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1951-02-05 第10回国会 参議院 外務委員会 第2号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十六年二月五日(月曜日)    午後一時五十一分開会   ―――――――――――――   本日の会議に付した事件講和に関する諸問題並びに国際情勢  等に関する調査の件  (千島及び歯舞諸島の帰属問題の  件)   ―――――――――――――
  2. 櫻内辰郎

    委員長櫻内辰郎君) これより外務委員会を開会いたします。  本日は本委員会調査案件であります講和に関連する諸問題並びに国際情勢等に関する調査の一環といたしまして、千島及び歯舞諸島返還懇請同盟代表者諸君から、その御意見を聽取することといたして御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 櫻内辰郎

    委員長櫻内辰郎君) それではさよういたします参考人諸君には十分御意見をお述べ願いたいと存じますが、お一人の御発言は時間の都合で二十分間ぐらいといたし、あとで一括して質疑を行いたいと思います。それでは千島及び歯舞諸島返還懇請同盟の副会長根室町長岸田利雄君、同じく常務理事北海道大学教授高倉新一郎君、同じく常務理事北方漁業開発期成同盟会実行委員長森七郎君の諸君に順次発言を許します岸田利雄君。
  4. 岸田利雄

    参考人岸田利雄君) 御挨拶かたがた陳情の要点について一言申述べさして頂きます。私は北海道千島及び歯舞諸島返還懇請同盟の副会長をいたしております根室町長岸田利雄でございます。  私はこの千島及び歯舞諸島復帰、この件につきましては、やむにやまれない気持を以ちまして、一身を賭して本運動を続けているものでございます。先年根室地方だけの北海道附属島嶼復帰懇請委員会会長といたしまして上京しました際、参議院においては、当時外務委員長野田俊作先生初め久保田先生團先生にお会いし、又衆議院においては当時の外務委員長であられた岡崎先生にお目にかかり、懇請趣旨を申上げ、更に是非現地実情について御視察を頂き、国会において最も重要にお取上げを願うように懇願して参りました。幸い御高配によつて、昨年の夏参議院を代表して團先生御一行、又衆議院を代表いたしまして北澤先生伊藤先生の御視察を賜わりましたことは、現地住民といたしまして、非常に有難く感謝感激しているものであります。今回は講和会議近しの朗報に接し、参議院外務委員会において、委員長櫻内先生初め、各先生御列席の下に現地実情具申陳情の機会をお與え下さいましたことにつき、衷心からお礼を申述べる次第でございます。私ども占領下にあります国民といたしまして、俎上に乗せられた鯉同様の立場にありますことは重々承知しています。併しながら世界恒久平和のため、且つは又日本民族最低生活保障のため、正しいと思う点については卑屈になつてはならんと考えまして、どこまでも誠心誠意を以て世界の御理解と御同情の下に本問題の目的達成に努めたいと思うものでございます。  さて陳情申上げる順序といたしまして、今般上京代表者の所属する千島及び歯舞諸島返還懇請同盟の性格から申上げます。本同盟北海道における国を思う人々の純然たる民間運動として、昨年十一月七日札幌市において結成発足したのでございます。この目的は近く開催せられる講和会議の際、現在ソ連の占領下にあります北海道附属島嶼である千島及び歯舞諸島我が国に返還せられることを熱望し、世界同情の下にこれが目的を達せんとするものであります。この問題については、道内において終戰後間もなく歯舞諸島及び南千島復帰懇請、或いは樺太千島返還懇請、又は北方漁業開発要請等の熱烈なる運動が続けられ工いたのであります。一方道議会においても、或いは市長会においても、町村会においても、それぞれ本問題が取上げられまして、関係方面陳情となり、或いは署名運動となつて活發に行われたのであります。然るに今回同志相会しまして、各種各様運動範囲を統一して、千島全島及び歯舞諸島復帰懇請晒する線に意見の一致を見まして、更に従来の民間運動を一層強化するためには、全道的組織の結成が叫ばれ、本同盟が成立されたのであります。