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参考人(大内兵衞君) 御指名によりまして、
日本国民が年を数えるのに
元号即ち
明治とか、
大正とか、
昭和とかによるのがいいか、そうでなくで例えば
西暦によるのがよいかという問題につきまして、私の考えは
元号を用うるのはよくない、
西暦によるべきである、こういうのであります。その
理由を、
社会に関する学者即ち広い
意味における歴史家の一人といたしまして、又特に政府の作る統計についての改善に関する
委員会の
委員長といたしまして申上げます。
御
承知の
ように、統計はあらゆる自然現象特に
社会現象、詳しく申しますと人口、地理或いは商工業、農業、
交通、財政、金融、
教育、犯罪、疾病そうい
つたようなことを、すべて
社会に起るすべてのことを数字を以て現わすというのが使命であります。その数字を以て現わすというのはただ現わすだけではなくして、その数字相互の或る
関係の間に存する原理を知るということが目的であります。この原理を知りますと
社会はこういうふうに動いている、こういう実情にあるということがはつきりと分るわけでありまして、それが即ち統計が政治なり政策なりの基礎になるということにな
つております。で、このことはつまり言換えればこういうことであります。あらゆる
社会事象は時の経過とそれから場所の上にありますけれども、場所の上を
一つにしてしまうというと、すべての
事柄が分らなくなる。併しながら時の経過というものを
一つの公分母としてあらゆることを現わして見ると、その間昔と今とにこういうことがあ
つたということの中に
一つの連絡があるということで、つまり公分母ということが統計がよ
つて立つ理論であります。そこでつまり公分母というのが非常に必要なわけである。それはつまり時間の
関係が公分母にな
つております。そこでその時間の
関係は
世界中
一つであります。このことは決して偶然ではないので、太陽が
一つであり地球が
一つでもあるということと必然に
関係しておるので、一週といい或いは一ヶ月といい或いは一年といい、これはすべて
世界共通の單位である、一目瞭然とあらゆる
事柄を現わすことができる。そこで初めてこの統計というものが、あらゆる地球上の場所の
関係において異な
つたる事項を、
一つの問題として
一つの原理の中に集約するということになるのであります。
従つて統計がうまく行くか行かないかということは、
一つのこの
世界と
一つの單位とにそれを持
つて行き得るかどうかということによ
つて決まるのであります。ところがこの目的のために
元号で現わすのと
世界中
一つの暦で現わすのとは大変な違いが生ずるのであります。というのは、
元号で現わすというとどうしても百年の期間を三つとか四つとかに分けなければならないということが必然的に起るのみならず、その一年の中で或いは
一つ或いは二つの区切りができるということが必然なんであります。そうすると、例えば百年間に起
つた事実を
一つ知ろうと思えば、必ず
元号で現わした場合には数回の寄算をしなければ、た
つた一つのことを我々の頭の中に画くということはできない、これがつまり統計を手掛けるオペレーションの上において、大変な手数になるのであります。それはつまりちよつとした統計上の仕事をいたしますのでも、使う数字は
一つや二つではなくして何百何千という数字を使うのでありますから、その
一つ一つについて二つなり三つなりの寄算をするということになりますと、大変に不便な非常に手数がかかるということになるのであります。これがつまり国民全体その国の人々が、統計的であるかないかということについて重大な
関係を持つのであります。その国の国民が統計的であるかないかということが、即ちその国の政治及び政策が科学的であるか非科学的であるかということに、実に重大なる
関係を持つのであります。
この一番簡単な例は、もうたびたび
皆さんも頭の中にお画きになり、ここでも話に出ておることだろうと思いますが、例えば小学校、中学校の生徒さんが歴史を覚える、單に覚えるのみならず西洋と比較するという上における不便であります。これはつまり誰でも知
つておる例でありますけれども、
日本の
子供が西洋の事実と
日本の事実と、或いは
日本の事実と中華
民国の事実とを連絡して、どうしても覚えにくいのみならず、覚えるのに大変な年間がかかるというのがその具体的な例であります。これは小学校、中学校の歴史を覚えるとか覚えないとかという問題でありますけれども、このことはたまたまそういう
子供の問題についてそうなるのでありますけれども、我々は
社会で学問をしておる、それをことに統計によ
つて数学的に操作して、その操作の中から
一つの理屈を見付け
ようとする者にとりましては、その小学生の困難が数百、数千どころではなく、数万、数十万の数字の中に常に起
つてくるのであります。
一つの統計書を御覧下さいましても、その含んでおる数字は例えば統計年鑑の
ようなものでありましても数万に上
つておるのであります。その
一つ一つ必ず西洋やアメリカの諸国の
一つ一つに該当するのであります。そうして又それが何百年前の或いは何十年前の事実に該当するのであります。その比較というものがつまり統計を生かす
一つの方法であり、生かす
理由なのでありますが、それが今申上げる
ような
元号で示されておるとしますと、二回三回の寄算引算をした上でなければ頭の中に画けないということになりますと、どうしても
