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土屋参考人 短期金融債が
長期資金なりやいなやということは、ある程度までは
定義問題であります。しかしこの
短期債の名が示す
通り、これは
短期資金であると了解いたします。三年以上あるいは五年以上というものが
長期資金でありまして、一年というものは明らかに
短期資金である。もちろん六箇月ないし三箇月の
資金に比べればこれは
長期資金でありますけれ
ども、普通
金融界においては、今までは三年以上のものを
長期資金と
考えておりまして、
割引興業債券のごとき一箇年のものを
長期債とい
つたような例はない
ように記憶いたしております。
そこでこれが
金融政策上どういう
影響をもたらすかというお尋ねでございますが、第一は私はこういう制度を設けることが單に
東銀だけの問題のうちならばまだよろしいのですけれ
ども、やはりこれが
大臣のおつしやる
通り、届出でも
つてどんどんできるのだということになりますと、おそらくこれが相当普遍化するのではないかと思います。そういう形になりました場合に、第一に問題になりますことは、日本の
商業銀行のあり方として決して健全ではないということが、
金融政策上の問題だろうと思います。ドツジ・ラインの精神が、商業
金融は
商業銀行にやらせる、つまり預金によ
つて短期金融をまかなう、そういう原則を貫くことにあることはもちろんであります。もしもこういう形の
債券を
発行する
ような、そういう
銀行制度が一般化するということになりますと、日本の
銀行は世界の
銀行制度とはま
つたく姿を異にした、きわめて例外的、変態的な存在になるといわざるを得ません。世界のどこに
商業銀行が社債のごときものを持
つているところがございまし
ようか。スイスの山の中の
銀行に一つあるかないかという
ような話を聞きますけれ
ども、日本の
商業銀行の大部分がおそらくそういう
ようなものを持つ
ような形になるということを
考えますときに、それは日本の
金融制度全般の問題として決して看過できないことであります。つまりドツジ・ラインが
考えておるところの、
商業銀行を健全な
商業銀行たらしめるという
趣旨に沿わないと思うのであります。しかしこういう社債類似の
債券が、やがて氾濫する
ようになりますと、必ずその間においてデイスカウントされまして、つまり打歩額が生じまして、
東銀債が百円で売り出したものが九十円くらいになる。今日でもすでにそういう徴候が現われつつある
ようであります。そうしますと
東銀債は率は幾ら、千代田
銀行の債権は幾らという
ように、
銀行間によ
つていろいろな差別が生じ、これがまたいろいろおもしろからぬどろ沼に陷る状態を起すじやないかということも懸念されるのであります。ゆえに制度とてこういう
商業銀行が債雰
発行を持つという
ようなことは、私はいけないというのが第一点であります。
第二にこういう制度を持
つた場合に問題になりますことは、これが必ずしも資本の蓄積にならないということであります。おそらく
大蔵省当局がこの制度をお認めになりました動機は、きわめて善良で、無記名定期が許されないときに、おそらくはこの制度ならばなおさら
市中銀行が喜ぶじやないか、そうして資本蓄積ができればけつこうじやないか、こういう單純かつ善良な動機に出発したのだと
考えます。しかしこれは、資本蓄積のためならばどんなことでもしていいということではないのでありまして、必ずしもこれは資本蓄積そのものの目的に沿わない。つまりこの場合起ることは結局預金の横流れと、はなはだしき
市中銀行間のどろ試合でありまして、かえ
つて正常な預金吸收の努力が忘れられ、
銀行本来の健全な経営というものに背馳する結果になると私は憂えるのであります。と申しますのは、なるほどたんす預金が多少これは吸收されるかもしれませんけれ
ども、それ以上に預金が移動する。つまりこれは税金が一銭もかかりません。無記名定期は源泉課税がかかりますが、これは申告制度でありますから全然税金がかからないのであります。そういうことから現在安定しておる預金が至るところに移動して行くということにな
つて、それがことに憂慮されるのは
地方銀行の預金というものはま
つたく名の売れておる大
銀行の
債券によ
つてと
つてかわられるという
事態が起る。そうしますと、現在でも
地方銀行の業績がそれほど振わない、しかし
地方銀行本来として地方産業の振興という重大なる使命をにな
つておる、しかるにその
地方銀行の預金が移動して大
銀行の
債券に振りかわるということになりますと、地方に対する産業
資金の還元ということが非常に困難になるじやないか。そうしますと、現在の大
銀行対
地方銀行間の関係というものはさらに惡化して、收拾しがたい摩擦を起す憂いがあるということを
考えます。そういうことを
考えますときには、これが資本蓄積上決してプラスではない。
従つて資本蓄積のためならば、いかなる制度もいいのだという
ような
考え方は、間違いではないかという
ように思うのであります。
第三に、こういう制度をやりますと、
銀行経営といたしましては必ずしも有利には申されない、というのは非常に預金コストが高くな
つて来るに違いない。無記名定期ならば別にこれは
債券を
発行しませんからまだしもでありますが、ともかく
債券になればこれは一枚にして何十円という印刷費もかかる。そればかりではない、この勧誘のために狂奔するということになりますと、これはどこの支店がと
