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1950-02-09 第7回国会 参議院 農林委員会 第3号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十五年二月九日(木曜日)    午後一時二十六分開会   —————————————   本日の会議に付した事件 ○新農業政策確立に関する調査の件  (右件に関し証人の証言あり)   —————————————
  2. 楠見義男

    委員長(楠見義男君) それでは只今から委員会を開会いたします。  本日は一昨日に引続きまして新農業政策確立に関する調査に関しまして、東大近藤康男教授、同じく大内力助教授の両先生から農業政策に関する御意見を伺うことにいたします。大内力助教授は少し遅れてお見えになるそうでございます。  最初近藤先生からお話を伺うことにいたしたいと思います。調査趣旨につきましては先般申上げました通りですが、近藤先生一言申上げておきたいと思います。実は御承知のように、昔から農政問題についてはその時或いは後からいろいろその善し惡しの批判はありましたけれども、併し少くともそのときどきには農政というものがあり、又農業に対する、何と申しますか、目途というものがあつたわけでありますが、率直に申上げて最近は農政は全くないというような状態であり、農民或いは農村の苦悩も御承知通りであります。誠に私共としては遺憾に存ずると同時にその農政推進の役割を持つておる国会といたしましても非常に関心を深くいたしておるのであります。それで農業恐慌論等いろいろ問題もありますけれども、現実には御承知のように重税或いはシエーレの問題、或いは低米価の問題等々で農村農業におきましては再生産を確保するということにおいても非常に困難を感じておるのであります。先ずその困難を感じている再生産の最前線に立たされておる水稻單作地帶の問題につきましては、我々参議院農林委員会は一昨年以来特にこの問題に力を注いで参りましたが、最近の情勢は更に視野を広めて、全般の問題としてこの農政の問題を取上げざるを得ない緊急性を認めたわけであります。同時に国内にはドツジ予算の強行その他によりまして、非常に農村は苦悶を続けておると同時に、現在では中小企業失業群受入地のようなふうにもなつております。同時に国際的に見ましても、世界的な農業生産の回復とか、或いは自由貿易の再開とか、小麦協定参加の問題とか、いずれも我が国の今後の農業問題におきまして、極めて影響の多いものばかりが相次いで起つておるような状態であります。従つてこういう際に農政が確立されておらんということは、非常に憂慮に堪えない状態であり、同時に一方では食糧自給度の向上という問題もあり、又日本再建方式としての農村農業考え方についても、いろいろ問題があるのでありまして、従つてそういうようないろいろの観点から考えて、この際早急にはつきりとしためどを我々としては持ちたい。こういう趣旨で実は新農業政策確立に関する調査をいたすことになつたわけであります。一昨日は東畑、大槻先生から、いろいろお話を承わりましたのでありますが、この企ての特に又これからのこの委員会の運営の在り方を忌憚なく率直にお話をして頂きまして、そして又委員先生との間に質疑をしたり、意見交換をしたり、むしろ固苦しいやり方ではなくて、極めてうちくつろいだ懇談会のような気持意見交換をいたしたい、こういう趣旨でございまするので、どうぞくつろいだ気持でいろいろ御意見の御発表を願つたり、お教えを頂いたら結構だと思います。どうぞそういうふうにお願いいたします。  尚皆さんに御紹介申上げるまでもございませんが、近藤先生は現在東京大学の教授をやつておられます。最近は御承知のように、農林省統計調査局長をやつておられまして、その前は又東大教授もやつておられまして、常に新らしい感覚でそしてその下における御研究を重ねられておりまして、農政における一方の権威であることは申上げるまでもございません、一言御紹介申上げておきます。お話の前に宣誓書捺印をお願いいたします。    〔証人宣誓書捺印
  3. 楠見義男

    委員長(楠見義男君) それではどうぞ。
  4. 近藤康男

    証人近藤康男君) 坐つて失礼いたします。とりとめもないことになるかと思いますけれども平生考えておりますようなことを申上げまして、聊かなりとも御参考になればと思います。  只今の、この頃は農政がないということでありますが、私は必ずしもそうではないと思いますが、私はこれからあるべき農政というものの目標と申しましようか、これを一言で要約しますならば、今年のあの予算に挙げられておる四百五十六億の食糧、飼料のための価格調整費、あれを全部とは言いませんが、半分くらいでいいのですが、半分くらいにするという目標食糧自給のために邁進するということだと私は思うのです。一口に言えば、そういうことになると思います。そういう目標を立てることの意義は、これは私から説法しなくても必要ないかと思いますけれども、この問題の意義は二つあると思う。一つは申すまでもなくつまりドル資金が非常に足りない。そういう今日の段階でそれを緩和するということ、つまり大体輸入の半分くらいを食糧が占めておるということ、輸出輸入の半分くらいしかないということ、結局日本輸出食糧を買うだけしか輸出はしておらんという、そういう現状。そういうことでは経済再建のためのもつと基本的な資材その他そういうものが買えないわけでありますからして、緩和するという、そういう狙い。それから四百五十六億という金は例えば農林予算の方などと比べて見ればよく分るのでございますが、全く国内エンプロイメントとは殆んど無関係に使われる金になる、貿易業者は無論あれですがエンプロイメントという意味で取上げるに足りないものだ。そういう意味つまり食糧自給ということで邁進する第二の意義は、今楠見さんのお話の中にもありましたように、潜在的な失業状態になつておる。その潜在失業に対してエンプロイメントを殖やすという、これは何も食糧自給ということは農業だけの問題に連なつておるのではないのでありまして、つまり国内のあらゆる産業、商業に連なつておるわけであります。だからつまりエンプロイメントを殖やすということが食糧自給というものの持つ第二の意義だと思う。  附け足しでありますが私この間学生などと一緒に農村調査に参りまして、一体農村潜在失業ということをいわれておりますけれども、それが数量的にどの程度だろうという見当を付けられないかと思つて、個々の少い事例でありますが、岩手県、山形県、愛知県、香川県と手分けをして出掛けたのであります。司令部でやつておられるレイバー・フオース・サーヴエーでは、いわゆる失業日本では三十五万しかない極めて僅かである、こういうことであります。我々行きましてもレイバー・フオース・サーヴエー・デフイニシヨンによればその程度であります。それは総人口の〇・五%くらいの失業でありますけれども、つまり就業程度というものをもう少し立ち入つて調べて見まして、例えば一年間に三十日以下しか働かないものは働いたとは言えるけれども、それは極めて低度の就業率で半失業者というように理解しますと、無論病人とか子供は学校に行くから就業しないのは当然でそういうものを省いて、働くべくして余り働いておらんというものを勘定しますと、それが全人口に対して六・八%というようなことになる。これは極めて僅かな例を取つたのでありますからして、この数字そのものをかれこれ言いませんけれども、併しそういうことが、一般的にあり、それは数量にしますと大いしたものになる。この農業なり外の産業なりにエンプロイメントを與えることは、これからの日本の外のあらゆる政策のすべての一つの拠点にならなければならぬと思うのでありますが、そういうこの二つの意味食糧自給という目標に私は持つだろうと思う。  それから併しそういう食糧自給ということを言つたつて日本には可能性はないのじやないか、つい二、三日前にもアメリカのある人が日本食糧生産はもうこれでマキシマムに達したようだ、これ以上伸びないようだと、こういうような意見を述べられたということを新聞で見たのでありますが、果してそうかということを一つ検討する必要があると思うのです。私はそうではないと思います。可能性はある、政策あり方によつて食糧自給可能性、或いは食糧を完全に自給するとまでは行かなくても輸入補給金を半分くらいにする可能性はあるというということは言える。その一つ材料としては例えば小麦というものが一つの大きな輸入のアイテムになつておるわけでありますが、小麦というものをふり返つて見ますと、例えば昭和十年作付面積六十六万町歩で総生産は九百六十五万石であります、それが今日ずつと減つて来ておるということなんです。昭和十年という頃はもう日本小麦を満洲辺りへ恐らく三百万石くらい輸出しておつた時と思うのです、過去においてこの程度生産をし輸出までしておつたということは、やり方によつてはもつと増産が可能だという一つ材料だろうと思うのです。それから第二の材料はついこの間朝日新聞で多收穫の競争をやつた結果を発表されたのを見たのでありますが、あれを御覧になつて皆様もきつと気づかれたと思うことは、褒美を貰つたのは長野県の善光寺平でなく伊那の山の方なんです。それから北海道、必ずしも稻の栽培をする地方として有利な所とは考えられないので、あれは五石でしたか四石でありましたか、もつと多かつたですか、とにかく相当なものでした。無論誰でもどこでもああいうことが達せられるということはいえないのでありますけれども、可能性は考えられるという一つ材料になると思うのであります。併しこれは只今も申しましたように政策あり方によつては可能だということであると思うのであります。  今のような行き方行つて輸入補給金は半減することができるかということとこれは別なんでありまして、論点は幾つかあると思いますが私は第一の論点として申上げたいことは、この間新聞で見ました、ここでお話になつた大槻さんの説とやや違うことになるかと思いますが、大槻さんの言われることも御尤もと思いますが、稻作を偏重してはいけないというあの点でありますが、今まで無理をして稻作をやつておるというよりは、あの日本農業政策というものは明治以来米価を維持するというようなことで稻を作ることが農業のすべてという行き方になつてつた。そのために今日結果から見ると無理をして無理なところまで稻を作るということになつておる。そういう無理な点は訂正しなければならぬ。無理に水田にするよりは畑の状態で「さつまいも」を作るという方がいい、或いは桑にした方がいいという場合はあると思いますが、そういう無理は訂正しなければならんと思いますが、やはり日本太平洋モンスーン地帶に位置を占めておつて稻と麦と二回の收穫を上げられるという、この気象的な特徴を活かし、これを極力活用するというそういう考え方、やはり日本農業政策の基点はそこに置かなければならんじやないかと思うのです。米麦生産をするということが十分農家にとつてペイをする仕事にするということ、百姓をして何か儲かるような仕事はないだろうか、丁度痩犬が屑箱を探すような工合に儲かる仕事を探さしてヌートリアがよいとか、何で儲けたとかいうような、そういうことをしなくて、米麦というような基本的な農業をやつておれば、それで十分にペイできるような、そういう態勢を作るということが、やはり農業政策の基調におかれなければならんじやないかと思うのです。それが一つの点であります。  それからもう一つの点は結論的には大槻さんと同じことになるのでありますが、「さつまいも」というようなものをむげに政府特別会計が赤字になるからというので投出してしまうというのではなくて、あの「さつまいも」というものはこの戰争を通して、私は日本農業が到達した生産力増強一つの重要な点だと思うのです、折角の芽だと思うのです。あの芽を生かして行くという政策、いろいろな面があると思いますけれども、そういう考え方に導かれた点、殊に畜産というものを考えますと「さつまいも」というものが「いも」と葉と両方合せれば反当千五百貫ぐらいは確実でしよう、品種などの改良を行なつて栽培を工夫されたわけであります、そういう点を考えて行く。それから加工澱粉などにしては損だというけれども、澱粉にするということ自身必要であり意義がありこういう栄養政策という観点から必要ならば、今の加工というようなことを可能なようなそういうような道筋を立てるということ、これが一つの重要な点だろうと思うのであります。つまりただ儲かるものを百姓に探させるというのではなくて、必要なものを生産を続けられるようなそういう態勢にするということ、一口にいえばそういうことである。それが第二の論点である。  第三の論点として今米麦作というものを重んじなければならんということを申しましたが、殊に私はこういう国でありますから、土地をできるだけ集約的に利用するという意味二毛作というものをできるだけ有利にするようなそういう政策、先程東北地方のことをこの委員会でお考えになつておるということでありましたが、是非それは非常に重要な点だと思う。その場合に私は一つの点を挙げたいと思うことは、一体二毛作東北地方でやれるか。できるのにやらないでおるところがないかどうかという点であります。私は福島、宮城、或いは山形はやればできる所に農家がやつておらん場合がある。それは私は農家が不心得だということを決して言わない。それよりはむしろ価格供出制度の問題だと私は思うのであります。無理に麦をやると稻の收穫が惡くなる。併し麦を作つたからというので麦の供出割当てられてひどい目にあう。こういう政策を直せば私は麦なり或いは菜種などもそうだと思う。私この間今申しました山形調査に行きましたが鶴岡辺りの田舎では殆んど二毛作をやつておらない。併し菜種ならば相当できるということを百姓自身も言つておる、併しやつておらない。そこにいろいろの問題がある。殊に供出制度というようなものが重要な関係があるということだと思うのです。  第四の論点として少し向きを変えまして、生産を殖やすということも一つのあれでありますが、消費側の少くて済むということでもよいですね。で私はよく雑誌などで四合保有農家という制度は嘘の制度であつて、あれは五合にしなければならないということの主張をしたことがあるのでありますが、併し栄養学的に言えば四合の米を食えば大体二千二、三百カロリーぐらい、日本人の体格としては普通の労働をやつたつてカロリーとしては十分なものをとつておるというようなことだと思う。そういうような意味農林省なども随分お骨折だと思うのでありますがなかなか許可をして貰えない。併し問題はそういうカロリーということではなくして蛋白だと思う、蛋白が十分に殊に動物性蛋白百姓はとつておらない。そのために必要な蛋白を米や麦から食べる、米や麦から蛋白をとらなければならないためにカロリーとしては必要以上をとつておる、四合でなくて五合とつておるというのが実情だと思う。だから農家にとつて、お前四合で我慢しろということは死ねということと同じでありまして、そうではなくして農家に対して魚、「いわし」とか「にしん」というものを供給し易いように、そういうものが手に入るようにするということですね。魚というものは塩辛いものだと考えておる農民が今でも沢山ある。そういう所へ魚を沢山持つて行くということ、それは言い換えれば農家が余分に無駄な米や麦を食べないで供出を比較的楽なように無理なしに沢山出す。恐らく私の極めてラフな推定では農家動物蛋白が足らないために、無駄をしておる食糧の量というものは五百万石だと思う。これだけ若し輸入が減ることになつたならば非常なプラスになると私は思うのであります。  これは附けたりでありますが、そういう意味からしますと統制撤廃の手始めとして果物統制を撤廃した。果物自身はこれはもう高くても構わんということは言いますが、併しそのために「りんご」や「みかん」の地方に「いわし」などが粕にして或いは干物までが行つてしまつたということ、そういう点は非常なマイナスだと思う。むしろ流行はずれかも知れませんがこれからでもよい。むしろ魚肥というようなものを極力少くしてこれを人間に食糧として直接利用するように、そういう行き方をとつた政策が必要じやなからうか、こう思うのであります。これも儲かるものをやらせぬということではなくして、必要なものが十分に儲かるような建前にする、そういうことなんです。そういう意味で申上げておるわけであります。それが第四の論点。  それから第五には、今申しましたのは消費を減らして輸入を減らすということはできないかということでありますが、積極的に土地を殖やす、こういうことが重要な課題であることは申すまでもない。国土総面積に対する耕地の割合というものが日本は一六%しかない。で我々はこういうものだと思つておりますけれども、これは例えば古く開けた印度など農業的に利用されておる土地の率というものは、ああいう国であつてもたしか三五—三六%に達しておつたと私は記憶するのでありますが、この点は考える余地がある。