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1950-10-31 第8回国会 衆議院 海外同胞引揚に関する特別委員会 第11号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十五年十月三十一日(火曜日)     午前十一時二十三分開議  出席委員    委員長 若林 義孝君    理事 足立 篤郎君 理事 受田 新吉君       伊藤 郷一君    岡延右エ門君       門脇勝太郎君    菊池 義郎君       佐々木秀世君    佐々木盛雄君       庄司 一郎君    玉置 信一君       南  好雄君    天野  久君       小林 信一君    岡  良一君       堤 ツルヨ君    上村  進君       今野 武雄君  委員外出席者         厚生事務官         (引揚援護庁援         護局長)    田邊 繁雄君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      松井 茂雄君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      久保 武藏君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      小島 勝一君         参  考  人         (中共地区引揚         者)      高戸 英一君         参  考  人         (満蒙同胞援護         会職員)    長岡 敏夫君         参  考  人         (在外同胞帰還         促進全国協議会         副委員長)   浦野 正孝君 十月二十三日  委員玉置信一君、玉置實君及び松本善壽君辞任  につき、その補欠として南好雄君、藤枝泉介君  及び岡延右エ門君が議長指名委員選任さ  れた。 同月三十一日  委員近藤鶴代君、高田富之君及び深澤義守君辞  任につき、その補欠として玉置信一君、上村進  君及び今野武雄君が議長指名委員選任さ  れた。     ――――――――――――― 本日の会議に付した事件  中共地区残留胞引揚促進に関する件     ―――――――――――――
  2. 若林義孝

    若林委員長 これより会議を開きます。  本日は中共地区残留胞引揚促進に関する件を議題といたしまして議事を進めることといたします。本委員会のおもなる使命であります引揚げ促進につきましては、今日引揚げの困難な段階に立ち至つておりまして、この問題の解決には数々の障害を取除かなければならぬので、本委員会といたしましては、先日この件に関しまして、外務省並びに引揚援護庁当局より説明を聽取いたしたのでありますが、本日はさらに最近中共地区より引揚げて来られました方、並びに留守家族団体の代表の方を参考人として来ていただきまして、引揚げの実情を聽取し、その障害の所在、問題解決のかぎはいずこにあるかを明らかにいたし、その対策を早急に樹立し、この問題のすみやかなる解決に努力いたしたいと思う次第であります。  なおただいま参考人の方々は、松井茂雄さん、久保武藏さん、小島勝一さん、高戸英一さん、浦野正孝さん、長岡敏夫さん、武多篤さん、長畑博司さんの八人でありますが、出頭をお願いいたしておりますのに、久保武藏さん、武多篤さん、長畑博司さんの三名は、雨天のためでありますかまた御到着になつておりません。  この際委員会の運営につきまして一応お諮りをいたしますが、参考人より事情を聽取いたすことについてであります。まず委員長より参考人一人々々について、終戰より引揚げに至るまでの経緯並びに引揚げに際しての手続等について、概括的に質問をし、その後各委員よりその細部について項目をわけて尋ねていただくことにいたしたいと思いますが、御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 若林義孝

    若林委員長 それではさようにいたします。  ではこれより中共地区残留胞引揚げに関しまして、事情を聽取することにいたします。参考人皆様におかれましては、御多忙中のところ、また御遠路のところ御出席を煩わし、御迷惑の点もありましたかと思いますが、異境の地において故郷の山河を思い、いまだ帰らざる同胞、及び一日千秋の思いで待つておられる留守家族の心情に思いをいたすとき、一日も早くこの問題の解決に導かねばならぬのでありますので、その対策を早急に樹立して、その解決を要望する本委員会の意図をおくみとりくださいまして、質問に答えられんことをお願いする次第であります。  参考人皆様方に一言申し上げますが、委員会議事進行上、御発言の際は必ず委員長と呼んでいただき、委員長許可を得てから発言せられるようにお願いをいたします。なお質問に対しましてはできるだけ要点のみをお答えをしていただき、他事にわたらないようにお願いをいたします。こちらから質問の際は腰をかけてそのままでけつこうでございますが、御発言の際は起立して発言されるようにしていただきたいと思うのであります。  まず順序といたしまして、松井茂雄さんから御発言なり御説明お願いすることにいたしたいと思います。
  4. 松井茂雄

    松井参考人 私は満洲におりまして、停職前までは満洲国日系官吏としまして、浜江省警務庁管下韋河県県公署に勤務しておりました。八月十七日にソ連軍の進駐に伴いまして、県の全体の日系を保護しなければならない立場にありましたので、韋河県近藤林業公司という、鉄道の引込線を所有しておる業者がございますが、この鉄道をもちまして二個列車を編成しまして、ハルピン避難をしたのであります。この間約二日かかりまして、八月十九日にハルピンに着きました。ハルピンに着きましてから、その目的は南下にあつたのでありますが、南方付近はすでにソ連軍の進駐するところとなりまして、とうてい列車はどうにも方法をとれないのでありまして、ハルピン避難のやむなきに至つたのであります。当時残りました日本人家族並びに在留者は、われわれと行動をともにしなかつた者は、ほとんど銃殺、あるいはソ連軍との戰闘によつて死亡したということについては、その後に至つて知つた状況であります。その後ハルピン避難民收容所にありまして、八月二十五日ごろ、ソ連側入城式を挙行するために、ハルピン付近一帯にわたりまして、十五歳以上五十歳までの男子に対して、ソ連側抑留を開始したのであります。私も八月の二十七、八日に抑留されまして、一応香坊を経由して牡丹江鉄道でもつて輸送されまして、牡丹江の元日本陸軍病院跡收容されました。その後ソ連側の使役に強制的に従事を命ぜられまして、十一月の中旬抑留解除となりまして、牡丹江よりハルピンに来たのであります。ところがハルピン帰つて参りますと、日系官吏逮捕命令が出ておりまして、特に私は満洲国の警察官の職にあつたために指名逮捕というような形になりまして、また従前ハルピンでは市内の警察の指導等行つておりましたので、顏見知りという関係で、どうにも身の置き所のないような形になつたのであります。また当時開設されましたハルピン居留民会――当時日僑難民会と称しておりました。難民会に私の指名逮捕命令が出ておりますので、当時日本人に対しては居住証明書というものを発行しておるのでありますが、私はその日本人としての居住証明書を手に入れることができないのでありまして、偽名のもとに市内を転々と潜行しておつたのであります。私のところの副県長、さらに浜江省各県下の日系はほとんど逮捕せられ、あるいは捕縛のために処決されるというような状態になりまして、まともにもぐり込んだ、あるいは逃げた者はないのであります。私はその年はハルピン市内にもぐりまして、昭和二十一年の正月を迎えまして、その四月まで何らソ連側の手につかまることなくしてもぐつておりましたが、四月の下旬に至りましてソ連軍は本国に帰還したのであります。そのあと残務整理を、これは共産軍でありますが、八路軍引継ぎをしたのであります。ところが八路軍引継ぎは、従来のソ連軍日系官吏逮捕命令よりもむしろさらに急激なものがあるのであります。また逮捕せられますれば、ただちに民衆裁判というようなことを行いまして、一方的の裁判のもとにこれを処刑してしまう。当時、御存じの方があるかと思いますが、ハルピン市内日本人租界ともいわれるような地段街という繁華街におきまして、布告をして次から次へと処刑をされて行つたような次第なのであります。私はこの間さらにもぐつておりましたが、当時延安方面から参りました日共指導者、これは居留民会等に皆幹部として入つておりまして、彼らはわれわれに対しまして、近々に引揚げは開始になるというようなことを申しておりまして、帰れるということにつきましては私も感じておりましたが、何しろ先ほど申しましたように居住証明書というようなものを持つておりません。それがために、私が一旦居留民会に出たならばただちに逮捕されることは当然であります。いろいろ苦心いたしまして、また日本人ハルピン引揚げた後にはどうなるかということまで考えたのであります。結局はこれからいずれかに潜行しなければならないという覚悟をするよりほかしかたがないのであります。一方南下するものもぼつぼつありますが、途中におきまして暴民のためにほとんど殺害せられるということは、情報等によりまして常に聞いておりました。私は單独にて南下することは非常に危險だということで、どうしたらよいか、いろいろ熟慮した結果、八路軍終戰当時熱河省に非常な地盤を築いておりまして、その数が四千ないし五千というふうに軍の方でも発表しておりましたが、その軍隊東北解放とともにハルピンに参りまして、彼らはハルピンの旧日本軍自動車を皆徴発しまして、これの技術者を必要としたのであります。私は当時自動車運転技術を知つておりましたので、当時熱河の方に下れば何とか帰れる方法があると思いまして私は一応熱河の方に下り、また中共軍麾下に入つたならばかえつて危險が薄らぐというような考えをもちまして、中共麾下に入つたのであります。入りましたときがちようど昭和二十一年の七月下旬であります。約百輌ばかりの自動車をもちまして、二車輌あるいは三車輌程度列車チチハルを経由してトウ南に出ました。この間約十五日ほどかかりました。トウ南に参りまして、そこから突泉県城に出まして、さらに王翁廟の南の内蒙地区に入りまして、熱河省林西という所に入りました。ところが八路軍はその時代は非常に不景気な時代でありまして、延安は落され、あるいは承徳、赤峰方面む落されるような状況で、首脳幹部はほとんど林西地区引揚げて来て延安方面首脳者家族は、佳木斯を経由して一方北の方に避難するというような状態でありました。私はその冬を林西に送りまして、チチハル並びにハルピン方面におりました日本人等はすでに引揚げを開始して引揚げてしまつたというような情報等も聞きました。またこの間外蒙地区にも私は中共のために一回行つた事実もあるのであります。私とともに行動した者も約百名以上あります。これは全部日本人であります。さらに突泉県城には日本人の女子、これが約三百名余、八路軍被服廠関係に勤務しておりまして、全然われわれとは言葉をかわすことはさせないというようなふうにして、非常に気の毒な立場婦人方を見受けて来ました。この林西には鉄工所、いわゆる銃器の修理、あるいは手榴彈作製迫撃砲のたまの作製等日本人の工員が四、五十名おりました。さらに林西県から東の方に大院子というところがあります。この大院子にも陸軍病院がありまして、医師ほか看護婦等が五十名近くおりました。昭和二十三年になりましてから、林西を基盤としまして、林西白城子を経由しまして、ハルピン、その間の輸送が目的なのでありまして、共産軍の紙幣の運搬Aあるいは被服、あるいは銃器彈薬等運搬のために技術者として私は動いておりました。さらにまた万里の長城を越えまして、北京天津の近くにも入つたこともあるのであります。昭和二十三年三月ごろと思いますが、日本人引揚げましてから、これは最近のソ連のタス通信などにもございますが、日本軍を現地で解散させたものが数万あるとかいうふうなことを発表しておりますか あれについて私は少し不可解に思つているのであります。昭和二十三年の春には日本人引揚げた後に、ソ連からハバロフスクを経由しまして、黒河に渡つた日本人件数が約四万、これはいずれも一応旧日本軍隊でありまして、結核患者とかあるいは重病者、これは一応診断を行つた後に全部八路軍に引渡しております。私はこの者と後に行動を共にしたのでありますから、事実あつたということを証言するのであります。昭和二十三年には私は一年間にわたりまして、林西地区からハルピン物資を輸送しておりました間に、チチハルに残留されました難民が――これは中共政府に徴用されてないものでありますが、難民として約二千名程度つたのであります。ハルピンもほぼ同等の数がおりました。これは昭和二十四年の八月に病弱者を帰した。私は今年の四月に帰つて来たのでありますが、その前の年に帰した事実については、私は今回帰つてからはつきりしたような次第ですが、千何百名が帰つて来ておるということを聞いております。なお私の知つておる範囲内では、牡丹江から南下しました部隊が横道河子の線から老爺嶺の山に入りまして、中将の指揮する一個師団というのでありますが、これが老爺嶺の山中に入つたまま、五箇年間の物資とさらに彈薬等を携行して、これに対してソ連軍並びに八路軍討伐等行つてもさつぱり手ごたえがない、また帰順工作等行つたと聞いておりますが、これに応じない。国民党の治下になつた場合においては一応下りて来るということも聞いております。また一時私は中国共産党関係工鉱監理局と申しまして、後には東北鉱務局とかわりましたが、鉱山関係技術者等の多数入つているところにも入りました。ここにも国民党で徴用いたしました阜新炭鉱残留職員五十名が逃げ遅れて中共に逮捕されまして、私のところに参りましたが、そのうちに次から次へと逃げてしまいまして、最後は二十数名が残つたと記憶に残つております。その後昭和二十四年の一月に八路軍とともに天津に入城しました。天津に入りましたところが当時、技術者自治会というものを設立しておりまして、日本人は二十名ほどおりました。そのほか中国人のところに打つておる婦人方約百五十名、われわれの共産党関係技術者として留用されておる者が三百名程度つたのであります。天津というところはその以前におりました日本人等にも聞きましたが、国民党が統治しておつた当時には、天津に残留する日本人は、国民党が必要とされた日本人以外の希望残留ということは認めないで、トラックをもちまして船のところへどんどん運んで行つて日本人引揚げさした、こういうふうに聞いておりました。しかし中国人のところに行つております者はもぐり込んでおりまして、中国籍を取得することもできないで残つた数が百五十人、これはどうしてわかつたかといいますと、私は天津に入りまして、中国共産党軍事官制委員会の中の接管工作というどころに入りまして、引続いて天津憲兵隊――向うの名を言いますと、巡察隊と言いますが、その巡察隊の中に入つたのでありまして、日本人の中で家族をつれたのは私一人だけなのであります。そこでちようど残留日本人の数が報告されてあつたのを見まして、その数がはつきりとつかめたのであります。その後太原解放になつて太原状況はどうかと私は思つておりましたが、中共地区においては非常に宣伝ということをやりますので、さつそく二ユース――元満映のニュース班が活躍しておりまして、太原解放当時のニュース写真を見たのでありますが、今村少将はすでに自決されておりました。今村少将といいますと、閻錫山の麾下で活躍された方でありますが、自決されておつた。またその下におりました岩田参謀、この方はニユース写真等におきましては、逮捕されまして手錠をかけられておつたのを見受けました。その後になりまして、取調べでどこかに連行されたようですが、鉄道自殺をしたということを聞いたのであります。これはその後天津軍械廠日本人が約五十名くらい――太原の比較的共産党に忠実な者を軍械廠等に配置したので、彼等日本人から私は聞いたのであります。また太原には、私の聞いた範囲内では捕虜として現在收容を受けている日本人は約七百名、そのほか技術者等は二千名余おるそうであります。前にさかのぼりますが、三江省鶴岡炭鉱というのがあります。ソ連から引揚げられた日本軍隊で、今もつて健康な者は鶴岡炭鉱等には大分入つたと聞いております。また済南地区でありますが一済南地区ば、私が單身引揚げ運動をやつたときに、長井という中共銀行関係に働いておつた人ですが、この人が天津におりまして、済南地区の十何名かの日本人引揚げ問題につきまして、私のところに盛んに連絡に参りました。私は当時天津政府関係におりました関係上、公安局等に参りまして、自分單独引揚げにつきまして相当政府と交渉したのですが、私の交渉が成功すれば済南地区から引揚げ許可をもらい、さらに入国許可をもらうと言つておりましたが、その後どうなつておるかわかりませんが、現在済南地区には二百名おるわけであります。また現在向うにおつて利用されておる日本人心理状態でありますが、彼らは一応共産党思想というものは植えられておるのであります。一応強制的のようなふうにしまして、毎日教育を受けて思想等を植えつけておりますが、しかし理想と現実にあまりにもかけ隔てがあるので、非常にくたびれたようなかつこうになつておりまして、早く帰りたいということを念願する者が多いのであります。従前希望残留者もありましたが、まつたく現在は希望してまで残留するというものはほとんど見受けません。また瀋陽――元の奉天でありますが、瀋陽には日本民主連盟本部というものがありまして、ここには日本字新聞等も発行されておりまして、二十四年十一月ごろの新聞には、現在は絶対に日本人帰還は不能である、また講和條約後でなければ――中共日本との講和を決しない限りは絶対に帰還はできないから、お前たちはあきらめて働け、鉱山でも何でも行つて働けというふうに示しております。また中共政府の方におきましては、当時日本技術者相当使つたのでありますが、現在都市解放、上海、天津北京、南京、漢口、あるいはああいう方面解放した後には技術者が多数余つたのであります。また生産機械というものは非常に少いのでありまして、技術者等は非常によけいあつても、生産能率などというものは非常に低下して行くのでありまして、自然技術者等も必要としない。また日本人を多数に一時は使つたのでありますが、それは都市を持たなかつた当時の中共状態でありまして、現在のように多数技術者等を得た以上は、これまで使つておる日本人はあまり欲していないのであります。しかし中国共産党といたしましても面子上また面目上、どうしても日本人をそのまま放置するということができないような立場にありまして、私のように強硬にがんばれば帰してくれないことはないのでありますが、それは下部機構だけにつつぱると、なかなか思想が悪いとかなんとかいつて帰さない。相当首脳者等をつかまえまして交渉すると、向うも了解しまして帰すのであります。私がいい例だと思います。
  5. 若林義孝

    若林委員長 松井君にちよつと申します。各委員がずつと聞きたいことは全部お話くださつておりますが、大体細部にわたり、あるいは共産党による教育その他については項目をわけてあとからまた承ることにいたしますから、大体お帰りになつた径路までを簡單お願いいたします。
  6. 松井茂雄

    松井参考人 それで私は本年の一月に、日本状況がどうなつておるか、自分の実家はどうなつておるか、どうしても帰りたいという一念をもちまして、非常に運動したのであります。上部階級に話をしまして、実際私は日本帰つてからともに運動するから帰してくれ――心にあるかないかわかりませんが、そういうようなことを言いまして話をしたところ、向うは今帰つてもしようがないじやないかというようなことを言うのであります。あなた方の立場考えて見なさい、日本軍華北地区あるいは満洲方面におつた当時のあなた方の時代はどういうふうな状況であつたか、今はそういう位地におるも、昔いろいろな方面において工作しておつたから今こうした地位を得られておるのだろう。そうしたことを考えれば、私などは現在こうしたところに一技術者として置くのはもつたいないじやないか。早く日本に帰して日本で働かした方がもつと有効じやないかというようなことを言いまして話しましたところが、向うも一応了解して、それならば帰してやろうということになつて、私に対しては天津市政府の方から約五百ドルばかりの金を支拂つてくれて、一切の衣服や食糧旅費等をくれたのでありますが、しかしそのときには市長は決済をした以上は、公安局はもちろん出国に対しては証明をくれるのでありますが、問題は入国であります。單独個人引揚げをやつて入国問題は、当時アメリカ領事館が二月二十五日をもつて閉鎖を命ぜられてしまつて、これ以上どうすることもできない、領事館としても方法がない、入国証をくれない。入国証がなければ船会社においては船の切符を売つてくれないというような状況なのであります。私はやむを得ませんので、イギリス領事館あるいはスイス領事館というふうに、いろいろお願いしたのでありますが、非常にけんもほろろなあいさつで、さつぱり要領を得なかつた。やむを得ずいろいろ考慮した結果、連合軍司令部あてに電報で入国の願いを出したのでありましたが、ようやく十日ばかり経つてから、イギリス領事館づけで回答が参りました。当時アメリカ領事館は、残務整理イギリス領事館上階でやつておりまして、そこへ私に通知してくれまして、私の入国許可をもらつたわけであります。その後パナマ汽船に乗船しまして、四月の九日に横浜港に上陸しまして、現在に至つたような状況であります。私の経緯はこれだけであります。
  7. 今野武雄

    今野委員 ただいまたいへんくわしい報告があつたのですが、参考人質問要綱を今拝見しましたら、引揚げまでということになつておりますけれども、ただいま入国の問題もあつたのですが、現在の職業とか、それからそれまでのいろいろなこちらに来てからのことも言つてくださると一番ぐあいがいいと思います。
  8. 若林義孝

    若林委員長 大体一応引揚げるまでのことを聞きまして、それからあと午後に総括的にいろいろな問題を伺います。参考人皆様方にもお願いいたしておきます。大体終戰のときにおられた所と、それからその前にやつておられたこと、どういう径路をとつて引揚げられたか、それからお帰りになるときどういうふうに骨が折れたかというようなところに重点を置かれてお話願いたいと思います。一体何人くらい残つておるように思われますかというようなことについては、また午後一まとめにしてそのお話皆様方から伺います。先ほど松井さんから非常に詳しく、どこそこに何人、どこそこには何人いると思うというお話があつたのですけれども、散らばりますと一体全部で何人くらいおるだろうかという結論が出しにくいと思いますから、人数その他については新しい項目として、松井さんは何人おると思われますか、だれだれさんは何人声ると思われますかというようにずつと皆様方の御意見をとりまとめてお聞きしてみたいと思つておねますから、最初はともかく終戰までのついておられたお役目と、それから終戰後帰りになるまでおられた箇所、それからお帰りになるときの骨折りと、帰るときはどういう径路をたどつて帰つたかということについて、ひとつ要点だけをお話願うことにしておりますから……。
  9. 今野武雄

    今野委員 議事進行について……。これはたいへん詳しく資料があるのですが、これにやつぱり現在の職業や何かつけてないのは何かお考えがあつてですか。
  10. 若林義孝

    若林委員長 そうではありません。
  11. 今野武雄

    今野委員 簡單につけてくれると、たいへんぐあいがいいと思います。
  12. 若林義孝

    若林委員長 それでは久保武藏君。
  13. 久保武藏

    久保参考人 私は久保武藏であります。中共地区――最後は天津から帰つて参りました。十九年五月営口のマグネシウム会社に働いておりました。ここで終戰になつて、営口の日本人は全部立退き命令を食つたのです。それで二十五日午後五時に奉天、大連方面に向つて出発した。ところがソ連人と支那人、満洲人の掠奪によつて婦人、子供が非常な損害をこうむりましたが、私たち一行三十名奉天に出ました。ところが奉天も非常に掠奪が多いので、これじやいつまでおつてもしようがないというので、二十年の九月大連に出ました。それから大連市の大連大広場小学校の收容所に收容され、それからずつと労働組合の紹介で日雇いに勤めることになりました。そうこうしているうちにソ連人の大工の所に働くことになつて、そこで大体半年ばかり働きました。その後二十一年の八月、山東の新華書店という書店にオフセツトの印刷技術の指導に行きました。それから大連から烟台に上陸、二十一年の九月に山東省臨沂に到着した。そこに山東新華書店第三廠という工廠があつたちよつと拔けているところがありました。この書店に行つた人員は女、子供全部で二十五人です。途中一箇月かかつて行つたところが、人間は着いたけれども、かんじんの機械が着かぬために、今度は人間の分班ということになつて、ある機関々々にみんなまわされました。それから二十二年の二月臨漸に移動しました。そこで大体二箇月くらいおつて、その後二十二年の四月渤海に向いました。渤海の信陽県に十箇月ばかりおりました。その後昭和二十三年四月また渤海から益都に移動の命令があつて、四月から五月の間大体一箇月益都におりました。その五月から今度は済南が解放されたので、済南へ行けとの命令がありまして、全部行く途中、済南市の人民銀行に転属されたのであります。二十四年の五月から二十五年の一月まで済南に勤めました。その後済南の銀行が全部北京、上海、天津の三つに分散するということになつたのですけれども、大体日本人天津行きの命令があつたのです。二十五年の一月に天津に出まして、それから二十五年六月まで働きました。働いているうちにいろいろ帰る問題などがあつたのですが、そんなことはてんで当てにしておりませんでしたが、六月に入りまして、今度は帰つてよいという省長の方から命令があつたので、それからあわててみな帰る準備をしたわけであります。簡單に言えばこんなもんですが……。
  14. 若林義孝

