○辻
公述人 このたび従来懸案にな
つておりました
行政機構の
改革に関する
法案が、国会へ提出されることになりまして、同時にこの行政
組織と密接な
関係を持
つております行政
運営に関する
法案、これが議員提出
法案として出たというこの二つのことは、今まで長い間
日本の
行政機構の大きな欠陷とされておりました諸種の問題を解決しようという、皆さんの御努力の現われと思いまして、私どもその
方面の学問をしておりますものにとりまして、御同慶にたえない次第だと思います。この公述をいたしますのにつきまして、私のもとへも数多くの資料並びに
法案をいただいたわけではございまするが、その詳細な一々の点につきましてお話を申し上げるという余裕もございませんし、また私自身の知識も乏しいわけでございますから、ここでは、いわば現在の
行政機構を
改革する場合にどういう
観点から考察すべきか、それが妥当であろうかという点につきまして、私の
考えておりますことを若干申しまして、
法案を
審議されます皆様方の御参考に供したい、こう思う次第であります。従いましてただいま承
つておりました
原公述人のように、詳細な点につきましてはお話できないかと思うのでありますが、若干私の関心を持
つております主要な問題につきまして、その原理的なところをお話申し上げたい、こう思
つております。
最初に総論として
考えますことは、
行政機構を
改革するということは、従来の
内閣でしばしば取上げられたことであります。その場合におきまして、一体どんな基準に立
つて行政機構を
改革したらいいのかという点が、必ずしも明白でなか
つたという印象を持つわけであります。普通
行政機構を
改革する場合と申しますと、節約とか能率を上げるためということが言われるのでありますが、一体節約とか能率という抽象的な
言葉は、それだけできま
つた基準というものはないのでありまして、やはりその時代、その国、その時のいろいろな社会条件とい
つたものによりまして、その内容が一定していない。いわば相対的な基準であるということが言えるわけであります。かりに節約ということをとりましても、非常に極端なことを申しますと、
行政機構を全部なくしてしまう。これが一番安上りであるということになるわけでありますが、しかしそういうことをしましたならば、
国家なり社会の生活というものは成り立たない。そうかとい
つて、必要に応じて幾らでもつく
つておればそれでいいか、それが能率的であるかということになりますと、そうでないことは皆さん方御承知の通りであります。そこで現在わが国で、節約と能率という原理を一番生かそうと思えば、一体どういう点に目標を置いたらいいだろうかということが、ここで最も必要なことになるのではないかと思うのであります。よくしばしば、
日本は貧乏国に
なつたからとにかく小さくすればいいのだ、大体行政官吏の数が多過ぎることが、そもそも社会の弊害の原因だという非常に素朴な議論をされる方があるかと思いますと、今度は逆に、そういう感情論に対しまして、今まで通り行政
官庁の勢力と申しますか、なわ張りといいますが、そういうものをあくまで是が非でも守
つて行こうという
反対感情も出て来るというようなわけでありまして、この点におきましてはなるたけ合理的と申しますか、世人の納得するような
一つの目標を立てて、こういう目標でやるから、
行政機構がかりに縮小され、そしてそのために若干迷惑が生じても、国民は納得するというような
一つの基準を立てなければならない。ただ多いから減らしたらいいとか、あるいは今までそれでや
つて来たから、その通りにしておこうというようなことでは、国民は納得しないと思うのであります。でありますから、一体
行政機構を
改革するときには、どんな目的を具体的に実現するかということを定めること、それからさらにそういう目的をもし果すことができなか
つたならば、それは一体どこに欠陷があるのだろうということを次に
考えまして、そしてその欠陷を具体的に
行政機構の上で新しく
改革して行こう、こういう三
段階を経なければならないと思うのであります。
日本で節約と能率の原理を具体的に生かそうと思うのは、いろいろな面にあるわけでありますが、なかんずく行政
官庁の割拠制といいますか、セクシヨナリズムでお互いに対立し合
つているという、この点の欠陷を
改革することが、現在の
