく終了し、やがてその批准も終れば、いよいよ
日本も独立の一国として輝かしい第一歩を世界平和のためへと踏み出して行くことになりました。それは
日本国民の
民主国家、
文化国家建設への努力に報いられた
最大のものであり、又あらゆる苦難を乗り超えた後にもたらされた
日本国民への、否、世界の平和を愛する人々にと
つての
最大の
喜びでありましよう。その今日を迎えられんがために日夜その労苦の限りをお盡し下さいました
皆様方に厚き
感謝の誠を捧げますと共に、お
喜びを申上げる次第でございます。
さて、このときに当り靜かに
振り返
つて見ますと、戰争以来今日まで数限りない民族の
悲劇が作られ、又繰返されて行きました。或る
意味において
講和條約調印はその
悲劇の終止符を打つたものと考えられます。併し悲しいかな、ここに残されるのは未だ終らざる
日本の
悲劇の現実の数々ではないでしようか。その幾つかの中には
引揚げという深刻な問題が
皆様方の御
盡力にもかかわらずまだ暗い影を残しております。ソ連、
中共地区の
俘虜抑留、
一般、邦人又
フイリピンや
マヌスに残る
戰犯三百有余のそれであります。その暗いかげに沈む
マヌス戰犯二百三十四名の
状況について
只今より御報告申上げ、又切々訴えるかれらの血を吐く
思いの何分かを御説明申上げたいのであります。
さて
マヌス島とは、南緯二度から三度、東経百四十七度、ニユーギニアと
ラバウルのあるニユーブリテン島を廃する
ダンピール海峡の北部に位する島であり、数多くの
小島がそのぐるりを取り囲んで、
アドミラルテイ諸島を形
作つております。その
マヌス島と大きな橋によ
つて結ばれている
小島の
一つ、それが
ロスネグロス島であり、現在
マヌス戰犯と呼ばれる
戰犯者二百三十四名が心淋しくあてなき帰国の日を待ちつつ、生ける屍としてその日その日を送
つているところであります。
では、ここに残る二百三十四名はどのような道を歩んで参つたものでありましよう。その大略をかいつまんで申上げます。今を去る六年前の八月、
日本の無
條件降伏に端を発する
ポツダム宣言の行使により、他の
地域と同様、
ラバウル、ニユギーニア、
モロタイ、
アンボン、
ボルネオ等の
濠軍占領地域においても、
戰犯という忌わしい名前が生れて参りました。
昭和二十年九月から続々
收容を開始された
戰犯容疑者は、やがて同年十二月から次々と各地で開廷された裁きの庭に立ち、非常に不利の
條件のまま
各人各様の
判決を受けたのであります。
では何で不利があつたかと申しますと、第一に法廷の用語は英語であり、被告は勿論
弁護人さえも意思の疏通を欠き、且つ又通訳の言い廻し方その他も非常に不自由且つ不利な点を招来したことでございます。簡單なその一例として、忠告という言葉を警告すると訳して問題に
なつたこともあります。第二に、告発された
事件の発生当時の四囲の情勢と、戰時中の特殊な感情、即ち
行為者の
心理状態というものが全然考慮されず、
戰況苛烈なる場合における諸行動に対する
戰場心理等を閑却視し、丁度火事場の
荷物搬出に当り、たまたま入口にいた俘虜に思わず衝突した際、前以て
注意を喚起しなかつたという責任を追及されるのと同じような裁判の数々も散見されたのであります。第三に、旧
日本軍の命令の絶対性が認められなかつたことであります。即ち旧
日本軍における命令は絶対の権威を持つものであ
つて、上官の命令により行われたるものは当然命令者の責任であるにかかわらず、濠軍は終始英法的解釈を堅持し、実行者自身をも処刑しておりますと共に、共犯理論の適用も又極めて厳しく、ただ單に現場に居合わせたことのみで━を受けたものも相当あります。第四に、━━━━━せる証言が数多く出され、それが採用されたことであります。例として、大きな━━━に三本水を呑ませたとか、━━━さかさまに吊したとか、全く被告が唖然としてしまうようなものもありました。第五に、
