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1950-03-18 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第16号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十五年三月十八日(土曜日)   —————————————   本日の会議に付した事件ソ連地区残留同胞実態調査に関する  件(右件に関し証人証言あり)   —————————————    午前十一時六分開会
  2. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今より委員会を開会いたします。  証人証言を求めます前にお諮りいたします。先の三月十六日の委員会におきまして議事進行傍聽方々によつて妨害されましたことは、誠に遺憾に堪えない次第でありまして、この際このようなことが再び起らざるように適切な処置をば議長に要望する必要があると思うのであります。そこで只今読上げますような議決をいたしまして参議院議長申出したいと思います。読上げます……。
  3. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 委員長只今お話ですと、この間十六日には甚だしく議事妨害された。今後そうしたものの起らないようにということに対してのことでありまするが、すでに起つた問題に対して処置をどうするかということに対しての、これはまあ委員長お話ですと今後の問題に対してという意味で、起つた問題をどうするかということに対してどういうふうにお考えでしようか、お尋ねいたします。
  4. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 淺岡委員にお答えいたします。今淺岡委員申出られましたことを含めまして処置いたしたいと思いますので一応読上げます。内容について訂正の個所があつたらお申出を願いたいと思います。   「三月十六日徳田要請調査のため、日本共産党書記長徳田球一氏を証人として出頭を求め調査審議に入るや、冒頭より傍聽席にあつた共産党衆参議員の一部は、意識的に議事進行妨害し、発言中の委員に対し罵詈雑言を以て嘲笑し、議場の秩序を乱し、運用を困難ならしめたることしばしばあり、止むを得ず二名の退場を出すに至り、剩え木村榮衆議院議員衛視亀谷亀藏を殴打するの事件を惹起するなど、誠に遺憾の点多く、衆議院の多数共産党議員参議院委員会運営に対し妨害が加えられたることに対しては参議院権威を失墜するのみでなく、将来惡例となることは明らかにして、この際当委員会議決を以てかかる事件が再び惹起されざるより、緊急議長において適切なる処置と抗議をなされんことを要請いたします。」
  5. 池田宇右衞門

    池田宇右衞門君 只今委員長より御指摘の通りの事実は、我々も目の前において聊か感じたような感があるのであります。両院成立建前から申しまして、若し衆議院議員たる者参議院に来たり、委員会においてお話通り議事進行妨害或いは進行を阻止するがごときような惡例を残すとしたならば、衆議院に各派多数の議員もありまして、今後の委員会運営の上に非常な支障を来すのみならず、議会政治確立のため、又両院制度建前よりいたしましても、かくのごときことは実に議会の神聖を阻害し、議会保安維持に対して非常な支障を来すことであると思います。委員長は、委員各位と相談いたしまして、今後かようなことのないように、又そういう行為に出られた議員はよろしく自粛いたすように、特に議長に対する只今の要望に対しまして賛成を表するものであります。
  6. 中野重治

    中野重治君 この委員会がつまらん騒ぎなしに迅速に進行するために、過去にあつたことを顧みて、我々が十分よくやつて行こうということを申合せることには全く賛成であります。併しながら十六日の問題に関して、今委員長が続上げたところの文言の草案、これには私は重大な欠陷があると思う。それで又今さつき読上げられたばかりで詳しく見ておりませんけれども、私はその決議のその案文冒頭に、当日委員長無能のためということをはつきり書入れなければ、全くナンセンスになると思う。理由を簡單に申上げます。何故かとなれば、あの日我々が証人を呼んで証言を求めるについては、問題は重大でありまして、他のすべての場合と同樣嚴粛に宣誓を求めておる。そうして委員長宣誓を求めたのに対して、求められた証人の側から如何なる理由によつて宣誓を求められるのかという問があつた。この間はたびたび重ねられております。併し委員長はこれに対して答えることができないのか、或いは答えることができるのにわざと答えないのか、それは委員長の主観に亘ることでありますから、私は敢て忖度をここでは述べないけれども、従来なかつたそういうことが委員長によつてなされた。これは單に宣誓の問題だけでなく、あの日の証人喚問の全プロセスを通じて現われておる。これは委員長自身も明らかにお認めになるだろうと思う。それですから、私は細かい字句の訂正ということは、本当はやらなければなりませんが、今提示された意義、その趣旨は私は尊重することができる。併し我々がその趣旨を尊重して、この精神を活かそうとするならば、明瞭にその文言冒頭に、当日の委員長無能のため、或いは重大なる失態のためということを入れなければバランスがとれない。若しそれが拒まれるとするならば、その文言は極めて一方的、政治的になる、更に一歩突込んで言うならば、十六日の証人喚問の結果は、今日社会最に認められております。これは併し今後も又もつと歪めてなり、或いは真直ぐなり、させられるでありましよう。併しながら若し委員長無能のため、或いは重大なる意識的失態のためというふうな文句冒頭に入れないで、その案文を通すならば、それはあの日ああいう結果に立至つたことを他の形によつて報復する、復讐するために忌わしい手段としか受けとれなくても仕方がいな。私は委員会権威のためにそういうことがあつてはならない。こういう意味で、私は委員長の全く無能のためというふうな重大な言葉をその冒頭に入れなければならないという意見を述べます。
  7. 門屋盛一

    門屋盛一君 えらいむずかしいことを言つているようですが、私は委員長無能でもなければ、重大な失態も何にもないと思う。(「その通り」と呼ぶ者あり)ただこの問題になつておる点は、決議案として扱うか、報告書として扱うかということに対しては議論があるけれども、あの日の運営委員長無能であるためじやないですよ。これはね、多少計画的にやつたことは我々は認めるですよ。併しそれに対する対処の仕方は、これは人間ですから上手上手はある。併しその決議案冒頭に、この委員会として出す決議案冒頭に、委員長無能であつたということは、我々は委員として全然認める必要はない。これはすでに中野委員は、むしろ中野委員の方が政治的におつしやつていることなんだ。無能であつた委員長で、あれだけの長時間の運営がどうしてどきましたか。私はこの委員会が今更議事妨害を取上げて云々するというそれ自体が、これは考えなくちやならんかも知れない。私は最後に徳田証人に御注意申上げましたように、まだ速記を見ておりませんけれでも、私は徳田証人が、我々の主義主張を異にする政党と雖も、一党の最高責任者でなかつたならば、私は委員の一人としてああいう御注意は申上げない。速記をそのまま生かして置いたならば、恐らく問題が今日起るだけの発言はなさつておる。けれども、徳田証人が一党の最高責任者であるが故に、相当敬意拂つて、そうして宣誓後における発言に対して不穏当、参議院を軽蔑したような、侮辱したようなところがあつたと思えば、今取消されて置いた方が問題が起らぬでいいでしよう。これくらい私が注意しなければならん程、宣誓当時乱暴であつたんです。或る人は、宣誓に対する委員長注意が足りないから徳田にやられたんだというけれども、委員長注意は十分足りております。むしろ証人は、今から顧みるならば、宣誓を拒もうという一つのジエスチユアを以つて出ておられた。飽くまで理由がなくての宣誓拒否であつたならば、我々が宣誓した方がよかろうと言つたときに宣誓する筈がない。こういうことを今論じておつたつてしようがない。委員長無能ではない。委員長無能でなかつたからこそ、それだけ冒頭から騒動のあつた委員会が、午後三時半、四時頃まで円滑に遂行できた。この事実を見ても、委員長無能とか、何とかいうことは、これはこれこそ同僚議員としてお取消しになつた方がいいと思うんだ。(「委員長々々々」と呼ぶ者あり)まだ発言中。大体ですね、相手の人は衆議院議員である。他の一院の議員に対して、我々は常に敬意を拂わなければならん。こういう考を持つてつたから、我々は靜かに見ておつた。ただ私のおつたところの角度から、暴行の現場を目撃することができなかつたから、まあ我々も靜かに坐つておたつのかも知れない。ただ私が休憩後立つて行くときに、委員長席をかこんで、委員長にすでに腕力に訴えんばかりの形勢があつたから、君達衆議院議員じやないか、文句があつた衆議院事務局を通じて持つて来い、ここに来てからに参議院委員長君達が直接に糾彈とは何ごとか、議事規則国会法のことを知つておるかと言つたくらいですよ。それくらいに、名前は分らんが、それくらいに常識のない方がおつたということは分るんですよ。然るが故にですよ、他の院の議員が他の院に守衛を殴るとかいうことは、参議院権威のためとか何とか言うんじやないんです。むしろ議会政治を保持する上において、断然と糾彈して差支えない、ただこの議事妨害であつたかどうかということはですね、議事妨害である、そういう事実ですよ、大きな事実だ。併しその他のことは委員長の制止によつて靜粛にもなつておるが、又私の発言中なんか、衆議院のマークを附けた人がからから笑つてからに、僕は発言ができなかつた罵詈が止らんで僕は発言を中止しておつた実情があつた。悪く政治的に、政治的にと言われるのは、中野委員の方が政治的にやつておる。私は決議でやるべきか、何かこれはこの委員会権威のために、過ぎ去つておることであるから、それは愼重に考えた方がいい、ここへ入つて来たとたんに、委員長無能だとか何とかいう声を聞いて、これはあなた程の教養のある人が、そういうことは言わない方がいいと思う。私は御注意じやないと思うんです。その思うて、私は中野委員委員長無能ということだけに対してはお取消して願いたいと思う。
  8. 中野重治

    中野重治君 門屋委員のお言葉は私にも分る点がありますが、私の言葉却つて委員会に対する、或いは参議院に対する侮辱ではなかろうかというお話がありました。それで私が前に意見を述べた理由を、もう一度特に門屋委員に聞いて頂きたい。特に門屋委員お話の主眼となさるところは、我々が今日ある、今日現存するこの程度議会政治をも十分総重して行かなければならん、ここにあるだろうと思います。私は特に一つの公の政党責任者証人として呼ばれたということは、門屋委員の言われる通り重大な問題でありまして、その際委員長宣誓を求めた場合、何故に如何なる項目について正当な理由に基いて宣誓を求めるのかという理由を答えることができなかつた。或いは答えなかつたとすれば(「答える必要はない」と呼ぶ者あり)そうすれば、それは議会政治の根本を破ることになる。私はいろいろないざこざ、或いは何か腕力沙汰というようなことがあつたということを知つておりますし、そのことを私は正当だと言おうとするものではない。併しその原因ですね、その原因に目をつぶつて、結果だけを取上げて、そうして何かこういうところで決議するというようなことになるならば、私は原因に触れずに事を運ぶのはよくない。そのこと自身が一方的になるのですから、その点から言うと、門屋委員のお言葉の中では、私は次のようにとつたのですが、つまりこういう問題をここの決議に上せることが妥当かどうか。こういう御意見がありました。これはやはり別個の問題として我々は考え直すべき問題だと思います。併しながら私が言いたいのは、若し決議としてこれを取扱おうとするならば、事態の生じた原因に触れないで運んで行けば、これは極めて一方的になつてしまう。これを明瞭にしたい。そういうふうにするならば、当日のあのとにもかくにも好ましからざる状態を、更に形を変えて次へ引延ばして行くことになる。だからそれには反対だ。これは池田委員がおつしつたことにも本質においては反対にならない。その池田委員も私の言うことをよく了承願えるであろう。こう考えるわけであります。
  9. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 十六日の問題に対して、私は誠に参議院権威のために断乎たる処置をとらなければいかぬということを特に強調するものであります。それは少くとも委員会が形成されて議事進行に入つてつたとき、計画的に衆議院議員は、丁度私の席の後に十名近く陣取つておられて、そうして委員長を牽制し、委員を牽制し、委員会それ自体を牽制し、而も宣誓の前後における状態、遂に一党の責任者証人台に立つておるところの徳田書記長自身がなだめなければならなかつたような事態を惹起しておる。如何に衛視が、或いは衞視津がそれをなだめても、手を持つて押しのけ、私現にそれをずつと見ておる。少くとも共産党書記長が、共産党議員諸君を、そういうようなことをすること自体が穏やかでないということを言わざるを得ないような事態が現実に起つて来ておる。その結果が遂に二名の議員退場委員長が命ずることになり、そのよつて起るところの結果は遂に殴打事件まで起つておる。先程中野委員がいろいろと言われたけれども、事態かくのごときである。更に午前中の議事が、休憩委員長が宣したときに、委員長席に殺倒して行つて、そうして委員長の体に手をかけんばかりにして委員長を取巻いてしまつた。恫喝も甚だしい。私は見るに見かねて、遂に委員長の体を位して、そうして委員会から出てしまつた。こういうふうな次第である。而もそれがお互いの議員によつてなされたのならばとにかく衆議院議員傍聽席に入つて来て、そうして委員長の演壇に上つてかくのごとき態度に出た。かくのごとき暴行に出たということは断じて許すことができません。一委員会権威でない。参議院の、それのみの権威じやない。少くとも国会権威として、断乎として処断しなければならない。先程から委員長無能であるとか、無能でないとか中野委員は言われるけれども、ああした計画的にものをなす、例えば傍聽席に入るのも前夜のうちに傍聽券を取るというような形において殺倒しておる。或いは委員会が始まる当初において、委員長傍聽券のことでこずき廻す。あらゆるものが計画的である。政府的である。こうした問題に対しては断乎として参議院は、或いは国会の、我が憲政史権威において処置しなければならないということを私は強く委員長に強調するものであります。
  10. 原虎一

    原虎一君 私は委員長に先程お伺いしたいと思うていましたのですが、今日は四人の証人を呼んでおるのであります。で、先程提案なされました決議討論いたしておりますれば、これは午前中、或いは本日一日かかるかも知れない。本日の証人喚問のこの議事を進めて行くために、今出されたことが議決さけなければ進行差支があるならば、これは証人喚問前に決定しなければならんと思いますが、今日私はそういう虞れはないと信じておりますし、恐らく委員長、他の委員方々もそういうことはないだろうと信じられる。委員長はこの問題を決しなければ証人喚問を始めないのであるか。或いはこの問題を決しないでも、一応この程度にして、そうして証人喚問をされるのであるか。その点を明らかに願いたいと思う。
  11. 阿竹齋次郎

    ○阿竹齋次郎君 本件は期間のあるものですから急がなければならんと思います。それから又事情がいろいろある。それを取扱う上において適当に処理せられると思います。要するに憲法の許さぬところ、院内議事暴行で破壞したのですから止むを得ません。
  12. 小杉イ子

    小杉イ子君 私はこれを決定するのにそう時間はかからぬと思います。私は今読まれたように、惡例を残すことは、又一つは習慣を付けることは、又運営進捗を妨げることは、議会は無論のことでありますが、これが延いては諸問題を遅延さすということになります。このことが延いては国家の負担ともなり、又国民の増税にもなることになります。又わざわざ衆議院議員参議院にまで來て妨害したということは、二重の妨害であります。又議員でも傍聽者として発言不可能であるということは知つておるのが議員でなければなりません。この点においても、これにはこれ相当処置をとられんことを私は提案いたします。
  13. 原虎一

    原虎一君 私は討論するならば討論いたしたいですけれども、委員長はどう運んで行かれるかということをお聞きしておるので、その運ばれようによつて私は二時間でも三時間でも討論いたしたい。併し証人をわざわざ喚問しておつて院内秩序の問題を先にやつて証人を要求して、一体世間に申訳があるか、それは証人に対してどういうふうにお考えになるかという問題が起きて来るのですから、一応委員長のお考えをお伺いし、又中委員共、その問題を討論願いたい。そうして‥‥。
  14. 池田宇右衞門

    池田宇右衞門君 只今委員長が読まれた問題は、門屋委員その他の委員からも、全く参議院権威にかけても重大問題であるが、かような重大問題に対しまして、委員長としてその日の委員会の終了に際して、参議院権威の見地からして、参議院議長に対してこれを報告し、課長においてどういう御処置をとるか、それは議長において、議長の権限でありますけれども、この点を委員長委員長責任において、おやりになつておるかどうかということを、明らかにして置いて頂きたいと思います。
  15. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 原委員にお答え申上げますが、もう少し時間がございまして、連絡を事前に申上げればよかつたと思いますが、昨日漸く警務部報告書ができ上つたのが午後になつてからであります。その結果、大体の様子が分りましたので、これをどのように取計ろうかということを考えまして、議長とも御相談を申上げたわけであります。衆議院の方の関係もございますので、できるならば、本日議運等において、この問題が議長からは別個意味において提出されるということを伺いましたので、委員会といたしましては、委員会として議長にいわゆる報告を出すか、或いは今お諮りいたしましたような方法で議決して、議長に出すかということをいたした方がよろしかろうということで、只今お諮りをいたしておる次第であります。若し委員会から議長の手許に出されますならば、議長はそれを以て外の、いわゆる参議院別個の‥‥参議院全体としての問題と一緒に、この問題をば衆議院に対して処置を講ずる場合には、それを一緒に携えて処置を講じたいということを議長から申された次第であります。御了解の程をお願いたします。
  16. 原虎一

    原虎一君 御説明分りましたが、結論から言えば、四人の証人喚問をする前に、これを決定しなければ、委員長として工合悪いと、こういうお考えのように考えるのですが、そうですか。
  17. 岡元義人

    委員長岡元義人君) その通りであります。
  18. 原虎一

    原虎一君 私は、この問題は議論すれば相当の時間を要すると思うのであります。従つて然らば証人喚問を一体何時から始めることになるのですか。そういうこともお考えなしに、ただ院内秩序維持は勿論賛成でありますし、そうしなければならんことは申すまでもないのであります。証人喚問をいたして置いて、証人喚問そつちのけで、これを今日一日かけてやるということは、これ又参議院権威に関することで、どちらが重要かということです。それを考えないでやるということは、実はどうも解せないものですから、お尋ねしておるのであつて、皆さんがどうしてもこれをかけられて、どうしても四人の喚問をする前に決してしまわなければならんということを、同意されれば、私それに基いて討論をしたいと思うのであります。
  19. 門屋盛一

    門屋盛一君 只今委員長の説明で合点の行かん点が一点だけあるのですが、私は大凡本院権威のために、又この委員会責任上やらなければならんことであつたならば、当日この締め括りは付けて置かなければならなかつたと思うのであります。若し当日できなかつたならば、昨日でも理事会でも開いてこれを討議しなければならん。提出の遅れた原因警務部報告がなかつたから、警務部報告のよつてただ当委員会も、参議院も動かされるべきものではない。この参議院権威保持のためには、もうすでにこの委員会委員会の領分から出て議運の方に廻つております。廻るべきが順当であります。そこでこれは議運としてそういう事実があつたかな四かということを、当委員会の方に何らかの形で聞合わされた場合に、その報告議長宛に出すということになるのですが、これはお尋ねいたしますが、議長から委員長只今警務部の方からこういう始末書が出た。これに対する委員会の当日の状況報告せよという、議長からそういう命令が来ておるのですか。
  20. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 門屋委員にお答えいたします。十六日委員会が終了いたします同時に、取敢えず口頭を以て議長にその日の状況をば報告いたして置きました。尚警務部の方に連絡を取りまして、実際の状況を詳しく報告して貰いたいということを要望した次第であります。昨日朝から警務部に私参りまして、いろいろまとめました上で何らかの処置を取りたいと考えまして、非常に時間が経つてしまつたわけでありますが、取敢えず昨日又議長とこの問題についてお諮りいたしましたところが、委員会としては報告をそういう工合に出して頂ければいいんじやないかということでございましたので、只今報告として出すか、議決としてこういう工合に出すかということをお諮りしておるわけであります。
  21. 門屋盛一

    門屋盛一君 議長から報告を求められたのならば、報告を出すことは、私は差支ないと思う。併し議長から報告を求められておるのに、当日議決するならばまあ多少権威保持のために効果あつたかも知れないが、三日も経つて後でこういう議決をやるということはこれはもうはつきりマイナス権威保持マイナスです。これは今委員長の御報告通りなら原案員の言われますように、本日は証人喚問を続けられて、報告でありますからこれは(「直ちに」と呼ぶ者あり)一時間や二時間遅くなり、又半日や一日遅くなつても、これは一応理事会に廻して、理事会の方で皆話合つて、成るたけ報告ですから事実に近い報告でなければいかん。又事実でなくちやいかんからその報告を拵えて、そうして明日、日曜か、‥‥、次の委員会に諮つて議長に出すか、或いは議長に出す報告を、この委員会委員長理事に一任するという議決をお採りになつて置けば結構じやないかと思います。それでやはり証人だけはどんどんどんと喚問を続けて頂きたい、こういう動議を出します。
  22. 阿竹齋次郎

    ○阿竹齋次郎君 討論を求めるのじやないのですけれども、こういう事件の事実を調べるために一日、二日の時間が延びることは当然ですが、いよいよ決まつたならば即座に決議するべきものであります。そうしなければ、議会秩序維持することは、一日も早くなければならん。それに次の会に入ることのできない性質事件であります。こういう事件を調べるのに一日や二日、若干手間取ることは止むを得ぬ、事実を固めるために……、私は原案通り賛成したいと思います。
  23. 穗積眞六郎

    穗積眞六郎君 私は今の門屋委員原委員のお説に賛成いたします。余程考えなければいけないと思いますのは、この参議院証人喚問するということは、証人の自由、権利に対しましては余程尊敬を拂つてやるべきだと存じます。四人呼んでおいて……勿論この事件は重大ではありますが、こういうあれがあるがあめに、いつまでも証人を待たして置くというのは、これは今の日本民主政治の上から言つても、余程考えなければいけないことじやないかと存じます。で、殊に先程両委員も言われた通り、この問題が決せなければ、証人の陳述に入れないという性質のものではないと存じますので、今日の目的たる証人喚問議事を早速始められるように切望します。
  24. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 門屋委員動議が成立いたしておりますので、門屋委員発言通りに、一応今提案されました議題は後に讓ることにいたしまして、……(「違うよ」「門屋君の提案はそんなものじやない」と呼ぶ者あり)
  25. 門屋盛一

