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参考人(桑原武夫君) 私は遠隔におりますので御通知を受けましてから、資料はありましたが、十分資料等を調査する暇がございませんでしたので、誠に相済まん次第でございますが、平生
考えておることを申上げさせて頂きます。それでこの問題は
名前の問題でございますが、実は一般
国語・国字問題と全般的な連関を持
つておると
考えられます。これだけを單独に
考えることができないと思います。そういたしますと最近東京大学の出版部から出ました「日
本人の
読み書き能力」という、こういうものを持
つて参
つておりますが、大きな調査書が出ておりまして、これは占領軍、それから日本の教育研究所、代表者は務台理作博士にな
つておりますが、実に大きな努力を費やしてなされた、世界で最初の
国語の調査である、世界でこれが最初であります。そうしてこれは科学的にも最も尊重すべき
材料だと思います。これによりましていろいろ試験をいたしたのでありますが、問題は常用
漢字内の研究であります。警官でありますとか……履歴書、一番むずかしいのは履歴書であります。その程度の
読み、書き、そういう程度であります。そういうものを日本全国にデイメンシヨン・システムでやりましたが、そういたしますと、それを満点、満点と申しましてもそのときの気分等で、不注意がありますから満点を下げまして九十点、八十一、三点以上を満点と見ると、満点を取
つた人間が日
本人でどれだけあるかというと、日本全国で六・二%であります。これは実に驚くべきことでありまして、常用
漢字の程度で、一番易しいのはミシン、マツチなどを含みまして、六・二%。日本は初等教育の普及率は世界最高でありまして、
ちよつと今数字を忘れましたが、九三・四%……、勿論先生がたの教え方の御努力を一層願わなければならんのは勿論でありますが、にもかかわらずとにかく九三%の者が初等教育を完全に終えておりながら六・二%、このことは要するに日本の
文字、或いは
国語全般に何か欠点があるということをまあ予想されるわけであります。そういう
意味からして、戰後常用
漢字ということができたのであろうと思います。常用
漢字等につきましては、あとで
土岐参考人の御専門でありますから、私が申しますことは差控えます。ともかく常用
漢字というシステムができておる、この際この法案の改正案にございますように、無
制限に何でも届出人の自由に認めるということになりますと、一方において常用
漢字で国民を教育し、小学校、中学校皆そうでございますが、そうして法律その他を改正しておきながら固有名詞の分はそれと逆の方向で取るということは、大変国家の政策として矛盾を生ずることになる。そうして若い者を大変思想的にぐらつかせることになる。思想と申しますか、
国語に対する
考え方に対して大変大きな……小さいようでありますが、動揺を与えるということになると思いますので、御愼重に願いたいと思います。そうして私は
結論から申しますれば、この法案のように何でも改めればよいということは、私は
参考人として反対をいたしたいのであります。それで常用
漢字の方策を、これ以上きびしくするということは問題といたしませんが、とにかく保
つて行くといたしますれば、無
制限に殖やすことは困るのではないかと思います。それで私は大学を出ましてから現在に至るまで、二十数年教師
生活をいたしておりまして、姓名のほうは今日の問題なんでありますが、教師をして多少
文字を解する
人間でありますが、教室に行
つて出欠を取りますときに、四十人なら四十人の
学生の出欠をとるときに、その
名前を完全に御
本人の希望するように読めたことはまだ曾
つて一度もございません。これは、君、どう読むかということを聞いておる。たくさん生徒を扱
つておるから、又その次行くと生徒はそうじやありませんということを育
つて、若い
学生だから文句を
言つて来るのである。それで如何に
読みが困難であるかということがわかる。このことは選挙のとき一番はつきりいたしますので、今度の地方選挙におきましても候補者が
自分の
名前に片仮名、平仮名を書いているということは、如何に民衆にはむずかしいか、伝えにくいかということがわかるのです。もう
一つは世界で、
自分の
名前に振仮名をつける、
文字がありながらもう
一つ横へ
文字を差し加えるということは、世界で日本だけでございまして、中
国語はむずかしいと思いますが、常識的な大体の見解ができておりまして、これは法律ではございませんが、それの
読みは蒋介石、毛澤東というあれ以外に毛澤「ひがし」と読むわけに行かないので、
読みが一定しておるので、日本より簡單でございます。そういう
意味で中国と同じ
文字を使いながら、法律化されていない点は中国と同じでありますが、向うの
読みは一定していて、こちらのは
一つの
漢字の
読みが幾つもある。これを無
制限というか、無
制限にするということになると収拾のつかないことになる。そこで
千種参考人も法律的な立場から、これができて
制限することが、自由の侵犯ではないという御
意見を申述べられましたが、法律は勿論私は詳しいことは申しませんが、最高裁判所のこの間の判決で、
名前は
子供の私有物ではなくして
社会のものである、これは正しいと思います。それでフランスのことを
ちよつと申添えますが、フランスは世界で誰しも自由な国であり、殊に個人の自由、私などから
考えますと、やや行過ぎと思われるほど個人の自由が発達した国でございます。そこで名付けがどうな
