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公述人(我妻榮君) 私は
法律を勉強している者でありまして、特に企業者側とか、或いは
被害者側という
立場がありませんので、
鉱業法一般について
意見を申述べよということでありますと、全部について
意見を申述べなくちやならないようにな
つて困るのでありますが、時間の
関係もありますから、最初に今度の
鉱業法と採石法というものの全般的な構想についてお話いたしまして、それからあとで重要だと思われる数点について
意見を申述べようと思います。
第一に、この今度の
鉱業法と採石法という構想は、
地下資源と申しますか、
石炭、石油、金銀等から建築石材、或いは土砂などすべてのものを含みまして、これを利用する場合を凡そ三種類に分けているわけであります。第一種は重要性のある鉱物、これは
鉱業法による。第二種は建築石材及び重要性の少い鉱物、これは採石法による。砂利とか、土砂とか、普通の粘土というようなものは、これは民法の所有権その他一般法による。この三本建で行くわけでありますが、第一のもの、即ち重要性のある鉱物は、これは国の支配に属するものとして、その
土地の所有権から外してしまう。そうして特に
鉱業権の
設定を受けなければ採取できない。かように
土地所有権から外れますから、これを採取する
鉱業権者は、
土地の
所有者から、それは自分の物だから石代を拂えということを言われる心配はない。又その
事業を行うのに必要な
土地の
使用権とか、或いは
收用権を認められるというような特権を持つのでありますが、同時に他方国家から
相当大きな監督や指導を受けるということになるわけであります。
又第二のもの、即ち建築石材や重要性の少い鉱物、採石法のものは、これはそれらの石を
土地所有権から外しませんで、
土地所有者のものとして置く
立場をと
つているわけであります。
従つてこれを採取する者は、
原則として
土地所有者から
権利を取得しなければならない。但し自由契約で
権利の
設定ができないときには、或る
程度の強制的な
設定をして貰うことができる。併しその場合でも石の代金は拂わなくちやならないというのが第二の採石法の観念であります。
従つて採石権というものは、
鉱業権に比しては遥かに弱い
権利でありますけれども、それを稼業するためには、必要な
土地所有権を有するというような多少の特権があり、又それに対して
公共の
利益を害しないように軽い
程度の監督を受けるということにな
つております。
そうして第三のものは、これは專ら民法の
規定に委ねられているのでありまして、更に自由な契約で採取ができる。
従つて採取する者は、何らの特権がない限り、又国家から特別の監督なり指導を受けない。そこに自由放任ということになるわけであります。なお鉱物、岩石などをかような三種に区別いたしますのは、その区別は絶対的なものではなく、社会の
経済の変遷や科学の発達によ
つて変
つて来るだろうと思います。即ち第二のものが第一のものに移される場合もあると思います。又第一、第二に新たなものが追加されることもあろうかと思います。さてかような仕組、即ち従来の法制に比べました場合に、第一の
鉱業権のほうには従来の
鉱業法と全く同じ
建前であるけれども、鉱物の種類を増した。それから第二の種類のものは全然新らしく作られた
制度である。この三本建の
制度は、
我が国の従来の法制及び
経済状態から見て極めて適当なものだと考えます。GHQの斡旋で来朝されましたダンカン氏の構想は、全然これと違
つておつたのであります。ダンカン氏の考えによりますと、以上すべてのもの、即ち土砂、砂利までも含んでこれを国家の独占とする。そうしてこれを採取するには国家と個別的な契約、即ちリース契約をしなくちやならん。国家は採取の
権利だとか、義務だとか、そのやり方を
鉱害の
賠償というようなあらゆる点に亘
つて個別的な定めをする。即ちこの
鉱業法や採石法に
規定してあることは、すべて個別的な契約の約款として定めよう。そうして一亘契約で定まつた以上は、国家はこれに対して何らの干渉はしない。こういうのがダンカン氏のいわゆるリース契約の