日本で節約と能率を最大限に生かす最も重要な点ではないか、こういうように思うわけであります。この
官庁のセクシヨナリズムといいますのは、今に始ま
つたことではありませんので、明治以来ずつと続いて来た
日本の、いわばビユーロクラシーと申しますか、官僚の伝統的な精神であり、やり方であ
つたと思うのであります。このセクシヨナリズムの結果どういうことが起ろかと申しますと、まず第一に政策の統一的な遂行ということが非常に困難になる。これが最も現在なすべき政策であろうと思
つてやりましても、どこかの省で強力に
反対するということになりますと、かりにこれが実現されましても、初めとは相当違
つた形にな
つて来る。そういう点が第一の欠陥。第二点は非常に能率を妨げる。相互の連絡がとれず、あるいはまた煩瑣な手続が起り、お互いが割拠対立しているところから、おのずからみなが自己の所管について秘密的になりやすいというようなことから、似たような手続が重複しましたり、あるいはまたその結果として今度は所管の空間が出て来るおそれがある、そういう
意味におきまして能率を妨げる。それから第三には、むだな費用を産むということであります。統一的な
行政機構が完備されておりましたならば、それだけで初めから一定の予算がどれくらいいるかということが、比較的明らかになるわけであります。現在伝えられるところによりますと、
各省で有能な役人というのは、予算をなるたけたくさん自分のところへ持
つて来る腕前を持
つている人、これが最も有能な官吏と言えるということを私はよく聞きますが、そういうことから、かなりむだな費用が生れて来ているのではないか。それだけでもすでに能率と節約という原理に相反しておると思うわけであります。そこで大体このセクシヨナリズムといいますか、
官庁の割拠性を克服して
改革して行くのには、どういう方法がいいだろうかということが、ここで問題にな
つて来るわけであります。このことは新しくできました行政
組織法におきましても当然
考えていることであります。行政
組織法におきましては、
国家のすべての行政
組織が
内閣の統轄のもとにはつきりした範囲の権限と
事務を持ち、それが全体的に
仕事ができるように、系統的に構成されるべきであるということをうた
つております。あるいはまた行政
機関相互の間に連絡ができ、そうして一体として行政機能を発揮しなければならないと書いておりますが、事実上それを具体的にどのような方法でやり、どのような
組織で行うかという点につきましては、どういう理由か存じませんが、行政
組織法においてはその点が欠けていた。その行政
組織法のもとでその精神を実現して行くためには、当然現に
存在する
行政機構に対して運用のいわば批判といいますか、
改革が加えられねばならなか
つたわけであります。そこで一体
官庁の割拠性を克服するのには、なるほどこれを統一的に行う
組織をつくればいいこれは言うまでもないことであります。ただ
日本の場合におきましては、そういう統一的な
組織をつく
つた場合に、これが非常に強度の集権的な機構にな
つて、せつかく新しい憲法とかその他の諸法規が定めております、いわば民主的行政の実現という点に妨げになるようなことがないであろうか、という危険が存するわけであります。この両者をいかに
調整して、一方においては行政の
技術的な能率を高め行政費を節約し、と同時に他方においてそれがか
つての官僚行政というものの弊害を生み出さないようにしよう。この二つを
調整することが、今日の
行政機構を
審議する場合に、最もかんじんなことではないかと
考えるのであります。行政
官庁に対する一種の統制的といいますか統一的——
学者はいろいろの
言葉を使
つておりますが、普通統合的などと申しておりますが、そういう
機関をつくることに対しましては、相当強い
反対、があるわけであります。現に一両年前の行政
審議会の報告におきましても、横割型の
官庁というものはとかく摩擦を生じていかぬ、従
つてこういものはできるだけない方が望ましいという答申案をつく
つているわけであります。しかし、これを別の面から
考えますと、摩擦ということは必ずしも望ましくないわけでありますがおよそ
改革をやろうというときには、そこに必ず摩擦が起る。そういう摩擦を初めからおそれておりましたならばすべて
改革はできない、あるいは非常になまぬるいものにな
