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1949-12-23 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第5号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十四年十二月二十三日(金曜 日)    午前十時四十二分開会   —————————————   本日の会議に付した事件 ○ソ連地区残留同胞調査に関する件  (右の件に関し証人証言あり)   —————————————
  2. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今から委員会を開会いたします。  御承知のごとく国会国民と共に大きな期待を以て重大な関心を寄せておりました去る二十一日の対日理事会におきましては、不幸にしてシーボルト議長によつて明示せられました残留者の今後の引揚継続及び死亡者の状態をも未だ明らかにされなかつたのであります。  今や留守家族は勿論のこと、国民ひとしくその杞憂は高まり重要な段階に突入しており、この上とも重ねて連合軍の責任においてこの問題の解決を強く要望するものでありますが、本委員会は本日と明日の両日に亘つて国会独自の立場に立つて樺太地区よりシベリア地区に移送されたる者或いはシベリアの各地区收容所の本年最終引揚者等二十名を証人として出席を求め、  一、一般收容所状況残留数  二、抑留後における領内外への移動状況  三、死亡者及びその処理状況  四、各收容所における処刑者及びその処理状況  五、終戰後樺太地区で処刑された者の状況  六、満系釈放者状況  七、取調等のために残留させられた者の状況  八、其他の事項 等につき愼重調査することにいたした次第であります。  各証人におかれましては御多忙中又遠路のところ御出席をお願いいたし御迷惑の点もあつたかと存じますが、今や国民の前に率直に事実を明らかにされなければならん重大な時期にして、本委員会国会の権威にかけて愼重調査をなさんとする意図をお酌みとりの上証言されんことを願うものであります。  これより宣誓を行います。皆さん起立を願います。傍聽席の方も起立を願います。小倉孝行証人から順次宣誓して頂きます。    〔総員起立証人は次のように宣誓を行なつた〕    宣誓書    良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 小倉 孝行    宣誓書    良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 加藤 善雄    宣誓書    良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 國分萬二郎    宣誓書    良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 佐藤 三郎    宣誓書    良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 佐藤 甚市    宣誓書    良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 丸山 末藏    宣誓書    良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 高山 秀夫    宣誓書    良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 水野  等    宣誓書    良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。         証人 山本  昇
  3. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 御着席願います。  各委員に御報告いたして置きます。まだ渡邊証人が見えておりませんが、後程間もなく見えるかと存じますので、一応御了承願つて置きたいと思います。  この際、証人の方に一言御注意申上げて置きますが、先程も申上げましたような目的で今日の調査がなされ、皆さん証言を求める次第でありますが、証言に対しては宣誓された通り、事実をそのまま述べて頂きたいのであります。  尚議院における証人宣誓及び証言等に関する法律第六條によりまして、「宣誓した証人虚僞の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処する。」ということになつております。この点は十分御注意をお願いしたいと思います。併し民事訴訟法の第二百八十條並び刑事訴訟法第百八十六條に該当する場合は、証言を拒否できることになつておりますから、この点も併せて御注意申上げて置きます。民事訴訟法の第二百八十條、刑事訴訟法第百八十六條は、いずれも内容は同一でありますけれども、御参考までに民事訴訟法第二百八十條を朗読いたして置きます。民事訴訟法第二百八十條、   証言カ証人ハ左ニ掲クル者刑事上ノ訴追又ハ処罰招ク虞アル事項ニ関スルトキハ証人ハ証言拒ムコトヲ得証言カ此等ノ者ノ恥辱ニ帰スヘキ事項ニ関スルトキ亦同シ  一 証人配偶者、四親等内ノ血族若ハ三親等内ノ姻族又ハ証人ト此等親族関係アリタル者  二 証人ノ後見人又ハ証人ノ後見ヲ受クル者  三 証人カ主人トシテ仕フル者  以上であります。  尚運営につきまして一応各委員にお諮りいたします。お手許にお配りしてございます表に基いて各項目ごとに予め証人証言委員長から求めて質問をなし、その後一項目ごとに各委員より質問をいたすことにいたしまして御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  4. 岡元義人

    委員長岡元義人君) さようにいたします。  次に各証人に申上げますが、発言の際は必ず委員長と呼んで頂きます。自己名前を述べて後に発言されるようお願したいのであります。尚質問に対しましては、できるだけ要点のみお答えして頂くように併せてお願して置きます。尚本日は時間的にも相当制約されておりますので、場合によつて発言中でも運営上、発言を止めて頂くような場合があるかも分りませんが、事前に了承願つて置きたいと思います。
  5. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 時間に相当制約がありますので、万一ここで証人証言を十分にする時間がなかつた場合におきましては、委員会書面を以て出すということを、一応お諮り願つて置きたいと思います。
  6. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今淺岡委員から御発言がございましたが、他の委員方々は、これに対して何か御意見がございますか。
  7. 中野重治

    中野重治君 私は淺岡君意見に根本的に賛成であります。但し委員会書面を以て後から提出されたものを、委員会はどういうふうに取扱うかということも併せて決めて置いて頂きたい。そうでないと書面の取りつ放しになつては気の毒でもありますし、それから又この場所において宣誓した証言と、そのまま同じに取扱つてよいかどうかも、これには疑義がありますから、それを件せて私は淺岡君意見が取上げられることを希望します。
  8. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今淺岡委員の動議が成立いたしておりますが、問題が二つになりまして、証言し終えない部分を書類によつて提出させる、尚その書類はどのように取扱いするか、証言と同じようにこれを認めるか、この点についてお諮りいたします。
  9. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 書面で提出されたものは、やはり証言と同じようにお認め頂きたいと思います。それからその書面等につきましての審議は、更に委員会においてなされるということを提案いたします。
  10. 千田正

    千田正君 証言と同じように書面取扱うという場合は、これは相当疑義ら生じて来ますということは、ここでは限られた時間において最も簡單明瞭に、且つ重点的に証人証言をしなければならない、書面の場合においては、相当紙数に、或いは字数の制限がない限りは、自己の言わと欲することを幾らでも書ける、こういうふうな取扱方については妨何にするかということを、予めここに諮つて置かれてから、更にこれを提示して証言と同じように取扱うかどうかということを決めるべきだと思います。この点をお諮りいたします。
  11. 水久保甚作

    水久保甚作君 証言委員長の面前においてなすということは、これは宣誓趣旨から申しましても適当なことと思うのですが、これを書面で送るということは、或いはいろいろな方面から考え直して、このことはこういうふうにやつてもよかろうというふうなことを考えて、そうして書面に認めて提出をするということは、これを宣誓した書面と島て、これを扱うかどうかとうことは、これは私非常な問題になると思つております。そうでありますから、私の考えでは、書面でどうしても送らねばならぬような事項が残りましたなら、これは先ずこの委員会においては参考資料として私は採用したいものだと考う思うのであります。そうでなければ今日宣誓した趣旨に反することになりますから、私はさよう取扱いを願いたいと思います。
  12. 千田正

    千田正君 議事進行について、限られた時間、而ももうすでに定刻を過ぎておりますので、この問題につきましては、今日のあとの時間に取扱つて頂きたいと思います。取敢えず証人に対しての証言をまとめて進行して頂きたいと思います。
  13. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今千田委員の御発言に御異議ございませんか。    〔「異議なり」と呼ぶ者あり〕
  14. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今日二十三日に証人の喚問十名であります。明二十四日の証人も同様でありますが、その証人国会に見えておるのであるならば、傍聽を許すということを只今されておるのか知れませんが、一応お諮り願つて、でき得れば傍聽を許して頂きたと思います。
  15. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今淺岡委員より明日の証人で、本日傍聽希望の方は傍聽さして方がよいという御意見が出ましたが、皆さんにお諮りいたします。
  16. 中野重治

    中野重治君 これは問題にしなくともいいことではないかと思います。つまりこれは当然のことである。そういう意味淺岡君意見賛成です。
  17. 岡元義人

    委員長岡元義人君) お諮りいたします。それでは傍聽を許すことに御異議ありませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  18. 岡元義人

