○
衆議院議員(
中山マサ君) 過分なるお
言葉を頂きまして誠に恐縮に存じております。昨年の五月二日は
皆さんも御記憶の
通りに
国会の
最後の日でございましたが、その日に参集両議院が手をつなぎまして、いろいろと
留守家族と
政府と
国会とが三つ巴になりまして何とかこの
国民の悲願、三十七万を一日も早くということを努力して参りましたにもかかわりませず、一向
ポツダム宣言において
約束されたことが実行されませんし、一月として五万の
約束の人数が帰されたこともございませんので、遂にGHQの御
了承を得まして
国連にこの問題を提訴し、そうしてコミツシヨンを
日本に送
つて頂いて、タス通信が申します
ところのもはや帰すべき人は帰したということが事実か、或いは私
たちが主張して参りました三十七万
外地にありということが事実か、その白黒をつけてもらいたいというのがあの
決議案の内容でございました。秋になりまして
国連の
総会が開かれたならば、あの提案がどうなるかということを楽しみに暮しておりました
ところが、はからずも
国連に使いせよという
申出を受けまして夢かとばかり驚き且つ喜んだのであります。これまで
再々陳情団に会いまして親の
立場、妻の
立場というものはよく聞かされておりましたけれ
ども、羽田に参りまして、あすこで、多分
ニユースで御覧頂いたことと思いますが、いたいけな
子供たちが私
どもに花を渡しながらお父さんを連れて
帰つて来て下さいといわれましたときにはしみじみと
子供の
立場ということを確認したのでございます。あの
子供たちの年配からいたしますれば、多分親が出征する前後に生れたものであろうと存じますが、まだ見ぬ親をかほどまでに慕
つているこの
子供たちの念願を達して上げなければならないと思いましたときに、
自分の使命の
重大性を感じたのでございます。
遂に
ワシントンに参りました。要しました時間は三十六時間でございますので、
東京から急行で長崎へ行く時間でございますので、
世界が誠に小さくな
つたという
感覚を覚えました。
ワシントンでは
国務省に参りまして、あそこの中に
東洋課というものがございまして、ついこの頃まで
東京にいらっしゃいましたお
かたがたがそこの重要な地位に就いていらっしゃいます。特にブルナーという
アメリカの領事がいらっしゃいますが、その人の下で働いておりましたオバートンという人が私
どもの
世話役にな
つて下さいましたし、そのかたとは私多少知り合いの間でございましたので、これはいい都合だと思いました。そこで
アチソン長官にもお目にかかりまして、今まで
日本人で
終戰後アメリカに来た人は数多くある。併し
日本国民を
代表して来たのはあなた
がたが初めてだといわれましたときには本当になかなかうかうかしてはいられない。是非この
終戰後の
日本代表としての
責任を果たさなければ国へ
帰つてまず第一に
留守家族に会わせる顔がない、
国民に会わせる顔がないということを痛感いたしたのでございますが、ここで
皆さんも御
了承の
通りに私
どもはオフィシャル・オブザーバーという肩書を頂いて
参つたのでありまするから、
委員会に出まして
発言の
権利も何もないのでございますから、それが何をしに
行つたという御質問があろうと思います。第一に私
どもがしなければならなか
つたことは、この問題をよく理解して頂く。あの知性の高いと言われている
ルーズベルト夫人ですらこの三十七万の中に
一般邦人が入
つているということを御存じありませんでした。何しろ満洲の地、ああいう
外地に私
ども日本人が参りまして、そこに家族的に住居をかまえてお
つたというようなことから説明して参りました。これに非常に役立ちましたのは
千葉県の
金崎という
奥様から頂いた
手紙でありました。この
手紙は私
たちもあそこに住んでいたのであるが、夫が満鉄に出てお
つたが、
ソ連の兵に拉致されてそのまま行方不明にな
つている、何とか夫のありかを知りたいというのがこの
奥様のお
手紙で、ございましたので、これが何よりの証拠とな
つたのであります。而も
ソ連軍によ
つて連れて行かれたというのですから多分ソヴイエトのほうへ連れて行かれて、或いは兵隊の代用品にされているかも知れないということもここで申上げました。
資料の提供ということが私
どもの第一の
任務でございました。こうして私
どもが内地で得ましたそういうふうな
