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1950-02-06 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第10号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十五年二月六日(月曜日)    午前十時四十六分開会   —————————————   本日の会議に付した事件 ○証人喚問に関する件 ○在ソ同胞実態調査に関する件  (右件に関し証人証言あり)   —————————————
  2. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今から委員会を開きます。先ず最初お諮りいたしたいことがございます。前の委員会におきまして問題となりました華中持帰金の三万円小切手の件でございますが、これは少くとも三月十日の在外公館確認の申請の期限内までに間に合わせなければなりませんので、来る十三日委員会を開きます際に、この案件を取上げたいと思うのでありますが、その際当時の総領事或いは責任者等参考人として呼ぶか、或いは証人として呼ぶか。この問題をこの際お諮りして決めて置きたいと思いますので御意見を伺います。
  3. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 この問題につきましては、すでに各委員も御了承のことと思います。三日の衆議院との合同打合会におきましても、この問題がやはり大きく取上げて頂くことになつておりますので、どうしてもこの問題の根拠をなしますところの十倍の調整金という問題につきまして、その使途がどういうふうであつたか、それをはつきりとさすために、当時の公使でありました土田豊、並びにそうした経済関係を担当しておりました責任者である岡崎元参事官、それから元総領事でありました矢野征記君、これは当時外務省の本省におきまして邦人引揚部長をいたしておりました。この三名の方を証人として国会ではつきりさせて頂かなければ、この問題につきましては、今後の委員会におきましての結論を出す上からいたしましても非常に不都合な点がありますので、どうかそうした点につきまして、証人として国会にお呼び出し願うということをお願いいたしたいのであります。
  4. 天田勝正

    天田勝正君 この五名の人達に、当委員会に出頭を願うということにつきましては、どなたも異論がないので、ただその手続上、参考人として呼ぶか、証人として呼ぶかということでありまして、これは財政にも関係いたしますから、その点を委員長手許において検討して見るということになつておりまして、その見込みが付くならば証人差支ない。こういう私共の考え方でありますが、この点について委員長手許において検討された結果、さしたる財政上の影響はないということでありますれば、淺岡委員の言う通り取計らつて結構であろうと思う。
  5. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今天田委員から御発言がございましたが、この三人を証人として喚問する場合の予算措置は、三千百円だけで足りると思います。まだ会計の方との連絡はとれておりませんが、一応二千百円程度であれば問題はないのじやないかと考えられますが、証人として喚問して、この問題を検討するということにいたして御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  6. 岡元義人

    委員長岡元義人君) そのように決定いたしますが、証人土田豊岡崎嘉平太矢野征記、以上三名でよろしうございますか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  7. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ではそのように決定いたします。   —————————————
  8. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう一点お諮りいたして置きたいことがございます。先程総司令部から発表されました残留数に対する対日理事会より出されましたところの資料を翻訳いたしましたものがございますが、これは委員会として取扱つて配付しても御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  9. 岡元義人

    委員長岡元義人君) そのように御了解を得て置きたいと思います。   —————————————
  10. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今より本日の案件となつておりますところの、今回高砂丸帰還せられました方々の中から七人の証人に御出頭願いまして、只今手許に配つてございます問題について証言を得たいと思うのでありますが、先ず運営につきまして、一応お諮りをいたしますが、先日委員会において、証人証言は一人ずつ求めた方がいいという御意見がございましたが、この点如何ように取計らいいたしますか。
  11. 中野重治

    中野重治君 私は証人証言は、証人が揃つておるところで求める方が穏当であると、こう考えます。従つて証人を一旦ここから帰して、一人ずつ呼び出して証言して貰うという手続には反対の気持を持つております。その理由を簡單に申上げます。それは今まで戰後、特別委員会ができてから、曾てそういうことをやつていない。全部証人を揃えて置いて、委員も顔を揃えて証言を求めておる、これは普通のやり方だろうと思います。普通のやり方が今日までやられて来ておつた。これを一人ずつ呼び出して、それぞれの人から証言を求めるということになりますと、委員の方は質問と、それに対する答えの全体を掴んでいますけれども、個々の証人は他の人によつてどういう証言がなされておるかを知らない。それで委員の方では全部握つておる中から、自分の問いたい問題を抜き出して証言を求めるのですから、うまく行かないと、結果として集まつた個々人からの証言は一方的に、或いは片寄つたところに落着き得る、これは防ぐべきだと思います。それからもう一つは、証人に来て貰つて証言を求めるという委員会権威として、証人宣誓をして貰つて証言して貰つておるのですから、どういう理由個々人について証言を求めた方がいいというふうに言われたのか私は知りませんけれども、他の人人の証言が別の証人に何らかの心理的な影響を與えはしまいか、そういう懸念からであろうと思います。こういう懸念は或る程度あり得ると考えられますけれども、たとえそういうことがあり得ても、宣誓の下に正しい証言を、真実証言するという建前委員会としてはどこまでも証人に願わなければならん。委員会の方から若しそれを崩すようなことがあつてはならない。私の言うことは、証人が並んでいて、Aの証人発言にBの証人影響されるということがあり得るとしても、そのあり得るところへ委員会が食つ付いて行つてしまつては、宣誓をさせた委員会として、自己の本質に、特質に戻るようになるだろう。実際的な面からも、道義の面から言つても、私は証人にはずつと並んでいて貰つて、他の証人がどういう証言をしようとも、己れは真実証言するという態度を持して頂く、こういうふうに私共は求めたいし、又委員会としてはそういうふうに求めるということを委員会建前とすべきである、こういうふうに考えます。
  12. 天田勝正

    天田勝正君 このことは本来水久保委員が申されるのが適当でありますが、当委員会にお見えになつておりませんから、私が申上げますが、過日の打合会においても、今日は一人ずつ御証言願うということに、すでに話合が付いておつたと私は記憶しております。尚普通の姿としては、全部お並び願つた上で証言願うという中野委員お話でありますが、元来当委員会においては、そうやつて来たということであつて、普通の証言というのは、一人ずつ証言して頂くのが普通の姿でありまして、このことにつきましては、法務委員会等でもしばしば私共個人的にそのやり方が不当というまでも行きませんけれども、批判されて参つたので、尚水久保委員弾劾裁判所裁判員をしておりまして、そうした経験からいたしましても、あの裁判官というのは、極めてそうしたことに慣れている方ですら、やはり一人ずつの証言が正しい、最も正確に言い得る。こういうことからいたしまして、強くこの点は主張されたのでありまするから、私はこの際やはり本来の姿であるところの一人ずつの証言、こういうことが望ましいと存じます。
  13. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 この問題につきましては、委員会におきまして証人顔触れ決定いたしましたときに、水久保委員からの提案がありまして、いろいろ只今中野委員の言われましたようなこと、或いは天田委員の申されましたようなこと、そうしたものがいろいろ検討されました結果、すでに決定した問題であります。でありますから、決定した事項として進行して頂きたいと思います。
  14. 中野重治

    中野重治君 淺岡君並びに天田君の意見を承わりましたが、私はやはり一人ずつ呼び出して証言を求めるという方式には反対します。我々が証人顔触れ決定し、これに証言をして貰うという場合には、それぞれの証人が他の証人発言如何に拘わらず、己れは己れ自身の立場から自己真実を述べるものと、こういう人々であると私共認めて、それを確定したのでありますから、水久保君が裁判官としての経験から割出したことを以て委員会手続に置き直すということは不当である、こう考えます。それから一人々々を個別的に呼出して証言を求むるのが本来の行き方であるという淺岡君意見には、これは問題をいろいろやつて行きますると長くなりますから、理窟を述べませんが、参議院の特別委員会において、証人喚問して宣誓の下に証言を求めるという場合に、それが本来の行き方であるという考え方には、私は賛成することができません。それに関する議論は差控えますが、第一の点から言つて、私はやはり諸証人に並んでいて貰つて、我々全体が顔を合せて証言して頂くという方式が正しいと、こう考えます。ただ私はこの前水久保君が、そういう問題について発言されましたときにおりませんでしたから、そのとき委員会として正式に如何なる決定がなされていたかということについては知らないわけで、その点については私はとやかく発言するものではないわけです。全体としてのやり方を、宣誓意義を十分生かすように、証人喚問意義を生かすように、本来の性格に基いてやつて頂きたいのです。
  15. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 中野委員に申上げますが、先日の委員会において、一応水久保委員発言従つて、大体今回の証人証言を求めるに際しては、一人ずつ証言を求めるということに一応打合せ決定いたしておつたわけでありますが、この際……
  16. 千田正

    千田正君 先程からの委員長発言によるというと、この前の委員会決定したかのような感がしますが、それは私は出席しておらなかつたけれども、決定でなく、打合せしておつたのだろうと思うが、その点をはつきりして頂きます。決定だとすれば、或る程度の人員が揃つていなければ、決定と我々は認めることはできません。
  17. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 この問題は水久保委員提案によつて、いろいろ論議されました結果、すでに決定を見たのであります。でありまするから、いずれであろうと決定を見た事項であるならば、決定事項従つて御審議頂きたいと思います。
  18. 天田勝正

    天田勝正君 この点については、私が中野委員反対議論をしたのでありますが、この手続きの点につきましては、私は申合せという言葉を使つております。そのことは私は同日定足数が足りたとは考えておりません。従つてそうした、いた者だけの決定と言えば決定でありますが、委員会としての発言はこれは申合せであつて決議事項ではなかつた、こう了承いたしております。
  19. 中野重治

    中野重治君 当日出席された方々から、決定であつたか、申合せであつたかという点についてのお話があつて、それは委員会としての決定ではなくして、事を円滑に運ぶための申合せであつたというふうに言われたように受取ります。併し仮にこれが決定であつたとしても、そういう前回の決定が道理に適わぬ、実情にも適わぬということが明らかになつた場合には、改めて委員会として正しい新らしい決定をやることができるのでありますから、特に決定ではなくして、申合せであつたとすれば、もう一度ここで我々共同して考えてもいいのではないか、こう思います。
  20. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 如何いたしましようか。只今中野委員から、もう一回ここで諮つて頂きたいという御発言でございますが、尚委員長から一応運営につきまして、時間の関係もありまして十分打合せができなかつたことは遺憾でありますが、本日は証人方々に先ず十分間程度で、入ソされてから、収容所におられた収容所名及び前職関係等について一応述べて頂く、その際は全員着席を願つて置いて、その後お手許にお配りいたしました問題について、委員長から簡問に一問ずつ一項目ごと質問いたしまして、その後をば各委員から質問をする、こういうように運営するということにしてよろしうございますか。一応お諮りいたしたいと思うのであります。
  21. 中野重治

    中野重治君 私はそういうふうにしない方がいいと、こう思います。何故かと言えば、我々は罪人を検察官として取調べるわけではありません。それで一味の者が共謀して証拠を堙滅するというふうな慮れがある状態において、それぞれの人間を分離して、独房に入れて、それから一人ずつ呼出して、片つ方から取つた証言で片つ方を押付けるというふうなことは、我が委員会証人喚問意義ではないわけです。簡単に言つて……そうであるからして、多くの人に顔を並べて置いて貰つて、そうしてずばずば証言して貰う。そのことを否定しなければならん、妨げなければならん任務は我が委員会にはない。それだから、みんなに出でいて貰つて、従来もそうやつて来たし、数もそう多くないし、実際上も差支えもないししますから、どうか全員出席の上真実証言して頂く、こういう方式をとりたいと、こう私は考えます。
  22. 天田勝正

    天田勝正君 議論しておりますと、際限がないのです。別に中野委員議論と雖も、私の議論と難も、委員側の方からそう固執する程の問題じやないのです。実際言うと……併し私は一応過日の申合せがありましたために、その発言者の当人がおらないから、そこに列席された人の代表として申上げておるのであつて、別段そう固執する必要のない問題である。むしろこのことに関して関心を持たなければならないのは、証人側方達の方なのであつて、我々の方は、並んでおつて証言して貰おうと、一人ずつであろうと一向構わない。ただ当委員会を除いての他の委員会は、それぞれやはり裁判所でやるがごとく、一人ずつの証言をやつておる。こういうことでありますから、別段それを一人ずつにしたところで弊害があるわけじやない。今まで大勢並んで貰つて証言して貰つたからとて、非常に不都合があつたかと、こう言われれば、それは又大した不都合はなかつたと、こう言わざるを得ない。他の多くの例の一人ずつの証言を求めて見ても、一向不都合はなかつた。むしろその方がよかつたということであります。でありますから、やはり当委員会でもそうした長い、裁判と言うと語弊がありますが、そういう証言を求めるときの慣例に基きまして、一度ぐらいやはり一人ずつの証言をとつて見る。こういうことも、何も罪人扱いするとか、そういう強い表現をしますから、これは事でありますけれども、そうした証人側の心理も勘案いたしまして、一応そうしたことをやつて見よう、こういうふうに私は考えたいと思うのであります。
  23. 北條秀一

    北條秀一君 この問題は極めて簡単でありまして、そう時間をとることは私は賛成しません。問題は二つあるわけです。それは委員長あとの方で出した当委員会の本日の運営を云々するという問題と、証人を一人ずつ呼んで証言して貰うかどうかという問題と二つあるわけです。委員長あと委員会運営についてのことを言われて、二つのことが混線しておりますが、あとの方には私は問題はないと思う。中野委員発言の内容から見ましても、別にそれは問題はない。最初の第一の方が問題なんです。幸いに委員方もおられますから、それぞれ皆さんの判断があるわけですから、簡単に採決して頂いて、どんどん進めて頂きたいと思います。(「異議なし」と呼ぶ者あり)
  24. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは一応、まだ定員数に足りませんけれども、議事の運営の都合がございますので、皆さまの方で御了解を得て、一応この問題をお諮りいたしたいと思いますが、定員数の問題は、各委員差支えございませんか……速記を止めて下さい。    〔速記中止
  25. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 速記を始めて、暫時休憩いたします。    午前十一時九分休憩    ——————————    午前十一時十二分開会
  26. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 休憩前に引続き委員会開会いたします。  引揚問題は、略守家族は勿論のこと、国民ひとしくその憂慮が高まつておりますし、又国際的な問題まで飛躍いたそうとしておりますので、この上とも委員会連合軍の努力をば心から懇請いたしますと同時に、速に残留同胞が帰つて来るように念願いたしまして、今日に至つておるのでありますが、本委員会の、本日ここに七名の証人の方に御出頭願いまして、国会権威にかけまして慎重な調査をなさんとする意図をば、各証人におかれましては十分お酌取り願いまして、本日は、我々が今後の引揚対策に対する貴重な資料の提供をば願いたいと思うのであります。  これより宣誓を行います。起立を願います。傍聴席方々起立を願います。先ず種村証人から宣誓を願います。    〔総員起立証人は次のように宣誓を行なつた〕    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 種村 佐孝    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 長命  稔    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 板垣  正    宣誓書   良心庭従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 内山  明    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 高橋 善雄    宣誓書   良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 尾ノ上正男    宣誓書  良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 有田 浩吉
  27. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 御著席願います。  この際、証人の方に一言御注意申上げて置きますが、先程も申上げましたような目的を以て調査をなさんとする次第でありますが、証言に当りましては、宣誓されました通り、事実をそのまま述べて頂きたいのであります。尚、議院に於ける証人宣誓及び証言等に関する法律第六條によりまして、「宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処する。」ということになつております。この点は十分御注意をお願いしたいと思います。併し民事訴訟法の第二百八十條に該当する場合は、証言を拒否することができます。この点も併せて御注意申上げて置きます。御参考までに民事訴訟法第二百八十條を朗読いたして置きます。  民事訴訟法第二百八十條、「證言カ證人又ハ左ニ掲クル者ノ刑事上ノ訴追又ハ處罰招ク虞アル事項ニ關スルトキハ證人ハ證言拒ムコトヲ得證言カ此等ノ者ノ恥辱ニ帰スヘス事項ニ關スルトキ亦同シ  一 證人配偶者、四親等内ノ血族若ハ三親等内ノ姻族又ハ證人ト此等親族關係アリタル者  二 證人ノ後見人又ハ證人ノ後見ヲ受クル者」以上であります。  先ず、当初におきまして各証人から十分間ずつ時間を制限いたしまして、入ソの状況及び前職等について、又お手許にお配りしてございますととろの、当委員会調査いたしたい目的の中から、特に本日この委員会に対して提供し得る重要な点について述べて頂きたいと思うのであります。その後、委員長及び各委員から質問をいたすことにいたします。先ず種村証人
  28. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) 私は朝鮮軍参謀種村佐孝であります。併し朝鮮軍参謀を拝命いたしましたのは、終戰の年の八月五日でございまして、それまでは昭和十四年の十二月以降、移駐の年の八月まで、大本営において勤務いたしておりました。戦犯であり追放を受けるべき身分の者が、本日この皆様のお席に喚問をして頂きましたことにつきましては、私甚だ恐縮に存じいる次第でございます。宣誓に従いまして、本日私の存じている限り陳述をいたしたいと、こう心得ます。  私の入ソいたしましてから、帰還までに至ります経過について、大体申上げます。私は八月十一日に米子飛行場から京城に赴任をいたしました。終戦の詔書を拜してから、羅南方面がなかなか通信連絡がとれませんので、依然ソ軍との戦闘を十五日以後継続いたしております。元竹田宮関東軍に聖旨の伝達に来られましたので、八月十七日にその飛行機に便乗して関東軍へ行きまして情況を警戒して見ますというと、羅南方面の抵抗が十九日正午までに終らない場合におきましては、ソ軍が総攻撃を開始するというソ軍からの通知が関東軍に参つておりました。そこで私は急遽、私の任務関東軍から羅南の停戰を指導するように命ぜられまして、最後の御奉公と思いまして、翌十八日飛行機延吉に、引続いて自動車で羅南に駈けつけまして、十九日現地における停戦を行いました。部隊を集結して八月二十日羅南において捕虜になつたのであります。爾後北鮮の古茂山、滿洲延吉収容所を経まして、四十五年の十一月二日に延吉収容所出発、新京、昂昂湊、満洲里を経て十一月十五日に入ソいたしました。入ソ後チチハル、ノヴオシビルスク、クイヴイシエフを経まして、十一月三日にタンポフ州のラーダという駅に到着いたしまして、該地の大森林の真ん虫にありますところのラーダ収容所に収容せられました。十二月三日であります。それから四十六年の七月十八日までその位地におりました。そこには殆んど将校収容所でありまして、関東軍日本将校と、千島方面から転用せられて来た約四、五百名の者と、併せて約七千五百名ぐらいの将校がおりました。美いで七月十八日同地出発の第一梯団で私達はカザンを経まして、ウラルの真中のキスネルという駅に下されました。そこから約八十キロの行軍をいたしまして、エラプカBラーゲルというところに到着いたしました。七月二十五日に到着いたしまして、私はその収容所に八月の三十日までおりました。その収容所から第一回のソ側調査を受けまして、カザン監獄病院に他の四、五名の者と共に送致せられ、そこで約三ヶ月間の調査を受けました。四十六年の十一月十三日に、エラプカAラーゲルという一番大きいラーゲルにやつて参りました。そのラーゲル将校が約五千名おりました。大佐が八十名、中佐が七十名、少佐が百五十名という厖大なる関東軍の中心的な将校ラーゲルであります。そこで私は翌年の、四十七年の二月一日から十月の十五日まで、そこのラーゲル日本人団長として勤務さして頂きました。当地へ帰還早々、私の親戚の者が「ウラルを越えて」という本を見せて呉れました。その中に同地ラーゲルの管理について書いてある状況等は、主として私がその地において行なつた団長としての措置であります。お読み下さいました方は御承知のことと思います。四十七年の十一月一日に、急遽私はカザン方面に引致せられまして、カザン監獄病院に再び入りましだ。そこでは大なる調査を受けることなく、十一月二十五日に更にカザン日本将校の勤務いたしております発電所ラーゲルに約一週間おりまして、十二月一日同地出発、汽車で單身ソ連将校の附添いの下に、モスコーの七千二十七ラーゲルというところに参りました。参つたのは十二月三日であります。そこはドイツ人を主といたしまして、オーストリア人ハンガリア人チェッコスロバキア人ルーマニア人と、各国の人がおりまして、正しく国際ラーゲルの観を呈しておりますと共に、そのラーゲルの一部を使用いたしまして、全ソ連地域におりまするドイツ人から選抜いたしまして、ソ側の直接なる政治教育が五ヶ月ごとに繰返し繰返し教育が行われておりました。私はそこのラーゲルに昨年の九月二十一日までおりました。その場所には日本人が、御存じの滿州国の武部総務長官、又一昨年九月十八日に戦死をなさいました村上啓作三軍司令官、今般細菌戦裁判に被告として立たれたところの梶塚中将川島少将、私の友達である西中佐柄澤少佐尾上少佐細菌戦関係の者が集まつておりました。その他北鉄買収に伴う戦犯に対する証人的な立場に立たれた方々も若干名おられました。合計常に約十五名の者が、そのモスコーの国際ラーゲルの同じ部屋で、時には二つの部屋に分れながら淋しく生活をいたしておりました。昨年九月二十一日、モスコーを二名の同胞を残しまして、十三名の者が三等急行列車で、捕虜には十分なる待遇を受けながらハバロフスクにやつて来ました。ハバロフスクに着いたのは九月の三十日の晩であります。爾後十月四日から十月二十日まで、ハバロフスク市内の中央にありまするところの将官ラーゲル、これは番号では四十五ラーゲルと申しております。その将官テーゲルの将官各位並に満洲国の溥儀皇帝、張国務総理、旧満洲国関係の中華人各位と起居を共にいたしてお力ました。十月二十日に突如調査本部の方に呼ばれまして、若干の調査を受けた後解放せられまして、第七分所、第十三分所、第七十一分所と転々いたしまして、ハバロフスクを昨年の十二月の二十九日午後出発いたしまして、ナホトカに三十一日到著、本年の第一回の帰還船で幸いに、多数の同胞を心ならずも残しつつ、非常に幸いに私といたしましては内地に帰還することができた次第であります。私の経歴並びに入ソ後の状況は以上の通りでございます。
  29. 北條秀一

    北條秀一君 これは極めて小さなことでありますが、入ソ直後、チチハルを経過されたという話でありますが、これはチタの間違いじやないかと思いますが、証人にその点を明らかにして置いて頂きたい。
  30. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) 昂昂渓、満洲里を通過して、十一月十五日入ソ、爾後チタ、ノヴォリスク、クネヴイシェフを経過して参りました。
  31. 北條秀一

    北條秀一君 先程あなたはチチハルと申されましたから……
  32. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) それはチタでございます。
  33. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 各証人にちよつと御注意申上げますが、御発言なさいますときは、一応委員長発言をされまして、それから証言をお願いしたいと思います。長命証人
  34. 長命稔

    証人(長命稔君) 長命でございます。お招きに預りましたところ、当委員会の御趣旨並びに委員長からの御注意に基きまして、誠実に証人の責を果したいと考えております。  私は終戦当時、関東軍の戦車第三十五連隊長でございました。開戦と同時に新京警備の命を受けまして、新京防衛に当つておりました。途中終戦になりまして、二十年の八月二十日、夜中に公主嶺に帰つて参りまして武装を解除されました。爾後千五百名川臨時編成の大隊に改編されまして、同年十二月一日、プラゴエスチェンスクに到着、爾後シベリア本線によりまして南下し、十二月八日外蒙古のスフハートルホト、国境でございます。に到着、十五日外蒙の首府ウランバートルに着きました。その後二十二年の十月の十五日まで、労働大隊の大隊長といたしまして、蒙古政府の指示に従つて指揮官をやつて参りました。在豪丸二年間を終りまして、二十二年の十月の十五日に、新らしく外蒙古収容所司令官ソソロバルン少将の命によりまして、在ウランハトトル病院二つ及び健康者若干、合計千九百名を連れまして、外蒙の国境を越し、同年十月の二十七日ナホトカ到着、爾後二十三年の二月までナホトカに生活をしておりました。その間外豪に入りました当時、将兵約一万二千、場所は熱河省におりましたものが六ヶ大隊、錦縣から一ヶ大隊、海城から二ヶ大隊、公主嶺から三ヶ大隊、合計約一万二千であります。ナホトカから見送つて帰還いたしましたものが約一方千足らず、入蒙当時の人員約一割強、これは犠牲者であります。その後シベリア生活が始まつたのでありますが、入蒙中、附加えて置きますことは、二十年の年末から二十二年の年末までおりましたが、日本新聞の配達を受けましたのは、二十一年の二月頃から十一月頃まででありまして、従つて在家期間中思想運動は全くありませんでした。そういうわけでナホトカに着きましたときも、私以下全員、いわゆる旧行政上の軍隊でありますが、階級章を着けて、又指揮官は全部将校でありまして、ナホトカにおいて思想運動者達の非常なる攻撃を受けたのが第一回であります。又蒙古におきまして、収容所司令官ソソロバルン少将は正しく我々を取扱つて呉れまして、殊に私はタモイのときの第二梯団長として出発したのでありますが、出発する夜中でございます。自動車行軍の始まるところにわざわざ来て呉れまして、お前達がこの二年間外蒙の首府の建設に努力したことにつきまして一応謝辞を述べられたこともございました。次に、二十二年の二月二日までナホトカにおりましたが、急遽ウラジオ地区の方に少し寄りましたところにスーチヤンという炭鉱町がありますが、そこに私ら佐官並びに二十一年度からシベリアにおりました若干の将校がナホトカに滞留させられておりましたが、主として反動という名前によつて、合計二十三名を引連れましてスーチヤンに参りました。そうしてそこの管理局長シュリンコフ中佐並びにビヤノフ中佐、これの命令によりまして将校収容所を開設いたしました。当時私にソ側の命令であるからというので、将校団長を拝命しました。三日経ちました二月五日、津森中佐以下八十八名、一名殖えて八十九名と今記憶しておりますが、我々の収容所に来られて、これも併せて指揮せいということで、それから将校收容所のスーチヤン将校収容所の長をやらされたわけであります。その後七月十六日にアルチヨムの第十一分所、ここに移転を命ぜられまして、この収容所の中では、西の方の一角に更に鉄條網をめぐらして、外から鍵のかかるようになつておる門がございまして、二重に収容されたわけであります。ここに着きました頃が私以下百十四名、このアルチヨム時代には、夏に約八十名の帰還者が出ましたが、又農場で働いておつた約五十名前後の者が新らしく又入つて来るというようなわけで、絶えず百三十名ぐらいの将校団になつておりました。次いで年末の十二月の十二日に、急遽命令を受けまして、私と津森元中佐二名だけが、人事係の将校及び下士官一名に護衛されまして、ハバロフスクの第十三分所、即ち将校收容所であります。そこに護送をされまして、十二月の十三日ハバロフスク第十三分所に到着いたしました。前のスーチヤン、アルチヨム、ここの生活におきましては、各人各所から集められた個人個人との旧将校、言換えますれば、思想運動もやつておりませんければ、労働にも従事していない将校の集まりを、生活上の監督だけをやれという命令で、私は将校団長をやつておりましたが、ハバロフスクに移りました第十三分所におきましは、団長大平元海軍少佐、これ以下全員約三百数十名おりましたが、思想運動に参加いたしておりましたし、又全員労働に、請願書を出して従事しておつたわけであります。そこへ津森中佐と私と二名転入したわけでありまして、そのときから私としましては俘虜になつてから三年目に、初めて激しい思想運動の雰囲気に投げ込まれたわけでありました。次いで二十四年年末まで、殆んど十三收容所におりまして、その間先程種村証人からも話のありました第七分所に二日ばかり調査のために参つたことがありますが、大なる調査を受けることなしに一年間暮しておりまして、十一月二十七日、十三分所から二十一分所に転属を命ぜられ、帰還の人員中に含まれたようなわけであります。その後の出発並びに情勢につきましては、種村証人証言と同じでございます。ただ私としましては、ナホトカに今度到着いたしまして乗船するまで、ウラヂオ地区のケー・ベー・ウーでございますか調査関係者の長でありますピヤノフ中佐が乗船するまで付いておりましたので、非常に危惧の念を持つておりました。幸い無事に乗船をさせて呉れました。尚、沿海州地区における思想運動、労働とか、本日の委員会におきまする項目、詳しいことを申上げたいことは若干ありますが、後に譲りまして、ただ遺憾に思いますことは、約二年間の沿海州生活中、私の無二の友達であり、又無二の援助者でありました津森中佐が、これは元第一方面軍の参謀でございますが、尚ハバロフスクに抑留されておりまして、当時草地大佐以下約十二、三名がウラジオ地区に、小林元彦憲兵少佐以下約十名、こういう人も残つておりますが、更に先般舞鶴におきまして、当局の方に申上げました約五、六千の邦人が、まだこの寒い零下三七度内外のシベリアに生活しておるにも拘わらず、早く帰して頂いた。又今申しました津森中佐が一緒に帰つて来れなくて、誠に証人としての責任も、一部十分にできない、資料を得られません。この点残念に思つている次第であります。以上で終ります。
  35. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 板垣証人
  36. 板垣正

    証人(板垣正君) 私の入ソ後の経歴について申上げます。私は昭和二十年の三月の終りに士官学校を卒業しまして、北鮮の咸興の側にあるところの教育飛行隊ここに行きました。ここで教育を受けておりまして、そのまま任官し、八月に停戦になつたわけであります。そうして輿南から艦に乗りましてポシェット、ここに行きました。ポシェットに一ケ月ぐらいおりました。それから汽車に乗りまして梯団を編成し、十二月の初め約一ケ月汽車に乗りましてキスネルという駅で降りました。キスネルで降りまして、それから八十キロ行軍をしてエラプカ収容所に行つたわけであります。エラプカ収容所に着いたのが一九四六年の一月一日であります。ここは将校ラーゲルでありまして、先程種村さんも言われましたが、あとから種村さんがラーダというところに一緒にここへ移つて来ました。多いときには一万近くの将校がおりました。それで私は一九四八年へ昭和二十三年の七月ここから移動しまして、ハバロフスクに行つたわけであります。それでそのとき大部分の者がそのまま帰国したわけでありますが、約二百七十名、これがハバロフスクで別に下車をしまして第十四分所に行きました。それで私は第十四分所において四十九年の十、一月頃までずつとそこにおりました。それで四十九年十一月十三日ダモイというわけで、その収容所から出発しまして、二十一分所に一回集結して梯団を編成して、ナホトカに来たわけであります。ナホトカにおいて約十日間おりましたが、再びハバロフスクに帰る、そういうこと、になりまして、約二十四名の同胞と共に再びハバロフスクに帰りました。そして今度十八分所におりました。それで十八分所に十二月二十八日までおりまして、再びそこを出発して二七一分所に集結して、今度無事に帰国いたしたわけであります。これが私の簡単な在ソ中の経歴でありましで、本日証人としてここにお呼びを頂きましたけれども、向うにおける同胞の具体的な数について、これを自分が掴んでいないために、具体的にこれを証人として皆さんの前に御報告するということが、自分としてその御期待に答えることができない。そういう点において非常に申訳ないと思つております。併しながら私としまして、飽くまでさつきの誓約がありましたように、あちらにおける本当の生活というものを伝えるという意味におきまして、私自身非常に口幅つたいような言い方でありますけれども、どこまでも誠実に、自分の良心を偽らないで今までやつて参りました。それで曾ての陛下の赤子であるところの士官学校出身の板垣正が、更に第九戦犯として処刑されたところの曾ての陸軍大将であるところの板垣征四郎の息子であるところの板垣正がどういう人間か、シベリアの生活を通じて現在思想変革をした。こういうところから自分自身の偽らない気持ち、自分自身が飽くまでも偽らないでやつて来た。そういう自分自身の姿の中からシベリアにおけるところの生活を少しでも分つて頂きたいという気持ちで一杯であります。それで現在ソ同盟という国は非常に恐しい国である、そういうような感じを非常に強くしております。又引揚問題にしましても、このことによつて非常に向うにおいて非人道的な、例えばこの人民裁判であるとか、又酷寒の地において非常な苦しみをしておる。そういう確かに苦しい生活ではありましたけれども、單なる苦しみ、そういうものではなくして、もつともつとここにソ同盟における生活というものの中に、これ垂直に、この生活というものの真実ということを伝える。私自身反動としていわゆる人民裁判というものを受けました。又とにかくそういう経験の中からいろいろな具体的な状況とか、全般の状況ということについてお答えできないということは非常に申訳ないと思つておりますが、ただの私自身の姿の中から、私自身の本当に偏りのない言葉の中から、ソ同盟における生活というものを、軍にこれは一部ではなくして、ソ同盟における大部分の人の生活というものはどういうものであつたか、どういう気持で生活をしたかということを少しでも汲取つて頂きたいという、そういう気持であります。終ります。
  37. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 内山証人
  38. 内山明