    委員長岡元義人君) さように取計らいます。  先ず委員長よりソ聯残留者現状報告に関しまして、一般收容所の現況と残留数について、先ず佐藤三郎証人質問いたします。佐藤証人カラカンダ地区におられたわけでありますが、入ソ当時カラカンダ地区におられた総数を、日本人のいわゆる総数を分るだけ答えて頂きます。  その次に重ねて二、三点一緒に申上げますが、囚人ラーゲル分布状況証言を求めたいのであります。  その次に日本人收容所分布数、次に作業内容死亡人員、その次に前職者取調状況人員数、尚佐藤証人は帰つて来る際にカラカンだから沿線をずつと見て来ておられる筈でありますから、その帰還途中シベリア各地にどのような日本人を見て来られたか、その点等について御証言を求めます。佐藤証人
  19. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) 佐藤三郎であります。カラカンダ九十九地区においては、今年の九月一日現在に一万三百六十一名、うち第一梯団二千五百名、第二梯団千七百七十六名、第三梯団千六百名、第四梯団千九百名、計七千七百七十六名、残留人員二千五百八十五名であります。二千五百八十六名は、元支那において兵団長隅田雷四郎三十九師団に及びます戰犯の刑を受け、残る人員は全部今年の六月から同收容所において約五十日間軍法会議が開かれまして処罰を受けたのであります。カラカンダ收受所の数は、佐藤がおりました收容所は第八收容所日本人收容所は、第六收容所、第八收容所、第九收容所、第十收容所、第十一收容所、第十五收容所、第二十收容所、第二十一收容所、以上でありますが、その外に大体一万名を越すドイツ人の捕虜がおりまして、その中に十名乃至二十名が分散されておりました。それから第二十收容所は、満州国官吏抑留者でありますが、この方で私が会つた方を今から申上げます。元満州国総務次長をやつてやられました源田さんであります。この方が第二十收容所におりました。それから元満洲国東総省省長をやつておられた五十子健吉という方であります。
  20. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと証人、途中でありますが名前はできるだけはつきり一つおつしやつて下さい。只今のところもう一回、東満地区の……。
  21. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) 東満総省省長五十子健吉です。五十の子と書きます。それから元満州国海城県の副県長をやつてやられました大沼幹三郎であります。それから名前はつきり分りませんが、井上、私が会いましたが、この方は海城警察署長をやつておられました。それから高井、この方も海城県の協和会事務局長をやつておりました。それから加藤という方です、この方も海城県の商工公会事務局長をやつておりました。それから名前はつきり分りませんが、終戰当時ハルピンの高等法院の院長が来ておりました。それから終戰当時、新京の駅長が来ておりました。それに元満州国奉天省警務庁長をやつてやられた三宅さんという方ガ昭和二十二年の一月の四日にデイスカジカン收容所において亡くなられました。それから柳澤簡一という方、この方は満洲国国境警察隊隊長をやつてやられた、この方がやはりおられました。それから曾野田、この方は満洲国鉄道警護隊曹長で、サンカジ勤務、帰つたらことづけを頼むということを言われておりまして、神戸の瀧澤中学正門前ということを聞いておりました。それから宮川という方、この方は同盟通信社特派員で、アツツ島の勤務をやつてやられた方であります。それから又川というこの方も満洲国鉄道警護隊星級曹長で、サンカジ勤務でありました。それから元旅順の要塞司令官をやつてやられました太田中将、この方は終戰時満洲国軍に編入しまして、どつかの方面軍司令官をしておられた。この方がおられました。この方は收容所隊長としてやつておられました。それから満洲の阿南大将がおられました。第三方面軍の末廣大佐赤星少佐、この参謀の方々カラカンダより約三百キロ離れた地点の上に作業中に二人とも自決したということを聞いております。それから東條内閣の当時内閣書記官長をやつておりました星野直樹、この方の息子さんが、お父さんが大東亜戰争終身禁錮の刑によつて、遂に息子さんも七年の刑を受けたということを聞きました。それからハルピン特務機関並びに黒河の特務機関のタイピストがカラカンダに三名おりました。それから士官学校五十七期の、名前は忘れましたが金子という男がやはり七年の刑を受けて、カラカンダ地区から約百キロ離れた西方の方の地点の刑務所で仕事をしておつたと聞きました。それから去年、昭和二十二年、私は丁度バルハしにおりましたが、このときに作業中にサポタージユをやつた。そういう名目の下で岩佐という男が五年の刑を受けました。それから昭和二十年の十月二十六日から昭和二十一年の十二月三十日、この間においてデイスカジカン收容所で、私は丁度デイスカジカンにおりました。この收容所において九十九名死亡しました。私が衞生下士官で病院勤務をやつておりましたので、その方はよく覚えておりました。それから細かい点がありますが、時間をとりますからここで終ります。
  22. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと一言お尋ねして置きますが、先程証言中に、軍法会議という発言がございましたが、これはいわゆる單独軍法会議意味でありますか。
  23. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) いいえ。これは今年の六月から約五十日間において、当收容所並びに九十九地区收容所全体に五十日間のうちに始まりましたのです。これは個人調査でありまして、私が見る目では一方的裁判と、そういうふうに思われますが、これを日本人が非常にいがみ合つたような生活を送りまして、大体日本人委員をやつておられる某、その男が、この兵隊は大体支那において相当乱雑なことをやつた。そういうことを言いまして、これを何とか軍事裁判にかけてやろうというようなことを言つたそうであります。そのために刑を処せられたということを聞きました。言つた本人收容所に長くおるとお互いに喧嘩の問題が起るために、そういうことが終ると同時に、第一梯団で以てその中に入れて帰したわけであります。あとで以て残つた人間はどうせ帰れないとか遅れるとかいう話は相当持ち上りましたが、どこもかかつておることがないためにそのまま帰つたような状況であります。
  24. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 佐藤証人に、尚先程委員長から質問いたしました点について、まだ全部終つておりませんが、できるだけ簡單でいいですからお答えを願いたいと思いますが、あなたがカラカンダからハバロフスク或いはナホドカを経て帰つて来られる間に、どういう所にまだ残留しておつたということを御覧になつた点について証言を求めます。
  25. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) 来る途中にチタン附近において鉄道の枕木の運搬をやつておる仕事を見て来ました。人員の数は大体二十四、五名と思います。それからチタンに来るまでにアクモレンスクという所がありますが、その附近でもトロツコの作業をやつておりました。その外ナホトカまで来る間には、ナホトカ附近で、約五十キロばかり手前でやはりそういつたような雑役をやつておる兵隊がありましたが、それだけであります。
  26. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚もう一辺佐藤証人証言を求めて置きますが、カラカンダ地区におけるところの作業内容、それと死亡状況を、尚証言を求めます。
  27. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) 作業状況としましては、私がおりました第八收容所炭鉱が、第八收容所だけで五つの炭鉱を持つておりました。大体人員が千三百六十一名おりましたのですが、そのうちの大体三分の二は五ヶ所の炭鉱作業に行つておりました。その余りの人間建築隊並びに鉄道作業隊或いは大工仕事とか、或いは左官の方とか、或いは若干の者は営内の壊れた修理の方をやつておりました。
  28. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次は丸山証人証言を求めます。証人ライチハについて御承知の筈でありますが、收容所分布状況残留人員について述べて頂きます。
  29. 丸山末藏

    証人丸山末藏君) 証人丸山末藏であります。只今から発言いたします。自分は十月の二十五日ライチハに到着いたしました。それはチレンボーボーという所のイルクーツクから約三百キロの炭鉱であります。その炭鉱からライチハの第十九地区第一分所に反動として五百二十八名転属したのであります。ライチハ收容所は約四千名おりました。四千名のうち第一梯団千二十名、第二梯団千五十七名、第三梯団が八百六十名であります。あと自分らが七百三十二名第四梯団としてナホトカに集結したのであります。そのときの人員は、自分らがライチハ收容所滞在中、ソ軍当局としまして、自分らの知らない間にその附近のコルホーズに向けて單独転属を命じたのであります。大体自分の確実なことを知つておりますのは、農場に行きましたのは、ライチハ收容所から約三十キロ奥のウヤツカという農場に七十九名、憲兵通訳連中が八十九名ウヤツカ農場に転属しておりました。ライチハは、自分らが七百三十二名出発後ライチハ残留人員は、第一分所に三百五十名、独立病院というのがありますが、その独立病院に二十五名の患者が残つておりました。それが大体ライチハ残留人員状況であります。ナホトカの集結いたしまして、ナホトカの第一分所に入りましたのであります。ナホトカの第一分所に船の来るまで待ちまして、二十九日の日に第四分所に参りました。その節第四分所の人員は三千六十八名の人員でありました。それから第一分所、受入け体制分所は、自分らが四分所に移動したために残留人員は、炊事その他の、ラーゲルからあと集結して来る人員勤務要員として、第一分所に八十名、第三分所に五十七名、大体三十日までの信洋丸に乘船するまでの状況はかような次第であります。終ります。
  30. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 丸山証人に補足してお尋ねしますが、ナホトカでその三千六十八名というものは信洋丸に乘れなくて積み残されたと、そういう意味でありますか。
  31. 丸山末藏

    証人丸山末藏君) これは自分らが出ます時に、二十一名乘りました時に、あと千六十八名というものは五日の日にナホトカに来る高砂丸を待つてつたのであります。その人員は千六十八名であります。勤務者要員を全部加えますと千二百名程でありますが、あとハバロフスクから五日までに到着するようなことをソ軍当局の方で申しておりました。その時にソ軍当局といたしましては、自分が今年の輸送船はこれで終りかということをソ軍のキヤプテンに聞いたのぶあります。そうしたら十二月二十六日までにもう一船出るということを申しておりました。これを附加えて置きます。
  32. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次に丸山証人に重ねて証言を求めますが、将校といわゆる反動分子というもので他の地区移動されたというものについて知る限り証言して頂きます。
  33. 丸山末藏

    証人丸山末藏君) それでナホトカにおきましては自分の知つている範囲内では、今鎌倉におられますが、カラカンダにおいでになつた小林中尉将校グループハバロフスク軍事裁判に廻されるということで二人ハバロフスクに送られたということは知つております。その名前自分としてははつきり記憶しておりませんからここで申上げられません。
  34. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚もう一点丸山証人証言を求めますが、前職者取調べ状況について知つておられる限りについてお答えをして頂きたい。
  35. 丸山末藏

    証人丸山末藏君) 前職者といたしましては、自分チレンボーボー地区に約四千名四十九年の八月の五日までおりましたのであります。その時四千名チレンボーボーの第六收容所に集結しておりました。そこは炭坑作業であります。その時に作業忌避において、前ウラジオストツクの領事館に勤務した金子某が十年の刑を受けております。それは理由は、作業忌避又は生産に妨害を加えたという廉によつて、三十二管理局管内の内務省の軍事裁判に付されて十年の刑が申渡されております。それから前職者としての移動は、第六分所当時に、我々の言う特務機関でありますが、特務機関憲兵は二度に亘つて写真をとられておるのであります。それが二百四名の数に上つております。その中に自分写真はとられましたのですが、結局ソ軍の要注意者となつている特務機関及び航空情報又は憲兵、そういうものは写真をとられてハバロフスクに廻されるということになつておりました。併し自分らがチレンボーボーから十九地区移動する際に、最後に残る我々五百二十八名の反動外は全部帰るということを言うておりましたですが、公不がナホトカに着きまして、いろいろなライチハチレンボーボー出会つた昔の同志に出会いまして状況を聞きましたら、憲兵及び警察官はナホトカ集結地において、第一分所において取調べを受け、ウラじオストツクの炭鉱に廻されたのであります。二ヶ月後自分らと一緒に合流になり、又外の信洋丸なり栄豊丸高砂丸乘つて帰つた者もあるということを聞いております。尚憲兵特務機関ハバロフスクの方に廻つて、現在ハバロフスクには通訳憲兵特務機関が、自分ナホトカ情報を得ましたときには、三千五百名程ハバロフスク收容所におる。又ハバロフスク收容所におきましては、もう刑が決まつて一つグループになつている連中が六十二、三名おるということも聞きました。その外将官が百三十四名ハバロフスクにおります。ライチハ当時より自分の知合いとしまして主な方を申上げます。これは前靜岡県の警察部長、前山形県知事を歴任した金森太郎という方がおられます。
  36. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 丸山証人にもう一回、名前のところはゆつくりはつきりと……
  37. 丸山末藏

