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1950-04-28 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第21号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十五年四月二十八日(金曜日)    午後零時十四分開会   —————————————   委員の異動 四月二十八日委員中山壽彦君廣瀬與 兵衞君及び鈴木安孝辞任につき、そ の補欠として水久保甚作君池田宇右 衞門君及び草葉隆圓君を議長において 指名した。 同日委員草葉隆圓辞任につき、その 補欠として寺尾豊君を議長において指 名した。   —————————————   本日の会議に付した事件 ○在ソ残留同胞実態調査に関する件  (右件に関し証人証言あり)   —————————————
  2. 岡元義人

    委員長岡元義人君) これから委員会開会いたします。本日は本月二十二日信濃丸が舞鶴に入港いたしますときを同じくして、ソ連タス通信ソ連地区抑留者輸送完了を発表したのでありますが、このタス通信の発表は非常に留守家族は勿論のこと、全国民に対しましても大きな衝撃を與えたのでありまして、我々委員会におきましては、三年間に亘りまして鋭意ソ連地区抑留者実態調査を続けて参つておりますが、この機会に明優丸信濃丸等帰還者方々から、尚ソ連地区に残されておりますところの残留者状況並びに日本までにいろいろ起りましたところの帰還遷延理由等に対しまして、本日皆樣いろいろ御多用の点があつたかと思いますが、ここに出席を求めまして、本委員会の資料として皆さん証言を承わることにいたした次第であります。何とぞ委員会の意のあるところをば御了承願いまして、各委員等の御質問に答えて頂きたいと思うのであります。
  3. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 昨日衆議院考査委員会に私終日傍聽をいたしておつたのでありますが、その考査委員会におきましての証人共産党書記長徳田球一君の証言に対して、去る三月十六日当委員会において、徳田書記長証人として喚問いたしました際の証言と、昨日の考査委員会における証言とに食違いがあるのであります。この点に関して一、二当委員会におきましての証言の箇所を申上げますと、三月十六日特別委員会速記録第十五号のその中に、宣誓した後委員長証言を求めたのに対して
  4. 徳田球一

    証人徳田球一君) これは事務局から出したのですから私は知ません。私は書記長でこの事務局のことは知らん。もつと大きいことならば知つておる。  こういうふうに、昨年四月二日日本共産党中央委員会事務局から出つれたるところの、この指令三百四十七号を出したところの事務局はないということが昨年衆議院考査委員会において何度も、数回に亘つて強く強調されておるのであります。更に去る十六日の委員会におきまして、本委員
  5. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 先程徳田証人事務局のやつたことであるからそうした小さなことは……、自分は大きなことだけをやつている、そこで私は証人にお尋ねしたい。この日本共産党中央委員会事務局から各府県地区委員会宛に出された通牒、これを事務局がやつているから知らんという。で書記長として知る知らんは別問題といたしまして、これに対する責任をおとりになられるかどうかということを尋ねしたい。
  6. 徳田球一

    証人徳田球一君) それは政治的な責任はあります。政治的な責任はありますけれども、この事実に関して、ああの、こうのと答えることは、私がやつていない以上これを私は答弁することはできません。更に私は……速記をそのまま読んで見ます。
  7. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 然らばその中に我々は二十数万と予想されると、その新帰還者を敵の謀略に……、一体敵という言葉はどういう意味でありましようか、誠にこれは、考えようによつて共産党以外の者は皆敵とも言える。そういう考え方を証人からお尋ねしたい。
  8. 徳田球一

    証人徳田球一君) それは事務局がどういうつもりで書いたかは、事務局に聽きなさい。私は政治的責任を負います。これが政治問題になるならば、私は政治的責任を負う。これがその三であります。更にその四は、
  9. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 草葉委員から証言を求められております。徳田証人
  10. 徳田球一

    証人徳田球一君) 大体あなたは事務局であれしたと言うけれども、私は事務局であれを出したということは私は見ていません。覚えてもおりませんから……併しこんなことがあつて向うでどうだということがあるから、大体お前やつたろう、云々と、こう言われておりのであります。更にその後におきまして
  11. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 午前中の証言中に五月五日に云々とありましてこの航空郵便につきましては、はつきりこういう方法で送られたということがお分りでございますか。
  12. 徳田球一

    証人徳田球一君) 分つております。それは山田という飜訳係が党におります。彼が送つたということを私は事務局から通知を受けております。お調ベにやりたければこの飜訳係に勤めております山田君をお調べになつてちよつとも差支えありません。更にその五は
  13. 草葉隆圓

    草葉隆圓君 私の申上げたのが不十分であつたから明瞭を欠くと……それで結局この書状というものが、又これに類するものが取扱われる場合の共産党事務局、或いは書記局の機構はどういうふうな系統で、あなたのところに命令系統が来るか、こういうことを伺いたい。
  14. 山田敦

    証人山田敦君) 再三私が申上げる通り、私が命令を受けたのは書記局から受けたのです。書記局には書記局の又事務局があります。ですからもつと手繰つて言えば、書記局を通じた、事務局を通じて私のところに来たのです。私は事務局一員でもありませんし、勿論書記局一員でもありません。又その書記局の実際上の細々した事務を遂行する事務局一員でもありません。ということを言つておるのでありまするが、参議院のこの十六日の特別委員会におきましては、こういうふうに共産党書記長徳田球一証人はつきりと事務局があるということを証言しておる。然るに昨日の考査委員会におきましての前田球一証人証言によりますると、共産党には事務局はないんだ、そういうことを幾度か言われておるのであります。そこでこの当委員会といたしましては、考査委員会におけるところの証言が事実であるといたしまするならば、当委員会におけるところの徳田証人証言というものは、これは僞証でなければならない、こういうふうに断定せざるを得ないのであります。そこで当委員会といたしましては、これは議院に於ける証人宣誓及び証言等に関する法律、この第八條に、「各議院若くは委員会又は両議院合同審査会は、証人が前二條の罪を犯したものと認めたときは、告発しなければならない。」ということになつておるのであります。そこで当委員会といたしましては、来月の二日においてこの委員会は消滅する。然らばこうした問題に対しては告発しなければならないということになつておるのでありますから、当委員会としては急遽衆議院考査委員会におけるところの徳田書記長証言は、衆議院考査委員会におけるところの証言僞証であるか、或いは参議院特別委員会におけるところの証言僞証であるか、これを急遽調査し、その上で若しもそれが事実であるといたしまするならば告発の手続をとらなければならないということになるのではないかと思います。そこで当委員会といたしましては、この問題に対して御審議を願いたいと思います。更に菅通訳の問題に対しても、当委員会において徳田証人が言われたところの、菅が答えているではないか、証言をしておる、証言をしておりながら、はつきりと菅が答えているということを言つて、知つておると言つていながら、昨日の衆議院考査委員会においては、菅の証言を全面的に知らぬと言つております。こうした面につきましても、当委員会としては愼重調査して、そうして遺憾なき処置をとつて頂きたいということを更に私は申上げるのであります。
  15. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今淺岡委員から御発言がございましたが、この証言食違いにつきましては、只今昨日の考査委員会のその指摘されました部分速記をば速急にお願いいたしまして、照合した上、今の淺岡委員発言通り食違いがあります点につきましては、委員会といたしまして僞証として手続きをとることに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  16. 千田正

    千田正君 本日の議題として提出されているのは、在ソ残留同胞実態調査只今突如として徳田要請の問題が絡んで、只今衆議院考査委員会参議院との食違いが生じて来たので、淺岡委員から緊急質問されておりますが、先ず第一にこの緊急質問を許すかどうかということと、今日の実態調査に対して、直ちにこの委員会が公報の言う通りにこれの調査に入るかどうかということを先ず諮つて頂きたいと思う。
  17. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今千田委員の御発言御尤もでございまして、会期が非常に切迫いたしております。尚、各委員方々出席等も非常に困難と考えられます際でございますので、只今淺岡委員から特に先程のような御発言があつた考えられるのでありますが、この点只今淺岡委員の御発言を一応取上げることにいたしますか、お諮りいたしたいと思いますが……
  18. 北條秀一

    北條秀一君 私はあとで来まして、淺岡議員発言だけでは全部分らないのですが、纏めて言いますと、どういうことでしようか、簡單に一つ……
  19. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 実は去る三月十六日に当委員会におけるところの徳田球一証人のその証言には、日本共産党中央委員会事務局に聞けとか、或いは事務局のやつたことであるならば政治責任を負うということを言われておつたのであります。然るに昨日の衆議院考査委員会におきましては、共産党には事務局はないのだ、だから事務局がないから従つて政治責任をとれぬじやないかということなのであります。
  20. 北條秀一

    北條秀一君 それが僞証の点ですか。
  21. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうです。それでその点につきまして、参議院特別委員会には、先程私一、二、三、四、五と読みましたが、その中に事務局ということをはつきり言つている。
  22. 北條秀一

    北條秀一君 私は先程千田委員発言されましたように、今日は証人を喚問している際ですから、今緊急の淺岡委員発言はまだ若干皆さんにもよく呑み込めていないと思います。私自身としても呑み込めない。ですからこれを後廻しにして、そう一時間、二時間を争うものでないと思いますから、あとにして、先に折角証人を呼んでるのですから、証人から証言を聞くということを先にやつて頂いた方がいいと思います。従つて私は千田委員あとの方の御提案に賛成いたします。
  23. 千田正

    千田正君 そこで私は只今証人出席しておりますので、ここで宣誓を願いまして、本日の議題を先ず第一に取上げて、若干の休憩時間か何かに皆さんでお諮り願つて、そうして淺岡委員提案につきましては、尚愼重を期して御相談願いたいと思います。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  24. 小杉イ子

    小杉イ子君 証人のお方には誠に恐れ入りますけれども、すべての委員会は特例がございまして、緊急質問とか緊急動議がよく許されておるのでございますから、日にちに切迫いたしておりますし、委員のお集まりも惡いし、殆んど見込みのない程の出席率でございますから、それでかれこれ論議いたしますと、却つて時間をとりますから、ここで淺岡委員のお考えのようにこれを許されんことを私は賛成いたします。
  25. 原虎一

    原虎一君 淺岡委員から提案されておりますことは、本委員会の、参議院権威におきましても必要なことでありますが、そういう問題を突如と出されましても、殊に多くの、而も外地から疲れて帰られた諸君証人を前に置いて、こういう問題をやられるということは、出される方は簡單なように思われますけれども、それを議題にして議論するということになりますと、相当時間を要する重要な問題でありますだけに、或いはこの委員会理事諸君と打合せでもされて、そうして出されるのが本当だと思う。併しながら不問に付するという意味でございません。参議院及び委員会における権威といたしましても、なさるべきものでありますが、その調査はまだ委員長の手において調査もされていないような状態で、突如と出されましても議論の対象になりまして時間を費しますから、理事会で一応御相談、御協議を願うということに御決定になつて、直ちに証人証言に移るようにお諮り願いたいと思います。(「異議なし」と呼ぶ者あり)
  26. 池田宇右衞門

    池田宇右衞門君 只今千田委員原委員委員から申されましたごとく、本日は折角証人を各自忙がしいところを都合して御出席下さつておるのですから、先ず以てこの問題に入る、併しながら淺岡委員提案は本委員会といたしましては非常に重視を要する問題で、提案した以上採決し、理事会の問題に移すということにして議事の進行上、証人証言を求める方法をおとり下さるように進行上申上げます。
  27. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今委員から御発言がございましたが、一応証人宣誓を求めまして、時間も非常に経過いたしておりますので、その宣誓が終りました後、一応休憩にいたしたいが、そのように取計らつてよろしうございますか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  28. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚その際休憩に入りましたならば、今の淺岡委員の問題につきまして、十分程懇談をいたしたいと思いますので、御了承願いたいと思います。  先ず宣誓を求めますが、その前に証人簡單に御注意を申上げて置きたいと思います。これから宣誓を行なつて証言して頂くのでありますが、若し虚僞証言を陳述したときは、議院における証人宣誓及び証言等に関する法律第六條によりまして、三ケ月以上十年以下の懲役に処する罰則があり、又正当の理由なく宣誓若しくは証言を拒んだときは、同法第七條によりまして、一年以下の禁錮又は一万円以下の罰金に処せられることになつておりますから、この点御注意申上げて置きます。但し民事訴訟法第二百八十條(第三号の場合を除く。)及び二百八十一條(第一項第一号及び第三号の場合を除く。)の規定に該当する場合に限り、宣誓又は証言若しくは書類の提出を拒むことができます。これも併せて御注意申上げて置きます。念のために先ず民事訴訟法第二百八十條の該当部分を朗読いたします。  第二百八十條 証言カ証人ハ左ニ掲クル者ノ刑事上ノ訴追又ハ処罰招ク虞アル事項ニ関スルトキハ証人ハ証言拒ムコトヲ得証言カ此等ノ者ノ恥辱ニ帰スヘキ事項ニ関スルトキ亦同シ  一、証人配偶者、四親等内ノ血族若ハ三親等内ノ姻族又ハ証人ト此等親族関係アリタル者  二、証人ノ後見人又ハ証人ノ後見ヲ受クル者  次に、民事訴訟法二百八十一條該当部分を朗読いたします。  第二百八十一條左ノ場合ニ於テハ証人ハ証言拒ムコトヲ得  二、医師歯科医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁理士弁護人公証人、宗教又ハ祷祀ノ職ニル者ハ此等職ニリタル者カ職務知リタル事実ニシテ默祕スヘキモノニ付訊問受クルトキ  前項ノ規定ハ証人カ默祕ノ義務ヲ免セラレタル場合ニハ之ヲ適用セス  以上であります。  尚、本日の運営に当りましては、一応従来の証人喚問に倣つていたしたいと思いますが、各位御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  29. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは証人宣誓を求めます。起立を求めます。傍聽の方も御起立を願います。    〔総員起立証人は次のように宣誓を行なつた〕    宣 誓 書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 湧澤 忠雄    宣 誓 書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 杉本 康彦    宣 誓 書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 美馬 敏男    宣 誓 書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 宮地 亮一    宣 誓 書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 松原  茂    宣 誓 書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 池田 正人    宣 誓 書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 兒玉政一郎    宣 誓 書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 池谷半二郎    宣 誓 書   良心誓つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 秋葉 重徳
  30. 北條秀一

    北條秀一君 今の証言ちよつと違つたところがあります。「良心従つて」というのを、「良心誓つて」と言つているところがある。
  31. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 秋葉重徳君、只今宣誓の中で、多少違つたところがあるそうでありますから、もう一同お願いいたします。    宣 誓 書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 秋葉 重徳    宣 誓 書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 日下 敬助
  32. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 御着席願います。尚、証人の方に申上げて置きますが、委員長か、各委員から質問いたします場合には、必ず委員長と、先ずお呼び下さつて発言を求められてから御発言をして頂くようにお願いいたします。先ず必ず委員長と先に呼んで頂きまして、そうしてこちらから指名をいたしますから、指名されてから証言をして頂きたいと思います。午後一時半まで休憩いたします。    午後零時四十分休憩    ——————————    午後二時十一分開会
  33. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) それではこれから委員会開会いたします。各委員に申上げますが、委員長から概括的な質問をして証言を求めまして、それに対しまして各委員からの御質疑をお願いいたしたいと思います。  宮地亮一証人証人は二十年の八月鄭家屯終戰を迎えられ、それから二十年の十一月の十六日に新京で逮捕された、さうした点からですね、成るたけ簡明に御証言を頂きたいと思います。
  34. 北條秀一

    北條秀一君 証言する点は如何なる点を証言するんですか。
  35. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 終戰を迎えたときの状況、並びに新京で逮捕されたときの状況、この二点を御証言願いたいと思います。
  36. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言します。自分終戰知つたのは二十年の八月の十七日、興安総署東科後旗の旗公署においてこれを特務機関の無電によつて傍受して知りました。それで我々は当時現地の最高部隊長であつたところの元興安特務機関長金川大佐の指揮によつて通遼地区及びその附近の旗公署、そういつたところの日本人官吏、満洲国官吏、それから在留同胞、これが一団となつて法律門に向つて出発し、法庫門においてソ軍が後方より追付き、ここにて武装解除を受けました。
  37. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) ちよつと宮地証人にお尋ねいたしますが、宮地証人の年齢、前職、住所等を御証言願いたいと思います。
  38. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言します。生年は大正七年三月二十九日、満三十二歳。
  39. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 前職は。
  40. 宮地亮一

  41. 淺岡信夫

  42. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 現住所、岐阜県惠那郡中津町中村。
  43. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 宮地証人にその新宮での逮捕状況をお尋ねいたします。それから前職の蒙軍関係或いは警察官としてでもよろしうございますが、そうした点についての証言をお願いいたします。
  44. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言します。新京における逮捕状況自分達法庫門武装解除を受けてから鉄嶺に護送されました。鉄嶺において関東軍の予備倉庫に抑留されました。併いながら我々は軍人、軍属ではない、そのためにそこで一般地方人として解放されました。そして日本人の学校に我々はその他の在留邦人と一緒に生活しておりましたが、自分家族が九月になつてから新京にコハンノーの方から引揚げて来るという報がありましたから、自今は家族に会うため新京に行き、家族と共に生活をし、且つ我々と同じ役所におつた者が、主人がすでに抑留されていなくなつた者が尚多数家族おりました。自分の知つている範囲内の家族を集めて新京において生活をしておりました。皆生活力のない婦女子ばかりです。約二ヶ月この生活が続きました。その途中で自分達に対して指名逮捕されたのであります。
  45. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) それで前職と蒙軍関係につきまして……
  46. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 蒙軍というのは何でありますか。
  47. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 蒙古軍です。
  48. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 満州国には蒙古軍というのはありません。
  49. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) そうすると、蒙古軍はないわけですか。
  50. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) そうです。
  51. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) それではカラカンダの十九分所おいでなつたと思いますが、そのおいでなつ月日、或いは転入の御状況を御証言願いたいと思います。
  52. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言します。カラカンダ転属になつたの昭和二十三年の九月中旬と思います。はつきりと月日は覚えておりませんが、九月の中旬です。そしてこの十九分所から第二分所転属したのは翌二十四年の四月の二十八日と覚えております。
  53. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) その後あなたの知れる範囲におきましての第九分所における状況等について詳細な御証言を願いたいと思います。
  54. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言します。委員長は先程十九分所と言われ、今又九分所と言われましたが、どちらの分所でありますか。
  55. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 九分所です。
  56. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) それでは先程自分言つたのは第十九分所のことであります。
  57. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 証人にお尋ねしますが、第十九分所にはどのくらいの年月お出でになつたのですか。
  58. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 今自分が申上げました通りの年月日であります。
  59. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) そうしましたら、この九分所におきましては、どのくらいの年月おいでになつたのですか。
  60. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 三ケ月であります。
  61. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 私の方で宮地証人言つてから発言して頂きたい。
  62. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 分りました。
  63. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) その第九分所におきましての三月間の状況を詳細に御証言を願いたいと思います。
  64. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言します。自分が第九分所転属したのは、昭和二十四年の九月中旬であります。そしてこれはカラカンダにおけるところの地区講習会講習生として参加したのであります。そして三ケ月間講習生として十二月の二十六、七日と思います。講習がそれで終つたのでありますが、転属命令がなくて、そのまま同分所で作業をやつておりました。その間講習生としてそこにおりました。
  65. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 証人にお尋ねいたしますが、証人は第九カラカンダ分所におきまして、菅季治君の政治講習を受けたことがありますかどうか。若し受けたことがあるといたしますれば、そうした状況につきまして、知れる範囲の御証言を願いたい。
  66. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言します。菅講師自分達が行きましたときに主任講師として着任しておりました。そして我々に対して共産党宣言、それから日本事情そのうちの序論序論と言いますのは、いわゆる近代資本主義国家としての日本の成立、この過程についての講義、この二つを受けました。
  67. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 証人にお尋ねいたしますが、証人はそうした講義を受けまして、どういうふうにお感じになりましたか。
  68. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 質問します。このことは自分に電報で以て與えられたところの在ソ同胞引揚問題に関することとどういう関係がありますか。
  69. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 直接の関係があるないは別問題といたしまして、あなたがそれを受けられたときの心境ですね、或いは状況を、簡單でよろしうございますから御証言を願います。
  70. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) その講義について自分は正しいと思つて聞きました。
  71. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) そこで宮地証人にお尋ねいたしますが、それまでの正しいと思われる前のあなたの気持はどういうふうでありましたか。
  72. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言します。自分は少し長くなりますが、満洲事変、そして支那事変、そして大東亞戰争、このような日本の帝国主義戰争の荒れ狂う中に、反動的な軍国主義的教育を受けておりました。そして自分は正しいと思つて一身を投げ捨てて働きました。併しながらこれはすべてが欺瞞的なものであり、我々は欺されて、そのために我々日本人のみならず、世界のあらゆる人民に向つて罪惡をなして来たということを悟りました。我々が如何にして行かなければならないかということをその時に悟りました。
  73. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 証人にお尋ねいたしますが、ハバロフスクの第二分所、時期は二十五年の四月五日頃と思いますが、その第二分所におきましての徳田要請に対しましての、つまりいわゆる徳田要請ということを委員会言つておりますが、そういう徳田要請に対しての揉消策、そういうような点について知れる範囲を……或いはあなたがお感じになつている点を御証言願いたいと思います。
  74. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言します。ハバロフスクの第二分所という分所自分は知りません。
  75. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) そうしますと、証人は二十五年の四月五日頃はどこの分所おいでになられましたか。
  76. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) ハバロフスクの十六地区の第五分所であります。
  77. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) そうしますと、ハバロフスクの十六地区の第二分所におきましてのいわゆる徳田要請というような件に対しまして、揉消策と申しましようか、そういうふうなことがあつたかなかつたか、あつたといたしますならば、そういう点につきまして知れる範囲を御証言願いたいと思います。
  78. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 今委員長は第二分所と言われましたが、自分は先程も申上げました通り二分所にはおりません。だから知りません。
  79. 北條秀一