    若林委員長 それでお帰りになるときの手続その他についてひとつ……。
  15. 久保武藏

    久保参考人 その命令があつたのは六月二、三日ごろかと思うのです。それで船の心配から旅費全部を銀行側の方で持つてくれたのです。
  16. 若林義孝

    若林委員長 手続も全部銀行がやつてくれたのですね。
  17. 久保武藏

    久保参考人 旅費から全部向うでやつてくれました。
  18. 堤ツルヨ

    ○堤委員 旅費は現金でくれたのですか。
  19. 久保武藏

    久保参考人 いえ、向うからやつてくれたのです。
  20. 若林義孝

    若林委員長 乗船券は銀行で購入してくれたわけですね。
  21. 久保武藏

    久保参考人 そうです。あれは支那の政府側の船で大体帰つたわけです。天津より十三日に秦皇島に行きまして、奉皇島を十四日に出発しました。そして私たちが八幡についたのが十八日の午後一時です。そして一日遅れて十九日に八幡港で入国手続をしました。それを終り、門司では解散ができぬというので、二十一日に出発し、今度は東舞鶴の引揚援護局に参りました。
  22. 若林義孝

    若林委員長 ありがとうございました。  次に小島勝一君。
  23. 小島勝一

    小島参考人 こまかいことは松井さんからお話がありましたので省略いたします。私は昭和十五年に大阪の中山製鋼所から鉄鋼技師として奉天に参りました。約半年おつて、また天津の中山製鋼所の工場で働きました。昭和十八年山西省の大原の山西産業株式会社に嘱託として約一年、昭和十九年に再び天津の中山製鋼所にもどりまして、それからまた軍の命令で燃料工場をやりました。それから約一年半ばかりで終戰になりました。私は軍直営の軍管理工場をつくつたために、終戰後に戰犯であるというわけで逮捕されました、自分考えでは戰犯ではなく、いろいろありまして、二十年の十月ですが逮捕になりまして、三年有余を留置場生活をしまして、二十三年の暮れにとうとう留置所を出まして、昭和二十四年一月共産軍が入りまして、その後中国のいろいろな製鋼会に留用を命ぜられれたわけですが、三年半の監獄生活で、もう自分ではできないからとはつきり断わりまして、その後内地に帰るためにいろいろ方法をとつたのですが、どうも思わしくなく、マツカーサー司令部ヘアメリカ領事館を経まして二、三回電報を打つてもらいました。それでも何ら方法がないという返事がありまして、それでは自力で帰るほかはない、天津から帰りたい人だけが六名ばかりいろいろ方法をとりました。それで中国の貿易会社と手を打ちまして、その前に朝鮮経国で帰る方法もあつたので、朝鮮経由で帰つたらどうか、しかしその方法もなくなりまして、九月になつてパナマ船のモルトバ号という船がちようど入つた。その際にやつと中国人の商社に、当時金は天津で一両が五万円でありました。そのときに五両があれば帰れるので、二十五万の正金を積みまして、それで船会社からモルトバ号に交渉してもらつて、やつと乗つたのですが、領事館証明がないとだめだ――それは計画的に乗つたのですから、とにかく普通の方法では帰ることができなかつたのです。土曜日に天津を立ちました。これも強引に乗つたのですが、その際に船長はどうしても降りてくれ、乗つた以上おりることもできず、中国政府官からはインチキな方法許可をとりましたが、密航というふうなことですから日本入国許可というものがないのです。そこでアメリカ領事館にもう一ぺん電報を打つて、それでよいということになつたら乗せてやるということになつたが、その日は土曜日で、午後は領事館は休みで電報を受付けることができない。あくる日は日曜日で絶対受付けない。おりてくれ、おりないといういうことでいろいろ押し問答しましたが、最後に、それでは青島まで行く間には電報の返事が来るから、そうしたら一旦おりてくれ、来たらいつでもおりますということでおりる契約をしましたが、とうとうおりずに門司まで来てしまいました。強引に帰つて来たんです。普通ではあの際帰ることはできなかつた。門司に来まして、約四日間船に置かれましていろいろ調べがありまして、何とか上れたわけなんです。  天津に残つておる留用者というものは、現在ではわかりませんが、その際には帰国を希望する人はほとんどなかつたのであります。帰りたい人だけが帰つたんです。十五、六名でございますが、特に気の毒だと思つたのは中国軍隊に入つておる人です。それがわれわれの所に来まして、何とか方法がないかと言うから、日本に帰つたら、外務省にお話して何とか帰れる方法をとりましようということを言つたのであります。現在留用者として残つておる人は、金がなくて帰れない人もありますが、ほとんど帰国を希望していない人が多かつた軍隊関係とか役所関係で、むりに納まつておる若い人は、一日も早く帰ることを希望しておるが、留用者としてはどうでもいい人が多かつた軍隊関係とか役所関係でやむを得ず納まつておる人がもつとも気の毒です。ほんとうの留用者は中国においての技術屋ですが、日本に帰れば官吏のような人が多い。天津に十五、六名おつた思いますが、この中でほんとうの技術屋は四、五名しかおりません。あとはみなうその技術屋である。こまかいことは後ほど申し上げますが、簡單に帰る径路だけを申し上げました。
  24. 若林義孝

    若林委員長 今何をやつておりますか。
  25. 小島勝一

    小島参考人 帰つて来まして職がないために、現在は百姓の手伝いをしております。
  26. 若林義孝

    若林委員長 次は高戸英一君。
  27. 高戸英一

    高戸参考人 私は満洲に行きますまでは、鉄道省大臣官房研究所の橋梁課におりました。昭和八年十月に渡満しまして、満鉄の要請によつて、当時鉄道部におりました。それから大連を振出しに奉天に約三回、大石橋、四平、最後は牡丹江――最後のときは牡丹江鉄道局の保線係主任をしておりました。引揚げのときは八月十三日の大体最後の列車引揚げましたが、十九日に新京に着きました。翌日ソ連軍が入城しました。途中相当な雨が降りましたが、ハルピンあたりは割合静かでした。われわれ満鉄の者一行は鉄道局の者のみで家族とも含めて大体一箇列車おりましたが、一般の家族牡丹江の町の人は十二日ころまでにほとんど待避させました。あとから話を聞きましたところが、途中で暑さのために子供なんかが大分死んだということであります。それから新京に着いて、翌日ソ連軍が入つて参りましてから、さつそく命令を受けまして、それまで避難者が相当待避して構内をかなりきたなくしておりましたので、その掃事を命ぜられました。それから四平街から約六十キロ奥に三江江というところがありますが、月末になつてこの鉄道修理を命ぜられましたが、約二十日間で大きな橋を五つほど修理してソ連軍から感状をもらいました。当時それから約三百キロ奥の開拓団から、男女合せて七十名ほどの人が逃げて来まして、一応助けましたが、翌日ソ連軍に発見され、目の前で凌辱されるのを見てどうすることもできなかつた。われわれも何とかこれを保護しようとしたのでありますが、自動小銃で囲まれてわれわれは一歩も動くことができない、そういう場面がありました。幸いにその連中を新京まで連れて帰りまして、われわれも一応解散になつたが、家族を大連に置いておりましたから、大連に帰つて参りました。そして私は監察官という役目で大連のソ連軍の当局に再度留用されました。これは日本人を監察し、一切のサボタージユを監督するという役目ですが、もともと大連は私が四年間ほどおりましたところで、部下が相当おりますので、結局ソ連軍の役目にはならなくて、現場に行きますと、これを聞いてくれ、こういうわけだから助けてくれというようなわけで、かえつてこれを保護するような役になつてしまつた。しかし一応ソ連軍の命令が徹底しまして、非常にきつかつたので、わずかな事故ですぐ銃殺されるというようなこともあつたが、日支人がお互いにこれをカバーし、日本人がそういう事故を起しても、中国人がこれをカバーしたということもありました。そういうわけで、勤めが役に立たないからやめろということになり、それからしばらくは自分物資を売つてつておりました。二十一年の暮れから二十二年の四月までに実際の引揚げが開始になりまして、私は途中から三十七団かで帰る予定になりました。ところがまぎわになつて中共の方からとめられまして、全部解散、再度検査、もう一度履歴書を出せということになりました。しかし絶対に留用することをしないという話なものですから、前歴を書きましたところが、早速とつつかまりました。それからハルピン、山東省博山炭坑、ここに全部押えられて、どうしても逃げられない。当時家族が病気をしておりましたから、それをたてに帰りたかつたのでありますが、それも不可能で、家族を置いて二十二年の四月二十五日に山東省の烟台に上陸しまして、そこに約一月おりました。当時岡村将軍が北上中でありまして、とかく中共軍の勢いが悪くて、目的の博山炭鉱に入城することができない。そこで所々に一月ほど待機しておりましたが、とうとう力及ばず、八月に全面的に山東省放棄ということになつた。それで私たちの団はC団と言つておりまして――さつきの方はおそらくB団だろうと思いますが、B団とC団はほとんど夜行軍で一緒に四月二十五日に出たのであります。B団の方は渤海地区で、われわれは博山地区でありましたが、それから流れ流れて、よく言うところの邯鄲夢の枕の京漢線の邯鄲から約七十キロばかり奥の磁山というところに参りました。これは磁県から約四十里でありますから、日本里で十五、六里離れたところで、大きな鉄鉱山であります。昔日本軍の第一線がありまして、その鉱石をどんどん日本に運んでいた場所です。そこまで行きまして、われわれ要請された、家族とも含めて五十一名、この人たちも分配されまして、当時あの附近で八路軍でただ一つの軽便鉄道のチーナンというのですが、そこの鉄道局に勤めるようになりました。一時現場におりましたが、途中日本人みな協力して何とか帰ろうと、ずいぶん帰ることを要望て、われわれは大体半年しか要請されなかつたのだから、もう年が半年過ぎたのだから帰せということを要望しましたが、どうもなかなか帰れないというような状態で、その当時から、道さえあれば帰すのだということを幹部が言つておりましたが、あまり中共軍も優勢でないので道もありませんでした。その後次第に中共側の勢力がよくなりまして、それからまた邯鄲に交通部というものができました。それまでは工業庁というところが全体的に鉄道、工業等、ほとんど産業、交通は全部押えておりました。ところがそのときから工業庁が工業部になり、工業部と交通部にわかれまして、交通部の大体の持つておりましたものは、交通、通信、それから一部の経済的な銀行方面を押えておりました。それからその翌年になりますが、二十三年八月ごろになりますと、石家荘がその前に落ちまして、石家荘に全部移りました。移ると同時に太原攻撃の用意のために、道路関係の責任者になる命令を受けまして、太原が早急に陥落するという予定でもつて十月八日に太原に――向うの部と言いますと、こちらの省に該当するのですが、そこの副部長と一緒に受取りのために行つて待機しておりましたが、約四箇月待つておりましたが、とうとう入ることができません。それで早く帰つて来いという命令がありまして、帰つで来るとすぐ南京攻撃の用意だというので、翌年の一月終りごろから約二箇月、あの附近ずつと道路改修――三大幹線と言いますが、これの修繕を約二箇月ぐらいしておりました。それで北京に三月終りごろ着きまして、それからずつと今年の六月まで北京の交通部の本部におりました。大体それまでは家内から全然連絡がなかつたのですが、何回となく家族に連絡しましたところ、家族は一昨年の七月ごろに舞鶴に帰つて来たそうです。幸い病気もなおつて帰つて来て、それで別れるときに、所がわかつたら必ず、家庭が困るからぜひ帰してもらいたいというようなことを書いてよこせということを内諾させておいたので、その手紙が着きましたものですから、すぐ打つて行きまして、自分家族はこのように困つているのだから帰せということを、今年の一月早々に提案しました。ところが当時、おそらく今度の北鮮の問題が、もうすでにソ連の命令があつたものと思いますが、ソ連から中国全体の道路を改良せよ、大体三十トン以上の――戰車とは言いませんが、重量のものが通れる道路をつくれと言われて、そのとき大体最高幹部ばかり十二、三人集まりまして、私にどうかと言いますから、橋梁はおれが引受ける、しかし道路は、土のところをそんな重いものが通れるわけがないのだからやめろということでやめると、それでは満洲の方だけ整備しろ、そして私に行けということを言われましたが、私は帰りたいのだというのでとうとうそれをつつぱなしてしまつて、そしてようやく帰つてもいいという内諾を得たのが今年の三月ごろです。それで、お前は帰るのだつたらどういう方法で帰るのだ、日本に帰つたら早速共産党に協力したかどでとつつかまるのじやないか。おれは日本人だ、おれはむりに共産党に徴用されて残つているので、必ずしも共産党というわけではないのだ、日本に帰らなければ自分家族が困るので、自分共産党でもなければ無所属である、自分は党や思想に何ら関心を持つていないというようなことを言うと、大丈夫かと念を押されるから、いや、大丈夫じやなくても何でもかまわないから一応帰してくれと言うと、ルートはどうだという話がありまして、さつきもお話がありましたように、まだその当時は米国の許可がいるといううわさが盛んにありました。それで私の友だちが米国のクラブ領事と友だちでありましたから、その仲介において、クラブ領事に帰せと頼むと、うん帰そうというので、すぐ電報を打つてくれたのです。それは一月です。ところがなかなか許可はくれないし、そのうちにクラブ領事も帰つてしまつて連絡がつかなくなつたので、すぐ今度は英国大使に交渉したのです。その交渉しましたのが五月ごろでした。それまでに、向うの大学の教材にするからというので、橋梁の設計を頼まれまして、それが終つた帰つてもいいということでしたが、それが大体四月ごろ終りましたものですから、帰せということを言つたところが、準備しろということ言われまして、ぶらぶらしておりましたのです。ところが英国大使曰く、四月十二日に――クラブ領事が帰つたのは十日ですが、四月十三日付をもつて日本政府は、中共地区から帰つて来る者は一切許可を必要としないういう情報が入つておりましたから、帰つてもいいかと言うと、そうか、それではということで帰つて来ましたが、税関あたりへ行くと、お前何も届を持つていないじやないか、いやこういう話があるのだ、それじや外務省でもマツカーサーの方でも聞いてくれ、おれの名前はマツカーサーの方に入つておるはずだというとを言いまして帰つて来たのです。秦皇島からパナマ船に乗船したですが、中共の交通部の配下に招商局という所がございます。これは一切海運関係を持つておりまして、私たちの勤めていた直属の機関です。それに交渉いたしまして、無料で帰つて参りました。それで引揚げるときの退職金が約三箇月分で三百五十万円ばかりありました。もちろん向うの金でありまして、こちらの約三万五千円ぐらいに相当します。船は船長待遇で、同船の食堂にも行つて、一緒に食べて来ましたが、帰つて参りましたのは、六月十九日に神戸に上陸しました。現在はようやく就職しまして、本月初めに大阪の汽車製造株式会社に、橋梁設計技術者として今働いております。
  28. 若林義孝

    若林委員長 一応先ほどの予定の、個人として帰還されました参考人の御帰還までの様子を述べていただいたのですが、一応これにて約四十分間休憩をいたしまして、一時十五分から再開いたしまして、今度団体関係としての長岡浦野両君から御意見を伺い、なお項目を定めて細部にわたつて委員各位から御質疑を願うことにいたしたいと思います。  ではこれで休憩をいたします。     午後零時四十一分休憩      ――――◇―――――     午後一時四十四分開議
  29. 若林義孝

    若林委員長 休憩前に引続きまして会議を開きます。  まず満蒙同胞援護会の長岡参考人より留守家族側より見た中共地区引揚げについてのお話を願うことにいたしますが、同君は昭和二十一年末満洲より引揚げられて以来、財団法人満豪同胞援護会に職を持つておられまして、主として満蒙地区引揚げに力を盡された方であります。長岡敏夫君。
  30. 長岡敏夫