これによつて四百万道民の輿論を結集し、相携えて所期の目的達成に邁進せんとして、この運動を続けておるのでございます。  次に、返還懇請の事由につきまして、いささか申述べさして頂きたいと思うのでございます終戰後ここに五年、幸い連合国同情ある御指導と国民努力によつて戰後混乱期から次第に新らしい日本の再建に向つて曙光が見え初めたことは、我々国民の喜びに堪えないところであります。この上は一日も早く講和会議が締結され、独立国として列国と共に、人類の平和と世界の進展のためにカを盡す日の来ることを祈つてやまないのであります。最近講和会議の問題はいろいろ論議せられておりますが、我々の最も関心を持つことの一つは、講和條約締結の際に、新らしい日本国境が公正妥当なる線において確定せられることが最も重要なることでありまして、特に北海道民といたしましては、現在ソ連邦の占領下にある千島全島及び歯舞諸島我が国に返還せられることを熱望してやまないものであります。つきましては、返覆懇請根拠について二、三申上げます。  第一には、歴史的、国際的見地から考えて見たいのであります。即ち歯舞諸島根室国花咲半島の東北に連なる島々で、延長線上僅か三浬を隔てたるところの水昌島以下歯舞村に属して、地理的にも行政的にも千島列島とは全然別個のもので、北海道本土の一部をなしているものであります。次に、南部千島に属するところの色丹島国後島択捉島は全く日本固有の島で、三百年の昔から日本人の手によつて開発経営され、行政上には普通町村制が施かれ、曾つて民族の居住した事実はないのであります。故に安政元年日露和親條約に基くところの国境線擇捉水道に置かれ、択捉以南島々我が国領土であることは何人も認めるところであります。更に択捉以北島々は、明治八年樺太クリル交換條約において、多年邦人の苦心経営して来た樺太を割愛する代償として、全く平和裡我が国に讓渡されたもので、爾来漁業開発を継続して来たのであります。  第二の点について申上げますポツダム宣言には、「日本国の主権は本州、北海道九州及四国並吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」と明言され、且つ「カイロ宣言條項は履行せらるべく」と附加されておりまして、そのカイロ宣言には、同盟国は自国のため何ら利得を欲求するものにあらず、又領土拡張の念を有するものにあらず、同盟国目的日本国より一九一四年の第一次世界戰争の開始以後において、日本国が奪取し、又は占領した一切の島嶼を剥奪すること、日本国は又暴力及び貪欲により略取したる他の地域より駆逐せらるべしとあります。私たちポツダム宣言は忠実に履行せねばなりません。敗戰日本国民は、この事実を明確に認識しておらなければなりません。併しながらポツダム宣言にも違反せず、又日本国固有附属小島である歴史的事実及びこれを裏書するところの安政條約並びに明治條約によりましても、これらの諸島は、私たち祖先が平和のうちに子孫のために苦心経営して現在に至つていることが明らかでありまして、決して祖先が盗取又は略取したものではなく、いわんや戰争によつて他国より割讓を受けたものでもないことは余りにも明らかな事実であります。  第三には、敗戰の現状からであります戰後本州、北海道九州、四国の四つの島に国土は局限せられ、かてて加えて外地に居住せる同胞が帰還することにより、世界一の稠密なる人口を擁して、困難な生活と闘い、乏しい資源を極度に利用して経済の自立を図らんとしている我が国民にとつて千島及び歯舞諸島富源は、人口、食糧問題の関係においても極めて重要な連関を有しているのであります。殊に動物性蛋白栄養は主として水産物に仰がねばならない我が国の実体に照して痛切に感ずるものであります。又根室地方引揚げております千島及び歯舞諸島引揚者たちは、朝夕指呼の間に自分たちの郷土であり、祖先の墳墓の地である島影を眺め、茫然として海辺に立つ様相を見るとき、誠に同情に堪えないものがあるのであります。以上、過去の歴史と現実の状態より墾請事情の一端を申述べましたが、本同盟としては、これを契機といたしまして、道民運動より、更に全国民運動に展開し、而して全世界理解同情によつてこの悲願の達成を希うものでございます。  以上簡單でありまするが、一応懇請趣旨と御挨拶を申上げる次第でございます
  5. 櫻内辰郎

