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証人(
松本喜代次君) 私は
昭和二十四年十二月三十日午前九時
僚船三十八
大漁丸と共に
長崎港を
出港しました。そうして
僚船について
五島、
大島並びに
大瀬岬に向い
出港し、それから私が
大瀬岬に午後七時半に並行して
僚船の後について
ウエスト・
バイ・
サウスの進路にて航行し、翌三十一日の午前五時四十分頃一
番最初の網を投網し、その
附近より
サウス・
ウエスト又は
ウエスト・
バイ・
サウスの
方向に向
つてその日も一日、明けの日も一日西へ西へと向
つて操業しました。そうして三日、四日、五日とその
附近を
操業しておりました。六日はイス・
ウエストの風が強く時化ましたからその日一日休みまして、七日、八日、九日、十一日とその
附近操業中、十二日の午前一時頃西へ向
つて操業中のところを、
只今こちらの
喜久丸の方に
朝鮮の
武装兵が乗
つて来ておりましたが、
韓国の
武装兵が乗
つておるいうことは全然存じませんでした。ただ
喜久丸が余り接近して来ますので、
自分としては船が破損するとか何とかいうことが一番
責任と
思つて、ただ
喜久丸に何故に接近するか、船が
危いではないかということを、
朝鮮の
兵隊が乗込むまで私が知らなくて、ただ
喜久丸の
船長の顏ばかり見て私はどな
つておりました。そうしたところが、私の若い
船員が一名、
船長、
監視船に捕まえられて乗り込んで来ておる。こう言われましたので、
ちよつと私
右舷の
反対側に顔を出して見ました。そうしたところが
韓国の、後で聞きましたが
上等下士であ
つたのです。その人が、
ピストルをこう持
つてこちらの手に
船長々々と言う、こちらでは
ピストルを持
つてこうして
停船ということを言いましたものだからストップしました。そうしてこの乗込んで来た
兵隊の申すには、
船員何名かということを
番最初に尋ねました。それで私は
船員は十名です。そうしたところが、十名と
言つたときに
朝鮮の方に
済州島の方に向
つて、
ノース・
ウエストに向
つて走れと言いましたから、今私は網を引いておりますからこのまま航行できませんと
言つた。そうしたところがそれじや網を揚げろと言いましたものだから、片船の二十八
大漁丸に網を揚げることの通知を電気を以てしました。それで網を揚げてしま
つて二十八
大漁丸に着けて、私の方では
済州島の詳しく書いた
海図を持合わせありませんでしたから、二十八
大漁丸に
済州島の詳しく書いた
海図がありますから借
つて来ます、それからあれに行
つて向うの
船長によく話して連絡を取るように会社に
言つて連絡を取るように行
つて話して、
海図借
つて来なさい、それで
海図借
つて来て、
海図借りに私が乗
つたら私の後を直ぐついてその
兵隊も乗
つて来ましたです。それで二十八
大漁丸の
漁撈長に実はこうだ、
監視船の
兵隊が乗込んで来ました
つてそう
言つたところが、二十八
大漁丸の
船長は、ここで
監視船に捕まえられる必要はないのじやないか、ここは
マツカーサー・ラインよりうんと内だから、船に捕まえられる必要はないと言うて、その
兵隊にもそういうことを申しましたです。
海図を見せて、実はこの一事から
海軍に捕まえられるわけはありませんです。そうしたところが
韓国海軍は、今、夜の暗すみに
自分がここということが分るかということで、
自分は
済州島から何時……、その晩ですな、夕方の何時に出て何哩の
コース、何ノツトの
コースで、どこの
コースを取
つて来たからここじやないかということを
言つてですな、
自分達の
海図なんか全然寄せ付けなか
つたです。それでそのとき丁度
僚船の二十八
大漁丸では直ぐ水深を計りましたです。そうしてそこの水深は百二十メーターありました。で
底質がこんなですと
朝鮮の
海軍の人にも見せましたです。そうして
マツカーサー・ラインより
韓国の方に寄
つてお
つたらこの水深は全然ありません、でこれは
ライン内ということは確実でありますということを
言つたけれども、もう何しても
海軍の兵曹長という人が、
マツカーサー線を内に越えて
操業しお
つて文句言う必要はないというような権幕で、君は僕の後について来いということを
言つて、もう全然
相手にされなか
つたものですから、私は止むなく
喜久丸の後について行きました。そうしたところが
喜久丸でなくて後で聴きましたが、三一〇艇のそれについて来いと言われましたのです。初め
ノースという
コースを言いましたからそれでついて行きましたら少し右であ
つたのです。それで大分距離かありましたから
ノースには船は行
つておりません。こう
言つたら
コースはどうでもいいからついて来い、こう言われましたかち三一〇艇について
済州島の北側の莞島という所まで行きました。そうしてそこに碇泊して、それから
監視艇に乗
つてお
つた兵隊一名と、今度は
上等下士と、一等下士、二等下士の三名と交替して、それからずつと二名の
監視の下で、十三日の夕方時間はよくは記憶しませんが三時頃と
思つております。そうして
木浦に向
つて行きましたけれども、途中鎭銅の瀬戸という所で大分風がひどくな
つて参りました。そこで丁度瀬戸で潮流がひどく早いから遡
つて行くことができないから、少し後に返して碇泊して十四日の午前七時頃ス夕ンド
バイでや
つて木浦に行きました。
それで逆に戻りますが、莞島から先は元アメリカの掃海艇という船に誘導されて行きました。そうして
木浦に着いたのは十四日の午前十時頃ではなか
つたかと私は
思つております。そうしてその日は何の事もなくて
船員は船に乗
つておりましたのです。十五日にな
つて私の船に乗
つておる信号長が
自認書を書いて下さいと
言つて持