開拓であるとかそういう問題がやはり依然として重要な課題にならなければならんと思う。開拓という問題につきましてはいろいろ非常な費用を使つておるのに拘わらず、それ程効果がない。食糧増産という観点から開拓というものの実績を見ると必ずしも感服できない、こういう批判があるかと思うのであります。これはやはり開拓方式について十分に検討し、考え直さなければならんのじやないか、今日の開拓行き方というものは、個人土地を持たせて大体において結果からいえばやはり鍬と鎌を以てするあの農業をさせるというどうもそういうことになる。そういう行き方はむしろ場合によつてはもつと大きな規模で、つまり例えば開拓のために土地を売るということが土地会社のような意味土地を取扱わないで、土地会社でなくて、開拓会社なんだから或いはもつと正確に言えば農業会社なんだから、そういう性質をつまり社会化された生産ができるような、そういう建前であの開拓方式というものを考え直すというようなそういう行き方、或いは現在入つておる人についてはやはり個人が主ということから、これを組織化し、組合的な活動というものに重点をおくということ、場合によつてはこれは組合だけの力では足りない、いわば財政的な投資と申しますか、国なり公共団体なり市町村などの費用を以て直接事業をしなければならん、そういう場面を考える必要があるのじやなかろうか。  それからもう一つ、これはちよつと日本の事情は必ずしも直ぐには許さんかも知れませんが、供出割当などをしますのに、日本では作付面積が基準です。それを私は若しできるならば土地面積一つの村の土地というのはつまり田畑山林原野も含めた土地面積、無論それは機械的に何町歩ということではなくして、それは地方を考え山林原野農地は無論区別してよいと思う、少くとも作付面積でなくして、田畑耕地面積割当をする。そうしてそこで何をするかということはこれは委せる、で一年一本の割当、米は幾ら、麦は幾らという割当でなくして、一本の割当、今申上げました意味からつまり開拓を刺戟する意味供出割当というものができるのじやないか、開墾を多くして作付面積を多くすれば、收穫が多くなる、それは供出とは関係しないという建前をすれば、默つていても開拓が進むだろう、そういうことです。それから耕地について言えば最も有利な適地適産ということをおのずからやるだろう。これからの食糧増産というような観点からしまして、私はこの供出制度というもののやり方は、非常に重要な関係がある、これを非常に重く考える必要があるだろうと、こう思うのであります。  土地については開拓の問題が一つ、それから第二に林野解放という問題があつたわけであります。この林野解放という問題は、山村というものが日本農村の中でも民主化という観点からすると、最も遅れておる、こういう点で林野解放ということが一つ課題になつてつたと思うのです。これに対しては例えば治山治水が必要なのだと、こういう観点から、そんなに林野農地にすべく解放するということが許されないという、そういう観点があるのです。これはいずれも必要だと思うのです。多分この国会緊急造林のあれが出ておつたかと思うのでありますが、山に早く木を植えるということは非常に重要な課題だと思うのです。ただその場合にこの農林委員会に特に私は御注意頂きたいとお願いいたして置きたいことは、山は植えなければならない、併しその場合に農民を締め出すような結果にならないように注意をして頂きたいということなんです。つまり農民的な山の利用というものは日本の場合には今までむしろ不当に圧縮されておつたのであります。山に囲まれておるけれども山梨県だというああいう状態、そういう状態が到る所にあると思いますが、そういう締め出しをしないような注意、これは植林ということが大規模に片方で必要である場合にしばしば過ちを犯すことになる。昔エンクロージヤをやつた、山の森林や放牧地をエンクローズして、最初畜産地であつたかも知れないけれども農業的に利用するということですね、例えば入会地などを植林するというような、そうして農民的利用から締め出すというようなことになる虞れを持つことになるんですね、そういう点の注意をして頂きたいと、こういうことなんです。そういう観点を持つて農耕的に利用できる土地というものを殖やすということ、これはやはり食糧増産というような場合には最も重要な項目であるということは申すまでもないのです。  それからもう一つの、第六の論点といたしまして、今の問題と関連しておりますが、土地の負担を大きくしちやいけない、こういうことであります。地租シヤウプ勧告で三倍になる。だから小作料を五百円地価を五千円、止むを得ないだろうと、こういう案が政府の案として出されておるようでありますが、私はこの問題は愼重に検討を要すると思うのであります。農地改革農地調整法自作農創設、あのいわゆる農地改革というものの持つてつた一つの大きな意味は、小作料金納ということによつて地主の実質的な今までの分け前というものを殆んど零に近くしたということだと思うんです。そういう段階一つつたんですね、小作料金納でインフレーシヨンで零になると、こういう段階。それから今度はその部分——といつても恐らくいいと思う——その部分地租という形でシヤウプ勧告では、市町村税になるんですが、公共団体地租という形で取る、だから結局言い換えますと今までの個人地主の占めておつた地位市町村か占める、こういうことですね。私はこのことは非常に意味のあることでこの点を活かさなければならんと思うのであります。これを五百円、五千円というああいう行き方になつた場合には、これを元の状態の方へ少くとも一足は逆戻りさせる反動だと思うのであります。お廻ししました資料にこの問題について多少私の考え方を整理して御参考にいたしたのでありますが、一番後ろにくつついております大きな表を御覧頂きますと、これで言つておることはこういうことなんです。一番左のAというやつは初めて四十倍、四十八倍というあれを決めたときの計算であります。農林省計算されております。つまり收穫高から総收入計算し、反当の生産費をずつと計算して、差引して純收益が出る、これを農民も普通の利用者と考えて利潤と地代に分けて、その地代を普通の国債利廻で以てキヤピタライズして自作收益価格計算して、それが普通の賃貸価格に対して四十倍だと、こういう計算をしたのであります。それからBは米価が百五十円から三百円になつた場合に、併しこの地価の公は上げないということの計算をしたのであります。それは同じ計算をすると、米価はなるほど三百円に上つたけれども外のものも上つた、いやむしろ外のものが上つたから米価を上げたというのがあの場合の実情だと思うのです。だから計算して見ると実際に純收益は却つて減りこそすれ殖えてはいない。だから自作收益価格計算すれば小さくなる、低くなる、だから地価を上げるわけに行かない、これはやはり農林省計算されたものです。それと同じものを昭和二十四年の暮四千二百五十円米価の場合にやつたらどうか、これは私が仮に計算をしたのであります。計算は極めて楽なものでありますからして、間違いがあるかとは思いますけれども、併し筋としては間違つていない、全然同じ方式でやつて見ますと、純收益が二百十三円しかない。これを若し農林省で前にやつたと同じ方式で以て四%の利潤を引くということをやりますと、地代になるべきものが尚マイナスになつて、プラスにならない。自作收益価格というのは、純收益を利潤と地代に分けて、地代をキヤピタライズする、そういう行き方じやなくて、私は純收益そのものが基礎になつてそれに対して一定利率でキヤピタライズするということだと思うのです。二百十三円が農業をする人が若し土地を借りておるならばそれだけそこまでは拂える。そこまで拂つても自分の労賃やそれから買うものに対してはことを欠かない、そういう数字だと思うのです。併しそれをキヤピタライズする場合にはそれは国際利廻三分六厘八毛なんというとんでもないものでやるべきじやなくて、今日のような場合のあれは大体十倍にする、つまり一割、一〇%でキヤピタライズすべきものじやないかと思うのです。小作料七十五円で地価が七百五十円になつたのですが、そのくらいの割合が本当だろうと思います。だから地価は二千百三十円、これが昭和二十四年度の年度末におけるつまり四千二百五十円が決まつてあと何も動かなかつた場合の状態であります。  ところがシヤウプ勧告とその後肥料を上げるその動きというものを勘定に入れますと、これらの事態は変つて来るのです。シヤウプ勧告で税金を安くするという構想でありますが、農業関係では殆んど安くならないということだと思うのです。その計算がもう一枚の第二表の方にありますが、これは詳しく御説明申上げる必要はないと思うのですが、シヤウプ勧告による税制は税の負担は殆んど変らない。ところが肥料代はまだ最終的に決まつておらんのでありますが、この計算は去年の年末に硫安その他が上つたその分だけを以て推計をしたわけでありますが、支出については極めて内輪に、それから收入については嚴密に、見込なんてやらないで作報でやつた比較的正確だと思われる資料を基準にしてやつたのでありますが、結局あの肥料の改正などを考慮に入れますと純收益がマイナスになつて地代とか利潤とかいつている余裕はないのです。仮にこれからの米価の改正などもありましよう、そういうものを全部織込むとして昭和二十四年の年末と同じ相似形のあの修正が加えられたといたしましても、純收益は二百十三円程度でありこれをキヤピタライズして地価は二千百三十円、それ以上を拂つた場合には農民は自分の労働に対して一人前の報酬が得られないということなのです。そういう意味で自作農、自作收益ということをあの一つ農地政策の基礎に置く限りは、この二百十三円それから二千百三十円を突破するということは、その自作收益価格を、あの政策考え方を放棄したというならこれは別であります、農民の負担をもつと労賃まで喰込まそうということを宣言するならば別でありますけれども、これをそのままにして置くならばそれ以上はできない、こういうことじやないかと思うのであります。土地についてはその点が一つ。  それからもう一つの点は、私はあのシヤウプ勧告というのは非常に土地の問題について妙味を持つておると思うのは、それはあれが市町村税になつたという点です。市町村税になつたという点が非常に私は妙味があると思うのです。で将来私は注目しておるのでありますが、今度出るわけでありますが、あの農地調整法の改正で農地委員会農業調整委員会一つになつて農業委員会になる、その線が一つと、それから今のシヤウプ勧告で、あの地租市町村税になつたということ、これは皆さんに注意しておつて頂きたいと思うのです。恐らく私はこの二つの改正によつてあの町村のいわば一種の土地耕地の管理機構というものが、今までの農地委員会農業調整委員会とを含めたあの一緒にしたものによつて事実上でき上るに相違ないという点、そういう意味で私はそのシヤウプ勧告市町村税にしたという点が、非常に妙味を持つている、将来注目すべき点ではないかと思つておるのであります。  でもう一つ申し落しました点は、さつきの大きな表の語つておることは、御覧になりますようにつまり結局あの地租なのです、農家にとつて大きな影響を持つて来たのは地租なんです。それから今の肥料の値段との小作料なのです。租税が低くて済むとか或いは肥料代の上げ方をもつと遠慮するということならば話は又別なんです。だからその三つの間の何というか兼ね合いなのですね、その三つの間のバランスのとられ方なのです。一体あの地租というものとあの国税としてとられる個人所得というものとは重複課税ではないか。單作地帶のことを考えれば直ぐ分ると思うのですが、若しいろいろな收入があれば、それは個人所得税と地租というものとは別のものだといつていい。併し私のこの間見た山形のあの全く稻より外に何もないああいう所で考えますと、地租個人所得税は明白に重複課税になる。そういう観点から私は地租なり或いは農家個人所得税というものを再検討してみる必要が十分あるのではないかと思うのです。そういうような意味地租になるか、小作料になるか、或いは肥料代になるか、どこでへこますかということは面白い問題があるかと思うのですが、いずれにしましてもこの土地の負担というものを大きくするということは非常なマイナスであつて、つまり本当に生産的に使う金が、七十五円の小作料を五百円にするということでその四百何円というものは、非常な單にマイナスにだけ作用をするわけであります。これはそうしない方がよくはないか、国会で審議されるのでありますから、その点皆さんの十分な御検討を御願いいたしたいと私も思つておる点なのです。今例に挙げました山形で私の感じた点でありますが、小作料というものが非常に生産の方へ廻る金を吸取つてしまうということを目の前に見たので、この例を皆様にお伝えしたいと思うのでありますが、それは私達各農家へ廻りましていろいろな詳しい調査をして来まして、どういう農具を持つているかということを見ましてこれをいつ買つたかということを実は調べたのであります。そうしますと、昭和二十二年、三年に買つた農家ばかりです。それ以前に買つたものもありますけれども、それは大きな地主さんとか特殊な家、例えば電動機を買つたとか、ゴム・ロールを買つたというのがありますけれども、二十二年、三年に買つた人が大部分であります。それはまだ税金が高くならなかつたときです。十二年、三年というものはまだまだ余裕があつた。殊に三年は收穫が非常によかつた。それからその辺は早場供出で比較的高く買つてつたというので余裕があつた。而も今まであそこは大地主で皆小作農ですが、地主に取られる分はなくなつた、その僅か二、三年のことだと思いますが、その二、三年が農家から言いますと楽をさして貰つた。その楽をさせて貰つたことが農具を買うということに目に見えて現われている。そういう意味で、私は成る程地代というようなものは、生産的に使われる金を吸い取つているのだということを目に見えるように感じたのであります。そういう意味で全国的に小作料の値上げ、地価の値上げということが実施されるならば、これは私は農業生産的な方へ農家の持つている僅かな余裕というものが流れることすら止める、そういう意味で私は是非考え直すべき問題じやあないかと思うのであります。それが第六の点であります。  最後に、これは政策ではないかも知れませんけれども、こういうことが大切じやないか、それは莫大な費用、国帑を費すわけでありますが、例えばあらゆる政策に金を使つているわけでありますが、その使つている金が有効であるかどうかということの監査、経済性、一つの財政的な投資といつてよいと思うのでありますが、それが経済的な算盤が採れるかどうかということ、例えば開拓にこれだけ金を使つているがどうか、そういう点、或いは共済事業というものは随分必要だ必要だというけれども、果してあれが経済のあれに合致しているかどうか、無駄に使つているのじやないかという、そういう点を監査する機構なり、そういう建前が殊に農林関係では必要じやないか。それからそれと関連して私今まで統計調査局に関係いたしておつたのでありますが、あの收穫調査というようなもの、あれは一面では最初に申しました一トンの輸入も無駄にしないという、そういう観点からいたしましても、それから又供出を不公平のないように、無理のないような供出割当ができるような、そういうような観点からいたしまして、ああいう收穫高の調査というようなもの、そういうような行政というものを科学的な基礎の上にやるという、そういう行き方、そういうものを殊にこれは農林行政というような、相手が非常に多くて掴みがたい、そういう場合にはそういうことに成るべく多くの費用を使い、そういうものを固めた上でやるということが本筋じやなかろうかと思うのであります。これは直接の農林政策ではないかも知れませんけれども、そういうことが一つの基礎になるのじやなかろうか。以上のようなことを若しやりまして、そうしてこの食糧輸入というものがせめて半分になりましたならば、私は日本の幸福はこの上ないと思うのです。そうして私のお話申上げましたことは、そういうようなことを実現する政策の基本的な性格というものは、一口で言えば決して自由主義的なものではあり得ないのであつて、やはり社会主義的な性格を持ち、統制というようなことをやはり続けなければならない。ただその場合にどういう性格を持つた統制かということが重要な点なんであります。一口に言えば、政治の基本的な性格というものが、自主性を持たなければ、統制そのものが決してよいのではない、自主性を持つた政治によつて行われる統制と申しますか、そういう性格のものでなければならぬということを申上げたわけであります。いろいろこういう点にお考えはあるかと思いますが、どうも今の日本の情勢からいいまして、そうして私の申しましたようなことを目標とするということを許容する限りは、その取上げる手段の原則というものはどうもそういうものでなければならんかと思うのであります。甚だ取りとめないことを申上げましたけれども一通り申上げたわけであります。あと御質問でもあれば……。
  5. 楠見義男

