運営者
Bitlet
姉妹サービス
kokalog - 国会
yonalog - 47都道府県議会
nisalog - 東京23区議会
serelog - 政令指定都市議会
hokkaidolog - 北海道内市区町村議会
aomorilog - 青森県内市区町村議会
iwatelog - 岩手県内市区町村議会
miyagilog - 宮城県内市区町村議会
akitalog - 秋田県内市区町村議会
yamagatalog - 山形県内市区町村議会
fukushimalog - 福島県内市区町村議会
ibarakilog - 茨城県内市区町村議会
tochigilog - 栃木県内市区町村議会
gunmalog - 群馬県内市区町村議会
saitamalog - 埼玉県内市区町村議会
chibalog - 千葉県内市区町村議会
tokyolog - 東京都内市区町村議会
kanagawalog - 神奈川県内市区町村議会
nigatalog - 新潟県内市区町村議会
toyamalog - 富山県内市区町村議会
ishikawalog - 石川県内市区町村議会
fukuilog - 福井県内市区町村議会
yamanashilog - 山梨県内市区町村議会
naganolog - 長野県内市区町村議会
gifulog - 岐阜県内市区町村議会
sizuokalog - 静岡県内市区町村議会
aichilog - 愛知県内市区町村議会
mielog - 三重県内市区町村議会
shigalog - 滋賀県内市区町村議会
kyotolog - 京都府内市区町村議会
osakalog - 大阪府内市区町村議会
hyogolog - 兵庫県内市区町村議会
naralog - 奈良県内市区町村議会
wakayamalog - 和歌山県内市区町村議会
tottorilog - 鳥取県内市区町村議会
shimanelog - 島根県内市区町村議会
okayamalog - 岡山県内市区町村議会
hiroshimalog - 広島県内市区町村議会
yamaguchilog - 山口県内市区町村議会
tokushimalog - 徳島県内市区町村議会
kagawalog - 香川県内市区町村議会
ehimelog - 愛媛県内市区町村議会
kochilog - 高知県内市区町村議会
fukuokalog - 福岡県内市区町村議会
sagalog - 佐賀県内市区町村議会
nagasakilog - 長崎県内市区町村議会
kumamotolog - 熊本県内市区町村議会
oitalog - 大分県内市区町村議会
miyazakilog - 宮崎県内市区町村議会
kagoshimalog - 鹿児島県内市区町村議会
okinawalog - 沖縄県内市区町村議会
使い方
FAQ
このサイトについて
|
login
×
kokalog - 国会議事録検索
1950-02-03 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第9号
公式Web版
会議録情報
0
昭和
二十五年二月三日(金曜日) 午前十時二十九分開会 ————————————— 本日の会議に付した事件 ○
証人喚問
に関する件 ○
哈達河開拓団実情調査
に関する件 (右件に関し
証人
の
証言
あり) —————————————
岡元義人
1
○
委員長
(
岡元義人
君) ではこれから
委員会
を開きます。先ずお諮りいたしたいことがございますが、前の
委員会
におきまして来る六日に召喚いたす
証人
につきましては一応種村、
高橋
、長命、尾ノ上、内山、板垣以上六名が決定いたしてお
つたの
でありますが、先日の
委員会
におきまして、
淺岡委員
より及び
千田委員
より是非
有田証人
を一名加えて頂く
よう
にと申出がございました。この際加えることに御
異議
ございませんき。お諮りいたしたいと思います。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あり〕
岡元義人
2
○
委員長
(
岡元義人
君) では
有田浩吉
一名を加えることにいたします。 —————————————
岡元義人
3
○
委員長
(
岡元義人
君) では案件にな
つて
おりますところの
藪崎順太郎
証人
只今
出席
されましたので、
只今
より
藪崎証人
の
証言
を聞くことにいたしたいのでありますが、今回
高砂丸
が入港いたしました際に、舞鶴におきましても旧満
洲関係
の方々が帰
つて
見えて、
開拓団等
の
状況
について非常に
心配
をされておられましたその間の事情が漸く明らかにされ
よう
としているのでありますが、未だ
外務省
におきましては
開拓団
その他
一般邦人
の
死亡等
の
状況
は十分に把握されていない
よう
であります。本日
外務省
からも
出席
を要請してございますが、まだ
出席
いたしておりません。間もなく
出席
あることと思います。先ずその問題の外にもそれに類似した問題が
委員会
にも参
つて
おりますが、取敢えず
只今ソ連地区收容者
の数字の問題が非常にやかましく吟味されておりますので、満
洲地区関係
の
死亡状況等
は相当明らかにされなければ、
最後
の
ソ連地区関係
の
残留者数
も明確にな
つて
来ないわけであります。この際
証人
の
証言等
によ
つて
、
委員会
の今後の
資料
にいたしたいと思うのであります。
只今
から
証人
の
証言
を求めますが、先ず
宣誓
をお願いしたいと思います。
一同起立
をお願いいたします。
藪崎順太郎
君。 〔
総員起立
、
証人
は次の
よう
に
宣誓
を行な
つた
〕
宣誓書
良心に
従つて真実
を述べ、
何事
もかくさず、又、
何事
もつけ加えないことを誓います。
証人
藪崎順太郎
岡元義人
4
○
委員長
(
岡元義人
君) 着席願います。この際
証人
に一言御注意申上げて置きますが、
議院
における
証人
の
宣誓
及び
証言等
に関する
法律
第六條によりまして、「この
法律
により
宣誓
した
証人
が
虚僞
の
陳述
をしたときは、三月以上十年以下の
懲役
に処する。」ということにな
つて
おります。この点は十分御注意をお願いいたしたいと思いますが、併し
民事訴訟法
の第二百八十
條並び
に
刑事訴訟法
第百八十六條に該当する場合は
証言
を拒否できることにな
つて
おります。
民事訴訟法
の第二百八十條、
刑事訴訟法
第百八十六條は
内容
は同じでございますので、
参考
までに
民事訴訟法
の二百八十條を朗読いたします。
証言カ証人
又
ハ左ニ掲クル者
ノ
刑事
上ノ訴追又
ハ処罰
ヲ
招ク虞アル事項ニ関スルトキハ証人ハ証言
ヲ
拒ムコトヲ得証言カ此等
ノ者ノ
恥辱ニ帰スヘキ事項ニ関スルトキ
亦同シ 一
