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長岡参考人 ただいま御紹介にあずかりました
長岡でございます。私は
終戰時満洲日日
新聞の記者として
牡丹江におりました。八月十八日まで現地にとどまりまして、当時東満
地区の
日本人はほとんど
引揚げたのでありますが、その最後を見届けるために私は残
つたのであります。それからさらに、八月二十日に
ハルピンに出まして、先ほど
松井参考人から
お話がありましたのと同様に、八月末に
ソ連軍に逮捕されまして、いわゆる
日本人狩りにひつかかりまして
牡丹江に再び参りました。同年の十一月暮れに釈放されまして新京、奉天に参りました。その後奉天の
日本人会に入りまして、
中共地区に
残つたところの
日本人の
引揚げ工作並びに
引揚げ業務に当
つておりまして、同年の暮れに留用を解除されまして
帰つて参りました。それ以後、ただいま御紹介のありましたように満蒙援護会におりまして、帰らぬ
中共地区の引揚者調査等の業務に従事しておるものであります。
次に私は
中共地区引揚げの
経緯、留用拉致
状況、残留
状況、
抑留拘留へ中国本土への移動、抑残留
日本人の動向につきまして御
説明したいと
思います。
在満
日本人の
引揚げは、南方その他の地域より約九箇月遅れまして、一九四六年五月、
ソ連軍の満洲撤退とほとんど同時に行われたのであります。当時満洲は
国民党と
共産党の両勢力下に二分されまして、しかもすでに国共内戰の様相を呈していたために、
関係者の間でこれの
引揚げについてはすこぶる憂慮されてお
つたのであります。
国民党支配下のいわゆる南満
地区日本人の
引揚げは、同年の四月二十三日錦州
地区から開始されまして、奉天、新京と、比較的順調に行われたのでありますが、
中共軍の支配下におりましたところの
日本人の
引揚げは、ま
つたく見通しがつかなか
つたのであります。しかし幸いなことには、米国軍のいわゆる軍調部の活躍と盡力によりまして、米国、国府、
中共からなるところの三人小組、これは小
委員会でありますが、これの協定が成立しまして、同年の八月二十日から
引揚げが実施されることにな
つたことは
皆様御承知の通りであります。当時の国府軍と
中共軍の接触地帯は、おおむね新京の北部、いわゆる
ハルピンと新京の間の第二松花江、拉法、梅河口、本渓湖、大石橋を結んだ線でありまして、現地にあ
つて引揚げ業務途行の任に当りました人々は、
中共地区の
引揚げ対象数を当時三十万と推定してお
つたのでありますが、この数字は
中共地区への潜入調査、これは非常に困難な
状況にありましたけれども、潜入いたしまして、同
地区の主要
都市から、また
日本人会の
幹部の方が困難なる脱出行を遂げられまして報告されたものを集めたものであります。しかしこの中には降服を忌避しまして、いわゆる遁残部豫とな
つた人たち、または開戰当時国境地帯におりまして、
避難途中に原住民部落等に残留を余儀なくされましたところの婦女子は含まれておらないことは申すまでもありません。しかし実際にこのときに
中共軍から国府側に引渡されましたところの数は、同年八月から十月までに二十三万六千七百五十九名であります。これを
地区別にわけますと、
チチハルが四万一千四百六十六名、
ハルピンが九万八午五百八十七名、
牡丹江が五千七十九名、通化が一万四千八百三十名、京図線沿線が三万七千二百六十六名、安琴線沿線が三万二千九百五十九名、大石橋以南が六千五百七十二名、総計二十三万六午七百五十九名であります。この引渡しにあたりまして、
中共側はこれをも
つて同
地区の
日本人の
引揚げは完了ということが声明されたのであります。しかし当時多数の
日本人が引渡されなか
つたことは事実でありまして、
中共地区に残された
日本人は各地方に各種徴用者、あるいは戰犯容疑者として、あるいは
引揚げのことは一般に知らされず、また
引揚げ列車に間に合わなくて、残された者が相当あ
つたことは事実であります。にもかかわらず、この
引揚げ以後は竹のカーテンが固くとざされまして、今日の悲劇を生んでいるのであります。一九四七年には国府
地区留用者及び
家族並びに事故
残留者約三万名が
引揚げましたが、
中共地区からは行われず、一九四八年の七月証北鮮
地区の
引揚げが実施された際、延吉、図門におりました
日本人が約三百七十名、これがこの北鮮の
引揚げに便乗いたしまして
引揚げて参
つております。次いで一九四九年、昨年の九月でありますが、大連から
ソ連側のあつせんによりまして二千八百六十一名が
引揚げたのみであります。そのほかに計画
引揚げというようなことではなくて、個人
