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中山委員 昨年五月二日、
国会の
最後の日、総
司令部の方の御
了承を得まして、
国会におきまして、未引揚者の問題に関して、これを
国連へ提訴するという
決議案を上程になりましたことは、皆様も御記憶のことと思います。その後秋に
国連が再開されたならば、その
決議によりまして、私
どもの言うところの三十七万が是か、あるいはタス通信が発表しておりますところの、もはや
少数の病人と
少数の
戰犯以外には帰すべきものは帰したということが是か、この
二つの問題の白黒をつけてもらうために、コミツシヨンが来ることを要請をいたしました。それがいかに取扱われるかということを非常な
興味を持ちまして私は待
つておりました。ところが、はからずも
マツカーサー元帥の御
好意により、
アメリカ大統領の同じく御
好意により、私
ども三人が、アンオフイシアルオヴザーヴアーとはいえ、待望の
国連へ第二歩を印する日が来たということは、しかもその問題が
引揚げの問題であ
つたということは、まことに感謝すべきことであり、私
ども国民の
敗戰の歴史にもまた銘記すべきことであ
つたろうと
考えております。私
どもは取るものもとりあえず急いでかの地に参りました。その他
ドイツからも
国会から二人、
外務省から一人、
通訳一人という四人のお方がこれまた急ぎニユーヨークヘ参りました。
敗戰後私ども日本の
代表と
ドイツの
国民が相会して、このわれわれ
国民の
悲願である問題を、ここにお互いに相談して、いかにこれを好転させるかという
場面が展開したことも、また一つの歴史的なものであ
つたろうと私は
考えております。
アメリカに参りましても、戰後多くの
日本人が来た、しかし
国民を
代表して来たのはあなた方であると言われたときには、この問題の
責任を深く三人の者が痛感したのであります。かくしてこの問題が
国連において取り上げられる日を私
どもは待
つてお
つたのでありますが、なかなかこれが取り上げられません。六十二題という多くの
議題がございました中で、待てど暮せどその日が来ないのであります。どういう事情でこういうふうな遅延を見たか、私
どもは一箇月の
予定をも
つて参りましたのに、一月がた
つてもなかなかその日が来そうにない
見込みでございました。その理由はと調べてみますと、ルクセンブルグ、フランス、
オランダ、この三箇国は、
自分たちの
引揚げの問題を何とかして
相手国と個別的に折衝して善処しようという
考えから、私
どもが参りましたことを喜ばなか
つたのであります。アラビアブロツクも、これは政治的な
意図を持
つて来たものであるという
考えのもとに、これをここで取り上げたならば、今でさへも冷たい
戰争でやきもきしておるところの
世界が、
発火点に達しはしないか。より以上
朝鮮動乱もまた第三次
世界大戦の糸口となりやしないかということをおそれまして、この問題の取り上げをじやまをしたというと行き過ぎかもしれませんけれ
ども、ある点までそういう気風が見えて来たのであります。
十一月十六日であ
つたと記憶いたしますが、いわゆる
報道の自由という
議題が敗け上げられました。そのときに英国の
代表が、この
報道の自由という問題が済んだならば、
引揚げの問題を取り上げようという
提案をいたしたのでありますけれ
ども、なかなか論が盡きないのであります。遂に
採決によりましてこれを
決定いたしましたところが、十箇国賛成、十三箇国反対、二十三箇国棄権という実に憂慮すべき
経過とな
つて参りました。私
ども衆議院におきましては、好ましからざる問題は
審議未了という形においてこれを次の
機会まで延ばす手を心得ておりますので、ここでもまたこの手を食わされるのじやないかということを非常に心配をいたしたのであります。同時に御案内の
通りに、
安全保障理事会に
中共の
代表伍修權氏の率いる数人と、
南鮮の
代表が到着をいたしました。
朝鮮問題におきまして
アメリカ側から
中共の侵略に関して提訴いたしましたときには、これは招聘されても拒否したのでありますが、
アメリカが
東支那海に第七艦隊を入れたということは、ヤルタ会談によ
つて当然
台湾は中国の地域となるべきはずであるのに、ここに
アメリカがあの大陸より
朝鮮事変が済まないうちに
台湾に攻撃を加えられてはよけい問題がうるさくなるという
見込みのためにここに入れましたことを、
中共側は、
アメリカこそ
国連の面をかぶ
つて侵略しているところの国であるということを申し出まして、ここにこの
