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黒田参考人 私が
黒田でございますが、私の方からわざわざお願いしてでも申し上げたいと
思つてお
つたのでありますが、その機会を與えられましてたいへんありがたく存じております。
終戰よりという問題でありますが、私は御
承知かしりませんが、
フィリピンの十四
軍司令部に行きましたのが
昭和十八年の五月二十九日です。やめましたのが十九年の九月一ぱいにやめて
山下氏に引継いだのであります。それからすぐ内地に帰
つて来ておりまして、
終戰後すぐ
アメリカ軍に
ひつぱられて向うの横浜の宿舎から
巣鴨に参りまして、ずつとそこにおりまして、一九四七年、二十二年の十月に
フイリピンに連れて行かれたのであります。それで
終戰当時の
フィリピンの
状況というものは人から話を聞きましたけれ
ども、人様に申し上げられるようなだけの知識はありません。ただこの
フィリピンにおける
戰犯裁判ということのごく概略、この第一項については申し上げたいと
思います。
フィリピンのいわゆる
戦犯裁判は
最初は
アメリカ軍がや
つたのであります。そうして
山下氏以下ずつと
アメリカ軍がや
つて、それが一九四七年の始まりまでや
つた。その後は
アメリカ軍が、まだやりたいものは今度は
フィリピンでやらぬで、
巣鴨でやるということにして、おもに
フィリピンに関する
裁判は
フィリピン政府にやらせると、こうな
つたのであります。そこで私は参りましたのが一九四七年の十月でありまして、
フィリピンの
裁判がもうその年の八月から始ま
つておりました。
アメリカ軍の
時代の
裁判で
死刑の
判決を受けた人で、
死刑の
執行をまだや
つてない人が私が
行つたストツケードに残
つておるのみで、もう
有期、
無期並びに将来
アメリカ軍で
裁判を受ける
容疑者の人は
巣鴨に参
つておりました。そこで
フイリピン政府による
裁判は一九四七年の夏から始まりまして、一九四九年一ぱいありました。そうしていろいろ
容疑者で
裁判を受けたが、
無罪にな
つた、もしくはもう
裁判も受けなか
つたというような人の最後の
引揚げが一九五〇年、一昨年の冬にそういう人がみな帰
つた。そこで刑は受けたがもう刑を
終つたとかいうような一部の人、それから一人
特赦にな
つた人というのが去年のたしか三月に帰られました。
そういう
経過をたどりましてこれは第二項になりますが、現在まだ
フイリピンに残
つておりますのは、
死刑囚がおおむね六十人と記憶しております。
有期、
無期が五十人、総計百十人と私は覚えておりますが、
フイリピンの
裁判によ
つて死刑の宣告を受けた人で、去年の一月十九日までに
死刑の
執行をされた人が十七人、今おる
死刑の
判決を受けた人が六十人おります。この
フイリピンの今おるおおむね百十人の人は、
最初私
どもが行
つたときまで、
裁判は
フィリピンでするが、
管理は
アメリカでやるということでや
つてお
つたのであります。そこでもう
無罪で帰るとか、もしくは起訴しないという者は、
アメリカ軍時代は非常に容易に船の
世話をしてや
つてくれた。ところが一九四八年の十二月一日から
管理が
アメリカの手を離れて
フイリピンでやることにな
つた。それと
一緒に、それまでマンダルヨンという
マニラの東方の
ストツケードのキャンプにお
つた者がただいまおります
マニラ南方三十キロの
フィリピンの
刑務所、
フィリピンの
一般の
囚人がおる
刑務所は
モーンテンルパという町ですが、そのビリビツド・プリズンというところに一九四八年の十二月一日から收容されておるわけであります。そこで大体
給與とかいうようなことを申し上げたいと思うのですけれ
ども、今大体
有期、
無期がどうな
つて、そして
死刑囚の
取扱いがどうな
つておるかと申しますと、
死刑囚は
一つの大きな
部屋、まあ小さい小
部屋があ
つて、それが全部廊下でつなが
つていて、各人の
部屋はたいてい日中はあけつぱなしで、六十人は日中はおおむねお互いに
連絡できる。但し外には運動以外には出られないということにな
つております。
有期、
無期の方は、ま
つたく別な建物に、同じ一
部屋でありますが、朝五時にドアがあかれば、晩の
人員点呼に来る七時か八時ころまでは、その
部屋の出入りは自由にできるというような
状況にな
つております。
死刑囚はむろん労務はありませんが、
死刑囚のうちで三名が今犬の
取扱いをするために使われて、
モーンテンルパから外に働いております。それはマツキンレーという兵営でありますが、そこに犬の指導といいますか、そういうことで使われておる。
有期、
無期のうちでは二人だけが陸軍の
参謀本部に出されて、今の
掃除とかいうような
仕事を
せんだつてからや
つておるようであります。そのほかの
有期、
無期の四人は
局長のところの庭園に使われ、
旋盤工に七、八人、
発電作業のために三名がわれわれ以外の
仕事に使われ、そのほかわれわれの洗濯、炊事、それから
掃除、それから食事の分配、運搬というような
仕事のために働いております。大体
フイリピン政府もしくは
刑務当局者の