    長岡参考人 ただいま御紹介にあずかりました長岡でございます。私は終戰時満洲日日新聞の記者として牡丹江におりました。八月十八日まで現地にとどまりまして、当時東満地区日本人はほとんど引揚げたのでありますが、その最後を見届けるために私は残つたのであります。それからさらに、八月二十日にハルピンに出まして、先ほど松井参考人からお話がありましたのと同様に、八月末にソ連軍に逮捕されまして、いわゆる日本人狩りにひつかかりまして牡丹江に再び参りました。同年の十一月暮れに釈放されまして新京、奉天に参りました。その後奉天の日本人会に入りまして、中共地区残つたところの日本人引揚げ工作並びに引揚げ業務に当つておりまして、同年の暮れに留用を解除されまして帰つて参りました。それ以後、ただいま御紹介のありましたように満蒙援護会におりまして、帰らぬ中共地区の引揚者調査等の業務に従事しておるものであります。  次に私は中共地区引揚げの経緯、留用拉致状況、残留状況抑留拘留へ中国本土への移動、抑残留日本人の動向につきまして御説明したいと思います。  在満日本人引揚げは、南方その他の地域より約九箇月遅れまして、一九四六年五月、ソ連軍の満洲撤退とほとんど同時に行われたのであります。当時満洲は国民党共産党の両勢力下に二分されまして、しかもすでに国共内戰の様相を呈していたために、関係者の間でこれの引揚げについてはすこぶる憂慮されておつたのであります。国民党支配下のいわゆる南満地区日本人引揚げは、同年の四月二十三日錦州地区から開始されまして、奉天、新京と、比較的順調に行われたのでありますが、中共軍の支配下におりましたところの日本人引揚げは、まつたく見通しがつかなかつたのであります。しかし幸いなことには、米国軍のいわゆる軍調部の活躍と盡力によりまして、米国、国府、中共からなるところの三人小組、これは小委員会でありますが、これの協定が成立しまして、同年の八月二十日から引揚げが実施されることになつたことは皆様御承知の通りであります。当時の国府軍と中共軍の接触地帯は、おおむね新京の北部、いわゆるハルピンと新京の間の第二松花江、拉法、梅河口、本渓湖、大石橋を結んだ線でありまして、現地にあつて引揚げ業務途行の任に当りました人々は、中共地区引揚げ対象数を当時三十万と推定しておつたのでありますが、この数字は中共地区への潜入調査、これは非常に困難な状況にありましたけれども、潜入いたしまして、同地区の主要都市から、また日本人会の幹部の方が困難なる脱出行を遂げられまして報告されたものを集めたものであります。しかしこの中には降服を忌避しまして、いわゆる遁残部豫となつた人たち、または開戰当時国境地帯におりまして、避難途中に原住民部落等に残留を余儀なくされましたところの婦女子は含まれておらないことは申すまでもありません。しかし実際にこのときに中共軍から国府側に引渡されましたところの数は、同年八月から十月までに二十三万六千七百五十九名であります。これを地区別にわけますと、チチハルが四万一千四百六十六名、ハルピンが九万八午五百八十七名、牡丹江が五千七十九名、通化が一万四千八百三十名、京図線沿線が三万七千二百六十六名、安琴線沿線が三万二千九百五十九名、大石橋以南が六千五百七十二名、総計二十三万六午七百五十九名であります。この引渡しにあたりまして、中共側はこれをもつて地区日本人引揚げは完了ということが声明されたのであります。しかし当時多数の日本人が引渡されなかつたことは事実でありまして、中共地区に残された日本人は各地方に各種徴用者、あるいは戰犯容疑者として、あるいは引揚げのことは一般に知らされず、また引揚げ列車に間に合わなくて、残された者が相当あつたことは事実であります。にもかかわらず、この引揚げ以後は竹のカーテンが固くとざされまして、今日の悲劇を生んでいるのであります。一九四七年には国府地区留用者及び家族並びに事故残留者約三万名が引揚げましたが、中共地区からは行われず、一九四八年の七月証北鮮地区引揚げが実施された際、延吉、図門におりました日本人が約三百七十名、これがこの北鮮の引揚げに便乗いたしまして引揚げて参つております。次いで一九四九年、昨年の九月でありますが、大連からソ連側のあつせんによりまして二千八百六十一名が引揚げたのみであります。そのほかに計画引揚げというようなことではなくて、個人引揚げの形で全中国から帰国されました者の数は、四九年の秋以来約三百名を数えるのみであります。中共地区引揚げははたして困難であつただろうか、私たちいろいろ考えてますと、今日においては国際情勢その他の関係で非常に複雑だと思いますが、必ずしも当時といたしましては不可能なことではなかつた思います。一例をあげますれば、国府地区におきまして一九四八年六月と申しますと、当時国共内戰の非常に激しい時代でありました。新京も陥落し、奉天はいよいよ陥落寸前にあつたのでありますが、この中共軍の完全包囲下にありましたところの審陽の人々は、大型輸送機によりまして奉天・錦州間の空輸を断行したのであります。これは第一次は六月の四日から七日までに行われました。第二次は八月七日から九日まで行われまして、延べ大十八機で三千三百二十名の日本人を陷落寸前に救出して日本に無事送り帰しておるのであります。  なぜこのように中共地区日本人が多数残留を余儀なくせしめられているか。この答えはきわめて明白であります。すなわち中共軍終戰後満洲に進駐以来、全満各地において日本人技術者の徴用が全面的に行われたためであります。最も合法的な徴用は、当時各地につくられていました日本人会を通じて行われたものであります。新京では一九四六年の四月、同じく五月に約五百名の医師、看護婦が日本人民会を通じまして徴用されております。四月二十五日、当時の吉江軍区の外交部長であります長蓼一帆氏並びに衛生部長林士笑氏、続いて五月二十二日には人民自治軍総衛生部長賀淺氏との間に議定書が正式に手交されまして、日本人医師、看護婦三百九十八名が徴用されたのであります。この議定書には徴用期間は三箇月と規定され、また期間中といえども内地帰還はこれを妨げざることという項目がはつきりうたわれているのであります。しかるにこの約束は遂に守られずに今日に至つている現況であります。このように比較的合法的に徴用されましたところのものは四五年八月から四六年九月までに錦州において三百数十名、北安において百名とか、また安東、牡丹江佳木斯チチハルハルピン等には十六歳以上三十四、五歳までの婦女子が多数徴用されたのであります。これらは比較的合法的に行われた例であります。鞍山、本渓湖、安東におきましては多数の婦女子が拉致連行され、また四六年の九月の中共地区引揚時におきましては、不法にも引揚げ列車から帰女子が拉致連行されておるのであります。この人たちの多くは未婚あるいは夫をソ連領内に連行されました婦人たちであります。徴用者は右のような医療関係者のみではなく、広範囲技術者は徴用されておるのであります。その他残留者引揚げ時期の不徹底、あるいは残留者自体が僻村地区にいたために、引揚げの期日を知らずに引揚げ列車に乗り遅れた者などで、中には一般邦人を帰すと、徴用した者に動揺を来すといつてとめられた例も枚挙にいとまないのであります。  以上のごとくまだ抑残留の苦しみの中にあるほとんどの日本人は、本人の意思によらず、抑残留を余義なくせられておるのであります。  中共地区には一体何万人の日本人が残留しているか、この問題につきましては、いろいろな方面で論議されおるのでありますが、中共側からの正式発表は今日ありませんで、日本側が満洲地区終戰時の引揚げ対策基本数を百十万五千八百三十七名とし、正式引、揚者百四万五千五百二十五名、これを引きましたところの六万三百十二名と推定しているのでありますが、引傷者の報告並びにわれわれ現地において調査作成した資料によりますと、十万以上と推定されます。また中共地区で発行されておりますところの民主新聞は、一九四八年に残留日本人を十二万と発表したと報告する者も出ております。従いまして六万をはるかに上まわるものと推定できるのであります。一九四九年の九月に引揚げて来られました人々からの報告によりますと、満洲地区に約四万五千名と言われております。これは項目別、地区別に申し上げると時間がかかりますので、省略さしていただきます。この数字はいずれも四九年の九月の引揚者がそれぞれの在留地で確認して持ち帰つた数字であります。未確認の数字を入れるときには、あるいは南方に移動した人々の数を入れれば、六万をはるかに越えることは想像にかたくないのであります。大体これらの抑残留者の区別を大別しますと、戰闘員、医務関係者あるいは担架隊要員、軍需工場関係技術者、軍夫として中共軍に留用されておりますところのいわゆる参軍者、それと技術関係者、技能者、医務関係者、労務者として政府機関または官公営の事業に留用されている者、いわゆる政府及び機関留用者、それから降伏を忌避しまして現存しておりますところの元日本軍及び避難途中落伍しました帰人並びに子供等、その他難民と大別することができると思います。留用者に対する待遇は、一部高級技術者を除きましては中国人と同様でありまして、初期におきましては、生活上あるいは待遇上の不満から種々の問題があつたことは、皆様すでに御承知の通りだと思います。しかし順次環境になれまして、また思想教育の徹底等によりまして、最近に至りまして待遇上の不満は一掃されたやうに承つております。また最低生活は保障されているのは事実であります。ただ問題は留用者以外の者の生活でありまして、これらの人々は想像以上の悲惨な生活をしていることは、いろいろ報告れましたところによると事実らしうございます。またこれは現地からの通信等によりましても、この点は察知でき得るのであります。  次に中共地区の残留日本人引揚げ問題に対しまして、当時日本人の民主主義者の占める地位はきわめて重大でありまして、引揚げかいなかのかぎを握ると言うても過言ではないことは、既引揚者の証言並びに現地からの情報によつて明らかなことであります。これら主義者たちは、長年延安におきまして、あるいは終戰後安東その他におきまして教育を受けた人々でありまして、終戰後長春において日本人民主主義者グループが集まりまして、在満日本人対策の基本方針が決定されたのであります。そのとき決定しましたことは、日本人を一人でも多く満洲にとどまらせることであり、その理由としては、日本を過剰口人から救うこと、世界情勢から判断して、早晩予想されるアメリカ反動化の桎梏から日本を救うためには、後方根拠地として満洲に日本共産主義者の存在が必要なこと等があげられまして、着々工作を進めていたのでありますが、一九四六年の二月ころ日本から放送されましたニュースによりまして、日本共産党が満洲の日本人引揚げ促進運動を起していると伝えて来たのであります。これが非常に衝動を與えた模様でありますが、しかし一九四六年四月、中共軍が長春に入城するや、同グループは日本人に告ぐる書を発表し、約十項目のスローガンを掲げ、その態度を明らかにしたのであります。そのうちには遺家族の即時送還、労働権の確立、労働に基く財産所有権の確立等々が掲げられまして、さきに決定しました日本人残留に対する対策は改変されなくて、遺家族を除く日本人の残留要望の思想を明らかにしたのであります。この対策は後に中共側にも正式に認められまして、その後の中共当局の残留日本人に対するところの態度も、もつぱらこの線に沿つて示されました。中国革命は日本革命の前提である。中国革命が成就しない以前に日本帰つても意味はない。中共の方針に反対でなければ、とどまつて協力せよと説示されたのであります。この意図を受けて日本人主義者が残留工作を行つたのでありますが、主義者の乱立は素質の低下を来し、ともすれば強権のもとに工作が進められ、本人の希望の有無を問わず残留せしめるという結果となりまして、今日なお数万の日本人が望郷の鬼となつて、幾十万の留守家族をして血涙もて引揚げ促進を叫ばしめている一大原因となつたのであります。混沌たる当時の事情よりいたしましては、今日の悲劇を察知することはできなかつた思いまするが、その責任がないとはだれもが言い得ないでありましよう。これら主義者たちは、一九四六年の引揚げ以後はもつぱら残留日本人思想教育に重点が置かれました。それを唯一の任務としてはげしい教育行つて、帰国希望者を反動呼ばわりいたしまして、今日なお抑留工作に狂奔し続けている事実はおおうべくもありません。  次に中国本土への日本人の移動であります。一九四九年の秋、中共軍は全満洲を解放しましたが、これと同時に林彪将軍を総司令とするところの東北人民解放軍は、新たに第四野戰軍を編成しまして、中国本土へ進出して行つたのであります。この第四野戰軍には多数の日本人が参軍しておりまして、遠く揚子江以南、広東、雷州半島に、また海南島攻略職に参戰したことは、従軍者からの通信並びに引揚者の報告によつても明らかにすることができるのであります。また経験後復興建設に従事するために、満洲及び大連から多数の日本人技術者が移動しまして、さらに帰国の機会を得るために華北、華南方面に脱出したものもあつたように聞いております。以上のような状況から推しまして、満洲から中国本土へ移動しました日本人は、大体二万ないし三万とわれわれは推定しおるのであります。さらに国府時代から中国本土に残留していましたものは約五千名と私たちは見ております。ただ軍事行動の移動に伴いまして常に移動しておりますので、その数字は過渡的な推定数と見なすべきが妥当ではないかと私たちは見ておるのであります。  次に最近におきます抑残留日本人の動向について申し述べます。引揚げ問題については昨年一九四九年の秋、満洲から引揚げた人たちの報告によりますると、大体次のような状況を判断することができると思います。引揚げは困難であり、日本人自体で引揚げ中共に嘆願し、あるいは促進運動をするがごときはとうてい許されない。奥地では今もなお日本はだめだから帰らない方がよい。帰つても仕方がない等の観測が行われました。帰国希望者は反動の烙印が押されまして、はなはだしきは投獄されたり、あるいは炭鉱その他で強制労働に就役せしめられています。日本の放送の尋ね人の時間や、引揚げ問題に関する時間はラジオにかじりつくようにして、泣きながら聞いている。中国人の妻妾になつている者や、孤児等は中国社会の中に深く食い込んでいまして、普通の方法では救出はきわめて困難であるというような結論を得たのであります。  その後未帰還者の通信及び中国本土から帰られましたところの人々の報告を総合しますと、満洲地区は今春以来の通信によりますと、引揚げが近く行われるということが、半信半疑のうちにも相当強く金満的に問題になつていることが察知できるのであります。文面によりますと、舞鶴には満洲の日本人引揚げのために二十数隻の船が待機しているとのことだが、これはほんとうなのかどうかと尋ねて来ております。また配船が決定したらくれぐれも、繰返し繰返し放送していただきたいと要望しまして、ことしの秋には帰れるのだと日本にいる家族たちに書き送つて来ております。また去る九月に奉天の某知名日本人からの通信連絡によりますると、本年八月六日の日本人組長会の席上におきまして、井上林氏が中共政府におきましても今回日本人を全面的に帰すことになつたから、二十日までに五箇年間の学習の総仕上げをするようにと言つたと伝えております。この井上氏はもちろん主義者でありまして、在瀋陽日本人の指導的立場にある人であり、現在は日本人会の会長をしております関係上、相当センセーシヨンを巻き起したのであります。また中国本土地区におきましては、華北、華中、華南を通じまして、中共機関から正式留用解除になつた者が相当おりまして、病気等を理由に帰国を嘆願し、帰国許可になつた者もあります。中国本土について見ますと、病弱者、比較的重要でないと見られる技術者、その他中共当局が必要としない日本人に対しては、あえて帰国を妨害しないようであります。現に天津、上海、香港等には相当数の帰国希望者が待機している模様でありますが、帰国船賃の五十ドルないし百ドルの調達不能のために帰れないでいる実情であります。また旅費が調達できても、出境証明書の下付とか、あるいは入国許可書――入国許可書につきましては、山東地区では要求しているようであります。乗船許可書等、種々の條件が具備されないと帰国ができないのであります。ただ正式留用解除者の場合には、このような一切の手続は中共、いわゆる留用機関において旅費あるいは手続等も行われまして旅費等も十二分に支給されているやに聞いております。また引揚げ問題については、去る八月北京から引揚げた日本の軍人の語るところによりますると、同人が身を寄せていましたところの北京軍事委員会衛生本部長に帰る国の方法について便宜方を懇請したところが、快く引受けまして、政治部長に便船の調査を依頼してくれた事実があります。そのときこの政治部長が、近く引揚船が出るはずであるから、それを利用してはどうか、今帰ることは途中も危險であり、無事日本に帰国することは保障できない、これから引揚げについては、本人の希望するところとあれば、全員帰すであろうと回答したということであります。以上のごとく満洲、中国本土を問わず、すでに中共側において不要と認めた者、及び当初から中共側の負担となつていた老幼あるいは病弱、婦女子らは何らかの方法で送還しようとする意図があることをうかがい知ることができるのであります。  また満洲からの引揚げは現在までは絶無の状態でありますが、中国本土からは現に昨年十月以降約三百名に上る日本人が外国船を利用しまして、あるいは中共側であつせんしましたところの密航船によりまして、引揚げている、のであります。問題は計画引揚げが行われるかどうかという問題で、この問題については今春以来引揚げの問題が現地において種々論議され、四月あるいは九月引揚説が流布されているのでありますが、遂に実現を見ない状況で、また諸般の情勢からして即断はでき得ないのではないかと私は考えておるのであります。以上私の説明は終ります。
  31. 若林義孝

    若林委員長 次に大体同じような方向で、長岡敏夫君の不足をも加えていただきまして、浦野正孝君にお願いいたします。同君は中共地区邦人引揚対策審議会の事務局長をやつておられまして、現在在外同胞帰還促進全国協議会の副委員長に就任せられておるのであります。浦野正孝君。
  32. 浦野正孝

    浦野参考人 私、浦野でございます。ただいま一般状況につきまして長岡氏から御説明申し上げましたことに対して、私として補足することはできません。留守家族団体側から参考人としてお招きをいただきましたので、申し上げたいことはございますが、これは次の方の細部にわたる質問に全参考人の補足発言ということがございますので、そこで随所に発言さしていただきたいと思います。なお参考人への希望意見もございましたので、今の長岡君の一般状況説明に加えるところはございません。
  33. 若林義孝

    若林委員長 一応今まで参考人各位から実情を承つたのでありますが、これからひとつ部分的に項目をきめまして、もう一度伺つてみたいと思うのであります。  第一、この引揚げに関しまする問題として、在留同胞の数が重要なる問題になると考えるのですが、先ほどの長門君の話では六万以上ということが出ておるのであります。なお松井君の証言の中にもいろいろ部分的に人数が出ておりました。それを総合すると一体とうなるかということを、参考人各位から御意見を伺つてみたいと思うのでのります。松井君は総合してどのくらいとお考えになつておりますか。
  34. 松井茂雄

    松井参考人 大体先ほども説明申し工げたように、二十三年のソ連側からり逆送が約四万、さらに老爺嶺山脈の一個師団、これが大体一万五千くらいと推定されるのでありますが、そのほか各都市等に推定される数は五万くらいだと思います。合計しまして、私としては十四、五万はおると思つております。
  35. 若林義孝

    若林委員長 久保君はあなたの御経験からどうお考えになりますか。正確でなくてもよろしいのですが……。
  36. 久保武藏

    久保参考人 まあ十万と思つております。
  37. 若林義孝

    若林委員長 小島君はどうお考えですか。
  38. 小島勝一

    小島参考人 私はこまかい数字はわかりません。
  39. 若林義孝

    若林委員長 およそでよろしいですか。
  40. 小島勝一

    小島参考人 それも全土にわたつてはわかりません。天津だけですから、こまかい方面は歩きませんので……。
  41. 若林義孝

    若林委員長 高戸君はどのくらいにお考えですか。
  42. 高戸英一

    高戸参考人 私もはつきりしたことはわかりませんが、当時在支中のいろいろなうわさを総合しまして、大体六万前後といううわさが上つておりましたが、私もそれくらいだろうと感じております。
  43. 若林義孝

    若林委員長 大体数について参考人各位から御意見が出たのでありますが、数を根拠にいたしましての委員各位からの御質疑がありましたならば、なさつていただきたいと思います。
  44. 受田新吉

    ○受田委員 今長岡さんから、中共地区に大体十二、三万だろうというお話がありましたし、なお松井さんや久保きんからも御意見か出たのですか、その根拠はどういうところにあるか。特に長岡さんの場合に、いろいろな情勢でそれくらいあるという御判断であるようですが、ぜひその御判断の根拠をお話願いたいと思います。
  45. 長岡敏夫

    長岡参考人 先ほど申しました残留者の四万五千の根拠でありますが、この四万五千は、実は一九四九年、昨年の九月に引揚げられた人の確認報告書を私の方でとりまとめたのであります。それと同時に、従来私の方で、現地、たとえば奉天におりました節、あるいはその後引揚げて来ました人たちの情報等を総合しますと、大体この四万五千の線というものは確認できる、こういう判断をしておるのであります。それでこれは地域別にもわかつておりますけれども、おおまかなところを申し上げますと、大体播陽地区に八千名、これは鞍山、撫順、興京、柳河、西安等を含みます。それから通化地区が約千六百名、これは輯安、二道溝、木栗子等を含みます。それから間島地区が約千三百名、牡丹江地区が約千九百名、東安地区が約二千八百名、三河地区が約三千名ないし四千七百名、龍江地区が約午六百名、浜江地区が約三千五百名、錦州地区が約二百七十名、熱河地区が約四百名、安東地区が約三千名、黒河地区が五十名、吉林地区が三千名、興安地区が千六百名、北安地区が千名、族順、大連地区が約千二百名、こういうことになつております。この数字は確認されたもののみでありまして、先ほど松井さんでしたか、お話になりました遁残の数とか、先ほどちよつと申しました中国人のところにすつかり同化されてしまつた人たちの数というものは入つておりません。
  46. 受田新吉

    ○受田委員 最近通信がきくようになつているようですが、その通信は大部分の者に届いているような情執であるように、私自身も資料を見て思うのですが、通信によつて確認された数がどのくらいありますか。実際に向うから手紙が来たという確実な便りが参つた数ですね。
  47. 長岡敏夫

    長岡参考人 向うから手紙が来た数は延べ一万四、五千に上つております。しかしこの手紙というものは、向うに何人残つておるかという推定、あるいは調査資料にはならないようであります。たとえば早い話が、奉天にはどのくらい日本人があるかとか、あるいは、ハルピンには現在どのくらいの日本人がおるかというようなことは、向うから報告しておりません。従いまして通信による調査では、現在の残留調査というものは困難かと思います。
  48. 受田新吉

    ○受田委員 それから十二、三万という数字の根拠は、どこからそういうふうに判断をされたか、お伺いをしたいと思います。
  49. 浦野正孝

    浦野参考人 留守家族団体から、私どもとしての推定数を簡單に申し上げます。今長岡君の言われましたのと決して違わないのでありますが、中共地区はなぜわからないかと申しますと、先ほど来の御説明で大体おわかりだと存じますが、非常にはつきりしております部分と、まつたくあてどのない部分がありますために、いつも確実なある数にプラス、アルフアーという形になるが、そのアルフアーを幾らと見るかによりまして非常に違つて来るわけであります。私どもで大体十二、三万と見ておるのでありますが、その概略を申し上げますと、まず区別いたしまして、いわゆる旧満洲、それから中国本土にわけます。満洲におきましては、いわめる一般の市民が約二方八千ぐらいと考えておりますが、これはほぼ確実と考えております。これは昨年の九月に引揚げられた方々の報告によりまして、個人の氏名までほぼ判明しておる分であります。  それからその次は軍政府の留用せられておる人たちであります。この間のことを申し上げますと、たとえばハルピンにおきまして、ハルピンの民会に日本人の方たちがたくさんおりまして、その方々の名前は登録されておるのでありますが、同じハルピンの中に軍留用の機関があります。たとえば病院があつてお医者さんがおる、看護婦さんがおるが、一般市民は病院の内部の事情については全然知りません。その内部には相当数の日本人がおるというようなことは外部で知つておりますが、同名おるのか、どういうことをしているのか、品も聞かせないという隔離状況でありますから、この部分については、外部から見た推定しかつかないのでありまして、多少人によつて幅が出るのでありますが、この幅の小さい方をとると一万八千、幅の大きい方をとると二方二千となります。これは全部満洲の分でありますが、まず一般市民三万二千くらいがほぼ確実であります。軍政府に留用されておる人が二万千から二万二千くらい確実になつております。  それからその次に、先ほど問題になりました私どもの方で遁竄とか潜在とか言つておりますが、よく伝えられます終戰当時山の中に逃げ込んだ軍人さんたち、あるいは大興安嶺にいるとか、るいは長白山脈にいるとかいう人人、それからもう一つ先ほどお話に出ました、中国人と抽象的に申しますと結婚という言葉になるのでありますが、いわゆる奥さんであるとか、あるいはめかけであるとかいつ、いろいろな形でもぐつてしまつた御婦人とか、親御さんと離れた孤児、こういうような人々は、これは全満至る所におるのでありまして、どの引揚者をつかまえて聞きましても、金満どの部落に行つても、日本人の御婦人のいないところはないということは、これは全部が一致するのであります。それでは全満で一体どれくらいいるかというと、どの引揚者の方も明確なお答えをお出しにならない。とにかくそれはわからない、わからないのでありますが、終戰当時の状況その他からいたしまして、推定をするほかはないのであります。しかしそれはまだしもいいのでありますが、山に入つておる方のはなはだしい例を申し上げますと、大体におきまして少く言う人は、残つてつても最低五千程度ではなかろうかということは全部が認めております。山には日本の軍人が相当逃げ込んでおるということをみんな認めておりますが、数につきましては少く言う人は一万五千人くらいであります。ところが驚くべきことは、多くいると言う人の中には、私が現に会つた人でありますが、大興安嶺地区には七十万の日本軍隊がいるというのであります。これはずいぶん多うございますねと言うと非常に怒りまして、あれは真劍になつてこれを調べて来た、何を根拠におれの言うことを否定するかと食つてかかられるという状況で、五千人と七十万とはめちやくちやであります。ことほどさようにこれはわからない。おそらく中共政府においてもわからないだろうと思います。私もこれだけはつつ込まれても言えるのじやないかという線は最低二万、最高三万という線であります。従いまして非常に不確実であります。  以上申し上げましたのは、いわゆる満洲を動いていない人の状態でありまして、満洲以外の中国の内職に利用されておる人でありますが、これは最も多いのは、長岡君が言われました林彪将軍指揮する第四野戰軍であります。ほとんど大部分はこれに入つておると思いますが、この第四野職軍に約三万くらい入つているのではないかと思われます。中共には林彪軍麾下以外の部隊がたくさんあります。その中に日本人はいないかという問題でありますが、これにつきましてはいろいろな話を聞きますけれども、あまり確認はできないのであります。それこれいたしまして三万五千から四万ではなかろうか、これもあまり確実ではございません。ほぼ確実程度でございます。  それから最後に、きようお見えになつておる参考人の方には、そのグループに属されておる方もおいでになると思いますが、決してもとから中共地区に残つているのではなくして、いわゆる国府軍地区と申しますか、中国本土にいたために、今では中共地区抑留者といいますか、残留者といいますか、その中に入つた形であります。これはさらに推定困難でありますが、五千ないし一万くらいではないか、かように考えております。それを総計いたしますと十二万ないし十三万という数字が出るわけであります。松井さんがけさほど御証言なさいました二十三年の三月、ソビエトから四万の日本人を送り込んだ事実があると言われましたことは、私ども初耳でありまして、この十二万には入つていないということをあわせて御了承いただきたいと思います。  なおその後におきましても――その後と申しましても、本年の四月二十二日のタス通信が発表しました、もういないと申しました以後でありますが、ソビエトから中共に送り込んだとか、送り込んでいるとかいう風評をちよちよい耳にいたしますけれども、確実な、まさに間違いないという程度のものはいまだ耳にいたしておりません。以上私どもの立場から見ましたのを御説明申し上げました。  それから手紙の件でございますが、私ども日本人留守家族に手をまわして、一体手紙は何通来ているかということを調べましたが、私どもの方で今わかつておりますのは、本人から手紙が来て確かに間違いないという数は一万一千になるかならないかという程度であります。
  50. 受田新吉