    証人(内山明君) 委員長並びに各委員に対して内山証人発言します。入ソ状況並びに入ソ後の行動について簡單に申上げます。  自分は第八国境守備隊黒河八四部隊に入隊しました。この黒河八四部隊は四十五年の七月に国境を撤退し、ここに装置しておりましたところの武装、それから兵器、弾薬、これを後方に下げまして、第二戰、つまり都市防衛という名目の下にチチハルまで行軍で下りました。チチハルに下つたと同時に開戰が行われ、このとき我が連隊は三個大隊編成であり、この外に二兵隊、野戰重砲隊を加えて、三個大隊を三つに分けて一個大隊で一個師団を編成し、その編成状態は七月の在満召集兵でありまして、まだ兵隊としての訓練をされていないところの補充兵であります。その状況で開戰しまして、開戰当時の武装というものは甚だ拙劣であるし、弾薬もまちまちであり、兵士、兵器も十分でないし、更に急造だけは多くありましたので、各人はこれを持つてハルピンに行き、ハルピンの後方に陣地を構築しておる途中において停戰の命令が来たわけであります。このときに関東軍司令部は、この停戰の詔勅に対して、関東軍としては飽くまでも戰うという命令が来たという、自分は一等兵でありますから確実なところは分りませんが、そういう兵隊間の噂で行動を開始しました。汽車に乗つて前線に向い、飽くまで戦うという名目の下に列車に乗り、三果樹で列車が停り、結局は郊外に退くという状況の下に停戦の武装解除を受けたわけであります。それから海林に行軍して行きまして、海林において遠藤大尉を長とするところの一千名で百四大隊を編成しました。そうして百四大隊は九月の十五日牡丹江で乗車しでウオロシロフ、ハバロフスク、これを経由いたしましてイスベストコーバヤに入り、このイスベストコーバヤの町にありますところの収容所、これは後でなくなりましたので、その収容所名は分りませんが、ここに落着きまして、ここに約一ヶ月おりました。その一ヶ月の終り頃、つまり二十七、八日頃に憲兵隊の曹長、名前は忘れましたが、彼らのグループは拳銃を持つておるという話でありました。彼らは食糧を貯えて逃亡しました。小隊長が八名全部逃亡した。そのために厳重な監視の下に置かれました。更にこれから奥地、二百キロ程奥地、これに自動車で輸送されまして、ここの收容所に入つたわけであります。ここの収容所に行きましたときは八百名でありましたが、体の弱い者二百名はイスベストコーバヤに送られ、あと六百名は奥地に入つた。ここの仕事は伐採でありました。併しこの間において環境に慣れないのと、敗戰によるところの失望落胆、無希望、無気力こういう状態に置かれました。更にそれに加えて軍隊的の機構、天皇制、フアシズムの軍隊機構そのままが持込まれ、ここでは公然として制裁が行われ、更に食糧問題に至つては非常な歪曲が行われ、人間に奉仕しなければならないところの医者である軍医大尉が診療を拒否するというような態度に出たのであります。従つて病人で作業に出るというような状況もここで起きました。ここで非常に衰弱者を出したので、ソ連側は体の弱い人達を急に措置するために岡大隊を編成しまして、ここに体の弱い者が集まつて作業を止めて休養する方策がとられた。自分は特長者であるので、四十六年の四月にイズストコーバヤに送られまして、ここの工場に勤めることになりました。ここでもやはり軍隊そのままが持込まれておりました。イスベストコーバヤで反軍闘争が起りました。それから四十八年九月までここにおりまして、九月二十八日にハバロフスクに行き、ハバロフスクの七分所に約一年間おりまして、四十九年十月二十三日に帰還命令を受けて、帰る途中病気になり、ナホトカの病院に入院しまして、そこに一ケ月おりまして、十二月二日退院してナホトカの四分所におりました。私の入ソ状況並びに入ソ後における行動は以上の通りであります。それでここに出されております全般的な問題に対しては、これはあと委員長からの指名によりまして証言を行いたいと考えます。
  39. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 高橋証人
  40. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) 自分は昭和二十年七月当時新京の市内で開業しておりましたが、七月七日召集されまして、延吉の六四部隊に召集され、七月十八日付を以て二百八十二連隊、当時開山屯にありました。そこへ行きました。戰鬪には何ら参加しておりません。同年八月二十一日に間島に捕虜として收容されまして、そこで軍医三十六名と一般兵三万六千人を収容して約三週間診療に当りました。九月上旬ポゼツトの北クラスキーに連れて行かれたのであります。当時自分は第十四大隊一千名の軍医として残りました。それから九月上旬列車に乗りまして第一地区即ち樺太の対岸ムーリ地区、十月十六日コムソモリスクの対岸ペアンより八十キロの地点の四十二収容所に収容されました。ここには四百九十八キロ、メートルの線路がありましこれが甚だしく荒廃しておつたために、当時関東軍から一部、大半は千島、樺太の兵、将校で、概数七万五千人と称せられておりました。ここは大密林地帯で濕地帯に蔽われておりまして、平地は全然ございません。人家もございません。僅にコムソモリスクの対岸ペアン、その沿線の中央都市ムーリ並びにその終末点ソーガワニー軍港並びにと言い事商業ございますが、それで收容所は三キロ置きぐらいに約三百人乃至五百人收容する收容所が点々としてありました。自分はそれから約三年半ばかりこの地区におりましたのでございますが、初めは軍医並びにときにはその収容所の隊長を兼ねておりました。こり地区は後から又時期がありましたら詳しく述べさして頂きますが、囚人地帯と申しままして、我我を監督したソ側の人間は殆んど現役の囚人であります。一部ドイツに捕虜になつた兵隊が営内の方の勤務をやつておりました。それで糧秣が甚だしく悪く、我々のすべての者が掠奪され、糧秣の不正が随分あつたのでございます。いつも自分はそういうことの関係ソ側と折衝しておりましたですが、ときたま四十七年の三月から、この地区におきましても民主運動が始まりました。自分は当時大衆の選挙によりまして宣伝部、文化部長というものに任命されましたが、捕虜における政治運動が将来如何なることになるかということを自分は想達しまして、これに参加しませんでした。自分がそういうふうなことをやつてつたのでは到底收容所は政治運動が高揚しないという目論見の下に、日本人の当時委員長であつた山田、ソ側の政治部員から自分は追放されまして、ムーリの二百十三隊に強制労働として自分は收容されたのでございます。それが四十七年の四月でございました。そこで二ヶ月強制労働をしまして、当時かようなことをやりましたのはシベリア全地区においてありましたので、第一地区においてはムーリ、コムソモリスクにおいては第十一収容所、ふようにあつたのでございます。これは私達が何ぼソ側の職員並びに憲兵隊の方に申入れましても、彼らは言を左右にして、我々は知らないのだ、お前達は日本人同志の問題によつてこういうふうになつたのだ。かようなことによつて何ら取調べも何にも受けないままに強制労働をさせれたのであります。将校の強制労働には三種類ありまして、一番悪いのが我々のいわゆる糧秣を減すことと作業時間の延長、これがAグループです。第二グループは糧秣はそのままであるが作業だけ強制的にやる。これが第二グループ、第三グループは、ただ收容所を追放して、将校懲罰大隊に入れた、こういうのであります。勿論第一級の我々は日本人捕虜収容所の中にありましても、特別に又そこに小さい二重柵を設けまして、そうしていわゆるストラフナヤッオーナー、懲罰隊というものによつて収容されたのであります。当時我々は二十八名でございました。かようにしましてその年の八月の末、それから間もなく、遠くない収容所二百六に将校懲罰隊から懲罰員が全部収容されました。これは間もなくコムソモリスクから入つた将校と合流しまして、当時千名入る予定でありましたですが、突然入院患者ができまして、八百名だけ帰つて二百名残したわけであります。これはあとから考えたことでございますが、結局意思の強い、そうして日本人らしい態度をとつた将校全部を集めて、これを速かに日本に帰し、あとのふらふら分子を残して民主運動を強要したことがあとで分つたのであります。自分はそのときに当然帰るべき人数にあつたのでございますが、当時ムーリというところの衛生課長が自分のところへ来まして、あれは間違いであつた。我々は実に申訳ないことをした。済まないがもう一度病院に帰つて呉れという話になりまして、私と一時間半に亘つて議論しましたのですが、どうしてもとにかくもう一度残つて呉れないかと余りに言われますので、然らば政治運動をやらないという條件の下に第千六百六十八、これはハバロフスク直轄の病院でございます。いわゆる第一地区における陸軍病院であります。そこへ自分は行きました。そこでその同志の別れるときの模様は、今ここの日本工業倶楽部におります我々がそのとき作つたマホルカグループというのがございます。その仲間の人と私は別れたのであります。当時我々はその懲罰隊に入つた人を以てマホルカグループというものを作りまして、現在では日本工業倶楽部の中にその会を作つております。理事をやつておりますのは真田茂雄という人であります。私はそれから病院に行きまして、当時日本人の医者が十七、八人、ソ連が十人くらいおりました。大体入院患者が千人常時おりました。この病院は地獄病院という名前があつたのであります。その関係ソ側のその衛生課長の人もその事情を知つておりました。自分は過去数回に亘つてこの病院に、行くように言われましたが、自分はとてもあの病院に勧めることはできないと言つて断わつていたが——事情止むを得ず行くことになりました。で君が行きましたのに丁度九月でありまして、その年の四十七年の末に、いわゆる冬季輸送ができないということを発表して輸送停止になりました。その停止になりますと同時に、いわゆる民主運動の変態的形態が現われて来たのであります。病院における変態的形態とはどういうものであるかと申しますと、それは時間がありましたら詳しく申上げたのでありますが、簡単に申しますれば、結局地区で養成したところの民主グループ員を以て組織しておりました。これを日本新聞社で、即ちハバロフスクにおいて養成したところの民主グループに以て代えんがために、実に悪逆無道極まるところの闘争を始めたのであります。病院内におきましては、我々医者に対して部屋を退散して患者と一緒に寝ろとか、労働を知らない医者が本当の大衆の病気を直す心理は分るものではない。お前達はよろしく薪を切れ。私は当時外科の主任とレントゲンの主任をしておりましたが、雑巾がけをしろ。更にかようなことだけではありませんで、患者に対しては、八度も九度もある肺炎患者を吊上げと称しまして、夜の十一時、十二時までも寝台の上に立たして置き、二十人、三十人の者が取り巻いてアジ、野次、あらゆる罵詈雑言をして病人を苦しめるのであります。これはいわゆる変態的民主運動の高揚期における彼らのやり方であつたのであります。自分は遂に、その病院においてそういうふうな不正のことを言いますときには、民主グループに言つても駄目なんです。お前は民主運動を妨害する以外の何者でもない。ソ側の方に行きますと、ただ一時それを止めるが、翌る日は又やつて知らない顔をしておる。飽くまでもこういうような形態におきまして、青年共産同盟負というものから、毎晩二十人なり三十八なりのものが私の部屋に来て罵詈雑言を浴びせる。私は如何にお前達が言つても俺は日本人の軍医である。たとえお前達が言つておるように白樺の肥しになつても、俺はお前達と行動を共にできない。かようなことになりまして、私はそこにオストロフスキー院長がおりましたが、私あとでハバロフスクで会いましたが、彼は後にハバロフスクの軍医部長の中佐になつておりました。この人と対談をしましたが、どうしても現在の状況から押して、君はソ側と一緒に行動をすることはできないらしい。然らば止むを得ないと言つて、自分も頑として応じなかつたから、結局そこの病院を追放されたわけであります。追放されました当時、そのコムソモレスクで前年残りました二百人の将校と、その外の地区に残りました将校を全部一ケ所に集めましたのが第一地区のこのムーリ、私が前年強制労働させられたところにあつたわけです。ここで約千名の将校が集結しました。そうしてここで又物凄い民主グループの変態的運動が始まりました。これがいわゆる彼らが言う草地一晩、いわゆる草地大佐がそのとき我々の方の最も上長官でありましたので、彼らはこう呼んでおりますが、これら百六十一名のものとその外のものと対峙した。勿論我々はなかなか、六月に約五百人程将校が帰りましたが、我々の方から帰つたのは二人か三人、それから六月、七月、八月と、こう順次に帰りましたが、段々帰る方に従つて我々の方のいわゆる政治運動をやらない人も帰りつつありましたが、なかなか向うのいわゆるダモイ、帰る人員に入れるのは慎重でありまして、例を言いますならば、私は四八年の七月と八月に二回ともその名簿に入つたのでございます。ところが衞門前に行きまして、リュックサックを背負つて参りまして一緒に衞門前に並んだ。すると高橋善雄と名前を呼んだ。そのとき何だか知らないが、お前帰れ、こういうふうにして残される。そのやり方ソ側では命令としてお前の方の分所から百人出せと、こう命令が来る。そうするとそのうちからソ側では大体人選して、将来の取調その外のことに関して差支えない者を百十人ばかり選ぶ。百十人ばかり選びまして、このうちの十人は日本人のいわゆる民主運動をやつている者にそれを示して、お前達の方から帰国させない者を十人オミットしろと、こういうことを言う。そういうふうなことを言われまして、それは民主グループでやりました。それで暮した者が私にはつきり白状したのですが、私は七月、八月と残されたのです。それから我々はいわゆる反動とし七の生活が、これから我々の苦難の道が続いたのであります。それからソーガワニー第一地区終点の港まで行きました。更に二十三年の末には、十月に川を渡りましてホルモリン地区即ち第五地区ですが、即ち第二番鉄道の近接点、この奥に、コムソモリスクから約二百三十キロ奥に連れて行かれました。ここではあらゆる迫害を受けました。当時草地大佐が薪で殴られて重傷を負つたこともございます。我々は変態的民主運動のためにあらゆる迫害を受けまして、ときにはソ側の人が発砲までして……そうしてその民主運動者のいわゆるスクラムを組んで我々を取巻いていじめるのですが、これを禁止するために発砲までした。当時のここにおきまする民主運動のソ側の政治部員である大尉、これも物凄いことを我我に言つたのであります。どういうことを言つたかと申しますと、日本人捕虜を全部赤化するのである。それでなければお前達は帰さない。或いは日本を赤化して、これを必ずソ同盟の第十七番目の支部に充てる。ありとあらゆる暴言を我々に加えたのであります。そうしてそこを我々は過ぎまして、勿論この間この二百三十八分所におきましては、我々が入浴するにつきましても、十日に一回の入浴に、僅かにこれくらいにこれくらいの大きさの罐詰の罐に湯を二杯入れる。或いは食事にしましても、何ら加工することなく、粥の中に塩「がれい」を投げて、それが地に落ちたものを又投げる。或いは薪にしましても、我々に全然薪を呉れず、我々はそのために営内にある根つこを掘つて、その薪を焚いて零下数十度の温度の中で過したこともございます。  そうしてその年の十二月ハバロフスクに行きました。そのときに第四分所に行きまして、ここに我々のいわゆる第四分所事件が起つたのであります。当時のここの所長はバルバーシ大尉といいまして、我々が将校捕虜規定を守つて生活しておる。その我々に対して、労働しないという理由で我々の同志十二名が重営倉に投げ込まれました。或いは兵と我々は居室が別になつております。その兵と我々の居室の別になつておる規定を無視して、我々を個々に分離して、そうして各個的に意思の弱い者からこれを落すという作戦の下に、民主グループと向うの政治部員と、そうして所長とが結託しまして、我々に分散の命令を下した。我々は捕虜規定に基いて飽くまでもこれを拒否しましたが、所長の命令によつて全部装具を担つて移転しました。その、ときは丁度猛吹雪の日で、ございまして、零下四十度、作業も勿論やつておらない日であります。我々は営庭に集められ、そうして各部屋に行けと言われましたが、我々は頭として応じなかつた。そうすると、彼らは七十数名の警戒兵を呼出しまして、打つ蹴る殴るで我々をそつちの方に追込んだのでございます。かような事件がございました。それから我々は又ハバロフスクにおいては各収容所に分散され、最後の十六分所に私がおりましたとき、私はいわゆる草地一味という人達から組長として選出せられておりましたが、この十六分所においても、あらゆる所長の迫害を受け、皆様も御存じの日本新聞におりました高山、これなども丁度その席に出席しておりましたが、一例を申しますと、それは十月の中旬でございます。ソ側の政治部員並びに所長、それから今言います高山、いわゆる十六分所の民主グループのおえら方、かような人が全部集まつておりまして、私を呼んで、所長から、おれはお前に命令する……我々は当時お互いは将校収容所であれば、やはり或る程度の作業をし、そうして自分達の健康を維持することが必要であるというので、自分は医者の見解に基いて、お互いに自由に基いた毎日の作業を良心的にやつてつたのであります。そのときに所長は、今日はどうしても一日作業をやれ、私が命令する。所長の命令を聞かないことが如何なる結果を招くであろうかということはお前は知つておるであろう、所長の命令をきかないことはソ連の内務省規則違反である、ソ連の内務省規則違反によつて勿論お前を処罰する、かように言う。で私は、作業はしません。で所長の命令を聞かないために内務省規則違反であるから、あなたが処罰すると言うのであつたら、これは止むを得ないから私は受けます。併し私はあなた方が捕虜に與えた唯一の憲法、捕虜取扱規定によつて、あなたの命令が如何に不当であるかということを直ちに申告し、逆にあなたを告訴します。かようなことになつて喧嘩になつたのであります。その点ソ連人というのは、外交的と言いますか、そういうふうに強圧を加えながら、じやもう一度帰つてお前のグループの者に聞いて見ろというので、私がグループの者に聞いて、そうしてその報告に行きますと、がらつと変りまして、一々分つた。もういいからお帰りなさいと非常に丁寧な言葉で言う。それは我々に真似のできない態度でありました。  かような待遇を受けながらやつて来たのでありますが、その後のやり方と言いますと、私は今お話ししました通り、一軍隊の予備員でございます。見習士官として入営した、軍隊は何も知らない。知らないどころか軍隊生活一ヶ月ちよつとしか知らない者でございます。而も山の中におりました。一箇連隊の本部におりました一見習士官でございます。それをいわゆる嫌がらせと言いますか、十一月になりまして、本部におきましては私を呼び出して、お前は細菌彈を知つておるだろう、こういうふうな取調が第一回、それは十一月二十八日、更に十二月十三日には七分所におきまして調査官の長某少佐が、お前は履歴をごまかしておる、かように言う。履歴をごまかしておるということを四年半にもなつて言うものはどういうことかと突つ込んだら何も言わない。更に十二月二十四日には、真夜中の二時頃全部叩き起こして、そうしてトラックに乗せまして、調査をする人員を集めるために各分所をずつと一廻りするのですから、二時間くらいかかる。そうして朝の四時頃調査本部に連れて行つて調査するわけです。十二月二十四日には又本部に連れて行かれまして、お前は何故に作業をしないのか、或いはお前は反動を率いて、そういう一つの思想的団体を持つておる、かようないわゆる本当の調査のためではなくて、私が過去においてとつて来た態度に対する嫌がらせ、かまうに考えるしかない方法を以て、どうかして落そう、かようにやりましたのです。この民主運動に対する形態につきましては、私はここの第三項目にあります反動分子の取扱上、このことにつきまして時間の許す限りこの席で説明させて頂きたいと、かくお願いする次第です。それは何となれば、過去我々の見たような態度をとつて来た人は、恐らく余りシベリアあたりでは開いておりませんし、又民主グループ並びにソ側の政治部員並びに職員(「議事進行」と呼ぶ者あり)我々にとつた態度は、これはよそでは見られなかつた思います。
  41. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 発言中ですが、相当時間が経過しておりますから、できるだけ要約して頂きまして、後程各委員から質問いたします際に、又御発言を願うことにいたします。
  42. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) 自分は大体以上の経過をとつて十二月末ナホトカに参りました次第です。終ります。
  43. 岡元義人

  44. 尾ノ上正男

    証人尾ノ上正男君) 私が経過しました土地の目立つた状況、そういうものを主として述べまして、細かなことはあとから御質問にお答えしたいと思います。  私は八月一日応召になりまして、新京の軽重隊に入りました、それまで私は新京にありました建国大学の教授をいたしておりました。担当は国際法並びに外交史であります。八月一日応召になりまして、果て終戦を迎えまして、九月一日捕虜として新京集成十四大隊と、いうものを千名編成いたしまして、ハルピン、北安、黒河、ブラゴエを超えて入ソいたしました。当時私は建国大学に教鞭をとります前に、ハルピン学院におりました。ハルピン学院の教授をいたしておりました。若干ロシア語を心得ておりましたので、自然ロシア語の通訳として終戰当時から入ソ後まで、暫くの期間しておりました。一九四五年十月十九日、これは中央アジア、ウズベック共和国の首府タシケント東方約百キロの地点にあるところの小さな炭鉱町でありますアングレンに入りました。で私はそのアングレンに約三年半おりました。そのアングレンという所は、今申上げましたように炭鉱がありまして、これは一九四三年ロシアにおけるところの主要炭田地域がドイツのために侵されて産出が減つたときに、これを急いで掘り始めましたものを、我々が入りまして、これを大々的に炭鉱としてやるというような目的のために集められたように思います。そして約三分の一の者が炭坑におきまして働き、約三分の一の者が露天掘の新設をやりました。あとの三分の一の者がこの炭鉱町ができるいわゆる土工建築作業をやりました。私は入りまして司令部の通訳をやつておりましたから、大体その当時の状況はよく知つておるのでありますが、どういう状況で、どういう人数が入りましたかということを簡單に申上げますと、十月の十八日、四五年であります。千名、十月の十九日千七戸五十名、十一月の十四日千六百名、十二月の二十四日千名、四六年の七月の中旬千名、これは北鮮から参りました。大体新京、奉天を中心にした歩兵大隊、軽重像、それから鞍山を中心にして編成された飛行場大隊約六千三百五十名程がそこに入りました。でこの土地で起きましたところの特別な現象と申しますものは、この十一月の十四日に入りました奉天の三十五、三十六大隊と称しましたものが、この中に憲兵が相当入つておるのであります。その憲兵の中にいわゆる新京の寛城子にありましたところの無線探査隊というものが、下士官並びに将校が相当数入つておりました。これがソ側に発覚することになりまして、無線探査隊と申しますのは、ソ連から満洲国内に入れます、無線機を以て諜報をする。これを捕えるために、こちらも無線機を以てその犯人を突きとめる。そしてそれを捕縛するという任務を持つた、いわゆる消極防諜の科学部隊であつたのでありますが、これがいわゆるスパイ、いわゆる積極的な諜報勤務だということで、私がおりまする三年半の間に、先ずそのときの部隊長である小松少佐が去り、中隊長が去り、四六年の三月を最後にいたしまして、この部隊の幹部将校、准尉、下士官、若干の兵を混えて四十数名の者が我々の前から姿を消しました。これはこういう工合に姿を消しました者についての消息を確実に捕まえる方法を我々は持つておりません。その後いろいろ情報を蒐集いたしますところによりますと、タシケントにおいて、いわゆる裁判に付して、主として二十五年の刑に処せられたということを聞きます。大体これは我々は肯定しております。それがその地において起りました特別な現象であります。  それからこれは後になりますが、四八年の十月に、この地区は六千五百名近、おりましたうちで、大体十一分の十の者が帰りました。私共を初めとし七約五百七十名の者が帰りました。その当時においてはウズベクスタン共和国にどれ程おりましたか、大体三万程おつたろうと私は推定するのでありますが、その地区に大体千五百各種その土地に残りました。四八年の十月の最後の期間を境としまして約千五百名程おりました。その千五百名のうち、千名を我々のおりましたアングレンに收容させ、ウズベクスタンの各地区から百名ずつ、或いは五十名ずつと集まつて参りました。ここで私はいわゆる噂に聞いておつた抑留者という一団と、四八年の十月に邂逅をいたしました。その抑留者は、主として関東州の行政官及び裁判官、それから満州の裁判官、行政官、協和会職員約百二十名であります。その中に北鮮の羅津でありましたか、羅津と聞いておりますが、オペレッター、無線士がおります。これが約六名、四八年の三月にやはりスパイ容疑を以てどこへか姿を消しました。君自身に関して申しますならば、私は四六年の七月二日から八月十三日まで、正式に逮捕状を発せられまして、勾引せられ、長い間苦しみを受け、ウズベクスタン共和国刑法六十六條並びに六十七條に関する罪の疑いによる、これは間諜並びに間諜補助罪であります。その理由は、科は昭和十八年の十二月に清洲国軍の陸軍大学ができました。そこの教官を創立当時から兼任いたしまして、その学校がスパイを養成した学校であるという嫌疑で、約四十何日坂調べを受けました。その年の状況は、大体そういうような状況であります。で私はその五百七十名と、最後に集まつて来た千名と、四九年の正月を迎え、その間四九年の一月から逐次、大体支障ないと思われる者をそこから百キロばかり西にありますところの大都会タシケントに漸次下しました。一回、二回、三回と五十名或いは百名という工合に、千名の者を分けて、しました。私は四九年の六月五日にタシケントに移りました。漸次アングレンから下つて来る者、こういう者を集めて六百名程になりました。四九年の九月には、大体アングレンに三百七十名、それからタシケント地区に残りの、千五百名から引きました千二百数十名という者が集まりました。アングレンには主として、さつき申しましたいわゆる無線探査像の寛城子の八六部隊、国境に勤務する憲兵、こういうような者、それから抑留者の大部分という者が残りました。四九年の九月の五日に新らしく命令が出まして、帰還の態勢を整えるために、東方にあるところの中間集結地の集結をすべしという命令を受けまして、アングレン、タシケントに、約千五百名残つております中から九百名が編成をされて列車に乗りました。その列車はいわゆる囚人護送列車でありまして、貨車の小さな窓口も厳重に、二重に鉄格子が打つてあり、入口は二重の扉、二重の鍵で以て閉められ、進行中も絶対に開けられない。こういう事に乗りまして、我々はこれが到底帰還のための態勢を整えるための移動であるとは私共は思わなかつたわけであります。その顔ぶれというものは、いわゆる主として今申しました八六部隊、それからもう一つ言い忘れましたが、四班という憲兵の科学班、それから国境憲兵、一般憲兵、それから抑留者、それから反動的な言動を流布したという廉を以て残つておるような者達、或いは今日嫌疑は晴れておるけれども、曾ていろいろな取調べを受けた。こういうような者約九百名でありました。カラカンダという地区に八日間旅行しまして、九月の十二日に着きました。これは着きましてかち状況が分つたんでありますが、これはいわゆるシベリア地区におけるところのハバロフスクというものに大体当つておる場所でありました。いわゆるシベリアの以西のカザック或いはウズベクスタン共和国、ああいう方面の一番最高の指導者がおつて、ハバロフスクに従つておりますか、ハバロフスクと同一の地位にありますか、その辺のことは分り兼ねますが、要するにあの広い地区におけるところのハバロフスクに類するところの地位を持つた場所であつたということは分りました。我々ここに参りましたときに、約四千数百の日本人が尚働いておりました。毎月一回くらいずつ、千五百名くらいの編成で以て帰還の列車が出ておりました。私共は九百名が一つの收容所に入りまして、そこで再び全般的な厳格は取調べが始められました。そこで色分けをされまして、Aのグループというものが六百名、Bのグループが約百五十各程、Cのグループ約百名、ちよつと数は合いませんが、そういうような数に分けられまして、大体六百名というものが帰還の予定人員であるということが想像されました。それからBのグループというものが、これは主として満洲国の行政官、裁判官、それと関東州の行政官、裁判官、こういうようなものでありました。これはいわゆる帰還の予定者と、それからあとに述べますCのグループの間の中間にあるものであると推定されました。最後のグループと申しますものは、これはもうさつき申しました八六関係の下士官は全部残りました。それから憲兵の中で国境に勤務した者の下士官以上も全部残りました。それ協和会職員、これが加わりました。これは我々の推測するところによるというと、恐らく最悪の状況が予定される人間ではないか。私の友人も沢山入つておるのでありますが、そういうことを私達は心の中で痛みました。恐らくそこの地区にありますところの第十三ラーゲルというのが、軍事裁判所を附設したところの収容所でございます。そこに送られて、そうして裁判を受けるのではないかと想像され、又その名簿に入つた者もそれを覚悟しておりました。で、十一月の七日でありましたか、そのAのグループ、私は幸いにAのグループに入りました。そのAのグループに入りました六百名が、十一月の七日か八日だと思いましたが、それが十五分所に転属になりました。そのうちの約九割というものが、十一月の十二日の帰還の列車に乗りました。あとの人員、カラカンダ梯団と称するのでありますが、そのあとの四百数十名というものが、従来カラカンダにおつた人達を混えて、約千二十九名の編成を以てカラカンダを出発いたしました。そうして十一月の言十日の真夜中にナホトカに到着いたしまして、約五十日待機の後、高砂丸に乗船する運びになつたわけであります。で、私が立ちましたときに、大体カラカンダ地区に確実に残つてつた者、これが千二百名と推定されて、それから、これは確度が少し薄いのでありますが、脱走しようとして、そうして警戒兵を殺したという廉によつて、殺した者は勿論銃殺になつたそうでありますが、その者が属したところの二ヶ中隊が連帯懲罰を受けまして、これが四百名到着し、収容所において厳重な監視の下に作業をしておるということを開きました。又作業をしておるところで話をした者がある。したことがあるという兵隊の報告も受けておりますので、大体確実だと思いますが、四百名の者が、特別な懲罰に付されて、一ヶラーゲルを形成しておつたように思います。千六百名が残つております。ここで私が現認をしたのでありますが、このカラガンダ地区においては、シベリア地区を除くところの各地区、いわゆる戰犯という言葉は当らないのでありますが、ロシア式に申しますならば、戰犯と称する者が各地区から送られて、そうしてその十三ラーゲルに収容され、取調べを受け、起訴され、そうして刑に服するという経過を辿つたのでありますが、この中で私がハルピン学院で教えました教え子、並びにその友人の卒業生約三十数名の者が、やはりスパイ容疑者として十五年乃至二十五年の刑に服したということを聞きまして、私は実に何とも言えない感慨に堪えなかつたのでありますが、これはハルピン学院というのは、御承知の通りに東京外語、大阪天理外語と対立してロシア語を教えた学校であります。そのロシア語を学校で習い、而も卒業してロシア関係の仕事に属して偽つた者、例えば満鉄の調査部の北方班或いは電業の調査官、或いは電々の調査官、更に言うまでもなく軍隊における対ソ関係の仕事或いは特務機関とか、三四五部隊とか、こういうことに服しておつた者はもう無條件に、問題もなく拉致され、そうして審判を受け、そして刑に服して行つたようであります。これがタシケントにおいて見聞をいたしました、確認をしました特殊の現象であります。特殊の現象だけ申上げます。その他の一般現象に関しては、後程御質問を待つてお答えいたしたいと思います。終ります。
  45. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 有田浩吉証人
  46. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) 簡単に経過を申上げます。  私は二十年の八月二百に、新京第一陸軍病院よりハルピン第二陸軍病院長として赴任しまして、約三日後にいわゆる今度の敗戰になりまして、八月十五日に新京市内満洲赤十字の医学院の跡に待機し幸した。そのときに満軍の江上軍の叛乱によつて起き土負傷者約二百名並びにハルビン市内における患者の輸送業務をやりました。次いで九月の十日に海林の收容所に完全なる一個病院を以て移動して、ここにおける患者の診療に従事しました。十月の中旬再び牡丹江に移されまして、ここにおいて翌年の二月七日、自分がゲー・ペー・ウーによつて拘禁されるまで、病院長として病院を開設しておりました。この間の死亡者約二千名、詳しくは省きます。二月七日から約一月半拘禁されまして許され、元の収容所に帰り、同年四月十五日軍医二十名衛生下士官二十名を引率して入ソしました。入り後直ちに自分以下一名、二名が分離されましてノポニコリスク病院に連れて行かれ、ここで以て約半年自分は外科の診療、もう一名の佐々木大尉は伝染病棟において患者の診療に従事しました。自分は約半年の間において、治療において権利と義務が並行しない。いわゆる私がこのまま続行したならば、患者にますます不利をもたらすといつた見解の下に身を退きまして、同年の十一月ウオロシロフの第七分所に転属しました。この収容所においても営倉に十五日間入れられました翌二十二年の四月一日スーチヤンの将校収容所に、即ち第八分所、ここに各方面からのいわゆる反動将校と共に收容されました。同年九月二十四日、約五百名が帰国し、八十八名が分離せられ、同地区の第二分所、ここに移動、再び二十三年の二月五日、スーチヤンの八分所に移動しまして、ここで以て長命中佐の指揮する一行と合流、長命中佐が長になられました。同年七月三日、アルチヨムの収容所に移動しまして同年の確か十二月十二日、長命中佐、津森中佐がハバロフスクに行かれましたあと、篠原大佐が長になられまして、帰国するまでこの方が長であられました。二十四年の十月頃からは衣食住に対するソ側の態度は改善されました。ソ側のできるだけの誠意は認めます。十月以降の誠意を認めます。二十四年の十一月二十六日から十一月二十九日までウラジオの二分所におり、それよりナホトカに移動、帰国の順になります。現在細かいことはいろいろ忘れております。併しながら輸送が中絶されたならば、再び思い出せると思います。終ります。
  47. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 一時五十分まで一時間休憩いたします。    午後零時四十九分休憩    ——————————    午後二時十三分開会
  48. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 休憩前に引続き、委員会開会いたします。  先ず証人証言を求めます。その前に御報告いたすことがございます。只今高砂丸より無電が入りまして、六日会合点に到着引続きナホトカ入港、二、氷なし午後出航の見込。以上御報告いたして置きます。尚、先程来舞鶴警察署長宛調査を依頼していました今回の高砂丸における引揚者の暴行傷害事件についての詳細なる報告書が到着いたしました。各委員只今回覧いたします。尚、先程、昨年十一月二十六日引揚船山澄丸で帰還の途中行方不明となりました宮崎県宮崎郡佐土原町元陸軍一等兵恒吉好文の死体確認についての報告書も併せて到着いたしておりますので、特に現場の写真等も添附されておりますから只今回覧いたします。
  49. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今朝華中の送金小切手の問題につきまして、三名の証人をお呼びすることになつておりますが、その日時は決定しておりますか。その日時を御決定頂きたいと思います。十三日に御決定頂ければ好都合と思いますが、お諮りを願います。
  50. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 先程その日時は十三日とお諮りして決定しております。
  51. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 ああそうですか。
  52. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 午前中に引続き証人証言を求めます。事前に各委員にお諮りいたして置きますが、時間に制約されておりますので、先ず委員長から各証人に対しまして、お手許に配つてあります六項目の内容の中から重点的に質問いたしまして、その証人に対して各委員より更に質問をして頂く。かように取計いたいと思いますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  53. 岡元義人