    門屋盛一君 動議はつきりして貰う。議長から報告を求められておる十六日の委員会状況に対する報告は、その取扱を委員長理事に一任して、本日は予定の通り証人喚問に入られんことの動議を提出いたします。
  26. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 只今門屋委員動議賛成いたします。
  27. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今門屋委員動議は成立いたしておりますので(「採決」と呼ぶ者あり)お諮りいたします(「それについて意見」「聽く必要なし」「その対策だ」「採決」と呼ぶ者あり)動議が成立いたしておるのですから……。    〔中野重治君「門屋委員言葉はさつきと少し違つておるのだ、新らしいあれですか」と述ぶ〕
  28. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 採決いたします。    〔中野重治君「委員長ちよつと」と呼ぶ〕
  29. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 中野委員はルールを十分御承知だと思う。議長に出します報告書は、委員長理事に一任頂くという(「反対」と呼ぶ者あり)門屋委員動議に御異議ございませんか。    〔「異議なし」「反対」「起立とか賛成とか聽かなきや分らない」と呼ぶ者あり〕    〔中野重治君「門屋君のはあつちにやるかこつちにやるかということをここで決めると言つたのじやないの。初め」と述ぶ〕
  30. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう一回はつきりいたします。賛成の方は挙手を願います。    〔中野重治君「つまり理事に一任するかそれとも改めてここにかけるかということを」と述ぶ〕    〔門屋盛一君「今度はつきりしたのだ」と述ぶ〕    〔中野重治君「君は変つたのだな、それじや反対だ」と述ぶ〕
  31. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 賛成の方は挙手を願います。    〔挙手者多数〕
  32. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 多数であります。只今門屋委員の発議の通りに決定いたしました。    〔中野重治君「委員長理事一任でやつて来たかうこういうことになつて来たのだ、今の委員長無能と絡み合せて、だからそういうふうにやつちやいかんのだ、門屋先生はよく知つておる筈じやないか」と述ぶ〕
  33. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚本日の運営に関しましてお諮りいたしますが証人証言を求める順序は、菅証人を第一番に、亀澤証人を二番目に、小俣証人を三番目に、上村証人を四番目、こういう順序にいたしまして、まず証人一人づつ委員長から簡單に代表的質問をいたしまして、その後各委員から質問をする、こういう運営をいたして御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  34. 中野重治

    中野重治君 前にも問題になつたのですが、まず委員長が総括的に一人づつ質問するということには私は異議はないのですが、その際四人の証人を並べて置く、時間も余りありませんし、つまり一人づつ出し入れして又後で問題ができたら又出し入れする、私はそれはいけないと思う。そのことだけはつきり……。
  35. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 今お諮りして行きます。尚証人は四人一緒に出席を求めまして一人づつ証言を求めて行くということにいたしてよろしうございますか。御異議ございませんか。
  36. 阿竹齋次郎

    ○阿竹齋次郎君 はつきり分らない、どうされるか。ちよつとぼんやりしておつた証人をどういうふうにされるのか。
  37. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 証人を四人とも同席さして一人ずつ証言を求めて行くということに御異議ございませんか。
  38. 阿竹齋次郎

    ○阿竹齋次郎君 大体裁判所なんかの証人調べもですね、証人は一人ずつ呼ぶのが型ですね、それを御参考までに。であるから一人ずつ呼んでした方が正確になるのじやないでしようか。
  39. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今阿竹委員から御発言ございましたが、(「一人ずつ呼ぶが本当だ」と呼ぶ者あり)もう一回お諮りいたします……。
  40. 中野重治

    中野重治君 これはね、この前もやかましい問題になつたのですよ。それで裁判所の例は私は裁判官をやつたことはないから知らない。併しさつき穗積さんからもお話があつたように、我我は証人を決して犯罪の容疑者としてやつておるわけじやない。それから若し一人ずつ呼ばなければ謀略を凝らして拔け道を皆で考えてやるであろう、こういう立場でやるのでもないのだ。それだから仮に、悪い言葉を私は使いますが、証人達がお互いに連絡をとつていろいろ謀略を凝らすというようなことがあつても、委員会としてはその立場までずり落ちて扱つてはならない。殊に実際上の便宜にしても、一通り一人づつ話を聽いて、その度に一人づつ又どこかへ戻して、そうして又一人づつ呼び出して、外の人間はこう言つたがお前はどうかというふうな扱い方はすべきではない。又その外いろいろな問題がこの前も言われまして、この前あれは十二月のときの証人喚問であつたと思いますが、こういう私の見解を入れられて皆一緒にやることになつたわけです。だからどうしてもそうやらなくちやならん。私は阿竹さんにもそういうことはよく了解して貰いたい。委員会としては非常にこの前去年の十二月の二十二日、三日、四日のように二十人も呼んだ場合には、二日に分けて十人ずつやる、これは考えられると思います。併し四人の証人を呼んで、一人ずつ裁判所の問題をも参考にしつつやるというには私は反対です。
  41. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 外に御意見……。
  42. 門屋盛一

    門屋盛一君 中野委員の言われるところも、前決つてつたことだからと言われるが、大体私は証人に呼ばれて相当吊し上げられた経験があるのですが、一番先に証言して、それで帰して貰えれば非常に楽ですけれども、四人なら四人の済むまで皆並べて置くということは、証人に対していらない時間を長く留め置くということになる。証人にも休憩所がある。でありますから休憩所の方で休んでおつて頂いて、そうして一人ずつ証言を求めた方が却つて証人が、何といいますか、穏やかな気持で、くたびれない気持で証言できる。でありますから、今阿竹さんの言われましたように、どちらにしても同じたが、一人々々やる方が証人に対して無理がいかない、こう思いますから、一人々々やつて頂きたい。(「賛成」と呼ぶ者あり)
  43. 穗積眞六郎

    穗積眞六郎君 今の門屋さんの御意見、誠に御尤もではありますけれども、今までの経験からいいまして、一人の証人に聽いて、それから又外の証人に聽いたとこに基いて、前の証人証言を求めるというような場合が非常に多いのでございます。そういうときに、一人々々にしますと、前の証人が何を言つたかを説明して、それから又再度証言を求めなくちやいかんというようなことが、非常に起るのです。非常に時間をとるので、これには先程中野委員も言われたように、何度も議論があつたのでございます。結局やはり四人並べて置いても差支ないだろうということで今までやつて来ておるのです。私は四人同席しても差支ないと思つております。
  44. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 いろいろお話が出ておりますけれども、とにかく今日の証人のは地域的に皆別になつておりますし、そうした関係で、今まで一緒にやつた、或いは区々に呼んだとか、いろいろ議論もありますけれども、今日の場合におきましては、門屋委員或いは阿竹委員の言われたような方法ですることがいいのじやないか、私はそれに賛成いたします。
  45. 中野重治

    中野重治君 私は反対です。賛成意見が新らしく出ましたからそれについて私の考えを述べたいと思う。門屋委員お話証人の疲労ということに対しても思いやりの深いお言葉でありますが、門屋委員のそのいたわりの心は私も非常に尊重しますけれども、穗積委員お話がありましたことを御了承なさるだろうと思う。一人ずつ証言を求めてそれからお前は済んだから帰つてもよろしいというのならば別です。待たして置いて又どんな人が何を言つたか知らんことについて、又後でいつ呼び出されて聽かれるかもしれない。これでは別室に退いておつても本当に休まらない。それからもう一つは、淺岡君の今言われた四人の証人は別々の地区から引揚げて来た人である、だから別々に扱う方がいい、これは全く体をなさない。それならば何のためにあの問題についてこの四人の人を証人に呼ぶのか、これはもうこれ以上言う必要はない。論理的に見ても又実際上から見ても、又門屋先生のいたわりの心を活かすためにもやはり穗積先生の意見のように取運ぶのが穏当である。(「了承」と呼ぶ者あり)と私は思います。
  46. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 速記を止めて下さい。    〔速記中止〕
  47. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 速記をつけて下さい。  証人は四人とも同席として本山丸証言を求るるということに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  48. 岡元義人

    委員長岡元義人君) そのように決定いたします。ちよつと速記を止めて下さい。    〔速記中止〕
  49. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 速記をつけて下さい。  尚順序が戻りましたが、中野委員の先程の御質問に委員長からお答えがしてございませんので、ここにお答えして置きますが‥‥
  50. 中野重治

    中野重治君 何についてですか。
  51. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 十六日の徳田証人に対して委員長から答えがなかつたということでございますが、後程速記憶をよく御覽になつて頂けば必ず分ると思いますけれども、お答えしてございます。それ以上は、先程門屋委員の御発言もございましたけれども、議席を有しておられる証人でありますので十分お分りだと思つておりますので、あとは繰返して答えなかつただけであります。
  52. 中野重治

    中野重治君 改めて委員長からそういうことが答えとして私に言われましたことは、一層委員長が答えなかつたということを告白したことにしかならない、こう私は受取つてこま言葉を結びます。
  53. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 証人方々にも申上げて置きますが、本委員会は今尚残されたる同胞を速かに帰還実現せしむるためにあらゆる努力を続け今日に至つております。たまたま先の日の丸梯団帰還者久保田善藏外三百四名より、日本共産党書記長徳田球一氏より「反動は帰すな」の要請がある旨提訴され、委員会としてはこれを重要視して、しばしば証人の出頭を求め調査に当つておるのでありますが、留守家族の心情と全国民の憂慮に応えて一時も早くこの事実を明らかにし、残留者たちの無事帰還が実現できるよう適切なる措置を講ぜんとするものでありまして、証人におかれまして田、遠路御足労を煩し御迷惑の点もあつたかと存じまするが、委員会の意のあることを御了承を願いたいのであります。  宣誓に先立ちまして証人の方に御注意申上げて置きます。これから宣誓を行なつて証言して頂くのでありますが、若し虚僞の証言を陳述したときは、議院における証人宣誓及び証言等に関する法律第六条によりまして、三ヶ月以上十年以下の懲役に処する罰則があり、又正当の理由なく宣誓若しくは証言を拒んだときは同法第七條によりまして一年以下の禁錮又は一万円以下の罰金に処せられることになつておりまするから、この点御注意申上げて置きます。但し民事訴訟法第二百十八條(第三号の場合を除く)及び第二百八十一條(第一項第一号及び第三号の場合を除く)の規定に該当する場合に限り、宣誓又は証言若しくは書類の提出を拒むことができます。これも併せて御注意申上げて置きます。念のために先ず民事訴訟法第二百八十條の該当する部分を朗読いたします。  第二百八十條 證言カ證人又ハ左ニ掲クル者ノ刑事上ノ訴追又ハ處罰を招く虞アル事項ニ關スルトキハ證人ハ證言ヲ拒ムコトヲ得證言カ比等ノ者ノ恥辱ニ歸スヘキ事項ニ關スルトキ亦同シ  一 證人ノ配偶者、四親等内ノ血族若ハ三親等内ノ姻族又ハ證人ト此等ノ親族關係アリタル者  二 證人ノ後見人又ハ證人ノ後見ヲ受クル者  次に民事訴訟法第二百八十一條の該当する部分を朗読いたします。  第二百八十一條 左ノ場合ニ於テハ證人ハ證言を拒ムコトヲ得  二 醫師、齒科醫師、藥剤師、藥種商、産婆、辯護士、辯護人、公證人、宗教又ハ祷祀ノ職ニ在ル者又ハ此等ノ職ニ在リタル者カ職務上知リタル事實ニシテ默祕スヘキモノニ付迅問ヲ受クルトキ  前項ノ規定ハ證人カ默祕ノ義務ヲ免セラレタル場合ニハ之ヲ適用セス以上であります。  今より菅証人より順次宣誓を求めます。傍聽の方も御起立を願います。    〔総員起立、証人は次のように宣誓を行なつた〕    宣 誓 書  良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。        証人  菅  季治    宣 誓 書  良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。        証人  亀澤 富男    宣 誓 書  良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないこてを誓います。        証人  小俣 忠男    宣 誓 書  良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。        証人  上村 宗平
  54. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 着席願います。尚証人の方に御注意申上げて置きますが、各委員からの質問に対しましては、できるだけ要点のみをお答え願いまして、自己の主観等を混えないでお答えが願いたいのであります。  尚各証人から発言を求められる場合におきましては、委員会に諮りました上で許可してから、許可することになつておりますから、この点もお含み願い、尚発言の際には必ず委員長と呼んで頂くようにお願いいたします。  この際お諮りいたします。時間も丁度十二時でございますので、証言を求めることになつておりますが、一時まで休憩いたしたいと思います。御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  55. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 一時まで休憩いたします。    午後零時一分休憩    —————・—————    午後一時三十一分開会
  56. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 休憩前に引続き委員会を再開いたします。  午前中の委員会におきまして、三月十六日の委員会運営妨害に関する件につきましては、先程委員長理事に一任されたわけでありますが、報告書として提出することに決めましたので、その内容をば御報告いたします。    報 告 書  三月十六日徳田要請調査のため、日本共産党書記長徳田球一氏を証人として出頭を求め、調査審議に入るや冒頭より傍聽席にあつた衆議院議員の一部は、発言中の委員に対し罵詈雑言を以て嘲笑し、議場の秩序を乱し、議事進行妨害し、委員会運営を困難ならしめたること屡々あり、退場命令を発するも敢てこれに従わず、遂に衛視をして二名を退場せしむるの止むなきに至りたり。剩え木村榮衆議院議員衛視亀谷亀蔵を殴打するの事件を惹起するなど、誠に遺憾の点多く、衆議院議員参議院委員会運営に対し妨害を加えられたることに対しては、参議院を無視したる暴挙であつて将来の運営上の重大問題たることは明らかである。故に此の際斯る事件が再び惹起されざるよう議長において緊急適切なる措置を講ぜられんことを要請する。  右報告する。   昭和二十五年三月十八日     在外同胞引揚問題に関する特別委員長 岡元 義人    参議院議長佐藤尚武殿   以上提出いたします。
  57. 中野重治

    中野重治君 手続について委員長並びに理事に一任された結果、今御報告されました報告の原案に私は反対に述べます。先程も簡單に意見は述べて置きましたが、更に簡單に一言するならば、その報告は事実の或る側面に確かに触れておりますが、その事実が生じた原因には触れておらない。そうしてその原因相当程度委員長自身から出ておる。現にあの日淺岡委員言葉によつて見ても分るように、委員長報告をしておるが、証人自身に騒ぎの取鎭め、取りなだめを頼むまでに立至ることは、委員長無能ではないかというように淺岡委員からも発言されておる。そういうことは多分喧噪の間ではありましたが、速記録にも残つておると思います。その間速記が停止しておらん限りは……。それでありますから、委員長が身から出た錆で、原因を隠して置いて、それに触れないで、それを避けてかかる報告書を作成し、且つそれを議長に差出して、それに基いて一定の行動を要望するということには私は賛成し難い。このことは委員会全体が認めるべきであろうと思う。そのことこそ、この委員会権威を現実に作り上げるゆえんである。こう私は確認いたします。それだからこの少数意見を付するなり、或いはこれをこの委員会の討議にかけるなり、いずれかの手続をとつた貰いたいと思う。
  58. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 いま中野委員発言につきまして、私は委員長無能ということを呼ばわつたことは一度もない。私の裏にいた衆議院議員共産党に所属するところの議員数名が、いろいろな妨害を敢てなしたというようなことで議事妨害をされた。それに対して、委員長、それを処置しろということは数回叫んだ。けれども、私は委員長無能というような、無能呼ばわりをしたということはない。そこでその点に対しては(「議事進行」と呼ぶ者あり)お取消しを願いたい。
  59. 原虎一

    原虎一君 午前にもこの問題についてはすでに打切られて、そうして委員長理事会に一任されて決定したのでありますから、これ以上討議されることは委員長からして議事進行を誤まつておる。そういう報告をされたものを承認する、せぬということは、何も決定いたしていない。委員長理事会において決定されたことを議長報告するということが承認されておるのでありますから、討議の対象ではない。然るに証人を四名も呼ばれて置いて、いつまでもそんなにぐずぐず論議さるべき問題ではない。(「その通り」「本論に入ろうや」「議事進行について」と呼ぶ者あり)
  60. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 議事進行についてですか。中野委員
  61. 中野重治

    中野重治君 いま原委員発言で、或る段落へ来たように思いますが、どういう取運びになつたのか、なるのかということを一つ簡單に御報告を願います。(「そんなこと、あとにして」と呼ぶ者あり)
  62. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 先ず只今の問題はすでに中野委員は御承知だと思いますので、一応証人を待たしてございますから、証言を求めることを先に進めたいと思います。
  63. 中野重治

    中野重治君 そういうふうに進めることには反対ではない。只今中野委員も御承知のことと思い、議事を進めたいというお話ですが、私はそれは了解しますけれども、それが分らなければ、待たしてある証人をそのままにして議事進行してはいかぬとは言いません。だからその点に関しては、私は諸君と歩調を合せて議事進行することに異論はありません。   —————————————
  64. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 先ず菅証人委員長からお尋ねいたします。証人の経歴を第一番にできるだけ要約して述べて頂きます。菅証人
  65. 菅季治

    証人(菅季治君) 大正六年七月十九日生れました。北海道で小学校、中学校を終え、それから昭和十年東京高等師範学校の文科に入りました。それから昭和十三年東京文理科大学哲学科に入りました。それから昭和十六年四月から昭和十七年の十月まで北海道の旭川師範学校の教諭でありました。それから昭和十七年の十月から昭和十八年の十一月まで京都大学院の文学部学生でありました。それから昭和十八年の十一月に召集になりました。軍隊の経歴は……。
  66. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それも。
  67. 菅季治

    証人(菅季治君) 昭和十八年の十一月に召集になりまして、一番初めに北海道の帶広の北部第九一部隊、これは高射砲の連隊であります。それから初年兵時代は北千島幌筵におりました。昭和十八年の三月幹部候補生の試験に合格しまして再び北海道の帶広に廻り、三月から七月まで帶広で幹部候補生の教育を受けました。昭和十九年の七月から昭和二十年、一九四五年の一月まで千葉陸軍高射砲学校で学びました。昭和二十年二月高射砲学校を卒業しまして、見習士官として満洲鞍山にありました満洲第一二二四部隊、これは正式に言いますと野戰照空第一大隊、ここへ赴任しました。そこで小隊長をやつておりまして、昭和二十年の八月に入りましてから、部隊が奉天に集結を命ぜられました。そうして奉天に集結しまして、そこで停戰になりまして俘虜になりました。昭和二十年の九月の末だつたと思いますが、これは正確でありませんが、奉天の皇姑屯という駅から列車に乘りまして、そうしてソヴエト同盟に入りまして、中央カザツク共和国カラカンダ市に到着したのは昭和二十年の十一月の初旬、多分五日頃だつたと思います。それからずつと私は一九四九年の十日までカラカングにおりました。その間主として通訳をやりました。ロシア語は京都の大学院のロシア語講座に出まして初歩を学びました。あとは独学であります。俘虜生活をもう少し‥‥。大体主として通訳をやつておりました。政治教育と私との関係についてちよつと述べさせて頂きます。一九四七年の七月頃、その頃はもうすでに日本新聞で相当政治教育も宣伝されておりました。又最も遅れていた地方の一つと言われたカラカンダ地方においても、いわゆる民主運動というものが各收容所に起りまして、民主グループもできて来たのであります。私の一番初めおりました收容所は、一般にカラカンダ地区は全部は九十九地区と呼ばれておりましたが、初めにいましたのは第十一分所であります。一つの分所には大体千人ぐらいの俘虜がおりました。第十一分所においとも民主グループというようなものを作ろうではないかというような機運が起りました。ソ連の收容所の政治部将校も、なぜ我が收容所だけが民主グループができないかというようなことを言いましたし、部隊長の少佐の方も、体裁上一応作つて置かなければならないのじやないかというので、菅君、君は哲学もやつているし、いろいろ思想問題も知つている、だから何か一つ組織してやつて呉れ、こういうふうに言われました。それで、私は民主主義という名前もその頃出すのは憚られる状況でありましたから、政治経済研究会というものを部隊長と相談して作りまして、そこで政治経済研究会の責任者として、外の和歌の会とか、麻雀の会など娯楽の会と並んで、そういう会の責任者にされました。初め会員は五、六十人おりましたけれども、私は二ヶ月間ぐらいの間に恐らく四、五回講演をやりました。世の中の移り行きというような題で、人間社人の歴史を話し、民主主義ということについても関連してお話ししました。ところが五六十人初めいた会員が、二ヶ月くらいの間に五、六人に減つてしまいました。そのことは政治部将校にも知られまして非常に叱られまして、お前は反動であり、ブルジヨア観念論者であるから、こういうことになるのだ。本来ならばもつと殖えるべきである、ところがそれが減つて行くのは、お前が邪魔するからだというので作業所に廻れといたと作業所に出されました。それ以後作業所の通訳として、通訳の仕事がな四ときはみずから肉体労働に従事しました。一九四八年の後判からカラカンダ地区においても民主運動というものは非常に活溌になりまして、收容所の模樣も一変しました。一九四八年の後半から一九四九年の初めにかけては、各分所ともすかつり民主化されて軌道に乗つていたわけであります。一九四九年の二月に或る青年代表の会議がありました。その会議において、その当時第十一分所というものは一九四八年の十月頃解散になりまして、私は第十六分所におりましたが、第十六分所の会議代表が、この頃の会議はどうも通訳がいなくて困る、だからして僕になつて呉れと言われまして、その青年代表会議の私は通訳をしました。その頃カラカンダ地区におきましては、軍事俘虜と抑留者というものが区別されておりました。満鉄とか、特務機関に勤めていたところの優秀な通訳は、特別收容所第二十九分所という別の抑留者ばかりの收容所で取調を受けておりました。それで軍事俘虜の間には通訳の優秀な人がいないというので、私は独学でありましたが、その頃相対的に優秀でもあり、政治、文化についての話は幾らか心得があつたわけであります。その二月における青年代表会議において通訳をしましたところ、その会議に臨んだところのソ連の政治将校は私の通訳を認め、その場に臨んでいた日本人の政治活動をやつておりました民主委員、工作員と言われていた人達にも認められまして、二月に私は收容所本部附の通訳として各收容所を廻つて欲しい。收容所には政治文化に関する通訳が非常に必要であるということを言われましたが、收容所本部の見解として、收容所本部通訳として捕虜を採用するわけには行かない、ですから捕虜の間の講師という名目で各分所を廻らせようということで、私は講師という名目で廻つておりました。政治活動を主として担当するところの工作員というものは別におりました。けれども、一緒に行動しましたために、或いは工作員と私を思つた人もあるかも知れません。又私は政治的関心は自分自身としては持つていませんが、やはり哲学をやつておりました関係上、方々から形而上学と弁証法とはどう違うか、或いは社会主義リアリズムということが日本新聞に載つているが、あれはどうなんだという質問をしばしば受けました。そうした問題と関連して話を要求されたこともあり、話をしたこともあります。それから一九四七年三月から講師という名目で各分所の通訳をして廻つておりました。第九分所というものは收容所本部に近い、交通の便がいいというので、私は三月から第九分所に移りました。いつも第九分所に起居していたわけでなく、各分所を廻つていたわけであります。それから一九四七年の十月十日頃、私は帰国の命令を受けてカラカンダを出発しました。そうして十月の下旬にナホトカに着き、ナホトカに一ヶ月滯在して、十一月二十一日東舞鶴に到着しました。大体以上であります。
  68. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 証人に重ねてお尋ねいたしますが、三月の四日並びに三月の十二日に委員会に宛てて文書を寄越されたことに間違いございませんか。
  69. 菅季治

    証人(菅季治君) 間違いありません。
  70. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 続けてお尋ねしますが、カラカンダ第九十九地区の九分所に、九月十五日に証人が問題の徳田要請と言われております内容或いはこの差出されておるところのこの文書等による、そういうようなものをば、あなたはとにかく通訳に当られたことがありますか。
  71. 菅季治

