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辻参考人 まことにかつてなんでございますが、昨日まで旅行しておりまして、十分準備ができませんでしたので、最近の新しい
行政改革案の詳細について私承知していないわけでございます。本年の四月に
行政制度審議会が提出されました答申案は刷りものとしていただいておりますので、それにつきましてはある程度御意見を申し述べられる点があるかと存じております。今年の九月にこの答申に基きまして、
行政管理庁で
行政機構の改革案ができ上つたということを新聞紙上で知つたわけでございますが、どこまでそれが正確なものであるかどうかという点が不明でございますので、そういう点から、四月に
行政制度審議会が答申しております原理ないしその具体的な改革案について、私の意見を簡單にお話し申し上げたい、かように考えているわけであります。
あらかじめお断りしておきますことは、具体的な行政の機構を、局課にわたりましてどのように変革した方がいいかということであります。この点につきましては、それぞれ関係の官庁の方、もしくはこの官庁と密接な関係をお持ちの民間の業者の方々の方がむしろ詳しいのではないかと思います。従いまして局課の地位、人員につきまして、ここでどれをとるべきか、どれを捨てるべきかというようなことまで詳しく立ち入つてお話できないのではないかと思います。
平生行政に関する勉強をしております私といたしましては、
行政機構の設置改廃についていろいろ審議の責任をお持ちになり、かつまた非常な関心を持つていらつしやるこの委員会の委員の方々に対しまして現在の国家において、
行政機構の改廃はどういう原理に基いてしたらいいのか、あるいはまたどのようにしてなされておるのであるかというような点からお話し申し上げまして、それにつけ加えましてただいま申しましたような
行政制度審議会の答申案についての私の意見を若干披瀝さしていただきたいと考えております。昔から学者間抜けづらと言いますが、
行政機構につきまして——あるいはいささか抽象論になるかと思いますが、そういう点について御不審がございましたならば、あとでいろいろお教えいただきたいと思うわけであります。
行政機構の改革につきましての根本的な態度としましては、まず第一には、いつまでも日本における明治以来の
官僚制度の温存に汲々としてはいけないということであります。さらにその反面
行政官庁に対しまして、何と言いますか、まま子いじめのようにこまかい点まで一々無用の批判を加えて、そのことによ
つてたださえ手続その他につきまして、いろいろ複雑な欠陥を呈しております行政面に、一層無用の摩擦を生ぜしめるということのないように、この両方の極嫌な
行政機構というものはできるだけ避けねばならないということであります。一体何のためにこの
行政機構というものは改廃すべきものかという根本をまず反省をしなければならぬ。これが一番大事なことではないかと思うのであります。その点を逸しますと、往々にして非常に形式的な、あるいは官僚的な批判に終始するという結果を導くものではないか、その点を特に注意しなければならない。根本的にまずそういうように考えるわけであります。つまり当面日本の国民の一般の
社会生活にとつて何が最も重要であるか、その最も重要な面に最も、適応する
行政機構を考えて行く。そういう原理に基いて、増加するものは増加し、あるいは減少するものは勇敢にこれを減少して行く。よけいな
機構いじりをやりまして、不用の摩擦を起さないように、同時に最も適切な改革は勇断をもつてこれを断行する。こういうことがまず根本論として望ましいことではないかと思うのであります。
今日行政権が拡大し、
行政機構が厖大化しているということは、ひとり日本だけではなくしていわゆる
民主国家と言われておりますイギリス、
アメリカその他の国々におきましても、同様の現象が現われているわけでございます。この二十年間に、たとえば
アメリカのごときも約四倍に
行政官庁が増加して、局課の数は千八百を越えるという状態であります。
アメリカが独立した当初の
ワシントン大統領のときには、大統領はわずかに九つの
行政機関だけを監督するので十分であつた。ところが今日では、
トルーマン大統領は百に近い官庁をば大統領の権限で統轄しているという状態でありまして
行政機構が厖大化しているということは、何も日本だけに限つていないのであります。一般に日本特有の事情と、それから一般に世界的な現象といたしまして両方の面からこの問題にいろいろな点から批判を加えて行かなければならない。これが根本的な原理とも申せると思います。
少し最初に学問的な話になるのでございますが、一般に今日
行政機構といわれるものには、どういう形のものがあるかということを簡單に触れてみたいと思うのであります。今日大まかに申しますと、
行政機構というのは最も典型的な
部署制度と通常言われるデパートメント・システム、今日の各省の組織でございますが、
部署組織、それから第二が
行政委員会制度、それから第三に、これはこの答申案であまり問題にされておりませんが、最近の日本でも若干その例が出始めました
公社制度と申しますか、ガバメント・コーポレーシヨン、企業を半官半民の経営で行つて行くという形態であります。この三つが
中央行政官庁としては最も典型的なものでございます。それと、さらに第四に、
地方自治と
中央官庁との関係、それをいかに定めて行くか。この四つが
行政機構を論じます場合に取上げらるべき最も典型的な形態であろうと思うのであります。
最初の
官庁組織でありますが、これがどこの国におきましても
行政機構の中核をなすものであります。この
部署組織をば、どのような基準に基いて編成して行つたらいいのかということが、一番最初に問題になると思います。この点におきましては、通常いろいろの原理が出て来るわけなのですが、その中で二つの原理が通常考えられておる。それはすべての局課において、その局課の持つている
行政機能というものが十分与えられた権限に応ずるだけの範囲において遂行され、そういう面を保証する、それが一つの基準になるわけであります。第二にはそれぞれの局部課の間におきまして健全な綜合的な摩擦のない関係を樹立すること、この二つが
部署組織を確立して行きます上において最小限の
根本的条件ということがいわれている。さらにそういう
抽象原理に基きましてでは部署を何によつてわけるべきかという点が問題になつて来ると思いますが、この点にも若干の基準が出て来るわけであります。一つは目的によつてわけて行くという点であります。たとえば国家であるとか
社会組織、農林、商工、こういうような
行政目的によつてそれぞれ各省の分類を行つて行く。これが第一の基準でございます。この基準をとりますと、世の中が変化して行くにつれまして
行政目的に重点の異動が生じてくるわけでありますが、それに応じて絶えず変化させて行かなければならない。こういう必要が起るわけであります。その変化に基く改革を行いませんと、とかく官庁が増加してしまつて、当面さほど必要でない官庁にたくさんの定員が置かれ、そういうところに重大なる権限が置かれたままになり、新しく必要になつて来たいろいろの社会の要求に応ずる面が非常に手薄に扱われる。こういう欠陥が生じて来る。
