○光田
証人 大正十二年の震災によ
つて東京市及び横浜、関東地方に非常に困
つている者がたくさんできまして、そのときに皇太后陛下、その当時の皇后陛下及び天皇陛下は、何とかしてこれらの困
つた者を救済しなければならぬというので、御供御、または御着物等を節約されまして、年々積み立てられたところの金が次第々々に多くなり、これをその当時の宮内省の有志に話されましたところが、これは御手元にお置きにな
つて、他日何とか御用に立つことがありましようから、これを国庫にお返しにならぬようにして、お手元にとりてお置きにな
つたがよろしかろうというような有志の献言をお用いになりまして、それから大正の御代が十四年でかわりましたが、陛下はこれ以後におきまして、次第々々にふえたところの余財を何にお用いになるかということについて、御研究あそばされたのであります。これは
日本では最も割の悪いところの癩患者、家族にもきらわれ、路頭に迷
つておる。治療の
方法もまだ一向できない。そうしてその癩患者は、その当時はまだ外国人の四、五人の有志が、四、五箇所の小さな療養所をこしらえて診察してお
つたというようなことをきこしめされて、そうして喪に服されておりましたが、
ちようど御忌明けの
昭和五年十一月十日に、その蓄積した資材をその当時の五箇所の療養所及び西洋人の経営し、また
日本の医家の私立の療養所、この四、玉箇所の経営の資に与えられるようになりまして、年々これは下さるようになり、また各療養所の慰安施設を増強するために、慰安会というようなものが、その資材をいただいてできるようになりました。また
昭和七年にはこの癩患者をあわれみてという御歌を、上は大臣から府県知事までお下げにたりまして、この
日本人が捨てて顧みないところの癩患者を、何とかしてもう少しよけい収容してや
つたらよかろうというようなおぼしめしがございました。そうしてあのつれづれのともとなりてもなぐさめよゆくことかたきわれにかはりてという御歌を下さ
つたのであります。これ以後有志は非常に癩というものに対する関心を深めて参
つたのであります。それで年々拡張されるようになりました。それが近年は戦後一万人の収容力に達しましたところ、何分食糧が足らないというようなことで、療養所の患者たちも非常に苦しみまして、その当時死亡数が増加いたしまして、一旦一万人にな
つたものが減りまして、これが八千人からまだ減
つて、六千人くらいに減
つて参り、またたくさん患者がおりますが、欠員を補充するということも怠
つて参りました。しかし進駐軍が進駐いたしまして、食糧等もやや楽になりまして、それから死亡数も漸次に減
つて参りましたのであります。皇太后陛下におかせられては、毎年この癩の収容のことについて御軫念あそばされて、その当時十箇所の療養所ができまして、そしてその所長などを、会合のときにはお召しにな
つて、療養所の治療の情景等を毎年お聞きになりました。また御下賜金も外国人の経営で困
つておるところに毎年おやりになる。また各療養所にも五年に一度ずつお手元金をいただき、またいろいろの御歌やら、また植物の種を毎年所長の集ま
つたときに下されました。あるいはまた御苑にできたところの果物や卵を下さるとい
つたような、毎年そういうような御下賜がありまして、患者も非常に恐懼いたしております。ことに私ども、多摩の、前には全生病院と申しまして、今は余生園と言
つておりますが、その療養所におりましたときに、御下賜金を下さ
つたのであります。これによりまして、乳牛を一頭買うことができまして、そしてその乳を弱
つたところの重傷の患者に与えるようなこともいたしまして、恩賜の牛乳と言うて、非常に感激したものであります。それ以後常に療養所のことについて御軫念あそばしたことは、われわれの喜びとするところであります。