    委員長(楠見義男君) 前回と同じように一応お話を承わつてから質疑或いは意見交換に入りたいと思いますから、次に東大の大内先生からお話を承わることにいたします。その前に宣誓書捺印をお願いいたします。    〔証人宣誓書捺印
  6. 楠見義男

    委員長(楠見義男君) それではどうぞ。
  7. 大内力

    証人(大内力君) 私、大内でございます。農業政策をどういうふうに立てるべきかという問題について何か考えを述べろという話なんでございますが、私は農業政策というものは、或る長期的な政策というものを一つ考えて見て、そうしてそういう長期的な政策というものから目前の問題を解決するという政策を導き出して行く、そういう考え方をどうしても採る必要があるのじやなかろうかというふうに考えます。長期的な政策と申しますのは、これもまあ何年先というふうにはつきりは申せないわけでありますが、とにかくも将来の日本に與えられた経済的な諸條件というものを一応頭に入れておきまして、そうしてそういう諸條件の中で日本農業を一番理想的な形に持つて行くとすれば、どういうものが考えられるかというその理想通りな形を先ず考える、そうしておいてその理想的な形へ持つて行くためにはどういう政策を考えるべきであるか、こういうふうに問題を立てて行けば、或る程度長期的な政策というものの目途が付くのじやないか、こう考えて見たわけであります。その場合に将来の日本の経済がどうなるかというようなことは、併し実際問題といたしましては、決して予測をすることは非常に困難であるということが考えられますので、もつと細かい点に立入つて一々の予測を立てるわけに参りませんが、併しどう考えて見ましても、私は将来の日本の経済の中で日本農業がどういう課題を背負わなければならないかということとして、次の二つの問題だけは動かすことのできない條件じやないかというふうに考えるのであります。  その二つの條件といいますのは、一つは、日本農業が少くとも当分の間は相当高い人口を負担して行かなければならないという問題であります。御承知通り戰争前には、日本農業人口或いは農村人口というものは四〇%ぐらいであつたのでありますが、それが戰争中に三六、七%まで減つたのであります。それが戰後又非常に殖えて約五〇%近くが農村にいるという計算になります。殊に最近失業者が殖えたということから、ますます農村に還流してそれが農家人口を増加さして、而もそれは農業の中で消化できないためにいわゆる過剩人口になつた、それが農業経済を圧迫することが非常に大きくなつているという現象が見られるわけであります。そういうものは農家にとつて非常に圧迫になるわけでありますから、それを解決するために、一方では農業の中でもう少し大きく雇用力を殖やす、つまりエンプロイメントを殖やすという考え方もありますし、併しそれはいろいろな條件を考えますと相当困難な問題だといたしますならば、工業の方におけるエンプロイメントを殖やして吸收して行くという以外にはこれはないのであります。その外移民ということも多少考えられますが、これは幾ら多くしてみても日本の今の過剩人口の数から考えますならば極く少いものしか考えられない。そういうわけで移民を一先ず捨象いたしますならば工業人口の方に吸收するより外ないのであります。併しこれからの日本経済において、そう急激に工業の下におけるエンプロイメントが殖えるということもその楽観的には考えられないといたしますならば、少くとも今の程度人口を抱えて而も農業が何とかやつて行けるという社会條件を先ず考えて置く必要があるのじやないかということであります。  それからもう一つの條件は、先程の近藤先生お話にもあつたと思いますが、日本食糧はできるだけ自給しなければならないという問題だと思うのです。で、今まで日本食糧国内自給という問題を非常に熱心に考えて来たわけでありまして、そうしてそれが熱心に従来考えられて来たのは、むしろ戰争をやるには食糧国内自給しなければならないという條件から考えられて来たのでありますというふうに私は考えるのですが、併し戰後の今になつて考えますと戰争をやる必要がなくなつたわけですが、それにも拘わらず日本の貿易関係というものは非常に不利であります。そこに非常に大きな食糧輸入という負担をかけるとすればますます日本の貿易関係が不利になる。その点から考えまして少くとも当分の間は或る程度の不利を忍んでも国内で成るべく最大の食糧自給をして、又若し可能ならば或る程度輸出をして外貨を獲得するという役割も農業が背負い得るというような條件を考える必要があるのではないか、こういうことであります。  ともかくもその二つの條件を充たすということを考えまして、その中で日本農業の理想的な形というものはどういうものであるかというふうに考えれば、問題を解き得る鍵が出て来る、こういうふうに考えております。そのときに先ずこの手がかりとして考えられますことは、これは従来の日本の経済全体に非常に大きな欠陷がある、それから又現在においてはそういう欠陷がますますひどくなつていると考えられますが、この従来の日本の経済の非常に大きな欠陷として考えられますことは、国内の市場が非常に狭いという條件と思うのです。つまり日本の資本主義は明治以来非常に急速に発達したというふうにいわれておりますが、併しその発達した相対的な速度からいえば成る程早かつたに違いありませんが、絶対的な大きさというものを考えますと非常に日本の資本主義は薄弱な規模しか持つていない、戰後の現在においてはそれはますます小さくなつているというふうに考えていいと思います。そうしてそういうふうに日本の資本主義の絶対的な大きさを非常に制約して来たものは、無論一つは後進国の日本は外国市場において有利な條件がなかつた、そのために外国市場を利用して資本主義を大きくするということができなかつたという條件も無論ありますが、その外に日本国内の市場が非常に狭い。で、そのために生産の方が市場の條件から抑圧せられるという條件が私は非常に大きかつたというふうに考えるのであります。そうしてこういう條件は今の日本においてはますますひどくなつているのであつて、御承知のように、日本の工業生産というものは最近の司令部の発表によりましても、まだ戰前の八〇%という水準にしか回復していないわけで、人口は戰前より殖えて生産は八〇%ですから実は非常にまだ生産が足りないでいるわけでありますが、それにも拘わらずすでにあらゆる方面において過剩生産という問題が非常に起つて来ているということであります。又食糧でもこれは輸入が相当ありますが、国内食糧生産というものは物によつては戰前の水準まで回復しておりますが、物によつては戰前の水準より低いところにある。全体としてならしていえば戰前の九〇%しか回復していないと私は考えるのですが、それにも拘わらずすでに農産物さえもいろいろなものが過剩であるということが憂えられる。そのように生産総量が非常に少いにも拘わらず、国内において過剩になるという問題が起つて来るのは、日本国内市場というものが非常に制約されて来て狭いということであります。問題はそこにあるわけで、日本のこれからの経済というものを発展させるためには無論外国貿易依存ということもこれは重要だと思いますし、その重要性を否定するわけではありませんが、どこまでも外国貿易一本槍で日本の経済の発展ということが考えられるかといえば、私は決して考えられないと思います。そうでなくて日本の経済が順調に本当に大きくなるためには、国内市場がそれに応じて大きくなる條件を作り出して行くのでなければ日本の経済の繁栄ということは到底望めないというふうに考えるのであります。国内市場がそれではなぜ従来も狭かつたし、又なぜますます狭くなつて行くかという問題を申しますれば、それは要するに一方においては日本の労働賃金の水準が非常に低かつたということであります。もう一方においては農民の生活水準が低かつた。又農業自身が機械化されていない。アメリカの学者が言つたように四千年以来同じ農業生産やり方をしているという程非常に遅れている。この二つのことによつて日本国内市場の大きさが非常に制約されているということを考えていいと思うのであります。まあこの日本の労働賃金は如何に低いかとか、日本農家の生活が如何に国際的に低いかということは数字を上げるまでもなくよく分つていることと思いますが、例えばシヤウプ勧告にも出ておりますように、アメリカの半熟練労働者の月の收入所得というものは約三百ドルであるとシヤウプは言つております。それに対して日本の同程度の労働者は約一万円というふうにシヤウプは言つております。それで比較して見ますと仮に三百六十円の公定レートで計算いたしましても一方の所得は十万余り、十一万近く、それに対して日本は一万円であります、十分の一乃至十一分の一という水準であります。実際は日本の円の実力はもつと少いので恐らく四百五十円くらいのレートだと思いますが、それで計算いたしますれば十六分の一とか十八分の一ぐらいという低い水準になるのじやないかと思います。そういうわけで労働者の生活水準が非常に低いということが凡そ想像がつくのでありますが、農民の場合も殆んどそれに変りはないと思うのであります。  例えばアメリカの最近の統計を見ますと、小麦百ブツシエルを作るのに必要な労働時間というものは三十二、三時間という計算になつております。百ブツシエルと申しますと約二十石でございますが、日本の場合は小麦生産力は反で大体二十日から二十五日という間であります、従つて一日十時間労働として計算いたしますならば二百時間余りというのが一反に必要な労働量であります。そうしてそれに対しまして一反の收穫高というものは、ほぼ一石八斗前後というふうに考えていいと思いますから、それで換算いたしますと、約二十石の生産に必要な労働時間というものは三千時間余りという計算になると思います。つまりアメリカの農民日本農民の百分の一の労働で以て小麦生産しているのでありますが、併しながら生産された小麦価格というものは、計算して見ますならば、これはアメリカのプライス・サーヴイスによるせいもございますが、大体日本より少し高い水準、三百六十円に換算いたしますと、少し高いということになります。百倍の生産力を持つていて、而も価格は同じか、少し向うが高いということになりますれば日本農民が非常に低い生活をしなければそれに追いついて行けないというふうに考えるわけであります。  要するにそういうふうに低い労働者の生活と農民の生活というものを基礎にして、日本の経済が成り立つているというところに、日本の経済の基本的な弱点がある。この問題を解決しなければ日本の経済をよくすることはできないというふうに考えます。そこで問題はそういう日本の労働者と農民状態を少しでもよくして行く、そうして日本の経済全体がそれに応じてよくして行くというためには、そういつた方策を考えなければならないという問題であります。これはなかなかむずかしい問題だと思います。というのは、つまり日本の工業におきましては、今申しましたようにアメリカに比べて十分の一乃至それ以下の労賃しか支拂われていないのにも拘らず、国際的な競争において日本の商品は太刀打ちができないというのが現状であります。ということはつまり工業においても非常に生産力が低くて、低い労賃でも尚且つ競争ができないということだと思います。従つてその問題を解決するのは、結局の問題としては工業生産力を高めて、高い労賃でも国際的競争力を持ち得るような工業を作り出して行くという問題であると思いますが、併しそれは又いろいろな條件がありますから、早急にやつてもなかなか解決できない問題であると思いますが、併し少くともそういうことを目的として政策を考えて行くということが必要じやないかというふうに考えるのであります。  それから農民の場合でも、無論生活水準を高めなければならないわけですが、生活水準を高めるということは要するに所得を大きくするということであります。單に所得を大きくするということだけが問題であるならば、それは農産物価格を吊り上げて行きさえすれば所得は大きくなり得る。ということは税金や何かの問題を一応別とすれば農産物価格を吊り上げて行けば、或いは補助金をやつてそれを高くすれば所得は大きくなり得るわけでありますが、併しそういうことだけでは問題は決して解決されないわけです。それでは国庫の負担が非常に大きくなりますし、又農産物価格が高まるならば、却つて若し労働賃金が一定とするならば労働者の生活水準が下らなければならない、こういうところにぶち当るわけです。そこでどうしても農家の所得を殖やすという條件は、農産物価格をそれ程高めないでも農家の所得が殖えるという問題を考えて行かねばならないということになるのであります。それは結局結論的に申しますれば、私は農業生産力を高めるということ以外には解決の途は見出せないというふうに考えます。そこで若しそれをどうやつて達成するかということを段々申上げますが、とにかくそれは一応結果として達成され、それが農業生産力を非常に高めることができますれば、一定の例えば今の與えられた価格というものを前提としても農家の所得を大きくすることができる。所得が大きくなれば所得の一部分農業の資本として投下することができますし、又農家の非常に低い生活水準を改善して高めることもできる。そうなつて参りますならば、そこでそれだけ工業製品に対する市場も殖え、そこで工業においても生産の拡大をする余地ができ、そうすればそこで労働者が余計に使用されることになつて賃金水準も高まつて行く。そういう意味では国内市場が拡大されて行く。こういういい意味においての循環が作り出される可能性ができて来る。これはなかなか口で言うようにできて来ないと思いますが、とにかくそういう意味での循環を作り出すというような農業政策を盛つて行くということが、これから考えられなければならない基本的な條件であるというふうに私は考えます。そこで農業生産力を高めることが一番現在の場合最終の目的として與えられるのではないかというふうに私は考えるのでありますが、つまり先程申しましたように、日本農業生産力は例えば小麦で言えば、アメリカの百分の一ぐらいですが、更に外の米をとつて見ましても、カルフオルニアあたりの場合と比べますれば、やはり百分の一乃至それ以下というくらいの低い生産力しか持つていない。そういう低い生産力を少しでも高めて行くという條件がどうしても必要であるということであります。つまりそういうこの日本の非常に遅れた農業生産力を高めて行くための技術的な解決というものは今日も必ずしも出ていないというわけではないと思います。御承知通りいろいろな技術的な改良というものは提唱されているわけであります。そういう技術的な改良というものがどの程度普及性があるか、或いはどの地帶にどういうふうにそれが利用されなければならないか、そういう具体的な問題になると非常にむずかしい点があると思いますが、とにかく技術的に日本農業生産力をもつと高めて行くということは私は可能である、すでに解決された問題であるというふうに考えます。例えば水田の稻作の技術一つをとつて見ましても、日本の従来の稻作技術で申しまするならば、一反の水田を作りますために約二十日という労働が必要であります。そうしてそれによつて反当收量というものが約二石、従つて日本農民の場合には一人当り一日一斗という生産水準が現在の日本農業生産能力であると言つていいと思います。併しそれが更に日本農業の中でも進んでおる地帶、例えば岡山県地方、そういう県をとつて見ますと、もつと高い技術というものが採用されていて、その結果生産力が非常に高くなつて行くということが考えられる。岡山の場合には御承知通り自動耕耘機と水稻直播という技術が改良されることによつて生産力が高まつて来るわけであります。それについてはいろいろの統計的なデータが出ておりますが、これが果して本当かどうかということは私は責任が持てませんが、或る農業の技術家の説によるならば、今の日本稻作の技術というものをすでに現在分つている技術、つまり技術としてはでき上つているものを採用しただけでもつと遥かに高めることができる。そうして少くともパー・ヘツドの生産量を二石乃至そのあたりまでは高めることができるというふうに言つておる人もあるくらいであります。それは多少大袈裟であるといたしましても、私はそういう技術的な改良を若し日本全体において広範囲に採用できるというか、可能であるといたしますならば、日本農業生産力を今の五倍や十倍に高めるということは必ずしも技術的には困難な課題ではないというふうに考えられます。ところが実際問題としては技術的には可能であるが、そういう高い生産力水準というものが日本の現在においては少しも実現されていない現実でありますが、従つてそれが実現し得ない理由がどこにあるかという問題を先ず考えて見る必要がある。それはいろいろな理由が考えられますが、結局においては先ず第一に大きな條件として日本の自然的な前提條件というものが決して十分に整備されていないということが大きな問題だと思います。例えば先程近藤先生二毛作を普及する必要があるとおつしやつたのですが、そうしてこの二毛作を普及するということは確かに私も重要なる條件であると思いますが、ところが実際問題としてなかなか二毛作の普及ということは困難な地方があります。それは先程近藤先生のおつしやつたように供出問題及び農産物価格の問題というものが一つのネツクになつているということは多少考えられますが、その前に自然的條件として二毛作が阻まれているという地帶が相当多いのであります。それは要するに水の條件が一番大きいわけですが、排水が十分できないという問題と、又二毛作をするために若し排水をしてしまうとあとで水田を作るときに灌漑水が得られないという場合と両方あるわけです。一つは水の問題で以て二毛作が十分できないという條件がある。それからもう一つはそれと並んで大きな條件は、私はよく農村を歩きまして、気候的には十分二毛作ができる、又水の條件からいつて二毛作ができる所でありながら二毛作がされていない地帶、この近くで言えば茨城県、そういう地帶が非常にあるわけです。そういうところの農家に行つてなぜ二毛作をしないかという質問をしますと、そういう農家においては大部分農家二毛作をすると労力的にとてもやり切れない。つまり農繁期の労力が非常にかかつて、若しそれを人を雇つてつたならば到底ペーしない。そういう労力の配分がうまく行かなくなるからそれで二毛作はできないと言つてしない地帶が非常にあるのです。従つてそういう問題から考えますならば、少くともそういう労力の配分をもつと均等化するような、つまり農繁期における労力が非常に過重なところをならすような技術改良をして行くということが二毛作を可能ならしめる條件である、こういうふうに私は考えます。つまりこのことはもう一度言い換えますれば、二毛作を可能ならしめるという一つの問題を考えるといたしましても、そのためには先ず自然的な條件、殊に土地及び水の條件というものを整備するということが前提として考えられなければなりませんし、又稻作なり或いは麦作なりというもつと機械化するとか、或いは畜力化するとか、或いは水稻直播のような方法を採用するとか、或いは最近出て参りましたような二四Dのような除草剤を使うとか、そういう技術によつて労力を省きながらも生産が行えるような形を作り出して行くということがどうしても必要になる、こういうふうに考えていいのじやないかと思います。そういうわけで、先ずそこで分りますことは、私は今後日本農業政策として、無論未墾地を開墾するとか、そういう問題も是非考えて行く必要がありますが、少くとも既耕地における生産の前提條件である自然的條件をもつと農業生産に都合のいいものに変えて行く、こういう方法について先ず第一に考える必要があると考えるのであります。これは要するに土地改良をする、それから水利の整備をするという問題に盡きるわけでありますが、而も土地改良をするとか、水利の設備を改善するという問題は日本の従来の農家が個別的に持つている経済力では決して達成できない問題であります。又それは村とか或いは県とかいうような地方団体の財政力でもなかなか達成できない。従つてこの問題の解決のためにはどうしても国家が相当大きな長期資金を投資するというだけの覚悟を持つ必要があるというふうに私は考えるのであります。それが御承知のように最近では例の公共事業費の削減などのために新らしい事業が中止されておるばかりではなくして、水害の復旧さえ十分できない。御承知通り日本農業の災害率というものは戰後において急速に高まつておりますが、こういう水害、そういう災害を防止するとか、或いは災害を受けたところの復旧ということさえも十分にされないというような現在のようなやり方では、私は日本農業を改善して行くめどは到底立ち得ないというように考えるのであります。従つてどうしても財政的な理由はいろいろあるわけでありましようが、併し農業をよくするための第一の政策というものはそういう自然的條件を改善して行くということが、国家の投資を集中して行くということが一つ必要な條件である、こういうふうな観点から考えられるわけであります。それからまあそういう問題が一つ考えられるわけでありますが、その外に農業の例えば農業生産力を高めるためには水田なら水田を取つて見ましても、或る程度機械を入れて行くということはどうしても考えなければならない條件だと思います。この機械を入れますためには現在のような細分化されておる耕地状態ではなかなか機械を入れることは困難であるということから、何よりも交換分合の必要ということが強調されていいと思います。それから同時に機械を入れるといたしましても、これはまあ傾斜地なんか入れられなくても、少くとも平坦地なら入れられると思いますが、そのためには水利設備を非常によくして置いて、少くとも機械を入れるためには水を落し得る條件を作らなければならないということで、そういう水の條件ということはそこにも若干関連をいたして来ると思います。それからもう一つ重要な問題としましては、相当大きな機械を利用するといたしましたならば、この機械を効率的に、能率的に利用するためには必ず一定の面積というものが必要になつて来るわけであります。これは技術的にはいろいろな計算があるわけでありますが、例えば岡山あたりで使われている自動耕耘機を一台能率的に使うためには約十町歩土地が必要である。或いは十町歩の経営というものが必要であるというふうに言われております。これは自動耕耘機一つ……。自動耕耘機だけではなくて例の今農村で盛んに使つております脱穀調製機でも、実際は十町歩ぐらいの経営で一台という割合で使うのが最も効果的であるという計算が出て来るわけであります。従つてそれを日本の一町歩にも足りない農家が個別的に持つということば非常に不経済である。不経済であるのみならずそれを農家一軒ごとに持たせるならば、農家にとつて過重な負担になつてどうしても維持できないということになつて来るのは必然の結果である。そのためにどうしてもここで考えられますことは、国家の政策として例のソ連でやつているMTSのような形、つまりトラクター・ステーシヨンのようなものを考える必要がある。ソ連の場合はコルホーズを作り上げるための一つの挺子になつているのでありますが、日本の場合は必ずしもいきなりコルホーズを作るとかいう問題に持つて行く必要はないと思いますが、少なくとも国家の力によつてそういう農具の共同利用という問題を考えて、それを解決して行くということが日本農業の技術的改善を図つて行く上に必要な條件じやないかというふうに考えるのであります。一方ではそれと同時にいろいろなそういう機械化以外の栽培技術なり、或いは薬剤その他の技術なり、そういうものも進めて行くということになれば、私は日本の少なくとも米麦作というようなものの生産力をもつと高めることは技術的に可能であるというふうに考えるのであります。