○猪俣
委員 政府委員の
説明は、
裁判所の基本理念に対して本法はそれをことごとく破壊しておる、それでいいかという私の質問に対しまして、るるお述べにな
つておりまするが、およそ二点ある。
一つは
外国に例があるのだということであります。二つはこの方が結局早く事が
処理できて便宜である。そうしないとなかなか納まりがつかぬというふうに私は受取れるのであります。これも私としては納得できない論拠であります。先般第十国会でありましたか、やはり
裁判所侮辱法の名において提案せられましたときに、十三人の公述人の公述を聞きまして、
裁判、検察
関係以外の方々はほとんど反対されました。そのうち最も有力なる反対意見を提供せられましたのは今はなくなられましたところの末弘先生及び早稻田の教授の戒能先生でありました。このお二人の公述は日本の
裁判所というものと
英米の
裁判所というものはたいへん違うんだ。それであるから、
英米にあるからとい
つて、ただちにこれにならつたものを日本につくるということは行き過ぎであるということを論じられました。今その詳細を申し上げる心要もないと存じますが、
外国にあるからというて、ただちに日本にそれを持
つて来るということは合理的な
説明の根拠になりません。陪審法も
外国にあるのであります。しかるにこれは廃止して今日まだ復活させておりません。いろいろ理由はございましようが、これは
わが国土にふさわしくないという論拠であろうと思う。されば
外国にあることだから、しかも陪審法のごときはほとんど
外国の文明国にはみなあると存じます。そういうものは日本は今やめておる。
英米にあります。こういう
制度だけ行おうとするところに、われわれは危惧の念があるのであります。それが便宜であるからということでは、私の
裁判に関する原則を打破する論拠になりません。
なお田島君の
説明は、はなはだ矛盾していると思うのであ
つて、やはり提案者の本心はそこにあるのじやないか。戦時中の
裁判所に対しては、みな民衆が恐れおののいて、
警察や検察庁へ行くような心構えで行つたがというお話でありました。それが今乱れておる。今
人権を
擁護する殿堂であると思
つて行くように
なつたという
言葉もありまするが、どうもその辺が私ははつきりしません。そういう観念が浸透いたしまするならば、本案のごときますます必要がありません。本案のごときで規制いたしまする相手というものは、違つたものである。そいうう
人権擁護の殿堂として行くものでありません。後に私なおお尋ねしたいが、確信犯人に対する本法はいかなる効果を持つかという問題と関連して来ると思いまするのは、戦前のような
警察や検察庁へ行くような、恐れおののいて行くような気風をまた
裁判所に起させようという企図でかような
法案を提案せられたのではないかと私は心配いたしておりましたが、どうも提案者はちらつとさような心の奥をちよつとお話に
なつたような気がするのでありまして、そういたしますと、これは私
どもは首肯いたしかねる
法案であります。それは議論になりまするので差控えますが、私
どもは戦前のような
裁判官というものが威たけ高になりまして、人民控所というような
名前で公衆の控所をつくつたお白洲のような
裁判所というものを私は築き上げたくないのであります。この
法案がさような恐れおののいて
裁判所へ行
つて裁判官一人壇上にその威厳を発揮するような効果をねらつたものだとしますならば、ますますも
つてけしからぬと
考えます。
そこで実際の場合を
考えて参りますると、こういう
法案というものはやぶへびになりはせぬか、現在
法廷の
秩序を保つということは申すまでもないことであ
つて、
裁判官が主観的にも客観的にも心静かなる態度でも
つて真実の発見に努める
裁判官の心境がそうであらねばならぬのみならず、外見から見ても、ああいう態度でやるのがあるならば、公平な
裁判ができるだろうという環境に置かれなければならぬ、また
傍聴人にしても、弁護人にいたしましても、
裁判所の神聖というものを保持することに努力する、これは私必要だと思いますし、ある一部の
人たちが
法廷で騒ぎまわることにつきましては、まつたく理解ができません。何の意味で、ああいうことをやるのであるか、私
どもは理解ができないのであります。さような者たちに対しまして、私
どもはこれを容認するものでは断じてありません。しかし事実問題と
考えまして、こういう
法案が出まして、
侮辱せられたと感じられます
裁判官が、ただちにそこで相手に対して、
言葉はいろいろ違
つておりますが、捕縛なり
留置なりであります。かようなことをただちにその
裁判官が命令するということは、
裁判官も
人間でありますがゆえに、相当の感情の発露がそこに出て来る。これは主観的にも
裁判官が至公、至平の心構えを乱されることだと存じますし客観的にもさような姿をながめますならば、ああ
裁判官を怒らせたら、あいつは重くやられるぞという印象を与えるであろうと思います。それは私は
裁判官の威信を保つゆえんじやないと思う。
裁判の威信というものは、官僚主義に
考えてはいけない。ほんとうにもつともだ、よく情理を盡して真実の
裁判をしたと
被告人にも
傍聴人にも思わせるところに
裁判の威厳というものが存するのだと
考えるのであります。先ほど申しましたように、
裁判官が権力をも
つてぐずぐず言うとすぐ処罰するぞということによ
つて法廷を静粛ならしめることが、
裁判の威厳を保つゆえんじやないと私は
考えるのであります。かえ
つて逆のことになる。そこでかような一部のいわゆる確信犯人と思われるような、あるいは特別な心神の持主だと
考えられるような連中のために、私は
裁判全体の原則というものを打破るということははなはだ危惧があると存ずるのであります。それで日本の
裁判官の
実情は必ずしも私
ども満足できません。
英米の
裁判官のように弁護士の長老が
裁判官とな
つて、そうしてかえ
つて弁護士を指導しながら
裁判を進めて行くようなありさまと違いまして、まだ年は若く、あるいは新進気鋭ということになるかもしれませんが、私
ども裁判所へ参りましても、
自分の子や孫みたいな判事さんがや
つておられる。大学を出て一筋にや
つて来られたこういう人々に、ある種の権力を与えるということが、はたして
裁判官としてほんとうの
裁判をするような態度にさせるか、逆にその権力を振りかざして威たけ高にな
つて、いわゆる人民
どもというような
考え方になるであろう。今東京弁護士会あるいは日本弁護士協会で心配いたしておりまするところはそこにあると思う。主観的にも客観的にも、静かな至公至平の感情にとらわれざる
裁判をするという
本質を阻害するようなことになるのではないかと思いますが、その点についての心配はないのかどうか、御
答弁を願いたいと思います。