○
松木説明員 沖繩の
遺骨、
遺品の
状況について御
報告いたしますが、その前に
沖縄の
人々は、
遺骨に対しましてどういう態度をと
つておられるかということ、それから
戰鬪が始まりましてから、
遺骨に関連する事項はどういう経緯をたど
つて来たかということが、
関係がございますので、まずこれについて申し上げます。
沖繩の
人々は
祖先崇拝の心が非常に厚うございまして、
自分の
家屋よりも
墓地を大事にされまして、多額の
費用を投じて墓をつくる。そうして仏事の日には墓前にござを敷きまして御供養するという
習慣がございます。この
墓地には戦前の
費用で三万円もかけてつく
つたのもあるというような
状況で、これは
内地と非常に違うところでございます。それから
沖縄の
人々は、なくなりました人を生のままの
からだで棺に入れましてそしてこういう
墓地の中に納めます。そして
ふたをいたしまして二、三年たちましてからこの
ふたを開いて、中から棺を出します。そのときは骨ばかりにな
つて肉は落ちておりますので、その
からだを河原のところできれいに洗いまして、これを
洗骨と申しますが、
洗骨いたしましてから、これくらいの
かめの中に生の骨のまま
頭骸骨を一番上にして入れて、そしてその上に
ふたをいたしまして、この中に納めます。それでこの
かめの中にありますお骨に対しましては、永久に対面ができるという
習慣でございます。
以上のようなわけで、
沖縄の
人々に接触いたしまして感じますことは、
沖繩の
人々はお骨に対しましてはこれを恐れない、恐怖しない、しかしながらお骨に対しましては非常に畏敬の念を拂う、尊敬する、こういう感じを受けます。この
考え方が
一般の
自然洞窟なんかにも及ぼされておりまして、こういう
墓地の中には生のお骨のまま入
つておる。これは独立した建物にな
つておりますが、多くは山の
斜面にこれができております。従いまして山の
斜面なんかに入
つております。この
洞窟の中に死んでそのまま
白骨とな
つておる人がたくさんあるわけでございますが、そういうお骨に対しましては、こういう
墓地の中にあるお骨と同じような
考え方をしております。
次は
遺骨、
遺品、これに
関係します。
沖繩戦鬪の
経過について概要を申し上げます。第三十二軍は、
主力をもちましてこれから南の
地区を占拠いたしまして、ここで
持久戦闘をやり、一部をもちましてこちらの
中頭郡
国頭郡という
方面で遊撃的な、ゲリラ的な
戰鬪をするということでございまして、それは
兵力が少か
つた関係でございます。この
沖縄の
戰場化ということが予想されましてから、
内地の方に学童その他の
疎開をやりまして、その数は約十万といわれております。それから
昭和二十年の初めごろから敵の
上陸も近いという
状況になりまして、この
地区に
戰場を予想しておりますので、この
地区の
人々のうちより年寄り、子供というような
人々を
国頭方面に
疎開をさしております。その他の
人々につきましては、
米軍が
上陸いたしましたならば、軍の方で指導いたしまして、
国頭方面に
疎開させるという
状況にな
つておりまして、二十年の一月から二十年の三月までの間に
疎開してお
つた人が約三万、それから三月の末から
艦砲射撃が始まりましたが、そのころから
あとに
疎開しました人が約三万、こういう
ぐあいにいわれております。こういうあわただしい空気の中におきまして、
沖繩に派遣せられておりました
将兵は、
沖縄の
人々にいろいろ
遺品となる品物をお預けにな
つたというようなことが相当あるようでございますが、
あとから申しますが、全
本島が
戰場になりましたために、すべての人が無一物でさまよい歩かれたという
状況でございますので、そういうのはほとんど残
つておりません。
次は
沖縄戰鬪の推移と
遺棄死体の
処理でございますが、四月一日にここに
上陸をいたしました
米軍は、これを瞬時に両断いたしまして、
主力をも
つて南の方を攻撃し、一部でも