    ○受田委員 最近帰られて本日御証人に来られた皆さんの御意見は、大体各地区の部分的な情勢判断で、全体の動きについての情勢判断には非常に縁遠いように思うのでありますが、今長岡さんや高戸さんの御意見は、なお詳細な調査した結果を証言しておられるようであります。私はもう一つ留守家族が不安を抱いておる問題で、先ほどソ連地区から四万入つたという話もあるということでありましたが、きのうの新聞には、中共筋の確実な報道によれば、ソ連にいる日本の捕虜が約十万満鮮国境の方へ進出しているということも載つてつたようであります。こういう点で全満にわたつて相当捕虜の移動が行われておるのじやないか。それからこの間千葉の留守業務部へ視察に参つたときも、例の満洲部隊のその後の状況も、よほど調査困難なことを漏らしておられたし、事実いろいろな統計も私ここへいただいて来ております。こういうところから確実な数字というものは非常にむずかしいであろうが、おおまかな立場から全満にわたる捕虜の移動、それから先ほど来いろいろとお話がありましたその捕虜の固まつている、われわれの同胞の固まつている地域というものはおよそ見当がつくのじやないかと思うのです。それで今の浦野さんの御意見は非常に参考になつたのでありますが、他の方々で、集団的に部隊もしくはそこにたむろして農業その他をやつておるとかいうような情勢を、個々の立場から、地区的な立場から見られた何らか大きな資料をお持ちの方はないでしようか、それをお伺いしたいのですが、どなたでもけつこうであります。そこにはこのくらいおるというような、今松井さんが十二、三万だとおつしやつたあの根拠はどういうところから出されたのでしようか。
  51. 松井茂雄

    松井参考人 ただいま申し上げたように逆送された軍人、これが黒河を経まして、一部逃走して、ぼくらの政府の中に入つて来た者があるのであります。その人らに聞いた数でありますから、四万というのは、これはその本人から直接聞いておつて承知したような次第であります。  それから老爺嶺に入つておる一箇師団というものは、中共側でもおるということは認めておるのでありますが、これは間島方面から、昭和二十三年の夏だと思いますが、日本人で帰順工作に八路軍の指令に基いて入つた。入つたのでありますが、これに応じなかつたという実例も第三者を通じて私は聞いております。私はこちらに帰りましてからも、第四野戰軍の総司令部には斎藤弥平太中将という方がおると言つておりますが、それも第四野戰軍の司令部関係なんかに聞いて知つておる。日本人の留用者なんかもおりまして、いろいろ聞いておりますが、そうした将官級の方にお会いしたことは一回もないのであります。おそらくこちらの方では、ソ連政府の方の調査を行つた際に、そうした人がおらない結果、斎藤という人の名前が出ているのではないかと思うのでありますが、おそらくぼくの推定としては、その老爺嶺の山に入つているのではないかと思われます。また一説には第四野戰軍の総司令部内で列んでおるということも言つておりますが、これは先方の風説なんであります。そのほかぼくらの部隊で行動を共にしておりましたのは、衛生部隊、天津解放のときに私は参加いたしましたが、その際に高射砲部隊で確認した数字は約百人程度のものでありますし、また衛生部隊等においても、病人を担架で運搬しておりますが、その際に百名ないし二百名の者が見受けられました。またぼくらが行動をともにしておる中には被服廠あるいは軍械廠等の者がおりましたが、これらの徴用者は全般的に計算して見まして、二万ないし三万おるということを推定しております。そのほか太原作戰で閻錫山の部隊に入つておりました軍隊が捕虜收容所に八百名入つておるというのは、これは間違いのない数字であります。後に天津軍械廠の方に比較的思想のいいと称する者が五十名ばかり来まして、軍械廠で働いておりますが、これらの人間に聞いた数字によつて八百名は捕虜收容所におるということがわかつております。そのほか技術者、病院の医師、看護婦等もまた大分おつた。私の聞いたのはそのほかに千名くらいおると言つておりますが、いろいろその数字の差も出ておるようであります。それからぼくらと行動した以外に、一般の残留希望者で残つておる日本人もまだ相当数おります。これは私が昭和二十三年三月から十二月ごろにかけまして、ハルピンを何回となく往復したのですが、途中のチチハルハルピン等におきまして、大体チチハルに二千名程度おるし、ハルピンにも二千名程度おるということを確認したような次第であります。以上であります。
  52. 受田新吉

    ○受田委員 私特に数字の問題で心配しておるのは、ソ連地区残留者の数でありますが、ソ連そのものが政府機関紙と称するタス通信で残留者なしと発表した今日、ソ連地区に残存された者が、あとになつて実はあつたのだがというわけに行かない立場にあろうと思いますので、それが漸次満洲へ移動されるということも考えられるのであります。そういう場合に、先ほど新聞に出ていた十万の数などが考えられるのでありまして、松井さんの言われたような四万の移動とか、最近のそうした新聞記事の十万の移動とかいうものをずつと考えると、何だかソ連の方から満州の方へ相当数のわれわれの同胞が入つておるような感じが濃厚なのです。こういう点について最近に帰られました長岡さん、浦野さんがいろいろと調査された生々しい何らかの資料はないでしようか。ちよつとお伺いしたいのですが……。
  53. 長岡敏夫

    長岡参考人 ソ連地区からの逆送の問題につきましては、先ほど松井さんから四万というお話があつた。これは二十三年の三月逆送されたということを証言されましたが、私の方ではこの点につきましては、実は黒河方面を通じ逆送された事実は、二十一年の春約二梯団で二千名ないし三千名くらいソ連から明らかに入つたという証言も私の方ではとつております。その四万については私の方では現在のところ握つておりません、と同時に二十三年三月に入つて、先ほど鶴岡炭鉱の方に行かれたという証言をしておられます。実は昨年九月に鶴岡炭鉱から帰りました人がおりますが、自分も実はそのときに舞鶴にも行き、またこちらに帰つて参りましていろいろ調査したのですが、鶴岡にはそういう気配の人がいない。約千名ばかりの人が鶴岡炭鉱にいましたけれども、これはほかのルート、つまり国内から移動されたものであると私どもでは調査いたしております。その点私は疑義があるのであります。それからこの間タス通信から発表になりました千幾人かの戰犯者を帰すということにつきましては、私の方も非常に関係があるのでありますから、重大関心を持つて調査に当りました。現に満洲地区方面から潜入しまして帰つて来た人々、中国の方なのですが、その方からの報告によりましても、そういう気配はうかがうことはできません。
  54. 若林義孝

    若林委員長 なお数についての御質疑がありますか。
  55. 上村進

    上村委員 松井さんにちよつとお尋ねしたいのですが、四万がソ連から逆送されたというその確認の方法はどういうことでありますか。
  56. 松井茂雄

    松井参考人 それはぼくらが翼熱遼軍区という管区に入つておりました。後に軍政管理委員会とかわりましたが、これに行動を一緒にした人がたまたまソ連から逆送された一員であつたのであります。その人間から聞いたのであります。
  57. 上村進

    上村委員 よろしゆうございます。ちよつと浦野さんにお尋ねしたいのですが、あなたの御説明の中に満洲から中共へもぐつておる婦人、これの推定の御説明がなかつたのですが、これは推定も分らぬのですか。
  58. 浦野正孝

    浦野参考人 先ほど申し上げましたように、確実な数はわかりません。私が見て約一万、実際は少し切れていると思います。切れていると思いますが、ざつと一万くらいだ、そのように考えております。
  59. 上村進

    上村委員 それは推定ですね。
  60. 浦野正孝

    浦野参考人 そうです。
  61. 玉置信一

    玉置(信)委員 松井さんにちよつとお伺いいたします。それはたしか第六国会でしたか、第七国会でしたかに、参考人として委員会に出ていただいた、かつてハルピン地区で看護婦をしたある人の証言でありましたが、その人の話によりますと、まだ看護婦だけでも二百名くらい残つておる。それがどこに行つておるかわからないということを実はお聞きしたのです。先刻も松井参考人の証言によりますと、第八路軍に看護婦が相当おるというようなお話でしたが、この看護婦はハルピン方面から移動して来たのではないかどうか、こういうような点についてあなたは聞き込みがなかつたでしようか。この点お伺いいたします。
  62. 松井茂雄

    松井参考人 それはございます。落陽の解放の前にあたりまして、向うに移動した衛生部隊とぼくは直接ぶつかりましたが、この部隊には日本の看護婦さんはみんな徒歩で、瀋陽からさらに南下作戰で天津北京方面に分散されて移動されておりました。それは昭和二十三年の話でありますが、二十二年のころに至つては臨清地区にも約五十名近くの看護婦がおりまして、だんだん分散されておるような形で、その後天津にもおりました。天津の第四野戰軍の麾下にある看護婦さんには、戰車隊関係でもお会いしましたし、総司令部直轄の看護婦さん等にもお会いしております。数字的においてはほとんどはつきりしたことはわからない。漢口にも参りましたし、広東の方にも移動して行きますから、現在どこにどうしておるという確実なことははつきり言えない。但しおることは間違いないのであります。
  63. 玉置信一

    玉置(信)委員 重ねて伺いますが、その分散されておるようであるという看護婦の諸君は、やはり中共軍の野戰病院に勤務しておるのでありましようか。
  64. 松井茂雄

    松井参考人 もちろんそうであります。
  65. 高戸英一

    高戸参考人 今までのうちに入つて一おりませんので、私の知つておるものを、ごく少数でありますが申し上げます。私実際見ましたのは、昨年の七月ごろ太原戰争の余波の前に、やはり太原の守備隊の一部、約三百名――実数は二百七十三名だつたかと思いますが、捕虜になつて帰す予定で北京に来た。私は北京に会いに行きましてお目にかかつたのですが、その後日本に帰す予定が、日本の情勢と少しマッチしないものがあつたものですから、現在大同付近に農墾にやられているのであります。その方面からも手紙が盛んに来ます。それから私がうわさに聞きましたのは、太原にはちよちよい人が来ますから、どれくらい残つておるのだということを聞きますと、大体千二、三百名じやないかということを聞きました。それは来る人たちに聞きますので、大同の方に行つた人たちはその付近に、あすこに六十名、ここに六十名というふうに、大体その人たちは農墾に入つたそうです。最も気の毒なのはその二百七十何名の人たちで、一日一斤半の割合で食つているそうです。一日一斤半というのは、食うだけではなく、すべてそれでまかなうのです。それから太原の方の人たちは、これはバラス割りをしておるのです。大体一日六斤ぐらいだという話を聞きました。それからさきの看護婦、これはその一部分の人から手紙をもらつているのです。この人は宮崎県に帰つて来たのですが、もともと教員だつたのがつかまつたわけです。当時の話を聞きますと、十八、九歳から二十四、五歳の未婚の女性はほとんど全部看護婦にする。それで看護婦にできない者は裁縫婦にする。それから三十前後くらいまでの人でそういう能力のない人は全部女中である。この人も三十五、六ですが、敗戰の当時子供さん二人を連れてロシヤ軍と応戰しているうち、子供が二人とも彈にあたつて死んでしまつた。その後つかまつて、ずつと北京の航空省の長官の家に女中をしておりまして、帰つて来ましたのは八月の末で、横浜に上陸しております。その人の話を聞きますと、自分の友だちがまだ奉天の付近にかなり残つておる。それから北京に、日本人の看護婦は私が見ただけでも約二十人くらいおります。これは共産党の人の指示によつて、北東の日本人会を組織しまして、第一回に集まつたのは約四十五、六人です。そのうちの半数がそういうような人たちで、あした来る高瀬という外務省の人の所に遊びに行きまして、そこの奥さんが、あなたたち愉快そうにしているがどうかと言いましたら、みんな泣き出して、何も好きで残つておるのじやない、帰れないので仕方なく働いているの荘と言つたそうですが、二十四、五くらいの人が大半でございます。ですから実数はわかりませんが、お話のように方々に戰争があるたびにかなりの日本人が移動していることは確かです。
  66. 浦野正孝

    浦野参考人 玉置先生の問題で私から申し上げます。看護婦の問題だけに限定いたします。看護婦は、当初看護婦として向うにつかまつた者が、私の推定では約二万二千、このうちでほんとうの看護婦技術をつけている人、これは分析しますと、日赤直属の看護婦が約三百名余りで非常に少い。そのほか満赤とか日看とかいろいろありますが、これが約三千であります。あと約一万九千は先ほど長岡氏が言われましたように、各委員会に割当がありまして、何人出せというようなことから娘さんを出した。後にはだれも頼まれないから、引揚げ列車の中から引きずりおろしたりした者が大部分で、これらが純一万九千であります。それか当時の国共との紛争で犠牲者を出しておりますので、一万七、八千ではないかと思つております。そのうちどれだけ南に下つているかは問題でありますが、相当行つていることは手紙が来ているのでわかりますが、正確な数字はわかりません。山海関を経由して南に下つた日本の婦人の数については千五、六百名だというのと、七、八千入つているというのといろいろありますので、その間差があり過ぎまして、結局具体的にははつきりわかりませんが、全体といたしましては、大体一万七、八千はまだ残つておるのじやないか、かように考えます。
  67. 若林義孝

    若林委員長 数についての御質疑はありませんか。
  68. 堤ツルヨ

    ○堤委員 少し性格があるいは中共だけの問題からはずれるかもわからないのでございますが、きようおいでになつた参考人の方に伺います。実は国連にも三人の代表を出しておりまして、三十余万の未帰還ということが非常に問題になつているわけであります。これに対しまして、皆さん方向うにおいでになつて中共から帰つて来なすつた万々のこれに対する今日のお考えを、抽象的でよろしいから一人々々伺わせていただきたいと思います。今日日本政府で問題にしている三十余万に対しての御感想ですね。
  69. 松井茂雄

    松井参考人 私の考えではそんな数はおらぬと思います。なぜならば、実際おつたとしても、毎月死亡者が非常に多いのであります。もちろん子供も含まれているの、だろうと思いますが、子供などというのはほとんど死亡しております。私が現在までに知つている数字だけでも、歩いた範囲内で二百名近くの者が死亡しております。ですから三十何万とはおそらくいない、やつぱり数的に言えば十二、三万がほんとうじやないかと思います。
  70. 若林義孝

    若林委員長 今の堤委員お話は、ソ連地区も含めての三十余万なんです。今のあなたのそれだけはいないというのは、中共地区を中心としてのことですね。
  71. 堤ツルヨ

    ○堤委員 それは全体でしよう。未帰還三十七万に対する十二、三万というのは、中共だけをおつしやつているのじやないですね。全体ですね。
  72. 松井茂雄

    松井参考人 私は、十二、三万のうちであるということは大体言えると思います。
  73. 久保武藏

    久保参考人 私はわかりません。いつも仕事に熱中しておりましたから余裕がありませんでした。それで中国をあつちこつち転々として歩いておりましたから、詳しいことはわかりません。
  74. 堤ツルヨ

    ○堤委員 何もお考えはないわけですね。
  75. 小島勝一

    小島参考人 三十何方という数字はどういう方面から調べたのでございましようか。
  76. 堤ツルヨ

    ○堤委員 今日本政府の……。ということになつているのですが、なつておるということは失礼かもしれませんけれども、失礼と言つてはおかしいのですが……。(笑声)
  77. 小島勝一

    小島参考人 それは実際に調べたのでございましようか。
  78. 堤ツルヨ

    ○堤委員 とにかく正式に日本政府が、いまだ帰らないという者は三十七万あまりということになつている。
  79. 小島勝一

    小島参考人 それはどういう方法で調べたのでしようか。
  80. 堤ツルヨ

    ○堤委員 それは日本政府が発表しておるのです。
  81. 小島勝一

    小島参考人 発表ですけれども、それを……。
  82. 堤ツルヨ

    ○堤委員 ということになつたのですよ。とにかく……。それでそれに対してあなたの勘でお答えくださつたらいいのです。
  83. 小島勝一

    小島参考人 私としては、向うに残つている数字を聞くのと、これもただ方々で聞いた人数しかわかりませんですが、こちらで言つていることと、実際三十何万残つているということの間にずいぶん差があるのじやないかと思つておるのですが……。
  84. 堤ツルヨ

    ○堤委員 どういうふうにですか。
  85. 小島勝一

    小島参考人 向うで聞く数と日本で言つている数とは違うらしい。
  86. 堤ツルヨ

    ○堤委員 向うの方が多いのでしようか、少いのでしようか。
  87. 小島勝一

    小島参考人 少いのです。
  88. 堤ツルヨ

    ○堤委員 どういうように……。
  89. 小島勝一

    小島参考人 半分ぐらいじやないかと思います。
  90. 高戸英一

    高戸参考人 私もはつきりした予想は全然つきません。ただ終戰のときに、われわれの軍隊が北上したと同じように、捕虜がかなりの数、毎日何個列車ということなしにどんどん北上していましたのを、われわれ長い間見ておりましたから、かなりの数がソ連あるいは満洲国内に軍人として入つていることは確かなのです。しかしその人間が幾らということは、われわれにはちよつと予想がつきませんが、三十何万というのは、最初の全数額からいいますと、あるいは残つているかもしれませんが、さつきの看護婦の問題にしましても、次ぎ次ぎに死亡者がありまして、向う新聞にも、共産主義のため倒れたとかいつて讃美されておりますが、本人たちは非常な悲しみでもつて倒れて行つて、おそらくそういう方は故郷に連絡がつかなくて、そのまま死んだ方がたくさんあるのではないかと思います。これはもう中共地区でもすでにそうで、われわれの耳にしただけでも二、三あります。ですからおそらくあの状態では死んだ方が多いのじやないか。ソ連が捕虜を收容したときの状態はこんな状態です。完全なからだを持つている者は、一応收容したのです。傷ついている者は全然收容しなくて、自活をさせたのです。敗戰と同時にあちらこちら負傷している軍人の方々が、さつそく食うごとに困つてつたのをわれわれは目撃ました。大体数字は、三十何万というのは多いのじやないか。半分ないし三分の二程度が合理的じやないかと思います。
  91. 玉置信一

    玉置(信)委員 関連質問です。ただいま堤委員のお尋ねになつたことに関連して、参考人の方にお伺いしますが、これは私の見解であけますが、政府で発表している三十余万人という数字は、終戰当時の軍の作戰に基く数字であるとか、あるいは当時満洲地区に残つている者等を勘案して立てたものじやないかと思うのですが、ともあれソ連側においては、戰時国際法に基いて抑留して捕虜になつている数、それから死亡した者、こうしたものを相手国である日本に通告せなければならない国際法上当然の義務があるのに、それをソ連側は無視して発表しない。従つでお互いの問においては相当の数が死んでおるだろうということを想像しておりますが、一応死んだ数も何も一括と申しますか、総体の数から見て、三十余万人が残つておるということを本式に発表せなければならない現状にあると私は見ております。そういう点から考えまして、死んでおる者も一切合せまして想像するときに、どのくらいおるであろうか、こういう点についてまず松井さん、御意見を伺いたいと思うのです。
  92. 松井茂雄

    松井参考人 それは死んだ者の数ですか。
  93. 玉置信一

    玉置(信)委員 いや一切合財です。実際生きておる者も死んでおる者も、その当時の数字は向うからは死んだことも生きておることも知らして来ないのですから……。
  94. 松井茂雄

    松井参考人 それはソ連地区といつて中共だけを……。
  95. 玉置信一

    玉置(信)委員 ソ連地区一切。
  96. 松井茂雄

    松井参考人 ソ連地区一切と申しましても、私はソ連地区行つたこともないわけですか……。
  97. 玉置信一

    玉置(信)委員 あなた方の聞いておることとか、想像とかいう話を聞いておるのですが。
  98. 松井茂雄

    松井参考人 私は中共地区だけしかおらないから……。
  99. 堤ツルヨ

    ○堤委員 そうじやない。さつきの私の質問玉置さんとは違うのですよ。玉置さんのは生きているであろう者も死んだ者もひつくるめて、皆さんの常識では、全地域としてどのくらいいると思われるかという御質問ですね。
  100. 天野久

    ○天野(久)委員 今の質問を聞いているといこれは心配されることで、質問されることもごもつともですか、しかしここにおいでの参考人の方々に、幾ら死んでおるか、幾らどうかと、あの広いソ連地区の地域に対して御質問されることが、私はちよつとむりじやないかと思います。それからまたここでそれを争つたところでしようがないと思う。それよりもむしろこの方々は向うの実際の体験を積んでおられるから、あとに残つている方がどうして引揚げるかということを調べることが問題なんです。どうか貴重な時間ですから、死んだか生きたかということについて、きよう実際証言のしようもなし、聞いたところでむりだから、どうかそれをやめて、どうしたら一体引揚げられるだろう、どうしたらそれがうまく行くんだろうという点についてひとつ議事を進めていただきたいと思います。
  101. 玉置信一

    玉置(信)委員 今の問題も、天野さんの言われたこともごもつともで、私もそう考えております。ただしかし先ほども堤委員質問された事柄が、ちよつと承つておるうちに何だか気持の上に混乱を来すような点もたきにしもあらずと思いまして、念のために申し上げただけで、当然天野さんの御意見の通り進めて行きたいと思います。
  102. 若林義孝

    若林委員長 では大体数については、この辺で打切りまして、これから残留しておられる十数万の方たちの、いかなる方法をもつてやれば引揚げ促進せられるかという方途について伺つてみたいと思います。これは順序として、大体この人たちは帰る意思があるならば許可される部分と、許可されない部分とがあると思うのでありますが、大体そういう率は、これも大まかでいいと思うのですが、部分的には先ほどお話になりましたように、銀行が解散になつたから帰る手続を銀行の方でとつてくれたというような、非常に便宜なところもあるわけなんですが、あるいは帰られるともうその工場がとまるというような重要な役割についておる方々もあると思います。大体そういう重要な役割を持つておる方は、おいそれとは帰してくれないと思うのですが、あるいはまたソ連の本国から、そういうような人たちにとつてかわる人たちが、中共地区へ入り込んで来れば、それでかわつて来ると思うのですが、大体皆様方があちらにおられた当時、大まかに半分ぐらいはどうでもいいところで、帰りたいならば帰してもらえる許可が得られるだろう。しかし三分の一は大切な役割をやつておるから絶対帰れないだろうというようなお見込みがあるだろうと思うのですが、それについてお考えのない方はよろしいが、何か御自分で判定を下すお考えのある方は、御説明を願いたいと思います。松井君どうぞ。
  103. 松井茂雄

