○岩間正男君 私は日本共産党を
代表しまして、原案並びに二つの
修正案に
反対するものであります。一昨々年国家公務員法の特例法として本
法案が初めて
国会に上程されましたときに、我々は本
法案が、
教員の特殊性に鑑み、その地位、待遇等に特別の考慮を拂える保護
規定であるべきにもかかわらず、むしろ身分上の拘束や、服務上の義務を強化する拘束
規定に終
つているという点を指摘して
反対したのであります。然るにこの
只今上程された
改正案なるものを見ますとき、この傾向は何ら改められないのみか、ますますその意図が露骨にされておるのであります。即ち
教員の給與、研究費の問題並びにその職業病ともいうべき結核の療養期間の延長については、これは何らの顧慮が拂われることなく、一方第五條の改悪による大学
教員の公開事前審査に対する著しい
制限と、既得権の剥奪、第二十一條による職階制の押しつけ、第二十五條の六による
教員組合の分断、機能剥奪等物凄く弾圧が強化されておるのであります。これこそは客観情勢の変化に便乗して、人民から人民の
教育者を奪い、
憲法や極東
委員会の
教育指令によ
つて認められている学問の自由、
教育の自由を奪わんとする吉田内閣の反動的文化行政、戦争
協力政策の現われであることは余りにも明らかであります。(「何を
言つている」と呼ぶ者あり)面もこれは軍に
法案の
内容がそうであるばかりでなく、
法案の
成立過程の中にもはつきり現われておるのであります。即ち本
法案の上程に先立
つて政府は、本
改正案の最も骨子である第五條の改革のみを切離して急遽上程し、いわゆるレツト・パージに間に合せようとした形跡があるのであります。而もこれは学生や、進歩的教職員など大学当事者間の猛烈な
反対を予想して遂に実現せず、昨年末地方公務員法の通過を見るや、その関連
改正に名を借りて、漸く今日ここに上程を見たのであります。而も如何に事を急いでいたかは、
改正條項の一点である地方議員の兼職問題に名を借りまして、本
法案の通過期限を二月十五日と限定したことにもよく現われておるのであります。我が国の文教政策上これほど重大な
法案が僅か十日間そこそこの
審議期間を以て両院を通過せしめねばならんなどということは、明らかに
国会の
審議権の軽視であり、到底我々の許容しがたいところであ
つたのであります。即ち
政府のこうした陰謀的小策に対しては参議院は全会一致を以て地方議員の兼職延長の條項を單独
立法化し、過日その通過を見たところであります。このような経緯によ
つても明らかなように本
法案の内包する今日的
意味は極めて深刻であり、その影響するところ又極めて重大であると言わなければならないのであります。大野文相一個人の主観的意図が如何ように陳弁されようとも、問題はその背後の力であり、日本の置かれている政治的、現実的情勢であります。
歴史の進展は明らかにこのことを我々に教えるであろうし、事実教えつあるのであります。私はこうした
意味において本改悪
法案に絶対に
反対するものであります。
先ず
修正案について言えば、我々は原則的に
言つて、第五條の改悪について、闘わない如何なる
修正も認めることができないのであります。なぜならば、先にも述べたように、
政府のそもそもの狙いとする本
改正案の最大の眼目は第五條にあるからであります。従
つて如何なる
修正案も第五條を抜きにしては
意味が薄いのであります。やすやすと外濠を埋めさせて置いて、どんな内濠を守らんとする一体鬪いがあるでありましようか。従
つて、こういう
修正点について苦心のあるところは一応は了解される点もあるのでありますが、原則的な
意味から私はこの
修正案をとらないのであります。殊に自由党の提出した
修正案のごときは実にこれは問題にならない、これははつきり申上げて置きます。ところで私は第五條の改悪について論を進めたい。即ち大学の事前審査は、従来は三十日以内に当人から請求があ
つた場合に、大学管理機関は公開して口頭審査を行わねばならなか
つた。それを政正案は十四日以内と限定し、而も公開の原則はこれを削除しているのであります。更に代理弁護人の選任、書類、
関係記録その他あらゆる資料の提出を