    委員長櫻内辰郎君) 有難うございました。  次は高倉新一郎君にお願いいたします
  6. 高倉新一郎

    参考人高倉新一郎君) 私は千島歴史について少しお話をいたしまして、いろいろこの帰属問題に関する議論の根本を申上げたいと存じております。と申しますのは、実は千島及び歯舞諸島発見経営等に関しましては、まだ單独の歴史がございません。従いまして、日露両方の問題、それから先住民問題あたりから総括いたしまして一貫した歴史というものを考えて置きますということは、これはこの問題を考えます基礎になろうかと思います。私專門が違うのでございますが、曾つて北海道歴史の編纂をお手伝いいたしました関係上、常にこの問題に対して、思いをひそめておりましたので、ここでそのお話をいたしまして、皆さんの幾らかの御参考にでもなれば仕合せと思つてまかり出た次第であります。  千島日本及びロシアのいわゆる文明国によつて開発せられ、経営せらるるまでには、ここに先住民がおりました。それはいろいろな方面から証明されるのでございますが、それがどんな民族であつたかと申しますと、これはアイヌの一派であつた北海道本島に住んでおりましたアイヌ別派であつたということが言えると思います。それでそのほかにアレウト族の遺跡が発見されておりますけれども、これは私どもの知り得ました範囲では、後にロシア人か移したものでありまして、本来ここにとどまつていたものではない、至極新らしいものだと思われるのであります考古学方面から調べて見まするというと、その結論を申しますれば、これは北海道の北のほうに占拠していた民族と同じ文化圏に属するものであるということが言えるのでございます。その北のほうの文化というものに対しては、よくまだ結論を得ていないようでありまして、殊に異なる民族が住んでいたものではないかというようなことを言われておるのでございますが、併しながらまだここには人骨が発見されておりませんので、これに対して確固たることは言えないのであります。ただ北海道の北のほうに拡がつていた文化圏と同じ文化圏にこの島があつたということは言えると思います。  それからもう一つは、千島文化民族によつて発見せられましたときに、島名がわかるのでございますが、その島の名を見ますというと、全部がアイヌ語で解釈されたところの、而もアイヌ語の法則によつてそれが妥当であるということがわかりますところの地名でございます。私の調べました範囲では、ただアライト島だけがロシア語である。これも昔はオヤコパケという名前で以て呼ばれていた。即ちアイヌ語で「外国側にある島」という名で呼ばれていたところの島でございます。それから又風俗習慣を見てみますというと、これも発見当初から記録されておるのでございますが、殆んど北海道本島アイヌと変りません。従いまして、ここでは大体アイヌ別派が住んでいたということだけははつきりと言えると思います。そこでその千島文明国人によつて発見されました世界における最初の記録を今日の状態で考えて見ますというと、一六四三年に、即ち寛永二十年という年でございますが、この年にアランタの東印度会社命令を受けて、この附近にあるところの伝説の金銀島を探しておりましたド・フリースという人によつて、初めて世界地図の上にこの方面のことが現われて来たのであります。大体ド・フリースの探險を以てこの地方最初発見としているようでございます。併しながらこれには経営が伴いませんで、したから、そのままになつております。で、日本千島諸島に手をかけましたのは、これはずつと後でございますが、千島諸島のことをよく知つてつたというのは、一七〇〇年、元祿十三年松前藩幕府全国図の資料として奉りましたところの元祿図並びにそれに附随いたしましたところの地名表、即ち松前郷帳によつてわかるのでございますが、あときにはクルムセ島と名を付けまして、ここに三十数箇の島を描き、そうしてそれに三十一箇の島名を付しております。これを一々今日の島名に当てはめて見ますというと、殆んど大部分の島、私の調べましたところでは、占守幌筵に当る島が見付からないのでございますが、そのほかの島は全部この地名の中に現われておるのでございます。併しながらこの地図はこのときに初めてできたものではなくて、恐らくはオランダが探險をいたしましたよりも更に遡りますところの寛永十二年、一六三五年でございますが、それから間もなく幕府命令によつて奉らなければならなかつた地図を作るために、藩士を派遣して作製いたしました。その地図は今日は滅びてないのでございますか、その写しと推定されるものを見ることができるのでございますが、それを見ますというと、元祿図と殆ど変つてておりません。従いまして、この探險によつて松前藩千島方面のかなり詳しい知識を持つていたものということが言えると思いますロシア千島に参りましたのは一七二三年のことでございます。即ち正徳三年という年でございます。今の地図から十三年ほど後のことでございますがこのときには日本漂流人の案内によつて占守に参りまして、そうしてそこに住んでおります土人を征服いたしまして、そこから毛皮税を取上げる約束をいたしました。そのときに初めて千島島名を知り、そうして、その位置をやはり漂流民から聞いて認識しておつたようでございます。ところが日本人はこれらの島民とは、丁度その地図ができました寛永年間から交通が行われておりまして、厚岸、それから後になりますというと、霧多布、根室に進んで行くのでございますが、ここに交易所を設けまして、千島アイヌ交易を続けております。その交易の有様を私ども調べて見ますというと、これは決して今日の冷たい交易関係ではなくて、当時東洋に行われておりましたところの朝貢というような関係を含んで参つたものでありましで、松前に対しては單に物を交換するというような意味ではなしに、よほど親しい気持を持つた交易かそこに行われたように私たちは考えております。併しながらその交易が次第に進みまして、国後島、一番南の端の国後島にこの交易所が移りましたのは、それからずつとあとの一七五四年のことでございます。即ち宝暦四年という年でございます。それですから、千島経営に実際に着手しましたということになりますというと、少し日本か立ち遅れておるのでございますが、併しロシアアイヌの人と交渉を始めましたときには、千島の各地において日本の品物を多く見出すことができまして、その交易が相当北のほうまで及んでいたということがわかるのであります。ところがこのロシア千島経営に着手いたしましたのは、主に毛皮税をとることにあつたのでございますが、その毛皮税取立て方が非常に苛酷であつたために、北千島アイヌはこれを避けまして、次第に南のほうに逃げて参りました。