ただここで私は当然の疑問として出て来ることは、そういうふうに労働の生産力は成る程高まるに違いないけれども、労働の生産力を高めるということは、反当收量が低下するということをもたらしはしないか、反当收量が低下するとすれば、先程申しました国内食糧自給という問題と衝突しやしないかという疑問が一つ当然出て来ると思うのであります。もう一つは一方でそういうような労働の生産力を高めるという技術を採用して行くことは成る程いいとしても、それでは農家人口負担力というものが減つて来て、つまり失業人口がますます殖えるということになりはしないかという疑問が当然そこから出て来るというふうに思われる。併しその問題は私は決して解決不可能な問題ではないというふうに考えておるのでありますが、先ず第一にこの機械化をするとか、それから農業にそういうふうに、米作なら米作に直播とかその他の新らしい技術を採用して行くということによつて、果して反当收量が落ちるかどうかということも私は相当疑問だと思つております。少なくとも岡山あたりで現在出ておりますデータから判断いたしますならば、私は必ずしも反当收量はそれ程落ちないだろう、むしろ場合によつては、これは條件によりますが、殊に水のかかり方の割合惡いような土地では直播をした方が反当收量は高まるというデータも出ておりますし、こうして行つて反当收量がそれ程減るという心配はないのじやないかというふうに私は考えるのであります。併し仮に反当收量が或る程度減るといたしましても、私はこれをそういうふうにして一方において米作なり麦作なり、そういうものの労力を省いて行くことによつて農業経営をもつと多角化して行くという問題を考えると、食糧の問題は先ず解決できるのじやないかというふうに考えられるわけであります。と申します意味は、先程も近藤先生もおつしやつたと思いますが、日本食糧というものは無論稻作を全部廃止してよいというようなことは言えないわけでありますが、併し従来の日本農業というものが余りにも米麦作に片寄り過ぎているということは否定できない事実であります。実際水田を例にとつて考えます場合に、毎年毎年表を作り、米を作り、麦を作る、こういう形で水田を作つて行くということは、つまり同一の土地で常に禾本科の植物だけを栽培して行くということは土地の條件を非常に惡くする、地味を非常に痩せさせる原因だと思います。日本農業の反当收量というものは従来世界で一番高いというように言われているのでありますが、実際は私は決して世界で現在では一番高いとは言えないと思います。むしろ水田を取つて見ましても、カリフオルニアあたりの水田の反当收量に殆んど追着かれるか追越されておりまして、それからもうヨーロツパの多少残つておるイタリーやスペインの水田に比べますならば、日本の水田は非常に反当收量は低いと言つていいと思います。これはつまり土地を余りにも單純に米麦作に利用して来たというためであつて、どうしても水田にも私は輪作というものを結び付けて行くという考え方をする必要があるのじやないかと思います。輪作を結び付けることによつて一方では私は酪農が可能になるというふうに考えております。それからこの反当收量をそれによつて高めることができますから、その代り作付面積は減るわけであります。従つて作付面積が減ることによつて米なら米の收量というものが反当收量が高まつてもカバーできないで、成る程全体として見た米の收量としては減るということはあり得ると思います。併しそれにも拘わらず他方において若し酪農を結合するとか、或いはその外の農業をやつて農産加工を加えて、そうして農業を多角化して行くという途が開かれるならば、それ以外の食糧で以て米における穴も十分カバーできて尚余るのではないかというふうに考えられます。先程の近藤先生お話にもございましたが、日本農家の米の消費量というものは、どう考えてみても或る意味で必要以上に食つておるということは事実であります。これも去年の夏新潟県の或るところに行つて私聞いた話でありますが、或る新潟県の農家で自動耕耘機を入れて、今まで牛馬耕をやつていたものを自動耕耘機に切替えて、それからその代り乳牛を一頭飼つて、それで以て乳を搾つて自分のうちで飮むようにしている。そうして一年間計算して見たら、一年間の米の消費量がやがて半分に減つたということを言つていた農民がいた。私はここに相当重要な解決すべき問題があると思う。つまり日本農民動物蛋白を補給して行くということも先程近藤先生のおつしやつたように魚をとるのも一つの方法でありますが、同時に私は畜産を結合するということによつて動物蛋白を補つて行く。そうしてそれによつて主食の従来の穀物の消費量というものを減らして行くという考え方をすることは非常に重要なことであつて、そうすれば或る程度日本全体の穀物作が減少したとしても、それを十分にカバーすることはできるというふうに考えられるのであります。  而も、いろいろ話が飛び飛びになりますが、この輸出能力、農業における輸出能力という問題を考えますならば、恐らくは生糸は余り伸びる見込みがないという現状において、それに代るべき農産物の輸出力を持ち得るものというふうに考えますならば、私は畜産物の加工物というもの以外には考えられないと思うのです。つまり言うまでもないことでありますが、畜産物というものは割合小さい体積により大きな価値を盛り込むことができるという性質を持つておりますから、従つて遠くに運搬するためには畜産物が最も有利な條件を持つているのであります。運賃が一番少くて済むという條件を持つております。そこで大体においてどこの国の統計を見ましても、国民の生活程度が高まるにつれて畜産物の消費というものが殖えるということが言い得るわけでありますから、従つて将来の問題として考えますならば、私は一番輸出力を持ち得るものは畜産物であるというふうに考えられます。すでに戰前におきましても、日本のバターのごときはロンドンの市場まで進出をしていて、而も北欧のデンマークやその他のバターと或る程度太刀打ちができるという條件ができていた。そういうことを考えて見ましても、私は畜産物を拡充することはやはり重要な問題ではないかというふうに考えるわけであります。併しそのことを可能ならしめますためには、従来のような水田の技術というものを前提としては私は畜産の拡充ということは不可能である。という意味は、第一に従来の酪農経営というものは飼料作物を外から買う。例えば満洲の大豆粕なら大豆粕を外から買う。それによつて牛を飼うという考え方つたと思うのであります。これはつまり農業経営はそのままにして置いて、その上へただ牛を乘つけて、そしてその牛を外から飼料を買つてつているというだけのことでありますから、それでは農業経営全部が有機的に結合されてよくなるという條件ができて来ないと思います。どうしてもこれに畜産を入れる、つまり酪農経営を考える上は飼料作物は成るべく自分のところで作つて行くという考え方をしなければいけない。飼料作物を作るところと、水田なり、畑なりに輪作を入れるというところとは一致するわけでありますが、そこで一方で輪作を入れて行くことによつて土地の條件をよくして行つて、一方ではそこでできた飼料作物で以て畜産を入れて行く、そういう考え方で以て日本農業の経営をより豊かなものにして行くことが可能になるというふうに私には考えられるのであります。で、そういう方策をどうしても考えて見ることが日本農業の改良の一つの目途ではないかというふうに私は考えている次第であります。併しそういうことをやりますためにも、先ず農業自身の方の経営生産力を高める。そうしてその生産力を高めることによつて農業経営自身の多角化を図るということが必要であります。それは單に農民の自由な意思に任せて置いて、そして又現在の農民の経済状態というものを前提として置いて、そしてその上でただそういうことをやれという掛け声だけかけたのでは到底できない。むしろそれをやるべき農家自身が相当大きなインヴエストをして行く。そしてそれによつて農業を改良して行くという考え方をしない限りは私は不可能ではないかと考えるわけであります。そういうわけで長期的な政策として考えられますことは、簡單に言えば、私のアイデアはこういうところにあるのであります。そういう理想的なところへ、今急にはできないにしても段々と日本農業を持つて行かなければ日本農業の問題は到底解決できないというふうに考えておりますが、それを今度は短期的な、日本農業の現状というものと結び付けて考えて見ますと、その間に余りにも大きな差があるということが事実であろうと思うのであります。御承知通り日本農家の経済状態というものは戰争直後は一種のインフレであると言われて非常に景気がいいように言われていたのでありますが、この言われていること自体には私は多少誇張が含まれているというふうに思つておりますが、ともかくも併し経済状態必ずしも惡くない。ところがそれが昭和二十二年頃から段々と経済状態が惡くなつて今や農業恐慌状態を惹き起しているということはすでに常識になつている事実でありますが、而もそういう農業恐慌状態というものはどういうふうにして惹き起されて来たかと申上げまするならば、これもいろいろな理由が考えられますが、私は結局最大の理由として二つの問題を考えることができる。その一つの問題はつまり農産物の供出制度、殊にその供出価格が非常に安過ぎるという問題であります。それからもう一つの問題は租税負担が非常に過重であるという問題だろうと思うのであります。この二つの枠で以て日本農家は非常に締めつけられる。その結果日本農家の生活水準が非常に低下して、而もその低下した生活水準でさへ赤字が出て来るという結果になつていると思うのであります。  昭和二十三年を取つて見ますと、日本の平均的な農家、つまり一町二、三反を経営している農家の実質的な所得というもの、つまり貨幣の価値の変動を除去いたしました実質的の所得というものを、物価指数を斟酌して算定して見ますと、大体戰争前の同じ一町二、三反の農家の四〇%くらいになつているというふうに私は考えるのであります。又昭和二十三年の同じ農家生計費調査というものを調べて見ますと、一町五反までの農家というものは相当大きな赤字を出しているという結論が出ておるのであります。こういう條件に日本農業が段々と追込まれているという下では、私は日本農業生産力がよくなるというようなことは、或いは大きくなるというようなことは到底考えられない。むしろ日本農民は今のような状態に置かれている限りは生きて行くことさへ段々困難になつて来るという條件に置かれていると思うのであります。つまり差当りの問題としては、先ず日本農民に普通の生活が維持できる、而も農家の中において少くとも農業経営を段々と合理化して行き得る程の経済力を日本農民に與えて行くということが差当つてなされなければならない政策であるというふうに考えるのであります。それは従つて今の日本農家を圧迫している一番大きなものが価格の問題と租税の問題であるというふうにいたしますならば、この価格の問題及び租税の問題をどうして解決すべきであるかということが差当つてのつまり短期的な農業政策の眼目になるのじやないかというふうに私は考えるのであります。  その差当つて価格政策と申しますものは、これは非常にむずかしい問題が他方にあるので、つまりそれは輸入食糧との関係という問題が他方に出て来るのであります。現在のところでは先程もちよつと申しましたように、外国の農産物の水準の方が概して高くて、日本の農産物の水準の方が低いわけでありますが、併しこの日本農業生産力が、先程申しましたように非常に低いわけですが、将来の問題として考えますならば、むしろ外国農産物の方が安くなつて日本の農産物の方が高くなるという逆の関係が出て来る。そして外国の農産物によつて日本農業が圧迫される危險性がますます多くなるという條件も考えられなければならないと思います。そういうわけで、例えば本年度の四千二百五十円という米価、これが適正であるとか適正でないとか、議論はいろいろあり得ると思いますが、それが若し日本のその外の條件、つまり価格の條件や或いは工業における労働者の生活水準の條件や、或いは賃金の水準というものから考えて、四千百五十円以上に米価を高め得ないという條件が與えられているとするならば、それを併し現在のように直ちに農民に押付けて行くということではやはり日本農民はますます窮乏して、段々日本農業は衰退して行く以外には方法はないというふうに考えるのであります。まして外国の農産物が日本のよりも安くなつてそれが入つて来る。それによつて価格が圧迫されるという條件が出て来るといたしますならば、それを又放置して置けば日本農業を発展させるめどは出て来ないということは確かだと思います。これは結局従つてその問題を終局的に解決いたしますには、先程申しましたように生産力を高める以外にはないのですが、差当つて生産力が或る程度高まつて来て競争力ができて来るまでの間は、私は何らかの形で日本農業価格の面からサポートするという考え方以外には方法はないと思います。それはつまりプライス・サポートの問題になりますが、プライス・サポートも、例えば外国、アメリカの例を取つて見ましても、最近では非常に拡大されて来ておりますし、例のブラナンの考え方のように、非常に大きな、十億ドル以上の予算を組んでアメリカ農産物の価格を維持しようという政策さえアメリカで考えられているという時代でありますが、日本農業にとつてはこのプライス・サポートの問題というものは、少くともここ数年の間は日本農業を考える上に是非とも考えて頂かなければならない問題だと思います。そのプライス・サポートのやり方をどういうふうにするかという具体的な細かいことは私は十分考えておりませんし、又曾て行われましたような米価維持政策というような、ああいうやり方では私は十分に目的が達せられるというふうには考えられない。むしろああいうふうに市場関係を通じてマーケツト・プライスというものを一応前提として置いて、そうして国が過剩なものを買上げて、そうしてそれによつて数量を調節して間接的に価格を調節しよう。こういう考え方のプライス・サポートのやり方は、これは今のアメリカのやり方もそうでありますが、こういうやり方ではもはや目的は達せられないんじやないかという印象の方が強いのでありますが、むしろもう少し直接に、つまり今度アメリカでも考えられて問題になつているような、つまりマーケツト・プライスならマーケツト・プライスとして自由な価格に一応任して置くにしても、それと、それから農家の例えば一定の生活水準なり一定の所得水準というものを他方で考えて、そしてその差額を何らかの方法によつて財政的に埋めて行くというやり方のプライス・サポートのやり方の方がより強力であり、より目的を達するゆえんであるというふうに考えます。ともかくもそういう意味においてプライス・サポートの問題がどうしても差当つて考えられなければならん問題だというふうに考える。  それから租税の問題としては、シヤウプ勧告がすでに出ていて、それに従つて税制改革も進められているわけですが、先程近藤先生もおつしやいましたように、私はシヤウプ勧告によつて農村の、殊に農家の租税負担というものは必らずしも軽くならないという点において近藤先生と全く一致した意見を持つています。のみならず單に軽くならないばかりではない、少くとも地方的に見れば非常に過重になるという危險性が多いのではないかというふうに思うのであります。と申します意味は、つまりシヤウプ勧告の基本的な考え方として地方自治を拡大するという考え方があるのでありますが、そのために地方により大きな財源を與えるという措置を一方ではとつているわけです。この近藤先生のを引用させて頂くならば、この尻から二番目の下にもありますように、市町村税收入というものは約四百億殖えるという計算になります。四百億というプラスの財源を與えて置いて、そうしてそれによつて地方自治を拡大して行こうという考え方をとつております。地方自治を拡大する一つの例えば現われは、従来この昭和十五年、もつと歴史を遡れば大正七年まで遡るわけですが、小学校の先生の給料を国庫が負担するという例の制度、あれが昭和十五年に五〇%国庫が負担するという形になりまして、今日に及んで来たわけでありますが、そして昭和十五年からはあれは市町村の負担というのが都道府県の負担になつて来ましたが、これがシヤウプ勧告では全く地方に、殊に市町村に全部任されて、そうして小学校の教員の経費も市町村の財政へ任せるという形で現れて来ているのである。その外いろいろの事務が成るべく市町村に委讓されるという方向をとつております。併しそれに対して市町村税の独立税というものが、成る程四百億程殖えるという計算になります。併しそれだけでは到底この財政均衡を保つことができない。そこでシヤウプ博士が提案しておりますのが、申すまでもなく平衡交付金の制度であるのです。この平衡交付金というものが私はこれからの地方財政の運営のための非常に重要な問題をあそこに含んでいると思うのです。つまりシヤウプさんの考え方は、御承知通り個々の事務について單価を計算する。そうしてその單価と事務の量とを掛け合して、そうして財政需要というものを算定する。それから一方においては、與えられた税制においてどれだけの租税收入があるかということを計算して、その差額が出て、マイナスが出たときには平衡交付金で埋めて行く。若しこの考え方が十分に実行されるならば、私はそれで問題ないと思うが、ところが実際問題として平衡交付金の算定方法が果して合理的に行われ得るかどうかということが非常に問題である。殊に、例えば昭和二十四年度において地方分與税が国の財政、ドツジ財政の必要から削られまして、例の三二・一四%という繰入率が引下げられて一六・二九%かになつたということを考えて見ましても、如何にこの合理的な算定基礎というものを一応考えていたとろで、国の財政が逼迫して来るという條件が出て来るなら平衡交付金というものが相当削られる危險性を持つているというふうに考えるのです。そしてシヤウプさんの考え方では、昭和二十五年度における平衡交付金を千二百億というところで抑えているが、千二百億という額をとつてみても、私はこれで十分に地方財政が賄えるというふうには到底考えられない。と申しますのは、昭和二十四年度、これは正確な計数が出ておりませんが、昭和二十四年度においても国庫が地方財政に対して與えているものが、分與税を含めて考えて見まして約千三百億を超えるのではないかというふうに抑えられますが、それで又財源が一部分地方にプラスされたということを考えて見ても、千二百億の平衡交付金では尚且不足するという條件が出て来るような印象を受ける。その場合につまり不足する団体というものは概して申しまして、貧弱な農村程不足が甚だしくなる。そうして、そうなれば結局独立税が増徴される以外に收入の途がなくなつて来る。それは結局農村地方に租税負担がますます過重になるという結果を生む。シヤウプ勧告は、勧告通り計算いたしましても農家の租税負担はそれ程軽くならないということでありますが、そういう結果を考えますならば、勧告を行なつた結果、却つて農村地方においては租税負担が重くなるという危險性さえ相当考えられる。そういう非常に過重な租税負担が農村にかかるのですが、殊に農家の租税負担というものを考える場合には是非共考えて頂かなければならないことは、私は、例えば所得税にしても、農村とそれから労働者やその外の中小工業者というものと同じ税率で所得税をとるということがそもそも無理だと思う。つまり同じ所得の例えば十万円なら十万円というクラスを考えてみても、実際において農家は十万円が全部現金化していないで、恐らくその六割か七割しか現金が入らない。而もその所得税が十万円という所得で税率が計算されて、それによつて決定されて、それに税金を七万円という現金の中から拂わなければならないということになりますと、全体の計算としては必ずしも農家の経済は赤字にならないということであつても、現金部分として計算すれば必ず赤字になるという計算が出て来やすいのです。で、現金として赤字ならば農家としては拂うわけに行きませんから、どうしても借金せざるを得ないということで、それで農家経済が赤字になる。だから税の性質上農民とその他の階級というものは当然差別をつけるべきであつて、そうして農家の場合はその税率を軽くして行くという必要がどうしてもあるというふうに考える。そういう意味で私は今度の国会でどの程度この税制改革が行われるかはまだ承知しておりませんが、少くともシヤウプ勧告を文字通りに受取るならば、私はあの勧告は農民にとつては非常に不十分である。あれでは農家の租税負担の不合理性を緩和することができないというふうに考えております。そこでどうしてもその税の負担の問題というものをもう一度農業政策の一環として考える必要があるのじやないか。それによつて農家の租税負担をもつと軽くしてやらなければ、農業政策の完全を期するということは到底考えられないということであります。  それから第三に、序でに申上げて置きますならば、農業金融の問題というものがもう一つ大きな問題である。先程申しましたように、これから長期的に考えましても、農業に対する大きなインヴエストメントというものが非常に必要なんです。それが一部財政資金で賄わなければなりませんが、その財政資金が現在では非常に不足であるということは先程申上げた通りでありまして、これは大きく考えて頂きたい政策である。併し同時に全部を財政資金で賄う必要はない。何らかの形において長期的な金融の方法というものを考えますならば、それでもいいわけであります。ところが現在におきましては農業の金融というものは非常にむずかしい條件になつておりまして、つまり農家の経済状態が非常に惡いということを反映いたしまして、常に農民の預金が大部分集まるところの農林中金の資金というものは、短期資金の需要さえも大分に賄いきれない状態です。長期資金に至つてはますます不足して行つて殆んど零という状態である。而も昭和二十三年の後半期だと思いますが、復興金融金庫の融資によつて部分農村に対して長期資金を與えるという措置が講ぜられたのでありますが、それが復興金融金庫が業務を停止することによつて二十四年度からなくなつてしまい、それに代るべきものとして見返資金特別会計の資金を融通するということが考えられて来ておるわけでありますが、それが非常に遅れて農村まで届かないということになつて来て、現在では長期資金の供給というものが殆んど零になつて来たというふうに考えられます。そのために農村におきましては、長期的な対策というものが全然行われ得ないという状態に置かれておるのでありまして、この問題はどうしても差当つて政策として是非解決して頂きたい問題だと思う。それを見返資金で賄うべきであるか、或いは特殊の農業の投資機関、金融機関というものを考えてそこで賄うべきであるか。いずれがいいかということについては私は直ぐには分りませんが、併しともかくもその問題は緊急な問題として是非考えて頂きたい條件であるというふうに考える。殊にその場合にむずかしいことは、農地改革の結果として農地の担保力というものが殆んどなくなつておりますから、それに代るべき担保的な措置というものも考えて置かないことには、金融機関だけ作つてみてもなかなか農村に資金が入り得ないという條件が出て来る。それを又どうすべきかということは私によく分りませんが、併し農業動産信用法というようなものをもう少し整備して、利用し易いものに変えて行く必要があるというふうに考える次第であります。  まだ小さい問題としていろいろ取上げて頂きたいような問題は幾つも挙げれば切りがありませんが、要するに基本的なものとして、私はそういう線をもう少し強く押出して行くということが差当つて政策として必要ではないかというふうに考えます。  甚だ話に整理がつきませんで大変申訳ございませんが、以上であります。
  8. 楠見義男