証人
ノ
配偶者
、四親等内ノ血族若ハ三親等内ノ姻族又
ハ証人ト此等
ノ
親族関係アリタル者
二
証人
ノ後見人又
ハ証人
ノ後見ヲ
受クル者
三
証人
カ主人トシテ仕
フル者
以上であります。 尚、更に御注意申上げて置きたいと思いますことは、この
国会法
、並びに
議院
に於ける
証人
の
宣誓
及び
証言等
に関する
法律
の第六條によりまして、「この
法律
により
宣誓
した
証人
が
虚僞
の
陳述
をしたときは、三月以上十年以下の
懲役
に処する。」 「前項の罪を犯した者が
当該議院
若しくは
委員会
又は両
議院
の
合同審査令
の
審査
又は
調査
の終る前であ
つて
、且つ犯罪の発覚する前に自白したときは、その刑を減軽又は免除することができる。」念のため併せて御注意申上げて置きます。
只今
より
証言
を求めますが、できるだけ御
調査
になられました、その視察をした
責任者等
の
名前等
は明確に御
証言
が願いたいと思うのであります。
藪崎証人
。
淺岡信夫
5
○
淺岡信夫君
証人
の
証言
を求めるに際しまして、
証人
の持たれる
資料
、
材料等
を
手許
に置かれて、そうして正確なる御
証言
を願える
よう
、
委員長
から特に
証人
にお話を願いたい。
岡元義人
6
○
委員長
(
岡元義人
君)
淺岡委員
の御
発言
ございましたが、
証人
は
十分資料
をお持ちにな
つて
そうして述べて頂いて差支えございません。
藪崎順太郎
7
○
証人
(
藪崎順太郎
君)
哈達河開拓団員
が
北満
の
麻山
で以て
自決
したということを耳にいたしましたのは
昭和
二十一年の十二月の中頃でございました。早速
靜岡
の
県庁
へ参りまして、その
調査方
をお願いいたしたのでございますが、すでに
終戰後
であり、
県庁
といたしましては手の着け
よう
がない、こういう県の意向でございましたために、私は独自の立場でこの
調査
に当りました。それは私の弟の妻並びに
家族
六名がこの
自決
の仲間に入
つて
おるということを聞きましたから、私が直接その
調査
に当
つたの
でございます。それで二十一年の十二月の二十日頃に、
茨城
県の
県庁
へ参りまして、
茨城
県から出身しておりました
哈達河開拓団員
の
飯水春
末という人を
調査
して貰いました。同県の
北相馬
郡
大井沢
村に帰られたということを聞きましたので、
大井沢
村へ参りまして、
飯水春
末氏に面談したのでございます。その当時、
飯水
氏は
自分
の家内と八歳ぐらいになる男の子を連れてこの
現場
から
引揚げ
て来てお
つたの
であります。で、大体その
飯水
氏の言によりまして全貌が掴めたのでございます。それは八月の八日に
日ソ開戰
と同時に
哈達河
の
開拓団
が空襲された。御承知の
通り
に
哈達河
の
開拓団
は
虎林線
の
沿線
にございまして、
密山
の少し
手前
に
東海
という新らしい駅がございます。
東海
駅から約十分歩きますと
哈達河開拓団
の
本部
がございます。その
本部
を中心に約二里四万ぐらいに亘りまして各分村ができてお
つたの
でございます。もともとこの
哈達河開拓団
は各県からの
出身者
の集合の団体でございますために、
北海道
或いは長野県、新潟、群馬、山形、埼玉、
靜岡
、広島、九州、或いは四国、
宮城
県、大体こういう所からの
出身者
がおりましたために、その各
県ごと
に小さい
部落
を
作つて
お
つたの
でございます。その
部落
へ
退避
の
命令
を下したのは、その翌日の午後一時頃に
開拓団長
が各
部落
へ
退避
の
命令
を下したということでございます。それは
鶏寧
の
県庁
、当時の
県知事
は現在
靜岡
県の田方郡の
並山村
の村長である
久保田豊
氏、この方が
鶏寧
の
県知事
だ
つたの
であります。その空襲、八月八日前に、多分六日頃と記憶しておりまするが、各
鶏寧
県の
開拓団
の
団長
を
県庁
へ集めまして、
日ソ
の
空気
が非常に險惡である。万一の場合には
如何
にして
退避
するかということを
打合せ
を行な
つた
ということでございます。その
打合せ
の結果によりまして、九日の日の午後一時頃
鶏寧
の
県庁
から電話を以て
開拓団
へ
退避
する
よう
にという通知があ
つた
ということでございます。そこで
貝沼団長
は、先程申しました各村へ使いを走らせまして、そうして
一同退避
の
仕度
をせよ。それはその日の夕方になりまして各村へ漸く連絡が付いて、各
団員
は徹夜で
退避
の
仕度
をした。そこでその翌日
団員
は、満
洲語
でドウアウと言います、これは
馬車
です。
荷馬車
に乘りまして、
団長
が指揮して
林口
を目指して南下して行
つた
。ところが
虎林線
の
沿線
にありながら、すでに
鉄道
は爆破されたために、
鉄道附近
まで行けば
汽車
の乘れるのじやないかという希望を持
つて
進んでお
つたの
でございますが、すでに
鉄道
も、
鶏寧
も皆爆破されて
汽車
に乘ることができない。そこで十一日には雨に打たれながら南下した。十二日の十二時頃に
林口
の
二つ手前
の駅前の
麻山
というところに
参つたの
でございます。そのときに満洲の
反乱軍
が両側の山に陣取り、先に
ソ連
の
戰車
がお
つた
。そこで
ソ連
の
戰車
と
戰つて
お
つた日本
の
敗残兵
が退却して来て
団長
に
報告
するには、到底こういう大
部隊
で通過することは困難である。こういう
報告
を受けた。で、
退避
するときには同勢は約一千名であ
つた
と思いまするが、ところが十日、十一日と避難をして来る途中で、馬の優劣などによりまして約半分が相当遅れたと言います。それで四百何名かの先の
部隊
が
麻山
の山と山との間へ
退避
した。ところが
反乱軍
の
機関銃
も射ち出すし、或いは
戰車
の砲撃も受ける。こういう
状態
で、どうしてもこれは逃げることはできないのじやないか。そこで
貝沼団長
は、
指揮者
であるところの
壯年男子
十数名を集めて、どうするか、到底逃がせることはできないのだ。いつそ
我我
の手によ
つて
この
婦女子
を
自決
せしめることが一番いいのではないか。敵の手に渡して
辱しめ
を受けるよりも
我我
の手によ
つて
殺されるということは女子も満足ではないか、こういう
よう
な
団長
から各
壯年男子
に
相談
が持ちかけられた。そこで
壯年男子
も、
団長
の言われる
通り
だ、こういうことに
相談
が一決しまして、
団長
は皆のものに
訓示
を與えたのであります。そこで皆のものも泣く泣くもはや逃がれる途はない。殺して貰うより手がないだろう。こういう
よう
な
空気
ができまして、大変に皆一時動搖したということでございますが、時間が経つに
従つて水杯
をし、或いは