    証人(菅季治君) あります。
  72. 岡元義人

    委員長岡元義人君) その内容について、只今ここに地図が出してございますが、その地図の位置、その他に対して違つておる点がございますか。
  73. 菅季治

    証人(菅季治君) 菅委員となつているのはどういうことですか。
  74. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 委員という名前は向うでは使つておられませんでしたか。
  75. 菅季治

    証人(菅季治君) 私は一度も民主委員などになつたことはありません。
  76. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 菅証人起立してお答え願います。
  77. 菅季治

    証人(菅季治君) その次はシマと書いてありますか、シヤ中尉とありますか。それはシャーフイーフという名前であります。
  78. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚違つておると思われる点をお述べ下さい。
  79. 菅季治

    証人(菅季治君) 政治将校何中尉と書いてあるのでありますが、それは正しくはエルマーラエフ上級中尉であります。
  80. 岡元義人

    委員長岡元義人君) その他違つておるところがありましたら‥‥。
  81. 菅季治

    証人(菅季治君) その他言えば、こちらからも入口があつたと思います。
  82. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 外にございませんか。
  83. 菅季治

    証人(菅季治君) 屋根は板、紙、泥にて作られる、結構ですね。それに間違いありません。
  84. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 証人のその当時の位置等については間違いございませんか。
  85. 菅季治

    証人(菅季治君) 間違いないと思います。
  86. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 続けて菅証人にお尋ねいたします。そのときの通訳の内容等について一応後程述べて頂くことにいたします。その前にあなたが通訳されたという文書は、御覽になつたのですか。それとも文書は見ないで通訳だけされたのですか。
  87. 菅季治

    証人(菅季治君) 政治部将校エルマーラエフ上級中尉は口頭で答えました。それを私が要点を控えて置いて、そうしてそのあとで通訳したのであります。
  88. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それではそのときの状況を詳細に証言を求めます。  尚証人に御注意申上げて置きますが、できるだけ書物等は見ないで、是非とも見なければならないときは構いませんが、できるだけ見ないでお話を求めます。
  89. 菅季治

    証人(菅季治君) 私は勿論徳田要請のあるかないか、存否一般について別に何もお話することはできない。ただあのときあの場合の通訳として私が関係し、知つておる事実についてだけお話します。  時は一九四九年九月十五日、場所はカラカンダ第九分所、この当時第九分所長は親衛中尉、近衛中尉とも言われますが、親衛中尉のマツシエルスキーは、日本に帰還する日本人俘虜輸送のために留守でありました。これは九月六日に出発したと記憶しております。でこの日は所長代理シャフイーフ中尉が出ておりました。これは元来被服その他主計業務をやつておりました。この第九分所は九月六日、それまでいました日本人約千人が帰還のために出発したあと空いていたのであります。そこへ九月七日頃、日は正確でありませんが、七日頃、ウズベクスタンの方から九百数十名の日本人が入つて来ました。千人と言われておりますが、そのうち数十名は病人であつたために、病院のあるところの他の收容所に行つたと聞きました。それで九百数十名入つて来ました。この九月十五日に所長代理シヤフイーフ中尉はこの日本人達、その中には軍事捕虜もおりましたし、一部抑留者もいたそうであります。それをクラブに集めました。クラブの收容人員は大体三百名ぐらいだと記憶しております。收容所側からその所長代理シヤフイーフ中尉の外に政治部將校エルマーラエフ上級中尉が出席しました。先ず初めにシヤフイーフ中尉は收容所生活心得、特にカラカンダにおけるところの收容所の生活心得を日本人に対して話しました。起居とか清潔、整頓、規律というようなことについて話したわけであります。それが一応自分の話を終りましてから、日本人達に向つて、何か質問があるならばするように促しました。で、日本人達の中から幾つかの質問が出ました。主として生活問題、ところがその中にこういう質問が出しまた。質問者は名前は私知りません。我々はいつ帰れるのか、十一月までに日本人を帰するというソ連政府の声明は我々は適用されないのかというような質問でありました。それまでの質問に対してはシヤフイーフ中尉所長代理が全部答えていたのでありますけれども、この質問に対しては彼は答えないで、その隣りに坐つておりました政治部将校に、頤をしやくつで、君が答えろというようなゼスチユアをしました。そこで政治部将校エルマーラエフ上級中尉が立上つて答えました。その答の内容は、私は次のようだつたと記憶しております。  カグダー・ウィ・モージェテ・パエーハティ・ダモイ?エート・ザビーシト・アト・ワース、カグダー・ウィ・ラボータェテ・ズディエーシ・ダブロソーウェスノ・イ・スターニェテ・ポードリンヌイミ・デモクラータミ・タグダー・ウィ・モージェテ・パェーハティ・ダモイ、ゲネラーリヌィ・セクレターリ・イェポンスコイ・コンパルテイ・トクーダ・ナデェェツア、チトーブイ・ウィ・プリェーハリ・ナ・スワュ・ローディヌウ・カーク・ハラショ・パドガトーブレンヌィエ・デモクラートゥィ・ア・ニエ・カーク・レアクツィヨネールウイ、まあ私は大体直訳する方が間違いないと、いつも通訳の経験から信じておりましたので、次のように通訳したと記憶しております。「いつ諸君が帰れるか、それは諸君自身にかかつている。諸君はここで良心的に労働し、真正の民主主義者となるとき者君は帰れるのである。日本共産党書記長徳田は、諸君が反動分子としてではなく、よく準備された民主主義者として帰国することを期待している。」以上私はあの日あの場の事実だけを述べました。
  90. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今の菅証人証言に対し各委員から御質問がございますか。
  91. 原虎一

    原虎一君 証人はこの九十九地区カラカンダの收容所以外で、そういうソ連将校なりソ連側が、いわゆる等は要請と言いますか、今マ中尉が日本人のいつ帰還できるかという質問に対して答弁したようなことを、演説し若しくは話すことでその当時そういう言葉を聞いたことがありますかどうか。
  92. 菅季治

    証人(菅季治君) 私はずつとカラカンだにおりましたので、カラカンダ以外でそういうことを聞いたことはありません。又カラカンダ地方でも直接帰還と冠して徳田書記長の名前が出されたということは記憶しておりません。ただ日本新聞紙上には勿働徳田書記長がそういうことを期待しているというようなことは載つておりました。
  93. 原虎一

    原虎一君 もう一度お伺いいたしますが、そういたしますと、今あなたが通訳されたところの事柄というのはいわゆるソ連将校から初めて言われたことであつて日本新聞等にはそういうことが載つてつたということになるわけですか。
  94. 菅季治

    証人(菅季治君) そういうことを言われますと、ちよつとはつきりその言葉通りのことは記憶ありませんけれども、例えば日本人の代表を集めて会議をする場合など、ソ連の政治部将校が徳田書記長万歳というようなことを言うことは勿論あります。
  95. 原虎一

    原虎一君 もう一点お伺いしまするが、あなたがここで書類にして出されておるものを見まして、今陳述された点と併せて、要するに日本共産党徳田書記長は、いわゆる民主主議に徹底した者、即ちソ連内においてはそれを民主主義と言つているが、我々から見れば共産主義に徹底した者でなければ帰して呉れないと、こういうことを徳田書記長が要請して来ておると言うてはいないので、そういうことを共産党が希望しておるのだと、こういう演説をしたに過ぎない印象ですが、この点が非常に問題になつておる、その点を一つ御説明願いたい。
  96. 菅季治

    証人(菅季治君) その解釈の問題、通訳として何とも言えないデリケートな問題であります。
  97. 原虎一

    原虎一君 この点は先般あなたが通訳したものを聞いておつた人が、やはり帰つて来て証人になつております。これらの諸君は、日本新聞その他にそういう記事が掲載されておるし、他の地区でそういう意味のことを教育されたりしておるから、この日にマ中尉が話したことは明らかに日本共産党の要請だというふうに印象を受けたと、こういう意味の陳述をなされておると思うのだが、あなたの場合においては通訳としてむしろ露語そのものが分る。これは印象の問題であつて、自分の印象を率直にお話しなさつたらいいのじやないかと思う。今私が伺つたところでは、私の印象を申上げれば、日本共産党はこういうことを希望しておるのだ、何も要請があつたという印象は一つも受けていないと、私は印象を受けたわけです。この点あなたの印象を率直にお話し願いたい。
  98. 菅季治

    証人(菅季治君) 私その前に通訳しておりましたときの印象を申上げますと、実はこの政治部将校の答えは、逃げたなという感じがした。実は日本人達の要求しておるのは帰還の正確な期日であり、而もそれができるだけ近いことを希望したのであります。ところがこの爺さん、政治部将校は、実際客観的に帰還の期日を言わないで、諸君がよく働き、そうしてよく本当の民主主義的になるというような、日本自身の主観的な條件に委して答えを逃げたなという感じがしました。それから又徳田書記長の名前を出したのは、私自身の印象としては、政治部将校として、徳田書記長が期待しておるのだからますます一生懸命勉強しろというような、政治教育、そういうような意味だろうと思いますが、その場の雰囲気からは、却つてこんなことを言つたなら恐らく反感を買うくらいだろうというような気持でありました。それが私のその当時の印象であります。
  99. 原虎一

    原虎一君 もう一点続いてお伺いしたい点は、露語が十分にお分りなんでありますから、要するにソ連の印刷物、露語による印刷物等において、こういう徳田要請に似たもの、或いは徳田要請とされて現在日本において問題になつておるような記事、雑誌記事にしろ新聞記事にしろ、そういうものを目にしたり読まれたことがありますか。
  100. 菅季治

    証人(菅季治君) 目にし聞いたことはありません。
  101. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今菅証人証言を再び私繰返すようではありますが、当委員会に宛てて寄越されました書面を読んでみますが、今の通訳の通りですが「いつ諸君が帰れるか、それは諸君自身にかかつている、諸君がここで良心的に行動し、真正の民主主義者となるとき諸君は帰れるのである、日本共産党書記長徳田は、諸君が反動分子としてではなく、よく準備された民主主義者として帰国するように期待している、」こういうような委員会に宛てられて来ておるのですが、それに間違いございませんか。
  102. 菅季治

    証人(菅季治君) 間違いありません。
  103. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そこで私は露語が分らないのですが、更にその露語を書いてあつて、トクダ・ナデエエツアという字が書かれてありますね。これは露語においてはどういうふうに訳すのでしようか。
  104. 菅季治

    証人(菅季治君) 期待する。
  105. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、先程菅証人が言われましたように、日本新聞なり、或いは又座談において、或いは教育において、この徳田書記長が民主化されたものを帰して呉れということ、今度反対言葉から言えば反動は帰して呉れるなというようなこと、これはラーゲル或いは收容所等の一般の帰りたい帰りたいで一生懸命になつておる人達の心持から言いますと、どういうふうな感じを受けたかという点につきまして、あなたの感じられたままを率直に一つ……。
  106. 菅季治

    証人(菅季治君) 今委員の方から、この言葉を普通聞く方の側の印象はどうかと言われましたが、私も正にそのことを述べたいと思つたのであります。第一に、日本人捕虜としまして、四年間帰国の時期について、又帰国の人数について具体的に正確に示され、又それを守られたことは余りなかつたのであります。我々は四年間絶えず帰国については不安と希望との間に暮しておりました。ですから殆んど毎月といつてもいいくらい帰国についてはいろいろ自分達で推測し、臆測し、いわばデマを作り上げて、それが崩れて幻滅の悲哀を味合うというような生活をしておりました。第二の心理的の條件としましては、特にあの時に第九分所に来られた人は、イズヴエストの方から来られた人達は帰国のたびごとに除外されて来ておる。そこで自分達の帰国について一層不安がつのつて来た。更に今度の旅行も、カラカンダへの旅行も帰国への希望を持つていたにも拘わらず、ボタ山にそそり立つ炭鉱都市のカラカンダに連れ去られたというので、一層帰国の不安がつのつていたと思います。それから第三番目に、あの人達の中には日本共産党乃至徳田書記長に対して好意的でない人達も少くなかつたという、こういう三つの心理的條件を組み合わして見たときに、徳田が期待しておると言えば、そこに何か連絡があるんだ、工作があるんだ、或いは要請があるのだというふうに発展して行つたのは、自然的な心理的発展であつたかも知れないと自分は思います。
  107. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 殊に証人は心理をいろいろ探求されておる点でありまするから、或いは私が証言を求めます点につきまして不徹底の点があり、或いはそれが違うという点がありましたら、どうぞその点を遠慮なくおつしやつて、どうぞ楽な気持で御証言願いたいと思います。  そうしますと当委員会に宛てられて寄越された二度目の書面でございますが、ちよつと読んで見ますが、「前略一、私は一九四九年九月十五日カラカンダ市第九分所で通訳した者です。二、私はいわゆる徳田要請の存否一般については何も知りません。ただあの時あの場の事実だけについて述べることができます。三、私個人としては久保田氏達の証言が事実そのままではないと言うとともに、必ずしも意識的にでつち上げたデマとも断言できないと思つております。」こう前文に書いてありますが、その点については如何でありましようか。
  108. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 証人にちよつと御注意申上げて置きますが、考えられる時間があると思いますので、発言できる場合に委員長と呼んで頂くようにお願いします。
  109. 菅季治

    証人(菅季治君) 私はいわゆる証言が事実そのまま、言葉そのままではない、ズレがあると、そのズレが大きいか少いかということは、これは立場によつて、解釈の立場によつて違うのではないかと思います。併しながら日本共産党やアカハタ紙が書いたように惡質なデマである、陰謀であるというのも又あの人達の心理を考慮しないところの考えではないか、批評ではないか、こういうふうに思つておるのであります。
  110. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それで更にその書簡の末尾には、「(従つて九日附けのアカハタ紙の記事は、私の報告及び談話を正確に伝えていません。)」と、こう書いてありますが、それはその通りでありますか。
  111. 菅季治

    証人(菅季治君) 九日附アカハタ紙を私は私の近くの駅の掲示板で見まして、幾らか不安を感じたわけであります。というのは、報告の原文をそのまま載せていない。而もその要点として、私が報告に書きもせず、又言いもしないものを掲げておる。例えば久保田氏達の証言は事実を全く作り変えた悪質なデマであるということをその要点として載せておる。私はああいうふうには語りませんでした。又勿論書きもしませんでした。今淺岡委員さんにお答えした通りの気持を、私の感想を述べただけであります。で早速その次の日、十日の朝に朝日新聞と、それからアカハタ紙の方に抗議を申込んで置きました。どちらも載せられはしませんでしたけれども……。
  112. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますとこの当委員会に宛てられました書面と同じものをアカハタ紙に送られたのでありますか。
  113. 菅季治

    証人(菅季治君) まあ文章は同じではありません。
  114. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 更にその末尾を見ますと、「(十日前、朝日新聞とアカハタ紙とにこの点に関する抗議を出しておきました)」そして只今の菅証人証言によつてアカハタ紙に対しては抗議をしたということが書いてありまするが、これは私の解釈の仕方が悪いのか、或いは誤つておるかも知れませんが、朝日新聞とアカハタ紙とにこの点に関する抗議云々と書いてありまするが、朝日新聞にもそういうような抗議を出されたのですか。
  115. 菅季治

    証人(菅季治君) 朝日新聞の「声」欄というあの読者の声を載せるところがあります。その「声」欄として出しました。速達で出しました。
  116. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それは朝日新聞の「声」というところでは、どういう点に対してあなたは抗議の主点を置かれたのですか。
  117. 菅季治

    証人(菅季治君) 第一番目に、報告の原文を載せないで、私が書きもせず、言いもしないところのものをその要点として掲げているという点、それから第二番目には、肝腎の政治部将校の原文を、露文だけ見えるようにして、その訳文を載せていない。こういう二つの点について言いました。
  118. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 実は今まで当委員会で聞きました久保田或いは山森、そうした証人、更に又当委員会に各方面から送られて参りました書簡等、或いはその他新聞記事等に載つた点から見ますると、大体総合しますると、同少尉は「諸君の帰国は諸君自身が決定するのである。ハラシヨウ・デモクラート、徹底した民主主義になるか否かが諸君の帰国を決定せしむるものである。反動分子である限り絶対帰さない。これは日本共産党の依頼により、ソ同盟政府がこのような方法をとつたのである。」という、大体大同小異なことがいろいろと送られて来ているのでありまするが、そうした点につきましては、先程あなたがいろいろ聞く人の気持、立場、その雰囲気、そうした條件によつていろいろ変わる、又勿論違うだろうと思います。こういうふうに言われる諸君が非常に多いのですが、これに対してはあなたは肯定されましようか、否定されましようか。
  119. 菅季治

    証人(菅季治君) そういう人が多いと言いますと、どういう範囲ですか。
  120. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 例えば三百七十三名の人によつて国会に懇請書が出ている。その代表者が来ての証言、或いは私淺岡委員に対してもそうしたものが来ている。或いは当委員会に宛ててもそうしたものが来ている。更に又新聞紙等に語つておられる点、そうした人達の点を総合して見ますると、一つ申上げてもいいですが、沢山あるのです。
  121. 菅季治

    証人(菅季治君) いや、結構です。
  122. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 沢山提案があるのです。これは又あとで委員長に出してもよろしうございますが、それにはあなたが通訳をされたという点について、まあ期待するとか、希望するとかということでなくして、おなたの通訳が当時はつきりと言われたというふうに皆聞いた、こういうふうにあるのですね。例えば三月一日の対日理事会に私許されて傍聽しまして、そのときに、シーボルト議長が、その三つの証言のことを声明されました。その中にもはつきりとそういうふうに書かれてある。全部合すると四十四あるということも声明の中にありましたが、そこであなたは、先程証言にも、書面にも大体大要同じようなことを証言されております。取る人の方でははつきりとそれが徳田要請というふうに取られておるんですが、そうしたことに対してあなたは肯定されるか、否定されるか。決してあなたに誘導尋問しているんではないのですから、軽い気持で……。
  123. 菅季治

    証人(菅季治君) 私としてはあのように聞き、あのように通訳したと申すより外ありません。
  124. 小杉イ子

    小杉イ子君 証人にお伺いいたします。私の聞いておりますのは、徳田共産党書記長は、反動分子は帰すなとはつきり言つたように聞いておるんでございます。それで今伺いますと、そうではなくて、君達が帰国を要望するならば、先ず民主主義を完了してからでのことだというような伺いました。これが一つ。それから最も飼いたいのは、確かに徳田という言葉がそこに出たのでございましようか、どうでございましようか、これを伺いたい。
  125. 菅季治

    証人(菅季治君) 第一の問に対しては、ここで申上げましたように聞き、申上げましたように通訳したと答えるより外ありません。第二の質問に対しては、特に徳田という名前を出しました。
  126. 原虎一

    原虎一君 先程淺岡委員から尋ねられたのですが、あなたの三月十二日の日附で出された、引揚委員会に出されたところの書面の中で、従つて九日附アカハタ紙の記事は、私の報告及び談話を正確に伝えておりませんと、こう言われておるのですが、そうしますと、あなたからそのアカハタに自発的に出されたのか、アカハタ記者の訪問を受けて報告されたのか、その点がはつきりしておりません。
  127. 菅季治

    証人(菅季治君) 私は参議院の引揚委員会と、それから朝日新聞社の編集部とアカハタと同時に四日の朝投函しました。同文であります。それから翌翌日、六日だつたと思います。アカハタ紙の記者が来まして、そのときに私は今申しましたような、私の感じを述べたのであります。
  128. 穗積眞六郎

    穗積眞六郎君 政治部将校の答えをあなたが通訳されましたこの文書を、非常にどつちとも取れるような曖昧なものでありますが、大部そのとき、その聞いた人並びにその收容所でも、あとでこれが問題になつたのではないかというような気がしますが、そういうことがありますですか、ありませんか。
  129. 菅季治

    証人(菅季治君) 私はどういうふうに発展したかということは実際知りません。どういうふうに問題になつたかということは、実際住んでいる所も別でありましたので知りませんでした。
  130. 穗積眞六郎

    穗積眞六郎君 あなた自身としては、後にソヴエトの将校に、この意味がどういう意味であるかというようなことを、重ねて尋ねて見るというようなことをされたことがありますか、ありませんですか。
  131. 菅季治

    証人(菅季治君) 尋ねたことはありません。
  132. 穗積眞六郎

    穗積眞六郎君 今のお話で、あなたと收容所の方々とは別に住んでいたという話ですが、全く交渉がなかつたんでございますか。
  133. 菅季治

    証人(菅季治君) その頃私は九分所に籍はありましたけれども、各分所がその帰国準備のために忙がしいので、各分所に行きました。それから九分所において、九月の二十日頃でありましたか、九月の二十日頃、残留日本人の中から二十六、七名くらい選びまして政治講習会が開かれました。九分所において一画、別にして、收容所本部の方から私に、お前は今年中に帰るのである。政治講習会は三ヶ月の予定であるけれども、その残留する者の間から適当な講師が見つかるまで、取敢えず講師の一人として世話を燒けということで、講習会の方に関係し、各分所の方に廻つておりましたので、九分所におりました皆さんとは別に交渉はありませんでした。
  134. 穗積眞六郎

    穗積眞六郎君 それでは、この問題について向うにおられる日本人の方々からあなたに対して、その日の通訳の意味がどういう意味かというようなことについて質問を受けたことは一遍もなかつたのですか。
  135. 菅季治

    証人(菅季治君) ありませんでした。
  136. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 外に質問はございませんか。
  137. 中野重治

    中野重治君 あすこに渡部武士記憶集会状況見取図、あのあすこに植松、峰田という人の位置が赤い印しで付けてあつて、大体あれに間違いないという証言が先程あつたが、この前委員会で植松証人証言があつた際に、これは確か淺岡委員の質問にもあつたと思いますが、こういうわけでした。最初久保田証人言葉では、反動は帰すなと、日本共産党書記長徳田球一氏から言つて来たから、だから帰さぬのだ、こういうことがヒラトフ中尉からあつた。それが若し事実ならば不埓であるというので、この問題が起きておる。ところがあの日久保田証人はロシア語が分らない、植松証人はロシア語が分る。(「それは山森だよ。」と呼ぶ者あら)それは取消します。植松証人に関しては取消します。とにかく今のような話があつて、その山森証人の、ロシア語のできる山森証人言つた言葉と、ロシア語の分らない久保田証人の出した言葉とは大分開きがあつて、この点で私が念を押した。ところが後のときにその山森証人は、それは直接通訳に当つた菅某が正しいと、こういうふうに自分は判断します。こういうふうに証言があつて、それから又いろいろの経緯があつて、午後の終りにはロシア語が分る元の陸軍一等通訳の山森証人に聞いたところが、ロシア語の分らない久保田証人言つた言葉、つまり端的に言えば、この問題が事実ならばという問題が出されるならば、日本共産党徳田書記長にとつては甚だ不利である。その久保田証人言葉が……。
  138. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 発言中ですが、中野委員に申上げますが、質疑されておるのですか、菅証人に対して……。
  139. 中野重治