つてこちらを攻撃するということになりました。その前に三月の二十六日に、こちらにあります慶良間島、
座間味島、渡嘉敷島というような
方面に
上陸しております。四月十五日に
伊江島に
上陸するというようなことで、
戰鬪が始まりましてから、各
地区の
戰鬪の
状況はかわ
つております。その
戰鬪の特質に応じて
遺体は
処理されたということになります。この
地区におきまして、
米軍は、御
承知の
通り物量攻撃とよくいわれておりますが、
厖大な
軍需品を利用いたしまして、またたく間にブルトーザでも
つて大きな道路を建設をする。川には鉄橋みたいな金網みたいな橋をかける。そういうふうにいたしまして、
自動車道の推進をする。たくさんな
軍需品を運びまして集積をする。それからそのほかには
幕営地をつくるというようなことで、
米軍が
作戰上必要とする地積がたくさんできて来たわけでありますが、
〔
委員長退席、
池見委員長代理着席〕
その
地区に遺棄されておりました
死体につきましては、
米軍は投降いたしました
沖繩の
住民を使役いたしまして、その
地区の
遺棄死体を集めて埋葬したという
ぐあいにいわれております。そのこまかい
状況はよくわかりませんです。この戦場には至るところ陣地があ
つたわけでありますが、この
厖大な
死体は百七十万トンに及びまする
鉄量のために、壕で埋没したものが多いと考えられます。
遺骸を戰友が
簡單に埋葬したというようなのが、これは相当多数あると考えられます。いろいろな
記録を見ましても、
野戰病院等で、夜間を利用しては
遺骸を出しまして
簡單に埋葬したというような
記録がたくさんございます。大きな
投下爆彈の彈痕がありますと、その中に
死体を入れる、そうして土をかけまして、その上つに目印の石を置く。ところがほかの人が知らないで、その上に
死体を入れて土をかけて石を置く。またそれを知らない人がその上に
死体を入れて砂をかけるというような事態が随所にあ
つたようでありまして、
あとで
心あたりのところへ
行つた住民の
人々が掘
つてみますと、土、
死体、土、
死体というような
状況があ
つた、こういうことも聞きました。これから南の方でその
戦闘間に立てた墓標というのは、わずかに
首里で一箇所だけございました。
それからずつと南の、現在は
三和村とい
つておりますが、そこの一
部落で負傷した人が、倒れたままの姿勢で木に
自分の名前を掘りつけて、その下に
白骨にな
つておられたというのが一箇所だけございます。それ以外には、今のような激しい
戰鬪の中ではつきりとした証拠を残している
墓地と申しますか、
遺体と申しますか、そういうものは見当りません。六月二十日に各
部隊とも連絡が絶えまして、これら
部隊の
指揮はできない。各
部隊はそれぞれの位置におきましてできるだけ
戰鬪するようにということになりまして、その以後におきましては、生き残りました者は、
敵線を突破して
国頭方面に出るとかいうようなこともあ
つたのでありますが、そういう
関係とか、あるいは六月でありまして、現在でも向うの人は短かい
開衿シヤツ一枚でおりますが、六月の暑さで、しかも
戰鬪の末期の状態でありますから、
簡單な
服装をしておるというような
状況で、
住民と軍人との
服装の区別もほとんどつかなくな
つてお
つただろうというようなことも考られます。大体こちらのりらの
戰鬪間の
経過についてはそういう
状況でりあります。
中頭、
国頭方面は、それと比較をいたしますと、
住民がたくさんおり、
部隊はごく
少数でございまして
遊撃戰鬪が行われた。従いまして
遺体処理もいくらか
南方とすると恵まれておる
状況にあるということが考えられます。
座間味諸島、こういうところにおきましては、
部隊の
兵力は非常に少く、
住民と兵士が仲よく交わ
つておりまして、お互いに名を知
つておる。何々
上等兵がここでなくな
つておるというような
ぐあいで、
住民がすぐ拾
つて埋葬してくださ
つたというようなことが
特色をなしております。
伊江島は
米軍が