資料を持
つて行くと同時に、
向うで頂きました
資料も又英文に訳しまして
向うへ提供した。この
千葉県の
金崎氏の
手紙は
そつくりそのまま
サンプソン夫人が
人道委員会でお読上げ下さいましたものの
一つでございまして、こうしていろいろと
資料を提供し、三十七万の問題をよく来る日も来る日も一週間の間ここで
国務省と
打合せをいたしましていろいろとその筋の
人たちと
出会つて話合をしたということが私
どもの
任務の
一つでございました。
一週間
たちまして
ニユーヨークに参りましたのでございますが、ここから
レークサクセスに参りますのに殆んど一時間かかります。あの有名な五番街、
繁華街のつい入
つたところに私
どもの宿をと
つて下す
つておりましたが、そこからペンシルヴアニア・ステーシヨンに歩きますと十五分、
ニユーヨークは近頃は
電車を殆んど廃止しております。と申しますのは、非常に交通が多いものでざいますから、
電車よりもむしろ
バスによ
つて、その空間を利用して運行を早めるというのが、
向うの
人たちの
考えかたらしうございまして、それで
電車がございませんし、ペンシルヴアニァに行くには
バスもございませんので、何しろこの
貧乏国の
代表として
行つておりますので、お手当も少いものでございますから、タクシーに乗るということも用心いたしませんととんだことになるという虞れで毎朝ここに歩いて参りました。それからこの間
汽車の
衝突事故があ
つて、多数の人がなくなりましたロングアイランドに
汽車で参りましてこれが四十五分。グレートネツクという所で降りまして又
バスで十五分参りますと、この
レークサクセスは
飛行機に用いられております
飛行機の安定を図る
胴部の製作所でございましていわゆる
工場でございます。それがここに提供されておるのでございますけれ
ども、中に入
つて見ますと
工場というような
感覚は更にないのでございます。あたかも
学校か何かのような
感覚でございまして、ここは
委員会だけが行われる所でございます。
ニユーヨークとこちらとの中間に
フラツシングメドウスという所がございますが、ここが
皆さまがたも
ニユースで御覧にな
つてうしろの壁に
世界の地図が出ておりますが、あの
総会だけが行われる場所でございまして、あたかも
国会と同じように、練り上げたものを
総会にかけるという
仕組にな
つております。この
フラツシングメドウスにおきまして、
国連の第五回の
記念日の
演説会が催されまして、
トルーマン大統領の
お話を聞いて参りました。
トルーマン大統領は
国連の名誉にかけて
世界の平和を維持する、若しもこの平和が
侵略者によ
つて脅かされる場合には、武力を用いてでもこの平和を守らなければならんという
決意を
縷々お話にな
つていらつしやいましたが、丁度そのときに四カ国の
外務大臣級の人がプラツトホームに、このテーブルの両脇に坐
つておりました。ヴイシンスキー氏もそこにおられましたので、どういう
態度で以てこの
演説を聞いておられるかと思
つて注意して見ておりましたが、頻りにノートをしておられました。又何かの場合にこの
演説に対する反駁をする
資料をと
つていらつしやるのだろうと思
つておりました。私
どもが参りましたと時を同じくして
ドイツから四人の人が見えました。二人は
国会のかたでございまして、一人は
外務省、もう一人は
通訳の人が見えました。
敗戰後初めてこの
敗戰国ドイツの
代表と
敗戰国日本の
代表が一堂に会しまして、お互いに協議しました事項がこの
引揚の問題でございまして、私
ども三十七万は非常に多い数だと思
つておりました
ところが、
向うの状況を聞きますと私
どもの問題より以上に大きな数を
向うは持
つて来ておりました。未だ帰らざる、いわゆるプリズナー・オブ・ウオー、
POWと
言つておりますが、これ即ち復員しない
人たちが五十万、
一般邦人を寄せたら百万以上になりますということを申しておられました。あなた
がたの国は地理的に分れていないから誠に仕合せですよ、私
どもは東と西に分れて、或る者は、東に帰したと言われて西のほうには
帰つて来ていない。実に混乱せる状態で、東のほうにすべて
政府のほうの機関があるから、西は一から積立てて行かなければならない、負けたは負けたにしても、まだ
日本のほうがよほど我々よりも歩がいいということを
言つて、しみじみと述懐していらつしや