思想であります。これはいうまでもなく極端な自由主義であります。かような行き方も勿論
一つの行き方でありまして、或いはそれで行けるならば一層結構であろうと言うべきであるかも知れません。住宅や
耕地に
損害を及ぼす虞れがあるときに、そのリースの契約で完全に補償するという約款を作ることも可能でありましよう。そうすると、企業者は住宅に近い所で企業をしようと思えば、
負担が非常に重くなるから、そろばんをと
つてそれはやらないことになるだろう、そういう結果になるだろうと思われます。これがアメリカのようなところでは、そういう自由放任の行き方でもよかろうと考えられるのでありますが、併し
日本では事情が全く違いまして、いわゆる耕やして山嶺に至るという国でありますから、宅地の下までも掘らなくてはならないし、
耕地の下までも掘らなければならん。而も
農耕地を確保するということは、即ち食糧を確保するということは、
我が国の絶対的
必要性のあることであります。併し同時に
地下資源を採取するということも、
経済の自立のための至上命令であります。この絶対的な必要と、
経済の至上命令とをどう調和させるかということは、
我が国のまさになさねばならないことでありまして、その点でアメリカとは全く事情を異にしておるのだろうと私は考えるのであります。かように考えて参りますと、鉱物を採取するということと、
農耕地を確保するということとは、共に單に当事者の私的問題ではなくて、
鉱業と農業、林業その他の
産業との両立を図るという国家的
立場から取扱わなければならない問題であるということになるのであります。言い換えますと、例えば
賠償の問題にいたしましても、單に加害者と
被害者という問題として取扱わないで、
鉱業と農業、林業その他とを如何に調和させるかという点で考えねばならない。
従つて若し農業を
犠牲にしては困る。併しその
犠牲を絶無にしようと思えば
鉱業が成り立たないというような場合には、問題を国家的
立場で取上げて、国家の力、言い換えれば納税者全体の力で
損害を
復旧しなくてはならんということも考えねばならんと思うのであります。又
鉱業権者が
鉱業を営むという問題につきましても、自由放任の
立場をと
つて、お前たちのいいようにやれ、若し失敗したら、損をしてやめるだろうとい
つて放任するわけには行かぬ。国家はいわゆる鉱利
保護の
立場から適当なる監督もしなければならないということになるだろうと思われます。かようなわけでダンカン氏の構想は
我が国の
実情に適しないということを、私も
委員の一人として当時
相当検討し、
議論を重ねたのであります。ところが幸いにもダンカン氏はそれを了解されたようであります。それで私は
法律家の一人といたしまして、必要以上に英米法化することを残念だと思
つておるものであります。
日本の法制に多くの欠陷のあることを十分認めております。それを改めねばならんとも考えております。併し多くの点においてそれを改めることは、
我が国の従来の法制に即してそれを改善することが可能だと思
つております。直ちに英米法の主義をとるということは、單に実効なきのみならず、
我が国の
法律関係を混乱に陥らせる虞れがあると考えておるものであります。かような
立場をと
つておる者としまして、この
鉱業法の
改正に当
つて、リース制という根本的に違つた
制度をとらずに、
我が国の従来の
鉱業法を採用して行くという方法をとることができたことは、非常に喜ばしいことだと思
つております。そうしてその
意味におきまして、そういう努力をされた政府当局を大いに賞讃したいと思いますと同時に、これを理解せられたGHQの
関係官に対しても敬意を表したいと思うものであります。この点は議員諸君もこの
法案を御
審議なさる際に留意せられてよろしいかと考えます。
以上が全体の構想についての
意見でありますが、次に重要な点を指摘して参りますが、第一に追加鉱物でありますが、
地表に近い鉱物を
鉱業法の鉱物にするということは所有権の侵害であ
つて、
憲法違反ではないかという詮があります。併しこの点は今回の御
審議では余り問題にな
