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1950-04-29 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第22号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十五年四月二十九日(土曜日)    午後零時二分開会   —————————————   本日の会議に付した事件 ○在ソ残留同胞実態調査に関する件  (右件に関し証人証言あり)   —————————————
  2. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今から委員会開会いたします。本日は昨日に引き続き、信濃丸明優丸等帰還者方々から、先程のタス通信発表関係もありますし、国民が非常に今後の引揚について憂慮いたしておる際でございますから、証人にはまだお帰り早々でありますし、いろいろ用件もあつたことと思いますけれども、我々委員会がこの三年間同胞引揚につきましていろいろ苦慮いたしております実状をばよくお汲み取り下さいまして、本日は誠に御迷惑の点もあつたと思いますが、皆さんの証言によりまして、それを資料として、残された人達の一時も早く日本に帰つて来て頂くよう各委員が努力しておられることをばお考え下さいまして、御了解の程をばお願い申上げておきたいと思います。  先ず証言を求めます前に、一応宣誓をお願いするわけでありますが、宣誓に入ります前に御注意を申上げておきたいと思います。これから宣誓行つて証言をして頂くのでありますが、若し虚僞証言を陳述したときは、議院における証人宣誓及び証言等に関する法律第六條によりまして、三ケ月以上十年以下の懲役に処する罰則があり、又正当の理由なく宣誓若しくは証言を拒んでときは、同法第七條によりまして一年以下の禁錮又は一万円以下の罰金に処せられることになつておりますから、この点御注意申上げておきます。但し民事訴訟法第二百八十條(第三号の場合を除く。)及び二百八十一條(第一項第一号及び第三号の場合を除く。)の規定に該当する場合に限り、宣誓又は証言若しくは書類の提出を拒むことができます。これも併せて御注意申上げておきます。念のために先ず民事訴訟法第二百八十條の該当部分を朗読いたします。  第二百八十條 証言カ証人ハ左ニ掲クル者ノ刑事ノ訴追又ハ処罰招ク虞アル事項ニ関スルトキハ証人拒ムコトヲ得証言カ此等恥辱ニ帰スヘキ事項ニ関スルトキ亦同シ   一、証人配偶者、四親等内ノ血族若ハ三親等内ノ婚姻又ハ証人ト此等親族関係アリタル者   二、証人ノ後見人又ハ証人ノ後見ヲ受クル者  次ニ、民事訴訟法二百八十一條該当部分を朗読いたします。  第二百八十一條、左ノ場合ニ於テハ人ハ証言拒ムコトヲ得   二、医師歯科医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士弁理士弁護人公証人、宗教又ハ祷祀ノ職ニル者ハ此等職ニリタル者カ職務知リタル事実ニシテ默祕スヘキモノニ付訊問受クルトキ   前項ノ規定ハ証人カ默祕ノ義務ヲ免セラレタル場合ニハ之ヲ適用セス以上であります。  只今より宣誓を求めます。傍聽の方も御起立を願います。    〔総員起立
  3. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 先ず武藤喜一郎君から順にお願いいたします。    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 武藤喜一郎    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 與儀 宅正    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 田邊 勇司    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつれ加えないことを誓います。         証人 林  壽邦    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 魚澤清太郎
  4. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 御着席願います。本日に運営につきましては、従来の運営に従つて行いたいと思いますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  5. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ではそのように取計らつて参ります。先ず魚澤証人委員長から二、三点お伺いいたしたいと思います。  先ず魚澤証人終戰前軍関係においてはどういう服務をされておられましたか。これは簡單でよろしうございます。この一点。  第二点は、死亡者状況、特に将校団エラブカ島において集結しました時に死亡状況について述べて頂きたいと思います。  第三点は、秋山中将の自決について、知つておられる範囲において述べて頂きます。  以上三点について証言を求めます。尚証人の方に申上げておきますが、発言されるときにはこちらから御質問いたしましていろいろ考えられる時間があると思いますので、そちらの方から返事ができると思われたときに一応委員長と呼んで頂きまして、その際委員長から指名いたして後に発言をして頂くようにお願いいたします。
  6. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) お答えいたします。私は先日明優丸ソ連より帰還した者でございます。元関東軍総司令部副官を勤めまして、梅津、山田両大将に仕え、直前に捜索連隊長として八月の五日滿州嫩江に着任した者であります。軍人といたしまして御奉公不十分なるにも拘わらず国民全般から心から歓迎を受け、感激いたしておる次第であります。尚我々からお願い申上げたいと思つておりました未帰還者処置に対しまして、当局方々の真劍な御努力に対して厚く御礼を申上げますと共に、積極的に協力いたしまして、処置を速かにお願いしたいと存ずる次第であります。  第二番目の将校一万名が收容されましたエラブカにおきましての死歿状態を申上げます。中央のカザンの近傍にありますエラブカというところに約一万名收容を受けまして兵卒はそのうち三十数名であります。これをAとBとの收容所收容されまして、そこで大分は昭和二十三年の八月までに帰還をいたしましたが、我々三百数十名は残りました。その間施設の一番整つたとき、我々の在ソ間における一番待遇も共によかつた時期におきまして百数十名死歿いたしました。これは後に遺族の方、又亡くなられた人のことを思いまして、当時おりました者相図つて、そこに收容されておりましたドイツから写真機を借りまして、墓碑を立て合同慰霊祭をしておる場面を写しました。私は持参して帰りました。後日御協力願つてその遺族並びに死歿者の霊を慰めたいという心からそういう措置をいたしました。  次、第三点。御質問秋山中将、お名前は義光と申します。櫛淵中将の隷下の師団長でございます。この方は八月の十七日に陣地におきましていろいろ処理せられた後、専属副官高級副官を席を外させまして、谷川の音のする見晴しのいい所で処理済み後、自決せられました。その当時の高級副官に、日頃、自決した場合には介借を頼むということを言われておつてそうであります。呼ばれましてその旨を命ぜられ、高級副官状態を見て介借を申上げた次第であります。その高級副官は一昨年の八月に先に帰りました深澤という方であります。辞世並びにいろいろの細部模様につきましてはいろいろの細部模様につきましてはその深澤氏がよく御存じと思います。その遺骨処理につきましては、持ち帰ることはなかなか困難でありましたので、五人に分担いたしまして、私の持ち帰りました分は、師団長代理兵器部長齋藤元大佐から依頼を受けまして、私がその遺骨を持つて帰りました。直ちに御遺族にお渡しいたしました、以上でございます。
  7. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 重ねて証人に伺いますが、その遺骨は全部五人共揃つたわけですか。
  8. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) 五人共は揃わないようであります。
  9. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚続いてお尋ねしますが、あなたのイラブカで将校記念碑を建て、合同慰霊祭をやられましたその時の死亡者の数は百数十名ということでありましたが、はつきりした数字を覚えておりますか。
  10. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) はつきりした数字は、本願寺の学校の教師をしておりました今立という方が持ち帰つておりますので、それと連絡中であります。
  11. 岡元義人

    委員長岡元義人君) その名前と人数ははつきり分りますか。
  12. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) その方が持ち帰つておると思います。
  13. 岡元義人

    委員長岡元義人君) あなたの記憶名前の分つておる人がありますか。死亡者名前で……。
  14. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) 死亡者の分つておるのは僅かであります。
  15. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それは後程書類等によつて若し記憶を辿つて名前の分つておる人はできるだけ出して頂きます。
  16. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) お願いします。
  17. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚、ドイツ人から写真機を借りられてその実況を写真に写されたという、その写真はお持ちになつておりますか。
  18. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) 持つております。
  19. 岡元義人

    委員長岡元義人君) この委員会資料として御提供願えますか。
  20. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) 是非お願いします。
  21. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今御提供頂きました写真構造等はどういう工合にして作られたか、もう少し詳細に御説明願えますか。何で、どういう工合にしてこれはできておるか……。
  22. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) 撮すのはこちらで撮しまして、現像はやはりドイツ人にそこで或る金を出してやらせました。
  23. 岡元義人

    委員長岡元義人君) いや、この建てる時の経緯、並びにこれはコンクリートで建てられておるか……。
  24. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) これは石とコンクリートであります。
  25. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚この写真について一二点伺つておきたいと思いますが、これはソ連側のいわゆる收容所人達立会つておりますか。
  26. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) ソ連側立会つておりません。
  27. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 許可は與えられたのですか。
  28. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) 撮す許可は得ております。
  29. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 分りました。
  30. 小杉イ子

    小杉イ子君 先立つて写真を見せて頂きまして伺いたいと思いましたが、撮す許可が出ておる筈ですから、勿論持つて帰られることには差支ありませんが、身体検査でも受けて何か咎められるようなことはございませんのですか。
  31. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) その当時はそう嚴しく言つておりませんが、もう我々の帰る時には非常に遺骨写真、こういうものは嚴格になつておりました。で私は惡いこととは思いましたが、隠して持つて帰つたのであります。
  32. 小杉イ子

    小杉イ子君 余計なことかも知れませんが、どういうふうにして隠していらつしやいましたか。
  33. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) 塵紙に入れて、それから御遺骨は石鹸の中に入れて帰りました。
  34. 原虎一

    原虎一君 一万名からの收容者がおつたのですが、あなた方三百名ぐらいが一番後まで残されたというのは、そこに何らかの……一番後に残されたということは、あなた自身がお考えになつて、何か理由があるのですか。ソ連側が勝手に人を決めてどんどん帰すのでありますか。一万名が何回くらいに別れて帰つておるのでありますか。その点を……。私が一番お伺いしたい点は、あなた方が何らかの理由によつて一番終いに残されたのじやないか、その理由があれば、その理由を話してくれませんか。
  35. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) お答えいたします。昭和二十二年の暮までに大部分七千数百名は帰りました。そのうち二千名程が六月と八月に帰りました。その帰る前にいろいろ調査がありましたが、突然私等この残る者は收容所外病院に入れられました。その顔触れ機動旅団幹部参謀副官の特殊な者、それから憲兵特務機関地方文官は亡くなられました阿部検事正以下野中検事等検事、判事の主なる者、こういう連中を合せて三百名余りが残りました。それは病院に入れられまして、病院で隔離を受けておりましたが、帰る時に一番最後の千数百名と一緒に汽車にはカザンで乘りました。一番後尾に連結を我々の組はしておりましたが、共に帰ることと信じておりましたが、ハバロフスクにおいてぱちんと切離して、この顔触れのみ残つたわけであります。爾後昭和二十三年の八月から帰るまでハバロフスクで、その中今申上げました種類の方々は、よその分所に取調べに行く者、行つて帰らない者、残る者、あつちこつちいたしまして、帰るまでハバロフスクで私らも三ヶ所分所を転々しておつた次第であります。以上であります。
  36. 原虎一