つたのでございますが、この
かたがたとも
打合せまして、何とかしていわゆる
ポツダム宣言で
約束された、
POWという形でなしに、
一般邦人の問題も大いに強調しようというのが、又
向うの
考え方でもございました。
こうして私
どもはもうこの問題は取上げられるか、取上げられるかと思
つて待てど暮せどなかなか六十二議題の中に入
つてはおりますけれ
どもそれが取上げられて来ません。一カ月の予定を以て
参つたのでございますから、いらいらと待
つておりまして、どういうわけでこれが遅くな
つているかということをいろいろ手を廻し調べて見ました
ところが、ルクセンブルグ、フランス、
オランダ、この三国は
自分たちの未
引揚者たちを
相手国と個人的に折衝して解決しよう、だから今
ドイツや
日本の
人たちがこの問題を提げてここに来たのは誠に迷惑だ、これが
国連で取上げられるということになると、或いは
自分たちのほうが不利になるのではないかというようなことを考えるらしうございまして、どうもこういう方面から邪魔が入
つている。又アラビア・ブロツクはこれはいわゆる政治的の宣伝だ、だからこんな問題を
人道委員会にかけられなんじや、たださえ啀み合
つている
ところの二つの陣営に要らざる刺戟を與える、だからこれはここで取上げてもらいたくないという
感覚を持
つて、こういうブロツクが頻りに策動している。こういうことでだんだんだんだんと遅くな
つて来たということがわか
つたのでございます。報道の自由という問題がこの
人道委員会において取上げられましたときに、
英国の
代表が、この問題の討議が
終つたたらば
引揚の問題を取上げようということを提案して下す
つたのでございますが、なかなか論が盡きませず遂に
採決によりまして解決することになりました
ところが、遂に
引揚の問題を取上げに賛成した国が十カ国、反対十三カ国、棄権二十三カ国となりましたので、これでは一体これはどうなるのだろう、よく私
どもが議会でやられることを見ております、好ましからざる問題は
審議未了という形にして、これを又の機会まで延ばすのじやないかということも、私
どもが心配し出した種になりました。
この時分に、
皆さまも御
了承にな
つて、新聞で御
案内の
安全保障理事会に
中共の
代表伍大将が率います
ところの五、六名の
代表と
南鮮の
代表が到着いたしました。朝鮮問題に
中共が進出したことに関して、又
中共側は
アメリカが第七艦隊を支那海に入れたのであるから、
国内事情にタツチして来て
アメリカこそ
侵略者であるということを提訴して参りまして、この問題が非常にやかましくな
つて参りました。マリク氏は
議事の問題で二時間半もねばりまして実にただならない様相が出て参りました。
アメリカの
オースチン代表が先ず先に
発言をしたいということを
申出でました
ところが、この問題を提訴した
ところの
中共側の
代表が、第一に
発言するのが当然であるということで又やいやい言い始めましてエジプトの
代表でございましたか、誰が先に
発言するかということで、こうして時間を浪費して一人も
発言しないというような結果にな
つてしまつたではないかということで、
採決になりまして、遂に
国連に属する
ところの
アメリカ代表が第一に
発言をすべしということにな
つて参りました。私
どもがこの
日本から
国連の動きを見ておりますと誠にぬるぬると遅いと思いますが、実にこの何でもない、私
どもから考えますと実にばかばかしいと思うような点につきましても、ながながと六十ヵ国の
代表が入れ代り立ち代り論議いたしておりますので、ああいうことになるということを目の前に見たのでございます。遂に
伍代表の
発言のときになりました
ところが非常なる
決意を以て来ておりますと見えまして、
中共の四億の
国民をひつさげて
アメリカ侵略者を必ず海に叩込んでみせるという脅迫じみた
発言がございまして、この瞬間から
国連は何だか黒雲にでも蔽われたかの感じがいたしました。又その
感覚がずつと
ニユーヨークに或いはそのほかの州に拡がりまして、
アメリカの
国民は非常な不安にかられて来ておりましたのでございます。
こういうわけでございますので、この問題が非常に火花を散らしておりましたので、私
どもの
引揚の問題は何だか片つ方のほうに押しやられたような
感覚を受けましてこれではなかなか私
どもは
発言の
