○勢増人(福島正義君) 私は戸山
高等学校の福島であります。浅学な身にかかわらず本日ここに
意見を述べる機会を與えられたことは身の光栄とするところであります。
顧みますと、昭和二十年八月十五日
我が国未曾有の事件である終戰以来、
漢文は文部当局の暴挙とも言いますか、
漢文は廃止ということにまで直面しまして、遂に私
ども教員の微々たる信念はあ
つても、微々たる力では駄目であるから、遂に憲法の第十六條、国会法第九章に基いて、参議院議員にその頃田中耕太郎先生初めほか数名の実に了解ある、理解あるかたがたがたくさんおられたので、参議院に請願してはどうかという多くの要望がありましたので、参議院に請願をさせて頂きました。ところが幸いにして三月一日受付が完了しまして、五月に
文部委員会で満場一致これが可決されまして、そのときの矢野酉雄紹介議員が大きなる喜びを以て電報をくれたのであります。更に七月一日遂に参議院の本
会議で請願が採択されたことは事実でありまして、それは国会の図書館の中にあります公文書綴りの中に調査室長が保管してありますから、それを
御覧になれば明瞭であります。
かくして参議院の理解ある議員のかたがたによ
つて亡び行かんとする我が
漢文の維持されたことは、誠に感謝に堪えないのでありまして、当時の請願者代表である私としましては厚く感謝を捧ぐるものであります。本日ここに更に念を押すためか知りませんが、
参考人として
意見を求めると、こういう有難いお志でありますが、実はこの請願の代表の中には、この方面の
世界的に聞えた東大の某
教授もおられますが、然るにそのかたが今日の
参考人でないことは残念であり、又請願者の一人で
国語、
漢文の
関連性においては恐らく
日本で最高のかたであると私が
考えている山岸
教授もここに出席願いたいと思
つてお
つたが、これも駄目でありまして、その他言語学方面と
漢文の権威である松井
教授、宗
教授、
漢文方面で吉井
教授というような先生が皆推薦はしておりましたが、私のような浅学な者が一人選ばれたために非常に責任を感じます。見るところによると、
漢文のほうは一、二人を除くほかないようでありまして、私は学問は浅いから申しませんが、私の申上げられることは、実地に
漢文授業を担当しており、而も日夜精魂を打込んで確乎たる信念を持
つて、
高等学校の
教育に携わ
つているところの一人として、信念を以て私は披瀝したいと思うわけであります。
即ち結論を申上げますならば、
漢文教育の必要性、絶対に必要であるという不可欠の信念を、欠くべからざる信念を私は持
つているわけであります。然らばどんな工合で過去においてあ
つたかということは、御
承知のごとく
高等学校における
漢文の学習は、選択のほかに
必修国語の中において行うようにな
つておりますが、
只今西尾
国語研究所長の御
意見の
通りでありますが、ただ併しここに至るまでは五カ年間苦鬪して、もう教師の力ではいかん、
文化団体の力でもいかん。
国語審議会に訴えても
ローマ字や仮名
文字ばかりや
つているところに持
つて行
つても絶対に受付けない。かかるゆえんを以て苦圖しましたが、数回国会に請願しまして、採択はあ
つても明示されなか
つたが、一昨年八月三十日、今の西尾
国語研究所長を中心としまして、
国語漢文界の懇談及び進駐軍の了解、こういうもので漸やく
漢文は
日本の
古典である、
日本の
国語は
古典を含む、故に
漢文は
必修で修めることができる。簡單に申しますと、三段論法で示して、
国語の中に
漢文を加えることができることとなりまして、先頃できました
国語指導要領の中に、
高等学校における
国語というところの中にはつきりと出ているのであります。
漢文体の
文章は元は漢民族の書き
言葉であ
つたが、
訓読された
漢文体の
文章は我が
古典の中に入る。故に
漢文は
国語科の中において学ばなければならない。これが
文部省の指導要領の第一條による
漢文学習の範囲であります。その
意味におきまして先ほど誰か言
つておりましたプリントででもやれというのはおかしいと思う。
文部省の主義に則
つた国語指導要領が徹底していないから、
全国の指
導主事会議において普及徹底せしめることは
文部省としては当然のことでなければならないのでありますから、先ほど誰かが言われたのは誤まりであるということをちよつと附け加えておきます。
かくして
必修国語の中における
