○
岩間正男君 いや、そうじやないのです、私がお聞きしていたのは。これは
文部省でも当然、その点は非常にやはり重要視しなければ、
教育活動というものは実際行われないというのが事実だと思います。やはり独立した
人格を認めるということが常識の理論の、殊に今の
日本の
教育の大きな眼目にな
つて来なくちやならないでし
よう。元来の
教育活動というものはそういうものだと思います。
教育学的にも。そうすればそれを守
つて行くという面が非常に私は重要にな
つて来る。ところが
職階制という形で以て一体これは守り切れるかどうか。逆にこういうものによ
つて破壊されるという面が
日本の現在では多いのじやないか。というのはこれは具体的に今までのやはり
終戦前、それから
終戦後の
教育の状態をよく
考えて見ると、いつでもここに頭をや
つて行かなければ、こういう法案というのは形式論で頑張
つてもし
ようがない。我々も
教壇の経験からしまして、
一つの
教育における
階級性というやつは非常にやはり
教育を破壊しています。これは問題にならないと思います。戦争中なんか見ると全く
一つの権力の末端機構として視学とか、又その視覚の
責任は
校長が負いまして、
校長がやはり
教員と対立するという
ような形にな
つて、監督機関みたいにな
つて、もう戦争中なんかには全く一挙手一投足これに縛られる
ような形があ
つたと思います。それでそういうものに対してもつと
教師、それから生徒、こういうもののやはり
人格の独立というものを認める判断力を
はつきり確立するということが非常に重要にな
つて来たのです。又これは極東委員会の
教育指令なんかを見ましても、
教師並びに生徒はこの独立不鶴の精神を養わなくちやならないということさえ
はつきり銘記しなければならない。そういう必要性は当然のことである。なお銘記しなきやならないほど必要性が現実的にあ
つたのであります。こういうものが果して
終戦後いろいろ
教育改革が形の上においてなされて来ましたが三年、四年を通じまして、完全にそういうものが獲得されたと
考え得られるかどうか。我々の見る、ところでは非常に微弱なものである。その萌芽は出て来たけれども、そこにもうそのあとからこれに対する拘束が始ま
つて、そうしていろいろな自由をむしろ抑圧する
ようないろいろな法案が作られて、又昔の状態に立還らされているというのが
現状であります。ところがまだ成長しない、これはやはり中野重治がいつか
国家公務員法の討論の中で言
つたのでありますけれども、これは労働
階級の例を取上げて言
つたのですが、
日本の労働
階級は今はまだ赤ん坊だ、これから冬を迎えるからむしろ重ね着をしなくちやならない、ところが春が来たからという名目に立
つて先に着物をひつペがすという
ようなことを言
つていますが、これは
教育者についても同じ
ようなことが言える。一体独立した
人格が、立派に独立して
教育活動の自由を、本当に如何なる不当な権力の中であ
つても断乎としてこれを主張してや
つて行こう、そこまでこれは到達しているかどうか。そういう体制に来たならば
職階制というものも或いは止むを得ないかとも
考えられる面もあります。併し現在は一体そこまで
行つていますか。殊に生活権が確立されていない
段階にあ
つてひじ
ように未だ微弱である。まだまだ
はつきりしたひとりのそういう毅然としたものではない。そこに持
つて来て又
職階制というものを押し被す。現在におきましても資格、年齢、
給与、こういう上から身分のいろいろな差別があるのです。これについてはさつきもいろいろと挙げられた
ように、これは
先生の鼎の軽重を父兄に問われたりして
教育上面白くない結果が生れている。こういう
ようなところに又
職階制という
ようなものを適用しなければならない。そういう必要があるかどうかということです。だから
日本の
教育の民主化ということを眼目に掲げた
一つの
教育改革の
立場から
考えるときに、この
職階制という
ようなやり
かたで、自分をますます拘束して来る。そうして
一つの何というか、上から来るそういう官僚機構みたいな
原則に縛られている形が確立されるということにな
つたら、
教育は全く昔に戻
つてしまう。こういう点が非常に大きいのですけれどもこういう点は
議論されなか
つたのですか。そうして
公務員法では応
職階制を適用するということがきま
つたからとい
つて止むを得ず、その前に
文部省は何も主張せずに止むを得ないんだ、それはきま
つたのだというので受身の形でこれをやろう。こういうふうに今の御
説明ではなりますがそういうことをされたのですか、これはどうですか。そこの
教育活動の特殊性ということについて主張されたかどうかということです。