権利もなし、どういうふうになるかということが、私
ども夜半に夢覚めまして眠られない晩が幾晩かもあ
つたのでございます。この
引揚の問題のつい前に取上げられました問題が
避難民の問題と
一般に訳しておりますけれ
ども、
英語でデイスプレイスト・パースンズと申しまして、いわゆる国を
失つた人たち、ソヴイエト・ブロツクの手が伸びて参りまして
共産主義政府が確立を見ました
ところの
国民たちは、もう
自分の国にいるのが嫌だと、いわゆる今後
共産主義の
政権の下には
生活がしたくないということで、どんどんと
自分の国を出て行く人が多くな
つて非常にその数が多いために、これが又
国連の問題にな
つて参りましたが、その山で誠に哀れに思いましたのは二十八万の
学童の問題でございました。
フラツシングメドウスにおきまして、
最後の
総会のときに
ギリシヤの
代表が立ちまして、この二十八万の
学童は団体的に
学校から拉致された、この
学童を是非帰してもらわなければならないということを力説しました。ベルギーの
代表は非常にこの問題に
同情を寄せまして、そうして立
つて申されておりましたが、
ギリシヤという国は歴史の上から見ても非常に文化豊かなる国である、この文化豊かなる国の
子供たちが、その文化の中に育つことができないで拉致されて
行つてその
代表が使いました
言葉をそのまま訳しますならば、赤い動物とな
つてからギリシャに帰されるであろう、而もアテネの
政権が転覆きれて
共産主義政権にな
つて帰されるであろう、こういうことは
国連の両日にかけで黙視してはならないということを力説いたしましたが、遂に
採決によりまして二十八万のこの
学童は是非その
本国に送還されなければならないという決定を見たのでございます。この問題の
成行きを私はずつと見守
つておりまして、この問題は成るほど
避難民の問題であるかも知れませんが、或る意味においては
引揚の問題でもあり、この問題の
成行きによ
つては私
どもの問題も、又結果もほぼ察知されると思いまして、懸命にな
つて通つてお
つたのでございますが、何ら
約束もしてない
ところのこの
人々すらも帰されるのであるならば、
ポツダム宣言で
約束された私
どもの
同胞は必ず帰してもらえるという、ここでほのぼのとした希望を私は持ち始めたのであります。
遂に私
どもの問題が取上げられる日が第三
人道委員会に出て参りました。この
人道委員会はほかの
委員会と異なり殊に目立ちます点と申しますれば、非常に
女性代表が多いということでございます。ほかの
委員長で私が傍聽しました限りにおきましては
婦人の
代表は一人もございませんでした。併しこの
委員会では御
案内の
アメリカの
代表ルーズヴエルト夫人、第二
代表サンプソン夫人、インドの
マノン夫人、イラクの
アフノン夫人、そのほか
オランダの
代表も
婦人でございました。もう一カ国どこでございましたか名前を忘れましたが
婦人の
代表を出してお
つたということは、この人道問題というものを、やはり
男女両方の
立場から処理して行くべきだという
感覚を持
つておる国が非常に多いということが私これでわか
つて誠に喜ばしいことであると思いました。この
委員会は
オランダのかたでございまして、非常に外交的にも、昔
外務大臣をしたこともおありになるかただそうでございますが、誠にてきぱきと
事務を処理して下さいました。その横にはリポーターといういろいろなことを報道する人、
うしろのほうに
事務局のかたがいらつしやいまして前にはずうつと
馬蹄形になりました机がございました。そこに第一
代表が坐り、その
あと第二
代表、その
うしろには相談役という人がございましていろいろな問題をその場で
自分の論点に有利なように三人の
人たちがいろいろ相談してや
つていらつしやるようでございました。そこには
テレビジヨンの
機械も置いてございます。
アメリカの
家庭には非常に
テレビジヨンが多く入
つて参つておりますので、
家庭にいながらその場の様子が見られるようにテレビの
機械も置いてございますし、又右のほうには
五つのガラスの
部屋がございまして、そのガラス張りの
部屋の中に
通訳の人が二人ずつ
英語、
ロシヤ語、フランス語、
スペイン語、支那語、この
五つの
言葉が、この
委員会の、どこの
委員会でもそうでございまして、
主要語にな
つておりまして、
即座にそれが