漢文については時間数も明示されていない。実際には
必修として実施されていない。何故かというと実際多方面における
必修国語の三時間の中において
漢文の実習を行うことの不可能であるということは誰でも肯定するところと存じます。
かくのごとく実習ができないような状態においてこれを学習させようということが、すでに名前だけ
必修ということを與えておきながら実を奪
つているのであります。この点が甚だ遺憾の点であ
つて、西尾さんと同じでありまして、もうすでに
必修の中に入
つているのであります。然るにジヤーナリストの「さくら」か知れませんが、新たに復活するかのごとき
言葉が出されておりまして、私
ども六カ年間この中に没頭していたような者はおかしくてしようがない。忿懣さえ感ずる。今までなか
つたのじやない、あ
つたのだ。復興したのではない、あ
つたのだ。それを三時間では足らないから五時間に殖やして頂きたい、こういうことが……。その中において
漢文の学習ができるように時間数を明示してもらいたい、そういうことが請願の目的であ
つて、なか
つたものを復活するのだと、紀元節の復活と結付けるというのは以てのほかでありまして、紀元節のことが起る五年も六年も前からこれはや
つたのです。だから御了解行くと思います。
余り脱線すると
趣旨を失いますから、この辺で本論へ戻りますが、甚だ脱線するものでありますから……。然らば若しこれを現在のごとく
必修の名ばかりで、その学習が行われぬようなことを続けられるならば、永遠不滅の価値を有するところの
東洋の
古典、特に
日本の過去の
文化を、小
学校から大学に至るまでの
学校の
教育で、どの過程において一体授けることができるのか、私は甚だこれは残念だと思うが、これはどこにもない。特に
高等学校においては、
精神発達の過程においても将来の
日本の新
文化建設の中心となる人物の育成、こういう立派な大事な位置を占める
高等学校である。年齢の上から言えば少年期から青年期に移る時期、
人間というものに対するいろいろの問題を真劍に
考えるときであります。陶冶力最も旺盛な
精神のときであります。
高等学校に真劍なものを與えることが最も肝要なことでありまして、なかんずく
国語や
漢文はその大きなものを負担しておると思います。かるが故に、
漢文をなくしてしま
つてどういう弊害が起されたかという簡單な例を述べますると、
東洋及び
我が国の
古典や
文化に盲目になりつつある、こういう危險がある。
国語の全面的理解の欠如、一例を挙げますならば、あの「三五夜中新月色二千里外故人心」というあの深い詩味がわからずしては源氏物語の中の「一千里外の心地こそすれ」の文句の
意味もわからないのであります。こういう不可欠のものを知らない、これ以上例を言うのはやめますが、
読解力、
表現力の低下、これは就職試験においても誤字がおびただしく、
文章又体をなさず、試験
委員をして唖然たらしめている。履歴書も書けない、手紙も満足に書けない者が就職戰線に殺到しておることは御
承知の
通りであります。或いは他の教科学習上の困難の増大、これは
都立園芸の例を申上げますると、植物の名前も読めない、肥料の名前も読めない、そうしてただ
国語の程度を上げよ、上げよ、と言われる、
国語の教師は何をや
つている、植物の名前も読めないではないか。こういう非難の声は、ここのところ
漢文の教師の中に押込まれている状態であります。かるが故に、三時間の中で強制的に
一つをやる、自然の要求として一時間は
漢文をや
つてもらいたい、こう
都立園芸、各実業
学校においてこういうことを言
つておる。その他電気、
機械、化学、工業、皆この
言葉なくしてはできないのであります。それがないために学習上に、他の学科の学習上に重大なる困難を来しておる、こういうことが言えるのは事実であります。
東洋史学の大家である有高巖氏が請願者の中におる、
漢文の理解なくしては
東洋史の勉強はゼロである。かかる信念を持
つて請願者一万三千人の中の一人に加わられたのはそのゆえんであると
考えます。
漢文は
人間形成の
基盤的
要素として、古人或いは先人先哲が身を以て綴
つた尊い人生体験の記録として、
漢文はこの上もないこよなき指針である。これを強制するのではなく、自然の
自覚の下に先哲はこう
考えた、
かくのごとき資料が何ものもない、
基盤的栄養という
言葉が一番よく当てはまるわけでありますが、それを失
つておる青年にと