つておらないようでありますから、詳しく申し述べることは差控えますが、結論だけを申上げますと、私は
憲法違反にはならないと思
つております。
憲法二十九條の第二項におきましても、
財産権の内容は、
公共の
福祉に適合するように
法律で定めるということにな
つておるのであります。そうして近代における
土地所有権というものは、十九世紀の初めに考えられたように神聖不可侵とは考えませんので、
地表の利用が十分にできればそれでいいというのが所有権の本体だと私は考えております。
従つて利用を妨げたことから生ずる
損害は十分に
賠償する義務があるのでありますが、それ以上そこから採取した鉱物は俺のものだから、その物の代金をよこせということを
主張し得るものではない。
鉱業法にそれと違う
規定を置いたからとい
つて、
憲法違反になるものではないと考えております。
次に
鉱業権についてでありますが、試掘権の期限を二年について一回だけ更新して、結局四年ということに
なつたのに対しては、これを延長するという
改正意見があつたようであります。その
理由としては、積雪地帶などでは到底四年では駄目だという
主張と、それから予備
鉱区として実際上重要な意義を持
つておるというような
主張があつたようでありますが、併し私はこれは原案
通りでいいと考えております。成るほど積雪地帶では困るということもあるかと思いますけれども、併し御承知の
通り試掘権のままで独占してお
つて開発をしない弊害が非常に大きいということも隠れなき事実であります。その
利害を相殺いたしますと、原案ぐらいが丁度いいだろうと考えるのであります。但し石油についてだけは事情が違いますので、これは多少延長しても止むを得ないかとも考えられます。併しこの試掘の問題は、御承知の
通り沿革のある問題でありまして、非常に
議論を重ねた結果原案ができたのでありまして、原案を維持するのが至当と私は考えております。
次に
採掘権を三十年にいたしましたときは、今青山教授から
鉱業開発の
立場からの賛成の御
意見がありましたが、私も三十年にするのが至当だと考えるのであります。殊にこの点はダンカン氏がアメリカ式のリースという
制度をとれば、必ず有期でなければならないということを強く
主張された点であります。私はいわゆる
法律論としては必ずしも有期でなければならんとも考えないのでありますけれども、併し国家が独占した鉱物を、或る特定の人にこれを
採掘する
権利を與えるのでありますから、もともと国家の独占したものを或る人に與えるのだから、その與えるものは無期限であるよりは有期限であるほうが、理論として筋が通るかも知れない、かような
意味で三十年ということは結構であろう。そうして更新することができるのでありますから、
鉱業権者の
立場としても、必ずしも不
都合はないのじやないかと考えるのであります。
次に
鉱業権の問題としまして、交換、売渡、
鉱区の増減等について政府が勧告をするという
規定が設けられておるのでありますが、勿論それはいわゆる官僚的な勧告にな
つてはならないのでありますけれども、最初に申しましたように、
我が国の
鉱業は企業者の自由放任ということは到底できない
立場にあるのでありますから、国家が助長し監督することが必要なのでありますから、それらの点から見て至当な
制度である。要はその運用を十分民主的にするということにあるのだろうと考えます。
第四に租鉱権の
制度について申上げます。租鉱権という
制度は必要であろうと思います。御承知のことと思いますが、戰争前は実際上は租鉱権が行われまして、大審院は斤先掘契約として生じたときは無効だということを繰仮して言つたことであります。それは大審院がなぜ無効と言つたかと申しますと、租鉱権のような斤先堀契約は、現実に稼業する者に対しての監督が十分に行かないということを
理由としたようでありますが、併し
我が国の実際上必要であるということは認められておることでありますので、重要鉱物法でこれを立法化したのであります。そしてこれを
法案にとり込みまして、一方において監督をするが、併し一定の
範囲ではこれを合法的な
制度として認めるということにしたのでありまして、これは適当な