各国語に
通訳されます。私
どもの坐
つております
うしろにはちやんと
ダイアルが取付けてありまして、そうして第二の
ダイアルを廻しますと
英語が、私がつけておりますイヤホーンに通
つて来るという
仕組にな
つておりますので、
即座に今論議されておる、例えば
ロシヤ語でや
つておりましようとも、それが直ちに
自分が理解ができるという
仕組にな
つておりますのでございます。そうしてこの
国連に対する
ところの
アメリカ民衆の興味も非常なものでございまして、
中等学校以上の
学生たちが団体で見学に来ておるのをしばしば見受けました。
一般の
市民たちも毎日の切符が手に入らないというぐらいに大勢の者が各いろいろな
委員会に出て参
つておりました。
この問題が取上げられましたときに先ず第一に
英国の
代表が、その
曾つての
敵国であ
つたドイツの未
帰還者の問題を取上げましてかかる大きな戦争の
あとには非常な混乱が起るから、或る程度の秩序に達するまでには相当の日にちがかかるということはこれは常識だ、併しもはや五年も終ろうとしておる今日まで、まだこういう問題がここに考えられなければならないということは誠に残念なことであるという言い出しの下に、
ドイツの
人々を是非帰す
ところの
責任が我々にあるということを力説なさ
つたのでございます。次には
濠洲でございましたが、この
濠洲の
代表は
日本の問題を取上げて下さいました。特に
濠洲の
代表に私
どもが
感謝いたしましたことはこの
一般邦人の問題も是非このなかに含ませて頂きたいと交渉をいたしましたときに、
本国からまだ
一般邦人も共に取上げていいという
ところの通告を受けていないから困るということをおつしや
つたのでございますが、いろいろとそれが間に合いませんものですからお願いをいたしました
ところが、その
代表の肚でこのなかに
一般邦人の問題も取上げて下す
つたという措置をして下さいました。そしておつしやいましたことには
濠洲は
日本に対して決して好感を持
つていない、
国民感情は誠に悪い、それもそうでございましよう。この頃平和、講和の問題が出て来ておりますときに、
濠洲のこのスポークスマンが、
日本に若し再軍備をさせたならば又
侵略国になるかも知れないというような、誠に
日本人の気持のまだ不徹底なくらいに
向うでは私
どもの
考え方を御存じないのでございますから、こういう
日本に対する悪い
感覚がまだ深いということはよくわかることだと思いますが、併し言を進めて
感情と
約束とは全然別である、
ポツダム宣言において
約束したことは必ず守らなければならないということをおつしやいましたが、
国民感情が非常に悪いということは、聞いておる私
どもには悲しいことでしたけれ
ども、併しこれも又或いは有利な戰法であ
つたかも知れないということも考えられました。
次が
アメリカの
代表サンプソン氏でありました。第一
代表の
ルーズヴエルト夫人が
矢表に立たないで
サンプソン夫人がこの
責任者にな
つて下さいましたということは、
サンプソン夫人の
お話を聞きますと誠に思いやりの深い
ところがあると思います。法律的の問題は
自分は弁護士であるが故によくわか
つておる、而も
自分は
黒人であるから
自分の祖先は
奴隷生活をして来た、
日本の
外地に抑留されている
人たちは今は
強制労働をさせられて、いわば
奴隷生活をしている
人たちである、こういう同じ経験を持
つておる
ところの者がこのことを
発言したならば、いわゆる
白人アメリカ人が言うよりも、むしろ諸外国は、
黒人アメリカ人が言
つたほうが、この問題に対する
ところの
同情がより深いということを
自分は考えたので、この仕事を
自分が引受けたんだということをおつしや
つて下さいました。このかたは非常に
法律家としても立派な
態度で以てや
つて行つておる人であるということは、
自分はよく
離婚訴訟を持
つて来る
人たちがあると、
自分がちやんと考えた案を、その案によ
つて三月
共同生活を続けて下さい、そうしてそれでも
離婚がしたいというならば起訴して提起して上げましようと言う。大体三月た
つたらその別れようと
言つた夫婦でもやはり落着いて、私は
金儲けをし損いましたよ、併しお
金儲けをするよりもむしろ
人間の愛情を身につけるということが
人間は幸福なんだから、私はそういう方法でや
つておるとおつしや