    中野重治君 そうです。質疑です。なぜ私がそういうことを言うかというと、そもそも問題が久保田氏等々から出ておる、それについて委員会としてはいろいろ証言を求めて今日まで来た。更に委員会としては、今日呼んだような諸証人に来て貰つて真相を確かめねばならんというところに来ております。そこで今日までの経緯を大体手短かに語つて、それで証言を頂こうと思つている。こういうわけで、当日のヒラトフ中尉の言葉としては、このヒラトフ中尉というのは、そんな者はいなかつたというのが菅証人によつて証言されているんですけれども、要するにロシア語の分る山森証人証言が、ロシア語の分らない久保田証人証言に午後になつて一致するようになつていた。これを、事務当局の方であのときのあれは出ませんかね、久保田証人言葉とそれから直訳した場合の山森証人言葉と。
  140. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 会議録をお手許に配つてあります。
  141. 中野重治

    中野重治君 あるのだけれども、私は外の諸君の質問を聞いていてどつかに見失つたもんだから……この問題は後にしましよう。簡單なことを問います。ヒラトフ中尉とかヒラトフ少尉とかいうことが言われて、それで問題が始つているんですが、ヒラトフ中尉とかヒラトフ少尉とかいうのは実在せざるものですね。
  142. 菅季治

    証人(菅季治君) 九分所には実在しませんでした。
  143. 中野重治

    中野重治君 先程菅証人のお言葉の中に、カラカンダに九月初めに移つて来た人々は帰りたい帰りたいと思つて、それまでに帰つて人があつたけれども取残されて来た人々であつたという言葉がありましたが、それはどういう特色があつて除外されて来た人々と菅証人には見えましたか。
  144. 菅季治

    証人(菅季治君) 見えたかと……、私は別にあの人達の思想内容を知ることはできませんでしたけれども、二、三の人と話したところが、「我々は憲兵とか警察官とか、或いは司法官とかやつて、取調関係は前歴者、前の履歴で引つかかつている者、前歴者というふうに呼ばれている者である。そういうわけでウズベツクスタンでも一九四八年に帰国の度ごとに除外されて来た」こういうようなことを聞きました。
  145. 中野重治

    中野重治君 久保田証人から、政治部将校、或いは正確には何将校と言うのか知りませんが、そういう人から何らかの話があつて、菅証人が通訳として通訳したときの、その事情を聞きますと、問題は收容所の、「生活規律の確立、これと生産意欲の高揚、これは文化活動においては、勿論反ソ的な文化活動は展開され得ないし、そうして收容所の清潔、整頓、或いは文化的なデコレーシヨンを行う、こういつたことと生産意欲の高揚ということは四ヶ年を通じて絶えず民主委員会を以て教導されて来たことであるし」云々とあつて言葉をずつと見て行くと、文法が変つてしまつて分らなくなるのですが、大体の意味は、新らしく收容所のそういう人たちの自分で言つた言葉によれば、いわゆる前歴と言われておる人たちが移つて来て、そこで收容所の生活を規律正しくやつて行く、こういうことをソ連側の責任者が皆に伝えるというところから話が生じたというふうに証言されておるのですが、大体そうですか、それとも何か違えば話して頂きたい。私の言葉は少しごてごてしたかも知れませんが、何故よそからそういう特殊の人々が移つて来たためにそんな話があつたのか、つまりそれは收容所の生活を規律正しくやつて行くということを皆に言い聞かせるためにそういう話があつたのかということです。状況です。そのときの。    〔委員長退席、理事淺岡信夫君着席〕
  146. 菅季治

    証人(菅季治君) それは所長代理としまして、新らしく迎えられた日本人たちに対して收容所生活心得、特に清潔、整頓、それから寒さに向うところの……カラカンダ地方は九月の半ばと言つても雪が降つたこともありますから、カラカンダにおけるところの寒さに対する建物の修理ということについて語つたと思います。
  147. 中野重治

    中野重治君 あと一つ簡單にお尋ねいたします。先程アカハタの問題が出ましたが、アカハタの記事の書き方が菅証人の最初の文章を歪めて出した。それで抗議を出したのだが、アカハタに載せられなかつたというお言葉がありましたが、アカハタの三月十六日号に「菅氏からの手紙」というのがありまして、「本紙三月九日号の元通訳菅季治氏のいわゆる「徳田書簡事件」にかんする談話についてその談話の主である菅氏から編集局へあて以下のような手紙が寄せられました、編集局としても、その手紙で菅氏がいつておられる通り、あの記事の一部に「いくらか残念な点」があつたことを認めます、よつてここにその手紙の全文及び菅氏が手紙の中で希望されている「政治部将校の発言の訳文」(ロシア語文は九日ずけ本紙に掲載ずみ)を発表して菅氏ならびに読者のみなさんに深くおわびいたします(アカハタ編集局)  三月九日付アカハタ紙をみました、あのわたしに関する記事にはいくらか残念な点がありました、わたしとしてはわたしの「報告」をそのまま、特にあの政治部将校の発言の訳文をのせてもらいたかつたと思います。あの中には日本共産党とソ同盟にとつて有利でない点もあるかもしれません、    〔理事淺岡信夫君退席、委員長着席〕  しかし事実は事実なのです。またわたしは久保田氏たちのいわゆる、」……これは証言だろうと思いますが、「証言を「事実を全くつくりかえた悪質デマ」とは書きもしなかつたし、いいもしませんでした、記者の方には「捕虜とくにあの人たちの心理としては自然的な推測だつたかもしれない」と語つたのです、これはまる四年間捕虜だつたわたしの「捕虜心理学」的考察です、しかしそんなものは階級的立場にたたない「ブルジヨア観念論」に由来するのだと思われるならば、そういうわたしの話をいちおうそのままのせて、それをあなた方の立場からさらに批判して展開してもらいたかつたと思います。菅氏の記憶にもとずくエルマーラエフ上級中尉の発言。いつ諸君が帰れるか——それは諸君自身にかかつている、諸君がここで良心的に労働し真正の民主主義者となるとき、諸君は帰れるのである、日本共産党書記長トクダは諸君が反動分子としてではなくてよく準備された民主主義者として帰国するよう期待している」こういうのが載つておりますが、そうすると、二つのことをお尋ねしたいのですが、一つはこの新聞があなたの所へアカハタから送られなかつたかということと、それから今私が読上げた通りであるならば、或る程度満足されるかどうか、細かい心理学的なことについてはさつき淺岡委員から質問がありまして、私はそういう点に関しては触れません。その二つについて。
  148. 菅季治

    証人(菅季治君) その新聞を送られたおりません。二番目、私はそのようにアカハタ編集局に後で申しまして、それが載せられましたとしますれば、アカハタ外との関係においては、一応満足いたします。
  149. 中野重治

    中野重治君 戰争に行かれ、且つ長い間捕虜生活をされて、その結果、ああいう戰争はなすべきでない。今後もそういうことがあつてはならんというふうに考えられておられるだろうと思いますが、証人が帰つて来られてから日本に関して、日本が、日本の国民の間におけるいろいろな考えの違いというものは別として、諸外国から見て、まだまだ日本は戰争を止めたと憲法で書いてはおるけれども、何を考えておるか知れたものではないというふうな疑いの目を以て外国から見られておるというようなことについて、新聞その他で或る程度御承知ですか。
  150. 菅季治

    証人(菅季治君) 私は元来……帰りましてから早速、軍隊へ入る前に京都の大学院でやり掛けた研究を、とにかくまとめておこうというので、碌に新聞も読まない次第であります。日本の現情についても、まだまだ認識してはおりません。で中野委員さんから言われたようなことについて、そうですね、新聞記事何かありましたですか。
  151. 中野重治

    中野重治君 御承知なければいいのです。そういう專門の方ですから、いろいろのことを御存じないとしても、私は不満ありませんが、例えば、それでは菅証人は、久米正雄という戰争に協力した廉で政治的に追放せられておる作家がおりますが、この作家が日本米州論という論文を書いて、日本はむしろこの際アメリカの一州になつてしまう方がいい、日の丸ではなくて、アメリカの国旗を星を一つか筋を一本か殖やした、そういう旗を家ごとに揚げる方がよかろう。又三百六十円で一ドルということにしてしまつたらよかろう。むしろその方が日本の幸福であるというふうな意見を雑誌に発表しておるというようなことについては、全然お知りなさらんですか。
  152. 菅季治

    証人(菅季治君) どういうわけでそういうことを聞かれるか、私よく分りませんが、そういうことを読んだことはありません。
  153. 中野重治

    中野重治君 もう一つだけで打切ります。朝日新聞の三月十六日号に「台湾貿易の再開が許可されたことは、我が経済自立の促進に寄與するだろうが、ただこの際特に自戒すべきは、貿易再開の波に乘つて戰争資材が日本から流れ出すことである。新聞にも一部報ぜられたことだが、現に阪神地方の工場で有刺鉄線が大量に作られ、昨年十一月以来数回に亘つて数千トンが台北の国民政府へ送られているそうだ。これに似たことは他にもあるかも知れない。中共軍の台湾進攻は恐らく時間の問題だといわゆる。やがて戰場となるかも知れないところへ、戰争資材を送つて恨まれるようなことは、それでもうける連中はよいかも知れぬが、日本人全体としては迷惑至極である。戰略物資の輸出はさきごろ嚴重な統制の下におかれたが、地域を「戰場となる可能性ある地域」に拡大すべきである」云々、「輸出の振興なしに国民生活が成り立たぬことはいうまでもないが、それは何を輸出してもよいということではない。利得を追求するために「恥すべき、戰争商売人」の汚名を日本国がこうむることは、政府として傍観すべきでない。」
  154. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 中野委員に御注意申上げます。
  155. 中野重治

    中野重治君 こういうことが出ておりますが、証人は、日本が戰争商売人の名を着せられることを拒否したい。そういうふうなことになることを、ならないようにと希望されますか。
  156. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 中野委員に申上げますが、本日求めておる証言には、求めることになつております証言には、非常に関係が程遠いと思います。今の質問、どうしても……。
  157. 中野重治

    中野重治君 委員長に答えてもよければ答えますが、委員長意見は分りますが、若し関係が程遠いという委員長意見を、私に承認しろというのならば、関係が全く密接であるということを述べることは私に十分可能であります。  尚併し一言附加えますが、私はこの一つ言葉についての菅証人の答えを求めて、それで一応私の質問を打切るつもりでありますから、私がそういうふうな問題を取り出して、これからどこまで言うのであろうかということを懸念されての只今委員長発言であるならば、その御懸念は御無用であります。
  158. 岡元義人

    委員長岡元義人君) できるだけ問題の要点に触れて御質問を願います。
  159. 中野重治

    中野重治君 それで、途中で委員長が中断しましたから、私の言葉が消えたように証人に取られるかも知れませんが、私のお尋ねしたいことは簡單であつて、つまり菅証人は再び戰争が超るような事態に対しては、そうでないことを望まれるか。それから日本がこういうふうな又戰争をやろうとしておるのだというふうに諸外国から思われることは望まないか。このことをお尋ねします。
  160. 菅季治

    証人(菅季治君) 私自身としましては、歴史的現実におけるところの個人的な希望とか、観測の無力ということを、私今までの生活で痛感しております。ですから私は勿論戰争はしたくない。或いは外国から戰争商売人などと日本が見られることは欲しません。けれどもただそうした自分の希望などというものは、殆んど無力であるということも同時に感じております。
  161. 中野重治

    中野重治君 結構です。
  162. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 菅証人にお尋ねしますが、十五日の最初の三百名ぐらい集まつたときに通訳された、只今証言を頂いたのですが、更にその後何百名ぐらいの人が、約九百何十名かの人がおつたということでありますが、二回目のときには、どのくらいの人がその中に入られたかどうか。それに対して御証言をお願いいたします。
  163. 菅季治

    証人(菅季治君) 二回目のことは記憶しておりません。二回目集まらなかつたと思います。
  164. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、私は先程も露語のことを伺つたのですが、露語のことはよく分りませんが、委員会に宛てられて来ましたものを專門家に聞いて見ますと、このロシア語は、日本語を作つて、その後にロシア語に直されたのだというふうに專門家は解釈されるのですが、と言つてもあなたを決して私は、何と言いますか、決して軽蔑するわけではない。あなたも立派な資格のある方だと思つておりますが、その点はどういうことでしようか。
  165. 菅季治

    証人(菅季治君) 私自身としては、通訳しました日本語の方がより深く印象に残つております。
  166. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、当委員会に宛てられて寄越されましたこの露語は、大体においてあなたが、日本語の記憶の残つておるのを主としてお書きになつたと、こういうふうに解釈してよろしうございますか。
  167. 菅季治

    証人(菅季治君) 大体そうですね、何と言いますかね。併しながら記憶に残つておるロシヤ語もあるのです。
  168. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 分りました。そこであなたの通訳を聞いた人の、まあ多くの人と思いますが、三百名ぐらいの人で、三百七十何名かの大体署名なり、或いはその代表者が証言したということですから、当委員会としては、それを間違いであるというならば、僞証という点で委員会としても考えなければならないと思うが、それからそこで多くの人が、先程も申上げましたように、要するに徹底した民主主義、徹底した民主主義ということは共産主義だ、それにならない者は帰さないで呉れということは、つまりそれになつた者は帰して呉れ、それにならない者は、反動分子は帰さないで呉れ、こういうふうに皆解釈しておるというのですが、それに対して簡單でよろしゆうございますから……。
  169. 菅季治

    証人(菅季治君) そういうふうに解釈することは、あの人々の心理に即して言えば自然であり得たかも知れません。
  170. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そこで私共が懇請書なり或いは証人言葉を聞いて見まして、我々が引揚者の報告を信ずる、信じたのは、共産党にとつては、反国家的或いは非国民的言動が必然であり当然である、こういうふうに解するからなんですね。何故にか共産主義が理論的にも行動的にも階級的世界観に立つておる。全世界を一元的な闘争の舞台としておる。殊に共産主義が一国家一民族に即応することは、議会の本質に反する、そういうような立場から私共、これはいろいろ委員の立場において変つておりましようが、私委員としては一応そういうふうに解釈する、そういうふうな点でいろいろ証言なり、或いは懇請書、書面などを見て参りました場合に、あなたは期待しておるというふうに言つたんだが、併しそういうふうにとられても止むを得ないのだという只今証言がありましたが、この面に対しては、先程の証言では、外ではそういうことは聞いたことはない、こういうふうに先程御証言があつたのですが、これは九月十五日にただ一回こういうことがあつたということだけですか。
  171. 菅季治

    証人(菅季治君) とられても仕方がないと、それは客観的に純粹にそれがあるとは言えないと思います。あの人人の心理に即して言えばですね、それから帰国問題については、一般にソ側としましては非常に秘密を守つていたようであります。事実一時、收容所分所の将校などは殆んど知らなかつたと思います。時が来れば帰るのだという場合が多くて、私達は非常にいつも不安も持ち希望も持つていたわけであります。
  172. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 先程の御証言では、日本新聞にそういうふうなことが掲げてあつた。そういう要請とか何とかいう問題でなくして、日本共産党としては、民主化されない者は帰つて来ない方がいいのだと思う。民主主義化された者のみが帰つて来る方がいいのだというような、そういうような意味のことが日本新聞にも載つたことがあるのですかないのですか。
  173. 菅季治

    証人(菅季治君) 日本新聞は、日本共産党はそういうことを期待しているということを、徳田氏が反動は帰さないことを期待しておるという言葉遣いはなかつたと記憶しております。ただ日本新聞としては、可なり激しい言葉で反動を吊上げよとか、反動を帰すなとかと呼び掛けをしたことはあります。
  174. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 日本新聞でそういうことがあつたということは、これは共産党書記長徳田の名前であろうが、共産党であろうが、いずれでもいいが、共産党としてそういうようなことが書かれてあつたということは、あなたの記憶において何遍くらいあつたのですか。
  175. 菅季治

    証人(菅季治君) 共産党としてやるとは申しません。日本新聞と共産党との関係は私自身もよく知りませんが、日本新聞が可なり激しい口調で述べていたと思います。又私自身の感想によりますと、日本新聞にはアカハタ紙の記事の転載がありました。アカハタに載つておるところの日本共産党の人々の言葉遣いと、日本新聞編集者自身言葉遣いの間には可なりな激しさという点においては、露骨とかそういう点において違いがあつて日本新聞のようなものは、私のような神経の弱い者はちよつと恐ろしいような、血みどろなとか、残虐とか、そういう激しい言葉を用いておりました。ですから一応そこに区別する必要はあるのじやないかと思います。
  176. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと今の残虐とか、或いは非常に血腥いことが書かれてあつたという御証言ですが、つまり反動を帰すなとか、或いはそのいろいろのことはやはりたびたび書かれておりましたかどうか。
  177. 菅季治

    証人(菅季治君) 何でございますか。
  178. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 反動は帰すな、民主化された者は帰つてもいいが、要するに反動は帰して呉れるなというようなことは、やはり相当書かれてあつたですかないですか。
  179. 菅季治

    証人(菅季治君) 反動摘発、反動吊上げ、反動暴露というようなことは書かれておりました。反動を帰えすなというようなことも、相当とは言えませんけれども、まま書いてあつたと記憶しております。
  180. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますとままそういうことが書かれておつたということになりますると、向うの收容所にいる、帰国の気持で一杯になつている人達の同胞から考えればそれは非常に強く響くというようにとつてよろしゆうございますか。どうですか。
  181. 菅季治

    証人(菅季治君) 心理の問題でありますけれども、相当強く響くと考えます、自分は。
  182. 千田正

    ○千田正君 ただ二点だけ菅証人にお伺いします。あなたがお帰りになつてから当時を回想しまして、この九月十五日、あなたが通訳された、日本共産党徳田要請なるものが通訳されて以後、特に目立つて帰還者と残留者との間に区別された方法をソ連側からとられたかどうか、及び帰国されて今日振返つて考えて見て、この要請があつたために特に残されたという感を深うしておるかどうか、その点を証言して頂きたいと思います。
  183. 菅季治

    証人(菅季治君) 要請があつたかどうかということが、そもそも問題なのでありますけれども、私は一九四八年度の帰還の月まではカラカンダ地区の第十一分所におりましたのです。一緒の管理下にあつた外の分所のことは全然知りませんです。一九四八年までは大体健康を基準にして帰したと思います。一部の帰つて来た人が申しますように、アタチーブの諸君の申しますように、ソ同盟におけるところの捕虜生活は決して天国のような生活では別になかつたです。やはり体が衰弱した人も相当あります。私のおりました十一分所におきましても、帰国のときには、上の方からソヴイエト人の医者が来まして突然身体検査をして、そうしてチエツクして行つて、それを帰すというような方法でありました。一九四九年度に入りましてカラカンダの日本人の帰還が始りましたのは、九月の三日が第一回でありますが、その頃日本人アクチーブ、民主主義運動をしておりました人々の間に、反動はどうなるのかというようなことをソヴイエト側に聽いたことがあるそうです。ところがもう今年は取調関係以外の者は、反動も何も遅かれ早かれ收容所單位で帰るのだからというようなことを言つたそうであります。事実まあ私の帰りました梯団におきましても、まあ反動と言われた人々がどんどん帰つております。
  184. 千田正

    ○千田正君 そうすると今現在よく新聞や何かに書かれておる要請ということ、言葉は或いは当らないかも知れませんが、あなたの通訳された言葉によるところの影響はそう強くはない、或いは大した影響はなかつたというふうにあなたは考えられるわけですね。
  185. 菅季治

    証人(菅季治君) 質問がよく分らないのでありますが。
  186. 千田正

    ○千田正君 早い話が、これは帰還促進に対して大きな問題として取上げられている問題であります。であるから徳田書記長の名前で、このあなたが通訳した問題が、その後の帰還に対してそう影響を及ぼしておらなかつたというふうに、私はあなたからの先程の証言によりますと聞こえますが、例えば身体障害者から順々に帰している。反動の称さえある者も順次に還しておつた。そこで私共の聞きたいのは、この九月十五日のあなたの通訳した問題以後に、変化が相当つたかなかつたかという点を聞いたところが、大してなかつたのだとすれば、この問題においてそう影響がなかつたというふうにあなたは断言されますか。それともこれが、あなたが通訳されたこの問題以後、相当引揚促進に対してソ連地区内におけるところの送還の実情に強い影響を與えたかどうかという点について、私は聞いているのであります。
  187. 菅季治

    証人(菅季治君) 私が通訳しましたあの言葉が、そう帰還事情に強い影響を與えたとは私は感じませんでした。
  188. 原虎一

    原虎一君 いろいろ聞かれておるのですが、最後に通訳としてですね、あなたが通訳として、要するにカラカンダ九十九地区における收容所の、昨年の九月十五日でありますか、このときの講演をあなたが通訳されて、まあこれが今非常に重要な通訳になつているのでありますが、問題となつて来ているのです。その他においてですね、どういう場合に通訳として多くやられておるか。どうも今まであなたが陳述されているところでは、このときばかりで、政治部将校の演説なんかを通訳したことは余りなかつたようです。ですからどういう場合に主に通訳されておつたのか、ここに何年間くらいおられて、どういう仕事をされておつたか。その点をもう少し詳しく御説明願いたいと思います。
  189. 菅季治

    証人(菅季治君) 私は大体一九四九年三月までは一ヶ分所において通訳をやつておりました。一九四七年の……そうですね、半ば頃までは主として收容所内部の諸問題についての通訳であります。それからその頃になりますと、大体收容所に残りました日本人の日直にしましても、大体ロシア語も何とかかんとか通じるようになるというので、それ以後、あの先程お話しました問題がありまして以後、ああした事情がありまして、私は主として作業場において作業の関係の通訳をしておりました。一九四九年三月以後そうした各收容所共通の通訳としましては、向うのカラカンダ地区におきまして、先ず第一に一ヶ月に一遍は生産管理というものをやりますが、各收容所の生産の成績を調べて、いい收容所は褒める。悪い收容所は叱る。でよい收容所の作業成績のいい者は、名前を挙げて褒める。又作業成績の悪い者もやはり名前を挙げて非難する。そういつたような生産管理がありました。それから今度は各收容所には、民主委員会という政治文化活動をやつている委員会が、各收容所において、一九四八年の二月からずつと行われております。その民主委員会報告を出さねばなりません。自分の委員会の活動についての報告を收容所本部の方に出す、それの通訳、それから各收容所において演芸をやるといいますと、その演芸の内容を検閲を経なければなりませんので、又通訳をする。その外まあ收容所を廻りまして、映画をやるならば、映画説明も覚束ないながらも幾らかやらなければならない。まあ大体そんな仕事をやつておりました。
  190. 原虎一

    原虎一君 そうしますと、ソ連政治部将校の演説を通訳するというような場合は少なかつたようでありますが、先程文化活動であるとか、生産委員会の場合におけるところの通訳、そういうものが主で、政治部将校の演説を通訳するというようなことは、そう機会がなかつたように受取れますが、その点はどうですか。
  191. 菅季治