上陸いたしましてから、ここは玉砕した。そうしてその
あとにおきまして、
住民を全部ほかへ移した、こういうのが
特色にな
つております。
次は、今のような
戰鬪が
終つてから、
住民は
収容所の
生活に入
つたわけでありますが、その
収容所の
生活が
終つて各村に
帰つて来るようにな
つた。それまでの
遺骨をめぐる
状況について申し上げます。
アメリカ軍は
作戰の進捗に伴いまして、投降いたしました
住民を久志あるいは東村、知念、
三和村の一部、こういうところに
収容所をつくりまして
住民を全部隔離しております。そうしてそれ以外の全
戰場は
住民が一人もいない
地域にする、
家屋のない
地帶にする、そういう
ぐあいにいたしまして、残存して
抵抗する
日本軍将兵の掃蕩に力を盡したと考えられます。長期抗戰を企図いたしまして
各地に
将兵が残存
抵抗しておりまして、一例を申し上げますと、ここに、糸満の東南のところに
国吉というところがございますが、
国吉の
自然壕の中では、北海道の歩兵第三十二
連隊の
将兵が
抵抗いたしまして、これが
終戰を知りまして、
連隊旗を燒きまして
武装解除を受けたのが八月二十三日のことであります。それからこちらの方では、
国頭の方で
村上護郷隊長以下が山を下
つて出て来ましたのが二十一年一月でございます。
伊江島におきましては、今のように
米軍が占領して
住民を
佛つてや
つてお
つたのでありますが、
日本軍が再捜して来たならば、一番先頭にな
つて案内するというかつこうで
武装を完全に持
つたままで二人の人が隠れておりました。その人が出て来ましたのが
昭和三十三年、これは
伊江島でその当時の
状況をお聞きしました。こういう
ぐあいで、六月の二十日に組織的な
抵抗が終りまして、大体
沖縄の
戰鬪は終末を告げたというものの、その後におきまして
各地に残存した
将兵が
抵抗を続けまして、従いまして依然として
戰場状態が続いてお
つたということであります。それで今までの間に百四十七万トンの
鉄量と火焔に翻弄せられた
死体は、こういう長い
期間風雨にさらされまして、完全に
白骨と化し、
氏名を弁別する目じるしとなるようなものはすべて腐蝕してしま
つたということであります。
住民は今のように隔離されておりましたが、その
地域から各村に
帰つて来ましたのは、早くて一年、おそくて二年、三年というぐあいにな
つております。現在でも、
米軍の使用しております
地域は復帰できないでおります。この村に帰ります
状況は、まず若い人を派遣いたしまして準備をさせる。それからその村の中のある一
部落を
限つて住民を移住させる。次いで次の
部落つに拡張して行かせる。また次の
部落に行かせるというかつこうで、
一つの村に、全村民が元の
自分の古巣に帰るというのには相当の
期間を
経過しております。そこで
収容所から
住民が
帰つて来たときは、
戰鬪直後においては、
全島赤はげになりまして
——赤はげと申しますか、白い灰色の土と申しますか、そういうふうなぐあいにな
つておりましたところに、青い草が一面に生え茂
つておるという
状況にな
つてお
つたとのことでございます。それで完全に
白骨化した
遺骨がその青草の下に隠れてお
つた、こういうことでございます。今のような
状況の中で、
那覇と
首里とのまん中のところに
真和志村というところがございますが、
真和志村の
人々は、
米軍がここに
上陸しまして、ずつと押して来るこの間に、
住民は一緒に押されてこちらに来ておりましたわけで、この付近の帰没した
真和志村の人は、この村のここのところに集結してお
つたわけでありますが、この
収容所生活の間に、願いを出しまして
遺骨收集を初めまして、有名なひめゆりの塔とか、健兒の塔とか、魂醜の塔とかいうのを建てまして、その後におきまして、
真和志村の方に、さつき申しましたような
状況で
帰つております。
帰つてまた
自分のところの
收骨を始めております。こういう
状況でございます。この
地区だけを