    北條秀一君 十六地区の第五分所でしよう。
  80. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) ハバロフスク十六地区の第二分所における、先程申しましたような徳田要請云々の件につきまして知れる範囲を御証言願いたいと思います。
  81. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言いたします。自分達がこのいわゆるこちらで言つているところの徳田要請問題を聞いたのは三月の下旬と思いますが、日にちははつきりしておりません。これを一時テフォチヤンズベスダー、つまり太平洋の星と、イズヴエスチュアのどちらかの新聞と思いますが……
  82. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) ちよつと証人にもう一遍その新聞の名前を……ハバロフスクですか。
  83. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) テフォチヤンズベスダーとイズヴェスチュアとそのいずれか自分は覚えておりませんが、指導部の方からこれが発表されました。そうして我々はこれに対して我々が過去においてそういつた要請については全然関知しない。又我々の運動の過程において、或いは反動視された人達も我々より先に帰つておる。そういつた見地から、このようなことは正しくないということに対してのカンパを持つたのであります。そうしてこのためにプロパガンダが行われた。プロパガンダが行われたときに、自分がこの記事の内容の発表をしたのでございますが、自分が発表をするときにカラカンダ九分所において自分に対して質問が出た。自分達カラカンダにおいてこのように政治部将校が言つて、今度問題になつたところの徳田要請問題が発表になつたということを聞いておるのであります。その結果自分としてはかようなことを聞いたことはないし、併しながら現実にかような問題が提起された以上、我々は事実として取上げなければならない。このような見地から自分は指導部に報告し、指導部から政治部将校並びに所長が立会つたのでありまして、その話しを聞くことになつたのであります。何とならば、自分達はこのような徳田要請の問題が起つた場所におつたわけではありません。而も自分も直接聞いておりませんから、自分の口から言うことはできません。その当時は、委員長も同様であろう、……政治部将校並びに所長に対し質問したのであります。所長の方からは、次のような説明がありました。これはその質問した泉田という人間に対して個人ベッセイダの形を以て回答があつたのであります。
  84. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) ちよつと証人に申上げますが、証人は早口のようですが、もう少しゆつくりして下さい。
  85. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) そうでありますか、ではゆつくり話します。そこでそのために所長並びに政治部将校、このようなソ側の将校からして、かようなことをお前達が聞いたかも知れない、併しそれは事実であるかも知れないが、事実ではない。何となればお前達が知つておる通り、すでに反動と言われた人達も運動過程において何も差支えなく帰つておるではないか、このような説明がありました。でこの問題について疑義を持つたのカラカンダ九分所から来たものだけであります。その他の地区から来たものは全然このようなことは聞かなかつたし、又このようなことはなかつた。我々の分所においては若干日にちを置いてから、この問題についての抗議カンパが行われました。これが三月の下旬であります。自分達分所において行われた徳田要請問題に対する抗議カンパ、これは以上の通りでありました。終ります。
  86. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 更に証人にお尋ねいたしますが、この宮地とか、或いは大久保とか、明優丸で帰つて来た副梯団長とか、そう言つた方々の命を受けて行なつたとか、行わなかつたとか、そういうようなことがありましたかどうか。
  87. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 只今委員長質問自分には十分聞き取れませんでした。もう一度繰返してお願いいたします。
  88. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 証人がどなたかの命を受けて何かを行なつたとか、或いは何かをなされたとか、或いは強要されたとか、そういうようなことはありましたか。あればその事実を御証言願います。
  89. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言します。我我は民主運動の面においては、政府側から指導は受けましたけれども、これをやれ、あれをやれという命令は少しも受けておりません。併し作業の面においては命令は受けます。作業の面と運動の面とは別であります。民主運動は我々の自主的のものであります。
  90. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 更に証人にお尋ねいたしますが、証人は先程菅季治君からいろいろと政治講習を受けたということを証言なさつたのでありまするが、この菅季治君の性格、そうした点につきまして知れる範団を御証言願います。
  91. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 菅講師は約二十日程しか自分達は接しておりませんし、自分達が受けた感じは若干冷いという感じは持ちました。併しながら学者肌で、哲学者肌で繊細なデリケートな感じを持つた非常に鋭利な頭を持つておりました。優れた頭を持つていたと思います。それは我々の受けた講義のなかにおいて、その講義の組立て方、内容において自分でそのような感じを受けました。
  92. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 更に証人にお尋ねいたしますが、今回あなたはお帰りになる前に、ナホトカで吊上げを受けたとか、カラカンダの指導者として、その能力があつたとかないとか、まあいろいろあつたろうと思うのですが、そうした点について知れる範囲を御証言願いたい。
  93. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言します。ナホトカにおける自分に対する批判会、これは吊上げではなくて、批判会であります。そもそも吊上げというのは、これは徹底的に本当に敵を向うに廻して叩き落すということであります。批判会は味方としてこれを更に発展向上する。それが批判会であります。自分は批判会を受けたのであります。それはカラカンダにある九十九地区におけるところの運動が極めて遅れておつた。そけがために我々の運動が、我々の一緒に帰つたもののうちには極めて反ソ的なものもあり、又正しいことを正しく伝えない。そのようなものがおる。このようなことはすべてカラカンダにおけるところの民主運動の指導者の責任である。自分カラカンダにおいて最後の第十五分所委員長をやつておりました。それは僅か半月に過ぎなかつた。併しながらその半月間と雖も、少くとも現在他の指導者がいない以上、お前がその責任を負うのは当然である。皆問題は結果において論じます。結果においてこうなつたことは、即ちお前がそのような方向に持つてつたことにある。そのようなことで批判を受けたのであります。
  94. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 委員長といたしましては、大体質問の要旨は大要こういうふうでありますが、各委員におかれまして、御質問或いは御証言を求める点がありましたら、委員各位の御発言を頂きたいと思います。
  95. 北條秀一

    北條秀一君 次の証人証言を求めたらどうです。あとで全部聞いた方がいい。一人々々お聞きになるのは、大体十人もおられますから、どのくらい時間が経つか、到底十人済まないと思うのです。今の速度では……、だからあとで纏めてやつた方がいいと思うのです。
  96. 岡元義人

    岡元義人君 今の北條委員の案も尤もなんです。昨日いろいろ打合せをしたのでは、今度の証人は要点だけ、一つの問題だけおば重点にして質問するように企画された。だから総合的ということになりますと、その場その場のものがとれなくなるということが考えられますから、全般的な質問でなく、一人一人の証人が特質ある証人として選んだということを考えて、できたらその場その場で適当に打切つて、そして次に進む。そして一番最後に総括的に足らなかつたところをする。こういう工合に運営されたらどうかと思います。
  97. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 速記を止めて……    〔速記中止〕
  98. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) それでは速記を付けて下さい。
  99. 北條秀一

    北條秀一君 宮地証人にお伺いしますが、先程本年の三月下旬に、あなたの收容所において、徳田要請問題においてカンパを行われたということを言つておられましたが、そのカンパの内容についてもう少し詳しく話して貰えませんか。
  100. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 只今の北條委員発言に対して自分は答えます。このカンパは三月下旬に行われました。それでこれは当時の委員長であつた同志大久保の一般報告、これに続くところの約五、六名の同志によるところの意見発表、決議採択、このような形で行われました。
  101. 北條秀一

    北條秀一君 もう一つ、事実と真実とが違う、事実と真実とは違うのだというお話でありましたが、徳田要請というものは、そういう言葉では的確ではありませんが、まあ大体宮地さんも御承知だと思いますから、敢てその内容については言いませんが、ソ連の政治部将校がそういう事実があつたかも知れない。併しながらそれは真実でないと否定をされたということは、少くとも民主主義者でなければ、即ちよく準備された民主主義でなければ、民主主義者として帰ることを期待するという徳田球一氏の手紙なり、或いは葉書なり、そういうものが現実に伝達されたということについては、あなたはそれを事実であるということを認められますか。
  102. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) もう一度。
  103. 北條秀一

    北條秀一君 先程政治部将校が事実であるかも知れないけれども、それは事実でないということを言つたというふうに、あなたは言われましたね。ですからそれを聞いておりましてですね、いわゆる徳田要請、即ちソ連から帰つて来る人達は、よく準備された民主主義者であるということを希望すると、こういうことをこちらから徳田球一氏が捕虜通信に寄せて、葉書に書いたというふうに私共は考えておるのでありますが、そういう葉書は実際にあなたの收容所に届いたかどうか、あなたはそういう葉書を見たかということなんです。
  104. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言します。自分は同志徳田球一のそのような手紙を自分が現実に見たことはありません。併しながらその外の各地の党委員会、地区委員会、県委員会、そのようなところから寄せられた手紙の中には、シベリアにおけるところの、我々はよき真の民主主義者として帰られることを私達は希望するということは書かれてありました。併し同志徳田書記長が実際書いた手紙を自分が見たことはありません。
  105. 北條秀一

    北條秀一君 少しあれになりますが、事実であるかも知れないけれども、それは真実ではないということは今お話のようにですね、よく準備された民主主義者として帰ることを期待するという手紙が行つたことは真実なんですね。けれども、その真実は真実でないという意味は、どういう意味にあなたは解釈されておりましようか。
  106. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言します。自分達分所で問題になつたのは、徳田書記長から日本共産党の名を以てソ同盟政府に対して反動は帰して呉れるな、反動は帰つて来ないようにと要請したと、このようなふうに自分達は聞いたということを泉田は言つたのであります。それに対してそのようなことは真実でないと……
  107. 北條秀一

    北條秀一君 あなたは最後にお立ちになるときに、あと日本人が相当残つておるんではないかというふうに私は考えるのですが、残つておる日本人についてあなたが若し知つておることがありましたならば、その点を知らしら貰いたい。
  108. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言します。自分達カラカンダから本年の二月中旬に出発しましたそのときに、カラカンダの第十五分所におつたところの捕虜及び抑留者及び当時すでに受刑、いわゆる判決を受けておつた日本人軍人捕虜及び抑留者約百名、合計九百名参りました。自分達が知つておる範囲内では歩行困難或いは、貨車輸送できないところの残された約七名の日本人の外は全部ハバロフスクに来たということを自分は聞いております。
  109. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 私は本会議で法案の説明をしなければなりませんので、委員長と交替いたします。    〔理事淺岡信夫君退席、委員長著席〕
  110. 北條秀一

    北條秀一君 ソ連の刑法によつて二十年なり、十五年なり受刑された人が今回帰つているのですが、この点についてソ連の政治部将校等から何らかの説明があつたでしようか。
  111. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 自分達はそのような説明は聞きません。ただ自分達カラカンダからハバロフスクに転送される際、その際において百名の受刑者の人達が自分達分所に入つて参りました。そのときは出発するまで全然隔離されておりましたので、口をきくことはできませんでした。自分は所長に聞きました。この人達はどうなるのか、すると、お前達と一緒だ、全部帰るのだ。このようなことを言われました。それだけであります。
  112. 北條秀一

    北條秀一君 その人達は最も規律の嚴格なソ同盟の刑法によつて受刑されたわけですから、当然減刑されて帰るとか、或いはそういうふうな事情があるのだろうと私共は考えるのですが、どうも私としては二十年の刑を受けた人が四年目ぐらいで、何ら理由なしに帰つたということは理解できないのですが、あなたは一緒に帰つた人からそのことについて事情を聞いたことはありませんか。
  113. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 自分はそのような人達と一緒になる機会もなく、又舞鶴に上りましてから、日の丸梯団の人達も一緒でありまして、その中に受刑者の人達が二百名いるということを聞きました。併し舞鶴におきましては、私共は拘禁されておりましたから、そのような人達に会うことはできず、そんなことは聞いておりません。
  114. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと宮地証人に……。それから各証人の方にも申上げて置きますが、こちらから質問が出ましたら、お考えが纒まつたときに委員長言つて発言を求めて頂かないと、こちらから言いませんから、どうぞ御了承願いたいと思います。  では宮地証人に一、二簡單に……。すでに答えたことは答えだと言つて下さい。反動分子が帰還を遷延せられたことに対して、反ファシスト委員会にその取捨選択の権限があつたかどうか、いわゆるソ連側の命令、その点御証言願いたい。
  115. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 自分達が一九四七年二月一日に反ファシスト委員会の選挙を行なつた際において、ソ側から提出された委員会の権限の中には、帰国順位の決定に関する意見具申の権限を與えられておりました。このように自分は記憶しております。
  116. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それからあなたは明優丸でお帰りになつたが、信濃丸で泉田明が帰ると思つておりましたか、どう考えておりましたか。
  117. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 帰ると思いました。
  118. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 帰つて来なかつたのですが、この点どうお考えになりますか。
  119. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) これはその後ラジオによつてソ側から戰犯容疑者並びに中華人民共和国に対する戰争犯罪人の引渡し約九百名という発表がありました。で泉田が在満当時どのような行動をとつて来たか自分は知りませんが、その行動によつて決定されたものと思います。前歴について……
  120. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次は日下証人にお尋ねいたします。日下証人にお尋ねしたいのは、ハバロフスク地区に、あなたの知つておられる範囲におきまして、いわゆる関東軍罪状暴露署名運動というものが行われたということを我々委員会でも聞いておるのですが、これがどのように行われたか。そうしてそれは一体誰がやらしたのか、その点をできるだけ要約いたしまして御証言を求めます。
  121. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 只今委員長から、関東軍罪状暴露署名運動という言葉で言われましたが、署名運動じやありません。関東軍罪惡暴露史の編輯であります。それは私は四十八年にチタからハバロフスクに参りました。ハバロフスクの十八分所にいたことがあります。いた期間は九月三日から翌年の一月四日まで、四十九年一月四日に私は送還されました。それまでハバロフスクの十八分所におりました。その際の委員長は倉田、その倉田さんから各アクティヴに、アクティヴから各人に対して、前職としての関東軍の罪惡を暴露し、それを一冊の暴露史に編纂するというので、十八分所の各人に、持つておる罪惡を暴露するという名の下に一枚の紙が渡されて書きました。暴露史の編輯は当時の十六地区の本部、ビューローとか何とかいう名前でありました。そのビューローから特別に人が来まして、十八分所委員会の方に泊つておりました。その人と十八分所から委員が出て、それで編纂したのであります。
  122. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚、今の暴露史につきまして、それによつて署名提出した者等が、そういうことを今ビューローという言葉を使われましたが、もう少しそこのところをどういうふうな関係の人達がこれに署名させたか、そうして署名された者はどういう結果になつたかというところまで証言しで頂きたいと思います。
  123. 日下敬助

    証人(日下敬助君) その具体的な内容につきましては、先ず会の始まる前に、日本新聞紙上に関東軍の罪惡を暴露せよという大きな見出しの下に、関東軍は如何なる機構を持ち、如何なる攻撃準備をしていたかということが書き出されました。そうして各人には関東軍がそれは行動に出る出ないにせよ、攻撃準備としてやる、ソ連に対する攻撃を準備しておつた。その下において、あらゆる行動が全部罪惡に匹敵するというテーマで各人に徹底されておつた従つてその前に前職者の吊上げカンパということが各分所を通じて行われたのであります。十八分所におきましても、その吊上げがありました。例えば特務機関と名が付いた場合には、たとえ情報を書いた者及びそれを書いた者から機関長の下に運んだ者、單に伝令の役目に当つた者まで攻撃準備である、或いは情報蒐集行為である、或いは諜報行為であるという工合にみなされた。それから機関長の当番、そういうものも機関長に対してそれだけの支持をしたいというような名の下にこれも罪惡、及び機関長の食事を作つたという、これも機関長に対してそれだけの罪惡をさせる援助を與えたという名の下に、これも罪惡、卑近な例は厩当番、それも罪惡、それから警察官で国境にいて、上におる飛行機を見て、飛行機が飛んでていますよと言つたことも、これも罪惡、ラジオ、電信士、これもソ連に対する攻撃を援助したということでこれも罪惡、あらゆるものが関東軍罪惡史という日本新聞によつて出された記事の下に一緒に罪惡視されて来たということであります。それが関東軍罪惡史の前に出された準備カンパの内容であります。準備カンパは各部屋、各人に紙が支給されました。その前に自分のやつていた具体的な実例を書けという名の下に罪惡史を書いたわけであります。罪惡史或いは自己暴露史という名の下にその紙が配給された、それを書いたものは、それが一応委員会の方に纏まり、委員会の方から直接政治部員の方に提出され、政治部員から向うのいわゆるオーペルと言つております工作部員という……、工作部員というものの内容はこれは人を挙げる方であります。簡單に申しますと人を挙げる方であります。普通政治部員と申しますのは補導部員と工作部員と二つに分れております。工作部員は陰におり、補導部員の方は直接反フアシスト委員会というものに出席をしており、補導官といわゆる警察官、警察関係の者、この二つに分れております。今の罪惡暴露史は、反フアシスト委員会を通じて、そこで編纂されております。併しそれは直接に補導委員を通じたか、通じないかは別問題といたしまして、工作部員の方にそれは廻つております。出た内容につきましては、工作部員の方がその中から人名を拾つてあとでその本人を呼びます。書いた本人を呼んで、お前はこういうことを自白したのではないか、こういうことを自分で書いたではないか、認めているではないか、書いたものでありますから、私は特務機関の当番として特務機関長にそれだけの攻撃するだけの準備を與えました。情報を蒐集するためのそれだけの余裕を與えました。それだけの援助をいたしましてということが明瞭に自分の罪惡史の中に出ておる。それに従つて向うは裁判を招集し、裁判に付し、実は私の第六分所には、今尚向うに残つておりますが、伝令とか或いは当番であるとか、或いは召使であるとか、或いは電信を操縱しておつた電信士であるとか、そういう者が多数残つております。
  124. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 大体今そういうあなたの通つて来られた收容所等に、そのために残されたという者はどのくらいあると思いますか。
  125. 日下敬助

    証人(日下敬助君) そのために残されたのは大部分であります。
  126. 岡元義人

    委員長岡元義人君) どれくらいの……、あなたが知つておられる数は……
  127. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 三百六十九名が現在この六分所におります。
  128. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今の日下証人に御質問ありませんか。
  129. 北條秀一

    北條秀一君 日下さんは向うでソ連刑法によつて体刑を受けたものでありますか。
  130. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 私は刑を受けました。
  131. 北條秀一

    北條秀一君 どういう刑の名目で何年の刑を受けて……
  132. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 発言します。私は前職によつて刑を受けました。即ち昭和十九年から二十年に亘る間、特務機関の宣伝及び彼らの放送局の対白系及び対蒙古、これは国内であります、これらの放送を指導し及び放送劇団を持つておりました。それでその附近のハイラル以外の附近に在住する蒙古人及び白系露人に対して宣伝を行なつておりました。その行為のうち、放送局に関する事項、これが向うに分つておりました。これに対してブルジヨアジー援助、資本主義援助の名の下に十年の刑を受けました。これはソ連刑法第五十八條第四項です。
  133. 北條秀一

    北條秀一君 それではあなたは十年の刑を全部完了せずに帰つて来られたのですが、帰つて来られるときに、なぜ刑は完了しないのに帰すか、こういうことについて当然疑問が起つたと思うのですが、それについては何か説明があつたのでしようか。
  134. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 私は刑に服しましたのが一月四日からです。
  135. 北條秀一

    北條秀一君 いつ……何年の……
  136. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 四十九年一月四日です。従つて四月十日まで大体一年で、残つた九年というものは全然服しておりません。まだ九年残つております。勿論收容所にいるときに、これは帰すということになれば私は当然それに対して疑問を持ち、向うに質問するところだつたと思います。收容所から来るときまで私はそれに対して、当然私は帰されないから、帰すとだまして、よその分所に送るのだろうという工合に考えておりました。それは今まで何回となくそういうことをやつて、五年間を、凡そロシア人の言われたことは全然信用できないというような考えを持つておりました。向うではどこかへ移動させるとはき当然そういうことを言つてから移動させる。従つて特別に向うに対して、なぜ俺を帰すかということに対しては説明を求めはしませんでした。併しながら引続いて申しますが、恐らく帰すだろうというようなことは向うで言つておりました。なぜ帰すかということに対して私が質問しましたが、向うでは、それは俺達の関係外のことである、上からの命令であると、具体的になぜ帰すかということについては説明をいたしませんでした。
  137. 北條秀一

    北條秀一君 あれですか、あなたと一緒に刑を受けた人が三百六十九名あつたということですが、それは元の戰争終了前の罪のある人は勿論分りますが、捕虜になつて後、ソ連の刑法によつて体刑に処せられたという人はありましたでしようか。
  138. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 現在残つておる者の中には、ソ連に入つてからの刑に該当して残つておる者はありません。
  139. 北條秀一

    北條秀一君 ない……
  140. 日下敬助

    証人(日下敬助君) ありません。前に六分所自分達がいた当時、その数は確かにありました。
  141. 北條秀一

    北條秀一君 その前の、六分所では相当おつたと思うのでありますが、そういう人はどのくらいおつたかということも、どういうふうな大体刑罰と言うか、理由で処刑されたか、そういうことについてあなたが事情を知つておられたらば、そこのところを話して貰いたと思います。
  142. 日下敬助