    原虎一君 そういたしますと、いわゆる前職関係が民主的でないと言いますか、軍の最高指導部であるとか、或いは地方の裁判所の最高指導部であるというような前職の者が比較的残されたということをお考えになつておるかどうか。ちよつと今のお話によりますとそういう点があるのじやないかという気がしますが……、それからもう一つは、残されたという理由についてソ連側から発表したり又話しておる点から、その理由を、あなたがこういう理由自分らは残されたという点は、或る程度の想像できるものは持つておられないのですか。そういう点をお伺いしたいと思います。
  37. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) はい、調査証人と、もう一つは前職の関係戰争犯罪人の重い方の次に位するものとして残つたというふうに自分らは考えております。後に残されておる方は、皆二十年、二十五年の刑を受けられております。そういう関係でそのように考えております。
  38. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 外に御質問ございませんでしたら、一時半まで休憩いたしたいと思いますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  39. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは一時半まで休憩いたします。    午後零時二十九分休憩    ——————————    午後二時二十三分開会
  40. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 休憩前に引続き委員会開会いたします。  先ず與義証人にお尋ねして参ります。あなたがマガタン徳田要請問題を聞かれたことがあつたか、この点について……。  第二点は、マガタン残つておるところの邦人状況、この二点について先ず御証言を求めます。
  41. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) 私はこの度全国民熱誠溢るる嘆願と、又委員会の熱心なる活躍と、進駐軍の情けあるところの交渉によりまして、私はこの度喜びの日を迎えたのであります。丁度私がこの帰国の命令を受けたのは、マガタン市第一刑務所の六号に留置されておりました。還るためにハバロフスク飛行機で輸送されました。約六十名の人員が三回に分たれまして飛行機で運ばれ、その後又追加となつた邦人団が三回程に運ばれました。この徳田要請問題の最初に、私が捕虜になりましたのは、北千島占守島におきまして敗戰の十月の二十三日、そこで戰場整理を終りまして、マダカンに上陸したのが十月の下旬でありました。それから人員は四千名に一名欠けますから、三千九百九十九名と記憶しております。そうして四個大隊に分れまして、海軍大隊、一個中隊、五大隊、六大隊、七大隊の編成で全部の指揮をとりましたのが元陸軍中尉山田四郎北海道畜産試験場技師であります。この人が長に来られまして、五大隊が七十キロまでの道の作業、主に土工であります。六大隊伐採、七大隊マガタン市におきまして雑役に服しております。御承知の通り敗戰ロシヤにおきましては普通の地方人パン三百、四百、それも配給のないことが多かつたのであります。そうして捕虜に與える量数規定によりまして貰いましたが、完全に貰つたのは二年間のうち少なかつたのであります。そうして兵隊は草を噛み、蛙を取つて食い、そこら辺にあつたところの食えるものは何でも取つて食べたのであります。そうして二年間はこの山田氏の下に皆が一心不乱に生き抜くために闘つたのであります。その頃までは、丁度二十二年の夏の頃まで死亡者は五十名でありました。それから段々町の人の配給量を多くなり、給與以外に町の囚人から貰うパンの方が相当我々四千名の栄養を補佐したわけであります。  それから山の伐採作業、道の建設をやつておる者は作業が強くできなければ、時間外に長時間に亘つてこれを強制しまして、栄養失調を続々と出して、マガタンの方に下つて、丁度四十六年の頃から四十七年にかけて二千三百名という、第三のカテゴリート申しまして、栄養失調の痩せた方がどんどん下りられて、この町に軽易作業についておりました。  それからこの徳田要請の……私らが最初民主運動の始まつたのは、この山田四郎氏以下三名、元陸軍少尉菊地北海道の人です。同じく陸軍主計少尉阪東、同じく北海道佐々木名前は忘れました。この四氏に協力によつて段々民主運動が展開されました。併しながら当時の收容所内におけるソ連政治部員の方針と相反するものが沢山ありまして、相当四名はお叱りを受けたり、いろいろ詰問をされておりました。丁度四十七年の十月この四名を検挙しまして、五十八條の十項、十一項を以ちまして思想犯として十年の刑を貰いまして、一番遠い人は千六百キロの奥地へ入りまして……。
  42. 岡元義人