二つの国の
代表が参
つた次第であります。私
どもの問題がなかなか取上げられないものでありますから、こういう
委員会にせつせと通いまして、
世界の動きを見ていたのでありますが、ここではまことに憂慮すべき
事態が起りました。
アメリカは
自分の方が先に
発言すべきであるということを
オースチン代表が申したのでありますが、マリツク氏は議事のポイントにつきまして問題を起しまして、二時間半もここで粘りました。
中共こそこの問題の
提訴者であるがゆえに、
中共が第一に
発言すべきであるということを粘
つたのであります、遂にどこの国でありましたか、だれが先に
発言すべきであるかということで議論が沸騰して、どこの国も
発言しないという奇妙な
状態に
陷つたじやないかということになりまして、遂に
採決になり、
アメリカの
国連に属している国が最初の
発言者であるべしという
提案が
通りまして、ここに
発言を見ました。それにつきまして
伍代表の三時間に余るところの
発言がありまして、
中共は四億の民衆を率いて
アメリカを
朝鮮よりのかして海にたたき込んでやるという脅迫がましい
論戰がここに展開されました。これによりまして暗雲はたちまちにこの
安保理事会から
国連全体をおおい、ニユーヨーク全体に広がり、
新聞もまたやかましくこの問題を取上げておりました。こういう
事態にな
つて参りまして、すべての人の
関心がこの問題にかか
つて参りますと、私
どもが持
つて参りました三十七万の
悲願というような第二次
世界大戰の跡始末なんぞはもう影をひそめてしま
つていよいよどうにもならない問題になるのではなかろうかとい
つて、私
どもは
頭痛鉢巻でお
つたのであります。一月はた
つてしまいました。そうして私
どもの問題の前に、ソビエト・ブロックの手が伸びて参りました国の人が、もはや
共産主義の国にはいたくないとい
つて出て
行つた人たち、いわゆる
避難民という名前にな
つておりますが、この
人たちをいかに処理すべきかということが問題にな
つて参りました。この中で私の
興味を非常に引きましたことは、
ギリシャの二十八万の
学童が団体的にソビエト・ブロツクによりまして学校から拉致されたという問題があるのであります。ギリシヤの
代表が立ちまして、ぜひわれわれの
学童を返してもらわなければならないということを力説しておりました。これに同情を寄せましたのが
ベルギーの
代表でありました。
ギリシャは古来文化ゆたかなる国である。
世界の
文化史上にさんたる跡を残している。この
国民が
ギリシャの
国民である本質を
失つて、
ベルギーの
代表が
使つた言葉をそのまま用いますならば、赤い動物にな
つてから、しかもアテネの政権が転覆されてから返されるのであろうということを申しまして、
ギリシャに対して
援護射撃をや
つたのであります。私はこの問題はなるほど
避難民の問題ではございましようけれ
ども、ある
意味におきましては
引揚げの問題であると思いましたので、この結果いかんによ
つては私
どもの問題もまたいかになるかということもわかるであろう、こう
考えまして、非常な
興味を持
つて傍聽いたしておりましたところが、遂に二十八万の
ギリシャの
学童はその親元に返還せしめらるべしというところの
提案が通過いたしましたときには、今まで憂いにとざされましたところの私
どもは、ほのぼのとわが問題に対する明るさを感覚したのであります。遂に私
どもの日がまわ
つて参りました。しかも
議題の
最後の日でありました。
安保理事会そのほかの
委員会には、大体男子の
代表のみのように私は思いましたが、この
人道委員会は
事人道に関する問題であるからかも存じませんが、非常に
婦人の
代表が多うございました。まず
アメリカを取上げますならば、第一
代表ルーズベルト夫人、第二
代表サンプソン夫人、インドはマノン、これも御
婦人でありますが、イラクはアフノンという人でありました。
オランダも
婦人の
代表を出し、もう一箇国どこか
婦人の
代表を出しておりました。こういうある
意味において
なごやかな空気のもとにこの
場面が展開したのでありますが、
委員長の後には、レポーターと申しまして
報道する人やいろいろな
事務関係の人がそこにすわ
つております。前にはず
つて馬蹄型になりました机がございまして、第一
代表がすわり、第二
代表もその後にすわ
つていることもありますし、その後にはいわゆるコンソラーと申しまして相談役がすわ
つております。
片方にはテレビジヨンの機械が置いてありまして、
アメリカの家庭におきましてはテレビを持