    松井参考人 おそらく今中共政府におきましては、日本人で必要としない者は帰したいと思つているということは考えられるのでありますが、そうすればどうしたら帰れるか、また政府政府の交渉のない立場上、どうすればいいかということが一番問題じやないかと思う。私の意見としては、ことしになつて私が帰りましてから、ソ連のタス通信におきまして、数万の日本人を現地で解散さしたというようなことを言つておりますが、数万の軍隊を現地で解散したということを日本政府において認めておるかいなかということが問題ではないかと思う。これをその通りに数万の人間を解散さしたという事実があればやむを得ませんが、その事実がなくて、逆送したり何かした数字をもつてタス通信が発表したとすれば、これは連合軍を通じましてソ連代表部に交渉して、正式な手続をもつて帰還をさせるようにソ連側お願いすれば、向うも人間である以上は了解して一応帰すのではないかと思う。それによりましで行けば、連絡等もつきまして、一般の邦人等においても帰ることが可能じやないか。そのほかにもう一つは、中共の中央政府委員になつておりますが、郭という方がおられるのです。これは日本の医学か何かを学んだ方で、奥さんは日本人を持つておられますが、この方に、満蒙援後会か何かの名前をもちまして、何とかして返すということについて援助をしてもらいたいというような通信をすれば、また向うも動いてくれるのではないかと私は思つております。
  104. 久保武藏

    久保参考人 私の知つているところでは、済南の造紙廠でありますが、そこでは日本人が六名おります。その中で一名残してほかの者は帰してもいいという向うからの命令があつた。そうしたらほかの日本人から、それではいけない、全部帰してくれというような話もあつて、それが遂にだめになつておる。済南は二つ造紙廠がありますが、やはり二つともそうです。それから一般の医者とか生産部、いろいろなところがありますが、そこでもみんな帰りたがつております。日本入国許可証ですか、あれがあれば簡單に帰れるとか何とか言つておりました。
  105. 若林義孝

    若林委員長 では大体返す意思の方が強いのですか。ただ單なる口実だけでなしに……。
  106. 久保武藏

    久保参考人 そうです。ただ一人残したいためにみなを残すというような点もあるのです。済南、天津あたりほとんど帰りたがつておりますが、旅費もなくて帰れないという方もおります。
  107. 若林義孝

    若林委員長 大体今問題になりますのは、本人に帰りたい意思があればたやすく許可される分と、許可されない分とがあるということですが、われわれ委員会として聞きたいのは、十何万おるとして、そのうち、帰りたければ向うから容易に許可が得られるだろうという者、帰りたければ帰してもいいというような役割についておる者と、必要かくべからざる役割を持つている者との率ですね。
  108. 久保武藏

    久保参考人 まあ三分の二は帰れるのじやないかと思うのです。
  109. 小島勝一

    小島参考人 天津政府の要人の人の話ですが、帰してもいいようなのが半分、帰しては困るというのが半分くらいで、それはおもに技術方面です。それで私らの考えとしては、日本政府考えはどうかわかりませんが、早く、引揚げられる方法は、貿易会社でも利用しまして、特に中国人が必要とする物資を何とか運べる方法をとつて、それで交渉すれば人間も返してよこすのじやないかと思うのです。本人が国に帰りたくても旅費もなし、また証明を出しても、その人がかつてに玄海灘を渡つて来るわけに行きませんから、結局船に乗らなければ帰れない。特に向うで必要としているものは化学工業薬品、医療機械、鋼鉄、紡績機械ですが、こういう特に必要としているものと物交にしてはどうかというような話もしております。そういう方面で話をうまく進めたらできるのではないかと思います。これは極端な話でありますが……。
  110. 若林義孝

    若林委員長 向うの貿易商ですか。
  111. 小島勝一

    小島参考人 そうです。また日本でもそういう連中と関係のある者はたくさんあると思います。そうでなければ、ただ帰るといつても、旅費のない人が帰れる道理はない、また旅費を持つていても、許可のない者が帰れる道理はない。何かそういう方法をもつて交渉して行けば、相当数が帰れるのではないかと私は考えております。
  112. 高戸英一

    高戸参考人 私も今おつしやつたような意向を多分に持つております。大体私は交通部の本部におりましたが、約三年ばかりおりました間、鉄道部、郵電部の最上級の幹部の人とは、友だちみたいにしてばかばかり言つていたのでありますが、そういう連中と話しても、返してもいいんだということは言つております。さつきもちよつと申し上げましたように、道がない、ルートがないのじやないかということをよく言います。ところが私のとつたルートが現在開けておるわけなんです。交通部は自分の船を持つております。それは全部パナマ籍に変更してパナマの国旗を掲げて日本物資をどんどん持つて来ております。その見返り物資として今おつしやいましたいろいろな化学薬品とか機械類とかいうものを運んでおります。それからなお現に私の向うにおりますときに、鉄道部、それから自分のところに連絡をとつて物品を売り込むように運動したこともあります。その紹介もありますし、現に動いておりますので、この前も援護会に何とかこの方面で動かないかとお願いしました。それから中国の一般の気風はどうかと言いますと、上の力は大体返してもいい。ただ現地のその日本人を使つている各機関の責任者が、日本人が帰つたら能率が落ちる、そうなるとさつそく困るので、つい昨年ごろまでは、その責任を問われるおそれを感じて返さなかつたということが濃厚なんです。ところが今年に入りましてから、ソ連の圧迫がひどくなりまして、ぜひ日本人は帰せという内々の命令が出ているようです。うわさによりますと、五、六千人の技術者ソ連から入つて来る。もちろん現在も最高の技術者は各部に三人ないし五人の專門家が入つております。この人たちの給額は、普通部長といいますと日本の大臣と同じですが、その人たちの四倍ないし五倍の給額をもらつております。なお通訳だとかなんとかいいますと、かなりの費用がかかります。それからその以外の人たちは、ちようど中ソ友交條約の当時でありますが、約二千人くらい入つておりました。どういう人たちが入つていたかといいますと、われわれの目にも技術者というよりは軍人上りだとわかる人が入つておりました。中ソ友交條約が終りになりました後は、その人たちは一応帰りました。姿が消えたわけでありますが、またこのごろになつてぼつぼつ姿が見えるようです。そういう人たちが来る早々、すぐ日本人を返せ、最初友交條約が結ばれるまでのうわさは、日本人はわれわれに協力してくれるんだ、ここは中国の土地だ、ソ連の土地ではないのだから返さないというような意向を持つていたようです。ところがだんだん條約も結ばれたし、技術的援助をやるのだという名目で、日本人を返せという声が強いので、上層部の口は次第に返そうという意向になつております。ただ現在下層部の連中が前の行きがかり上返せるかどうかわからない、返すにしても一体どういう方法日本人を返すのだということも大体知らないのです。それで先生らは返せというとまごつくわけです。それで行きがかり上言を左右にして押えております。私は帰つて来ました後に、私の知つている範囲にこういう方法をとれ、こういう名目で帰つて来いということを知らせまして、約五、六家族ほど帰つて来ました。最近二箇月間嘆願してようやく許可になつて帰つて来たということを言つておる手紙をここに持つておりますが、下層部の方は、自分のところに日本に貿易している船があるということもほとんど知らないのです。日本との貿易は事実やつておりますが、さつきちよつとお話ありました、中国の現状においては個人の貿易は一切許されておりません。貿易商内には全部官吏が入つて、貿易商社ばかりではなくて、公司あたりでも相当の收益を上げる公司は全部政府の指導下に入つております。表面は貿易業者とは言つても、これは全部政府の人間です。一例を申しますと、日本あたりに電報を打ちますと、ちよつとした電報でも三十万くらいの金がいります。それで今日本と取引している方が電報を打ちに行つたところが、外にはちやんと保安隊が待つていて、打ち過ぎる、だめだと言う。それではおれはやめた、おれは何もすき好んで忙しい思いをしてやるのじやないからやめた。一体どこの仕事かと言うと、それはモウイー公司の仕事だ、そんならいいのだと言う。それから推して考えましても、個人としてはなかなかむりなのです。私もさつきおつしやいましたような意見を聞きまして、結局下層部の方の連中ももて余しているように思えるのです。それはどういうわけかといいますと、現在中国の圏内には失業者が多い。職工連中、中級の技術者はあり余つているので、その処置に困つていまして、何とかそういう連中を就職させるためにあらゆる方法を講じております。しかしなかなか消化しきれなくて困つていることから考えましても、中級の技術者以下に対する向う考えもあまり置きたくない。それから上級の技術者に対してもそういうソ連からの要望があつて、やむを得ずに返さなければならないというような内情を持つていると思います。いずれにしてもあまり中共日本技術者、あるいは半労働者に対しても、押える意思は現在あまり持つていないという観念を私は持つております。そういう意味から、何らかの手を打てば返し得るのではないかという私の意向です。
  113. 天野久

    ○天野(久)委員 きようは皆さんのお話を聞いてたいへんに中共に対する明るみが出て来たような気がいたします。ここへおいでになつていただいた方は、あちらにいて相当な地位におられた方だろうと思いますが、あるいはお尋ねが愚に走るかもしれませんが、あちらにいらして向うの相当な要人、あるいはそういうような人と通信その他があなた方にできる道があるでしようか。
  114. 高戸英一

    高戸参考人 私が今までとつて来ましたのは、帰つてすぐそのことについて私の関係している商社の人と話しまして、これは私の個人的意向で、向うを打診する意味において一度鉄送副部長あてに出しました。ところが返事がありませんでした。向うではかなり日本語の達者な中国人もおりますから、手紙ではまずいかわかりませんが、どなたか向うにおる方か何かで、そういうことを真劍に働いてくれる方があつたら了解を得るのじやないかという気もいたします。この話はさしさわりがあるかわかりませんが、私あまり共産主義に賛成しないものですから、向うにいましたときにかなり副部長につつ込んでみましたが、ほかに行つてあまりそういうことを言うな、危くてしようがないということを言われたくらいですが、そういう方面からじわじわ攻撃して行つたらばできるのじやないかというふうな気もいたします。
  115. 天野久

    ○天野(久)委員 私は通信だとかそういう連絡ができて、そうして向うの要人を心から動かす、こういうことはたいへんよい一つの方法だと思います。  それからもう一つ承りたいのは、先ほど来聞いていると、何かソ連日本人を返せという要求を非常にいたしておる、わが国の引揚げ運動などが反映して、タス通信はおらないと言う。ところが実際に舞鶴に上つた人の調査をするとおるという実情なんです。あろいは中共へ送つてこちらにおちないということを立証するためにとる方法ではないかとも想像されますが、今の中共政府ソ連政府、一体どこの政府を一番信じているかということをおわかりでしたら承りたい。
  116. 高戸英一

    高戸参考人 ちよつと申し上げます、これは中国人の一般人と、それから中共政府に勤めている人の観念もほとんど同じと私は見ますが、中国の一般民衆はわれわれは日本人だ、――もちろん政府の服を着、あるいは軍服を着た両方の時代もありましたが、われわれが日本人だということかわかりますと、とたんに態度がかわつて来ます。そうして非常に接近しようとする。自分だけが何とかして特別に接近しようという気風が見えます。それでわれわれが困難だということに対して、何とか側面的に援助してやろうというようなことは明らかに見えます。一例を申しますと、北京市内あたりに行きまして物を買う場合、政府の服を着ておりますから、一応は相当高値でふつかけて来ます。それでおれは日本人だ、おれは今金がないので困ると言うと、ああそうか、それでは金はいらないから持つて帰れとか、明日持つて来てもいいのだ、それで少し親しくなりますと、おいこの品物は明日あたり高くなるが持つて帰らないか。おれは金を持たない。かまわない持つて帰つてくれというようなくらいに、ほんの一面識の市民同士の間でも、それくらいの日本人に対して好感を持つております。それから政府の現在の行き方はどうかといいますと、表にソ連の政治を標榜しております。しかし実際に行われておることは、あらゆる面において日本時代の形態をとつて行われております。政治形態のこういう法律的なことにしろ、それから一般民衆に対する命令的なこと、それからわれわれ鉄道交通関係のいろいろな條文というものは、ほとんど日本の條文を焼き直して使つておるといつてもいいくらいです。それがためというわけじやありませんが、非常に日本物資をほしがる。日本の本をほしがつて、何らか日本と将来手を組むことを一般的に政府の要人も一般人も望んでおります。なぜそういう状態が起りましたかといいますと、物資の値段を言いますと、外国品は日本品の約三倍です。それで例を自転車にとりますと、日本の中古品が約二百万円します。冨士とか、そういうものです。そうしますと、英米の最新式のやつが約二百二、三十万円程度です。なぜそんなに日本品がいいのだということを言いますと、英米のものは非常にスマートですが、物品をうしろに積んだりなんかしますと、ただちにこわれてしまいます。力が足りないのです。日本品はその点そういうふうにできているせいか、少し重たいが、がつちりとしてこわれない。それじや中国の品物はどうかといいますと、どうも金が甘くてあまり長持ちしない。やはり日本品がいいのだ。一時日本品の物資は安かつたのですが、このごろになりますと、これは日本品だから高いのだというようなことを言つて売りつけております。つい最近になりましてソ連自動車及び自転車なんかが入つて参りました。そうしますと、ソ連自動車は三月たたないうちに各重要部分の機関がみなこわれてしまう。よく調べてみますと、スチールでなくて、たいがい生鉄だ。それでギヤーを入れますと、普通のギヤーだといいのですが、逆レバーをとりますと、歯車がふつ飛んでしまう。次から次へと修繕しては入場するというような状態で、非常に困つておるのです。日本自動車あたりですと、もう終戰後五年にもなりますが、以前のものも使つている。その後十年も使つているものもかなり多いのですが、いまだにしつかりしておる。もちろん外国品はしつかりしています。ところが外国品は日本品の約三倍します。そうしますと、納期が早くて、そうして割合に値段が安い。その優秀性も大して差がないというような点から、日本品を購入することに対して非常に希望を持つております。薬品なんかでも、アメリカのは高級薬品には違いないが、一体何に使つていいかわからない。説明も何もついていない。買つて来ても使いようがないという場面が相当あります。そういう方面、あらゆる面において日本と非常に手を握りたい。これはさしさわりがあるかわかりませんが、やはり民族的に髪の毛が黒いというような気分もありますし、それからソ連が入満して来たときの行動が、日本人に対する悪辣なことばかりでなくて、中国人のいたずらを受けた被害は約三倍にも上るのではないかと思うくらいなひどい目にあつております。その情況が次々と北京に入つて来まして、現在の北京の学生の意向は、一体ソ連はわれわれの友だちなのか敵なのかという疑念を非常に抱いて、いわゆる共産党指導者に対して事ごとに突つ込んでおります。こんな小さな小学生までも、あるいは先生みずから陰に隠れて反ソ連宣伝をやつているといつてもいいくらいに思われます。そういうような状況がありますから、中国としては、日本人は帰したくはないのだ、なお将来何とかして日本と結びたいという観念は非常に持つております。その道に使うには、やはり日本人を使いたいという意思からしても返したくはないのでしようけれども、そういう事情において返され得るのではないかと思います。
  117. 若林義孝

    若林委員長 では、その次に集団的に引揚げが可能であるか、あるいはもう特別の地区であるから、個人引揚げに重点を置くべきであるかどうかということについて、お考えのある方だけでけつこうであります。
  118. 浦野正孝

    浦野参考人 ただいまのお話と少しそれるかと思いますが、もし誤解が生じてはという多少の老婆心から申し上げておきます。これは現在の中共地区におきましても、特に帰還の問題につきまして、私の方で手紙や引揚者その他で調べていますところでは、はつきりした形が出て参りますのは、満州の問題と、それから向うでは関内、関外――普通山海関を中心にした言葉だそうでありますが、満洲と満洲外の中国本土では全然違うということであります。中国本土でも、林彪治下の軍に利用されておる帰還問題は全然違つておるということで、もう非常に困難であるということであります。中国本土内に個別的な形で利用して帰された方が、ちようどここにお見えになつておられる方たちでありますが、その希望はいろいろな方面で見られるのであります。私どもは集団引揚げを期待しておりますので、満洲内におきましては、そういう機運と申しますか、今年は帰れるだろうというような日本人間における機運は全満にみなぎつているだろうと思いますし、二、三の報道はあるいは集団帰還ができるだろうというような希望を持たされたのでありますが、近ごろ続いて入つて来ております情報は非常に悪いのでありまして、いわゆる朝鮮問題がああいう形になりましたこととからみまして、当分引揚げを延期するのではないかという中央部の方針がきまつておるのではないかと思われるような情報が入つております。なお中共のこの問題に対する態度につきましては、私どもといたしましては、手紙であることと、それから現地の、先ほど来たびたび出ました向うで発行されています民主新聞がございますが、その新聞の論調であるとか、あるいは内地における中国と日本とのいろいろの関係の団体が御承知のようにございます。それらの団体とのいろいろの折衝経過を通じて知るほかないのでございますが、手紙につきましては、御承知のようにいろいろな工作を受けておりますし、また工作の結果内地に対するはなはだしい誤解や何かございますので、手紙に書いてあることを額面通りに受取ることは非常に危險でございます。ただ通有性として見ら、れますことは、中国としては講和條約ができるまでは帰さなくていいのだ。帰されなくてもしかたがないのだというふうに言い、またこれは満洲でございますが、満洲の人はそれをやむを得ず信じている。たとえば英米で申しますと、南方方面の人はもうとうに帰つてしまつているというようなことは案外知らない。中国治下でさえわれわれがまだ帰らないのだ。いわんや英米の管下にいる人はいつになつたら帰れるかわからないだろうというような程度にしか知らない。それから特に内地の引揚げ問題に関してはほとんど知らされておりません。ラジオを盗聽した人が知つておる程度でありまして、曲解しておる面が多いのであります。現地の民主新聞の論調によりましても、この春から中共は五年ぶりに手紙を出すことを許したのでございますが、これも遺憾ながら私どもから見ますと、決して技術的にそれが可能になつたとか、あるいは人道的な見地から許したというのではなくて、むしろ逆攻勢に出て来たのではないかと決断せざるを得ない状況であります。というのは、御承知のように根本的に総司令部では、ソ連管下という名前におきまして、三十七万という数字をあげてソ連の責任を追究しております。御承知のよりに、ソ連はもう例外を除きましては、あとはいないのだ。それ以外の中国、北鮮地域につきましては、われわれの知つたことではない。ソ連は他国の内政には干渉しないというふうに言われておるわけであります。従つてこれはエア・ポケツトになつておるわけであります。中共側自身としてはどうなるかということになりますと、中共の国際的なあり方もあると思いますが、はつきり公式に幾ら幾ら残しておるとか、幾ら幾らおるということ言つておりませんが、手紙を盛んに出さしておる、また個別的に帰して来る、あるいは現地の新聞等によりましても、間接的ではあるけれども、おるということは認めておるのであります。つまりソ連の方が、三十七万責任を持つておるというのに、いやもういないという段階に対して、中共の方はいないとは言つておるわけではない。それに対して、おることはおるけれども、非常に優遇しておる、また残留者は非常に喜んで進んで働いておるという線で、おることはおるのだけれども、帰さなくともよいのだということで非常に逆攻勢に最近出て参りました。それは私ども手紙を今春から許されましたことにつきましても、先ほどから申しましたように、技術的に可能になつたとか、あるいは人道的な見地からではなしに、むしろもう内地に手紙を出さしても、こちらに不利なことは言わぬだろうという見通しがついたから許したと私たちは見ておるのであります。と申しますのは、手紙の内容とか、内地における中国系の団体等にわれわれが折衝する際に、その意見を非常に最近露骨に出して来ておる。優遇しておるから安心しろ、こういうふうに言うけれども、われわれは安心しろと言われても安心できない、どうしても帰してもらいたい、帰してもらわなければ安心できないという線で行くのでありますが、結果において、内地に帰つても食えぬだろうということをはつきり言うのであります。われわれはもうそれにはなれておりますし、大きなおせわだ、お前らのおせわにはならない、食えようが食えまいがかつてだ、お前らの知つたことではない、よけいなおせわだと言うのですけれども、結果においてどうしても帰さない。ほかの国はみな帰しておるのに中共だけどうして帰さないのか、これは理解できないと言つたのでありますが、その場合必ず向うの言つた言葉は、戰争中の中国人の俘虜の虐待問題はどうだ、それから八年間侵略したじやないかということで、これはソビエトの場合とは違うのでありまして、お前らは八年間侵略したのだから、全部惨殺されてもしかたがない、それが優遇されておるのだから、もつて冥すべきじやないかということを申します。しかし家族としては、一体帰してくれるのか、永久に飼い殺しにして行くのかというような返事をしますと、お前らの言動は反ソ、反共、反中国だと言う。もちろんそうだ、おれたちはどうしても返さなければ必ず対支侵略に来る、もちろん領土的、経済的な野心はないが、われわれは必ず肉身を取返しに来るから、お前らはそのときになつてほえ面をかくなと言つておりますが、それでも返さないというような形を繰返しております。それらの事象からしまして、私どもとしてもそういう結果は望ましくないのですが、現実にはそういうことに追いやられるというようなことからしまして、この問題は非常に容易ではないと私どもは非常に深刻に考えておるのであります。この引揚げ問題をさらに申しますならば、経過的に振り返つてみまして、中国の問題については、初めから割合――今日でもそうでありますが、中国は何とかなるというような楽観的な空気が初めからあつたのであります。実はこれはそうではないのでありまして、私どもから見れば、これは非常に至難な問題で、ソビエトの問題、ある意味ではどちらもむずかしいのでありますが、ソビエトとまつたく面を異にした至難さがあるということを私たちは考えておりましたが、その点につきまして先ほどもちよつと申し上げましたが、このことに関する司令部との折衝でございますが、もちろん国会としても非常におやりになつておられると存じておりますが、私どものこの問題に関することをここで御参考までに申し上げておきたいのであります。当初は、司令部はこの問題に対して非常に同情がなかつた。これには初め妙な誤解があつた考えております。つまり満洲は二十一年に非常に骨を折つてつた。そのときにお前たちは出て来なかつた。従つてしかたがないのだという態度が初めは露骨でございました。その当時私たちは詳細なデーターを出しまして、いやそうじやない、向うの悪辣な抑留工作にひつかかつたために出て来られなかつたのだということをるる説明しました結果、漸次かわつて参りましたが、その次の段階になりますと、私ども家族立場から申しますと、体面のことと申しますか、こちらの面子と申しますか、おれがこれだけ努力してやつたのに、お前たちは帰つて来なかつたという態度に出ております。第三の段階になりますと、問題をつつ込むと、非常にいやな態度に出ました。その問題をつつ込んだために、司令部に行けなくなつた人が二、三あります。それにつきまして私たち考えたのであります。先ほど具体的な例をおつしやられたが、ソ連が非常に帰そうとしておる事実、これは昨年あたりから非常に伝えられたのであります。末端の事象としてもありますし、中共政府の中のできごととしても、比較的ソ連に親しい人たちが日本人を帰せということを強調しているのに対して、中共の本流である毛澤東氏あたりはあまり好まないというような情報が入つております。これは私どもの見るところでは、いわゆる全中国の日本人技術者帰つてしまいまして、あとにただいまお話のように全ソ連技術者が入りますと、中国の死命を完全にソ連が制することになります。毛澤東氏はおそらくこれを好まないであろうということを私どもは確信しております。ところがこの間のいきさつは遺憾ながら私どもの見るところでは、日本の司令部はよく知つております。従つて日本人引揚げさせることは、全中国が直接ソ連の支配下になるということで、いわばとつてかわるわけです。それがこの問題に対する非常に消極的である原因だと私どもは考えました。いま一つは、最近の御承知のような情勢でいわゆる中共を西欧側に持つて行こうというようなアメリカの努力、要望という線がこの問題と非常にデリケートにからんでいる。私ども家族としてはかように考えております。いま一つは、單に国際的なあり方だけではなしに、国内的に見ましても、シベリアの引揚げの問題と中国の引揚げの問題は、根本的に非常に違つていると思うのであります。それは端的に申しますと、思想やその他の問題を離れまして、早い話が極東の将来、日本の将来、中国の将来のためには、日本人が残つて協力しておつた方がよいだろうということは、私ども家族としても初めから考えております。しかし私ども家族としては、たとい極東の将来のためにそれがよいことであろうと何であろうと、どうしても私どもの将来の生活は保てない。そのために私どもが犠牲になることは断じてできないと考えております。そういうような錯雑した情勢からいたしまして、ことに朝鮮事変の発展から考えまして、先ほど以来お述べになりました個別的な隠れた陰の場合は今後も続けられると思いますが、集団的な引揚げについては非常に悲観的ではないかと思います。これが方途につきましては、また後ほどいろいろ申し上げたいと思いますが、特別引揚げの問題並びに集団引揚げが非常にむずかしいと私どもが考えております点を一応申し上げる次第であります。
  119. 若林義孝