さらに第二にわけます方法は、今度は行政の行われる過程というか、そういう
プロセスのことですが、その面に注目した基準は、たとえば許可を行う場所であるとか、たとえば主として謄写版をやるところだとか、タイプをやるところだとか、そういうような行政の行われる
プロセスに注目しまして、その点から局課を編成して行く、こういうわけ方があるわけであります。
さらに第三には、これは最近の各国において新しく起つて来た現象でありますが、行政の中で、非常に全体の
行政官庁に重大な影響を与え、しかも各
行政官庁のすべてに共通して存在している。そういう
行政機能をば特に取出しまして、それを集めて別個の
行政官庁をつくつて、統一した行政をはかつて行くという基準であります。これが
通常行政管理で、この現象は、最近急速に各国に発達上て
参つた現象でありますが、たとえば財政、予算、人事、統計、
行政調査、企画というような行政につきましては、各省別々に設置しないで、これを一箇所に集中して、そうして各官庁の間の業務についての連絡、調整に当らしめ、あるいはそれによ
つて各省で非常な不公平の生じないように、公平を期して行く。こういうやり方が最近台頭して参つたわけであります。この点は一例を申し上げますと、一つの家の中で、隠居部屋、子供の部屋とか、御主人の書斎であるとか、そういうようないろいろの部屋をわけまして、その場合にみなの部屋にそれぞれ食事をするところ、便所であるとか、あるいは出入口、玄関というものをつけるのが、従来の目的による分類の仕方であつたのに反しまして、むしろ子供が遊ぶ場所、あるいは御隠居さんがそこでひまにまかせていろいろな本を読んだり、自分の道楽をやる、あるいは主人がそこで勉強する、奥さんが縫い物をやるというような機能につきましては、それぞれ別個の場所が与えられておつても、食堂であるとか、便所であるとか、玄関というものはみんな共通に用いる、そういう方が便利である。それぞれ
一つ一つにつけていては費用もかかるし、いろいろな点で問題が起きる。これをまとめて入れて一家のうちにつくつておく、こういう非常に卑俗な例でありますが、そういう点の配慮がなされて、こういう機能を集中して行こう、こういう基準が生まれて来たわけであります。基準にはそのほかいろいろございます。たとえば特殊な人を対象とする
——退職軍人を官庁で扱うというような非常に特殊な場合、あるいは場所によりまして、この地方の管轄については別の官庁を設けるというような、いろいろな基準がございますが、主として重要なのは先ほど申しましたような三つの基準によつてなされるものであります。なかんずく特に目的による区別、それから最後に申しました
行政管理による区別という点が、最近
行政学者の間で重視されているわけでありますが、いずれにすればよいかという点については、いろいろ異論が多いわけであります。この原理を非常に厳格に適用しますと、第一には行政の目的を遂行する上に必要な構成の仕方をしている官庁で、
行政活動がてんでんばらばらに分離される危險が一つ出て来る。それから第二には、かりにその間に非常に有機的な連絡方法ができるといたしましても、あるいはまた
行政活動相互の間に適当な妥協が可能になりましても、
行政組織のそれぞれの部局課におきまして、同様の活動が重複して存在するということになるわけであります。今申しました第二の場合におきましては、さつき申しました家の例で申しますと、一つの局課なら局課におきまして、お互いがみんな便所をつけるなり食堂をつける、つまり農林省も、それから通産省も大蔵省も、みんながお互いの間の活動の協調はできても、それぞれがみな便所なり食堂なりというような、人事について、あるいは予算について、調査について、企画についての組織を備えて行く、そういう点で非常に重複して来る、重複しているけれどもお互いの協調は非常に便利であるというやり方。もう一つ前の方法でありますと、なるほど統一的な機能は集中されて行きましても、しかしその結果非常に不便になつて来る。今まで自分の省で企画を立て、そしてそれに必要な予算を立てそしてそれを遂行して行く、それで十分であつたのに、そういう機能が一方的に集中されますと、今度は、なされる仕事が相互に切り離されてしまつて、各省どうしてよいかわからない、手足をもぎとられるというような感じになる。こういう二つの欠陥が出て来るわけであります。その上にこういう技術的な理由以外に、さらに政治的な理由が
行政機構の改革には出て来まして、
行政機構の改革という声が上りますと、たいていの場合に、一つには
当該官庁に
利害関係を有します業者の団体でありますとか、いろいろな民間の利益団体がこれに強く働きかけ、あるいはまた各省の部内におきましてお互いに自分の従来の権限を擁護して行こう、こういう政治的な要素が生れて来るわけであります。これらの技術的並びに政治的な諸理由によりまして、新しく
行政組織をどのように改廃して行つたらしいかという点が、非常に困難になつて来るわけでありまして、この点ではそれぞれの国家なり、その時代のいろいろな条件によりまして、必ずしもこれが一番いいのだという基準は出て来ないわけであります。そのときの実情に応じまして、これらの基準を適当にあんばいして、
行政官庁の再組織をやつて行くのが従来までの例でありますし、今日各国においてなされておるわけであります。その点で一九三七年に亡くなりました
フランクリン・
ルーズベルト大統領が非常に極端な
行政機構の合理化を議会に対して勧告したわけであります。その案によりますと、先ほど申しました統一的な
官庁行政というものをすべて大統領の権限に集中して行く、こういう改革案が出たのでありますが、これなどは当時の議会から、これは本来の議会の機能を無視して、
ひとり行政権を拡大するものだという非難をあびて、遂に実行を見るに至らなかつたのであります。しかしながらこの
改革案自身、技術的に見まして、非常に整いました合理的なものだつたわけであります。しかし時代がまだそれを実施するまでに要求しなかつたという点で、一応合理的であるということは認めながらも、今日の
政治的実情に合わないというので否決されてしまつたわけであります。そういう点を配慮しましてか、戰後に出ました、皆さんも内容も名前もあるいは御存じかと思いますが、
フーヴアー委員会、
行政機構改革に関する厖大な報告書のごときは、その点も非常に考慮しまして、一方におきましては
行政学原理に基いた非常に合理的な
行政機構の改革案を出しながら、同時に今申しましたような
政治的反対なり民間の反対を予想しまして、その点のいろいろの声もそこへ加えてできるだけ摩擦の起らないように、しかも当初の改革ができるだけ目的に沿うようにというやや妥協的ではありますが、現実的な改革案というものをつくつております。従いましてその改革案は今日多くの点で次第々々に採択されて実現化されております。この改革案の大綱につきましては、今日国会図書館から翻訳が出るということでもございますし、その大綱につきましては本年の六月に私が法律時報という雑誌に
フーヴアー委員会の
行政機構改革案ということで御紹介しておきましたから、興味をお持ちの方はこれについて見ていただきたいと思うのでございます。おそらくあの委員会は今後の
アメリカの
