○山崎
参考人 私もただいま中本さんが冒頭に申しましたように、こういうことに不なれなために、実は皆さんからいろいろな御質問があ
つてお答えするという意味でなく、まず最初に私の
意見を申し述べたいと思いますが、約四十年間
医師制度についての講義ばかりをや
つておりましたので、いささか講義めいてきますけれども、お許しを願いたい。
医薬分業の問題については、大きく問題にな
つたのは今回が三回目でありまして、この前の
昭和十年の大問題のときにも、私はぶつか
つたのでありますが、
医薬分業に賛成である、あるいは反対であるという人の御
意見を、できるだけ広くあさ
つてみたり聞いたりいたしました。ところがそのいわれるところの
医薬分業は何かということを、おきめにな
つていないように思うのです。か
つて田代義徳という医学博士の方が、
医薬分業賛成者でありました。入沢さんやその他われわれの周囲におきまして、
医薬分業は賛成だというので、私は田代先生の
医薬分業というのはどういう形ですかと言いましたら、二二が四、それが
医薬分業だ、あたかも四のようなものだ、こう言うのです。それで私は、いやそれは違います、五マイナス一が四ですし、三
プラス一が四であ
つて、單に
医薬分業ということをひつくるめて言
つて賛否を問うということは非常に危險だ、こう申したことがあります。最近この問題がはげしくな
つてから、いろいろな
医師団あるいは
薬剤師団の方の御
意見、あるいは第三者の御
意見を聞いたりすると、それをきめないで言われているようであります。最も多いのは、
医者が
患者に薬をやる場合には、必ず処方箋を書いて
薬剤師のところで
調剤してもらえというのが
医薬分業だ、どうだ山崎、お前はこれに反対か賛成かと聞かれるのですが、私はもしそういう大ざつぱな
意見ならば、それは反対だと言うことに躊躇しないのでありまして、おそらく
医者が
患者に薬をやる場合には、必ず処方箋を書いて渡せというような
制度は、世界中にないと思うのであります。たいへん講義めいて恐縮ですが、私は納弁でありますし、頭が悪いために図表を持
つて参りました。
まずこれをごらん願いますと、
医師が
診察をいたしまして
治療の計画を立てます。ここが
治療という
方面であります。そこでその
医師の
治療がどういう形で現われるかというと、
医師が
患者に直接にやる直接
治療と、それから間接
治療にわけます。それで直接の
治療を二つにわけまして、薬で
治療の目的を達するものとその他の
方法、あるいは
手術をしたり、あるいはマツサージをしたり、あるいは拔糸をしたり、いろいろ薬によらない。これは非常にたくさんなものが、その他の
治療に入ると思います。さて薬による
治療のうちに、
医師がその薬を使用して
治療の目的を達するものがあります。その
治療をする場合に薬を説剤して使用する場合と、それから
調剤せずして使用する場合とが現われて来るのであります。それから次に
医師が使用しないで、薬を
患者または第三者に與えて、それを
患者または第三者に用いさせて
治療の目的を達しようという投與、交付、授與があります。ここに第三者というのは、小兒科のごときは、
患者に與える場合は絶対にないのでありまして、必ず第三者に與える。あるいは精神病院なんかでは多くは
患者に與えない場合が多いというので、
患者または第三者に
——法律では投與とか交付とか授與とかいう文字を使
つておりますが、みんな同じで、
患者または第三者に渡して、それを使用させて
治療の目的を達する。この場合に
調剤して與える場合もあり、
調剤せずして與える場合もある、こう考えるのであります。
そこで今度は間接
治療の方に移りますが、間接
治療は
医師が直接
治療をしない。その他の者が入
つて間接に
治療の目的を達しようといろ
方法であります。その一は指示であります、つまり教える。これは産婆や看護婦、今は助産婦になりましたが、その規定によりまして、
薬品を指示してはいけないという規定の
通り教えるのであります。これはあなたは硼酸水で含嗽しなさい、あなたはアスピリンをおのみなさいというように教えるのであります。この中でやはり
患者が
医者から教わ
つた通りにやる場合に、薬による場合と薬によらない場合があります。そうしてその薬も
調剤となるものとならないものがあります。この場合は全然しろうとが多いのでありまして、ごく
簡單な例を申しますと、どうもむかついていかぬ、そんなら重曹に酒石酸をまぜてラムネをこしらえてお飲みなさいと言
つて、その
患者が自分でそういうものをつくり、
調剤として用いる。それから全然
調剤でない、食後アスピリン錠を
一つずつお飲みなさいというようなものは
調剤とならないものであります。それから次には
治療方法を書面にしたためまして、そうしてその書面
通りにその
方法を実行して
行つて治療の目的を達する療方箋というのがあります。これは
法律では処方箋というふうな文字を使
つておりますが、これは説明には明らかに区別すべきものだと思うのであります。なぜかというと
医師法の