    委員長岡元義人君) マガタンから奥地を千六百キロ……。
  43. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) そうです。金山の方です。それから六百、四百と殆んど炭鉱地帯囚人グループへと彼らは移動されたのであります。私は当時マガタンにおりまして囚人かを聞きましてその位置を分つたのであります。それから残つたところのその外の幹部方々は、当時の山田佐々木イズム打倒反動闘争の下に、この山田佐々木イズム作業所であるところの当時のアクチーブ……当時はアクチーブとはいいません、指導者は呼んでおりました。その指導者そのものを懲罰する懲罰隊を編制して三十キロの地点の伐採作業に従事させました。約四十名の人員であります。将校、下士官、兵隊と、いろいろの人がおりました。それで一掃したところの、当時の大衆の望む民主運動指導者は殆んどがラーゲルからその姿を消したのであります。その後におけるところのその民主運動者は反フアシストなるものを追究し、第一回目の反フアシスト委員長兒玉六三郎が当選しまして、ロシヤ式民主主義、即ちロシヤ国内で通用するところの民主主義を普及し初めたのであります。それで労働大隊長及川敏郎以下、委員は覚えておりませんが、御要求があれば私は材料を持つておりますから、提出いたします。そうして彼らは直接政治部員指導の下にこの在ソ……残りし二年半の教育を続けたのであります。そうしてこの第一番目の條項としまして、先ず作業をさせるのに、與えられたるところの一人に対する糧秣の幾らかをパーセントによつてへずつて行つたのであります。お前は一〇〇%できないから、砂糖の配給或いは栗、スープの量、野菜の量全部へずつて行つたのであります。そうして一〇〇%以上稼いだ人にそれを與えました。結局はこのラーゲル、即ち收容所内におけるところの同じ日本人の糧秣をやり取りしておつたのであります。そうしてそこには醜い闘争が行われました。  二つ目には、伐採の一番苦しい困難であるところのこの作業を皆嫌がつておりました。誰しもが町に行つて作業或いは地方人と接してパンやいろいろのたばこを貰うことを望んでおりました。そこから三十キロの不便な懲罰隊を送られることを皆恐れておりました。それで民主運動に参加しない者、寝ておつて講師の話を聽かない者、或いは前職者もおりましたのです。それは後になつてからです。初めは怠け者、物を掻拂つた者、こうした者の解決をせずに……なぜ物を掻拂つたか、なぜ渡つたところの毛布を持つて行つて地方人と取換えたかというような理由考えずに、ともかくそうした惡いことをした者はこの懲罰隊に行くことになつております。それで皆懲罰隊というのが民主運動をやらなければいけない、強制される二つ目條項であります。  三つ目は、四十八年の頃、日本新聞を通じて帰還者のいろいろの記事が発表され、いろいろの日本新聞等指示、或いはソ連当局政治部員指示によつてフアシスト委員会スローガンを、反動を帰すな、一歩たりとも内地の土を踏ましては駄目だということをスローガンに掲げ始めたのでありました。四九年の夏には各作業で小さいグループ、十名くらいのグループにおきましても、例えば憲兵をしている前職者、巡査、或いは滿鉄社員、如何なる前職者を問わず、これを書き出してアクチーブの所に提出しました。そうしてこの闘争が帰る日まで続きました。最後にはマダタン市における四千名の人間の数が手紙によつて復員局住所、氏名、死亡者が分つたのであります。これは申し遅れましたが、四十七年の頃栄養失調者、片輪者こうした人を約四百五十名という人がナホトカに向つて出発しました。この人達活躍で人名が分つてマガタン地区人間は殆ど復員局の方で分つておられたようであります。そうして残つてつた三千七百名の人間を一回の船で四十九年の十月二十一日にマガタンの港を出港したのであります。そのときに私と遠山と、二名共兵隊でありますが、反動者として検事局の方に一週間前に引張られました。その前に前職者が七八名が検事局の方に行きましたが、憲兵はおりませんでした、警察官が八名ほどでありましたが、三日ほどして皆帰つて来ました。私らは反動の名を以ちまして四十六年の九月二十一日から翌年の二月二十日までマガタン第一刑務所に留置されたのであります。その間取調は十四五回もありましたが、いずれも成立するような書類もなくて困つてつたのであります。併しながら向う思想犯五十八條の十項と十一項に対しての裁判官の裁判は、裁判官なし弁護士なし、そうしてただ一つの紙切れによつてこれを裁断するということが分つたのであります。そのときに先にも申しました通り国内熱烈溢るる運動が、我々罪人と雖も帰さなければいけないところの境地に陷つてソ連当局は我々を帰したのであります。併しながら私らが出発前に地方人としてあと一月二月経てば刑を終える者が集結しました。
  44. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 今の在留邦人の中で、大体そのあなたの知つておられる女の人はどの程度つたですか。
  45. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) この在留邦人の女の方は、私は直接にその收容所に行きませんので、山から下りて来た我々と同じくこつちへ還つて来ました引揚者の書類の場合によつて私が申上げます。女の方が凡そマガタン地区で五十名内外と言われております。はつきりした人員を報告しておりません。それから男の方が二百五十名と言われております。約三百名の人であります。それから帰国するためにマガタン飛行機で集結した邦人の中に八名というものが残されております。以上であります。
  46. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 各委員から質問ございませんか。
  47. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今八名の人が残されたという証人証言にありましたが、その八人の人はどういうふうな部類に属する方でありましようか。御証言を願います。
  48. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) 八名の方は元義男軍、或いは八路軍から逆送されて、ソ連捕虜として入つた人が三名であります。あとの五名は樺太の方から来ております。彼らは馬一頭を殺して八年、牛一頭殺して二十五年という、実に莫大なる刑を貰いまして、その二十五年口の連中が私らと一緒に殆んど還りましたが、この八年、或いは五年といつた、すでに刑期があと一年、或いはあと四ケ月という人が殆んど八名残されたのであります。それで私らが、私はこの八名の、現在二十三歳の者が三名か四名おりまして、可哀そうにと思いまして問合せて見ましたが、捕虜として載つていないということでありました。それからよく突込んで聽きましたが、結局はその係りの話では、ソ連人になつているからというような申立であります。私もロシア語余りはつきりは分りませんが、ともかく今度還るのは捕虜だから、これは還されないと言つておりました。現に刑を終えて一月という人もおります。名前住所の方は私らと一緒に乘りました梯団の川口廣という人がその書類を持つております。
  49. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 更にお尋ねしたいのですが、向うで、今のあなたの御証言の中に、向う帰化した人が、過日のタス通信発表によりますと、二千四百七十六名残つておるというようなことでありますが、そうした人達の中で帰化をした人があるのかないのか、或いは帰化した人がどの程度つたということをお聽きしたいと思います。例えば、あなたがお出でになりましたマガタン市ですか、その附近における帰化した人の状況を御証言頂きたいと思います。
  50. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) 帰化をしたお話を申上げます。この邦人と、我々元軍人捕虜は、距離から申しますと、少い人で四百キロ以上に皆位置しておりまして、この邦人捕虜との話、交通は一切禁じられております。初めて私らが地方人を見ましたのは、四十六年の、書が解けた頃ですから六月に、初めて日本人の混つておることを知りました。船の入る度に囚人を送つて来るマガタン市の方には……。その他市内には必ず日本人が階の掃除、いろいろな作業をしておりますから、日本人がおることが分ります。併しながら千名單位に対して監視が犬とも合して一個中隊くらいついて来ますので、全く話する機会もありません。それで何名、どこの方向に向つて進んだかというようなことも一向察知できないのであります。この度邦人と話できたというのは、帰国するためにマガタン市第二收容所、ロス語でこれをカルプンタと言いまして、囚人振分け所において、飛行機に乘るために二日間の準備がありました。そのときにおいて状況を聞きましたが、帰化をしたという人は、この残された八名の中でも、自分帰化をしたと言う人はおりません。帰化向う書類によつてできてしまつた自分は知らないうちに、ロス語が分らんから、帰化をするのか、何をするのか、ただサインしたかも知れませんけれども、彼ら八名口を揃えて私らは帰化しておりませんと、私に正しく言つております。奧地におられる人はまだ刑が明けておらないから、恐らく帰化するなどというような書類を扱うことは絶対にありません。
  51. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 重ねてお尋ねしますが、その帰化した人は向うにおいて行動は自由なのでしようか。或いは自由でないのか。この一点ですね。
  52. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) 帰化をした場合には向う国民として取扱うようになつておりますが、いろいろの犯罪名目によつて選挙権、いろいろの権利というものは束縛されております。制限されております。そして向う日本人の中で、私は自分帰化をしたのだと言われる人はまだ会つておりません。チタ地区におるところのノモンハン事件の人がおりましたが、その人達帰化しているそうでありますが、マガタン地区には帰化をしたという人の……、私は人と会つておりませんし、その状況ははつきりしたことは分りません。
  53. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今ノモンハン事件のごときの残つておられるという人の話が証言の中に出たのでありますが、これは実は参議院のこの委員会におきまして証言を求めた中にもあり、或る証人のごときは四千人くらい残つておるのじやなかろうかという人もありました。だけれども、いろいろの証言を集約してみますと、千数百名は当時の人が残つておるのじやないか。又自分達はその人達に会つたという人もあつたのでありますが、たまたま今あなたの証言の中に、ノモンハン事件の人達残つておる。そういう人達もおつたということでありますので、あなたがノモンハン事件の当時の人達に会われたか、或いは残つてつた人達の数はどの程度かというようなことを、お聞きになつた点があるのであつたならば、合せて御証言願いたい。
  54. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) このチタ地区に残つておるところのノモンハン事件の当時の捕虜帰化氏名、総数はチタ地区の私らの人が担当しておりますが、人名その他は分りません。併しマガタンにチタから来たロシマの人、囚人であります、そうした人が、チタには沢山日本人がおる、それはハツサン、ハツサンと言いまして、ノモンハンのことをハツサンと呼んでおりますが、そのハツサンのワイナー、戰いのときに残つた人だということを一度乃至二度殆んどマガタン地区から来たものはこれを聞いたと思います。現にその数を見、この人数を指定することは私はこの地区におりませんのでお答えすることはできません。
  55. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、今そのノモンハン事件のときの人達残つてつたということはロシア人の見解ですね。
  56. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) そうです。
  57. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 外に御質問……。
  58. 小杉イ子

    小杉イ子君 與儀証人に伺います。或いはこの数字は間違つておるかも知れませんが、四千四百九十九名の中に栄養失調となつたものが二千三百名ある、これを出したこの栄養失調者に対して、ソ連はやはり労働を同じく要求するのでございましたろうか、それが一つと、それから食糧が不足であつたけれども町で貰うことができたと申されましたが、これを町で貰うにはなかなか時間がかかりますでしようから、そういうことを見られたら罪するとか何とかいうことはあつたのですか。それからソ連軍は監督をしないで自由に貰うことを任しておつたのでございましようか。それからその中から栄養不良が二千三百名出たと申されましたが、死亡者はほんの僅かであつたように聞き取りましたが、そうでしようか。
  59. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) そうです。
  60. 小杉イ子

    小杉イ子君 何人あつたのでありましたか。
  61. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) 五十であります。
  62. 小杉イ子

    小杉イ子君 それからもう一つお伺いしますことは、反動は帰すなというスローガンは、民主主義の何か会のようなところから発表したものでありましようか、それとも何かソ連軍の軍部からの発表でございましようか。その差出しをお伺いしましよう。
  63. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) 栄養失調は四級となれば仕事はやりません。四級と申しますと、先ず歩くと足がふらふらしてめまいがするという程に痩せたならば、こういう人は営内で残つて休養を受けます。併しながら営内においてじやが薯をむいたり、それから掃除をしたり、いろいろの営内の作業を四時間程やります。それからパンの話でありますが、私らの地域は特別な地域で、殆んどこの町におけるところの市民の半分以上、又奧地におるところの人間の八〇%以上の人間が殆んど刑を持つておる人間であります。そうして我々が船から降りた場合に、私らに上から煙草を投げ、物を與えた人間は、綺麗な恰好をした人がくれたのでありません。汚い恰好をし、自分の過去に刑を持つてつた人間が、その市民が我々に対してものを與えてくれた。これはどこの地域においても同じことであろうと思う。洋服を着た人や綺麗な肩章をつけた者から煙草を貰つたり、或いは糧秣を、或いはパンのかけらを貰つたりしたことは恐らくないだろうと思います。大抵貰つた者は働く労働者、囚人であつたが解放されて許された人達が我々を憐んでパンを與える。その数と量は多く、我々が助けられたということは実に大きいものであります。併しながらそれを見られた場合には必ず私らは営内の営倉に入ります。罰せられるところの部屋に入ります。一日二百五十グラムの水、それだけであります。それから物が足りないからと言つて渡つた靴下を持つて行つてつた場合も同じく罰せられます。その監視は随分うるさいのであります。
  64. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 他に御質問がなければ……。
  65. 小杉イ子

    小杉イ子君 反動は帰すなという……。
  66. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) 反動を帰すなと言つたのは、反フアシスト委員会がいつもサインをしてありますし、そうした宣伝部の視覚宣伝であつて、軍の方でいつも発行されます。併しながら反フアシスト委員そのものの後には必ず上級中尉、政治局員が二名乃至三名付いております。
  67. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次に武藤証人にお尋ねいたしますが、大体戰犯、受刑者等の、いわゆる判決を言渡されておる判決状況並びにあなたの前の前職について御証言を求めます。
  68. 武藤喜一郎