制限し、僅かに必要があると認めるときは、
参考人の
意見を徴することができるとしているのであります。そもそも大学
教員の人事に際して公開口頭審査を認めた趣旨は、飽くまでその身分を守り、学の自由と権威を擁護するところにあ
つたのであります。又大学の自主性を尊重して、如何なる外部の権力にも盲従させぬところにあ
つたのであります。然るに本
法案の
改正に当
つて、かねがね大学の自主尊重を口にする
文部省は、学内の民主的に統一された
意見を何ら徴することなく、僅かに二、三の管理者側の
意見に基いて、かかる改悪を一方的に強行しているのであります。これが果して大学の自主性を尊重することになろうか。
立法の経過そのものがすでに甚だ非民主的であると言わねばならない。而も
改正の理由とするところを天野文相に質したところが、「大学は純粹に学問研究に没頭すべき機関であり、裁判所のような煩雑な事務にわずらわされるべきではない。」と答えているのであります。だが一見尤もらしいこれらの理由が如何に現実に背反するものであるかは、次の事実が何よりもこれを雄弁に物語
つているのであります。先ず第一に文相の言う「学に沒頭する」に足る
條件が現在の大学
教員に與えられているかどうかという問題であります。日々の商業新聞はよくこのことを伝えているのであります。最近の毎日新聞によれば、全国大学
教員の平均収入は、年額約十四万円でありまして、最高で十六万円、最低に至
つては五、六万円に過ぎない。而も全然別途収入の無い者が全体の四六・二%に当り、別途収入があるにしても殆んどその大部分、即ち八五%が年額六万円以下という実にこれは僅少なものにな
つておるのであります。これを外国の例に徹しますと、フランスでは大学教授の年収が約百四十四万円、戦敗国のドイツやイタリーにおいても約百万円というような数字が出ておる。こうして日本の大学
教員の殆んど大部分は、研究費は愚かその最低限の生活にも事欠き、半カ年、一カ年分の赤字に苦しみ続け、納税にも事欠いて、かの原因教授のごとき悲惨な自殺者をさえ出しているのであります。日本学術会議科学者生活擁護
委員会は、こうした事態の解決のため、広くその実態調査に着手し、又事あるごとに世論に訴え、
政府に要望しているのであります。このような隠れもない事実を天野文相は何と見るのでありますか。それでもなお「大学教授は研究に沒頭すべきである」と主張されるつもりであろうか。研究に沒頭するには沒頭するに足るべき
條件をこそ、先ず第一に整えるべきであると思うのであります。それこそが文相として政治家としての天野氏に要望されている第一の任務ではあるまいかと私は思う。ところでかかる重大な基礎的
條件の解決に殆んど無
関心な当局が、大学
教員の身分上の
制限にのみ狂奔しているのは明らかな自己矛盾である。否、かかる劣悪な待遇
條件を一方的に押しつけるためにこそ、下からの叫びや運動を抑圧せんとするりのが本法第五條改悪のねらいであると言わなければならない。現に東京大学において行われている公開審理のごときも、一昨年の年末給與要求闘争に端を発しているのであります。大学
教員の生活改善と研究の自由とはもともと表裏一体であります。その当然極まる多数の要求を提げて当局と交渉した職員組合の
委員長、副
委員長がここでは裁かれているのであります。果して然らば裁かれるべきものは組合の
役員であろうか、為政者であろうかを私はここで伺いたい。次に文相の言う純粹なる学問とは如何なる学問であるか。日露戰争
時代には研究室に閉じこも
つて戰争の勃発をさえ知らなか
つた学者が美談として伝えられております。だが、このように
社会から隔絶され、現実を無視して、象牙の塔に閉じこも
つたところにこそ元来日本の学問の悲劇があ
つたのであります。こうした学の体系と学者たちのあり方が国を亡ぼしたとも言えるのであります。今現に目の前に起
つている重大な事態から目隠しされ、国家の運命や民族の将来と深く結び付かない学が何になろうか。学の権威、学者の真の良識は、これら民族の水先案内であり、啓蒙的、指導的役割を鬪