    委員長(楠見義男君) それでは十分程休憩して、それから懇談いたします。休憩いたします。    午後三時二十六分休憩    —————・—————    午後三時四十分再開
  9. 楠見義男

    委員長(楠見義男君) それでは休憩前に引続きまして委員会を再開いたします。主として先程来承りました両先生の御意見に対して御質疑をお願いし、又両先生を中心にして懇談的に意見交換をいたしたいと思いますから、どうかそういうことでお願いしたいと思います。  それから委員外の方も委員の方と同様にどうぞ御遠慮なく御発言頂きたいと思います。
  10. 板野勝次

    委員外議員(板野勝次君) 大内先生にちよつとお尋ねしたいのですが、これは私の聞きようが惡かつたかも知れないと思いますが、あなたの生産力論が出て来る前提としては、農産物の価格を高めないで、農家経済というものを高めて行くということを前提として、それに農業生産力を高めて行くという裏付けですね。そうしてそれがためには国家的な投資、助成というものが必要だということを前提とされておつたように思うのですが、そうすると現在の農産物価格に対するお考えが後で少し前のと違つて来たように私には思えたのですが、その点をちよつと分るように御説明願います。或いは私の聞き様が違つて来ておるかも知れませんが……。
  11. 大内力

    証人(大内力君) それは私の言葉が足りなかつたかと思いますが、現在の日本農業生産力というものを前提として考えれば、現在の農産物価格は非常に低く過ぎる。併しこれを国家経済全体の立場からこれ以上高められないということならば、差当つてプライス・サポートして農家の所得を人為的に高めるということに考えざるを得ない。併しプライス・サポートして、農家の所得を人為的に高めるということはこれは非常に不健全であるから、従つて将来の問題としては農業生産力を高めることによつて低い価格でもペーする、そういう考え方を持つております。そういうふうに申上げたのであります。
  12. 板野勝次

    委員外議員(板野勝次君) そこで重ねてお尋ねしたいのですが、農産物の価格が上げられないということ、例えばそれは賃金政策と結び附いて来ると思うのですが、併しその点に対するつまり今の賃金政策と農産物との価格関係についてあなたの率直な見解、どのようにお考えになつておられるか、そういうことをお聞きしたいと思います。
  13. 大内力

    証人(大内力君) これはむずかしい問題だと思いますが、賃金を今の率で固定しておいて考えれば、今以上に農産物価格を高めるということは非常に困難だと言つてよいと思います。ただそれに一つ附加えて置きたいことは、御承知通り農産物価格、更に本年度の価格については消費価格生産価格との差額が非常に大きく来ておるというように考えられますが、つまりその間に入る流通費用というか、流通費用というものが非常に大きくなつておる。従つて流通費用をもつと削減して、それによつて生産価格をむしろ高めることができる。消費価格も低められ、両方歩み寄りすることができるというふうに考えます。それは結局私は現在の公団の制度というものが非常に能率が惡いし、又必ずしも適正に管理されていないという点があるのじやないか、これは具体的に事実を握つておるわけではありませんが、私の印象ではそういうふうに考えられます。それで今申しましたのは、賃金を前提とすればそうなるということを申したので、賃金の方を動かすということを條件として考えれば、当然別な考え方もでき得ると考えます。
  14. 近藤康男

    証人近藤康男君) 今の問題に関連して私の感想を申上げますと、こういう点を一つ考えるべきではないかと思います。それは低賃金、低米価なんですが、その低米価の方は低賃金が要求しておる以上に低米価にはなつてない。そのよつて来たるところは、今公団の問題を一つの問題として挙げられましたが、それは勿論あると思いますが、それはやはりあの厖大な輸入をして、四百五十六億というあの価格差補給金を出しておるということ、あれが形式的には一応切離されておるけれども、やはり四千二百五十円しか買えないという一つの底流をなしておるのじやないかと思うのであります。だから輸入を殖やすということは、仮に消費価格は動かないとしても、もつと消費価格へ近い値段で買える可能性を十分増して来る便宜があるということは言えるのじやないかと思うのであります。
  15. 板野勝次

    委員外議員(板野勝次君) それで、もう少し聞かして頂きたいのですが、両先生の相違点の中心を貫いているものは、日本農業というものを飽くまで米麦中心で行くというのと、米麦中心にはいろいろな條件で、自然的な條件でも行詰りが多いから多角化して行こうという点と、それから飽くまで国内自給体制という角度と、今一つは多角化することによつて例えば畜産物が輸出可能である。そういうような論点からしますと、大内さんの方から行けば、幾らかやはり今の安い賃金政策に支えられた輸出というふうな観点から、やはり農産物の輸出というふうなものも考えられて言つているということが予想されるのですが、そのことは別として両先生の基本的な対立、つまり米麦中心か、多角経営かという問題ですね、これをもう少し両方から話して頂くと非常に参考になるのじやないかと思います。
  16. 近藤康男

    証人近藤康男君) 私は多角化ということが日本で言われておる、或る意味でそれが支持されておるという理由というものは、それは多角経営という言葉を使つておりますけれども、それは何と申しますか、止むを得ざる策の一つであつて、つまり稻作だけやつているのじや食えなくなる虞れがある。それで牛も飼つて置こうというそういう極めて何といますか、惨めな形の多角化であつて、それは多角経営という言葉に当らんと思うのであります。丁度我々が学校で月給を貰つておるけれども、月給だけで食えないから原稿料を稼ぐというのと同じだと思うのであります。月給だけで食えるようになるのが本筋であつて、技術の養成というのは決して多角化にあるのじやなくて、稻作をやる人は稻作專用でそれに專心して技術の改良を段々と加えて行く、農機具も稻作に使う農機具を專らよくする、そうでなければいけない。稻もやり、ヌートリヤも飼い、鷄は子供が飼つているという、そういう状態は悲しむべき状態だと思うのであります。そういう意味で止むを得ず有畜化ということが行われているのであつて、若し技術の到達している論理を貫くならば、決して私は多角化という方向じやなくて、やはり畜産をやる人は畜産畜産も酪農なら酪農だけ、こういうことになるのが本当だろうと思うのですね、そういう意味では私は何というか、発達の方向というものはやはり單作、言葉が不十分ならば專業化ということで行くべきじやないかと思います。
  17. 大内力

    証人(大内力君) その点は私は近藤先生の御意見に半ば賛成であり、半ば反対なんでありますが、賛成という意味は、現在日本で実際やつておる多角化、有畜化という中には、今近藤先生がおつしやつたような意味が非常に強いと思います。そういうつまり米麦だけでは食えないからその上に牛も飼おう、鷄も飼おうという、そういうみだらな形の多角化であつて農民の労働が強化されるだけであつて、私は意味をなさないというふうに考えます。併し私は近藤先生のように、農業というものが必ず單作に向つて発展して行くものであるという御意見に対しては多少の異論を差挾む必要があると思うのでありますが、と申しますのは、日本農業の従来の最大の欠点は、家畜が農業の中に入つていないことだと思うのであります。ヨーロツパの農業は御承知のように家畜なければ農業なしという格言があるくらいに、家畜というものが有機的に農業経営の中に入つて来るという形で来ているわけでありまして、そうして又農業においては、季節的な作業の繁閑というものがどうしても避け得られない。これはまあ非常に将来を考えれば避け得られるかも知れませんが、差当つては避け得られない。そうすればその季節的な繁閑を何かの形において埋め合せて行くという途を考えざるを得ないということと、それから地力を保持するというためには現在の化学肥料だけではどうしても足りないので、有機質の肥料が必要である。殊に厩肥が必要であるという條件を考えますならば、私は少くも日本農業においてはいきなりモノカルチユアというところに飛ぶのは飛躍し過ぎるのじやないか、やはり畜産を混合して行くということは日本農業を始めて行くのに重要ではないかというふうに考えるのであります。
  18. 羽生三七

    ○羽生三七君 両先生の御意見を承つてつた点もあるのですが、そういう今大内先生の言われるような場合ですね、日本農家土地所有面積の狭隘さを考えて、私は一種の欠陷があるような感じがするのです。大体有畜農業を取り入れて、まあ惡い言葉か知れませんが、多角的に経営をやつて行くには五反百姓では私は意味がない、大体一町歩以上の経営でなければ恐らく存在といつては変でありますが、成立しないし、又採算にも合わないような感じがするので、まあ非常に考え方としては飛躍的になつて、今の現実から少し遊離するかも知れませんが、私はやはり或る程度経営を單純化して、養蚕は養蚕、米麦米麦、蔬菜は蔬菜として、例えば或る一村ならば一村を中心に考えた場合に、一村内の一部落がその立地條件を考慮して、ときには米作になり、ときには畑作になり、或いは蔬菜作をやる。併し村全体から見れば一種の多角経営であるが、個々の農家からすれば一種の單純経営である。私はこれが理想的ではないかと考えて来たのですが、実際問題として五、六反歩程度で多角経営が可能であるかどうかということはどういうことでございましようか、その点は……。
  19. 大内力

    証人(大内力君) それは非常にむずかしい問題だと思うのであります。私も今おつしやいましたように、本当に五反歩というのは無理で、或る程度の多角経営というものを考えるとすれば、最小限度一町歩乃至一町歩半必要であるということは御意見通りであります。従つて五反歩未満の農業が全部牛を飼うということは実行不可能であるし、実現できないと思います。従つてそういういわゆる過小農に対する対策というものは、その対策として別に考えなければならんと思うのであります。併しこれは少し空想的かも知れませんが、私は先程御報告いたしましたときに、その点を十分申上げられなかつたのですが、日本農業の技術的な改善をして行くということは、耕地面積を一定として置いて技術的に改善して行く必要はないのじやないかと思います。先程近藤先生がおつしやいましたように、日本農地面積、国土に対する面積が非常に低いということは申すまでもないので、それは日本の自然的な條件にもよりますが、併しその外にこれを又制約しておるいろいろな條件があると思うのであります。現在のような開拓政策というものは私は何ら意味をなさない。あれならやらない方が余程いいという意見を持つておる。つまり十分の機械的な設備を持たせないで、又十分な資金を持たせないで一町歩とか二町歩とか区切つて渡すというようなやり方開拓では開拓民は單に餓死する以外方法はない。そういう開拓政策だと思うのでありますが、併しそうではなく、もつと高い技術水準を持たせば、開拓の余地は非常にあると考えております。更にその問題に関連してついでに附加えて置きますならば、現在の開拓地というものは全部高冷地とか、或いは辺境の地とかいうような、非常に自然的な或いは社会的な條件の惡い所を開拓地に選んで送られておるわけですが、併しこの場合にもつと日本において注目すべきものは平地林の問題だと思うのでありますが、この平地林が非常に多いわけであります。殊に東北なんか平地林が非常に多い。その平地林が多いということは二つの條件があると思う。一つはつまり防風という問題であります。もう一つは薪炭の問題だと思います。この薪炭の問題と防風の問題を解決し得るならば、私は平地林を開拓し得る余地が十分あると思う。平地林を開拓すれば耕地は何%も殖すことが可能だと考えます。そうしてこの防風の問題はどういうふうにして解決するかと申しますならば、これは結局畑作においてもイリゲイシヨンをやる、灌漑をやるという方法以外に防風の解決は考えられないと思います。それから薪炭の問題はこれは又いろいろな点に絡み合うわけで、農家の住宅が非常に不合理だ。殊に東北なんかも南方的な住宅の建て方をしておる。それが非常に無駄な薪炭を使つておるということもありますし、これも空想的ですが、将来の問題として農家の薪炭を或る程度石炭なり電力に替えて行くという形以外に考えがないと思います。そういうふうにして耕地面積を殖してそこに五段百姓を吸收して行かなければならないのではないかというふうに考えるわけであります。
  20. 羽生三七

    ○羽生三七君 先程近藤先生お話の中に、農家の食生活の中で消費の節約という意味動物蛋白補給の問題をお取上げになり、又大内先生が何かそういうような政策を行う場合に農民諸君の自発的な問題に委ねることなく、国自身が積極的にそれに配慮しなければならないというお説があつたと思うのですが、私はこの点全く同感で、今日本食糧が足らなくて何か食糧政策の転換をやらなければならないという場合に、この間も私ちよつと申上げたことがあるのですが、農家が乳牛を買つて、その乳を都会に出して、それがバターになつたのが半ポンド二百円で売られておるのが、田舎では三百円に売られておる、値段が高くて使わないということもありますが、併しそういうバターは農家に配給になると、私の府県などではこんなものは使い方がないからというので欲しい人に廻して一向使わない。これは一軒や二軒じやない、非常に沢山の家庭が田舎ではそういうことをやつておる。併し日本ではそういうことを政府自身が、或いは政府自身じやなくても他の機関を利用しても結構ですけれども、積極的にそういう指導なり転換を考えないで、自然に放置しておいてはなかなかこういう日本の国民性では容易なことではない、こういう感じが痛切にするわけでありますから、これは婦人会を動員したり、或いはその他の農業協同組合なり、或いはその他のいろいろな機関を動員して食生活の合理的な解決の問題にもつと大きな手を打たなければ駄目だという感じが非常にするのであります。これは私の意見でありますけれども、そうしなければ容易に転換はできんのではないかと思います。
  21. 近藤康男

