○渡部
委員 今日は
大臣にいろいろお尋ねしたいわけなんだが、漢文の問題が、
若林君の発言によると、何か今日の
委員会で
結論的な方向を出したいというようなことでありますので、まずこの問題から入
つて行きたいと思います、私は漢文がある
意味で、またある領域で重要性があるものだということは認めます。しかしながら、
文部大臣の
考え方の中に、東洋文化を取入れられる上で非常に重要性があることを認めるというふうに言われたのでありますが、元来
日本歴史を
考えてみますと、確かに漢文というものは、ある時代に非常に積極的な意義があ
つたわけです。これは
日本が遅れた古代国家であ
つた時代に、隋とか唐とかの先進文化を急速に取入れることによ
つて、
日本の文化を発展させたわけでありますが、それに伴
つて漢文というものが
日本の文化の上にかなり積極的な役割を果して来たわけです。しかしながら、これは特に封建
社会になりまして、封建的な秩序と道徳を維持する封建イデオロギーとして、積極的な役割を果して来て、そうして
日本が封建的な
社会として発展して来る中で、漢文あるいは中国古典の思想が国民の一部の層の中に入
つて来た。しかもそれは明治後の天皇制の時代におきましても、この封建的な専制的な秩序と、いわば道徳とい
つたようなものを根幹とする中国古典思想というものが、
日本の天皇制を維持する上に非常に役立
つた関係から、これが従来のままほとんど
日本の国漢文、いわば現代語の面で非常に大きな役割を持
つて来たわけです。しかしながら、その結果は、決して国民全体の文化を近代文化として高めるには、何の役にも立ちませんでした。これはもし事実を言うとなれば、歴史的な問題でありますので、
大臣なり、また漢文
教育を主張される諸君から、はつきりその歴史的な進歩的な意義というものについては、討論されることを私は
希望するものです。私はそれに対して、私の
見解を幾らでも展開することができます。もし今日東洋文化というものが取入れられなければならないということであるならば、何が一体東洋文化なのか、このことを
考えてみる必要がある。東洋文化というのは、決して漢代や唐代に起
つたあの古代的な、あるいは封建的なそういう文化を、東洋文化と今日われわれは言うのではないのであ
つて、われわれが東洋文化を取入れんとするならば、また東洋文化を発展させようとするならば、
日本の
社会をさらに前進させ、全世界の文化がそれによ
つて高まるような先進文化こそが取入れられなければならないのは当然のことであります。ところが、今日先進文化
——東洋に先進文化があるとすれば、それはどういう文化が一体先進文化か、それは決して古代や中世におけるあの封建的な專制的な文化が東洋の先進文化なのではないのであ
つて、この東洋の先進文化というものは、東洋の民族の中に今日起きている先進的な、自分自身を解放して新しい
社会を築いて行こうとする、こういう大きな動きの中にこそ、未来の
社会を導くところの文化が芽ばえつつあり、成長しつつあり、確立されつつあるわけであります。もしそれが新しい東洋文化であるとするならば、私
たちは漢文をやるのではなくて、むしろ中国ならば、中国の現代語こそ、よく
日本国民が文化を交流せしめる
意味で、それが取入れられ、
考えられるべきであ
つて、古い言葉、古い文字、それから古い秩序や道徳を堅持するような、そういうようなものを取入れることは、今日の
日本の発展の上に意義のないものである、むしろ反動的な
意味さえも持つものであると、私
たちは
考えざるを得ません。もちろん私
たちは古代中国、中世中国文化を研究し、それが
日本の文化の発展に及ぼした影響というものを検討し、それによ
つて今日建設されてある
日本文化をさらに高めるという見地からこれを見るならば、それは当然研究されなくちやならぬ。しかし、その研究というものは、これはむしろ專門的な部分に属するものであ
つて、国民
一般の教養のためのものであ
つてはならないと思うのです。今日この漢文に対するかなり大きな数の
請願書があるようでありますけれ
ども、しかし、もしこれを
ほんとうに国民全体の、あるいは進歩的な学者
たち、こういう
人たちの批判に訴えるならば、この署名こそそれを幾十倍する署名とな
つて現われることは確実であります。
従つて、私はそういう形で漢文が取入れらるべきではなくて、漢文はむしろ私は專門的な過去を研究するような面においてこそ、重要な
意味を持つのであるが、今日ではむしろ学生
たちの学習能力ということも
考えて見なければならない。われわれが漢文を習
つたことは、確かにいろいろ古いことを研究する上では役立ちました。しかしながら、学習能力において、そのためにどれほど
日本の国民が苦労をし、また損をしておるかはわかりません。そういう点も
考えてみなければなりませんし、もし
日本の用語というものをゆたかにし、また優麗なるものにしようとすれば、私
たちは今日民間に使われておるようなわかりやすい言葉、そうしてむずかしくない文字、それを用いて、
日本人として文化を高めて行き、
日本人として文化を世界に発揚して行くところの言葉あるいは思想というものを、そういう見地からこそ広めらるべきものでなければならぬと思うし、現に
日本語は御存じのようにそのような形で進んでおります。そのような形で進むことによ
つて、今日
日本の文化というものは高められておるのであります。漢字主張論者の方々の
気持は、もちろんわかるのでありますけれ
ども、しかしながら、より広汎な人々が、現にその方向に動いておるのであり、
日本の文化の進行が、その方向をさし示している。これをわれわれは重大視して行かなければならないと
考えるわけです。私はきよう
文部委員会でこの問題について
結論を出すと言われたので、私の
意見を述べたのでありますが、私の
意見につきまして、こういう
考え方につきまして、
大臣はどう
考えられるか。言いかえれば、私の言
つたことに、歴史的な事実として、あるいは漢文の
日本文化における歴史的な意義として、間違
つた点があるか。今日持つところの漢文の意義として、私の言
つたところに間違
つたところがあるのか、あるいは
日本の言葉、
日本の用語、それから
日本の文化を高めるための
日本の言葉の発展という、あるいは思想の発展という面から見ての私の
意見に、間違
つたところがあるか。間違
つたところがあるとすれば、それを指摘してもらいたいし、それについての文相の
見解を伺いたいと思う。