つて下さいましたことによりましても、この
サンプソン夫人の如何に人道的な
立場に立
つていらつしやるかということを御
了承願えると思います。このかたは懸命にな
つて私
どものために
お話下さいました。
次はソヴィエトの
代表アルチエニヤン氏でございましたが、このかたは
国連憲章の一〇七條を持出して、第二大戰の時の
敵国に関することで起
つたことについては
国連では取上げないという一條があるから、この問題はこの
国連において取上ぐべき問題じやない。であるが故にソヴイエトとしてこの問題に関係しないとおつしやいましたが、それで来られるのかと思いました
ところが、なかなかそれだけのことではなしに、南方において行衞不明にな
つたというような
人たちはソヴイエトにおるのじやないとタス通信で発表した
通りだと言われ、いわゆる未だ帰らないと言われておる
人たちは
アメリカにおる、
アメリカがハワイにおいて、沖繩においてこれを
強制労働に使
つておる、フランスにもおる、
英国にもおる、
濠洲にもおるじやないか、ベルギーの炭坑にもこういう
人たちを
強制労働に使
つておるじやないかと、とんでもないことを言い出されたのであります。
ところがさすがに弁護士でいらつしやる
ところの
サンプソン夫人はよろしうございます、それならば私
どもは
自分の国の
アメリカを開放して見て頂きますから、ソヴイエトも又私
どもが
言つておる
ところのこの
国連の
引揚の
委員会の提案に対して共同提案者とな
つて一つや
つて下さい、そうして鉄のカーテンを開けて、いるかいないかを見せて頂きましようということを言われましたのは、誠にお手際だ
つたと私は思
つております。
そういうわけでや
つておりますが、ここにレバノンとシリヤと二つの国、朝鮮の停戰の問題にもこの国々が活躍しておるようでございますが、この二つの国が修正案を持出したのであります。それはいわゆる
国連の三人
委員会を作
つて、この
人たちにこの問題を徹底的に調べてもらうということを骨抜きにしようという動きでありました。ただ
国連の
委員会に、その国にはまだおると言われた国が
報告をされればいいじやないか、御
案内の
通りにもう過去五年間私
どもは待ちましたけれ
ども、タス通信はございますが、なかなか本当の報道がされないという悩みを持
つておりました
ところへ、こんなことにされたら大変だと思いました。フランスは又修正案を持ち出しまして、とにかくいないという国でも一度
自分の国を調査する必要があろうと思うから調査してもらいたいということを
申出ましたが、ソヴイエトはこの調査にも断然反対をしたのであります。いろいろとそこには動きがありましたが、
英国の
代表はさすがに
議事に慣れていらつしやると見えまして、提案をどんどん取入れて、ついにそのほかの国は
報告だけでいいじやないかと言いましたので、私
どもの願いとして早速この
委員会が活動してくれることを希望したのでありますが、いろいろの
事情の下に四月末日までに各国が
報告をこの
国連委員会にして、そうして五月の最も早い時期においてこの三人
委員がこの
報告を調査してその調査が満足すべきものでないならば現地に渡
つてこれを調査する、そうして
国連の面目にかけてこの
引揚の問題を解決するという
ところへ持
つて行
つたのであります。
ソ連ブロツクのポーランドは、この問題は必ず政治的色がついておると言
つたのでありますから、
ソ連の心配を除けるためにはこの三人
委員は絶対に政治色のない人、そうして万国赤十字がこの三人を選ぶということにな
つておりまして、この
委員会から早速に赤十字に電報を以てこの
責任を引受けてくれるかということを聞きました
ところが、各国が門戸を開放するならば引受けていいということを言うて参りましたので、いささか怪しくなりましたので、若し赤十字が引受けないならば、リー
事務総長がこの三人を指名するということで落着いたのでございますが、その間、
日本から
行つておりましたこの問題に関する書類、イタリー、
ドイツからも書類が参りましたが、
委員長がこの書類を
委員会の各
代表に配付するという問題を出しましたが早速又
ソ連ブロックがこれに反対しました。
国連の書類でない、即ち
国連に属していない国から提出した書類は
国連の書類ではない、だからそれを配付する資格はないものだということを申したのであります。併し
