○渡部
委員 宗教と政治との
関係におきましては、依然として、か
つての場合と同じ動きを持ち得る可能性が常に存在するということ、これはやはり確認しなければならぬと思う。政治が常に
宗教に対して一定の見張りをしているということは、これは認めなければならぬと思います。そうしますと、やはりこういう規定を設けておくことは、信教の自由に対する危険性を内包しておるといわざるを得ない。たとえば、現在労働階級を中心とする全勤労者が、全面講和と再軍備反対のために強力な闘いをや
つておる。これは民族の独立を守る上には、どうしても必要だからや
つて行くのであり、それなくしては、生活もまた守れないというところから、この運動をや
つておるのに、これに対して彈圧する。ところが問題は、現在やはりこのような運動が、
宗教の本質から、
宗教団体の中から、あるいは
宗教的な
活動の中から、こういう運動が起きておるわけです。たとえば現在ミツシヨン離脱問題が起きておることは、御承知でありましよう。つまりアメリカからの資金や、アメリカからのいろいろな干渉のもとに、日本の
キリスト教を進むべきじやない、日本の
キリスト教は日本人自身のクリスチヤンの手によ
つて進むべきであるという見地から、ミツシヨン離脱問題というものが起きて、これは日本
キリスト教系の横浜とか大森とか北海道では、
教会自身が立ち
上つて、この運動を強力にや
つておる。そういうキリスト
信者の中で、平和の会というものが、今、広汎に動いております。これはあなたも御承知でありましよう。こういう平和の会は、どういうことを主張しておるかというと、やはり全面講和、再軍備反対ということを、平和を愛する
宗教者の立場から、これを強力にや
つております。今に天理教もやるでしようし、それから神道もやるでしようし、仏教もどんどんとこの平和運動というものをやるでしよう。平和運動を
現実にやるには、再軍備に反対し、全面講和をやらなければならぬという動きが現に出ておる。その動きは、非常に強くなる
傾向にあります。そうすると、再軍備反対、全面講和という国民的な運動の中の一環としての
宗教家の当然の
活動が、政治的な動きのために、この法文にひつかかる危險性がある。それを公共の福祉を害するというような規定によ
つて、ただちに解散を命ぜられるというような憂いがある、信教の自由に対する侵害の憂いがあると思われるので、この点についての見解を伺いたいと思います。