つて、大学進学に大なる支障を来しておる。進学した場合においては、
漢文を全くやらない者が入
つて来ておるために、哲学も、倫理も、宗教も、経済、法律、一切このような字間においては殆んどの学生は大なる困難に直面しておるのであります。而も文科系統ではなお更であるが、理科系統にも影響を及ぼしておる。確実な例を申しますと、
学校の名もはつきり申上げますが、早稻田の工科方面においても
必修学科として入学後二カ年は必ず修めなければならんということが
教授会満場一致で本年の二月に通過したことは事実であります。これは何を物語るかは私は説明を省きます。
かくのごとく大なる価値を持
つておる
漢文をゼロにすることは甚だ不可解至極のことである。次に選択
漢文について申上げます。過去における当局の
漢文軽視、
漢文を侮るところの施策に
禍いされて
学校によ
つては全然設けてない所があります。生徒の
漢文の学習が甚だ阻害されておる。そのために選択を選ぶものは極めて
少数なものだから、
東洋古典乃至は
日本の
古典に全く触れる機会がなくして卒業してしまう者が多いのであります。これは如何に当局が
漢文を軽視されたかという例で、その例を挙げようと思えばたくさんありますが、そのうち
一つ二つ重大なものを簡單に申上げます。図画、工作、音楽、体操、
漢文を合わせて二十單位を超えるを得ずというのは、他の重要なる学科がおろそかになる、
漢文、図画は軽んじてよい学科であるということが
文部省の通牒によ
つて数年前出されたことは事実で、ここに証拠物件があるのであります。
かくのごとき
文部省の通牒が金科玉條として地方では受取られる。軽んじてよい、他の重要な学科がおろそかになる。如何に修めようとしても二十單位をはみ出ることはできない。入学しても
学校の教務主任がお前たちは芸能科を捨てなくちやならん、こうして図画、工作をやりたいが
漢文を入れて合計二十單位だけであると言う。こういう通牒が出たことは否定できない。それから入学試験を見るならば、
漢文は含まず、いつの間に出たか知りませんが、
漢文を含まず、選択科目であるから。併し英語は随意選択である、絶対に修めないでも卒業できる制度でありながら、入学試験においては官公私立を問わず全
学校が
必修としてや
つておりますから、名目は選択の名前を借りておりますが、十五單位以上を修めておるのは、
全国統計の九五%であります。
かくのごとき有様でありますが、一体何がために
漢文に限り入学試験に出すことができないか、数学は何か、数学は法規においてはた
つた一科目あれば卒業できる。あとは随意選択、ところが入学試験では二科目を要求しておるから、全生徒は数学々々でやらなければならん。理科も生物だけならば生物だけを修めればいいが、あとは選択であるのに、入学試験においては二科目は出されておる故に、生徒は理科だ理科だと言
つておる。本家の
国語はどうであるか、魂を築き、
国民の中核をなして行くべき本家であると言
つても差支ない。それが軽んじられて三時間。私はマツク・マラン氏にも会いましたが、彼は私の尊敬する一人の学者でありますが、その
人たちは実に驚いているのであります。よく私は訪問しまして、
イギリスのあのギリシヤ、ラテンの香り高き品格の高い本当のスポーツマンのような堂々たる
教授に接して、私は
漢文の
全国大会にも講演をお願い申上げまして
教育大学の講堂において堂々たる演説をしてもら
つておる。その方が
古典を尊重せよと言われておる。外国人が
かくのごときことを言
つておるのであります。あとは御質問に応じて答えますが、
かくのごとき状態であります。
次に
漢文学習の
内容について申上げますが、現行の
漢文教科書は、その教材の
内容においても、
内容は今
衆議院の文部
委員室に山と積んでありますから
御覧になればわかるが、どこに封建制度の
文字があるか、どこに自由を束縛する文句があるか、学習
方法についても、戰前におけるがごときものとは町趣きを全く一新しております。
我が国古来の
文化の現状を明らかにするために、その
国語の理解を助け、
人間育成の上において
役立つものとして要望しておるのであ
つて、
漢文の
教育が
時代逆行であり、
時代と相容れざるものであるという
考え方は、認識不足も甚だしく、現行の
漢文教育の
内容を知らないものの痴言であると言
つても差支ない。或いはそうでければ曲学阿世の徒によ
つて歪められたままのもの、利用された或いは何とか軍閥によ
