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委員長(
岡元義人君) それでは次に簡單に、
舞鶴に参りました御
報告を兼ねて
証人喚問の件をお諮りいたしたいと思います。
明優丸及び
信濃丸をば、衆議院から
中山委員長外受田議員、
玉置議員、
竹村議員、
中山委員長を含めまして参つておられたのでありますが、
参議院は非常に忙がしい
関係上私が一人で二回とも兼ねて参
つたわけであります。
今回の
舞鶴入港の船は御
承知の
通りに非常に
話題を沢山持つて帰つておるわけでありまして、この最後の
信濃丸の
入港と同時に問題の
タス通信が発表されましたので、殆んどその以前から
新聞等によつていろいろ報道されて、これが
最終船じやないかというような噂もあ
つたものですから、全国から
相当の
家族が
舞鶴の平棧橋に押しかけられたわけであります。丁度
信濃丸の投錨時間に
タス通信の放送を聞いた
留守家族は昂奮してしまいまして、今までに曾てない場面が展開された、海の中にすべてのものを投げ捨てたり、或いはもう気狂いのようにな
つて援護局当局に喰つてかかる者、又我々
衆参両院の代表に対しまして泣きついて来られる
状況は、誠に我々の力の足りないところをば痛切に感ぜしめられたのであります。このことは後程他の
機会に詳しく
報告書を提出いたしまして御
報告申上げたいと思いますが、
帰還者の中で
相当変つておりますところでは、僞名を使つて帰つて来た者が
相当数ある。この
理由はいろいろ
見解を表示しておるようでありますが、我々
調査に当つております者には、その目的をはつきり掴み得なか
つた。現在尚
政府当局をしてそのよつて来る
理由をば
調査して頂くよう御依頼申上げて帰つて来たのでありますが、それからもう
一つ特色がありますのは、三百六十一名という
受刑者が
帰還いたしております。この
受刑者の中で特に注意しなければなりませんことは、先達てこの
委員会で問題になりました
菅証人、自殺いたしました
菅証人等と
一緒におりました
地下工作員等が
関東軍罪惡史というものを編纂するという名目の下に、各
收容所における
抑留者に
懴悔録を書かせまして、その
懴悔録を書いた者から順次
日本に帰す、このようないわゆる
甘言を以て署名させました。その署名させたものの
工作員は先に
日本に帰つて来てしま
つたわけでありますが、尚今回その中の一人も帰つて来ております。そういう工合に署名させられた者は殆んど十年乃至十五年の刑を一斉に言渡されまして、この刑を言渡された者の中の四十五名が、二月十二日モスコーの指令によ
つて大赦が行われまして、今度の
信濃丸に乘船して帰つて来たわけであります。その船の中で、たまたまそういう
甘言によつて署名させた者と船室で
一緒になりましたために、お互いに殴り合いが始まりまして、
相当險惡な空気が船内には終始
舞鶴に着くまで続けられたのでありますが、
舞鶴の寮内に上りましてからも、
警官詰所にこれらの
犠牲者が押しかけまして、とにかく殴らせろ、こういう申出をば猛烈に要求したわけであります。併しながら
警官その他のなだめによりまして、一応平靜を現在保つておるわけであります。尚特にこの
受刑者と関連いたしまして、
特色がございますのは、大体
ハバロフスク周辺に集まりましたところの
帰還できる、いわゆる特赦をされました
受刑者六百人
程度でありますが、その内三百六十一名が帰つて来たのでありますけれども、
あと残りの
受刑者は殆んど
樺太の
邦人であります。
樺太の
邦人は
新聞に一部掲載されましたが、SSSL、いわゆるCCCPという印が名簿の上に記載されておりまして、結局国籍が
ソ連にある、
日本にはない、こういう
見解の下に残されておるようであります。これは非常に重要な問題でありまして、現に
樺太の
留守家族が
日本に
帰つて参つておりますから、この人達だけが取残されておるということに対しては、何らか
委員会としても
処置を講じなければならないのじやないかということを痛切に感じたのであります。それから
受刑者の中に特に女性が
相当含まれておるということが明らかにされました。これらの
犯罪を調べますと、誠に我々の常識では考えられない問題が非常に多いのでございまして、
樺太地区等においては、海岸に打寄せてお
つたところの「
にしん」を三匹、死んでお
つたので家へ持つて
帰つて食つた、その三匹死んだ「
にしん」を
食つたということで十年の刑を言渡されている。それから現在
帰還しております中の
受刑者の
犯罪事実を調べますと、殆んど
建築作業中に板を一枚
割つても十年の刑を言渡されている、こういうような
状況でございまして、この刑の減刑ということについては、
相当活溌に今後何らかの手を打つてやらなければならないのではないかと考えられるのであります。
その外いろいろな
話題を持つて帰つて来ているのでありますが、中でも一番感心させられましたのは、
山田乙三
関東軍司令官並びに
梅津美治郎関東軍司令官時代からの副官を勤めておりました
魚澤少佐が、今回
明優丸で
帰還いたしました。この
魚澤少佐がたまたま
秋山中将の自決いたしました遺骨をば石鹸の中に塗り込みまして、五人で分担して
日本に持つて
帰つて参りました。その外貴重な
資料といたしましては、
エラブカに
日本側の
将校一万人が收容されましたときに、百七十一名の
死亡者を出しました。その百七十一名の
死亡者をば
エラブカであらゆる苦心の末お墓を建てまして、その
合同慰霊祭を催しました。各
将校立会の写真を
日本にこの際持つて帰つているのであります。これらはいずれも
国会に提出するというので、現物をば未だ渡してくれておりません。この外にもいろいろな貴重な
資料をば今回の引揚者は提供してくれたのでありますが、今回
信濃丸が
舞鶴に着きまして、大体判明いたしました
信濃丸帰還者だけによる
生存氏名の確認されたものだけでも、二日間の
調査によりまして、四千百四十名を数えることができました。この中に、女が二百三十名、尚死亡確認したものが約二千七百名余りでございまして、その中に女の
死亡者が二名入つております。そういう
状況でございますので、この際先日の打
合会で、できる限り、
将官等の
帰還も見ました今日、今回
信濃丸、
明優丸の
帰還者の中から
相当数の
証人を
喚問いたしまして、そうして貴重な
資料をば記録いたし、尚今後の対策をば考えたいということを打合せいたしたわけでございますが、この際これら二船から
証人を
喚問することに……尚
員数等は後程お諮りいたしますが、御
異議ございませんか。お諮りいたします。