    委員長岡元義人君) では、委員長から先ず種村証人にお伺いいたします。  証人は特に朝鮮軍参謀としておられたわけでありまして、終戦のときに朝鮮軍関係でいわゆる捕虜となつた数、及び入ソの状況をばこの際知つておられる範囲において御証言を求めますと共に、尚もう一点最近伝えられておりますところのソ連におきます細菌裁判について、北満鉄道買収関係、いわゆる細菌裁判の知つておられる範囲における実体と、北満鉄道買収関係調査に関する事項について証言を求めたいと思います。
  54. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) 申上げます。北鮮部隊の入ソ状況に関して、詳しい数字に関しましては、私朝鮮軍著任……京城ではたつた三日留つただけでございまして、全く申上げることがむしろ不正確を来す虞が多いので、ここで答弁をいたしかねる次第であります。  第二の細菌戦裁判に関しましては、私が実際見ましたこと、私が体験をいたしましたことを率直に申述べまして、最近ソ連政府が英米、中共政府に対して申入れた覚書等に関する私の所見を申上げたいと存じます。  第一、私は事実この細菌戰部隊に関しては久しく参謀本部におりましたけれども、承知をいたしておりませんでした。單に噂に過ぎませず、実体に関しては承知いたしておりませんでした。ところが私が参謀本部の部員であるということをソ側に申しましたのは、四七年、昭和二十二年の一月の十五日であります。それまでは私は参謀本部部員であるということを秘匿いたしておりました。それは私個人のいろいろの関係であります。爾後におきまして細菌戦部隊に関する質問が、エラブカにおきましても、モスコーにおきましても、ハバロフスクにおきましても、私に対する調査が再三ございました。エラブカにおきましては石井中将という方を聞いていること、及び防疫給水部という部隊もあつたけれども、その部隊が如何なる内面的な仕事をしておつたかということについては存ぜぬという範囲に答弁をしておりました。モスコーに次いで参りまするというと、東京即ち大本営と関東軍並びに七三一細菌戦部隊との関係、なかんずく大本営より如何なる命令が下されたかということが、私に対する調査の実体でありました。原則的に大本営と関東軍との間における重要なる事項を如何にして伝達するかということについて電報の取扱い、書類の取扱い等について詳細聞きました上、さて防疫給水部に関しては如何なる命令が下されたかという調査がございました。併し私は依然として防疫給水部に関しましては、その内容を存じませず、その略称でありますところの七三一という略号のごときもモスコーに行つて初めて知つたような次第でありまするので、私に対する根掘り葉掘りの訊問もソ側としては成功しなかつたようであります。引続いてハバロフスクに私が参りまして、先程申上げましたように十月の二十日に突然調査本部に招致せられました際、私に対する訊問は訊問でなくして、十二月近く行わるべき細菌戰裁判に対する証人としての言質を私から取ろうとするのが私に対する訊問でありました。調査でありました。そのソ側として私に狙つておりました点は、大本営と関東軍並びに防疫給水部との関係、なかんずく如何なる命令を如何なる時期に如何なる方法で下したかというのが依然として私に対する質問でありました。私はもうエラブカ以来の答解を繰返すのみでありましたが、三日間に亘りまして三回調査部長であるところのべトルス大尉その他係官の照査等、私に対する三回に亘りまして調査を受まけしたが、私の答弁に変化がありませんので、依然私は大本営と関東軍との関係に関しまして知らないものというまあ認定を得たものか、三日にして解放せられました。二十二日に第七分所という所に帰つたのであります。そういたしまするというと、第七分所には私に引続きまして、続々防疫給水部関係証人要員が調査本部で調査を受けては、その調査が終ると又どんどん第七分所に集結いたしまして、昨年十一月の一日か二日頃までに概ね百十五名ぐらいのいわゆる防疫給水部の裁判に関する証人要員が集まつたのであります。従つて今次の裁判に関する最後的調査の第一回に私が、いわゆる基本問題として大本営と関東軍との防疫給本部に関する取引きの命令の具体的事項を私が調査を受けたのであります。そして私の答弁は先程申上げた通りでありました。そうして革命記念日も過ぎまして、大体十一月の十三日になりまするというと、突然百十五名のうち三十五名を残しまして約八十名のものが証人としてのまあ価値のないものとして第十三分所という所へ移されました。残された約三十五名の防給関係裁判証人は、曾て防疫給水部で勤務し、又は防疫給水部に派遣せられて、そこで教育を受け、或いはその部隊に入営した者等防疫給水部の末梢における実体を殆んどまあ掴んでおり、やがてはその人らは犯人、いわゆる戦犯的行為としてみなさるべき方々が約三十五名残つたのでありました。その方々が多分今次の十二月二十五日から二十八日までの間にハバロフスクで行われたというイズベスチヤによつて報道せられております細菌戦裁判において証人として出席せられたのであろうと私は判断しております。私共はハバロフスクを十二月二十九日に出発した後、第七分所に証人の要員としておつたうちから二三の方が河野信勝大佐、小川信五郎大佐等が第二十七分所というハバロフスクの最後の集結地でございます所に帰つて来たということを、後程ナホトカに追及して来た者から私共は承知しておりました。私が直接聞いた問題ではありませんけれどもそういう評判でありました。いづれにしろ七分所に残りました三十五名の者の主力が裁判証人として加えられたのであろうと思います。裁判に関しましては、十二月二十五日、二十六日、二十七日のイズベスチヤに詳しく発表せられまして、それを私共の二十一分所では、ソ側の政治部員の説明付の下に極めて迅速にそのイズベスチヤが翻訳せられまして、全バラックに、各中隊ごとにこれが日本側のアクティブ若しくは宣伝部員によつて全員にその事項が伝達せられました。三回に亘つて私共はその宣伝を、イズベスチヤに関する発表並びにイズベスチヤの論説をも含めて我々は聞きました。そのときの大体ソ側の発表の中に、私が秘かに聞いておりました、開いて記憶に絶対間違いないということは、あの検事の論告文が大本営と、又は天皇と関東軍との関係等に関して極めて曖昧であつたということを記憶いたしております。そうして詳細に書かれたのは、防疫給水部隊の個々のやつたことにつきましては、将校、兵卒、軍属等の自白に基きまして、相当詳しく新聞に具体的な数字で発表せられておりました。そのときの中央との関係に関しましては、確かにこういうふうにあつたと思つております。被告川島の陳述するところによれば、関東軍防疫給水部は一九三四年頃と私は記憶いたしております。一九三四・五年頃天皇の命ずる所により関東軍に編成せられた。こういうふうに、ただ一言出ておつただけでありました。特にこのイズベスチヤの発表と共に、これはこの事実を日本へ帰つた後いわゆる石井部隊長以下を国民裁判に付して、この戰犯的事項を大々的に国内に宣伝すること、並びにこの細菌戰部隊の根幹は天皇にあるのだ。最大の犯人は天皇であるというふうに教えられて、皆に教育しておつたようでありました。私はそれだけの事実を承知いたして今度帰つて来た次第であります。ところが先般私は郷里におりますると、三日か四日の新聞にソ側から米英、中共の政府に対しまして、細菌戰部隊に関する覚書が出されたようにありました。その覚書を今朝東京の新聞によつて承知いたして見ますと、やはり中央と関東軍との関係がはつきり示されてないということが明らかになりました。それを見ますと、結局これを証言しておられるのは関東軍の軍医部長であるところの梶塚中将と、第一方面軍の軍医部長であつたところの川島少将、両被告だけの証言によつてこの天皇と並びにこの細菌戰部隊との関係がはつきり証言によつてこういうふうに言うのだというふうに示されておるようであります。これによりまして、私は過去の陸軍における事情を比較的承知いたしておりますので申上げるのでありますが、凡そ部隊を編成いたしますときには、旧憲法の第十二條に基きます天皇の編制大権に基きまして、陸海軍大臣がこれを輔翼し奉りまして、軍令というものが出され、これによつていわゆる部隊の編成が決められるのであります。従いまして、その決められるものの内容は部隊の編成でありまして、その石井部隊も秘密的な任務であるところのいわゆる細菌戦準備というようなことが若し事実であつたとしても、天皇によつて認可せられるところの軍令、それは内閣総理大臣の連帯を要するものでございます。従いまして私はそういう内容が示されるようなことは絶対にないと思います。そこで又第二といたしまして、然らば如何にして示されるかと申しますれば、事実こういう謀略的行為に関しましては、当時の陸軍大臣と参謀総長の独断に基きまして、そうしてその部隊に対して任命せられるのでありまして、天皇がこれに対して御存じになつておられたとかいうようなことは先ず私は過去の軍隊のやり来たりから承知しておりまして、絶対にないものと私は存じます。従いまして、又ここに梶塚中将、或いは川島少将が見たというのは結局軍令機陸甲といういわゆる軍令の書類を、即ち編成命令を恐らく両官は見られたものと思います。これは部外に対しては軍事機密でございまするが、大凡部隊の編成に関係のあるものに対してはこれは軍事機密ではありまするが、参謀部にも編成を受ける人達にも配付されるのであります。これは川島少将及び梶塚中将が承知せられることは御尤もでありますが、その任務の実体並びにいわゆる謀略的命令というものが下だされて、それがこの機陸甲並びにこれが内閣総理大臣の連帯を要するこのものに署名されるようなことは絶対ないものと存ずるのであります。いろいろ天皇が細菌戦準備を命令したかのごとソ側の各政府に対する通告文に現われることは、現実の問題といたしまして私はそういう意味において事実上なかつたものと私自身は判定します。このハバロフスクにおける細菌戦裁判において一番具体的事実の欠けておることは、中央なかんずく天皇と関東軍との関係がはつきりしていなかつたことであります。それに対して一番訊問の中心に当つておりましたのは私でありましたから、その辺の関係は私が責任を以て皆さんに申上げて、この際はその範囲において私の信ずるところを皆さんに御承知をして頂きたいとこう思うものであります。  次いで第二の北鉄問題に関しましては、私がモスコーに参りましたのは二十二年の十二月三日でありまして、そのときには北鉄のいわゆる裁判の行われる場合の証人要員として元陸軍少将坂間訓一氏がおられました。この方は曾て綏芬河の大尉時代に、満洲事変勃発当時に綏芬河の特務機関長をしておられたものであります。その後ハバロフスクに送られ、ハバロフスクにおいて長期の刑を受けて、目下終身ラーゲルにおいて服役しておられます。この方はモスコーにおられます。その他恐らく今彼の地におられまして帰還の好運に浴し得ない立場の方が数名おられまして、その名前は野崎君、これは静岡県の方であります。元憲兵あがりの方でありましで、満洲国の公主嶺の県の警察部長のような仕事を最後にはしておられた方であります。本間君、この方は青森県出身の方であります。お名前等はつきり記憶いたしておりませんが、それらの方々がおられます。ところが私共は二十三年の二月の初めでございました。イズベスチヤに東京裁判ソ側から提出したところのいわゆる北鉄問題並びに細菌戰問題に関する戰犯追及の告訴事件が、裁判長によつて却下せられたという意味をモスコーのイズベスチヤによつて我々は見ました。それが発表せられると二、三日いたしまして、坂間少将を残しましたこの方々は私共の特別ラーゲルから分離せられまして、そうしてモスコーのいわゆる七〇二七の第二ラーゲルに移されております。爾後戰犯の方々はハバロフスクに転送せられまして、それぞれ刑を受けられ、或いは未だに刑を受けないけれども、ハバロフスクに残つておられるという方々ばかりであります。私が北鉄問題に関しましては、実際承知いたしておるのはこの範囲であります。以上申述べましたことにつきました御質問が、ございましたならばお答えいたします。
  55. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと委員長から補足して置きますが、朝鮮軍関係の入ソ状況は適確な数は分らないが、大体において知つておられる範囲において述べられたら述べて頂きたいと思います。
  56. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) これは甚だ無責任な数字になることをお許し願いたいと思います。大体北鮮部隊に殆んど南鮮関係に終戦と同時に逃亡的に、或いは解散して南鮮に走つたという部隊は比較的少なかつたと思います。従いまして、北鮮に勤務しておつた部隊は概ねとにかく入ソした、中央でその当時握つておる数字は概ね入ソした、こういうふうに見て差支えないと思います。現に羅南附近の部隊だけで将校が約三百五十名私共と一緒に行動いたしました。その他労働大隊としてどれだけのものが行動したかということにつきましては、私はよく存じません。成興と平壌方面におきましては、将校だけで関東軍から朝鮮軍に逃げて来た者は、又ソ軍の手に捕まつたというものもございますが、将校だけでいわゆる平壤附近と北鮮の成興附近のものを合計いたしまして、概ね二千五百名のものは入りいたしております。その梯団長は花井京之助大佐が指揮をいたしまして、ちよつと間違いました。花井京之助大佐の指揮する二千五百名、それと大橋健一大佐の指揮せられるところの、約千五百名、合計四千名ぐらいの将校がいわゆる関東軍から流れて来たもの、平壌附近並びに成興附近のものが二つの梯団になりまして、花井京之助大佐の部隊はボゼツトを経てエラブカ、大橋大佐の部隊はボシェットを経てラーダーに到着いたしまして我々と合流いたしました両方面とも一般労働大隊にどれだけのものが行つたかという詳しい数字に関しては、私ちよつと申上げる資料を持つておりません。
  57. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 各委員に御質問が、ございましたら、御発言願います。
  58. 北條秀一

    北條秀一君 種村証人は先程の証言の冒頭に、自分は戰犯者であり且つ追放者であつて、本日の会に証人として出ることは云々ということを言われたが、戰犯者であるということはどういう意味であるか十分に理解できませんので、改めてお尋ねするのですが、種村証人が自分が戰犯者であるということを言われたということは、在ソ中にソ側から戰犯者として扱われたのか、或いは種村氏自身が自分は戰犯者として自覚されているのか、もう一つは戰犯者に該当するようなことを軍の参謀として軍隊にある間に行なつたというのか。この三つの点についてどういうことなのか、はつきりして頂きたいのですが。
  59. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) それはソ連におきます間は、私は満洲並びに朝鮮におきまして何ら勤務した経歴を持つておりません。ソ側から私に戦犯者として扱うことにありませんでした。私が軍隊に勤務いたしておりまする間、戦犯としての行動をする機会もありませんし、私は昭和十四年以来ずつと参謀本部におりましたから、自分としては直接戰犯としての、いわゆる第一線における戰犯としては私としての記憶はありません。併しながら私は罰のあるなしに拘わらず戰争前後を通じまして、長く参謀本部に勤務いたしておりまする以上、国民の皆様に対しまして、戦後の今日の事態にいたりましたことにつきまして、私は心から反省いたしまして、みずから、他人から戰犯と言われなくても、自分の今日の地位は戰犯としての自分が自覚を持たざるを得ない私の心境であります。そういう意味におきまして私が申した次第であります。
  60. 北條秀一

    北條秀一君 種村さんが在ソ中、もうすでに四年の経過をしたわけでありますが、その間に実際にあなたが確認された死亡者、こういうものははつきりと覚えておられるところでどのくらいになるか、お分りになりましたらそれを知らして頂きたい。
  61. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) この数字に関しましては、先程の北鮮関係と同じように分りませんというのが結論でございまして、けれども私は先般上陸をする直前にU・Pの通信社並びにロイターの通信社が私を取り囲みまして聞いたことは、その点が重点でありました。その際私は如何に最小限に見積つても入ソ後大体十万の日本人が死んでおるのではないかと、こういうことを答えました。その他の各誰に聞きましても、私のその大体の概数に関しまして不同意を答える戰友諸君はなかつたようであります。先般対日理事会で発表せられました三十八万という数字とソ軍ソ側で発表せられた九万五千の差違が殆んど約二十万でございますが、そうすれば最大限約二十万が死んでおるのではないかと、こういうお問いがありますかも知れませんが、最大限どれだけの人間が死んだかということはもうおのおの皆様の考えよう次第によつていろいろとあると思いますが、要するに私は現在ソ連に残つておられる方々はそう沢山な方じやございませんから、ところが日本には厳然として遺家族の方がいらつしやる以上、その数字の差は入ソ後死んだか、或いは入ソ前に死んだか、又は部隊は入ソしたが、入ソせずに中共地区、なかんずく満洲地区におつて非業の最後を遂げられたか、いずれかの点に属しておるのではないかと私は思うのであります。入ソ後どれだけ死んだかということにつきましては、大体最小限私は十万ではないかとこう思います。而もその死なれた数は、時期は大体入ソしました四十五年から四十六年の暮、四十七年の春頃までにその七、八割は亡くなつておられるのじやないか、もつと九割までも亡くなつておられるのじやないかというような気がいたします。これらに関しましては、全く結論は分りませんでございますが、私の感じを申したならば、そういう程度でございます。
  62. 北條秀一

    北條秀一君 先般の対日理事会におきまして、日本人の捕虜の待遇が非常に問題になつておるのでありますが、この点については私は長命証人に聞きますから、他の証人証言を求める時間の関係もありますので、お尋ねしました点だけを簡単に一つ御答え願いたいと思います。それはソ連に抑留されておる日本人捕虜が非人間的な、極端に言いますと、家畜よりも悪い待遇を受けたということが言われておるんでありますが、長命証人はこういうことについてどういう待遇を受けられたか、それを簡單に述べて頂きたいと思います。
  63. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと北條委員に……。先程打合してあります通り運営して行きたいと思います。一応後程……
  64. 天田勝正

    天田勝正君 種村証人に伺いますが、本日の時事新報にはあなたの語つた虜囚記が可なり詳しく出ております。その中でドイツ人捕虜或いはその他の国の捕虜と日本人捕虜との著しく違う点が述べられております。そこで、これに関連いたしまして、ドイツ人捕虜等は極めて朗かに捕虜期間中を過そうという点は分つたのでありますが、そこで日本人の中においては、日本人みずからの手によつて日本人をいわゆる吊し上げ、或いは旧軍隊制のままによつての暴虐と、こういうようなものがそれぞれ、あつたために、今お話になりました死亡又は衰弱、こういうふうなものが特に他国人の捕虜よりも余計にあつたと、こういう状態でありましようか、伺います。
  65. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) 私はモスコーに二年間おりまして、モスコーでは私らのラーゲルは全く労働のない特殊なラーゲルであります。隣りの日本人が千五百名、ドイツ人が千名おるラーゲルはこれは一般労働大隊で、相当厳しい労働の大隊でありました。その労働大隊におけるいわゆる民主運動の風景をドイツ人が見まして、そして私共のラーゲルに来て私に話した言葉が新聞に書いたような事情であります。私はハバロフスクへ来ましてからは、二、三ヶ月しか経ちませんし、一般労働大隊で私が労働いたしましたのは一月半にもならんのでございまするから、私がハバロフスクに、おける民主運動の最も甚しかつた当時の、一昨年の状況を科は現実に存じておりませんので、私がこれを証言いたしますることは少し僭越じやないかと、こう存するのであります、私はむしろドイツ人のやつ穴ところを見て、日本人の皆様に御参考に一つして頂きたいと、又これを実際見ましたのは、私以外今日帰つて来たものはおりませんので、私はまあ申上げた次第であります。
  66. 天田勝正

    天田勝正君 この新聞によりますると、あなたは可なりいろいろな新聞或いは報道が開き得るところのラーゲルにおられた、こういうふうに考えられますが、そこで先程来各証人が言われましたどこかえ自分の眼の前から姿が消えた、こういうふうな証言をされておるわけでありますが、これはどこへ連れて行かれるにしましても、姿が消えたというのは、その後何らの報道も聞けなかつたと、こういうことではなかろうかと思うのですが、あなたのお聞きになつたいろいろの報道によつても、そうした戦犯がどう裁かれておるとか、或いはどういう容疑によつてかくかくの人員なり、数名がどこどこへやられたか、そういうようなものは全く聞き得なかつたかどうか。
  67. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) 甚だあそこにおきましては、多くの情報というものはドイツ人を介してしか入りません。けれども私が実際皆様に御報告したいのはお二人の方のことであります。一人は戰争中関東軍の長く参謀次長を勤務しておりました私の直接の上官でありました秦彦三郎中将の行方であります。これは二十一年の夏頃から行方不明になつておられたが、私がモスコーにおります時、二十三年の初めに、モスコーにありますプッツルカという監獄があります。これはソ連において第一であると共に世界においても第一と言われるくらい大きな監獄で、政治犯の入る監獄だそうであります。そこで二十二年の十二月の十日から約一週間秦彦三郎中将と起居を共にいたしておりましたドイツ人が許されて私共のラーゲルにやつて参りました。そうして日本人を捕えるが早いかその秦中将の状況を話して呉れました。非常にやつれて昔の面影はないそうでありますが、ジェネラルは身体が弱つておられるというので窓を拭き机の上を拭くこととし、寝台を動かし毎日掃除をすることを自分が担任をして、二人で仲よくやつて来た。私は英語は分るけれどもジェネラルはドイツ語が分らない。ジェネラルはロシア語が分るけれども私はロシア語が分らないので、手真似足真似でお互いに意思を疏通してやつて来た。こういうことを聞きました。これは御家族に対するところの最大のニュースとして、今度ここの御審問が終りましたならば、郷里に行きまして御報告しようと思つておることであります。第二の方は満洲国の参議府議長をし、曾て陸軍武官を勤められ、満洲事変勃発当時の関東軍参謀長を勤務しておられたところの、又二・二六に連坐してお罷めになられて、満洲国の協和会長も長くやつておられた橋本虎之助中将であります。この方が一昨年の九月の十八日にハバロフスク方面から送られまして、私のモスコーの特殊ラーゲルにおいでになられました。高血圧で相当悩んでおられたのでありますが、早速病院に入れてソ側としては保護いたしておりましだ。ラーゲルの中の医務室でございます。モスコーから中将の方が直接来られまして、橋本中将に対して三回ばかりの調査がございましたが、遂に一昨年の十一月の二十三日新嘗祭の日、雪がちらちらと降る寒い日に、中将はソ側からの出迎えによつて自動車でどちらかへ行かれました。もうお帰りかもうお帰りかと待つておるうちに、つい我々はこちらに出発したのであります。橋本中将は私が少尉任官当時の連隊長で、私としては最大の恩顧を受けた先輩でございましたので、この方についても本日か明日のうちにお宅に参上して御報告しようと、こう思つてつたところであります。その外の移動に関しては私は存じません。
  68. 千田正

    千田正君 種村証人にお伺いしますが、あなたが四九年の九月一日までモスコーの国際ラーゲルにおられましたが、更に引揚げられてハバロフスクに移られた。そのとき二名の人が残つた。この二名の人はどういうわけで残つたのであるか、その点を一つ伺います。
  69. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) 一名の方は小島徳夫と言いまして熊谷の方であります。舞鶴で早速世話係について調べたところ小島きくというお母さんが残つておられました。その方は事実のところ日本人自体も如何なる任務を持つておられるか分らないお方であります。我々自身も、昨年の五月以来半年起居を共にいたしておりましたが、本当にこの方が如何なる職務でおられたかよく分りません。相当ソ側調査をも手こずらしていたようであります。もう一人の方は岡山県津山の方で、これは池田という方であります。名前をどうしても思い出せないのでありますが、この方は海事の軍属として、そうして満洲方面、内蒙方面の諜報機関に勤務した一と疑われて、昨年五月頃ウラジオストックから直接モスコーに送られた方であります。先程の小島という方はチタから直接モスコーに来られました。お二人とも結局調査未了で、天体情報勤務関係じやないか。こういう疑いで御調査を受けておられるのだろうと思います。それ以上の……。その後お二人とも健康がよくありませんので、定めし二人は異国の地に飛び離れておられる寂しさというものは御想像する余りであります。
  70. 千田正

    千田正君 種村証人のおられたモスコー以外にこの近辺、いわゆる従来のソ連地区から引揚げて来られた方々は、大体シベリアを中心として来られた人達、或いは中央アジアにおいてもシベリアに近かつた方が多いのでありますけれども、あなたのように相当遠くモスコーの近辺におられた方は少いけれども、あなたの知れる範囲内でいろいろ遠くに、或いは恐らく内地の人達が想像も及ばない所において尚收容されておる者がおるかどうか。あなたが知つておられるならば明らかにして頂きたいと思います。
  71. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) 私が確かだと思うものは、カザリン地区に四、五十名のいわゆる刑を受けて決定囚として服務せられておる方があると思います。それは主として情報勤務者並びに一口に言えば特務機関関係の方・及び第一線軍師団の情報参謀、情報主任者等が多数含まれております。それは二十三年の六、七月から、二十四年の、昨年でございます。昨年の一月頃にかけまして、カザンにおいて百数十名の者が集結をして調査を受けて、その残りの約八、九十名の方がハバロフスクへ雇つて来ておられます。帰つて来られた方から直接私が伺つたところによりまして、大体間違いなくカザン地区に要するに四、五十名の刑を受けた方が服務しておられるということを言い得ると思います。モスコーではブッツルカで私の知つておるのは秦中将でありまするが、その他橋本中将も恐らくブッツルカに行つておられると思います。その他富永中将だとか、或いは櫻井少将とか、小松少将とか、相当いわゆる重要なる関東軍の情報関係に勤務しておられた方々で、行方のお分りにならない方々は大体モスコー方面に集まつておるのではないかと想像いたします。けれどもこれは想像でありまして、確言し得ないけれども、若干名はモスコーに入つておられるということは想像に難くないと思います。
  72. 北條秀一

    北條秀一君 特に種村証人及びその他の証人関係がありますので、この際申上げて置きたいのですが、ここで証言願いたいことは、委員長から冒頭に申されましたように、具体的に申しますと、ナホトカを出るまでの実態を述べて頂きたいと思うのです。これから日本に帰つてどうするとか、その外想像でまあこうだというようなことを言われますと時間がなくなりますので、その点を一つ御了解願いたいと思います。  先程私がソ連における捕虜の待遇について証言を求めたのでありますが、言い損じて長命証人と言いましたが、種村証人に聞こうと考えたのであります。その点について種村証人から、あなたが在ソ中における待遇について簡潔に証言して頂きたいと思います。
  73. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) 私の在ソ間における行動におきまするように、各地におきまして至当なる捕虜としての取扱いを受けて参りました。なかんずくモスコーにおきましては特殊のラーゲルといたしまして、他のラーゲルに見得られないような待遇を受けておりましたので、私が体験をした悪いところ等につきましては、今取上げて申す程のことはございません。ハバロフスク等におきましても、私が入ソ当時から比べますというと、ハバロフスクの一般ラーゲルにおきまする給與その他の関係は、私は非常に改善せられておつたものと考えます。
  74. 岡元義人

