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菊池参考人 御
紹介の私が
菊池覚であります。元憲兵大佐でありまして、昭和十八年二月十一日に第
六野戰憲兵隊長として宇品を出港いたしまして、ラバウルに上陸いたしました。
終戰後昭和二十一年三月七日にラバウルの
刑務所に牧容されまして、
最初死刑の宣告を受けました。次いで
有期七年に減刑されまして、ラバウルからマヌス島に移りまして約三年、昨年の十二月五日に濠州側の減刑が発表されまして、その恩典によ
つて私は満刑となりまして、二月八日に二十四各とともに呉に入港、帰還いたしましたのであります。御質問にお答えいたします前に、まずマヌスに残
つております二百十名の者にかわりまして、ここに御札とお願いを申し上げたいと存じます。
国家再建の最も重大なる時期において、私ども
戰犯者が本
委員各位の格別なる御配慮を常にこうむ
つておりますことは、一面申訳ないことと思いますとともに、また一面その御厚情に対し深く感激いたしております。現在マヌスには二百十名(うち六十八名の台湾出身者を含みます)の
戰犯者が残
つております。私どもは過去六年間敗戰国民としてまた
戰犯者として、忍びがたきを忍んで参りました。刑の
執行から見ましても、
日本人として最善の努力をも
つてまじめに労務に服務し、そのため公務死亡、重大なる傷害、疾病をこうむるに至
つた者も二十件余を越えるのであります。これと申しますのも、いつの日か祖国に帰り得ることを希望とし、楽しみとしての忍従でありました。今や講和発効の時期の近からんとしているとき、マヌス
戰犯者の内還希望も最高点に達しています。何とぞこのマヌスの
戰犯者
たちがこの講和発効の機会にぜひとも
内地帰還になりますようにこの上ながら本
委員各位のお力添えを切願申し上げます。
以上であります。以下お示しくださいました項につきまして報告申し上げます。
マヌス二百十名の中で刑期は大体次のようにな
つております。一、二不安な点がありますので、概数として御報告申し上げます。十年以上の刑を申し上げます。
無期の者が二十五名、二十五年が二名、二十年が二十八名、十八年が一名、十五年が六十一各、十四年が三省、十二年が六名、十年が六十名、九年以下は省略をいたします。
次は食糧
事情について申し上げます。食糧
事情は一口に申し上げますとよろしくないということであります。一人当りのカロリーは大体二千四百か五百くらいにな
つております。それから食べものは主食が米で、その米はもみが非常に多くありまして、どうしても一ぺんもみをと
つてのけなければ使えない。それからカン詰の米でありまして、玄米に近いもの、よくついて五分づきぐらいじやないかと思います。それをたきますと砕けましてぼろぼろになります。私ども
内地の米を食
つた者には適当しないような米であります。それに副食物といたしましてカン詰類、コンビーフそれからソーセージが一部あります。それからグリーン・ピース、にんじん、これもカン詰であります。それから乾燥
野菜といたしましてキヤベツとか玉ねぎとかいうものがあります。そのほかに若干の調味料、大体食べものはこういうふうにな
つております。これが過去六年間終始一貫かわらない食べものでありまして、この食べものが六年一日の、ごとく続きますので、何としても食欲が減りまして食べようとしても十分食べられないというのが現状であります。そういうためにマヌスにおります者の体力は漸次減退いたしております。体力につきましては
あとから申し上げます。今申し述べましたほかに若干生
野菜、これは
戰犯者自身が農園を経営してつく
つております。それが入ります。しかしこれはほんのわずかなものであります。こういうような
状況にな
つております。それからやしの実
あたりは目の前に幾らでもありますけれども、これも食べられません。古いのが落ちてお
つたのを拾
つて食べて処罰されたというような者もおります。それから魚はもう至るところにたくさんおりますけれども、これも二週間に一回、日曜日に三十名くらいの者が出て網引きをいたしますが、その網も手製のもので魚はとれません。それでマヌスにおる者どもはやしをと
つたり魚を食
つたりというような
内地の方のお話も聞きましたけれども、そういうものは口には入らないのが現状であります。
健康状態は逐次悪くなりつつあります。これは前に述べました食糧
事情と労務の
関係とに大きな関連を持
つておると思いますが、現在約三十名くらいの患者がおります。その中で私どもが一番懸念いたしますのは呼吸器患者が漸次ふえておること、ことに昨年の下半期からずつと呼吸器患者がふえたことであります。その数は、今度私どもと
一緒に帰りました者が二名おります。これは重態であります。咯血もいたしますし、それから一人は腸結核とか喉頭結核でも
つて、
相当のひどい者だけが二名帰りまして、
あと二名まだ別の
部屋へ隔離されております。それからそのほか十二名血痰が出たり微熱が出たりいたしまして、症状明瞭の者がおります、なおはつきり症状は出ておりませんけれども、本人が悪いと訴らておる者が
相当あります。これがマヌスの者の