婦女子
は
晴着
を出して着替え、
子供達
には
最後
の菓子を分け與えて、そうして死出の旅路を飾る
よう
に晴れやかにな
つた
、十数名の
男子
は
銃劍
を持ち、或いは銃で以てこれを一々射殺したこういうことに
報告
されております。その後射殺したこの
壯年男子
は
突撃隊
を
作つて敵
の中に斬込んだ、こういう
報告
でございますが、その中の過半数が東京或いは
ハルピン
に落ちのびて、そうして内地へ帰
つて
来ておるのでございます。 この
報告
は、私の
調査
は、先程申しました
茨城
県の
北相馬
郡
大井沢
村
飯水春
末氏、それから現在
神奈川
県におりますところの、
神奈川
県の
逗子
の福田町
高橋庄吉
氏、それから
宮城
県の遠田郡、
南郷
村の
片倉惠
七氏、
南郷
村の役場におります。この方の
報告
、或いは同じ
開拓団員
であ
つて
、
自分
は応召し、それからシベリヤから帰還して
調査
いたしました
靜岡
県の浜名郡和地村の
橋本美津治
氏、こういう
人達
、それから殺した側の
高橋秀雄
という人が、
靜岡
県伊東市の在に
靜岡
県
開拓団
がございまして、ここに
団員
として現在
開拓
に従事しております。その人に私は昨年の十一月の二日に面談いたしまして惨劇を確かめたのでございます。その中で最も
真相
を掴み得たかと思われますのは、
逗子
の
高橋庄吉
という人の
報告
でございます。この人は元
開拓団員
であ
つて
現在応召しまして新
京附近
に
兵隊
にな
つて
お
つた
。
終戰
と同時に
兵隊
から逃げ帰りまして、新京の町の中にぶらついておれば、誰か
哈達河開拓団
から逃がれて来る者があるだろう。そうすれば
開拓団
の様子も分る、そうして待ちかまえておりましたところが、
宮城
県の
武田清太郎
という人と、それから
高木福次
、
阿部強
、この三名が
麻山
の現地から逃げ帰
つて
来まして、新京で以て
落合つた
。そこで
高橋
氏がこの三名から当時の
状況
を詳細に書取りまして、そうしてその
報告書
を本人が持
つて
お
つた
。その一部を私貰いましてお
手許
に差上げたのでございます。その後
高木福次
と
武田清太郎
は新京におきまして
発疹チブス
で死亡し、ただ一人
阿部強
か
宮城
県の
南郷
村に帰
つて
来ておる。大体そういう
よう
な
状態
でございまして、私が特にお手数を煩した
趣旨
は、四百何名という尊い生命が、單なる
自決
という
名前
の下にうやむやに葬り去られることは、血を分けた私共
身内
の者といたしましてはどうしても締めきれない。
如何
なる
状況
の下に、
如何
にして死んだかということを詳細に知りまして、
死者
の霊を慰めたい。尚私共と同じ
よう
にこと
身内
をなくしても、葬式のできないというものが現在尽県に散在しておるのでございます。こういう
人達
に一々連絡いたしたいのでございまするが、私個人といたしましては、どうしてもそれが不可能でございます。
従つて
こういう
機関
を通じまして、詳細に御
報告
できれば、
死者
は慰められることと思います。 それから今
一つ
は、もともと満洲の
開拓団
は、
軍国主義者
の侵略の手先に使われた観が多分にございまして、この
開拓団
の
指導者そのもの
が
軍国主義思想
に非常に徹底してお
つた観
があるのでございます。私が十八年に
哈達河
の
開拓団
に参りまして、
団長
に面談したときに、殆んど軍人より以上の
思想
を持
つて
いる人である、そういう
よう
な感じたのであります。
従つて団員
も同じ
よう
によく訓練されてお
つたの
ではないかと思うのでございます。さればこそ
麻山
におきましていよいよ
最後
というときに、
壯年男子
は後鉢巻をして
銃劍
を持
つて
、僅かに三十分か四十分かの間に
自分
の妻子や或いは
同胞
を銃殺し、刺殺するという
よう
なことは、考えただけで身の毛のよだつことでございます。こういうことをなし得たということは、人間業ではないと思う。忌むべき
軍国主義思想
がこれをなしたのではないかと、か
よう
に考えられるのでございます。
軍国主義思想
を排撃したいということも私の念願の
一つ
でございます。 以上大体私の
調査
したところでございまするが、詳細に亘りましては、御
質問
に応じてお答えいたしたいと思います。
岡元義人
8
○
委員長
(
岡元義人
君)
只今
の御
証言
に対して御
質問
がおありかと思いますが、尚ちよつとお諮りいたしますが、
只今証言
中にございました
遠藤
という人は、帰
つて
来られてから
藪崎証人
にお
手紙
を出しておられるのでありますが、その
手紙
の
内容
を、
簡單
でございますから
参考
に読みまし
よう
か、
如何
いたしまし
よう
。今の
藪崎証人
から御指名にな
つた
、その刺殺したという人からここに
手紙
が参
つて
おります。
簡單
ですから今読上げまし
よう
か。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あの〕
岡元義人
9
○
委員長
(
岡元義人
君) それでは読上げます。 「小生元
哈達河開拓団
におりました
遠藤
です、
敗戰
の苦しみを身を以て、いまだ精神的の打げき去らず、この
北海道
に、
開拓者
として入り今日に及んでおります。 御
実弟
御
家族
、いまだ、
はつきり
とわからずにおられ、御
心配
の程
如何
ばかりか、お察しいたします、と共に我々生残りました一人として誠に申訳無く存じおる次第です、
昭和
二十年八月九日夜
引揚
の達しを
団長
より受け住みなれし
哈達河
を出たのは十日朝でした。此の時
団長
より
馬車
を頼のまれ(五六台)用意して
本部
へ廻しました。其の
馬車
に乘り、御
家族
様方も
一緒
に
林口
に
向つたの
であります。最終の列車出た後、
国境方面
よりの
兵隊
はトラツクで先へ行く
女子供
の多い
開拓団
は置きざりを受ける様な、ご
つた
返し、
麻山附近
にさしかか
つたの
が八月十二日午后でした。もう此の時、
国境
へ通ずる道路有り
ソ軍
が入
つて
いて、
如何
ともするあたわず、此処に
哈達河開拓団員
の
最後
とな
つたの
であります。あの時あの場合、
致し方無し
とは云へ、実に
軍国主義
の
犠牲
に
終つた事余り
に
可愛相
です。わしも
家族
五人
麻山
の土とし、外に六人
自分
の手に掛りたる人は
はつきり
としてゐますが、
団長
以下
自決
の
場所
と一寸はなれてゐます、そして一年後
ハルピン
より
現場
へ行き、どうしても
自分
の手に掛りし人の
遺骨
を持たなければ
日本
へ帰る事が出来ず、とうとうそれを決定した様なわけです。幸に八日掛君りで
目的
を得、
団長自決
の
現場