    若林委員長 この引揚げの形式に関して何か御質疑がありますか。
  120. 受田新吉

    ○受田委員 松井さんはこちらにお帰りになるのに、入国許可証をもらえることになつたが、小島さんは密航して来たので苦労したというお話ですが、この入国許可というものはいろいろ各国の領事館に当つておられるようですが、日本政府から入国はさしつかえないという手続さえあれば帰されるようになつておるのですか、その点をちよつと手続上の問題としてお伺いいたします。
  121. 松井茂雄

    松井参考人 日本政府の方にはどういう方法をとつても連絡する方法がないのであります。個人でやつているのは、一例をあげますと、私らは群馬県でありますが、群馬県の民政部等に何とかして入国証明を送つてもらいたいと言いますが、民政部当局においては、どうしても自分の一県において入国証を発行することはできない。もちろん私らの考えといたしましても、現在入国許可するということは、日本政府が発行する方法はないのだろうと思います。それで入国証はどちらにしても国連軍の方から入国許可証をとらなければ帰ることは不可能だ。しかしこれまで帰つて来ておりますのはパナマ汽船でありますが、それは船籍のみはパナマの船籍を有しておりますが、実際は中国の海鷹という船会社が持つている船であります。中国政府の直轄になつております。招商局がこれを動かしております。この船に乗船する手続は、本人が入国許可を受ける電報を打つてつたらば乗せるということまで、了解をその後とりました。その前は米国領事館ちようど私が行つたときは閉鎖当時でありまして、方法はなかつたのであります。イギリスの領事が日本人以外の外国人に対しては代行しておりまして、アメリカ行き、あるいは香港行き方面については発給しおりましたが、われわれ日本人に対ししては手続をとつてくれるということはしておりませんでした。それでありますから、現在は入国許可証というものは必要ないと思います。ただ国連軍総司令部の政治顧問部あてに電報を一応打つておくだけでさしつかえないと思います。そうすれば招商局の船でも切符を売ることを許可してくれると思つております。そのほか英国系の船会社においては、これは認めません。入国証が入りさえすれば、切符を売ることを許可する次第であります。
  122. 高戸英一

    高戸参考人 今入国許可証のお話が出ましたが、私さつきちよつと申し上げましたが、それは四月十三日までの時期であつて、現在必要としません。その理由は、私が今年の一月、北京の米国領事のクラブ領事に私の友人を通じて帰国方を要請しました。よかろう、ではすぐ帰れ、それですぐ電報でマッカーサーの方に連絡してくれたのです。帰つてもいい、場合によつて就職も、連合軍の方に使うからという話がありましたが、結局帰るのがおそくなりまして、クラブ領事は四月十日に出帆しました。それでその後になつてちよつと困りましたので、また友人の手を介しまして、今度は英国領事に持つて行つて、何とかしてくれないか、実はこういう話で帰る予定だつたのだが、クラブ領事が帰つてしまつたのでどうも都合が悪いのだ、そうか、しかしもう日本人はそれを必要としなくなつたのだ、四月十三日に、必要がないということを日本で声明しているのだ、だからお前たちには何も出さないということを英国領事がはつきりと言明して、今後日本人は全部無断で帰つてよろしいという話がありまして、それで私は無断で帰つて参りました。中国の方でも、今おつしやつたように、入国許可証がないから乗船させぬというのでなくして、好意的に困りはしないのか、お前は帰つても上られないのじやないかということを言いました。いや、おれは持つて帰らなくても大丈夫だ、いいのだから帰せ、そうか。それで乗つて帰りましたら、税関で、どうして何も持つてないのか、いや私はこういうわけだ、もし不服だつたら米軍に聞いてくれ、一月何日ごろクラブ領事よりマッカーサーにあてて電報照会が行つているはずだ、その以後こういう内面的な打合せがあつたはずだ。それで私は税関もすぐ通してもらいました。そこでそのことを中国在住の私の知つている範囲日本人にはみな通知をしました。一切不必要だから帰つて来いということを通じたのですが、次々と何も持たないで帰つて来ております。約六家族帰りました。そういう面からしまして、この前GHQに呼ばれたときに、やはり宿舎の係の人に、こういうことがあるのだが、一般にだれに聞いてみても、日本関係の人がすでに知らない。このために個人で引揚げ得るという見込みの人も帰れないで、ずいぶん悩んでおる。だれでもそういう外国の私信に対してつかまえることは不可能なんだ、何とかこれを公にしたいのだがと言つたが、私の力でそういうことはできませんというて断られました。そこでちよつと口げんかになつたのですが、これは家庭の方がみな知つていただいて、自分の御主人なりそういう方にはつきりと認識させていただいた方が私はけつこうではないかと思います。一応念のために英国の領事が何かにお尋ねくだされば、その間のことがはつきりするのではないかと思います。私は何も持たないで帰つて参りました。
  123. 長岡敏夫

    長岡参考人 ただいまの入国許可証の問題でございますが、実は昨年九月に引揚げて参りまして以後、いわゆる單独帰国者が帰つて来る場合に、現地の方では、中央の政府側からは帰してもよろしいという許可がとれるそうだが、日本に帰るときには、日本に入るために入国許可証がなければ入れないぞ、こういうふうに中共側が、引揚げを待機しておつた人々に言つたのであります。そこで向うにおられる方々が、何とかして入国許可証を送つてくれないか、入国許可証さえあれば中共さんの方の許可がもらえるんだ、こういういきさつだつたのであります。そこでわれわれとしましては、常識的考えますと、日本人日本の国に帰つて来るのになんで入国許可証がいるものか、こういう問題なんですが、そこでいろいろ考えまして、これは返すことをとめるための一つの手じやないかと考えたのであります。とにかく入国許可証さえあれば、非常に変則的なものではありますが、これさえあればとにかく帰つて来れるというならばというので、実はわれわれ関係団体が外務省並びに援護庁にお願いしまして、ひとつ入国許可証というものを出していただきたい、こういうふうにお願いしたところが、快く引受けられまして、現在のところどんどんやつております。向うから送つてくれと言つて来る者については家族を通じて送つております。市町村長からもちつておるようであります。しかし実際問題としては、これはただいまの御証言にもありましたように、こういうものがいるんだという、一つのテクニツクじやなかつたのだろうか、私は今特にこの問題を確認したような次第であります。
  124. 受田新吉

    ○受田委員 松井さんにしても、高戸さんにしても、お帰りになるときに、それぞれ有力な立場にあられ、特にそうした渉外的な技術にもたけておられたという点で、他の人よりもその点有利な環境にあられたので、お帰りになられたと思うのです。ところが小島さんなどは、そういう環境、地位を利用することができなくて、非常に苦労して帰つて来られたということになるんですが、今高戸さんも言われたように、現在ではその点非常に軽く取扱われるようであるから、早く残留者に、入国許可証などなくてももう帰れるようになつたのだという認識を深めるように、通信をしまして、長岡さんの言われたような市町村長の証明など別になくても自由に帰れるの場たという啓蒙をしてあげて、個別の引揚げをどんどん促進するような手が残されておるように、ここで私も考えてみておるのですが、高戸さんからも、それから数家族引揚げさせることに成功したという報告があつたわけですが、こうした各個の引揚げがどんどんこれから今のような残留者の啓蒙によつて促進されるとするならば、集団引揚げが不可能であるにしても、そういう方面でわれわれの目的をある程度達し得るということになると思います。この点において、今後それがどんどん促進される可能性が十分あるかどうか、最近帰られた方々には今お聞きしたのですが、もし政府側がおれば、それについてここで確めてみたいのですが、もう帰られたようです。この問題を進めることが今後の中共地区引揚げの重大問題だと思うのであります。それで長岡さん、浦野さんはその点をきわめて大局からつかんでおられると思うのですが、今のような各個の引揚げが情勢上非常に好転しておるという点で、集団引揚げが非常に悲観的な現状において、そういう方面でどんどん進めるという具体策を何かお持ちでないですか。
  125. 堤ツルヨ

    ○堤委員 ちよつと議事進行について……。私いらぬことを言うようですけれども、私たちが実情を聞いて、かんじんな手を打つのは政府ですよ。この間の委員会状況からいえば、まことに的はずれなことを草葉さんなんか考えていらつしやつた。およそ可能性がない団体引揚げに主力を注いで、個人引揚げ考えていらつしやらないと、いうことがいかに的はずれであるかということが、きようこの方々の喚問によつてわかるわけです。そうすると、かんじんの政府がそこにすわつておらなければ何にもならぬわけです。それにみんな引揚げてしまつているのに、委員長は平気でいらつしやるということは、この委員会をばかにしておられると思う。ですからひとつ政府に出てもらつてください。私ども何のためにやつているかわかりませんよ。草葉さんなんか、この間わかつたようなことをおつしやつていたが、これをきようよく聞かれなければ何にもならぬ。集団引揚げなんかできませんよ。ひとつ委員長それを呼んでから議事を進めてください。こんなことをしてはだめですよ。
  126. 若林義孝

    若林委員長 承知しました。
  127. 堤ツルヨ

    ○堤委員 どうして外務省は来ないのですか。的はずれなことばかり考えておつて……。
  128. 若林義孝

    若林委員長 連絡はずいぶんとつたのですが、援護局長は三時半から予定の会合があつたので、了解を求めて帰られたのです。
  129. 堤ツルヨ

    ○堤委員 外務政務次官はどうしたのですか。
  130. 若林義孝

    若林委員長 外務省の方は極力出るということの通告があつて、お見えにならぬのです。それで堤委員がお持ちになつておる気持は私も待つております。本日は本委員会として、各参考人から開きましたことを基礎として、政府にかくかくすべしということを申し出て鞭撻をするのが終局の目的だと思いますので、このまま……。
  131. 堤ツルヨ

    ○堤委員 鞭撻は鞭撻ですが、会議の効果を上げる点において、やはり政府委員にいてもらわなければいかぬと思います。私はこれ以上申しませんから、どうぞ委員長ひとつよろしくお願いいたします。
  132. 若林義孝

    若林委員長 このまま議事を進めたいと思います。
  133. 高戸英一

    高戸参考人 ちよつと御注意を申し上げたいのですが、先ほど私が申し上げたうちで、ちよつと思い出したことがあります。ただ入港したときに一番困るのは税関だと思います。それでもし可能ならばどういう形式でもよろしいから、中共に在住していたという証明書、これは何のためかと私聞きましたが、私ども不幸にしてただ向うの健康診断書を持つてつて来ただけで、別段何にもなかつたわけです。というのは向うの在住証明書、パスポートみたいなものを各自みな持つております。それを出港と同時に取上げられてしまつたのです。それで山東地区の方は持つて来たということですが、私ども秦皇島から乗船した者は、乗船のまぎわに公安隊に全部引上げられてしまつて中共地区に在住したという証明は何ら持つておりません。それで税関の方で一番困つたのは、密輸入者とのけじめがつかないので処置に迷うのだというお話でした。私個人は、私の友だちも方々に勤めておるし、いろいろ話してみましたところが、私の遠縁に当る人が、前勤めていらつしやつたけれども、上長におつたものですから、話は無事に終りましたのですが、できますならばどういう形式でもいいから、入国許可証よりも中共に在住していたという半ぺらでもよろしいから、判こは個人名であろうが何であろうがちよつともらつて来れば、税関の手続をするときに税関の方が非常に楽に進み、帰つて来たときに問題なくすぐ上陸されるということがあることをお伝え願いたいと思います。
  134. 受田新吉

    ○受田委員 政府側がいないことは遺憾でありますが、堤委員の説を尊重されて、委員長において適当な措置をとられるということで一応了承いたします。  それで私が今質問申し上げたことは、松井さんや久保さんも同類項だと思います。それから高戸さんなんかは向うから帰国命令を受け、もしくは政府からの旅費を受けられ、また船長の待遇を受けて帰られた、そういう非常に幸運に恵まれた方のお帰りがあると同時に、一方では小島さんのようにあらゆる辛苦をなめて香港その他に潜入して、最後に門司に来て、非常に苦労されて、大阪に上陸された、そういうふうにいろいろな立場の方々からここでお聞きしたのですが、向う政府から旅費までもらつて帰られる方々は格別ですが、旅費をもらえないで、帰られる方々が非常に多いし、また密航して帰られた方が非常におられるわけですが、この旅費をどういうふうにするかということと、そして今のような各個の引揚げが可能である際に、税関の問題もあるが、その手続をどういうふうにこれから進めて行くかという問題、そういうことの見通しがつくならば、各個の引揚げがこれからどんどん促進すると思う。そういう点について私が今聞かんとするところは、そういう手続の可能な面について、今長岡さんは満蒙同胞援護会の方として御説明なさつたが、浦野さんは内閣引揚同胞対策審議会の委員もしておられるし、またこの問題について全般的な見通しを持つておられると思うので、浦野さんの意向をお伺いしたいし、それから旅費の問題についてどういうふうな措置をしてあげたらいいか、今のように前官礼遇とかいろいろな待遇を受けられたような方々の立場で帰られない方の旅費の問題はどういうふうな措置をとつたらいいかというような問題で、今お帰りになられた松井さん、浦野さん、久保さんの御意見を聞きたいと思います。
  135. 若林義孝

    若林委員長 今受田委員から御発言がありましたが、議事の進行上、とりあえずこの次は旅費の問題を中心として皆様方の御意見をひとつ伺つてみることにいたします。
  136. 浦野正孝

    浦野参考人 私から申し上げますが、堤先生のお言葉通り、この段階で政府委員の方がおられないことは非常に残念だと思います。実はこの問題は先日審議会で問題になつたことでありまして、まだ技術的に未解決な部分が非常に多いのでございます。この点に関しまして田邊局長がおられると、実際に出て当つておられる例もありますので、非常にいいと思うのですが、日本の内地にエージェントがある場合ですと、ドルで拂い込むことによつて、技術的にもさつき申したように拂い込むことができるわけであります。でありますが、これをもしほかの方法でやるといたしますと、いわゆるドルにかえなければならないという問題が起るわけであります。外貨資金の問題で、その日参つておりました大蔵省当局の意見では、ちよつと私そのこまかい資料をきよう忘れて来てたいへん申訳ございませんが、これは一応一人五十ドルと考えまして、年間約千人分ばかりのいわゆる渡航資金ぐらいのものは出得るというその日の答えでありました。従いまして問題はここにそれだけのドルにかえ得るだけの資金があれば、年間に千人は帰り得るという、数字上の計算から言えばそういうことになるわけであります。ところが実際現在中国の各地でちようどここにお見えになつておりますような方々と同じ境遇にある人、つまり船賃さえ拂い込んでくれれば帰ることができるのでありますが、その船賃がないために帰ることができないということを、現地から内地の家族あてに言つて来ておる人が何人あるかという問題なんですが、現在のところ判明いたしておりますのは約百名です。しかし中国の内情からしまして、おそちくそういうことすらもわからない人とか、いろいろな人あると思います。わかつてつても内地に連絡してないとか、いろいろあると思いますが、そういう意味で現在手紙が来ておるのは百名であります。そういう状況でございまして、従いましてその資金の調達ができますならば簡單解決ができるのでございます。そこでこの点はきようの機会にぜひ申し上げたいと思つたのでありますが、なお具体的な点におきましては、それぞれ当日出席いたしました大蔵省関係、あるいは運輸省関係におきまして次会までに研究して来るということで前会終つたのでありますが、本日その方々はお見えになつておらぬことは非常に残念でございます。これは政府におきまして、何らかの形でこの元になる金ができますならば、ただちに実行できるわけであります。必ずやこれによりまして、少くとも最小限ただいま申し上げました百人の人はおそらく帰つて来ることができる、だろうと思います。これはひとつ国会におきましては、真劍な当面の研究題目としてお扱いいただきたい。ぜひお願いする次第であります。多少詳しく申し上げたいのでありますが、実に大失態で手帳を落して参りましたから……。
  137. 若林義孝

    若林委員長 その金を本人に手渡すのですか。
  138. 浦野正孝

    浦野参考人 でありますから非常な手続があるわけですが、その金ができますればそれをもつてドルにかえるわけでございます。そうして渡航費として司令部と交渉するという段取りになるわけです。その前に先ほどのエージェントの問題もありますし、それから司令部側の厚意的あつせんを得まして、あらゆる船会社に集まつてもらうとかいうようないろいろな会談がなければ実現は簡單には行かないわけです。それらの具体的な手続をどうするかとうことにつきましては、各関係官庁でそれぞれの分担をきめて次会までに持つて来るということが、この数日前の会議の成行きだつたんです。ただ問題はそれはそういう運びの問題でありますが、根本的には金の問題であります。これがいわゆる引揚げ予算の中からはたして出るものかどうか、私どもといたしましてはぜひこれを皆さんの御努力で実現化していただきたい、かように思うのであります。この可能性、ほかにもいろいろあると思いますが、第一に対象である数がそんなに多くないということです。先ほど来私が申しましたように、この問題は全体から申しますと表向きでない、ごく例外的な問題でありますし、そういう境遇にあられる方は割合に少いのであります。少い方から逐次とつて行くという建前で、何らかの形で本委員会で当面の重大課題として、受田先生の先ほどの御意見でありますが、これはできると思いますので、御努力いただきたいとお願い申し上げます。
  139. 長岡敏夫

    長岡参考人 先ほど来例の大量引揚げ、計画引揚げと申しますか、これが困難で、個人引揚げに重点を志向すべきだという御意見でありますが、私はこの大量引揚げの問題をそう簡單に困難だとかいう断定をすべきではないと思います。先ほど私が述べました中にも、今年八月に北京から帰りました一婦人の報告にもあります。北京軍事委員会の衛生部長が発言された中に、近く引揚船が出る云々という件もあります。さらにまた八月六日に、井上という婦人会長が現地において近く引揚げが始まるということを言つておる。この二人の言は、わずか二人でありますけれども、中共側としては相当責任のある方々の発言であります。また現地から来ておりますたよりによりましても、近く引揚げが行われるのではないかという楽観的なと申しますか、そういう話か相当あるのであります。そこでわれわれとして、はたしてこの問題についてほんとうに手を打つたであろうかということは、強く反省しなければならぬのではないかと私は思う。そこで最近向うからの手紙で、日本における引揚げ促進運動のあり方についての意見等が来ておりますが、その中に、ひとつ国民が連名でもつて毛澤東あるいは周恩來氏に対して、正式に引揚げを要求してくれないかという一節があります。そこにおきましてすでに国会におきましては、国会の皆さん方は国民代表でありまして、この方々の名前において正式に毛澤東あるいは周恩來氏に対して要請されておるだろうと私は思うのでありますが、これをひとつやつていただきたい。それからなおかつ第三国と申しますか、要するに中共と比較的懇意な関係にありますところのインドとか英国とかに、いわゆる国民の名前において国会の方々が奔走していただけば相当効果があるのではないかというように考えるのであります。しかし個人引揚げ問題は私は決して過小評価しておるのではありません。要するに今日まで帰らないという事実は事実なんでありまして、もはやこの引揚げ問題においては、実際問題としてはくじりとり作戰でもつてわれわれはぶつかつて行かなければならないのであります。従いまして個人の引揚げに対する対策というものは大いに考えていただきたい。そこで私が考えておりますことは、たとえば外国船の利用によつて帰つておりますが、これに対するポンド支拂いの問題等においては、日本国一国でもつてとやかく問題が簡單にできるものではないと思います。そこで卑近な例が、日本船がつまり貿易船として海外に出られるというふうなお話も承つております。この日本船に便乗せしめて返すというような方法を至急に国会あるいは政府としてとつていただきたい。それから送金の問題でありますが、実は私は香港におります一人の婦人を救出するためにいろいろ工作を講じておるのでありますが、これはなかなかうまく行かないのであります。私どもの方としましては船会社その他に手を打ちまして、金銭の拂込み等もすでに終つておるのでありすが、実際問題としてはなかなかすぐ簡單に金を送つてつたから帰れるというような問題ではないので、そこに複難ないろいろな事情があるようでありますから、まず日本船を何とか十二分に利用するような方策を今からすぐとつていただきたい、こういうふうに考えます。
  140. 若林義孝

    若林委員長 旅費の問題を中心としての質疑は他にありませんか。
  141. 受田新吉

    ○受田委員 今長岡さんは集団引揚げに対しての見通しも絶望ではないというお言葉があつたのですが、私は非常に感謝しておるわけです。私もいろいろな放送、あるいはあちらからの帰還者の言葉などを通じて、日本引揚げを再開するようなことがしばしば報道されながら、それが中断されておることに対して非常に遺憾の気持を持つているのですが、各個の引揚げと同時に今の集団引揚げに対するわれわれの念願をこの際中共当局に意思表示をする必要があると思うし、国民の輿論としても、向うにこのように強烈なものを持つておるのだということを伝える必要もあると思うので、先ほど高戸さんでしたか、向うの知合いを通じて何らかの努力をしたいということを言うておられたのですが、向うの知人、あるいは向う日本に非常に好意を持つてくれる人とかいうものが、こちらにも関係者が相当あると思います。私もこういう具体的な先方との内面的なつながりの人を二、三いろいろと聞いておるのでありますが、そういう方面を通じて、中共にわれわれでもよろしいし、また留守家族でもよろしいいから使節団となつて引揚げを懇請に行くような手は打てないものか、こういう問題をいつも真劍に考えて来ておるのでありますが、今帰られた方々を通じてわれわれ国会内の代表、あるいは留守家族の代表が中共方面に対して公式に、あるいは私的に使節団その他の方法を通じてそうした懇請をする。そういう可能性をどう見ておられるかを、ちよつとお聞きしたいと思います。
  142. 高戸英一