引揚げの形で全中国から帰国されました者の数は、四九年の秋以来約三百名を数えるのみであります。
中共地区の
引揚げははたして困難であ
つただろうか、私たちいろいろ
考えてますと、今日においては国際情勢その他の
関係で非常に複雑だと
思いますが、必ずしも当時といたしましては不可能なことではなか
つたと
思います。一例をあげますれば、国府
地区におきまして一九四八年六月と申しますと、当時国共内戰の非常に激しい
時代でありました。新京も陥落し、奉天はいよいよ陥落寸前にあ
つたのでありますが、この
中共軍の完全包囲下にありましたところの審陽の人々は、大型輸送機によりまして奉天・錦州間の空輸を断行したのであります。これは第一次は六月の四日から七日までに行われました。第二次は八月七日から九日まで行われまして、延べ大十八機で三千三百二十名の
日本人を陷落寸前に救出して
日本に無事送り帰しておるのであります。
なぜこのように
中共地区に
日本人が多数残留を余儀なくせしめられているか。この答えはきわめて明白であります。すなわち
中共軍が
終戰後満洲に進駐以来、全満各地において
日本人技術者の徴用が全面的に行われたためであります。最も合法的な徴用は、当時各地につくられていました
日本人会を通じて行われたものであります。新京では一九四六年の四月、同じく五月に約五百名の医師、看護婦が
日本人民会を通じまして徴用されております。四月二十五日、当時の吉江軍区の外交部長であります長蓼一帆氏並びに衛生部長林士笑氏、続いて五月二十二日には人民自治軍総衛生部長賀淺氏との間に議定書が正式に手交されまして、
日本人医師、看護婦三百九十八名が徴用されたのであります。この議定書には徴用期間は三箇月と規定され、また期間中といえども内地
帰還はこれを妨げざることという
項目がはつきりうたわれているのであります。しかるにこの約束は遂に守られずに今日に至
つている現況であります。このように比較的合法的に徴用されましたところのものは四五年八月から四六年九月までに錦州において三百数十名、北安において百名とか、また安東、
牡丹江、
佳木斯、
チチハル、
ハルピン等には十六歳以上三十四、五歳までの婦女子が多数徴用されたのであります。これらは比較的合法的に行われた例であります。鞍山、本渓湖、安東におきましては多数の婦女子が拉致連行され、また四六年の九月の
中共地区引揚時におきましては、不法にも
引揚げ列車から帰女子が拉致連行されておるのであります。この人たちの多くは未婚あるいは夫を
ソ連領内に連行されました婦人たちであります。徴用者は右のような医療
関係者のみではなく、広
範囲に
技術者は徴用されておるのであります。その他
残留者は
引揚げ時期の不徹底、あるいは
残留者自体が僻村
地区にいたために、
引揚げの期日を知らずに
引揚げ列車に乗り遅れた者などで、中には一般邦人を帰すと、徴用した者に動揺を来すとい
つてとめられた例も枚挙にいとまないのであります。
以上のごとくまだ抑残留の苦しみの中にあるほとんどの
日本人は、本人の意思によらず、抑残留を余義なくせられておるのであります。
中共地区には一体何万人の
日本人が残留しているか、この問題につきましては、いろいろな
方面で論議されおるのでありますが、
中共側からの正式発表は今日ありませんで、
日本側が満洲
地区の
終戰時の
引揚げ対策基本数を百十万五千八百三十七名とし、正式引、揚者百四万五千五百二十五名、これを引きましたところの六万三百十二名と推定しているのでありますが、引傷者の報告並びにわれわれ現地において調査作成した資料によりますと、十万以上と推定されます。また
中共地区で発行されておりますところの民主
新聞は、一九四八年に残留
日本人を十二万と発表したと報告する者も出ております。従いまして六万をはるかに上まわるものと推定できるのであります。一九四九年の九月に
引揚げて来られました人々からの報告によりますと、満洲
地区に約四万五千名と言われております。これは
項目別、
地区別に申し上げると時間がかかりますので、省略さしていただきます。この数字はいずれも四九年の九月の引揚者がそれぞれの在留地で確認して持ち帰
つた数字であります。未確認の数字を入れるときには、あるいは南方に移動した人々の数を入れれば、六万をはるかに越えることは想像にかたくないのであります。大体これらの抑
残留者の区別を大別しますと、戰闘員、医務
関係者あるいは担架隊要員、軍需工場
関係技術者、軍夫として
中共軍に留用されておりますところのいわゆる参軍者、それと技術
関係者、技能者、医務
関係者、労務者として
政府機関または官公営の事業に留用されている者、いわゆる
政府及び機関留用者、それから降伏を忌避しまして現存しておりますところの元