    委員長岡元義人君) では一応種村証人に対する質問はこれで打切つて置きます。一番最後に又総合的に質問ずるときにお尋ねすることといたしまして、(「異議なし」と呼ぶ者あり)次は長命証人にお伺いいたします。  先ず国際法とソ連の捕虜取扱いに関して証人が実際に見、又判断せられたことをば述べて頂きますのと。もう一つは前職関係者の、特に反動分子と、証人は一応ウランバートルからナホトカに出て来られ、そうして更に奥地へ行かれたその間におけるところの反動分子の取扱状態について述べて頂きたい。そうして関連しながらいわゆる民主化運動の実態、特に日本新聞の機構についてこの際証言を求めます。
  75. 長命稔

    証人(長命稔君) 申上げます。第一の問題、法規の問題であります。私は国際法そのものにつきましては、士官学校卒業以来一回ぐらいしか目を通したことがございませんので、確かな記憶は持つておりません。又今回終戰に伴いましてソ同盟で作りました取扱規則、これも掲示はしてありませんし、ソ同盟の官憲も我々に洩らしませんから存じません。併しながら過去の記憶から一、国際法というものの記憶から、又ウラジオ地区におりました頃に一緒に生活しておりました津森中佐以下の将校と、その中には幹部候補生ではありますが、大学を出た法律その他の政治方面に蘊蓄のある将校がおりましたので、そういう人の話を総合し、又その中から得た判断、推理、そういうものをソ側の官憲にそれとなく折りに触れての問答の間に洩れて来ます彼らの返答の中から、我々の考えている国際法規、取扱規則というものはこういうものであるなという確信を得た程度であります。又直接それを裏付けて呉れた大きな原因はウラジオ地区におりましたどきに、ウラジオの高級管理局勤務のカイダローフ中佐という人がおります。この人あたりは私的に、お前も日本の中佐である、私もソ同盟の中佐である、お前達のとつておる思想運動にも関係しない、労働にも関係しない、飽くまでも作戰本位の軍隊ではないが、未だに行政上の軍事捕虜として将校の地位をソ同盟も認めておる。お前達もその態度を堅持しておる、その態度は間違つていないのだということを彼が言つております。又ハバロフスクに移されてからも、あの地区のいわゆる十六地区の地区管理局長であるアサーチ少佐、これも私共の態度に対して何も抗議を言わないのみか、我々の態度に対して是認をし、首肯をしておる風から見ましても、彼らの高級将校が我々の態度を是認しておるということが我々の考えの確信を持つ重要な原因でありまして、それによつてこの二年間沿海州地区の生活を通して来たわけであります。それ以外に専門的に法規の研究もしたこともありませんし、又自分で勉強したこともありません。併しながらシベリアにおりましたいわゆる日本人で思想運動に携つておる人達は、我々より更に一歩進歩した国際法とか、捕虜取扱規則とか、そういうものを超越して真に日本人として生きて行くために思想運動にも加担もし、従つて労働にも進んで従事しておるのだということをたびたびアジプロにおいて聞かされたのであります。  次に第二の問題、反動、反動とは、これはシベリアにおきましてヴオルシェヴィキの指導、その他主義、主張に関係をしないとか、或いは反対をするとかいうものを引括めての言葉でありますが、反動とは凡そ右から見れば左が反動であり、左から見れば右が反動であります。従つて在ソ四年間の日本人軍事捕虜並びに抑留者、これが一応赤くなつた人も沢山おりますが、この中にも反動的素質を多分に持つておる人が沢山おつたことは明瞭であります。従つてその中におる人の一応グループの中に入りました中で、反動的色彩のものが普通の反動でありまして、私共のような一切政治運動にも思想運動にも加担をせず、又思想運動から関連しましたところの労働にも、国際法の保護によつてのみ我々の生存を保障されておる捕虜として当然やらんでもいい仕事なのでありますので、労働しなかつた。こういうことをシベリアの思想運動者から見ますと、我々のことを極反動と名称を付けておつたわけであります。従つて極反動はいろいろな代名詞によつて呼ばれまして、人権蹂躙的な罵言までも受け、或いは非道徳的な取扱いも受け、絶えず私共同志が闘争をして参りましたのも思想運動の内容には触れずに、いわゆる人間として、日本人としてお互いが助け合うて軍事捕虜若しくは抑留者という立場において相摩擦をし、相剋をするということは望ましくないじやないかというのが、いつでもグループの人との話題にはなつたのであります。併しながら何と申しましても、この公認の極反動には何かにつけて、衣食住及び作業、これらについて蔭にはソ同盟の政治部員或いは作業係り、或いは最近の一年間におきましては、思想や労働には関係のない調査官であるゲーぺーウーの将校までも我々にいろいろと嫌がらせをして参りましたのは事実であります。又そうかと言つてラーゲルによつては甚しく迫害を受けたという所はなかつたようにも聞いておりますが、場所によつては可なりひどい取扱いを受けた所が二三私の耳に残つております。前職者、これは種村証人も申述べました通り、情報関係将校或いは参謀、或いは特務機関、警察、ウラジオ地区におきましては僧侶、それから又中等学校以上の教員、いわゆる教育者、こういう者も一応前職者という名義の下にしつこい調査を受けておつた模様であります。  次にシベリアの反動分子に対する取扱、これは外蒙古に私がおります間丸二年でございますが、外蒙古は今朝ほども御報告申上げましたように日本新聞の影響が少かつた関係と、外蒙古の収容所司令官ソソロバルン少将以下が、お前達は思想運動がやりたかつたならば日本に帰つてやるべきである、捕虜の間はやつちやならん。という指示を與えたことも記憶しております。従つて直接思想運動のために蒙つた損害ということも外蒙古では聞いておりません。併し沿海州地区に入りましたとの二年間におきまして、直接極反動に対するソ側の態度、取扱い、それから又日本人側の思想運動者のやりつぷりというものをこの眼で、この耳で直接に見聞きいたしましたので、実は二十三年の二月までナホトカに約三月生活をしておりましたが、スーチャン、アルチヨム、あの方面に移されてから間もなく二十三年の三月十日、当時モスクワから来た観察官であるという話でございましたが、中佐が視察に参りました。そのときに私がいろいろ思想運動の偏向、誤謬というようなことを話をせいと言われたから申上げましたところが、書いて出せという指示を受けたので出したのが、第一回の沿海州地区における思想運動の誤謬並びに偏向を突いた意見書でございます。それによつて大部分のことは詳細書き盡し、更に又人名までも書いたわけなのでありましたが、それとその後スーチヤンにおりますときに、管理局に調査のために出頭を命ぜられ、ピアノフ中佐に申述べたこと。それから又その後アルチヨムの収容所において、収容所長並びに衛生官、軍医、これの高級者が参りましたので、そのときに書いて出した書類の内容は、病弱者、老齢者、不具の人、こういう人を何の故を以て四年も捕えて置くのか、ポツダム宣言にも速かに家郷に還せということがあるが、調査もせずにこんなに長らくの間置いといてどうするのだ、早く還して呉れというふうなことを書いて出したことがございますが、こんなのが引括められて、今度ナホトカから船に乗りまして始めて承知いたしたことでありますが、いわゆる内地で建白書というようなことで……、その内容は以上申上げたことがまとまつて伝わつたことと思います。誠に何も存じませんで、これ程反響を呼ぶとは私自身何も考えておりません次第でありました。これらも午前申上げましたように、津森中佐と合作でありまして、津森中佐も恐らくそんなつもりで私とした作業ではありませんのですが、定めしいずれ還られたときにはつきりされると思う次第であります。  捕われの軍事捕虜並びに抑留者の思想運動につきましては、我々に対する取扱い態度、これは大体すでに御承知のことと思いますから、ハバロフスクにおける最近のことを申上げます。ハバロフスク地区は将校收容所におりました関係で、不幸あの收容所の全員が思想運動に加担し、労働を歎願して従事しておつたのとは少し考えの違う将校が全部でありましたが、收容所長であるイワノフという少佐が比較的正しい少佐でありまして、我々に対して、反動とデモクラートと一緒におることは何かの点につけて不便であろうから、小さい部屋をお前達にやろうと思うが、その部屋がないからしばらく我慢しておれ。当時我々の同志が昨年の春三月頃までに十七名ばかり殖えました。併し部屋がないものでありますので、一般の人と共に起居をしておりましたが、食糧、又は将校としての取扱い、所外作業の強要、強制して来ること、或いは所内作業の一部の援助というようなことは全部我々の要求を入れて呉れまして、気持よくソ同盟側の官憲としては待遇して呉れたことを感謝しております。その後第七分所に二日ばかり調査のため参りましたが、ここでも別に申上げることはありません。第二十一分所、ここも別に申上げることはありません。ナホトカに昨年の末に到着しましたときに、はからずも二年前に別れたウラジオ地区のゲーぺーウー長官ピアノフ中佐が私を呼びまして、二年前のナホトカと、今お前が見るナホトカとどういうところが違うか、曾てはお前が書類を出したが、あの通り改善されておるかどうか、感想を言えという質問を受けました。非常に変つておる、ピアノフ中佐の努力、シュリンコフ中佐の努力、カイダローフ中佐の努力、ウラジオの高級管理局職員の努力を認めておるという旨を回答して置きました。でございますが、ナホトカの收容所は通過部隊のための、いわゆるダモイのための通過部隊の宿所でありまするので、長時日泊まるということがない関係と思いますが、水の点にしましても、或いは宿舎の点にしましても、或いは検疫所の入浴の設備にいたしましても、二年前とは何ら変つておりません。従つて非常な不便な思いをしております。ただ長くあすこにおらんものでありますから、帰還輸送に当りました日本人は、それ程深く感じてはおらんのでありますが、設備は何ら改善されておりません。併しこの二ケ年間の我々極反動に対するソ側の取扱いは、目立つて坂上げることは、ございませんけれども、デモクラートと気分において区分されておつたことは明らかであります。又それを利用して日本人側の衣食住に対するいろいろな嫌がらせというものは数々ございましたが、これは日本人同志のことでございますから、又別の機会に申上げます。以上。
  76. 天田勝正

    天田勝正君 長命証人に伺いますが、あなたはウランバートルにおられまして、特に部隊の長をしておられたので、そこにおりました各像の様子を多少御存じであろうと存じます。そこで国内において一番問題になりましたのは吉村像事件であります。お還りになつたばかしでありますから御存じないかも知れませんが、このことは單行本十三に出ておるくらいであります。そこであなたは吉村隊について知つておる点がございましたら、この際御証言頂きたいのでありますが、特に吉村氏に会つたことがあるかどうか。又その会つた結果、吉村隊の様子を聞かれておつたか、それに対して注意なり、注意にひとしい懇談をなさつたようなことがあるかどうか。或いは特に吉村像とあなた方の像との扱い方から発しまする死亡者に非常に差違が認められるというような点を御承知でありましたかどうか。御証言願いたいと思います。
  77. 長命稔

    証人(長命稔君) 申上げます。吉村大隊……、今朝程も申述べましたが、外蒙に入りました労働大隊の数は十二でございます。そのうちの吉村隊、これはウランバートルの町から西南方約二キロくらいの所の河の縁にありまして、鉄道、建築用の土台石を取りますこと、それから罐詰作業、こういうような一つの企業組合がありました。コンビナートとよく申して偽りました。そこの担任をしておつたのが吉村君であります。二十一年の三月頃吉村大隊ではこういうようなならず者がおつて、一般の兵士大衆を苦しめておるという噂さを聞きましたので、私はウランバートルの町におりましたので、一応彼に会いたく考えましたので、三遍ばかりその現場に行つたことがございますが、到頭目的を達しませんで、と申しますのは、棍棒組というようなものがおりまして、用心棒のようなものがおりまして、会わせて呉れませんでした。この棍棒組というのは結局新京の刑務所におりました者、或いは旅順におりました教化隊から終戰の結果出て来た者、こういうようなまあ少しならず者であります。これらがおりました関係で会わせて呉れないというので、在蒙間は到頭会えませんでした。ナホトカで初めて、二十二年の十月に彼の梯団が一番終いで参りましたが、そのときにナホトカの分所で会つただけであります。話をしたこともありません。ただ曾ての憲兵曹長であり、それが中尉を名乗つて在蒙間おつたということを知つておるだけであります。  尚、第二の問題の給與関係、二十二年の春頃から私は当時ウランバートルの中央附近に第一収容所というのがありまして、そこの長をやつておりましたのですが、所員約将校以下千七百名、そこへその収容所に吉村隊から、その他の部隊から転属希望者が非常に多くなつて参りまして、殊に病院から退院したものは是非第一収容所にやつて呉れということを懇願するような状況になつて参りました。その原因をいろいろ研究しましたのですが、結局は食事の問題であります。労働大隊の兵士大衆はとにかく食事というものに対してはもう第一でございますので、無理からん点でありますが、吉村君の大隊、その他の大隊に比べまして、私の大塚では幸い炊事係の今大阪におります久保という准尉がおりますが、それ以下の熱心な努力によつて、兵士大衆には評判のいい炊事であつた関係で、入院を了えて帰つて来るものが是非第一収容所の長命中佐の所へやつて呉れという者が非常に多くなつて、病院でも困つておるということを病院長であけましたが、元木軍医少佐からそういう話を聞きました。併しながら特別の料理を作つていたわけじやありませんで、蒙古側から貰うノルマの糧秣をうまく運営しただけであります。別に特別に加工をやつたわけではありませんが、炊事勤務員の熱心なやり方と、それから将校以下全員お互いに分け合つて仲良く食事をしたという点で不正が行われておらなかつた。そういうところがまあ違つただけで特別のことはやつておりません。但し伐採とか、或いは吉村君あたりの特別の所、或いは山の方の中で糧食の輸送に三日もかかるような所では、ノルマの糧食がそのまま山のラーゲルに着きませんので、途中で減る。減る原因はいろいろあるのでおりますが減る。又冬あたりは天候、地形、積雪、吹雪等のために自動車が動かなくなつて、三日ぐらい途中でえんこする。その結果月初めになつて糧食がなくなる。二日、三日の欠食というふうなことがままあつたのであります。そういう収容所では非常に困つたのは事実であります。私の大隊から百五十名の薪の伐採と、百名の建築用材の材木を取る組と二組出ておりましたが、三遍ばかりそういう経験を持つております。従つて糧秣輸送を一週間くらい前から準備して、蒙古側の政府の糧秣係を絶えず突ついておつたというのは覚えております。そういうラーゲル以外は特別に糧秣が悪かつたということはなかつたのであります。但し品種の点においては、これは一言申上げたいと思いますが、二十年の十一月末から入りまして約五ケ月、二十一年の四月頃までは小麦粉が主食であります。それが済んでから約三月半は小豆ばかりが主食であります。それが終りましてから約一月は大豆ばかりであります。二十一年の十月頃になりまして初めて米というものを貰いました。その米は籾であります。従つて作業員は作業から帰りまして、その籾を飯盒に入れたり或いは水筒に入れたり、当時地下足袋というものを持つておりましたが、地下足袋の底を合せて籾摺りをやる、これが大概二時間半ぐらい掛つております。この籾を貰つたのが約三週間、相当な苦痛な状態でありました。その後二十一年の年末頃から普通の米が入つて参りました。従つて二十二年には比較的順当な糧秣を貰いましたが、入りました一年間はそういうような苦痛を嘗めておりましたので、栄養失調あたりも先程種村証人からもありましたように、二十年の冬及び二十一年の冬に栄養上の患者が殖えたのもそれが一つの大きな原因であると思います。以上。
  78. 天田勝正

    天田勝正君 証言が足らなかつたのですが、それは吉村隊と比較した場合に、そうした待遇の差違というものによつて、特に吉村像の方が病人或いは死亡者が多かつたかどうか。こういうことをお聞きしたのでありますが……それからもう一つついでにこれはお伺いいたしますが、あなたが三度吉村に会いに行つたという話でありますが、こういう場合は隊長といたしますれば自由に出入りができたのか、或いは正当な手続を経て蒙古側の許可を得ておいでになつたのか。
  79. 長命稔

    証人(長命稔君) 順序上第二の問題から申します。一応蒙古側の承認を経て、将校か若しくは下士官が護衛して付いて参ります。併し当時私はウランバートルにおる十二ケ大隊の大隊長の中で先任でございましたので、収容所司令官も比較的便宜を図つて呉れました。終いには自由に町を歩く許可を受けております。従つてその中の一回は許可なしに吉村君の所に行つておりますが、到頭会えずに帰つております。  それから第一の問題の病人その他の死亡者の件でございます。これは的確に数字を掴んでおりませんが、私の大隊、又一般の在蒙の大隊に比べて吉村君の所が多かつたことは認めております。かるが故に意見具申をして見ようという気が起りましたので、彼を訪問しましたのですが、私は目的を達しませんで終つてしまいました。
  80. 千田正

    千田正君 長命証人にお伺いいたしますが、只今天田委員から聞かれた吉村隊のことでありますが、現在吉村隊長としての問題は裁判に係つておるのであります。昨年同じこの室におきまして、彼を喚問していろいろ証言を得たのでありますが、その最後の問題についていわゆる吉村隊長の証言から言えば、自分が隊員を処罰したのは当時の蒙古側の命令によつて処罰したのだ。一方他の証人は、命令はあつたであろうが、吉村隊長個人の権限の下に処罰したのである。こういう二つの証言の食い違いが現在裁判においても未だ決定せられないところの重大なる問題になつておるのであります。そこであなたは先程の証言の中で、昭和二十二年の十二月までウランバートルの労働大隊の指揮官としておられたのでありまするから、当時の状況からしまして、果して当時若しも隊員に処罰せられなければならない問題が起きたときには勝手に指揮官の立場において処罰ができたかどうか。或いは蒙古側の命令による以外には処罰ができなかつたかどうか。この点を御証言願いたいことと、先程大体あなたのおられた当時は、このウランバートルに入つて来た当時からおられたまでの間に犠牲者が大体一割強くらいおつたとのように御証言なされております。これが蒙古ばかりではなく、このソ連地区に抑留された人達の犠牲者の数が大体蒙古並みに一割強くらいの人達が犠牲者になつておるというふうにお考えになりますかどうか。その後のいわゆる蒙古を出られて入ソされてから後の各収容所その他から得た情報、或いはその他によつて大体一割くらいは普通であるか、或いは蒙古だけの問題が特に多かつたというふうに考えられるかどうか。その二点だけお伺いいたします。
  81. 長命稔

    証人(長命稔君) 第一の御質問、処罰の権限の問題、これは在蒙二年間私は一回も処罰をしたことがありません。又そういう機会にぶつかつたことはありません。併しながら私の大隊の中で五名だけ蒙古側の処罰を受けまして、重営倉に三日間行つたものが二人、五日間行つたものが一人、合計三人営倉に行つております。これは蒙古側の命令でありまして、内容は在蒙間の捕虜の規則を犯したということであります。一般の収容所におきましても、労働大隊長としては直接の罰権は蒙古側から受けておりませんでしたが、二、三の大隊ではまあ昔のようなことではありませんけれども、叱責、或いは食事を減らす、減食、こんなようなことは行われておつた大隊もあつたように聞いております。  第二の御質問、損害のパーセントの問題であります。外蒙に入りました約一万二千の将兵は二年間労働に従事して参りました。シベリアの方は丸四年半でありますが、大部分の者は三年乃至四年の生活をしております。従つて一応比較にはならん、期間的には年月の問題から申しますと比較にはなりませんが、入りました将兵の体力、或いは訓練の度、召集兵等の編成の関係、こういうことはシベリアも蒙古も同じことだつたろうと思います。尚又、シベリアは三年若しくは四年工ありまして、外蒙の方は丸二年でありますが、多く消耗いたしましたのは、気候、糧食、その他取扱者の不慣れというようなこと、或いは発疹チブスなんかの流行病というふうなものを考えて見ますと、大体二十年の冬から二十一年の春にかけて、それから又二十一年の秋から冬にかけて、この二時期が犠牲者を出した大体の期間だと判断いたします。この点は外蒙もジリリアも概ね同じでありまして、むしろ第三年目、第四年目、丁度私がシベリアに入りましたのが二十二年の暮でありますが、その後においては犠牲者の数はずつと減つておると思いますので、結論といたしましては、外蒙古の犠牲者の率から申してシベリアの犠牲者の数字を判断することは無理じやないかと考えております。従つて一割五分、一五%ぐらいのものは最小限あると考えております。尚スーチャン、アルチーム附近の炭鉱時代でありますが、あの附近にありましたときの直接君が見て参りました一月の統計、これらを思い合せて見ましても、一五%ぐらいのものは最小限あると今も考えております。
  82. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 外に質問でございませんでしたら、十分間休憩いたしたいと思いますが、御異議ありませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  83. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 十分間休憩いたします。    午後三時四十七分休憩    ——————————    午後四時十五分開会
  84. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 休憩前に引き続き委員会を再開いたします。
  85. 千田正

    千田正君 長命証人にさつきお尋ねしたのに附加えて、簡單でありますがちよつとだけお伺いしたい。蒙古において死亡された人達の大部分はいわゆる旧軍隊の兵に属する部類の人でありますか。それともその中に将校が相当おるのか、或いは一般の邦人でもこの労働大隊の中に編成されたために体力が或る程度続かなくなつて亡くなられたのか、その割合はどの程度のパーセンテージであるか。その点を御記憶がありましたならば、一応簡單でよろしうございますからお願い申上げます。
  86. 長命稔

    証人(長命稔君) 申上げます。今の御質問にお答えします関係上、遡つて一般の抑留者、軍人、軍属、これの内容をどんな人がどのくらい外蒙に入つたか、ということからお話しないと分りませんので附け加えます。労働大隊十二ケ大隊が外蒙に入りましたが、その中で私の大隊を例に取つて見ますれば、私の大塚は千五百名単位で編成させられましたが、その中の千百名は私の戰車連隊のものでございます。約百五十名が関東軍鳩育成所、公主嶺におりました鳩育成所、これがおりました。それからあと二百名ばかりの者がこれは飛行機製作所、当時やはり公主嶺におりました者でありまして、第十五勤務隊という名称でおりました。こういう飛行機製作所の職工、それから鳩育成所の軍属というふうなものが三分の一でございます、従つてふだんの訓練、体力の増進というようなことが思うように行かなかつた、又熱河省方面から入りました六ケ大隊の中には民団の人が大分おります。いわゆる抑留者であります。人数ははつきり細かく存じておりませんが、第一回に外蒙古の北端、国境から入りました直ぐの所に農場がありますが、そこへ四百人ぐらい入つていたように記憶しております。それからウランバートルの町の中には、道路局の直接管理を受けでおりました稻見という憲兵少佐、これは現在ウラジオの分所に憲兵なるが故にまだ残つております。その人が指揮した大隊が約六百ぐらいおつたと思います。その中には先般、終戰の直後鉄道大臣をやられました苫米地さんの甥の人、苫地米大尉も一括におりました。そういうような民団の人、軍人以外の軍属、こういう体の弱い人がおりましたので、そういう方が先に犠牲になられたように思います。尚これは入蒙しました当時、寒い土地でありまして、零下四十八度まで記憶しております。法律では、向うの取扱規則では、零下三十度以上は屋外の作業を停止されるような規定になつておりましたが、実際は実行されませずに、その気温の中で、而もイルクーツク方面から吹いて来る西北の風が冬中少くとも三メートルはございましたので、体感濃度六十度乃至七十度にはなつてつたと思います。この体感温度に対しまして、管理局に出頭しまして再三抗議を申込んだことも記憶しておりますが、気候の関係、糧食の関係、終戦当時までの軍属、地方の人、こういう体力のない人がおりましたので、初年度において非常な犠牲を拂つたと思います。伝染病関係で以て亡くなつたというのは、若干ありますが、東部シべリアにおりました大慶一のような悲惨な状況は、外蒙古では見られませんでした。尚、私が二十二年の十月の二十五日に蒙古政府から命令を新らしく貰つて、二個の病院を閉鎖し、患者約千名と健康大隊一ケ大隊を連れて帰還輸送に移りましたが、そのときに、ウランバートルの第一病院の裏に埋葬し、春秋のお彼岸のときには、院長元木少佐が主宰になつてお祭りをしておりました。その墓地には約八百の墓標が立つてつたのを記憶しております。東の方のホチヨロバルンという収容所がありますが、そこの收容所の裏に約四百の墓標の立つてつたことを見て知つております。従つて町の近所の犠牲者の墓は以上のような数でありますが、少し遠隔しますと、パイントメント、いわゆる興安北省に近い村の乗具子でありますが、パイントメントの近くのラーゲル、それから農場附近それからウランバートルの西の方約六百キロくらい離れた所に湖がありまして、そこで魚を獲つておるラーゲルがありましたが、そういう所、或いは東南方百五、六十キロ行きましたところの山の中の伐採をやつてつたラーゲル、そういう所には、病院まで犠牲者の亡骸を運ぶ手がなかつたので、ラーゲルの附近に埋葬したのが相当あると思います。それを合せまして約千三百くらいの犠牲者があつたと思います。
  87. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) 証言中間違つた証言をいたしましたので、発言をお願いいたしとうございます。
  88. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今種村証人から、先程の証言中に間違つた点があつたので訂正したいという発言がありましたが、発言を許すことに御異議でございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  89. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 御異議ないと認めます。
  90. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) 天皇の陸海軍編制大権に基きまして、陸軍大臣が輔翼し上奏御裁可を得るところの軍令機陸甲の内閣総理大臣の連署の上と申しましたのは、間違いでありまして、陸軍大臣が上奏御裁可を得た上、海軍大臣或いは内閣総理大臣に書類を以て連絡する意味であります。甚だ軽卒なことを申しまして、御訂正をお願い申上げます。
  91. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今種村証人から御発言がございましたが、法律第二百二十五号の第六條、第八條に従いまして、只今証言中を訂正することに御異議ありませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  92. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 御異議ないと認めます。そのように訂正いたします。丈は、先ず板垣証人証言を求めますが、あなたがエラブカの収容所におられる間に、エラブカの労働要求状況をどのようにされていたか、この一点と、もう一点は、あなたが先の証言中にも多少申しておられましたけれども、いわゆる共産党へ入党すると決心されるような動機と、現在帰還されてからの心境を証言願いたいと思います。
  93. 板垣正

    証人(板垣正君) エラブカにおきましては、大分前のことになるのではつきり記憶にありませんけれども、この作業というものは、いわゆる自活作業であります。自活作業というのは、収容所の生活のための伐採、薪を伐る、それから「いも」を作る農耕、そういうような面において作業をやつておりました。これは作業に出るとか出ないとか、いろいろな問題がありましたけれども、私の現在の心境として、当時のエラブカ收容所における雰囲気というものは、昔の天皇制軍隊、それをそのまま持つてつた形でありまして、そこにおける気持というものが当然反ソ的であり、そういう対立的な雰囲気の中にあつたと、そういう点からして、まあ強要されたというようなことは当時も考えませんでしたけれども、皆が積極的にやると、そういうような雰囲気にはなかつたということを自分も感じます。これは昔のことではつきり覚えておりませんから、二番目の御質問に対してお答えしたいと思います。  その前に、現在シベリアの民主運動についていろいろ言われておりますけれども、そして又、大体において非常にシベリアにおける生活というものが陰惨な生活であつたと、又その半面非常に同胞相食み人権を蹂躙したようなことが行われたと、そういうふうなことが今言われております。又そういうことを新聞にも書かれておるわけですが、現在自分がここで申上げますことは、これは私一人の感じじやなくして、同じくハバロフスクに生活をしたその大部分の人達が、殆んど全員がそういう気持になつてつたのであります。そうしてその人達の気持を私は代表して、その人達の本当に言いたいところを私は現在言うのであります。なぜならば、その人達は現在言いたいことが言えないというような状況に置かれておるし、又現在においてそういうことを言うことは余りこの御時勢に合わないと、こういうような点もあるのであります。併しながら、まあ余計なことは止めまして、とにかく決してシべリヤにおける生活というものは、一部のいわゆるアクチブとか民主グループ、そういうような一部の者が強権を発動して強制的にやらしたと、そういうものではなくして、シベリアにおける生活というものは、これは一つの反軍鬪争から入つて、最後に一応完成の形を見たという発展過程にある運動であります。これは大きくは現在の二つの対立した国際的ないろいろな関係というものも起つておりますし、決して一部の人間が單なる宣伝の尻馬に乘つて行われたというものではなくして、飽くまで全シベリアに捲起つたところの大きな愛国運動であつたということを、シベリアから帰還した者の、本当に誠実なる人達に代つて私はここに断言して憚らないのであります。私の個人の心境の変化も、この運動の過程の中において行われたのであります。私が一九四八年の七月にハバロフスクの十四分所に、二百七十名の旧将校の人達と一緒にこの収容所に行きました当時においては、私も勿論天皇護持論者であり、そういう信念を持つてつたのであります。そして当時は殆んど全員階級章をつけ、参謀肩章をつけ、昔の軍隊の殆んどそのままの雰囲気を持つておりました。そこで結局当時十四分所におつたのは約六十名の旧兵士であります。もつと前は沢山おつたんでありますけれども、その前の帰国、そういうものによつてその十四分所におつた者は僅か六十名くらいの旧兵士でおります。こういう人達が結局自分達に対して反動将校が来たとこういうわけで、そこで大きな、大したものではありませんけれども、そこにおいて鬪争が始まつたわけであります。それでここの生活におきましていわゆる吊上げです。人民裁判と今言われておりますけれども、そういう鬪争というものが行われて来たのであります。それで自分の経験によりますと二百七十名、これは勿論当時においてエラブカにおける生活、そういうものを通じてまだまだ反ソ的な気分を持つておるし、本当のそのままの姿というものを理解していないわけであります。ですから当然私もその民主運動に対しては反感を持つわけです。自分も何を言つておるか、赤にかぶれたやつ乙、そういう気持を多分に持つております。自分自身真先きになつて天皇護持を唱えたわけであります。当時二百七十名の将校がおりましたけれども、実際そういう雰囲気の中に入つた場合に堂々と、これはチンピラ英雄という気持かも知れませんが、堂々と天皇護持を唱えて本当に鬪争して行く、いわゆるまじめな行き方をした。そういう場合に直面した場合には、僅か十数名の者しか公然と天皇制護持は唱えなかつたわけであります。それでその外の人達は蔭の方ではぶつぶつ言つておるけれども、とにかくこういうところでは余り楯つくのはよくない、そういうような気持からぞろぞろと階級章を外して一応民主主義者になつていた。これが初めの形であります。そういう過程を経て、自分はやはり自分の性格としましても、ただそのまま引込むというわけにも行きません。それで当時極反動ということになつたのであります。それで吊上げというのは、何も縄を掛けて吊上げるのではなくして、これに対して旧兵士が囲んで、いろいろ言つて来るわけです。結局その言つて来る叫びの中に、自分は本当に曾つて資本主義社会において最も痛めつけられた者、貧しい家に育つてそれで本当に苦しんで来た者、本当に自分みずから労働し、虐げられて来た、苦しんで来た人達、又天皇制軍隊において本当に上官から、下士官から上靴、びんたをとられて本当に酷い目に遭つて来た、そういう人達が本当に目覚めて、自分達の本当に明るい搾取のない社会を作ろうと、そういう本当に真劍な気持からして、この叫びは、当時自分が持つておりましたところの、自分が本当に真劍に日本のことを考えておる、日本再建ということを本当に考えておりましたので、自分のこの気持というものが、結局天皇制と当時言われておつたところの大御心に帰一する、それにまつて本当に平和なアジアを作り、世界を作る、そういうことを皆考えておつたのでありますけれども、その考えというものは、何ら根拠のないいわゆる観念的なものであつたし、これを実際に現実の面から見れば、日本というものが、日本国家が、結局この敗戦の惨害によつて、現実の事実として人民大衆というものが本当に塗炭の苦しみに陷つておる、こういう矛盾からして自分の天皇制に対する気持というものも逐次変つてつたのであります。まあこういう心境の変化については、自分個人のことになりますので、敢えてそれを申上げる必要もないと思いますが、要するに自分としましては……勿論この民主運動にはいろいろな変化がありました。又誤つた行き方というものも、これは人間のやることですから当然あります。併しながら自分の心境としましては、そこに一点の混り気もないということです。本当に真劔に日本全勤労大衆の幸福な社会を作るということです。本当に世界の平和のためにやつて行こう、そう、いう本当に真劍な混り気のない運動であつたし、これに対して、この運動に参加するとかしないとかは、これは皆の勝手であります。勝手でありますけれども、自分としては飽くまで、殆んど全部のシベリアの人達をこれに包含したところの運動という、この根柢に流れておるところの真実というものは、決して我々が昔から教えられて来たロシアは謎の国、赤の国というものではなくして、本当にここに現在日増しに成長しつつあるところの社会主義陣営、これの根柢を流れる真実というものが、かくまで多くの大衆というものを結集し得たゆえんであると自分は思うのであります。それで今更ここでいわゆる人権を蹂躙されたとか、吊上げで非常に酷い目に遭つたとか、そういうことを持出して大きな問題にするということは、これはむしろ、いわゆる江戸の仇を長崎でというか、まあ大人気ないことであると自分は考えるのであります。それで如何にこの運動が全員を結集し得たものであるかという例としては、例えば私か、当時においてはすでに全員が入党しようと、集団入党しようと、そういう入党するということは当時の雰囲気としては当然の帰結であつて、更に自分達としては本当の共産党員になる、真の共産党員になるということが如何に真実なものであるか、真実を語るということを恐れないものであるか、そういう意味において本当の共産党員になるということは並大柢のことではない、そういう点まで行つてつたのであります。ですから現在の心境としましても、やはり飽くまでこの真実真実である、そう言う以外はないのでありますこれで終ります。
  94. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 各委員から何か御質問ございますか。
  95. 千田正