それからもう一つは、千島中部金銀島があるのではないかというような言い伝えがありましたのと、それともう一つは、北太平洋毛皮業が余りにヨーロツパ市場から遠いのでありまして、これに対する市場を見出す、この三つの原因から、ロシアは次第にこの千島に沿うて南のほうにおりて参りました。そうして一七七三年にはウルップ島を根拠といたしまして、日本の北のほうに通商を求めにやつて参ります。併しながらこれは松前藩が拒否いたしまして、空しく帰つてしまつた。このウルツプ島も永久的な根拠地にはならなかつたのでありますが、天明五年、一七八五年にこの事実を確めるために、この地方を探險いたしましたところの幕府の役人の報告によりますというと、ここに二人のロシア人がいたということが書かれてございますけれども、これは勿論ウルツプ島から逃れて来たものでありまして、ここで経営をしたというような事実ではございません。この調査によりまして、幕府はやがて一七九九年に北海道の東海岸及び千島、これを直轄にいたしまして、開拓をすることになりました。このときに国後島まで開いておりました日本漁場を、更にウルツプ島まで進めまして、ここの土人を撫育いたしました。そのときには先におりました二名のロシア人は、もはや退去いたしまして、全くの空島であつたのでございます。それから引続きまして、一八〇一年に幕吏を遣わしまして、ウルツプ島の調査をいたしました。翌年からそれの開発に着手しようと、こういうことでございますが、このときにはすでにウルップ島にロシア植民団が、その二、三年前から来て占拠しておりました。そのためにこれを退けることはどうかというので、ただここのウルップ島への交易を断ち切るという形で以て、ウルップ島を暫らく見守つておりましたところが、ロシア補給船がなくなつてしまつたために、この植民団は去つてしまいました。そこでウルツプ島はそのままに空島のまま、文化十三年の年まで残されたのでございます。この年にはゴロウイン事件という事件か起きまして、ロシア日本とがその問題の解決に外交交渉をいたすことになりました。このときに日本ではウルツプ両国の間に存在する島、即ちこちらのほうの領土択捉島向う領土は新知島、そうして中に位するところのウルップ島は、これは両方緩衝地蔕というようなことで外交交渉をする下心を持ち、大体において向うも了解していたようなんでございますが、現地交渉がでぎませんために、このまま流れてしまいまして、いわゆる安政日露ワシントン條約まで来たのでございます。このときになりますというと、ロシアの人はここにアルタイ人を移しまして、ウルップ島を経営いたしました。このときの條約にはその事実に基いてウルツプ島はロシア領土、それから択捉島から南のほうは日本領土、こういうふうにきめたのでございます色丹島択捉島が開拓されると、その連絡する島として重要となりましたために、一八〇二年にここに番屋を置きまして、経営に着手いたしました。それまではロシアの船がちよつと参つたことがございますが、経営は行われておりませんでした。ところがここの島が非常に経営のしにくい島でありましたために、一八〇七年に全島アイヌ根室花咲に移しまして、ここから出稼ぎに行くという形で以て、この島の経営を続けておつたのでございます。そのようにいたしまして、私の考えます範囲におきましては、色丹島国後島択捉島も、勿論歯舞諸島も、これは北海道と同じくアイヌ人か住んでいた所、これはまだ国家の形態も何もなしておらない、アイヌ人が住んでおりました所を、日本人努力によつて開いて行き、経営して行つた島でありました。その結果を日露両国が認めて、そうして妥当な国境線が引かれた島なのでございます。それから北のほうのいわゆる中部千島北千島、これは一旦ロシア領になりましたが、これは前にもお話いたしましたように、明治七年に樺太クルリ交換條約という條約によつて日本の所有に帰したのでございます。この條約は勿論非常に平和的な條約できめられたのでございますが、これにも又一つ歴史があるのでございます。それは樺太という島もやはり北海道と同様にアイヌの一分派が住んでおりました。殊に南樺太の五十度以南の所はアイヌ人が住んでおりました。そうして清国はこの島の北部のほうを経営しておりましたが、清国地図を見てみますというと、大体において五十度以南の所は描いてございません。それによりまして見ましても、清国経営は五十度から僅か南のほうに下つた所へとどまつておりまして、樺太全体には及んでいなかつたものと考えられるのでございます。そうして松前藩は宗谷に中心を置きまして、南樺太アイヌと長い間、前にも言つたような親しい交易を続けておりました。それが樺太交易所を建てて、そこに商船が行くようになりましたのは一七九〇年のことでございます。それから日本の人は西海岸の真岡、それから亜庭湾のほうを中心といたしまして、漁場を開いて、アイヌと共に漁場経営をやつておりました。南樺太アイヌの住んでいた所に日本人行つて、ここを経営しておつたのでございます。ところがその前の年の嘉永六年に、ロシアが当時ニコライエフスクに軍港を設けまして、そうしてそこを中心にして東洋にいろいろな政策を行おうということになりましたために、その前面に位する樺太を手に入れようというので、いろいろな工作をいたしました結果、次第に移民を送り込みまして、日露雑居の地としてしまつたのです。当時日本幕府は、これに対して血の出るようなまあ経営競争をしたのでございますか、幕末で勢力が非常に衰えております悲しさに、これに対抗することができずに、慶応二年という年に、やむなく樺太日露雑居の地だという條約になりました。その後も両方競争が激しくなりまして、次第にこの両方の国の争いが、小さな争いか頻りに続くというような状態にありましたために、明治七年に思い切つてこの島をロシアに讓り渡した、その代償として北千島をこちらのほうに讓り受ける、こういうような形になりましたのでありまして、この北千島も又初めから日本の人が努カをして開いたものの代償として得たものでありますからして、これも又南千島その他と同様と考えていいと、こういうふうに思われるのであります。従いまして、いろいろな議論がそこに行われると思います。私は素人でございますからして、これ以上の議論に立入ることは差控えたいと思いまするが、併しながら、この千島全島北海道本島と同じような経過によつて、同じような位置にあるものだということは、歴史上これは蔽うことのできない事実である。こういうふうに信じておる次第であります。この事実の上に立つていろいろな事件を、いろいろな問題を一つ考えて頂きたい。これを私は日本人々だけではなしに、全世界かたがたに考えて頂きたい、こういうふうに考えておる次第でございます
  7. 櫻内辰郎