行政機構をある程度決定的に支配して行くと言われるほどの性質を持つておる、その内容におきましても過激に走らず、さりとて保守固陣ではないという非常に配慮が加えられております。この点につきましても、日本におきましても、
行政制度の改革案をつくります場合には、ああいうような大規模の委員会、それから国内各分野すべての最も有力な人人がこれに参加して手伝つて行くという方法をとつて行くべきではないか、そのためには厖大な費用も出しますし、いろいろな便宜もはかる、徹底的な調査を行つた上で一つの改革案をつくるという方法でありますが、日本の場合などもこれは今日なすべきことではなく、あるいは講和以後の問題であるかもしれないのでありますが、今後
行政機構の改革といいますと、そのときどきの思いつきであるとか、あるいはそのときどきの一党一派の意見に基くというようなことなく、むしろ全
国民的衆智を集めた調査に基いた改革案というものを樹立されることが特に望ましいと思うのであります。これは少し
行政関係法とは離れましたが、
官庁組織というものは非常に簡單に申しましたが、大体以上のような基準によつてつくられるのが、今日の実情であるということが言えると思います。
それから第二には
行政委員会制度というものでありますが、これは日本に新憲法が制定以後取入れられました新しい形態の
行政機構であります。この
行政委員会につきましては、今日毀誉褒貶さまざまでありまして、ある人はこういう合議制の
行政官庁というものは非常に能率を低下する。従つてできるだけこういうものは廃止した方がよいという考え方の方も少からずあるように見受けられます。また一方従来の日本の
官僚制度を打破して民主化して行くためには、こういう合議制の委員会、ことに專門の知識の持主である委員によつて構成される
行政官庁は、非常に必要であるという意見もあるようであります。もともとこの
行政委員会というものは特に
アメリカにおいて発達した制度であります。なぜこういう
行政委員会制度というものが発達したかと申しますと、一つには
アメリカは日本と違いまして、各州がそれぞれ古くからやや主権に近い、つまり国家に近いような一つの行政権を持つていたわけでありまして、州自治の原則というものは
アメリカの独立以来の確固たる原則でございまして、現に下院に対抗する上院は各州の二人ずつの代表から構成されております。この上院に下院と対抗するだけの権限が與えられておるということは州主権を示すものであります。ところが今から約百年近く前ごろから州の間の交通が非常に発達して来た。鉄道が敷設されてお互いの間の通商が頻繁になり、あるいは道路が拡充されて、
自動車交通が発達し、飛行機が発達するということから、各州を統轄した一つの
行政官庁というものが必要になつて来た。あるいは州によつていろいろ商取引が違う、それから運賃も違うので、これは不便であるから統制して行こうという必要が生じて参つたわけであります。しかし御承知のように州の権限が非常に強い、それから議会の権限も非常に強い。そこでこういう権限を大統領のもとに集中させると行政権の独善強化を来すのではないかという心配が一つ出て来たことであります。それからもう一つの理由はこの委員会は普通の
行政作用だけではなくして、許可を與える基準をつくる。それから業者の間で争いが起つたときにこれを裁判する。こういう州の行政権の概念から離れました純立法もしくは純司法の機能を委員会が行わなければならない。そこに普通の
行政官庁と違つた裁判所的、あるいは
議会的要素を入れる必要が生じまして、複数制の合議制の官庁にするということ。それから第三にはこういう専門の行政を扱うわけでありますから、できるだけそれらの通商なり、運輸なり、あるいは航空なりの専門の知識を持つた人々を委員に吸入すべきである。そのことによつて最も実情に即した行政が行われる、こういう三つの理由から
行政委員会という制度が別個にできたわけであります。ただいま申しましたようにこの
行政委員会は複数制であるのと同時に、できるだけ大統領のもとにそれを集中させない、そういう厖大な各州にわたるような機能を大統領のもとに置きますと、議会に対抗するだけの強い行政権というものが生れて来る。これでは
アメリカの民主主義に反するというわけで、できるだけ大統領からこれを独立させるという点に特殊の意義を持つわけであります。
行政委員会の制度は
ひとり合議制だけではなくして、行政権からも独立にして行くということが要求されたわけでございます。従いましてこの
行政委員会の
最高委員というものは、議会が任命して行く。大統領が任命するのであるけれども、議会が承認して行く。その任期も大統領の任期よりも長くして置く、あるいは大統領はかつてにこの委員を罷免できない。それからここで決定された
行政事項は、たとえば
行政各省なり大統領が異議をはさむことができない。大統領はまたこれに対して正規の連絡の方法を持つていないというように、いろいろな方法によりまして、この
行政委員会というものの独立を確保して行つたわけであります。今日この
行政委員会制度というものにつきましては、いろいろの批判が
アメリカでも起つておるわけであります。と言いますのは、当初に申しましたように、次第に
行政機能が拡大されて、それを責任を持つて大統領が遂行して行くというためには、こういう行政権から独立した
組織形態を置いていては困る。できれば
行政委員会をすべて大統領のもとに直属させた方が理想的であるという方向に最近向いつつあるわけであります。先ほど申した三七年の報告書はほとんどこの
行政委員会を解体しまして、これをそれぞれの商務省であるとか、労働省であるとか、国土省であるとか、そういうところへ帰属させようということまで言つたわけであります。これが否決されたことは先刻お話した通りであります。四九年の
フーヴアー委員会の報告では、
行政委員会を二つに区別しまして、その中の純粋に
行政事務を行うべきものは
行政官庁へやる。ところがさつき申しました、いわゆる
規制事務と申しておりますが、これはレギユレイトという翻訳で、たとえば不正な商取引をしたものに対して規制する。そういうような意味でありまして、統制よりは少し弱い、そういう
規制事務と区別しまして、
行政事務はすべて
行政官庁に委任した方がいい、ところが
規制事務は
行政委員会に残しておこう。この
規制事務に属する
行政事務については、たとえば規制を行うための調査をやりますとか、裁判をやります場合の手続、そういう問題については
行政委員会の委員長をかりに
行政長官のようにしてそこへ帰属させる。それから委員長の任命について大統領がもう少し強く統制力を発揮できるように どういう者が任命されましても、大統領とては何とも反対ができないというようでは困るということなんです。
この点につきましては有名な事件がございまして、
連邦通商委員会という委員会がございますが、これは各州の
不正取引等に対する規制を行う委員会でございますが、この委員会に一九二五年に
ハンフレーという人が任命になつた。この
ハンフレーという人は自由放任の
経済政策の信奉者でありまして、当時はそれでよかつたのでありますが、大不況が起りまして
ルーズヴェルト大統領が
ニユーデイールの政策をしようとした。この
ニユーデイール政策は言うまでもなく、政府の統制力は強くなる。ところが
ハンフレーという委員はことごとく反対した。そうすると、