    千田正君 板垣証人に伺いますが、あなたは先程午前中の証言の中に、殆んどラーゲルにおいて、将校收容所におつて、十分外との接触がなかつたように考えられますが、今の共産主義そのものについての問題は別としまして、ソヴィエトの、ソ同盟のいわゆる社会の人達と付き合うような機会が與えられておつたかどうか。実際においてシベリア地区におけるところのソヴィエトの人民の、或いは階級のない人民の、現在のソヴィエトの人達との間に、どういうような交遊の下にあなたがソヴィエトの実態を把握することができたか、その点を証言して頂きたいと思います。
  96. 板垣正

    証人(板垣正君) 申上げます。エラブガにおりました当時は、私は通訳をやつておりまして、そういう関係で若干のロシア人と話す機会もありました。それからハバロフスクにおいても若干そういう機会には恵まれましたが、今言われました通り、飽くまでこれは鉄條網の中の生活でありまして、我々が全部ロシアを見て来たと、そういうことは言えないわけであります。又人によつてはいろいろな事実を見、事実を掴んで来ておられる人がおります。そういう人に比べれば、自分はいわゆる過去の事実というものに対しては暗い方であるということも言えると思います。併しながらこの事実と真実というものは飽くまで異なると、そういう見解を自分は持つておるのであります。けれどもソ同盟の真実と、この真実を本当に体得するにはどうすればいいかということは、これは狭い限られた俘虜生活の間から、一人々々の地方人に接するなり、そういうことによつていろいろなる事実を知るということも、これは一つの真実を知るということであると思いますけれども、やはりこの収容所なら收容所における生活、これはやはりボルシエビキなり、向うの政治部員の指導によつてその生活が行われるし、この意味においては、この社会主義社会というものが、社会主義社会の縮図というものが收容所の生活なんだから、結局その意味において、本当にまじめに真劍に考えてこの生活をやる、そういう生活の体験の中から自分が本当に勤労者の一人として作業をやり、更にいろいろなことを考える、そういう中からソ同盟の人達が、ソ同盟の本当に誠実な人達はどんな気持で現在労働をし、又どんな気持でいるかということは、自分自身が真剣な生活をやり、誠実な作業をやり、そういう中から自然に体得できるものであろうと自分は信ずるものであります。そういう意味において個々の、一つ一つの、勿論、現在のロシア人の中にもいろんな不平不満を持つておる者もおるでしよう。併しながら大きな立場から現在このソ同盟の根柢を流れているところの真実というもの、即ち自分達が收容所生活を通じて社会主義社会における人達はどういう気持で日々の生活をやり、どういうことをやつておるかということを考えた場合に、社会主義社会こそ本当に真の平和を願い、恵まれた本当の生活を建設する、平和的な建設、こういう気分というものが横溢している、本当に誠実なロシア人であるならば、こういう本当に建設的な労働というものに喜びを感じてやつている、そういうことは個々の事実に囚われるのではなくして、生活そのものの体験の中から自分が感じたことであつて、これには絶対に間違いはないということを、これは現在においても確信しておるものであります。そういう意味においていわゆる事実と真実とは違う。或る意味においては意思の弱い人は、意思の強い者は飽くまで日本人として誇りを持つてつたから、赤にかぶれなかつたとい人もあります。併しながらそういう意味における意思の強さというものが、果して本当に虚心坦懐な、無私の立場に立つた考え方つたかどうだつたかということに対して自分は疑問を持つものであります。終ります。
  97. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 板垣証人にお尋ねいたしますが、日本新聞等によつて、或いはその他の、あなたは通訳をされておつたというような関係で、若干外界との接触もあつたように今証言があつたのですが、大事の八が還つて来ますと、日本が船を寄越さないのだとか、或いは日本の政府が船を廻わさないのだというようなことを大半言われておる。証人は日本新聞等によつて、或いはその他の通訳をされた等によつて、そうした点を如何に思われたか。それから還つて来てソ連に対してどう思われたか、その今の思想がいいとか悪いとかいう問題でなくして簡單に一つ御証言を願いたい。
  98. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 板垣証人、要点だけお答を願いたい。
  99. 板垣正

    証人(板垣正君) はい。自分も船が来ないのは、日本人が寄越さないのであると、そういうことを信じでおりました。現在の心境としましては、引揚問題というものが非常に複雑な問題になつております。この真実という心のは軽々には分るものではないし、国際的な問題でありますから、これは本当のところはまだ誰にも分つていないの、じやないかとそういうふうに思います。
  100. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 重ねてお尋ねいたしますが、艦を寄越す寄越さんということに対しまして、あなたが向うでお聞きになつたこと、それは日本政府が寄越さんと思つてつたとこういう今御証言があつたのです。ところが還つて来られて果して日本政府が寄越さないのか、寄越すのがということに対してはどう思われますか。
  101. 板垣正

    証人(板垣正君) そのことに関しては今申上げたように、この問題は非常に複雑な問題である。事実この引揚問題というものが、非常に大きな問題になつておるし、速かにこの引揚をやりたい、やらなければならない。そういう全国民的なこの運動が行われております、この意味におきまして、この事実に関しては、この引揚問題に関して、本当に国を挙げてやつておるので、そういうことを認めます。(「議事進行」と呼ぶ者あり)
  102. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それはもうよろしい。証人に重ねてお尋ねしますが、証人はですね、ポツダム宣言の第九條という一項を承知されておるかどうか。
  103. 板垣正

    証人(板垣正君) 知つております。
  104. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それを知つておられれば、おのずから船を寄越すとか寄越さないということが今日においてははつきりされておるのだが、証人はどういうふうな心境でおられますかということについてお答え願いたい。
  105. 板垣正

    証人(板垣正君) 引揚問題にせよ、又いろいろな船の問題、そういう問題にしても、これはその問題一つ一つ勿論これは重大な問題でありますけれども、この一つ一つに神経を過敏にし、神経を尖らして非常にこういうことによつて冷静を失う、これは非常な危険なことであると思います。
  106. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 板垣証人に注意しますが、質問に対して、質問の要点に対してお答え願います。外に脱線しないようにして頂きたいと思います。
  107. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今日本側が船を廻わすとか、或いは連合国側が廻わすということは殆んどあり得ない、要するにソ側の方から連合国に通達があつて、その通達によつて、外務省は日本のを廻わす。そうした点を証人は現在どういうふうに了承されておられるか、どうか簡單にお答え願いたい。
  108. 板垣正

    証人(板垣正君) 自分は分らないという外はないのです。(「議事進行、次の証人に行つて下さい」と呼ぶ者あり)
  109. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次、内山証人にお伺いいたしますが、内山証人の帰つて来られるまでに日本新聞の機構はどのように変つたか。この点明らかにして頂きますのと、知つておられる範囲でいいです。尚責任者等は誰が現在やつでおるか。次、もう一点は、ナホトカの現在の収容所が以前と変つておるのか、設備が以前と変つて来たのか、その点証言願いたいと思います。
  110. 内山明

    証人(内山明君) 内山証言します。帰国までに日本新聞の機構がどう変つたか、或いは責任者がどうか、この問題に対しては、自分は証言できないのです。なぜならば、自分が日本新聞の状況を知らないし、日本新聞に関係していないものであります。だからこの機構がどう変つたか、或いは責任者が誰かという問題に対して、あと責任者が誰かという問題に対して証言できません。自分は十月に出発し、途中で病気になつて入院したものであります。その当時は日本新聞はまだそのままでありました。自分が入院途中に、日本新聞の相川春喜君外引揚げて来られたことは御存じのことでありますが、その後においてどう変つたか、誰がなつたかという問題は全然知りません。第二番の問題のナホトカの状況も以前と変つたかということも、自分はナホトカは十日に行つたのが初めてであります。そうして一分所に行つて、それから直ちに入院してあそこには二日しかおりません。入院して帰つて来たのは十二月であります。十二月に四分所に行つたのであります。だから前がどうであつたかということも、これは私はお答えできない。出されました二つの問題に対して、自分の証言は以上の通りであります。  更に自分が申上げたいのは、吉村像事件において非常にこれが全国的な……
  111. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 内山証人に申上げますが、只今立ちらから聞くことだけに御回答して下さい。
  112. 内山明

    証人(内山明君) 非常に重要な問題であるとさつき申上げましたから、証言いたしたいと思つております。
  113. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今の内山証人証言に対して各委員から質問がございますか。
  114. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 内山証人は十月の末にナホトカに来られた。然るに最終船といわれる信洋丸に乗られなかつた。そうしてこの一月の艦に乘つたということに対しては、あなたはどういうふうな状況であつたか、簡單にお答えを願いたいと思います。
  115. 内山明

    証人(内山明君) 内山証人発言します。さつき言いましたように、十月の三十一日にナホトカの病院に入院し、念性肺炎、これが軍隊で、二回起り、今度で三国目でありますので、非常に酷かつた。そのために二十五、六日間は寝たままで歩くことができませんでしたもそういう関係上、病気のために病院船待機となつたわけであります。終り。
  116. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 先程板垣証人に私が尋ねましたと同様に、あなたは向うでいろいろ日本新聞その他、閉鎖された後は知りませんが、艦の点について日本側が廻さなかつた、或いは米軍が廻さなかつたといつたようなふうなことを、一応帰つて来た人は皆言つておるんですが、現在はどうですか。あなた自身の……
  117. 内山明

    証人(内山明君) 発言します。自分達も向うにおるときはその事実というものを、つまり四九年の最終艦が出たあとにおいて、更に一万以上の人達があそこに集結しておつて、船が来ないために帰つております。その人達もありますし、我々と一緒に帰つた人もおりますが、そういろ事実もあります。それから月初めになつて、集結はずつと月初めも集結しておるのでありますが、船は十五六日以降にならないと入らないという状況、そういう状況を自分は知つております、それで日本政府が船を寄越さないということ、これは自分は正しいと考えておりました。こちらに帰つて来て見ますと、こちらの大体のいろいろの話を聞いて見ますと、ソ同盟側からの船の要求に応じてこちらが出るように、船が出るようにいつも十五六隻は待機しておるということをしばしば耳にしました。併し実際これが待機しておるかどうかという問題も、自分は知りません。見ていない。そういうわけでこの問題の解決というものは、自分達は両方のことを耳にしておるわけでありますが、その真相がどうであるかという問題、この問題は到底、我々は輸送その他について何らのことにも参加していないし、又知らないし、自分の意見を申上げることはできないのであります。
  118. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは次に進みまして高橋証人にお伺いしますが、先ず前職者及び反動分子と称せられる、そういう取扱及び摘発、そういう状況について証言を求めたいと思います。尚もう一点は入ソ直後のあなたの知つておられる範囲におけるところにおいての俘虜の死亡状況つて述べて頂きます。
  119. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) 申上げます。前職者、反動分子の取扱、摘発について、この私が入りましたのは、先程もちよつと入ソ当時の概略のときに申述べましたように、大体において軍隊、即ち地方民その他の抑留者が入つておりませんで、殆んど軍人ばかりであつたのであります。入ソした当時は別にこれというて変つたこともございませんでした。それからいわゆる運動が始まる、四七年の春頃から起りました。民主運動がぼつぼつ始まつたのでございます。当時先程も申述べましたように、反動という名前はまだはつきり付いておりませず、ただ日本人の一部民主運動をやるという人と、ソ側の政治部員との連絡によりまして、日本人将校である人で積極的でない、即ち運動に参加をしない、或いはソ側のいろいろな間違つた行いに対して堂々と所信を述べる、こういう人を一ケ所に集めて、いわゆるこれが反動と目されたのであります。我々のところにおきましては、前職者としましてはただ憲兵が一部、それを一ケ所に集めるということになつておりましたが、その後更に政治運動誤謬者という特殊な人々が強制労働をしておりました収容所に集められておりましたとの政治運動誤謬者とは如何なることかといいますと、一例を申しますと、私が当時ムーリの二百十三政客所で強制労働を受けておりましたときに、その委員長であつた草山貞胤という人だつたと思いますが、七の人心非常に正しい政治運動の行き方をしておつたように私は考えるのでございます。何となればこの人は、日本人同士で、或いはソ側の一部分の煽動から、かような意味のない我我将校並びに一部新聞記者、教員とか、信侶とか、こういうような人を何らの名目を付けずに、こういうふうにソ側に申請してそうして懲罰隊へ送つたということは歎かわしいことである、彼はこのことに対して非常にその当時の民主グループのアクチブの人と送鬪しました。そうして彼の積極性も加味したのかも知れませんが、とにかく先程話しましたその年の十一月の帰還要員に入つておる我々を早く解放するように手続しました。ところがその後において彼は批判されまして、そこに不純性の何物かがあつたといつて彼は遂に、その地区における委員長までやつておりましたのが、ソ側の徴罰隊に送られまして、当時私が変転して行つた将校ラーゲルとその分所が一緒になりましたときに、彼はいわゆる前職者、憲兵、特機或いは高官関係、その人達と一緒に強制労働を十二ケ月やらされておりましたのでございます。或いは十九地区におきます中西という人でございます。この人はこの運動が始まつた当時において、その将校団を、いわゆる意思の強い反動と目されるところの将校団を収容所から追放するようにあらゆる手段を講じまして、十九地区におきましては中西天皇と言われたくらい相当に幅をきかした人でございます。この人もやはり政治的な誤謬者として送られ、昨年の二月ハバロフスクの十六地区の二分所において昔のいわゆる指導者だつた人が結局落されて労働をしている。私の考えでは、ソ側では要するに作業の点を重視し、即ちソ同盟の五ケ年計画に日本人を駆り立てる、こういうことがこの労働とは絶対に切つても切れない関係を結びつける初めからの計画であつたのではなかつたか、こう想像するのでございます。その例証は挙げましたら数限りもない、ここでさつきから言われておりますが、この運動における一点の混り気のなかつた運動、かように言われておりますが、君が見たいわゆるソヴィエトの政策、即ちこれをいいますなればボルシェヴィキ的、戰術といいますか、彼らはこの民主運動の人々に対して、政治的鋭敏性は諸君を養い、而してこの政治的鋭敏性を以て資本主義社会は撲滅されると説くのでございます。併し一歩振返つて私が考えましたのは、然らばボルシエヴイキ的戰術をこの政治的変遷より見たなれば、やはりそこに今度の日本人俘虜に対する運動に対して矛盾があつたかということを解一制して見ますなれば、これは今の委員長殿の質問とちよつと脱線するように思いますが、やはりこの点を説明しないと、いわゆる反動ということの説明が分りにくいのじやないかと、かように考えますので、簡單に述べさして頂きます。  我々が入ソ当時、ソ連は何故に我々に対して戦鬪して来たかということを彼らは説明する場合に、日本人俘虜に対して、諸君は日本帝国主義の、いわゆる侵略戦争の犠牲になつた人である。哀れなのは諸君である。その惨禍から一日も早く救うがためにソ同盟は武器をとつてつたのであると説明するわけであります。然らばここにおかしいのは、それを大衆は聞いて成る程と感じ、特に若い人達は、日本人の純情さからその点を一律に信じます。併しここで私がはつきり申上げたいことは、我々は詳しくは知りませんでしたが、入ソ当時、日本新聞からの一部の発表によつてつたことでありますが、日本はあの二十年に、日本の利益代表国を介さず、わざわざソ同盟を介して英米に降伏を申込んだと聞いております。それには何らの回答もせず、即ちそれには何らの説明もなく、ただ一方的な勝手な欺瞞に満ちた、日本の青年を何といいますか、冒涜するような説明をしているのでございます。更に問題を大きくしますと、さつき淺岡委員殿から話がありました輸送問題、これはさて置きまして、もう一つ言いますなれば、これは当時大きな問題として我々は考えたのでございますが、ソ同盟は、即ち日本人なら日本人に対して資本主義と社会主義は決して相容れないものである。必ずこれは衝突し、どちらか倒れなくちやならないものである。かようにレーニン主義の本音を吐いております。彼等は又徹底的にそれらを信じ、又日本人に教え込んでおるのであります。併し彼らは世界の人に何と言つておるか、ソ同盟こそ真の世界平和の擁護者である、我々は平和と自由、民族の独立を護る唯一の平和主義者である。我々はそれ故に領土の野心を持つておらない。あらゆる民族に対しては平等に我々は憲法で規定されている。その領土的野心が絶対にないというソ同盟が、昨年も革命記念日にマレンコフは、我がスターリン時代を見よ。東は千島から西にプロイセンまで我が領土となつたり。これは何を意味しておりますか。これを一連の関係のあるボルシエヴイキ的戰術であると私は深く感ずるのであります。即ちそこに政治性、矛盾性があつたと思う。そのような即ち間違つた考えを、といいますか、辻褄が合わない論法を以て説明して、そしてこれに一部踊らされておつた、こういうふうな青年諸君があつたことを私は残念に思うのでございますが、これも又止むを得ないでございましよう。併しその運動に参加しない、必ず正しい政治運動として発展することができないと思いました我々は結局運動に参加しない。これは全部極反動でございます。
  120. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと高橋証人に御注意いたします。できるだけ要点だけ……。もう一辺申上げて置きますが、取扱その他の責任者は一体どうなのですか。誰が一体責任者なのか。そういう点を……
  121. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) 今のそういう前職者又は反動というものはこういうふうなものでございますが、その取扱につきましては、結局どうかしてその運動に参加させよう、或いは労働に従事させよう、表面ではそういうことは無理に言わないわけでございます。併し裏面に廻りましては、ありとあらゆる我々に対して迫害を與えました。勿論その地区片々によつてこれは違いますが、我々の歩いて来た一地区、五地区、ハバロフスク地区、我々が住んでおりましたその收容所においては、これは絶対に間違いないことを君は繰返し述べます。  摘発としては、私は詳しいことは知りませんが、ただこういうことだけはあります。民主グループの人が即ち防水関係将校或いは兵隊を捕えまして、お前は過去において何々だろう。かように言います。そうするとその人が、自分は前は給水班である。然らばお前は何々地区におつたことがあつたろう。こう言いますと、この收容所においては防疫給水班で、これこれをやつた。即ち自己批判として言わせているわけです。そうするとその裏面では、すでに日本人の民主グループは速かにゲーペーウーに通知しますと、ゲーペーウーでは直ちに本人を引張り、言うた本人も引張るし、言われた本人も引張つて取調べる。これは十三分所においては随分沢山あつたことでありまして、十六分所においても沢山ありました。これが一つの摘発方法であります。  それから更に入ソ直後知れる範囲の死亡状況でございますが、私は入ソ以来二ケ年間に日本の病院並びにソ側の病院、それから自分の収容所の病院並びに非常に不便で、入院が困難な収容所において、その患者が倒れたりした場合に特に患者整理のために行つたりしました。二ケ年間の大体の自分の関係したことにつきまして簡單に述べさして頂きます。後半は自分は軍医としてやつておりませんのでこれは遠慮さして頂きます。入ソ当時は、大体において戦争の終末期には関東軍は動員した兵隊が多数でございまして、大体この兵隊は特に弱い人が多うございました。老齢の方並びに私が二十年の七月に関東軍に四千五百各の新動員兵を診に行きましたときにも、結核菌が出なかつたという者は全部一度入れたのでございます。分り易く言いますならば、ここに結核患者がございます。レントゲンで見えないでも、聴診器や打診だけで結核ということが分りましても、それでその人の痰を取つて結核菌が見えなかつた場合には、一度採用したのでございます。即ち過去における動員状態とは大分違つたような状態で採用しました。そのために身体の悪い人を相当に当時は動員し、入隊させたと考えられます。そうしてもう一つは、さつき各証人からお話がありましたように、入ソ当時は食物が甚だしく悪く、それと又関連しまして、慣れない寒気のために、入ソしました一年、二年というものは相当の各分所において衰弱患者が出、そのために多数の死亡春が出たことは明らかでございます。当時君の考えでは、私の想像では、その後病院に行つて調査したその他の関係を顧慮しまして、大体病院においては我々がおつた一地区並びに五地区では一〇乃至一五%の死亡率ではなかつたか。更に収容所におきましては、これは収容所内における死亡は勿論ですが、作業場に行つて負傷のために死亡した人も含めるのでございますが、これが七乃至一〇%、この七乃至一〇%という数は非常に多く見られるようでございますが、私の行つておりました收容所では殆んど死んでおりません。ところが第五地区に送りました兵隊で、そこの第五地区の糧秣が非常に惡く、私もそのような糧秣を貰いましたが、脱穀してない粟を配給しました。そのために食べました粟が腸の中で膨張しまして、そうしていわゆる糞詰りと申しまして、科はそこの軍医から開きましたのですが、指を肛門の中に入れて、そうして肛門から便をほじくり出してやつた。併しどうもこうも多過ぎて間に合わなく、実に可哀相なことを随分した。これは私の地区におきましては、私が常に一緒におりましたエ生曹長坂口正治君から直接聞いたのであります。更に五地区におきましては、当時の大隊長羽賀茂男君からも聞きました。もう一つは、第五地区におきましては、羽賀君がおりました大隊は、大体において第二バム鉄道の建設に当りまして、ここにおいては零下五十度、更に寒いときは六十度になつたそうであります。家が全然なくて、幕舎を建ててその中に住んだ、そうして糧秣は悪い、寒さは募る一そういう関係から、その彼のおつた大隊におきましては昨日二人自分の近所で同じ幕舎の中で死んだ、そうすると今日は又今度は自分の番じやないかな、かように言つておりますと又二人、三人死ぬ。これは羽賀君と、その低所におりましたもう一人の今現在まだ収容所に残つております谷川雅爾君から、彼は大隊長でありましたが、直接聞いた話であります。かようなことを感じまして私は大体七乃至一〇%、かく感ずるのでございます。入ソ直後知れる範囲の死亡者につきましては大体以上で以て終ります。
  122. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 高橋証人に御質問はございませんか。
  123. 天田勝正

    天田勝正君 三点に亘つて質問いたしますから、要点だけお答え願いたいと思います。あなたがコムソモサスクですか、こうした東部地区におられました関係からの質問でありますが、樺太、千島、ここまで領土が拡がつたという話がございましたが、そこで樺太、千島なり、或いはその他の地区におりました一般邦人が送られて来ておられる。具体的にあなたがそういう人達にお会いになつてつたかどうか。更にあなたが帰られる場合に、こうした一般邦人の人が未だ残つておられたかどうか。先ずこの点を御証言願います。  第二点は、午前中にも細菌戦術について取調を受けたという話がございましたが、そこで細菌戦術の取調には如何ようなる取調を受けたか。午前中よりも更に詳しく御証言願いたいのであります。自分の関係したことでない、直接こういう人からこういう取調を受けたということを聞いたという話でもよろしゆうございます。  第三点は、日本の配船問題、先程淺岡委員から他の証人証言を求めた点でございますが、これは私共非常に不思議に思いまするのは相当の知識階級と目される人達がこの委員会に参りますると、向うにおつたときは確か日本側が船を寄越さないから帰れないのだ、こういうふうに思つてつた、かような証言があるので山ありますが、自分は囚われの身となつておるという事実、自分が拘束されておるという事実から推定いたしましても、日本が単独で、独立国として勝手に船を出すとか何とかということができる筈がないということが推定に難くない筈なんだが、然るにも拘わらず自分が拘束されているのに、国だけは自由に船を寄越したければ勝手にどんどん寄越せるものだ、こういうような考え方をされておるのを私共は実に驚く程、批判力、極端な表現でありますが、批判力がない、こう考えておるわけであります。あなたにこのことを今質問申上げるのは、特にその思想のよし悪しはとにかく、信念にとにかく五ケ年間生きて来た、こういう立場から私は質問するのでありますが、あなたは先程淺岡委員質問され、又私が言つておるこの配船問題については、これは向うにいたときは確かに日本側がサボつておるから船を寄越さない、こういうお考えでありましようか。それともそれはやはり一方的な宣伝だ、こういうふうなお考えでありましようか。以上三点お伺いいたします。
  124. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) 第一番の質問についてお答え申上げます。第一部、樺太、千島の一般邦人と私は接触したこと峠ございません。この地区は先程話しましたように七万五千人という人が入つたそうです。これは私共収容所におりましたソ側の百十一収容所で、或る、名前は忘れましたが少佐の人からはつきり聞きました。それでここは一年にしまして殆んど修理が完成しまして、そしてこの大半はその明くる年の八月、第二バム鉄道建設に送られたのでございます。この地区はどんどんどんどんと送られまして、四七年六月から黒龍江の輸送開始が始まりましたが、あそこの河の特殊な関係上、あそこは鉄橋がないのでございます。汽車を関門、昔の関門海峡と同じように、貨車をそのまま艦に乗せてそのまま輸送する。そうして三月の候まで凍つて、十一月の末項から輸送が駄目になりまして、それで十二月に結氷します上、その結氷した上にレールを敷いて輸送し、又四月、五月の雪解けは又輸送が途絶える状況なんであります。その後は我々が見ましたところでは、この七万五千人の兵隊衆が帰つたり、或いは他の地区に移動された後には、全然入つて来ておりません。私の見るところでは。それ故に私はこの第一地区におきましては、樺太並びに千島から一般邦人が帰つたということを聞いておらないのであります。  二番目の細菌戰術は、これは本当は私を調べるために調査官が呼んだのではなく、嫌やがらせに、私が反動でどうしても言うことを聞かないということの嫌やがらせのためにやつたと、私はかく感ずるのでございます。これは先程も申しましたように、私を二回、三回と呼んで、その調査が僅かに三十秒乃至一分で終つたということを見ても分ります。当時私をこの細菌戰のことについて取調べました大尉と、もう一人の少佐は、お前は開業医であるのだつたら伝染病をどうしたか。これは非常識な極みでないかと思います。個人病院で伝染病を扱えるか扱えないか、而も私は外科医であります。それをはつきり知つておりながら、前の私の表明で知つておりながら、かようなことを聞くということは、言わずして彼らの真意が分ると思うのであります。で、その外の人のことにつきましては、私はこの細菌戰につきましては余り疑問を附された人に直接会つておりませんので知りません。七分所に行きましたときに、さつきも或る証人の方からお話がありましたが、私が七分所に行きましたのも、そのときはこの細菌戰で取調に遭つた人が沢山おりまして、その人達と一緒に私は十三分所に行きましたが、当時私がそこに取調に行きましたのは真夜中の二時頃、長命さんは十三分所から、私は十八分所から行きまして、そうしてその朝八時頃、ゲーペーウーの少佐の人が調べて、お前は履歴書が間違つておる、こういうことを言つただけで、今頃履歴書の問題を出したでは仕方がないじやないか、それで又そこで二言三言交しただけで終りなのであります。そうしてその朝移動する人達と一緒に、八時に君はこの十三分所に行つたのでございます。併し私の書類は十八分所から十三分所に行つたのではなくて、私の書類は直接二十一へ行つてつたのであります。ただ單なる嫌やがらせに身柄を十八から七に、更に十三にやつて、十三から又二十一にやつた、かように考えるのでございます。まあ彼等のやり方を今から考えますと、かく自分は見ております。そうして細菌戰のことにつきましては、自分はただ本当の調査のための調査であつて、実際のその内容を調べるための調査でなかつた、かく自分は見ております。このことについては私は知識がございませんで、友達に会いましても知りません。詳しいことはなかつた。とにかくあの当時、即ち十一月の末にはこの最後の日本人の輸送と睨み合して早く細菌の公判をし、これに対して少しでもその資料を得んがためにあらゆる医者を集めて一応の取調をしたような形跡がございます。そういうふうな観点から自分を呼んだのかも分りません。  それから三番目の配船問題でございますが、この配船問題は私に言わしたならば、実に滑稽至極であると、こう感じております。何となれば、彼等が言うことには、私が当一時懲罰隊におりましたとき、いよいよ日本と輸送が始まる、そのときに民主委員長がどういうことを言つたかと言いますと、いよいよ今年は日本と輸送が始まるのである。ところが船がコムソモリスク、我々第一区でありますから、コムソモリスクに入つて来る、ハバロフスク地区までは船が入つて来る、そうして輸送する。かようなことを政治部員が言つたということを言つております。僕は当時そんな馬鹿げたことがあるか、当時ダモイに関する発表で日本船が黒龍江を遡行し、コムソモリスク及びハバロフスクより乗船すると発表したときに、いわゆる外国の船が国内の河川の遡行を許すというようなことはあり得ないのだ、こういうふうに自分は話して、その矛盾を皆と話合つたことがございます。更に滑稽なのは、この冬季輸送であります。即ち民主グループの連中の言うことを聞いておりますと、ソ同盟は何よりも、人の生命を最も重く考えるのである、然るが故に冬季のシベリアの輸送は、日本人俘虜に対して極めて影響するところが大であるが故に冬季輸送はやらないのである。もう一つは、ナホトカが凍結する、で日本の政府にこれを要求するけれども、船を寄越さない、で思うように行かない、冬は冬で今言つたような事情でこれはできない、かように言つております。併し現実においてハバロフスクからナホトカまでの温度は如何程であり、その奥地のいわゆる我々がおりました第五地区とか或いはコムソモリスクの温度は如何程であるかということは、ここで喋々述べるまでもなく皆さん御承知のことと存じます。然らばその奥地における輸送がなかつたかと言いますと、これは冬季の輸送は続々と行われておつたのでございます。第一地区におきましては、その夏よりはつきり、さつき説明しましたその翌年の夏より輸送が始まつて、冬はどんどん入ります。我々も四八年の十二月、あの寒いときに五地区の零下五十度近くの所から、ハバロフスクから行つたのでございます。決して寒いから輸送をやらないという例は絶対になかつたのでございます。ましてハバロフスクからウラジオにおける温かさは私が喋々と述べるまでもなく、ここにおられる証人の方が直接御体験になつたことであり、ナホトカの港が如何なる現状であつたかということは、あの一月の末においてさえ、私は十五、六トンの発動機船が自由に航行しておる状態でございましたので、喋々述べる必要はないと思います。  更に私がこれとは、今の質問事項とは直接の関連はございませんが、彼等の言うことはあらゆることが宣伝なんです。受刑者がありますと直ぐ調べまして、あれは十年であるとか、あれは二十年であるとか、二十五年であるとか、直ぐかように宣伝しておるのでございます。それで私はそのときも声を大にしてソ連のそういうような宣伝に乘つたら駄目だ、戰犯というものはそう簡單に決められるわけはない。一つのことを調査しただけでどうしてその罪が決まるものか、戰犯であれば、あらゆる調査を経つて然る後に戰犯というようなものがはつきりして刑が分るものである。決して君達は騙されたり操られて、自分も戰犯になるのではないか、そういう内心のびくびくから無理な運動をし、そして無理な作業をし命を落すようなことがあつてはいけない。かように君は言つておりました。何分私は反動でございますから、何を言うかというような、かようなお叱り一点張りでございます。私の感じましたことは、大体以上でございます。
  125. 木下源吾