    証人(日下敬助君) それについて現在具体的に資料は持つておりませんから、詳しく逐一御報告申上げることはできません。併し今思い出すことだけ申上げます。私は出発する前、即ち四月十日現在で第六特別收容所、そこにおつた数が四百八十名、そのうち大体罪に該当する者全部は大概前職者であります。特務機関関係及び憲兵の人及び特殊情報及び機動部隊など、大体それくらいが主な者です。
  143. 北條秀一

    北條秀一君 関連しまして……その刑を受けた者の中で一番軽い刑の人は何年であつたか、一番重い刑の人は何年であつたか、その点を……
  144. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 今全般的な問題として私が知つている範囲についてお答え申します。これは六分所の者のみの入つた監獄に入つておるときに聞いた者まで含めて、一番軽いのが五年、その五年というのは小松という男ですが、年は当時二十三歳。その人に会つたのは四十八年の三月四日です。その人の罪状は項目は忘れましたが、奉天にあつたテロ事件について刑を受けたもの、奉天にテロ事件があつたのは御承知だと思いますから、内容は略します。そのうちで小松さんは奉天にこういう事件が起るということを前以て知つてつたにも拘わらず、それをソ連側に通知しなかつたということによつて判決を受けた。それが一番軽い。
  145. 北條秀一

    北條秀一君 長い方は……
  146. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 長い方は二十五年、大部分は二十五年の刑を受けた。五年の刑を受けておつたのは私が知つている範囲ではその人一人です。
  147. 北條秀一

    北條秀一君 私はいいです。
  148. 小杉イ子

    小杉イ子君 日下さんにお伺いいたします。ソ連には普通の捕虜でもひどい待遇を受けたように聞いておりますが、あなたは受刑中はどういうふうの待遇を受けられましたか。又どういうふうの仕事をなさつていらつしやいましたか。
  149. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 受刑された後について申上げます。
  150. 小杉イ子

    小杉イ子君 受刑中でございます。
  151. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 監獄に入つてからは、監獄中はロシア人の囚人と同じように收容されました。部屋の大きさは十メーターに四メーターくらいの広さのある部屋、そこに下に床が張つてあるのですが、大体六十名くらい收容されました。そのうちロシア人が三十名くらい、日本人が三十名くらい、それだけ收容されておりました。下の床板を自分達はナールと言つておりましたが、そこには毛布と藁布団と……。毛布が渡されておりましたが、その後は約六十名に対して二十枚くらい配給になつておりまして、我々日本人あとから入つて来た故でもあり、又向うはロシア人であるというために、自分達は犬小屋と称するその床下の下の方に自分の持つてつた毛布を敷いて、それでその床下におつた。朝の食事はパンが五百五十とスープが小さいこのくらいの薄い食器ですが、入れてある、晝はスープといつても殆んど、日本流にソップソップと言いますが、その程度。夜も同様であります。殆んど新鮮な空気を吸うくらいが精一杯。一日に十五分及至二十分表に出て散歩するというのが監獄における生活でした。受刑が終つたのが、監獄を出たのが五月の十三日だつたと覚えておりますが、そのとき収容されたのはロシア人の第二収容所というところであります。この中には約八百名くらいのロシア人、それから自分達最初に行つた七十名、そこに日本人が行きまして、一つ小さい家があけてありました。併し七十名だけ別個に収容されました。行つたのは五十八條、いわゆる政治犯関係日本人であるということと、日本人とロシア人とは全然性質が違い、向うは完然な犯人であり、日本人は非常におとなしい、いじめられたら大変だというようなこともあり、又政治犯として言動が非常に注意されていた関係もあつて、別個に収容されました。作業は道路工事に参りました。その当時は六ヶ月乃至四ヶ月、三ヶ月というような収容の後に作業に出ておりました。殆んど監獄にいた当時と給與も変つておりませんので、表を歩くのがやつとのような状態でした。我々はその当時を称しまして地獄谷時代と呼んでおりました。外に出て作業に参ります作業所は、自動車に乗つて約四十分くらい行つたところの道路工事であります。その道路工事において晝にこちらから穀物四十五グラム貰つて、乾燥馬鈴薯五十八グラム、油が四グラムというぐらいの糧秣を貰つて現地で炊さんいたしました。その際にそれだけの物を食ベていたんではとても身体が保ちませんし、足がふらついて持つている円匙も十分に振えない。若しもそこで十分に振えない場合には、パーセンテージに従つてそれだけの食事が尚且つ半分に減らされるというようなわけで、どうしても食わなければならんというので、丁度五月中馬鈴薯の種蒔が終つた時ですから、道の下に落ちている馬鈴薯を拾つてスープに入れるというような状態を繰返しておりました。又附近にある「あかざ」或いは「たんぽぽ」というようなものを取つて食ベておりました。それが六月中旬までその生活が続きました。それから後日本人だけ別個の収容所に入れられ、別個の収容所に来てから今度は日本人だけになりましたし、比較的お互いの融和もできましたですが、給與は依然として変りません。いわゆる六分所と申しますのは日本人だけを収容されていた、一番最初のハバロフスクにおける受刑したものの収容所であります。そこから出た作業は大部分は土工作業です。土工作業においても殆んど足を上げて歩くのがやつとというような状態が続いた。そのためにその條件を向うと交渉し、或いは作業場において、向うの作業監督が、出た作業を完全に認めないというような状態が続いた。従つて作業成績に対して配給される糧秣がぐんと減らされる状態が続いたし、殆んど栄養失調のような状態に皆なりました。死傷者はそういうときに出たのは一人でありましたけれども、全般的にひどく体格が低下いたしました。
  152. 小杉イ子

    小杉イ子君 私が伺いたいことは、栄養失調にかかり足が上らない、目が何しなかつたということを伺いたかつたのでありますが、その間に馬鈴薯ができて、馬鈴薯が食ベられたとおつしやいましたが、そういうことが若し見付かつても別に罰しはいたしませなんでしたか。
  153. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 作業場内においてある場合には向うで罰するということはいたしません。
  154. 小杉イ子

    小杉イ子君 分りました。
  155. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次に、美馬証人にお伺いして行きますが、あなたがカラガンダ地区におきまして、九十九地区二十分所において丸茂の事件を承知しておりますか。
  156. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) 知つております。
  157. 岡元義人

    委員長岡元義人君) その詳細に対して知つておられる範囲において証言を求めます。
  158. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) この話は二十年の停戰の時になりまするが、あの停戰の時、八月の十八日に奉天市中にソ連軍が戰車を以て進駐して参つたのであります。そうして二十日に武装解除になりまして、そのときにおいて中国人がソ連の軍隊と連合しまして、そうして非常な暴動を働きました。日々殺戮、強盗、強姦、殆んど皆涙が出る、悔しくて涙が出るが手が出ないと、そういう状態でありました。又伝染病が非常に発生しまして、特に十歳以下の子供さんが亡くなられました。そういう状況から居留民会の方におきましても考えられ、それから率先しまして、薬草の蒐集とか、食糧とか、被服とか、そういう方面に百名ばかり働いたのであります。大体そういうことを前提といたしまして、それからその百名の者達は翌年の二十一年一月十九日に捕縛されまして、ソ連地区に移されまして、カラガンダの方へ行つたのであります。そこで昨年二十四年の八月まで一般の抑留者として軍事捕虜並に生活して参りました。そうして昨年二十四年の八月に政治部将校の少佐の者から、このたびお行達は帰ることになつた。それで以て一般の大衆集会を開きまして、その席上で帰ることになつて非常におめでとう。そういう祝辞を述ベられまして、その席上で以て、帰るについて、今までの君達のやつたことの自己比判、このことを提起いたしましたところが、誰もそれに対して意見を出さなかつたのであります。それはそれで終りまして、その次に政治部の上級中尉のアノシキンという上級中尉を通じまして。
  159. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 今のもう一遍名前を……
  160. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) アノシキンであります。アノシキン上級中尉、その上級中尉を通じまして、お前達はこのたび帰るのだ。帰るについては自筆書を書かなければならん。自筆書というものは過去を清算する。供述書を出せ。過去を清算しろ。各個人にそういうふうに働きかけたのであります。ところがそれに対しても日本人は要するに何の返事もしませんでしたし、又彼が思つておるように供述して、それを摘発して送局するということはできなかつたのであります。ところが今度はアクティヴ、その方面に持つて行きまして、そのときに現在長野県におります丸茂、これは現在帰還いたしました。この人及び藤島清、五十巻健三、山田常雄、こういう者が、要するにそういう人達がそういう行為をやつたのであります。名簿を作成いたします。それからこういうことを言つております。各人は近く帰れるのだ。併しソ連当局としても過去について君達がこれをやつたということは全然認めないのだ。併し過去四年間に、長い間に満洲からここへ来たものだ。そうして帰さないでここに働いておるのだ。今更何もない者を四年間も働かして食わして、帰つたときに各外の国から体面上もあるし、そういうことをお前達がやつたのだ。そういうことを自分証言して帰らなければいけない。若し証言しなかつたなら帰さない。こういうような要するにアクティヴがいわゆる証言をなして、名簿の作成なりその摘発に努めたのです。その結果望郷心と言いますか、帰りたい一心で以て、まあこのたび帰れるのだ。こういう話でありましたから、大したことはないだろう、そういうことで署名したのであります。その間に署名するまでに、ただ名簿だとか、そうして内容は、ロシア語は勿論分りませんし、帰る署名だというので署名したわけなんです。それから実は過去にこういうことをやつた。そのことはあとに述べますが、やつたことを証明する紙片に署名したのであります。本人としてはその内容は分らないのであります。ただそのときに帰るのだ。帰る者の名簿を作るのだというので署名したわけです。又それから内容を知つておりましてそれを拒否した。そのために営倉に放り込まれちやつて、又出されましてやられる……
  161. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと証人、その営倉に入れられたのは誰ですか。
  162. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) 現在信濃丸で三十九名この者が帰つております。まだ残つております者もおりますが、その者の証言もいろいろ紙に書きまして、このたび携行しております。この際ここには持つておりませんが、準備しております。
  163. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 名前は分つておりますか。
  164. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) 分つております。三十九名おります。全部各人が書いたのです。で、そういうふうにして罪を作つてしまつて、このたび帰還に関しても、それは非常に遅れまして、日本人同士で以て自己の地位の獲得と言いますか、或いは自己保全のために同胞の血を血で以て洗う。その同胞の生血を吸つたのであります。そうして自分は洗に一番に飛んで帰つてしまつて現在暮しております。実際何も知らない者が罪になつておる。その罪のその署名をさせましたところにはです、こういうことが書かれてあります。これはソ連で以てちやんと型通りの形を作つております。それにサインさえすれば、要するに刑になることになつております。内容は、大体要旨を申上げますれば、停戰の、ソ連軍が進駐する前に、満洲で以て八路軍とその進駐軍に対する対抗策として、蒋政権から来る要するに国民政府、これと合流をして、それに対応する一つの軍隊と言いますか、一派を立てた。こういうことなんです。それから進駐してから誰をどこで殺したか、どの糧秣厰を襲つた。そういうことを何月何日にやつた、こういうことを具体的に書け。こういうような形で以て署名させられたのです。又このことに全然関係していない方もその中にそういうふうに捲き込まれてしまつてサインした。或いは署名したわけなんです。さつき申しましたように、話が前後しますが、その生血を吸つた同胞がですね、日本人があすこのナホトカの駅前、船の上におきまして、共産党百万の戰列に入党して、そうして内地に、組織を以ちまして内地へ帰つて、又このような再び日本人日本人の血を吸おうとして現在やつておるのであります。でその残つておる方とか、或いはその状況考えますと、非常にもう憤慨に堪えぬ次第であります。でこのたびの帰還の遅れましたのも、その者達が要するに使嗾してやつたことによつて、隙をソ連に牛耳られることになりまして、結局全部の無実の者が刑を受けて残つたりすることになつたわけです。
  165. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと今の証言中に、ソ連側の要求には応じなかつたが、丸茂君から結局無理にそういう工合にさせられた。こういう工合に解釈してよろしいのですか。
  166. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) 要するに丸茂という人は、ソ連の命を受けまして、要するにその後で糸を引いているのがソ連の指導部であります。ところがソ連としては直接としてはやれませんので、アクテイヴの方で以てうまく丸め込んでおる、というと語弊がありますが、抱き込んだのであります。
  167. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚もう一遍美馬証人に……。丸茂君の外にまだ誰かおりますか。
  168. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) このたびこの席上に証言に来ておられます松原、その方がこの通訳の任に当られておりますので、その事情はよく分つておると思います。
  169. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 各委員から御質問がございますか。
  170. 小杉イ子

    小杉イ子君 美馬証人に伺います。普通でありましたら強姦とか、強盗ということは大変な重罪でございますが、この強姦を避けるために女達が断髪したと申しますが、それは本当でしたでしようか。それから又男装をしたし申しますが、それも本当でしようか。そうして今度は男装を確めるために、ソ連軍が女性の乳房を調ベたということを聞きましたが、そうして実行したということを聞きましたが、本当ですか。女達が長い間屋根の上に隠れたということを聞いておりますが、本当ですか。それを行なつた者は普通の下級軍人なんでございましようか。それとも将校などが入つてつたのでございましようか。至るところでそういうことが行われたと聞いておりますが将校でございましたでしようか。兵でございましたでしようか。
  171. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) その断髪及び……、これは実際私が目を以て見て参りました。そうして、女の方が丸坊主になられまして、そうして軍服を着まして、男と一見変りないというような服装をしておられました。あとの第三番目の、要するに具体的な、こうやつたとか、そういうことは、面前に見ておりませんので返答いたしかねます。
  172. 北條秀一

    北條秀一君 ソ連の残留同胞の調査をすることが、私達の主たる眼目でありますから、只今小杉委員から折角御質問がありましたけれども、こういう問題は私共よく知つておりますので、今日は余りそういうことに触れないで、目的通りに進んで頂くように、委員長においてお取計らい願いたいと思います。
  173. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 小杉委員、もうよろしうございますか。
  174. 小杉イ子

    小杉イ子君 将校であつたか、下級兵であつたかということを伺いたいと思います。
  175. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) 将校もおりますし、兵隊もおります。
  176. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次に、松原証人にお尋ねして行きますが、あなたは、只今美馬証人から証言がありました、問題の丸茂事件というものについて知つておられるか、この点が一点と、それからその前に、あなたはいわゆる政治部通訳として、戰犯関係の取調官の通訳をしておられたか、その二点先ず伺いたいと思います。
  177. 松原茂

    証人(松原茂君) 自分は戰犯人の通訳は六人しかやつていません。その後は、主に建軍関係の通訳をやつておりました。一九四九年の八月中旬から建軍関係の通訳をやつていました。
  178. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 第二点……。もう一回言いましようか。只今美馬証人からの証言をあなたはお聞きになつたと思う。でカラカンダの二十分所における、いわゆる丸茂事件という問題に対する経過をあなたは知つておられますか。イエス・ノーを、知つておるなら知つておると……
  179. 松原茂

    証人(松原茂君) 知つております。
  180. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは松原証人にお尋ねしますが、一体この問題は、どういうところから指令が出て、そうして誰が選考に当つたか、そうしてどういうような刑に何名服したか、その服した刑の者はその後どういう工合になつたか、これだけ証言して頂きたい。
  181. 松原茂

    証人(松原茂君) 私がやりました通訳は、玉福才部隊の取調の内容から始めます。この内容は、藤島清がこれを僞造して、アクテイヴ丸茂武重及び政治部将校を通じて、これを自筆書として書かしたものであります。その内容は、ないことをあるがように書かしたのです。読んで見ます。一、目的、対ソ対八路の謀略作戰である、二、一九四六年一月十三日三幹屋事件……三幹屋事件というのはここに皆集合した所です。藤島清は、そこに集合して、ソ連軍と約二時間半に亘る戰闘をなし、当方に二名の負傷者を出した。続いて部隊は、柳安堡に向つて前進した。三、一月十八日柳安堡事件、柳安堡においてソ連兵四名を逮捕し、これを撲つたり取調ベをした。四、部隊略奪に何回行き、又何を略奪したか。一月十五日から一月十八日までに三回行き、薬品、衣類、兵器等を集め、これらの品物を本部に納めた。こういう自筆書を作らし、これらを隊員に書かしたのです。隊員は帰りたい一心で、皆書いて出したのです。このときに、上級中尉アノシキンの通訳をやりまして、刑を受けて行つた者が二十一名です。
  182. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 名前は分つておりますか、読み上げて頂きます。
  183. 松原茂

    証人(松原茂君) 佐伯俊次、東端敏彦、關口武平、野上肇、吉松清一、麻生眞治、村田輝夫、鈴木英一、中澤熊吉、妹尾春雄、平出盛正、藤田三郎、久保正春、佐瀬金藏、川村弘、田貝清吾、近藤四郎、石原光男、中平信義、豊永茂顯、那須正三、以上の二十一名の裁判に自分は立会つたのです。そのときに、取調の前に彼らに書かした書類は、身柄拘置決定書、逮捕状、調査表、身体状、医者の身体検査の証明書、金属調査表、この五つにサインをさせて、それから軍法会議が始まつたのです。約三十分に亘る軍法会議が始まり、刑の内容は、五十八條の六項で以て刑を言渡されたのであります。
  184. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚松原証人、今の五十八條の六項、簡單ですから、どういう内容か……
  185. 松原茂

    証人(松原茂君) 最初に申上げました対ソ謀略作戰であるということであります。これは数日上級中尉に聞きましたら、兵は全員帰すと、幹部だけは刑に置くかも知りないということを聞きました。その後十月の一二日を以てカラカンダを去りまして、その後の事情は分りません。
  186. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 刑に服したかどうか分らない……
  187. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 刑に服したかどうか分らない……
  188. 松原茂

    証人(松原茂君) そのときの言渡しだけは聞きましたけれども……。カラカンダの十三分所において聞きました。
  189. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 何年ですか。
  190. 松原茂

    証人(松原茂君) 一九四八年の八月何日か、日にちははつきり覚えていません。九十九地区において行われました。
  191. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 何年の刑ですか。
  192. 松原茂

    証人(松原茂君) その刑は僕には分りませんでした。
  193. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 松原証人が、今の問題、そのでき上つた。いわゆる先程あなたから説明のあつたのは、それは僞わりであるということをあなたは知つておられましたか。
  194. 松原茂

    証人(松原茂君) 自分は、その取調をしているときに、全員が全部それに対して反対をしたのです。そういうことは事実ではない、これを僞造したということは、どうして分つたかと言いますと、藤島清が、自分が軍法会議に廻つたときに、自分は国民軍ではなく、八路の方に援助したのだということを言つて、軍法会議を引繰り返して分所へ帰つて来たとき、彼は、歴史はこれから作るといつて作成したのが、この記述書の問題でございまして、一番最初に警察関係、憲兵関係、特機関係について記述書を書かせ、そのあとに專門関係を……自分は警察官で、警備隊と一緒に記述書を書きまして、帰れるものと思つておりました。
  195. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚もう一点伺つて置きますが、そのいわゆる記述をやらせた者は誰ですか。日本側は誰か、ソ連側は……
  196. 松原茂

    証人(松原茂君) ソ側では上級中尉アノズコ、援助したのが藤島清、日高であります。丸茂はアクティヴ代表として一緒に協力して、このアクティヴの集会に集め、丸茂武重が記述書の雛型を皆に見せて、この通りに書けと言つたのです。
  197. 岡元義人

    委員長岡元義人君) よろしうございます。問題ございますか。
  198. 北條秀一

    北條秀一君 松原証人にお伺いしますが、あなたは、在ソ中にあなたと同じ收容所におつた同僚で、死んだ人があると思いますが、その事情が分りましたらお話を願いたいのです。
  199. 松原茂

    証人(松原茂君) 自分がカランダの二十二分所におきましたときと、死んだ人はおります。名前は現在記憶しておりません。
  200. 北條秀一

    北條秀一君 何人くらいですか。
  201. 松原茂

    証人(松原茂君) 自分の知つているところは、三人です。その死んだ人の処置というものは、ソ側では死体を、頭脳解部、頭を割つて、脳味噌を調べ、その次に全身を割いて、肺、心臓、腸その他を研究し、それを又終つてから中に入れて、繃帶で以て……三ヶ所ばかり縫つて、棺桶を別に作らず、穴を二メートルばかり掘つて、その穴の中に埋めるというような扱いをやつております。
  202. 北條秀一

    北條秀一君 進行。
  203. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 先程から美馬証人から発言を求めておりますが、簡單ですから、よろしうございますか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  204. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 美馬証人
  205. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) 只今委員長の言われました刑期でありますが、これは二十五年であります。
  206. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 全部……
  207. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) そうであります。五十八條の六、スパイ行為であります。終ります。
  208. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 今美馬証人発言で、先程松原証人は二十一名、こちらは三十九名という証言がありました。これはどういうふうに食違つておるのですか。
  209. 松原茂

    証人(松原茂君) 発言します。建軍関係名簿は、自分は記憶しておるところ七十二名なのです。その後七十二名の中にその後の刑を受けた人もおりますけれども、名前は全部記憶して書いてありますけれども、発表しますか。
  210. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 二十一名というのは……
  211. 松原茂

    証人(松原茂君) 二十一名は一番最初の建軍関係の裁判に廻つた兵隊であります。それは佐伯中尉であります。建軍関係は、玉福才が部隊長で、その下に連隊長が二人、中村金之助と横澤連隊長、その下に鵜川大隊、小川大隊、鵜川大隊の中に五中隊、福田中隊、佐伯中隊、田代中隊、安孫子中隊、外山中隊、そのうち佐伯中隊を自分がやつたのであります。
  212. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それで大体合いますね。
  213. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) 先に申しましたように、今度信濃丸で帰りましたうちで三十九名、各人が行つてその事情を訴えたいと、こう申しましたのですが、その代りにその方の一人々々の自筆で以て内容を持つて参りました。その人の名前と人数は……
  214. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 後程美馬証人はその三十九名の名前から分つたら、書類によつて委員会に提出できますか。
  215. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) できます。
  216. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 出して頂きます。  次に、池田証人に伺います。あなたはカラカンダ地区におきまして、先に自殺しました菅季治君を知つておりますか。
  217. 池田正人