つてこそ、その本来の機能が発揮されると思うのであります。そのためにする人民への献身こそがその任務でなければならない。然るに太平洋戦争前後においては、著しくその機能を喪失したのであります。一たび軍部の暴圧が始まるや、彼らは本来の任務を放棄し、徒らに権力に盲従し、盲従しないまでも右顧左眄し、韜晦したのがその姿ではなか
つたか。かの滝川事件、河合事件のごときは、この間に起
つたいたましいレジスタンスの記録として我々の記憶に今なお新たなるものがあります。ポヅダム宣言を肯い、再び戦争の惨禍を繰返さないことを誓
つた敗戦日本の文教政策のあり方は、学者をして学問の自由を守り、飽くまで真理の追究に忠実ならしめ、常に道義的勇気をふるい立たせることになければならないと私は思うのであります。それ故にこそ、占領直後に発せられた連合軍の日本
教育管理政策には、「
議会、政治、国際平和、個人の権威の思想及び集会、言論、
信教の自由等の基本的人権の思想に合致する諸概念の教授」をしようし、特にこれら「実践の確立を奨励」しておるのであります。又そのためには「学生、教師は教授
内容を批判的、理智的に評価することを奨励さるべく、政治的、公民的、
宗教的自由を含む各般の事項の自由討議を許可」しておるのであります。又その後発せられた極東
委員会の
教育指令には、特に「教師及び学生は独立不覊の
精神を養うべき」ことが
規定されておるのであります。然るに今日では政治的
意見の相違、平和論議、講和論議、現実的な政治批判のために幾多の進歩的
教員が彈圧され、或いは不当な追放に処せられておるのであります。現に昨年の夏東大南原総長の全面講和論議が吉田首相によ
つて不当なる圧迫をこうむり、「曲学阿世の徒」と誹謗されておる。この事実が何よりもこれを物語
つておるのであります。これこそは学問に対する権力の圧迫の尤なる実例であるということが言える。又小中高等学校等でも同じことが起
つておるのであります。
社会科の
憲法教授において、日本民主
憲法の骨格である戦争放棄や平和保持の
精神を熱心に教授して来た者が、今や再軍備論の壁に突き当り著しく
教育の矛盾に苦しんでおるのが実情であります。これに対しまして、過般の
衆議院予算
委員会において、天野文相は教室では政治を論ずるなと答えておる。これは併し政治の問題じやない、
社会科の問題であります。今まで信念を以て教えて来たこの平和に対する確信が今日ここで時局に便乗し、権力の力によ
つて左右されてその説を変えなければならないというがごときはまさにこれは
精神的自殺と言わなければならないのであります。これは又政治上の自由論議を奨励した占領政策の違反ではないかと思うのであります。又新
憲法に対し信念を以て多年教授にいそしんで来た教職員の政治上の自信と理念を
根本から覆えし混乱せしめる暴言であると言わなければならない。西ドイツ再武装問題に当
つて、西ドイツの神学教授カール・バルト氏は「再武装は新たなドイツを主職場にするばかりでなく、同胞相食む悲運に陥れる。戦後平和主義を
教育し、子供の玩具からも武器を取上げて置いて、今日再び武装に駆り立てるのは
精神的自殺である。」と烈々と
反対の叫びをあげているのでありますが、このような暴言は
教育者に
精神的自殺を強いるものであると言わなければならないのであります。
これを要するに本
法案の改悪は、表面いろいろな言辞によ
つて襲われていようとも、それが来たるべき国際帝国主義の手先としての戦争
協力態勢の整備強化、再軍備の地ならし工作、即ち民族の独立と自由を守り全面講和と世界平和を擁護し、戰争と再軍備に飽くまで
反対せんとする民主的
教育者の追放と
教員組合の解体弱体化を目指していることは紛れもない事実であります。面してこれは文部の代弁者が如何ようにチンドン屋的陳弁に浮身をやつそうとも、彼らの主観的意図とは何らかかわりなく、背後のそうして国際的帝国主義者の力が明らかにこれを要請しているのであります。かの瀧川事件、河合事件の
あとに一体何が起
つたか、我々はこの
歴史的事実の中から想起を新たにして、過去の経験からもよく学び、民族の叡知と直感力を働かして、破滅と暗黒から民族を守り抜くために我々は断乎このような悪法に対して
反対せざるを得ないのであります。