一般裁判に許されざる聞き伝えの━━をも採用されたこと、証拠を尊ぶ英法裁判の特性を思うとき、被告の不利を決定的にしてしまつたとも言えるでしよう。
一つの話も人から人へ伝わると、だんだん大きくなり、針小棒大化されたものとなります。第六に、法廷の審理が非常に早かつたことは、英語を介して行われる裁判と共に、弁護陳述の完璧を期することを全面的に妨げてしまつたのであります。第七に、弁護団の主力は、元陸海軍の参謀や、主計将校であり、これらの
かたがたが非常な御努力にもかかわらず、弁護団自身もその能力の点に苦しまねばならなかつたことであります。
要約すれば、裁判は一形式に過ぎず、━━的な意思が強く裁判を支配していたとも言えると思えます。こうした不利の
條件の下に行われた裁判の結果として幾人もの人々が、━━━━━━━、又数多くの人々も有期、無期の刑を受けなければなりませんでした。相沢、松島の両下士官は、台湾人六名と共に中国人俘虜を殺害したという理由で告発されたのでありますが、この台湾人六名は全く
事件に━━がなかつたのであります。法廷においてこの六名は無罪を主張したのでありますが、裁判の結果は全員━━の宣告だつたのであります。そうして数カ月後濠軍当局の確認により、これら被告
たちは人員の
都合上一日で全員処刑するわけに行かず、二回に分けられて━━を執行されることになり、相沢、松島の両下士官と、二名の台湾青年が先に━━━━━━━━━。併し━━━━━行く人々を救おうとする運動が効を奏し、遂に翌朝の━━を待
つていた残りの四名は、そのまま執行が無期延期となり、半年後の再審により無期刑を言渡されました。では━━を主張して、同じ
状況に、同じ
條件の下にあ
つて、先に処刑された二名の台湾青年はどうなるのでしよう。又福島という一青年がいますが、彼は同一
事件において第一日目に絞首刑、第二日目は、無罪、第三日目に又絞首刑を言渡され、後日当局の確認においては、幸いにも無罪の言渡しを受けたのであります。実に不思議な例と言わなければなりません。又軽部という主計曹長がいましたが、彼に対する告訴状を見た裁判長以下は、その余りも誇大な証言に思わず笑い出し、それで彼は無罪と
なつたのでありますが、陪席していた━━人少佐の抗議により更に又翌日喚び出されて、三カ年の刑を言渡されたのであります。この他、人間違いなどの例も次々と挙げて行けば、きりがありませんが、こうした二、三の例からも御賢明な
皆様方には大体の裁判の
状況は御判断願えると
思います。
そうして死刑を宣告された人々のうち、
モロタイにおいては、
昭和二十一年三月七日から同月末日にかけて十六名、
ラバウルにおいては同年三月二十日から翌二十二年十月二十九日にかけて九十六名、又
マヌスにおいては今年六月十一日に五名を加えて百十七名が相次いで刑場の露と空しく消えて行つたのであります。死刑の執行は大体朝七時頃から行われましたが、その
死刑囚に対する取扱いはどうだつたでしようか。
ラバウルで
最初に処刑された稻垣軍曹は処刑される朝最後の顔を洗いたいからと、水を━━━━━に頼んだのでありますが、その━━は返事の代りに彼を━━━のであります。このとき私はまだ
收容されていなかつたので現場は見ていませんが、このことを話しながら友達は皆泣いていました。又たとえ戰いには敗れても、軍人として裁判を受けた以上、