真和志村の
人々がや
つてくれた以外は、先ほど申しましたように、
住民が
帰つて来るまでは
遺骨はそのままであ
つたということであります。
次は、村に帰りましてからの
遺骨の問題でありますが、
住民は無一物で、飢餓にさいなまれながら、三箇月間鉄の暴風下を彷徨いたしまして、次いで
收容所で自由を奪われてお
つたのでありますが、それから村に帰りました。
〔
池見委員長代理退席、
委員長着席〕
その村に帰りましたときの
状況は、御想像がつくかと思いますが、
帰つてみますと、まず家が全部焼き放たれておるということ、それから先ほ
どもお話がありましたように、全
沖繩本島における人の損害が三三%でありまして、従いまして
肉親の顔が見えない、あるいは親類の顔が見えない、友達の顔が見えない。各家庭とも一家五人平均としますと、そのうちの二人くらいは死んでおるという平均になります。それから畑は砲弾でくつがえされてしま
つておりまして、青草が生えておる。今まで山に木があ
つたところのその木が全部なくな
つております。従いまして食を得ようにも畑は
荒廃しておる。燃料を切り出そうにも、山には木は一本もないという
状況、ただ気候が暖かいところでありますから、被服類、寝具類についてはそれほどの不自由を感じない、まあそういう状態が考えられます。そういう状態で
住民は
帰つて来たんでありますが、まず
自分の焼け跡に帰りまして、家の跡を、清掃する、そこにある
遺骨を收集する。そうしてその
あとに、付近からかやを切
つて来まして屋根をふいたり、簡単な小屋がけをする。それが終りますと、まわりの畑を草を抜いて種をまく。その間に畑の中に落ちております
遺骨を収集する。こういう状態になりまして、その間まわりの付近から
遺骨を收集するわけでありますが、ま
つたく
白骨とな
つてお
つてだれのかすべてわからない。
肉親をたくさんなくしているわけで、その場所にはたいてい覚えがあるわけでありますが、行
つて見ますと、どれがだれだか全然わからないという
状況でございます。向うの話を総合いたしますと、
沖繩の
人々で、
自分の
肉親の
遺骨を拾
つた者は一割以下、こういう感じを受けました。集めました
遺骨は、
部落の
人々は協議いたしまして、その
部落のある一箇所に地をトしまして、納骨をいたします。その
納骨所として選ばれましたところは、大体高燥な乾燥した
自然壕であります。
住民は耕地を広げて行きます際、
遺骨を発掘する。あるいは家の屋根をふきましたり、燃料用とか肥料用とかいうかつこうで山の草を刈りに行きますが、その草刈りに行
つたときに
遺骨を発見する。そういうたびごとに
遺骨を持
つて参りまして、ただいまの
納骨所に納めます。それ
からだんだん余裕が出て来るに従いまして、配給のうどん粉でまんじゆうをつく
つてお供えをする。あるいは
部落の行事としまして、今まであまり行かなか
つたところの一齊
遺骨收集作業をやる。それから
納骨所をだんだんいい
納骨所に改装して行くという
ぐあいにいたしまして、集めました
遺骨は、すべて
部落民全部の共同の
墓地と申しますか、
部落のお守りである、氏神であるというような
考え方に立ちまして、通常毎年二回お祭りをいたします。
部落によりましては、奉納相撲をや
つたりしている。こういう状態でございます。
沖繩の小学校は、ここにも写真がございますが、約九割というものは一教室ごとの掘立小屋でございます。ちようど
内地の都営住宅、あるいは市営住宅というようなぐあいに、行儀よくうちが並んでおる。これは小学校でありまして、今申しましたように一教室一戸、掘立小屋で、屋根はかやでふいておる、窓ガラスも何もない、土間に机と黒板を置いておる、こういうのでございます。そういう苦しい現状でございますが、そういう苦しい中で醵金をし合う、あるいは募金に努める、こういう
ぐあいで、逐次石あるいはコンクリート製の塔に改造せられて来ております。南風原村、それから
伊江島というようなところでは、村の全
遺骨を一箇所に集めまして、