つて運用された
禍いだけを強調するものと信ずるのであります。
漢文教育のめざすところは、決して世上に誤解されておるようなものではない。片一方に偏したものでなく、又復古でもない。新
時代に処するあの正しい
教育に立
つておるということを認識して頂きたいのであります。
又
漢文の学習の
方法につきましても、新らしい学習
方法を考慮し、成るべく平易に、成るべく興味深く、学習のできる
方法をと
つておりまするので、その困難、負担という点は世上に噂されておるようなものでは全くありません。他の学科も同様と存じますが、要は指導の仕方
一つであります。
教育者の信念に基く立派な指導法如何によ
つて生れるのであります。むしろ学習意欲に燃え、新しい
知識を求めようとする段階にある青年たちは、却
つて興味こそあれ、決してこれを厭うものではありません。これを具体的に例をとりますならば、
教育大学の附属中学、附属高校に例をと
つてもわかりますが、大木、尾関氏あたりが熱心に指導法の研究をして、如何に興味ある学習をやるか、実力をつけるかという研究をしておる。その研究の現れがありますが、ここにおいては省きます。嬉々として生徒は喜んでこれをや
つておる姿が躍如としております。本件はたくさんあります。又江北、北園の
高等学校におきましても如何に面白くや
つておるか、私はこの間ラジオを聞きまして、女子の生徒もやりたいというような要求があることを聞きました。又
全国大会において私は身を以て
漢文を如何に面白く学習されておるかということを現実に見て頂きたいために司馬遷の講義をさせたりしました。更に血となり肉となるように生徒に創作をやらせまして、非常にまあおこがましい話ですが、各方面から絶賛の手紙を頂きました。こんな
漢文教育でも
人間陶冶として文学の鑑賞において、
人間の
形成における深い
東洋的な司馬遷のような何千年かに一人しか出ないであろうところの立派な
考えを持
つた内にひそむものをおのずから生徒の度に応じてできるのだと、こうした大きなことも私は発表したことがあります。或いは選択が少いからと言
つて、ないからと
言つて漢文の学習が喜ばれてないというようなことは断定できないのであります。その例を更に
教育大学の附属高校にとりまするならば、全く一年生でや
つておらないときに二年に上るときに選択を選ばせたら三十名しかありません。然るに一年生で
必修としてやらし、二年に上るときに選択を自由にとらしたら三倍半にな
つておる事実もあります。
かくのごとくして課さないでお
つて。わからないで厭が
つておる、厭だと言
つておるのはこれは絶対によろしくないことであります。その他ほかの
学校に例をとりますと、選択が実に多過ぎて、一年は
学校長の裁量によりまして云々というあの條項を用いまして、五時間
必修にして
漢文を
必修の中にやらしてもら
つておりますが、二年に上るときに選択者が多過ぎて四百名中三百八十五名という選択者でどうにも困るだけのものであります。昨年は抽籤によ
つて半減しましたから、非常に父兄のお叱りを受けました。ここにも私の父兄が一人おられますからそれは事実であります。このようなもので決して厭が
つてはいない、先ず與えてみる必要があります。正しい指導によ
つて指導するならば必ずや生徒の学習意欲を起し、その効果を挙げることは絶対的であります。
漢文の学習とはむずかしい
漢字、漢語があるから新らしい
国語教育と相反するというのが反対側の御
意見のように承わります。又本日も伺
つたのでありますが、読みがなを多くふり、或いは
解釈を項中に加えたりして煩わしさを避けるようにし、又読む
言葉と話す
言葉とは別個のものでありまして、
漢文を学習したからと言
つてむずかしい
漢字、漢語を使用するという結果に必ずなるとは言えないのであります。却
つて語彙を豊富にするものであります。このことは
国語の
古典についても言えるのでありまして、古代の
言葉を学習したからと言
つて、日常の
言葉に古代の
言葉は使用されないと同様であります。徒然草を習
つたからと言
つて、明日から何々こそあんぬれと言う生徒がどこにありましようか。こうしたことは従
つて漢文の
言葉や古代の
言葉は古語であり、死んだ
言葉もありましようが、漢語はむしろ
現代日常の
言葉として生きておるのであります。これは私
どもがハルパン氏らに会見しましたところ、ギリシヤの
古典は死語であるが、