も一年前のそれを前い、
遺骨
をおさめ
ハルピン
へ帰り、一年目の八月十二日
ハルピン東本願寺
で
団長
始め
哈達河団員
に対して、
ハルピン残留者
七名、そしてとなりの
永安屯
の
団員
も列席して、始めてお経を上げてもら
つた
様な次第です。そして
団長
の
遺骨
は上野さんに持
つて
もら
つたの
であります。 御弟様御
家族
、
団長自決
の
場所
で
自決
なされしか私
はつきり
と存じませんが、当時
哈達河小学校長
の
衞藤通夫先生
の方が私よりも
自決
の時、
現場
におりし人にして、記憶してゐられる事と思います故、
先生
の方へも問合せ下され度お願い致します。私としては、
はつきり
してゐますれば、言いにくいことでありましても
はつきり
とお知らせ致しますが、ご
つた
返し、頭が変にな
つて
ゐまして、
はつきり
したお知らせ出来ず、誠に申訳無く思いおります。
只体大
あまりおくれずに
馬車
も来たのですから、
一緒
ではないかと想像はされます。
衞藤先生
の住所は大分県玖珠郡森町
大字岩室
です。」 以上の
手紙
が
遠藤久義
氏から送られております。 尚その後当
委員会
に対しまして、ここに書かれておりますところの元
哈達河
の
小学校長
であられました
衞藤通夫
氏より
通信
が参
つて
おります。その
通信
は、
終戰以来
この問題について非常に
自分
は悩んでおる。むしろこの際
国会
に呼んで頂いて、実際を申上げて、そうして
自分
の将来を決めて行きたい。何もかも
国会
において申上げる決意でおる旨の
手紙
が
衞藤通夫先生
から参
つて
おりますことを各
委員
にお知らせいたして置きます。
北條秀一
10
○
北條秀一
君
証人
にお伺いしますが、先程
証人
は、満洲の
開拓団
がすべて強い
軍国主義
の基礎の上に立
つて
お
つた
ということであります。今
委員長
が朗読されました
手紙
も又
軍国主義云々
が出ておりますが、
証人
が言われるごとく、満洲にあ
つた
ところの
開拓団
は盡くが
軍国主義
の強い
基調
の上に立
つて
お
つた
ということについては、私は必ずしも賛成はしないのであります。若し
証人
が言われた
よう
なことになりますと、満洲にあ
つた
当時の
開拓団諸君
は、その名誉にかけてもこの問題について
真相
を究明しなければならんという要請が出て来ると私は考えます。殊に当時の
開拓団諸君
は、
日本
の
国策
に副うて、
父祖伝来
の本国の
土地
を捨てて、そうして永住の地として彼らは満洲に送られて行
つた
。でありますから、時には、これはみずから求めた植民でなしに、一時棄民だというふうな惡口さえも言われたのでありますが、そういうふうな大きな
国家
の政策の
犠牲
にな
つたの
でありまして、
犠牲
にな
つた
ということは、即ち
開拓団
が
軍国主義
によ
つて一色
に塗りつぶされてお
つた
ということとは違うと考えるのであります。今
証人
は、満洲の
開拓団
がすべてが強い
軍国主義
の
基調
に立
つて
お
つた
ということを言われましたが、これは單に
証人
が考えられましたといいますが、どの
程度
に
証人
がそういうことを実証し得る理由を持
つて
おられるか。これについて私は先ず最初にお聞きしたいと思うのであります。そうしないと、こういう問題を今後本
委員会
において
調査
をする
根本
にな
つて
参りますので、その点について重ねて
証人
の
証言
を改めて申述べて頂きたいと思います。
藪崎順太郎
11
○
証人
(
藪崎順太郎
君) 私がその
軍国主義
に徹してお
つた
ということを申上げたことは、或いは過言と思われるかも存じませんが、私の見た眼で
はさよう
に感じたのでございます。それは十八年に私が
開拓団
におる弟の
家族
を訪ねて行
つた
ときに、
貝沼団長
にお会いしてつくづく感じたのであります。勿論普通の
団員
は
国家
のために、
自己
の将来のために、満洲に出掛けるときには
軍国主義
には徹底してはいなか
つたの
でございます。併しこの
指導者
はですね、確かに
軍国主義
に徹底してお
つたよう
に思われるのであります。
開拓団
の朝の
国旗
を揚げるところから、或いはいろいろの会合のときに
団長
が
訓示
をするという
よう
なところでは、
軍国主義
を非常に注ぎ込んでお
つたの
ではないかと思われるのであります。いま
一つ
は、
国境地帶
におりましたため、すべて
軍隊
の中に入
つて
お
つた
。周囲は殆んど
軍隊
であ
つた
。
哈達河開拓団
のごときも、真中に戰闘機が着陸する飛行場ができてお
つたの
であります。でいま
一つ
は、これは
自己防衞
のためもございまし
よう
が、
軍隊
から
鉄砲
が渡されてお
つた
。そうして常に
自分
の居間に
鉄砲
を備えてお
つた
。こういうことから自然に
軍国主義思想
が各自の頭に入り込んだのではないかと、か
よう
に考えられます。
北條秀一
12
○
北條秀一
君 それから
証人
の
実弟
がその団に行かれたということでありますが、あなたの弟さんの場合には、あなたはどういうふうに観測されたか。
藪崎順太郎
13
○
証人
(
藪崎順太郎
君) 私の弟もやはり
軍国主義
に徹底してお
つた
という
よう
に感じました。
淺岡信夫
14
○
淺岡信夫君
藪崎証人
にお尋ねしますが、
只今北條委員
からの
証言
を求められたことにつきましては、十分了承いたしたのでありますが、この
日本
の当時の
国策
に準じまして、そうして
父祖伝来
の
土地
を捨てて大陸に行
つた
。当時満
洲事変
の直後におきまして、百万戸五百五
移住
という声が非常に国内で
挙つて
、
武裝移民団
という
よう
なことで第一次
団長山崎団長
、第二次
団長宗団長
という
よう
なことで送られた。当時は
武裝移民団
と言われた。ところが満
洲事変
の終結によ
つて
、そうした
武裝移民団
という
名前
も拂拭されて、満
洲移住協会
という
よう
な、
一つ
の
協会
とな
つて
こうしたものがなされたのであ
つて
、私も当時満洲に行
つた
こともある。又
佳木斯
の第一次
開拓団
、第二次
開拓団
を実際に見たこともあります。勿論満
洲事変
中にはそういうふうに感じた。これはもうその
通り
でありまするが、その後においては非常に
変つて來
ておるということと、それから今度はこの
太平洋戰争
に入
つた
。要するに戰時の
態勢
に入
つた
という場合に、敢えてそうした
開拓団
のみがそういう
よう
な
態勢
にあ
つたの
ではないのではなかろうかと、私はこういうふうに一応思うのですけれど。そこで私はこの当時の
戰争
の最高潮に達した。而も
敗戰
した直後あらゆる面が混乱してお
つた
ときの
状態