つてしまうわけであります。もちろんその摩擦の結果、それが行政の命とりになるというような欠陷を生む場合においては、その横割型の
官庁のどこかに欠陷があるわけでありまして、そのこと自身が再び批判の対象になるわけでありますが、少くとも合理的な横割
官庁の
存在は、今日世界各国いかなる国をとりましても、現代的行政をや
つておる国においては、まず当然のことであると
考えておるのであります。こういうことは釈迦に説法の観がございますが、通常行政
組織をつくる場合には、まず行政対象の差別によ
つて分類して行くわけであります。たとえば商工業であるとか、農林であるとか、労働であるとか、社会福祉であるとか、そのほか資源の問題、財政金融の問題というように、一応大幅の行政対象によ
つて行政
官庁をつくるわけですが、しかし、これをさらに統制するためにまずどこから始ま
つたかというと、これらの
官庁に共通しておるごくささいな、たとえば印刷であるとか統計であるとかの非常に
技術的な面は、各
官庁でお互いに
独立でや
つてお
つたならば非常にむだが生ずるというので、これはまとめて
一つの
官庁をつくろうじやないかという機運がまず起
つて来て、そうして印刷
関係の
官庁であるとか、統計に関する
官庁であるとかい
つたものが出て来たわけであります。ところがそういう機運にさらに拍車をかけて来ましたのは、二十世紀にな
つて次第に社会の
仕事がいろいろ
専門的に複雑化し来る。それに応じまして行政
官庁を多数つくらなければならない。あまりたくさん出て来ますと、今度は全体が非常に分散化して、まとめて行こうという方向が困難にな
つて来る。そこであらかじめこれらのすべての
官庁に共通して統一的な基準を與えることが望しい、そういう要求からできるだけすべての
官庁に共通し、しかも最も基本的な線が打出せるようなそういう行政を集めまして、これはこれで別個の横割
官庁をつくろうじやないか、こういう機運が出て来た。その最も重要な機能が予算と
人事と企画調査という行政であります。予算とか
人事とか企画調査というのは、
各省に共通の
仕事でありまして、これらにつきましてそれぞれ
専門の
官庁を設けてそこで大綱を定め、お互いの
官庁の間で摩擦が起
つたり、衝突が生じたりして、それによ
つて政策に矛盾を来したり、費用がむやみに出ることを押えよう、こういう機運にな
つて来たわけであります。現在のわが国におきましても、そういう機運が出て来た。こういう機運は行政
官庁がそれぞれ非常に強く割拠的であるところではあまり起らない。実は
戦争中のことでありますが、
内閣に
人事部をつくろうという案が出ましても、いずれもこの
人事については
各省が独自の権限を持
つていた当時でありますから、
各省が先頭に立
つて反対して遂にそれができなか
つた。それからこれは有名な物語りにな
つておりますが、
戦争中のことであります。朝日新聞におられた佐佐弘雄氏の書かれたものに、横浜でありましたかドツクのどこかに二本の鉄のくいを打つのに実際上は二、三時間で済んだけれども、その許可を得るのに八つの
官庁から非常に多くの判をもらわなければならず、半年もかか
つたというエピソードが出ておりましたが、ああいうものをできるだけ何とかして統合して、割拠性の弊害を救おうと努力したが、遂にそれができなか
つた。今日そのような弊害を再びもたらさないために、
行政機構の
改革が取上げられておるわけであります。この点におきましてもこの際はつきりした解決ができれば、何より望ましいと思う次第であります。ただ、しかしその場合におきましても、予算、
人事、企画、調査とい
つた行政の基本的な問題をすべて一箇所に集めるためには、私が先ほど申しましたように扱い方いかんによりましては、これがまた非常に強い独裁的権力を発揮することにならないとも限らない。ですからその点をある程度牽制しながら、なおかつそのやり方の妙味を発揮するということが特に大事ではないかと思うのであります。そういう点につきまして若干の点を取上げまして、お話を具体的に申し上げたいと思うのであります。
今申しました
人事、予算、企画、調査というような問題につきまして
考えてみますと、まず第一に今度の
行政機構改革におきましては、
国家公務員法の一部
改正に基きまして、
人事院の機構が縮小と申しますか転換されております。御承知のように
人事院がこのたび