    証人(菅季治君) そうですね。まあ結局各分所におけるところの政治部将校が、定期的にやはり機会があるときには、革命記念日とかメーデーとか、そういうときには演説をするような任務を持つてつたのではないかと思います。私の記憶では一九四九年の三月以後政治的な……それ以前において一分所におりましたときには、そうしたメーデーのときやら、或いは又ソヴエト同盟の憲法発布の記念日のときの演説、或いはスターリン誕生日のときの政治部将校の演説などを通訳した経験はあります。一九四八年三月以後、特に政治的な面の通訳としましては特別に記憶しておりませんが、帰還者が帰還するとき、各收容所がやはり帰還者の大体というものをやる。そのときにもやはり政治部将校は、相当政治的な内容を持つたところの発言をする、又生産管理におけるところのソヴエト将校の発言も、やはり政治的な内容を持つておりました。まあ大体そんなものです。
  192. 原虎一

    原虎一君 この会合のときですね、渡邊武士君、それから峯田恒次君、植松楢數君ですか、こういう諸君がおつた訳であります。こういう諸君を御存じですか。
  193. 菅季治

    証人(菅季治君) 覚えておりません。
  194. 原虎一

    原虎一君 覚えていないのですか。
  195. 菅季治

    証人(菅季治君) はあ。
  196. 原虎一

    原虎一君 話したこともないというわけですか。
  197. 菅季治

    証人(菅季治君) はあ。
  198. 原虎一

    原虎一君 最後にあなたが通訳されたと思うのですが、第一会合に三百数十名が集まつて、マース中尉の話を聞いて、その後二回目の会合はしないと言う。聞いた諸君は帰つてよく話をしろ、こういうことを中尉が言つているのですね。マ中尉か若しくはシヤ中尉か、どちらかが言つているのです。この点はあなたは通訳されましたか。
  199. 菅季治

    証人(菅季治君) そういうことを言つた記憶はあります。ソヴエト将校側としては、初めは三百名くらいずつに分けて二回くらい話すつもりだつたのかも知れません。併し時間の都合上そういうようにして話したかも知れません。
  200. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 委員長から菅証人にあと二、三点伺つて置きたいと思います。先程来久保田善蔵外三百名余の懇請書の中には、ヒラトフ少尉というような名前が出出おります。そのヒラトフ少尉というのは、九分所にはいなかつたという御証言があつたわけですが、たの九分所におられた、收容された方々は、この政治部将校の名前をば皆がよく知つておるとお考えになつておられますか。
  201. 菅季治

    証人(菅季治君) 一般の人々はよく知つているとは言えないだろうと思います。
  202. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 続けてお尋ねしますが、ヒラトフ少尉というのは、あなたが指しておられるところのエルマーラエフ中致というの間違いである。このようにあなたはそのときの状況から判断して考えられますか。
  203. 菅季治

    証人(菅季治君) 間違つた考えるかというわけですか。
  204. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 間違つておるんだ、よく名前をみんなが知らないから梯団の方々から提訴されました中には、よくヒラトフ少尉ということが伝えられておるわけですが、それはエルマーラエフという政治部将校のことをよく知らずにああいう工合言つたものか、そのときの状況から判断して考えられますか。
  205. 菅季治

    証人(菅季治君) どういう事情でヒラトフ少尉という階級が出たのか私達としては想像が付きません。第十一分所の所長もやつておりましたのでよく知つております。エルマーラエフ中尉に間違いありません。
  206. 中野重治

    中野重治君 議事進行に関して……今の委員長が質問される意味は、私半分は分ります。併しながらこれは注意して貰いたいと思います。これは十六日にもいろいろ問題があつたのだから……、それは問題が出ているのは久保田善藏君から出ておる。これは先程は委員長は、書類なんかを用意しないで証人は話をして貰いたいというふうに言われましたが、当日委員長相当自由に発言されておるし、且つ淺岡委員は広範囲に亘つて、それはどの部面に属そうが、或いはどの範囲に亘ろうが、自由奔放に証言して頂きたいという激励もあつて述べられておりますが、その中にはヒラトフ少尉は左のごとく言明せりとして、「日本共産党書記長徳田球一氏よりその党の名において思想教育を徹底し、共産主義者にあらざれば帰国せしめぬことの要請あり、よつて反動思想を有するものに絶対に帰国せしめぬのである」云々。「世界平和及び民族の自由独立を標榜せる日本共産党のかかる態度は人道を無視し、国民の総意に悖る」云々、こういうふうに出ているのです。それから委員長が質問され、且つ証人が答えられる、その構想に関しては私は異議を何ら狭むものではないのだけれども、あのヒラトフ少尉はこのエルマーラエフ中尉であるかというふうに問を出される場合、あのヒラトフ少尉というのは久保田証人によつてかくのごとく提出されている人物以外ではないと思うのです。委員長の心中においてもそうであるならば、そういうふうな問題を出されることはちよつと危險を含みますから、注意せられたい。そういう注意に基いて話を進めて頂きたい。
  207. 小杉イ子

    小杉イ子君 あとまだ三人もおられるのですから、それにつけても申上げますが、徳田氏が反動分子は帰すなと言つたとか、又は帰国を要請するなら民主主義を完了してからであるといつたようなことは、この点は私は法的には問題になるか知らんと思いますけれども、ここでは法的ではなくてもよいと思つておりますが、菅氏が通訳なされましたときに、徳田書記長という名前をはつきりおつしやつたと、それを若し通訳がおつしやつてつていたとすれば、その将校は……、徳田氏はわしは言わないよとおつしやつたこの点、私は問題になると考えます。それを将校が言わなかつたとすれば徳田氏が書類を出したことは確かだと思います。そうして、多人数の者もそれに賛成するであろうと思います。それをするということは一日も早く帰りたい人と、一日千秋の思いで待ち佗びておる家族に対しては、これは阻止の書類であると思われることは誠に悲しいことであるとこう思うのでございます。それでこれをいつまでも同じことを繰返して言うても、あとに三人もいていつまでかかるか分りませんが、その点もお考えになりまして、何とか結論を早く出して頂きたい。
  208. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今委員長から二、三の質問をいたしまして、まとめて行きたいと思つております。尚続けてお伺いいたしますが、菅証人は十六日の当委員会傍聽されておりましたか。
  209. 菅季治

    証人(菅季治君) 傍聽しておりました。
  210. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは伺いますが、あの十六日の委員会におきまして、徳田証人からそういう要請、その他は絶対にないという御証言があり、又タス通信の問題に触れられたわけでありますが、あなたは通訳に当られた際に、十六日のあなたがお聞きになつたいわゆる状況等から判断いたしまして、その通訳の際に、あなたがお感じになつたことは、要するに直訳で書類は出されておりますけれども、何かそういうような連絡が来ておつた。何らかの連絡があつたからそれをそのまま九月の十五日に政治部将校から話があつたんだ。それを通訳したんだ。こういう工合にあなたは考えられますか。
  211. 菅季治

    証人(菅季治君) 私自身としては、そのようにも、そうでないとも、どつちとも言えません。(「はつきりして貰おう」「はつきりしてるじやないかと呼ぶ者あり)
  212. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 重ねて菅証人に伺いますが、十六日の傍聽をされまして、絶対にないということを徳田証人からあなたは発言があつたことを聞いておられますか。
  213. 菅季治

    証人(菅季治君) ええ。
  214. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 証人はそのとき、あなたが通訳されたことと、どのように考えられますか。
  215. 菅季治

    証人(菅季治君) 政治というのはむずかしくて分らないのです、実際。
  216. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚もう少し……(議事進行と呼ぶ者あり)今委員長から質問中です。委員長からもう少し補足して言いますが、先程も小杉委員から質問の点が触れておられますけれども、あなたが通訳されたその中に、そういつて来ておる。記載しておる。いずれにいたしましても、あなたが通訳されたことと、十六日の委員会において発言されたことをお聞きになつた点と、これが違つておると、若し事実タス通信によつて発表された通りであると、徳田証人証言通りであつた場合には、あなたが九月十五日に通訳された場合にそこに食い違いがありはしないかということを考えられますか、ということを聞いておるのです。もつと分りやすく言います。もう少しはつきり言います。若し全然ないと、そういうことがなかつたと、十六日の委員会通り全然なかつたとしますれば、ああいう通訳をあなたがされたのですな。このエルマーラエフ中尉からですか言われたことを、これはエルマーラエフ中尉自体において言つたことだ。こういうふうにお考えになりますか。
  217. 菅季治

    証人(菅季治君) 私個人の印象としましては、あの爺さんはこういう……。
  218. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 爺さんとは何ですか。
  219. 菅季治

    証人(菅季治君) いや、あの将校、政治部の将校のことを爺さんと言つているんですが、こういうことを言つて逃げたと感じました。感じたのであります。帰国に関することをはつきり言えなかつたか言うことを欲つしなかつたので逃げたという感じを受けたのであります。
  220. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 菅証人が先程来証言しておられる通り、そう言われたことをあなたが通訳しておられる。その通訳に対して、タス通信によつてそういうことは全然ないのだという発言があつたわけですね。その点についてあなたどのように考えておられるか、こう聞いておるのです。
  221. 菅季治

    証人(菅季治君) あつたなかつたか、政治の複雑なことは分りませんです、(「議事進行」と呼ぶ者あり)
  222. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 委員長が分るように申します。菅証人に申します。(「誘導尋問しようとするから分らなくなるんだよ」と呼ぶ者あり)お靜かに願います。菅証人にもう一回申上げますが、私は先程申上げましたように、全然なかつた、十六日の委員会においてはそういう全然要請も何もしていない。タス通信によつても明らかだということは言われたわけです。そうすればあなたが通訳されたということは、これは向うの政治部将校が勝手にそういう工合に話したものであるか、ということについて聽いておるわけであります。返事だけを頂ければよいのです。
  223. 菅季治

    証人(菅季治君) タス通信の言うように全然なかつたとすれば、あのソヴイエト将校の発言は事実ではなかつたと思う、こういうわけであります。或いはその政治部将校が自分の独自の、自分だけの個人的な気持から言つたのか、こういうわけであります。
  224. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 要するに端的に申上げれば、徳田要請があつたか、なかつたか、本人はないと言つておる。やつたことはないというし、タス通信もないというし、そうしたことを私は証人にお伺いしようとは思わないが、こういうふうに当時あなたが通訳をされて、徳田書記長からそういう要請があつたと思つたか、思わないかということをただ簡單にあなたが通訳をされた結果ですね、分りますか……。簡單に言いますよ、もう一遍、日本共産党書記長徳田は諸君は反動分子としてではなく、よく準備された民主々義者として帰国するように期待しておる、ということを言つて来たと思つておりましたか。或いはただ政治将校が單にそういうふうに言つたと思いましたか、どつちでしよう。
  225. 菅季治

    証人(菅季治君) 私自身としてはそういうことを考えませんでした。というのは、もつとそれを詳しく言いますと、政治部将校というものは十一分所の所長でありました当時、大変酒呑のだらしない男だというので首になつております。第九分所に行つてからは、何かはかない倉庫番かなんかやつていたのであります。それが一九四九年の何月頃からか政治部将校になつたそうであります。その場限りのことであろうと私としては政治将校の性格からは思つていたわけであります。
  226. 千田正

    ○千田正君 それは心理的に非常にむずかしい。ソ連地区において、カラカンダの地区において聞いていた時の菅証人の感じと、一昨日いわゆる徳田書記長のノーという言葉を聽いて、更に当時を振返つて考えた現在の心境というものと二つの心理がある、いずれをあなたは問おうとするのですか。
  227. 岡元義人

    委員長岡元義人君) その後の方です。
  228. 千田正

    ○千田正君 それを言つて貰いたい。
  229. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 委員長より今の淺岡委員の質問を補足しますが、委員長の気持は、その状況を一昨日、十六日の傍聽された後においてどう考えられますか。こう聞いておるのです。
  230. 菅季治

    証人(菅季治君) 私自身としましては、徳田書記長が何と言われようと、前に参議院並びに朝日新聞、アカハタ紙に出したときの気持と少しも変りません。で、徳田書記長のあの場面を見ましても、まあこれは暴れるな、政治というものは相当実際においては乱暴なことをやる。参議院を見てぽつとしただけでありまして、別にその気持は、最初に感じたときの気持と全然、あの徳田書記長言葉によつてどうこうというような心理的な影響は、感じておりません。
  231. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 証人に、大事な点でございますので尚この点をもう少し明らかにして頂きたいと思うのですが、あなたは当時(「委員長」と呼ぶ者あり)靜かにして貰いたい。委員長から聞いておりますからちよつと待つて下さい。あなたが通訳をしたということは、あなたはよく御承知なんだ。あなた自身がやられたその通訳をした内容について一昨日、十六日の委員会傍聽されて、そうして今日、現在において、あの傍聽された、全然否定されたということから、そのときの通訳された内容を考えられて、それは若し十六日の委員会において事実なかつた、タス通信が伝えるごとくなかつたというのであつたならば、あなたが通訳、九月十五日カラカンダでされたことは、これはその政治部のエルマーラエフ中尉の勝手に、いわゆるその場で発言されたことである、こういう工合考えられますか。こう聞いておるわけです。この問題を重ねて、証人にあなたが本人であつて、全然この問題についてお考えがないというようなことは考えられないと考えますので、(笑声)委員長は質問しておるのでございます。……菅証人にゆつくりお考えになつて答えて頂きます。(「委員長」と呼ぶ者あり)ちよつと待つて
  232. 菅季治

    証人(菅季治君) 私一人としては徳田要請、あり十六日の傍聽以前においても以後においても徳田要請があつたかなかつたかということは、やつぱり自分自分何も分らないのであります。併し現在、今委員長さんからしばしば聞かれましても徳田書記長と、それから今度は僻地カラカンダの一分所の政治部将校とはどうも連絡がないように感じます。直接の連絡というよりも、心理的に言つて委員長さんの出されたような問題から言つても、どうも何ら関係がないように思います。
  233. 岡元義人

    委員長岡元義人君) どうも菅証人委員長がお聞きしているのは、そういう意味でではなくて、あなたが通訳された御本人ですからそのことと、全然十六日にそういうことはなかつたのだ、徳田証人から全然何ら向うとの連絡がなかつたのだということを証言なすつた。それをお聞きになつて、あなたが通訳されたことを振返つて考えて見て、一体誰がああいうことを、それで言つておるのだろうかということはお気付きになると思う。その点を誰か……、若しあれが十六日の証言が事実としますならば、一体だれがこれを言つたものだろうか。いわゆる政治部将校のエルマーラエフ上級中尉が勝手に言つたものである、かように判断されますかと、こう委員長はあなたに聽いておるわけでありますが……。
  234. 菅季治

    証人(菅季治君) 併しあの政治部将校エルマーラエフがその場限りのことを言つたのだと私が感じましても、客観的に実際そういう徳田要請があつたかも知れないのであります。ですから徳田書記長といたしましては当然あのような嚴しい強い態度で否定されたことは、私が傍聽しても、しなくなも当然予想されたことと思うのであります。別に傍聽後を振返つて見ましても心理的に何ら変つておると私は自覚しないのでありますが……。
  235. 小杉イ子

    小杉イ子君 私は勘違いかも知れませんが、委員長のおつしやることは、徳田氏があれ程断然言わない、書かないと言つておるのに対して、あなたは飜訳をなさつていながら、それを何を言つているのか、お前は嘘つきじや、やつているじやないか、聞いたじやないかということをあなたは感じなさらなかつたかという質問ではないかと、こう思うのですが、通訳でございますから、技術的ですから、第三者としては何も考えられんかも知れない。併し若し濃厚な主義者であるならば、興奮するに違いないと思います。その時にあなたは興奮されたじやありませんか。それはどういう興奮でつたか、それを一つお聽きします。
  236. 菅季治

    証人(菅季治君) それは違う理由で……。
  237. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 一応お諮りいたしますが、菅証人対する質疑はこの程度で留保いたしまして、次に亀澤証人証言を求めたいと思います。御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  238. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 亀澤証人……。
  239. 千田正

    ○千田正君 議事進行について十分間休憩動議を提出いたします。(「賛成」と呼ぶ者あり)
  240. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 千田委員から十分間休憩動議がありましたが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  241. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 十分休憩いたします。    午後三時三十二分休憩    —————・—————    午後四時五分開会
  242. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 休憩前に引続き、委員会を再開いたします。  この際簡單に御報告申上げることがございます。  十二日のアカハタ新聞に「ソ同盟カラカンダ地区から二月二十二日舞鶴に引揚げた日の丸梯団久保田善藏氏らとウズ・ベグ共和国タシケント市カラカンダ九十九地区九分所に居住していた小島清氏は、帰国後、問題の徳田書記長喚問証言者(四十四人)の一人となつていたが、十三日東京へ出発するに際し、その心境について、徳田事件は全く事実無根の作り事で、正式にはどこにも根拠がないと次の事実を明らかにした」云々という記事が出ておつたのでありますが、これに対しまして、委員会に対し、十二日本人の小島清氏より、右の旨書面を以て通告されましたので、簡單に読上げて置きます。   私は去る日アカハタ紙に報じられた小島清でありますが、このままで放つておきますと、折角の憂国の至情から結成された日の丸梯団の趣旨に反し、且肝腎の引揚促進運動にも多大の支障を来す虞れがありますので、紙上に発表されたことが如何に事実に反し、私の真意を歪曲されて報道されているかを申上げようと存じます。   勿論私はアカハタ紙に対し、昨日書簡を以てその卑劣な行動と記事の撤回、謝罪を要求しておきましたが、次に相違事項を簡單に申述べて見ます。   一、私は署名証人四十四名中の一人ではないこと、これは第三回目の日の丸組、私は第二回目。   二、自己を秘匿して訪れた日共員の適当な記事であること。   三、私は直接集会に出席せず、同一收容所におり間接的に聞いたこと、そうしてそれは飽く迄も十一月帰国完了には前職者並びに反動には適用されず、日共から帰してくれるなと、そう言うて来ておると言うたことを認める。   四、徳田氏が僅か四十四名と言うが、事実聞いているものは少なくとも三百名を超え、それはカラカンダ第九分所に集結した者に限る、(他地区の同類の件については私は知らず、私のおつた所に限り確言する。)   五、とにかく我々復員者は、恐らく全員(凡そ良心的な者は)特に反動と言われたり前職を有する者にはいろいろな角度から見て(例えばグループ員の運動並びに日本新聞、ソ側政治将校の態度等)、日共が帰還を促進しておるようには到底考えられなかつたこと、逆に何かしらソ同盟と話合をしているように思われていたこと、そうして今尚戰犯に類せずして多くの者が残つているという事実、以上であります。ですから徳田氏が如何に嘯こうとも、彼の手下に勝手なことをやらして置いて指導者がその責任をとらんとは余りな話ではないでしようか、残された者こそ災難。反動と雖も帰つて来ておるではないかと言えばそれまでだが、一日遅れることがどれだけ犠牲者を生んで行くか、全く慄然とする思いである。今日の異国の地で東の空を眺めては溜息をついているだろう日本人同胞を思い、敢て乱筆ながら一書を呈する次第。  以上委員長宛に提出されました。尚もう一通、これは日高清氏より当委員会に右の旨通告して参つております。   三月十日付アカハタ紙記載の「残留者は戰犯だけ」衆議院引揚委、両証人本音を吐く——の記事中、共産党竹村、春日両委員に念を押され、「噂を除いて戰犯以外か残つていない、ソ同盟人の生活の日々良くなつた」と私が証言したる如く報道されあるも、当日の証言内容とは全然意味を異にするものである。私は当日の証言内容を明瞭にせんとする者であります。即ち現在ソ連に残留する同胞は彼らソ連で言う戰犯容疑者にして、未だ取調中の者として抑留せられあるものなり。而してこれら容疑者と称するのは全然戰犯としての條件を具備せず、取調を受くべき性質のものに非ず、ソ連としては早速に送還すべき日本人である。かかる同胞が多数強制的に抑留せられ重労働に従事しあることを明瞭にする者である。よつてアカハタの記事は私の本意に合せざるものにして甚だ遺憾とするところである。今や全国民を結集して在ソ同胞の救命及び引揚促進運動を展開しある重大なるとき、かかる誤つた報道が、如何に暗影を投じたかと思うと、誠に憤慨に堪えざるものあり。私は参院委員会を通じ、その証言内容を明瞭ならしめ、引揚促進対策をして遺漏なきことを願うものであります。            日高  清  として、在外同胞引揚委員会宛に参つております。以上御報告いたして置きます。  休憩前に引続き、亀澤証人の現在までの経歴を御証言を求めます。
  243. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 大正十四年二月十五日静岡県靜岡市太田町十二番地出生、爾後小学校、靜岡県立工業学校を卒業し、浜松高等工業学校中退、後、茨城県内原国民高等学校栄養部を出まして、満州移住協会、満州興務部の招聘によりまして、満州国勃利県公署開拓関係の衛生食品加工方面に従事、一九四五年開戰と共に召集を受けまして、満州第二六三九部隊野戰自動車兵器廠付に命ぜられましたが、本隊はおらず、東京城におきまして九月九日捕虜となりました。以後私がソ連におきましての政治方面における経歴を簡單に申述べます。昭和二十年十二月満州国掖河において、ソ連軍経営第二陸軍病院主計課員として勤務、その傍ら文化部員として專ら演劇面を通じて大衆慰安のために努めました。翌昭和二十一年四月十六日ソ連軍と共に入ソ、ウオロシロフ地区ルイチキに到着、同所において作業。同年十月レエチホフカに転属。同年十月民主運動の勃興と共にそのグループの一員となる。翌昭和二十年三月新聞の編集員となり、又農村文化の高揚、特に栄養方面の運動に努む。同年六月ラゾウに転属、同所において政治活動なく、同年九月ワイズビジユンコに移り、再び演劇新聞の発足に努力し、同年十一月再びレエチホフカに至り、翌年九月来まで、即ち帰国に至るまで民主グループ、後、改まつて反フアシスト委員会における日本新聞解説責任者、青年行動隊文化部長、新聞編集長、各委員会における綱領規則作成委員、更に演出、脚本、舞台裝置、小説の作成指導に従事し、その間、一年有余文化祭準備委員長としてあらゆる文化、衛生の方面につき闘争して来たものであります。簡單でありますが、これで終ります。
  244. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚重ねて亀澤証人にお伺いします。亀澤証人は当委員会に、徳田要請問題を新聞等で御覽になつて、その心境を手紙によつてよこされた事実がありますか。
  245. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) はい、あります。
  246. 岡元義人