一つの大きな納骨塔をつく
つてございます。これも写真にございますので、
あとで見ていただきたいと思います。この一箇所にまとめるにつきましては、各
部落の人は、
自分の
部落にある
納骨所には、
自分の
肉親や親類の
遺骨が入
つておるのだ、従いまして、それを村のまん中に持
つて行かれることは不同意だ、こういうような気持を持
つておるところもあるようでございますが、全般としましては、村全部のものを一箇所にまとめようという方向に動いておるわけであります。
真和志村の納骨塔には、「有縁無縁の塔」と表の方に書きまして、裏の方に、向うの文句でありますが、「あはりちりなさやいくさのならいやすんじてこまにねむてたほれ」こう書いてあります。これは
内地出身の軍人、軍属、それ以外の
沖繩の人、それらの御
遺骨が一緒にそごに入
つておりますわけで、そのうちの
肉親の人、
部落の人の御
遺骨は有縁の御
遺骨と考えております。それ以外の
内地から来た軍人、軍属の
遺骨、それから他村の人の
遺骨、これは無縁の
遺骨と考えておりまして、有縁、無縁の
遺骨に向いまして「あわれ苦しみの多きは戰の世のならいで、まことにやむないことである。どうか安らけくここに永眠していただきたい。」こういう意味の句でございます。そうして祭
つてあります。大体至るところに——
全島で二百ほと著名なのがございますが、南の方に特に各
部落ごとに全部できております。この
納骨所の大
部分に有縁、無縁という言葉が使われております。
次は最近における
遺骨收集の
状況について申し上げます。最近におきましては、
内地出身の
人々で土建業者として出て来ております
人々、あるいはそのうちでも
沖繩戰の生残りの人、それからそちらの写真にあります仏教会の
人々、それから各種学校の生徒、諸団体というような
人々が
收骨作業に努めております。
以上のような
状況でございますが、
沖繩の
遺骨は現在どういうぐあいにな
つているか、これについてまとめて申し上げますと、まず地表面上の
收骨の
状況につきましては、大
部分が
終つておるということが言えます。
部落の中、耕地の地表面、ここには全然残骨はございません。道路及びその周辺の目の届くところ、ここにも
遺骨はございません。これはどんな丘陵、奥地のい道にしましても、その道路上あるいはそのまわりの目の届くところ、そこらには全然
遺骨は見当りません。それ以外の山野、それから海岸、こううところには、もう
一般には見当りません。ただ
国頭方面の各山岳の奥深いところ、それから浦添宜野湾付近の奥地、それから與座岳、八重州岳
地区、それから
三和村海浜
地区、こういうところの——先ほど道路のところは申しましたが、そういう道路を除きました一番奥深いところ、そういうところには若干まだ草に埋もれたところに
遺骨が残
つているようでございます。それから
米軍が使用している
土地がございますが、その内部の
状況はわかりません。
住民はいかなる場合におきましても、
遺骨を発見いたしましたならば、必ず丁重に持
つて来まして、
納骨所に納めております。地表面の
状況につきましては、以上の
通りでございます。
次は、
洞窟の中の
遺骨の
状況でございますが、
洞窟の
状況についてちよつと申し上げますと四、五百メートルも離れた
部落の下をずつと貫通しておるという、大きな長い自然の
洞窟がございます。中に入
つてみますと、東本願寺、西本願寺に入
つたときの感じみたいな大きな内部の
洞窟がございます。あるいは二段にわかれ、三段にわかれ、いろいろなかつこうをした鍾乳洞の自然の
洞窟が至るところたくさんございます。そういう
洞窟の中の
状況につきましては、
洞窟内の
遺骨は、
一般にほとんど収骨せられていない
状況でございます。完全に収骨せられているというのは、さつき申しました三十二
連隊の入
つておりました壕の中、ここは全然見えません。それから都市に近いところの壕で、トンネルみたいなもので、ごく短かい壕、あるいは奥行きが二、三メートル程度のだれでも入る壕、こういうところは