ニユーデイール政策はどうしても支障を来す。そこでやめてもらいたいということを大統領が
ハンフレーに手紙をやつたのでありますが、
ハンフレー先生やめようとしない。とうとう裁判所に提訴した。その結果裁判所は従来の慣習によると、
独立委員会の委員に対して大統領が罷免するということはあり得ないことになつているからというので、大統領の方が最高裁判所の判決については負けてしまつた。そうなりますと、ひとり通商委員会のみならず、諸種の分野においてそういう事件が生じて来ますと、せつかく行う
ニユーデイール政策もいろいろな点で妨害を受ける。そこでそういう極端な場合のないように、委員の任命、あるいは罷免についてはいま少し大統領の権限を強化した方がいいのではないか。こういうことを
フーヴアー委員会は勧告しているわけであります。つまり
行政委員会はそういつたような理由で独立した官庁として生れたわけでありますが、最近におきましては次第にそれが行政権の方に帰属しておる。こういう現況にあるわけであります。
第三の形態といたしまして、先ほど申しましたいわゆる
公社制度であります。この
公社制度と申しますものは、当初はそういうものはなかつたわけであります。ほとんど
アメリカに存在しなかつた。つまり私的企業が独自の判断と自主性をもつて企業を営んで行く、それこそが最も望ましい社会の状態であるというのが十九世紀を通じての
アメリカの信念たつたわけてありますが、次第に企業の行つております目的において、かりに私的企業にまかせておいても、その結果それが一般の国民なり民衆に対して非常に重大な生活上の影響を与える。いわゆる公益事業系統に属する企業については何とかこれを政府の手である程度規制して行かなければ諸種の弊害が起る。たとえば国民にとつてどうしても必要なガスとか水道というような事業について、これを私的企業にまかせておく場合には、値段その他事業の運営について迷惑をかけるようなことが少からず出て来た。つまり利潤を追求することにあまり夢中になると、サービスという点についてとかく怠りがちになるという現象がたくさん出て来た。そこで私的企業の創意は十分尊重するが、これに何らかの監督を加えて行くのが妥当ではないか。そういう妥協的な形態として
公社制度というものが
アメリカで採用されて来たわけであります。これは当初は非常に少くて、おそらく二十世紀の初めごろには一つか二つというような寥々たるものであつたのでありますが、今日一九四五年、終戰のときには合せて百十という非常に厖大な
公社制度にまで発展したわけでありまして、今後といえども必ずしも減少するという傾向にはないわけであります。この
公社制度が一般の
行政官庁と異なる特色と申しますのは、企業の内部構成が大体において私的企業の形態を採用しておるわけであります。特に事業の遂行、それから人事、会計検査、予算の編成という点についてはできるだけ
行政官庁がこれに干渉しないという点でありますが、ただこれに対しましてその構成者、たとば理事、理事会、そういうものには官庁の代表者を加えて行く。そして私的企業の形態によつて公益目的が害されないように、そういう点に濫用されないようにという規制を加えることにしたのがこの公社の制度であります。従いまして官庁との間の関係については公社の独立性をできるだけ尊重して行く、ガバメント・コーポレーションの独立性を尊重して行くという制度で生れて来たものであります。こういう形で進んで来たのでありますが、この点につきましても最近は次第に
行政官庁の方からの統制力が加わつて来たのでありまして、一九三五年になりますと公社の予算はすべて予算局に提出してその検査を受けなければならない。それから一九四○年のラムスペツク法によると、テネシー・バァリー・オーソリテイ、TVAというものを除きまして、すべて公社には公務員法を適用するという傾向に進んでおります。次に四五年にはガバメント・コーポレーション・アクトというものができまして、今まで持つておりました公社の財政的な自主性をも廃止してしまう。今までは、先ほど申しましたように、人事については公務員法の適用を受けない。それぞれの公社で独自の人事行政をやつており、会計検査につきましては独自の会計監査官というものを持つておりまして、その監査官の監査を受けるのにとどまつて、会計検査院の検査を受けるということがなかつたのでありますが、そういう点について最近次第に統制が加わつて来た。このままにしておけば百有余に上る公社がすべて官庁の一翼になつてしまうではないか。そういう面から最近反対論も相当あるわけでありますが、大体において時代の趨勢は次第に行政統制というものが強くなつて来ているわけであります。御承知のように、イギリスにおいては労働党が政権をとりまして現在国有化制度を行つておりますが、これらはすべてガバメント・コーポレーションの形態をとつてその国有化を遂行しているわけであります。一九四五年以後イギリスではパブリツク・コーポレーションと申しておりますが、同様な意味でありましてこの行政形態が非常に強くかつ広範に実施されている次第であります。こういう三つの形態が
中央行政官庁としての特殊な典型と申すことができると思います。
それからさらに加えまして
地方自治との関係におきましては、これは言うまでもなく、もともとイギリス、
アメリカのような
民主国家におきましては、
地方自治から発達して今日の民主的
行政機構というものをつくり上げたために、いわば
地方自治というのは民主主義の小学校のような培養基である。非常にそれが尊重されておりますことは最近のシヤウプ勧告の精神を見てもわかるのであります。しかしこの
地方自治についても、最近は中央連邦政府の統制力というものが非常に強くなつて来ている。ただしかしながら、古い伝統的な
地方自治の精神を尊重するという点で、できるだけこの面についても地方の自治権力というものは存置している。但しいろいろの知識的な勧告もしくは財政的援助という面では、今日大幅の統制力というものが地方団体ないしは州に対して加えられているというのが実情でございます。こういうように、一般的に見ましても行政権の拡大ということにはある程度の存在理由があるわけであります。従いまして、その点を無視していたずらに何でもかでも今日
行政機構を縮小させれば、それで一番よい形態ができるのだというような考え方は、いわば時代錯誤ということができると思うのであります。ただ日本の場合におきましては、
アメリカの場合と違いまして、
アメリカでは従来
行政官庁はすべて議会がこれをつくつたわけであります。その結果議会がこの官庁はそのときどきにはたして必要であるかどうか、あるいはこういうものをつくつたら金がかかり過ぎて困るのではないかという点の配慮を絶えずして来たのでありますが、日本の場合におきましては、大体において
行政機構というものは、いわゆる大権事項であつたために、この点が自由にお手盛りでつくられる危險が非常に多かつた。そのためにいたずらに不要な
行政官庁がつくられていたのであります。こういう点の欠陥があるわけでございますから、従つて全般的に
行政機構を必ずしも形式的には縮減するというのではなくして、時代の要請に応じて必要な
行政官庁はその存在理由に基いてそのまま置いておく、あるいはむしろこれを増加していい。しかしながら、不要な官庁、特に日本の特殊な状態に照してみて不要である、あるいはいたずらに屋上屋を重ねるような