人事委員会という名前になり、従
つてあの厖大な
組織がある程度縮小され、その権限におきましても
内閣総理
大臣から
独立していたというところから、これをできるだけ
内閣の責任のもとに置くという
改革に
なつたわけであります。当初から
人事院のあの広汎な
独立性につきましては、とかくの批判がありまして、あるいは三権分立の原理に違反する、あるいは議院
内閣制度の精神にもとるものでないかという批判が、強くいろいろの方から叫ばれていたわけであります。ただここでこの
人事院の問題でありますが、なるほど非常に
人事行政を行う面において強い力を持
つておる。これは準司法、準立法、それから
人事行政全体にわた
つて、
人事院がいわば非常に、人々の批判の
言葉を使いますと、
人事院の独裁化というような
言葉が伝わ
つたわけであります。最近
人事院の
人事行政を大幅に
各省に移管すべきであるという声が出て来まして、大体今度の
改革もその線に沿
つたものであろうかと思うのであります。御承知のように
人事院があのように広汎な
人事院規則、つまり公務員のみならず、一般の国民の権利義務まで支配するというような広汎な規則制定権を持
つているということは、これは相当重要な問題でありますし、この点に対する批判はもとよりであります。また厖大な
組織を持
つているということにつきましても、ある程度冗費がそこに出ているということから、当然これを批判すべきでありますけれども、ただ私をして言わしめますならば、あの
人事院並びに公務員制度というものは、これは單に
日本の今までの
人事行政のやり方がまずか
つた、だからこれに新しい合理的、
科学的な行政を取入れるのだ、そういう
考え方でできたのではないのじやないか、こういうように思うわけであります。むしろそういう問題ももとよりありますが、それ以上にもつと大きい点は、やはり従来の
日本の官僚制的行政というものをこの際大いに
改革して、そうしてこの公務員法第一条にうた
つておりますような、民主的かつ能率的な行政を国民のために保障する、そういう大きな使命を持
つていたと思うのであります。そういう使命そのものは、決してわれわれとして批判あるいは非難できないものであります。そのためには、ささいな
技術的な行政の問題につきましては、ある程度しばらく目をつぶる。もちろん私としましても、今日
人事院が広汎な
人事行政権を握
つているということは必ずしも好ましくない。いつかはあの行政を
各省に移管して、もつと具体的に
各省が要求し、
各省の具体的実情に即するようなそういう
人事行政を行うことが望ましい。現に
アメリカのフーヴアー報告書もそういう点を勧告しておりますが、もちろんまだそこまで実施は強くされておりません。私自身もその方が具体的であろうかと思いますが、先ほど申しましたような大目的を
考えますと、やはりこの際はある程度
人事行政と申しますか、官僚制度の民主化を使命としている
官庁に相当の
独立的権限を與えまして、そうして一応その目鼻がついたところで、あらためてこの
人事院というものの
存在についてこれを具体的に
改革して行こう、こういうように
考えるのが至当ではないかと思うのであります。そういう
意味では、
人事院の権限なり機構を縮小するということは、根本論としては決して
反対ではありませんが、時期尚早ではなか。御承知のように三権分立の原理、議院
内閣制の原理と申しますか、これらはすべてイギリスにおきましても
アメリカにおきましても、時代によ
つてかわ
つて来ているわけであります。今から百年前の
アメリカのあの統治構造と、それから五十年前、そうして現在、イギリスの議院
内閣制の百年前、五十年前、現在では、ずいぶんその形態がかわ
つて来ているわけであります。最近の
アメリカの行政のやり方は、これは本来の三権分立の原則に反するというようなことを、
アメリカですら言
つているようなかわり方であります。従いまして一体どの時代のどの形態をば基準として、これが三権分立に反する、あるいは議院
内閣制の精神にもとるというようなことは、必ずしも厳密な
意味で言えない今日の実情ではないかと思うのであります。問題は
日本の
行政機構の欠陷をどの面で最も
改革して行かなければならないかということの方が、はるかに大事ではないかというように私は
考えるのであります。従いましてこの
人事院を
内閣責任という名のもとに、