    委員長櫻内辰郎君) 次は森七郎君。
  8. 森七郎

    参考人森七郎君) 私過去約二十年間ほど、北洋及び北千島で働いておつた者であります只今岸田会長高倉理事の話ですべてが盡きておるわけでありまして、特に私は昭和九年以来十七年まで北千島で働いておりました。そこで北千島というところは一体どれくらい「さけ」、「ます」がとれたのかということを簡單に計数を申上げて見ます。「さけ」、「ます」を合せまして、昭和九年には約二千七百万尾、それから昭和十年には三千五百万尾、昭和十一年には五千百万尾、十二年には八千四百万尾、十三年には八千二百万尾、十四年が非常に大漁でありまして、一億三千万尾ほどとれておつたのであります。こういうように、北千島だけでこれだけのものが年々漁獲されておつたというのであります。更にそれ以外には北洋には工船とか、或いは陸上の租借したところでとつたものも相当にあつたわけでございます。それから昭和二十二年に、私どもが初めに運動を起しました北方漁業開発期成同盟会の初めの主張は、領土の問題には触れないで、マッカーサー・ラインの拡張、即ち「さけ」、「ます」がとれるところまでマツカーサー・ラインを延ばしてもらいたい、それはいずれ講和條約ができたときに領海というものが制定されるであろうから、領海外の「さけ」、「ます」のとれる北方の線にまで延してもらいたい、こういうよりな主張を続けて来ておつたのであります。その後時局の変化等に伴いまして、別々の運動でなく、一緒に運動して行こうということで、この会の成立を見たわけでございます。特に私申上げたいのは、先ほど岸田会長から、日本の帰属、その中にポツダム宣言の中に、北海道の構成というものは十一の国から成立つておるのだ。十一の国の中には千島の国というものがはつきりある。千島国幌莚郡幌莚島ということになつておるのでありまして、当然北千島も、いわゆる全千島日本のものであるということを私ども強く主張しておるわけであります。その他につきましては、現場のことについて御質問等があれば、又知つておる限り御報告申上げたいと存じます
  9. 櫻内辰郎