    証人丸山末藏君) 大森太郎、六十五歳であります。所は麹町の二番町と聞きました。自分と隣り合わして寝ておりましたから……非常に弱られておりました。それから憲兵中佐宇津木という方がやはりおられました。その方二人はハバロスクに送られました。それは十月の二十二日の夜であります。ライチハは、自分ライチハを出発するときに残つた残留人員の三百五十名は特務機関及び通訳ハルピン学院出通訳東京外話通訳であります。通訳及び憲兵、そういう連中が残つております。それは近くハバロフスクに行くと思います。それだけであります。
  38. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう一点丸山証人証言を求めますが、ライチハ地区におけるところの作業内容死亡者の数が分つた証言して頂きたいと思いますが、特に作業等につきまして、一九四六年の暮から四七年にかけての作業状況ば証言を求めます。
  39. 丸山末藏

    証人丸山末藏君) ライチハ炭鉱地区でありますが、非常に温い所であります。現在大体二十五度くらいと思いますが、大体炭鉱の建築作業であります。死亡者といたしましては、自分ライチハに在職中には三名であります。自動車事故一、あとは落盤の下敷になつて二名死亡しております。大体死亡者はそれだけ。
  40. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 名前は分つたらできるだけ言つて頂きます。
  41. 丸山末藏

    証人丸山末藏君) 名前は……。
  42. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 分らなければ分らないと。
  43. 丸山末藏

    証人丸山末藏君) ちよつと今記憶がありませんから分りません。三名の死亡者だけであります。主として建築作業をやつておりましたから、ライチハ收容所は、非常に完備して、なかなかよくできた收容所であります。今まで自分が転属しておりましたか、十九地区ライチハは、レストランもあり、又マーガジンもあり、非常にいい收容所でありました。終ります。
  44. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 発言します。
  45. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 証人に申上げて置きますが、冒頭に申上げましたように、一応一項ずつ質問が終りまして、各委員から質問があつて、その問証人発言を持つて頂くことにいたします。  次は小倉証人証言を求めます。先ず第一点は、ホルモリン及びハバロフスクラーゲル分布状況並びに残留数について証言を求めます。
  46. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 小倉発言します。ホルモリン地区は、私は一九四五年の十一月より四七年の十月頃までおりました。当時は、私は二百八という分所におりましたが、沿線は大体三百キロぐらいと言われております。非常に遠いので、私分布の地区については記憶がありません。一九四七年の十月以降は、ハバロフスクに行きましたが、ハバロフスクの市内は、我々は自由に歩くことができませんので、この分布がどの程度にあるかは知りませんが、知つている数字だけを申上げます。ハバロフスクの十八分所に私はおりました。二十分所、二十一分所、三分所、十一分所、九分所、八分所、十三分所、その程度だと思います。
  47. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 小倉証人に重ねてお聞きしますが、この收容所残留数について証言を求めたいと思います。
  48. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) いつ頃の残留ですか。
  49. 岡元義人

    委員長岡元義人君) あなたの引揚げられて来られまで。
  50. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 第五地区、ホルモリン地区を出た一九四七年十月当時におきましては、八千程度かと思います。約八千ぐらいと思います。
  51. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ホルモリン……。
  52. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) ホルモリンです。
  53. 千田正

    千田正君 今の小倉証人は、ホルモリンは、四五年から四七年までの概数ですが、我々の聞きいたのは現在の、この証人の方が引揚げられる最後の時に残されている数を聞きたいのですが、その点を。
  54. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 小倉証人ハバロフスクから帰つて来られる当時の、いわゆる山澄丸に乗られるまでの、出発される時の残留数を、知つておられる限り述べて貰いたい。
  55. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 私の出発当時はナホトカ第一分所におりました、第一分所に残つておりました数は、惠山丸を待機している十九地区、即ちライチハ、ここからの第三梯団若しくは第四梯団だと思います。これが七、八百名、同じく第五地区から到着をした約一千名、これだけが我々が第一分所を出発するときに見送つて呉れましたから、これは確実であると思います。
  56. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚小倉証人に重ねてお伺いしますが、あなたは地区の講習会に出席されたことがあるのですか。
  57. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 地区というとどこですか。
  58. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 地区講習会、いわゆる教育をされておる地区講習会というのがありますね。それに出られたことはありませんか。
  59. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) ありません。
  60. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 全然ありませんか。
  61. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) ないです。
  62. 天田勝正

    ○天田勝正君 問題は、ナホトカは各地から集まるのであつてハバロフスク收容所にいて、それを出発するときのその地における残留者を聞かなければ意議がないと思います。
  63. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) これらの各地区における残留者の数は、各地区の責任者を集合さしたならば非常によく分るのだと思います。
  64. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 小倉証人に申上げますが、とにかくあなたのハバロフスクを立たれるときのいわゆる残留数についての点についてお尋ねしておるのです。その点だけお答え願いたい。
  65. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 当時ハバロフスクにおりました人で出席している人は、ここにおります高山証人が当時おりました。従つて高山証人に聞いて頂けば分ると思います。
  66. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 小倉証人に申上げますが、高山証人には後程こちらからお尋ねいたしますので、あなたの知つておられる範囲において証言を求めているのです。
  67. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) ハバロフスクの方はさつき申上げました。
  68. 中野重治

    中野重治君 証人の中には委員長の間が十分呑込めない方があるのではないかと思います。つまり或る地点にいた、何月何日までここにいた、その何年何月にそこを出発して他の地区自分が移つたときに、その地区に残留しておつたものについては自分の経験を語ることができるであろうけれども、併し我々は現在のを知りたいわけです。單にナホトカで船に乘るとき、或いは半年なり一年なり或いは二年なり前にその地から移つて来た元の地に現在何人残つておるかというふうに問題が出されると、受け答えする方で混乱するのではないかと、こう私は考えておる。その点を委員長の方でよく説明なさる方が証人証言を円滑に引出せるのではなかろうかと、こう思います。
  69. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 中野委員ちよつと申上げて置きますが、今日と明日のいわゆる証人喚問によつて、総合的にあとで検討するということにいたしてありますので、重点的に或いは一番最後におつた所の引揚状況というのではなくて、地区別にもその人が立つたときのいわゆる残留数というものを求めたい。これはあとで総合的にいろいろ資料が出て来るわけです。
  70. 中野重治

    中野重治君 そういうふうにはつきりやつて欲しいというのが私の要求なんです。
  71. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 承知いたしました。それでは尚重ねて小倉証人証言を求めますが、あなたがハバロフスクを立たれるときの状況残留数証言を求めたい。
  72. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) その件については、先程述べました通り約八千人ぐらいだと思います。
  73. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと待つて下さい。天田委員
  74. 天田勝正

    ○天田勝正君 これは八千人というお話も先程ございましたが、それは小倉証人の御承知の、ハバロフスク地区全般の数をおつしやつておるのか、又その全般が自分の身分上御承知がなければ、つまりこれとこれとの間だけは知つてつてその小計がこうである、或いは他のことは全然知らないで自分の所属しておる分所だけのことについてならこうである、こういうふうに一つお聞き願いたいと思います。
  75. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 小倉証人に、今天田委員から委員長に御注意がありました点についてお分りになりましたでしようか。
  76. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 分りました。
  77. 岡元義人

    委員長岡元義人君) その注意のように、あなたのいわゆる知らないものは知らない、知つておられる範囲において知つておるというぐらいのお答えを願いたいと思います。
  78. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 分りました。私がおりました二十一分所は、私が出発するときには約千名おりました。そうしてそこを出て来るときにいろいろな人の話を聞くところによると、私の記憶では八千人ぐらいおつたのではないかと思います。終ります。
  79. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚重ねて小倉証人に伺いますが、ホルモリン地区においての死亡数とその処理はどういう工合にされておるか、この点について証言を求めます。
  80. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 発言します。ホルモリン地区の二百八分所に私がおりましたときに亡くなられた方は、二百八分所で多分一人おつたと思いました。この方は病気になると直ちにソヴイエト側から前の病院の自動車で迎えに来て連れて行かれまして、ここではソ同盟の人と一緒に同列で看護を受けて、非常な友人やドクトル方の努力に拘わらず亡くなりましたが、この人については病院で裏の墓地に鄭重に葬むられております。これだけは私は知つております。
  81. 中野重治

    中野重治君 議事進行について。最初委員長から説明がありましたように、やはり各項目ごとについて質問委員長からもなさるように望みたいと思います。というのは、政容所における死亡者とその処理の状況というのは、第三項目にありますから、ここでまとめて一つつて頂きたいと思います。
  82. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 承知いたしました。  次に、では山本証人証言を求めます。先ずハバロフスク市内の日本人ラーゲル分布状況について証言を求めます。
  83. 山本昇