総理府の一
外局としてしまうその結果、そうでなくても歴史を持たない
人事院が非常に無力なものになりまして、せつかく行政の民主化と能率化というあの大目的をうた
つた大きな目的が、結局また元の通りの各行政
官庁の力によ
つて減殺してしまう、あるいはそういう目的が消え去
つてしまうということになることを、私はおそれるわけであります。従いまして問題は、單に
技術の問題というよりも、もつと大きな新しい憲法に即応した、
ほんとうに議院
内閣制を実施して行くために、まず
人事院の力というものを借りて、そうして官僚制の民主化というものに国会が努力されるということが、特に望ましいというように思うわけであります。
それから第二は、予算の面でありますが、今日予算という問題が、單に
国家の経費の査定をするというだけではなくして、いわば統一的な
国家の政策を実施して行くという面を強く持
つていることは、これは御承知の通りであります。その点におきまして、
アメリカにおきましては、予算というものは一九三九年以来大統領の片腕として、その有力な幕僚
機関にな
つているわけであります。これは
一つの予算を通じて
国家の統一的政策を
官庁のすみずみにまで徹底させよう、こういう
一つの精神の現われであります。またイギリスにおきましては、この予算は大体におきまして
大蔵省が握
つているわけであります。この点におきましては、今日の
日本の場合と比較的似ているわけでありますが、しかしその点でもやはり国情の相違で違いがあるわけであります。御承知だろうと存じますが、
大蔵省は單に予算の査定のみならず、イギリスにおきましては
人事もここで行われておるのであります。つまり
日本の
人事院のような役割を
大蔵省がや
つております。それからまた一九四〇年の半ばごろから、
経済計画に関する
仕事もやはり
大蔵省でや
つております。イギリスの
大蔵省といいますのは、
人事、
経済計画、予算の査定とい
つたふうな非常に広汎な、いわば
官庁の中の
官庁、デパートメント・オヴ・デパートメンツという
言葉をよく
学者は用いておりますが、そういう大きな地位を持
つております。だから
日本の場合も、
大蔵省がやればいいじやないかという
一つの議論が出て来るわけであります。今日予算局というものを
総理府に持
つて来たらいいではないかという声が一方では強いわけでありますが、それに対しまして、いやそれではかえ
つて新しく摩擦を生じたり、それから金融とい
つたような他の面あるいは租税とい
つたような問題を扱
つている
大蔵省がやる方が、最も無難だというような根拠から、これに
反対する方もずいぶんおられるわけでありますが、その場合に、前者は大体
アメリカ型、後者はイギリス型をも
つてそれぞれ主張の根拠とされておられるわけであります。ただ問題は、イギリスの場合に
大蔵省側にと
つて行くということは、これはちよつと
日本の場合と
事情が違うわけであります。イギリスの議会制度が発達して来ました根本の中心問題は、まず財政権というものを議会が獲得することであ
つた。従いましてイギリスでは今日
大蔵省とい
つておりますが、いわばあの発生は議会の中から選ばれた
内閣のその
内閣員の中で最も主要な役、つまり多数党の政党の幹部のような人が数人集まりまして、そして
国家の予算、財政を決定する最高の
機関を形成している。これがだんだん今日の
大蔵省にな
つて来たわけです。今日の
大蔵省の
長官はいわゆる大蔵
大臣でありますが、その伝統を持
つておりまして、イギリスでは総理
大臣のことをフアースト・ロード・オブ・トレジャリーという名前をも
つて今日まで呼んでおります。つまり財務省の第一主任
大臣と申しますか、これがイギリスの総理
大臣の本来の名前であります。プライム・ミニスターという総理
大臣の
言葉を用い出しましたのは、ごく最近の話であります。もともとはフアースト・ロード・オブ・トレジアリー、
大蔵省の第一
長官、これが総理
大臣であります。ところが総面
大臣がだんだん閣議でいろいろな
仕事がふえて参りまして、フアースト・ロードオブ・トレジアリーの役割をすることができない。そこでいわばその次席格に当るカウンシラー・オブ・エクスチエーカーというのが、今日の大蔵
大臣にな
つておるわけでありまして、本来は
大蔵省の
長官というものは総理
大臣だという歴史的伝統を持