施行規則にも、
医師は処方箋には必ず薬名、分量、用法、用量を記載すべしとありまして、処方箋といえば必ず薬を書けということにな
つておる。もし薬も書かなければ罰しておるのであります。ところが従来の明治以前の
医者の
治療は薬ばかりでありましたから、処方と療方箋とが合致しておりましたけれども、現代の
治療は薬によらない場合がかなり多いのでありまして、その一番いい例は眼科医の眼鏡検定であります。眼科医が見て、あなたはこういう眼鏡をかけなさいというときには薬も何も書いてない。だけれども、あれは処方箋と言
つておりますが、
医師法の薬名、分量、用法、用量を書かないということになるのでありまして、あるいは特殊病院の食餌箋、あるい温泉療法の散歩箋、いろいろなものが出て来る。そこでひつくるめて
治療方法を書く書面というので療方箋、これを二つにわけて、薬を書く場合を処方箋、薬を書かない場合を狹義の療方箋とわけまして、そこで薬を書く場合に、その処方箋に基くものが
調剤となるものと
調剤とならないものとがあります。処方箋に基いて薬をや
つても、すべてそれが処方箋とは限らないのでありまして、たとえて言えば、アスピリン錠を食後一個ずつのめということを書いて、薬名、分量、用法、用量を書いて渡しまして、その処方箋をも
つて薬を処方箋
通りやりましても、これは
調剤しないで目的を達する。そこでこの処方箋に基いたからとい
つて、必ずしも
調剤とは限らない、
調剤するものと
調剤しないものとがある。大体大ざつぱにわけますると、
治療というものがこういうことになるのではないかと思います。
なおこれにつけ加えまして、
治療ではありませんが、
医師が
診察の
方法として薬を用いる場合があります。まず
診察の手段に、ある薬を用いて様子を見るというふうな
方法があります。その中にも
調剤してやる場合と
調剤してやらない場合がある。
しかしてこういう
治療の
内容を分析しまして、
医薬分業というものは何を言うのかということになりますと、ここに赤いしるしをつけてあります直接
治療のうちの薬によるのが目的のもの、しかもそれを
患者または第三者に與えてそれが
調剤となる場合に、初めて処方箋のうちの
調剤に行く、これが
医薬分業の
制度であります。
医者から薬をき
つてしまうというような
医薬分業の
制度は、世界中ありませんし、またやれないのであります。またたとえて申しますと、ここにある
手術をして、
薬剤師を持
つて来て薬をもらうということはどこにもないことで、また考えられないことであります。ただ先ほど言
つた患者に薬をやる場合に、それが
調剤である場合は処方箋を書き、そうしてその処方箋を
薬剤師のところへ持
つて行つて調剤してもらうかどうかが
医薬分業になる。
従つて調剤せずして與える場合には、
医薬分業の問題にはならぬのであります。すなわち聞くところによりますと、米国におきまして盛んに錠剤を使う。これは
調剤でないから、処方箋をやらないで
医者がぽんぽん錠剤をやるというのは、この投與のうちの
調剤せずしてということになる。極端な例を言うと脱脂綿をやる。これは
調剤でないから、処方箋を書かなくても
医者がやれるということになります。
さてこれはいいか悪いか、これに賛成するかしないかという問題でありますが、この
制度がよいかどうかを論ずるには、ここに掲げてありますが、
医療制度批判基準三原則というのであります。一体世界中の
制度を批判するには、これを標準として批評しているのであります。まず米国の
制度と
日本の
制度を比較し、それからドイツの
制度と英国の
制度を比較するというような、あるいは沿革的に
日本でいえば、平安朝の
医療制度と鎌倉時代の
医療制度はいいか、江戸時代の
医療制度と今のがいいかということは、言うまでもなく主観とか利益の問題でもなければ、ただ漠然とこうすれば世人が喜ぶとか、こうすれば世人が困るだろうというだけでは割り切れないのでありまして、おのずから
一つの標準がある。その標準が大体三つに帰納されておるのであります。
また簡易、普遍、完全であります。かりにさつき言
つた医薬分業の
制度、
医者が薬をやる場合には
——調剤してやるときには、まず処方箋を書いて向うで
薬剤師にもらうという
制度を考えております。それをやめて、それが簡易であるか普遍であるか完全であるかという、この三原則によ
つて批判すべきものであると思うのであります。簡易とは何かといいますと、手続が
簡單でなければならぬのでありまして、聞くところによりますとある報告ではソビエト・ロシヤが
医療を管理した。歯を一本拔くにもたくさんな歯をもら
つて、約一箇月かからなければ歯の一本拔けないという複雑では、これも簡易とはいえないのであります。
日本でも明治初年、各府県に病院ができましたときに、
医師の往診を願うのは往診願書というものを書きまして、往診御願い申し上げ候というと、院長は右許可すということで往診がや
つて来る。その原本は私数通持
つておりますが、そういうふうにのこのこ院長に来られたのではこれは簡易でない。ところが今日の状態を見ますと、