つているところがたくさんあるものでございますから、居ながらその場の光景が見られる設備もしてあります。
片方には五つのガラスの部屋があります。そこには二人ずつ
通訳官がおりまして、ここで使われる
言葉は
ロシヤ語、
英語、フランス語、
スペイン語、支那語の五箇国語にな
つております。どの
言葉で話されましても、そこにおりますところの
通訳官がただちにその
言葉を他の四箇国の
言葉に
通訳いたしますと、私
どもが着席しておりますいすにはイヤホーンがついておりまして、そこにはまた
ダイヤルがあります。その
ダイヤルの第二番目に調節をいたしますと、
英語が聞えて来る。そういうわけで
自分の希望する
言葉に調節いたしまして聞くことができるわけでございます。すわ
つております人のその前には長い白い板がついておりまして、おのおのの国の名前がそこに書いてございます。でございますから、
発言の場合にはその
自分の国の名前の書いたものをもたげますと、
委員長の指名によりまして、ここで
発言ができるという仕組みにな
つております。
傍聽者も非常に多うございます。私
どももおかげさまでパスをいただきまして、ここで傍聽をしてお
つたのでございます。オフイシヤル・オブザーバーと申しますれば、もちろん
委員会で
発言する資格はございません。それならば私
どもは何をしたかということにな
つて参りますが、まず第一に私
どもがいたしましたことは資料の提供であります。向うの人は、この問題を十分に熟知しておられると思
つておりましたけれ
ども、なかなかそうではございません。たとえばあの有名なルーズベルト夫人、あの高い知性の人すらも、この問題はいわゆるポツダム宣言にございますところのPOW、プリズナース・オブ・ウオー、これだけのお
考えだということでありました。しかし私
どもが主張しようとしたことは、ただプリズナース・オブ・ウオー、いわゆるこの
戰争関係の捕虜だけではなしに、一般邦人もまたこの中に多数入
つているということを強調するのが、私
どもの第一の務めでございました。こういうわけで、こちらから持
つて参りましたいわゆるいまだ帰らざる
人たちから来ました手紙、また私
どもがかの他に参りましてから家族より寄せられました手紙を英訳いたしまして、これを提供するというようなことについて国務省のお
方々と、あるいは個人的にいろいろとそこで折衝がされたのでございます。倭島先生は
外務省関係のいろいろな方をたどりまして
方々で御活躍になりますし、齋藤先生はWMCA、またその範囲内に入ります私もまたいささか御援助をさせていただいたわけでございます。ことにこの問題で一般邦人も入
つておるのだということに最も有力な証拠となりましたのは、千葉県の金田という御
婦人からいただいたお手紙でありました。そのお手紙には、
自分たちは満洲にお
つて満鉄に夫が勤めてお
つた。ある日ソ連兵によ
つて夫が拉致されて、今日まで行方不明である。
自分はこじき同然の姿にな
つて千葉県に
引揚げて、里に世話にな
つている。何とか夫のありかを探してくれというお手紙でございました。
中共地区から来ました手紙は、高山の助役さんの娘でありますが、これは終戰当時に
中共軍に連れて行かれまして、看護婦にさせられまして、国には帰されず、
中共軍に
従つて雷州島までも行
つたという手紙であります。私は子供のときから丈夫でした。しかしこの小さい足が満洲を歩き、支那を歩き、遂に雷州島まで
中共軍について、これだけの道を歩かれようとは思いませんでした。しかしこういう私のような運命のもとにあ
つた者でなければこれだけの里程を歩くことはできませんでしたでしよう。しかし今は
自分の運命にさからわず、いずれは帰る日があることを希望しております。雷州島に来てお手紙を出す
機会がありましたので、お手紙を出したということでありました。こうして私
どもが
国民救出運動におきまして、われわれの捕虜を戰線へかり立てること絶対反対というスローガンを出しましたが、事実かかることがやられてお
つたということも申し述べて参
つたような次第でございます。
まず第一に、この問題は三国の共同
提案ということにな
つております。いわゆるソビエト地区に在住するところの者が私
どもの方では三十七万、
ドイツは軍人だけにいたしますれば五十万、一般邦人を加えますと百万以上になるということを申されておりましたが、この中で英国のマクドナルド卿は、か
つての敵国であ
つたドイツの問題を取上げて、ぜひこれを返してもらわなければならぬということを力説してくださいました。次には濠州のマツキンタイアという方でございましたが、私