取扱いは、規則の許す
範囲において十分に寛大に取扱
つてくれておるということは、私は申し上げられると
思います。非常に
好意をも
つてや
つてくれています。この
モーンテンルパにどうしてわれわれを移したかということにつきましては、一番
最初一九四八年十一月一日に私
どもが行きましたときは、今の
局長ではありませんで、われわれが行
つたときの
局長、苗字をミサとい
つた人でしたが、その息子さんは
日本に留学したような方で、実にわれわれに
好意を持
つた人でしたが、その人の話では、あなた方を普通の
囚人の
モーンテンルパに入れるということは、あなた方を虐待するという
意味じやないんだ、むしろ私が主張して入れたんだ、あなた方の持
つておる
技術そのほかの
技術、何でも模範にな
つていただいて指導していただきたいというために、私がわざわざ
政府に願いしたのでありますというような話をしたくらいでありまして、全般的に非常に
最初から精神的には
好意を持
つてや
つてくれております。しかし
食糧なんかは、大体が
フィリピンの
囚人のための
食糧でありますから、むろんいいことはありません。特に悪いという原因は、話を聞きますと、先はよか
つたそうですが、やはり
物価騰貴で、予算は上らない、
物価は上るというので、この三、四年はだんだん苦しくな
つておるということを
局長がよく
一般に言
つておりました。ですからわれわれをいじめるという
意味で悪いのじやありませんで、
一般の
囚人の予算が上らぬので、結局は悪いということにな
つております。しかし内地から始終送
つていただいておる粉しようゆ、粉みそというようなものについても、われわれ百十人のために特別に同じ材料でおかずを別につくる。実際問題としては、幾分炊事の先生たちが
好意をも
つておれば、百十人という者は少いのですから、炊事の人とこつちの意思の疏通で、割合にそこは
フイリピン人よりもよく
行つておるということは申し上げられると
思います。昨年の夏ごろから前の庭の芝生を掘り返して野菜を植えるようになりました。それでずいぶん助か
つておりましたが、これも二箇月おきに収穫してや
つたので、半年そこそこで肥料はないし、土地の力がなくな
つて、どうもあまり芳ばしくないようになりまして、何とか
研究しなければいかぬだろうということで、私はこつちに
帰りましたが、まず
食糧の方はそういうぐあいであります。しかしそれがために、今
給與が悪くて栄養失調にな
つておるというようなことは、私には見受けられません。米は質は悪いけれ
ども多いのであります。タバコはもらえません。もらえませんが、私は
自分自身がタバコをのみませんけれ
ども、どういうぐあいにしてか、いろいろのんでおるようですが、
給與はありません。それから工場で働けば一日に十センタボか二十センタボかの給料がありましてその給料の半分は
自分のおる間に使えるというわけです。十センタボで一箇月に三ペソ、その三ペソの半分、一ペソ半はタバコを買
つても何を買
つてもいい。
あとの一ペソ半はあそこの
モーンテンルパを立つときに金がもらえる、こういうわけです。しかしその
人たちは今十人くらいしかおりません。何しろ長い人は開戦当時から
フィリピンにおる人がおりまして、みな
帰りたいという念においては実に同情をする次第であります。私は今言
つたように
終戰後に参りましたものでありますから、まだまだこれで短かいのですけれ
ども、とにかく開戰当時から
行つた人がまだおるのです。もう十年にもなる人がおるのです。実に気の毒な次第であります。
病人は元来喘息を持
つた人が一人おるのですが、その人が喘息をわずら
つております。それからこの間一人肺病にな
つた人がおりまして、これは入院をして盛んにストレプトマイシンを注射してもら
つておりましたが、今のところは
大分いいように私は考えておりました。そのほか普通の病人としては大したことはありませんが、歯が悪い人が
大分おりました。結局、歯医者は歯の治療はするが、入歯をする義務がないというのが建前らしい。そこで金を出さなければ歯は入れてくれない。
日本の赤十字から入歯の材料を
せんだつて送
つてもらいました。二回くらい送
つてもらいましたが、その材料で入れ賃にしてくれというような話をしましたけれ
ども、向うの歯医者がいうことをきかない。結局材料はあ
つてもほかに五十ペソか幾らかやらなければ入れてくれないというような
状態で、歯の悩みのある人が十人何がしくらいおりやせんかと
思います。つ
第三の同
胞引揚げということについては、私たちは向うにお
つたきりで案も何もありません。ただ、今申しましたように、今のところは
死刑の人がまだ六十人おります。話を聞きますと、もう大丈夫だ、講和條約が批准できればすぐに帰すのだということを会う人ごとにみな言
つておりますから、安心はしておるようなものの、まだ
判決がこうな
つておる以上は油断がならぬ問題だと、実に皆心配しておるような次第であります。それとこの
引揚げということと両方
相当にむずかしい問題が残
つておるので、この点を大いにひとつ内地の皆さんのお力で、お願いをしたいと念願をしておる次第でございます。大体の御説明はそれだけであります。