    証人近藤康男君) 畜産の問題について私の感想を附け加えさして頂きます。  今の食生活の問題は全く重要なことであり、その場合に私は水産物のことを申しましたが、畜産物が一つの役割を演ずることは当然であります。殊に手近にあるのですからして一つ課題だと思う。それの家畜の関係一つは畜力の関係と、一つは今の酪農とか、生産物を取るための関係とか、それから厩肥との関係と三つがあると思います。そのうちの役畜の関係というものは、これは昔ヨーロツパで家畜なければ農業なしと言われたのは、主として役畜の関係だと思います。ところが日本実情は経営面積がそんなに多くないというようなことで、日本農業が今まで家畜に結付いておる関係は労力の関係じやなく、主として私は糞畜だと思います。厩肥を取るのが目的である。それでこの役畜の関係は、これは例えばアメリカなどでは今度の戰争を通じて役畜は非常に減つたと思います。やはり労力は機械力によるのが本筋であつて日本でもそういうことになろうという見通しで間違ないだろうと思います。そういう意味で、これから家畜が取入れられる場合にはもう一つ糞畜の関係があると思います。併し糞畜の関係は、例えば石灰窒素とか硫安を使うというようなことで藁や草を分解させるような方法が、十分取入られるように化学工業が発達して行けば、そういうことで必ずしも厩肥を取るということは直ぐさま要らなくなるとは申しませんけれども、そういうことが考えられると思います。将来残る問題はやはり酪農とか、肉を取るとか、そういうような形の畜産、これを日本農業としてどう評価して行くか、それをうまく行くようにするか、或いは余り重点を置かないかということだと思います。これについて私は今の日本実情が酪農に非常にいい立場に置かれておるとは考えない。非常にミゼラブルな副業的な形が中心になると思います。将来の問題として考えました場合には、私はこういうことを考える必要があると思う。それについて今思い起すのですが、第一次世界大戰の当時イギリスは戰争中に食糧自給しなければいけないというので、小麦を非常に獎励して国内自給の近くまで持つてつた。そして戰争が済んだその場合、イギリスは再び海外貿易に食糧は依存させて、国内小麦を作るというようなことはやめて、又元のように畜産のような形で土地を使つたらいいじやないかということが一つ論点となつて、試験場で研究された報告書を読んだことを私は思い出すのですが、その研究の結果はやはり小麦を折角自給自足するように引張つてつたその勢いを止めてはいけない。同じ面積から小麦を通して栄養を生産するその能率と、それから肉なり乳なり、畜産を通して栄養を生産するその能率を比較した場合には、畜産の方は遙るかに低く、大体小麦の栄養と同じ栄養を畜産から取るには七倍の面積が要る。こういう意味でイギリスは戰争が済んでも小麦生産を続けるような方針を取つた方がいいというレポートを読んだ記憶がするのです。日本においては七倍になるかどうか知りませんけれども、計算をすればやはりそういうことになると思います。非常に土地の不足の国で土地を有効に使わなければならんという場合には、栄養を生産するという観点からすれば肉や乳という形を通して生産するということより、こういう窮乏の場合には植物性のものを以て第一に土地利用することが本筋ではないかと思う。それで私は蛋白の給源としてはむしろ水産の方に頼るべきである。水産は申上げるまでもなくその生産の様式から言いましても、農業などに比べると遙かに社会化された高度の生産様式を持つている鯨とか、そういうようなその方に私はむしろこれからの蛋白の給源を求めることの方が本筋じやなかろうか、畜産も無論なくていいとは決して言いませんけれども、国民の栄養政策蛋白生産という観点からすると、水産に重点を置いて考えた方がより高率的でないか、こう思うのです。
  22. 羽生三七

    ○羽生三七君 近藤先生と大内先生の水田米麦作問題と、それから酪農問題の開きはそう沢山はないと思うのですが、昨日の大槻先生お話ですが、徹底的米作偏重打破で、徹底的に酪農主義ですが、多角経営で行くということを言われたわけですが、私非常にこの前の大槻先生の御説も結構だと思うのですが、昨日こういう御質問をしたのですが、そういう場合に、それは非常に結構だが、可能であるかないかは別として、そういうことによつて、現在の農家の地位よりも更に高まり得るかどうかということは、これは私非常に疑問に考えておつたのです。もう一つは、国家的に見て農家の地位を高める意味から、そういう説が割り出されるのか、或いは又日本輸入食糧をできるだけ節約して、むしろ自給自足、更に発展しては海外へ、先程お話になつたような畜産物を輸出するというような意味から取上げられるのかという点をお尋ねしたのでしたけれども、昨日はその点に余りお答えがなかつたのだけれども、いずれにしてもちよつと現実から……非常にいいけれども、私達もまあ自分で考えるときにはそういうことはいいと思うのですけれども、非常に飛躍し過ぎているという感じがするのです。まあ近藤先生にお伺いしても分りませんが、大槻先生は現実的にはどういうふうにお考えになつているんですかね。
  23. 楠見義男

    委員長(楠見義男君) 大槻先生のお考えは、私もよくこれは消化しているわけではありませんけれども、あの御意見は一昨年あたりからパンフレツトで出されたりしてやつておられるのですけれども、それはやはり半分は先程の大内さんの御意見と同じような点があるのですよ、半分は……これは何としても国内自給度を高めて行かなければならん。それには甘藷というものを、「いも」類というものも放棄しちやいかん。利用しなければいかんじやないか、その利用の方法としては、水田裏作、二毛作ということも考えなければならん。いろいろやることによつて家畜飼料が出て来る。その家畜も舍外でやつたらいいじやないか、その牛乳は売るのではなくて食つたらいいじやないか、こういうふうに行かないと、食生活は改善できないのじやないかという論理的にずつと来ているんですよ。
  24. 近藤康男

    証人近藤康男君) 併しさつき面積が小さいとおつしやいましたけれども、面積が小さい場合には、山の方でそういう飼料などが問題にならないところはまだいいけれども、一頭の乳牛を飼うときには何反歩要るか、先ず九州あたりならば繰返し繰返しやれば、一反あたりで乳牛一頭飼えるのですけれども、関東でしたならば、どうしても二反じや足らないのじやないか、それだけ取られますと直ちに響くのですよ、牛乳は飲めるかも知れんけれども、麦が足らんということになつて来る。
  25. 岡村文四郎

    ○岡村文四郎君 やつたことはなくて言つているから話にならないので、牛を一頭飼えば何ぼ要るか分からん。少くとも一反をよくやつて、三回やつてつたつて足りない多角経営農業をやるというけれども、そんなのはおかしいのです。僕は言わなかつたけれども、いろいろ御意見を聞くのだけれども、この日本農業はそんなものじやない。一番困るのは、近藤先生にお聞きしたいのだけれども、段地が一体幾らあるか、平坦地が幾らあるか、これはどうにもならんですよ。ここで近藤先生にお聞きしたいのだが、一体段地が幾らあるか、平坦なところはうまくやつているのだが段地の方はどうにもならんから、段地はどうするか、例えば長野であるとか、或いは高知であるとか、瀬戸内海の附近とか、みんな段地なんです。僕が生れたところは全部段地なんです。段地のところがおびただしい。学者論と我々の実際論といろいろ併せて考えなきやならんのですがね。
  26. 近藤康男

    証人近藤康男君) 段地がどれだけあるか、ちやんとした統計も前には農会の頃に一つやりましたね、どのくらいのものか、どういうことか私もよく知りませんが、おつしやるように、例えば桑を植えるより外途がないところ、「いも」はできるけれども、外のものは何もできないようなところですと、それはもうそれでいいと思う。私大槻さんの言われる意味は、今まで日本は何でもかんでも稻一本槍で来た。それは行き過ぎだと、そういう意味にしか聞けないのですがね。
  27. 岡村文四郎

    ○岡村文四郎君 大槻さんの酪農は、牛一頭飼つて酪農だと思つているのです。これは酪農じやありません。馬が牛に代つただけで、酪農というのはそういうものじやない。一頭の牛をただ田圃や畑に使つて、その間に乳をとるとかいう、それを酪農とするという考え方なんです。それは酪農じやない。ただ牛が馬に代つただけの話で、そういう意味じや困る。そうでなしにもつといい考えを実は欲しいのです。酪農というのはどこを限度に置いて酪農と言うか、多角経営農業というのは、どこを限度に置いて多角経営農業というか、それを実は聞きたくていろいろ御心配をかけているのです。
  28. 羽生三七

    ○羽生三七君 これは農林委員会の直接の問題じやないのですけれども、前から私考えていることで、これは国が本当は考えるべき一番大きな問題だと思うのですけれども、結局大内先生はいろいろな農家経済の改革の問題の一環として、結局徹底的な電源の開発をやつて、それでどれだけの近代的な機械が農業の中に使われるか、それはまだなかなか理想としては遠いと思うのですけれども、むしろ家庭生活を非常に單純化するという意味で、徹底的な電源開発をやはり農業政策の一環として取入れなければ駄目だという私は感じが非常に強いのですけれども、どういうものでございましようか。
  29. 近藤康男

    証人近藤康男君) 私も非常に賛成でしてね、今大内さんは平地林のことを言われましたけれども、おつしやつた通り、あれは薪が欲しいからあんなに残しているものなんです。あれが若し電力が安くてじやんじやん使えたら、あれはもう開墾して麦を作つてもいいわけですから、そういう点でこれは大いに国家的投資をやつて頂きたいと思うのですがね。
  30. 小川久義

    ○小川久義君 一番露骨なのはね。僕ら富山から汽車に乘つて来て、あの鉄道の沿線に、今大内先生の言われたような薪のために残しておるものでもなし、又防風林でも何でもなし、ただ草原が関東平野のど真ん中に残つている。そうして隣りまで開墾してあつても、隣りが草原だ。然るに富山県の山のところへ来て開墾している。何にもできやしない、而もその開墾のために水源地が荒されて折角の美田が荒地になつてしまう。先程の先生お話と一緒に、既墾地の土地改良が重点になつて然るべきであつて、ああいう山の方を開拓するという考え方を止めさせたいと考えるのですが、そいつはどうですか。そうして実際言うと、ただ昔の参謀本部の地図か何かを広げて、ここからここは指定開拓地ということで、いよいよ行つて見ると、急斜面で何にもならぬ。それを無理にやらしておる。村の連中が頼む、そんな指定を取消して呉れと言つて懇願しておるのだが、指定だから取消されぬということで、相当過渡期で、そういう実際があると思うのですがね。
  31. 羽生三七

    ○羽生三七君 日本農家経済を改善したり、又その発展を図るために特に先程プライス・サポートのお話がございましたが、それはもう全くその通りだと思うし、相当に今後或いは助成政策を考えて行かなければならん。併し何か日本農業というのは、外部的なそういう国なり何かの力だけで発展して来ておる、或いはそれに守られて成長して来ておる農業のような感じがするので、それを内部的に何というか、農業機構の中からもつとプツシユして行くような、そういうことを考えなければならんという感じが私は非常に強いのであります。依然として日本農業は、明治以来保護政策によつてのみ賄われて来ておる。今後又それを続けなければならん。日本農業が独立して農家の経済が飛躍的に発展するために、まだ暫く続けなければならない。殊に外国食糧が大量に入つて来るという現在の段階では、更にそれに非常な拍車をかけなければならんということは、よく分るのですが、同時に農家経済の内部に、もつと保護なんかによつて賄われなくてもやつて行けるという要素を植付けて行かなければならないと、何か脆弱な感じがするのですが、その点はどういうふうにお考えになりますか。
  32. 近藤康男

    証人近藤康男君) これは私はそんなに遠慮しなくてもよいと思うのでありまして、外から助けて貰うと思うから惡いのであつて、自分達が税金を出して、プールに納めたその費用を最も有効に使うというふうに理解して行けば、ちつとも遠慮する必要はないのであつて、さつきの小作料に代つて地租が大きくなつたということですね。それが一つ意味を持つておるということを申上げたのは、その意味でございまして、一人々々の個人地主小作料として取つた場合には、どうしてもその人の最もよいように使う、株を買つた方がよければ株を買う、決して農業のための改良に使わぬと、こういうことだと思うのです。これが市町村にその金が全部地租という形で集まると、これは使い方によつては、有効に最も重要なところに固めて使うということを可能にするのであつて、例えば北海道などに大地主があつたということが、北海道開拓一つの大きな原動力になつておると思うのですが、そういうことが地租市町村に集まることによつて可能になつたわけで、そこに私は意義を認めて、それを生かすようにする必要がある。何も外から助けて貰うというように考えなくてもよいと思うのです。
  33. 羽生三七

    ○羽生三七君 私は必ずしもそう遠慮しなくて、むしろ厚かましい方なんですが、何か脆弱に感ずるのです。脆弱だから保護しなければならんという逆説も成立つわけなんですが……。
  34. 姫井伊介

    委員外議員(姫井伊介君) 農業協同組合が、農業経営、農民生活の中心とならなければならないということは、当然なことですが、併しそうさせるためには、現在の主食の集荷、配給或いは精白といつたようなことも、もう断然農業協同組合にやらせるというところまで進んで行かなければならんのじやないか。従つて今日でも殆んど実質的には米の專売制のような形がとられておりますが、これをやはり主食は專売制をとつて行く、そうして一方、今言いましたように、農業協同組合に代行させると同時に、一方では又農民自身の自分の生活擁護向上のために農業協同組合を発展させる、そうなりますならば、さつきお話しになりましたプライス・サポートというようなことも、その面から維持されて行くのじやないか。尚、納税問題にいたしましても、非常にこれは大きな問題ですが、農業協同組合を中心として、今日の所得税の單独申告などというようなことを、農業協同組合が国の示す標準に従つて共同の申告をする、従つて納税の申告も共同でやれば、又納税の方法も共同で責任を持つてやるといつたまでに、そこまで農業協同組合というものを農村自体のものとし、一方又国家の代行をせしめて強化拡張するということにつきましての御意見を伺いたいのであります。
  35. 大内力

    証人(大内力君) そういう御意見は非常に傾聽すべきものがあると思うのでありますが、ただ実際問題といたしまして、現在の農業協同組合の力というものは、私は非常に薄弱になつておるというふうに考えるのであります。今幸い或る統計を持つておるのでありますが、これは農林中金で調べました農業協同組合の設立したときの規模に関する調査というのがございますが、それで見ますと、全国の平均で申しますと、農業協同組合の出資金の平均というものは、單位組合ですが、二十五万一千円、それから賦課金收入というものが一年間を通じて七万二千円ということになつております。こういうように、つまり現在の農業協同組合の大体平均的な規模がこれで分ると思うのでありますが、こういう二十五万円くらいの出資金と、それから会費の收入が七万幾らというようなもので、一年間の農業協同組合をマネージするということは非常に困難な問題を含んでおるのではないかというふうに考えるのであります。これは先程羽生さんが問題にされたことだと思いますが、私は保護されておるといつて卑屈になる必要があるかないかということは別でありますが、とにかく日本農業が明治以来国家の保護によつて成長して来たということは否定できない事実だと思います。そうして従来の農業会なり農会というものは、そういう国家の補助金をバツクにして、そうしてその補助金を或る意味では分配する作用をしていたわけで、又その補助金によつて或る程度事業ができるという位置にあつたと考えられるのです。今度の農業協同組合は、そういう国家的な支持があるということは、これを官僚化するゆえんであるということで、国家的な支持を外されたわけでありますが、問題はそこにあるわけで、つまり日本農業自身が国家的な補助なしには自立できないという條件に置かれておる。而もそこにただ民主的という掛声から形式的に国家の補助を外した組合を作つてつても、結局組合自身は何ら活動もできず、弱体なものにならざるを得ないという問題があると思う。そこで農業協同組合が今後の農業の問題を解決する中心的な機関にならなければならないということは、その通りだと思いますが、実際それだけの大きな仕事をする負担を農民自身が全部背負い得るかどうかということは、私は非常に疑問だと思います。そこで單に補助金をやればすぐ官僚的になるというような、そういう簡單な考えではなくて、やはりこれはもう少し国家的な問題として考える必要がある。つまり補助金をやつて、その補助金に常に紐が付いておるので、その紐によつて動かされるということがあるからこそ官僚的になるのである。というのは、補助金を貰うということと運営が民主的であるということとは、必ずしも両立しない問題ではないというふうに私は考えるのであります。そういう意味で、税金を協同組合に扱わせた方がよいかどうかということは一つの問題だと思いますが、少くとも今の農業協同組合が税金を扱うだけの力がないということは事実だと思います。例えば税金を扱うとして、事務員を一人なり二人なり殖やすということは、今の農業協同組合ではできないというのが現状だと思います。従つて、そういう農業協同組合自身を強化するという政策が先に立たなければ、私はいろいろ考えて見ても無駄ではないかというふうに考えるのであります。
  36. 小川久義

    ○小川久義君 税金の問題ですが、実際僕の組合あたりでは、役場へ納める税金というものは、組合で書いてやるし、金も組合から出して行く、そういうことで、出資金は百七万円ぐらいのところですが、それでもほぼやつて行けると思うのですね。金は協同組合から出すのです。足らなければ借用書を入れて借りて行く、金の出るところは協同組合なんです。而もその持つてつてやるのも協同組合がやる。だから僕はそういう大内先生の言われたような組合もないとは申上げませんが、全面的にはそうではないのじやないかと思います。
  37. 大内力

    証人(大内力君) 今私の申上げたことが誤解を受けるといけないから申上げますが、單に協同組合が、今おつしやるように納税代理人という役割を果すということなら、今の協同組合でもできると思います。先程の御意見は私はこういうふうに解釈した。これはシヤウプ勧告で実施されないということになりましたが、源泉徴收制度をとるということになりますと、所得の査定なり、何なりを税務署が或る程度やるとしても、協同組合が相当サポートしなければならないという、そういう納税事務まで協同組合が自主的にやるというところまで行くとすれば、今の協同組合ではできない、そういうつもりで申上げたのであります。
  38. 小川久義