行政機構組織、そういうものについてはこの際思い切つて縮減する、こういうことが根本的に考えられてよいというように私は思うわけであります。
大体以上が最近の国家における
行政組織の典型的な形態でございますが、そういう諸情勢と日本の特殊な状態を考え合せまして、今度は
行政制度審議会の答申案につきまして逐条と申しますか、
一つ一つの基本原理、基本方針につきまして、私の意見を少し述べさしていただきたいと思います。
お持ちでいらつしやいましたら参照していただきたいのでありますが、本年四月二十一日に答申されました
行政機構の全面的改革に関する答申、この第一の
行政機構に関する基本的方針、そこでは第一に
行政機構を縮減する必要があるということが強調されております。この点につきまして、私も
行政機構を縮減するということは大賛成でありますし、またそれによつて国民がいろいろの租税その他の負担を減免されるという長所が生れて来るわけでありますが、しかし一般的にたとえば昭和六、七年当時をかりにとらえまして、それと比較して、現在これと似たようにするというような選び方というものは、非常に恣意的である、こういうように考えるわけであります。ここにも今日いろいろな社会福祉、労働政策等々の分野における行政の事情ということを考慮しなければならないというように出ておりますが、先ほど申しましたように交通の発達、あるいはかつては考えられていなかつたような厖大な失業対策、それに基く労働対策、それから社会保障、中小企業の保護、あるいは国土資源の確保というようないろいろ新しい事態が起つているわけです。そういう点を考えますと、ただ一定の年度をとらえてそれとの比較において行政機軸を縮減するというのは、いささか公式論ではないかというように思うのでありまして、この点につきましては、先ほど言いましたように、全体の調整を見て、必要なものは保存どころか増大してもいい、しかし不要なものはこれを減す。それには現在の
行政官庁でそれぞれがどのような作用、仕事をしているかということを詳細に調査し、それだけの正確な調査の上に立つて、初めて合理的にしかも簡素な
行政機構というものが出て来る。その
行政調査については必ずしも十全になされているかどうかという点に疑いを持つわけであります。現に今日では
行政調査の人員といい、予算というものが必ずしも必要な額だけ、あるいは必要な人員だけあるということは、言えないのでありまして、この点では最近のフーヴァー安員会におきましても、特に
アメリカで企画ないし
行政調査というものにつきましては、それを拡大して行くべきである、今までは大統領府のうちの予算局の中に
行政管理課というのがございまして、そこでこの
行政調査ということをやつていたわけであります。それに対しまして、大統領直属に行政手続局というものを設けて、そこでこの行政の手続に関する調査をさせた方がいい、それは大統領の任命する一人の長官と三人ない上五人の勧告委員会をつくる、この三人ないし五人の勧告委員会というものは、二人は官吏から出し、あとの三人は民間の專門家から出す。そしてこの調査に関する局を強化して、そこで時々刻々にかわつて行く社会の要求に対して、はたして行政は満足な適応性を示しているかどうかということを調査させるという案を答申しているわけであります。ただ最終的には先ほども申しましたように、
フーヴアー委員会はいろいろな摩擦ということを考慮しましたために、こういう新しい局をつくるというところまで行かずに、今の予算局の中の
行政管理課をより拡大して今申した手続局と同様の機能を持たせた方がいいのではないかというような答申になつていますが、その原理は今言つたように
行政調査ということの重要性を特に強調しているわけであります。そういう
行政調査というものをまずつくつて、そして
行政機構のほんとうに科学的かつ合理的な縮減ということをいたしますれば、そういう根拠に対しましては、いかに感情的にあるいは自分の利害から反対しましても、これに対して納得させる、あるいはときには輿論に訴えてでもこれを納得させるということが可能になつて来るわけであります。
それから第三の
行政目的の重点の変換、これは先ほどから申しております通り、この
行政目的がいかなる面に重点を移しているかということにたえず注視していなければならないという点でございます。先ほど申しましたように現在の
行政機構の改廃の原理としては、できるだけ安い政府がいい。チープ・ガバメント、安い政府、低廉なる政府ということは、昔からとなえられて来たあらゆる時代における一つの共通の原理である。これは納税者の保護、つまり納税者というのはとりもなおさず主権者としての国民の利益を保護する意味で、できるだけ金のかからない
行政機構を維持して行く。これは何よりの根本原理なのでありますが、しかしながら同時に
行政機構というものは突き詰めて言いますと、結局一般国民のいろいろな面における足りないところを補充して行くおせわの役をするわけであります。従いましてもしそのおせわの方が十分にかゆいところに手がとどくようになされましたならば、現実に金を出す面は少しくらいふえましても、その方がより大きい効果となつて出て来るという場合には、公式的なチープ・ガバメント、安い政府は考え直してもいいのじやないかということがここで考えられるわけであります。もちろんそれが厖大な額に上つたり、あるいはそのことによつて厖大な人員を必要とするということであつては困るのでありますが、しかしいたずらに形式的にただ安い政府がいい、安い政府がいいと言つて、かえつて不便である、安かろう、悪かろうというようなことになつては困る。そういう意味の非常に合理的な行政の作用から見た安い政府というのが最も望ましい。今度のシヤウプ勧告案におきまして、
地方自治を完遂するためにできるだけ地方に財源を多く與える、そのためには税を相当多額にとらなければならないけれども、同時に地方の住民は、自分の払つたその金が一体どれくらいの行政代価になつて自分のところにもどつて来るかという点について、たえず注意していなければ、ほんとうの
地方自治というものの意味は発揮できないのだということをシヤウプ勧告の中に強調しておられますが、そういう点から考えまして、いたずらに安い政府という概念論にとらわれずに、ほんとうに国民の生活にとつて必須な機能をはたしてくれる。そのためになら、少しくらいの費用が増加しても、かえつてその力が結果から見れば安い政府になる、こういう点もよく考えていただきたいわけであります。従つて今日
社会生活において最も必要であるといわれる重点的な行政面につきましては、特にその
行政機構を尊重して、あるいはこれを拡大強化して行く、これは決して国民の自由な活動を妨害するということにはならない、こういうふうに私は考えるわけであります。もとよりそれを越えまして、一般の国民の自由な活動で十分であるところまで行政が關與するということは、もちろん国民の総意を無視するわけであります。そういうことのない範囲におきましては、いたずらに自由放任で今日のままでよいということにはならない、こういうように私は考えるわけであります。その意味でこのあとの詳細の案で、今日労働省はもう大した仕事をしていないから、厚生省と合体されればそれで十分だというような案が出ておりますが、そういう点では、私は今申しましたような点から見まして、この合併には反対であります。今日