つてもいいわけでありますから、あらゆるところに入り乱れての乱戰が始まる。ひいてはこれが預金コストの増高を来しまして、
銀行経営の健全化をも害するということになりかねないと思うのであります。こういう
ような点を
考えますときには、
金融政策上から申しまして、これが決して一時の資本蓄積の美名のために許すべき制度ではない。むしろ今回
大蔵省が提案されました預金の源泉選択制度、これがどうやら通過するといたしますれば、こういう制度によ
つて正常な資本蓄積を促進して行くということの方が望ましい。一番望ましいのは無記名定期の実現でありますが、そのことも
大臣以下がこれほどこの
短期金融債のために奮闘される努力の半分を拂われるならば、私は無記名定期の実現の方がむしろ可能じやないか。努力される目標を間違えておるという
ような感じがいたすのであります。
それから
金融行政上の問題についてお尋ねがございましたが、私は内部のこまかい事情はよく存じません。これについてはおそらく他の
参考人からお答えがあ
つたと存じます。しかし私は全体から
考えまして、
日銀総裁、
日銀の
政策委員会というものが、これについて非常に乘気でなか
つたということを明らかにし得ると思います。そうして一万
田総裁も出発の前に
大蔵大臣にお目にかか
つたそうであるし、かつ長沼大蔵次官に重ねてお会いにな
つてその点についての念を押されて行
つたと伺
つております。それであるのにあえて
大蔵省がそういう反対を押し
切つてまでしたということ自体、大
銀行の大部分、並びに
地方銀行当局も反対しておる
ようなことを一方的に
大蔵省が強行するということは、やはり
金融行政の民主的な運営という意味からい
つても非常に問題があると思います。もちろん
金融政策は
大蔵大臣の所管でありますけれ
ども、しかし
日銀総裁は通貨制度の維持ということを
日本銀行法によ
つて規定されておるのでありまして、
日銀総裁の
意見というものを相当取入れまして、
金融行政を
行つて行かなければならぬことは明らかだと思います。その点この
金融当局の
意見を無視して、強行するだけの特別な必要がどこにあ
つたのかということについて、私は非常に疑わしく思うのであります。
第二に
金融行政上の問題としましては、この
金融債発行にあたりまして、
大蔵当局が興銀並びに
勧銀の当局者を呼びまして、
言葉は禁止ではありませんが、一年の興銀
割引債券の
発行を見合せたらどうか、あるいは興銀は
短期の
金融債を出すのはよしたらどうかという
ような申入れをした事実がございます。これも私は非常におかしなやり方だと思います。
金融行政上許すべからざることだと
考えられる。つまり
東銀債というものは、一応
法律の建前から届出によ
つて公平に許さなければならぬ。興銀債についてもあるいは
勧銀債についても、何らの制限を置くべきものではない。しかるに
東銀債においては公平を云々しながら、
勧銀並びに興銀に対してそういう勧奨を行うということは、私は理解しがたい態度だと思います。もちろんこれは申入れ勧奨であ
つて、決して命令ではないというふうにお
考えになるかもしれませんが、しかし監督権を持
つておる当局者がそういうことを申入れること自体、すでに私は命令的性質を帶びたものだと思いまして、はなはだしい越権行為だと
考えます。それからこういう
事態を
——東銀債の公平のために、ほかの
銀行を不公平に扱う措置を講じたことは、
金融行政上やはりマイナスだと私は
考えざるを得ないのであります。
第三に午前中にも御議論が出た
ようでございますが、
東銀債を出すにあたりまして、他の出せない
銀行が存在する。その不公平あるいはそれに対する不満を緩和するためには、
貸倒れ準備金を資本金とみなして、そうして不公平をできるだけ緩和し
ようということをお
考えになりまして、
大蔵当局が関係
銀行当局者をお呼びにな
つて金融債発行の條件統一に関する通牒案の審議を要請したという事実がございます。これはまだ法案にな
つているのではございませんけれ
ども、一つの
東銀債を許す、認めるとということのために、
貸倒れ準備金を資本金と認めるという
ような無理をしなければならぬ。つまり次から次へと無理を重ねて行く、あるいは興銀、
勧銀を押える、あるいは
貸倒れ準備金を資本金と認められる、こういう無理を次々に重ねて行くということが、そもそも
金融行政上の何かすつきりしないものが存在したことに原因するものと私には
考えられるのであります。出発点が無理でありますから、その無理がだんだんと重な
つて来るのではないかと思います。こういう無理をなるべく早いうちに治める方がいいのではないかという
ように私は
考えるのであります。
結論としてこの問題は日本の
金融制度のあり方として、決して正しいあり方だとは
考えられない。できるだけ
東銀債、すでに
発行された十億円については事実としてこれを認めることは、すでに
発行された以上はいたし方がないと思います。今後についてはこれをできるだけ抑止する、必要ならば
法律の改正を行う、それが困難ならば、その他の措置によ
つて、
大蔵当局あるいは
日銀当局の話合いによ
つて、それを円満に処置する
ような方策を講じて、資本蓄積本来の道である正常なる預金の吸收ということに、われわれの努力というものをすべて向けて行かなければいけないという
ように
考えるのであります。