    証人(山本昇君) 山本昇です。ハバロフスク地区におけるところの收容所の知つておる範囲を申上げます。第三第五、第八、第九、第十、第十一、第十三、第十六、第十八、第二十。(「ゆつくり読んで下さい」と呼ぶ者あり)
  84. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう一回今のところをゆつくり各委員がよく分るように。
  85. 山本昇

    証人(山本昇君) 第三、五、八、九十、十一、十三、十六、十八、二十、二十一であります。
  86. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 重ねて山本証人に伺いますが、特別收容所の位置及び人員等について知つておられる範囲において述べて頂きます。
  87. 山本昇

    証人(山本昇君) 各分所における個個の人員はつきり分りませんが、私が出て参ります九月の初め、それまでに約六千五百名收容されておつたと記憶いたします。これは私ハバロフスク地区の病院、一八九三病院におりまして、その入院患者から大体聞きまして、そうして計算した数が大体六千五百であります。但しハバロフクス地区は、御承知の通りに奥地の方からの受入と並びにそれから発送という丁度中間中継地区になつておりまして、絶えず人員移動が行われておつたような状況であります。
  88. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚特別收容所の位置及び人員等について。
  89. 山本昇

    証人(山本昇君) 特別收容所と申しますと何ですか。
  90. 岡元義人

    委員長岡元義人君) これは特に特殊收容所と呼ばれていると聞いておるのでありますが。
  91. 山本昇

    証人(山本昇君) それでは申上げます。特殊收容所の第一は第四十五ラーゲル、さつき申上げました四十五ラーゲルであります。これは將官ラーゲルでありまして、一名戰犯ラーゲルとも言われております。これはハバロフスク地区のレーニン街のすぐ側にありまして、殆んど町の中央部にあります。これには滿洲国皇帝、張景惠以下数人の者並びに日本の元の将官が百八十五名大体おりました。その中には山田乙三、秦号三郎、梶塚隆二、川島元軍医少将、そういう人達はそこにはいないということを言つておりました。
  92. 岡元義人

    委員長岡元義人君) よろしうございます。
  93. 山本昇

    証人(山本昇君) その外に特殊ラーゲルとして十三ラーゲル、十八ラーゲル、十六ラーゲル、これは特に戰犯ラーゲルとして憲兵、警察官、特務機関、特殊部隊、これは機動部隊、衣部隊、仁部隊、そういうような名称で言われておりましたが、そういう特殊部隊或いは元の昔の参謀……。
  94. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 山本証人に申上げます。今のところをもう一回。
  95. 山本昇

    証人(山本昇君) 発言します。十三ラーゲル、十八ラーゲル、十六ラーゲル、そのラーゲルは、分所は戰犯ラーゲルとして特に言われておりまして、憲兵、警察官、特務機関、特殊部隊、これには機動部隊或いは衣部隊、仁部隊、これは北支の方におりました部隊であります。それから元の参謀連中、それから通信情報関係の者、そういう者も大分おりました。その中におつた人間は大体まお分りと思いますので省略いたします。
  96. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと山本証人にもう一つだけ伺つて置きますが、あなたがナホトカを立たれるときの残留者数について知つておられると範囲において証言をして頂きたいと思います。
  97. 山本昇

    証人(山本昇君) ナホトカを立ちましたのが九月の二十三日でありまして、その時のナホトカにおける残留人員は約二千名でありました。
  98. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 ナホトカを立たれたとき二千名と言われますけれども、それは山本証人は最終船と言われる信洋丸に乘つて来られたのでありますか。
  99. 山本昇

    証人(山本昇君) 発言いたします。お答え申上げます。これは私九月の二十三日でございまして最終船ではございません。
  100. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次に高山証人にお尋ねいたします。先ず第一点は、ハバロフスク地区への入ソ人員は、いわゆるあなたの知つておられる範囲においてソ連を入つてつた総合数を知つておられるならば答えて頂きたいと思います。
  101. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 自分は一九四五年の九月二十九日、コムソモリスク地区、第十八地区の第一分所に入所いたしました。その分所には約三千人の人員がおりまして、そうして第二、第十四、第五、第九というように大体コムソモリスクには約一万内外の人員がおりました。この十八地区は大体四十八年の初冬に閉鎖になりましたが、その前に私はシベリアの民主運動の最高指導部である日本新聞に六月の十二日に参りました。大体沿海地方、それからハバロフスク地方、これらの地区は宣伝不におりまして参りました。大体のハバロフスク地方の概数は今はつきり記憶にありませんが、六、七万であつたと覚えております。
  102. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚重ねて伺いますが、そのハバロフスク地区から帰還した人員について。
  103. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 帰還は、私は十月の二十一日にハバロフスクを立ちましたので、その当時ハバロフスク地方の大体の状況は、十六地区、特に私が責任者としておりました十六地区の概算は五千五百名、只今山本証人から六千五百というように言つておりましたが、これは勘違いだろうと思います。私は十六地区の責任者として私の帰つて来る時、私の梯団を入れて五千五百名であります。それからコムソモリスクが千三百、これは第五地区に所属しております。それから第十九地区ライチハ、これは七百名おるところへ中央アジアから約七、八百参りまして千三、四百名がおりました。四地区は大体十月の十七、八日に全部引揚を完了いたしまして、そうしてこれは閉鎖になつております。ハバロフスク地方の自分が発つ当時の人員は大体以上の通りであります。
  104. 岡元義人

    委員長岡元義人君) これは合計五千五百……。
  105. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) それはハバロフスク地区内であります。それ以外は只今申上げた各地区の数字であります。
  106. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう一回高山証人に今の証言について言つて頂きます。コムソモリスクから。
  107. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 十六地区が大体五千五百、それからコスソモリスクが千三百、それからライチハが千二、三百、四地区は十月十七、八日に全部輸送を完了いたしまして閉鎖された筈であります。ハバロフスク地方の自分が出発する当時の人員は以上の通りであります。
  108. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 高山証人にお尋ねしますが、ハバロフスク收容所分布状況を知つておる範囲において。
  109. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) ハバロフスク十六地区でございますね。
  110. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それとあなたのおられた收容所
  111. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 私は主としてハバロフスクにおりまして各地区を廻りましたが、特によく状況の分つておる十六地区状況を申し上げますと、山本証人が言いましたように、第三、第五、第七、それから第八といつておりますが、これは早く閉鎖されました。九月上旬に閉鎖されております。第五、第七、第九、第十、第十一、第十三、第十六、第十八、第二十、第二十一、それから山田乙三大将、関東軍司令官以下を收容する四十五收容所、大体こういう状態であります。
  112. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 高山証人のおられた收容所は。
  113. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 私は第十八分所に所属いたしまして地区本部におりました。
  114. 岡元義人

    委員長岡元義人君) その外の收容所におられたことはありませんか。
  115. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 各分所へは一週間も一回ずつ廻りました。分所の日本人の生活状態、それからその外いろいろな問題の調査のために廻りましたから、十六地区状況は一番よく知つております。
  116. 天田勝正

    ○天田勝正君 先程の六、七万というのは、委員長質問ハバロフスクに入つて総員をお聞きになつたのだろうと思いますが、そういう意味で高山証人お答えになつたのか、或いは最高に達したときは、六、七万というお答えであつたのか、どちらか一つはつきりして頂きたいと思います。
  117. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 高山証人に、只今天田委員から御注意のありました点について伺いますが、この六、七万という数字は一番多くなつたときの数字か、ハバロフスクで收容された全部の数字であるか明らかにして頂きたい。
  118. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) それにお答えいたします。大体自分は四六年の六月十二日に日本新聞社に行きまして宣伝部におりまして、各地区を廻りました四六年当時の数字であります。これは大体最高の数字であります。
  119. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚高山証人に、あなたは第五收容所におられたことはありませんか。
  120. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) ハバロフスク第五收容所は、私が参りました。つまり日本新聞に参りましたときが第二收容所でありまして、それから約数ヶ月いたしまして第五の方に、給與分担の五分所に参りましたので、五分所の方に所属したことになつておりますが、五分所において生活したことは私が地区本部から出張して生活した以外にはありません。
  121. 岡元義人