    証人池田正人君) 知つております。
  218. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 秀季治君に関するあなたの知つておられることを述べて頂きますが、特に委員長から聞いて置きたいことは、その中で証言をして頂きたいと思いますことは、これはつまりいわゆる政治工作員はどのような仕事をしておつたか。例えば先程松原証人、美馬証人等の証言がありましたそのようなものの摘発というようなことも、こういう工作隊員がやつたか。又やる権限が與えられておつたかというようなことも併せて御証言を求めたいと思います。
  219. 池田正人

    証人池田正人君) 私の知つております範囲内では、政治部の地区工作員と申しますのは、主として政治に関係しており、委員会と司令部の間に介在しておつて、そうして委員会にいろいろの指示を與えたり、或いは委員会の意思を司令部に持つてつたり、そういう仕事をやつてつたと思います。
  220. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは先程申上げました菅季治君について、向うでどういうような仕事をしていたか。その点御証言願います。
  221. 池田正人

    証人池田正人君) 私が菅さんと会いましたのは、一九四八年四月の中旬頃だつたと思います。これは私のおりましたカラカンダの十九分所の隣りの分所である十一分所、ここで当時菅さんは通訳として仕事をしておりました。彼は交換演芸のときに私のところに参りまして、そうしてそのときに初めて会いました。それから後私はつきりは記憶しておりませんが、私も演芸が非常に好きだつたものだから、特に仕事の関係もありまして、演芸の衣装とか、或いは舞台装置とか、そういつたようなことを見ておりました関係上、十一分所とよく交換演芸をやつたときに向うの方に参りまして、そうしてそれから大体九月頃までに菅さんと五、六回顔を合せ話をしたことがあります。まあその間菅さんは実際の、職務名はいろいろ変つて行きましたけれども、大体通訳として、政治部の通訳として仕事をしておられたように記憶いたしております。それから四十八年十一月、日にちは忘れましたが、十一月に十一分所が閉鎖になりました。十一分所が閉鎖してから菅さんは、多分十四分所だと思います。十六分所の方に転属されまして、その後地区工作委員の板垣さんと一緒に仕事をしておられるという噂を聞きましたのが一九四九年の六月頃であります。その頃から地区の政治学校の講習会の講師として活動を始められておられるということを聞きました。そうして私は一九四九年の菅さんの講義を二回程聞きました。それから顔も合したことはありますが、いろいろな政治的な立場の関係で別に話はいたしませんでした。私が菅さんを知つております例はこれだけであります。
  222. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 更に続けてこちらの方からお聞きしますが、菅季治君が日本の帰つて来てから、向うとの関連において何らか使命を持つてつたということをあなたは知つておられますか。例えば日ソ親善という、そういうような関係において菅季治君が何らかの繋がりを持つてつたというようなことを考えられたことがありますか。
  223. 池田正人

    証人池田正人君) あります。
  224. 岡元義人

    委員長岡元義人君) その点についてあなたの知つておられる範囲において述べて下さい。
  225. 池田正人

    証人池田正人君) これははつきり菅通訳が日ソ親善の、そういつたどこかの機関に入つてその行動をやつたとか、或いはどこかのビュウローに勤めて実際的にそういう所で仕事をしたという事実は私は全然知つておりません。併しながら彼の今までの思想の形体と、それからやつて来ました彼の経歴によつて、そういうふうなことに興味を持ち、或いはそういうふうなことに心掛けておつたということは当然推察できます。具体的な例は知りませんが、知の友人、吉住信爾と申しますが、この人が、菅は日ソ親善協会に勤めているというようなことを言つたことがあります。それ以外に具体的にそれに対する証言は存じておりません。
  226. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚今の池田証人発言は、この委員会において証言することが非常にまずいというような気持を少し持つて今御発言をなさいましたか。
  227. 池田正人

    証人池田正人君) そういう気持はありません。
  228. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 池田証人に御質問ありませんか。
  229. 小杉イ子

    小杉イ子君 池田証人に伺いますが、菅季治氏がどんな仕事をあちらでしておられたか、それはソ連の要望によつて適任者として勤めていられたか、そうだといたしますれば、菅氏をただ第三者として見ればよい、こう思うのでございますが、ここで考えますのは、徳田要請に非常に真から共鳴を持つていたように思われますか、それとも先程おつしやつたのですけれども、さ程でもなかつたかということをはつきり聞かせて頂けないでしようかと、こう思うのですが。
  230. 池田正人

    証人池田正人君) 発言します。菅さんが徳田問題に関してどういうふうな気持を持つておられたが、それは菅氏自身じやないと、これははつきりしないと思います。併しながら菅氏の経歴からいたしまして、又彼が通訳をやつたというような過去の彼の行為からいたしまして、菅さんは非常にこれに対して興味を抱き、又彼自身一つの明確な立場に立つてそれを行おうとしただろうということは考えられます。
  231. 小杉イ子

    小杉イ子君 菅氏が通訳をなさつたということは、自分の好意を以てなされたかお分りでございますか。それともあちらの要望で、丁度適任であるというようなことから行かれたものと思う方がいいですか。あなたは好意を持つてやられたというところへ、これは徳田要請関係が深くなつて来るのですが。
  232. 池田正人

    証人池田正人君) どつちですか、好意と言いますと……
  233. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと小杉委員、今の御質問説明して頂きます。
  234. 小杉イ子

    小杉イ子君 菅氏は好意を持つて通訳をなされたらしいということを伺いましたので、それならば、菅氏が徳田要請にも自然共鳴されたわけだということが考えられます。私共から申しますと、ただ要望によつて適任者として選ばれたのであれば、それはちよつと考えなければならぬ、こういうことを思うのでございますが、あなたは興味を持つて行かれたとお考えなるのでございますか。
  235. 池田正人

    証人池田正人君) 私は興味を……、非常に重大なことと考えて彼は行つたものと思います。
  236. 小杉イ子

    小杉イ子君 通訳をいたそうと思えば沢山いないからかも知れませんが、自分から要望して、あちらで使用するのでございましたのでしようか、その時分に……
  237. 池田正人

    証人池田正人君) 大体自分から要望して、自分から希望をして通訳になる場合もありますし、又向うの方から、あれはロシア語ができるからというわけで、指名して来る場合もあつたと思います。
  238. 岡元義人

    委員長岡元義人君) この際四時まで休憩いたしたいと思いますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  239. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは四時まで休憩いたします。    午後三時四十七分休憩    ——————————    午後四時十五分開会
  240. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 休憩前に引続き、委員会を再開いたします。証言を求めます前に、各委員ちよつとお諮りいたしたいことがございます。この委員会は、先の委員会で、継続調査を行わないことに決定いたしましたので、一応委員会として、調査報告書を提出しなければなりませんが、調査報告書の作成は、委員長に御一任願いたいと思うのでありますが、如何でありますか。この点、非常に会期が切迫いたしておりますので、到底技術的に間に合わないという憾みがありますので、事務処理上委員長に御一任頂けますか、お諮りいたします。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  241. 北條秀一

    北條秀一君 委員長にお任せすることは、原則的には反対ではありませんが、既往の経験に鑑みて、報告書が極めて多数の意見を吸收されるように、特にこの際は善処しなければならんと考えます。従つて、ともすると主観が入り易いのでありますが、極力そういう点を直して、極めて客観的に、科学的に、委員会の報告でありますから、委員会の報告は、飽くまでも委員会の報告としての内容を持つように努力して頂く、こういうことを特に私は強く希望して、委員長に一任することに賛成いたします。
  242. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今の北條委員の御発言は、十分斟酌して、時間の許す限り、報告書は一応各委員に目を通して頂くようにきいたしたいと思いますが、只今北條委員から御発言がございましたが、委員長一任に御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  243. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今北條委員の御意見に私は賛成するのでありまするけれども、やはりこれは一つ委員長理事にお任せ願うということにして頂ければ、只今北條委員から言われたようなことも、幾分留意されるのではないかと、こういうふうに私は思いまして、委員長理事に一任願うということを提案いたします。
  244. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは、只今淺岡委員の御発言通りに、調査報告書の作成は委員長及び理事に御一任下さることに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  245. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それではそのように決定いたします。  尚、非常に各委員の方の御出席が惡いのでありますが、時間的に余裕がありませんので、今朝淺岡委員から発言のありました徳田証言衆議院との食喰いに対しましては、尚そのどの点が僞証になるかということは、一応速記録等も照合しなければならないと考えるのでありますが、この際若し速記録の照合等によつて、確かに食違つてつたという点があつた場合には、委員会としては、これを告発の手続をとるということに対してお諮りいたしたいと思うのでありますが。
  246. 北條秀一

    北條秀一君 それは委員出席が、現在ここに三名しかおりませんが、もう少ししますと、委員出席されると思います。でありますから、これは今決めなくて、午前中に決めたように、もう少し余裕を與えれば、他の委員会がいずれも散会いたしますから、当然委員が集まつて来ますから、その際にお諮りになつた方がよいと私は思います。特に今日ここに出ておるのは、自由党の淺岡君と、それから緑風会の我我だけでありまして、他党がおりませんから、他党の諸君が御出席なつたときにやつた方がよいと思います。でありますから、証人証言を先にやつて頂いたらどうかと思います。
  247. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 速記を止めて……    〔速記中止〕
  248. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 速記を始めて……。それでは只今の問題は後程、もう少し委員出席を見まして、尚、速記等の調査を進めながら、後程お諮りいたすことにいたします。  証言を求めることを続けます。次は、杉本証人に……
  249. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 その前にちよつと池田証人簡單でありまするが、お伺いいたしますが、衆議院の方の考査特別委員会の西村議員に宛てらられたのは知りませんが、参議院の私の手許に池田証人から書面を頂いたのでありまするが、菅通訳のことに関して書面が書かれてあつた。その書面の初めは、彼と初めて会つたのは一九四八年五月頃、カラカンダ第十九分所云々から、最後の彼の死は、彼の証言と、彼の性格と、彼の思想からもたらされた敗戰日本の一悲劇であり、彼こそはレーニズムという一イでオロギーの暗殺した世紀のプチブル・インテリゲンチヤの症状である、云々と書いてありますが、この書簡に対しましては、これを真実として或いは書簡通り私が了承してよろしうございますかどうか。その点一点だけを御証言願いたいと思います。
  250. 池田正人