制度だと思います。これに関連いたしまして、
鉱害の
賠償責任が問題とな
つておるように伺
つております。即ち租鉱権者は資力が乏しいので、租鉱権者が
鉱害賠償の
責任者になると、
被害者のほうが十分でない。
従つて租鉱権者と
鉱業権者とに連帶責任を負わすべきだという御
主張があるやに伺
つております。これは私の專門としておる民法の七百十七條を思い出させるものであります。これは一種の考えであろうかと思いますが、併し仔細に考えて見ますと、この七百十七條と、今の連帶にしようという考えとの間には
相当大きな違いがあるように思われます。七百十七條と申しますものは、
土地工作物の
設置又は保存に瑕疵があ
つて、他人に
損害を加えたときは、その工作物の占有者が
損害賠償の責任を負う。
但し占有者が
損害発生防止に必要な十分の注意を怠らなかつたときには
所有者が責任を負う。例えて申しますと、家屋の塀がいたんでおりまして、その塀が倒れて往来の人を怪我させた場合に、占有者、即ち借家人が先ず第一に
損害賠償責任を負う。但し借家人がその塀を倒れないように注意をするとか、十分の注意を拂
つておつたときには、今度は
所有者、家主が責任を負う。その場合無過失責任、これは七百十七條の
規定でありますが、これを
只今の
鉱業権者と租鉱権者は連帶であるべしという
規定と比較いたしますと、第七百十七條の占有者が第一次の
責任者であ
つて、
所有者は第二次の
責任者となるのであ
つて、決して両者が連帶責任となるのではないのであります。第二に七百十七條では、占有者には、
損害の
発生を防止するだけの注意を怠らなかつたならば責任を免れるという免責條件があります。無過失責任を負うのは
所有者だけなのであります。
従つて連帶責任とはおのずから違うのであります。第三に殊に重要だと私が考えますことは、七百十七條の
所有者が無過失責任を負うということは、
損害を與えるような危険なものを所有することの責任であります。
従つて單にそれを借りておる占有者の責任とはおのずから異なることになるのであります。これに反して
鉱業法におけるいわゆる無過失責任は、
鉱業権を行使する、即ち稼業するということの無過失責任なのであります。
従つて七百十七條は所有するところの責任であるのに対して、これは稼業するところの無過失責任である。そうすると、稼業するのは租鉱権者なのでありますから、租鉱権者が責任を負うということになるのであります。七百十七條のアナロジーを以て連帶ということにはならないのでありまして、又実際上から考えましても、連帶にするということはいささか無理だろうと私は考えるのであります。但し最初に申しましたように、租鉱権者が一般に資力に乏しい者であ
つて、十分な
賠償ができないということも、実際問題として考えねばならんことでありますから、
従つて先ず租鉱権者が責任を負う、そして租鉱権者が資力が乏しいために十分な
賠償を負うことができないときに、
鉱業権者が第二次的に責任を負うというぐらいにするのが
限度であろうかと考えるのであります。第五に、
鉱業権者の
土地使用收用権であります。この点に関しましては、御承知の
通り企業者側ではもつとその権限を拡張してくれという
主張をなす
つておるのであります。それに対して又農林当局或いは
被害者側と申しますか、一般人の
立場からは、これを縮小せよと言
つておるのであります。何も私は中間をとるということではありませんけれども、原案はそう考えられますから、原案が適当であろうと思います。なお一言いたしますと、ダンカン氏の
意見では、この
鉱業権者の
土地使用收用権を拡張するということについては、極度の警告をしておるのであります。尤もアメリカ式リースで行けば、特権を伴わないのが当然でありましようが、併し
我が国では先ほど繰返して申上げておりますように、一方国家が将来法制上監督、干渉するというのに対して、他方特権を認めるということになりますので、さような
立場から考えて、原案が丁度適当だと言い得るのじやないかと思うのであります。第六に、
鉱害賠償の問題ですが、ここでも企業者側と一般の
立場とその