    高戸参考人 私の場合は、さつきも申し上げたように、私自身割合にある部分の上層幹部も知つていますし、それから向うの軍関係に相当日本人であつて懇意な人も知つています。ある程度個人的にそういうことはできる。われわれが自分のところの部長、関係上長あたりに話しても、帰してやる、ただ時期がないというようなことを言つていました点から言つても、将来日支の――たとい向う共産党であろうが、主義は別にして――国交を回復する上においても、向うも非常に願つておるし、われわれ国民も非常にこれを要望しておるのですから、何らかそこは結ばれるものだという観念は非常に深いのです。ぜひそういうことを行つて、一日も早く何らかの形式において具体化した方がいい。それからさつきの国民の要望ということは、これは非常に有効ではないかと思います。なぜかといいますと、向うでいろいろな行事がありますと、あらゆる面において国民の賛成を得るということで、いろいろな面でやつておるのです。われわれ政府という名より、国民全体の要望ということは、非常に効果があるのではないかと私も思います。
  143. 長岡敏夫

    長岡参考人 ただいま受田さんから御質問がありましたが、実は特に名前は祕しますが、ある団体が、満洲におきます各地区には日本人会がございますが、その日本人会に手紙を出しまして、向うに残つておる人たちの消息を知らしていただきたい、家族はこのように心配しているのだということを出しました。ところが全部の地域とは申しませんが、相当な地域から、非常に好意ある回答を寄せて来て、家族を非常に喜ばしておる現実があります。従いましてこの問題は、効果はぼくは相当あると思うのです。だから遅巡することなく、私は国民の名前において、ただ書かれる内容等におきましては非常にテクニックが必要でありましようけれども、一応懇請していただくというような措置をとられることは、非常に効果があると私は考えております。現に私の方でもプライベートな面においてもやつておりますが、比較的効果をあげております。その点ひとつぜひ国会議員の方々は国民の代表という形で出していただきたい。特にお願いいたす次第でございます。
  144. 若林義孝

    若林委員長 なお総体的に漏れたと思われますところの御質疑がありましたら、これを許します。
  145. 小林信一

    ○小林(信)委員 浦野さんにお伺いしたいのですが、帰してもいい、帰したいというふうな中国の一般的な態度に対して、最近の朝鮮問題の結果からして、それが正式機関として引揚げ促進する態度を延期しなければならぬような情勢にあるというふうな御批判がありました。何となくうなづけるのですが、浦野さんのこれに対する見解を、できたら詳細に伺いたいと思います。
  146. 浦野正孝

    浦野参考人 お答えいたします。はつきりいたしました見解というものは、実は持たないのです。どういうわけでこの八月以来、急に帰るということが、先ほど長岡氏が言われましたような二、三の向うの相当責任のある人の発言として、内地に伝えられたか、あるいは向うにおける日本人の間に、今度こそ帰れるの世という声が非常に沸き起つたか、どういうわけで急に帰すことに相なつたかということも、実はこれは揣摩臆測の程度を出ないのでありまして、それがまたどういうわけで、最近中央政府の方針が帰還ということを多少ためらう、あるいは当分延期する、というような態度にかわつたか、これはどこまでも臆測でありまして、私どもといたしましては、どういうわけかということは、はつきりした結論が出ないのでありますが、諸般の情勢からいたしまして、国連軍が満鮮国境まで進撃するという事態に対しまして、非常な脅威を感じておるのは疑いない事実のようであります。これからあと引揚げにつきましては、簡單に申しまして、軍機の漏洩という点も非常に重大視するのじやないかということを私ども考えております。大ざつぱに申しますと、私根本的に申しますならば、そのために日本人引揚げを右から左へ直結した線でとめたというのではなくて、非常に大きな――中共にとつての問題の大きさというものは、けたが違うと私どもは一応考えるのであります。それほど大きな変化が起つたので、一応待てという形ではなかろうか。しかしこれはどこまでも推測でございまして、御質問に対して満足の得られるような十分なお答えはいたしかねるのでございます。その点御了承願いたいと思います。
  147. 小林信一

    ○小林(信)委員 先ほど多数の方から、必要のない日本人は返したいとか、あるいは單に返したい意向が多分にあるというふうなことをお伺いしたのですが、やはりこれが促進されないというのは、朝鮮問題の結果から見ましても、ただいまの方の一つの予想なんですが、多分にそういう軍機の漏洩とか、あるいはその後の問題の発展から、技術的な面を失うことは中共として危險であるというふうなことも、やはり想像できるのです。そうしてみると、返したい意向、あるいは返してもいいというふうな意向は、中国人一般の意向であつて、正式機関あるいは政府の態度というようなものでは、今まで意思表示をしたことはないと考えてもいいのですか。そこらへんの皆さんの御見解を承りたいのです。
  148. 高戸英一

    高戸参考人 交通部内の意向ですが、個人的にはそういうふうな話が出るのです。もうすぐ帰れるのだから……。ところがそれではどこからそういうものが出たかというと、私のところはさつきもちよつとお話しましたように、船会社なんか一番交通には関係するので、輸送とかいうことがさつそく響いて来るのですが、何らそういうことが公式にはどこからも入つていないのです。上長あたりに聞いても、知らないと言うのが大半です。今の引揚げが七、八月ごろというのは、私がいましたときにもそのうわさはありました。従来そういううわさは何回となく起きています。一例をお話しますと、私がおりましたころでも、ある旅行者が政府の命令を受けて、大連地区に旋行した。そうしますと、その人が帰つて、おい、引揚げがあるようなうわさがあるのだ。ただこれだけを言つたために、満洲地区では全般的にもうそれが響いてしまつた。もう帰れるのだ、仕事なんかやめて、たいがいにしておいて、帰ることに專念しよう。せつかく共産党のいわゆる指導者という人たちが、ある線に沿うて日本人教育していたのが、がらくになつてしまつたということは、間々聞くことなんです。そのうわさはちようど波が押し返すように、次第々々にあつちから起き、こつちから起きて、根がなくて、いつもそういううわさが出るのです。それをまた中共の中級的な幹部まで聞いて、そういうことをよく言うのです。それではというので最高の幹部らに聞くと、自分たちは知らないと言う。あるいは政治的な意味があつて知らないと言うのかもしれませんが、そればかりではなくて、知らないというのがほんとうではないかと私は思うのです。私がおりましたときにも、さつきも瀋陽日本民主新聞の話が出ましたが、これはどつちかというと、日本人教育するために日本人の連絡を防いでいるのです。こういうことを私がおるときにも載つけたのです。日本国内の有利であるということが載つた場合には手紙をよく検討しろ、そういうものを一般に公開するなというようなことを載せているのです。明らかにこの満洲地区とそれから本国地区は違うのです。それで満洲地区は、中共の政治形態というよりも半ソ連の政治形態といつだ方が濃厚なのです。現在満洲地区中国人日本人もほとんど一体と言つていいくらいにいわゆるスタハノフ式の作業を打つて、非常に高速な能率を上げることを要望しているのです。それで日本人の中にこういうデーターも出ておりまして、二十七人の功臣が出た、功臣と言いますのは、ある業務に対して人の一〇〇%より幾らかより以上の進んだ人を、程度によつて功臣ときめまして、その功臣になりますと給額が非常に上るのです。満洲の現在の生活状態は非常に困難なのです。日本人にしても中国人にしても非常に困難のために、生活を一応安定せんがために、自分の能力以上の力を一生懸命に出しているわけなんです。それを出すということは一応自分の生活を安定するということになるのです。ところがその終つた結果はどうかといいますと、二十七人のうちに二十六人まで再起不能の人ばかりだつた中国人にもそういう状態が続いておるのです。その問題に対しては、政府も非常に困るというようなことを言つておりました。いわゆる量をとうとぶのであつて質でない。せつかくそれまでにつくつたものが半分は役に立たないというような状態に陷つております。そういういろいろな面から、満洲地区日本人の帰ることを非常にいやがつております。手続もこのごろようやく行くようですが、中国本国と満洲地区は行き方が違う。だれか検閲する者が、日本人同士であるのじやないかというおそれが多分にあるのです。まあどちらかといいますと、いわゆる指導者というのがわれわれ日本に帰ることを一応そこでとめておるのじやないか。それにしても中国の本国の動きが次第に満洲地区に広がれば帰り得るという望みがはつきりわかつて来ると思います。常に連絡はついておりますから……。
  149. 小林信一

    ○小林(信)委員 そうすると結局非常に日本人の技術というものが向うでは重要視されているし、今後のいろいろな面の中共日本との提携ということも、彼らは相当重要視しているというような点から考えれば、個人的には悪感情を持たせないようにすることが、あの人たち中共の今の各個人が共通して持つておる問題だ、こう考えるのです。そうすると日本人と接触した場合には、先ほどから高戸さんのおつしやつた、非常に日本人には好意を持つておるという話があつたのですが、こういうような点から総合しますと、返したくないけれども、自分の好感を相手に與えるために返したいと言うことが皆さんに共通して響いて、今私たちがお聞きしたように、一般は帰したいのだ、帰してもいいのだというように受取れるのですが、そこらへんをもう少しはつきり御見解を承りたいのです。
  150. 高戸英一

    高戸参考人 先ほどもちよつと申しましたように、それはたしかに提携したい。ただ、今再度申しますように、満洲地区は非常にソ連の圧迫がひどくて、ほとんどソ連の行政によつて動いておるといつてもいいくらいなんです。それで一日本人の旅行者が満洲地区から来まして、北京を見まして、満洲地区北京地区はまるで書と夜の感じがすると言う。それからあるドイツ技術者政府の命令によつて、昔の豊満ダムの破壊のあと日本の発電機を輸入するためにその調査に来ました。ところがその人の見解もやはり同様なんです。現在の満洲地区において人間らしい服装をしているのはソ連人だけだ、あとの者はボロボロの服を着ているということを言つています。それはその人ばかりでなくて、ある日本人の転任者が北京に来まして、これは私のせわしてた自動車の運転手が作業服を着て作業をしておると、ときたま通りかかつて、お前日本人じやないか。そうだ。お前ずいぶんきれいな服装をしているなというふうなことを言う。何これは作業服じやないか。もつてのほかだ、われわれ満洲にいる時代にはこういう服はふだんでも着ておれないのだというようなことを言いますから、そういう面からしましても日本人を非常に優遇しております。鶴岡炭鉱の例をとりますと、今いろんな仕事のきまつてないような人を炭抗夫としてどんどん送り込んでおります。はるかに千人を越しておると思います。それは各地の日本人団体をここにどんどんほうり込んでおります。そういう日本人がどういう結果かと言いますと、ほとんどさつき申しました功臣的ないろんな各掘鑿方法をいろいろ案出したり、考案したりして、どんどん業績を上げているのです。そういう面から行きまして、同じ仕事をしましても、日本人は一応技術的というよりも頭を働かして働こうという面において、必ずとは言いがたいのですが、中国人よりたしかに一歩進んで仕事をしている。日本人と協力すれば能率も上るしということは、確かにはつきり現われているのです。そういう面からして返したくはない。但し現在の政治形態からいつて、中国にソ連が次々とあらゆる面において入つ来て、返せ返せということを盛んに要望している。それは一つは技術的に衝突するのではないかと思うのです。こういう話があります。天津に現在発電所がありまして、話に聞きますと、日本から当時送つた発電機が三台ある。ところが現在働いているのは一台です。どうしたかといいますと、次々に懐われまして、その部分品を一台に集中したわけなんです。ところがその一台ももうまさに火が消えんとするような状態であつて非常に困つておるわけです。日本にどんどん注文はしていますが、なかなか注文が間に合わない。それで一ソ連專門家を連れて行つて、何とかこの対策はないかと聞いたところが、これはすばらしい機械だと言つて、そのまま帰つてしまつて所期の目的を達しなかつた。それからまた引揚者の新聞にも載つていますけれども、自動車あたりでも、ソ連技術者が三日もかかつて直し切れなかつたものを、わずか四、五時間で直して、翌日は運転したというようなことが随所にやはり出て来るのです。それで各末梢機関の上長は、日本人を使うということは、いざという場合に非常に自分に有効だというので、できれば事なかれ主義に押えたいのです。しかし私の場合、さつきも言いましたように、日本人がむりにやんやん言うようになりますと、これは何らとめる理由がないのです。現在中国は敵でも捕虜で殺すとか、そういう監禁はしないことになつているわけです。というのは、各中国の職場から捕虜を連れて来まして、自分が再度軍人になることを要望しなければどんどん返しているのです。そういう意味から言つても、日本の捕虜だから特別待遇するということは成り立たないだろうと思うのです。そういう面を推して行けば、抑留したり、とどめておくということは一切だめだろうと思うのです。私の場合は家族に申しつけまして、生活に非常に困るということを書かした手紙を二回送らせました。それを見せて、これだ、どうだ。それから送金の問題も出ましたが、これはほとんど不可能でございます。ただバーター制で向うから金は送つて来ますが、日本からの金は現在の日本の政治形態においては不可能だろうと思います。
  151. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 きよう私は重要な委員会をかけ持ちしておりまして、せつかく皆さん方が御出席になつたのに、出たり入つたりいたしましたことを申訳なくおわび申します。先ほどからいろいろお話を承りまして、旅費の問題、あるいはまた個人的な引揚げ問題、あるいは団体としての引揚げ問題と、いろいろお聞かせ願つて、私どもも非常に参考になつたのでありますが、私のお聞きしたいことは、国会の中における引揚対策特別委員会という立場は、やはり国家対国会の大きな問題を処理して行かなければならないのじやないか。先ほどからいろいろなお話を承りますれば、旅費さえあれば帰れるという人が百人もおる。というこの人たちに対してももちろん何らかの方法を講じて、旅費を送るなり、あるいはそれに対する対策をしなければなりませんが、やはり根本的な大きな問題を解決しない以上は、個々の問題も必要でありますが、やはり向うにいる人たちも全部帰る。われわれも全部返さなければならないという方針が最も大事なことじやないかと考えるのであります。  そうしますと、いろいろ私どもに対しての陳情あるいは懇請、このお話もありました。けつこうであります。御承知の通り引揚げ問題というものは、終戰後日本の国内問題ばかりでなく、世界的な問題として、あるいは国際赤十字社を通し、あるいはまた御承知の通り国連に対しましては、議会からも中山前委員長出席しているというように、全世界的な問題として、日本のいわゆる抑留されている人たちの引揚げ問題、あるいはドイツ国民の引揚げ問題等が、人道上の問題としてすでに取上げられておるのだ。もちろん毛澤東においてもその空気を察知しないわけはない。あるいはまたソビエトにおいても、今まであらゆる国民が引揚げ国民大会を開き、あるいは留守家族の人たちは神に念じ、仏に手を合せてあらゆる努力をして来ております。もちろん政府といたしましてもいろいろな手落ちもあり、われわれとしても不満な点がありますけれども、その中においてもある程度の努力はしておることは、やはり幾分認めてやらなくちやならぬ。そうした情勢下において、しからばどういうことをすることが最も一人残らず帰せるかということになれば、結論は中共政府そのものが日本人を返すか返さないかという、いわゆる政府としての決定がなかつたならば、先ほどのお話のように、用意さえあれば百人帰れるとか、あるいはまた一部の人たちはこういう便法で帰れるというような、小さいと言つては怒られるのですが、全体から見ればはなはだ小さい問題に進むよりほかないということになるのじやないかと私は思うのです。先ほどいろいろと承りますと、どうも地区々々において返してやりたいという気持もある。あるいは日本人は便利だからいてもらいたいという気持もあるだろうと思います。それは個々の問題であつて中共政府全体の意向というものが日本人を返すというほんとうの腹がきまつているのかどうか。それともまた日本人を十分に使つた方が、満洲なりあるいは中共地区の仕事の能率が上るから、返すとは便法的に言つているが、ほんとうの政府の腹は、日本人を返したくないのかどうかということを、目のあたり見て来ているあなた方から、個人的な考えでなく、地区的な向うの支那人、あるいは中共人、あるいはソビエトの人たちの考えでなく、ほんとうの政府の意向がどこにあるかということをひとつお聞かせ願えれば、はなはだけつこうだと思います。
  152. 若林義孝

    若林委員長 問題が非常に大きくなりましたが、しかし皆様方立場々々がありますから、その立場でのお答えを願つたらけつこうかと思います。
  153. 高戸英一

    高戸参考人 何回も同じことを申し上げますが、毛澤東の行き方から申しますと、日本人が何らかの施設に対してぶつかつたら、案外解決ができ得るのじやないかという気分がいたします。
  154. 松井茂雄

    松井参考人 私は帰る前には、当時天津警備司令部におられました、名前をちよつと忘れましたが、その人の好意によりまして、日本人は返していいのか悪いのかという問題について一応北京の中央政府にこれを照会したのです。本人が直接ちようど公用で参りまして、私は駅までそれを送りまして、よろしくお願いしますと申しましてお送りしたのでありますが、その人が帰つて参りまして、日本人は帰ることはできる、さしつかえないといつた回答を私はもらつております。その後私は天津市政府の方から旅費を出してもらいまして帰ることができたのでありますが、中央政府の方では、おそらく現在は一部返してもさしつかえないというようなことは考えられるのであります。がしかし全般的に考えますと、まず第一番に考えられるのは経費問題、こういうところにおきまして、中共としてはおそらく船舶の関係もあるだろうと思うが、一応動いておるのはパナマ籍でありまして、中共の船としてはありません。そんな関係でありまして、船もないというようなことも言つておりますけれども、でき得れば、昭和二十四年の八月にソ連の好意で大連沖に引揚船が向つたのでありますが、あのような形式をもう一度とつていただきましてやれば、また可能ではないかと私は思うのであります。それ以外は、個人引揚げ以外にしか方法はありません。
  155. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 ちよつとただいまの方にお尋ねをいたしたいのでありますが、帰れるのではないかということと、返すということと大分違つて来ると思うのですが、今のお話によりますと、帰れるのじやないかということでしようか、それとも政府自体が返してもいいという考え方なのでしようか。
  156. 松井茂雄

    松井参考人 政府自体が返してもいいという考えを持つております。
  157. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そこで返してもいいという腹があるのでしたら、御承知の通り当然日本政府としても、船の問題等につきましても、できるだけの準備もしておるのであります。また引揚げができるということになれば、船も決して間に合わないというような状態ではなかろうと思うのです。あるいはまだ旅費の問題にしても、旅費を日本政府から出せば返すのだということになれば、国会においてあらゆる予算を削減しても、そこに集中するということにわれわれは決してやぶさかではないのであります。ただ方法さえよければ返すという腹があるのか、それとも無條件で返すという気持があるのか、そういう点についてもう一歩つつ込んで、旅費を出せば、船を出せば返すというのか、その点をひとつお聞かせを願いたいと思います。
  158. 松井茂雄

    松井参考人 結果的には講和條約が締結された後には可能だということを言つております。
  159. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 ああそうですか、講和條約……。
  160. 上村進

    上村委員 私は今の集団引揚げ、あるいは政府のやることに対して何ら問題はないのですが、個人引揚げの場合には相当生活問題が問題になるのだと思うのですが、向う行つた方がむしろ生活は安定しておると、そう考えておる人も相当おるのではないかと思うのです。それでそれらの点について参考人の方々が、一体向うにおる軍人は別として、大多数の人の生活が今日本の人たちの生活と比べてどういう程度にあるかというようなことをお聞かせ願いたいと思うのですが、いかがですか、高戸さんからひとつ。
  161. 高戸英一