    証人池田正人君) 私がその書簡を書きましたのは、菅証人と曾て知り合いであり、又菅氏の思想に対して非常に興味を持つておりました。で、毎度東京へ出て来ましたときにも、菅君と一度会つて、もう少しはつきりした立場から、あなたは証言をした方がいいということを私は言つてやろうと思つておりました。そのえとに菅さんは自殺してしましました。で、その手紙に書きましたことは、私がソ連において体験しましたいろいろな精神的な推移並びに向うの生活の條件、民主運動の形態、こういつた過去の体験と、それから菅氏の性格、思想、こういつたものを基準にしまして、私自身の主観的な僞らざる記憶であります。そういうふうにおとりなつて結構です。
  251. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次は、杉本証人に伺いますが、杉本証人は非常に沢山の收容所を変つておられる。その收容所の中でシリギンダという收容所があります。これは今までこの委員会におきまして出ていなかつた名前の收容所であります。このシリギンダ收容所というのはどの地区にあつて、そうしてどのような現在状態にあるのか、幾ら程残つておるのか、この点について一応証言を求めたいのであります。  第二点は、樺太一般邦人の満刑者の状態、在いは受刑者等について知つておられる範囲について証言をして頂きたい。
  252. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) シリギンダ、これは囚人の收容所であります。そうしてこの管轄はカザクスタンにあるのであります。ここにはロシア人の囚人が約六百人くらいおります。そうして私達日本人は五名おりました。そのうちこのたび帰国で四名還つて参りました。一名残つた人は樺太の邦人でありまして、そうしてこの邦人の方は、私はハバロフスクに来たあと聞いたのでありますが、カラパスに引揚げたということを聞きました。その後の状況は分りません。そうして樺太の邦人の満刑者は一応ドゥリンカ管轄内のカラパスに收容されます。そうして日本人の九十九地区各分所に配属されます。その後の状況は分りません。そうして満刑者以外、樺太の在留邦人はカラパスから約三十キロばかり離れたスパスクという各思想犯の收容所があります。ここは主に鉱山であります。そこにカラパスの思想犯は全部行つております。その中に樺太の在留邦人が約六十名ぐらい收容されている筈です。現在その方は帰国したような様子は見えません。以上シリギンダには一名も残つておりません。
  253. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう残つていないのですか。
  254. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) 一名は樺太の邦人が残つておりましたが、カラパスに引揚げたそうです。その後の状況は分つておりません。
  255. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚もう一点杉本証人に伺いますが、受刑者の死亡等についてどのくらいあなたが知つておられるか、見て来られた問題について知つている範囲について伺いたいのです。もう一点、今日帰還に際して、あなたは植松君を知つておられますか。
  256. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) 知りません。
  257. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは今の点、一点だけお伺いします。
  258. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) 証言します。受刑者の死亡状況は、私が行つておりましたシリギンダではございません。非常に日本人の数が少い関係上死んだ人は一人もおりません。
  259. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 分らないのですか。
  260. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) 分りません。
  261. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは死亡者は見たことがないのですか。
  262. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) それは捕虜の間では見たことはあります。受刑者としては見たことはありません。
  263. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 今の杉本証人に各委員から御質問ございませんか。
  264. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 杉本証人ちよつとお伺いいたしますが、あなたが帰られるまで、その地点におられた間どういうふうな仕事をされておつたか、簡單に御証言願います。
  265. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) 証言します。私は主に九十九地区カザクスタンにおりました。その間土工或いは建築、そういうふうな仕事が主でありました。
  266. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう一点杉本証人に伺つて置きますけれども、簡單ですが、あなたが刑を言渡され、或いは取調を受ける。そういうときに取調の状況等についてどのような措置がとられたか、その点を簡單に要点だけ証言して頂きます。
  267. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) これは私達がその刑を認めず否定しても、二名以上の私の名前を知つておる人が出れば、その内容そのものについても、その二名の証人は知つておらなくても、これが杉本であるということが分れば判決を下せることができるのであります。二名以上の証人が出た場合には否定は全然できません。
  268. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 否定はできない……
  269. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) はあ、半強制的な言渡しがすべて祕密裁判で行われておりました。
  270. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 杉本証人にお尋ねいたしますが、杉本証人は二十年の一応判決を受けられたのですが、それはどういう点において二十年になつたのか。それからどういう点において二十年の方が早く帰れと言われたかということを一つ簡單証言願います。
  271. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) 証言します。私が二十年の刑を受れたのは、先ず第一に、民主運動の妨害並びに私が九十九地区の二十二ラーゲルで営内司令をやつておりましたときに、反ファシスト委員会から、彼はファッショ的な言動或いは行動を以て接する、よつて私をカンパにかけようとしたのであります。そのときに私は三百六十名から取巻かれて、もう少しでカンパにかけられるとき、私はそれを敢然と蹴りました。という内容は、民主グループは大体本部の命令の補佐機関であつて、大隊の兵隊に対し命令する権利はない、命令権は飽くまで大隊本部にある。だから大隊本部の一員として自分は民主グループの委員の皆から指示を受ける必要なしと敢然と蹴りました。それに対して彼らは、民主暴動を以て三百六十名が私を本部に襲撃しました。そのとき私は後藤という軍医中尉と二人で三百六十名を相手に遂に闘争になりました。そうして私は後頭部を煉瓦で叩かれて意識を失つて病院に担ぎ込まれました。その後本梯団の日の丸でその五名は帰つて来ておりますが、その人達が聞きつけて非常に憤慨をして、彼ら民主グループに対して傷害を與えたのであります。その廉によつて彼らは十年ずつの刑を貰い、私は責任者として二十年並びに民主運動の妨害、この二項目で二十年を貰いました。そうして私は四十九年の一月、カラカンダの十六未決監に入つているときに、一月の新聞で、進駐軍よりソ側に対し、捕虜のうつから囚人を作つておる、その事実を声明しろという詰問があつたということを聞きました。それに対してソ側はその事実の内容は後刻返答するというような記事が載つておるということを聞きました。その結果だと私は信じております。
  272. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それは何新聞ですか。
  273. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) これはロシアのプラウダであります。
  274. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 証人にお尋ねしますが、証人は今列挙されたことを私はよく聞き取れなかつたのですが、証人以外に五名の人が傷害を與えた、あなた自身もそういう暴行の挙に出たか出ないか。
  275. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) 私は彼らのカンパに対し、カンパを退けて本部に帰つたのであります。大隊長の下に自分は彼らのカンパを受ける必要はない。大隊長もそれは当然である、命令する権利はない、彼らが反動としてのカンパを受ける必要なし。それを三百六十名の民主グループの委員が本部に襲撃をしたのであります。大隊長以下本部員に対し……。それで私は大隊長を部屋に入れて置いて、私達が彼らに妨戰をしたのであります。当然彼らから押かけて来たのであります。
  276. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 さつきプラウダの、つまり向うの新聞によつてということを言われましたが、そのプラウダの日時はいつだつたでしようか。
  277. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) 四十九年の一月の初旬の新聞だと思います。
  278. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それはあなたが実際にそのプラウダを御覧になつたか、御覧にならなかつたか、或いは御覧になつた上で、それがあなた御自身がお読みになつたのか、或いは読める能力をお持ちであるかどうか、その三点を……
  279. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) これは私と一緒に入つておりました中本という通訳官がおるのです。この人がその一月の新聞を見て、一緒に入つておる日本人に知らしたのであります。
  280. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次は、池谷証人にお尋ねしたいと存じます。先ず、証人はモスクワ地区におけるところの俘虜の状況等を御承知と思いますが、ハバロフスクにおける状態とモスクワ地区におけるところの取調或いは俘虜の状況その他の差違、或いは残留者状況、そういう点について証言を求めますと共に、先程来いろいろ伝えられておりますが、将官ラーゲルに残されております中で、十七名程或いは中共地区に送られたのじやないかというようなことが伝つてつておるのでありますが、この間の消息について証人の知つておられる範囲において御証言を求めたいと思います。
  281. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) 私は昭和二十二年の八月末から二十四年の九月中旬までモスクワ郊外約十六キロのクラスノゴロスク市と名付けられるところのラーゲルの番号が七十二七の第一分所、これにおりました。このラーゲルは一名国際ラーゲルとも委し、收容せられておる人々は、私が参りましたときは、無論ドイツ人が主でありました。その他にハンガリア人、ルーマニア人、フインランド人、イタリア人、ユーゴスラビア人、それからポーランド人というようなものがおり、日本人は約二十名くらい、武部長官であるとか、村上中将、谷塚中将というような方であります。その分所から約二キロ離れた所に、一つ同じラーゲル番号の第二分所がありました。これには日本人が約一千五百名、ほぼ同数のドイツ人捕虜、これが混合して住んでおつたようであります。私が参りました二十二年の八月頃、当時ハバロフスクの将官ラーゲル、いわゆる特別四五号ラーゲル、これとドイツ人ラーゲル、この二つあつたわけでありますが、ハバロフスク・ラーゲルから向うに参りまして、私が一番感じたことは、同じラーゲルでもこんなに給與が違うかということを一つ感じました。というのは、我々が入所してから間もなく、極東方面は相当食糧難でございましたので、将官ラーゲルと雖も食事の量と質において不足である。私共現在はこんな体格になりましたが、当時は監嶽から出たあとでもあるし、食糧も不足で、夜は眠れぬので水を飲んで寝るという状況でありますから、将官ラーゲルにおいて、これじや一般ラーゲルは可なりこれよりひどいだろうというので、帶皮を十セントくらい切つていまいました。それが向うに行きますと、日本人に対しては日本人の板前さんがおりまして、これが非常に腕ききであつて、我々に調理して呉れる、食糧の量と質において約二倍くらい、それでめきめきと回復して約三ヶ月後には私は一級の体格になりました。これが一つ違つたように思います。又医療の施設と言いますか、ハバロフスクのラーゲルは、将官ラーゲルはすでに御承知と思いますが、コンクリートの二階建であつて、すでに革命前に建てた実に頑丈な外廓で立派なラーゲルで、セントラル・フアイツもありますし、それから便所も水洗である、それから窓も綺麗になつているし、いいのでありますが、医務室と言いますか、我々平均年齢六十歳のお爺さんには腰が痛いとか、いろいろな病気がある、それに対する医療施設というものが、我々発出するまでは極めて貧弱でございました。薬も殆んどない。それから診療は杉本と申します陸軍少佐でございましたが、その方が主任で、ソ側の大尉の軍医さんと二人で診療するだけでありまして、医療施設が非常に惡かつた。医療施設についてはソ側によくして呉れい、歯が痛い人が歯を直して呉れい、入歯をやらせて呉れいという申請をしましたが、なかなか思うように行きませんでした。七十二七のクラスナヤルスクのラーゲルに行きますと、到着した翌日身体検査がありま島て、驚いたのでありますが、実に立派なラザレットがあつて、ドイツの捕虜の軍医さんが三名くらい勤めておりました。レントゲンじやありませんが、太陽光線ですが、あんなような光線もあり、歯医者さんもおる。外科主任もおるし、内科主任もおる、休養室も十数名入るベッドも置いてある。誠に医療施設もいいし、薬も相当充実しておる。同じラーゲルでも、これは将官ラーゲルで可成り優遇されたが、こんなにも違うかというような感じを持ちました。次は、我々が出発する前は、ハバロフスク地区においてもそう民主運動、民主教育というものはございませんでしたが、その後日本新聞あたりで極東の便りを見ますと、相当民主運動が活溌化して来たようでございました。このクラスノゴルスク・ラーゲルにおきましては、我々が行つたときから、やはり民主グループはできておつて、ラーゲルの中の民主グループの人と非民主グループの人と両様でございました。その両様の人は別にそう対立をして、同国人が互いにいじめるというのでなく、一言にして申せば、来る者は拒まず、去る者は追わずという、思想は思想で以て、おのおのその見解が違うから、これは当然である。が併しながら我々捕虜においては同じ同国人であるから、お互いに愉快に、お互いに助け合つて捕虜生活をしようじやないか、こういう気持が充溢しておりました。従つてドイツ人捕虜の我々に対する態度、及びドイツ人の捕虜が、将校若しくはゲネラルに対する態度というようなものには、ちよつと呼ぶ場合でも……ゲネラルも最初百名ぐらいおりまして、段々減つて、最後に我々がそこを出発するときには約十名ぐらいになりましたが、ドイツ人のゲネラルを呼ぶにも我々を呼ぶにも必らずゲネラル何々と、頭にゲネラルを付けます。それで非常に民主グループと非民主ゲループとの間が誠に和やかで、思想は思想、個人的なつき合いは個人的なつき合いというように感じました。これは私のみならず、外の方々から或いは証言をお聞きになつたかと思いますが、尚文庫施設、これが非常に我々にはもう頭を……本を読まぬということにはとても堪えられません。ハバロフスク地区においては将官が持寄つた約三百冊の書籍がありまして、これを委員を作つて貸出して、それによつて唯一無二の慰安をとつてつたのでありますが、その後聞きますと、ハバロフスク地区においては二十三年の二月頃アクテイヴが来て、勤務員をその方に教育して、爾後その本を全部ではありませんが、大部分を取上げたというような話でございましたが、クラスノゴルスク・ラーゲルにおいては、約三千冊のドイツ語及びロシア語、英語の本がありまして、それも各種の思想方面の本はもとより、いろいろの小説、科学、それから旅行記、それから経済、各種の部門に亘つた本があつて、ドイツ人の捕虜は、自分はこの捕虜の收容所におつて誠に困るんだが、自分の一生読めないくらいのこんなに沢山の本を読めることは捕虜として慰め得る、これだけの文庫を以てこれだけ読まして貰えば自分としては非常にいいというので、ベンチに腰かけて盛んに本を読んでおるというような、内部の施設において……。併しバラックにおいてにまずいのですが、ドイツ人の例の組織力と、非常に技術の上手な点を利用しまして、自分で中に水道を引張つて水洗便所に直したり、大きな木を沢山薪にして持つて来る、それを人力で挽いたのでは大変ですから、すぐにどこかからモーターを持つて来て、レールを垂直に立て、その先に尖鋭な斧のようなものをつけてレールを上げてがさつと落して一遍に割る。それから丸の棒を探して鋸で薪にするとか、すぐ工夫をして、「いも」を剥くには「いも」剥き器を作るというわけで、誠に彼らは何と言いますか、機械的に生活をしておりました。私が二十四年の九月にそこに立つて、初めて外の方と一緒にハバロフスク第十六地区の第七分所、これに一週間ばかり置かれましたが、ここでは、このラーゲルの政治部員から、今度来た将官及び佐官、兵は長くはここにおらない。従つてこれに対して政治カンパをすることは一切嚴禁すると、こういうように我々に対しては嚴禁されておつたようでありますが、やはり点呼の際に並ぶ、相当我々戰犯或いは軍国主義者というので、直接カンパはしませんが、まあ聞えよがしにやる。それからも顔をお互いにそむけ合うというように、何だかこちらから近寄つても伺うは避けちやうというので、空気がドイツ人のラーゲルと比べると非常に違つているように私は見ました。以上がドイツ人ラーゲルと日本人ラーゲルとの私が見た差でございます。次に、ハバロフスク地区の将官ラーゲルに如何なる種類の人が残つており、又これが中共地区に云々の問題であります。すでに御承知の通り、ハバロフスクには、我々が出発の際、後宮大将以下三十七名の方々がお残りになりました。この方々が收容所出発の前日、收容所長から申されたことは、将官は近く全部日本に帰す。そのうち三箇の梯団に区分けして、第一班は明日、第二班は明後日、若くは明日、第三班は今月中に帰す。こういうようなお布れででありまして、我々は向うを出発したのでありますが、いよいよナホトカまで所長が送つて来て呉れまして、所長とお別れする際に飯田元中将が、この前所長はモスコー出発前に、残つた三十七名は今月中には帰すと申されたが、我々は日本に帰つて、そのお留守宅の方々に今月中に帰えるとソヴエトの所長が言いましたと、こういうようにお伝えしてもよろしいかと、一応念を押しましたところが、所長は、この前そう言つたが、これは将官の帰国ということはソヴエト政府の命令によるのであるから、私としては、その時期が今月中であるということは言い得ない。ただいつかは日本に帰るということは言えるだろう。今月中というのは、ここでは言えないというように回答がありました。残つた方々がどういうような分類かと申しますと、これは我々が、残つた方々が尋問される場合に、その尋問室に傍聴しておつたわけではありませんから、はつきりは無論分りませんが、いろいろの将官が、本人から聞いたことや何かから想像して、第一戰の部隊関係で、概る残されただろうと思う者が十二名、それから奉天の特務機関関係、この関係で残された者が……。
  282. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと証人に、発言の途中でございますが、非常に国民の方々も、将官ラーゲルについては、いろいろ聞きたいという気持を持つておられたのでありますけれども、特に本日池谷証人にすベてをお伺いするわけでありますので、名前の分つている者については、この委員会において、明らかにして頂きたいと思うのであります。
  283. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) 承知しました。それでは今のをもう一遍申上げます。お断わりしますが、今申したように、如何なる嫌疑と申しますか、それによつて残されたということは、無論ソ側当局から聞いたわけじやありませんから、或いは正鵠を失するかも知れなすが、まあ将官が判断していることを私も聞き及んでおりますので、総合したものをここに申上げるわけであります。後宮大将、それからその参謀長の大坪少将、これは例の第三方面軍司令官であり、第三軍の方面軍の参謀長であります。このお二人、それからその方面軍の下に付いております第四軍の参謀長として大野少将、大野干城であります。それからその下の師団長をしておられました。北澤中将、それから塩沢中将、塩沢中将の部下である野村少将、それからやはり同樣に師団長である鈴木啓久中将というような七名の方が、何か一つの軍関係のグループじやあるまいか、こう想像できます。その次が第五軍司令官であられる清水中将、その参謀長の川越少将、その軍に属しておる師団長である椎名中将並びに人見中将、これが清水軍に関係あるいわゆる第五軍に関係した一つのグループ、こう考えられます。それからハロンアルシャンにおられました阿部中将、これは師団長です。これが一人独立してここにおられたのであります。その次はハルビンに特務機関関係で判断されまするのが、小幡信長少将、久保宗治少将、熱海三郎少将、次が鉄道警護、略して鉄警と申しますが、鉄道警護関係で残されたと思われるグループとして瀬谷啓中将、太田満軍中将、瀬古満軍少将、福島満軍少将、有馬満軍少将、原満軍少将、これだけの方が鉄道警護関係であります。その次に齋藤義夫少将、この方は満軍の少将であつて、満洲軍の憲兵学校長であります。その次に一つのグループとして考えられますので、藤田茂中将、岸川健一中将、鈴木啓久中将、長島勤少将、下枝竜男少将、庄司巽少将及び上坂少将、これらはいずれも北支那に作戰をしておつて、早かれ遅かれあちらから転用になる軍隊であります。でありまするから、何か北支関係関係せられている方じやないか、こういうようなこの一団を見ます。次は峯木十一郎中将、これは樺太の師団長でありまして、何か南樺太における関係において調査をされておるようであります。次は武部六藏さん及び古海忠臣さん、これは満洲国の総務庁長官と次長であります。次に申しまする五名の方は全く個々分離の方々であつて、我々としてもはつきりとその方の抑留された理由というものが分りませんが、原田宇一郎中将、野口雄二郎満軍少将、佐々眞之助中将、黒木剛一海軍少将、飯守、名前はちよつと私忘れましたが、奉天の検察庁の検事であります。以上述べましたのが、丁度三十七名であります。以上の方々が将官ラーゲルに残された、これは現実の事実であります。このうち北支方面に中共容疑として渡されたとすれば、今の藤田閣下以下七名の人人、尚その他或いは行つたかどうか私第一回の船で帰りましたので存じません。ただ新聞で第二回の信濃丸で帰られた将官中の竹下中将が二十名というような数を言つておりますので、或いは我々が出発するときにラーゲルに残りました十五名の日本のいわゆる勤務兵がナホトカにおつて、最終船の信濃丸に乘込む方がそこから聞き得た情報かも知れません。私はその真僞は存じないのであります。
  284. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 ちよつと証人にお尋ねしますが、今竹下中将が云々という点がちよつと聞きとれなかつたのですが、その個所は……
  285. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) 日本の新聞で、私は家で見ましたのによりますと、竹下中将談として約二十名くらいの者が中共の方へ渡されたというようなことがあつたように記憶したのでありますが、私は実は知らぬと、あのことは私は何も関係ないということであります。将官のうちで、すでに刑を受けられた方、これは新聞にも出たかと思いますが、例の山田大将、それから梶塚軍医中将、川島軍医少将、佐藤軍医少将、高橋獸医中将がそれぞれ細菌戰に関連して軍法会議を受けました。これはソ連の新聞にその論告検事の起訴状及び判決並びに判決の理由、それらか処刑というようなものがはつきりとソ連の新聞に出ました。尚満洲国におられた将官であつて、シベリアに入つたということは想像できるのでございますが、爾後全く行方が分らないという将官は柳田元三中将、吉岡安直中将、大木憲兵司令官、秋草少将、これはハルピンの特務機関関係であります。この方は全く消息が分りません。将官ラーゲルにおいて亡くなられた将官の数並びにお名前は次のようなものであります。亡くなられました将官は喜多中将、村上中将、池田少将、高澤少将、野溝中将、小野少将、中尾少将、上村中将、上山満軍少将、立川満軍少将、米山満軍中将、近江獸医少将、小林海軍中将、井上満洲国参議、川目少将、土屋少将、志方少将、有村少将、向日満洲軍少将、尚将官ラーゲルにちよつとおられて入院して亡くなつた深見関東軍通訳というような者があります。尚、秋山義隆中将も将官ラーゲルにおられたのでありますが、二十一年の二月頃と記憶をしますが、調査のために他に出て行かれまして、爾後全く音信不通であります。それから陸軍次官をしておられました富永中将、この方は私はウオロシロフの仮收容所において昭和二十年十月頃、どこへか中将が荷物を全部持つて来いというので、転出されたことを目撃いたしました。爾後杳として富永中将の消息を知りません。又櫻井遼三少将、この方も昭和二十年の十一月にウオロシロフの仮收容所において糧食一週間分を持つて、荷物を全部取纏めて出て行かれて爾後杳としてその消息を知りません。次は、我々がウオロシロフの收容所を昭和二十年の十二月二十三日に出発して、ハバロフスクの特四十五号のラーゲルに移つたのでありますが、出発に当つて同所に残りまして、爾後全く状況の分らないのが小松巳佐夫少将、それから齋藤浩三大佐、又このラーゲルに近衞総理の、前総理の息子さんの近衞文隆君が来まして、私らと一緒に近衞文隆君は二ケ月くらい生活をして、昭和二十年の十二月二十三日にウオロシロフを同じ汽車で出発してハバロフスクに、我々は駅から将官ラーゲルに行き文隆君はそこに残りましたが、それから我々はラーゲルで荷物検査をしているときに、文隆君がたつた一人連れて来られて将官ラーゲルに来ましたから、ああ文隆君が入られたのだなと、こう思つておりましたところが、十分ぐらい経つて又どこかへ出て行かれました。爾後、私は近衞文隆君の爾後のことを存じません。
  286. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それは日時は……
  287. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) 昭和二十年十二月二十四日、特四十五ラーゲルで十分間程来られて、私が文隆君とお話ししたのは、それが最後であります。いろいろの方に聞いて見ましたが、どうもよく分らないのであります。次は、モスコー郊外のクラスノゴルスクのラーゲルから橋本虎之助中将、これは満洲国の宮内府長官、あの方は昭和二十四年の一月に他に出て行かれまして、その後の消息は分りません。関東軍参謀長の畑彦三郎中将、このお方は昭和二十二年の五月でありましたか、六月でありましたか、ソ連当局からの勾引状によつてハバロフスク将官ラーゲルから外へ連れ出されて、爾後杳として消息がなかつたのでありますが、同年八月に私が向うの、モスコー郊外のラーゲルに行つておりまするうちに、翌年の春でございましたか、ドイツの少佐から耳の大きな畑という方と一緒にモスコーの監獄におつて、その方とおつたということを申しておりました。それで御健康はどうだと言つたら、非常に健康であつたということを聞きましたから、同年同時には、畑中将はモスコーの監獄に同人と一緒におつたという事実は確実であります。尚入りました将官で刑を受けましたのが、先程申しました方々の外に、これは今日実は控室で聞いたのでありますが、坂間少将、濱田少将、松村少将が刑を受けられてシベリアに残つている、又下村満洲国外交部次長、このお方も刑を受けられてシベリアに残つているということを、控室で他の証人から聞きました。以上で、私が存じておりまする関東軍関係の将官の、彼の地に残つている方々並びに彼の地で亡くなつ方々及び受刑された方々の全部知つている限り申したつもりであります。
  288. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚もう一点証人にお伺いして置きたいのは、ナホトカに参られてから、ナホトカの收容所で受刑者が次に五百人来るというようなことをばお聞きになつたか。
  289. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) 第一、二梯団の私が通訳をしておつたので、丁度ソ側とは私がいつも通訳で皆さんにお話になつたのでありますが、日にちは忘れましたが、ラーゲルの中の外れの方の一棟の第一梯団の将官四十名が入つてつたのでありますが、ソ側がその周囲に鉄條網を作り出したのであります。そうすると、あなた方の荷物を盜つたり、或いはあなた方に侮辱を加えたりするといけないから、ちやんとあなた方と交通遮断するために鉄條網を作つたのだから、決してあなた方をどうこうするというわけではないから、不安な感じを持たないように皆に伝えて呉れ、こういうように所長が私に申したので、私が皆さんに伝えたのであります。尚御参考に申しますと、同ラーゲルにおきましては、ハバロフスク出発に際しまして、或る日本人の兵から、何か将官帰還阻止運動をやろうという運動が寄り寄りあつたらしいのでございますが、ナホトカのラーゲルに着いても、ソ側がそのような気乘りがなかつたというので、別にそういう問題は具体化しなかつたようでございました。でソ側も一般の者に対して、将官に対して侮辱を加えちやいけないという何か御注意があつたということを聞きましたということを申上げます。
  290. 岡元義人

    委員長岡元義人君) そうすると、今の御証言では、ハバロフスクとか、ナホトカの民主委員の方ですか。
  291. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) もう一回初めから誤解をいたすから申上げます。ハバロフスクを出発して同じ汽車で参る途中において、同乘の日本人の或る一部において将官帰還阻止運動をしようじやないかという者があつたそうであります。そういう案があつて、ナホトカの最終ラーゲルへ入りましたところが、ナホトカのラーゲル所長あたりに伺つたものだと思いますが、てんで受付けないので、そういうことを取止めた、こういうことを或る日本人の捕虜から聞きました。尚その人の言うには、このラーゲルにおいては将官に対して侮辱を加えるというようなことは絶対にあつてはならぬという注意を一般の者は受けた、こういうような話であります。そのことを申上げます。
  292. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 他に委員から御質問ありませんか。
  293. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 池谷証人にお尋ねしますが、証人は先程各将官の氏名或いは残つておる人、或いは亡くなつ方々の氏名を列挙されたが、将官が全部で何名くらいおられたかということを御証言願いたいと思います。と申しますことは、二十年の九月の十二日に、ソ側におきまして百二十八名の少将以上の将官を含む五十九万四千人の捕虜の数を挙げられ、そして百二十八名の少将以上の将官を含むというのでありますが、すべてでどのくらいであつたかということを知つておれば、その御証言を願いたいと思います。
  294. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) 今入つた当座どれだけおつたかということの的確なる何名という数で私は記憶しておりません。時間を頂きますれば、計算をして見ようかと思います。
  295. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 更にお尋ねいたしますが、先程秋草少将、大木憲兵司令官と、こう言われましたが、そうした方は残されておられるのですか、亡くなつておられるのですか、その点をもう一遍はつきり御証言願います。
  296. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) これは先程申したように、シベリアへ入つたであろうということは想像されるのであつて、満洲に残されたか、シベリアに入つてシベリアで亡くなつたか、又現在存命であるか、それを我々にもお答えする資料はありません。
  297. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それはその秋草少将なり、或いは大木中将がとにかくソ連に入つたということは知つておられるのですか、或いはそういうことをお聞きになつたことがあるのでしようか。
  298. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) その点について極めて的確にお答えはできないのでありますが、それは全部の将官の寄り寄り話す話では、秋草少将も、大木中将もシベリアに、ソ領内に入つておるだろうと、こういうふうに考えております。
  299. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 更に先程二十年の十二月二十四日、ハバロフスクの十分所、将校ラーゲルで十分程近衞文隆君とお話になつたということでありましたが、そこで近衞文隆君とはどういうふうな話をその十分間になされたか、簡單でよろしうございますから、御記憶があれば、それを御証言願いたいと思います。
  300. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) 近衞文隆君は、私の関係する第三軍の中の重砲兵の大隊長でありました。私がウオロシロフの仮收容所に行きましたときに、向うの調査官から近衞公爵の息子がお前の軍におるだろうと聞かれましたから、私はおるというと、どこにおるかと言いますから、概ね圖們の附近に近衞文隆君の属しておる砲兵陣地があつたから、その辺におるだろう、そういうことを調査官に伝えました。それから一ケ月経つて近衞君が我々のウオロシロフ・ラーゲルに来ましたから、どういう経路でどうして来たかと聞きましたところが、あのラーゲルからソ連の将校に連れられてたつた一人でここに来たのだ、先ずハルピンに出た。ハルピンには近衞文隆君の妻君が媽さんの支那人のお宅に避難をされておつて、妻君と面会を許した。そうしてグロデコーを経由してウオロシロフに来たのだ、こういうふうに近衞君は私に入ソの経路を語つて呉れました。それから十分間は何を話したか記憶はないぐらいですが、一ケ月間生活を共にしておりましたから、君もラーゲルに一緒にいて呉れればいいなと話したぐらいで、印象的なことはそのときの会談にはありません。
  301. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 その後近衞文隆君の消息は分らなかつたのですか。
  302. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) それで私も昔の部下であつたし、何とか聞こうと思つていろいろの人に接するごとに、若い他のラーゲルから来た人にああいう著名な方ですから聞こうとしましたが、どうしても分りません。近衞君の消息はその後どこからも聞くことができません。殊にイラブカには日本の将校が数千もおりましたので、このイラブカから来た人にも聞きましたが、おらぬというし、マルシャンスクの方にも大勢おりましたから、その方に聞いてもどうしても分りません。
  303. 北條秀一

    北條秀一君 池谷さんにお伺いしますが、あなたはドイツ人の捕虜と一緒におられたような先程お話がありましたが、多数のドイツ人と一緒におられた経験がありましようか。
  304. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) ちよつと、多数のドイツ人ということはお問いの意味が分りませんが、私のおりました七〇二七の第一分所におけるドイツ人、その数は概ね千名、若しくは千百名、日本人が約二十名、ハンガリーの捕虜が二百数十名、ルーマニア人百数十名、チェコその他が一、二名若しくは数名というような数字に記憶しております。
  305. 北條秀一