    委員長岡元義人君) よろしうございます。着席願います。
  122. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 今の問題について。それから前職者の問題について今委員長殿が山本証人、それから丸山証人にお尋ねいたしましたが、この問題について非常にまだ残留家族の人達が心配になつておられるようでありますし、注目はこの点に集中されておるようでありますから、この問題について皆さんの前に真相を明らかにしたい、このように考えます。  先ず前職者、これは対ソ攻撃に準備されたいわゆる日本陸軍の支柱といわれた関東軍の憲兵、警察、特に警察の分室といわれた特殊情報に参加していた警察官、それから特務機関、それから防疫、給水部、特に石井中将を長といたしまするハルビンの香坊の郊外にありました石井部隊、これは大体ちよつと概要を説明申上げますと、コレラ、ペスト、発疹チブス、こういうような恐るべき細菌を培養いたしまして、これをソヴイエト、或いは中国の人民にばら撤いてそうして人民を惨憺たる戰火の中に捲込んで行くという恐るべき部隊であつたわけであります。こういう所に所属しておつた者、或いは三、四、五部隊、即ちソ同盟の攻撃が開始されると同時に直ちに通訳として対ソ戰に参加して重要な役割を果す部隊、それからバルチザン部隊を指導する部隊、これらの特殊の部隊が参加、つまりこの前職者として残つておるわけでありますが、併し大体この取調べ関係は、私が帰国いたしますまでの予定といたしましては、一応タス通信で発表いたしましたように……。
  123. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 高山証人発言中でありますが、尚あとの項において、取調等のため残留された者の状況という項目がありまして、そこで詳しく又述べて頂くことになつておりますので、一応運営上今私の方から質問したことだけにお答えして頂きたいと思います。
  124. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 分りました。簡單に申上げますが、一応今後の私の発言、その外の問題に関連がありますから簡單にこの全貌について説明を申上げたいと思います。時間を若干割愛して頂きたいと思います。
  125. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 高山証人、この冒頭に一応運営について各委員に諮つて決められたことでありますから、あなたの発言される何は相当ございますので一応この点については止めて頂きます。  次は加藤証人にお伺いいたします。先ずウオロシロフ地区におけるところの状態についてお伺いしますが、先ず第一点は、五百七十一労働大隊の移動径路と赤軍労働大隊の性格、一般ラーゲるとの差違について分りますか。
  126. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 今委員長殿から自分がウオロシロフ労働大隊及び赤軍労働大隊のいわゆる形態というようなものを話すように言われましたが、一番問題となつておりまする全シベリヤに入つた日本人の数が大体幾らであろうかというような基本的な問題が、ソヴイエトの発表と連合軍の発表の数とが余りにも隔ることが物議を釀しておるようでありますから、自分の知つておる範囲においてシベリア、いわゆるロシアに入つた日本軍は幾らぐらいおつたかというようなことを申上げて、それからウオロシロフ労働大隊、いわゆる赤軍労働大隊の点に及びたいと思います。  私の判断によりますと、日本軍のロシア側に入りました数字は八十六万七千と記憶しております。この判断の基礎は、私が一九四六年の三月ウオロシロフにおいて道路作業中に私達の警戒兵としておりましたソ軍の歩硝のカリーニンというのが特殊の一冊のパンフレツトを見せて呉れました。それは一九四五年十二月末の調査だということであります。そのとき一緒におりました日本軍側の通訳をして飜訳して貰いましたが、その中には日本軍の捕虜数が八十六万七千と発表しております。戰鬪時における損耗数はソ軍が八千、日本軍が八万とそのパンフレツトには書いてあります。もう一つ判断の基礎といたしまして一九四六年の六月、輸送開始せられる声を自分たちは聞きました。そうして我々の最も大きな関心事でありましたために、帰国問題に関して、当時の收容所長で現在は沿海州の捕虜收容管理局に勤めておりますチンチコーフ大尉に、日本軍の捕虜で大体入ソした人員が幾らおるだろうかという質問をしましたところ、彼は九十八万ぐらいおるということを回答しております。これが自分の入手せる人員状況の判断の基礎であります。それで入所以来、日本軍が幾らぐらい死んでおるだろうかという基礎の下に立つて自分は日本新聞社の某と話しましたが、その者の話では、日本軍の捕虜は大体三〇%ぐらい死んでおるだろうということを話しております。
  127. 岡元義人

    委員長岡元義人君) その名前は分りますか。
  128. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 分ります。日本新聞社の須藤です。一九四七年の十二月であります。場所はウオロシロフの五七一労働大隊において聞いております。その三〇%発、ソ側と新聞社はその余りに厖大な死亡率に関して次のような責任回避のようなことを言つております。その一つとしましては、日本軍将校が余りにもフアツシスト党的な兵に対する横暴と、糧秣の横取り、いわゆる精養軒料理をやつて横取りされるから、兵隊に渡る糧秣が少くて兵隊が倒れて行つたと言つております。これはソ側で言つております。私の考えでは、総体的に言つて戰いがすでに終つたのだからその当時における最大唯一の任務は、如何にして我々日本の兵隊を損耗もなくして無事祖国に帰すかということにあつただろうし、それを肝に銘じて最大の努力を傾到したと自分は確信を持つてここに答えるものであります。それから二つ目といたしましては、総力を挙げて戰争をやつたために余りにも兵隊を召集し過ぎた。それで弱い兵隊もおつたために、いわゆる條件と環境の変化による自然淘汰である。この二点をソ側と日本新聞社は強調しておりました。
  129. 天田勝正

    ○天田勝正君 さつきの戰鬪による損害の方で、日本側がというところをもう一遍……。
  130. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 日本軍の戰鬪時における損耗が八万であると発表しております。死亡状況及びロシアに入りました総人員自分の考えを申上げました。それから今度はウオロシロフには自分は二十一年の一月に行きました。それから三〇%の死亡率の判断といたしまして、自分はエリンカにおりました当時、一ケ月半に自分の労働大隊は一千名のうち栄養失調のために二百名死んでおります。その当時一月頃満洲に患者を護送しましたが、それを除いた数であります。そこからも自分状況判断をしておるわけであります。そのような状況判断の基礎に立つて自分は三〇%ということを答えました。それから今委員長殿から言われましたウオロシロフに行きましたのは、自分は二十一年の一月であります。五七一労働大隊に行きましたが、今の労働大隊はその当時七百名であります。ウオロシロフ全般としては、労働大隊が七百名とそれから内務省関係が六つと覚えております。その收容所の番号は自分は分りません。そのときの死亡率は自分は知つておりません。病気になりますと直ぐ病院に連れて行きましたから、そのウオロシロフ当時における死亡率は自分は分つておりません。それから二十二年の一月にボーエンキという所に行きましたが、そこには前には六百名ぐらいのいわゆる赤軍労働大隊がおつた所でありますが、そこには百六十九の墓標がありましたので、恐らく百六十九人くらい死んでおるだろうという自分の判断であります。
  131. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 墓標というのは、やはりソ連にはそういう墓標を立てられるのですか、或いはどのようなものですか。
  132. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 日本人同士で立てました墓標であります。木を立てて名前だけ書いてあります。
  133. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 その日本人同士で立てる墓標というものは、それはソ側からは許されるのですか。
  134. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 許されております。
  135. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 加藤証人続けて下さい。
  136. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) エリンカにおいて二百名死んだときの状況は、相当栄養失調で弱つてつた関係上、墓穴を掘る気力も体力もなかつたという関係もありますが、殆んどほつぽらかして、次の日に行つたら野犬が喰ベておつたというような状況下にあります。それからウオロシロフからいわゆるアルチヨムの特別ラーゲルに一年五ケ月おりましたが、そのときは相当死にましたが、その状況は國分証人が申上げると思います。今年度の最終船で帰るためにアルチヨムを出発するときは四百名くらい残つておりました。
  137. 岡元義人

    委員長岡元義人君) アルチヨムを出発された時期を。
  138. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 二十四年の十一月十四日でありました。
  139. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 加藤証人に先程委員長質問いたしました労働大隊の移動径路と赤軍労働大隊の性格というようなことについて証言を求めたい。
  140. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 赤軍労働隊におきまして私はエリンカ、ウオロシロフ、それからボーエンキ、これだけを移動しておるわけであります。それからアルチヨムは内務省関係であります。
  141. 岡元義人

    委員長岡元義人君) その作業についてはどういう作業をしているのか……。
  142. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 自分がエリンカに行きました当時は稻刈り作業であります。それからウオロシロフに行きまして変電所の建設作業を一年やりました。それから道路作業、建築作業であります。
  143. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 重ねて加藤証人に伺いますが、労働大隊という大隊は逐次移動しておるのですか。
  144. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 移動性が、内務省関係から見ますと多いようであります。各産業によつていわゆる赤軍と共に転々と移動する率が多いようであります。
  145. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 收入の点…。
  146. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 收入は一銭も金を貰いません。ただ貰つただけの給與であります。それから内務省から見ますと、いわゆる生活面の給與であります。そのような点も惡かつたのでございます。いわゆる三年間というものは殆んど藁莚の上だけであります。それからボーエンキに行きましたときには乾草を敷いて寝ておりました。アルチヨンに行きましたときは、内務省関係のせいか藁布団や毛布、枕などもありました。それから入浴、その点も設備されておりました。
  147. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 加藤証人自分の階級は何だつたのですか。
  148. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 准尉であります。
  149. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 年は幾つですか。
  150. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 三十四であります。
  151. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 加藤証人に重ねて尋ねますが、アルチヨン附近作業と死亡数等について知つておられる範囲で証言を求めます。
  152. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) アルチヨンには千六百名、自分が行きました二十二年の六月にはおりましたですが……。
  153. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 死亡者の点について……。
  154. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 死亡者の数ははつきり自分は覚えておりません。あすこに行きましたときには落盤で、炭鉱の事故で相当死んでおつたようでありますが、その数については分りません。隣りにおる國分証人が分つておると思います。
  155. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚もう一点加藤証人に伺いますが、昨年の冬期のナホトカ状況について証人証言できますか。
  156. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 昨年でありますか。
  157. 岡元義人

    委員長岡元義人君) はい。
  158. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 昨年はナホトカにおりませんから分りません。今年の十一月の十四日に自分はアルチヨンを出発しております。
  159. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 ちよつと加藤証人にお尋ねしますが、あなたはいろいろのところを随分歩かれておるようですが、あなたはノモンハンの捕虜とか、そういうような者がいたとかいないとか、そういうようなことをお聞きになつたこと、或いは耳にされたことはありませんか。
  160. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) ノモンハンの捕虜も残つております。
  161. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと淺岡君に申上げますが、あとで全部出ておりますから。
  162. 天田勝正

    ○天田勝正君 さつきの労働大隊の七百名、これはアルチヨンの場合ですか。
  163. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) ウオロシロフであります。
  164. 天田勝正

    ○天田勝正君 ウオロシロフ。それでこの場合死亡数は分らないというお話が先程ありましたが、併し病院に送られた数は御存じですか。
  165. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 概算だけでありますが、まあ少く見まして二十人か三十人くらいだろうと思います。
  166. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚加藤証人にもう一点だけ。あなたがナホトカを今度立つて来られた高砂丸に乘られたときの残留数について知つておられる範囲を、ナホトカ状況証言求めます。
  167. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 大体四百名くらいと記憶しております。
  168. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと加藤証人に補足を求めますが、四百名というのはどういう方ですか。
  169. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 勤務者と、それから病院に相当おります。いわゆる病院待機、高砂丸がいま一回来るだろうという病院待機と勤務者が大部分であります。
  170. 岡元義人