健康状態をはかりますバロメーターだと私は存じております。将来なおこれがふえる傾向があるように観察いたしております。そのほか腎臓結石も非常に大きいのがあ
つて、そして手術が困難で、いつかや
つてもらうために輸血まですつかり準備いたしまして、そうして濠州側の病院に行きましたところが、麻酔がうまく行きませそのでやめております。その後本人はもう濠州では手術をしてもらわないということでも
つて痛みながら現在まで耐えております。そのほかに尿道狭窄でも
つて非常に苦しんでおる者があり、紫斑病でも
つて薬がなくてうちから送
つてもらうが薬は渡されないで困
つておるというような者も
相当の数があります。
一般的に見ましたところの
健康状態は、昔に比べますと非常に気力が衰えたことでも
つてわかると思います。
向うの方にも慰問品をいただきまして運動道具があります。昔は日曜
あたりは野球もや
つておりましたが、現在は野球なんかやる人はほとんどありません。それからバレー・ボールについても日曜の日等や
つておりましたが、だんだんそれが少くなり、ことに青年
あたりは一時非常に研究心が旺盛でありまして、英語の研究や数学の研究を夜照明燈の明りのもとでや
つておりましたが、最近さつぱりそういうものがなくな
つてしま
つておるのであります。というようなことは体力、気力が
一般的に衰えておる証左だと私は見ております。
それから死亡者のことでありますが、
病気で死にましたのが二名おります。それから自決をされました者で、ニユーギニア
方面の最高
司令官でありました安達元中将は、部下の
裁判を全部片づけまして、そうしてあそこに残
つておる者が全部帰されて、これでも
つておれはようやく自由の身にな
つたと申されまして、その後に自決をされました。見事な自決でありました。そのほか部隊長あるいは台湾青年で自決した者も二、三あります。それから労務に服務しておる際に死亡した者、たとえて申しますれば大森林がありまして、樹木伐採に従事しておるときに木の下敷にな
つて倒れた者が二名、それから深い濠を掘
つておりました。それは
向うの土人便所をつくるために掘
つたのでありますが、ラバウルの付近は火山灰で土がかたくありません。そのために濠の中で生埋めになりまして二人死にました。それから爆彈作業に従事しておりまして、爆彈が破裂したために即死した者が一名、重傷者が数名できました。それからトラックにひかれて死んだ者、こういうようなものがございます。
就労内容、労務は八時間制にな
つております。現在マヌスには濠州海軍の基地がありまして、われわれ
戰犯者はその海軍の
仕事を引受けてや
つております。濠州海軍では
日本の
戰犯を非常に重宝が
つております。マヌスでは労働力といたしましては
戰犯者のみとい
つても過言ではありません。これがなか
つたならばマヌスの海軍は非常に困る。どうしてもこの
戰犯者の労務がほしい、こういう
状況で
戰犯者の労務に期待しておるところが非常に大きいように見ておりますその
仕事の種類といたしましては建築、
かまぼこ屋根のまるいやつ、
相当大きいものであります。それをこわす、建てる、それから古いものはそれをまた修復する、そういうような作業、それから鉄管をいけるとか、水源地をつくるとか、橋をかけるとか、棧橋を直すとかいう土工作業、それから今のような棧橋の作業だとか、重油タンクの作業だとか、いわゆる重労働が要求されております。その労務の場所には銃剣を持ちました土人兵
——ポリス・マンとい
つておりますが、土人兵と、それから海軍の下士官、看守です。これが一名、土人兵の方は数名、それが常に監視をいたしまして、いわゆる銃創の強圧のもとに毎日作業をいたしております。危險性は、現在大けがをした者はありませんが、重傷を負
つて不具癈疾等にな
つた者も
相当あります。
相当な危險のある作業に服務しております。それからこの労働問題で患者がやはり労務に使われております。
向うにおります患者はノー・デユーテイーとライト・ワークの二つにわけております。ノー・デユーテイーの方はま
つたく休養であります。これは作業には服務しません。ところがライト・ワークと申しますのは軽作業に服務することにな
つております。この軽作業の中にさきに申し上げました微熱が出る、あるいはときに血痰の出るような呼吸器患者が使われております。それから松葉杖をついて歩かねばならないような者でもやはりこの軽作業に従事しております。そういうふうで患者が軽作業労務に服しておりますが、軽作業と言葉で申しましてもむろん楽な場所もあります。けれども草刈り等を命ぜられます場合においては、これはま
つたくの重作業とかおりません。炎天下におきまして終日草を刈るということは
相当きつい
仕事のように思います。そういうような
仕事もあります。それから作業にあまり年齢を顧慮しておらない。六十歳以上を越えても若い者と同じように終日働いておるというような方もございます。
それからここで特に申し上げたいと思いますのは、
裁判を受けた者の大部分は、判決でも
つて禁錮刑にな
つております。第二審におきましてもやはり禁錮刑というものが大部分であります。しかしながら刑の
執行におきましては、今申し上げましたように、全員が重労務に服務しております。これは判決と刑の
執行とが違
つておりますので、私は違法のように思