日本軍及び
避難途中落伍しました帰人並びに子供等、その他
難民と大別することができると
思います。留用者に対する待遇は、一部高級
技術者を除きましては
中国人と同様でありまして、初期におきましては、生活上あるいは待遇上の不満から種々の問題があ
つたことは、
皆様すでに御承知の通りだと
思います。しかし順次環境になれまして、また
思想教育の徹底等によりまして、最近に至りまして待遇上の不満は一掃されたやうに承
つております。また最低生活は保障されているのは事実であります。ただ問題は留用者以外の者の生活でありまして、これらの人々は想像以上の悲惨な生活をしていることは、いろいろ報告れましたところによると事実らしうございます。またこれは現地からの通信等によりましても、この点は察知でき得るのであります。
次に
中共地区の残留
日本人の
引揚げ問題に対しまして、当時
日本人の民主主義者の占める地位はきわめて重大でありまして、
引揚げかいなかのかぎを握ると言うても過言ではないことは、既引揚者の証言並びに現地からの情報によ
つて明らかなことであります。これら主義者たちは、長年
延安におきまして、あるいは
終戰後安東その他におきまして
教育を受けた人々でありまして、
終戰後長春において
日本人民主主義者グループが集まりまして、在満
日本人対策の基本方針が決定されたのであります。そのとき決定しましたことは、
日本人を一人でも多く満洲にとどまらせることであり、その理由としては、
日本を過剰口人から救うこと、世界情勢から判断して、早晩予想される
アメリカ反動化の桎梏から
日本を救うためには、後方根拠地として満洲に
日本共産主義者の存在が必要なこと等があげられまして、着々工作を進めていたのでありますが、一九四六年の二月ころ
日本から放送されましたニュースによりまして、
日本共産党が満洲の
日本人引揚げ促進運動を起していると伝えて来たのであります。これが非常に衝動を與えた模様でありますが、しかし一九四六年四月、
中共軍が長春に入城するや、同グループは
日本人に告ぐる書を発表し、約十
項目のスローガンを掲げ、その態度を明らかにしたのであります。そのうちには遺
家族の即時送還、労働権の確立、労働に基く財産所有権の確立等々が掲げられまして、さきに決定しました
日本人残留に対する
対策は改変されなくて、遺
家族を除く
日本人の残留要望の
思想を明らかにしたのであります。この
対策は後に
中共側にも正式に認められまして、その後の
中共当局の残留
日本人に対するところの態度も、もつぱらこの線に沿
つて示されました。中国革命は
日本革命の前提である。中国革命が成就しない以前に
日本に
帰つても意味はない。
中共の方針に反対でなければ、とどま
つて協力せよと説示されたのであります。この意図を受けて
日本人主義者が残留工作を行
つたのでありますが、主義者の乱立は素質の低下を来し、ともすれば強権のもとに工作が進められ、本人の
希望の有無を問わず残留せしめるという結果となりまして、今日なお数万の
日本人が望郷の鬼とな
つて、幾十万の
留守家族をして血涙もて
引揚げ促進を叫ばしめている一大原因とな
つたのであります。混沌たる当時の
事情よりいたしましては、今日の悲劇を察知することはできなか
つたと
思いまするが、その責任がないとはだれもが言い得ないでありましよう。これら主義者たちは、一九四六年の
引揚げ以後はもつぱら残留
日本人の
思想教育に重点が置かれました。それを唯一の任務としてはげしい
教育を
行つて、帰国
希望者を反動呼ばわりいたしまして、今日なお
抑留工作に狂奔し続けている事実はおおうべくもありません。
次に中国本土への
日本人の移動であります。一九四九年の秋、
中共軍は全満洲を
解放しましたが、これと同時に林彪将軍を総司令とするところの
東北人民
解放軍は、新たに第四野戰軍を編成しまして、中国本土へ進出して行
つたのであります。この第四野戰軍には多数の
日本人が参軍しておりまして、遠く揚子江以南、広東、雷州半島に、また海南島攻略職に参戰したことは、従軍者からの通信並びに引揚者の報告によ
つても明らかにすることができるのであります。また経験後復興建設に従事するために、満洲及び大連から多数の
日本人技術者が移動しまして、さらに帰国の機会を得るために華北、華南
方面に脱出したものもあ
つたように聞いております。以上のような
状況から推しまして、満洲から中国本土へ移動しました
日本人は、大体二万ないし三万とわれわれは推定しおるのであります。さらに国府
時代から中国本土に残留していましたものは約五千名と私たちは見ております。ただ軍事
行動の移動に伴いまして常に移動しておりますので、その数字は過渡的な推定数と見なすべきが妥当ではないかと私たちは見ておるのであります。