    委員長岡元義人君) そのよこされました心境について、できるだけ簡單に御証言を願いたいと思います。
  247. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 過去三年間におきまする闘争を通じまして、満々たる自信と、はち切れるような希望に燃えて、我こそは祖国再建の前衛闘士たらんと、一九四八年十月一日、幾春秋夢に見、幼に描いた懷しの祖国へ、我が生涯における最良の喜びの一瞬間、その涙にうるんだところの二つの目に映じたものは何であつたでしようか。故郷の懷しい姿でもなければ優しい母の顏でもなかつた。実にそれは、祖国を破壞と混乱に陷れようとしている日本共産党の姿であつたのである。理論と現実の食違い、誤つた共産党員の活動方針に対し、私の共産党へ入党せんとした決心もいつしか鈍り、果ては消えて行つたのである。我こそ敗戰のどん底に喘ぐ祖国を救わん手段として、青年の熱情と愛国心を以て共産主義の誤つた道を選び、何ら政治的、文化的の知識の素養を持たないところの無辜の大衆に対して犯した過去三年間における罪悪を思うとき、私は一命を賭して当事件の生きた証人として、声を大にして叫んでもその罪の償いは尚余りて足らぬものがあると思います。事件の解決を見るまで、又ソ連における最後の一人の送還が終るまで、生きた証人として闘う決心であります。
  248. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚続いて証人にお尋ねいたしますが、ウオロシロフ地区レエチホフカ收容所内において徳田書記長より参りました往復葉書について、知つておられる範囲において詳細に述べて頂きます。
  249. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 一九四八年五月一日、これは日は二三日のズレがあると思いますが、大体五月一日前後万国赤十字社スタンプ附の往復葉書がロシア側の政治部員の指揮に入つているところのエルセーク下士官、本隊即ちウオロシロフ地区の五百六十三労働大隊付エルセーフ下士官が持つて参りまして、そうしてこれを掲示板に貼つて呉れと頼まれました。それで私が目を通しますと、それは送りました收容所の名前は忘れましたが、民主グループから送られましたのに対する日本共産党徳田書記長からの返事であります。それでその手紙を約一週間に亘りまして掲示しました後、エルセーフ下士官はそれを持つて帰りました。尚この手紙につきましては証人は私一個人でなくて、最小限度百人の人間、当時大体その收容所に百人おりました。そうしてそこから更に軽便鉄道を通じまして、山に大体二百人の日本人捕虜がおりました。でありますから、その山の捕虜にもその文書が行つたと思いますから、我々即ち三百人の人間はこの手紙を見ております。尚その文章の内容につきましては、多少のズレ又は意味というものが違つているかも知れませんが、併し大要私のこの委員会に差上げました内容でありますが、これは大体皆記憶していると思います。
  250. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 亀澤証人、その内容についてもう一回この際証言を求めます。
  251. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 「お手紙ありがとう。お元気にてソ同盟強化のため邁進され立派な闘士として帰国され、反動と共に闘う日の来るのをお待ちしております。日本共産党徳田書記長。吟
  252. 中野重治

    中野重治君 「対し」だよ、「共に」じやない。
  253. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 「反動と共に闘う」であります。
  254. 中野重治

    中野重治君 そうじやナンセンスだよ。真実かも知れないがね。
  255. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 「反動に対して共に闘う」であります。
  256. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚重ねて亀澤証人にお尋ねいたしますが、一九四八年の五月四日、ウオロシロフ地区レエチホフカにおいてキイシイローフ大尉官舎において、あなたが徳田書記長より言われて来ているということを聞かされ、尚それをばあなたが見られたその件に関しまして、詳細に証言を求めたいと思います。
  257. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 私はソ連におきまして、私、特別な技術と申しますか、図案、カツトでありますが、又は画、そういつたものに対して私の持つている特技と申しますか、それを大変重宝がられまして、キイシイローフ大尉が私をたびたび呼びまして、そうしてそのレエチホフカの街におきますところの将校官舎というような家に行きまして、その壁を塗れと言いました。これは色を塗るのであります。それから裾模様やシヤンデリヤの周りに色を塗るとかいう仕事をやつておりました。そうしてこれを一日に三回ぐらい塗りまして、石灰で真白に塗るという壁の塗替をやらなければならない。丁度冬を迎える九月キイシイローフ・キヤピタンが私を官舍に呼びましたのは、丁度九時頃でありました。亀澤、済まないが壁を塗つて呉れと、こう頼まれまして、仕事に従事してたのであります。その部屋は二部屋ありまして、奧の方の部屋はキイシイローフ・キヤピタンの部屋で、私はこれを塗ろうとして準備をしましたところ、机に坐つておりましたキイシイローフ・キヤピタンが亀澤と呼んで、この話はもう君達にはする必要がない。併しまあこういうことを私は君達に‥‥。
  258. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 証人発言中ですが、君達にはそういう話をする必要はないという意味をよく説明して下さい。
  259. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 分りました。我々收容所三百人、前に申述べましたけれども‥‥。それが八月の二十六日、約二百名だけ收容所から分遣を命ぜられました。これは分遣といつても純然たる転属であります。転属というのは後で分つたのですが、後から入つた人があるで籍が変つたわけでありますけれども、その二百人というのはやはり我々と同じように、職員の人達でありましたけれども、非常に作業の面から見て、その中には将校も一部分含んでおりましたが、結局ロシア側からいうところの悪い兵隊であつた。要するにはまだフアシストの、残滓が残つておる兵残であると思われた人達が二百人転属せられました。それに対してその人選をした者はキイシイローフ・キヤピタンが命じたものか、或いはキイシイローフ・キヤピタンから大体こういうものを帰らして呉れと言われて、日本側のそのときの中央委員の松本が選んだものか、その点は私ははつきりいたしません。併しその送られたものは、その当時我々の目で見まして、随分無気力な又日和見的な存在の人達で、大体移動して行きました。そうしてその官舍に私が呼ばれましたのは九月四日でありまして、その間の推移は一週間ぐらいしかありませんでした。後、日本人の残つておりましたのは最も險惡な労働大隊と言われておつたところの收容所でありました。そうしてソ連側の政治部員の指揮によつて行動し、そうしてそれに対して何回かソ連側への感謝の言葉というものを我々は書いております。そういう意味から言いまして、別にキイシイローフ・キヤピタンが我々に対してそういう文書を見せる必要がないと言つた気持は、キイシイローフ・キヤピタンの言つた通りに、もう見せる必要がないという程、我々が民主化しておるからであります。そうしてこのキイシイローフ・キヤピタンには、我々が帰れるということは分つてつた筈ですから、帰るのにはお前らはもう一生懸命にやる必要はないのだからというので、我々に文書を見せなくても不思議はないと思います。又キイシイローフ・キヤピタンは、その二百人の残つた部隊をナホトカに送つたので、我々と一緒に行動をしておるのでありますから、その意味から言つたならば、転属した部隊に伝える命令であつたと、今になつてこう思うのであります。ただキイシイローフ・キヤピタンがどうして残つたかというと、ナホトカに送るための警備隊長としてその帰還手続きを取るために残つたのであります。そうして主として警備隊長の部下が行つております。ですからその場合に、キイシイローフ・キヤピタンの「言う必要はない」と言うたのは当然であります。併しその時は余り不思議には思いませんでしたけれでも、二三日経つて考えると、それは他人の事であると思いました。その点につきましては‥‥。
  260. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 続けて。
  261. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) そうしてキイシイローフ・キヤピタンの大体三枚か四枚のデータと記憶しておりますが、紙はやはり淡い水色の厚ぼつたいのに印刷体で書いてありました。そうして私は文化方面を担当しておる関係上、多少のロシア語は読みますし、日常の会話だけは話す必要もありますので、そのくらいの力を持つておりました。そうして一番しまいの紙片を取げて彼が読んだのであります。そうして彼の言つた言葉というものはロシア語と日本語と、それを混ぜましたところの、更にロシア語の單語の羅列に過ぎませんが、多少日本語を入れて語つて呉れました。その内容というものは「貴国の好意によつて優先的に送還された身体の虚弱者、素行不良者の言動著しく反民主的にして党活動に大なる支障を来たすものである。故に願わくば貴国の好意によつて思想的身体的に健全なる者を送還されんことを希望する」といつたような内容でありました。そうしてそれを日本語とロシア語で僕によく分るように言つて呉れました。そうしてそのところで、日本共産党徳田書記長ということを彼が発音したのであります。そうして僕が見ますと、やはり徳田書記長ということが書いてありました。そうしてこの手紙の封筒でありますね。封筒の上書には收容所長殿と、露語でナアチヤニイク・ライゲルと書いてありました。僕の考えましたのに、この書簡というものは日本人に発表すべきものではなくて、彼が日本人捕虜というものを政治的、思想的の面から、又作業的の面から見ての、結局資料といつたようなものではないかと自分は主観的に判断したのであります。尚皮相的に見ますと、君はなぜこれを收容所に帰つて話さなかつたかと疑問をお持ちになると思いますが、我々の收容所の団体として、そういつた言葉を云々する必要はなかつたのであります。何故ならば当時我々の收容所におきまして、共産党、例えば日本共産党徳田書記長がそういう問題を言つて来たことは、私が言わなかつたというようなことを誰も騒ぎ立てる人もなかつた。要するに共産党は世界の政党である。又徳田書記長がそんな手紙を持つて来たからといつて、それは当り前のことである。又私は五月頃日本新聞の解説者、責任者をしておりまして、そうして一人にアクチープを持たして日本新聞をやつておりまして関係上、日本新聞には大体目を通しておりましたけれども、たとえソ連側の厚意によつて反動分子を返すようになつても、我々はそれを返してはいけないというのが恐らく委員会における活動の指導方針でありました。そうして我々のこの団体としては、要するに反動的なにおいのある者は政治的鋭敏性でもつて追及し、そうして徹底的に吊し上げ、それを帰るまでに何とかして民主主義者に仕上げようというのが、我々の運動方針でありました。その点についてはすで……。
  262. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚重ねてもう一、二点お伺いしますが、徳田書記長より宛てられました葉書は一回だけでありますか。或いは内地からそういうような連絡事項が来て、それを別に御覽になつたり、或いは收容所内に示されたことがありますか。
  263. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) それはありませんでした。
  264. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚先程御証言がありました往復葉書は、これは收容所内において処置されましたか。
  265. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) この往復葉書は要するに我々としましてこれを政治的な目的に使用したわけであります。そして大体この葉書というものは、各所の收容所を廻すものであるから丁重に取扱つて呉れと、我々の收容所に来た手紙ではないから、この手紙は各收容所に廻さなければならないから、丁重に取扱つて呉れといわれまして、丁重に取扱いまして、その一週間後に下士官の軍曹に渡しました。
  266. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 各委員から御質問がございますか。
  267. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 証人にお尋ねしますが、その水色の葉書というものは他の收容所にもずつと廻つてつたようにあなたは思われましたか、思われませんか。
  268. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 廻つて来ておつたものと思います。
  269. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それから後に言われたところの、最後の徳田書記長言葉が書いてあつた書面、それはそういうふうに添附されたりなどはしなかつたのですね。
  270. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) はい。委員長に申上げます。その手紙はであります、先程私が申しましたように、宛名は收容所長になつております。警備隊長の名前で来ておるから、これは私達に示すものではないと思いました。尚政治部員というのが各收容所におりますが、私達の場合においては、そのキシローフ・カピタンが政治部員の代りをやつております。
  271. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、そういうような書面がモスクワに行つて、モスクワから各地区の收容所長にプリントされたというようなもので配付されたというふうに思われたのでしようか。
  272. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 私個人の私えとしまして、客観的に見まして、その書簡というものは、これはモスクワに来て、それから各收容所に来たものと私は考えます。尚私は自分自身が見た話ではありませんけれども、先程菅証人が言われましたような、ああいつたような、例えば内容の文書というものは、これはウオロシロフの收容内において政治部員からそれと同樣の話があつたことを聞いております。
  273. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、証人日本新聞の編集、その責任者であつた、或いは文化方面を担当なさつておられましたが、その後日本新聞等にやはりそういうような日本共産党と書かれたか、或いは日本共産党、それから徳田書記長といつたか知りませんが、そういうようなやはり面が載つてつたということは承知でありますか。
  274. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 只今淺岡委員の申しましたことに対して一言私として訂正して頂きたいことがございます。それは、私は日本新聞の編集人ではありません。実は一個大隊即ち千二百人のための日本新聞解説者であると共に、千二百人のための機関紙、新聞の編集長であります。尚日本新聞に、先程菅証人からも言われましたが、要するにアカハタの切抜きの記事ということは確かに見て来ましたし、何回見たかということは、これは我々何回見たかということは記憶ありませんが、それと同時にアカハタは、ハーモスト委員会日本共産党に直結するものであるという、我々の文化活動における最も重要な指針をなしたものはアカハタの切抜き記事であります。
  275. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 もう一つ聞きたいことがありますが、先程申したことを整理したいと思いますから、一応留保します。
  276. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 外に‥‥。
  277. 原虎一

    原虎一君 ちよつと一つお伺いしたいのですが、アカハタの切抜きで出すというのは、アカハタはどういう径路で入りますか。
  278. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) もう少しはつきりするようにお述べ願います。
  279. 原虎一

    原虎一君 アカハタの記事を、あなたが千二百人の收容所員に読ますために、新聞を発行されておつたのに、その新聞に掲載したそのアカハタ新聞というものは、どういう径路で入手できたか、手に入るのですか。
  280. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 只今原委員の言いましたことは、ちよつと誤謬があつたのじやないかと思います。アカハタの記事というものは、それは日本新聞にはつきりと、これはアカハタ新聞より転載したものであるという署名の下に載つておる記事でありまして、そこをちよつと‥‥
  281. 原虎一

    原虎一君 分りました。要するにアカハタの記事は、日本共産党で発行しておるアカハタ新聞そのものを見たのではなくて、日本新聞にアカハタの記事として載つておるアカハタの記事と特に書いて載せておるからアカハタの記事だと、こうあなたは言つておるわけですか。
  282. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) アカハタの記事は日本新聞の四面の中央あたりに載つておりましたが、それは日本新聞において編集されたものであると思いました。ただその情報がどこから得たものであるか、それは自分は知りません。併しそれがアカハタの記事から出たものであるかないかということは、それは自分が日本の帰つて日本のアカハタ紙にそれと同じ記事が載つてつたことを確かめました。それは事実であります。
  283. 小杉イ子

    小杉イ子君 亀澤証人にお尋ねします。先程申されました日本新聞と申しますのは、主義主張のある新聞か、又は何かの機関紙でございましたでしようか。それから徳田氏は手紙は書かないと申しておりますが、徳田と上書には書かれなかつたかも知れませんが、その下書にはございませんでしたでしようか。それから日本の消印がございましたですか。それを伺います。
  284. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 只今の第一の質問にお答えします。第一は‥‥
  285. 小杉イ子

    小杉イ子君 日本新聞とは何か主義主張がある新聞か、機関新聞であるかどうか。
  286. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 日本新聞は、ちよつと概略説明をいたします。大体これは四面で以て編集された新聞でありまして、第一面は世界事情、第二面は日本事情、第三面はロシア事情、第四面は愛々俘虜というものを中心とした記事であります。そういうように編集されておるものでありまして、これは純然たる政治教育を目的とした新聞であります。第二番目は消印のことでありますか。
  287. 小杉イ子

    小杉イ子君 第二は、徳田書記長のおつしやるのには、手紙は書かないとおつしやるのです。
  288. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) それにつきまして、五月に参りました時の葉書、これは純然たる日本の消印並びに米国最高司令部の消印が押してありました。第二回の九月四日の書簡は、封筒の中に印刷したものでありまして、更にそれを送つて来ているのは、これは封筒の裏を見なかつたから何とも言えませんが、これはロシアの或る一つの町から收容所長に送つて来たものでありまして、その中にそういつた印刷したものがあつたのですから、消印のことは全然関係ありません。
  289. 穗積眞六郎

    穗積眞六郎君 只今の、先程菅証人が述べられたと同じようなことをウオロシロフ地区でも聞いたという言葉がありましたが、その内容を簡單に伺いたいと思います。
  290. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 只今穗積委員が言われましたその問題につきまして、その手紙の内容というものを言われました。併し菅証人が言われましたところのこの通訳の内容というものは、このことをいつ、何月何日誰に聞いたという問題、又はその内容について、一言一句はつきりと言うということは、これは至難の問題だろうと思います。併しこれを聞いたという人は沢山おると思います。これは大体‥‥
  291. 穗積眞六郎

    穗積眞六郎君 内容と申しましたのは、その手紙の内容ということより、どういうことをどういうふうに聞かれたか、こういうことをおつしやつて頂きたいと思います。
  292. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 菅証人が言われましたことは、そこで政治部員がこういうことを言つたという、この程度の問題でしたら、恐らくソ連の政治部員も大体言つたと思いますが、これは非公式、公式を通じまして菅通訳の言われましたような、日本共産党はそれを期待しておる、又はその日本の人民は君達が立派な鬪士として還つて来ることを期待しておるということは、これは向うの政治部員、将校、又は地方人、あらゆるすべての階級の人が我々に言つた言葉でありまして、これを問題とすべき問題でないと思います。
  293. 穗積眞六郎

    穗積眞六郎君 それでは徳田書記長から云々ということではないのでございますか。
  294. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) そういつた問題ではありません。ただ我々自体が常識で判断しまして、そういつたことは当然あり得べきことであつて、それに対して我々は政治的な研究とか、その当時の気持から推して行つてそれを考えるのは馬鹿らしいと言いますか、それだけのあれはなかつたわけです。要するに共産党がそういうことを言うのは当り前だと、そういうことを言つて来ようと、我々自体としててやるべきことであるというふうに思つておりますたものですから。書簡といつたものが、誰が言つたか、それ程詮索する雰囲気というのは、こういう雰囲気を構成しておつたのですから‥‥。
  295. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今の証人お話を聞きますと、例えば穗積委員証言を求められていることなどは、茶飯事というふうに解釈してよろしうございますか。
  296. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) そうでございます。
  297. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 続けてお尋ねしましよう。そうしますと、ソ連の日本捕虜に対する。つまり日本捕虜に対する方針ですね。一つ思想訓練を施すこと、それから労働力の補給に利用すること、大体この二点というふうに考えてよろしうございますか。
  298. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) ちよつと長くなりますけれども、ソ同盟を強化して、要するに五ヶ年計画に協力してやるということは、即ち我々の民主陣営を強化すること、言換えれば、共産主義陣営を強化することであるという観点から言いまして、淺岡委員は二つに分けてそれは言われましたが、それは二つに分けるべき問題ではありません。要するに政治教育をすることは、即ちソ同盟を追化することであります。ですから、それを二つに区別する必要は僕はないと思います。
  299. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 私はそれを区別したということは、つまり労働力の補給ですね。五ヶ年計画、そうしたものに対して、やはり相当利用したというふうに解釈してよろしいですか。
  300. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) そうであります。
  301. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 続けてお尋ねしますが、思想訓練によつて共産化した帰還者を入党せしめて、そうして日本共産党をも強化するというようなことは、これもやはり茶飯事とお考えになつたですか、向うでは‥‥。
  302. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) これは我々が民主グループという組織を脱しまして、そうして反フアシスト委員会というものを組織しました。その反フアシスト委員会という委員会を組織するのは、初めの目的といたしましては、人民民主主議戰線の旗の下に結集せよ。煎じ詰めて言えば、要するにアメリカの植民地的な政策から、要するにアメリカをやつつけるためには、あらゆる階級を問わない、あらゆる階級の人を動員してアメリカをやつつけるのだという意味で人民民主主議戰線の旗の下に結集せよ。要するにその旗の下に反フアシスト委員会というものが結成されました。それが第二次的な段階になつて、反フアシストいうのは、一人々々がこの共産党員の資格を持つた者が反フアシストの委員の資格で、共産党員の資格がない者は仮フアシストの委員ではない。そこでそういうのは日本共産党に直結するという‥‥それは却つてそんなことは問題にする程のものではないのです。
  303. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、その思想訓練の成功しない捕虜は帰さぬのがいいと思わないかというようなことは、これはやはり当然と思われますね今の証人証言によりますると。
  304. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) それはその当時においては当然のことであります。
  305. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 従つて日本共産党の、つまりそれに反した者を帰すということは、日本共産党の邪魔になる、こういうようにその当時向うでは解釈されましたか。
  306. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) そうであります。
  307. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それから抑留した者を労働力の補給に利用するというようなことが先程出ておりますが、反動と呼ばれる捕虜の集中地点というようなものは、五ヶ年計画の最も重点とされておるような所に送られたのですか。或いはそんなことは構わず、どこでも送られたのでしようか。どういうふうに‥‥。
  308. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) これは私が二、三の收容所を見聞した事実でありまして、ソ連全体を通じてどうであつたかということは断言できませんけれども、我々の見聞した二、三の收容所におきましては、最も反動的なミリタリズム的の分子を集結しておりましたところでは、大体伐採、道路作業、鉄道建設、そういつた工事に従事しておりました。そうして或る程度の段階におきまして、民主的な、又は作業のパーセンテージというものが向上して来ました收容所というものは、飛行場建設とか、若しくは特殊な建築関係とか、割合市街地に接した、要するにロシア人の住むようなところで集団的に作業するようになりました。
  309. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 もうあと二点お尋ねしますが、日本共産党は世界一本の共産主議運動に同調しておるということが、向うの抑留或いは捕虜生活のうちにはつきり認識されたわけですね。そういうふうに思われましたか。
  310. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) もう一度言つて下さい。
  311. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 日本共産重は世界一本の共産主義運動に同調しておる。こういうふうに向うで考えられましたか、或いは見られましたか。
  312. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) そういうふうに考え且つ見ました。
  313. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうすると、今までの証言によりますと、こういうふうに思うのですが、更にこういうふうに私は証言を求めたいと思うのですが、このことは世界一本だというふうに考えますると、その主義以外の者は、それに属さないものは皆敵である。この思想が共産党の根本方針であるというふうにも思われますが、そういうふうに解釈してよろしいのでございますか。
  314. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 今そういうふうに思われるとか、又はそういうふうに思つていたかというようなことはですね、併しあの当時の我々の民主運動、又並びに日本新聞の論調としては、あつたとか、ないとかということでなく、真向から人類の敵は米英であるというふうに振りかけたのであります。ですからそういうふうなあれは‥‥。
  315. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、その共産党の同志の外は全部敵だと見る、こういうことでよろしいのですね。
  316. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 要するに、その外の者は敵であるという、例えばその中にはもう全然政治的に分らない無辜の大衆もいる筈ですから、そうした人達に対しては敵だとは言わない。要するに資本主義の隷属の下に搾取されておるところの無辜の大衆に対しては、我々は一日も早く覚醒して、我々の陣営の中に入れなければならない。だから敵というのは米英を一連としたキヤピタリズムの国家の指導者を指しているということであります。
  317. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 他に御質問がなければ、亀澤証人に一、二点補足質問をして置きたいと思います。
  318. 中野重治