つております。こういうようなことをや
つております。しかしソビエトのようにノルマとかいうようなものはございません。ただ休んでおるとや
つて来て早くやれ、こう督促されまして何とかして所望の
能率を上げたいとあせ
つておる傾向は見えます。それがためにあすこに海軍の大佐がおりまして、大佐自身が作業場に乗り出して督励し、その監視の下士官に対して一日にどのくらい作業をやるか、その記録をとれとか、あるいはある場所でも
つて非常によくや
つておると、もうここは非常によくや
つておるというのでも
つて、クリスマスの翌日も一日よけい休ましてやるというふうでいわゆる奨励の方法をと
つたりしております。こういうところから見ると何とかして
能率を上げたいという希望が
相当濃厚に見受けられます。休養でありますが、日曜は休んでおります。しかしさきに申し上げましたように、日曜の日は何とかして私どもの体力を維持し、栄養を良好にしたいということでも
つて、この日曜の貴重な時間をさいて三十名前後の者が魚とりに従事いたします。その時間が約二時間と制限されておりまして、しかもその網が、防蚊網という蚊を防ぐ網でございます。そういうものを継ぎ合せてつく
つた網で、
——もつともそうでない網もありますが、そういうものでとりますために、目の前に
相当の魚がおりましてもなかなかとれません。と
つて帰りますのは小指くらいのざこでありまして、そういうものを若干と
つて帰るというような
状態であります。日曜の日は、
——内地でも同じでありますが、とにかく私どもにとりましては天国でありまして、この日は監視も何もおりませんで、
ほんとうに楽しい日であります。
それから
受刑者の希望事項であります。希望事項は若干ないではありませんが、私は、いや
戰犯者一同は、第一にも
内地に帰していただきたい、第二にもやはり帰していただきたい、第三にも第四にもとにかく帰していただきたい。これが私どもの希望の全部であります。もうこれさえできたならばほかに何も望むところはございません。
それから
死刑受刑者の遺骨はどうな
つたかということでありますが、ラバウルで
死刑を
執行された者が九十六名おります。それからマヌスで
死刑の
執行された者が五名であります。その遺骨は
——もしここに遺家族のお方がおられましたならばまことに申し上げにくいことでありまするけれども、
死刑を
執行したならば、それをトラックに積みまして、あそこにハナブキ山という火山がございますが、そのふもとに
死刑者を埋葬する場所がありまして、そこに埋葬してあります。墓標はありません。どなたの遺骨か今はおそらくわからないようにな
つておると思います。しかし、事故とか
病気でなくならつれた者の墓標は立
つております。それからお墓参りですが、盆とかあるいは特に何か機会がありましたならば、ラバウル時代は墓掃除にや
つてもらいまして、そして花を供えるというようなことをや
つておりましたが、私どもが
たちました後の墓地はどうな
つておるか見当はつきません。おそらく草深い中に埋もれてあることと推察いたします。それからマヌスで処刑された者は五名でありますが、これは水葬いたしました。私はこの水葬はどういう
意味でや
つたか不可解に思
つております。
ちようど
執行される日はひどい雨でありりまして、陸上に埋葬することは多少の困難はありましたかしりませんけれども、できないということはなか
つたと思います。陸で処刑した者を水葬したというような
状態にな
つております。
受刑者に対する今後の見通しでありますが、
向うの方では午後七時から
内地のニュースを十五分間聞きます。これが唯一の楽しみであり、また私どもが
内地の情勢及び国際情勢を知る方法であります。これにはすべての者が神経を打込んで一言も聞きのがすまいと思
つておりますが、何分にも、距離が遠い
関係でほとんど聞けない晩があります。ことに雑音が多くて聞きとれない日が二晩、三晩と続きますと非常にがつかりいたします。そういう
関係で、せつかくのニュースも毎日続けて聞けないというような
状態であります。それから新聞、雑誌、そういうものは二箇月ないし三箇月、おそい場合には半年も遅れて着きます。それで、新聞
あたりは非常に読みたいと思いますけれども、遅れて着きますので、前に聞きましたニュースと照し合せて、ああそういうことがあ
つたかというような
状態であります。こういうために、あそこにおります者は
ほんとうに
内地の
状況も国際情勢もはつきりわかりません。まして濠州
関係等は、なるべく知らすまいと思
つて向うが気をつけておりますのでわかりません。英語の本は一切読むことはならないことにな
つております。英書は禁ぜられております。そういうふうで、ま
あときどきどこかのごみ捨て場に行
つて新聞のはし切れを拾
つて帰る、それを大事に翻訳してみる、そういうようなことで濠州
関係あたりを多少何とかして知りたいと努めておりますが、結局はよくわかりません。ただ私が帰りますときに、監獄の看視をいたしております下士官が次のようなことを申しておりました。さきにこれは今村元大将に対して言
つたことでありますが、この前、
戰犯者は四月に帰ると言
つたけれども……。これは
ちよつと
速記をやめさせてください。