日本軍人らしい最後をと望むのも人情の常でありましよう。これら処刑された人々は皆さつぱりとした服装をして処刑場に連れられて行きましたが、その中の一人である後藤元海軍主計大尉は、他の人々と同様後手に手銃をかけられ、そうして━━━━━ジープに乗りましたが、一緒に乗り込んだ━━━━━は、なおその上に━━━━━━━━━━━━━━━━━。而もにつこり後藤大尉は我々に笑いかけてさえいました。それを見ていた私
たちの身にもな
つて下さい。否、当人である後藤大尉の
気持を考えて下さい。彼は二、三分後にはあの世の人とな
つてしまうのです。又去る六月十一日未明、
マヌスで行われた死刑の執行は、絞首刑を終つた後に、雨が降
つて火葬できなかつたという理由の下に、━━━━━━━━━。なぜ陸上にこれらの人々を埋葬することはできなかつたのでありましようか。この
マヌスで死刑を言渡された人々は、執行一カ月前まで長い人はおよそ一年間独房に監禁されたばかりか、娯楽も許されず、あの蚊の多い所で蚊帳も與えられず、半ズボンに
毛布だけで毎日を過されたのであります。九十六名の
かたがたの永遠に眠られる
ラバウル墓地は波打際のことではあり、やがてこれも海底に運ばれて行く運命を待ちながら、墓標もなく、又訪う人もなく、今は丈余の草に埋れていることでありましよう。だが、いろいろと苦しみは受けながらも、この人々は、につこり笑
つて逝かれたのであります。そうして口々に叫ばれたのは、日濠親善であり、
日本の民主的復興であり、又祈られたのは「諸人の罪を許せ」という神の言葉であり、残る人々には「人を憎むな」と教えられたのであります。又「戰争はあらゆる人を不幸にする。絶対に戰争は捨て去らなければならない」と幾度も幾度も繰り返されました。「こうして私の死によ
つて世界の人々が幾分でも慰められ、世界に平和が来るというなら、たとえ無実の罪にせよ、私はその人々のために喜んで死出の旅路につこう」とも申されていました。だが、その人々に我々は最後のお別れに頭を下げることも━━━━のであります。ジープで我々の眼前を刑場に運ばれる人々に対し我々が頭を下げたとき、我々はその場で━━━━━━━━━を課せられました。こうして今日は二人、明日は四人と悲痛な
思いで刑場に友を送りながら、残る有期、無期の
戰犯者たちの苦しい生活は繰り拡げられて行きました。死を寸前に控えた人々に対してさえ━━━━━加えられたのです。まして我々に対してはどうであつたか御想像下さい。━━━━━━我々は無我夢中に走り廻り、その日その日の自分
たちの生命をいつくしみつつ惡夢の世界に住んで来ました。成るほどそれは移り行く年月と共にだんだんと改善はされて来ましたが、我々は━━━━━━━━━の平和とか人道とかの文字の前に幾夜男泣きに泣かされたかわかりません。
二十一年二月にはニユーギニアから、同年五月には
モロタイから香港を除いた
濠洲関係戦犯者は
ラバウル戰犯收容所に送られ、
ラバウル戰犯と合し、その後即ち二十四年一月から三月にかけて
マヌスに移動した我々の許に、二十五年三月およそ九十名の容疑者が
巣鴨から送られて来ました。無罪や不起訴と
なつた人々、又満刑者はすべて
内地に送り返されていますが、現在なお二百三十四名が残
つています。刑期別人員数は次の通りになります。一年が一名、二年が三名、三年が四名、四年が一名、五年が九名、六年が十四名、七年が十八名、八年が四名、九年が一名、十年が六十三名、十二年が六名、十四年が三名、十五年が六十二名、十八年が一名、二十年が二十八名、二十五年が二名、無期が二十四名、即ち十年以上の長期刑が百八十九名で、その大半を占め、九年以下は四十五名とな
つています。