    委員長櫻内辰郎君) 次は齋藤秀雄君にお願いいたしたいと思います
  10. 齋藤秀雄

    参考人(齋藤秀雄君) 私は御紹介にあずかりました齋藤秀雄でございます森七郎君同様、やはり北洋、併せて北十・島にこれも二十三年働いておりますかたわら、漁業も北千島昭和十年から昭和十五年まで定置漁業を経営いたしておりました。この北千島の定置漁業というもの、或いは流し網漁業、或いは「たら」釣漁業「かに」綱漁業、これらを一貫いたしまして、その産額は約四割が外貨の獲得をしまして、非常に日本の経済に寄與して来たのであります。これが今日御承知のごとく皆様のお口に入る時分には、「さけ」が一尾千円もしなければ入らない。私どものとつてつたときは、「ます」が現地で三銭五厘、「さけ」は紅「ざけ」で罐詰する材料を供給する時分には九十銭、最高は一円でございます。白い「さけ」新巻は一尾現場で二十銭くらいで供給しておりまして、その産額が最高は四千万円以上に達しておつたのでございます。かような見地から、今日本領土はこれほど狭められて、若しも千島列島日本に返つて来て、その産額で日本人の蛋白源を補うとしたならば、その栄養カロリーから日本領土というものを計算いたしまするというと、本州以上の領土がここに生れるという結果になるのであります。  私は結論をここで申述べさせて頂きますれば、千島列島を今後占有するものありとすれば、これはポツダム宣言の違反者であるということを断言して、決して世界に御迷惑でなかろうと思う。その理由といたしましては、ポツダム宣言というものを日本国民は受諾したものであるけれども、ヤルタ秘密協定というものは、何らこれには関知しておらない。ヤルタ秘密協定は当時新聞紙上に現われたとき、あれは三国間の戰争遂行のための一つの方便であると日本国民は解釈しておるのだと思つております。このポツダム宣言に、日本の主権は北海道、本州、四国、九州、これに附随する連合国の認めたる島嶼となつておるそうでありまするが、この千島の国は、今森君の言われたことく、北海道十一州、即ち北から言えば千島の国、根室の国、釧路の国、十勝の国、日高の国、北見の国、天塩の国、石狩の国、胆振の国、後志の国、渡島の国、この十一を以て北海道と言い、北海道庁の管轄下に十六の支庁を置いて、この千島の国は根室市庁の行政管轄下であつた。そうしますれば、このポツダム宣言宣言は、日本の主権を千島を除いた北海道とはなつておらないと思うのであります。そうしまするというと、北海道という限りにおいて、は、当然これは千島列島日本の主権である。かように日本国民は信じ切つておるのでございます。どうかかこれに関しまして、千島北海道と別であるというところのお考えでなく、北海道の構成が即ち千島を入れて、北海道ということを強く世界に認識さして頂きたいと、かように考えるのでございます。甚だ條約その他のことに関しまして、浅学菲才なるところの私どもが、日本の学者のかたがた或いは識者のかたがたの前でこういうことを申述べるということは、甚たおこがましい次第ではありますけれども日本国民の我々無知な者がさように信じ切つておることは、これは取りもなおさずポツダム宣言の忠実なる履行者である日本国民であるから、かようなことを申述べる次第でありますので、どうかこの千島というものは、ポツダム宣言によるところの北海道の主権であるということを堅く世界に訴えたいと、かように信じておるものであります
  11. 櫻内辰郎

    委員長櫻内辰郎君) これより質疑に移りたいと考えます。御質疑がありましたら、この際御質疑を願いたいと存じます
  12. 團伊能

    ○團伊能君 極めて重大な深刻なる千島列島の問題を、この委員会で取上げるに当りまして、私はその前に二、三、伺つて置き、又この委員会といたしまして、決定して置かねばならん極めて小さい字句の問題でございますが、字句の問題の御協議を一遍願いたいと思います。それは現在の條約面に現われております問題に千島という文字はございません。千島は従来蝦夷千島と申しまして、極めて北方諸島という意味で、松前藩その他が幕政間に使つてつた文字でございまして、これは世界に共通性のない文字であります。そのために一の千島という文字を使うことによりまして、本問題が非常に誤解をされ、或いは不明瞭になつているところがあると存じますので、先ず條約面に現われておりますクリル諸島につきまして、どれかクリル港島であるかという範囲の決定をしてかからなければ、この問題は完全に理解できないと存じます。御承知のごとくヤルタ会談におきまして、又昨年の十一月ダレスからソ連に渡しましたこのたびの講和條約の九項目につきまして、マリクが返答いたしました中にも、やはりクリル諸島と書いてございます。それ故に我々はここにクリル諸島が何であるかということを掴むことが一つこの問題を進める手続上の問題かと存じます。我々この材料といたして持つておりますのに、一八七五年の交換條約の中にあります文書でございまして、これには樺太における日本が利権を放棄して、その代りに択捉以北の、つまり得撫からカムチャツカに繋がります島、十八島を交換いたしましたときに、クリル十八島をソ連が日本皇帝に讓り渡す、これによりまして、クリル全島日本皇帝の所有であるということが記載されておりますが、このクリルが果して今日の通念といたし、どこまでをカバーいたしておりますかをはつきりいたしまして、この問題を進めることが必要かと存じます。勿論ポツダム宣言によりまして、日本の周囲の島嶋は連合国の定めるところでございますが、それ故に全部北海道周辺島岐は将来に決定さるべき問題でございまして、これに対しまして、我々がポツダム宣言を受諾いたした以上、何ら言うべき筋はございませんが、併しその中でクリルだけは條約に出ておりますから、この点御審議を頂きたいと思います
  13. 櫻内辰郎

    委員長櫻内辰郎君) 團さんに伺いますが、その点は北海道のほうの御意見を伺いますか、若しくは政府からの御意見を伺いますか。
  14. 團伊能

    ○團伊能君 先ず北海道でどういう工合に考えておられるか伺いたい。或いは外務省から、外務省のお取扱いになつている国土の関係におけるクリルは、どの範囲をお考えになつておるか、どちらでも結構でございます
  15. 櫻内辰郎

    委員長櫻内辰郎君) 北海道のほうの御意見は……。
  16. 高倉新一郎

    参考人高倉新一郎君) 私この問題につきましては、そう評しくは知つておらないのでございますが、実は外交上で両方の国が了解いたしましたものを、私が知る範囲におきましては、今の文字よりほかには私どもは見ておりません。それからなおエンサイクロペジアその他に現われております外国のいわゆるクリル諸島というものを引いて見ますというと、大体今の歯舞、色丹のその線ではなしに、占守から国後に至る一列の列島でございます。これを大体指しているように私たちは了解しております。但しこれは外交上のものではなしに、ただ自然科学のほうで、そういうふうに扱つているということでございます
  17. 團伊能