意見が相対立しておることは御承知の
通りであります。
結論だけを申上げますと、常に
原状回復をすべしという
主張は行き過ぎかと思います。
従つて原案の百十
一條は、
只今農林当局からも御説明がありましたように、一定の
範囲で
原状回復請求権を認めておるのであるから、この
制度を十分に運用すれば、それで結構ではなかろうかと私は考えております。一体
飜つて考えますのに、
金銭賠償と
原状回復ということは、先ほどは
世界各国の民法或いはドイツの民法のことを引用して御説明に
なつたようであるが、一体
原状回復と
金銭賠償とは
被害者にと
つては余り違いがなかるべきはずであります。
金銭でも十分
賠償して貰うべきであ
つて、
金銭賠償と
原状回復とは、
被害者から見ては大して違いがある筈ではないのであります。
従つて若し非常に違うならば、
金銭賠償が十分でないとむしろ言うべきだと私は考えます。
被害者としては、
金銭賠償を十分に考えればいい。ただ諸般の事情を考えて、百十
一條二項の但書に
規定しておる限りの
原状回復を認めていいじやないかと思います。ただ
被害者側ではなく、
日本全体の
立場から見て、
被害者は
金銭で満足するであろうが、
日本全体の
立場では、やはりそこで幾ら金をかけても
耕地にして耕して行かなければ、
日本の食糧政策から不満というどきには、
被害者の意思を無視して、
原状回復もあり得るということがむしろ私は理論の筋であろうと思います。併しその場合は国家の力を以て
復旧するということをせねばならない。こういうのであります。又
損害賠償については、いろいろ問題がやかましいようでありまして、百十四條の予定
賠償というのに対しても反対が多いようであります。併しこの
制度を
打切り賠償という言葉で呼ばれておるようでありますが、私はこれは余り適当な言葉ではないと思います。何故かと申しますと、打切
賠償というのは、十万円の
損害を生じたけれども、それを値切
つてしま
つて、八万円に切
つてしまつたという感情を抱かせるので、打切
賠償という言葉は不適当だと思います。百十四條は決してそういうことを
規定しておりません。これはあらかじめ
損害賠償の額を予定するのでありまして、両当事者が相談して、どれくらいの
賠償額がいいかとい
つて、その協定の結果成り立つことをい
つておるのであ
つて、予定せられた
賠償の額をい
つておるのであ
つて、決して額をあるところで打切るとは言
つておらない。そして百十四條の一項は、これは民法の四百二十條と本文は同じでありまして、ただ但書が違いますが、住いますということは、これは新らしい民法理論でも、このほうが至当だというようにな
つておるのでありまして、格別不思議な
規定ではないのであります。第二項は又しばしば問題にされるようでありますが、これは例えば家屋がだんだん傾いて行くというときに、現在までの
損害ではなく、この家屋が何年か修繕しながら使
つて行
つて、そして
最後にそれが倒れるというまでの全
損害を両方で協定して
賠償してしまつた以上は、それからあとで、その家屋を買つた人に対して改めて
賠償する必要はないと、こういう
規定なのでありますが、これも常識的に見ても当然なことであろうと思います。その家屋についてすでに
損害賠償をと
つておりまするならば、家屋そのものも値段は安く
なつたわけであるから、その家屋を他人に売るなら安く売らねばならない。或いは高く売るならば、すでに受取つた
損害賠償の一
部分をくつ付けてやらねばならないというのが、理論の当然であろうと思います。ただそういう
制度を無制限に認めますと、人が不慮の
損害をこうむる虞れがありますので、これをはつきり第三者にわかるような公示の方法をとりまして、そうして一応第三者に警告しながら、今の常識的な理論を貫いて行こうというのが二項の
規定でありますから、これも当然のことだと思います。もう
一つ伺いましたところによりますと、
鉱害発生の予定地に
所有者が建物を建てるような場合には、
鉱害の予防或いは防止の
立場から、何らか
鉱業権者と
協議する
機会を設けるというような趣旨の
規定を置いてはどうかというような御