ラバウルでは、原木伐採や穴掘り、山崩し、トロキナでは爆彈作業で尊い七名の生命を失い、二十名に余る負傷者を出しました。そうして病気や━━━の手術の失敗により二名の患者が死んでおります。又現実と理想のギヤツプに堪えかねて、みずからその生命を絶つた人も数人います。その
人たちが死に際して残した「一粒の麦とならん」という言葉は、いつに
なつたら実現されるのでしようか。
又取扱が昔に比べて緩和された今日にな
つて漸く我々の目の前に目立
つて来たことは、過去の疲労から来た体力の低下であります。とにかく犠牲者を出すほどの激しい作業の連続はどんどんと知らず知らずの間に健康を蝕んでいたのでした。それは気候、給與にも関連を持
つています。熱と光と緑の洪水と言えば、それは成るほど素晴らしい詩もできそうな椰子の島とも思われるかも知れません。併し今、
日本の店先に並んでいる戰時に勝る豊富な品物を見ても、それを思うように買えない人のほうが多いことと同様に、表には必ず裏があります。
マヌスの熱さ、それはおよそ
内地の夏等とは比べようもない激しさであります。何もしないで炎下天に立
つておるだけでも汗は勿論腋下から冷たい汗がたらたらと流れる苦しさであります。又、
マヌスは珊瑚礁でできた島に故に、砂が真白く、従
つてその照り返しもひどいわけで、炎天下で作業する人々は眼を傷め、白眼がだんだんと黒眼に入り込み、白と黒の境界がぼやけて来ています。天候も極めて不順で、昨年の五月から十月にかけては大旱魃と
なつたのに、今年は逆に雨が多いというふうに、余り季節風の恩恵には浴しておりません。昨年の大旱魃のときは、海浜の井戸水を使用したため、大半が猛烈な下痢に見舞われ、塩分も非常に多かつたので、ほとほと閉口したこともあります。併し夜は相当に冷え、晝間の疲れを若干いやしてはくれますが、これが却
つて寝冷え等となり病気の原因を
作つています。そうして給與といえば、米七十七・八匁、メリンケ粉三十七匁、ビスケツト又はパン五十匁、
罐詰野菜四十三匁、乾燥馬鈴薯十五匁、乾燥玉葱三・七匁、内と
野菜の
罐詰二十四匁、茶一・〇八匁、食用油三・七匁、乾燥果物三・七匁、乾燥グリンピース三・七匁、砂糖三・七匁、塩三・二四匁、カレー粉〇・一五匁とな
つており、カロリー計算で行くと大体二千四百カロリーで、いいようでありますが、熱地において朝八時から午後四時半まで(二十五年二月末までは午前七時から午後四時半まで)重作業に従事するからには、これでは明らかに不足であります。而も五年半同じものを食べて見て下さい。炎天下の作業を終
つて帰
つて来て、あの火力乾燥した米特有の嫌な臭いや
罐詰コンビーフの臭いを嗅ぐと、胸がむつとして来てなかなか箸が付けられません。腹が減
つているので無理矢理口に押込みはしますが、その米も或る時は粉米であり、以前にはホイートミールを米の代りに砂糖なしで食べさせられたりしたこともあります。こうして病気のため重作業ができない人がいつも三名つきつきりで朝から晩まで米篩いしなければならないほど籾が多いのです。現在パンの代りにメリケン粉が配給されていますが、それにイーストを全然くれず、僅か十二人の炊事員は食事の配給や炊事で、それでなくても手一ぱいであるのに、うどん打ち、団子作りに休む間もなく働かされております。又僅か〇・一五匁のカレー粉、三・七匁の砂糖、三・二四匁の塩、三・七匁の油だけでどうして調味ができるでしよう。以前、日赤を通して乾燥味噌や醤油を送
つて頂き非常に助か
つていましたが、現在はなくな
つており、これが補給を要望しておりますが、その実現にはなかなかの難関があります。又生
野菜は老人組が作られる農園で取れますが、この生産量は毎日秤で計られ、一定量を越すと
野菜罐詰が減らされるので、問題はなかなかデリケートであります。又生果物については、やはり農園で取れるパパイヤという果物、丁度