    ○團伊能君 外務当局のほうのお考えは……。
  18. 櫻内辰郎

    委員長櫻内辰郎君) 政務局長がお見えになつておりますが、今の團委員の質問に対してお答えが願えれば結構ですが。
  19. 島津久大

    ○政府委員(島津久大君) 只今の團委員の御質問の点につきましては、條約の文言以外にはつきりした定義を下す材料は政府としては持つておらない。只今、どうこうという確定的な意見は差控えたいと思います
  20. 櫻内辰郎

    委員長櫻内辰郎君) よろしうございますか……。ほかに御質問はございませんか。
  21. 曾禰益

    ○曾祢益君 本日おいでになつた皆様の非常に熱烈な御希望並びに御意見は篤と拝聽しておりますし、我々も何とか列国に対しまして、日本の正しい要求を一つ聞いて頂きたいという気持に燃えておるわけなんです。そこで先ほど御指摘にたつたように、この問題につきましては、いろいろな見地から検討しなければならん。それで先ず只今もお話がありました、團さんのお話になつていましたお話に、これはクリルの範囲の問題であるとも言えるし、又逆に言えば北海道範囲の問題であるとも言える。それからヤルタ協定に我我が拘束されていないということは、これはもうその通りであります。我々はポツダム宣言に拘束され、又ポツダム宣言に援用されたカイロ宣言は受諾しなければならない。そこでいろいろのお話がありましたが、私はこの連合国、即ち四大国が北海道以外の島についてきめるということについては、これはもうポツダム宣言によつて受諾しているのだから、これは文句は言えないのでありますが、ただきめられる四大国としては、先ほどもカイロ宣言を御引用になつてお話しになつたのと、又更に他の條約或いは外交文書から言うならば、大西洋憲章或いは連合国協同宣言の立派な方針からして、連合国は自分らが領土拡張を求めず、又領土の変更は住民の自由意思の選択によるというこの立派な精神によつて、この北方並びに南方の周辺の領土をきめてもらいたいということを、当然に私は要請すべきではないかと思うのであります。その見地から言いまするならば、今のお話の中にありまました、私をして言わしむるならば、北海道は勿論であるが、千島も南と北と中とを分けないで、全千島、更にいま一つ南樺太についてすら、私は同じ原則が適用さるべきではないかと思うのであります。併し南樺太については、本日要請としてのお話がないのでありまするから、これは暫らくおきまして、話を元へ戻しまして、千島、クリル、いろいろ問題はありますが、現在のソヴイエト軍隊が占領しておらない北海道以外の問題については、これはこれから先きは質問になりまするが、お聞きしたいのですが、考え方がいろいろあると思うのです。先ず第一に歯舞諸島と、それからそれ以外の国後、択捉、色丹、それから得撫から北と、そういうふうに考えるのか、それとも歯舞、色丹は最も狭い意味で、いわゆる北海道の意味であるのか、それから国後択捉がいわゆる南千島として、いわゆる別のものになり、それから得撫よりか東北に位するいわゆる中千島というふうに三つに考えるのか正しいのか、それを終戰に対するソヴイエト軍隊の占拠並びに日本軍隊の降服のやり方等に鑑みまして、一つもう少しそこら辺の考えの分け方を御説明願いたいと思うのであります
  22. 岸田利雄

    参考人岸田利雄君) 只今の御質問で大体三段階に考えております。その一つは、歯舞のあの附属島嶼は水晶島、勇留、秋勇利、志発、多楽、この五つの島になつております。これは歯舞村の木村が北海道のあの納沙布の半島にある、その管轄でございます。ですから、これはもう先ほど申上げました通り、私はあれは千島じやない、北海道である。それからその歯舞諸島のあれは、曾てはあれはやはり村ではなかつたのでありますが、明治十八年かに色丹という島をあれは一村に訂正したのでございます。これは地勢的に見ましても延長であるから、当然その上体はこれは歯舞諸島である。これは第一に当然過ぎるほど当然だと、こういうふうに考えておるのであります
  23. 曾禰益