アメリカの今度のフーヴアー案ですら、従来の労働省をますます整備拡充して、同時に新しいソシアル・セキユリテイー、社会保障省というような従来なかつた省の実現すら提案しておる今日におきまして、たまたま現に若干の労働行政が縮減されているというので、これをもはや厚生省と一緒に合併しておけばいいのだというような考え方は、広い意味におきまして、はなはだ視野が狭いといわざるを得ない、こういうように思うのであります。特に社会保障というような問題につきましては、先ほど社会保障審議会の答申もございますし、今後こういう社会保障制度を拡充して行くことは、これは各国共通になされていることで、決して減少して行かない。
トルーマン大統領のフエア・デイール政策を見ましても、イギリスの労働党の政策を見ましても、この点はおそらく、かりにイギリスに保守党が政権をとりましても、むやみに減らすわけに行かない。国民の最低生活を保障して行こう、これだけは自由放任政策がかりに復活してもさして減少しないだろうと思う。そういう点におきまして、特に重点的にこの
行政機構を目的によつてながめて行くということに御配慮を願いたいと思います。
それから第三の地方公共団体への大幅な事務委譲という点でありますが、この点も先ほどちよつと根本原理で触れましたように、
地方自治団体に自治を與えるということで、中火との有機的な関係を忘れるというようなことがあつてはならないのではないかと思います。なるほど日本のように中央集権でもつて今まで
地方自治団体というものが官治団体にひとしいような性格を持つておりましたところでは、極端に
地方自治という原理をとなえることもある程度私どもは賛成するところでありますが、かつて古い時代にとなえられておりました
地方自治をそのままとつてもつて、今日二十世紀の半ばを過ぎるという時代に、それ以外の点も考えないで、鼓吹するということは、この時代の変遷に対する配慮が足らないのではないかと思うのであります。ことに各府県が昔の藩の時代のようにお互いに非常に閉鎖的で、自分の県、自分の府だけがよければよいのだという一つの割拠主義に陥りやすい日本で、いまだ住民が自治意識ということを十分考えないときに、この
地方自治を特に強調いたしますと、往年の割拠主義にもどる弊害があるわけであります。このことは供出の問題につきましてもすでに経験済みでありまして、自分の府県だけよろしければそれでよいのだという方向へともすれば行きがちではないかと思うのであります。かりに一例をとりますと、一つの町で伝染病が出たが、その町の伝染病の病院は十分な收容施設を持つていないという場合に、隣の町の病院があいているからそこへ收容してくれと言つても、お前の方はお前の方でやつた方がよいのだ、おれの方では、おれの方に患者が出たときにやるのだというようなことでは非常に困る。あるいは犯人の捜査ということにおきましても、隣の府県に入つてしまえば非常にわかりにくくなる。県と県の境界の警察署が、県内の自殺者を夜の明けぬうちにお互いに隣の県のところに置いて、お互いに責任を免れておつたというようなことはよくありましたが、そういうような現象が
地方自治団体相互の間に生ずるようなことがあつてはならぬ。そうしてできるだけそういうことをため直して行くためには、何らかの形で有機的に中央との関係、あるいは
地方自治団体相互間の調整を配慮する
行政機関が必要になるのではないかと思います。ただこの点で非常にやつかいなことには、日本でそういう官庁をつくりますと、また往年の内務省の再現になつて、ボタン一つ押せば、すべての地方団体に一ぺんで命令が下せる。そして地方団体にはすべて中央の官吏が派遣されて、
地方自治団体の地位を低下させるというようなことが生ずるのであります。この点でどういうふうな
行政機関が最も望ましいのかということでありますが、終戰以来地方財政委員会、
地方自治庁、それから最近の財政委員会というようにいろいろな案が考慮されおりますが、いづれに対してもいろいろな不平や不満があるようであります。
アメリカの例の
行政委員会制度はちようどこういう場合にできたのであります。中央の統制は必要になつて来たが、
地方自治も尊重するというあの妥協形態としてできたのでありますが、この
行政委員会制度というものをばある程度收縮して日本に採用して、地方団体の調整機に関する道もあるのではないかと考えているわけであります。ともかくも
地方自治は尊重すべきでありますが、これを公式的に押しつけることによつてかえつて昔のおらが国さ時代の割拠主義を導くということのないように、ふだんに全体の計画と調整を配慮する必要がある。そういう
行政機関を特に設ける必要があるのではないかというふうに考えるわけであります。
第四に各省権限の明確と権限重複の排除という点ですが、この点は、先ほど申しましたように非常にむずかしい問題であります。権限というものは多かれ少かれ各省ないし各部局の間に関連を有する問題であります。従いまして明確な線をつくるということはほとんど困難に近いことであります。境界をつくりますと、かえつて今度は関連のある事務がどちらかへ割切られてしまうことになりまして、それによる不便も生じて来るわけです。さりとてそれを放置しておけば重複して来るというように、非常に困難な問題であります。ただこの答申案の中で、行政対象の種類に関係なく、行政の過程の一段階を抽出して所管するいわゆる横割り型の官庁が存在することは非常に困るということが書いてあります。横割り型の官庁が存在することは困るというのでありますが、しかし先ほど申しましたように、單に行政の目的の種類によつて
官庁組織を区別するということは、各省において非常に重複した機能を置く——つまり各省別に人事とか、予算とか、企画というものを置いて行く、そのことによつていたずらに費用が増加する。そのことによ
つて各省ごとに非常な不公平が生ずる。こういう欠陥弊害が生れて来るわけでありますから、できるだけ不公平のないように、あるいはむだな費用の出ないように、人事であるとか、予算ないし企画というものを一本にまとめまして、一つの局課に編成した方がいいのだというふうに考えるわけであります。しかしここに摩擦が生ずる——なるほど今日そういう予算、人事、企画というような官庁を中央に集中的に設けると、摩擦が惹起することは確かに言うまでもないのであります。しかしそういう摩擦を一々考慮しておりましたならば、いつまでたつても改革ということはできないわけであります。従いましてこの場合には、そういう摩擦というような政治的配慮のごときは背後に押しやつて、合理的な再編成という面をできるだけ強く前面に押し出すべきである。それになれましたならば、おそらく摩擦というものはおのずから減退して行くでしよう。同時に、そういう横割り型の官庁をつくる場合は、各省との間にできるだけ協調を保つて、そうして無用の摩擦をつくらないようにしておくべきであります。たとえば人事院が職階制をつくりますときでも、各官庁ともつと連絡をとつてやつたならば——職階制というものは各省にとつて非常に非難の的ではありますが、ああいう摩擦は起らなかつたのではないかと思います。あらかじめそういうことのないように配慮しておくと同時に、にもかかわらず起きた摩擦については、そういうものはもはや断固として通さないということが必要ではないかと思うのであります。