日本の瓜くらいで柿のような味がしますが、それが五週間に一回、四分の一切れ渡るだけであります。肥料は全然支給されませんから、それでなくても瘠せている土地で農園作業も非常な
苦労を重ねています。およそチーズ、バター、砂糖、ミルクとなると、所詮高嶺の花に過ぎません。こうしたことなどが体力をどんどんと低下させて行きます。体重も皆一貫五百匁から二貫くらいの平均で減
つて来ております。私も
收容されてから四貫減り、
内地へ帰
つて僅か一カ月足らずの今日二貫を取返しております。
それに伴
つて殖えるのは病人であります。肺結核患者はすでに八名が隔離されております。隔離とい
つても
一般宿舎の隣り合せに過ぎません。そうしてなお他に若干名結核の症状を呈しており、嚴密な検査を行えば、なお相当数の患者がいるかも知れません。集団的な結核の発生する危險性は多分にあります。次に多いのは、腎臓結石で、神経痛や脚気の患者も相当な数に上ります。こうした患者がこの一年間に急に殖えて来たことを見逃してはならないと考えます。又爪の色にしても栄養の
関係からか殆んどが黒い「くま」を
作つております。毎朝濠海軍軍医が来て━━な診断を行いますが、本当に惡くならないと休めないし、大なり小なりいつも怪我人はあるのですが、松葉杖をつきながらも仕事に駆り出されて行きます。私の帰る直前、本年十月初め交代した軍医は聽診器を使
つて診断していましたが、それまでも他の軍医同様、刑期は何年か、どこの俘虜収容所に勤務したか等と━━━━━━━━━━━━━━━━━作業に行け、ただそれだけであります。
又患者の中には重態の人もいます。これら重症患者の早期送還については、現地でいろいろ
嘆願もしていますが、まだ実現の運びにまで行
つておりません。作業中負傷してびつこをひきながら仕事をしている人々の減刑等についても随分
嘆願したりしましたが、━━━━━━━━。こうして今後なお長期に亘り
マヌスで服役せねばならんとすれば、誠に憂慮に堪えない事態を生ずるに至るのでありましよう。又そこに鉄柵の中に住む人間の苦悩も加わ
つて来ます。どんな生活の中にあ
つても、人間である限りその生活に意義を裏付けようと努力します。だが意義を発見することは哲人ででもない限りなかなか困難なものであります。又━━━━━の前にあやつり人形のごとく動くのも、みずからを顧みて哀れさというものをしみじみと感ぜられます。その悩みを一時的にでも癒やしてくれるものに通信がありますが、それも思うようにはなりません。六週間に一回の封書便、一カ月一通の往復はがきを出すことは許されていますが、受取るにも制限があり、一カ月一通のみとな
つておりますので、若し
内地からの通信が規定の一通よりも多いときは、
マヌスに残る
戰犯者が呼出され「お前のところには
手紙が来過ぎる」という
注意を受ける有様であります。あの生活で楽しみといえば、寢ることと、
なつかしい故郷の香りを運んでくれる
便りを受取ることのみであります。その
手紙も往復に早くて半年、遅ければ一年以上もかかる
状況であります。通信が思うようにできないことは又
家庭的な
悲劇を数多く作ることにもなります。それが精神的に如何なる打撃を與えるか、問題はますます深刻であります。又
日本から離れたくないという強い郷愁の現れとして一例を挙げれば、夜、
マヌスでは八時から十五分間だけ
日本からのニユースが聞けますが、このニユースの時間になると、柵外から引かれたスピーカーにかじり付くようにして皆一斉に耳をそばだてています。又とない
喜びの
一つであり、楽みであり、これが