    北條秀一君 本日皆さんにお出で願つたのは、ソ同盟に残留する同胞の実態調査に関する件というのでありますが、私が特にドイツ人の捕虜についてお聞きしましたのは、こういうことについてお話を聞きたいのだからであります。それは最近ソ連から帰りました同胞が次のようなことを言つておる。それはドイツの捕虜と日本人捕虜を比較して見ると、ドイツの捕虜はゲルマン民族としての確乎たる思想的な信念を持つておるということ、もう一つは、ゲルマン民族としての非常な優越感を持つておる。同時に彼らは非常な団結心を持つておる。この三つの点がドイツの捕虜と日本の捕虜と比べて見ると顯著な差だ、こういう話がありますし、又こういうことがいろいろな雑誌等に出ておるのであります。皆さんの一緒にお帰りになりました元樺太長官の大津敏男氏が、最近新聞に投書したところによりますと、日本人の捕虜は元将校の人達であつても、向うで全くの裸の人間としては尊敬に値えしないというような極めて、何と言いますか、信念に欠けたような態度であつたということを書かれておるのでありますが、その点私は誠に日本人として残念に思うのでありますが、特にあなたはドイツ人千数百人、又ハンガリー人、ルーマニア人の捕虜達と一緒におられて、彼らと日本人捕虜との間に私が今言いましたように著しい差違が感ぜられたか、こういう点について、あなたの御見解を聞きたい。と申しますのは、今言つたことによつてお分りになると思いますが、いろいろの問題について日本の捕虜が、ドイツ人のような確乎たる団結心と信念の上に立つておれば、もつと事態がよく展開したのではないかというふうに思うのでありますが、実態調査の一項目として、あなたの御見解を一つ承わりたい。
  306. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) 只今の比較問題は全くむずかしい問題でありますが、私の極めて主観に脱すると思いますが、ラーゲルにおける全般的な感じから申しますと、今のドイツ人はいろいろの思想を受入れており、どんな思想が来ても恐れない。言換えると免疫性がある。これに比べると日本人はまだ純潔で、いろいろの思想の研究もしていないし、感染もしていない。従つて純真と申しますか、そういう思想を受入れる程度においてドイツ人と相違があるのではないか、こういうふうに私は考えました。何としてもドイツ人は個人主義に立脚しております。非常な個人主義であります。平たい話が、ラーゲルにおいて金の代りに貰つて煙草を貨幣に使つておる。具体的な話をしますと、洗濯は正式には十日の一度ぐらいして呉れますが、そういうときに洗濯を出すと、非常に手間がかかり綺麗にして呉れない。そういうときに、シャツ一枚洗濯して貰うのに煙草七本をやりますと、その洗濯屋は自分の作業が終つて後、つまりノルマ以外の仕事として、一生懸命やつて呉れて、非常に綺麗に早くやつて呉れる。その他「いも」剥きでも煙草を與えると「いも」剥きの代りをして呉れる。日本人なら煙草を喫わない人なら呉れてしまいますが、彼らは煙草をそのように使つて、なかなかがつちりやつております。又個人主義にはその道徳がありまして、日本人のように非常なお節介とか、何でも自分の思う通り強要しようというようなことはない。各人それぞれ自分の主義に基いて生きておればいいのだ。こういうような個人主義社会におきまする一つの彼らの法則によつて、極めて良好に秩序が保たれておるのではないか。こういうような差違があるように感じました。それからラボータ、作業にしましても、よく聞く話で日本の捕虜は一一〇%も成績を上げておる。その一番いい例としては、七〇二七ラーゲルの第二分所において、概ね同数のドイツ人と日本人が住んでおりましたが、私ソ連の通訳から聞いた範囲でありますが、日本人は非常に成績がよくて、いつも一五〇%若しくは二〇〇%に近い成績を挙げておる。ところがドイツ人はなかなか一〇〇%に行かない。非常によく日本人が働くというようなことを聞いておりました。で、政治教育にしましても、何にしましても、日本人の方は、これは全く私の主観で、沢山ラーゲルを見ないので当らぬかも知れませんが、少し日本人の方は、ソ側が要求するよりも行き過ぎておるのではないか。ドイツ人の方は、政治教育にしても、作業にしても、何にしても、ソ側の考えよりも少しあとに下つておるのではないか、それは分りませんけれども、そういうふうな感じであります。尚、私初めてあのラーゲルに行つたときに、荷物運搬か何かで、車が坂を上つておりますときに、日本人とドイツ人は遠くで見れば直ぐ区別が付く。どういう点で区別が付くか、坂道を車が上るときに、捕虜が車を引いて、あと手ぶらの者がぶらぶら歩いておつたら、これはドイツの捕虜だ。坂道を車が上るときに、蟻が引張つて行くように、皆で協力して、うじやうじやと車の傍に付いて坂を上つて行くのは日本人だ。非常に日本人はお互いに協力して助け合うが、ドイツ人は自分の任務ならばやるが、任務以外のことは我不関焉というような話を聞いたことがあります。以上であります。
  307. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 証人にお尋ねしますが、まあ将官ラーゲルにおいでになつたのですから、一般のラーゲル、或いはその他の点については、なかなかよくお分りにならないのではないかとも思います。私が今お尋ねしたいと思いますことは、向うでどれくらいの日本人が死んだかということであります。実は昨年の五月の二十日に、タス通信で以て発表があつたのです。それは日本人の捕虜総数として五十九万四千名、日本に帰した者に四十一万八千百六十六名、現地で解放した者が七万八百八十名、今残つておるのが十万四千九百六十四名である。そのうち九万五千を帰したということなんです。ところが今年になりまして、一月、二月に二杯船が来て、約四千名近い人が帰つておる。今度更に四千名帰すという中に、皆さんがお帰りになつたのが二杯ありますが、それは三千名に足りないです。ところが、今向うで二千四百六十七名が残つておる。こう言われておるのですが、ずつとこう計算して見ますると、殆んど一人も死んでおらぬということになります。これはどうしても私共は不可解でならないのでありますが、そういうふうな点について、あなたのお知りになつておる範囲内で御証言願いたいと思います。
  308. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) 御承知のように、将官ラーゲルは、外の工場とか、コルホーズに絶対に作業に出ずに、いつもラーゲルの中に閉じ籠つておるので、外の樣子というものは全然分りません。ただ勤務員が外に出て聞いて来ること、若しくは勤務員の交代のときに新らしいことを聞くこと、そんなようなものが主な情報の蒐集でありますが、確かに入ソ第一年においては、相当の数が死んだであろう。殊に先程申しましたように、我々の入ソ第一年の冬の食事というものは、非常に極東全般において物不足でありました。それから恐らくソ側においても受入態勢というか、捕虜を大量にソ側に入れて、その宿営設備といつたようなものもきつと惡かつたに相違ないし、又使うべき作業、場所というものもうまく合理的になつておらなかつたのではないか。そういうために、相当僻遠の地とか、或いは宿舍の惡い所なんかに入つて、食糧難と寒さの可なりの犠牲者が出たのではあるまいか。そこで翌年、即ち昭和二十一年の八月と記憶しておりますが、モスコーから中将が将官ラーゲルに見えました。そうして山田大将の部屋に行かれて、自分はモスコーから状況観察に来たのだが、どうも中央アジア地区においては、日本の捕虜の死亡者が少くて非常に工合がよいが、どうもシベリア地区は捕虜が多くて困る。そこでソ連当局としては速かにラーゲル、兵舍ですが、ラーゲルを沢山作ろうと思つておるのだと、こういうことを山田大将に申されて、山田大将から廊下で我々聞いたのであります。そういうことを思い合せますと、相当入ソ第一年の年には死亡者があつたのではないか。然らば、何万人ぐらいの人が病気その他で、或いは外傷で倒れたのであろうというようなことは、基礎を言つて見ろと言われれば、全く基礎はない数字でありますが、まあ向うでも考え、皆で話合つたところでは、十五万人くらいはあるのではなかろうかと、こういうように考えるのであります。而もそれがどういう根拠であるかという点は、これは全く資料はありません。併しまあ皆の判断力で判断して、まあ十五万人ぐらいは死んだのではなかろうかと、こういうのであります。これも甚だ基礎が薄弱であります。
  309. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それでは、今度は向うに二千四百六十七名という者が残つておるということは、はつきりタス通信によつて知らさせておるのですが、そうした残つておる数に対してはどういうふうでございましようか。
  310. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) 今のタス通信で申されておる二千数百名の残留者、これに対しては、私はどうもちよつと、ハバロフスク、若しくはその附近の方でありますし、終り頃ラーゲルに入つておるような状況でございますから、全然考える基礎はありません。又外の方も判断できないと思います。
  311. 北條秀一

    北條秀一君 池谷さんにお伺いしますが、今の死亡者について、将官ラーゲルにおける皆さんの推定で、そういうことを考えられたということは、私も成る程と思います。それでは、それに関連いたしまして、将官ラーゲルの中に皆さんがいろいろとお話しになつていた際に、一体終戰後ソ連にどれだけの人間が抑留されたか、要するに入ソしたかですね、こういうことについてお話しになつたことがありますか。或いはお話しになつたことがあれば、一体何十万人くらいというふうな見当を立てられたことがありましたら、それをお知らせ願いたいと思います。
  312. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) この数字も寄り寄り話したのでございます。全く何十万というような的確の数字を申上げかねるのであります。殊に大きな因子として分りませんのは、例の終戰直前に、在満同胞を召集して、各種の部隊を作りました。で終戰と同時に、関東軍はその解散というか、復員を命じまして、除隊さして、一般居留民として家族と共に帰つた人もあろうし、又電報命令がうまく届かないために、そのままおつた人もあろうし、たとえ除隊しても、自分は一遍軍人となつたのだから、軍と行動を共にしようということでした人もありましようし、そういう因子が極めて不明でありまして、それに一般居留民も、或いは警察官というような者も、相当入ソしておるようでありますから、そういう点から考慮して、どうも我々には何十万ということがはつきり言いかねるのであります。
  313. 岡元義人

    委員長岡元義人君) では次に湧澤証人にお伺いしますが、湧澤証人は、先程いろいろ他の証人から問題の丸茂事件等の証言等もございましたが、いわゆるそれと同じような方法で、無実の罪で服役しておるというような問題も御存じでございますか。若しその点分つてつたならば、証言して頂きたいと思います。それからドーリンキ囚人ラーゲルという囚人ラーゲルの名前が出ておりますが、これは今までに初めて出た名前でありまして、この点についても場所等を明らかにして頂きたいと思います。以上お答え願います。
  314. 湧澤忠雄

    証人湧澤忠雄君) 発言いたします。第一番目の、無実の罪によつて刑を受けたのではないかという事柄でありますが、私はハバロフスク第五分所におりました。ここのラーゲルの特質から申上げますと、この收容所はハバロフスクの監獄に近い收容所であります。そうして又日本人の俘虜の管理局の近くにある收容所でありまして、ハバロフスク管下の各地の收容所より憲兵、或いは何事か叩けばぼろが出るのではないかというような者を全部集めておる收容所でありまして、私が昭和二十二年の一月の六日にその收容所に私の部下十五名と共に、取調べを受けるためにそのラーゲルに転属をさせられました。その際この收容所に何で来たのか分りませんが、とにかく裁判を受けるためにこの收容所に廻されて来たのであるという者が約九十名程このラーゲルに集まつておりました。そうしてこの隊を山崎隊と称しておりました。後にこの山崎隊に代りまして、私の名前を冠して湧澤隊と称したのであります。この隊の人達と起居を共にしておりましたので、この人達の樣子を聞きますと、單にロシア語ができる、或いは以前特務機関において伝令をやつてつた、或いは情報隊におつて勤務しておつた、これだけの簡單な事項によりまして集まつて来た人達ばかりであります。で、この人達が逐次裁判を受けまして監獄に入り、又監獄から取調ベを受けた人が刑を受けずに一旦收容所に戻つて来たりするというような特殊な現象を来しておりました。特に先程申上げましてように、何らこれといつて罪であるかどうか追及して分らないようなものばかりでありましたのです。その次に、ドーリンキの收容所のことについて申上げますと、私は昭和二十二年の十二月にハバロフスクの監獄に入れられまして、そうして昭和二十三年の一月の十八日に懲役二十五年に処せられまして、爾試イルクーツク、ノーシビルスク、ペトロパロスクを経てカラカンダのずつと先でありますここのカラパス管下の收容所に送られたのであります。このカラパスの收容所について申上げますと、ここには、この管下には約二百五十程の囚人の收容所があると推定されました。これは私のおつた收容所の番号が二百四十六條という番号が付しておりました。ここのカラパスの收容所には、絶えず六千乃至八千人くらいのソ連の囚人がおりまして、この中に私が送られました際に、やはり三十九名近くの、数字は忘れましたが、約三十名程の日本人が各地からおのおの刑を貰つて、この收容所に集合しておりました。そうしてここの收容所は各地から集まつて来た囚人を一旦その收容所に入れまして、それから各管下の、先程申しましたところの二百五十に近い囚人收容所の要求によりまして配給をするところであります。昭和二十三年の三月末にこの收容所に着いたのでありますが、三月の末から私は四月の二十日頃までおつたのでありますが、この期間に三十名程各地から集まつて来ましたところの日本人があります。これはこの管下の各地に二人或いは三人、或いは一名といつて出されておりました。それから前から来ておりましたところの日本人の人達に会つたのでありますが、これもいずれも刑を貰つた人ばかりであります。その人の話によりますと、やはり私より前に日本人が刑を貰つて来ておつて、先にどこか知らないがラーゲルに出された、こういうことを聞きました。又そのとき暫く遅れてから同じように刑を貰つたところの日日人が参りまして、ハバロフスク方面から一緒に樺太方面の邦人が約六十名程同乘して来た、そうしてそのものがクラスノヤルスク、この地で下ろされたということを聞きました。話が前後いたしますが、クラスノヤルスク地区に日本人が相当おるということはロシア人も非常に言つております。尚現在もおります。カラパスのラーゲルの特質につきましては先程申しました通りであります。このドーリンキの管轄の收容所におきまして死亡した囚人のことでありますが、刑を貰つた日本人の死亡者についてでありますが、私がドーリンキの收容所におりました際に、やはり同じように刑を貰つて死亡した者が一名あります。これは人名は松村秋象という者であります。尚この收容所におきまして作業に従事いたしておつたのでありますが、相当の激労でありまして、私も動けなくなりまして、その土地の囚人病院に入院をさせられまして、そうしてその病院に約二ケ月おつたのでありますが、前におりましたところの日本人及び囚人の病人から聞いたのでありますが、私の約一ケ月程前に次の三名の者がやはり刑を貰つて、この附近のラーゲルに働いて、そうしてこの病院に入院して来て、そうして死亡したという事実を申しました。実際においてこれを認めたものがおります。この人名は二階堂という岡山県の者が一名死んでおります。一名は場所は忘れましたが、武本、それから尚黒河方面で警察官をやつておりました小林という者が死んだということを言つております。これらから見まして、他の地区の囚人病院にも刑を受けて入院したところの日本人が死亡しておるのではないかというようなことを深く考えたのであります。    〔委員長退席、理事淺岡信夫君委員長席に著く〕  その次に、まだ残つておるということについてでありますが、私が今回ハバロフスクに向つて、前の收容所を本年の二月四日に出発を命ぜられたのであります。この際に日本人六名と共にドーリンキのソホーズの囚人收容所を出発いたしました。六名はこのソホーズ関係で全員でありました。この六名が本部の位置に参りましたところ、ここにおいて書類の検査を実施いたしました。その際に軍事捕虜ではないということによりまして、堀川という者と、それから樺太出身の宮島という二人は、お前二人は捕虜でないから帰れという命令を貰いまして、今まで行動を共にして来たのでありますが、その本部位置から元へ帰されました。又その本部位置を出発いたしまして、カラパスに私達は集結をしました。集結をしますと同時に、各地の管下の各囚人收容所に働いておりましたところの日日人が続々と集まつて参りました。そうしてその人達の日本人の話を聞きますと、やはり私の收容所で見ましたような現象と同じように、軍事捕虜でないものが向うに残されたという事実を言われました。又その集合地におきまして、数日しましてから、ハバロフスクに出発をしたのでありますが、その際にやはり軍事捕虜でない者が残されました。後刻この軍事捕虜でないところの一般邦人はハバロフスクに遅れて参つたのでありますが、樺太の邦人、これは最後までハバロフスクの集結地に参つておりませんでした。これらの細かい人名等につきましては、舞鶴港で寄り寄り集まりまして、分つた書類を関係者の方に提出して置きました。カラパスの管下の状況については以上の通であります。
  315. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 他の委員で何かお尋のおありの方は……
  316. 北條秀一

    北條秀一君 池田証人発言を求めております。
  317. 池田正人

    証人池田正人君) 発言します。さつきの質問にありました丸茂氏並びに藤島、こういつた者と類似の事件が、尤もこれは誰でもカラカンダにおつた者は知つておると思うのですが、非常に重大な事件があります。これはここにおられまする松原証人及び宮地証人は御承知の筈と思いますが、それはこういう事件であります。二十四收容所において、丸茂氏並びに藤島君がやつたことが非常に成功を得まして、前職者並びにいろいろな過去におけるそういう係累者がうまいこと摘発されたというようなことを、二十四收容所から一般他の軍事捕虜の收容所の委員会を聞きまして、そうしてこういうことが起つたのであります。これは私がカラカンダの十一分所におりました一九四九年九月頃のことであります。三十九師団と言いまして、中支の前職宜昌並びに桂林、主に前職の山猿といつて非常に恐れられていた部隊でありますが、支那では一番強い日本の軍隊とされておりました。これが前戰において非常に暴行をやつた、それでその長である名前は下山か、下村かはつきりいたしませんが、その中将が今モスコーで裁判になろうとしておる。中共軍の方から特にモスコーの方に依頼があつて、三十九師団というのは我々を非常に虐待し、いじめた、だからこの中将は徹底的に裁判をして貰いたい。そこで各委員会の方にモスコーの方から指令があつて、その三十九師団に元属しておつた人間に、その下山か下村か存じませんが、その中将の裁判資料を作るから皆協力をして貰いたい。これはカラカンダの第八分所でこの話が持ち上つたのであります。それで委員会はカンパを持ちました。我々は真に階級意識に透徹し、フアシストの軍隊であつたということを真に後悔するならば、我々自身の手によつてかかる非常に大きな罪を犯したところの将校並びに将軍の参考資料を作ることは、現民主運動の段階における我々の任務であるというようなことを言いまして、そうして三十九師団の人間を全部集めまして、これに一人ずつ自筆書を書かせました。そのときの民主運動の段階から申しまして、特に三十九師団であつたところのアクティヴィスト諸君は、これに積極者に参加いたしまして、我我の手で我々の罪状並びに我々の幹部の摘発鬪争をやろうという声が、ほぼ全カラカンダ地区に広まりまして、このカンパニヤが日本の各分所において持たれたわけであります。そうして当時三十九師団であつた人達は皆そのカンパニヤに捲き込まれまして、特にアクティヴの連中はプロパガンダをやりまして、摘発を徹底的にやつたのであります。三十九師団の一兵卒に至るまで皆殆んどしらみ潰しに自供書を書いた、自筆書を書いた。どんな細かいことでも書け、例えばどこそこにおいて何ていう村で、誰それという下士官は支那人をぶつ殺した、或いは誰それという将校は何名の支那人を試し斬りしたとか、誰それは火をつけたといつたような細かいことまで、各人は自分の知り得る限りにおいて書いたのであります。
  318. 北條秀一

    北條秀一君 ちよつと発言中ですが、証人の人達のあとに残つている人達は全部証言が済んだのでしようか。
  319. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 済まないのです。あと二人です。
  320. 北條秀一

    北條秀一君 私は池田証人湧澤証人証言に関連した発言だと思つたのです。
  321. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) それでは池田証人ちよつと御注意申上げますが、実は委員長も北條委員も、湧澤証人の関連事項だと思つたものですから、あなたの証言を許したのでありますが……
  322. 池田正人

    証人池田正人君) 発言します。
  323. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 関連しておりますか。
  324. 池田正人

    証人池田正人君) 私は岡元委員長湧澤証人質問された藤島並びに丸茂、これに類似の事件はないかということで、私は証言をしております。
  325. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 池田証人に今その証言の途上でありますけれども、一応ですね、今の湧澤証人を除けまして、以外にあと二人の証人の方が残つておられる。一応そうした皆さん証言を聞いたあとで、それをして頂きたいと思います。
  326. 池田正人

    証人池田正人君) 分りました。
  327. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 一時ちよつとお座り頂きたいと思います。
  328. 北條秀一

    北條秀一君 あとに残つている証人証言を一つ求めて頂きたいと思います。
  329. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 湧澤証人に外にお尋ねございませんか。北條委員ないですね。
  330. 北條秀一

    北條秀一君 ありません。
  331. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 湧澤証人今何か……
  332. 湧澤忠雄

    証人湧澤忠雄君) ハバロフスクに今回帰還のために集結したのでありますが、このハバロフスク地区に残つているもののことにつきまして申上げたいと思います。
  333. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) それでは一つその数とか、或いはどういうふうな関係の人達であるとかという点を、成るたけ簡潔に御証言願いたいと思います。
  334. 湧澤忠雄

    証人湧澤忠雄君) 私は三月の十七日にハバロフスクの第二分所に到着をいたしました。そうして今回ハバロフスクを出発いたします際に、第一回目に私達は二百四十六名出て参りました。その次にここに証人として来られております兒玉さんの連れておる二十四名の方、これだけが第二分所から出発しまして、その残りの約三百三十名、これの人名その他につきましては、詳細に舞鶴におきまして、関係者に報告をいたして参りました。これだけの人が第二分所には残つておるのであります。この残つておる人達の主なる前職、身分というものについて申上げますと、私は関東軍の特殊情報隊におつたのでありますが、私の部隊関係に属します者の大部分は向うに残つております、又、憲兵、特務機関、この前職を持つておられる方、これだ第二分所に残つております。
  335. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) よろしうございますか。……それでは湧澤証人に一言お尋ねいたしますけれども、そうしますと、今のハバロフスクの同じ部隊の者の分の過半数と申しますか、三百三十名は実は残つておるのですね。
  336. 湧澤忠雄

    証人湧澤忠雄君) そうであります。
  337. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) よろしうございます。外に御質問ございませんか。
  338. 北條秀一

    北條秀一君 あとで……あとの二人の証人にやつて貰いたい。
  339. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 秋葉証人にお尋ねしますが、秋葉証人のおられた所はどこでありますか。
  340. 秋葉重徳

    証人秋葉重徳君) 発言します。私はクラスナヤルスクにおりました。
  341. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) そこに何年ぐらいおられたのですか。
  342. 秋葉重徳

    証人秋葉重徳君) 四年半であります。
  343. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 秋葉証人にお尋ねしますが、その当初から帰るまで、殆んどそこにおつたということになりますね。
  344. 秋葉重徳