です。それが今日四年も五年も経過して、靜かに顧みていろいろなことを言われる。その
証言
をここで求めておるのでありますが、私共はどうしてもその
指導者
が武器を枕許に置いてお
つた
、或いは
朝夕国旗
を揚げて遥拜してお
つた
ということは、私は
戰争
中は当然のことであ
つた
と思う。そうしてその点について、ずつと後に今日尚やるということは、これは又別でありますが、
戰争
の直後の大混乱時にあ
つた
ときに、そういうことがなされたということに対して、
証人
はいろいろそうした点について酌量される点があるかないか、
状況
をですね。そうした点についての
証人
のお考えを述べて頂きたいと思います。
木下源吾
15
○
木下源吾
君
議事進行
について……。当初
委員長
が言われた
よう
に、この
証人
は、
在外同胞
の数を正確にするための一
資料
だと言われておるので、今の
よう
な
軍国主義
だろうが何
主義
だろうが、そういうところは敢えて問うところではないので、
目的
に副う点だけを
証人
から
証言
を求めたら足れりだろうと思うので、そういう点で限定されたいと思います。
岡元義人
16
○
委員長
(
岡元義人
君) 各
委員
にお知らせいたして置きます。今
外務省
より
渡航課長
が御
出席
にな
つて
おられますので、一応お知らせいたして置きます。 尚
議事進行
について
木下委員
の御
発言
がありましたが、御
趣旨
御尤もと思いますので、各
委員
におかれましては、一応問題を、
政府当局
も見えておりますし、この問題を
政府当局
が記憶されておるかどうかという
よう
な点も勘案して、
証人
の
証言
を求め、そうして我々の
参考資料
としたいと考えておる次第であります。
淺岡信夫
17
○
淺岡信夫君
今
木下委員
からの
議事進行
についての御意見、誠にその
通り
だと思うのです。併しただ問題は、先程
北條委員
も言いました
よう
に、その
根本
の問題だけは明らかにして置かないと、
如何
なる
証言
を聞いてお
つて
も、そのよ
つて
来る所は漠としたことになると思います。私共は先に聞きましたその結論だけを
簡單
に御
証言
を願えれば結構だと思います。その点を
一つ
。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あり〕
藪崎順太郎
18
○
証人
(
藪崎順太郎
君) これは結果論になりますが、
麻山
におきまして、いよいよ
最後
であるという時に、
婦女子
が
晴着
を出してそうして着替えて
水杯
をして、遥かに東の方を伏し拜んで万歳を三唱し君
ケ代
を合唱して、然る後に銃口の前に立ち、或いは
銃劍
の前に立
つた
。こういう
よう
に私は聞いております。これは一朝一夕で以てそういう観念ができるよけではないと思います。それだけ申上げます。
天田勝正
19
○
天田勝正
君
厚生当局
は呼んでありますか。
岡元義人
20
○
委員長
(
岡元義人
君)
厚生当局
は呼んでございません。
天田勝正
21
○
天田勝正
君 先程も
委員長
が言われました
よう
に、この
よう
な
重大報告
が今まで我々の耳に入らなか
つた
。併し
引揚
の場合は、いろいろな
調査
をそれぞれの
関係官庁
においてする筈でありますが、
外務省
の方においてはこれらのことについての詳細なる
資料
があるならば、この機会にどの
程度
あ
つた
かということだけ
一つ
お聞かせ願いたいと存じます。
武野義治
22
○
説明員
(
武野義治
君)
開拓団関係
の、特に
国境方面
における
開拓団関係
の
終戰後
の
状況
につきましては、私共政府側の者といたしましても、又從來いろいろ満洲における各般の事情についてその発展に協力、努力をして参りました我々の立場から言
つて
も、その成り行きについては心から憂慮を禁じ得ず、これにつきまして
外務省
といたしましても、
只今
まで非常な精一杯の努力をや
つて
、
調査
に盡力して参りました。あの二十四万、数は約二十四万と思いますが、この
開拓団
のどの
程度
の方々があの
終戰後
の混乱
状態
の下において惨澹たる辛酸を経て都市に集結し、そのうちどの
程度
帰り得たか。そうしてその間においてどの
よう
な
状況
においてなされたか。又その時の団の、例えばそうい
つた
財産関係とかいうものも全部入りますが、そうした辛苦惨澹した結果、
開拓団
が築き上げたそい
つた
或る財宝がどの
よう
にして掠奪或いは收奪されたかという
よう
なことにつきまして、我々といたしましてはできるだけの努力をいたしました。
只今
まで
調査
を進めました数は、団の数で二百五十終
つて
おります。
団員
の
終戰後
の個人消息の把握につきましては約五十の
開拓団
の
調査
を終えております。併しながら今後はこの残された団についてその
一つ
一つ
についてできるだけの努力を拂
つて
詳らかにしたいと思
つて
おります。殊に私の担当するところにおきましては、主としてその個人消息の問題でございます。あの
よう
にして自刄され、あの
よう
にして踏みにじられて、そうして泣くにも泣けない
状況
において散り果てられた
同胞
を思いますれば、我々の責任のつくづくその重大なるにおののく次第であります。
天田勝正
23
○
天田勝正
君 ちよつと、非常に違うんです。私のお聞きしているのは、あなたが責任を痛感されるとか、そういうことではないんです。問題はその
開拓団
達の財宝がどうな
つて
いるかということよりも、
引揚げ
た場合に、それらの
開拓団
の中から必ず何人かは
引揚げ
ておる筈なんです。余程の
犠牲
が出たとしても、必ず
引揚げ
ている。その
引揚げ
た場合においては、
引揚げ
た地において、必ず
関係官庁
の
調査
がある筈です。この
調査
の中に、
哈達河
の
開拓団
のこともあなたの方に記録されておるかどうかということをお聞きしておるのであります。
武野義治
24
○
説明員
(
武野義治
君)
哈達河開拓団
については調べが付いております。
北條秀一
25
○
北條秀一
君 先程の
木下委員
の
議事進行
についての動議をお諮り願
つて
、
証人
から、
証人
の知
つて
おられる限りの詳細な
証言
を求めたいと思います。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あり〕
岡元義人
26
○
委員長
(
岡元義人
君)
只今北條委員
から御
発言
がありましたので、一応
藪崎証人
から御
証言
願いたいと思いますが、四百余名を認ためてありますけれども、その点四百余名の氏名等はお分りにな
つて
おられるのか。
藪崎順太郎
27
○
証人
(
藪崎順太郎
君) その点につきましては、私は殆んど承知しておりません。それは四百二十一名であるということは、先程申上げました