    証人武藤喜一郎君) 証人武藤はソ連に入りまして当初犯罪的被疑者としましてウラル、中央アジヤ方面に主として犯罪容疑者を多く集めましたところのラーゲルに変転收容移動させられたのであります。後ハバロフスクの将官ラーゲル收容され、最終船を以て帰還したのであります。この間多くの曾ての友人或いは部下というような者が前歴の関係上犯罪容疑者として同一箇所に收容されておるというこの事実、こういう方面から刑の執行を受け、犯罪容疑を以て取調べられておるこの状況及び証人自身も審問を受け、被疑者として尋問を受け、或いは証人として相当多数の回数身を以て体験したという意味から、今の問題についてお答えをする次第であります。  但しソ連当局は何の某を如何なる理由によつて調べている。何の某を如何なる犯罪によつて監獄に入れたということは何ら私共にこれを示しておりません。従つて彼は如何なる理由によつて、如何なる法律の根拠によつて処断されたのであるかということにつきましては意見をする限りではありません。存じないところであります。従つて現在受刑者の者はどういう事情において処分されたろうという人の噂を聞き、自分の推定であるということを予め御承知を願いたいと思います。ソ連におきまして多く、いわゆる戰犯としまして取調べを受け、或いは刑執行の本質はどうなのであるかと申しますと、昨年の暮ラヂオ等によりまして世界に発表されました、いわゆる細菌戰に関する犯罪、これは内容は申す必要はありません。それ以外におきましては諜報、いろいろな情報関係、謀略関係、それからソ連の利益を侵害したいわゆる反ソ的な行為、その他戰鬪若しくは勤務中における非人道的な行為、こういうような点につきまして相当深刻に調べられたのであります。特にソ連憲法に明示してあるごとく、外国の情報を蒐集するスパイ行為を行う、社会的な利益を侵害する、国家を危うくするというような見地におきまして、敗戰前の行為、即ち昭和二十年の八月ソ軍が進駐以前におきまして国境方面に主として重点的に行使された日本軍のソ連に対する諜報的な行為は勿論のこと、更に今共和国になり、民主国家として新たに成立しました中国の利益を侵害した共通的な行為、こういう点については非常なる力を以て深刻な調査があつたのであります。総論を述べまして、次に細論的に申します。先ず憲兵関係でありますが、憲兵関係が單に国内治安維持上行うところの、いわゆる当時用いておりました滿洲国の成立を根本的において阻止するごとき反滿或いは抗日というような分子に対する彈圧行為、更にソ連方面から滿洲国方面に侵入しまして、ソ連の諜者に対するいわゆる防諜的な憲兵の行為、そういう方面については本当深刻な調査を行なつたのであります。更に又憲兵がかくのごとき諜者を通じて逆にソ連方面に対して情報を蒐集をしたのではないかどうかというような意味における諜報的な行為、これも深刻な尋問を行なつたようであります。更に鉄道警護軍というのがあります。これは軍に編成になる前までは鉄道警護総隊という純然たる滿洲国鉄道の護衛機関であります。この警察機関についてもほぼ憲兵と同様な内容を持つ調査が行われたのであります。更に一般の警察につきましても、警察の本質上治安維持に関する業務は勿論のこと、更に特に防諜的な立場において警察が如何なる活動をしておるかということ、更に滿洲国の警察機関は、場所によりましてはいわゆる保安局という特殊な機関を二元的に行なつております。この保安局勤務についてはあとで述べます特務機関と同様に、極めて深刻な尋問があつたように想像されます。  次に日本関係に亘るのでありますが、即ち特務機関、及び終戰間際に編成中でありました特別警備隊、この活動、こういうことについても可なり……可なりではありません。特務機関のごときは最も深刻な徹底したる尋問が行われたように聞いております。但しこれは私自身が余り関係がありませんから、他人の言を総合してのお答えであります。それから一般軍隊、いわゆる作戰軍方面については、軍で行いますところの対外的な情報、或いは飛行隊において行いまする飛行情報、こういうことにつきましても痛烈なる尋問が行われたように聞いております。これが刑事問題、戰犯事件として最も主要なる内容を占め、又これに触れた者がいわゆる裁判を受け、更に刑の執行中に属し、或いは又これに至らなくても、こういう方面に関係した人が多く容疑者として残つておるのであります。そこで然らばどういうような結果に現れたかと申しますと、私は初め現地におきましては一般の人と同じように收容されておりましたが、最後に将官ラーゲルに来た結果、こういうことを総合的に判断しますと、現在将官級において残つておる人、これははつきり申上げます。即ち日本関係において軍司令官、参謀長等について、日本関係において直接ソ連の情報行為をやつてソ連の利益を侵害したという意味において残つておる人約十二名、これはすでに新聞等において発表せられたものと思いますから、一々氏名は申上げません。それからあと十七名の人、これは将官が十四名、将官でなくして滿洲国の純然たる文官に属する人、これが三名、計十七名が残つております。これは鉄警軍が六名、日本憲兵として、後滿洲国の憲兵隊に入つております齋藤という人です。この人、更に滿洲団の要職にありました武部、古海、司法関係にあつた飯守、こういうような人、これも詳細につきましては新聞等で御承知のことと思います。こういうような人は主として中国関係において関連性があるという見地におきまして、十七名の者と二十名の者に分離された状況において、後收容されたということを伝え聞くのであります。こういう意味におきまして残つておる将官三十七名は、特務機関長であつたか、或いは軍司令官であつたか、鉄警軍の司令官、或いは鉄警軍の參謀長というような人、日本憲兵の要職にあつた人、そういうような人を除いたあとの人は解放軍方面と交戰をし、或いはノモンハン等において作戰行動を行い、如何なる事情であつたか知りませんけれども、こういうような関係の人が、大体残つておるのであります。こういうような人を犯罪容疑者として、そういう人をピラミツドの頂点に置きまして、その下部機関が大体残つておると、調査中にもよく言つたことでありますが、我々は犯罪部隊という一つの枠内に閉じ籠められたならば、なかなか大事だと、一連托生にその枠内において処断をされるということを、かれこれ言つてつたのであります。従いまして、鉄警軍のごときは、軍司令官が、たとえ任期が二ケ月であつたとしても、軍司令官が二人、或いはその他の幕僚全部残つております。これはいわゆる犯罪部隊であつたとしたならば、犯罪部隊としての一つの性格を持つておるのではないか。特務機関のごときは、仮に犯罪部隊というのがあつたとすれば、そういう枠内に入つておるのではないか。何となれば、特務機関のごときは、小使に至るまでも、運転手に至るまでも、残らず戰犯人として收容されておるということを聞くのであります。警察におきましても、北満方面において敢闘した警察官は、下の、いわゆる日本で申しますと、巡査級に至るまでも收容されておるということを聞くのであります。かくのごとき枠を以て、大体取調を受け、或いは処刑をされたのではないかという推定を下すのであります。個々の人間につきましては、一々申しませんが、具体的に申しますと、憲兵隊長級の大部分の人、憲兵の特高勤務にあつた幹部、警察で申しますと、警務庁長であつた者、或いはそういう前歴を持つた人の大部分、警察の特務課長であつた者の相当数、警保軍の、今申しましたように、将官以外の必要な情報関係になつた幹部の大部、こういう人はまだ帰ることができず彼の地におるのであります。その一々の氏名につきましては、省略さして頂きます。今の問題について、何か不足の点がありますでしようか。
  69. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう一点証人に伺つておきますが、あなたはずつと各方面を廻られたわけですが、それらの囚人でまだ相当残つておると、いわゆる受刑者は相当残つておるというようなところで、主なところを、名前を知つておられる範囲で述べて下さい。
  70. 武藤喜一郎

    証人武藤喜一郎君) その判決を受けた者が、果してその判決地におるか否か、或いは或る一ヶ所に收容されておるかどうかにつきましては、はつきりしませんが、多くの者はハバロフスク方面に移送されておる、管理上その方面に集中しておるということを聞きます。然らばその数は全部で幾名おるかということについては、人によつていろいろ噂をされております。噂をされておりますが、先程申しましたように、犯罪部隊的なものは、大部分がここに收容されておるという見地から、或る人は、犯罪人だけでも、刑執行中の者だけでも一万を下らんということを言つておる人もあります。併し、これはその人の噂でありまして、私自身としては、それを確認するものは何もありません。
  71. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 外に御質問ありますか……御質問がなければ、後で又まとめまして質問することにいたします。  それでは次に田邊証人にお尋ねしますが、先ず第一にお聽きしたいのは、あなたはナホトカから帰られる前に、ハバロフスク收容所はどこにおられましたか。二分所ですか、五分所ですか。
  72. 田邊勇司

    証人(田邊勇司君) 申上げます。第二分所であります。
  73. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 第五分所にはおられませんでしたか。
  74. 田邊勇司

    証人(田邊勇司君) おりません。
  75. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 二十分所にも行かれませんか。
  76. 田邊勇司

    証人(田邊勇司君) 行きません。
  77. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それではあなたがタシケントで刑を受けられて、その地区に残された者の数及び状況等について御証言を願います。
  78. 田邊勇司

    証人(田邊勇司君) 私達は、昨年の九月九日に、タシケントの中央アジア軍法会議において判決を受けたのでありますが、十月の末だと思います。最初に刑を受けました十六名、この中には、五名の朝鮮羅津の無電台に勤務していた青年がおりますが、残りの十一名は、私と同様、関東軍無線探査隊の憲兵であります……が出発しまして、残りは二月の六日にタシケントの監獄を出たのであります。それでありまして、私達が最後でありますから、タシケントの監獄には、受刑者は一人もいなかつたということが断言できます。その第一回目の十月下旬に出ました十六名の者は、ノヴオシビルスクまでは行つた形跡はあるのでございますが、と申しますのは、私達三十六名がノヴオシビルスクに到着しまして、そこに勤務しておりますロシア人に、前に日本人が十六名ばかりおつたということを聞きまして判断したのであります。その先はどこへ行きましたか、恐らく私達と同じようにハバロフスクに集結したと思いまして、四月二十四日にハバロフスクの二分所に到着して以来、いろいろ各五分所、六分所等に連絡を取つて見たのでありますが、消息は不明であります。そして四月十二日に帰還という名前で二十一分所に集合しました際も、各分所から集結したところの人に聞いて、更に消息を尋ねて見たのでありますが、依然としてこの十六名の行方は分つていないのであります。この受刑者について申しますと、十六名も、それから残りの三十六名と中の殆んどが、五十八條の六項に照合されまして、二十五年の受刑を蒙つたのであります。前に出た十六名の者と、二月六日にタシケントを出発した三十六名の者との、勤務の状況とか、それから刑の適用範囲、そういうものについて比較いたしましても、どこに特徴があつて先に出たか、又後へ残されたかということは不明であります。案外何もしない者、ただ八十六部隊、これは関東軍無線探査隊の通称号でありますが、八十六部隊に勤務していたためにという名前だけで二十五年、或いは大連から新京に通ずる電話の取り継ぎをしたために二十五年というような状況であります。
  79. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと、今のはどこに電話の取り継ぎをしたのですか。
  80. 田邊勇司

    証人(田邊勇司君) 新京であります。
  81. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 新京からどこに……。
  82. 田邊勇司

    証人(田邊勇司君) 大連から新京の八十六部隊本部に電話が掛つて参りましたときに、それを新京の出先の通信所に連絡しただけで責任を問われたのであります。以上でありますが……。
  83. 岡元義人