つておるわけであります。そういう
意味におきまして、
大蔵省はある
意味では総理庁のような役割を今日ではしているわけであります。現にこの
大蔵省は單に一
官庁としてではなくて、予算の査定につきましては、ちよつとどう訳していいか、インター・デパート・メンタル・コミテイーというのがあるわけであります。インターナシヨナルというと国際という
言葉ですから、省際といいますか、
各省にまたが
つた委員会というものが幾つもございまして、そのインター・デパートメンタル
委員会、つまり省際
委員会というものを非常に重要現して、それらの
意見なりいろいろの勧告に基いて、
大蔵省というものは予算を査定しているわけであります。そういう点におきましての役割とか、今言
つた歴史的
事情を見ますと、イギリスの
大蔵省は、ある
意味では
内閣の
総理府のような役割をしている、こういうように言えるわけであります。今日
日本の先ほど申しましたセクシヨナリズムを打破するという点におきまして、予算という全体にわたるような管理行政の機能をば
一つの
官庁、しかも同時に、なるほど税とか金融というような面は直接予算に
関係あるといたしましても、そういうものの影響を強く受ける金融の問題も、商工業、貿易の問題もすべて同等に予算には反映すべきでありますが、それが特に金融
機関規制の面のみが強く影響するような
一つの省に置いておくことが、はたして妥当かどうかということになりますと、これはそう一概に現在の
大蔵省に依然として予算編成権を置いておいていいかどうかということは、少し疑問にな
つて来るのではないか、こういうように思うわけであります。現に
内閣総理
大臣は、新しい憲法におきまして従来の
日本の
官庁の割拠性を押えるために、非常に強い権限が與えられております。これは明治憲法のもとでは見られなか
つたほどの強い権限であります。これは
内閣制度ができました明治十八年に、総理
大臣の権限を非常に強化した。しかしそうい強いう統制力というものは、一方におきまして
内閣が会議体であるという議院
内閣制の精神を、ともすれば破るということにもなりかねない。そこでこの強い統制力を憲法の上で與えられている総理
大臣のもとに、さらに予算の編成権を持
つて行く、あるいは
人事を持
つて行くということになりますと、イギリスに発達して来ましたようなキャビネットを中心とした本来の議院
内閣制の精神が、そこで消えるのではなかろうか。なかんずくそう申しては何でありますが、
日本の議会の歴史を見ますと、新しい憲法に至るまでは、本来の議会制にふさわしいだけの権限を持
つていなか
つたわけであります。本来の権限を持つようになりましてから、まだ数年のことでありまして、議会制に不可欠のいろいろな慣行というようなものも歴史として持
つていない。これからつく
つて行かなければならないという
事情にある今日特に
総理府というような行政
官庁に強い統制力を與えると、キヤビネツト自身がある程度無力化するのではないか、そういう危険があるのであります。イギリスのような場合でありますと、
内閣総理
大臣の地位は
日本の新憲法で規定されたほどの強い権限は持
つておりません。従いましてそういう伝統のもとで、今言
つたインター・デパートメンタル・コミテイーというような制度も活用されておるということがあり得るわけであります。そういう点におきまして、これをどの点で
調整して
行つたらよいかということ、しかしこれは
行政機構の問題というよりは、むしろ議会制度自身の問題とも関連するわけでありますから、ここでは一応おいておくことにいたします。
それから
アメリカ流の予算局を大統領の片腕にするということ、これは
アメリカの場合において、なぜそれが大統領の独裁をもたらさないかと言いますと、ここではいわば権力分立の原理に従いまして、一応議会と大統領との間が分離されておる。その間に
調整の機能も最近起
つておりますが、しかし議会は議会で、大統領がいかに強力を誇ろうとも、それをチェックする、統制していく別の方法をいろいろ備えているわけであります。そういう点で独裁化を防ごうとしているわけであります。
日本の場合におきましては、イギリスの傾向、つまりイギリスの大蔵
大臣の持
つている特殊な地位、それから
アメリカの予算局の最近の傾向、それから特に
日本のセクシヨナリズムということを
考えますと、予算編成局というものを