高橋庄吉
が新京において
麻山
から逃げ帰
つて
来た
武田清太郎
外二名から
報告
を受けた
報告書
に記載しておるのであります。それで
宮城
県の遠田郡
南郷
村だけは八十一名であ
つて
、そうしてその氏名も
はつきり
しておるということを承知しております。
調査
のできておるのは
宮城
県の
南郷
村の役場だけだと思います。あとは氏名は殆んど分
つて
おりません。
岡元義人
28
○
委員長
(
岡元義人
君)
渡航課長
に
委員長
からちよつとお尋ねして置きますが、今
調査
ができておるというお話でありましたが、四百二十一名の死亡者名、住所その他
外務省
では知
つて
おられるのですか。明らかにできますか。
武野義治
29
○
説明員
(
武野義治
君)
哈達河
の全員四百二十一名とな
つて
おりますが……。
岡元義人
30
○
委員長
(
岡元義人
君) 尚ちよつと
渡航課長
に申上げて置きますが、その四百二十一名の詳報と共に、今
証人
から
委員会
にあ
つて
報告
されました
内容
等について、
外務省
で分
つて
おる範囲において、できたらここで明らかにして頂きたい。
淺岡信夫
31
○
淺岡信夫君
概略で
一つ
お願いしたいのです。若し詳細なことであるならばあとで書面を出して頂きたいと思います。今大要を
一つ
説明を願いたいと思います。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あり〕
武野義治
32
○
説明員
(
武野義治
君)
只今
未帰還者の数並びに人の問題につきましては
資料
を至急調べますから後程書面で出すことにいたします。
天田勝正
33
○
天田勝正
君 当
委員会
に集ま
つて
おりますこれらの
資料
は、
委員長
の
手許
から外務当局にお話合か何かありましたか。
岡元義人
34
○
委員長
(
岡元義人
君) 天田
委員
にお答えします。各
委員会
に一応プリントでお配りいたしましただけで、まだ、外務当局には一応
委員長
が個人的に連絡をして管理局長までお尋ねに行きました、その結果、
外務省
ではまだこれは
調査
されていないということを局長から聞きましたので、一応
藪崎証人
に
証言
を求めることに運んだのであります。
天田勝正
35
○
天田勝正
君 私が聞きたいのは、
委員長
が外務当局に内示でもしておれば、この
通り
のことは先ず
外務省
においては
調査
されておると思う。これを聞けば
議事進行
上非常に都合がよいと思うのであ
つて
、(「
異議
なし」と呼ぶ者あり)この
通り
のことを、そうであるかどうかこれだけのことを聞きたいと思います。(「
異議
なし」と呼ぶ者あり)適当に
委員長
から……。
岡元義人
36
○
委員長
(
岡元義人
君) 今天田
委員
の御
質問
の
趣旨
分りましたか。
武野義治
37
○
説明員
(
武野義治
君)
哈達河
の
開拓団
の
証人
についてお尋ねになるということは、昨日御連絡がございましたけれども、具体的の問題は今朝受理したわけでございます。具体的なデータはちよつと帰
つて
調べないと分りません。
淺岡信夫
38
○
淺岡信夫君
この問題は、要するに
委員長
がさつき言われた
よう
に、数の問題が
根本
とな
つて
おるのでありますから、今外務当局でもこの問題に対しては一応
調査
して見なければ分らんということでありますから、一応そういう件につきましては別の観点から
証言
を求むべきものは求めて
議事進行
を願いたいと思います。(「賛成」と呼ぶ者あり)
岡元義人
39
○
委員長
(
岡元義人
君) 各
委員
に申上げて置きますが、
只今
外務当局からのお話がございましたが、昨日、今日の
藪崎証人
の出頭の件に関しまして
委員長
より出向きまして、本日
証人
の
証言
がある筈だから、局長、課長
出席
をする
よう
にということまで私自身行
つて
申入れてありますから、
政府当局
は今のお話は取消して頂きたい。十分御注意してあります。 尚、それでは各
委員
の了解を得ますれば、
委員長
から
証人
に一、二お尋ねしたいと思いますが、
異議
ございませんか。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あり)
岡元義人
40
○
委員長
(
岡元義人
君)
異議
ない
よう
ですから、先ず
藪崎証人
にお伺いいたしますが、
靜岡
県庁
にあなたが
調査
を御依頼されたときに、
調査
の必要なしと答えられたという
証言
がございましたが、その必要なしと言われた方は一体どなたですか。
藪崎順太郎
41
○
証人
(
藪崎順太郎
君) 必要なしではない、
調査
の方法がないと言われたのです。
岡元義人
42
○
委員長
(
岡元義人
君) どなたですか。
藪崎順太郎
43
○
証人
(
藪崎順太郎
君) それは当時厚生課の金森という人と思います。
名前
は存じませんが。
岡元義人
44
○
委員長
(
岡元義人
君) もう一点お尋ねして置きますが、あなたのこの
委員会
に出されました
趣旨
は、
自決
しなくても帰れたのではないか。
自決
しなくても本当は生きて帰れたのではないかという
よう
なことをお考えにな
つて
、そういう判断の下に提出されたのですか。
藪崎順太郎
45
○
証人
(
藪崎順太郎
君) 勿論そういう意味も含んでおります。それは
麻山
の
現場
から
自決
を承知しないで逃げ帰
つて
来ておる者が
宮城
県の遠田郡におります。それから殺した
人達
の過半数が
日本
に帰
つて
おります。それからいま
一つ
は、その後組にな
つた
約五百名が、
自決
の
現場
から約一キロ半離れた山の麓の高梁畑に溜
つて
お
つたの
であります。先の連中が
自決
して、それから
自決
させた
靜岡
県の
橋本美津治
、
北海道
出身の
高橋秀雄
という人、この人の消息はまだ分らないが、この二人が血刀を持
つて
一キロ半離れた後組の五百何名の所に参りまして、もう先の連中は
自決
したのだからお前達も
自決
しろと、こう言
つた
ときに、この
指揮者
であるところの福地康夫、この人は
開拓団
の医者でございますが、その人が馬鹿を言え、尊い生命を今ここでなくさないでまだ後に役に立つ時がある。お前達逃げろと言
つて
山の中に逃がしました。その逃げた
婦女子
の大部分が
日本
内地に帰
つて
来ております。この
人達
の代表である
飯水春
末という
茨城
県の人と私は会
つて
おります。この人は八歳ぐらいの男の子と奥さんを連れて帰
つて
おります。こういう点から想像いたしまして、
自決
をさせなければ、全部帰
つて
来られたとは思わないけれども、そのうち幾らかは
日本