    委員長岡元義人君) いいです。次の点、もう一点答えて下さい。  ハバロフスク分所で、帰られる前に、他のラーゲル等で、いわゆる徳田要請問題の協議会が開かれたというような、これを聞かれたことがありますか。又二分所では全然ありませんでしたか。
  84. 田邊勇司

    証人(田邊勇司君) ありません。
  85. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 聞いたこともない……。
  86. 田邊勇司

    証人(田邊勇司君) 私が直接耳にしたことはありません。
  87. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 林証人大丈夫ですか。答えられますか。
  88. 林壽邦

    証人(林壽邦君) 大丈夫です。
  89. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 今の田邊証人に各委員から御質問ありますか。
  90. 原虎一

    原虎一君 ソ連が、裁判のやり方ですね。どういう形でそれを……軍法会議ですか。その裁判でやつたか。その模様お話し願いたい。
  91. 田邊勇司

    証人(田邊勇司君) 申上げます。裁判所はタシケントの市内にありますところの中央アジア軍法会議であります。裁判官は長以下三名でありまして、長それから陪審判事、それから書記その外鮮系の通訳が一名であります。四十五年以降これは個人によつて違いますが、何回かによつて調書を取られました結果を、そこで一度読み上げられたのでありますが、全部が全部共この内容のうち何ケ所かが違つているのであります。これは無理しても受刑させる、刑を適用させるといつたようなずるい魂胆が随所に見られるような窺われるのであります。それについて法廷において何回も反駁いたしたのでありますが、お前達はここに勤務しただけで、或いは私達のような八六部隊の無線探査勤務をやつたものは、ハバロフスクからの電波を聽いただけで、或いは電話を聽いただけでもうそれでいいんだ、この内容は違つていても構わない、勤務しただけで、或いは憲兵教習隊を出ただけで、それでもう終りなんだ……こちらで幾らその内容は違つていると言いましても、裁判官の方ではそのような答であります、通訳の能力について疑われますので、通訳についても、これは変えて貰いたいと、何回もこれを要求したのでありますが、こういうことは、いわゆる素知らん顔で、この裁判は続けられたのであります。法は神聖と、私達は常に感じておりますのですが、あの法廷においては、又その法廷に臨んだところの人人、裁判官、或いは警戒兵に至るまでが、こういうことを全然無視しまして、例えて申しますならば、煙草を吸いながら、或いはこれは外人の癖ですが足を×型に組んで私語をしたり、こそこそ裁判すると言つたような工合で、それで判決というものが、前以て書類にまでもうできているのでありますから、私達に、何か異議があつたら申立てろ、意見を述べろと言いましても、これは愚かであるというようなことは分つておりましたが、併し、やつた行為と、こちらで陳述したことと、それから向うで読み聽かしてくれたところの内容とが、相当齟齬がありますので、この点についてだけは、飽くまで突つ込まなければと思いましたのですが、先程申しましたように、ただ勤務しただけでいいんだ、それから波を聽いただけでいいんだというように片付けましたので、非常に受刑した者は忿懣の意を高めたのであります。もう一つ例を申しますと、奉天でK2Lという諜者を検挙したのでありますが、関東軍無線探査隊の主なる任務は不正電波の探査究明でありまして、傍受から確定工作まではやりますが、検挙は一般隊の者にお願いしておるのであります。奉天で名前を聞けば奉天憲兵隊がその現場に踏み込み検挙するというようになつておるのでありますが、その書類等を法廷で聽きますと、こちらの言つたのと、全然喰い違つておりまして、いずれも侵入して諜者を検挙したというふうにまで誤まつて……これは故意でありまして、故意に作られておるのであります。それを否定しましても、何回も申しますようでありますが、無駄なことだつたのであります。それで私達の先輩が戰犯Aクラスというような工合で、極東軍事裁判にまで出されているのに、私達が、そういう国際的なものが持つているというならば、ソ連だけでやるんでなくて、極東軍事裁判にまで出してくれないかと申しましたが、そういうことはモスクワの最高軍法会議に上告せよというだけで、これも一蹴されまして、最後に七十時間余裕を與えるから、その間に上告書を書け、そしてそれを出したならば、恐らく君達の意見も通るだろうというように言われたのであります。それで判決を貰つてから七十時間、約三日の間において各人が喰い違つた点、それからその外全然根拠のないことを言われましたことについて書き立てて上告したのでありますが、おのおの約一ヶ月ぐらいしまして返事が来たのでありますが、その返事には、第一審の通りというような判決であります。これは勿論助けて貰いたいために上告したのではなくて、事実を曲げて裁判しておるところのこの不正な態度が憎かつたのであります。刑を受けた受けないは問題ではありませんが、この歪めたところの裁判が、我々自体でなくてソ連におる人々の上にもかかつておるということを知つておりますので、そういうような勢いも手伝つて上告したのであります。勿論これによつて刑を減らして貰おうとか、或いは獄を出して貰うという考は微塵もあつたのではありません。終り。
  92. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 外に御質問なければ、林証人に伺いますが、あなたはハバロフスクでは第二分所ですが、第六分所ですか。
  93. 林壽邦

    証人(林壽邦君) 第二分所です。
  94. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは林証人にリシヨウテイにおけるところのあなたの帰つて来られた後における残留者があるか、或いはそのリシヨウテイ附近において知つておられる範囲で御証言頂きたいと思います。若し工合が惡かつたらお坐りになつて証言下さい。
  95. 林壽邦

    証人(林壽邦君) この度は皆様のお世話によつて無事帰国したことを厚く御礼申上げますと共に、いよいよ我々は後に残つた者の引揚を促進したい、こう考えて一言御挨拶に代えて、これから証言をいたします。  リシヨウテイは丁度ウラジオ、モスコーの中間に位するところであります。ウラジオストツクから約四千四百七十キロ、この地点にあります。周りは密林地帶であります。丁度そこに小さな駅がありまして、そこから地点が分れております。私がそこへ参りましたのは、四十七年の七月そこへ参りました。それで私の入りましたラーゲルは二百三十五の五号の、所長はイゴロフというロシアの大尉であります。最初参りましたときに三名の日本人の女の方と、一名の男の方がおられました。男は寺田、名前はちよつと失念いたしました。女の方の名前は伊藤、中山、佐々木。伊藤、中山は、この方は九州地方の方と思いました。それに佐々木という方は青森県の方であります。そうして我々はそこへ参りました。そうして今度帰つて来るまでそこにずつとおりました。現在そこに残つておりますのは、樺太地方人十三名、それから兵隊二名、こういうような工合残つております。至極元気ではおおりますが、いずれも帰ることを望んで、別れに際しましては是非我々の促進運動一つ頼むということを、又私は命に懸けてあなた達を救出するのに全力を注ぐという約束をして帰つて参りました。その外その附近約百五十キロの地点に支線が入つております。その百五十キロの地点には転々として十五戸ラーゲルがあります。うち女因人ラーゲル二戸、この方面にも各所に十乃至二十名の日人が残つております。それで私の今度調べたところによりますと、まだはつきり集計していないで掴んでおりませんが、大体百五十名という人数に及んでおります。後日集計いたしましたら確実な資料を提出いたします。そうして十五戸ラーゲルの、まあ我々から申しますと「奥へ」という言葉を使つておるのでありますが、奥へ行くという人間の仕事は鉄道工事と伐採であります。その外若干の自活用として農場があります。私がおりましたリシヨウテイ地区の二百三十五の五号の今までの状況を申上げます。四十七年の七月に参りまして、先ず一番最初には作業は農業班に入りまして、作業を実施しました。約三ヶ月の間、十月の末まで、バラツクの宿舎ですが、これを配当されませんでした。それで私も参つて向うに交渉しました結果、向うの少尉、これは正規軍でありますが、少尉のカミンダントという営内取締をやつておる者がおります。それから言われた言葉であります。ジヤボンスキーのごとき、日本人のような者にやる宿はない、どこでもいいから寢ておれということを言われて、恰も犬ころのごとく抛り出されてラーゲル内をうろついておつたのであります。それで十月になりまして初めて宿舎を配当されました。当時四十七年四十八年のラーゲル内の生活状態は恰も、何と申したらよいか、ちよつと言葉では言い現わせないような状況であります。淫猥と嘘と強盗殺人の恐怖の中に置かれたのであります。私らは相当良い物を持つて行つたのでありますが、向うに着いてから一ヶ月足らずで全部その品物はなくなりました。一番ひどいのは、後から毛布を被されて十月のさ中に褌一本にされた例があります。これは樺太の人であります。これが向うの官憲のおる……、言葉で何と申したらよいか分りませんが、官憲のやつておることで、ラーゲル内でそういう事実があるのであります。そうして賄賂を使えば四級という体位が分れまして、そうしてその刑を終りますまでそこで過ごさせるというような状態であります。誠に、何と申しましたらよいか、さつぱり申上げる言葉もありません。そうして四十七年の九月に樺太から約二百名の囚人が送られて私らのラーゲルに参りました。そうしてそこから一名残りまして、これは樺太の鉄道局長宮田三郎という方であります。以下二百名であります。樺太の今まで覚えておる人間を申しますと、樺太の水産会の会長石井、それから拓殖銀行の何か、課長か何かやつておられる方でありますが、岡田、それから佐々木、これは土木請負業であります。それから小林、これは洋品店であります。以下二百名参りまして、大濱正雄という床屋さんが五号へ残りまして、後は全部奧へ入りました、そのうち石井、岡田という方は六号の病院ラーゲルで、確実な日は分りませんが、多分四十八年だと思います。そのときに亡くなりました。それから五号では私が直接見ましたのは二名、平野という、これもやはり樺太水産会の方であります、それからもう一人はちよつと名前を失念しましたが、向うに書いてあります、これは後で提出いたします。二名亡くなられました。その後の移動は一名乃至二名ぐらいの移動はございました。この移動は大体五十八條……日本の政治犯であります。五十八條関係、これは最もソ連側で嫌うスパイ行為、それから反ソ行為、こういうようなソ連から言わせる極惡犯人、これを引拔いて、そうしてどこへ連れて行きましたか分りませんが、皆移動して行きました。そのうちに日本人対島勝也という青森県の方も入つております。その外四十七年七月から五十年の二月までの間に大体転出入四百名という数字になります。そうして皆さんのお蔭で五十年の二月に、お前達はこれから、日本に帰るためとは言いませんでしたが、大体十六地区に行くからということを言われまして、そうしてハバロフスクの十六地区第二号ラーゲルへ参りました。そうしてあすこで約一ケ月建築作業をいたしまして、そうして四月の確か十日だと思います。二十五年の四月十日二十一分所集結ラーゲルへ行きまして、そこで被服の交換その他が実施されて、十七日にナホトカに向つて参りまして、現在に至りました。以上申しまして私のリシヨウテイに関する証言を終りたいと思います。
  96. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚続けて林証人に伺つて置きますが、伊藤、中山、佐々木という女の人は帰つて来ておりませんか。
  97. 林壽邦

