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証人(
土田豊君) 日僑治自会の
仕事と申しますのは、
只今湯恩伯上将から受けたと申上げました内容でございまして、それを要しまするに、
上海地区及び
上海に乘船地を求めて、
上流から
帰つて来られる日僑の
方々を、中国側の指定いたしました住居地に集結いたしまして、四区に分けたと
記憶しておりますが、各区長を公選いたしまして、そこで船待ちをしている間、お互いに助け合いまして
生活を営み、尚
上流から
帰つて来る
方々は大体団体で
帰つて来られましたので、その都度学校の設備とか或いは町の工場あたりを物色して、そこに集団
生活をして船待ちをする。尚、日僑が船待ちしております間にいろいろな事件が起りますので、これは日僑管理処と申します……湯恩伯上将の部下が日僑管理処という役所を
作つて呉れたので、この管理処の直接の監督を受けまして、
日僑自治会におきまして、
居留民の皆樣の
生活を維持できるように万般お世話をして参
つた。この
仕事といたしますれば、その中いろいろ、
日本人は大した迫害もありませんでしたが、時としては日僑の財産を奪うような中国人もありましたし、又兵隊や役人がかさにきまして、邦人を虐待するとか、いろいろな事件が起きましたのを、私の方で問題を提示して頂きまして、これを日僑管理処に
行つて始末を付けるとい
つたような
仕事でございまして、
全般的に船待ちをしておられる
居留民の
方々の
生活の保持とか、それから今度はどの区のどういう者を船にお乘せするという順番や日時を決めて、トラツクにその荷物を乘せて検査をする。そうして船にお乘せしてお帰しする。そうい
つた万般の
事務といたしておりました。
次に
費用の点でございますが、先程淺岡
委員の御
質問に対してお答えいたしましたように、初めのうちは大体
居留民の
皆さんで以て自活をしておられたようであります。と申しますのは、中国側から
はつきりと
方針を示されまして、
帰国するにしても十五キロだ
つたかと思いますが、それ以上の荷物は許さないというのでありまして、これは蒲団を入れて呉れとか、いろいろな
細目がございましたが、いろいろな注文をいたしまして、やつと或る程度は増して貰いましたけれども、要するに三代も四代も
上海に暮した方であ
つても、或い田二、三日旅行で行かれた方であ
つても、差別なく一定の数量以外は持
つて帰つちやいかんということでございました。かような嚴重な申渡しを受けましたので、
皆さんとしてはどうせ帰るまでに
帰つている財産でも売り盡さなければ、持
つて帰れない。或いは預けて帰るということもできますけれども、預けるにしても又信用ある中国人というものはないかも知れません。そこで大
部分の方は持
つておられるお金を使い、又中には後で申します
借入金にお当てにな
つた方もありますし、物品などはどうせ身軽になるんだというのでお売りにな
つた。そういうので初めのうちは
自治会は余り大きな
費用は要らなか
つたのであります。併し
上流から段々お
引揚にな
つたりいたしまして、
引揚事態が進んで参りますと、やはり
費用が要
つて参りましたので、そこで正月頃にこれではとてもいけないということになりましたときに、年末に具体的な
訓令が参
つたことを思い出しまして、そこで二月に入りましてから
居留民の
方々に
趣旨を御
説明いたしまして、いずれ
政府が決める
比率においてお返しするという條件で
資金をお借りして、これを
引揚用の
費用なり、
生活保持の
費用に当てて参りました。でございますから、二月までは必要なか
つたということを申上げましたけれども、それまでに或いは借りまして、それを後に
借入金を入手いたしましてから、そつちに振り当てたということは細部にはあると思いますけれども、要するに
借入金を始めましたのは二月であ
つたと思います。
もう
一つの何でございますが、私が逮捕されまして以来、やはり依然として私の名前を使
つておられたようであります。それで副会長に岡本乙一さんという、古い弁護士の方でございますが、
上海に長くおられた方が副会長になられたのであります。その岡本さんに私の代理で万般の
事務を進めて頂いたと思います。
方針その他はもう、私が捕まりましたのは四月の二十三日でございますので、最後の
引揚が、最後と申しますか、一応の
居留民引揚の終止符を打ちましたのが確か六月か七月頃であ
つたと思います。でありますから、
仕事につきましては何ら
方針の変更もなく、そのまま進んだように後で聞きましまた。