つておるかと申しますと、フランスの民法の名付けのところて、こういう規定がございます。この法の公布以後においては、
子供の出生を確認すべき戸籍簿には、さまざまのカレンダーと申しますか、カレンダーが毎日ありまして、それにここに持
つて参
つておりますが、こういう極く民衆的な日記では皆何月何日としますと、下に例えばこれが一月十七日でありますと、聖アントワーヌ、聖レオニオと二人書いてある。その日は聖者の祭でございまして、よほどひねくれた者でなければその日生れた聖者の
名前をつけるのであります。日記には版によ
つて若干の差異があるので、法律ですから
一つのものを認めるわけに行きませんが、さまざまなカレンダーのうちにおいて用いられておる、或いは聖人の
名前でなくても、古代史における著名人物の
名前、姓名の名としてはそれのみを受入れることができ、そうして公吏に対してはこれ以外の如何なる名をも、その作成する証書に記入することは禁じられる。こういう条項がございます。そういうわけでありますからして、概算五百幾つという
名前が、それぞれの市役所に備え付けてございまして、その中から届け人は選ばなければならない。これは日本よりももう少し統制と申しますか……、例えば今ここに最近の有名なフランスの小説家、文学者の
名前を研究しておりますので、その二、三を申して見ますと、マルセル・ブルースト、マルセルは太郎とか、次郎とかいうことで、最近死にましたアンドレ・ジード、アンドレというのは一番多い
名前であります。あのようなむずかしい字を書いて、文学としては極めて非民主的なものがポール・ヴアレリ、ポールはこれは極めて民主的なあれで、有名な評論家であり、文学者であるポール・ブールジエ、この前の総理大臣エドワール・ダラデイエ、エドワールは最もホピユラーなものでありまして、若干申上げましたが、聖者の中でも、いずれも今申しましたレオニオというのは極めて稀れでありまして、聖者の中でも誰が選んでも極めてやさしい
名前をつけます。これは
ちよつと余談のようでありますが、私がフランスに留学いたしまして一番驚きましたことは、電話でものが通じるということ。日本で申しますと、私たちが電話をかけて、どつかへ物を届けるときて、桑原「たけお」と言うと、「たけお」の「たけ」は竹の竹でなく、武士の武でありますということを言い、「お」は夫の「お」というように非常に面倒だが、フランスで私はポール・ブールジエと言うと、二十分もすると、店から物が間違いなく届く。これは当り前のことでありますが、私は下宿のおかみさんが、全部電話で用事を済ませているのに甚だ驚いたのでありますが、そういうような電話、電報というものでも簡單に行
つておるのであります、それでこの法律が制定されましたのは千八百年でありますから、今から百五十一年前であります。そうして政治的、経済的自由ということの解釈は、フランスではいろいろ変
つておりますけれども、こういう
名前に関するものは、ナポレオンが皇帝にならない時分、この法律はその後改正されていないということ、そういうことを
制限することが自由の侵犯にならぬ。あの自由の好きなフランスの立場を
考えるとき、根本的な立場を
考えるときに、御
参考になるのではないかと思います。アメリカではそういう
制限は法律的にないようでございますが、併しこれも常識で
考えまして、さつきここに挙げたようなものは、現実にはないようであります。それからイスラムの、つまり回教徒の世界では、姓名の名は大抵きま
つておりまして、これは少し行き過ぎにな
つてお
つて、同名の人ができる虞れがあるくらいだそうで、私は知らないが、学者から聞いたところによりますと、これは勿論明確な枠が、中国では先ほど申しましたように、法律的な
制限はありませんが、常識的に変
つた名前をつけておらんし、一旦つけた
名前は、
読みは、
文字を解する人には一定しているということにな
つております。そういたしますと、日本の現行のままでも、決して私は自由の侵犯というふうに
考えないのでございます。併し
当用漢字は、これは私の想像で
間違つてお
つたらお許しを願いますが、固有名詞のことまでは
考えないで、一般
社会生活、文化ということでできたんだろうと思う。そういうふうないろいろな点があると思います。そうしますと、若干不備な点があるだろうという御
意見もあると思いますが、併し
当用漢字はいろいろ減じたり増したり、或る時期が来ますと、しなければならない。こういう変転極まりない時代でございますから、そろそろその時期が来ているのではないか。そうしますると、今度新らしく勘考するときに、そうした枠内できめられても事実要らない字があるのであります。そういう字を抜きますことによ
つて、全体の枠を拡げずに救うことができる。そうして新らしく規定しました
当用漢字の法律はそのままにして、そのうちで付けるということにすれば、今のままで永久ということじやない、その
当用漢字は、或る時期を見まして改変しまして、やはり国民の
名前はその枠内で付けるということが、日本がこれから起ち上
つて世界と競争して行きます上に……私たちは外国人とお附合いして、実に残念に思いますことは、彼らは全部、タイプライターの機械をそういう
文字というものにアプリケートしておるのに対して、我々は飽くまで
文字を手で書くということのために
読み損ないその他いろいろな不便を生じておるということを
考えましても、ここで全面的に何をつけてもいいということになりますと、これは国家の将来という見地から見ましても、残念ではないかと思います。不準備ですが、これだけ申上げます。