    中野重治君 委員長が最後の締めくくりをなさる前に、最後に私が簡單なことを一つ‥‥証人に簡單なことをお尋ねします。(淺岡信夫君「ちよつと私一つ」と述ぶ)君一つでいいか。(「発言を許されたのだからやれ」と呼ぶ者あり)私は発言を讓つてもいい、私は簡單です。こういうことです。今亀澤証人によつて、敵と言われていたのは、資本主義、帝国主義の指導者を指しておつたということ、それから亀澤証人の経験から言うと、菅証人言葉で通訳されたようなこと、それから亀澤証人自身の、お手紙有難う云々、こういうことは当然のことと思われていたということなんですが、つまり現在は亀澤証人冒頭に原稿によつて読上げられたような感想をお持ちのようでありますが、亀澤証人自身は資本主義、帝国主義の指導者であるとも自分で考えておられないし、やはり民主主義者として日本でやつて行こうと、こう考えられておられると、こう思うのですが、その通りでしようか。もう一度お願いします。敵というのは何だということで、共産党以外は皆敵だと、こう言つていたかという淺岡委員等々の問に対して、そうではなくて、多くのまだ目覚めない人々はこれを目覚めしめる。敵というのは帝国主義、資本主義の指導的分子、これを指して敵と言つてつたと、こういう証言がありました。これは私にもよく分ります。それから又当時のあなたの経験から言うと、よく準備された民主主義分子として日本へ帰らねばならんというようなことは、もう普通のことになつていた。格別問題でなかつた。そこで私はあなたは決して資本主義、帝国主義の指導的分子ではないと思つておるのです。私はそう見ているのだが、それは事実に合つているか、私はあなたを資本主義、帝国主義の指導的分子と見ていないのですが、あなた自身私の見るように資本主義、帝国主義の指導分子であるか、ないか。あるか、ないかということを聞くことはどうも大変失礼だと思いますが、私の見方が、事実に合つているかということと、それからあなたが今後、最初あなたの感想を述べられましたが、それは別として、現在その感想の上に立つて、やはり民主主義的な日本人としてやつて行くつもりでおられると思うのだが、そう見ていいか、どうか、この二つです。
  319. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 先ず冒頭に、ちよつと申上げます。思想、結社は個人の自由だと確信します。その意味において、何故ソ同盟において捕虜に政治教育を與えたかという問題から、僕はこの問題を日本に帰つてから考えたのであります。それと共に、誤まつて我我自体が強引にやつて来た民主主義の根本原則である政党、思想、ああいつたものは結局個人の自由意思であるということ。我々はいつともなしに、これを強引にミリタリズム的に権力的に引つ張つて来たということに対して、自分自身で非常に誤謬を感じた。そういうことで、現在自分は一切全然別にしてしまつて、元の白紙に還つて日本人の捕虜、そういつた問題につきまして、我々はこうして参議院の同胞引揚委員会に私が書簡を出しましたのは、結局問題は一日も早く同志が帰つて呉れるようにというようなことで、自分は何ら政治的な考えからこの問題を処理したのではありません。ですから、そこを中野委員に御了承して頂きたいと思います。
  320. 中野重治

    中野重治君 私は何でも了承します。あなたの要求することが悪いことでなければ‥‥。それであなたが資本主義、帝国主義の指導分子でないということは、これは分り切つておるから、この質問は私は撤回します。あなたは政治的立場は勿論自由ですよ。日本の非常に不十分な憲法さえも、紙の上では保障している。それであなたは今後平和を愛好する日本人として、民主主義的な日本人として生きて行こうと、こう考えておられると私は確信しますが、そう信じて間違いありませんか、それ一点だけでいいです。
  321. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 今中野委員から言われました政治的な問題は、自由でありますから、それは取止められましたけれども、自分として現在考えておることは、本当のマルクス主義というものはどういうものであるかといつた、そういつた見地から立つて、いわゆる共産党の言いますところの、僕の考えはトロツキーズムであるかも知れません。或いはアナーキズムであるかも知れません。併し現在は一切そういうことは考えたくない。ただ問題は、自分はもう少し客観的にこの際観察して、それから自分自身は出発しようと思つております。
  322. 中野重治

    中野重治君 私の問に対して答えが與えられないのですが、もう一遍説明します。私は日本共産党の人間であつて、あなたが御覧のように、他の人と大分ここで喧嘩しなけりやならん。併し日本の現在の憲法でさえも、人々の政治的自由は少くとも紙の上では守ると、こう言つております。まして日本共産党は憲法擁護のために戰つているのですから、私の立場はあなたに強要しません。マルクス主義にどうか、こうかというようなことを言うのじやないのです。そういうことは別にして、あなたがこれから白紙に還つて生きて行こうとなさるが、それは平和を愛好する民主的な日本人としてという立場であろうと私は思うのですが、どうですかというのです。
  323. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 我々は過去数年乃至その間、こういつた戰争というものを我々実際に受けた者として、平和を願うことは僕だけでなく、すべての人がそうだと思います。ですから、我我の平和ということを願うために、むしろ現在僕はこうして証人台に立つておるわけであります。
  324. 中野重治

    中野重治君 私は亀澤証人から格別磯論がなければ、つまり私の問に答えられたと見たいと思いますが、つまり私は亀澤君は、平和を愛する民主主義的な日本人として生きて行こうとする者である、こう答えられたと取りたいのですが、格別証人から意見がなければ、もう打切りたいと思います。
  325. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) ありません。
  326. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今まで証人のいろいろな証言を聞きますと、私こういうふうに結論付けるんです。つまりマルクス主義というよりは、むしろボルシエビーキに近いと思われる日本共産党の申しますマルクス・レーニン主義理論並びに日本共産党の実践行動よりしても、いわゆるあなたがもう書面を見られ、葉書を見られた、これは徳田要請という言葉が当るか当らぬか知りませんけれども、とにかくそういうような葉書が赤十字を通じて来たということは事実である。そういうふうなことで、当然起り得ることだというふうに私共は解釈してよろしうございますか。
  327. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) それは当然あるべき問題だと思います。
  328. 中野重治

    中野重治君 議事進行について‥‥。私はこの問題はもうあとで述べませんから、一回きりですから‥‥。先程淺岡委員から共産主義運動というものは、世界を一本にして‥‥。
  329. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 中野委員に申上げますが、議事進行ですか。
  330. 中野重治

    中野重治君 そうです。こういう誤まりと無智に基いて証言が次々に求められて行くということは、私は議事の円滑な進行を妨げると思うので、一つだけ言つて置きたい。それはさつき淺岡委員が、共産主義運動というものは世界を一本にしておるものであつて、国と民族とを無視して行くものである、こう言つておる。それから今日の日附で淺岡君の声明書が出ておる。この中に、共産党運動が世界を一つの舞台として行われることは共産主義理論のABCである、自国と自国民とを世界共産製力よりも大切に考えることは絶対に許されない、こういうことが書いてある。こういうことは無智でありまして、こういうことを曾て日本の軍閥が国民に、軍閥直接にも、又教育家を通じても教え込んで来た。このことは明瞭であるんですから、こういう淺岡君その他の人が、共産主義運動についてどういう考えを持つかは自由だけれども、余りに突拍子もない無知と誤まりに基いて証言をされない方が、私は議事の円滑な運営に必要だと考えて、このことを申上げます。
  331. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚、前に戻りまして、委員長からの補足質問を二、三続けます。葉書の内容に書いてございました「オテガミアリガトウ。オゲンキニテソドウメイキヨウカノタメ、マイシンサレリツパナトウシトシテキコクサレ、ハンドウニタイシトモニタタカウヒノクルノヲオマチイタシテオリマスニホンキヨウサントウ。トクダシヨキチヨウ」、この葉書を受けられましてから、この葉書に対しては別にあなたの收容所においては、この内容について具体的によく分るように指導されたことがありますか。
  332. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 我々の当時の民主運動の大体のレベルと申しますか、それから推してやるべきで、それを指導する必要はありませんでした。
  333. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚もう一点お導ねいたしますが、九月二日の「貴国の好意によつて優先的に送還された日本人捕虜の身体虚弱者と素行不良者の言動は、著しく半民主的にして、党活動に大なる支障を来たすものである。願わくば健全なる者を送還されんことを希望する。」これはいわゆるあなたが御覽になつたと言われるその手紙の差出人は、どこに誰が差出人になつておるのか。その内容について先程の証言中に、九月二日の反フアシスト根絶記念日に、これが日本共産党書記長より言つて来ておつたということについての内容は、まだ御証言がなかつたと思いますが、この点についてもう少し詳細に御証言を願つて置きたいと思います。
  334. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 先程証言するのを忘れましたけれども、その手紙は九月二日の反フアシスト根絶記念日に際して日本共産党よりソ連共産党に対して来た、要するにお祝いの意味の手紙であるというようなことをキーシイロフ大尉は言いましたけれども、それからその文書に現われておりますところの「優先的に送還された日本人捕虜の身体虚弱者と素行不良者の言動は著しく反民主的」という記事は、これは日本新聞にも載つておりました。但しそれに対してそこに徳田書記長という名前は出ておりませんでした。ただこれは日本新聞の確か第一面の社説ではなかつたかと記憶しておりますけれども、社説の中に、一番初めに帰つて来た者が、日本に帰つて非常に反共デマを振撤いておるということは聞きました。それで終りに、今度こういう者を帰さないように我々が闘争しようというようなことを更に書いておりました。
  335. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは一応亀澤証人証言を留保いたして置きまして、次は小俣証人に伺いますが、小俣証人の経歴を簡單に述べて頂きます。
  336. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 大正六年十一月十日生まる。小学校、中学校及び最終学校は東京であり、昭和十二年最終学校を出ると同時に満洲に就職。翌十三年一月、現役入隊のため帰国入隊、昭和十五年九月、満期除隊、直ちに満洲に復帰就職、昭和十六年、北支に転勤、昭和十九年、天津において二月十二日現地召集、衣師団に入隊、同二十年七月、朝鮮に下りまして、八月、漢口において停戰、二十年十月、入ソ、十四地区ウオロシロフ・カメンリバノフ、昭和二十一年五月、マンゾツクカに入所、昭和二十三年三月、同地区十四地区第三分所ラスドニヤに移動、同年五月、十三地区十二分所アルチヨンに移動、同年八月、十三地区十四分所ウゴールナヤに移動、翌二十四年二月、十三地区第二分所アルチヨンに移動、同年十一月、ウラジオストツク第二分所に移動、同年十二月五日、病院より患者として二名、二分所より十六名の中に入りまして帰還の目的を以てナホトカに着く。翌二十五年一月の十九日、帰還のため乘船、一月二十二日、舞鶴上陸、以上が経歴であります。
  337. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚昭和二十三年十月、十三地区ウラジオストツク第十四分所ウゴールナヤ收容所において証人より委員会に出されましたこの内容について詳細に御証言を願いたいと思います。
  338. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 昭和二十三年十月中旬、丁度その時十三地区の管理局の政治部長チーベル大尉、この方についての概要をお話して、以後私が話します問題について皆さんの御批判を受けたいと思います。チーベル大尉の経歴は、これは捕虜であります関係上、ソ連人の話を聞くと共に、私が本人と会いまして本人の態度及び見識から推して言う言葉であります。チーベル大尉はソ連共産党員であつて、非常に沿海州地区において権力があるという噂を聞いております。そのチーベル大尉が昭和二十三年十月中旬、十四分所に巡視に来た時、私は十四分所において民主運動に対する、即ちこの民主運動というのは、あのシベリア民主運動のことであると私は言います。この運動に対して、私は彼らより反動として取扱を受けておりまして、丁度チーベル大尉が参つた時に、彼等は私は作業不良者として、数名の者が彼の前に呼び出されて、その時に彼は我々にこのように申しました。ソ連の建設に消極的の協力をする者及び非協力者は民主主義者ではない。反動である。それだからかような反動を先に還すということは、日本における民主運動に大きな妨害を與える。だからお前等は一番遅く還すということを述べまして、大体今話しました話が夜の八時頃より九時半頃までかかりまして、そこで收容すると共に私はその場に残りまして、特に呼び出されて、チーベル大尉及びソ連人の通訳及び日本の通訳一名その立会の下に、民主運動について私はいろいろと質問を受けました。大体その概要を申しますと、お前は民主運動をどう考えるか、と要するに共産主義、そういう問題をいろいろ取上げられまして、最後に日本共産党より、反動前職者は人民政府が樹立するまでは帰して呉れるなというふうに依頼されたと私は彼の口よりはつきりと聞きました。以上。
  339. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只人の小俣証人証言に対しまして御質問ございますか。
  340. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今の最後の一点ですが、資料を配られている点から見ますと、日本共産党よりソ連当局は反動及び前職者となつておりますが、今小俣証人は反動前職者とこう言われました。その点はどういうふうでしようか。
  341. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 反動及び前職者であります。反動というのは思想、それから警察、憲兵及び特務機関という方たちを前職者と呼んでおります。
  342. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 人民政府樹立までは帰国させて呉れるなと依頼されたと、その時はそのチーベル大尉とソ連人通訳と、それから日本人の丹羽という通訳ですが、この四名だけだつたのですか。外に小俣証人以外に人がおりましたでしようか。
  343. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 外におりません。一つ証人としてお願いしたいことがあります。
  344. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 小俣証人に申上げますが、時間が非常に経過いたしておりますので、まだ、後もう一名証言を求め、終つた後に一応委員長から時間を考慮しますまで、それまで証人からの発言がありましたならば、一応待つて頂きたいと思います。
  345. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 分りました。
  346. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 外に質問ございませんでしたら‥‥。
  347. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 更に期日二十四年八月十五日の日本共産党記念日、そうした期日において何がお聞きになつたことはありませんか。
  348. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 二十四年の八月の十五日です。これは十二分所アルチヨン收容所であります。ウラジオの管理局より数名の政治部員、その中にはソ連の通訳も混つております。同收容所員、日本人捕虜全部点呼場に集めまして講演者は中尉であります。名前は知りません。これは十二分所におつた者は全部聞いております。ソ連は日本共産党に今までは精神的のみの援助をして来たが、これからは物質的に援助する準備ができておる。諸君らは革命のときよき指導者として、又闘士として活躍することを期待するということをはつきり述べております。
  349. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 重ねて証人にお尋ねしますが、昭和二十四年十月中旬頃か、或いは十一月の上旬約半月の間ですが、この日本新聞に帰還者読本という欄があるそうでありますが、その見出しに記者日本共産党中央執行委員野坂參三、諸君らは今次大戰で一度捨てた命である。今度は日本再建のため日本共産党に結集し、共産党のためにもう一度命を捨てて貰いたいということが書いてあつたことを、証人は知つておられますかどうか。
  350. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 淺岡委員の言う通りであります。
  351. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますとこういうふうな日本新聞に帰還者読本という欄が設けられて、こういうふうなものは、野坂參三氏が、何か書面なり或いはそういうふうなものを送つて来たのか、或いはどういう方法でこういうものが載せられたか、そういうような点は証人は知つておられるんですか。
  352. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 今の質問に対して証人はただ日本新聞の紙上に日本共産党中央執行委員野坂參三という名前を以て、はつきりと書いてりあましたのでどのような径路を以て日本新聞紙上に掲載したか知りません。
  353. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 当時あなたのおられました收容者において、この新聞の記事を見られたときに、その同僚の諸君といいましようか、皆さんはこれに対して、何か話合でもされたか、或いはこれも一茶飯事だということで、そのままに軽く考えられておつたか、そうした点についてちよつと御所見を願います。
  354. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 只今の質問に対しまして、私はすでに反動としまして、自分がソ連の土地を離れるには、又自分の信念を曲げずに帰るということは、人と口をきかん、とにかく人のやつておることを傍観視しておるという心情で、帰つて来るまでやつておりました。今の質問に対しまして、いろいろと遠くから若い者がアジテーシヨンをやつておるのを聞きます。その中に向うの教育はソ連の共産党小教程に基きまして、二月、十日の社会主義革命のあの乱を特に教育をしておりました。又若い者も、あの要するにソ連のいう思想と違う見解をもつ者は、たとえ親であろうと、又兄妹であろうとも革命のためにはこれを殺す、ソ連ではその二月、十月あの社会主義革命においてやつて来た、これが真の革命の英雄なりというふうに若い者は教育をされて来ております。かような観点からして、私は今の問題につきまして、若い者は二度と血腥いような結果に‥‥、過去の言動、あのソ連における言動或いは態度を見て私はあり得ると予想いたします。
  355. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 もう一点一つ証人に昭和二十三年の八月ウゴールナヤ收容所において政治部員将校から講演のいろいろなことを聞かれたことがあるということを訴えられておる人ですが、それに対して一つ証言を頂きたいと思います。
  356. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 昭和二十三年八月ですね。政治部員の名前はそれに書いてあつたと思いますが‥‥。
  357. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 タラコフ。
  358. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) タラコフ大尉は全員をやはり点呼場に集合しまして、日本の通訳、名前を省きます、この通訳の名前は後から委員長にお願をして了解を求めます。この日本人の通訳を介して我々十四分所の日本人捕虜に対して、ソ連当局は日本政府に対して諸君らがこの地においてかかつておる経費は請求をしない、というのは諸君らの労働は自活である。それ故に諸君らの、要するにいわゆる損害賠償は、日本政府には請求はしない。
  359. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そのときにこういうことをあなたが述べられたと思うんですが、「ソ連当局は君等日本人に対し労働を強制するものではない。ソ連は日本人が労働によつて得た評価は政府に対し損害賠償を請求するものではない。故に諸君等の当地において、誠心誠意労働に服する事は、日本国民をして負担を軽くすることである。又ソ連政府は対外政策にある通り決して敗れて困苦に喘いでいる日本国民に対し損害賠償することは決してない。又諸君等在ソ捕虜の経費についても勿論諸君の労働によつて得た賃金からの自活であるから経費一切は日本に対し請求することはない。斯の如きソ連の配虜に対し、諸君等はソ連国の建設に対し任務は義務を負うものである、ソ連を信じて労働に邁進せられん事を期待する。ソ連の労働は光栄、英雄、且勇敢なり」云々とこういうふうに述べておられますが、その通りでありますか。
  360. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) その通りであります。
  361. 中野重治

    中野重治君 二つの問題について簡單にお尋ねいたします。小俣証人はチーベル大尉の閲歴のことを話されましたが、御自分の閲歴についても語られたのですが、よく分らなかつたのでもう一遍簡單に述べて下さい。最終学校が東京、こうお話になつたんですが、最終学校は何学校でしたか。
  362. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 小学、中学及び最終学校專修大学で、東京でございます。
  363. 中野重治

    中野重治君 專門は何でしたか。
  364. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 経済であります。
  365. 中野重治

    中野重治君 満洲に二度就職されたのですが第一回目、第二回目はお仕事は何でしたか。
  366. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 満洲では労募協会、労務行政であります。
  367. 中野重治

    中野重治君 二度目も同樣でありますか。
  368. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) そうであります。
  369. 中野重治

    中野重治君 小俣証人は宮川精一郎という人を御存じですか。御記憶なければどつちでもいいです。
  370. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) ありません。
  371. 中野重治

    中野重治君 華北でのお仕事は何でしたか。
  372. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 満鉄の撫順炭鉱労募。
  373. 中野重治

    中野重治君 労働者の募集ですね。天津のお仕事は。
  374. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 同じであります。
  375. 中野重治

    中野重治君 次に衣兵団に入団されたようなお話でしたが、その兵種、階級は何でしたか。
  376. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 昭和十九年二月十二日に五十九師団五十四旅団四十五大隊に入隊、軍曹であります。
  377. 中野重治

    中野重治君 兵種というのはあの頃陸軍では廃止されましたが事実上はいろいろな兵科がありましたが‥‥。
  378. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 歩兵であります。
  379. 中野重治

    中野重治君 小俣証人は御自分が反動といわれたことや、傍観者的な立場を取つておられたことを述べられましたが、この前久保田善藏君が証人として立つた時、久保田証人自身の御発言にこういつております。自分は膺民主運動をやつたことがある。それから九十九地区九分所で反ソ宣伝を行いまして、それは全大衆を集めまして、文化活動の中において、反ソ宣伝を徹底的に行つたのであります。こういつております。それからさつき問題になつた例の收容所における生活の規律化等について、カラカンダへ来てからはそういうものには絶対に賛意を表しておらないし、反対をし、故意に病気をつかつてこれらの作業には出ておりません、こういつておりますが、こういうような人々は民主的分子といわれておりましたか、反動的分子と呼ばれておりましたか。
  380. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 簡單に結論をもう一度言つて頂きたい。
  381. 中野重治

    中野重治君 もう一遍言いますが、この問題に出て来た、発端であるかどうかはあなたに関係はないことなんですが、久保田善藏君が、これは徳田要請の問題を持ち出して、問題を起した発頭人といつても悪いけれども、それはそういう形になつておる人でありますね、その人がこの前証人に呼ばれて宣誓をして証人台に立たれて、自分は膺民主運動をやつたことが、向うにいて、ある。それから第九十九地区九分所においては反ソ宣伝を行つて、そうして全大衆を集めて文化活動の中で反ソ宣伝を徹底的にやつた。反ソの宣伝を自分がやつた。それから例の收容所の生活を規律化するという問題に関しては、そういつたものには絶対に賛成でない。それだから反対をしてわざと病気を作つて、つまり仮病をして作業に出ておらない。自分はやつたとこう言つておるのです。あなたのことじやないのですし、当時においてあなたの経験からすれば、こういう人間は民主的分子と言われたか、反動的分子と言われておつたか。
  382. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 反動分子と言われておる者もあるし、又反民主的分子と言われた者もあります。
  383. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次に上村証人証言を求めますが、簡單に経歴を先ず述べて頂きます。
  384. 上村宗平

    証人(上村宗平君) 本籍地福井県大野郡石徹白村下在所、大正四年八月十日生。本籍地の小学校及び実業農業補習学校昭和七年卒業。昭和十二年より名古屋日本耐火スレート株式会社受渡し発送係。昭和十九年三月十二日京都四五部隊砲兵。同年七月十七日千島エトロフ三原部隊。昭和二十年八月三十日武装解除。昭和二十年九月二十日沿海州ソフガワニ上陸。昭和二十年十月下旬マンガクトウ分所へ移動。十二月三十六分所と思われる所へ移動。昭和二十一年三月ムーリン市へ移動。昭和二十一年の三月から昭和二十二年の七月ムーリン市。二十二年九月まで懲罰隊。九月からイズベストコーバヤ地区。二十二年十一月四一九分所。二十三年の三月イズベストコーバヤのウルガル四二七分所。二十三年三月トンネル四二七分所、二十三年九月ウルガルに戻つて四一〇分所、二十三年の十一月ウルガルより更にイズベストコーバヤの方面四十キロ先の四二七分所、四二七分所が二つあります。二十四年の十月まで同じ所、二十四年の十月二十四日英彦丸にて舞鶴に上陸。終ります。
  385. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 証人にお伺いしますが、イズベストコーバヤ地区において九月初旬、徳田共産党書記長から各收容所長に宛てた手紙の内容が朝の全員作業整列のときに言渡された。この内容等について詳細な御証言を求めます。
  386. 上村宗平