    ○木下源吾君 大分長い時間皆様大変でしようが、我々委員会はどうしたならば引揚が早く促進できるか、皆帰して貰えるかということのためにやつているのですか、何ですか、向うの方にやはり受刑者とか、取調の人以外に相当残つているよな感じを持つておられるのか、若しそうであるならば、どういうことをしたならばその帰還したい人達を一日も早く帰すことができるか、こういう点を一つ私はお聞きしたいと思います。それからもう一点は、向うの方で、ソヴィエトにおりたければいつまでもおらしてやるというような、こういうことを何かソヴィエトの方で企てたことがあるか、そういうよりなことについて、あつたならば一つお聞きしたい。高橋さんでいいです。
  126. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) では今の御質問に対してお答え申上げます。引揚促進問題、残留者におきまして刑の決まつた人、或いはそれに対して証人になつた人が沢山ございますが、私達が生活を共にし、或いは苦難に耐えて現在まで来た我々、即ち前職に全然関係ない人が八名残つております。我々二十九人が分所で待機しておりましたが、我々がかようにして今度二十一名も出所したことは初めてであると言つてソ側收容所職員は驚いたということであります。ソ側はお前達は今度二十一名も出て大変よかつた言つて、そこの分所の所長は大変喜んで呉れました。我々は勿論ソ側の地区本部の上の方の人達が来ますとはつきり聞くのであります。昨年の五月でありましたか、ソ同盟が公文書を以て新聞に発表して曰く、前職者並びにそれに直接の取調の関係のない者は十一月一杯ですべて送還する、かように発表したのであります。然らば現在は十二月の中旬である。我々二十一名は取調の全然ないような人が殆んどである。たかの知れたような人が殆んどであるしそれを何故に取調べるのか、かように言いますと、心配するな、絶対に今年は帰す、ソ同盟の発表は絶対に二言は使わない、かように言うのでありますし問題は、残存者は今そういうような人もおります。更にこの帰還方につきましては、私が如何に言葉を弄し、言葉をこのように向うに言つてもこれは到底望みがないとかく信じ、断言して憚らないところであります。これは世界の世論に訴えまして、如何にソ同盟の不当なことを、現在において六年に垂々とする月日までその死亡者、抑留者の氏名を発表しないということは言語道断であります。これは世界の世論を以て深く究明するより外ないと思います。私も今度の日の丸梯団の行動綱領の中において、飽くまでもソ連の実相を知らせ、そうして世界の世論に訴えて、一日も早くあの酷寒の地において呻吟している同胞を救えとかく叫んでおるのであります。  それから在ソ希望者の件につきまして、これは自分のことで余談になりますが、私は二十四年の八月にソ同盟の医務室からソ連に残れ、こういう話を受けました。自分は今までの医者の経験上、そう言つて来たのであると思いますが。初めは冗談かと思つて取合わなかつたところが、二度三度と来て、最後には直接の書類を持つて来ましたが、彼らの言いますのは、医者は特に今少い。戰争によつて非常に厖大な医者が死んだ。特に有能な技術者が足りない、そういつてあらゆることを言つて来ましたが、余り本気らしいから私はこう詰問したのであります。我々は軍人捕虜である。軍人捕虜はいかなる関係においても、個人が希望しても、これはそこに残ることはできない。又あなた方が帰さないようにしても、その姓名が分つておれば我々は帰らなくちやならないものである。あなた方の真意を疑う。こう言いましたら、あとは何も言つて来なかつたのであります。でナホトカにおいて聞きましたのは、どういうふうな人か知りませんが、現在実際に残りたいというている者が二百人ある。そういうようなことを聞きました。これは如何なる結末を見たか私は知りません。このいわゆるソ連に在住を希望するという件につきまし七は、以上であります。
  127. 北條秀一

    北條秀一君 高橋証人にお伺いしますが、あなたは極反動としてレッテルを貼られておつたそうでありますが、あなたの在ソ期間中における待遇はどんなものですか。その点について簡単にお答え願いたいと思います。
  128. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) 極反動になる前の何は、将校捕虜規程にははつきり書いておらないのですが、我々には大体月十ルーブルの手当があります。併しこれは前事の二年間は全然貰つておりません。このうちに大体はつきり聞いたのですが、いわゆる営内勤務をやつている幹部、即ち大隊長とか医者、営繕勤務、こういう人には勤務手当がありますが、これも全然貰つておりません。極反動になつてからは俸給手当を貰わなかつたことが月二回、それから極反動なるが故に、即ち生産作業をやらないが故に被服などは大概ぼろぼろでありました。特に目立ちますのは、五地区におりましたときに、零下四十五度というような所において、防寒具も何一つ支給されておらなかつたのであります、ソ側言つても相手にして呉れませんし、日本人に言いましても反動は生きておればいいのだ、ぐずぐずしておれば白樺の肥になるぐらいのものだ、こう言うのであります。とにかくハバロフスクを出てから二十六日までこのままであります。このままといいましても、下がいわゆる日本人の襦袢、あとソ側の木綿の襦袢、それとその上に日本の服、軍衣、或いはソ側の夏服、下もやはり同じです。上は綿衣でありませんから、普通の外套で綿服は全然支給しておりません。靴も日本の靴のままであります。で、点呼のときなど随分寒くて、僅か十五分間の点呼の間に凍傷になりはせんかといつて心配したことがあります。かような程度であります。
  129. 北條秀一

    北條秀一君 それは向うの收容所の所長の采配によつて、給料も呉れなければ或いは衣服も呉れなかつた、こういうことですか、或いは所長はそういうことは、支給すべきものは支給しなければならないという方針でおりながら、実はその間に立つところのソ側の兵隊なりその他が、いわば中間搾取をしてあなたの手に渡らなかつたのですか。どちらですか。
  130. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) それは両方共ぐるになつている、かように私は感じます。何故ならば将校捕虜取扱規程というものは、どういうふうになつているか私は知りませんが、十六地区におりますときに、地区司令のアサーチ少佐が来ましたので、我々に手当を呉れないのはどういうわけかということを聞きましたら、それは所長の任意である、かように言われました。更に被服の件にしましても、初めはソ側の方がやつておりましたが、それが運動が高揚しましてからは、全部日本人のいわゆる主計というものがやつておりました。それがソ側の許しを得て自由に扱つておるわけです。
  131. 北條秀一

    北條秀一君 それでは最後に、あなたは最後の収容所を出るときに、あなたの手許には一ルーブルの金も持つていなかつたのですか。
  132. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) 自分は大体十ルーブルの金を持つていましたが、現在簡単に略していいますと黒パンが一ルーブル三百グラムです。普通の人はやはり腹が減ります関係上パンをよく買つて早くなくなるのですが、自分は捕虜になつて肥えたと言われるくらい、何といいますか食事が非常に少いのであります。いつも自分は、皆に食事を食べて貰つたという関係上、自分は糧秣の点においては不自由なかつたわけです。そういう関係上、自分は別に煙草も喫いませんし、金も自分で使うことがないわけです。結局買う物は歯ブラシ、歯磨き粉、かようなものでございまして、身体の弱い関係上、どうしても或る程度の金は持つて、そうして野菜が全然ありませんので葉物があつたら買うようにしておつた
  133. 北條秀一

    北條秀一君 最後に金は幾ら持つておりたのですか。
  134. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) 金は自分だけでは足りておつた。私個人としてはいつも二三ルーブル持つておりました。あとの人は一週間で全部使つてしまつてつた
  135. 岡元義人

    委員長岡元義人君) この際お諮りいたします。六時半まで休憩いたしたいと思いますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  136. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは暫時休憩いたします。    午後五時四十二分休憩    ——————————    午後六時五十七分開会
  137. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは休憩前に引続き委員会を再開いたします。  尾ノ上証人にお伺いいたしたいのでりますが、証人は国際法学者として今迄教鞭をとられた関係もありまするので、入ソされましてから、いわゆる国際法というものと考え合せまして、ソ連地区におけるところの捕虜取扱状況について感じられたことをば述べて頂きたいと思います。  尚もう一点、他に建国大学の方でもう一人入ソされておられますか。いわゆる教授の方で入ソされておられますかどうか。それと関連いたしまして、或いはまだ御覧になつていないかも分りませんが、只今幻兵団といわれておりますスパイの、いわゆる誓約書を書かされましてスパイ行為をやつた、いわゆる摘発行為をやつて、それが而も日本までその誓約書は生きて持つてつてつたということをば我々は新聞紙等によつて見ておるのでありますが、そういうことについて、尾ノ上証人から知つておられる範囲において証言を求めたいと思います。
  138. 尾ノ上正男

    証人尾ノ上正男君) 今求められました三点に亘りまして、要点だけ簡潔に申上げます。  最初のお尋ねは、国際法の見地から見て、私が体験しましたところのソ連における俘虜取扱の諸問題が如何であろうかというお尋ねであつたと思います。これは非常に大きな問題でありまして、又いろいろ資料も集積しましてお答えしなければならないことであると存じますが、私も正式な学者の報告として、日本国際法学会を通じて世界国際法学会に報告する任務を持ち、それを覚悟しておりますが、簡單に今まで考えましたことを申述べてお答えとするごとにいたします。  先ず第一番目に人事の取扱であります。これは戰時中の俘虜におきましても、俘虜を手に入れまして、そうして後方の然るべき場所にこれを落ちつけた場合には、二週間以内にこれを俘虜情報局を通じて相手国政府に通報するのが義務になつております。帰りましてあわただしいのでまだ一九二七年のジュネーヴ捕虜取扱條約というものを細かく見ておりませんかち、若干間違いはあるかも知れませんが、大体そういう工合に記憶いたしております。それにつきまして、私も入ソしましてからロシア語を知つておりました関係で、ソ連軍司令部の人事を手伝いました。その手伝いましたときの私の感想は、少くとも受入れたところの人員の名簿は彼らの手許で作成されておつたのを私が見、又且つ手伝つて参りました。従つてそれらは戰争の終了しておりますことでありますから、ソ連の外務省を通じてマッカーサー司令部なり、或いは日本外務省に通告されたものであると私は信じて参りました。併し今回帰つてみますというと、それすらもやつていないということは私を非常に驚かせました。それからその次には、同じ人事でも重要心のは、捕虜が死亡した場合、この場合も遅滞なく戰争中と雖も相手国の政府に通報するということが、これ又重要な規定になつております。これは捕虜というものは戰場において捕獲せられて後方に転々する。非常にその生命の帰趨というものが危ぶまれるものでありますから、国際條約はこれについて嚴重な規定を置いておるのであります。私もアングレンに着きまして、約二週間いたしまして徳留四男という鹿兒島の人間が死にました、そのときの手続を私が日本側を代表していたしました。私はそのときに念を押しまして、日本では遺骨を持つて還る習慣になつておる。であるから遺骨をとることを許して欲しいと申しましたらば、向うの司令部の人事係をやつております少尉が、これはモスクワに通告せられて、そしてこれは日本外務省に必ず報告される、だからこちらの方で遺骨その他を準備する必要はない。周そのときに遺品があれば併せてこれを送るから、その遺品を出して呉れということの話でありました。私はその程度のことは勿論やるべきであり、やつて呉れるだろうと私は考えましたものですから、部隊に帰りまして部隊長に言うて、そうして写真、それから財布、そういうものを用意しまして、荷日本文で以て死亡診断書並びに本人の本籍その他を記載した書類を一まとめにして、その人事係に渡しました。同時に万一のことを思いまして、密かに遺髪と爪とをとりまして遺骨を作り幸した。これも私は少くともそのくらいのことはやつておると信じまして、又私の側において私達のなすべきことをやつてソ連に引渡しました。大体その後我々の同胞が死にますというと、向うの收容所におりまするところの人事係がいろいろ名前、本籍その他を調べまして、そうして司令部に持つてつておりました。私はこの点を少くともなされておると信じておりました。が併し今回借りて参りますというと、それが一つもなされておらない。全部はともかくも、一部すらなされておらない。日本側にソ連に入りまして一人も死んだという者が明らかにされておらないという事実は、私を非常に驚かせました。まあそういうことが人事の点に非常に大きな国際法違反であると、私は自分の学者としての立場から断乎として私は申します。  それから我々が課せられたところの労働であります。これはちよつと私一見したのでありまするが、モスクワで印刷された捕虜管理局の局長の名前を以て日本文の捕虜取扱規定というものが出ており、これは私が捕虜の收容所においては如何なる情報によつて、如何なる規定によつて捕虜が取扱わるべきであるかということを掲示するのが、これが国際法の規定である、そういうものが必ずある筈である、それを見せてくれと申しました。やかましく申しました。たびたび申しました。やがて六ケ月ばかりしまして印刷物が来ておるから見に来いというので見に参りました。厚い書類の中に綴じ込んであるやつを約一枚の……この紙よりはやや広く、立派な日本文で印刷してあります。それを半分見せてこれがそうだと言う、私は手を突込んでどういう形になつておるかというので一番しまいを見ました。それはモスクワにおけるところの捕虜管理局局長、名前は大佐になつております。階級が低いなと私は思つたのでありますが、それに捕虜の取扱規定という名目で載つておりました。僅か私が読むことを許されたのは五分程で、その中で私は大急ぎで目を通し相当記憶して参つたのでありますが、今日その大部分を忘れてしまつて誠に残念でありますが、その第一條に、捕虜はあらゆる労働に従事するものとす。という條項がありました。これは私は、我々が課せられた労働というものが、果して国際法の法規上妥当であるかどうかということを絶えず疑問に思つておる。捕虜取扱規定というものが如何なる規定を持つておるかということを私は疑つてつたのでありますが、この第一條の、捕虜はあらゆる労働に従事するものなり。という文句、私はこの第一條が忘れ得ない規定であります。で、勿論ヘーグの一九二七年の捕虜取扱に関する條約というものは、日本はこれを批准をしておりません。ですから言い換えますならば、批准をしておらない国家に対しては、この條約の規定というものは適用せられないという学問的解釈も成立するのでありますが、併しこれは、ソ連の管理局長が、二七年の捕虜取扱條約というものをドイツ国に適用したから、日本軍にも適用される筈であるということをしばしば言明しております。これは日本に帰りまして少し資料を調べますならば、ソ連政府は何かの機会にこれを言明しているんではないかと思います。ソ連自身は調印を批准をいたしております。ソ連側の態度としては、私が在ソ中開きましたものにおきましては、その條約によりている。確かその捕虜取扱規定と日本文で立派に印刷されておつたものの最後の項にも、それに近い言葉があつたと私は記憶しております。併しこれはその印刷物を今日手許に持つておりませんから、若干ソ連側の声明その他についての取調を了してから、この点は確立したいと思います。そういう先ず労働、これはまだ條約集を私は帰つてから見ておりませんので、確実なことは申上げかねますが、私が今まで記憶しておりますととろによりまするならば、兵は労働に服せしめることができます。将校はできません。そうしてその兵も、自国の軍隊を必要ある場合に従事せしめることがあるべき作業と同質同等の作業に課することができるというのが規定であります。労働をさせることはできるが、併し自国の軍隊をしてなさしめると同じ程度の、同じ質の労働を課することができるというのが、これが條約上の規定であると私は記憶いたしております。これは大体記憶が間違つておらんと思いますが、ところが、それならば我々が課せられたところの労働というものが、この條項に適合したところの労働であるかどうかということであります。これは皆様皆御体験になつたと思いますから、私は平明に申上げるのでありますが、あの労働……ですから一応我々が労働に服せしめられたということは、決して條約違反でないと思います。問題はその労働の質と量であります。この質と量については、十分皆さんも、委員の方はお調べだと思いますから、君は言葉を多く重ねる必要はないと思いますが、私はここで申上げて置きたいのは、いわゆるノルマを課せられて、そして飽までそのノルマを完遂しなければならないというところの義務を持つたところの労働というものは、これは如何に解釈しても、いわゆる條約の規定するところの労働以上のものであるということを、私はこれ又私の学者としての立場からこれを断言するのであります。我々が事実、初期におきまして、中期以後におきましてはいろいろの條件で以て我々はみずから克服して参つたのでありますが、初期約一年半には作業のために倒れて行つた、それは何であるか、いわゆるノルマを課せられて、ノルマに縛られて、八時間のうちにそのノルマを完遂しなければ更に二時間残業させられる、而も十時間やつても尚果さないで帰つて来た場合には、営門の所に立たされて、営門の前の畑を耕さなければならない。又は作業隊長なり作業班長が営倉に立たなければならない。この労働……兵隊はよく申しました、働くのはいいが、併しノルマさえなければと。こういう考え方の下に行われたところの労働というものは、決してこれは国際法に適合したところの労働ではないと科は断言せざるを得ません。殊にこれは他の地区も同じであつたと思いますが、四六年の、記憶ははつきりいたしておりませんが、四六年の春頃から四七年の二月、この二月は間違いありません。約二年間に行われたところのいわゆるパーセント給與というもの、これは御存じの通りだと思いますから簡單に申上げますが、これはその日の作業成績によつて給與を引つかけるという方法であります。例えば、この量も後程調べてはつきり申上げますが、例えば一二〇%遂行した者に対してはパン五百グラム與える。一〇〇%を退行した者に対しては四百五十グラム、その代り八〇%未満の者はパン二百グラム、その他の給與もこれに伴う。これを称して我々はパーセント給與と申しました。收容者に與えられた一つの枠の中に入つた給與を、よく働く兵隊にはよく與え、働き得ない兵隊には與えない。結局併しその枠は決まつておる、みんなが同じように食うものを、平均に食うものを、高低を付けるというようになされたところの約一年間のこのパーセント給與というものは、実にみんなを苦しめました。又日本人としての矜持と日本人として倫理というものをこのときに失いました。これは労働を強制して労働成果というものを挙げる一つの方法として勿論考えられたものでありまして、同時に日本人間の倫理というものを少からず破壊したことを私は悲しみます。これは別問題でありますが、これは條約の中に確かに規定があつたと思います。その給與の差を付けることによつて労働を強制してはならないという制限規定があつたと記憶しております。これは今申したように、パーセントによつて給與をするということは、これはヘーグのこれを取扱う條約に定められた具体的事項に明らかに違反しておると私は断定せざるを得ません。労働の問題は申上げれば沢山ありますが、この程度にいたして置きます。  三番目に給與の問題であります。これを今申上げましたように、條約規定をしつかり見ておりませんから、君の記憶で申上げるのでありますが、この捕虜の給與というものは、その国家の負担であります。これは国家の負担にさせておるのは、これをとつてつても結局それはその国家の利益にならない。働くのは、そういう意味における作業をやらせて、そうして食わすことは食わさなければならん。働かない者にも食わさなければならない。将校は大体その国の階級或いは自国の軍隊に相当する階級の給料を出す、そうしてこれは後に本国政府から償還できる。将校は働かない。その代り日本軍の給料か、或いは相当するソ軍の給料かを貰う。これは後に日本政府から償還できる。兵隊の給與はその兵隊の負担においてなすのでなくして、国家の給與としなければならないというのが、これが條約の規定であります、規定であつたと私は記憶いたしております。然るに我々が課せられたものは何か。これはすでに御承知だと思いまするが、後半の約二年の間におきましては、我我の給與というものは被服、食事、作業一切を含めて四百五十六円要するとされました。我々はその四百五十六円以上働かなければならなかつた。若し我々が六百円働いた場合には、企業者から給與者がとる金の中から四百五十六円を引くか、或いは六百円といたしますというと百五十円何がしか残るわけであります。その百五十円何がしのうち三〇%を引き去つて、その七割兵隊に與える。重労働の場合は八五%を與える。これが規定であります。将校の場合にもやつぱり同様であります。尤も先程申しました将校に対する労働、これは法上、形式上は強制いたしておりません。ですから私達の方では余り見受けなかつたのでありますが、今度乗船いたして見て聞いたのでありまするが、ハバロフスクその他の沿海州の地区においては、作業を拒否して頑張つておられた将校のいることを知つたのでありますが、私達の地区では、将校は全部働きました。私共が抗議しました場合に、それは請願による労働であるということを釈明いたしまして、そうして将校全般に亘つて請願書をとりました。この場合に私は質問いたしました。それならば請願書を書かなかつたならば将校は働かなくつてもいいのかと申しましたら、それに対しては非常に苦い顔をしまして、それならそれでいいと、併しそれに伴うところの不利益というものが随伴するであろうというような言葉で説明をいたしておりました。又事実これが書かれて残つておりまするが、一九四八年の十月に一緒になりました将校の中に小野盛、鹿兒島県の人でありましたが、この人は終始一貫作業を拒否して参りました。尤も身体が三級程度で完全な身体ではなかつたのでありますが、作業を拒否して参りました。私は非常に面白い実例であると思つてじつと見ておりました。来まして半年程は営内の、舎内の作業をやりまして、外の作業には出なかつた。出ません。併し或る時に引張られました。これは小野少尉から私は聞いたのでありますが、一週間程営倉に入れられて取調を受けた。その取調を受けたのが、お前はなぜ働かないか。俺はとにかく将校だ。誓約書も出しておらない。だからやらないのだ。これには向うも一言もなかつたので、お前はそれでいい。併しお前は盛んに将校の間に俺みたいに誓約書を書かないで作業をしない将校もあるのだといつて、暗に他の将校を唆かすじやないか。これは非常に大きな罪である。刑法第何條かに差障るのだというようなことを言つて、約一週間寒い時に営倉に放り込んだ事実があります。そういうような給與、これは結局向うの收容所の一つの隠れたる仕組であります。捕虜の収容所、同時にこれは労働力の供給所であります。而もその労働力の供給所は自己の、自体の收支決算を持つておるということで、そうしてその收支計算をプラスを余計にするということが収容所長の任務であり成績であり、又は労務将校の成績であり任務であり、同時に被服その他を如何に安く上げるかという、これがために自給農場を持つて、兵隊の余つた労力で農場を経営する、そこから上がつてくるものを以てその收容所の四百五十六円の経費を軽くする、こういうようなことをいろいろな面から試みられておりました。又事実これは地区によつて違うのでありますが、その四百五十六円以上をすべての者が働いて得たかと申しますというと、なかなかそうでありません。これは地区によつて非常に状況が違うようであります。私自身もタシケントに三ケ月暮しましたが、都会に入りますというと工場労働であります、比較的肉体的な疲労は少い、而も単価がよいのでタシケントに参りましたときは大体全員の七割が四百五十六円以上を働きました。月に五十円なり三十円なり百円なりというものを七割以上の者が貰つておりましたが、私が最初から三年半入りましたところのアングレンにおきましては、最初の一年というものは、誰もがまあ営内勤務をしておるもの、大隊長、副官は、大隊長が大体九十二円くらい、副官が二十四円軍医が二十四円、それから……
  139. 北條秀一

    北條秀一君 議事進行について、只今尾ノ上証人言つておられるのですが、四百五十六円というこの日本円の呼び方は、私非常に分らないのであります。
  140. 尾ノ上正男

    証人尾ノ上正男君) ルーブルであります。四百五十六円と申しましたが、四百五十六ルーブルであります。ルーブルというのが面倒くさいから円と言つたのであつて、ルーブルであります、よろしうございますか。
  141. 北條秀一

    北條秀一君 よろしいです。ルーブルで言つて下さい。
  142. 尾ノ上正男

    証人尾ノ上正男君) その一年というものは、本当に作業に出ている者は文も金を貰いませんでした。一年間経ちまして大体三割乃至四割の者が若干の金子を貰うようになりました。が、結局アングレンにおりました四年間のうちに一遍も貰わなかつたという者も若干名あります。そういうような事柄、即ち我々が働いた労働でそうして自活をして行く、而も剰余を出して行く……尚申上げて置きたいのは、そういう計算をしまして百五十円以上になりますというと、それは貯蓄だと称して渡しません。将校は二百八円だつたと思いますが、将校に二百八円以上は渡しません。あとは貯蓄だと申して、これはどれ程余つたのかはつきりさせないままに向側に保留されます。で、帰還をいたしますときにこれが問題になりまして、アングレンで大量に拂つた一九四八年の五月、六月、このときは貯金が明らかにあると思われた者に対しても貯金の償還は全然ありませんでした。これを日本側で問題にしまして、確か三回、四回の者には一部その貯金の拂戻をいたして、初めてアングレンから引揚げる者が時計心ど買つてつたというような現象が起きました。併しこれも果してどれ程貯金があるのか、誰にどれ程あるのか全然分つておりません。それで果して貯金をした者が全員、而も全額償還を受けたかどうかこれは不明であります。私の見込では、一部の者が一部の金額を受取つた程度に終つたのではないかと推測いたしております。で、将校の方の給與は、将校が隊長とし或いは一作業員として働きました場合には、兵隊と同じ計算で以て金を渡しました。が併し働かない者でも、先程どなたか証人の方が申述べておられましたが、十ルーブル、実際は税金を引きまして九ルーブル何がしでありますが、将校手当として十ルーブル未満のものを毎月出しておりました。これは作業に出なくても渡しておりました。この給與の支拂、労賃の支拂というものも、これ又国際法上から見て妥当を欠いているものだと私は考えざるを得ません。まだその外沢山ありますが、人事の取扱、それから労働の質と量、最後に賃金の支拂ということに関して、国際法上から見ればどういうことになるかということを概括申上げました。この程度で第一番目の問題を終つて置きます。  第二番目の問題は、建国大学の教授、或いは助教授で他にソ連に入つておらなかつたという御質問でありましたが、そうですね。
  143. 岡元義人

    委員長岡元義人君) そうです。
  144. 尾ノ上正男

    証人尾ノ上正男君) これは私の現認しましたものでは、建大に武道の教授で富木教授というのがおりました。私と大体同じ年輩でありますが、これが私と同じ日に召集になりまして、部隊は別でありました。私は輜重隊でありますが、彼は歩兵大隊で、而も彼は主計の少尉でありました。これは私か九月の末に黒河に着きましたときに、彼は一日遅れて黒河に入りました。我我は黒河に確か三泊いたしと思いますが、三泊いたして私が立ちますまで彼も黒河におりました。これは黒河から私達と同じようにブラゴェを越えて入ソしたものだと思つておりました。又事実これは入ソをして一昨年か帰つておると申しております。それから同じく助教授で西元宗助君、これは教育学をやつておりましたが、これは召集を受けたものではありませんが、どういう関係か本人に会つておりませんから分りませんが、これはアルマダに入りました。これはアルマダで一緒におつた者にこの間ナホトカで聞きましたから間違いありませんが、そうして去年の何月頃ですか帰つております。これは上陸しまして暫く職を、あそこの舞鶴の引揚援護局の中で働いておるということを申しておつたので、私は上陸しましてから会いに参りましたが、つい最近東京の成城ですか、成蹊大学とかいうところに教授の職を得て帰つたと申しておりますが、援護局の方々の話を聞いても西元宗助君がナホトカから舞鶴に上陸したことは事実であります。彼はアルマダ附近におつたと聞いております。それからこれも聞きました話でありますが、不確実でありますが、小糸夏次郎助教授、これもやはりアルマダにおつて、昨年これは死んだということをナホトカに参つてから聞きました。二、三人の者から聞きました。小糸助教授は身体の弱い人でありましたから、恐らくそれは本当だろうと思います。この点又帰りましてから是非突止めたいと思いますけれども、まだその時間を持つておりません。その外通信その他によつて経済をやつてつたところの山本安次郎教授、その外地理をやつておりました宮川教授、こういうのが入つて、そうして四七年度に帰つておるようであります。これもまだ本人と連絡が付いておりませんので、果して帰つたのかどうか分りませんが、これは私がソ連におりますときに、内地からの通信でつい先程宮川、山本の両教授も帰られましたという手紙を受取つたのでありますから間違いないことだと思つております。まあ私が今日記憶いたしておりますものは、その程度の教授並びに助教授が入ソいたしております。それからちよつと余談になりますが、私のおりましたハルビン学院関係の教授、助教授というのは非常に多くソ連に入ソいたしております。
  145. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それはいいです。
  146. 尾ノ上正男

    証人尾ノ上正男君) 三番目の幻兵団のことでありますが、これに関しましては私は日本に上りましてからその話を聞きました。向うにおりますときに、こういう名称、或いはこういう性質を持つたところのものがソ連から日本に上陸した、或いは上陸するというようなことは聞いておりません。これは日本に上りましてから新聞記者その他の人達から聞かれまして、私も初めて耳にしたわけであります。そのとき私はその通り答えまして、これは私は存じません。ただ併しこういうことが考えられるかということになりますというと、考えられないという否定は私はいたしかねます。大体その程度
  147. 千田正

    千田正君 尾ノ上証人にお伺いします。あなたは午前の御証言の中にも、あなたは中国大学の教授であり又曾てはハルピン大学の教授であつた。言い換えれば軍人ではない。国際公法の上から言つても、戦時国際法の上から言つても御承知の通り軍人でない。且つ又敵対行為をしたとは私は思つておりませんが、そういう人達が今日荷捕虜と同じような待遇においてソ連地区内に抑留されておるということに関しましては、あなたはどう考えられるか。一この点一つ。そしてこの点についてあなたの所信を伺うと同時に、又今までポツダム宣言によるところのいわゆるジュネーヴの捕虜規定第九條によつての御証言がありましたが、その件について軍人、軍属並びに敵対行為をせざるところの一般人に対するところの規定に関する問題についてあなたが言わんとすることがあつたならば御証言願いたいと思います。
  148. 尾ノ上正男