    委員長岡元義人君) その外にはいないですか。
  171. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) その外にはないと思います。
  172. 岡元義人

    委員長岡元義人君) よろしうございます。加藤証人着席願います。  次に小倉証人にもう一点伺つて置きたいのですが、本年度の冬修のナホトカの輸送態勢はどのように準備されておりますか。
  173. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 私が帰還者としてナホトカに行きましたのは本年の七月でありました。そうしてここに行きましたところ、勤務者が非常に少いし、冬季に輸送がかかるようでは到底これだけでは足りないから残つて呉れという、勤務者から帰還者に対する呼掛けがありました。そこで船を見て残るという人は全く僅かでありますが、数名の者が志願して最後までこの業務をやろうというので残つた中に私は入つたのであります。それは七月の上旬だと思います。そのときの宿舎の状況は、私は第一分所にそのまま残つたわけでありますから、主として第一分所のことを申上げます。第一分所には、兵舎が一号バラツクから十号バラツクまでありました。元来ナホトカは乘船のための集結地でありますので、この集結地には普通の浜辺しかなかつたわけであります。ところが私が想像していたこととは反対に、ナホトカには兵舎がすでに、これはバラツクですが、バラツクが建つておりまして、それから中に食堂、炊事場、皆が集まつて食べる食堂はできておりませんでした。炊事場、それから図書館、医務室、野外部隊、便所、こういうふうにして大体設備が整つておりました。非常にあそこは水の質が惡いというので、わざわざ汽車で運んで、自動車で毎日ナホトカまで方を專門の自動車があつて運搬しており、特に水は絶対に腹をこわすから飲まないようにという嚴重なソ側のドクトルからの指示があつたようであります。尚炊事給與については、完全に私は覚えておりませんが、大体パン六百グラム、米が三百グラム、米じやないです。訂正します。雑穀です。二百乃至三百、砂糖が二十……どなたか外の証人も知つておられると思いますが、二十五グラム、油が植物であつたならば五十グラム、動物であつたならば一人三十グラムと記憶しております。その外煙草十グラム、他にマツチといつたようなもの、野菜が百グラム……。
  174. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと小倉証人、途中ですが、特に委員長が聞いているのは輸送の点であります。ナホトカから日本に帰れる、船によつて帰すというような状態、冬季中のナホトカ状況ば証言を求めておるのであります。
  175. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 冬季中にはこのバラツクに対してペチカが取付けられるようにしてあります。そうしてナホトカは、シベリアというと非常に寒いように思われますが、沿海州は非常に温いのであります。そうして大体ここだけ、ハバロフスクあたりは九月の末から十月あたりになると非常に寒く零下二十度以下に下るにも拘わらず、ナホトカは雨が降つておりますから非常に温いのであります。ここでは冬季の設備はペチカと、それから冬季の輸送はやらないという方針だから、新らしい兵舎の増築は見合せるソヴイエト側で言つております。それ以外のことは分りません。
  176. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 港の状況について……。
  177. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 港のどういう状況でありますか。
  178. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 冬季中の輸送は困難であるか、困難でないかというような点についての、あなたの証言を求めたい。
  179. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 冬季中の輸送については、ナホトカはやはり冬になりますと非常に寒くなりますから、大体私は十一月までおりましたが、十二月、一月、二月、三月となると、新らしい兵舎を作らなければ、現在ある兵舎では冬季期間は余程の暖炉設備がないと非常に寒いだろうと思います。
  180. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 港の状況であります。
  181. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 私は冬までおりませんので分りません。
  182. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 御着席願います。
  183. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 時間も十二時二十分になりましたが、ここで一つ休憩をお諮り頂きたいと思います。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  184. 中野重治

    中野重治君 異議あり、私は工合が惡く休憩したいのですが、併し私は先程から、この間委員会で採択された方法によつて証人に対する質問を全然控えておるのです。委員長がすべてなされた後で一括して質問することがあれば質問する。併し今までの状況を見ますと、途中で委員の方がいろいろ思い付かれて質問されておる。委員長がこれを許しておる。これはやはり或る程度自然だと思います。だからそれに反対ではないけれども、できれば私も我慢しますから、もう一人だけ証人の方が残つておられますから、それだけ片付けて、というと非常に失礼な言葉になりますが、実際問題としてそうやつて頂きたい。
  185. 天田勝正

    ○天田勝正君 私ももう一人お聞きするということは賛成です。ただ私共が途中で聞くということは、聞き漏らして聞き取り得なかつた点だけを聞いておるのであつて、別に外のことを聞いておるのでないことを了承願いたいと思います。
  186. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ではもう一人、佐藤甚市証人に対して伺うことがありますので続けます。佐藤甚市証人にお伺いしますが、ナホトカにおいて奥地への逆送状況について知られる範囲において証言を求めます。尚もう一点一緒にお伺いして置きます。ウラジオ地区残留者数について知つておられる範囲において証言を求めます。
  187. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 佐藤証人発言します。ナホトカから逆送された人員につきまして、私がナホトカ收容所に到着いたしましたのが本年の六月二十五日、帰国阻止に遭いまして、十月の十九日まで残つておりました。その間勿論作業一切は自分は拒否をして出ておりません。その間に集めましたところの情報、第一回白石、これはハルピン特務機関におりました白石少尉以下その外七十六名、これが八月の十四日伐採という名前の下に出ております。人員の構成は前職者、衣部隊関係者、その中に中村五郎少尉、これは名古屋市……なども入つております。第二回目、十月の十一日同じく将校、下士官、兵取混ぜまして、同じく前職者、それから衣部隊関係者、防疫給水部、そういつた人員の構成で、その中に確か朝鮮軍の参謀であられた原中佐、この方も入つておられます。当時の部隊は忘れましたが、獸医であつた工藤中尉、これも入つております。総人員約百四十名、これは総人員はつきりしたことは覚えておりません。行先不明、作業に行くということだけははつきり言つております。その外マハランから転属輸送して来たところの部隊約千名、これは伐採に行くと聞いておりました。私のおりました間にナホトカから逆送されました大きな人員移動は以上の通りであります。  次にウラジオ地区におけるところの残留者状況並びに人員。私のおりましたのは、最終收容所ナホトカ、その前がアルチヨム、その前がスーチヤンの收容所におりました、当時知り得ましたところの人員は、スーチヤン地区、特にアルチヨムの第十四分所、スーチヤンの十五分所、これは特殊收容所と呼ばれております。ウラジオの第二收容所長をしているところのソ連軍の少佐マルチユーユがザクリユチヨンヌイラーゲルということをはつきり言つております。これを訳せば監獄收容所と申しております。いずれも人員の構成は前職者、防疲給水部、警察官、露語通訳教習隊員、樺太警視、それから外交団として外務関係の方が当時約十一名入つておられます。その氏名、第十四分所に現在残つたおられる樺太警視関係の氏名、森平國武、原田勝次郎、後藤盛、遠藤昇次、外務省関係、これは外交団と言つております。十一名おりましたが全部分つておりません、全然これは連絡がとれませんので。鋤本、名前不詳、大浦平吾、これは長野県の上田の人、その外合計十一名、それから樺太警視を加えて残つておりますから、総人員並びに特に第十四分所におきましては、私のおります当時に約千名に対するところの六ケ月分の糧秣をあそこに輸送して来ております。これは本年の越冬に備えてあそこに人員を集結せしめる計画であるというふうに判断いたします。当時に残留人員第十四分所千二百名、第十五分所約八百名、ウラジオストツク第二分所二千名、それからアルチヨングレス、これは第何收容所か分りませんが六百名。チグロワヤ、これはゾーロタイヤと言つておりますが、いずれの地かはつきり分りませんが、ウラジオ関係の地区であります。今この地区を合せて八百四十名というような記憶しております。以上のように数が分つておりますのは、ウラジオ周辺の地区においては以上のようであります。
  188. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚佐藤証人に伺いますが、氏名等も分つておられますか。
  189. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 分つております。現在の第十四分所に残つております重要な人物の氏名、一切分つております。
  190. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 後ほど、午後の委員会に提出願います。
  191. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 承知いたしました。
  192. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚もう一点佐藤証人を伺つておきますが、中共地区移動したと思われるものがあつたかどうか、この点簡單に……。
  193. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 入ソですか。
  194. 岡元義人

    委員町(岡元義人君) 中共地区へ……。
  195. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 終戰直後におきまして、二名ばかり聞いておりますが、その他聞いておりません。
  196. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 着席願います。
  197. 中野重治

    中野重治君 議事進行について……。私はさつき重大な質疑をしました。証人の方がもう一人残つておられると言つたのは、私の判断の間違いで、水野さんがまだ残つておられるので、適当にお計らいを願います。
  198. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 中野委員に申上げますが、次の項目で出て来るのですが……。次に、終戰後樺太で処刑された者の状況という項目がありまして、そのとき水野証人証言を求めるようになつております。  時間も経過いたしておりますから、一応ここで休憩いたしまして、午後各委員から只今までの項目についての質問を願うことにいたしたいと存じますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  199. 岡元義人