次に最近におきます抑残留
日本人の動向について申し述べます。
引揚げ問題については昨年一九四九年の秋、満洲から
引揚げた人たちの報告によりますると、大体次のような
状況を判断することができると
思います。
引揚げは困難であり、
日本人自体で
引揚げを
中共に嘆願し、あるいは
促進運動をするがごときはとうてい許されない。奥地では今もなお
日本はだめだから帰らない方がよい。
帰つても仕方がない等の観測が行われました。帰国
希望者は反動の烙印が押されまして、はなはだしきは投獄されたり、あるいは炭鉱その他で強制労働に就役せしめられています。
日本の放送の尋ね人の時間や、
引揚げ問題に関する時間はラジオにかじりつくようにして、泣きながら聞いている。
中国人の妻妾にな
つている者や、孤児等は中国社会の中に深く食い込んでいまして、普通の
方法では救出はきわめて困難であるというような結論を得たのであります。
その後未
帰還者の通信及び中国本土から帰られましたところの人々の報告を総合しますと、満洲
地区は今春以来の通信によりますと、
引揚げが近く行われるということが、半信半疑のうちにも相当強く金満的に問題にな
つていることが察知できるのであります。文面によりますと、舞鶴には満洲の
日本人引揚げのために二十数隻の船が待機しているとのことだが、これはほんとうなのかどうかと尋ねて来ております。また配船が決定したらくれぐれも、繰返し繰返し放送していただきたいと要望しまして、ことしの秋には帰れるのだと
日本にいる
家族たちに書き送
つて来ております。また去る九月に奉天の某知名
日本人からの通信連絡によりますると、本年八月六日の
日本人組長会の席上におきまして、井上林氏が
中共政府におきましても今回
日本人を全面的に帰すことにな
つたから、二十日までに五箇年間の学習の総仕上げをするようにと言
つたと伝えております。この井上氏はもちろん主義者でありまして、在
瀋陽日本人の指導的
立場にある人であり、現在は
日本人会の会長をしております
関係上、相当センセーシヨンを巻き起したのであります。また中国本土
地区におきましては、華北、華中、華南を通じまして、
中共機関から正式留用解除にな
つた者が相当おりまして、病気等を理由に帰国を嘆願し、帰国
許可にな
つた者もあります。中国本土について見ますと、
病弱者、比較的重要でないと見られる
技術者、その他
中共当局が必要としない
日本人に対しては、あえて帰国を妨害しないようであります。現に
天津、上海、香港等には相当数の帰国
希望者が待機している模様でありますが、帰国船賃の五十ドルないし百ドルの調達不能のために帰れないでいる実情であります。また旅費が調達できても、出境
証明書の下付とか、あるいは
入国許可書――
入国許可書につきましては、山東
地区では要求しているようであります。乗船
許可書等、種々の條件が具備されないと帰国ができないのであります。ただ正式留用解除者の場合には、このような一切の手続は
中共、いわゆる留用機関において旅費あるいは
手続等も行われまして旅費等も十二分に支給されているやに聞いております。また
引揚げ問題については、去る八月
北京から
引揚げた一
日本の軍人の語るところによりますると、同人が身を寄せていましたところの
北京軍事
委員会衛生本部長に帰る国の
方法について便宜方を懇請したところが、快く引受けまして、政治部長に便船の調査を依頼してくれた事実があります。そのときこの政治部長が、近く引揚船が出るはずであるから、それを利用してはどうか、今帰ることは途中も
危險であり、無事
日本に帰国することは保障できない、これから
引揚げについては、本人の
希望するところとあれば、全員帰すであろうと回答したということであります。以上のごとく満洲、中国本土を問わず、すでに
中共側において不要と認めた者、及び当初から
中共側の負担とな
つていた老幼あるいは病弱、婦女子らは何らかの
方法で送還しようとする意図があることをうかがい知ることができるのであります。
また満洲からの
引揚げは現在までは絶無の
状態でありますが、中国本土からは現に昨年十月以降約三百名に上る
日本人が外国船を利用しまして、あるいは
中共側であつせんしましたところの密航船によりまして、
引揚げている、のであります。問題は計画
引揚げが行われるかどうかという問題で、この問題については今春以来
引揚げの問題が現地において種々論議され、四月あるいは九月引揚説が流布されているのでありますが、遂に実現を見ない
状況で、また諸般の情勢からして即断はでき得ないのではないかと私は
考えておるのであります。以上私の
説明は終ります。