内閣の中枢部に持
つて行くということは、これは今後当然の傾向ではないかと思いますが、しかしそれに対するまた別個の統制力というものは、他の方法で
考えるべきではないかと思うのであります。
それからその次に、行政管理を所掌されます統計とか監察、
経済企画と
つたような問題であります。この点におきまして、最近行政管理庁が今度の
改革で相当大幅の権限を持たれるようになりましたことは、ある
意味では現代の行政
組織の趨向にのつと
つたものではないか、こういうように思うわけであります。ただその監察でありますが、監察も部内監察だけでありますと、往々にしてついお手盛りの監督に終
つてしまうということになるわけでありまして、この点におきましても、何らかの形で部外監察というようなものが必要であろうと思うのであります。ただ問題は行政管理というような非常に裏門的な事項を取扱うことになりますると、下手にしろうとがいじく
つて、かえ
つて行政の能率を妨げるというような危険も出て来るわけであります。いかにして識者の
意見をそこに盛り込むか、あるいは国民が行政に対してこういうことをしてほしいという希望を取入れるようにするかという、このいわば部外監察といいますか、そういう制度が特に必要なんであります。これは参考のために申しておきますが、外国においてこうい
つた制度ができますときには、必ずとい
つていいくらいにそれに併置いたしまして
民間の各代表、いろいろの識者の人々から成りますボード、
審議会というものを必ず付設しまして、かなり大幅の監督権限をこれに與えているのが通例であります。そういう点におきましても今度の行政管理庁は、
行政機構の原理という面からはまことに
けつこうな
改革でありますが、その面の配慮が少し足りないのではないかというように思うわけであります。
それからさらに自治庁の問題がございますが、現在の地方自治
団体がそれぞれお互いに対立し合いまして、これを何とかして
調整して行かなければならないという声が起
つていることは、これは私も認めるわけであります。しかしながら同時にそのような対立が財源の問題で、たとえば
中央に依存しているというためにかえ
つて激化しているというようなことも、他面
考えなければならないわけであります。従いましてその解決は、なるほどある程度地方自治に連絡、
調整させる
中央官庁というようなものが必要であるかもしれませんが、それはむしろ集権的な機構を整備するというよりは、むしろもつと地方
団体の自主的な、みずから進んで自分
たちの意思に基いた連絡
団体というようなものにまつべきではないか。あるいはまたそういう問題については、機構を整備してとにかく
中央で指導して行こうというよりは、あるいは区域の変更であるとか、あるいはまたその他財政の問題を
考えるとい
つたような別個の
観点が必要なのではないか。
日本の場合におきましては、とかく一応
中央集権のきすなを放たれて放任されるということになりまして、その弊害が若干出て来ますと、また昔通りの
中央集権の機構でこれを
改革した方がいいという声がすぐ出て来るのであります。それを
考えるもう一歩前に、もう
一つそのやり方でなくて解決する道があるのではないかという点に対して、もつと真剣な
研究と考察をしていいのではないかというように思うわけであります。現にこの
改革案を見ましても、地方自治庁の権限は少し広汎に過ぎると思うのであります。地方自治というものは
中央官庁によりまして育成されたり、あるいはまた指導されるということによ
つて発達したということは、古来いかなる国をとりましても
一つもないわけであります。今日各国で地方自治に対する若干の
中央集権の傾向がありますが、これらは地方自治が発達したあとへ起
つて来た若干の弊害について、これを矯正するためにできておるものでありまして、初めから地方自治を育成するために、
中央集権的な傾向をつくろうということで成功したためしは、おそらくどこの国にも
一つもないとい
つても決して間違いではないと思うわけであります。地方自治庁の機構
改革につきましても、地方
団体の意思の参加ということがある程度稀薄であります。参與であるとか、また財政につきましてはかなり大きな権限を持たされておりますが、もう少し強く地方
団体の意思の反映ということが望ましい。知識につきましては集権、権力については分権というのが現代