    証人(林壽邦君) 帰つて来ておらないようであります。向うで調べます。
  98. 小杉イ子

    小杉イ子君 林証人に伺います。いろいろな物を奪い取つたり、又は強姦を悠々といたしておるようでございますが、そういう人はすべてがソ連軍人でございますか、それとも普通の人もそれをいたしておりましたか、それを伺いたいのです。それから共産主義というものはそういう意味のものを共産主義というのでありましようか。日本の共産主義は愛国主義者であるとこういつもおつしやいますが、そういうところの意味から私はこれを伺つて置きたいと思います。
  99. 林壽邦

    証人(林壽邦君) 向うの官憲はこれを防止し、策を講じております。これは囚人同志でやる仕事なんで、囚人同志は丁度ここの平の寮のようになつております。囚人ラーゲルは全部平屋建でありますが、ああいうような式で各所に配置されております。ですから出入りやなんかは自由であります。そのラーゲル内はどこへ行つても構いません。その行く途中で、四十八年までは非常に空気が險惡で、夜あたりは外に出られないのでありますが、四十八年から粛正されまして幾らかよくなりました。それから、軍人やなんかはそういうことはやりません。向うの、要するに官吏でありますとか、そういう者はやりません。囚人内、囚人同志でそういうことをやつておるのであります。
  100. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 大体証言は一応終つたのでありますが、尚各証人に対しまして一、二点程伺つて置きたいところがあります。先ず魚澤証人に伺いますが、あなたは新京で、いわゆる関東軍司令部には終戰後どのくらいおられましたか、入ソまで。
  101. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) 私は八月の五日に嫩江に転任をいたしましたので、終戰当時は新京におりません。それまで四ケ年おりました。
  102. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 武藤証人にお尋ねいたしますが、終戰後新京と東京とは大体いつ何日頃まで電話、通信連絡がとられておつたか御承知でありますか。
  103. 武藤喜一郎

    証人武藤喜一郎君) 今のお尋ねの点、新京とどこですか。
  104. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 東京。
  105. 武藤喜一郎

    証人武藤喜一郎君) 東京ですか。
  106. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ええ、内地。
  107. 武藤喜一郎

    証人武藤喜一郎君) その上は存じません。私は新京にいなかつた関係上。
  108. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 終戰の時はどこにおられました。
  109. 武藤喜一郎

    証人武藤喜一郎君) 四平街であります。
  110. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 外に委員から御質問ございませんか。
  111. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 私は武藤証人一つお尋ねしたいのですが、武藤証人が帰られますまでに向うでお聞きになつた点について、向うにどの程度の人が残つておるというような点を、あなたがお知りでありましたら御証言願いたいと思います。
  112. 武藤喜一郎

    証人武藤喜一郎君) 先程証言中に申しましたように、将官ラーゲルにおる人は各機関の長であります。ピラミツドの頂点と申しましたが、そういう人なんです。その残つておる人を頂点としまして、その下部機関の主要なる人が残つておるのであります。下部機関ですね。一応申しますと、特務機関長が三人残つております。将官のうちに奉天の特務機関長三人残つております。従いましてこの特務機関関係は、奉天以外の特務機関関係も大体刑に触れておれば、それで刑法によつて処断されておると思います。と共にその機関の下部機関に属する職員、先程或る特務機関のごときは自動車の運転手まで、小便までに及んだと申したのでありますが、いわゆるこういうのは犯罪部隊……俗称ですね、つまり固つたものが全部犯罪、団体犯罪であります。内乱罪とか、騷擾罪のような団体的の犯罪である。或る一つの部隊であれば、それが全部一つの団体として犯罪を構成しておるのだ、こういう一つの見解でございます。それをソ連発表したわけではありません。私共が專門的に考えまして、苟くも一機械的仕事をするところの運転手や、或いはタイピスト、こういう者に至るまでも犯罪なりと見れば、その機関全部が一つの団体的な犯罪を犯したという意味におきまして、部隊であれば犯罪部隊、これはこちらが勝手につけた一つ名前であります。従いましてその総数は普通、満洲にこの服務の何が幾つあつたか、或いは最も彼らが注目しておる憲兵隊の数が幾つあつたかというようなことによつて、およその何というものがここに生れて来るだろうと思います。併し南満と北満は、恐らく服務の何も違つております。北満の方は非常に峻嚴に調べられ、その又結果におきまして最も数的に北満方面に勤務した者は処断されておるようであります。個々の名につきましては若干は知つておりますけれども、これは極く一部であります。よろしうございますか。
  113. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 ええ。
  114. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) 申し遅れましたが、その民主運動の結果、被害者はどうであるかということをまだ発表してありません。この被害者は丁度出発前一週間前までに被害を受けて、マガタン第一刑務所に留置されておる者が、海軍が二十八名、服部中尉以下二十八名であります。それから思想犯として留置されたのが小生、與儀と遠山太二郎、北海道の者であります。これが二名、三十名であります。その二十八名の海軍の兵隊と下士官は、元対ソ通信及び占守島において行なつてつた海軍の兵隊であります。それで結局密告、そして反動を帰すなというスローガンの下にできたこの禍が、己も通信関係でありますけれども、米関係の通信の海軍の人がこれらの二十八名というものを密告したのであります。これは、名前を申上げますと及川敏郎、海軍上曹であります。これは労働大隊大隊長、元反フアシスト委員長、これは四年を通じてこの民主運動の笠を被つて、後にソ連政治部員の力を藉りてこねまわしておつたのであります。そしてもう一人橋出秀夫、はつきり分りません。今度の四十九年の十一月の帰還者であります。マガタンから来た及川敏郎もその通りであります。そうして元陸軍少尉、主計の山口県の出身兒玉六三郎、これが証人を立ててこれをでつち上げ、米軍の通信をやつてつた者が帰り、ソ連の通信をやつた者、これを結局留置したのであります。  それからその中で帰ると言つてハバロフスクに出発しましたが、十二名だけ船に乘りましたが、あとの十八名というものが殆んど残されております。それとさき申上げました四十七年の頃の民主運動者であつたところの山田以下四名の人がずつと奧地から、苦労してハバロフスクの第六分所に、一緒に帰るのだと言つて来ましたが、結局この人達四名も残されました。被害者としてはマガタン地区ではこれだけであります。
  115. 小杉イ子

    小杉イ子君 ちよつと伺います。思想犯と申しますのは、ただ單にソ連の共産主義者にならない人を言うのでございますか。
  116. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) 申上げます。反動と申しますと、私らの收容所内、又各全ソヴイエトに亘るところのこの捕虜民主運動そのものが、ともかくロシヤ民主主義でなければいけない、即ち共産主義でなければいけない。それ以外のものは反動であり日和見主義者であると言つて吊し上げた。ですからこの山田四郎以下の四名の人間は、あの窮乏に陷つていた頃の苦しかつた時代をよく打開しました。そうして栄養失調が沢山出たにも拘わらず五十名の死亡者でありました。併しながらその後二年間において殆んど九十八名が死亡しております。  これは作業の量がもの凄く要求されますもので、疲れた体に又帰つて来て十時十一時半という頃までこの民主運動パンフレツトに取つかなければ反動として吊し上げられる。それで又翌朝は早く起きて又勉強する、こういうような何で、二年間というものは実にあの苦しかつた時代より余計苦しいと言つて、今よく言いますが、会議を開いております。或いは講師が来て勉強さしております。そうすると、何名何名使役に出てくれと言うと、直ぐ我先に飛び出たのであります。勉強するのがいやだつたし、又或る一例をとれば、四十七年までの文化活動としまして、日本で行なつてつたようなおけさとか、踊り、芝居をやりました。その中には軍人として長い間苦労して来た人間を、いざ解放されたときに、若し帰つたときに、民主主義者の一市民として直ぐ間に合うように、いろいろな世界の情勢に遅れないようにという、この山田四郎氏の指導の下に、民主運動を勉強しておりましたが、これは全くソ連民主運動とは相反したものでありまして、これをソ連民主運動を起すためには、これら四名をとつて残るべき……四十七年に先ず彼らを剥ぎとつたのであります。だからこの演芸に関しては殆んど私が飜訳をやつたりいろいろ芝居も出ましたけれども、殆んどこれで思想犯として私はかかつております。そうして思想犯には單なる五十八條の十項……というのは、例えば品物が出たと新聞に書いてあるのに、マガジンへ行つたパンがなかつた。何だこれはと言つたような調子で捉まるのがこの十項であります。十一項がつくと、自分グループを組織し、そうして指導するだけの力のある人を反動、極反動として十項、十一項という罪名を貰いまして、最高十年最低十年、同じであります。ただ十項の人は八年であります。八年、五年とありますが、十年の人は、これが終りましても又命令が来まして十年と、一生浮び上ることができないところの刑であります。思想犯というものはこうです。
  117. 小杉イ子