    証人(上村宗平君) 一九四九年九月上旬、イズベストコーバヤ、ウルガル四二七分所において、所長及び政治将校立会の下に傍フアシスト委員会を通じて、日本共産党書記長徳田球一氏よりの手紙を伝えられた。その一節に、立派な民主主義者にならざる者、作業を怠慢してソ同盟強化に邁進せぬ者は懲罰に付して、ソ同盟に長く留め置くようにという一節がありました。それから数日の後、四二七分所と四一九分所と両方合同して、作業する作業場に事務所がある。その事務所で雨のために全員が作業を待機しておりました。その事務所は私達測量の者が使用しておりました所で、四地区の政治部長レーニン少佐、随員一行四名がガソリンカーでやつて来ました。そうしてその事務所に雨を避けに入られました。そうしてその部屋には、デレヴイヤンコ中将と徳田書記長の握手しておるところの写真、ソ同盟内閣の閣員、日本共産党の指導者、そ同盟五ヶ年計画の成果、そのような写真があつて、そうして私達日本人に対して、ちよつと入つて来いという意味のことを言われました。それで自分達はレーニン少佐のいる部屋の入口の所で雨宿りをして待機しておりました。ところがレーニン少佐達は奥の部屋におられた。そうしたところが、日本語の分る将校がいろいろと聞かれた。そのうちに、私がロシア語が若干分るということが分つたので、レーニン少佐がみずから質問した。このような質問は、当時政治部の人達の、もはや日本人の最後の政治教育の総仕上であるが故に、みんなということはないけれど、往々にして質問するということは珍らしくなかつた。だから今度はこういうような質問があるから、このように準備しておかなければならんというようなことをみんなが言つてつた。政治部員及び政治部長などからの質問ということに対して、決して民主主義者でないような返答をしないように返事しておつた。そのときに写真を指して、これは誰だと言うから、デレヴイヤンコ中将と徳田書記長だと言うと、そうか、それでお前達は民主主義者かと言かれた。私は無論民主主義者です。何故ならば、日本共産党徳田書記長は民主主義者の帰国を欲しておる。民主主義者でない者、そうして作業不良者は共にソ同盟に残して置くようにという手紙をよこされたという返事をした。レーニン少佐は、その通りという返事をされた。終ります。
  387. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚、もう一点伺つて置きますが、この話をされたいわゆるソ同盟強化に邁進せぬ者は、云々と今御証言があつたのでありますが、それは通訳を通じて行われたのでありますか。
  388. 上村宗平

    証人(上村宗平君) 先程申しましたように、反フアシスト委員会議長永山武光、二十五歳、九州人、終ります。
  389. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 上村証人に御質問がございますか。
  390. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 証人にお尋ねしますが、四二七地区、ここには大体どのくらいの人員がおつたのですか。
  391. 上村宗平

    証人(上村宗平君) 先程申し忘れましたが、その收容所は三百名、そうして先程のレーニン少佐の来た位置の所の作業の総人員というものは、約五百名、つまり二個分所が乘つておりました。四一九分所はこれはその半分ほどの人員が来ておつたので、四一九分所の総人員は四百名。終ります。
  392. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、四二七分所は三百名、四一九分所は四百名、レーニン少佐がおられた所は五百名ということになりますというと、これは総員を集めると、一千二百名ということですか。
  393. 上村宗平

    証人(上村宗平君) 違います。四一九分所の人員が四百名、四二七分所が三百名、四一九分所は半分は他の作業に行つてつて、大体その半分が来ているのだから、二百名合計して五百名であります。
  394. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 この九月初旬の終り、共産党書記長から各收容所長に宛てた手紙の内容は朝の全員作業整列のとき言渡されたということでありますが、その手紙というのはそのときに見られたのですか、或いはただ手紙の内容ということだけで、日本共産党は云々ということを言われたのですか、読まれたのですか、言われたのですか、或いは手紙そのものを見られたか、見られなかつたか。
  395. 上村宗平

    証人(上村宗平君) それは朝の整列のときに、手紙でなく日本共産党書記長徳田氏から、このような手紙が各收容所長に来たと言つて、そうして反フアシスト委員会を通じて言渡したのであります。そのときの位置はその図と違います。その図は勿論他の收容所ですけれども、私のいた四百二十七分所は道路が細長くなつてつて、そうして道路の入口のところの左の方のところに雨を防ぐところの庇が出ております。そこに所長と政治部員がおりました。そうして委員達はその前に並んでいるのが毎朝の例になつておりました。作業は三十名乃至五十名ぐらいずつのグループによつて出門しておりました。そうして自分達は職業の関係上全く自由行動を取れる、そういうふうになつておりますので、大体後尾に属しておりました。そのときの状況は大体そうなつております。このときに委員からアジテイシヨンが飛びました。俺達の親父徳田書記長かく期待しておるのだ。それは俺達全部が民主主義者となつて日本共産党の一万の組織者となつて帰るように期待している。俺達は今こそ反動分子、不純分子、一切の日和見分子を摘発して、再び水原のごとき反動を日本に帰して資本家、地主の手先としてはならない、こういうアジテイシヨンが飛びました。
  396. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そのときの人員はどの程度の者がおつたのですか。
  397. 上村宗平

    証人(上村宗平君) そのときの人員は夜間作業等が若干ありましたけれども、併し大体三百名おりました。その分所は三百三十五名だと記憶しております。そうして補足をもう少ししますが、その前後に日本共産党からの手紙、先程淺岡委員の言われました、いわゆる帰還者読本なるものが来たのであります。その一部はすでに三百名の者が見れるように大事に貼つてありました。併しそれは皆使役を出して、そうして夜作業が終つて来てから、そのどこから来たか、本元というのは勿論日本共産党徳田書記長からの手紙の本物が来たとは思われないが、その写しが又写されて分所に配られた。その配られたものを講師が担当して、一遍に教育ができなから、講師が大体三百人ぐらいのところで六、七名おりました。そうして五十人或ひは三十人ぐらい受持つて、分担して教育したのであります。その教育したときに、六人なり七人なり、相当厖大な本であるから、十人ぐらいの使役が出て、そうしてこれを筆記して行つて、そうして各講師が皆一冊ずつ持つて教育を始めた。併し私達の帰還が十月二十四日でしたものですから、それが收容所にいるうちに教育し切れずに、今度は帰還の列車中においてそれを勉強することになりました。帰還列車の列車中には千名單位の私達が輸送されておりました。その千名單位のすべてのところで帰還者読本を読んでおつたということは断言できます。
  398. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 私は先程日本新聞というのは共産党中央執行委員野坂參三とこう言つたのですが、今あなたのおつしやつたのは、徳田書記長というふうに言われておりますが、それは徳田書記長でもあり、或いは野坂參三中央委員のでもあつたのですか。
  399. 上村宗平

    証人(上村宗平君) 何がでございますか。
  400. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 その帰還者読本というものの署名ですね。署名といいましようか、中に書かれた名前ですね。
  401. 上村宗平

    証人(上村宗平君) 先程朝の整列時に達したのは、日本共産党徳田書記長から收容所長に宛てた手紙で、今申上げるのは日本共産党よりの手紙であります。帰還者読本は日本共産党よりの手紙であります。
  402. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 分りました。
  403. 上村宗平

    証人(上村宗平君) よかつたならば、先程日本新聞について証人が十分に証言をしておりません。それは勿論運動の方向からその人は外れておつたからであります。私自身はデモクラートの一人として言うことができます。併しここでデモクラートという言葉に対して一応断つて置かなければならない。それはソヴイエトで言うところのデモクラートというのは、共産主義者がデモクラートであつて、共産主義者以外というものは白か黒しかあり得ない、日和見主義はあり得ない、中間もあり得ない、共産主義者以外はすべて反動分子である。例えばマルクス論を論じておる日本社会党も反動分子である。そうして日本新聞はこのアカハタの第何百何十何号より転載というふうに載つておりました。そうして徳永氏の「太陽のない街」というような小説を転載し、それから小林多喜二氏の「蟹工船」というような小説も載つておりました。アカハタの記事というものは殆んどそのまま、殆んどというよりもはつきり日本新聞には「原文のまま」と記されております。
  404. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうすると証人は職業は技師をされておつたというこことですが、そうした民主グループとか、或いはデモクラートとか、反フアシスト委員会というようなものに対しての、何か委員なり或いはその中のポストに就かれたことがありますかどうか。
  405. 上村宗平

    証人(上村宗平君) あります。私は一九四六年の八月、ハバロフスクに次いで起つたところの、沿海州地方民主運動の創始者の一人、同年の九月、第一回ムーリン地区代表者会議に出席しております。そうしてその後、自分は当時最初友の会と言つた、友の会の副委員長をやつた委員長は岐阜県美濃赤坂町一、四五六番地渡辺仁三、二月八日帰還、副委員長は私。それからその後十月発展的の解消といつて民主グループとなつた。解消しても委員長はやはり渡辺仁三、副委員長は私。その後拡大されて来て、私たちのいた二百十一分所では、大体将校が四十六名、人員は二千人を超える大きな收容所であつた。そこで運動が段々展開されて来るに従つて、元通訳をされておつた北海道の石橋七郎大尉、その人がこの地区委員長として納まつてから、彼と私との間に思想的な、イデオロギーの相違が生じ、つまり彼は確かに先見の明があつたかも知れない。国際プロレタリアートの一環として、というようなことをその頃からぼつぼつ言い出している。私は民族的な、いわゆるロシア流にいうならばナロードニキ的な運動ということをやつてつた。そのために同年の七月に、自分は憲兵隊に通告されて、ムーリン地区の二百十三分所に隣接するところの懲罰大隊に送られたのであります。そのときに送られた者は、大体民主運動に参加しておる者です。右翼社会民主主義者と称せられるような人たちも来ておつた。又いろいろな点で反動分子と見なされて来た者もあつた。その後もつと解放運動が起きて、同年九月に解放というわけではなかつたけれども、とにかく他地区に移動ということになつた。一旦被懲罰者であつた者をどういう理由で許すかということが問題になつたとかいうことを後で聞きました。そのために、それをいろいろと憲兵隊でも調べてみたところが勢力争いというようなことが原因しておるというので、それではまずいというので、これは解散させなければならない、併しここで解散させると、折角高揚して反動分子を摘発したということになつておるのに、又元へ戻すということは面白くない。そこでこれは他地区へ移動ということになつた。当時沿海州地方の收容所にニコライ少佐スマロノフ中尉、マロシエンコ大尉というような者がおつて、これは殆んど毎日のようにこの憲兵隊に出入りしておりましたが、それからこの懲罰大隊が他地区へ移動して行つて、その四七年に、私が言うのは四七年七月に懲罰大隊として‥‥。
  406. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 上村証人に、要点だけを‥‥。
  407. 原虎一

    原虎一君 しやべらすために君は質問しているんじやない。
  408. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 もう終ります。私は証言を求めているんです。
  409. 上村宗平

    証人(上村宗平君) 四七年七月から九月まで懲罰隊におつて、そうしてその九月に他地区に移動して、十一月四一九分所に行つた。それから四一九分所に行つてからは分所の政治サークル、後の政治学校、青年学校、夜間学校の各講師を担任しておつた。そうして分所機関紙の編集をやつた。四八年六月にその收容所で反フアシスト委員会委員に当選した。
  410. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 概略でよろしい。
  411. 上村宗平

    証人(上村宗平君) これは全く概略です。
  412. 原虎一

    原虎一君 証人発言を整理したらよろしい。
  413. 上村宗平

    証人(上村宗平君) 四八年九月に、又反動分子としてウルガルの分所に行き、それから又測量技術者として一般分所に行つた。経歴はこれだけであります。
  414. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 一応の質問は終つたと思いますが、‥‥。
  415. 小杉イ子

    小杉イ子君 上村証人に伺いますが、新聞について伺いますが、アカハタ新聞の記事を転載したところの日本人新聞を御覧なさつたように思いますが、アカハタ新聞そのものは配布はいたしませんでしようか。
  416. 上村宗平

    証人(上村宗平君) アカハタ新聞そのものは見ておりませんが、ハバロフスクの地方講習所に行つて来た者の話によると、アカハタも入つておる、こう言つております。
  417. 小杉イ子

    小杉イ子君 私はこのアカハタ新聞が入つていたということを聞いておりますので、あちらこちらとたんと入つてつたものかとこう思いましたから、お尋ねしました。
  418. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚各証人一応これにて質疑を打切りますが‥‥。
  419. 原虎一

    原虎一君 打切る前に私は全体について‥‥。
  420. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは、総体的に委員から御質問がございましたら御発言を願います。
  421. 原虎一

    原虎一君 これは最後で、今まで四人の方々が陳述された結論的な問題だと思いますので、四人の方々にお答えを順次願いたいと思います。  それは今日のこの委員会におきまして、いろいろ質問、応答、陳述がなされて、その結論が、四人の方々がこのことは同樣に認められており、又経験されたと思うのです。と申しますのは、ソ連邦があらゆる手段で、日本捕虜に対して共産主義教育をして、優秀な共産主義者として帰さなければならん、還そうという意図の下に、あらゆる教育が行われたということは、四人の証人とも認められて陳述されておる。そうでないという方が若しありましたならば、証言を願いたいと思います‥‥。別に証言がありませんから、認められたものと思います。
  422. 菅季治

    証人(菅季治君) その場合、共産主義というのはどういう意味でありますか。
  423. 原虎一

    原虎一君 これはむしろあなた方から言えばいわゆる民主主義者‥‥、菅証人も通訳された中に殊更に解釈を與えられて、その民主主義者というのは共産主義者である、ソ連においては‥‥、こういう意味のことを書いておられますから、私は共産主義者と申上げたのであります。いわゆるソ連将校が民主教育、ソ連が言う民主教育を徹底的にして帰そう、こういうことにあらゆる手段が行われたということについては、これは四人とも陳述なさつておると思うのですが、それが違うという方がありましたら、陳述を願いたい。
  424. 菅季治

    証人(菅季治君) 違うとは別に申しませんですが、まあ共産主義者というものは本当に共産党員というふうに、それ程に徹底されるかどうかということは、ちよつと疑問だと思うのです。大体カラカンダ地方は政治教育など遅れておる、遅れておると言われましたが、大体各收容所とも一〇%か二〇%くらいのアクチーブというものがおりました。それからその外六、七割くらいですかね、デモクラテイーチエスキイ・ナストロエンヌイエ、まあ民主主義的傾向者、或いは簡單にデモクラートと言われる者がおりました。それから今度は尚残りに反動と呼ばれる人がおつて、その程度で、ソヴイエト收容所当局も大体認めて、このくらいで満足したようでありますが、だから共産主義者という意味をどういうふうに‥‥。徹底した共産党員として党活動をやるという意味に解するとしたならば、余り狹過ぎると思うのです。可なり広い意味だと思います。終ります。
  425. 原虎一

    原虎一君 そこで問題は、殊に本日御出席を願つておる証人方々、重要なる点はそういうことを日本共産党が、いわゆる徳田書記長の名においてソ連に要請しているという、この要請に基いてソ連がやつておるかどうかということについての、あなた方の判断と信念を、菅証人から順次‥‥、これは個人の判断と信念でありますから、個人個人で簡單に、ソ連が日本共産党徳田書記長の要請に基いてやつておるなと今尚且つ信じておられるか、判断されておるか、どちらか、これを順次に陳述願いたいと思います。
  426. 菅季治

    証人(菅季治君) 自分としては、ソ連独自の立場と思います。何故ならば、私達の行つておりましたカラカンダには日本人以外にドイツ人も、ルーマニヤ人も、ハンガリー人も、殆んどすべての国民がおりました。そうしてそのそうした白色人種に対してもやはり同じように、むしろ日本人よりも却つて言葉なんかよく通ずるせいか、文献にしましても、よく政治教育をやつておりましたから‥‥。終ります。
  427. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 私の考えますのには、これは当然の言い方であり、ソ連共産党が指導の下に、更に日本共産党が協力してやり、その共産主義の国際プロレタリアートですか、その目的を達するために努力していたと僕は見ます。
  428. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 簡單に言います。火のないところから煙は出ないという諺がある通り、私ははつきりと申上げます。終ります。
  429. 上村宗平

    証人(上村宗平君) ソ連は当初からソ同盟の敵は日本共産党の敵である、我々には民族もなければ、国家もないのだということを私達は聞かされておりました。飽くまでも国際共産党として、そうして階級だけ、つまりブルジヨアとプロレタリアとそれだけしかない、だから反動というものは日本人とか何とかいう必要はない。ただ日本人と言つただけで怒られた分所も沢山あります。その後要請に関係あるかないかという御質問でございますが、要請にはつきり関係があるかないか知りませんけれども、この前後して私達のいた四百二十七分所、それからその隣接する四百十九分所、更に隣接するところの四百三分所、その向うにおけるところの四百五分所、この四ヶ分所について申します。ソ同盟の憲兵隊は、我我はすでに帰還態勢になつておりました十月ですか。……。
  430. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 上村証人に申上げます。只今原委員から質問された点を簡單にイエス・ノー式にお答え願えばいいのであります。そう思うとか簡單に。
  431. 上村宗平

    証人(上村宗平君) そう思います。
  432. 原虎一

    原虎一君 小俣証人と上村証人、あとになりましたから、お忘れになりましたかも知れませんが、私のは極く簡單に御答弁願えればいい。今尚今日この場においても、ソ同盟は日本共産党の要請に基いてああいう教育をしておるのだというお考を持つておるか、どうかということであります。
  433. 上村宗平

    証人(上村宗平君) そう思います。
  434. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) そう思います。
  435. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 外に御質問ございませんか。御質問がございませんでしたら、四人の証人の方に申上げます。本日この委員会において御証言なすつた証言のうち、取消し或いは訂正する箇所があると思う点、及び是非ともこの委員会に、この点だけは述べて置かなければならないと思うような点がございましたならば、至極簡單に述ベて頂きます。
  436. 上村宗平

    証人(上村宗平君) さつきの続きを申上げます。(「それはもういい」と呼ぶ者あり)是非とも申上げて置かなければなりません。この四ヶ分所へ憲兵隊から来まして、そうして何したときに、二人乃至三人の者が何して、四ヶ分所から約十名の人が矯正労働收容所へ送られました。その中に福井県大野郡西谷村中井操という男もおります。その男がまだ帰つて来ておりません。
  437. 小俣忠男

    証人(小俣忠男君) 二十三年の八月及び同年の十月の通訳はまだあの中に残つておる通訳であるということを深く思われて、帰還に支障のないようにされることをお願いします。又二十四年の八月、あの通訳もまだ残つております。これは取調べのために残つておるものであります。その点だけを皆さんにお願いして置きます。
  438. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 問題がちよつと変るかも知れません。やはり引揚問題でありますけれども、満州におきまして、ソ連軍撤退のとき中国軍に引渡しました二千人有余の看護婦、軍医、患者が未だ一人も帰つておりません。この問題は私が第二留守業務の方に連絡は出してありますけれども、一応この問題につきまして、同胞引揚委員会として御調査されることを希望いたします。
  439. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 亀澤証人委員長より申上げて置きますが、今御証言なすつたことは、後日書類を以て提出をお願いいたします。
  440. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 分りました。これは留守業務の方にも書類を出してありますけれども‥‥。
  441. 菅季治

    証人(菅季治君) カラカンダ地区の通訳として責任を果していないことがあります。それは自分の帰還が真近になつてから六、七人会いました。樺太から処刑人としてソ同盟に連れて来られて、刑を二年なり、三年なり終つた、そうしてその人達が帰国する場合に、軍事俘虜の方はどんどん帰るのに、その人達は收容所にも收められず、一応生活の安定は得ておりましたけれども、自分達帰国については非常に不安であるというので、自分もその委託を受けまして收容所本部へ数回行きましたけれども、あれは軍事俘虜とは取扱は違うのだ、お前達と一緒には帰れないのだ、こう言うのです。そこで内務省の方にも行きまして、内務省の外事部だと思います。そうすると、そこでは軍事俘虜はこんな所に関係すべきことではないと言つて、それも二回くらい行きました話に参りました。回くらい行きまして話に参りました。あの人達の運命について責任を感じておるのですが、よろしくお願いいたします。
  442. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚菅証人の今の御証言の内容も、後程書類で御提出を求めます。
  443. 菅季治

    証人(菅季治君) 分りました。
  444. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 亀澤証人に一言お尋ねしたいのですが、先程小杉委員から、徳田の通信に日本の消印があつたかどうかということに対しまして、亀澤証人は、五月一日の手紙は米軍の検印もあつた、九月三日の手紙は封筒入りの印刷物で、封筒の消印はロシア内の他の町のもののようだつたというふうな御証言があつたのですが、この手紙に対する宛先はお分りになつてつたか、お分りになつておらぬか、どつちでもいいのですが‥‥。
  445. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) その宛先というのはどういう意味なんですか。例えば收容所の名宛でありますか。
  446. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 モスクワの共産党の中央委員会とか、或いは‥‥。
  447. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) そうすると、発信所になりますが、その点は発信所でありますね。
  448. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 発信所です。
  449. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) それは分らなかつたです。封筒の裏が分りませんでしたから‥‥。
  450. 池田宇右衞門

    池田宇右衞門君 我々は当委員会において、まだ抑留されておつて帰還のできない人を一日も早く引揚げたいのが念願で、すべてのことを進行しておるのであります。四人の証人において、これらの方々を如何なる方法を持てば早く又揚げることができるかというお気付きの点があつたら、若し簡單に述べられれば述べて頂きたい、簡單に述べることができなかつたら、文書を以て委員長の手許まで御提出を頂きたい、かように思うのであります。
  451. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 自分は後程、ちよつと長くなりますから、文書を以ちまして提出します。
  452. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 亀澤証人にもう一つお尋ねしたいのですが、その五月一日の手紙ですね。さつきのはこの九月三日と両方言いましたが、五月一日の方の手紙、米軍の消印のあつたという方ですね、それの宛先は分りませんでしようか。
  453. 亀澤富男

    証人(亀澤富男君) 残念ながら記憶ありません。
  454. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 本日は長時間に亘つて証人方々には貴重な証言をして頂きまして、我々委員会の目的は十分御了承下すつておると思いますが、後日この資料に基きまして、委員会では愼重に審議いたしまして、まだ残されておるところの残留同胞を速かに帰るように処置を講じて行きたいと思います。誠に長い間御苦労樣でございました。  本日の委員会はこれにて散会いたします。    午後六時九分散会  出席者は左の通り。    委員長     岡元 義人君    理事            淺岡 信夫君            門屋 盛一君            千田  正君    委員            原  虎一君           池田宇右衞門君            木内キヤウ君            阿竹齋次郎君            小杉 イ子君            北條 秀一君            穗積眞六郎君            中野 重治君   証人            亀澤 富男君            小俣 忠男君            上村 宗平君            菅  季治君