どもの問題を取上げてくださいました。ここでいわゆる軍人と一般邦人とが区別のできないような
状態にな
つている。たとえば軍人といわれておる中に、数が足りないと一般邦人を放り込んで連れて行
つてしま
つた形跡があるということを力説してくださいました。第三が
アメリカのサンプソン夫人でありますが、この人はただつまらない家庭に生れた黒人でありますが、立志伝中の人とでも申しましようか、夜学校に通うて弁護士の資格をとり、シカゴにおいて堂々と弁護士事務所を開設して、まことに人道的な立場から、この法律の問題に携わ
つている人であります。この人がいかに人道的な人であるかということは、
アメリカでよく離婚訴訟を持
つて来る人がある。そのときには
自分が持
つている案によ
つて三箇月間共同
生活を続けてください。それでも離婚をしたいと思うならば、しかたがないから
自分が離婚を提起して差上げましようと言
つた。しかし三箇月た
つてまあ帰
つて来る人はほとんどない。こうして
自分は始終金もうけをしそこな
つておりますよとおつしやいまして、金をもうけるよりも、愛情を一生持
つている方が人間として楽しいというようなことを言うくらいに、実に人類愛に燃えておるところの人であります。しかも弁護士でございまして、この捕虜の問題の法的見地もよく
承知しているということをおつしや
つてくださいまして、しかも
自分は黒人であるがゆえに、
自分の視先が
アメリカにおいて奴隷
生活をして、その奴隷
生活の苦悩というものを十分に
承知している。だから外地にあ
つて抑留
生活をしている人は、奴隷的存在にな
つておるように見受ける。ちようど幸いなことには
アメリカの大衆雑誌——
日本にも来ておりますが、「ライフ」すなわち人生という雑誌がございますが、
日本の画家が書きましたところの抑留
生活の種々相という絵がこの大きな雑誌の両面に出ておりまして、まことに時宜を得たものだと思いました。こういうわけでございまして、こういう見地からもう一つ申し上げますと、ほかの
代表が
発言をしていらつしやるときに、
自分はメモをと
つてお
つたのでありますが、サンプソン夫人は
自分の番になりましたら、私のところに参りまして、どうぞ
中山さんノートすることをやめてくれ、そうして人間の力で行き詰ま
つた問題は——非常な信仰家でありますから、神の力によ
つて解決をしなければならない。それで
自分の
発言がどうか諸外国の心のとびらを開くことができるように、あなたの信ずる神に祈
つてくれということを私におつしや
つたのであります。実にこういう気分でこの問題を取扱
つていただくことは感謝すべきことであると私は
考えて、御希望
通りにいたしたのでありますが、サンプソン夫人は
日本の捕虜の問題を取上げてくださいました。
次がソヴイエト
代表のアルチユニアンという人でありましたが、この人は、
国連憲章の百七條、いわゆる第二次
戰争のあとに起
つた問題は
国連において取上げないというところの一條があるのであります。この問題を持ち出しまして、ソヴイエトはこの問題に関しては一切
関係しないということを申し出たのでありました。これは私
どもも予期してお
つたことでありまして、別に驚くには値しませんでした。しかしそのあとが実におもしろい
発言をなす
つたのであります。南方において行方不明に
なつたという五十万の中に、私
どもが問題にしておるところの三十七万があるのだ、
アメリカはこういう
人たちを、ハワイに沖縄に強制労働をさせておる、フランスにもおる、英国にもおる、
ベルギーの炭鉱にもこういう
人たちが強制労働をさせられておるじやないかという思いもよらないような
発言があ
つたのでございます。さすがはサンプソン夫人は弁護士でありまして、法廷において鍛えあげたところの腕をも
つておる人でありますが、それならばまことに
けつこうであります。私
ども三国とともに——ソヴイエトもこの共同
提案者とな
つて、ぜひわれわれが要求するところのアドホツク・コミテイー、これはラテン語でございますが、直訳はこのことのみに関する
委員会という
意味を持
つております。私
どもはこれを
国連の
引揚げに関する
特別委員会と訳しておるのでございますが、この
委員会をつく
つて、さつそくこの問題を根本的に掘りさげて研究してもらいましようということをおつしや
つたのであります。しかしソヴイエト・ブロツクはこれに反対をいたしました。こういう
提案があ
つたのでありますが、御案内の地中海の東に位するところのレバノン、シリアという
二つの国がこうして出されました
提案を骨拔きにしようとしたのであります。
国連のこの