委員長は、この書類は
国連に属する国の紹介によ
つてリー
事務総長の手に渡
つて、リー
事務総長から
自分の手に渡
つて来たのだから、これは完全に
国連の書類であるということを主張されました。そうして私が失笑いたしましたのは、チリーの
代表が、誠におかしなことを
ソ連代表はおつしやる、ついこの間まで報道の自由という問題で一週間ばかりここで討議した時に、
ソ連の
代表が報道は自由にしなければならないということを力説なさ
つた。だからこの
引揚の問題は我々は十分に知識がないのだから、それに関する書類があるならばそれを配付してもら
つて、十分にこの問題を呑込んだ上で
採決に廻すのが報道の自由をここで地で行くことではないかということをおつしやいましたので、
ソ連もこれには一言もなく遂に
採決によ
つてこれを配付されるということにな
つたのであります。そうして
日本で持
つて参りました「平和を求めて」という小冊子がございまして、
引揚の写真入りのものがございますが、これをそこに齋藤先生が出してお置になりました
ところが、又
ソ連ブロツクから非常にやかましく誰がこれをここへ出したのだというようなことにな
つて参りました。そういうことになりましたら今までそれを誰もとる人がございませんでしたのに、反対する人が出て来たものですからもう皆が我も我もその冊子を欲しがりまして、それがなくな
つてしまつたということがこれ又面白い現象だ
つたと思います。こういうことで遂に四十三カ国賛成、五カ国反対、何の問題でもこの五カ国は共に反対の
立場に立たれます。そうして八カ国が棄権ということになりました。この
衆議院では棄権をなさるかたは棄権という
立場を発表になりませんけれ
ども、この
国連はこの点が実に面白いと思いました。賛成、反対と
言つて棄権ということも坐りながら発表するのであります。ずつとその場合はフランス語と
英語でや
つております。そうしてフランス語でアラエルマシヨンと
言つているようでございますが、こういうわけで四十三カ国という国が私
どもが心配をしておりましたにもかかわらず、これだけの多数の国がこの問題に対して賛意を表してくれたということは英、米、濠三カ国がいろいろと心配して下さ
つたこともございます。又私
どももいろいろな筋を通じまして各国の人と個人折衝をいたしましてこの問題を呑込んで頂くように努力さして頂きましたのでございます。
こういうことによりまして皆この参議院、
衆議院の
かたがた及び
国民のこの問題に対する熱意が
一つに集結して何と申しましようか、この実を上げさしたのでもあると私は考えまして、ここにここの
委員会のおかた様
がたが非常にこの問題を熱心に討議し、又そのために御努力下さいましたことを私は
感謝に堪えないのでございます。こうして若しこれがこの
世界動乱の中で問題にされないでしま
つたならばどうして
留守家族に顔を合せられようかと思
つたのでございます。
向うにおりましたときに或る母親から
手紙をもらいまして、これまでの五年の冬は、冬になると伜がどこで凍えているだろうかと思うとたまらない気がした。併しこの冬は三人の
代表がや
つてくれるから、ほのぼのと希望を持
つてこの冬は暮しいい冬であるという
手紙も頂きましたし、いろいろなお
手紙を頂きますと誠にたまらない気持にな
つておりましたのでございます。帰りまして齋藤先生は南のほうに、私は北のほうをずつと廻
つて報告に行
つて参りました。
留守家族の喜びは非常なものでございました。二十九日でございました、天皇、皇后両陛下に拜謁仰せつかりまして、この問題の
報告を三人が二十分ずついたしました、
あとは御質問ということにな
つておりましたが、二十分かそこでの御質問であろうと思
つておりました
ところが、一時間に亘
つて陛下は一々御質問を下さいました。そうして
留守家族が非常にこの朝鮮問題で気を落しておりましたが、
国連でや
つて頂きましたので喜んでおりますということを申上げました
ところが、どういう点で喜んでいるということがわかるかという御下間がございました。それでさつき申上げました
手紙の話、
行つた先々での
留守家族の状況を申上げましたら非常に御満足の体であ
つたのでございます。両陛下ともそこまでこの問題にお心をお悩ししておいであそばすということを拜しまして誠に恐懼感激をいたしましたのでございます。
これを以て私の
報告を終わります。