つて来ましたのですが、私
ちよつと見ましたら
朝鮮の文字で書いてありました、私は
朝鮮の文字は分りませんがどんなに書いてありますかということを
言つたら、そうしたらその信号長が、わきにこのように書きなさいということを書いて示しで私に見せました。そして見てみたところが
自認書を、まあよく文句は分りませんけれども、
朝鮮の漁業区域内いや
マツカーサー線を越えて
韓国漁業区域内で
漁撈中
拿捕されたという意味を書いてありましたので、私はそれを見てこれは
自認書としてはこの
通りは私は書けません。なぜならばこの越えてという所は私は自認できません。だからこの越えての所を
マツカーサー線を
附近において
操業中
拿捕されたということだ
つたら書きます。それからその日に丁度
拿捕した三一〇艇か帰
つて来ておりませんでした。そうしたらそれでは隊長の帰られるまで待
つておりましよう。待
つて下さい、隊長殿に話してからそれを一応考えて見ますと
言つて一応帰しました。それで私は
船員に、実はこんなに
言つて自認書を書けと
言つて来たが、大体あの文句の意味ではどうしても
自認書は書けないということを
言つておりましたけれども、
船員は皆、もうここに来てしま
つてからは、
自分の思いは通らないだろうと思うから、
船長、
向うに任言して書いたらどうですかということをいますから、それでは私は不本意であるが、君達もそんなに
思つているなら僕は書くからいいかと
言つて涙を呑んで、その
自認書を書いたわけでございます。そうして十六日にな
つて三一〇艇の
艇長が、用事があるから
ちよつと来いということを
言つて来ましたから、三一〇艇に行きました。そしたらそこの
済州島
附近の
海図を書いて、私達が
拿捕されたという
位置を示されました。それで
自分としてはその図を見てはほんの
済州島近くでありましたから、私の
拿捕された
位置は、
東経百二十六度五十分の
位置で、
北緯三十二度三十三分の
位置と
思つておりましたということを
言つて拒みましたけれども、君達はもう一週間も十日も沖に出てからなるのに君の推測が当てになるか、
自分は今日来てこれだけの時間でこれだけの速力で、これだけ来ているから
位置はここだということを言われましたから、もうこれ以上私としては拒み通し切れないと思いましたから、その
自認書に異常ないということを署名捺印いたしました。そして
憲兵隊の方から来いということを又
言つて来ましたから行
つたら、
向うの
憲兵隊は言葉も優しく、君が
マツカーサー線を越えて
韓国の
海軍に
拿捕されて来たが、図を示して、こんな
位置で
海軍は
拿捕したということを言うが、君はそれに相違ないかということを言われて、ここは
海軍と君達の経緯がどんなであるかということを尋ねる所だから、包み隠さずに
言つて呉れと言うので、私は誠に親切だと思いました、その言葉に……。それで私が
自分の思うことを一
通りお話ししますところで、それが
聽取書にな
つて、問答のところに
向うの兵曹長という人が書かれました。それから住所、氏名、生年月日、出身学校とずつと訊かれて、それから、
マツカーサー線を越えたという目的は何のためかということを言われて、大体
漁撈のためにしたのであるなと言われましたから、それは越えたとすれば
漁撈のためと言わねば仕様がありませんので、
漁撈のためと書かれました。それから越えたのは意識的に越えたか、又は無意識的に越えたかということを言われましたから、私はそのとき、毎航海出るたびに会社側としても
マツカーサー線を越えたらどんなになるかということを聞いておりましたから、越えてはいかんということは重々知
つておりますから、越えたと言われたとすれば無意識のうちに越えたと言わねば仕様がないということを言いましたけれども、どうしてもその無意識のうちに越えたということを聞き入れなか
つたのです。そうして犯罪を犯す人に限
つて自分が罪を犯したということを一人も言う人はない。それと君同じだというて全然
相手にされなか
つたのです。それで私は無意識に越えたというて、書かれるのを見ておりましたから、それでは
自分は無意識に越えたと思わねばしようないといいましたけれども、大体どんなに書けばいいとあなたがいわれますかと私はいいました。そうしたところが黙
つておられたのです。それで
漁撈のために越境したというこちらの方は消したら、あなた達は許すというのですかと私は
言つたらそれでも暫く黙
つておられたのです。そしてこの消したらもう下
つていいということをいわれました。それから
憲兵隊長殿が座談的にいわれましたのは、僕も君達が
マツカーサー・ラインを越境して
拿捕されたら、
日本においてどんな処置をとられるかということ知
つているとこういわれましたから、私としては隊長殿も御存知でありましたら、私には家には年取
つた病床に横たわる父もおります、妻子もおります、それを知りつつそんな不法なことをして職を離れてまでもやるということは……どなたがお考えにな
つても分るだろうということを私述べました。そうしたところが隊長殿暫く黙
つておられたが、それは私情に対しては実に同情する。だけど君達は越境していかんということは、越境したのは罪人であるということだから、私情で法の方は曲げられないということをい
つてその日帰されました。そして丁度私が船に帰
つたのが夜中の四時二十分でございました。それから明くる日にな
つてもう今日はホテルに泊めるから荷物を
自分の私物だけは皆持
つて上がれというて、ホテルに夕方上げられましたのです。そしてその明くる日が
木浦の府立病院において
身体検査を受けました。それで又その夕方
海軍病院で
身体検査を受けて、それからもう
釜山に
向う途中はみんな一緒でございました、行動は……これで終ります。