医師のところへ痛い腹を押えて飛び込めば、默
つていても
治療してくれる。手続も何もいらぬ、手続はしごく簡易であります。
さてこの簡易に、もう
一つは料金が適当であるかどうか、
医療報酬が妥当であるかということが、この簡易の中に考えられるのであります。往来でけがをした、金の持合せがない。すぐ
医者のところに
行つても、
医者は
治療してくれぬ。多くの場合には現金拂いもありますが、現金持たずに、けがでなくても
医者のところに行けば、
医者は先に
患者の顔を見て、お前きよう金を持
つて来たかという、ふところの
診察からは始めないのでありまして、まず
診察、
治療する。それであした来いといえばあした
治療に行く。さてなおりましたのでお金を拂う。お
医者さんの方は現金を持たずに飛び込めるが、さて処方箋をもら
つてから
薬剤師のところに行きますと、現金を持
つて行かなければ薬がもらえないということになる。さればなぜといいますと、それは現金を持たなくても
調剤をすぐしてくれる
薬局があるかもしれませんが、今までのところでは、われわれの経験では、お
医者さんからはその
診察料も拂わずに
診察を受けて処方箋をもら
つて来る。さてそれから現金をふところに入れて
薬局に持
つて行かなければ薬がもらえないというところになりますと、この手続というものがそこに最も簡易なものから段階ができて来るのであります。
次には普遍であります。病気は四六時中起るものでありますので、時間的に普遍でなければならぬのであります。土曜日の午後はいかぬとか、日曜日は病気が起
つてはいかぬとかいうようなことはあり得ないのであります。四六時中いつでも
診療を受けられる、しかも
地域的普遍でなければならぬので、都会ばかりに集中しておるとか、無医
町村が三千
町村もあるというようなことではこれは普遍ではないのであります。もう
一つは階級的普遍で、金持だけは
診療を受けられるが、貧乏人は受けられないというようなことでは、今地位というものはないにしても、実際には社会的に世の中にはある階級があるのでありまして、階級的に普遍でなければならぬ。こういうように簡易普遍であ
つても、その
医療というものがインチキであ
つてはならぬし、粗診、粗療であ
つてはならぬので、
医療の完全性、すなわち今日の現代医学のさし示すできるだけ最高なものでなければ
医療制度としては完全しない、こういうことになると考えるのであります。
そこで話がもどりまして、先ほどの
医薬分業、私の考えている
医薬分業というものをこれに当てはめますと、これを
法律で強制して、
医師が
患者に薬をやる場合には、それが
調剤でなければよろしい、
調剤であれば必ず処方箋をやらなければならぬということに強制的にきめてしまうと、この簡易、普遍ということについて、現地のわが国については、よほどの隔たりがあるのではないかと思うのであります。
一つの例を申しましても、病院では御
承知の
通りに皆
薬剤師を必ず置かなければならぬ、現に
昭和八年から
一つの
医薬分業の形をと
つております。ところが
診療所には
薬剤師を置かない、そこに入院する。今度は四十八時間しか入れない。入
つてそこで一室に收容してもらう。薬をやろうというと、これは当分のところに入院はしておる、收容されているけれども、その処方箋を持
つてお
医者さんから
薬剤師のところへもらいに
行つて来なければならぬというようなことになるのであります。これは非常に簡易でなく、非簡易ということになるのであります。こういう
建前からして、私は現に
医薬分業というものにお前は賛成であるか、不賛成であるかといえば、私は賛成であります。その賛成だというのは、今日の状態、すなわち病院あるいは三人以上の
医師が常時勤務するところにおいては、現に
医薬分業が行われておる。
薬剤師を置いてやらなければならなぬということにな
つておる。それからいわゆる世間にいう
任意分業、
医者からもらいたければ
医者からもらう、
薬剤師からもらいたければ
薬剤師からもらえる処方箋をくれということもできるし、また
医者によ
つては、家庭によ
つて処方箋を置いて行こうというのもあるのであります。それでけつこう。もしこれを
法律で強制しますると、薬はどこえ流れて行くかというと、処方箋を書かずして、
調剤せずして投與という、おそらく錠剤の方へ
行つて、結局錠剤を投與する。いわゆる米国でしきりに昨今やられておる
方法に
行つてしまうのだろうと思うのであります。それで、もう時間も大分
たちましたし、他の方におじやまになりましようからやめますが、従来も
日本では明治七年に医制で
医薬分業を採用したじやないか。それが今まで遅れて来たという沿革でありますが、この沿革については、もし時間をたまわれば、いちずにはそうは言えない、それから明治七年にはなぜあれを採用したかということについて申し上げたいと思うのであります。これはもし皆さんから何か述べろと言われたときに述べることにいたしまして、この
程度で私の
意見を終ります。