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矢嶋三義君
大学から幼稚園までの
教職員という者は、その人がその学園内で
教育ができないとか、不都合になて来るとかというわけで転任しなければならない、或いは
教職員として好ましくないから降任或いは免職というような事柄については、
教職員であれば、周囲が
本当にそういうようにみんなが
考えて納得しているようなことならば、いろいろ外部から力を加えなくても、
教職員という者はみずから
自分の出処進退をきめるだけの私は
考えは持
つていると思うのです。過去の事実においてもそういうことを私は言えると思うのです。こういうように非常に遷延するとか、或いは学内で両派が抗争するような事態に至るということは、ここにやはり無理があるのじやないでしようか。私はこの第
五条というものは、やはり
大学の
教職員は簡単には首は切れないのである、身分は保障されるのだ、
大学の
自治も
学問の自由というものも保障されるものである。時の流れには左右されずに、
学問、学術という
立場から一国の
学問というもの、又国の政治の動向というものを全く純粋な
立場から研究し、又
意見を発表して行けるような身分は保障する、簡単には切れない、こういう
立場で私はこの第
五条は作られたと思うのです。この際想起しても、戦時中に
大学の
教授が皆軍部に低頭して
しまつた。理科学方面の
教授の大会でも、原子核あたりの
意見を述べると、今原子核なんかの
意見を述べたからとい
つて、それが今の軍事力に何の関係があるか、そういうものをもてあそんでいるのは
日本の学者じやない。あたかも国賊のごとく
言つて、皆今直ちに軍事力となるような、いわゆる低級な応用学ばかりに没頭し、その間にアメリカは原子核の研究をして置いて、広島や長崎にどかんとやられて、一時に参つた。こういうような我々過去の反省をするわけでして、そういうことのないように、私は
大学の
教授の身分というものを保障する
意味において、簡単に切れない、安心して学務に専念させるというような
意味で私は第
五条というものは非常に存在価値があると思うのです。それでいろいろ紛糾して、
大学の
使命を達し得ない事情に来たと言いますが、私は結局これは具体的に言えば、やはりレツド・パージに関係していると思うのです。
大学の
教授はやはり真理を探求する意欲は非常に旺盛である。
学生も非常に理想に燃え、真理を探求する情熱に燃えておる。そこに
日本の
法律で保障されている
思想の自由というようなものが、憲法を別にして、世界情勢とかいうものに流されてそうしてレッド・パージのような形に来るところに、すべての人を納得させ得ないところに、こういうことが起るのじやないか。若しも
日本の国内なり何なりにおいて共産主義を持
つている学者がいかんとか、生徒がいかんというならば、別の
法律でこれはやるべきであ
つて、そういう
一つの問題を
解決する手段としてこういう
教育公務員特例法の第
五条の一部をピック・アップして
改正するところに、私は問題があるのじやないかと思います。これはこの
改正案を見た識者という者は、皆これはレッド・パージに関係がある、それを簡単にやれるようにする仕組と
考えられる、こういうふうに
考えているわけです。或いは国民としてはそういう
意味において了承する人もあるかも知れません。併しそれだけでなくて、この第
五条第三項から第五項までの
改正において、私は
大学の
教職員の身分の保障なり、延いては
教授の自主性といいますか、
学問に対する自由というような点も阻害されて来て、大東亜戦争に
日本の
大学の
教授が過ちを犯したようなあの前車の轍を又蹈むのではないか、こういうことを懸念する
意味において、神戸或いは東京だけの事例を以て、僅かそのくらいの例を以てこの非常に民主的な第
五条第三項から第五項までの
改正をされた
理由というものが、どうしても納得できないのです。
そこで私はお尋ねいたしますが、今私の申したことも関係があるのですが、
先ほど大臣の
言葉を聞いていますと、
東大なり
神戸大学の事例に関して、
日本の
大学には公開審理というものは絶対にできないのだ、それは全国の
大学関係者が皆認めているのだというような口吻が私はとれたと思うのです。で局長としては決してこれは公開審理を否定するものではないと、公開
審査をする能力のある
大学は、それは公開
審査をやるのが望ましいのですと、こう言われましたが、
大臣の見解と局長の見解も併せて私は公開して頂きたいと思います。