国家の地方自治の原理でありますが、その点を今回の
改革は少し逸脱しているのではないかというように
考えるわけであります。
以上が行政
組織、
人事院、予算、行政管理、それから自治庁という問題をとらえまして、私の思いつきました
考えをお話したわけでありますが、この行政
組織の問題と非常に密接な
関係を持
つております行政
運営法案というものにつきましても、一言触れておきたいと思います。このたび議員提出
法案として、
国家行政
運営法案というものが国会に提出されておりますことは、国会が行政に対する監督権を持
つておるという本来の精神を生かし、行政
官庁はすべて国会に対して責任を持たなければならないという近代
国家の基本原理を現わしたものとして、まことに歓迎すべきことだと思うわけであります。今までは御承知のように明治憲法のもとにおきましては、憲法第十条、官制大権、任官大権の原理によりまして、そういうことが困難であ
つたわけであります。今日その趣旨に従
つてこの
法案が出されるということは、非常に慶賀すべきことだと思うのでありますが、全体としてこの原案を見ますと、非常に訓示的規定であるという印象が強いわけであります。もちろんなきにまさるわけでありますが、しかしこの結果、はたして大きな効果が出るあでろうかという点について、はなはだ疑わしいというように思うわけであります。なかんずく行政
運営の基本方針としまして、行政の民主化と能率化の二つの面があると思うのでありますが、この
国家行政
運営法案を通読した印象を申しますと、いわゆる
技術的能率という面に、少し重点が置かれ過ぎておるのではないかというように
考えるわけであります。私は新憲法以来多くの諸
法案が出ましたたびに、行政の能率化ということよりも、まず民主化の方が大事であ
つて、民主化が行われるならばそれは当然よき能率を
考えるということが結果として生れて来る。ただ
技術的能率、
技術的能率とい
つていては、必ずしも民主化は出て来ないということを繰返し強調しておるわけでありまして、またかということにもなるわけでありますが、この問題につきましては、いくら強調しても決して強調し過ぎることはないのではないか、こう思うので一言申すわけであります。このたびのこの
法案で許可に一定の限度を設けておるということは、非常に民主的行政の現われでありますが、同時に行政をやる場合には、人権をそこ
なつたり、あるいはまた憲法に保障しているいろいろの自由なり、あるいは国民の当然得べき生活というものを侵すようなことのない規定を、やはりこの場合にも強くうた
つておくべきではなか
つたかというように思うのであります。こんなことは当然のことであ
つて、わかり切
つたことだから、わざわざこれに入入れなくてもいいのではないかという反駁もあると思うのであります。しかしそういう点ならば、この法規全体がある程度訓示的規定でありますために、ほかの条文についても同様なことが言えるのではないかと思うのであります。こういうような大事な行政の運用方法に対する注意というものは、念には念を入れることが必要ではないかと思うのであります。特にこの
法案は、一九四六年に
アメリカで通りました行政手続法というものをモデルとしておるようであります。そのアドミニストラテイヴ・プロシーデエア・アクトというものの骨子は、最近行政命令が増加して来る傾向にかんがみて、国会の目の行き届がない行政命令によ
つて人権が損害されるかもしれない。それをできるだけ守ろうとしてできたのがアドミニストラテイヴ・プロシーデユア・アクトの基本精神であります。従いまして、もしその
法案を参考とされてこの
法案ができたといたしましたならば、やはりその点も特に御配慮願いたか
つたというように
考える次第であります。特にこの
法案につきまして、先ほども申しました行政監察に関する規定がありますが、この規定では、大体におきまして部内監察を中心としておるようでありますが、部内監察につきましては、先ほど申しましたような理由によりまして、いま少し部外的監察
機関というものを設けまして、その
意見を徴することが
ほんとうの民主的行政
運営の目的に合致するのではないか、こういうように
考える次第であります。
はなはだまとまりのつかない話になりましたけれども、行政構機
改革を御
審議なさいます皆様方の御参考になれば、幸いと思うのであります。