遺骨はございませんが、それ以外の
自然洞窟の中には、相当
遺骨がそのまま残
つております。そういう大きな
洞窟の中の
遺骨がほとんど収集されていない。その理由につきましては、次のように考えられます。
先ほどちよつと申し上げましたが、
住民はそういう壕の中にあります
遺骨につきましては、ちようど向うの様式にあります、
墓地の中に保管せられている
遺骨と同じ考えをしておるようでありまして、こういう
洞窟内の
遺骨は、すでにそこに安心立命しておるのだという
考え方、こういう
洞窟の中には霊気と申しますか、そういうものを感じまして、またそこの中に入るのは罰を受けるような感じ方、そういう感じ方をしている次第でありまして、青年、少年でもこういう
考え方をしております。それから落盤の危険のあるものが相当ございます。それから過去におきまして爆発物の危険があ
つたというようなこと、なお
部落の人さえも知らない
洞窟が相当ある、こういうことでございます。
次は、こういう
洞窟内の
状況について申し上げますと、
洞窟の中はほとんど全部が湿
つております。雨水が流れ入りまして、土砂が入
つて来る、あるいは側壁等の一部が崩壊しているという
状況でございまして、たま
つております水、あるいは湿
つております湿りけのために、ゴム長をはいて入らないと入れないというような所が多うございます。先ほ
ども洞窟の大きなものを申し上げましたが、そういう
洞窟は、雨の直後に入りますと、
洞窟の一番下の所は音を立てて地下水が流れております。それから上の方からは、鐘乳洞のつららの所から、ぽつぽつと水滴が垂れているというような
状況でありまして、大体雨がやんだときでも、
洞窟の中は灘潤しております。
それからこの
洞窟の中の
遺品の
状況でございますが、今のように灘潤しております
関係上、きれとか紙とか、こういうような繊維製品は全然残
つておりません。残
つておりますのは鉄製品のものが大
部分でありまして、まれに皮革類で残
つておるものがございます。
洞窟内の
遺骨の収集につきましては、今申しましたような
状況で全然手がついていなか
つたのでございますが、最近
沖繩仏教会の
人々、あるいは
内地から渡航しております業者の中の一部の
人々が、収骨あるいは
遺品の収集ということに着手をしておられます。
次は、入口を閉塞せられておる
洞窟の
状況について申し上げます。入口を閉塞せられております
洞窟は無数というほどございます。その閉塞せられている原因は、ささえておりました抗木が腐
つて落盤したというもの、あるいは山の中腹にありましたのが、がけくずれによりましたも一のでありまして、この中はわかりませんが、これをかりに発掘いたしましたとしましても、名前がわかるのは数名というほど
少数と考えます。個人の
墓地は、
住民で特に名前がわか
つて埋葬しておられたというようなのがごくまれにあちこちにございます。あちこちと申しましても、先ほど申しましたように比較的戰況の閑散な
方面にございます。
次は、納骨場の
状況について申し上げます。納骨場を大別いたしますと、コンクリしト製のもの、それから石材でつくりましたもの、それから自然の石で四方を壁につくりまして、その上をかやでふいたもの、それから露天の納骨場、大体こういうものにわかれます。これは村の経済状態とか、その他いろいろなことに起因をしておりますが、大きな納骨堂になりますと、高さが六、七メートルになるものもございます。それから幅が六、七メートルにも及ぶものがあります。たとえば魂魄の塔というものがありますが、この中には三万百六十柱収容せられております。そういうような大きなものがございます。
伊江島に芳魂の塔というものが
一つできておりますが、これは全
住民、全村民の奉仕によ
つてできたもので、作業費は全然出しておりません。ただ資材費だけを出したのですが、この資材費に向うの金で十三万円、
内地金にいたしますと三十六万を投じてこれが昨年でき上
つております。