委員会に、今捕虜がいるという国々の人が
報告をすればいいじやないかということを言
つたのであります。しかし皆様も御存じの
通りに、私
ども五年の間待ちに待ちましたけれ
ども、ソヴイエト・ブロツクからは死んだ人については一人もあるという
報道を得ておりません。こういうことでは、私
どもがわざわざ
国連まで出かけて行
つた意義はないと私
どもは
考えておりました。
その次にはインドの人が、米英濠の話を聞いていると、多数の未引揚者があるということであるが、ソヴイエトの話を聞くと一人もいないと言
つている。それならば、おるかおらないかわからないような問題をここで討論する必要はないじやないか、これはやめましようというようなことを言い出したのであります。しかし
委員長は、これは
議題に上
つた以上、どうなるか
最後の
採決まで行かなければ
自分の
責任は果されないと言
つてこれをけ
つたのであります。
次にフランスの修正案が出て参りました。おるかおらないかわからないとは言いながら、とにかく
自分の国にそういう人があるかないか、ひとつ
調査をするだけでもいいじやないか、それだけでもしましようということを言いましたが、これもソヴイエトによりまして嚴然とけられたのであります。こうしていろいろと修正案が出て参りました。ある国は、この
ドイツあるいは
日本において騒がれておる問題が今
世界の面前に持ち出されたのであるから、それだけでもいいじやないかというようなことすら言い出したのでありますが、遂に論議が沸騰いたしまして、英国の
代表はさすがに
会議の技術になれていらつしやいまして、いろいろなる修正案を巧みに取入れて、遂に
最後のものができ上りました。そうして
国連の
特別委員会三人、しかも絶対に政治色のない人——ポーランドあたりはこの問題について政治色がないというようなことは言えないということを言
つてがんば
つたのでありますが、絶対に政治色のない人を三人
世界赤十字社に選んでもらうということで、同時に赤十字社の方に向けて、引受けてくれるかどうかということを電報を打ちましたところ、各国が門戸を開放して調べさせるならば、引受けましようということでしたが、ソヴイエトは門戸を開放しないということを言
つておりました。そういうわけでございますので、赤十字社のこの力は、ここでは頼りにならないというので、第二段の構えにたりまして、もし赤十字社がこれをやらないならば、リー事務総長によ
つてこの三人が指名される。四月末までに各国はごの
国連の
引揚げ特別委員会に
調査書を
提出する。そうして四月後の最も早い時期においてこの三人の
委員会が相会しまして、この
調査書を調べる。そうしてそれで満足の行かないものは、その国に行
つてでもこれを徹底的に
調査してやろうという、この情ある案とな
つたのであります。その次に大した問題ではありませんが、私
どもが持
つて参りました
日本の
引揚げの問題に関する書類がイタリアからも参
つておりましたし、
ドイツからも来ておりましたが、これを各
委員に配布しようという問題を、
委員長が
提出されましたところが、ソヴイエトは
国連に属していないところの国の書類をここで配布されることは違法であるということを言い出したのであります。ところが私が苦笑を禁じ得なか
つたのは、チリーの
代表でありましたが、これはふしぎなことを承る。ついこの間何日も何日もこの
委員会において
報道の自由ということを論議したじやありませんか、しかもそのとき最も強くこれを支持したのはソヴイエトの
代表ではありませんでしたか。われわれはこの問題についての知識が十分でないから今こそこの
提案されたところの書類を配布してもら
つて、そうしてこれに対するわれわれの知識を十分にさせた上で
採決に入るのが当然であろうということを申し出られましたので、ここではソヴイエトの
代表もこれに次ぐ
言葉はありませんでした。そうして
委員長もまた、これは
国連の書類ではないという申出であるが、しかしこれは
国連の書類である。なぜならば
国連に属しておるところの国がリー事務総長にこれを
提出して、リー事務総長の手を経て私に来たのであるから、私の立場からいえばこれはりつぱな
国連の書類であるということを力説されまして、遂に
採決に入
つたのであります。
いかになり行くか、ここでわれわれ同胞の
悲願の悩みが解決されるか、私
どもこれまでよく陳情団に
委員長時代に会いまして、親の立場、妻の立場というものは十分に私も
承知しておりました。しかし羽田を出ますときに、まことにいたいけな子供たちが来まして、私
どもに、ぜひお父さんを連れて帰