に帰れたのではないか、か
よう
に考えられるのであります。 それからこれは他の方面から
調査
したのでございますが、実際に包囲されたというふうに
団長
初め他の
指揮者
は言
つて
おりますが、てにお
つたの
は
ソ連
の
戰車
が一台お
つたの
ですが、それはその後に僅か二十分かそこらで
日本
の砲兵のために一発の下にその
戰車
を打壞わしてしま
つた
。こう言われております。でございますからして
自決
をしたその後に、その
現場
を沢山の
人達
が通
つて
、牡丹江、哈爾賓の收容所に收容されております。そういう点から考えて見ますと、どうも
自決
ということは余りに早やま
つたの
ではないかと考えられるのであります。
岡元義人
46
○
委員長
(
岡元義人
君) もう
一つ
伺
つて
置きますが、一千名の梯団で出発したという
証言
でございましたが、そのうち四百二十一名が
自決
しておる、他の者はどうな
つた
か、その点についてお
調査
なされておりますか。
藪崎順太郎
47
○
証人
(
藪崎順太郎
君) その他の者は一キロ半後の日の麓に溜
つて
、そしてその
人達
は
指揮者
の福地康夫によ
つて
自決
を遮られて山の中に逃げ込んで
日本
に帰
つて
来ております。そのうち何名来ておるかは、その点は私には
調査
が不可能であります。併し私の所に、本件が公表されてその後いろいろ
手紙
が来ておるのを見ますと、大分帰
つて
来ておる
よう
であります。
北條秀一
48
○
北條秀一
君
委員長
が冐頭に述べたことは、これによ
つて
外地に残留しておる
同胞
の
状況
を
調査
する
一つ
の重要な
資料
にしなければならんということでありました。又本
委員会
もそのつもりで本日の
証人
を喚問しておるというふうに了承しております。ところが
藪崎証人
の先程からの
証言
の
内容
を聞いておりますと、
自決
した四百二十一名ということは、概数で知
つて
おられるけれども、それ以上のことについては
藪崎証人
は的確な
資料
を持
つて
おられん
よう
に私は見受けられるのであります。
従つて
木下議員の
議事進行
についての
発言
についても、
藪崎証人
からはそれに答える
よう
な
資料
を私共は引出すことはできないのじやないか、こういうふうに考えます。結局冐頭に私と
淺岡委員
が
質問
いたしました何故こういうことが起きたか、即ちその基礎が
軍国主義思想
にあ
つた
んだというところにどうも
証人
の
証言
の重点がある
よう
に私は考えるのであります。そういうことになりますと、これははたの方だけの問題だけでなしに、当時本土上陸に怯えてお
つた
国内にも澎湃としてあ
つた
問題であり、その他
日本
の各地域にあ
つた
問題でありますので、これは別の機会において研究をするか、而も我々は今日まで十分この問題について研究をして参りましたので、
藪崎証人
から本日これ以上に残留
同胞
、或いは死亡したところの
同胞
の数について
証言
を得ることができなければ、我々はこの
証言
をここで打切らざるを得ないのであります。こういうふうに考えるのであります。お諮り願います。
岡元義人
49
○
委員長
(
岡元義人
君)
只今
の
北條委員
の御提案に対しまして他の
委員
御
異議
ございませんか。お諮りいたします。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あり〕
岡元義人
50
○
委員長
(
岡元義人
君) 御
異議
ないと認めます。それでは一応
藪崎証人
の
証言
はこれにて打切ることにいたしますが、尚今日
藪崎証人
から申出のありましたことに基きまして、
委員会
は後刻検討いたしました結果、今後の
委員会
としての
資料
蒐集の上にどの
よう
な処置をするかということを決定することになります。尚、この
よう
な問題は外にも起きておりますので、一応この
委員会
において明らかにされて行きましたことは、今後我々
引揚げ
問題に携
つて
おる者は当然これを記録として残して行くわけでありますから、この点十分
証人
においても御了承願いまして、今日は一応これにて
証言
を打切りたいというふうに考えます。誠に御苦労様でございました。 —————————————
岡元義人
51
○
委員長
(
岡元義人
君) 尚、引続き、
只今
纖維局より……。
北條秀一
52
○
北條秀一
君 先程
委員長
の方からこの問題について連絡がありましたが、本日は実に愼重な、
証人
を喚問して問題の
証言
を得たわけですから、その際に今の問題を、今
委員長
から話しかけられました問題をこの
委員会
で正式にやるということは、私は本日の
証人
の喚問について、いわばまあ権威を失するといいますか、そういう気がするのです。ですから一応
委員会
をここで閉じて、そうして政府担当者が出ておられれば、懇談の形で担当者と我々がここに懇談するというふうに扱
つて
頂きたいと思います。
淺岡信夫
53
○
淺岡信夫君
委員会
を閉ずる前に
一つ
私提案をしたいと思うのでありますが、お諮り願いたいと思います。 実は在外公館借入金の問題でございまするが、この問題につきましては、急遽いろいろな観点から処置をしなければならん
よう
な段階に来ております。然るに中国華中方面、上海或いは南京、漢口、杭州、そうした地区から
引揚げ
て来ました
引揚
者が、この
人達
が当時十倍の金額を出してそうして三百万円の小切手を貰
つて
、そこに調整資金というものが約三十万円ある。この調整資金というものはどうしたかといえば、これはもう実際は難民救済資金として当時使われた。これに対しましては、曾ての
外務省
の邦人
引揚
部長をいたしておりました矢野元上海の総領事の言葉を借りてみても
はつきり
しております。又その他、その当時上海地区におりましたところの
人達
の言を聞いてもそうしたことは
はつきり
しておる。で、この点については、華中方面から
引揚げ
た三十数万の
引揚
者の問題でありまして、中にはこの三十三万円、総額のものを作るということに対しましては、各員が借金をしたり
敗戰
直後血の出る
よう
な思いをして、そうしてまとめ上げた金なんであります。これに対して今度の在外分館借入金の中にこれは含まんのだという
よう
な解釈をされる方が非常に強いのでありますが、そのよ
つて
根本
をなすところのこの調調資金というものが、救済資金として扱われていいのかどうかということを明確にいたしまするために、当時中支那の公使をしておりました土田豊君、それからそうした経済方面を担当いたしておりました岡崎参事官、並びに
外務省
の、内地にあ
つて
引揚
邦人部長をいたしておりました矢野征記、この三君をこの問題につきまして
証人
として
証言
を得る
よう