    ○小川久義君 その点、大内先生が言われた点については、第二種事業税、この富山県では各町村役場で割当てて、お前のところは、お前の村は幾ら幾らという割で、その割出しはこれ又農業協同組合がやつておる。生産組合で実態を皆知つておる、その実態があるので、農業所得においては、協同農業をやればもつと公平になるのじやないか、富山県の税務署の役人の平均年齢を調べて見ると二十二ぐらい、その二十二ぐらいの者が家にいると親から小使を貰つておるというようなことで、自分の世帶しか経験のない者が、人様の世帶をあれするのだから無理がある。公平化するにも農家の実態を把握して、協同組合にやらしたらどうかという、僕は姫井さんの御意見はそういうふうに解しているのですが……。
  39. 北村一男

    委員外議員(北村一男君) 簡單にお尋ねしますが、先程羽生委員から、補助に頼るということはどうも脆弱感があるというお話ですが、これは羽生委員は、信州で「りんご」などが沢山できるものですから、非常に農家の経済が豊かであるというような環境からお話になつたものと私は考えております。併し新潟県に入りますと、全く事情が違つて来る。どうしても今近藤先生のおつしやつたプール計算式に考えて、耕地生産性を高めて貰うように灌漑排水の仕事を初めとしてやつて頂かなければならないという、これは全く私同感でありますが、併し多角経営という面から言いますと、雪が降つて現実にできないのであります。「わら」仕事ぐらいのものであります。新潟に向いまして、鉄道の左側は大体雪が少うございますから、排水ができますれば、そこで裏作ができるかも知れませんが、線路の右側の山近いところは、雪の深いところはどんなふうにして行つたらいいのか。お考えがありましたら……(笑声)これはここに御出席の方々が暖国の方が多いので、岡村さんと加賀さんが寒地で、他は余り雪など、冷害関係がおありにならんでしようけれども、非常に痛切な問題でございますので、お考えがありましたならば、これを承つて置きたいと思います。
  40. 羽生三七

    ○羽生三七君 今の長野県の「りんご」の話は冗談として承つて置きますが、先程申しましたことは、受取方がどうも違つておるのじやないかと思う。政府の保護に反対するのではない。むしろ政府が保護するような場合には、先程大内さんもお話がありましたように、大規模な国家資本を投下して積極的に国家が責任を持たなければならんということは全く同感だけれども、農家自身の経営の中にもつと彈力性を持たせることを考えなければ永久に発展ができないというので、私はそういう面で取上げたのですから、どうぞ御了承下さい。(笑声)
  41. 近藤康男

    証人近藤康男君) 北村先生の御質問、私はこういうふうに考えるのです。或る程そうだと思います。新潟の山の方ですね。冬の間は出稼ぎに行つておるわけですね。併しもつと惡いところがあるのですね。それは出稼ぎにも出られないところがあります。それはこの間岩手の葛巻く町というところで、さつき申しました調査のときに、私は行きませんでしたが、外の班の人が行きましたが、その連中の話では非常に不便なところで人が多い。昔の地頭がやつておる。炭を燒く、木を伐り出すというようなことは冬の間にできるけれども、外に出かけるのにもバス代が高い、汽車賃が高い。皆その他頭の経営に食付いておる外に途がない。そういうように上を見ればきりがないし、下を見ればやはりきりがないのですね。そういう場合にどういうことをするかということは、私は具体的のことは分りませんけれども、考え方としては、東北などに行きまして山の中だけの問題ではないのですけれども、その土地産業らしい産業を興すような、そういう行き方をとることですね。何か差当つて製材所でもいいし、もう少し加工するということでもいい。新潟でしたら繊維工業などどうか知りませんけれども、何かそういうものを一つでもいいからプラスして行くというそういう途より外ないのではないでしようか。新潟で何をやつていいか処方箋を書くわけには行きませんけれども、実際位置が惡いし、或いは天然資源に惠まれておらないという場所はあるのですから、そういうところの解決策としては、やはりこれ又国家資本で以て大きな工場を作るとか、施設をして貰うとか、そういう行き方を取入れる外行き方がないのではないかと考えるのでありますが、如何でございましようか。
  42. 北村一男

    委員外議員(北村一男君) 今の御説明御尤もでありますが、どうもこういうことのできる地帶とできない地帶がございますので、これは一つよく御研究頂いて、又後日御発表頂きたいと思うのであります。
  43. 島村軍次

    委員外議員(島村軍次君) これはお聞きするわけではありませんが、私の県の例から言つて、雪の非常に多い、私は岡山県ですが、雪が多いところでも新潟とは深さは違うでしようが、この千屋という山地は和牛の育成をやつておるわけですが、夏は放牧、冬は舎飼をやつておる。これが或る程度まで……、私の県にも單作地帶がある、こういう地方は「みつまた」をやる、それから牛、そういうものによつて收入を得ておるわけです。そういう例も一つ参考に申上げて置きます。
  44. 近藤康男

    証人近藤康男君) 先程の姫井さんの、協同組合に税を取らせたり、或いはもつと米の集荷などをやらせたらどうかという御意見ですが、私はそれを聞いて、何と申しましようか、一つの條件が成立つならばいいと思います。その條件というのは、つまり国の税金なり或いは供出なりということが、農民を收奪をすることを專らにするのでなくて、むしろ国の費用を、さつき国家的投資、財政的投資というような言葉を使いましたけれども、農村の方にやるような、そういう方向に向いておるならそれでいいと思います。お話を聞いておつて頭の中に思い浮かべましたことは、ロシアのコルホーズですね。あれはむしろ投資のために最初は考えられたのです。皆が出さないから出させるところの一つ方式としてやられたのだと思います。先程大内さんからお話がありましたように、MTSを作つて農具を供給する、国が作つてそれをコルホーズに利用させるという、そういう行き方、そういうふうにむしろ国が農村生産力を引立てる上の金を使う、そういう心配をする、そういう方向に向いておつて、そうしてそのために組合を強制的に作らして、それを利用すれば有利だけれども、個人経営だと非常に税金が高い、その外の便利がない、損をするという方向へ向いておつた。そういう国の政策全体が農村の方を有利にして、農村生産力を高めることが、日本の経済全体の立直りの上に必要なんだ、そういう方向を向いておりますならば、これは協同組合を、今おつしやいましたように税金を取るのもよろしいでしよう。供出なども專ら協同組合にやらせるのもよいと思うのです。そういう建前でやるのもよい。それがそうでなくて、それの逆の方向に向いて行くときに、そういうことをやつたら收奪の機関になるので、これは断じて賛成し難いと思うのであります。だからその條件、全体の政策の方向がどつちへ向いているかということによつて、それで今のようなお考えについて賛成か、不賛成かは決まるのじやないかと思います。
  45. 小川久義

    ○小川久義君 私は村でやらせようと思つているので御批判願いたいと思います。農業協同組合法による耕作組合を作らせて見たい、五十町なら五十町ある、そうすると、それを共同作業をする、そうして皆給料生活をする、そこで給料を拂うと赤字が出ると思う。そうすると、農業所得税というものは納める必要がない。そこで私は税の過重なところで、そういうことをやらせて見たいと思つて、若い連中に研究さしているが、先生方はどう思いますか。これに一定の給料を拂つて行くと、けつが赤くなる、必ず赤くなる、先生方の御批判を……。
  46. 近藤康男

    証人近藤康男君) それは一つの試みとしては是非おやりになつたらよいと思います。それをやつた場合に赤字を出すということは、そういうことは別として、本当に積極的な意味のことは、その仕方をやつた場合には、稻作でやりますか、外の酪農でおやりになつておるか知りませんけれども、とにかくさつきお話に出ました、つまり一人一人の人について言えば、私は例えば牛の乳搾りをすることが上手ならば、私は乳搾りをやる專門になる、そうしてとにかく月給を貰うということ、それから乳が搾れない。人で何か違うことのできる人がある、つまり職業の專業化が農業においても行われる。併し産業としては酪農なら酪農、或いは稻作なら稻作、養蚕なら養蚕ということになるだろうと思います。
  47. 小川久義

    ○小川久義君 結局そういう協同耕作をやらせて置いて、耕地交換分合もそこでできて行くのです。それから近藤先生の言われる方向へ持つて行きたいということが狙いであります。このまま放つて置くと、交換分合などはやらない、自分の田圃が一番よいと思つているのでありますから、畦一本越えて外の田圃なら嫌がる。そういう方向に持つて行きたい。
  48. 近藤康男

    証人近藤康男君) そういうようなことは、これはやはり旧体制的な意味で共同しろと言つてもできない。やはり個人主義を取入れて、個人主義の上にそれを克服したものでなければいかん。というのは、例えば今の農家が、俺の土地がよいというのは、みんなよいと思つている。それでこれを客観的に等級を付けてやる。それから面積も一反歩だけれども一反一畝ある、それを実測する、そういう基礎の上でやる。それから給料を拂うにしても、これは今まで給料を貰わなかつたものが貰うのですから、やはり文句があるのです。それを予め誰はこの仕事に出たら幾ら、それこそ民主的な基礎の上で検討して決めて置かないと、組合長が横暴だということになる。
  49. 小川久義

    ○小川久義君 そこで、そういうふうで分業的にやらして見たいと思つて研究さしております。
  50. 近藤康男

    証人近藤康男君) それはそういうことができるところはいいと思います。是非おやりになつたらいいと思います。
  51. 小川久義

    ○小川久義君 大体耕作反別は一戸平均一町五反になります。
  52. 三好始

    委員外議員(三好始君) 今のお話に関連するのですが、本筋としては日本農業経営が社会主義化できるかどうか、この点について両先生の御意見を伺いたいのですが、両先生からは、社会化という言葉で一、二の例を示されたのでありますが、日本農業経営が全体として、或いは本筋として、社会主義化できるものかどうか、こういうことについて御意見を承わりたいと思います。
  53. 大内力

    証人(大内力君) それでは先ず私から考えを述べさして頂きますが、私は終局的においては不可能でないという結論であります。併しそのためには非常にいろいろな前提條件が必要で、その前提條件をなくさない限りは不可能であるというふうにお答えしたい。その前提條件と申しますのは、先程交換分合をなかなか百姓はやりたがらないというお話も出ましたし、実際問題として共同経営という試みは幾つか全国でなされておりますが、大部分の場合は失敗している。それはなぜ失敗するかという問題でありますが、私は結局二つの大きな條件があるのでないかと思うのであります。その一つは、つまり土地の自然的な條件の差が非常に大きいということで、同じ村の中でも甲の土地と乙の土地と非常に地力が違うのみならず、いろいろな地理的な状況その他の状況において非常に差が大きい、そこで比較的よい土地を持つている者は、どうしてもそれを放したがらないということにならざるを得ないということが一つ。もう一つは、日本農業が手の労働を中心にしているために、非常に個人的な能力の差が大きいということであります。先程近藤先生のおつしやつた一種のノルマを作ろうという考え方がそこで出て来るわけでありますが、現在のように個人的な差が大きい場合には、結局共同経営をやつても、有能な百姓と無能な百姓と一緒にやるということは困難になるわけであります。私は少くともその二つの條件を解決しない限り、共同経営というものが成立つ一般的な基礎はないと考えます。従つて先ず第一に、土地の自然的條件の差をなくすというためには、農道の改修も必要である、水利の改修も必要である、積極的に土地改良をやることも必要でありますし、そういうようにして成るべく自然的條件を一方においてよくするという政策が先行しなければならん。それから個人的な差をなくすためには、どうしても農業技術を高めて、これを機械化するという以外に方法がない。逆に機械が入つて参りますと、機械自身を有効に利用するためには、どうしても共同的に利用する以外に方法がないということになる。生産手段を中心にして共同経営ができるということになつて来る。そういう意味でそういう條件を整えて置いてから共同経営に持込むということが本筋であつて、そういう條件なしに行きなり共同経営をやるということになつてつても、到底農業を社会化するということは不可能である、そういうように考えます。
  54. 近藤康男

    証人近藤康男君) 私が社会化、社会的生産というような言葉を使いました意味は、今大内さんが言われたところだと思います。つまり機械であるとか、或いは施設であるとかいうもの、そういうもの、手の労働に代つてそういうものが生産用具として中心になる、そういう前提、そういうものを取入れた生産へ一足ずつでも近付いて行く、そういうような、社会的な原則で農業をやるという、そういう前提だと思います。併しそういうことができれば共同経営なり、或いはそういうものが行くかというと、これはやはりつまり大海の中の一粟ではないのであつて、全体の社会の建前で、全体が、例えば工場の経営の方法もそういう原則で行くというような建前になるということと相伴わなければならないのでありまして、今までの欧洲大戰のあとなどの共同経営が駄目になつたのは、一部分はただ昔の夢みたいな考えで集まつたので、一方から壊れたのでありますが、農業のようなものが仮に取入れられたとしても、結局潰れるのは大海の一粟で、全体が個人主義的なそういう建前で運転している中に、その部分だけ違つた原理で動かそうとしても直ぐ行き詰るのは当り前です。そういうような大きな前提が必要だろうということじやないかと思います。
  55. 楠見義男

    委員長(楠見義男君) ちよつと私から両先生にお尋ねしたいと思うのですが、両先生は、農産物価の問題を一つの大きなテーマとして取上げられておるのですが、この観点からして現在のパリテイ計算方法、この様式についての御批判と言いますか、お考えを伺いたいと思います。
  56. 近藤康男

    証人近藤康男君) よく分らんですが……。
  57. 大内力

    証人(大内力君) パリテイ方式というのはむずかしいのでよく分りませんが、少くとも今までのパリテイ計算が非常に不合理だつたということが言えると思うのです。それはもういろいろな人々の指摘していることでありますが、一つはパリテイ計算の基準年度の取り方が惡いということ。つまり昭和九十一年の三年を基礎にしているわけでありますが、あの三年間の価格関係という場合において、無論あのときは農業がまだ不利な條件の価格関係で、それを基礎にしてパリテイ価格を立てるということに一つの問題があるのではないかというふうに私は思うのです。  それからもう一つの問題は、パリテイ計算は全部公定価格で以て計算されているということに難点があるので、これは成る程或る考え方からすれば、米の公定価格を決めるのだから、農家の購入品も公定価格によつて決めるのが当り前だと言えると思うのですが、併し実際問題としては、農家の必需物資にしろ、或いは農業生産に必要な資材その他のものにしろ、少くとも……最近は余程よくなつたと思いますが、従来は闇でなければ手に入らなかつたというのが現実だと思います。そういたしますと、公定価格だけで計算したパリテイというものは、農業の再生産を確保するという点から言えば、どうしても低くなり過ぎるということになる。若しそれを一方で認めるならば、公定価格はこれだけ安く決めるけれども、あとの足りないところは闇売りをして補えということを政府自身が認めているということを言わざるを得ない。若し農民が正直に闇売りをしないという前提に立てば、あのパリテイでは到底農業生産もできないし、農家の生活もできないという前提に立つている。そこに一つの欠陷があると考えています。  それから第三の欠陷として指摘されるのは、言うまでもなく租税負担というのが、あのパリテイ計算に全然入つていないということです。これも理論的に申しますと、或る意味で当然なので、租税負担というものは生産物の原価の中に入るべきものであつて、むしろ生産物を売つて得た利潤部分の中から租税を拂うのが現実で、従つて租税をパリテイの中に入れることがおかしいという考え方があると思います。併し実際問題として考えますと、今の農産物の価格供出して、そうして農家が生活をするというときに、殆んど租税を負担する余地はなくて、農業所得だけでは生活費が支えられないという現実だと思います。昭和二十三年の農家生計費調査を見ますと、大体一町五反の農業所得では経費などは出ないので、副業所得を加えて漸くカバーして、而も税金を拂うと赤字が出るという結果が出るのでありますが、それから考えますれば、今の農家の労働賃金の部分さえ補うわけに行かない。そこへ租税を若し加えて拂わなければならないということになりますれば、結局生活を切り詰めて税を拂うか、或いは農業生産資材を補わないで、それを一部分食い潰して、つまり資本を食い潰して税金を拂う、それ以外に税金の拂いようがない。いずれにせよ生産が減少するという危險があるということになります。従つてこれはどうしても日本のような農家には、租税負担の問題というものをパリテイの中に何らかの形において加味して行つて、そうして十分計算されなければ不合理であるという意見を持つわけであります。その外、税の計算の算式であるフイツシヤー算式を使うということが果していいかどうかということも相当議論の余地があることだと思うのでありますが、こういうのはつまりフイツシヤー算式の例のパージエ式の方でありますが、カレント・ウエートの使い方でありますが、あのカレント・ウエートを使う意味は相当議論の余地があるので、むしろ農家経済というものを一定の大きさにおいて確保しようという考え方からいたしますれば、私はむしろ固定率を使うラスパイレス方式に持つて行く方が正しいという意見を持つております。それは併しそれ程大きな問題ではなくて、最初に申上げました三つの問題が大きいのであります。いずれにせよパリテイによつて計算された米価というものは、極端に低く現われるという危險性を持つているというふうに考えます。
  58. 近藤康男