日本と繋がる心のよりどころでもあるわけです。毎夕と日曜は娯楽が許されていますが、昔よくやつた野球も体力の低下と共にその影をひそめ、今はジヤンプもきかないため、ネツトをうんと低くして先に日赤からお送りを頂いたバレーボールで遊んでいます。「心のうさの捨てどころ」ふとそんな文句が口をついて出ます。又隔週日曜に二時間ほど漁撈が娯楽として許されていますが、そのとき取れた一、二寸の雑魚が三、四匹各人の夕食の膳に供せられるわけです。それが唯一の生肉として皆を楽しませているのですが、如何にも淋しい限りです。
こうした生活の中では、ときどき小さな事故、規則違反な
ども起きます。違反に対する処罰、これは当然受けなければならないのでありますが、昔は独房に入れ、一食五枚のビスケツト、一皿の水、
一つまみの塩で、日中は一輪車に石を山のように積ませ、駈足でうしろから━━━━━━━━━━重労働をさせられ、而も夜入つた独房には、
毛布一枚もなく、コンクリートの床に下駄を枕に寝させられたりしたこともありました。作業員の監視に当
つている下士官や原住民
どもから━━の告訴をされる場合も往々にあり、いくらこちらが抗弁しても、結局は処罰され泣き寝入りとな
つてしまいます。又━━━━━━━━代表が所長に
面会して改善方を
嘆願しようとしたところ━━━━━━━━こともあります。とにかく赤十字から送られた品物にしたところで、
戰犯者の自由にならないどころか、いつの間にか消えてなくな
つているということさえあります。
收容所の視察も
濠洲当局者以外にはなく、赤十字、YMCA等の宗教
関係も全然タツチできない
状況で、今海軍警備隊の宣教師も来ていますが、我々は各自に抱く悩みも訴えることはできず、ただ聖書の講義を聞くだけであります。
講和條約調印の終る
ちよつと前まで、
講和の終るまでは
日本は敵国であるといつも聞かされていました。終戰以来六年にもなるのにと我々はいつもいやな
思いでその言葉を繰返し聞いていました。
こうして過去六カ年間、荊の道をただ忍辱の文字そのままに歩いて来た
マヌス戦犯者が今日までとにかく堪えて来られたのは、何かの理由がなければなりません。それは
日本に帰る、いつか母の国に帰れるという唯
一つの夢を抱いていたからなのであります。その夢をかけていたものそれが
講和会議であります。歯を喰いしばりあらゆる試練と戦いながら生きて来ました。
講和の日までその日までと夢見ながら……。その待望の日もや
つて来ました。だがラジオにかじりついて聞いていた彼らの期待は空しいものに過ぎませんでした。今も私の目の前にありありと浮びます。失望、絶望、又悲しみのどん底に我々は忘れられてしまつたのかと、ベツトに転がつたまま語ることさえも忘れて、うつろな瞳を天井に向けていた彼らの忘れたように吐き出す吐息が三つ二つ、すでに五月に刑を終えて
帰りの便船を待
つている私の胸を八裂きにされたような苦しい
思いをしました。せめて一声でもかけてくれたら私は救われたでしように、だが、その場合私は何と答えることができたでしよう。それだけ、それだけ彼らの期待は大きかつたのです。
内地服役の夢、それは
講和にかけられた彼らの唯一の
希望であつたのです。「我々が事故を起してはいけない、若し我々が
濠洲人と対立すれば、それだけ強く
濠洲の神経を刺戟して対日
講和條約も苛酷なものとなるだろう。
日本に絶対に迷惑をかけるな。」と互いに誓つた言葉も、自分が
日本国民であるという自覚の下に立つ祖国愛のほかの何ものでもありませんでした。我々と
日本は密接に繋か
つていると信じて、言いたいことも言わず、その日その日を送
つて来たのですが……。そうして我々の
気持は又必ず反映されて同胞愛によ
つて我々もきつと救われると信じていたのでした、それが利己的だと笑われるでしようか。せめて