    小杉イ子君 よく分りました。有難うございました。
  118. 原虎一

    原虎一君 五人の方にちよつと最後にお聽きしたいのでありますが、証言をなさる前に、残つておる諸君の帰国のために努力したいという御気持、これは我々は一層それに努力しなければならないのでありますが、あちらにおられて帰つて来て間もなくでありますが、今現在残つておられる諸君は、御承知のようにタス通信ではもう帰還は終つたとこう言つております。こういう今までの御証言によりまして、いろいろ特殊な事情を向うで理窟をつけておるのでありまするが、あなた方が帰られまして間がないのでありますが、どういう具体的な我々日本人が活動することが必要だという、帰還を促進するためには具体的にどういう活動が必要だという点についてお考がありましたら簡單でよろしいですから、お話を願いたいと思います。
  119. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) 申上げます。当局の御努力によりまして帰つております者一同に対し、帰還促進のために積極的に参加せよという檄を飛ばしますと同時に、私は次のような具体的方策を必要かと考えております。と申しますのは一番多数死にましたのは入ソした年の翌年の五月までであります。この間施設の不備と給與の十分でなかつたことと、労働のきつかつたことと、急に寒さに至つたために多数の死亡者があります。で向うに、私の当時六七ケ所転々と歩きました、シベリヤを歩きました例によりますと、向うの、人員の確実に調査を始めましたのが大体死んだ後の頃でありました。で尚入ソ時に日本側から幹部が何名というように、何部隊を何名というような引渡しをいたしておりません。全部を分散してそうしてまとめて中尉若しくは少尉を長とする一箇大隊千人單位で、一名乃至十名かきれることがありますが、大体において千人單位で入れました。後の幹部は別に行動を取らしております。そこでその間が、向うに受け取つて死んだか、満洲で逃亡したか、陣地で死んだかという疑問のように私は考えております。そこで先程に戻りまして、檄を飛ばしましてその後に入ソ時における、このソ側から帰りました者に、入ソ時における人員と指揮官、場所、地方軍人の別、入ソ後のその大隊の番号、翌年の五月までにおける死亡者の数、その大隊における死亡者の数、これを各村に亘つて調べて頂けば、復員局のこの部隊の符号、又入つたときの数の大体のものが出て来るのじやないかと思います。この間が一番先程申上げましたように切れておらないのではないかということを、こちらへ帰りましていろいろ調査を受け、又向うで感じましたことと合せてそういうように感じております。終ります。
  120. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) 私の今の案に同感でありまして、これの最も簡單で微細洩れなくこの人名を知るには、これは各地域とも共通の医務関係の人、最軍人にして軍医、衛生曹長、下士官、兵隊に至るまで、この人名については相当によく分つておるのであります。一般の人は仕事をやつてつた関係上、人名には不確実であります。死んだ自分の友達の一人や二人は知つておりますが、総体的なものをまとめるには、やはり各地域に分れて軍医をやつてつたというような人を召集するなり、又それを調べるという方法が先ず確実な数を得ることができるのであります。現に、どこの地域においても医者として重宝がられまして、間違つても軍医であれば必ず收容所の医者として四年ずつと使われております。それから中には余り人を休ませて、パーセント的は千名に対して何パーセント一日に病人を休ませていいというのもありまして、それを遥かに違反して懲罰隊に行つたりしておりましたけれども、やはり懲罰隊でも医者として仕事をやつてつたのが常であります。以上であります。
  121. 田邊勇司

    証人(田邊勇司君) 具体的促進運動の意見としまして、先ずソ連の実情を国民全体に浸透させることであります。訴えることであります。曾て何回かに亘つて帰還いたしました日本人が日本新聞ハバロフスクで発行しておりますところの日本新聞を通じて得た知識、或いはソ連政治部将校達より示唆を受け教育された、いわゆる民主主義者なる者から得たところの影響というものをそのまま持ち帰つて、これがソ連の真実だというふうにして国民発表していたようでありますが、接していたようでありますが、帰還の回数が重なり、タス通信発表しましたように、最後信濃丸に乘つておりますところの刑を受けた者、又受けぬ者等によりましては、前に帰還した者以上にソ連の真実が分つている筈であります。それでこれを国民全般発表しまして、そうして霊を尊重するところの真裸な人間となつて、左、右ということを全然構わずに、主義主張には拘泥することなく、国民の輿論というものを整えまして、これを第三国、このうちには三国と申しましても……まあ三国で結構ですが、調査団の使節を出しまして、実際ソ連発表している数字と、それから私達が持つてつた、目で見たところの、耳で知つたところの実情というものの、どれだけ相違があるか、というようなことを是非探究して頂ければよいと存じます。こういうことによりまして、ソ連の申出るところの発表の真実を衝くというような挙に出ることも、これは一策と存じます。
  122. 岡元義人

    委員長岡元義人君) よく分りました。
  123. 武藤喜一郎

    証人武藤喜一郎君) 私共が入ソ以来、最終船を以て帰るまで、約四年八ヶ月、この間に、遺憾ながら内地における情勢は日本新聞を通じて知る以外に何ら方法はありません。但しソ連内における状況は、新聞或いは、当局のいろいろ政治に関する講話その他共産党の文献等によりまして、大体は承知しておつたのでありました。結論として世界の客観的現在の情勢は、どうであるか、又これは如何に落着くものであるか、という一つの世界観というものをソ連当局考えておられるのであります。即ち世界は好むと好まざるとに拘わらず、二つの陣営によつて、対立した陣営によつて進みつつある。こういうように考えておられるようであります。又日本においてもその大きな流れを排除することはできない、この渦の中に今翻弄されているというのが日本の姿ではないかということも、私共はこれを捕虜生活中に感じたのであります。若しもソ連に、現在残つている人が何万いるか、それは別として、如何なる又罪名によつて処断されているか、それは別としてこういうような人を日本に帰すことによつてソ連の理想を実現することができたならば、こちらの要求がなくてもソ連当局はお帰しになると思うのであります。若しも、これが相反する結果になれば、或いはこちらからいろいろ政治的な折衝を行つてもなかなか実現は困難を伴いやしないかというように判断するのであります。それにつきましては、日本の国内に大きな一つのイデオロギーと言いますか、或は政治的と言いますか、この点について統一したる意見がない、言い換えて見ると、ソ連残つている多くの同胞帰還を喜ぶことは、全部八千万人の総意であるというような結果になつた場合と、いやそれは或る一部であつて、大多数の者はこれを欲しない、殊に進歩的な考を持つておる者はこういう人の帰還を欲しないというように若しもソ連当局が判断されたならば、恐らくソ連の考によつてこちらからなんぼ請求しても帰すことは困難でないか。言い換えてみると、国論の統一、国論が二つに分れておる、そういう点につきまして余程私共は考えなければいかないと思います。苟くもこの捕虜の送還において、殊に国論の総意であるかどうかという点、更にこれを希望するのは特殊な方面の人だけである、進歩的の分子は欲しないというように一体なるかどうかという意味におきまして、相当日本におりまする当局の方がお考え下さらなければいかん点じやないかということを申上げます。
  124. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 今の進歩的なという御証言がありましたが、それは共産主義。
  125. 武藤喜一郎

    証人武藤喜一郎君) それは進歩的というような甚だ漠とした何でありますが、いわゆる私共がソ連におきまして聞かされたのは、反動とそれから反動でないという観念ですね。この社会情勢に正しく副うて、歴史の示す、客観的な事実によつて進むべき道に向つて行く者を正しい者であつて、それに逆の作用をする者を反動、こういうふうに言つてつたのであります。
  126. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと証言中ですが、ちよつと分らないのですが、国民が喜ばないというのは進歩的な者は喜ばない……。
  127. 武藤喜一郎

    証人武藤喜一郎君) ソ連では非常に進歩的な考を尚ぶのです。ソ連当局ではですね。進歩的分子とよく言う。
  128. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 日本の場合は。
  129. 武藤喜一郎

    証人武藤喜一郎君) 日本の場合は知りません。日本国民はどうなつておるか知りませんが、ソ連の人は進歩的分子、進歩的分子という言葉をよく使われる。その進歩的分子の人が若しも捕虜帰還を喜んでおるというように考えたならば、ソ連の方はそれを帰すだろう。こういうように考えております。分りませんか、進歩的の意味が。
  130. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 これは今日、今の委員会が求めておりますのは、帰つて来た今日の証人の方が、どうしたならば早く向う残つておる人を帰すのかという原委員証言を求められたことについて訴えられておると思うのですが、誠に証人の多くの人は日本敗戰から今日までの間、例えば国会におきましても、第一国会から第七国会の間において、この帰還促進の決議が衆議院におきましても、参議院におきましても、殆んど毎度行われて、国民の総意となつておるということに対して知つておられないのじやないか、或いは知つておられる点もあるかも知れません。ただその熱度の問題に対してはいろいろありましようし、又証人が進歩的云云ということを言われましても、ソ連の国内と日本の国内とは違いますから、ですから今はただ証人の意見として、証言でなくて意見としてこの委員会としては聞いて置くだけでよいじやないか、こういうふうに私は思うのですが、如何でしようか。
  131. 原虎一

    原虎一君 余りそう詳しく証言を求めるのは無理であると思う。ただ最後に、お帰りになつていますからお聽きしたい。帰られて間がないのでありまして、国内の事情、敗戰後の日本が四年八ヶ月経ちました日本の現状をよく御覧になつていませんし、ソ連においてソ連の報道する世界情勢のみを聞かれた皆さんの方から、帰つて間もなく正確なる判断を私共はお願いしようという意味ではなくして、帰られて直ぐ直観的に感ぜられるところをお聽きするのがよいと思つてお尋ねしたのであつて、そう余り根掘り葉掘りすることは却つて弊害があると思う。ただ私はもう一点そういうことがあつたかないかということだけを伺いたいのは、ソ連地区に抑留されておる同胞の数の問題はいつも違つておるのであります。こういう問題につきまして極東理事会においても、場合によれば赤十字を通じて然るべき方法を講ずるという理事会の議長等の声明がなされたことが度度あるのであります。そういうことが皆様方がラーゲルにおる間耳に入つたことがあるかどうか、そういうことが幾分帰還を促進するようなことに役立つたようなことを漏れ聞いたことでもあるかどうか、その一点だけをお伺いしたいのであります。我々はやはり占領下でありますから、現在の日本におきましてはそういう関係方面からいわゆる世界の輿論を動かすようにして頂いて参つたのでありますが、ソ連内におられた諸君がそういうことが何かによつて耳に入り、それが効果を挙げたようなことを感じたかどうか、この点だけを簡單にお答え願いたいと思います。若しそういうことがなければ別に証言なされなくてもそのままでよろしいのでございますが……。
  132. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 今の原委員の御質問分りましたか……。    〔証人一同「分りました」と答う〕
  133. 岡元義人