意見であるように伺いました。これは純理論的に見れば極めて御尤もなことだと考えます。この御趣旨は想像いたしまするのに、だんだん地盤が沈下して行くところに建物を建てようとする人は、先ず
鉱業権者と相談する。そうして普通のところに建設するよりはもつと強固な建築をする。その代り余計にかかる費用は
鉱業権者から出して貰う。それにもかかわらず、なお
損害を生じたときには、又当然
賠償して貰うというようなことをあらかじめ相談して置くということは、單に将来の紛争を避けることができるだけじやなくて、
損害の
発生自体を少くすることができるのでありますから、極めて結構なことだと思いますけれども、併しこれを法制化するということは
相当困難ではなかろうかと思います。法制化と申しますのは、或る一定の
土地に家屋を建てる者は、必ず
鉱業権者と話してしなくちやいけない、必ず
協議しなくちやならない、そうして若し
協議をしなかつたときには、これだけの
損害賠償は取れないというような、不
利益を受けるというようなことを法規で
規定するといたしますと、若し
鉱害の
発生の虞れがある
土地というものを誰が指定するのか、その指定が
相当明瞭でなければならんが、
相当困難であろう。又
協議をして、
協議が例えば整わなかつたときに、その問題をどう取扱
つて行くのか、又
協議をしなかつたときには、どんな不
利益を受けるということにするのか、これらの点を
法律的に正確に
規定しようとすればするほど困難になりまして、これを余り又正確に
規定いたしますと、建築をするのに非常に手間取りまして、所有権の不当な制限となる虞れもあると思うのであります。
従つて趣旨においては極めて尤もなように感ぜられますけれども、法制化をするには
相当困難であろうと私は予想するのであります。尤も單に
協議することができるというだけの
規定にいたしまして、そうして
協議が成立したときには、その
協議はただ普通の場合の
損害賠償額の予定というだけの効力しか持たない、そうして
協議しないでも何ら不
利益はこうむらないというくらいの
規定なら、これは格別不
都合もないものと考えられます。大変長くなりましたが、もう一、二申上げまして終ります。
第七に、
土地調整委員会という
制度が設けられました。これはダンカン氏の勧告の線に沿うものでもありますけれども、併しそれを離れて客観的に見ましても、
相当意味のある
制度であろうと考えます。ただかような
制度は、ともすると気休めになる虞れがあるのであります。率直に申しますと、戰後いろいろな
委員会が設けられました。併しその
委員会が果して最初
設置されたような目的に副うような活動をしているかどうかは
相当疑問ではなかろうかと思うのであります。その
意味で
委員会を設けたということが、民主的にしたということの
一つの気休めになる慮れがあると考えられます。併しこの
土地調整委員会は非常に重要なフアンクシヨンを営んでおるのでありますから、その
委員の人選に愼重でなければならんことは申すまでもないのでありますが、殊に事務局の内容を充実して、そうして
鉱業と農業、林業その他の
産業との調和を、科学的な根拠のあるものにするという
仕事を十分営み得るように、率直に申しますと、どうも
鉱害の問題では、企業者側と
被害者側とが、それぞれ自分のほうに有利な
主張をして、そうして両方の中間がおのずから定ま
つて行く、もつと露骨な言葉で言いますと、力と力との折衝による線が定められるというような状態にあるやに想像するのであります。併しそれは最初申上げましたように、
日本全体から見て非常に遺憾なことでございまして、その点に科学的な根拠のある解決を望まなければならんと思うのであります。そうしてその科学的な根拠のある解決をするには、十分科学的な調査が必要なのでありまして、
土地調整委員会当面の目的は、そのことにはないのでありましようけれども、折角
土地調整委員会というものを作るならば、それに十分陣容の整つた事務局を與え、そうしてそれだけの大きな目的に寄與することまで考えて設けることが必要であろうかと思うのであります。
以上大変と長くなりましたが、一
通り申上げました。