つてくださいということを頼んだのであります。多分皆さんもニユースでごらんに
なつたことと思いますが、私もここでしみじみと思いました。そしてこの出征前後に生れたかわいそうな子供たちの願いがどうなるかということが、私
どもの非常な
関心でありました。しかもまたあちらに行
つております間に、親たちから、過去五年間は、むすこがどこの零下何十度という地で寒さにふるえておるかと思
つて心凍る思いで来た、そしてこの冬は六年目であるけれ
ども、三人の
代表が
国連に行
つていらつしやるので、きつとこの問題を解決してくださるという思いで、心があたたまる思いを持
つているというお手紙をいただきました。こういうものをじやんじやんいただいておりますところの私
どもの気持というものは、緊張し切
つてお
つたのであります。遂に
採決に入りましたところが、四十三票賛成、五箇国反対、八箇国棄権ということにな
つたのであります。その棄権の中にインドも入
つております。イラクも入
つております。私
どもはこういふ
方々にも個人的に折衝をいたしました。惡い
言葉で言えば廊下とんびとでも申しましようか、
機会あるごとにこういう
人たちに折衝してこの問題を吹き込んでおりましたのが、私
ども三人でございました。いわゆる資料の提供とか、
国連代表に対して、こういうふうに個人的な折衝によ
つて三人の者が一生懸命にこの問題の御理解を
願つておりましたが、ここにインドの
代表——しかもイラクの
代表は私に対して、必ず入れますと約束をしておきながら棄権をしたということは、実に案外でございました。しかしよく
考えてみましたならば、今のようなあぶなかしい世相の
状態においては、これもまた同情すべきことであろうかと思います。御案内の
通りシリア、レバノン、イラン、イラクというものはあまりにもソヴイエトに近いのであります。みずからを保護するというのが動物の本心でございましようから、これもまたやむを得ないと思
つて私は見てお
つたのであります。しかしこの
委員会において、圧倒的にかかる多数の賛成の票が入
つたということは、ほとんどないということを聞きました。この動乱の中にあ
つて、しかもこの
人道委員会の属する
国連の軍隊は今
朝鮮にあ
つて、みずからの子供たちもまた行方不明にな
つている
人たちもあろうし、またはとらわれ人にな
つている人もあります。こういう
状態にあ
つて、その同情が深か
つたということはうなづかれる点もあろうかと思うのでありますが、かくして
世界の人道愛というものが微動だもしていないという証拠を見せられまして、私
どもの感激はやむところを知らなか
つたのであります。
新聞でもごらんに
なつたでしようが、私
どもは
新聞社の
方々に感想を聞かれて、ただ涙をも
つて喜びを表明するよりほかはございませんでした。これはひたすらに、この
国会の皆様方が昨年の五月二日にああしてあの案を通してくださいました御熱意と
留守家族の御熱意と、
世界の人道愛との、この三つともえの合作によ
つてかかる快報がもたらされたものであろうと信じまして、私はまことに心も軽く
日本の空へ飛んで帰
つたような次第であります。しかしただ一つ私はここに残念なことを御
報告申し上げなければなりません。
国連には小さい本屋がございますが、そこにブレテインと申しまして
国連公報がございまして、
国連に関する書類一式がございます。ある朝ふとそこに出ておりましたブレテインで、
日本にございますところの三団体から、
国連においてこの問題を取上げてくれるなという要請が行
つてお
つたということがわか
つたのでございます。日ソ親善友好協会、
日本復員者連盟、それから民主主義擁護連盟でございますか、この三つでございました。もし日ソ親善友好協会が真にその意義を持つならば、なぜその親善をも
つてわが
引揚げの問題を解決してくださらないかと思
つたのであります。
日本復員者連盟の方も、もしいまだに
自分が帰らないときに、ほかの人がこういうことを要請したならばどんな気がするだろうかと私はその
方々にお尋ねをしたいのであります。また民主主義擁護連盟というのでございますならば、ポツダム宣言において
世界の各国がわれわれに與えた、その民主主義的解決においてこの問題を解決されることをこそ
願つていただくのが真の民主主義であろうと思うのでございます。齋藤先生がごらんにな
つたのでありますが、私はそれを聞かされましたときに、まことに残念に思
つたのでございます。
最後に私はこの三団体に対するところの
調査の要求書を
委員長にお出しいたしまして、私の御
報告を終らしていただきたいと思います。(拍手)