第五に事務運営の合理化という点でありますが、命令系統が上下に一貫し、責任と権限が確立していなければならぬということはまつたく私も賛成するところであります。そういう意味でここでは外局の問題が取上げられておりますが、外局というものはできるだけ廃止して内局に再編成してしまうことが、省の統制として理想的であるということが言えると思うのであります今度は組織の各段階の責任と権限の問題でありますが、これは言うまでもなく日本の行政を最も象徴的に示しております。いわゆる判こ行政と言われるものでありまして、つまり一つの課なり係の人々が、自分の与えられている権限に、それだけの責任を伴つて有していないという点から来ております。かりに小なりといえども、自分の権限について完全なる責任を持つているという場合は、それについては自分の判こ一つで許可なり認可をすることが可能なわけであります。ところがそれが認められていない。いわば下の方の人の権限というものは、最高の長官の権限を分割したほんの一部分である。従つてそのような権限に基いて行動する場合、責任は絶えずその直属の上官に系列をなして上つて行く、そういう人の承認を得なければ自分の権限が責任として生きて来ない、こういう形になつているわけでありますが、その点を特に指摘いたしまして、責任と権限を一致させる、自分の権限の範囲内では、自分の責任で判をついて、一定の
行政作用をして行つてもいいのだということをはつきりさせる。従つてその範囲内において許可なり認可なりを与える以上は、それについては、自分は十分の責任を負う。しかしそうしたということによつて、上官はその下級官吏に対して、自分にその承認を得なかつたという点の責を問うことはしない。その点で上官に見せるべき、あるいはそこに申告すべき仕事と、それから自分独自で行つてよいという仕事との区別をこの際明確にする必要がある、何でもかでも上官にまわさなければ、許可や認可ができないということでは困るわけでありますから、この問題について、これとこれの問題については、その職員の責任において、これを独断でやるという一つの組織体系をこの際つくる必要があると思うのであります。しかしながら、そういう体系をつくりましても、ここにも出ておりますように、この問題は単に事務運営の組織面の問題だけではなくて、それを行う人々の配慮にまつところも少くないわけであります。たとえばこの
行政事務が非常に渋滞するということは、いわゆる官職の私有意識ということと関連を持つておるのでありまして、たまたまその官職についたということは、その人に官職が与えられたというのではなくして、公の官職に自分がその一つの責任担当者としてついているのだ、こういう考え方になつてもらわなければならないのであります。執務の方法につきましても、たとえば当面の役人の方が出張したり、あるいは病気で休んだならば、もう全然ほかの係の者にはわからない。あるいは自分の書類は全部机の引出しに入れてかぎをかけて他人には見せないことを得々としているような、官職というものは自分のものだという古い意識をできるだけ官庁から排除して行く、そうして自分が扱つているこの仕事は、自分の課の係の共通の責任である。自分がいないときでも、ほかの者がかわつてこれを遂行することができるというような一つの制度をつくる。ここでもフアイリング・システムと出ておりますが、フアイリング・システムのような作用を行つて、だれでもが書類を見ることができるし、あるいはまたこれにかわつて行うことができるというような制度を採用してもらいたいと同時に、そういう精神になつていただきたいということが、単に
行政組織の形式的な改廃以外に問題になるという点をここでちよつとつけ加えておきたいわけであります。
それから第六の
行政委員会制度の再検討の問題でありますが、これは先ほど申しましたような意味で、
行政委員会というものはできて来ているわけであります。従いまして、必ずしも日本の場合にそれをそのまま適用して妥当であるかどうかという点については、いろいろの疑問があるわけであります。特に
アメリカは議院内閣制度でないわけであります。
アメリカでは大統領と議会とは分離されておりますが、議院内閣制ではない。ところが日本の新しい憲法は議院内閣制度ということを建前にしております。ただ議院内閣制度と申しましても、日本の場合は若干
アメリカ式の方法とチヤンポンになつておりまして、その点で今後いろいろの問題が生ずると思いますが、イギリスほど完全な議院内閣制度ではない。しかも議院内閣の原理に立つている。従つてこれと独立した
行政委員会制度との調和をどうしたらいいかということが問題になるのは、当然のことだと思うのであります。しかしながら今日この議院内閣制度の母国イギリスにおきましても、議会がすべての国内のいろいろな国民の意見なり、利益なりの代表の万能ではないという考え方が、非常に強くなつて来ているわけであります。議会に代表されている人の数は、ある程度限定されておりますし、それらの人々がすべての利害をそこに全部代表するということは、そもそも技術的にも非常に困難があると思います。ことに非常に行政が専門化している今日において、そういう専門的知識を本来しろうとである議員が、十分こなすことができないということは当然のことである。そこでできるだけ議院内閣制度を根本に置きながら、これを補完して行くいろいろな代表的な方法を考えて行つてよいのではないかということが、しきりに唱えられておるわけであります。つまりそういう意味の補完の制度といたしましては、この
行政委員会の専門性を尊重するというようなことも、また必要なのではないかと思うのであります。特に人事院の問題がよくこの
行政委員会の形態として取上げられるわけであります。つまり責任内閣制、議院内閣制である以上、人事行政については内閣総理大臣が責任を負うべきである。ところが人事院は、これからもある程度独立している。両者の摩擦をどうして緩和すればいいのか。一体人事院というのは第四の、一つの政府機関になるのではないか、三権分立ではなくして四権分立ではないかという非難がある。こういう非難もある程度もつともなのでありますが、具体的な日本の現在の行政の事情を考えますときに、若干この点で、人事院についてその存在理由を認めてよいのではないかという考え方も出て来ると思います。今伸しました議院内閣制を確保するためには、人事について総理大臣が責任を持たなければならぬ、これは当然でありますが、主としてそういう問題が起るのは、高級公務員の場合であります。従いまして、高級公務員の場合につきましては、できるだけこれを公務員法の適用のわく外に置き、特別職の範囲にすることが望ましい。そういうことをしますときには、今申しましたような内閣総理大臣と人事院の摩擦ということができるだけ避けられることになる、こういうふうに考えるのであります。その他の一般の公務員につきましては、人事院の独立性ということを確保してよいのではないか。その理由は、一つには最近の人事行政において、多くの科学的な管理方法を採用しているわけでありますが、これがそのときどきの政党の支配力によつてゆがめられる。つまりこういう人事院の独立性を認めずに、人事行政を政党の支配のもとに置きますと、行政能力以外の政党的配慮によつて余事が充当される、あるいはそれによつて任免が行われるという弊害が生じないとも限らない、そういう意味で、一般公務員についてある程度の人事の中立性を保障しているということは、必ずしも不当のことではない。第二には、この人事行政を人事院に統一しておくということによりまして、従来の各
