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笹森委員 私は実は多少遠慮して直接的な言葉を用いませんでしたが、ただいまの御
答弁で、武道という言葉が明らかに出ましたから、その点について
お尋ねを申し上げたいと思うのであります。私はここで武道の復活をしようということは、毛頭考えておりません。またそれは認識上の問題でありましようけれ
ども、そのことについて、私は
論議をしておるわけではないのであります。つまり
体育として、
競技として考えらるべき範疇の中にありまする
日本民族の従来のデイフエンシーヴ・
スポーツといわれるもので、実は考えたいのであります。これは
論議の外のようでありますが、せつかく話が出たのだから、ぜひ
文部当局においてもお考えおき願いたい点なのであります。これは実は私申すまいと
思つたのでありますが、向うから
お話が出たので、言わざるを得ないことにな
つたのであります。つまり
お話のごとく、私
どもが
日本の国における武道というもの、つまり柔道であるとか、剣道であるとか、弓道であるとが、なぎなた道であるとかいうようなものが、真に
日本の
青年の喜びであり、魂の中に触れたりつばな
体育の一面のありますることは、だれも否定できない、その
通りであります。しかしながら、戦時中これが戦技武道として用いられたという点についても、これまた否定ができない。そこで私
どもは、禁止せられたことに対する非常な反対議論を、ずいぶん
関係する
方面に向
つてや
つたのでありまするけれ
ども、結局するところ、ある時期においてある制約を受けたということに対しては、私
どもはこれに承服をせざるを得なか
つたのであります。しかしながら、御
承知の
通りに、民主的な
学生の
活動を肯定しておりまする現代においては、いかなる
状況においても、個人が好んでやりまする、今
お話になりました武道の範疇の中に置かれます柔道、剣道、弓道も、個人が個人の喜びにおいてやることの禁止は、絶対どこからも出ておらないことは御
承知の
通りであります。でありますから、この点については、何ら疑いのないことであることは、はつきりいたしておりまするが、これを
学校において
正科として、あるいはまた
科外としてやるということに対して、そのやめたということは、戦後における当時の文部
大臣がこれをおきめになりまして、全国的に新しい
方向へと導かれるため、
一つの段階をつく
つたことも、私
ども承服できるのであります。ところが、私のここで申し上げますことは、それらのものをいくら民主化し、あるいはまた
スポーツ化すると申しましても、一旦武道として、今
お話になりました極東
委員会において
一つの断定を下されたものを復興しようということには、至大な困難性を私
どもは見ておるのであります。そこで私の考えまするのは、何であるかというと、それらの範疇外に出ておるところのものを、新しいものとして私
どもは考うべきだと考えているわけです。このごろバドミントンとか、いろいろ新しい
競技が
日本にできている。こういう
意味で発生学的に探究いたしますると、元は何であ
つたかということは別といたしまして、私
どもはここに新しい
競技をつくり上げたことにおいて、民族的な
要求から出て来たものであるならば、これは当然禁止の範疇外のものとして、お取扱いになるのが、私至当だと実は考えておるのであります。申し上げるまでもなく、今日のマラソン競争の走
つて歩くことにしても、聖火を持
つて行く。これは戦勝の報告に、私
どもはその起原を見ている。またやり投げ、砲丸投げにしても、昔は戦技であ
つたでありましよう。しかしながら、今日オリンピックにおいても、やり投げを
戦争のために用いておるとは、何人も意識の中に置いてはいない。同様な
意味において、今
お話のありました柔道なり、弓道なり、剣道なりを、全然新しい合理化された
スポーツとして、あるいはまた
ほんとうに趣味としてやる者が出て来た場合には、それは新しい取扱いをするのが至当だと私は考えておる。こういう
意味において、武道の復活にあらずして、新しくそういうものが出て来た場合に、文部省はどういう取扱いの
用意があるのか、これを
お尋ねしたいのであります。