    高戸参考人 それでは一応お話します。向うの経済状態は基本が粟です。南方は米ですが、中部は大体粟です。北方はコウリヤンです。それによつて貨幣価値もきめるのでありますが、給料は大体中央が粟ですから、粟何斤で計算する。大体向うの大学を出ましてどれくらいもらうかというと、二百五十斤から三百斤です。大学を出て一応外国に洋行して行つて帰つて来た人が、約一級ぐらい上りまして五十斤くらい多い。十年近く技術者として働いたならば大体六、七百斤で、千斤近くになりますと二十年以上という程度です。向うの課長――これはほとんど皆共産党員ですが、課長級がどれくらいもらつているかと申しますと、六百斤から七百斤です。今度改正にはなりましたが、私が帰つて来るまで部長級が千三百斤から千六百斤です。それから專門家というのが千百斤から千三百斤ぐらいです。普通の技師がその以下です。普通の技師といいますのは、約二十年以上くらい勤めた者が大半だつた思います。若い人も十四、五年、專門家というのは現在ほとんど外人で、日本人は私が北京地区では一人だつ出たと思います。中国人に專門家というのはあるかないかくらいです。ソ連人はまた部長の三倍ないし五倍もらつておりまして、これは問題になりません。  それでは大体生活はどういう程度で、どれくらいの給料なら食えるかと申しますと、一人が少くとも百斤はいるのです。それで政府に勤めている人はどうかこうか食つておりますが、六、七百斤からもらつている人で五、六人の家族でありますと、やつと食つている程度で、まあ楽とは言えません。そうすると日本技術者はどの辺におるかといいますと、五、六百斤前後が大半です。はなはだ不穏当ですが、一部の課、所長が大体六、七百斤程度です。そうしますと、自分のところに使つている技術者は、相当認めていても、自分より上に行くことはやはりこれは人情的にいつても進むことを喜ばないせいか、大体日本人の地方におる人の生活程度の最高は、それくらいでとまりだろうと思います。そうしますと、多くもなく少くもなく、少し悪い人は、家族の六、七人ある方は相当困難です。婦女子のある人は、そういう人たちが働けばいいですが、さつき申しましたように、非常に現在では不景気で、相当に優秀な学校の成績を持つている連中が、入りました当座が大体二、三百斤ですから、一人のうちはいいのです。だが子供がたくさんできますと楽じやない。そういう面から日本の人はあまり幸福な生活はしておりません。やはりわれわれが日本で現在手一ぱいと同様に手一ぱいです。しかしその食う物はどういうものかというと、まず粟です。最高がときたま米が手に入る。それから饅頭、うどん、これは大体常食としていい方です。それで話に聞きますと、満洲地方はほとんど基本が雑穀です。これはコウリヤン、粟、ひえ、そういうものをぶち込んだものであります。それで満洲地区でぜいたくしているのはただソ連人だけで、雑穀は大体粟の半分くらいにしかならない。そうすると同じ給額で千斤と言いましても、粟の千斤と雑穀の千斤とではずいぶん差が出て来るわけです。表面は同じ千斤と言いましても、そこに非常な差があるわけです。さつきちよつと申しましたように、ほとんどぼろぼろの服を着ているというのは、そういう面からも出て来るだろうと思います。やはり生活が日本から見ますと一段下つていることと、また一面目分の子供がだんだん大きくなつて行くことです。一番の悩みは、生活はまずがまんするとしましても、自分の子供に対して、特別な人は別ですが、一般日本人は、中国の教育はさせたくない、子供だけはぜひ日本教育を受けさせたいと思つている。入国当時に結婚して生れたとか、赤ん坊であつたのがもうすでに五つくらいになる人があります。こういう子供たちはどうかといいますと、ほとんど日本語は半分くらいしかわかりません。中には全然わからぬ人があります。そうするとほとんど全部中国語です。それを見て日本人は非常な悲しみを持つのです。われわれが入りました当時にも、日本の学校があるのだということを言つて一応連れて行きましたが、日本人の学校はもちろんのこと、われわれの集会で五、六人集まるのでも禁ぜられております。そういうような状態ですから、日本人の学校など思いもよりません。それが一番問題です。入国当時、結婚したてとか若い人たちは、勢いにまかせて、共産主義けつこう、われわれはこの社会で生きるんだというような状態で入つた人も、子供の成長とともに、次第に故郷に帰りたいということが一日として悩みの種でない者がない。最初相当帰らないでもいいという意見を持つていた人も、今は一日も早く帰りたいと思つている。それから世界情勢から見ましても、日一日日本が隆盛にもどるということが中国の新聞に盛んに出て来ます。日本はわれわれは帰つてから思い半ばに過ぎたこともありますが、そういうことを知るにつけて、われわれ何のために働いているのだという気分が濃厚でして、帰りたいという観念を持つている者がほとんど九〇%だと思います。
  162. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 ちよつと関連して。一般の生活程度ということで、今御質問があつてお答えを願つたのですが、そこをわれわれは、非常に誤解されたいろいろなお話を聞いているのです。実はこの問題は引揚委員会ばかりでなく、考査特別委員会において、御承知の通り徳田要請を問題として行われまして、われわれも数箇月この問題を検討したのですが、そのとき、向うのアクチーヴと言われる方ですが、証人としてここにおいでを願つた共産党指導者たちの証言と、一般の引揚者として政党に関係のない証人の証言と、非常に食い違いがある。生活程度のことでも非常な食い違いがある。なぜかというと、共産党員であつたアクチーヴだつたという人の話を聞くと、向うの人たちは裕福な生活をしているのだ、日本帰つて来たところで、こんなみじめな生活をさせるよりも向うにいた方がいいのだということやら、また捕虜として扱われても、われわれはときどきカフエーに行つてダンスをやりビールを飲んで遊んでいた、楽だつたということが、この議会の速記録を見ればはつきり書いてあるのです。そういうことを国会において共産党員からわれわれは聞いている。また別の方の人の話を聞けば、非常に生活に困つているという。ただいまのお話を承りますと、技術者と言われる人たちの生活程度は、最初二百斤であり三百斤で、あるいは五、六人の家族を持ち、十年、十五年を経過した人で六百斤ないしは七百斤ということを聞きますと、非常な相違があるのであります。われわれはむろんそういう技術家とか大学を出て来た人とか、一般の中流階級以上の生活を心配するのでなくて、庶民階級の大衆の生活がどうであるかということを聞きたい。そういう点をわれわれは心配しておるのですから、どうかきようは政党に関係のある方々は少いので、公平な立場お話が承れるのではないかと思いますので、そのほんとうの生活、大衆の以下と言つては失礼ですが、庶民階級の生活というものがはたして日本人が満足しておるような、むろん日本国内においてもいわゆる向う抑留されている日本人の庶民階級、あるいは向うの庶民階級の生活程度がどうであるかということを、ひとつ簡單でよろしゆうございますからお聞かせ願いたいと思います。
  163. 高戸英一

    高戸参考人 それではもう一度申します。それは農村と町です。大体のことを申します。大体河北附近がおもですが、河北は粟その他の收穫に対する政府の税金は大体どれくらいかど申しますと、五割ないし六割です。そうしますと一応全農村において農村の土地半分を行いまして、あらゆる階級が一人になんぼというものを割当てられました。それではこの收穫において十分食べられるかといいますと、五割ないし六割の税金をとられますと、普通状態においてはほとんど食糧不足です。農村に行きますと、ちようど八月、九月ころが粟あるいは麦の收穫時期でありますが、このころになりますと、農村の各家で夫婦げんかが絶えないというくらいにひどいのです。向うの税の配賦の仕方はどうかといいますと、一つの村なら村單位に、この村は何人おるから、坪なんぼあるから幾ら出せという命令が来るんです。そうすると農村大会をやりまして、お互いがお前のところは幾らくらい入るから幾ら出せというようなことで、そうすると中に共産党のさばを読むような人が必ずおる。そうしますと大衆の意見としては、今年はできが悪いからむりだというみんな意向を持つております。しかし中の二、三人は、おれは六割出すのだということを言いますと、大衆はもうそれを反駁することができない、しかたなしに六割に治まつてしまう。そうすると最初に手をあげて要望した人は、政府に協力したという意味でかなりの褒美をもらうわけです。その人はいずれにしても生活に困らなくなる。困るのは一般農民である。自分のところは今年はできが悪いのだということがあつても、それを反駁することができない。ところがそれを全部持つて行かれますと、とても食えない。もちろん税金は完全に実つてつた場合のそれでありまして、ところがなかなか部分的に実らないところが多い。その代償として豚を持つて行く、鶏を持つて行く、一例をあげますと、鶏が卵を産んでこけつこうと鳴いたら、村の係員が飛んで来て卵はどんどん持つて行く。自分のところの鶏の産んだ卵も十分に食べられないというような状態です。ですから豊作なら豊作で持つて行くし、農民が非常に怠惰になつてしまいます。働いてもとられるのだ、それではどうせ食えないものなら骨を折るのは損だ、ごはんを食べて先生らが出かけるのはいつも八時ころです。四時ごろになつてくわをかついで帰つて来る。それからどの家でも昔は机にすわつて食べておつたことがはつきり見られるのです。どこの家でもテーブルを持つています。ところが現在は絶対そういうものは使いません。みな道ばたで、これは中国だから行儀が悪いのでしようが、こんなかつこうをして食べておる。そのごはんはどうかといいますと、粟がゆです。それも粟のふすまが三分の一くらい入つておるというような状態で、塩気なんかほとんどない。冬なんかでありますともう筋ばかりのだいこん、河北地方は特にああいう作物は悪いのですが、筋ばかりといつてもいいだいこんができますが、そういうものを切り込んで食べております。向うでいう麦粉、白麺、これなんか食べるということは非常なぜいたくなんです。病人ができた場合なんかでも内緒で食べる。もし公々然と食べるようなことがありますと、さつそく次の税金のときに、お前のところは金があるのだろうからといつて、すぐたくさんの税金をかけられる。とても困つてしまう。  それから共産主義は階級思想はないということをよく聞かれますが、それは絶対にあります。というのは、これは太原のある日本人鉄道に勤めておるが、病気をした。階級はわれわれよりはるかに下でしたが、要求して上長と同様のごちそうを食べさせてくれないかと日本人の他の者が要望した。ところがあれはだめだ、階級が違うからいけない。もうそれだけなんです。そういうふうで生活にしても絶対に楽でありません。それでは商売人はどうかといいますと、次々に税金がかかつて来まして、もちろん北京の住民は割合にぜいたくをして米を食べております。しかし一般の地方の町は、ほとんの町の三分の二ないし半分が廃墟です。私の通りました地方は、現在は多少復興していますが、なかなか昔の大廈高楼に入るなんということは思いもよりません。もしそういうところに入つておりますと、さつき言いました税金がかかりますし、すぐ何らかの反駁的なことが起きますから、昔の大きな商人の家なんかはそのままほつたらかしてありまして、まつたく夜なんか行きますとさびしい気がいたします。北京のあたりでも、傳作義が逃げたときに税金をとらずに逃げたんです。そうすると共産党が入つて来ると、さつそく去年の税金を出せ。それで北京の人民はこれはもうけた、もちろん共産党などがとるなんということは考えておらなかつたが、去年のやつを出せ、しかもそれがべらぼうに高くて、おれたちの品物全部売つても税金になるかどうかという不服を言つておるわけです。それをぶつぶつ言いながら出したところが、すぐその年の税金を言つて来た、中には税金のために、町あたりでも政府の服を着ておりますと、とうもろこし一つが普通五銭で売つておる。それを洋服を着ておる者を見ると、二十銭にふつかけることが間々ある。そうすると共産主義の行き方として、絶対に圧迫ということはできない。そうかといつてお前無法だということは言えない。私ちようど見ておりましたのですが、映画館の前で、片方では高いじやないかと言つておる。そうすると何が高いのだ、お前たちは金をたくさん持つておるからいいだろう、いやなら買うな、こういうことを堂々と言つておる。そうして見ている目の前に、自分の同僚にばらばらとまいてしまつて知らぬ顔をしておる。お前たちに売るほどなら人にやつてしまうという、そういう反駁的なことが随所に出て来ております。まあ大体そういうわけです。
  164. 松井茂雄

    松井参考人 私は第四野戰軍の関係におつたので、日本人の給料等についてちよつと説明を申し上げたいと思います。  軍に徴用されております者は、雇用留用というもので、まず最初は雇用関係の留用をするのでありまして、現在これらは粟の標準で一箇月二百斤から四百斤程度もらつておるようであります。これは最初の計画でありまして、暫時これから参加者というふうに進めるのでありまして、参加者に進められますと、これは自然給料制を認めないで、供給制となるのであります。供給制は第四野戰軍においては大体豚肉を標準にしますが、一斤から二十斤までの技術手当を支給するのであります。看護婦等はおそらく一斤の豚肉の月標準の価格で生活をしておるようでありますが、衣食住は全部共産党の方で負担してくれる。小づかい銭として月に一斤の豚肉をもらつておるというような程度状況であります。そのほかもう一つは、党員はまたぼくらにはわからないような方法をもつて、表面上は供給制となつておりますが、内面では相当使用しておることは事実であります。この内面につきましてはよくわかりません。ぼくはちようど十五斤の供給制で帰つて来るまでやつておりました。そのほか今日本人でありますのは、難民と、一応中国共産党関係に何ら雇用関係のない者が、営業の自由等は認められておりますが、結局現状は実際商売等はやつて行けない希望残留しておりましたが、結果的には商売も何もやつて行けなくなるというふうなのが当然になつて来ておるのであります。結果的には日雇に等に出て毎日働いておるというのが多いのでありますから、最近は希望残留者等も帰りたい帰りたいというふうに要望しておるのであります。
  165. 若林義孝

    若林委員長 一応これをもつて参考人より中共地区の残留同胞引揚げの実情について聽取をいたすことを終了してさしつかえありませんか。
  166. 浦野正孝

    浦野参考人 最後に留守家族団体から参考人としてお招きいただきましたので、参考までに要望をお願い申し上げたいと思います。その前にこれは申し上げる要もないと思つておりましたが、だんだん出ましたので、はなはだこれは初歩的なことを申し上げて失礼でありますが、一応家族団体からお願いいたします。その第一は引揚げ問題、抑留問題に対する根本的な御認識をもう一ぺん御検討いただきたいということであります。先ほど優遇の問題がありまして、内地よりもいい人があるのではないかという御意見があつたのでありますが、これは私今日百二十万といわれております留守家族を代表して申し上げますが、留守家族はいかなる優遇がありましても、帰らないということを承認する意思は絶対にありません。簡單に事例を申し上げますが、私の方に連絡があり、シベリアから帰つて来ましたけれども、お気の毒に奥さんや子供が中共に残されて帰れないという方たちが現在七百人ぐらいおります。反対に御主人がシベリアに連れて行かれて、あとおばあさんと若い奥さんと子供さんと帰つで来る途中、若い奥さんだけを中共軍に引連れられ、それからシベリアから御主人が帰つて参りました。こういう御家庭におきましては、いかなる優遇をされましても絶対に満足のできないものであるということは、私の申すまでもないところであります。この優遇いかんという問題は、私ども留守家族といたしましては、全面的に否定いたします。これはつまり抑留でなく、まつたくこれは誘拐であり、拉致であり、強奪であると私どもは確信しております。なおこの点に付言いたしますならば、ポツダム宣言の受諾当時前後の経緯におきまして、一般邦人ということが念頭に置かれておらない。軍人軍属に限られておつたということが、私ども留守家族の非常に不満としておるところであります。従いましてこの問題がその本質の徹底を欠きますために、ともすれば社会事業的に扱われたり、今春の当委員会におきまして、いわゆる引揚げ促進のための切手を出すか出さないかという御論議が出ましたときに、当時の郵政大臣は、いわゆる共同募金の中にこれを入れる、社会事業という概念で扱つておられる。私どもとしては、社会事業として扱われることははなはだ不満足でありまして、つまり社会事業、見方をかえますならば、私どもの現在置かれております立場というものは、天災や水害の犠牲者ではないということであります。あのときにあのごとくにして日本終戰したがために、私ども邦人は帰れなくなつたのだということを私どもは確信しております。従いまして、この抑留という事実は、誘拐であり、強奪であり、これを中共流の言い方をいたしますならば、私ども家族は、人民における侵略であると考えております。それからなお先ほど来国会も非常に御努力をいただいており、政府も御努力をいただいたということも承知しておりますが、これは私ども率直に申しますと、末席においでになる議員の方ばかりに限られておるようでありまして、端的な例を申し上げますと、私ども留守家族としては痛憤おくあたわざる事例があるのであります。それは最近の国勢調査におきまして、海外に抑留されている人の欄がなかつたということであります。これは調査云々の問題ではありません。私ども留守家族はすでに日本から抹殺されているものと考えるのであります。これは当局の方を勉励し、私どもかけずりまわつて、形式的にはやつと間に合いまして、特別の紙で調査をすることになつたのでありますが、おそらく調査としては完全な結果は出ず、その間に手落ちがあると思います。この問題は本質的な、いわゆる民族的の問題である。私たち留守家族としてはこれは民族の問題であり、国家の問題であるという見地から扱つていただきたいと思います。たまたま数日前、十月二十六日に日本では遺憾ながら大きく伝えられませんでしたが、外電のA・P及びU・Pの報ずるところによりますと、西ドイツにおきましてはアデナウアー首相が陣頭に立ちまして、ラインの合同会議を開きまして、ドイツに対する使節団の入国許可を国連に提訴することを決定いたしました。なお当日全ドイツにおきましては、十分間教会は鐘を鳴らし、交通を停止し、またドイツのプロテスタントのデモンストレーシヨンをやつたということを伝えております。顧みてわが国の現状はどうかというと、われわれ留守家族として暗然たる感じがいたします。この点は皆様方に申し上げることは多少お釈迦に説法のきらいはあるかもしれませんけれども、なかなか機会がございませんので申し上げた次第です。  また先ほど来待遇問題が出ておりましたが、今後の方途につきましては、いろいろ御意見がございました通り、現在進行中の形を顧みて、まず第一にわれわれは国連の問題であると思うのであります。これはもちろん中共地区のみに限られたわけではありませんから、その他の地区も入つているわけであります。  なおこのほかに、私は前回の委員会は傍聽いたしませんでしたが、話が出たそうでありますけれども、政府におきましては、いわゆる国連ライン以外の中共への働きかけのために、司令部を通じて、英国であるとか、インドであるとかいう第三国を通じてたくさんやられるやに承つたのであります。これももちろん当然のことであります。なお私たちとして、抽象的に申しますれば、全国民の署名したところの、いわゆる政治的の問題とまつたく離れて働きかけるという問題であります。これは私の方へ最近参つております留守家族の手紙に非常に多いのであります。これは今までにない引揚げという向うの機運が起つて来ておりますので、ここでその機運をちよつと突いて行けば、案外早く実現するのではないかという節があるのであります。これを真実の声として毛澤東とか、あるいは周恩来等に対して懇請しでいただきたいという希望がございます。これは今春、たしか三月だつた思いますが、国会でもその議が起きたというふうに承つておりまして、私その原文だけは拝見いたしたのでありますが、結局いろいろの支障があつて実現できなかつたということですが、これはさらにその方面に御努力いただきたいと思います。  それからいわゆる使節団の訪問の問題でありますが、この問題につきましては、もちろん私どもも当初からの念願であり、あらゆる機会にこれを希望し、司令部と折衝して参つたのでありますが、現実の問題といたしまして、私個人の考え方は、一応国連に行きました三人のオブザーバーの方々が近くお帰りになりますが、特に衆議院からは中山先生が行かれましたので、それらの方々のお帰りを待つての方が順序として穏当ではないかと考える次第でございます。  なおこれは表向きのライン――わければいわゆる集団引揚げの問題でありますが、これと別個に費用の解決をもつて、官名あるいは多少それを越す人たちが帰つて来られるという現実ぎりぎりの問題であります。これはもちろん私ども家族といたしましては、何とかして一日も早く救い出してやりたい、かように考えますので、この点につきましては先ほど申し上げましたようにいろいろな難点もあると思いますが、あらゆる技術的な面を克服して、当委員会におかれまして早急な解決方をお願いしたいと思います。並びに申し上げておきたいことは、公式な大きな線が国連に参りまして、いわゆるこれはソ連の責任である、ひいては中共の責任において日本人を帰すべきだという大前提が進んでおりますとき、この陰の――陰と申しますか、個別的の問題をあまり大きく扱われるということは、非常に矛盾したと申しますか、妙な立場になりはしないかと思われますので、これは現実の面を御努力はいた荘きたいのでございますが、そこら辺のいきさつをお含みの上御善処いただきたいとお願いいたす次第であります。さらに特に皆様方は政治家でいらせられますので、政治家の立場お願い申し上げたいのでありますが、先ほど私が申し上げましたような引揚げ問題の観点にもし立つていただけるといたしますならば、これはまことに重大な問題でございまして、従いまして当面しておりすところの講和問題でありますが、この講和問題においてこの問題をどう処理されるか、いわゆるポツダム宣言と、新しくできる講和の問題において、この引揚げ問題をいかにはめ込んで行くか、いかにすることが一番よいかということを愼重に御検討いただきたいと思います。これは過日ある新聞で見たのでありますが、二、三の政党の講和問題に対する御意見が出ておつたのでありますが、名前は申しませんが、はなはだ遺憾ながらこの問題を講和に際して触れておられたのは、ある一つの政党だけであつたと私は記憶するのでありますが、これはひとつ真劍に御考慮いただきたいと思うのでございます。なお講和につきましては、先ほど来中共政府はどう考えておるとあなたは考えておるかという御質問がございました。これは軽々にお答えはできません。これは御承知のように何も意思表示はいたしませんし、いろいろな触手を動かして意図を察するよりほかはないのでございますが、説をなす者は、あるいはつまり国際的に中共が承認されることの人質的な意味を持つておるとか、いろいろな説をな者がありますが、その当否は拔きにいたしまして、講和條約、これがどういう形で――いわゆる單独か全面かの問題もあります。いろいろございますが、講和條約、つまり中共日本との講和というものができるのかどうか、あるいは中共が承認されるかどうかという時期は、少くともこの残つておる日本人を取返す上においては重大なポイントになる。そういう場合にはこちらとしてよほどの準備をもつて、最も有効な手を、それまでに解決できない場合には打つていただかなければならないと考えておるのであります。その点におきまして講和條約の問題、そのピークをひとつ念頭に置かれて御研究をいただきたいと切望する次第であります。なおさらに先を進んで申し上げますならば、国連においても解決できない、さらに講和條約においても解決できない、どうしても中共が返さないという場合には、私ども留守家族の団体といたしましては、やはり日本は中立を守り、依然として戰争を放棄して――といいますことは、現果におきましては、これらの方法は遺憾ながら見捨てて、日本のみでやつて行かれるのか、それともあるいは多少の犠牲をしい、あるいは多少の出血ありとしても、この残つておる同胞のために八千万が立つていただけるかどうか、私ども百七十万の留守家族は、今や息を殺してその成行きを眺めております。当面の問題といたしましては、先ほど申し上、げましたような五項目の表向きの方途、あるいは陰におかれて渡航費用のほんとうの現実化に御努力いたたきたい。はななだ抽象的でありますけれども、なかなか機会がありませんので、文字通り御参考までに申し上げる次第であります。
  167. 若林義孝

    若林委員長 一応これで終了いたすことにいたします。  この際参考人の方々に一言御礼を申し上げます。本日は午前中よりただいままでの長時間にわたりまして引揚げの実情をいと懇切、細部にわたつて多くの参考となることをお話くださいましたことは、本委員会といたしましても、中共地区残留同胞に対する引揚げについての多くの可能の点、障害の点が明らかとなり、今後この問題解決に大いに参考となつたのでありまして、この点各委員を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。     ―――――――――――――
  168. 若林義孝

    若林委員長 なおこの際お諮りいたします。本日御出席にならなかつた武田並びに長畑参考人につきましては、本日の参考人と同様な径路をたどつて帰りになつた方でありますから、本日各参考人の方々により種々貴重なる御意見を承りまして、その実情も大体明白になりましたので、御欠席になりました武田、長畑両参考人につきましては再び御出席を願う必要がないと考えられますので、再び出席を求めないことにいたしますことに御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  169. 若林義孝

    若林委員長 それではさよう決します。  先ほど参考人各位に御礼夢申し上げましたように、委員各位もまた御繁忙中にもかかわりませず、熱心に質疑応答を重ねられまして、本日本委員会を開きました目的は十二分に達し得られたように思うのであります。今日得ましたところの貴重なる参考資料を基礎といたしまして、将来中共地区胞引揚げに関しまして有効適切なる方途を本委員会において考究いたし、政府を鞭撻し、あるいはそれぞれ国連、あるいは宗教団体、あるいは経済団体にでき得る限りの手を盡して、一日も早くこの残留しておられる方たちの引揚げに邁進いたしたいと思うのであります。  なお次回の委員会は臨時国会召集の前々日に予定いたしておるのでありますが、さよう御承知置き願いたいと思います。いずれ公報をもつて御通知いたします。  本日はこれにて散会いたします。     午後五時十八分散会