    委員長岡元義人君) では……。
  200. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 國分証人はまだ済まないのではありませんか。午後は何時から開会されるか知りませんが、いきなり開会と同時にずつと質問に移つてよろしうございますか。
  201. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 淺岡委員お答えいたしますが、次の抑留後におけるソ連領内外への移動状況というところで國分証人証言を求めるようになつております。項目といたしましては、第一項目の一般收容所状況残留数という項目について、各委員から質問をお願いしたいと思うのであります。  では一時半まで休憩いたします。    午後零時三十四分休憩    —————・—————    午後一時四十九分開会
  202. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 休憩前に引続き、委員会を開きます。  この際各委員に御報告いたして置きますが、衆議院におかれましては、在外同胞引揚促進並びにその留守家族等に対する援護に関する決議案を大体上程の予定で、只今関係方面と連絡中であるそうであります。若しできますならば、参議院の方も同調して頂きたいという申入れがございましたので、一応衆議院の原案を進行中ながらお手許にお廻しすることにいたしますから、御覽下さいまして、適当な時期にこの問題についての取扱いに対してお諮りいたしたいと思います。(「読んだ方がいい」と呼ぶ者あり)では内容をお読みいたします。   終戰以来我々がポツダム宣告の忠実なる実行に努力し来たつたことは、去る五月二日の連合軍最高司令官マツカーサー元帥の声明によつて明らかなところである。然るにポツダム宣告第九條に明らかにされた捕虜並びに一般抑留同胞の本国送還が未完了であり、抑留中の死亡者、戰犯関係者の氏名等の未だ発表されないことは誠に遺憾に堪えない。去る二十一日の第百二回対日理事会におけるシーボルト議長のステートメントによれば、「正確なる統計によると六万三百十二名の未引揚者を持つと言われる満洲を除き、大連、樺太、千島、及びシベリアを含むソ連地区にある日本人未引揚者の総数は三十一万六千六百十七名である」ことが明らかにされた。これらの未引揚同胞並びにその遺家族、留守家族の身上を思うとき、全国民の焦慮は今や堪え難いものがある。我々はここに日本政府に対し、未帰還者の本国送還を連合国に懇請するとともに、その家族に対し温かき援護の手を差しのべるべきことを期待する。  右決議する。 以上であります。  尚運営委員会は明朝開かれますので、それまでに委員会としての若し同調する場合におきましては、本日中に手続きを了しないと間に合わないということになりますので、お含み願いたいと思います。
  203. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 明朝の議院運営委員会にかけるといたしまして、今日中にこの委員会において決定を見なければならないと思いますが、一つ今日中、少くとも早い時間にこの委員会の決定を願つて、そうして手続き等に遺憾なきを期して頂きたいと思います。提案します。
  204. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 淺岡委員から御発言がございましたが、只今まだ委員出席が少うございますので、もう暫く証人証言を求め、進行中において適当な時間に諮る。かようなことにいたしまして御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  205. 岡元義人

    委員長岡元義人君) では第一項目に対する一般收容所の現況と残留者数に対する只今までの証人証言に基きまして、各委員からの御質問がありましたら、只今より質問発言して頂きます。
  206. 中野重治

    中野重治君 お尋ねいたしますが、成るべく問題を簡單に言いますから、私が名前をお呼びいたした方々は、その方々に対する私の質問が何であるかをちよつと書き止めるなり何なりして、どうぞ簡單にお答え下さい。  第一は加藤さん、佐藤三郎さん、佐藤甚市さん、丸山さん、この方々に若し軍人であつた場合の兵種といいますか、兵種というものは、日本の軍隊のときの呼称はないような形になりましたけれども、実際上の兵種といいますか、その特殊性を教えて頂きたい。  それから次には加藤さんには、日本新聞の須藤氏という人に会つて、話をお聞きになつた日附けをお答え願いたい。  山本さん、國分さん、そうして加藤さん、この方々には一九四五年のに、つまりあの日本軍が破れてこう動いて行つたあの一九四五年中にソ同盟の区域内で、もう死にかけた日本人が続々移つていたという事実があつたかどうか。  それから佐藤三郎さんのお話の中に、あれはカラカンダでしたか、ハバロフスクでしたか、九十九地区に二千五百八十五名程の人間が残つておるというお話でしたが、あの場合は、その人々が中国から来たというお言葉でしたが、それはいわゆる滿洲から移つて来たということでありますかどうか。  それから丸山さんがナホトカで昔の同志に会つていろいろ話を聞くと、これこれであつたというお話でしたが、その昔の同志というのは何か。  それから今度はやや一般的なことになりまして、これは小倉さん、加藤さん等からお答えを得たいのですが、この收容所の平常の生活において、罰を食つたとか特別な場合は別として、收容所における平常の仕事は、残虐で、非人間的な強制労働であつたかどうかということ。  それから何人かの人の言葉にありました防疫、給水部隊とは何か。これはどなたにでも答えて頂きたいと思います。それだけ先ず……。
  207. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 中野委員にちちよつとお尋ねしますが、順序がよく分らないのですが、先ず最初加藤証人佐藤証人丸山証人とこういう工合に求めて行つてよろしうございますか。
  208. 中野重治

    中野重治君 結構でございます。
  209. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 一応順序を、何ですが、委員長まで……。
  210. 中野重治

    中野重治君 その委員長の言われた通り加藤さん、佐藤三郎さん、佐藤甚市さん、丸山さんと、この順序で結構です。
  211. 岡元義人

    委員長岡元義人君) じや加藤証人只今中野委員からの質問に対して証言を求めます。
  212. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 一番目のは兵種と特殊性でありますか。
  213. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと加藤証人着席願います。中野委員一問一答で何した方が却つていいんじやないかと思いますが、そのように……。
  214. 中野重治

    中野重治君 それでよければそのようにしたいと思います。  兵種をどうぞ……。
  215. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 自分は獣医であります。
  216. 中野重治

    中野重治君 続けてよろしうございますか。……須藤氏にお会いになつてお話を聞かれた日附……。
  217. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) それは一九四七年の十二月二十日前後と自分承知しております。日附は分りません。はつきり……。
  218. 中野重治

    中野重治君 それからこの一九四五年中にいわば死にかけたようなそういう日本人が続々とソ連区域内に移りつつあつたか。
  219. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 外のことは分りませんが、問題を自分達に当篏めて見ますと、ラツコで編成したのは九月八日であります。一千名の労働隊であります。その以後グロデコまで行軍したのでありますが、あれが大体四百五十キロくらいだと思います。
  220. 中野重治

    中野重治君 いろいろ地点なんかはよろしうございますから……。
  221. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 四百五十キロの地点をいわゆる行軍したのであります。そのとき体力の弱かつた者は段々倒れて行つたのでありますが、それに関しては自動車でどこかに運んでおつたようであります。一部の何では倒れた者はそのまま銃殺して行軍したというような話も事実聞いております。
  222. 中野重治

    中野重治君 その次は処罰その他の特殊事情以外に、收容所の平常の仕事が残虐、非人間的な強制労働であつたかどうか。
  223. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 入所しましたのは自分はエレンカでありましたが、そのときの状況を申上げますと、第一に自分は感じたのでありますが、日本人は、日本民族は今度の敗戰によつていわゆる根絶させられるんじやないかと思つた程酷させられるんじやないかと思つた程酷かつたのであります。四重の鉄條網はどこの收容所でも同じでありましようが、全長三十米、幅十米の家屋に一千名強制收容したのであります。師団收容です。そのときはいわゆる燈火設備もありませんでしたし、いわゆる採暖設備も全然なかつたわけであります。その上彼らはいわゆる自分達が着て来ました着物を附近のコルホーズの者、地方人と交換するために次々と奪つてつたのであります。そのときエレンカの時期は十二月頃でありましたが、そのときの状況はいわゆる肌が露れておるというような状況もあつたわけであります。その上呉れる糧秣は彼らが横取して地方人に流すため、いわゆる糧秣は飯盒四分の一くらいでありました。さような状況でこの一ヶ月半に一千名のうち二百名が栄養失調のため死んで行つたのであります。
  224. 中野重治

    中野重治君 そういう場合にはそれが残虐、非人間的な強制労働であつたかということに答えて頂きたいのですが。
  225. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 自分はそう思つております。
  226. 中野重治

    中野重治君 それから最初の收容所の状態、それから中頃とか、後とか、あなたが帰えられる頃とか……。
  227. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 大体惡かつたのは入所以後一年でありまして、逐次改善されて参りました。
  228. 中野重治

    中野重治君 收容所内におけるあれですね……。
  229. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) あわゆる生活面ですね。併し作業面においては依然としてまだ自分達の労働大隊におりましたのは三年間でありましたが、全然改善されなかつたのであります。いわゆる厖大なノルマを要求されておつたのであります。
  230. 中野重治

    中野重治君 それから防疫給水隊とは何ですか。
  231. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 自分は人から聞いた話でありますけれども、日本新聞にも出ておりましたが、細菌ですね、コレラ菌とか、チフス菌とか、あれを培養しておつたと聞いております。
  232. 中野重治

    中野重治君 そうしますと、私は後でもう一つ聞きたいのですけれども、次の方がありますから、簡單に佐藤三郎さんにお願いいたします。兵種は何ですか。
  233. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) 衛生部でございます。
  234. 中野重治

    中野重治君 佐藤さんのお話に先程ありました中国から来た人々というのは、滿洲からソ連へ移つたという意味ですか。
  235. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) いいえ、そうではありません。大体中国の中支の東陽という所がありますが、三十九師団が滿洲へ移動したわけです。その移動は九十日に亘つて夜間行軍を続けて、新京の手前の公主嶺という所がありますが、あそこに着いて三日目に終戰になつたのであります。
  236. 中野重治

    中野重治君 それから又ソ連領に移つたと……。
  237. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) そうです。
  238. 中野重治

    中野重治君 それから収容所の平常の仕事は報常に残虐な非人間的な強制労働であつたかどうか。
  239. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) それは昭和二十年の十月二十六日から大体一年半というものは作業へ行つて作業の成績が悪かつた場合は一週間に二回乃至三回は八時間の労働をして帰つて来ても、又行つて仕事をして来いと言われて、四時間乃至五時間仕事をやつたことがたびたびありました。
  240. 中野重治