    ○曾祢益君 色丹島も含まれるわけですか。歯舞諸島に……。
  24. 岸田利雄

    参考人岸田利雄君) 歯舞諸島という中には、延長線上ですから……。それから後に言いましたところの、先ほど問題になりましたクリル、樺太の交換問題その他については、はつきり出ておりますのは、得撫と、これより後は得撫と択捉の水道を以て境とするということがはつきりしておりますので、その国後島択捉島色丹島を後に南千島と称したのであります。これは行政上には何ら南千島という区画はありませんが、通称北千島とか、或いは南千島という名前を言つているだけであります。そういうような関係からいたしまして、この南千島におけるところの色丹の存在というものは、ちよつとそこに両股になるのでありますが、これは地勢から言つても、名指しから言いましても、歯舞諸島の連続と考え、属しております色丹島南千島国後島択捉島でありますが、これは先ほど来由しました通り、過去の歴史におきまして、それがはつきりとらえられております。そうして普通町村制が布かれております千島六ヵ村ありまして、択捉には紗那、留別、薬取という三つの村があります国後島におきましては、泊村と留夜別村と二村になつておりまして色丹村と、いわゆる言うところの通称の南千島には六万村に一般普通町村制が布かかれております。そこには三代、四代、五代というような間日本人が住んで、全く根室から申しますと、島の人といい、島の人は根室を本家、分家という形になつております。こういう事実から、これはどうしても最も近いのである。そう考えるのでありますが、北海道島嶼においても、利尻、礼文、奥尻島というような島がございます。そういうようなことから、何が故にあの国後島択捉島がソ連の占領下に置かれて打付になつたかということを申したい。本州においては、佐渡島、大島と同様の島であるという感じを持つているのであります。従いまして、第一に三段階に考えますときに、歯舞諸島はこれは当然過ぎるほど当然であるし、それから国後、択捉は当り前のことだ。更に得撫から日本歴史を辿つて見ましても、先ほど来の歴史的な経過から見まして、或いは国際上の見解から申しましても、これは日本領土であるからして、これはヤルタ協定が生きるということなら別問題でありますが、生きてもヤルタ協定がよしんば生きても、択捉以南の島は当然日本領土であるし、ヤルタ協定がいけない、或いは知らないんだ、ポツダム宣言の受諾前だからして、ヤルタ協定は別なんだ、こういうことになれば、当然千島尻の阿瀬度までという、この大体三段階に考えて行くのでありますが、そういうのであります
  25. 曾禰益

    ○曾祢益君 よくわかりました。
  26. 櫻内辰郎

    委員長櫻内辰郎君) ほかに御質疑はございませんか。
  27. 團伊能

    ○團伊能君 只今のお話でだんだんよくわかつて参りました。得撫、択捉海峡から南千島は、先ほどの御説明にありましたように、元来蝦夷、松前藩でございまして、如何なる歴史の過程におきましても、外国の所領となつたことはないところでございます。又歯舞に至りましては、今日到底これが千島或いはクリルと考えられない近接島嶼でございまして、現にこの距離を見ますると、熱海から初島ぐらいの距離で、一番歯舞諸島の中で根室半島に近いところでございます。その間の距離は僅か三千四百メートルに過ぎないのであります。又その実情を見まして、秋勇留、水昌その他の島と半島の間にございます貝殻島という磯がございまして、非常に水流がその辺は急で、一時間三マイルぐらいの水流であり、且つ非常に濃霧の多いところなので、その潮が引けば出て、潮が満てば隠れるような磯に建てました燈台で、この燈台が丁度三千四百メートル本土からございますが、その燈台までこれは本土に属して、千島範囲に入つておりますということは、殆んど常識で考えられないことであり、且つ又この燈台と本土との三千四百メートルの中間がいわゆる今日の航行範囲となつておりまして、マツカーサー・ラインが引かれておりますために、千七百メートルが航行距離でありますが、岸から千二百メートルは磯でございますために、僅か三、四百メートルの間しか航行することができない。而も海上判定でございますから、殆んど危險で、そこは通行できないという事情になりますと、これは殆んど今日常識として考えられない問題でございます。これらにつきまして、なお御陳情を伺いまして、皆さんのお気持はつきりいたして参りました。この委員会として、委員長におかれまして、これを是非何かの形におきましてお取扱頂く、少なくとも我々はこの実情につきまして、日本が将来の国家として生きて行く必須條件としてのこの説明はなし得るものと考えます。その点におきまして、お取上げをお願いいたしたいと思います
  28. 櫻内辰郎

    委員長櫻内辰郎君) ほかに御質疑はございませんか……。御質疑がございませんければ、千島関係陳情はこの程度にとどめまして、明日午後一時三十分から、沖繩の問題についての陳情を聞くことにいたしたいと、こう考えます。本日はこれにて散会をいたします。    午後三時四分散会  出席者は左の通り。    委員長     櫻内 辰郎君    理事            徳川 頼貞君            曾祢  益君    委員            團  伊能君            金子 洋文君            伊達源一郎君            野田 俊作君   政府委員    外務省政務局長 島津 久大君   参考人    千島歯舞諸島    返還懇請同盟副    会長根室町長  岸田 利雄君    同 同盟常務理    事北大教授   高倉新一郎君    同 同盟常務理    事北方漁業開発    期成同盟会実行    委員長     森  七郎君    同 同盟常務理    事       齋藤 秀雄君