    証人秋葉重徳君) 二十年の九月の二十六日にクラスナヤルスクの三十四地区三号に着いておりました。それから約三年、そのウラーキリで働いておりました。
  345. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 秋葉証人にお尋ねしますが、その間における民主運動の状況と言いますか、それを一つ簡單に御証言願います。
  346. 秋葉重徳

    証人秋葉重徳君) 民主グループは、一番最初は作業というものをお互いに向上させ、皆さんの暮しを良くする、こういう名目の下に作業の督励をしておりました。そうして一個のグループを結成しまして、そのグループにおいてソ連将校政治部員のニシチエレンコという上級中尉の指導の下に、各グループごとに、ソ連の社会情勢並びに共産主義の実体というような方面において、あらゆる講義、あらゆる指導をブルガーシルを通じて教えておつた。それから日を逐うて進むに従いまして、二十一年の十月頃に反フアシスト委員会というのができ上りまして、それから積極的に我々捕虜に向つて政治運動を開始したのであります。そうしてその政治運動にどういう方法で以て、やや半強制的に強要したかというのは、反フアシスト委員会に全面的に全員が賛成すること、その賛成を拒んだ者は我が反フアシスト委員会に対するところの反動である。いわゆる民主グループの唱える反動という名前を付けたのであります。もつと詳しく言うなれば、その運動に対して積極的援助をしない者は反動と唱えて、相当それに対するところの責任を問うといつたような形で以て、あらゆる部面にえらい作業に廻すとか、或いは作業から帰つて来ていろいろな使役に使うというような、要するに卑怯な手段を講じて、どうしても反フアシスト委員会、いわゆる民主グループに加入しなければならない。加入しないというと、自分の相当に疲れ果てておるところの身体に、もつともつとそれ以上の重荷を背貨わされなくちやならないというような式で、民主グループをまず強固に固めて行つたのであります。
  347. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 証人にお尋ねしますが、二十年の十二月から二十一年の十二月までの一ヶ年間におきまして、あなたのおられた收容所で死亡された人の人員なり、状況なりを簡單に一つ御証言願います。
  348. 秋葉重徳

    証人秋葉重徳君) 私のいた第三ラーゲルは熊谷隊と申しまして、千五百名の一行であります。その千五百名の部隊が行つた当初に七名の病人を軍中に出しまして、そのままここに落着いたのであります。その後毎日のように病人が続々と出ました。併し行つた間のやや一ヶ月間は、自分達が満洲から持つてつた食糧がありましたから、そのまま病人も十七八名ぐらいで一ヶ月間ぐらいは止めたのであります。二十一年の二月頃から病人が続々と殖えまして、食物が惡いのと、労働が過激なので病人はますます殖えたのであります。一番多いときが約四百八十名という病人が出まして、病室には收容しきれずに、普通のバラツクにそのまま休ませたような状態であります。それからその病人を医者が手当をするのでありますが、薬もありませんし、ただ寢かせて置いて休ませるぐらいの程度でした。それで死亡者が一人出、二人出、段々と出るようになりました。一番多いときは同年の三月頃からぼつぼつ死に始めまして、三月頃になりまして五名死ぬのが平均でありました。それから五月過ぎ、六月近くになりまして、死亡者が毎日平均十名乃至十四、五名であります。その当時の日本の軍医の武内という軍医は、これは栄養失調だと名付けておりました。併しその病人は毎日大体朝ソ軍のドクトルが出て来まして「武内、今日は何人死んだ」、こう言うと、武内軍医は、「今日は十一名だ」と答えた。ソ軍のドクトルは「うん、今日は少なかつた」、こう言うのであります。ですから大体平均にならして十名ぐらいの見当で死んで行きまして、その十一月末あたりから病人も食止めるようになりました。私の覚えておるだけでは三百六十七名死んでおります、約一年間に……
  349. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 分りました。それから刑を受けた事件の状況ですね、それを御証言願いたいと思います。
  350. 秋葉重徳

    証人秋葉重徳君) 私が刑を受ける原因は、三年間そのラーゲルで働きまして、私は被服の方を担当しておつたのであります。ソ軍将校の軍服並びに私服の注文を受けまして、それを縫つておるのでありますが、三年間ロシア人の仕事ばかりやらされまして、日本人の仕事は殆んどやりませんでした。そういう関係上、いよいよソ軍の将校達がもうお前達は日本に帰るのだという話や噂が段々濃くなつて参りました。自分達は又騙されるのじやないかと、余り気に留めておりませんでしたが、そのうちにここの政治部員も今月の二十日頃帰る、というのは二十三年の九月十日頃の話であります。で私はいよいよ帰るのだというので以て、今までやつてやらなかつた自分達の戰友の仕事を成るべくやるようにというので以て、私の所で以て働いていた部下の洋服屋が約三十名程おりましたが、全員にロシア人の仕事をやらないようにしろというわけで注文を取りませんでした。そうしますというと、クラスナヤルスクのソ軍司令部の政治部の少佐の人で名前は忘れましたが、その人が私の所に軍服と外套の注文を持つて来たのであります。「この外套をお前が帰るまでに縫つて呉れ、あと一週間しかない。」、こう言うのであります。私は今まであなた方の仕事ばかりやつて来たのだから、もう日本に帰るのだから、日本人の仕事をさして呉れと、私は断わつたのでありますが、それでもたつて縫えと言うのであります。仕方がありませんから、自分は裁断だけして放つて置いた。そうしたところが、お前は私の言うことを聞いて呉れないというと、お前に不利になるというようなことを言われましたから、仕方がないから聞こうと言つて、外套一枚縫つて軍服を縫わずに放つて置いた。それから後、彼が又来られまして、外套はよくできた、服も作つて呉れ。ところが私は服を作るのは欲していなかつたものですから、急いで作つてもよくできないから断わります、はつきり断わつたら、よろしい、お前は縫うことが嫌だつたら縫わぬでもよろしい。それではお前は他のラーゲルに転属して私の服を縫わねばならぬぞ、こう言われたのであります。併しどうせ帰るのだから、何を言われても構わぬという気持で自分は呑気にしておつたのです。そうすると、同年九月の十三日の日か四五日であつたと思います。司令部に勤務している名前はバクダンノフ・ミイシヤーという将校が来まして、その将校は三年前からこちらのラーゲルにしよつちゆう往来して洋服を作つてよく知つているのであります。その将校が私にお前はもうすぐ帰れるのだ、お前の時計を俺に遺品に呉れぬか、こういうわけであります。そうすれば、お前を長く俺は忘れない、こう言われたのでありますが、この時計は家内の遺品だからやることはできない、あなた欲しかつた自分で買つたらいいじやないか、と言うたところが、その将校は俺は金がないと言うから、金がなかつたら僕の所の倉庫に員数外の被服があるから、それをバジルーに売つたら金はできるじやないか、それでその員数外を呉れと言うので、倉庫から二、三点の被服を出して預けた。そうすると、バクダンノフはそれを持つて司令部に帰つたのでありますが、その翌日私は司令部に呼ばれたのであります。それで呼ばれて他の政治部員からお前はバクダンノフに被服をやつたか、やりました。そうか、それでそのやつたときの状況を話してそのまま帰りました。十五日の日に又呼出があつて行きましたら、お前は転属するのだというわけで、裝具を背負つて出かけたのであります。それで着いた所がクラスナヤルスクの第一監獄であります。それで七年の刑を受けたのであります。こういうわけであります。
  351. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) 分りました。あなたがそこを今度立つてこつちに帰られるまでの間に、一体どのくらいの人員が残つておるかというような点について、知つている範囲において簡單に御証言を願いたい。
  352. 秋葉重徳

    証人秋葉重徳君) 私がそこにおるときは自分一人であります。全部ロシア人だけでありました。日本人はおりまんでした。併しそこへ各方面から日本人がときどき集結して来て飛行機で送られて行くということを自分知つたのであります。それはどうして分つたかと言いますと、日本人に会いたいというのは、常に自分は思つておりまして、或る日のこと本部に行くべく外に出て行きましたところが、馬鈴薯の選別使役に出ている男の中に、関東軍の防寒帽を被つているのを見付けたのであります。あれは日本人じやないかと思つて顔を見たのでありますが、顔が変つておるし痩せておるので分らなかつたので、日本語で以て君は日本人かと尋ねたところが、彼が僕は日本人です。こう言うのです。その男にいろいろ聞いたのでありますが、その人は山本太一という男だつたと記憶しております。樺太の罐詰工場の重役なんかしておつた人で、五十八條の刑法で三年半の懲役に処せられていたものであります。ところがその三年半の刑が二十日程前にカンスクのリシヨウテイ地区の第八号とかというラーゲルで以て刑が終つたそうであります。
  353. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) いや、証人は私がお尋ねしておるのはその地区にどのくらいの人員がおつたかということをお尋ねしておるのでありまして、一つその辺で証言を打切つて貰います。
  354. 秋葉重徳

    証人秋葉重徳君) クラスナイ地区、リシヨウテイ地区十五のウラーギリにおるだけで外にはおりません。リシヨウテイ地区は私の知つておる範囲では約百六十名おりました。それは軍関係の者はおりません。邦人だけであります。この百五十何名のうちには女が約四、五名おります。
  355. 淺岡信夫

    理事淺岡信夫君) どうぞ着席を願います。    〔理事淺岡信夫君退席、委員長着席〕
  356. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 続いて兒玉証人にお伺いいたしますが、あなたの裁判の状況を御証言願います。
  357. 兒玉政一郎

    証人兒玉政一郎君) 年月日は西暦で申上げますから予め御了承願います。私は一九四九年の六月十三日ハバロフスク地区のホール病院、ここで入院加療をしておりましたが、六月十四日に逮捕状を発付せられまして、そのままハバロフスクの……監獄が十八分所の横に二つあります、白い監獄と赤い監獄と二つあります。その白い監獄に入れられました。この監獄はロシア人に聞きますと、未決が入る監獄だつたそうであります。それからロシア人は既決になつたら赤い監獄に入り、それに約三日ぐらいおつて囚人ラーゲルに行く、こういう話でありました。併し一時日本人の未決が非常に殖えましたので、日本人の未決の大多数というものは赤い監獄に入つて取調べを受けました。そこで九月の二十二日まで取調べを受けました。私の職務はハルピンの特務機関の防諜班の勤務であります。私は取調べに当りましては、自分の防諜業務である、防諜業務は敵の諜報に対する防衛行為である。これは自衞の行為である。これは自分の常識からすると、絶対刑法にかかるべき筋合いのものでないということを強硬に突張つたのであります。ところが私の部下で松坂という男が次のような証言をやつたのであります。それは、自分は、やはり防諜班の勤務であるが、班長から次のような指令を貰つておる。それはハルピンのソ連領事館を通じて、ソ連の対日攻撃の時期を把握せよ、こういう指令を貰つてその任務に基いて活動した。こういう証言の書類を松坂という男が提出いたしたのであります。それで取調官はその証言に基きまして、お前がそういう指令を出したのだろうと言つたので、強硬に突張つたのであります。私は飽くまでそういうことは知らない。そういうことを出した覚えはないというわけで、数回私を尋問に呼びましたが、とうとう私は最後までそれを通しました。でまあ向うでもとうとうしようことなしに、私の言分通り、私はその証言は認めないというように私の調書に書きまして、ハバロフスタの軍管区の軍事裁判所に行つたのであります。裁判は非公開裁判であります。私と当時行きましたのは情報部関係の二名、私を入れまして計三名であります。裁判所に着きますと、そこに簡單な控室があります。そこの中の壁にはどこどこの何の其何年の刑を貰つた、大いに頑張つて呉れというような落書が、私が当時数えた数は二百四十六だつたと記憶しておりますが、二百四十六書いてありました。刑の種類を判別をしますと、大体一番多いのが二十五年であります。それから次に多いのが十五年、次に多いのが二十年、これが大体大多数の刑の種類でありまして、二名程例外としまして十三年と十八年、これはおのおの一名ずつ。そういうような数字でありました。そこで待つておりますと……、その前に、話が前後しますが、監獄を出ますときに、ソ連の護衞兵がその日は特別の正装をしまして、勲賞、徽章のあるものは勲賞、徽章を佩用しまして、一人について二名附いて参りました。で裁判所へ送られましたのは囚人自動車と言つて鍵の付きました真暗な車に乗せられて軍法会議まで参ります。控室で待つておりますと、法廷の方から、呼びに参ります。私の考えとしましては、測判をやるのだから相当荘嚴なところでやつて貰えるのだろうと、こういうように考えておつたのであります。で案内されて行きましたところが普通の事務室であります。でどうも気合を抜かれたような気がしましたが、まあ入れという話でありますので、中へ入りまして、そこに気を付けの姿勢をして立つたわけであります。ところが正面に三名坐つております。それから横に二名、正面は真ん中に大尉、左の方に女の少尉、そこでやおら中央の人が立ち上りまして、只今からこの裁判の構成を言う。裁判長パウロフ法務大尉、陪審員の名前はちよつと忘れましたが、何とか大尉、同じく陪審員何とか少尉、この少尉は女であります。それから書記、ちよつと名前を忘れました、それから通訳が一名、後の方に護衞兵が二人立つておる。以上の裁判の構成の発表がありました。これに対して本人は、どうだ、この措置に対して異議があるかないか、私はまあ全然状況分りませんから、異議ありません。そこで予め裁判官が用意しました質問事項の基きまして、裁判官が三項目、それから質問しまして、それに対して自分は思つたことを答えたのであります。飽くまで防諜行為は自衞行為であるということを頑張つたわけであります。向うではああそうかよく分つた。隣りの陪審裁判官を見まして何かお聞きになることはありませんかというようなことを言つたようです。で陪審裁判官が予め用意した紙切れに書いたもので二つ三つ質問しました。これに対しても答えました。そこで只今から休憩を宣告するというわけで休憩になりまして、控室に帰つたのです。控室で約三十分間待つておりましたところが、又呼びに参りました。そこで再び裁判の法廷に立ちました。ところが真ん中におりました裁判長が只今から判決を言渡す。元陸軍大尉兒玉政一郎、ハルピン陸軍特務機関防諜班長は、ソ連刑法五十八の六項により有罪なりと認め、二十年間の強制労働收容所監禁に処す、こういうような判決がありました。何の意見があるかという話であります。そこで私としましては全然不服である、もう少し真劍に一つ聞いて貰いたい。丁度私の裁判の途中に、そこに書記が座つておりましたが、それが大きなあくびをしまして、もうまるで早く裁判が済めばいいがという、こういうような調子でありますので、私は非常に憤激しまして、人間の一生を左右するような法廷において、そのような不謹愼な態度でありますので、非常に憤激をしまして、飽くまでも不服である。もう一回審議をして呉れということを言つてたのであります。ところが不服があるならば、お前に七十三時間以内に上告をする権利が與えられているから、監獄に帰つてよく考えて上告をしたらよかろう、こういう話であります。そういうことになつておれば仕方がないというわけで、監獄に帰りまして上告をやりました。大体裁判の状況は以上の通りであります。
  358. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚上告されてから裁判があつたのですか。
  359. 兒玉政一郎

    証人兒玉政一郎君) 上告をしまして五ヶ月間何ら音沙汰ありません。一九五〇年の一月、確か五日だつたと記憶しておりますが、そのときに私が呼ばれまして行つて見たところが、小さな紙切れが来ております。通訳が読んだところによりますと、兒玉の上告は基礎薄弱なりと認めて、それを有罪なりと認め受付けない、棄却をする、こういうようなソ同盟最高幹部会軍事部の通告であります。これを読聞かしたということにサインせよ、こういう話でしたから、サインをしました。
  360. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 各委員質問ございませんか。なければ、時間の非常に経過いたしましたので、一、二点、これは簡單にお答えを願いたしと思いますが……
  361. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 今の兒玉さんの証言のうちで……
  362. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと今兒玉証人の何か……
  363. 日下敬助

    証人(日下敬助君) はあ、それの関連事項として……
  364. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと証人に申上げますが、大体今一応終りましてから、何か言いたいことがあれば求めますから、それまでちよつとお待ち願います。
  365. 日下敬助

    証人(日下敬助君) はあ。
  366. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 杉本証人湧澤証人、美馬証人、日下証人から簡單に答えて頂きたいと思いますが、受刑者に鉄する態度が変つたのは本年の二月四日乃至二月六日においてと考えられますか。又先程証言中にありましたプラウダに載つてつたということから判断いたしまして、対日理事会等におるところの動きによつて、そういう影響があつた、そういう工合に考えておられますか。そうならそう、そうじやないという工合にお答え願いたいと思います。先ず杉本証人に伺います。
  367. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) そうであります。そうと信じております。
  368. 岡元義人

  369. 湧澤忠雄

    証人湧澤忠雄君) 同じようにそう考えます。
  370. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 美馬証人
  371. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) 私もそう考えます。
  372. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 日下証人
  373. 日下敬助

    証人(日下敬助君) そう信じております。
  374. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚減刑等の通知をモスコーから発せられた日にちは、大体二月十二日という資料を得ておるのでありますが、違うと思われる方は御発言を願いますので、御挙手を願います。
  375. 秋葉重徳

    証人秋葉重徳君) 私はクラスナヤルスクの第一監獄に洋服の裁断をやつてつたのでありますが、私がいなくなると工場を閉めなくちやならんという状況でありますので、私を何とかして残そうというので、その司令部並びに警務署の署長あたりが盛んに工作をしておりました。併しどうしても残すことができないと言つてプラターソフというのがそういう書類ばかり扱つている長であります。大尉でありますが、その人が夕方八時頃俺の部屋に来て呉れ、こういうわけで呼ばれて行つたのであります。するとかのプラターソフ曰く、実はお前は軍事捕虜であるが故にここに置くことができない。今度いよいよ日本に帰る、お別れであるということをはつきり私に教えて呉れました。で、私は一月の七日の日にそこを立つたのでありますが、ですから十二月頃からぼつぼつそういう噂は聞いておりました。
  376. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 二月二十日に指令が出たことを知つておられる方はありませんか。御存じないですか……それではその問題はそれといたしまして、宮地証人、松原証人池田証人三名から、この終戰以来多くの抑留者の方々が今日までの間にいわゆる反動分子と言われる人が帰還を遷延せしめられた、いわゆる反ファシスト委員会によつた遷延させられたということをば知つておられる。認められる、この点について先ず宮地証人
  377. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言します。自分は先程証言しましたように、一九四七年の二月一日に行われたところの反ファシスト委員会の選挙の際に、その権限としてさつきのような事項を聞きました。併しながら我々の転々として歩いたラーゲルは、いずれもインターナショナルのラーゲルでありました。そのような構成からして、我々のラーゲルの委員は実際的にそういう活動をしておりません。又我々のラーゲルの中において、反動カンパは殆んど持たれたことはありません。それは我々のラーゲルの構成の特殊性に基くものであります。自分達の知つておる範囲において、具体的に反動であつたから帰さないというような例は自分は知つておりません。
  378. 松原茂

    証人(松原茂君) 今の問題をもう一回……
  379. 岡元義人

    委員長岡元義人君) いわゆる反動分子と称せられる人が、いわゆる帰還の順位を遅らされたということは、そういうことは事実あつたということを認められますか。
  380. 松原茂

    証人(松原茂君) 認めます。
  381. 岡元義人

  382. 池田正人

    証人池田正人君) 認めます。私もその一人であります。私と十人、一級反動として軍事捕虜收容所十一分所から二十收容所へ送られました。うち私外二名、三名しか帰つて来ておりません。あと七名の人間はまだ残つていると思います。そういう例は外の地区においても相当あつたと思います。終ります。
  383. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 宮地証人に今の問題で委員長からちよつと説明して置きますが、あなたは大峯新三以下七名がカラカンダからずつと以前にナホトカに出て来ておる。そうして残りが今度の船で帰つたということは知らないのですか。
  384. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 知りません。
  385. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 全然知らない……
  386. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) はい。
  387. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それからもう一つ宮地証人に伺つて置きます。カラカンダ地区で、いわゆる徳田要請、もう徳田要請というのは日本に帰つて来られた方はしばしば聞かれて知つておられると思います。それに対して、その九分所において質問をした植松君について、現在どこに残つているか、あなただ立つて来られるときはどこにおつたかということを知つておられますか。
  388. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 発言します。カラカンダにおいて、このような事件があつたことは自分は知らなかつたのです。これは舞鶴において岡元委員長から自分質問されたとき答えた通り、これはハバロフスクの第五分所に来て、このカンパが持たれたとき初めて自分は知つたわけであります。植松はカラカンダからハバロフスクに来たのは、これは三つの收容所に分れて配属されました。自分達は五分所、それから十分所、もう一つの分所自分はよく知りませんが、これは受刑者の人達だけ別にいたしまして、この三つに分れまして、梅松は五分所に来ておりませんでしたから、自分は多分十分所におつたと思います。
  389. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ハバロフスクにやつて来たことは知つておりますか。
  390. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 知つております。それも最後にカランカダの十五分所、ここを出るときには受刑者の者が約百名、ちよつと切れますが、九十何名であります。それを混ぜて約九百名、全カラカンダ日本人俘虜及び抑留者は全部十五分所に集結し、それに朝鮮人、中国人、これも含めて、蒙古人も含めて、全部ハバロフスクに移動しました。それ故全部来ましたから、植松はその中に入つてつた自分は思います。
  391. 岡元義人