    証人尾ノ上正男君) 只今の御質疑でありますか、最初の御質疑に先ずお答えいたします。これは午前に申したと思いますが、私は八月一日召集を受けまして、陸軍二等兵であります。で捕虜として私は部隊と共に入りました。私は勿論召集前は大学の教授でありましたが、兵隊として捕虜にせられ、その身分において過去四年間おつたと私は思つております。向うの書類も、私自身自分の書類を大分扱いましたが、常にソルジャー、兵隊になつております。職業がプロフェッサーになつております。終始兵隊として取扱われました。  それから二番目の御質疑に対してお答えいたしますが、如何なる者を捕虜となし得るかということであります。これも大体お分りだろうと思いますから簡単にお答えしますが、ソ連においては捕虜となすべからざる者を捕虜としておるということをはつきりと申せます。而も非戰鬪員であり、婦人であるという者をこれを捕虜として扱つておる。そうして而もそれを三年も四年も不当に置いておる。その理由が奈辺にあるか、勿論国際法の規定に違反し、むしろその国際法の底にめぐるところのいわゆる国際道徳、国際情誼、国際倫理というものにまで反しておる。法律の下には倫理があります。その倫理すらも犯しておるということを断言することができます。今日私自身については何とも申しかねますが、とにかく四年半おつてつて参りました。併し尚今日あの私がおりましたカラカンダに七十三になるところの老人が曾てハルピンの商工会議所の会頭であつた、そうして彼が協和会の全国協議会の副会長を一期勤めたというだけの理由で以て今日尚残つておるという事実、七十三の身を以て尚残つているという事実、尚その外六十幾つの方は沢山おられます。そういう方が国際法上からすれば説明されないところの身分を以て、又その明らかなる理由を明示されずに今日残つておるという事実、これ又重大な国際法違反であるということ申上げてお答えいたします。
  149. 天田勝正

    天田勝正君 尾ノ上証人に伺いますが、先ず私は今朝から腹痛で時々中座するのです。従つて私の質問ですでにお答えになつた点がありますれば、それは答えた、こういうふうに答えて下されば結構であります。質問は四点ございます。  先ず第一に、死亡者の名簿の調整についてでありますが、今まで本委員会におきまして幾たびか証人喚問した場合に、この死亡者の名簿が曖昧である、或いは調整されておらないと思うという証言が極めて多かつたわけであります。全部といつていいくらいさようであります。そこであなたの経験された場合におきましては、こちらへ知らせた、知らせないは別といたしまして、死亡者名簿、つまり死因等を書いたものを調整されたという事実があるかどうか、これが第一点であります。  第二点は、この死亡者の数その他それに関することを知らせないということは御承知の通りであつて日本人側が遺品等を持つて来た場合に、乗船地においてこれを没収される、問もつと名簿すらも没収される、自分の知つておる範囲でこれこれの人が死んだということを自分覚えで書いて来た手帳すら没収される、こういうことになつて、あなたの専門の国際法の立場からどのようにお考えになつておるか。  第三の点は、一般人の抑留の問題でありますが、これは千田委員からの御質問で私は割愛いたします。  第四は捕虜の税金の問題、これは只今証言で初めて聞いた言葉だ。捕虜が給料を貰い、その中から税金を取られる、こういうことは当委員会としては初めでの証言であります。私としては初めて。この捕虜から税金を坂上げるということに関してのあなたの見解を承りたい。以上。
  150. 尾ノ上正男

    証人尾ノ上正男君) 死亡者の名簿が作成されておつたかどうかという件でありますが、これは私がおりました、地区におきましての処置から考えまして、不完全ではあつても一応その管理局で死んだ者の名前、その理由、年齢・本籍というものはソ側においては記録されておると私は思います。地区によつてそういうことがルーズであつてなされておらないものもあるかも知れませんが。
  151. 天田勝正

    天田勝正君 ちよつと私は思うということでなしに、あなたがいろいろ日本人の名簿を扱われたとおつしやつたから、今の質問をしたのですが、あなた自身そういうことは見られませんのですか。
  152. 尾ノ上正男

    証人尾ノ上正男君) 私は死んだ者の名簿というものは見ておりません。が併し各收容所からやつて向うがカードを整理して、その都度名簿を作つてつたのを見ておりました。それをまとめて名簿にしたかどうか知りませんが、彼らが名簿として記録していたことを私は認めます。  二番目の遺品、遺骨の処理の問題でありますが、これは私共、殊に軍隊に長くおつた将校、部隊長の下にありましたから、この遺骨、遺品の持ち帰りということに対しては我々は非常に努力いたしました。最初に火葬にして遺骨を取りたいという申出をなしましたが、これはソ連の規定では火葬は禁じてある、土葬であるというので、その遺骨は取ることができなかつたので、努めて遺髪と爪を取ることにいたしました。そうして遺骨箱を作りましてそうして部隊長の部屋なり或いは英霊の部屋というものを設けまして、これを飾つておりました。その中には遺品があれば遺品と、それから各収容所の軍医の死亡診断書というものを入れまして、雪中に御覧にかりましたようにやはり白い布で包みまして置きました。で私が各收容所を訪れますと必ず部隊長の部屋、又は部隊長の隣りの部屋に遺骨が何十と並んでおつたのであります。アングレン地区には四七年の七月の末に命令が出まして、出発しましたのは八月の二日か三日だと思いますが、このときに帰還の命令を受けまして、健康者五十名、病弱者百五十名、アングレン地区がら正式の第一回の帰還をいたしました。このどきに私はソ側に申し出まして遺骨を持つて帰ることを託するということを極力折衝しました。併しこれは峻拒せられました。その必要なし、そのときの理由は、すでにその通報は日本に行つておる、遺品も行つておる、だから今更お前達が持つて帰る必要はないという理由でありました。私もまだそのときに通報はなされておると信じておりましたので、そのまま引下りました。それから四八年の五月から正式の大量の帰還が始まりました。でこれにも遺骨を持つて帰るようにということを再三各收容所の長を通じて交渉いたしました。が併しこれはアングレン地区においては一つも許されなかつたのであります。それで記憶いたしておりますが、各収容所におきましては、第一回の帰還出発しました後に、各收容所においては今まであつたところの幾つかの遺骨をどう処分するかということを審議いたしました。これは丁寧に合同慰霊祭をやりまして、そうしてソ側了解を得てその遺骨を一緒に一まとめにして葬りまして合同の墓碑を立てました。でその問題はそういうわけで相当努力をしたにも拘わらず、結局これは許されなかつた。これも確かこの規定も條約の中にあつたと思います。捕虜の死亡その他遺品の処理、これはその国の礼式に従つてなすことが認められる。そうしてその遺族の下に届出でられるという規定があつたと私は記憶いたしております。そういう見地から見まして、これ又大きな国際法規の違反であるといわざるを得ないと思います。  それから四番目の税金の点でありますが、先程どういう工合に申上げましたか、給與の七〇%を給付する。そうしてその三割を向うに保留すると申しました。この三割は全部が税金ではございません。これに対する説明はしばしば求めましたが、はつきりした説明はなされておりません。が併しその七割の中から一%か三%でしたか、その極く少額の税金が取られます。三割は税金でなくて、例えば七割を兵隊に給付する、重労働の場合には八五%を給付する。その給付する金の中から一%か、三%が税であります。ですからいつも引きますというと、小さな六十何ルーブル何セントという金が付いております。これは税という名前で書類は付いております。これは毎月見ておりますから間違いございません。
  153. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 尾ノ上証人に伺いますが、カラガンダを立ちましたときに、A、B、C、の三級に分けて、B、Cの二級は帰さなかつたというお話でございましたが、そのB級に属する者は主として満洲国の行政官、関東州の行政官というような人が多かつたというお話でございましたが、この行政官でB級に編入される人は、どのぐらいな階級以上の人であつたかということを伺いたいのが一つでございます。それからこういう行政官の中で、行政官たりしが故に戰犯の裁判にかけられた者、又かけられるような者があつたかということが一つでございます。  それからもう一つは、この行政官の中に朝鮮の行政官がいたでございましようか、いたならばどんな模様であつたか、これだけ伺いたいと存じます。
  154. 尾ノ上正男

    証人尾ノ上正男君) 先程午前中に申上げましたA、B、C、私は仮りにA、B、Cと分けましたので、確かそのときには、ペルブイ・グルッパーとか、フタロイ・グルッパーとか、トリディ・グルッパーとか、ロシヤ語で第一群、第二群、第三群というように分けて発表されたと思います。その大体第二グループというものの中に満州国並びに関東州の行政官が入りました。これは先程午前中に申上げましたように、戰犯として取調を受けるという工合には周囲の情勢から判断できかねたのであります。むしろ我々が帰つた後の二回目の帰還の人戸に入るのではないかと思われるような状況にありました。それは先程申しました戰犯として裁判にかげるのではないかと濃厚に思われる人達によつてCのグループが樺成されておつたからであります。更にこの行政官の内容でありますが、これも各証人の方が裏付けられたと思いますが、ソ側やり方と言いますものは、その点が日本人のようにはつきりといたしません。例えば恐らく我々が、行政官ならば、行政官はピンから錐まで押えられてしまう。その行政官であるものを、そこの枠から外して還すというようなことはやらないと思います。やるならば例えば行政官の中で勅任官以上の者或いは判任官以下の者とか、こういう部類分けをやつております。ところがどういう理由か推測しかねるのでありますが、そういうふうに行政官、裁判官の大部分は帰つておりません。にも拘わらず我々がカラカンダを立ちますときに三人の行政官が突然帰還の人員の中に入つて参りました。これは濱江省次長の田村敏雄君であります。これは勅任官級の而も大きな省の省次長であります。当然行政官の性質から残るべき人間であります。これが帰還の日に入つて来ております。それからこれはまだ舞鶴の病院に入院しておると思いますが、南満の懐徳県の副県長をしておつた三輪健治君、これは勅任の副県長であります。これが同じく入つております。もう一人は失念しましたが、それを考えると行政官は勿諭還すのだという見本みたいに、省次長一人、副県長一人、そういう者が入つております。併し大部分の者はBグループになつております。それから行政官を裁判官の取扱でありますが、裁判官は一般行政官よりも軽く扱うというように思います。と申しますのは、我々の第一グループの中に裁判官の過半数が入つておりました。で我々も又彼等も我々と一緒に滞るものだと思つておりました。九から十五に移りました。十五に移つたの帰還要員であります。その中に満州国の裁判官、関東川州の裁判官の過半数が入つております。が併しどういう理由か、帰りますときには我々そこに七百名ぐらい転属したのでありますが、実際は五百七十名しかなかつた。残り百三、十名のうち、裁判官は全部残りました。  で、二番目の問題に引続き入つて行きますが、戰犯の行政官というものは私は恐らくないのじやないかと思います。が、併しいわゆる満州国におけるところの協和会職員というものの一部は、戰犯として取扱われるではないかと思います。これは協和会関係の者が一人も、今度は私達の梯団の中からは帰つておりません。無條件に残されております。而も大部分が、今申したCのクラスに入つております。で、その意味で行政官が戦犯として裁判せられ、刑に服するということは私はないのではないか、併し協和会職員の一部は戰犯として刑に処せられる者があるのではないかと思います。朝鮮の官吏では、私と一緒におりましたのは黄海道の知事をやつておりました筒井君、それからもう一人どこですか岸という、若干私達よりか年配の方がおられました。岸知事と筒井知事と二人がおられました。
  155. 北條秀一

    北條秀一君 時間を惜しみまして極めて簡單にお答え願いたいのですが、先程俘虜の給料が四百五十六ルーブルだというお話でありましたが、これは俘虜の取扱規定に基いて軍曹以下、軍曹以上、将校、こういう段階が分けられたという話でありますが、そういう事実があつたかということ、それからもう一つは午前中の証言にありましたハルピン学院の教護、卒業生が可なり抑留されているという話でありましたのでお驚きしたいのですが、一九四五年の十一月に当時新京にありました満鉄北方調査室の諸君が佐藤憲忠君を初めとして八十四名が、あすこの名前を忘れましたが、ソ軍の中将が局長になつて調査を作りきた。そのときに私に調査局の次長になれという交渉があつたのでありますが、私は仕事の都合で行かなかつたのでありますが、それから数日後に佐藤憲忠君以下八十四名全部連れて行かれたのであります。その八十四名のこの一つのグループの消息が分りましたら、簡単にお知らせ願いたです。
  156. 尾ノ上正男

    証人尾ノ上正男君) 給與に関して下士官以下兵隊を分けておつたかという点について申上げます。分けておりません。下士官以下皆同じ七あります。将校はさつき申した取扱い方、下士官であるからどう、兵であるからどう、それは全然区別いたしておりません。  それから二番目の御質問の北滿経済調査局或いはハルピン学院の関係でありますが、ハルピン学院は大体向うではスパイ学校と言つておりますが、ハルピン学院を出た者は君もそうでありますが、一応全部帰つております。殊に卒業いたしましてからロシア関係の仕事に従事しておる者は、大体九分五厘まで刑に服しております。例えば満鉄本社にありましたところの調査部の北方班関係に勤務、ておりました、ハルピンの北滿経済調査局に勤務しておりました者はこれは残つております。三宅藤志、皆さん御存じかも知れませんが、ハルピン学院の十九期生でこれは十三ラーゲルに移りまして、起訴前まで行つて帰りて来ております。これはカラカンダの十三分所で、彼は卒業して初めての教え子でありますが、会いました。刑に服しておりません。ただ彼の話だと彼の同僚は殆んど行つております。その外特務機関は勿論のこと、ハルピンにありましたロシア語部隊を卒業しましてから、ロシア語関係、或いはロシア関係に従事した者は殆んど刑に服しておると言つて差支ないと思います。それからその八十何者の者の消息でありますが、私は八十何名がどういう方々か存じておりませんから、私の知つておる者が八十何名に入つておりますかどうか分りませんので、八十何者が具体的にどうなつたかということは、八十何名の名前でも教えて頂きますれば、分りますが……
  157. 北條秀一

    北條秀一君 佐藤健雄君を覚えておりますか……。御存じなければいいです。
  158. 尾ノ上正男

    証人尾ノ上正男君) ちよつと……
  159. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次は有田証人証言を求めますが、第一の点は、平塚運動の実態とその影響について証言を求めます。  第二点は入ソするときの看護婦の、いわゆる満洲地区にありました看護婦がどういう状況で入ソしておるかという点、知つておられる範囲において、並びに中共軍に留用されたという看護婦等の状況について述べて頂きます。
  160. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) 第一番目は平塚運動の実態とそれから何でございますか。
  161. 岡元義人

    委員長岡元義人君) その影響……  有田証人に申上げますが、若し分らなかつたら分らないと言つて頂けばいいのです。知つておられる範囲において……
  162. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) 一番目の平塚運動の実態とその影響に関しましては、君のところの集団そのものが、政治運動には關與しておりませんでしたなら、これに対する正確なことが言えません。存じておりません。  第二番目の入ソするときの看護婦の状況ということについて簡単に申上げます。先程お話しましたように、私の病院の看護婦の主体が溝淵赤十字看護婦の中村婦長以下三十三各、飽くまでも我々と行動を共にすると言つてつた看護婦軍属四名、ハルピン市内に若いて病院の職員たる看護婦並びに職員の妹、これを入れまして全部で四十名おりました。この四十名は飽くまでも日本将兵のために死するまで看護婦がしたいと言つて、我々の病院に編入されたものでありまして、忙しい時には十二時間、十四時間というような活動を焼けておりましたけれども、私は二十一年の四月十五日に下士官二十名、軍医二十名を連れて入ソするとき、この全員が息者と共に残つております。その外元来の牡丹江第一陸軍病院、或いは掖河におりました病院の看護婦、合わせまして約二百名、この者は依然として私の出ますときには残つておりました。  第三番目の中共軍に留用された看護婦の状況ということにつきましては、私が四月十五日に入ソしまして、その後の状況は皆目分りません。こちらに信つて来てから彼の地から脱走して来た人、その他からの手紙によつて大体中共軍に留用されておるということを知り得たに過ぎません。
  163. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと有田証人に……。今委員長が聽きましたのは入ソした看護婦がどのくらいあなたの知つておられる範囲においてあつたかということであります。その点一つ。  ついでに海林病院と牡丹江病院においてどのくらいの死亡者があつたかを、併せて簡單に知つておられる限りにおいて証言をして頂きたいと思います。
  164. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) 入ソしてから私はノポニリスクの病院に約半年、この病院には彼の地区の各方面からの患者が入つて参りましたけれども、看護婦についての状況は一切分りません。彼らも一切見ておりません。私自身も看護婦の影だに見たことはありません。それから海林、牡丹江における死亡者の状況について申上げます。海林に約一ケ月、この間我々の所に入院しておりました患者総数約四百名、毎日死亡者が約十名です。牡丹江に参りまして初めの約一、月間約四百名收容しておりましたけれども、十一月末から十二月にかけてソ連から大量の患者が入つて参りました。そしていきなり四百名の收容力から千二百名の收容力を持たされまして、防寒設備も何もないと、ろに夏の服装をした患者を無理やりに押込んで患者は虱だらけで、結核患者は栄養失調に加えて、動物にも劣る輸送の途中の凍傷、こういつたものによつて死亡者はぐつと上りました。併しながら千二百名の患者のうち、一日の死亡者は十三名から約二十名、この間の平均でありまして、私が翌年の四月十五日に入ソするまでに約二千名、こういうふうに判断しておりますけれども、これは病院の裏の実地に全部埋葬しまして墓標を立て、忠魂碑を立て病院の書類は全部完璧に作成しておりました。これを一月中旬ソ連兵の警戒の下に墓を全部発掘して、死体をトラックそれから貨車に積んでどこへか運び去り、墓標は全部どこへか持去つてつてしまうと共に、次に来たのが私の病院に警戒兵十数名を連れて乘込んで参りまして、病院の書類、遺骨という遺骨、遺髪全部これを押收しました。次に来たのが、私が事務の説明上つげておりました患者総員、それに対する死亡者の統計表、これに言いがかりをつけて三回目に私を拘引じまして、約一ケ月ばかり牡丹江の彼等の取調所に拘禁されました。━━━━━━これは私の病院ばかりでなく拉口その他掖河牡丹江第一陸軍病院こういつたものも、そういうような状況に置かれたという話を伺いました。終ります。
  165. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 有田証人にお尋ねいたします。十二月の二十四日の証人証言によりまして宗像君の証言にあるのでありまするが、日本新聞の最高責任者吉良金之助君が語つたのが赤旗に載つておるのであります。それは病院で死んだ場合においては、その経過診断書が五通作られて、その一通は国際赤十字に、その五通はそれぞれ送られておるということが載つておりまして、これを宗像証人も認めておるのでありまするが、有田証人は病院関係に勤務されておつたようでありますが、そうした場合に然らば診断書等は五通ずつ作成されたかどうか。
  166. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) 今申上げましたように牡丹江では私は病院長をしておりまして、私の病院自体で死亡者に関する名簿を作成しておりました。而してこれは全部引上げられました。それからノボニコリスクの病院に約半年私が外科に勤務いたしておりました間に、死亡者に対する死亡診断書を一通も作つた覚えはありません。
  167. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 重ねて有田証人にお尋ねいたしまするが、やはりこれも吉良金之助君が語つたものでありまするが、病院等において病人が死亡するとか、或いは非常に体を損ねるとかいうような場合に、保険がついておらないから特に大事にするとか、給與されておるような場合がある。非常に体を労わるということを、常にいずれの病院でも語られておつたというふうに言われておつたのですが、そういうふうであつたかどうか。
  168. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) 質問の内容が……もう一度。
  169. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 病院等に入つているその病人には社会保障そうしたものがかけられていないから特に大事にするようにというふうで、非常に労わり方が懇ろであつたということを語られているのでありますが、そういうふうであつたかどうか。
  170. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) 只今の御質問にお答えします。私が勤務してましたのは二十一年の四月から同年の十一月まででありまして、この間におきましては、こういつたことは絶対ありませんでした。反対にあそこの病院ではこの年は一切生野菜を食べておりません。十四地区の他の収容所では生野菜がふんだんに余つておりました。併しながら病院ではただ乾燥野菜、このときに私の受持つておりました患者の一人に重症膿胸の患者がありまして、陳旧性膿胸となつて日に三十八度ぐらいの熱が出没して食慾が全然なくなつてしまつた。どうにかして生野榮を食べさせてやりたい、こういつた時期に作業隊の兵隊から、今日ソ側にトマトが入つた筈だからといつたことを聞きまして、直ぐソ側の軍医に頼みましたが、あれはソ側の職員が金を拂つてつた野菜である。あなた達の野菜ではないから上げられないと、同じ外科に勤務している軍医だつたならば、自分のところの患者がそういつた状況にあつたならば、自腹を切つても患者に食べさすのが至当ではないかと思います。このとき程我々が赤十字條約によつて待遇をされ、俸給を支給されておつたならばというように痛感したことはありませんでした。一連の事例を挙げました。
  171. 千田正

    千田正君 有田証人にお伺いしますが、只今証言の中にソ連兵が来て墓地をあばいて死体をいずこかへ運び去つた、又死亡者の氏名を記録しておつたところの名簿を没收していずこかへ持つてつた。この死体をあばく際、或いはこの名簿の提出を迫る場合においてソ連側から何らかの通告がなかつたか、同時にどういう理由の下にこうした死体をあばき、或いは死亡者の名簿を持去らなければならないという理由を説明したかどうか、及びその後において、入ソされてから後、或いはそり他のところにおいてあなたが外の軍医の仲間の方々から、同じような状況において死体があばかれ、或いは死亡者の名簿或いは遺品というようなものが没収されておつたというようなことを聞いた事実があるかどうか、この点について御証言を願います。
  172. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) 只今墓を発いた、或いは名簿を没收するときに何等かソ連からの通告があつたかどうかという問に対しまして、ありませんというお答えをいたします。若し要しますれば、この前からの彼等がこの挙に出でた前後の事情をお話してもよろしいのでございます。入ソしてから他の軍医からこういうことを聞いたかどうか。これは拉口には初め牡丹江第一陸軍病院とキョージュから一緒に……キョージュの陸軍病院がハルピンに落ちておりまして、ここが私のところの病院と一緒に、海林に来まして、私共が海林に二ケ月開設しています間に、キョージュの陸軍病院は拉口において開設、地方民を収容しておりました。ここの拉口の墓が発かれた。ここも私の病院と同じように全部死体を運び去つたということは聞いております。死亡者の名簿についてはうつかりして聞いておりませんでした。
  173. 千田正

    千田正君 大体そうしたことの起つたのは年月はいつ頃でありますか。
  174. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) 昭和二十一年の一月中旬です。
  175. 北條秀一

    北條秀一君 場所は。
  176. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) 牡丹江です。
  177. 千田正

    千田正君 昭和二十一年の一月中旬、場所は牡丹江ですね。
  178. 北條秀一

    北條秀一君 有田証人に関連してお伺いしますが先程あなたはこういうことによつて、━━━ということを言われたんですが、私判断すれば、旧満洲国領土内にですね、それだけの死骸を埋め、墓標を立つて置けば別に━━━ということは、ソ側に何らの利益にならないということが考えられるのです。私は従つて━━━━━ソ連として残した方が、ソ連にとつては有利であるというふうに私は考えるのですが、さて、そこであなたお伺いしたいのは、その際に、病院の運営の責任は、一切合切これはソ側の指揮に基いて療養も給與もなされておつたというふうに私は理解するんですが、そうでありましたか、その点をはつきりして頂きたい。
  179. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) 只今の死体の━━これに関しましてその前後の事情をお話します。病院を牡丹江で開設以来、ソ側収容所附の軍医並びにあの地区における司令部関係更に上層部から、恐らくソ領から来た上層部の将校だと思います。こういつた人達が、毎日のように来ては、死亡者の状況を気にしていた。どうしてこういう死亡者が多いんだと、原因を非常に初めのうちは気にしておりましたですが、中頃、一月初めの頃と記憶しております、やはりソ側の上層部から来た将校が、日本人の風習では、死体はどういうふうに処置するか、といつた問に対して、自分は勿論火葬である、そうしたならば死体は日本人の風習に従つて火葬しろと命令を下しまして、三日間で燒場を完成しまして、約三日間火葬に付しました。するとそれと同じ頃に、火葬しちやいかんという命令があつて、それから警戒兵を立てて墓を発き出した。終戰後の死亡者に対しては、初め重大な関心を持つていたけれども、死亡者の数が一向に減らないで激増の一途にあつた。これを━━━というふうに自分は推察しておりました。
  180. 北條秀一

    北條秀一君 有田証人に、私がさつき申しましたことをもう一度お伺いしますが、あなたの病院には、終歳時には、相当の期間病院の病人を支えるに足るだけの食糧或いは薬品があつたと私は推定するのです。従つて、その薬品の使用及びその食糧の使用は、すべてソ軍の兵隊が一切これを指揮命令したか、その指揮監督に基いて、薬を投じ、或いは食糧を渡したか、こういうことが今聞きたかつたのです。それからもう一つ関連してお伺いしますが、一月の中旬に牡丹江で千数百の死体を掘るということになりますと、これは容易ならん作業であると私は思いますが、そうした難作業ですね、あの寒中の土地が凍つておる真最中にそういう難作業をするに当つて、誰が一体そういう作業をしたか、そういう点をお話し願いたい。あなたのお話ですと、どうもソ連が全部やつたように聞えるのですが、ソ連の兵隊がやつたのか、日本人の兵隊がやつたのか、その点を一つはつきりして頂きたい。
  181. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) 初めの病院の薬品並びに食糧の使用に関しては、私が委ねられました。それからいわゆる死体の発掘作業が如何なるふうにしてなされたかといつた点に関しましては、十一月からは土が殆んどかちかちに凍つて参ります。従つて、墓の穴もそんなに深くは掘れない。あの当時の患者で治つた兵隊の体力というものは非常に弱くありました。その患者が掘るのですから、深さがせいぜい五十センチ、長い穴を掘りまして、端の方から段々置きます。その上から土を軽く被せて置く、雪溶けを待つて完全な埋葬をするといつたようなやり方をやつておりました。それ故に、この発掘作業というものは、大した労力なしにできたのです。それ以前の埋葬者は、相当個人々々掘りまして潔くありましたけれども、十一月以降患者が激増しましてからの死体の処理というものは、結局そういつた結果になりました。
  182. 北條秀一

    北條秀一君 それでその発掘作業ですね、あなたの病院の患者がやつたのか、或いはソ連の兵隊が来てやつたのか、その点を……。
  183. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) 埋葬は我々がやりましたけれども、発掘作業はソ連兵が五名ばかり警戒につきまして、あそこにあつた收容所から約十名の兵隊を隔離しまして、彼らの收容所から隔離しまして、一定期間作業が終つても帰さない、向うに留めて置きまして発掘作業をやらせておりました。
  184. 北條秀一

    北條秀一君 いや結構です。
  185. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 各委員からこれで一応の質問を終りましたが、総合的に何か質問されることがありましたら御発言願います。
  186. 北條秀一

    北條秀一君 板垣証人と内山証人にお尋ねいたしたいのですが、午前中の証言で板垣証人は事実と真理は違うんだという御主張がありまして、御主張は私は理解できるのでありますが、先程来問題になつておりますソ連において死んだ人、捕虜が沢山死んだと思います。どれだけ死んだか分りませんが死んだのでありますが、これは確かに死んだという事実でありますが、その事実は国際條約に基いて即ち先程来の話の一九二七年のジュネーヴの捕虜の待遇に関する改訂條約に基いて單にそれだけでなしに、まあ国際人道主義から申しましても、死んだ人の名前を発表するということが最も自然なことだと、私はそう思うのですが、これが今日まで数回に亘つて私共が連合国にお願いし、連合国においてソ連当局に要請されておるのでありますが、今日まで四年半の間一回もそれがなされておらない。こういうこの事実について板垣、内山両証人は何か御意見がありましたらお知らせ願いたい。
  187. 板垣正

    証人(板垣正君) 今言われましたこの事実は、事実として自分も認めます。
  188. 北條秀一

    北條秀一君 その問題について、あなたが向うにおられました間に、死んだ人の名前は成るべく早く日本に通告して貰いたいということは、生きておる人が成るべく早く本国に帰りたいと考えると同じように、死んだ人の名前も成るべく早く日本に知らせたいということは、まあ普通の人情だろうと私は思いますが、その死亡者の名前を本国に通告するということについてあなたのラーゲルでは何らかソ連側と交渉されたことはありましようか。
  189. 板垣正

    証人(板垣正君) そういうことについて私は開いたことはありません。事実は分りません。でこの際一つこの停戰後において、入ソしてからいろいろな人が沢山犠牲になつてこくなられている、これは事実であります。又こういう事実に対して、私はこれは確かに日本が戰争に負けたということによつてもたらされているところの一つの悲劇であります。これはその本質においては、あの幾多有為な青年が爆弾を抱いて特攻隊になつて出て行つた、そうして死んで行つたのと本質において同じものであると自分は思うのであります。こういう意味において再び戰争を繰返してはならないも現在において平和を飽くまで擁護しなければならないという意味において、現在更に大きな立場から反省して、現在一つ一つのこういう悲劇というものによつて、徒らにその感情を刺激し、国民というものが却つて又、前持つていたようなあのソ同盟に対するところの憎悪心、野獣心、自分達が曾て士官学校で教わつていたところの、赤の国であるとか、謎の国であるとか、そういうことによつて自分達が同じ人間でありながら、あれ程の憎しみを植付けられていた。そういうものを再び現在繰返して再びこういうことによつて復讐心とか、もう一回戰争をやるとか、そういうような……非常にこういう行き方というものは危険なものであると、こういうようなことを自分として考えるのであります。
  190. 北條秀一

    北條秀一君 板垣証人はどうも自分の主観を言い過ぎるのですが、死んだ人の名前を要するに日本に知らして実れるということが疑惑を解き、復讐心をなくするゆえんだと私は考えております。何らそこに偏見もなければ、あつたことはあつたこととして知らして貰いたい。それを日本の国民は知らして貰えれば安心が行くんだ、こういうことなんです。そういう点で私は申上げたのであります。そこで私は話は違いますが、あなたにこの際お聞きして置きたいのですが、先程種村証人及び長命証人からお伺いしましたが、在ソ間におけるところのいわゆる待遇の問題ですが、とかく日本では待遇がいいとか、悪いとかということが問題になるのですが、あなたの体験を通じて四年間に待遇、ソ軍の收容所があなたに與えたところの待遇は一概に言えばよかつたか、悪かつたか、こういうことです。
  191. 板垣正

    証人(板垣正君) それはよくも悪くもなかつた。捕虜として扱われて来たと思います。
  192. 内山明

    証人(内山明君) 内山証人発言します。死亡者についてこれを本国政府へ通知しなかつた問題について自分の意見を述べます。死亡者について本国政府へ通知するような国際規定……、国際規定の問題については自分は全然知りません。今ここで若干聞いて初めてそういうものであつたかということを知つた程度であつて別に研究しておりません。これは多くの人達がそうであると思います。それにいずれ国際法規に基くならば勿論、これは日本政府がこれに署名していないということを言われましたが、本国政府に対して死亡者を通知するようになつておるということを言われましたが、これはそれが当然であるし、当然日本政府へこの死亡者というものは正確に通知しなければならないと考えております。我々がソ同盟におるときには、ソ同盟に我々が入つて一ケ月目に我々の部隊においては名簿を作成しました。尚更に正確なものはその後二ケ月程経つて又作りました。そういう名簿もできておつたし、その名簿というものは我々がどこに行つても、どこに転属になつてつても、その名簿というものは我々の身、辺に附きまとつてつたのであります。だから当然これはナホトカにまで来たのでありますから、死亡者の数というものも正確であるし、誰が死んだということも分つておる。この点に対しては自分は一点の疑いも持たない。この問題で質問に遭遇しまして、自分もこれを政治部員に聞いたことがあります。そうすると、これは中央へ報告し、それから抑留者を通じて、これは本国政府へこれを知らせるようになつておるから大丈夫だという回答を受けておつた。そういうわけで自分はそれを信じておる。従つて、ここでその死亡者の通知がなかつたということは、正式に聞くのは初めてであります。それからもう一つ、自分は残念ながら今まで、今までと言つてはあれですが、ドイツの捕虜の問題、或いはアメリカに行つた日本の捕虜の問題であります。或いは日本におつたところのアメリカの捕虜、又はオランダの捕虜、こういう者に対してのこういう発表というものを、正式な発表というものを自分が捕虜になつている当時、在ソ間にこの発表があつたかどうかということは自分は全然知らないが、この点若し差支なかつたらお知らせ願いたい。
  193. 北條秀一

