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山本勇造君 いやそれは非常に残念です。それはすぐに実は聞きたか
つた。そのときにおきまして君のほうからその数字が出るだろうと
思つて実は延ばしていたのですがね。僕はその数字は実は聞けるかと
思つていた。併し、なければ仕方がありませんが、成るべく早く
一つそれを出して頂きたいと私は思います。それから私がこれを
言つているのは、一方で
漢文をやると、東洋思想に触れてそうしてバツク・ボーンが入るというような説がありますが、私は何と言いますか東洋思想を拒否しているわけでも何でもなくて、ただ
漢文というものが徳川時代における
漢文の位置とそれから今日における
漢文の位置というものは、
漢文の何と言いますか、つまり価値が違うのですね。徳川時代におきましては今のような
社会科があるとか、哲学があるとかいうことはないのですから、
漢文をやること、そのことによ
つて、こうしたうちに
漢文も学んだ、東洋思想も学んだ、東洋哲学も学んだし、東洋歴史も学んだし、或いは文学も学んだ。
漢文をやることで幾つもの
方面をやれた。ところが現在になりますと、一方においては哲学であれば東洋思想の純粋なものをやるところがちやんとできておるのですし、それから又東洋史のこともちやんとできておるのでありまして、
漢文だけをやるということが徳川時代におけるような
漢文のあれとは大分
意味が違
つて来ております。その
意味で
漢文というものを或る種の人が大変尊重するのは、それは徳川時代の
考え方の
漢文尊重の仕方で、現在の
漢文は大分違えて
考えなければならないと思うのですが、それらの点もあなた
がたのほうで、どうもいろいろ押されているところもあるので、少しあなたのほうがそれのほうにかたよ
つた嫌いがありはしないかと思うので、これはよほど今度の
審議会で
考えてもらわなければならんと私は思うのです。何か話が非常に固く
なつたから、
ちよつと
言葉の問題でエピソードを
一つ申上げたいと思います。柳沢淇園の書いたものの中に「無学の人」というのがある。無学の人が或る学者のところに行
つて、我々は如何にしたら自分たちが世の中を渡
つて行くのにいいだろうかという話を聞いた。ところがその学者がそれはもう世の中を渡るには堪忍の二字に限るのだとおつしや
つた。そうしたところがその無学と言われる者が、はあそうですが、堪忍、「かんにん」の四字ですね、とこの聞いたのです。「かんにん」の四字じやない。堪え忍ぶという二字だ。「たえしのぶ」というと五字になるじやありませんか。お前はどこまでわからんやつだ。そうものがわからなくてはあれだと
言つて非常に無学の人を怒りつけたとい
う話であります。そうしたらその片一方の怒られた人が、いや私は
先生にどれだけ怒られましても、「かんにん」の四字で以て辛抱をいたしますという話が出ておるのですね。そうして柳沢淇園はどうもこの男はなかなか知恵があるが、併しその愚や及ぶべからずと
言つて、堪忍の二字がわからないというので、これは漢学者ですから悪口を
言つているのですが、併し実際からい
つて堪忍というのは仮名で四字で覚えようが、
漢字で二字で覚えようが本当に堪忍するということが一番大事なんで、どうも
漢字を覚えなければ本当のことはわからないのだという僕は間違いがこの柳沢淇園あたりでさえもや
つている。尤もこの人は柳里恭なんて自分のことを
言つているのですから相当
漢文気違いの人だと思いますが、
現実の問題としては
漢字で覚えようが、仮名で覚えようが本当に堪忍なら堪忍ということが会得できることが大切な点で、それは
漢字で覚えることが大切な点じやないと思います。そういう
意味から言いましても、余りにあなたのほうあたりが、
審議会に諮
つて出されたのなら仕方がないけれども、諮らずにこういうふうなものを出して望ましいということは、私は実は望ましくないのです。ほかに私もう
一つこの
入学試験の問題が後にあるのでこれを聞きたいのですけれども、この問題は又別になりますから、ほかのかたの御発言もあるだろうと思いますから、この問題はいま暫く……。