    証人近藤康男君) 私は二つの点で意見を持つているのですが、一つはパリテイ指数というもので物価を決めるということは、非常に緩漫に変動するときはいいのですが、併し日本の、これから先は知らんけれども、今までのようなああいうテンポで進むときに、あれはアメリカで使つた場合もそうだと思うのですが、あんな急テンポで変動するときに使つたのではない。ああいうときにパリテイ指数でやるということは、農業のような長い期間で生産をやるものについては非常に損なことは明白なんで、そういう意味では私は考え直す必要があると思いますね。その面から……それが一つと、もう一つは、パリテイ計算ということにはなつているのだけれども、品目の取上げ方とかいうようなことで、税金までは及ばないけれども、段々生産費計算に実質が近付いて来ている。結局これは来年になるか、再来年になるか、延びるか知らんけれども、結局はあの生産費計算ということで、ただ生産費計算は厄介ないろいろなむずかしい問題があるから、勿論議論がありましようが、そういうものに追つつけ代るべきじやないかと思うのです。確かに大きな変動ということを考えると、やはり原單位の計算をして置いて、それをそのときの変動事情に篏め込んで、米なら米によつて見る、そういうような原則、これはやはり代つてとらるべき方法じやないかと思います。
  59. 楠見義男

    委員長(楠見義男君) 大内先生、今アメリカで今までのパリテイ計算方式というものに修正を加えて、何と言いますか、所得パリテイと言いまするか、農業と他産業との所得パリテイの面から農産物価を考慮しようという行き方、ああいうのは、これからの日本の農産物価政策から見て受け容れらるべきものか、どうなのか、どうでございましようか、御意見は……。
  60. 大内力

    証人(大内力君) それは考え方として非常に面白い考え方と思うのですが、ただパリテイの相手に取るものをどこに取るかということが非常にむずかしい。一つ考え方として、つまり労働者の労働賃金のパリテイという考え方も出て来るのじやないかと思います。それから都市の中小工業者の生活所得、実質所得とのパリテイという考え方も出て来ると思います。相手をどこに選ぶかということで相当むずかしい問題が残る。それからもう一つの問題は、そういう所得パリテイという形で計算して行きますと、結局農業全体として国民所得の何%が割当てられるという計算が出て来る。それから一方には、工業ならば工業の所得はどれだけというものが出て来るのであります。それで計算してプラスした国民所得と全体の與えられた国民所得との間の食い違いが必ず出て来るわけです。生産構造が変りましただけ出て来る。それをどういうふうに調整するかという問題がどうしても残るというふうに考えられます。
  61. 楠見義男

    委員長(楠見義男君) 何か先程のお話を承わると、日本農業の再建のあり方として、国内市場と言いますか、開拓と同時に、そういう観点から農業部門の維持ですね。そういうことを考えますと、所得パリテイ方式というものを何とか取入れて行かなければならんし、又行くのがお考えから言つてもいいのじやないかというような気がしたのですが。
  62. 大内力

    証人(大内力君) それは採用できれば、是非私は一つつて見ると面白い問題だと思つているのです。
  63. 楠見義男

    委員長(楠見義男君) 一つ御研究頂いてお教え頂きたいと思うし、私共もこの面で一つこの価格政策の新らしい道を開いて行きたいというような気が……委員会としても考えて見たいと思います。
  64. 大内力

    証人(大内力君) 或る程度関係方面もそういうことを考えているのじやないですか。そういう考い方は非常にそういう問題に向つておるわけです。それを日本にも持つて来ようという考え方はあるようです。
  65. 三好始

    委員外議員(三好始君) 一昨日の東畑、大槻先生お話は、どちらかと申しますと、日本農業の対外競争力といつたような問題を考えまして、むしろこの問題を中心にして御意見を展開されたように思うのでありますが、本日はどちらかと言えば、その点についての御意見を伺うことができなかつたように思うのです。お話にありましたように、私技術的には日本農業生産力をもつと高めて行くことも可能であるし、食糧輸入を減らすことも可能であると思うのでありますが、問題は経済的に外国の農業に果して日本農業が対抗して行けるかどうか、こういうところにあるのじやないかと思うのであります。この点につきまして、果して日本農業がどこまで対外農業との競争に耐え得るかという問題、これについて御意見を承わりたいと思うのであります。又、競争に耐え得るためには、日本農業の形態をどういうふうに考えて行かなければならないか、こういう点についても併せて御意見を承わりたいと思います。
  66. 近藤康男

    証人近藤康男君) あとの問題はこれは又あとへ戻りますから何ですが、前の段階の問題の私のお答えを言えば、それは政治が自主性を持つならば経済的に対抗できるだろうし、増産ということも可能だろうという答えだと思つております。そういう前提があるのですね。殊に先のことを無暗に心配しますけれども、当面はとにかく三百六十円でやつても大変な、私の最初に申しました四百五十億というようなああいう負担をしなければならん程、それ程なんですから、そういう意味で結局それは農民も我々もそうでありますが、我々の生活がそれだけ非常に切下げられた状態で、みんなで我慢しているということなんですね。それを勘定に、それが又急に変るわけでもないわけですからして、一單位の小麦の中に含まれている労働量が非常に日本の場合は多くてアメリカの場合は少ないと、大槻さんは百分の一だという計算をされましたけれども、そういうことだけで今の競争力ということは決まるわけじやないわけでありますからして、そこで、だから日本農業は投げ出してもいいという、数字的にそういう取扱いをしなければ、やはりその余地があるだろうというようなことが答え得ると思います。
  67. 羽生三七

    ○羽生三七君 今の三好さんのお尋ねに関連しておることなんですが、今の公定価格で、日本の今の食糧の公定価格と、それからアメリカその他から輸入して来る食糧価格と比較して見た場合に、まあ現在では到底外国のが高くて問題にならんと思うし、單にアメリカばかりでなしに、南米の小麦粉を見ましても、日本の現在の政府の公定買入価格の約倍程しておるので、今直ぐ影響を與えるとは思わないのですが、例えば為替レートが仮に変つて来たり、日本の経済が落着いたりして、諸種の條件が自主的になり、或いは内部的にはいろいろな変化で安定状態になつて来た場合でも、約倍に近いような開きというものが直ぐ圧縮されて来るというような可能性はあるでしようか、近いうちに……。
  68. 近藤康男

    証人近藤康男君) 為替が変ると言つても三百六十円が四百五十円や五百円の方向へは変ることは考えられましても、二百円になるということは考えられないのじやないでしようか。そうすると、今の現在の状況というものはそう急には変ることをちよつと想像することができないのじやないでしようか。
  69. 大内力

    証人(大内力君) 現在の状態から考えますならば、近藤先生のおつしやる通りで、私は日本農業の対外競争というものは価格の面では少くともあり得ると考えるのです。併しこの点で多少問題になり得ますのは、つまり世界的に今穀物が非常に過剩になりつつあるという問題があるわけであります。殊にアメリカは一方でプライス・サポートして政府が買上げをしておるわけでありますが、その買上が段々殖えて来る。そうして倉庫に積まれておる穀物が非常に殖えておるという傾向を顕著に示しておる。そういうプライス・サポートがありますが、それでアメリカの国内小麦価格というものは必らずしも下落しておりませんが、併し政府が持つておるものを外へ出すという場合には、もつと下げ得るという状態がこれは考えられておるのでありまして、それがどこまで下げ得るかということは考え得る條件があります。それが国際小麦協定に関係もありますから、いろいろな新らしい條件で直ぐ急に下るということは思いませんが、併し或る程度下り得ると考えられるのであります。  それから今の日本の対外競争力がそういう意味であるということは、併し決して日本農業にとつて喜んでいいことではないので、むしろ日本農家の生活水準が極端に低くなつておるということで支えられておると思うのです。戰前の状態を考えますと、大体小麦で申しますと、昭和四、五年から五、六年頃というものを考えますと、横浜渡しで考えまして、日本小麦は大体アメリカ、カナダの小麦の三倍ぐらいに上つております。それから南方の米と比べますと、大体こつちが十割、向うが六割ぐらいという価格の開きがあります。つまりそれだけ日本の穀物は高かつたということであります。で、従つて若し仮に外国の農業において戰争中に生産力が全然発達していないと仮定いたしましても、日本農民の生活水準が戰前の状態まで回復したといたしますと、すでにそこでは相当大きな競争力の開きが出て来るというふうに考えざるを得ないというように私は思うのであります。従つて対外競争力は、実際の面においては日本農業はやはり非常に弱いと言わざるを得ないので、つまり今程に農民の生活程度を下げて置けば競争できるというのを、ちよつとでも高められるならば競争できないというわけじやないのですから、やはり日本農業生産力を高めるということがない限りは、本当の公正な意味において競争力があるというふうには私は申せないのでありますというふうに考えております。
  70. 近藤康男

    証人近藤康男君) 生産力を高めなければならない今の関係は、非常に疑わしい状態であるとは決して言えません。おつしやる通りだと思います。但し小麦協定を見ても分ることと思いますが、あの最後の年の一番最低値段が一ドル二十セントで、あれから言つても四千五百二十円は問題にならない。消費価格と恐らくとんとんぐらいじやないかと思いますが、そういうことを考えますと、少くともここ三年、四年というものは安い外国の穀物が入つて来るから、それによつて日本の穀物が圧迫される、そういう恰好はとれないのじやなかろうかと私は思います。
  71. 藤野繁雄

    ○藤野繁雄君 私などは過去における農村恐慌の対策としては、農家が持つてつたところの土地を担保にして長期金融をやつたのであります。然るに今度の農地改革で長期金融が全くできないような状態政府が処置したのでありますが、これに対して何とかの方法を講じなくては、将来において農業がいろいろの施設をする際に金融的に困難な状態に陷るのじやないかと思つております。そういうふうに政府土地を長期金融の担保にすることができないようにいたしました今日、どういうふうな方法で低利の長期金融をしたらいいかと考えておりますか、その点一つお伺いいたしたい。さつきちよつとお話はありましたけれども、もう少し突込んでお話を願いたいと思います。
  72. 大内力

    証人(大内力君) それは私も考えてはおるのでありますが、非常にむずかしい問題で、なかなか解決できない問題だと思うのであります。と申します意味は、普通の営利的な金融、つまり普通の銀行のようなものを考えますならば、どう考えて見ても、農業に対して特に長期投資が行われるということは到底考えられないと言わざるを得ないのであります。従つて結局農業に対して長期的な投資というものを考えるならば、何らかの意味において国家的な基礎のある金融というものを考えなければいけない。それでその考え方といたしまして、私は先程近藤先生が、この農村が税で以て搾られておるものをプールするという考え方を出されたのでありますが、それと同じ意味において、農林中金の資金として吸收されておるものを私は農村に還元するというところから始めるのが第一着手であるというふうに考えられるのであります。これはどういうことになつておるのか、統計的に押えるのは非常にむずかしいのでありますが、大体大ざつぱな見当から申しますと、日本農業の資金というものは半分は抵当金融、つまり農林中金が抵当に押えていて、あとの半分は郵便貯金と地方銀行というものに分けられる。大ざつぱに言つてそのくらいの見当じやないかと思います。これは統計がよく押えられないのではつきり分りませんが、大体そんな見当だと思います。従来はこの農林中金の資金さえ農村に還元されるということが非常に少なくて、例えば公債保有やその他に廻されるといつた傾向が非常に強かつたので、最近はその傾向が段々改善されつつあるのでありますが、併しまだ十分とは言えない況んや郵便貯金や大蔵省預金部に集められた資金、それから地方銀行が集中した資金というものは全然農村に還元されていないという実情であります。つまりこれは何とか農村に還元するという方法を考えて行くことが一つでありまして、そのために特殊金融機関を作つてそういう資金を集中するという方策を一方でとる。併し地方銀行、大蔵省預金部は、それを低利資金に廻したのでは運営が困難であるという問題があるとしますならば、少なくとも利子の補給は何らかの形において国家資金を還元するという形で解決する必要があるのじやないか。それに対して土地が担保にできないという條件がありますから、従つて土地以外のあらゆる農業資産というものを担保にする、こういうような形を考える。これは無論動産抵当のような形を作らなければならないというふうに考えております。更にそれ以上具体的に私は申上げることはできません。
  73. 藤野繁雄

    ○藤野繁雄君 動産信用と申しますか、動産信用としては農機具であるとか、その他いろいろありましようが、そういうふうなもので現在も金融的措置としては金を貸す方で安心ができず、融資ができないような状態にあるのではなかろうかと思つておりますが、そういうふうなことになれば、その動産信用に対しては、どのくらいの程度融資するというような計画を立てればいいのか、又方法はどういうふうに、どうすればいいのか、その点についてお尋ねいたしたいと思います。
  74. 大内力

    証人(大内力君) そういう具体的なことは不慣れなのでよく分らないのでありますが、動産と申しましても、單に農家の家とか、家畜とか、農具、そういうものだけでは担保力が非常に小さいということは、おつしやる通りだと思います。これは現在行われているような農手の考え方で行く、つまり供出代金を或る意味の担保にするというような考え方をその中に導き入れる必要はある。つまり生産物を或る程度担保に入れるという考え方が必要じやないか。併しそれが非常に極端になりますと、結局農民は債務倒れになるという傾向が非常に強くなり、それを又避けるためには非常に有利な條件で農業金融がなし得るという條件もどんどん作らなければいけない。併しそれだけで放つて置いたのでは、農家の生活が段々困つて呉れば、結局取りはぐれるという問題が起つて参りますが、従つて他方では他の政策で以て農家の経済を大きくして行くというサポートを作る。そうしてそれで農業生産物及び農業増産、あらゆるものを担保にするというふうに考える以外には、私は解決の方法がないという気がするのであります。これはまだ考えておりませんので、ただ気がするという程度でお聞取り願いたいと思います。
  75. 小川久義

    ○小川久義君 両先生には長時間に亘りまして、いろいろ有益なお話を承わりまして感謝をしております。先生方のお帰りになる御都合もありましようから、ここらで一つ……。
  76. 楠見義男

    委員長(楠見義男君) 最後にちよつと伺いたいのですが、実は食糧自給度の問題ですが、或る程度の長期政策と同時に考える場合に、これは我々の聞取り方が間違つておるかも知れませんが、大槻さんのお話を承つておりますと、大体完全自給というようなふうにもとれる、併し東畑先生は一体そういうことを考えるのが、もともと間違いなんだ、それは適地適作なんだ、そういうような極端に言えばお考えなんです。それから近藤先生は差当りは補給金の半分ぐらい、こういうような一応目度を付けておられるのでありますが、大内先生はどういうふうなお考えですか。
  77. 大内力

    証人(大内力君) それは私は大槻先生のように、必らず完全自給しなければいかんという意見は持つていない、従つて東畑先生のおつしやるようにやはり適地適作でいい、併しそうかと言つて全然放任しておいて、幾ら輸入しておつても構わないという考え方は成り立たない。そうすると結局近藤先生のように、せめて半分減らした方が……(笑声)その比率は困るが。
  78. 近藤康男

    証人近藤康男君) その半分というのは、朝鮮、台湾でしよう。それで一千万石入れたときはいつ頃だつたか知らんが、その程度でいいのですよ、よかつたのです。ですからその辺までは無茶にあれをしなくてできる筈じやないか。二千万石じやなくて一千万石という意味です。
  79. 羽生三七

    ○羽生三七君 先程の藤野さんのお話のあつた金融の問題ですが、これはどうでしようか。個々の農家農地を担保にすることは、今の政府建前からじや、これはできない。それが又全然無視されるような形では、なかなか農業の発展もないということになるのですが、これを土地管理組合のようなもので、これに融資をして、そうして実質上或る特定の農家が耕作を放棄しなければならないような條件に立ち至つたときは、管理組合が農地の問題を考え、又資金の問題もそこで考えて行く、こういうことは理想的じやないかと思うのですが、如何なものですか。
  80. 近藤康男

    証人近藤康男君) 私も藤野さんにその点をお聞きして、一つ意見を申上げようと思つたのですが、つまり今の場合に、個人土地所有者に融資をするという必要があるかどうか。そういうことが有効かどうかという点です。私はその点は疑問に思う。それで今の羽生さんから御意見が出たのですが、やはり例えば土地担保といつても、実はそこから上つて来る農業生産、それが担保なんです。ですからこれからの建前としては、一つの協同組合なり村町單位の土地管理組合、同時に今度の農業委員会が、或いは形を変えてそれになるのじやないかと思うのですが、そういうものに、金融と言つていいかどうか分りませんが、そういうものが生産的に活動するようなことを刺戟するような、そういう便宜を與えてやるということ、そういうことじやないかと思います。
  81. 楠見義男

    委員長(楠見義男君) それでは大分時間も経ちましたので、この程度にいたしたいと思います。  両先生にはお忙しいところ大変有難うございました。非常に有益な示唆を與えて頂きまして有難うございました。ではこれにて散会いたします。    午後五時二十二分散会   出席者は左の通り。    委員長     楠見 義男君    理事            羽生 三七君            平沼彌太郎君            石川 準吉君            藤野 繁雄君    委員           池田宇右衞門君            柴田 政次君            國井 淳一君            高橋  啓君            赤澤 與仁君            加賀  操君            徳川 宗敬君            岡村文四郎君            小川 久義君   委員外議員            板野 勝次君            姫井 伊介君            北村 一男君            島村 軍次君            三好  始君   証人    東京大学教授  近藤 康男君    東京大学助教授 大内  力君