な機会を與えて頂きたいと思うのであります。要するに非常に急ぐ問題でございまするから、この点を特に私
委員会
にお諮り頂きたいと思うのであります。
天田勝正
54
○
天田勝正
君
只今
の
淺岡委員
の提案に別に不賛成で
発言
するのではありません。ただ今日の
証人喚問
に関連いたしまして、その方をまだ片附けないで、そちらへ話が行
つて
しま
つて
も困ると思いまして申上げるのでありますが、このことは相当、帰還者の氏名等も書いてあり、その他詳しいことをいえば限りありませんが、
調査
のでき得るきつかけは、少くとも相当付いておると考えられますので、今まで
委員長
の
手許
でこれらに問合せの
よう
な形で調書を提出せしむる
よう
お取計らいにな
つて
いないとすれば、その
よう
な取計らいをいたして、それぞれ調書が仕ま
つて
来た結果を見て、その総合に基いて又
証人
を喚問する、こういう
よう
な方法に
一つ
お取計らい願いたいということをお願い申方げて置きまして、今の
淺岡委員
のおつしやることに賛成をいたします。
岡元義人
55
○
委員長
(
岡元義人
君)
只今
天田
委員
から御
発言
がありましたが、氏名等も明らかにな
つて
おりますので、
委員会
から一応
調査
報告
を要求するということをいたすことにいたしまして御
異議
ございませんか。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あり〕
岡元義人
56
○
委員長
(
岡元義人
君) ではその
よう
に決定いたします。 —————————————
岡元義人
57
○
委員長
(
岡元義人
君) 尚
只今
淺岡委員
からの御
発言
の件でございますが、午後一時からこの問題については、衆参両院の打合会においても議することにな
つて
おりますので、その際
打合せ
することにいたしまして
如何
でし
よう
か。 〔「
異議
なし」「
異議
あり」と呼ぶ者あり〕
淺岡信夫
58
○
淺岡信夫君
それは衆参両院の特別
委員会
の
打合せ
会でありまして、そうしてこれは正規にこの問題をどうするこうするというのではないのであります。この問題といたしましては、
引揚
問題に関する特別
委員会
といたしまして、参
議院
で処理される問題であります。で、一応私、先程提案いたしましたことを御審議頂きまして、でき得れば、御採択頂きたいと思います。
北條秀一
59
○
北條秀一
君 私は先程申しました件は、本日は特に非常に
日本
民族の盛衰についての
よう
な問題について
藪崎証人
を呼んだ
委員会
であります。遠い所から
藪崎証人
がわざわざ上京されて来て
証言
されたこの際に、あとでそれに便乘していろいろな問題をやるというのは、私は賛成しないのであります。であるからここで
委員会
を閉じて、今
淺岡委員
からお話があり、天田
委員
からお話がありました問題を次の機会にすべて廻すことができますから、ここで一応閉じて頂きたいということを先程私申上げたのです。そういうふうにや
つて
頂きたい。
淺岡信夫
60
○
淺岡信夫君
それは今
北條委員
が閉じて呉れと言うから、私はこの特別
委員会
の開催が明日になるか明後日になるか分りませんけれども、それは一日や二日延ばしてもよろしい。けれども問題は
藪崎証人
を
証人
として喚問願
つて
いろいろ
調査
をしておることで、例えば今私が提案申上げましたことはいずれも重要な問題であります。そこでこの
委員会
が十時から開かれてまだ十二時に間があるのでありますから
打合せ
会とか懇談会とか、そういう
よう
なことでなくして、いわゆる正規の
委員会
としてお取上げを願
つて
頂きたいということを私申上げたのであります。
天田勝正
61
○
天田勝正
君
北條委員
はどうも誤解されているのじやないかと思うのだな、これは
藪崎証人
を呼んだ場合は、他の今までの
証人
を呼ぶのとはその筋道が違
つて
お
つたの
だ、というのは、文書で、こうして
手紙
の
よう
な形で出されておるけれども、私は信憑性がない、然らば請願者を呼んで聞くという、こういう機会を作りたいが、ただ請願者を呼ぶということだけでは、露骨に言
つて
旅費等の関係もあ
つて
お気の毒である、こういう結果が、いわゆる
証人
という形にな
つて
きたのであ
つて
、本来ならば
北條委員
のおつしやるまでもなく、
証人
を呼ぶということは今までの
調査
の
最後
の止めを刺すという形で
証人
を呼ばなければならない、そうすれば、非常に
証人喚問
の、要するに権威を失墜しないということになるのでありますが、今回のだけは殆んど特例の
よう
な形で、申合せの結果、そうや
つたの
でありますから、この結果に基いて発展しても一向差支えない、こう存じます。
岡元義人
62
○
委員長
(
岡元義人
君)
淺岡委員
にお諮りいたしますが、六日の
証人喚問
がございますので、その冒頭までの機会にこれをお諮りするということにいたす
よう
にしたら
如何
でございまし
よう
か。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あり〕
淺岡信夫
63
○
淺岡信夫君
そうしますと、私重ねて申方げますが、六日に曾
つて
の
高砂丸
の
引揚げ
られた方々の
証人喚問
がありますが、その前に今の土田豊、岡崎参事官並びに矢野征記、これを
証人
として喚問するということに御採択にな
つた
わけですか。
天田勝正
64
○
天田勝正
君 蒸し返して申上げるわけではありませんけれども、
証人喚問
でなくても、それらの諸君はできるんじやありませんか。それは若し当
委員会
の御便宜がありますならば、土田豊君は私の部屋へ毎日来ております。そういう事情でもありますし、岡崎参事官とても直ぐ好意的に恐らく来れ得る今の地位でありますから、そういうことで
一つ
お聞きするという手続をとれば、
淺岡委員
の早くということにもむしろ適用するのじやなかろうか。こう考えるから私は申上げるのであります。
岡元義人
65
○
委員長
(
岡元義人
君) 一応本日の
委員会
はこれにて閉じます。閉じまして
如何
様にするか、一応後程御懇談申上げることにいたしては
如何
でし
よう
か。 〔「
異議
なし」と呼ぶ者あり〕
岡元義人
66
○
委員長
(
岡元義人
君) 御
異議
ないと 認めます。それではこれにて
委員会
を閉じます。 午前十一時四十四分散会
出席
者は左の
通り
。
委員長
岡元 義人君 理事 天田 勝正君 水久保甚作君 千田 正君
委員
木下 源吾君 原 虎一君 淺岡 信夫君 池田宇右衞門君 草葉 隆圓君 木内キヤウ君 北條 秀一君 穗積眞六郎君
説明員
外務事務官 (
渡航課長
) 武野 義治君 証 人
藪崎順太郎
君