日本人の考えが抽象的になり、そうして具体的事実に関するしつかりとした基礎に立つということには、西洋人に比較しましては大変な困難を覚えるということになるのであります。
それを尚具体的に申しますというと、
世界の大きな国では皆人口
調査をや
つております。
日本ではこれを国勢
調査と言います。併し人口のみならずいろいろなことについて、特に今年は一九五〇年というので農業センサスということもやりますし、又工業センサスということもやりますし、ここで申上げて置きますけれども今年の十月一日には
日本の人口センサスもやるわけであります。一九五〇年は
世界の統計のセンサスのコンファレンスが行われるわけでありまして、つまり今年
日本がそれに成功するかどうかということは大変な
世界の成績に関するわけでありますが、そのセンサスなるものは
世界中どこでも五年十年という期限でや
つておるわけであります。
日本では
大正九年に始まりまして
昭和五年、
昭和十五年、
昭和二十五年というふうに行われるのでありますが、それが西洋では一九三〇年、四〇年、五〇年というふうに行われております。そうしますと、
日本でつまり
大正九年のセンサス人口
調査の結果と今日と比べてどのくらいの差があるかということを
勘定いたしますのには、どうしても
大正昭和と数えなければならない。それが三十年前であるということは直ちには分らないのでありますが西洋の統計書を見ますと一九二〇年、三〇年、四〇年というふうに並んでおりますから直ぐに分るわけであります。そういうふうにしてつまり
世界的なセンサスというものが、
世界の約束によりましてやはり〇のついたとき五のついたときにやることに決ま
つて、事実
日本もや
つておるわけでありますが、たまたま
大正とか
昭和ということがついておりますからうまく行かない。殊に五と〇とがそれにうまく合わないということになりますと、
勘定の上に非常な手間がかかることになるのであります。そこで近頃の統計書は
日本でも皆
大正何年、
昭和何年と書く以外に、千九百何年ということを印刷する
ようにな
つて参りました。併しこのことは便宜方法としてや
つておる
ようなわけありますけれども、大変な手間であります。統計書が一欄だけ殖えるということになるので、そんなことは何でもないとあなた方はお考えになるかも知れませんけれども、あの厖大な政府の統計出版物全部にそれを付けるか付けないかということは大変な違いでありまして、併しそれを付けていないというと西洋人は勿論のこと、
日本人でも直ぐ頭に来ないということになるので、そういう
意味におきまして、どうしても統計の上から参りますと
元号なしに統計ができる
ように、即ち国民が
元号なしに年を記憶しておる
ようにして頂きたいのであります。この前に統計を、それは使う方のことを
一つ一つ申しましたけれども、作る方はどうかと申しますと、これもすべての人が
一つの
元号で記憶いたしておりますというと、例えば自分の生年月日、親の生年月日をそれで記憶いたしておりますというと、統計を作る方では大変便利なのであります。と申しますのは、つまり国勢
調査に見ましてもそのまま直ぐ書き入れればいいということになりますが、それが二つ三つにな
つておりますと何歳は幾つである、いつの年に当るということを
勘定するのは大変都合が悪いのであります。どうかその点につきましても統計を作る者及び利用する者の便宜のために、他に非常な
差支がないならば是非とも
元号を
廃止して太陽暦によ
つて一つの方針を、年を数えるという方向に決めて頂きたい、そう思うのであります。最後に一言、私のこれは統計
委員長としての私見でなくして普通の市民としての考えを一応申しますが、この
元号というのは私のかんがえではやはり
天皇制と共にあるものであ
つて、非常に密接な
関係を持
つておると思います。特にこの
天皇制につきまして、
天皇が国民を率上の濱王土に非ざるなし、或いはすべての国民は
天皇の御宝であるという
ようなそういう
時代、そういう観念で作られておる
社会制度の下においては是非必要であろうと思いますが、それはつまり
天皇の御即位がすべての国民の生活の全部であるということを
意味するという
意味において、是非必要であろうと思いますが、今日は必ずしもそうでないと思います。つまり今日は
天皇は国家の象徴でありますが、併しその象徴であるという
意味は、申すまでもなく国民と共に、国民の中にお在りになるということにな
つております。そうするというと、つまり国民自身にはそれぞれ自分の生活がある、
従つてそれぞれの生活の記録はそれぞれに保
つていいということになるのであ
つて、必ずしも
天皇の御の御即位を以て自分の生活が始ま
つたというふうに自分の日記をつけなくてもいいということになるのでありまして、そうではなくてむしろ
世界の一人として他との
関係において、一番便利な日誌のつけ方をすればいいということになるのだと思うのであります。若しこの
天皇が御自身の
年齢を標準にしてそしてこれに対して国民がすべてそれに
従つて、自分達の日誌をつけなければならん、自分達の記録を作らなければならんというのは、それは私は民主主義でない、或いは人間
天皇主義に反する、そう思うのであります。そういうことに今の
制度はな
つていないと思うし、又そういうことをすること自体は余り適当でないと思うのであります。そういうことは欠いたからとい
つて決して
天皇に対する我々の親愛の情をどうとかこうとかいうのではなくして、そういうことに対する不便を我々が除くということが真に
日本国民を民主化し、新らしい
制度の下における
天皇制を支持するゆえんであると、そう私
個人としては考えるものであります。