    委員長岡元義人君) その外に植松君の行動について、最近引揚げて来るまでに知つておられる方があつたら挙手を願います。……どなたも分りませんか。尚もう一人泉田君を知つておられる方があつたら……それじやよろしうございます。  最後に、これは各証会から答えて頂きますが、タス通信の発表はすでに御承知と思いますが、自分が……、最後に還つて来た人も相当おられますが、まだあれ以上に残つておるということを、確実に確信を持つておられるという方がございましたら、御証言を願いたいと思います。先ず湧澤証人
  392. 湧澤忠雄

    証人湧澤忠雄君) もう一度御説明を願います。
  393. 岡元義人

    委員長岡元義人君) タス通信の発表をお聞きになりませんでしたか。
  394. 湧澤忠雄

    証人湧澤忠雄君) 聞きました。
  395. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 聞いておられますか。
  396. 湧澤忠雄

    証人湧澤忠雄君) 聞いております。
  397. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 戰犯関係の二千四百幾ら、病人は九名以外に残つておらない、こういう報道であります。勿論死亡者は一人もないことになつておりますが、とにかくこの数字に対して、それ以上の者が残つておるのだと思われますか、あれが本当だと思います。
  398. 湧澤忠雄

    証人湧澤忠雄君) あれは誰だと確信しております。
  399. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 杉本証人
  400. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) あの数字は非常に少いと思つております。
  401. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚杉本証人に……。今の少いと言われましたが、まだ沢山にいるということをあなたは証明できますか。
  402. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) できます。
  403. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次、美馬証人
  404. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) 私もタス通信の発表する一般の数については嘘だと、そういうふうに思つております。
  405. 岡元義人

  406. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 自分はその件について真僞を確答する材料を持合せません。
  407. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 確答する……あなたの知つておられる範囲においてお尋ねしますが……
  408. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 自分達が舞鶴に来まして、百十二名の者のおのおのの資料を持合せました結果、二十八地区におけるところの日本人の散布状況を調べました。その二十八箇の地区は全部閉鎖になつておりますが、但し自分は受刑者の数がどれ程おるかということは知つておりません。自分達の知つておる範囲においては、概ねこのタス通信の数程度であろうということを推定しております。
  409. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 推定ですか。
  410. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) そうであります。それは現在ハバロフスク地区から自分達が帰つて来てから、帰つて来るときの数、それからその後信濃丸引揚げて来たところの数、こういつたものを睨み合せまして、概ね二千数百名の者というような見当を付けたのであります。併しながらこれについては、今申した通りはつきりした根拠を持つておるわけではありません。
  411. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ナホトカに病人は何名おりますか。
  412. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 知りません。
  413. 岡元義人

    委員長岡元義人君) あなたがナホとかを立つたとき、病人が何人おつたか知らないのですか。
  414. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 知りません。
  415. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 泉田君はこれは戰犯者ですか。
  416. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) その件については自分は分りません。ただ彼が満洲……、これは以前にどのような前職であつたかは自分は知つておりません。若しもそれを知つておれば概ねの推測は付くと思いますが、自分としては分りません。併しこの前の発表によれば、戰犯として、或いは又中共、中華人民共和国の方へ戰犯として引渡す、この一つで二千数百名が挙げられております。その中の一人となつている以上は、戰犯として残されたと思います。
  417. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 宮地証人に申上げますけれども、あなたは本当にそう思つておられますか。今外に沢山ここに証人の方も御出席を求めておるわけですが、本当にそう思つたのですか。先程あなたは証言中に、泉田は帰ると思つたけれども、その点についてはおかしいと思うというような旨の証言をされたことを覚えておりませんか。
  418. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) そうです。
  419. 岡元義人

    委員長岡元義人君) すると今のあなたの証言と非常に違つてはおりませんか。
  420. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) 先程自分が言いましたこの泉田、その外の者も、泉田のみならず自分達より……、自分達は第二梯団でございまして、第三、第四梯団、第三梯団で以て全部来ることに自分達はこのように聞いておりました。だから当然来るものと思つてつたのであります。併しタス通信の発表により、それは全部残つておるわけです。だからこれは戰犯として残されたのじやなかろうか。併しそれは自分の想像です。根拠はありません。
  421. 岡元義人

    委員長岡元義人君) どちらが根拠がないのですか。タス通信の方の何に対して想像する。
  422. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) そうです。タス通信でそのように発表されておるから、自分はそれでは戰犯、若しくは中共側に引渡されたものとして、残されたものだろうと思います。想像しております。
  423. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 宮地証人に重ねて伺いますが、あなたはタス通信が正しいと思うと先程言われましたですね。タス通信通りだと思う。すると今の御証言タス通信自分の想像と、こういう工合になつたのですか。
  424. 宮地亮一

    証人宮地亮一君) タス通信を根拠として自分は想像する。外に自分の判断の資料はありません。
  425. 岡元義人

    委員長岡元義人君) まあいいです。どうぞお掛け下さい。外に各委員から御質問ございませんか。
  426. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 これは簡單に各証人が、知つている人だけ挙手をして頂きたいと思うのですが、四月四日、次のごときモスクワラジオ放送を聞い方があるかどうか。つまりタス通信の抗議として、四月四日モスコーで、日本のラジオは対日理事会英国代表の発表に続いて、日本の国会において、ソ同盟から帰還した者のうちの或る某軍人捕虜が、ソ同盟政府は日本共産党の要請により、日本の軍事捕虜のうちの反動的分子の帰還を阻止しているかのごとき報道を流布している。これに対しタス通信はこの馬鹿々々しい報道は惡意ある虚構であると公式に声明した。この事実を知つている、或いはこうしたことをお聞きになつた人があれば挙手を願いたいと思います。どなたか……。つまりタス通信はこの馬鹿々々しい報道は惡意ある虚構であると公式に声明した。こうしたラジオをお聞きになつた方がありましたら御挙手を願いたいと思います。
  427. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 今ラジオと申されましたですが、私はそれと同じ内容のものをプラウダの新聞紙上で見ました。日にちは覚えておりません。
  428. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと今の……、日下証人、プラウダですか。
  429. 日下敬助

    証人(日下敬助君) プラウダです。ティーフオ・オダヤンスカヤ・クラブだと思います。ハバロフスクの第六分所で、あすこに配置された時分それに載つておりました。プラウダにこれと同じ記事が載つておりました。
  430. 岡元義人

    委員長岡元義人君) では委員長が聞きますが、今の記事がプラウダに載つておりましたか。外の新聞と違いますか。
  431. 日下敬助

    証人(日下敬助君) ティーフォ・オケヤンスカヤ・クラブです。
  432. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) 今のは多分お聞違いと思いますが、ティーホ、オケヤンスカヤ、ズヴエズダ、太平洋の星と言います。
  433. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今証言は非常に大事な証言でありまして、プラウダはその問題を書けないと思いますが、プラウダ紙上に載るということになりますと、委員会で持つておりますいろいろな資料が覆える。それで念を押して聞いたわけです。ここで訂正されますか。
  434. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 訂正します。ティーホ、オケヤンスカヤ、ズヴェズダであります。
  435. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚先程の続きで簡單にお答え頂きます。兒玉証人は、先程宮地証人に聞きましたが、タス通信の発表について、それを完全だと思いますか。
  436. 兒玉政一郎

    証人兒玉政一郎君) 私個人としましては、はつきりしたことは掴んでおりません。舞鶴に上りまして、我々も梯団として、各人寄りまして集計したところでは、信じられないのであります。
  437. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 池谷証人どうお思いですか。
  438. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) 今ラジオということと、タスの放送ということがありましたが、而も日にちが四月四日、丁度四月四日というと、ハバロフスクを出た日であつて、出発の日でございますが、それよりも先に、三月何日でありましたか、前に他の証人が申されましたティーフォ・オケヤンスカヤ・ズヴエズダ紙上において、日本参議院において徳田書記長云々ということに対して出ました。
  439. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今委員長が聞いておりますのは、残留者についてタス通信より多いのであるかと申しましたのですが。
  440. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) これは全くラーゲルが閉鎖されまして判断のしようはありませんが、タスの数字よりも多いじやろうと考えております。
  441. 秋葉重徳

    証人秋葉重徳君) タスの発表したのは違つていると私は思います。まだ残つているということは自分でよく見て来たのであります。
  442. 松原茂

    証人(松原茂君) タスの発表は嘘だと思います。
  443. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 舞鶴に着いてから、各收容所から出て来た人、その人達に各人の見て来た残留の分というものを当つて見た結果、あの数字より超過しております。
  444. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと兒玉証人委員長からお尋ねいたしますが、あなた、日本新聞を今日持つて来ておられますか、若し持つておられるならば提出して頂けますか。持つておられますか……。構わないと思います。若し持つておられますならば、委員会に資料として見せて頂くことはできませんか。
  445. 兒玉政一郎

    証人兒玉政一郎君) それを拒み得る権利は、私にありますか、ありませんか。
  446. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それは自由です。
  447. 兒玉政一郎

    証人兒玉政一郎君) 分りました。それでは別の方途によりまして処理をしたい、こういうふうに考えております。
  448. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと着席願います。只今委員長は間違いまして、本人の自由であると申したのでありますが、法規に従いまして、議院における証人宣誓及び証言等に関する法律の第七條に、「正当の理由がなくて、証人が出頭せず、若しくは要求された書類を提出しないとき又は出頭した証人が誓宣若しくは証言を拒んだときは、一年以下の禁錮又は一万円以下の罰金に処する。」となつております。若し差支なければ提出して頂きますと、委員会としては貴重な資料として拜見さして頂くことになります。どうぞお考えになつて下さい。
  449. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 先程池谷証人からいろいろ私の尋ねました点につきましてのお話があつたのですが……
  450. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 今兒玉証人考えておられますが、その間にどうぞ。
  451. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 四月四日は自分が立つ日であつて、その前に三月幾日かに参議院云々と言われたのですが、その全貌を一つ証言して頂きたいと思います。
  452. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) それは三月幾日であつたか、二月幾日であつたか、ティーフォ・オケヤンスカヤ・ズヴエズダに、日本参議院で徳田氏云々によつて、反動分子が……日本の反動分子を帰さないようにという詰問があつた。これは日の出組とかいう日本の反動帰還分子の策動によるものである。その委員会において徳田書記長はそれに対して抗議をして、結局委員会徳田書記長がこれを牛耳るような結果になつたというだけの記事が出まして、黒木海軍少将がこれを飜訳したことがあつたのであります。四月幾日というのは、全然日にちが前でありますし、タスということは出ていませんから……それだけ証言して置きます。
  453. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 私が四月四日と申しましたのは、これは三月です。三月のやはり日にちが分りませんが、三月の二十日前後だと思います。四月四日と申しましたが、私の方が間違つております。
  454. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚の機会にもう一遍美馬証人に伺つて置きたいと思いますが、本日証言されました中で、いわゆる丸茂事件に関しては、その当時通訳に当つておられた松原証人からもこの点についての証言があつて、非常に明らかにされたわけでありますが、この三十数人の帰つて見えました方々は、この問題について告発等の手続をとるということを考えておられますか、又そういう打合をされましたか、この点伺つて置きたいと思います。
  455. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) 証言します。中には個人的にそれに対して復讐と申しますか、そういうふうな態度に出ろというような話もありましたが、それを告訴するとか、そういうふうな話はなかつたのであります。
  456. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 今度どのように処置しようとお考えですか。
  457. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) 分りません。
  458. 岡元義人

    委員長岡元義人君) まだ分りませんか。
  459. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) はい。
  460. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 兒玉証人、提出して頂けますか。
  461. 兒玉政一郎

    証人兒玉政一郎君) この新聞は煙草紙として船中で私は拾つたのです。提出をいたします。
  462. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚それはあとで返還いたしますから……我々委員会の資料として拜見させて頂くわけです。尚、日本新聞は相当我々委員会にも資料としてございますから、その点は御懸念ないようにお願いします。大体質問はこれにて終りたいと思いますが、特に本日中の証言中に間違つた証言をした、訂正したいという箇所がありますならば、委員会を閉会しない前に御発言があつた場合は、各委員にお諮りいたしまして訂正することができます。各証人におかれまして、そのようなことがありますならば、只今申出を願いたいと思います。
  463. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 只今淺岡委員の方から話されて、内容を読まれた全文ですが、私は同一内容のものと申して証言いたしましたが、あの全文のうち初めから終りまで同一文句のものを見たのではございません。そのことだけ附加えて置きます。
  464. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今の日下証人の訂正は、訂正いたしまして御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  465. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) 近衞公爵の息子さんの名前を間違いましたので、それを訂正したいと思います。もう一つは、日本人ラーゲルとドイツ人ラーゲルとの差のうちで、もう一つ通信の沢山来た来ないが大きな差でございましたので、或いは御参考になるかと思いますから申上げたいと思います。この二点を訂正いたします。
  466. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今の池谷証人証言、訂正することに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  467. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは訂正いたします。
  468. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) 近衞公爵の御令息は文隆さんということを思い出しました。私は文麿さんと言うたのであります。それからラーゲルのことでありますが、我々が非常にドイツ人ラーゲルにおいて羨しく感じたことは、国から手紙が沢山来ることでございます。それに比べて日本人の方は来ません。あのラーゲルではドイツ人に対しては毎月一回祖国に向つて通信を許可せられておりました。こちら、ハバロフスク・ラーゲルに帰りましても、日本人ラーゲルは三月に一回ぐらいでありました。どういう何か、同じ赤十字條約でやつていながら、日本人とドイツ人にその差がある。返事も、ドイツ人の方はもうこれで百何通目だ、二百何通目だとか、今度は一遍に四通来たとか言つて喜んでおります。我々の方は、私は二十数通出しまして、四通しか返事が来ておりません。外の方は、あのラーゲルにおつたのは同樣であります。そんな工合で通信の来方に非常なる相違がありました。
  469. 池田正人

    証人池田正人君) 私は岡元委員長がおられませんときに、いわゆる王山事件と同種類の事件で非常にあれよりももつと画期的で、カラカンダにおいては一大事件であつたところの三十九師団の摘発鬪争について私は述べておりました。併しながら時間がないというので途中で止めて置きましたが、これはカラカンダにおられた方は恐らく殆んどの人が知つておられるし、非常に惡辣な委員会並びにソ連側の行き方というものの実証ともなりますので、この証言を続けたいと思いますが……
  470. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚池谷証人に申上げますが、その点に関しまして、非常に時間も今日は経ちましたので、書類によつて委員会に詳細に御報告願えませんでしようか。
  471. 池谷半二郎

    証人池谷半二郎君) 分りました。
  472. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚特に本日この委員会に対しまして、どうしても申して置いた方がいい、今後の帰還を一刻も早く実現するためにも、このことだけは言つて置きたいというようなことがございますならば、御発言して頂きたいと思いますが。
  473. 美馬敏男

    証人(美馬敏男君) 私がカラカンダの收容所を立ちますときに、一般のロシアの囚人間の噂に関してお話ししたいと思います。このたびお前達が帰るのは、日本政府及びアメリカ政府の方で国際視察団をソ連に派遣する、大体その月は四月頃であろう、それで以て帰国するのだと、そういうふうな噂を聞きました。それで私も今まで騙されていたものですから、帰る、帰国する、そういうような考えは全然持つておりませんでした。そうして要するに行先も分らず、イルクーツク、ハバロフスク、クラスナヤルスクまで帰つて来たわけであります。
  474. 杉本康彦

    証人(杉本康彦君) タスの報ずるところによれば、戰犯のみが二千何百名残つておるということを言つておりますが、現在ハバロフスクに残つておる受刑者の中で、戰犯に類しない満州国の医者或いは学生が現在残つております。それを御承知願います。
  475. 日下敬助

    証人(日下敬助君) 今は杉本証人の方からも刑の内容について言われた、私尋ねられた際にも大体のほんの概要を、こういうものは、あるということだけしか申上げません。併しこの内容は非常に重大な問題だと思います。私の証言するという恰好ではなくとも、或いは国際公法的、或りはその他の部面から、又内容をもつと究明することが必要ではないかと思いますので、これは恐らく余分のことだとは思いますが、早い機会にこのことだけ、まだ自分達の頭が闡明に、前の記憶を残しておる間に聞いて頂きたい、かように考えております。
  476. 池田正人

    証人池田正人君) 非常に差出がましいと思いますが、徳田要請の問題に関しまして、自分はこういうふうな意見を持つております。在ソ民主運動の実態というものを、思想の上から、或いは運動の形態の上から、或いはいろいろな実際のその段階々々におけるところの闘争、そういつたものを具さに実態を調査せられて、そうして在ソ民主運動というものがどういうふうなものであつたかということをもつと科学的に、緻密に帰還者の希望を若しくは各人の証言をもつと広範囲に拡げて、一つの科学的な資料というようなものを得られましたならば、ああいう事実は私は当然その結論として導き出されて来ると思います。その点において私が今まで新聞資料並びにニュース映画、そういつたもので見たところ非常に薄弱であり、非科学的であり、又統計がとれていないように思います。これを是非この考査委員会でやつて頂いて、そうしてその結果したものから、ソ連というものともつと折衝することによつて、帰還人員というものを一名でも多く日本に帰して頂くように切にお願いするものでございます。
  477. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚池田証人の御意見で、委員会では十分にこの御意見を取入れまして、そうして我々委員会が持つております目的を果すように、貴重な資料といたしたいと存じます。  尚、池田証人考査委員会と言われたのは、衆議院考査委員会ですか。
  478. 池田正人

    証人池田正人君) 衆議院の……
  479. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 参議院のこの特別委員会ですね。訂正されますか。
  480. 池田正人

    証人池田正人君) 訂正いたします。
  481. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう大体今の御意見等につきましては、委員会は各委員の資料に基きまして、そうして審議を進めて行きますので、外部に出ておるいわゆるニュースとか、そういう問題ではこの問題は決して処理をしていない、三年間の資料を持つておりますので、その点は池田証人もよくお含み願いたいと思います。要するに皆さん証言を聞いて、その証言によつてこれを如何ように判断し、如何ように結論するかということは、これは委員会が、いわゆる各委員の意見によつて決める問題であります。その証言そのものに対して、そのすべてがそのままになつて行くというわけではないのであります。その点はよく御承知を願いたいと思います。非常にまだ皆さん御意見もあろうかと思いますが、時間も七時を過ぎましたので……誠に本日は国会も末期に近付いておりまして、いろいろ各委員の方も多忙を極めまして、皆さん委員会開会等が遅れまして御迷惑をかけたことをば、委員長といたしまして深くお詑び申上げて置きますが、長時間に亘つて誠に御苦労様でございました。有難うございました。尚この際各委員に申上げて置きますが、先程来食違いの……尚本日問題になつておりました徳田証人証言の、参議院委員町におきまする証言と、衆議院におきますところの考査委員会におきますところの証言食違いについては、衆議院速記録を取寄せまして、只今調査いたしましたところ、この証言食違いがあるということは確実になりました。但しこの問題は参議院証言が正しいのか、衆議院証言が正しいのか、そのいずれかを判断しなければならないので、先程来衆議院考査委員長と打合せをいたしました結果、明朝委員長打合会をいたしまして、衆議院参議院か、そのいずれかがこの僞証に対して告発の手続きをとる。このように打合せをいたしたわけであります。この点につきまして、明日衆議院考査委員会委員長と私と打合せをいたしまして、その際できるならば理事の方も出て頂きたいと思いますが、その結果によつて衆議院から参議院か、そのいずれかが告発の手続きをとる。こういうことになろうと思うのでありますが、御了解を求めて置きたいと思います。
  482. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 ちよつとお尋ねいたしますが、そのいずれかが告発の手続きをとるということを言われたのでありますが、先程考査委員長と打合せの結果、向うから資料をおとりになつて、その資料の結果を今御報告された点からいたしますると、はつきりと食違いがあるということが分つておる。で分つておるといたしますならば、仮にも参議院参議院権威として、どうしてもこれはなさなければならないということになつておるのでありまするから、その点は一つ一段と明朝御研究をして、その点をはつきりさして頂かないと困る。こう思うのです。いずれかがじやない。でこれは事実がある、或いは更に参議院特別委員会といたしましては、調査、或いは事実を以てはつきりとすることができるかと思いますが、時日がありませんので、とにかく参議院といたしましては、その参議院権威というものをはつきりと一つ認識して頂きたいと、こう思うのであります。
  483. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今淺岡委員の御発言御尤もでございますが、十分調査いたして処理をいたしたいと思いますが、徳田証人証言中、そういう速記録にある事務局というものは日共にはない。「事務局はないのだから、だからその内容を持つて来なさい。」尚、「私はそういうことは知らんと言つた」。参議院においてはそういうことは知らんと言つた。「政治責任があればだよ、そういうような事実があればだよ、事実に関してだよ、それは事務局というものはないのだから、事務局というものはないのにどうして責任がとれるか。」このようにはつきりと参議院証言に対して衆議院においては全然違う証言がなされておるわけです。この点について只今法制局等とも打合せをいたしました結果、証言食違いがあるということだけは確実となつたわけであります。只今こちらの参議院で言つたことがいわゆる正しいのか、衆議院で言つた方が嘘なのか、その点等についての打合せが一応残りましたので、明日委員長打合せをするということにいたした次第でありますから、御了解を願いたいと思います。(「了解」と呼ぶ者あり)  本日の委員会はこれにて散会いたします。    午後七時十六分散会  出席者は左の通り。    委員長     岡元 義人君    理事            千田  正君    委員            原  虎一君            淺岡 信夫君           池田宇右衞門君            淺井 一郎君            阿竹齋次郎君            宇都宮 登君            小杉 イ子君            北條 秀一君   証人            日下 敬助君            池谷半二郎君            兒玉政一郎君            秋葉 重徳君            松原  茂君            池田 正人君            宮地 亮一君            美馬 敏男君            杉本 康彦君            湧澤 忠雄君