講和によ
つて我々の
内地服役もきますのだとの望みをかけた我々は、余りにも自己本位だつたのでしようか。ふるさとの土の香りを忘れて幾とせ、それは募るノスタルジアと共にどん底に喘ぐ人間の訴えなのであります。
私は帰国して
皆様がたの御
盡力やいろいろの
事情も見聞きして、心から
感謝も捧げ、又納得も行きました。併し私にはまだ大きな不安が残
つています。それは
マヌスに残る一日はおろか一時間の恩赦や減刑もない二百三十四名の悲しみであります。私は切に
お願いしたいのです。彼等が自暴自棄に陷る前に彼らを救
つてや
つて頂きたいのです。彼らはまだ
希望を捨ててはいません。まだ理性は持
つています。どうか一日も早く彼らに
内地服役の
朗報を與えてや
つて下さい。それには大きな障害が幾つもあるでありましよう。去る十月我々の
收容所を視察した
濠洲総督代理も「
濠洲の輿論がまだお前
たちを帰すまでに至
つてないので、お前
たちの
内地役役はまだ実現されていないのだ」と言
つていますし、
濠洲陸軍や婦人団体の対日感情が特に惡いこともこの問題の解決をむづかしくています。人道的
立場から批判や要求も却
つて━━━━心配が多分にあり、なかなかたやすくは解決されないでありましよう。
併し中国、仏印、ジヤワ、シンガポール、ビルマ、香港等各地の
服役者はすでに早くから
巣鴨に到着しており、今なお外地にとり残されているのは、
マヌスと
フイリピンだけでありますので、その引揚については特に
皆様がたの更に一層の御
盡力を伏して
お願い申上げたいのであります。
なお、現在先に満刑して
マヌスから
日本に帰
つている台湾青年三名が広島と舞鶴にいますが、第三国人の取扱に関する規定によ
つて台湾に帰ることも手続の
関係上早急には行かず、現在の生活
状態も面白くないと訴えております。復員局では非常にお骨折頂いておりますが、
皆様がたの御力添えを
お願い申上げたいと
思います。
マヌス、それは国民には縁遠い名前のようです。「
マヌスとはシベリアの何処でしよう」有識者のこの御質問に私は上陸の第一歩をいやというほど打ちのめされてしまいました。悲しいかな、これは事実であり、一部の人々を除いては、
マヌスとは忘れられているというより、常識の外にある島の名前なのでもありましよう。余りの悲しさに私は涙も出ませんでした。だが併し、私は今こうして
皆様がたの温かな御同情と御支援のもとに
マヌスの
状況を御説明申上げる
機会を與えて頂いております。先日この
機会を
皆様方が特にお與え下さいましたと聞いたとき、私は自分の部屋に帰
つて泣いたのであります。若し
マヌスに残る一同にこのことを伝えましたならば、彼らも泣いて
喜び、涙を流して
皆様の御厚情に御礼を申上げるでありましよう。今まで
マヌスで満刑者を送る言葉は、元気でな、幸福になれよ、早くいいパパになるんだな」というのが友の帰還を祝うきまり文句でしたが、今度私
たちの帰るに当
つては、私
たちの腕にすがりついて、ただ「頼む頼む」と繰返していただけでした。その真剣な彼らの瞳を私は片時も忘れることはできません。どうか切々たる彼等の
思いをお聞き届け下さいまして、又
内地でいとしい我が子の
帰り来る日を競る年老いた父母、懐しい夫をひたすら待つ妻、又やさしい父を待つ子らのほそぼそと暮しながらも待つ
思いにも御同情下さいまして、一日も早く、彼らが
内地服役できますよう御
盡力下さらんことを切に切に御願い申上げます。
誠に思うことの何分の一も言い現わせませんで、
皆様にもおわかりにくかつたと存じますけれ
ども、大体こういうふうな
事情が
マヌスの現状であります。どうも失礼いたしました。