    委員長岡元義人君) そういうことを感ぜられたか、そういう以外に何か皆樣が帰つて来られる前に感ぜられたか、それを感ぜられた方は挙手して答えて下さい。
  134. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) 私らが帰る二ヶ月ぐらい前、今年の正月であります。正月の頃に私は六号の留置所におりまして、各地区から来る思想犯人、ブラウダの新聞記者等と片言交りの露語で話しましたが、フインランドの機関紙によりまして、ソ連におけるところの捕虜の数は多数に上り、これを何としても還すことをせず、又強制労働に使つているということがフインランドの機関紙より入つたのであります。そうしてソ連国内のいろいろの細部の話が持上りまして、確かブラウダの新聞だと思いましたが、それにこういうような記事が機関紙にあつたけれども、これは嘘僞りであるということを私は聞いたのであります。
  135. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 外にありませんね。
  136. 小杉イ子

    小杉イ子君 只今魚澤証人から促進方を伺いまして、私共は、我々の運動は促進方法が一番肝腎であるということを考えておりますが、先程番号を調ベるということが出たのでありますが、私更申さなくてもこの特別委員会が番号を調べるということは最も必要なことであると、こう思つて来たのでございますが、それはできておりますか、若しできていないとすれば私はこれは残念なことだと思います。もう一つまだ残留があるとしまして、それに対して寒くないように、過労でないように、その他さまざまの対策をしてくれろということがございましたが、それをいたしましたならば、今日でもう帰還は全部終りというようなことを聞きますのでございますが、それを要求いたしましたとき、これを取上げてくれるでしようか、どうでしようかということでございます。社会保障制度も聞きますけれども、沢山違うことを聞きます。ソ連というところでこれを取上げて貰えればこちらから要求するというわけでございます。
  137. 原虎一

    原虎一君 委員長からよく説明して下さい。
  138. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 小杉委員に申上げますが、今お尋ねになつておられるのは、向うの方でいろいろ医療とか、そういうものをば要求すれば貰えるのかと、こちらからでも何とかそういうようにして貰うように要請をする余地があるかということですか。
  139. 小杉イ子

    小杉イ子君 しても向うが取上げてくれるかどうか。
  140. 岡元義人

    委員長岡元義人君) くれるかね。
  141. 原虎一

    原虎一君 証言外だね。
  142. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと次にお聽きしますが、それは証人の方にいうのではなくして、寧ろこちらの方の国内において処理すベきことじやないでしようか。
  143. 小杉イ子

    小杉イ子君 そうですか、例えばバラックでも寒くないようにしてくれたらどうだろうかというように聞えたのですから、それで取上げてくれるだろうかということで……。
  144. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 後程私からもお聽きしたいと思いますが、大分時間もたちましたから、一点だけ簡單にイエス、ノーでお答え願います。先程原委員からもいろいろ御質問がございましたけれども、皆さん帰つて来られたときに、あのタス通信発表をお聞きになつて……病院に九名しかいない、あとは戰犯者が二千四百六十七名しかいないとこういう発表があつたわけであります。病人は十人どころでない、もつと外におる、まだ外に残つておるものもある、あの発表以上に残つておるというふうにお感じになつたじやないか。自分は知つておるということを思つていらつしやる方は一人々々答えて頂きたいと思いますが、先ず武藤証人から……あれは正しいと思うかどうか……。
  145. 武藤喜一郎

    証人武藤喜一郎君) 数ですか。私は先程申しましたように犯罪のために取調中の者、及び刑執行中の者、これだけから考えましても相当数残つておる。それから病院もホールの病院には相当数の者がおる。第一回、つまり今度の最終梯団の輸送が二つに分れ、病人は一緒に帰りました。二つの梯団の方の病人だけは大体明優丸で帰りました。この人達病院残つておる患者はどのくらいであるか、こう聽きましたところが、まあこれくらいありましようと言つて七、八名くらい言つてつたのであります。その中に或いは刑執行中の者があるかどうかということについては聽きませんでしたが、患者だけの立場から言えば相当数残つておる、こういうふうに考えます。
  146. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次、與儀証人
  147. 與儀宅正

    証人與儀宅正君) 私はマガタンの残留者、又現に私がハバロフスクでナホトカに出発するときに手を振り、この次はお前達だから身体を無理するでないと言つて別れて来ただけでも四百名、それはハバロフスク第六分所、それから二十一分所に集結いたしまして残された者だけでも二百名以上おります。そうして集まつてこちらにも二分所の方がおりますが、総計して千二百名という者は皆握手して、この次はお前達帰るのだから決して無理するのじやないと言つて別れた者だけでもハバロフスクでも千二百名おる。それは皆確実な数と名前を知つております。
  148. 田邊勇司

    証人(田邊勇司君) タス通信発表は信じません。與儀証人が申しましたように、私の知る範囲においてもハバロフスクにおいて千二百余名がおるのであります。
  149. 林壽邦

    証人(林壽邦君) 林証人も全然タスの数を信じません。戰争犯罪人という事項がありますが、私のところの二百三十五の五、このラーゲルにおるところの二名の日本人は何ら戰争犯罪人に該当するような條項はありません。刑も亦少からずあります。こういう方面から推測いたしましても、あの通信は全くのでたらめだと私は申上げても過言ではないと思います。
  150. 魚澤清太郎

    証人魚澤清太郎君) 残つておりますことは確実でありますが、数におきましては的確なることは申上げられません。先程申上げましたように、こちらで確実なる調査をして、それを資料にして交渉しないとなかなかうまくこと行かんのではないかということを先程申上げた次第であります。
  151. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 長い間、皆さんお疲れのところ特に……。
  152. 林壽邦

    証人(林壽邦君) ちよつと発言さして頂きます。
  153. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 特に何か言われることがありますか……簡單に要点だけ……。
  154. 林壽邦

    証人(林壽邦君) 簡單に申上げます。前に岡元委員長に会つて一回お話しておりますが、SSSLの件は是非調べて頂きたいと思います。私はこれを見た、実際見て来た証人もおります。それから私は実際それのあることを聞いて来たものであります。それから実際それを見た人間が私と一緒の本部に、梯団本部におります。これは事実であります。これを一つ調べて頂きます。調べるのでない、これを材料にして向うと交渉するようにした方がよいと思います。
  155. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今林証人もおつしやいました証言のSSSL、その件につきまして一つもう少し詳細に亘らないでもよろしいのでございますから、大要だけ一つ証言願いたい。
  156. 武藤喜一郎

    証人武藤喜一郎君) 先程御質問がありまして、その進歩的なことという用語につきましてはつきりしなかつたというような点でございます。私が申しましたのは私の意見じやなくして、ソ連当局はこういうふうに見解しておるということを申上げたのであります。ソ連当局は、日本の国内においてはまだこの捕虜送還のおいて喜ばない分子がおるだろうというように、ソ連当局はそういうふうに考えている、そういう意味でございます。
  157. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 分りました。よろしうございます。林証人
  158. 林壽邦

    証人(林壽邦君) 丁度これは四十九年の確か暮頃だと思いました。確実な月と日にちは忘れました。或る一人の樺太の地方人が私のラーゲルに参りまして、そうして漏らした一言がこのSSSLの国籍の件であります。CCCとCを三つ書いてあとはPを書くのであります。向う式に読みますとSSSL、こういうふうになります。それで、或いはロシヤのことでありますから、このくらいのやり口はやり兼ねないと考えまして、私は病院を一回調べましたが、病院の方では日本人の国籍、これに関しての書類残つておりません。それで疑問のままただ聞いたということだけで、私はナホトカに集結したのであります。それでナホトカで原田という軍医、この方と会いまして、この方から数名の日本樺太地方人の者の患者名簿からこのSSSLの国籍になつている事実をはつきりと聞きました。それでこの事実を知つておるのは原田潜という石川県の方が非常によく知つておられます。又本人はこのことに関しては、若し外にお役に立つのだつた証人に立つと、私に約束して別れて来ました。こういう事実があります。
  159. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 非常に長い時間いろいろ貴重な御証言を頂きまして、我々委員会として皆様の御証言を基礎にいたしまして、今後の引揚問題の解決に努力したいと思つております。  尚先程いろいろ具体案も出して頂きましたが、参考までに皆様の御心配しておられるという点もありますので、申上げておきますが、特に魚澤証人の御案もありましたし、これはいつでも証人として立つてもいいくらい、私の郷里の鹿兒島県におきましては四千五百名の留守家族と一人々々会つて、本年に入つてからも二回通信しております。それ程に明確に帰つて来られない数ははつきりしていることを御参考までに申上げておきます。  尚本日の御証言中に、自分が間違つてつたということがありまして御訂正するところがありますか。なければ本日の委員会はこれにて閉会いたしたいと思いますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  160. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 本日の委員会はこれにて閉会いたします。    午後四時三十六分散会  出席者は左の通り。    委員長     岡元 義人君    理事            門屋 盛一君    委員            原  虎一君            淺岡 信夫君            水久保甚作君            淺井 一郎君            木内キヤウ君            宇都宮 登君            小杉 イ子君            三好  始君   証人            武藤喜一郎君            與儀 宅正君            田邊 勇司君            林  壽邦君            魚澤清太郎