    北條秀一君 待遇の問題は……
  194. 内山明

    証人(内山明君) 待遇、食糧の問題は初期の頃は、どれだけ配給になつてつたか自分達は正確に知りません。この当時はさつき申上げましたように歪曲も行われた。併し大体全員で以て糧秣或いはその他を管理し、この問題がやかましくなつてそうして糧秣係を替えたり、炊事を改善したりすることによつて明確になり、給與というものも正確にソ同盟から示された通り受領したのでありますが、それは規定された通りであります。若干これが変つて参りましたが、途中になつて、例えばパン三百五十に、穀物は四百五十、その他油、砂糖、こういうものの規定があるが、途中でパンが六百五十になつた場合もあります、いろいろありますが、我々捕虜としてはよい方であつたと考えるわけであります。
  195. 北條秀一

    北條秀一君 金銭給與は……
  196. 内山明

    証人(内山明君) 金銭給與は我々は捕虜としてこういう金銭給與を受け、而もこれは地区によつて異なりますが、大体五十ルーブル以上、多い人は百五十ルーブル貰つておりましたが、これだけ貰うと我々の生活を保障する上に、これは十分なものであつたと思います。
  197. 北條秀一

    北條秀一君 税金の問題はどうなつておるか。
  198. 内山明

    証人(内山明君) 税金の問題に関してはどうなつておるか自分はよく知りません。ただ四百数十ルーブルの炊事代その他のものを支拂つたあとは、全部これは支給したということは聞いております。税金については全部が三%乃至一%差引かれておるということは自分は知りません。
  199. 北條秀一

    北條秀一君 この金銭給與仔細書ですが、最後にあなたはナホトカを立つときに金銭給與は一銭も、一ルーブルも残つていなかつたのですか、残つてつたとすれば、それは日本に持つて帰ることを許されたのですか、或いは許されなかつたのですか。
  200. 内山明

    証人(内山明君) ナホトカを出発するときは自分は一銭も持ちません。ナホトカから船に乘るときは一銭も持ちません。ソ同盟側から日本にはルーブルは持つてつてはいけないという命令であります。
  201. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 内山証人と板垣証人にお尋ねするのですが、簡單に読んだとか読まないとかいうことでお答え願いたい。昨年十二月二十一日の第百二回の対日理事会百のシーボルト議長の声明、英連邦代表ホジソン代表の提案、そうしたものを帰つて来られてお読みになつたことがあるか、どうか。
  202. 内山明

    証人(内山明君) 十二月二十一日であつたかどうか記憶しておりませんが、デレヴイヤンコ代表が席を蹴つてつたというあの記事は読みました。
  203. 板垣正

    証人(板垣正君) 読みました。
  204. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それでは有田証人、尾ノ上証人、高橋証人、長命証人種村証人に簡單にお答え頂きたいと思うのでありますが、外電は、天皇を戰犯にということをソ連が要求しておる。更に又キーナン検事がスターリンを裁けと言つたことも新聞に出ておる。私の聞き及ぶところによりますと、最近の裁判要求は引揚澁滯の煙幕だということも新聞は報道しておる、外電はこれを伝えておる。細菌戰術はソ連が本家であるということも聞かされておる。モスコーの郊外の銀の森に特殊部隊があつて、これには日本からもモスコーに留学して、これを研究して帰つたという人もあるということも聞かされておる。で防疫関係の仕事にそれから携わることになつたということも聞いておるのでありますが、只今私が申上げた証人方々で、向うに抑留されておられます間において、そういうふうなことを聞かれた方があるかないか、あればある、なければないと簡單でよろしうございます。
  205. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 発言を求められる方は委員長と呼んで頂きます。
  206. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) ありません。
  207. 尾ノ上正男

    証人尾ノ上正男君) ありません。
  208. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) ありません。
  209. 長命稔

    証人(長命稔君) ございません。
  210. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) ございません。    〔「議事進行」と呼ぶ者あり〕
  211. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ではちよつと二、三の点について……
  212. 千田正

    千田正君 委員長、ちよつとお待ち下さい。今日お見えになられた証人方々は、恐らくこの数年というものは祖国日本を離れて、非常なる体験をなされておる。或る人はソ同盟というものの本質を掴んで、これが最も正しいものだという信念で証言されておる万もおられれば、ソ同盟に対するところの、いわゆる国際道義というものを根本にして、これを非難されておる方もある。私は今日の最終段階において、皆様からはつきり伺いたいのは、一体五年間留守している間に、あなた方が今度帰つて来て、誠に短い時日の間にお見えになつたのでありますから、十分なる御観察はないかも知れませんが、一体日本がソ同盟と比べてどういうふうになつてつたか、この留守の間、どういうふうになつてつたかということを率直に感じた点なりを簡單に、これは進んでおつたか、マイナスになつてつたか、この点だけを種村証人以下から簡單にお答え願いたいと思います。
  213. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 簡單に要点だけをお答え願います。
  214. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) 私は終戰の年の八月五日の晩に、十時頃窓からへし合うように東京駅から乘りまして、そうして名古屋、大阪を経て米子の飛行場に行きました。そういう関係上、最も終戰の悲惨な、終戰前の悲惨なる状況を目の当り見て、これをどうしても眼底から去り切れない印象を持つておるものであります。そういう意味におきまして、この度参りまして、舞鶴東京間を往復いたしまして、又東京市内を見ましたときの第一印象は、終戰後の復旧は、とにかく東海道沿線を見ても、どこを見ても、ともかく格段の、私は終戰前の、その当時のような憂欝そうな人々の顔を見ることなく、一歩一歩復旧して進みつつある状況を見て、私は非常に安心をしたものであります。第二の点は私共は農地改革という問題につきましては、日本新聞を通じまして、日本においてはまだ殆んど実行せられてないということを我々は知りつつ日本へ還つて、実情はどうかと思つて参りました。私の家は三重県の北の方の山の隅でございますが、そうして私の家は実を申せば村の小地主でございます。家え帰つて見ますというと、今や村の最貧困分子の一人になりまして家内は終戰後第一、第二年は漸く食べて、三年、四年後、本年は村の多收穫の一員になりまして、非常に生活も楽になつたと、こう申しておるところへ私は帰りました。全く農地改革は実行せられて、どの人も、どの人も村が変つたでしようということを、会う人ごと言つて呉れておる状況であります。私も非常に嬉しい気持で農村の姿を見ました。先程も申したのでありまするが、私共の村で新聞を読むというような者は、村に一人か、組に一人か、そこらでありましたのが、挨拶に参りますと、どの家も、どの家も新聞を取つておらない家はない。ラジオを聽いておらない家はない。殆んどどの農家も家を修築し、新築をしておる。全く田舎の小さい字のことでございまするが、景気が戰争前よりはいい状態に私はあると思います。今後米価の問題とか、その他の問題で農村に恐慌が、一時的な恐慌か、永久的な恐慌かは、今後のこの政治の運営によつて決められると思いますが、或いは襲つて来るかも知れませんけれども、今日見ました農村の状況は、私が二、三日見た感じでは言葉で言いますと、農村の平和革命でございますが、事実上に行われて来たということを痛切に感じました。今後国内全般の問題につきましては、私共素人でございまするし、ゆつくり見て先ず農村に落着き、力のある限り皆さんと協力して、平和なる日本の建設に努力いたしたいと、こう考えております。見たままのことを御報告申上げます。
  215. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 簡單にもう少し各証人から、今の質問に対して要点だけお答えを願いたいと思います。
  216. 長命稔

    証人(長命稔君) 終戰直後の我々の祖国の状態につきましては、当時外蒙におりました頃に、ロシア新聞並びに蒙古のウランオットという新聞がありますが、これに写真を掲載して呉れましたので、大概帝都並びに特殊の戰災を被つた都市の状況を目で見ることができました、爾後蒙古二年もシベリア二年の生活を通じまして、今度久し振りに帰つて参りまして、舞鶴から東京までの状態をほんの僅かでございますが、あの地に囚われておりましたときの予想とは、余程の差があるということを感じているものであります。と申しますのは、少尉の頃に、関東の震災のときに戒嚴勤務のために東京周辺地区、横浜地区をよく見ておりますので、その復興の状態と比較しての考えであります。  第二に感じましたのは、いわゆるシベリアにおりますときに革命か革新か、これはよく思想運動者と私との間に取交された問答でありますが、金融方面のことも、産業方面のことも、私は素人でありますが、昨年の春対米為替三百六十円にレートが固定されてからすでに一年以上経つておりますのと、産業方面では農地の改革、工業方面、これらのことが短期間のことではありますが、見たところでは千葉県附近の農村、又品川から深川附近の状態を見まして、これも私の予想以上に復興されているもの、又は革新されているものという感じを深く持つております。今後更に日本の実態を各方面から見せて頂きまして、私個人社会方面の復興にも、できましたら微力ながら話したいと考えている次第であります。終り。
  217. 岡元義人

    委員長岡元義人君) できるだけ簡單に要点だけ、変つていると思うなら、どれくらい変つておるか。
  218. 板垣正

    証人(板垣正君) 確かに変つておるし、進歩していると思います。終ります。
  219. 内山明

    証人(内山明君) 内山発言します。戰前の状況と、これは自分の近くで見たのでありますが、殆んど変つておりません。それでこちらの方へ参りますと、こちらの方では変つたということを会う人が言われております。事実何にもなくなつたと思われていた所にも、例えば広島です、こういう所にも家が立ち並んでおります。そこで一見して復興しているかのように自分も感じております。併し真実実際は非常に自分は驚異の感じに打たれたのでありますが、失業者の多いということ、それから物価の高いということ、金がないということ、こういう状態のために、実はこれはどこえ行くかということを自分は危惧しているわけであります。終ります。
  220. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) 自分は随分変つておると深く感じます。勝利国であるロシアの日常物資が如何に欠乏しておるか、敗戰国である我々の国のいわゆる生活品が如何に豊富であるか、更に言葉を次ぐなれば、彼等の明るさが……彼らと言うのは向うの国の人でありますが、向うの国の人の顔が、私には医者の見た第六感としましても、如何に彼等が、それ程まだ明るくなつておらない。即ち憂欝さが相当残つておるに拘わらず、日本人は非常に和気藹々として、殊に子供のあの童顔は我我が戰前に見た、終戰ではありません。戰前に見ました童顔と何ら変つて来ておらないということを痛切に感じております。更に言葉を次ぐなれば学校、いわゆる学制問題にしろ、或いは政治意識の高揚にしろ、その他のいろいろな改革、変動があつたに拘わらず、実に国民がそれに対して協力してそうして、我々のいわゆるソ連式でない。我々の考える新らしい民主的国家を建設することに努力しておるということを自分は痛切に感じまして、涙がこぼれる程でありました。
  221. 尾ノ上正男

    証人尾ノ上正男君) 帰つて見まして、自分が想像しておつたよりも遥かに高く、又早く経済的に復興しておることに驚きました。国民の生活も苦しいながらも、ともかく前途に希望を持つて生きているということを喜びます。が併し同時にまだまだいろいろの社会的欠陥があることを私は認めます。一番歎かわしいのは、いわゆるまた日本国民としての倫理というものが回復しておらない。文化その他の諸方面において歎かわしいものがあるということを、私は教育者であるからかも知れませんが、それを痛感します。
  222. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) 復興目覚ましいものと思います。
  223. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは簡單でよろしうございますから、委員長から二三の点を質問いたしますから、知つておられる範囲をできるだけ数字と、それから自分が知つている範囲においてだけ述べて頂けばよろしうございます。聞いたというところは聞いたと述べて頂きたい。  先ず種村証人から伺つて行きますが、あなたの知つておられる範囲で、これは各証人とも聞いて頂きますが、知つておられる範囲で現在尚残つている同胞、そのラーゲルと、それから数、この点について述べて頂きます。差当り種村証人から……
  224. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) 私はハバロフスク地区とナホトカ地区だけは見て参りました。ハバロフスク地区は大体概数日本人が三千人ぐらいおると思つております。その中の一千人が刑を受けた者、及び未決に繋がれておる者、残りの二千人が大体一般のラーゲルにおる者、一般ラーゲルは現在二十一分所、二十分所、十八分所、第二分所、第五分所、第六分所、これだけあります。ナホトカは私共が帰るときには概ね少なくとも千五百名ぐらいの者がまだ残つてつたと認めます。その他船に乘つておりますとき、私は中央アジア方面、ウラジオ方面の多数の各位の意見を総合いたしまして見たところ、大体中央アジア方面に千五百名、内三百名ぐらいが刑の決定した者、ウラジオ附近が大体六百名で、刑の決定した者は百名ぐらいです。こういうふうに多数の人の意見を総合した観察を資料として得ております。その外小さい所では、モスコーには大体合計して本名内外は少くともおられる。カラガンダ地区に大体四、五十名ぐらいはおる。その他は判断をする余地はありません。合計して今回乘つた者を含めて七千名ぐらいであると、私は概数を考えております。
  225. 長命稔

    証人(長命稔君) 在ソ残留邦人のことについては種村証人とほぼ同様、一言申上げたいのは外蒙古にまだ残つておる人間が六人おると思います。これは刑を受けて刑務所に繋がれておる人、終戰当時内蒙古におりました国境に近い旗公署の職員と特務機関の派出員だと記憶しております。これは先般私と一緒に帰りました、当時二年前でありますが、同じ刑務所に繋がれていた小林多美男君から二年前に聞かされている事実であります。もう一つクロスノヤルスク附近、樺太地区におりました日本婦人、主として経済犯によつて告発され、シベリアにおいて刑を受けました、人数ははつきり分りません。五、六十名内外の日本婦人が一昨年、昭和二十三年の一、二月頃クロスノヤルスク附近におつたことを聞いております。クロスノヤルスクから私のラーゲルに参りました小川少佐から聞いております。尚その中には刑が終りまして帰りたいにも旅費がなし、パスポートを呉れないというので転々労働をしながら東へ東へ移動しておる日本婦人があることも附加えて聞かされております。以上。
  226. 板垣正

    証人(板垣正君) ナホトカを出発する時に、ナホトカには千五百名くらい残つておりました。その外は確実な数字を把握しておりません。
  227. 内山明

    証人(内山明君) 各地区より来られた人達とよく検討した結果、次のような資料を持つております。カラガンダ千百八十名、その内訳は八分所が四百、五十、九分所が二百三十、十三分所が十、十五分所が四百二十、十九分所が十、二十二分所が五十、以上手管八十であります。ハバロフスクは千七百八十七又は千八百八十七、その内訳は二分所が六百又は七百、二分所から来た人は六百或いは七百、正確なことを記憶しておりません。五分所は百三十、六分所は百工、十八分所は七十五、二十分所は二百十、二十一分所は六百。ポールの病院が八十、ウラジオ五百七、その内訓は船が二艇あります。サマルカンド四百、サラトフ百七、ナホトカは千五百三十八、一分所が十五名、三分所が八名、第四分所千四百名、出張が三十五と八十、ニケ所で百十五、これは舞鶴においてこのナホトカ、ウラジオ、ハバロフスク、カラカンダ、これらの各分所から来た人達の記憶をあれして集計したものであります。
  228. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) 大体我々が今般一月二十二日船で還りました。その還つた人達から聞いたいわゆるカラガンダ、ハバロフスク、ウラジオ地区、ナホトカの実数の模様は、長命氏が説明したことと大体同様でございますが、一つ、自分が十二月二十一日地区本部の取調べに行きましたときに、そこにおりました満洲国総務局に勤めておられた佐伯という方が面接十三分所にある石炭を受領に行きました。当時その十三分所は我々がおりまして、我々が最後となつて十二万の末に二十一分所に集結したように、我々は信じておつたのであります。当然十三分所の方は空になつてつたと思つていました。ところがそのときに石炭受領ということを佐伯という人から直接聞いたのでありますが、それによりますと、有罪並びに証人として残つておるのは、前のハバロフスクにおける五分所、それが焼けて現在はデシャトイという名前になつておるそうでありますが、そこが満員になりまして約六百、そこに收容し切れないようになつたために、十日分所が新らたに我々が出たあと開設されまして、日本人のかようないわゆる証人、或いは有罪になるような人と、ロシア人の有罪の者七十数人が雑居しているということを確かに聞きました。それからその外の部隊では現在ソヴイエト・ロシアに邦人が残つていることは、確実なことは知りません。ただ私が想像して不思議に思いますのは、ずつと以前終戰頃吉林の近くの敦化にパルチザン戰を企図していた機動部隊の旅団があつたそうであります。そこに入つておる将校並びに兵の人々はずつと以前入ソ後間もなく帰つたそうでありますが、最近になりまして、即ち昨年の三月四月頃になりまして、各分所におりましたその機動部隊に関係のあつた将校並びに兵は、いつの間にか分らずにどつかへ連れて行かれた。これは我々と行動を共にしたところの平野という少尉が、ゲ・ぺ・ウから追及され、事情止むを得ないということを申しまして涙を流しながら別れて、それから間もなく行方不明でどこに行つたか分りません。各分所を我々歩きましたが、平野の姿が全然見えません。それからもう一つ、これは私が直接聞いたのではありませんが、私の或る部下から聞いたのでありますが、樺太の市民で作業その外のことによつて刑を受け、そうしたわけの分らないままに自分達は今から……
  229. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと高橋証人に申上げます。あなたの知つている範囲で……我々の委員会は三年間調査しておりますから、あなたの証言なさる以外に、あなた方の知らないこともこの委員会は知つております。ですからあなた方の知つておられるだけ……
  230. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) そうですか。それでは私の知つていることは以上であります。
  231. 尾ノ上正男

    証人尾ノ上正男君) ナホトカを立ちましてから以後、まだいると私が考えますのは、ハバロフスクに千五百乃至一千六百、カラガンダに千二百と、団体懲罰を受けておるもの四百名、タシケント地区に受刑しておると思うもの六十名、それから樺太において刑罰を……犯罪を犯し八十ハロタスク附近に、おいて受刑し、受刑後ウズベツク共和国の中に入つておると思うもの約数十名、それが今日のものであります。  それからこれはキリギス国境附近の糧秣需要に行つた者が観察をしたものでありますが、ノモンハン事件当時の捕虜約二千名がキリギス国境地帶におるということを申上げて置きます。
  232. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) 私には正確な資料がありません。ただ我々将校団の中におつてつてないことが確実な人が、三十七名だけ記憶にあります。それだけです。
  233. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次の一点簡單にお答え願います。スターリンのいわゆる感謝決議文を昨年の六月時分から九月にかけて行われたそうでありますが、この署名運動の署名をされたかされないか、それだけ簡單に答えて頂きます。先ず種村証人
  234. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) 私は当時モスコーにおりましたから、全然署名いたしておりません。
  235. 長命稔

    証人(長命稔君) ハバロフスクにおりましたが、署名いたしておりません。
  236. 板垣正

    証人(板垣正君) 署名しております。
  237. 内山明

    証人(内山明君) 署名しました。
  238. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) 署名しておりません。
  239. 尾ノ上正男

    証人尾ノ上正男君) 署名しておりません。
  240. 有田浩吉

    証人(有田浩吉君) 署名しておりません。
  241. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう一点補足して種村証人にちよつとお伺いして置きますが、樺太地区の実業関係で木下豊原製紙所の副社長外七名が現在どこにおられる、知つておられましたら述べて頂きます。
  242. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) 私は木下さんとはエラブカ当時以来懇意にしております。痩せてはおられますが、御健康なる方でありまして、昨年十二月の初めハバロフスクの二十一分所に私がおりますときに、木下さんは多分二分所からだろうと思います。二十一分所においでになられまして非常に元気におられました。ハバロフスク地区における最後の集結地でありまするから、多分今回の船でお帰りになるのじやないかと、こう考えます。
  243. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 内山証人に簡單に答えて頂きます。一問一答いたしますから……。あなたのハバロフスクにおられた期間はいつからいつまでですか。
  244. 内山明

    証人(内山明君) 一九四八年九月三十七日か八日頃から、一九四九年の十月二十三日、確か三日と思います。
  245. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次にもう一点一問一答で簡單に答えて頂きます。中央ビユーローにいた期間を証言願います。
  246. 内山明

    証人(内山明君) 中央ビユーローには九月中頃から十月まで一ケ月間であります。
  247. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 年数は。
  248. 内山明

    証人(内山明君) 四九年。
  249. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 一ケ月ですか。
  250. 内山明

    証人(内山明君) 一ケ月です。
  251. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次にもう一点、宗像、相川、諸戸、高山という人を知つておりますか。
  252. 内山明

    証人(内山明君) 宗像、諸戸、相川、高山ですね。
  253. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ええ。
  254. 内山明

    証人(内山明君) 全部知つております。
  255. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 諸戸はいつからいなくなつたか、その原因を簡單でよろしうございます。
  256. 内山明

    証人(内山明君) 諸戸がいなくなつたのは九月であります。いや、九月から十三分所に行きました。十三分所からオプラプレニヤーの方に帰つておりましたが、地区本部の方に来ておりましたが、それ以後知りません。知らないというのは、自分は帰還し、ナホトカに行つたのであります。
  257. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 内山証人に申上げますか、先程証言中に、日本新聞に関しては自分は知らないという証言がありましたが、諸戸が罷めたということを只今証言なすつておられますが、先程の証言と違つておりますが、その理由を述べて頂きたい。
  258. 内山明

    証人(内山明君) 日本新聞社に自分は関係はありません、こう言つたのであります。
  259. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 委員長質問いたしましたのは、日本新聞の機構が改革されたかということについて先程お尋ねしたのであります。そのときあなたは、証人は知らない、こういう御証言があつたのですが、諸戸がいつからいなくなつた、そのことについて今述べておられるのですが、そういうことを先程伺つた
  260. 内山明

    証人(内山明君) 諸戸は知つております。諸戸は知つておりますが、日本新聞社の機構の改革その他については知りません。というのはそれに関係していないかうと自分は言つたのであります。それがあのとき問われたのは、その後どうなつたか、日本新聞社がその後どう改革されたかという質問であつたと自分は記憶しております。個人としての人間は知つておりますが、機構のことについては関係しておりません。
  261. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう一点伺つて置きます。特に内山証人に伺いますが、タス通信の五十九万四千という数字が発表されましたが、これは正確だと考えておられますか。
  262. 内山明

    証人(内山明君) タス通信の五十九万幾らになつたという数字でありますが、あれは、あの数字全部そのものを正確だというふうに最近考えておりません。というのは九万五千という数字が全部去年で終つたことになつておりますが、私はその後現在又帰つて来ておりますので、その点不信に思つております。
  263. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 重ねてお聽きしますが、タス通信のいわゆる数字は、これは間違つておると、かように認められるというわけですね。
  264. 内山明

    証人(内山明君) ただ自分が不審に思つているのは、その一点だけであります。九万五千を年内に帰えすと言つてそれが年内に終つておる。併し現在それ以後に、今度帰つて来るのが、二千五百名ずつ二回で五千名帰つて来ますか、その一点において自分は不審に思つております。
  265. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 違つておると認められるのですね。
  266. 内山明

    証人(内山明君) そうです。
  267. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう一点、相当の死亡者があつたということはお認めになりますか。
  268. 内山明

    証人(内山明君) 死亡者があつたということは認めます。併し自分が見て来た場合における死亡者の率と、さつき長命氏その他が言われたところの一〇%乃至二五%という数字については、自分が見て来た眼と大分これは違いがあるのであります。だからその点については食違いがありますが、死亡者があつたというこの事実は認めます。
  269. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 内山証人にもう一点伺いますが、死亡者があるということを認められますならば、タス通信の発表は更に間違つているということはお認めになりますか。
  270. 内山明

    証人(内山明君) タス通信のあれは死亡者のことは何も書いておりません。だからタス通信の死亡者の発表もこれがないという問題に対しても不審を持つております。
  271. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 違つているというのですね。
  272. 内山明

    証人(内山明君) そうです。
  273. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 大体本日はお忙しいところを各証人には御出席願いまして、貴重な証言を我々委員会が聽くことができたのでありますが、今日の証言に基きまして委員会委員会において十分に判断いたしまして、今後の引揚促進並びに諸種の問題について参考にいたしたいと思うものであります。誠に帰国早々まだ時日も経つておりませず、非常に証人には御迷惑であつたかと考えられるのでありますが、尚残されておる同胞のことをお考え願いまして御了承願いたいと思うのであります。長時間に亘りまして誠に御苦労様でありました。有難うございました。
  274. 種村佐孝

    証人種村佐孝君) 委員長、一言お願いをして終らして頂きたいと思います。引揚促進に関しまして御講力を願うことについては感激の至りでございますが、どうしても全員帰ることはできないのであるという見通しの下に、残るべき人間に対する名簿を速かにソ側に要求せられて大体の概数ば分るのでございますから、国民諸君から一つ慰問の手段を講ずるようにしてやつて頂きたいのであります。私がモスコーにおりますというと、モスコーでは毎月一回はドイツ人ハンガリー人など各国人は手紙を必ず貰います。多い者は三百通も手紙を持つておる者がおる状況であります。それでその他の各国人は小包を皆赤十字を通じ、その他を通じまして皆故国から貰つております。ひとりモスクワにおります日本人は、私が八回貰つたきりで、他の者は一回か二四、小包のごときは勿論一つも貰つていない状況であります。あの疲弊したドイツからでさえも私が出発します一月前から小包がどんどん捕虜のところへ来るようになりました。これらに関しては日本側におきましても在ソ同胞を慰問するということにつきまして御盡力してやつて頂いたら、監獄に呻吟しておる者は勿論のこと、依然收容所に残つて憂欝なる生活をしておる者に対して何らかの温かい手を延ばしてやつて頂いたらどのくらい感涙をするか分らないのであります。どうかこの点について政府当局で御盡力してやつて頂きたいとお願いする次第であります。
  275. 千田正

    千田正君 先程そういう意味で私が各証人についてこの数ケ年の間における日本の状況というものに対する認識を敢えて問うたのであります。私の証人にお願いすることは、この数年の間御苦労なさつたが、日本がどういうふうになつておるかということを、はつきりこれから十分認識して頂きたい。愼重に而も国際情勢の変転するこの事情の下に、新らしい日本が今生まれ出ようとする今日において、あなた方が今まで苦労なさつたことを基調として、もつと深刻に愼重に考えて、十分に今後において我々と協同して、新日本再建に盡力されたいということを希望する次第であります。その点を先程そういう意味を持たして、あなた方がおられた間の日本の変化というものに対する認識を、あなた方に問うたわけでありますから、その点は十分に御認識願いたい。この点だけ一応御要望申上げて置きます。
  276. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 只今種村証人から誠に貰重なるお言葉を、委員会に與えられまして誠に感謝に堪えないと思います。そこで各証人の皆さんには十分御了承のことと存じますが、或いはまだ御帰国早々であつて御存じない点があるかも知れませんが、この委員会といたしまして一番心痛いたしています問題は、ソ連地区、中共地区、北鮮地区或いはその他の外地に残つている人は勿論でございますが、殊に法務関係の留守家族の方欠こうした面につきましては、二十二年の九月以来、今村均元大将の夫人を始めといたしまして、いろいろとこの問題につきましては当委員会は努力をして参つたのであります。ところが昨年の二月に岡村元大将が千二百名の人と共に帰つて来た、そうして内地で検挙された。或いは又ー度先月の二十四日には横浜に六百九十二名の方が南方地区から帰つて来た、ということで今各都道府県を挙げましてこの法務関係方々の内地服役という問題に対しまして。更に刑の軽減という問題に対しましても全国的にそうした運動が起りつつあるのであります。どうか在ソの方々に慰問文を送る、或いは慰問岳を送るということにつきましては、これは二年前に広島の山間地区の中学生八千名が蕨起いたしましてそうして衆議院、参議院の全議員を以て作つておりまする同胞救援議員連盟に金一万円を寄託して参りまして、そうしてキヤラメルでも送つて呉れということでしたが、そういう声は随所に起つておりますが、いろいろの関係においてまだ物資を送るような段階に達しておりません。だが併し法務関係の問題にいたしましても、今種村証人からの御要請のあつた点につきましては、これは当然国民の一人としてもなさなければならない問題だと思いまして、私共日夜こうした問題に不眠不休携つておりまするが、どうか帰られた皆さんにおきましても、曾ての戰友であり、曾ての同僚であるところのそうした面につきましては、共共に委員或いは委員会という立場を離れまして、国民の一人としてそうした面に今後のお力添えを一層私共の方からもお願いいたして置きたいということを一言申上げまして、私の発言を終りたいと思います。
  277. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もうすでに時間が大分経過いたしておりますので、尚……
  278. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) 委員長、ちよつと一言三三
  279. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 高橋証人、それでは簡單に……
  280. 高橋善雄

    証人(高橋善雄君) 自分は郵便物を一回も受取つていないのであります。家から数回総りましたが、同じ分所でありながら私には全然来ない。外の人には来ている。こういう状況がありますので、参考までに申上げて置きます。
  281. 内山明

    証人(内山明君) 自分は向うにおられる人達に対して、さつき提案になりましたように、我々の国民の誠意を以て、いろいろな物を送つてやることは賛成であります。併し今我々は戰争犯罪者に対して、これを即座に解放しようとか、これを我々の方に、日本に引取るようにという話も若干耳にしたのでありますが、我々は戰争犯罪者に対しては、やはりこちらに来ておつても、これは刑を執行しなければならんと考えるのであります。戰争こそが我我に最大の苦痛をもたらし、我々が向うに五年もおつたというのも戰争の犠性であります。内地が荒廃したのも無益な戰争をかり立てたためである。だから戰争犯罪者に対しては、人民の意思によつてやはり処罰する必要がある、このように考えます。このことを一つ自分の意見として申上げて置きます。
  282. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 高橋証人委員長から一点お願いして置きたいことがございます。それは本日時間がございませんでしたので、平塚運動の起因と、これが及ぼした影響について、後程書面を以て当委員会御提出願いたいと思います。  長い間御苦労様でございましたが、本日はこれにて委員会を閉会いたします。    午後九時二十五分散会  出席者は左の通り。    委員長     岡元 義人君    理事            天田 勝正君            千田  正君    理事            木下 源吾君            原  虎一君            淺岡 信夫君           池田宇右衛門君            伊東 隆治君            北條 秀一君            穗積眞六郎君            中野 重治君   証人            種村 佐孝君            長命  稔君            板垣  正君            内山  明君            高橋 善雄君            尾ノ上正男君            有田 浩吉