行政官庁の割拠主義をできるだけ統一して行くということであります。御承知のように、終戦以前の日本の内務省におきまして、各府県の知事の任命権をどうしても手放そうとしなかつた。これに対する統制力を、戦争の末期において、地方行政協議会などをつくり、総理大臣の権限に入れようとしましたときでも、内務省は断固としてこれに反対した。各官庁は人事を自分の省に持つことによつて、自己の独立性を固執して、そのことによ
つて各省の間になわ張り的な対立を来す。それを打破するというような意味におきましても、このような統一的人事
行政機関をつくつておくということは、必要ではないかと思うのであります。ただ人事院が内閣総理大臣の拘束力から離れるというためには、別個にあるいは何らかの形で、専門家なり、ないしは議員の方方なりからできた、これに対する監視機関というようなものもつくり、そのことによつて人事院の民主化の保障を行うというようなことも、今後考えられることだと思います。特にこの点で、人事院につきましては、各省に人事行政のある程度の権限を持たす、委任させるということも必要ではないかと思うのであります。何でもかんでも人事院に各省の人事行政を統一するというのではなく、必要な範囲においては各省の自主的な権限をも与えて行く、その大幅な政策については、人事院の手に残しておくというような配慮を加うべきではないかと思うのであります。
大体以上が各点について申し上げた私の意見でございますが、最後にここに出ております点につきましても、地方団体の調整については中央的な何らかの形の調整機関が必要であること。それから答申案に出ておりませんが、
公社制度についても、今日日本の
公社制度がどのくらいの効用を発揮しているか、どのような欠陥を示しているかという点についても、もつと考慮すべきことがあるのではなかろうか。最後に整理によつて人員の淘汰が行われることに対して、失業対策が十分に行われなければならぬという点はまつたく同感でありまして、むしろ機構の改革をなすと同時に、その改革によつて、犠牲になつた被整理者の人々を就職の機会、つまりできれは雇用の機会を配慮していただく。これは整理されたあとで考えるというのでは間に合いませんから、できるだけ同時にそのこともお考え願うことが必要であろうと思うのであります。
そのあとで各省の機構改革が出ておりますが、これにつきまして簡単に申しますと、根本的には現在よけいな
機構いじりということはやめた方がいい。適切な改廃は断行する。よけいな
機構いじりと申しましても、私は具体約にこまかくは知らないわけでありますが、いろいろちよつとここに出ておりますのを見ました中でも、たとえば大蔵省の損害保險に関する事務を商工省に移すというようなこと、こういうのは当面どのくらいの必要があるかというようなこと、それによつてかえつて
当該官庁ないし業界等によけいな摩擦を起す。これはほんの一例をあげたわけでございますがそのほかにもそういう問題がある。それから第二には、適切な改廃についてはできるだけこれを断行して行く。特に今申しました管理行政の統一という点ではできるだけこれを統一化して行く。特にイギリスの場合のように、内閣の総理大臣がいわゆるプリムス・インテル・パーレス、同輩中の首席というのと違いまして、日本の内閣法は今回内閣総理大臣の権限を非常に強化したわけであります。内閣関係において内閣総理大臣の持つ行政力というものを非常に強化したわけでありますが、その強化に応じただけの機能は内閣に付置する。たとえば企画、調整、予算の編成、
行政調査、それから人事の調整、さらに統計といつたようなものはできるだけ内閣へ持つて行く、これが望ましい方法ではないかと思うのであります。それから重点的な問題としましては、たとえば人権擁護局を廃止するというような問題につきましても、人権擁護という問題はある意味では直接行政効果というものが出て来ない問題でありますが、しかし現在の日本では、かつてから官僚主義というものは政府
行政機構のみならず、一般の人民生活の中にも、社会分野の中にも、それから経済界にも、いろいろな
社会生活の中に非常にあつたわけでありまして、そのような官僚主義によつてほんとうの人間の基本的人権の擁護が無視されていた傾向が非常に強いわけであります。そういうものを今日再認識させるという意味において、これは
地方自治を発達させるというのとまつたく同等の重要性を持つておるわけでありまして、そういう意味におきましても、こういうものを廃止して官房に移すというようなことになりますと、その意義が薄れる、なるほど効果は十分に見えない
行政事務の一つであるかもしれないが、その持つている意義というものは非常に重大だというような点から考慮して、これは特に存置させる。あるいは手続の統一という点についても、水産庁というような外局をつくるよりはむしろ農商務省にあつたというようなことにして、内局制度で合理化させて行く、こういうようないろいろな問題が具体的には考えられるわけでありますが、こまかい点につきましては、私も特に実情を知つていないので、実情をよく調査いたしました上で、こういう具体的な諸問題にも改廃も統合ということはなさるべきものであろう、そういう点であります。私の能力不足の点から、細部の点に至つてははつきりしたことが申せないので、まことに申訳ない次第であります。根本論と、
行政機構の改廃ということはどういうことが問題になるであろうかというような点について意見を述べたわけであります。
最後に要約しますと、できるだけ
行政調査ということは恒久的に必要である。つまり行政というものは、変化する社会の情勢に適応して動態的に動いて行くものである。これに絶えず歩調を合せて行くのが行政である。そうでなければ硬化してしまう。そこで
行政調査ということは迂遠なようであるが必要である。それから同時に第二には、この
行政調査を生かすだけの政治力を発揮させてみたい。つまりせつかく
行政調査をつくつても、御自分の用に供するためにガラス戸だなの中にただ積まれているということだけでは何にもならないのでありましてこれを十分生かすだけの政治力、従つて今回特に国会議員の方々がこの
行政調査に特に関心を持たれ、そうして知識の点において、調査をつくつた一般行政職と対等にこれを討論できるというようにしていただきたい。それだけの高い政治力ということをお願いしたいわけであります。それから第三には、国民の代表機関であります国会を初めといたしまして、その他細部の点については監査機関等を設けまして、絶えず行政権が濫用されないという点を監督して行くこと。第四には、にもかかわらず行政が今日持つておりまする存在理由、意義等は十分認識されて、ただいたずらに細部の点の非難を事としないで、適切な批判をこれに加えていただきたい。こういう四つばかりのことを最後の締めくくりといたしまして申し上げて、今日の報告を終らしていただきたいと思います。どうも長い間、話が下手なのでありますが、御静聴くださいまして感謝いたします。