日本の
漢文は生きておる。二千何百年前の孔子の
言葉はそのまま今日に使えるのであります。これは日常用いる
言葉や
新聞の記事を
御覧になりましたならば、その漢語の今日の生命というものは明らかにわかると思います。
現代国語を撹乱するというようなことは心配はないという確乎たる論拠はたくさんありますが、時間がありませんからそれは省きます。言うまでもなく
漢文は
我が国の
古典の
一つとして学習するのでありますから、若し
漢文教育を否定するならば、
我が国の
古典、即ち
国語古典を否定する結果になるのであります。
最後に申上げたいことは、
漢文を
必修として
漢文のそのやる時間でありますが、指導要領に述べられた、誠に結構な指導要領ができております。安藤新太郎氏や長澤規矩也氏らの苦労であると思います。非常に立派なもので、これでこそ
日本の
国語の本当の生命が躍如としてここに盛られておることがわかりますが、然るにこれを徹底的にやるためには、現在の時間三時間合計してある中でおぼろげにや
つたのでは駄目であります。少くとも一週間に二時間程度の時間は絶対に必要と信じます。従
つて必修国語五時間とし、そのうち
漢文を二時間にするというようなことは、請願の要求があるのはこのためであります。
必修国語を五時間とする理由は、
必修国語の
内容から見て、
必修三時間を創
つて漢文の授業に当てることが困難な実情にあり、他面新らしい学科として学習する
漢文は、少くとも一週二時間の授業がなくてはその効果を挙げ得ないからであります。
必修国語は、
必修漢文を除いて三時間で妥当であるか否かは、勿論
国語側の御
意見があるところであると存じますが、とに
かく漢文としては以上のごとく一週二時間を要望しておるのであります。この要望については、他の教科課程から見て実施できるか否かということが最も重大な問題と思いますので、本当にこの数カ月の間は心血を絞
つて高等学校の教員、我々同志が集りましたり、或いは又
教育機関の
学校として養成機関の最高学府とい
つてもいい
教育大学の附属
高等学校、大学
教授の合同
委員会を催して徹頭徹尾研究をしました結果、絶対に他の学科には影響はないという結論に達しておりまして、その統計や数字的な論拠はここに明らかであります。簡單にその一、二を挙げますと、影響なしという論点を申しますならば、石田校長が言われたところと若干重複しますが、
必修は二十三、選択
必修合せて三十八、内訳を申しません、略しますが、総單位数は八十五、その差額は四十七、これが残余の自由選択の單位数であります。これを私
どもが
考えておる五時間に殖やしたらどうなるかといいますと、
必修の総計は四十四、残余が四十一であります。その
内容は四十一に含まれ得るものが、
国語二乃至三、数学五、理科五の最大限をと
つたと仮定しまして、芸能の二から六をと
つたと仮定しましても、以上のほかになお残余があります。従
つて家庭科な
ども十分余裕があ
つて、
国語は五にいたして絶対に差支えないのであります。初期の課程の六十八單位のこの中で十七というのが自由選択の下にありますが、この八十五は最低の線でありまして、指導要領の
一般篇を見ますと、実は單位は最低三十時限、できれば三十三時限が望ましい。従
つて総計の單位は九十乃至九十九單位となるというのが望ましいということが書いてあります。今の計算は八十五單位で計算して余裕があり、恐らく
国語を五時間に殖やし得ることができるのであります。而もこの要求は一部の要求だけではなくて、日夏耿之介氏を始め文士のかたがた並びに各方面のかたがたの
意見であり、絶対必要なことであり、今のままでは駄目であるという要求であり、うず高き書面に久米正雄氏ら文士を始め大学の総長級は殆んど連判しております。これも
衆議院のほうに出してありますから、
御覧を頂けば、如何なる妥当性があるかということがわかると思います。結論として以上なんら差支えなくしてやれるのであ
つて、こんなに縮小しないで、五に拡げて絶対に他の学科に影響はないのでありまして、あとで中央審議会ができまして、全体的に削られようと、それは結構でありますが、とに
かく国語教育を正道に返して、新
日本文化と東西
文化と融合し得る堂々たる国家を建設する青年を養成して頂きたいのが私の念願であり所存であります。
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