    中野重治君 防疫給水部隊については御存じありませんか。
  241. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) それは日本新聞によつて私は一度眼を通しております。
  242. 中野重治

    中野重治君 それから九十九地区に残つている人々について先程御証言がありましたが、あれを見ますと……。
  243. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) 二千五百八十五名、私は丁度千七百七十五名の第三梯団に入りまして、第四梯団か第三梯団ナホトカに着いたあとでございました。
  244. 中野重治

    中野重治君 それは分つておりますが、それでは先程の軍法会議というのは、五十日間ほど個人的に調査をなされたということを意味するわけですか。
  245. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) そうです。それは全くその通りです。
  246. 中野重治

    中野重治君 それは正式な軍法会議ですか。
  247. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) 正式の軍法会議でした。
  248. 中野重治

    中野重治君 参判官が付くのですか。
  249. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) 裁判官が九名来ました。
  250. 中野重治

    中野重治君 この残された人々というのは……。
  251. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) それは大体カラガンダは主として三十九師団が来ましたが、その間一年乃至二年は転属又はよそから入つて来る、そういう関係で、今残つている二千何ぼという者は……。うのは……。
  252. 中野重治

    中野重治君 佐藤さん、私の聞いたことに答えて下さい。聞きますから……。それで先程のあなたのお言葉によると、滿洲第三方面軍の首脳部の人だとか、旅順の要塞の司令官といつた人や、滿洲国軍に編入されてシベリアに行つたとか、ハルピンの高等法院の院長をやつてつた人だとか、滿洲国の警察隊長をやつてつたとか、そういう人々であるわけですか。
  253. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) そういう人じやないのです。一般兵です。
  254. 中野重治

    中野重治君 それは何によつてそういう取調べを受けたとあなたはお考えですか。分りませんか。何故その人は特別に調べられたとあなたはお考えですか。
  255. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) それは私が非常に親しくしておりました平川主計大尉という人がおりまして、その方と往来しておりましたが、この方が非常にコミツサルの朴という通訳と仲がよくて、何でも……。
  256. 中野重治

    中野重治君 そうしましたら佐藤さんそれで結構です。次に佐藤甚市さんお願いします。兵種は……。
  257. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 航空。
  258. 中野重治

    中野重治君 丸山さんにお願いしますが、兵種は……。
  259. 丸山末藏

  260. 中野重治

    中野重治君 あなたの言われた者の同志というのはどういう意味ですか。
  261. 丸山末藏

    証人丸山末藏君) これは望月という憲兵軍曹であります。地連保安の山林管理局におりました通訳であります。それが我々がナホトカに着いた時にウラジオに来ておつたわけです。それで今度の中に混つてナホトカ高砂丸の組で……。
  262. 中野重治

    中野重治君 ちよつと、そういうことは私お尋ねしておりません。時間がないですから……。それで同志と言われたのは、何か特別な関係があるのですか、ないのですか。
  263. 丸山末藏

    証人丸山末藏君) 我々情報関係ですから、懇意にしておりましたから。
  264. 中野重治

    中野重治君 分りました。では國分さんに……。兵種をちよつとお願いいたします。
  265. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 歩兵であります。
  266. 中野重治

    中野重治君 四十五年中に非常にもうソヴイエト領に入つたら直ぐ死ぬような状態の日本人が、続々四十五年中ソヴイエトに移動しつつありましたか。
  267. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 自分は戰闘で怪我をしておつたものですから、落伍編成の一番最後の部隊であります。それで病院関係のものは入りましたから、そんなのは見ませんでした。落伍編成の一番最後の部隊でありましたから。
  268. 中野重治

    中野重治君 見なかつた。結構であります。  加藤さんにもう一遍お願いしたいのですが。先程委員長からもお話がありましたように、数の問題が非常に日本では皆の心配の種になつておりまして、非常にいろいろ問題があるようですからお尋ねしたいのですが、日本で、日本の外務省が発表した引揚対象の基本数というのが発表されているのですが、それによりますと、ソ連地区には百六十一万七千六百五十五人という数が出ているわけなんです。それからシベリヤ、ソヴイエト地区で死んだ人の数は一九四五年中には、これは状態が非常に惡くて一〇%死んだという、こういう発表がされているのです。そうしますと、問題の性質を分つて頂くために少し説明するのですが、百六十一万の一〇%だと、算術で十六万程になるわけですね。ところが又最近の対日理事会で発表された数を見ますと、一〇%が二十七万二千三百四十七人と、こうなつておるのです。つまり百六十一万七千六百五十五人が基本数ならば、多少の出入りはありましようけれども、あなたも百万前後と見ておられるのですから、併しとにかくそうでうるならば、十六万人になるのですが、二十七万二千ですから、十一万程多いわけなんです。
  269. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) そうです。
  270. 中野重治

    中野重治君 そうなるんですね。それで一方この同じ外務省管理局引揚渡航課の発表によりますと、ソ連地区に百六十一万七千六百五十五人と基礎を置いたときには、同じ標準だろうと思うのですが、滿洲の方には百十万五千八百三十七人と、こういう数字が出ているのです。で今百六十一万七千六百五十五の一〇%が一九四五年に死んだというと、それは十六万人なんぼになるのです。ところが一方死んだ一〇%というのは、数で言えば二十七万二千いくらで、そこに十一万の差が出て理解しにくくなつているのですね。ところが滿洲における百十万五千八百三十七人と、ソ連地区における百六十一万七千六百五十五人と加えると、二百七十二万三千四百八十二人、こうなるのです。これの一〇%というものを取つて見ると、二十七万二千三百四十九人、丁度ぴつたり合うのですよ。そうしますと、この滿洲における百十万五千八百三十七人という中からは死人は一人も出なかつたと、死んだ者は皆ソ連地区に行つて死んだと、こうなると勘定が合うのですね。私の説明が不十分であつたかも知れませんが、算術で行くとそうなるんですね。それであなたは、あなた自身の主観においては相当の根拠で百万人前後と見ておられるのだろうと思いますが、こういう滿洲に残つてつて引揚げるべき基礎数字、百十万五千八百三十七人の中から死んだ分は全部ソヴイエト地区へ行つて死んだと、こうなる。この算術があなたの感想では尤もに見えますか、どうですか。
  271. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 基本的な数において相当の隔りがあります。
  272. 中野重治

    中野重治君 そうしますと、もう一つだけお聞きしたいのですが、つまり今も言いましたソ連地区で一〇%死んだと、それをソ連地区におる人間として日本の外務省が発表した百六十一万について見れば、一〇%は十六万人になる。ところが他方ではその一〇%は数で現わせば二十七万二千いくらとこう出ておる。ところがソ連地区の百六十一万と滿洲地区の百十万と合せた二百七十二万というものを基礎に置けば、一〇%がぴつたり二十七万二千三百四十九人になるのです。そうすると、これは死んだ者はとにかくソビエツト地区に行つて死んだといことになるということについては、どうお考えですか。
  273. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) そういうことはないと思います。滿洲地区内においても相当数の死亡がございます。
  274. 中野重治

    中野重治君 相当数の人間が死んだと、これは現にこの委員会で滿洲地区から引揚げて来られた人を証人にお呼びしていろいろお聞きしたときも、滿洲内で原因如何に拘わらず相当日本人が死んでいるという証言をせせれている。そうすると、あなたも滿洲内では日本人は一人も死ななかつたと、死ぬ場合はソビエツト地区に行つて死んだと、こういうことはないと……。
  275. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) そんなことは勿論ありません。
  276. 中野重治

    中野重治君 それだけです。
  277. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと、証人発言されるときは、委員から求められて発言をされる場合は、必らず委員長と呼んで、そうして名前をば言つて頂きたいと思います。そうして委員長発言を許してから発言して頂きたいのです。
  278. 千田正

    千田正君 加藤証人にお伺いいたしますが、質問の要点はじユネーヴの俘虜規定によりますと、第七條に、一日の捕虜の行軍が二十キロ以上を超えてはならないということを規定してあるのですが、あなた方が輸送されるときにおいての行軍が一体一日にどれだけの行程で移動されて行つたかということを伺いたいのです。
  279. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 一日四十キロ乃至五十キロであります。
  280. 千田正

    千田正君 それからこれは目的地を明示されて、予告されて行軍して行つたわけでありますか。それともただ一人ならば一人の指揮官によつてこの方向に行くのだというので、その命に従つてつたのでありますか。あなた方俘虜全体が、今日は例えばハバロフスクのこういう方面に向つて、この地区に向つて行進するのだというような予告を受けて行軍して行つたのでありますか。
  281. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) そのような予告は全然ありませんでした。取敢えずウラジオから直ぐ東京に向つて帰るのだという言葉によつて、我々は行動をとつたのであります。一番に入りましたのはエリンカというところでありますが、これは與凱湖畔であります。その湖を見ても、ここはウラジオストツクであるというような欺瞞的な言葉を以て私らは連れて行かれたのであります。目的地、今晩の宿営地というものは全然予告されませんでした。
  282. 千田正

    千田正君 先程中野委員からの御質問の中に、途中で死亡された人達があつたということについての御質問があつたのですが、途中で倒れた、或いは落伍したというような者は、行軍がきついために落伍したのですか、それとも食糧その他が不足のために栄養が十分に取れなくて、そうして行軍が強行軍であつたために倒れたか、そういうことについてお答えができますか。
  283. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 自分は食糧が大きな原因となつたと思つております。それから強行軍、四十キロ乃至五十キロの行軍であります。
  284. 千田正

    千田正君 よろしうございます。  國分証人にお伺いしますが、今私が加藤証人に聞きました二つの点でございますが、あなたが目的地に行く行軍をして捕虜としての立場でどのくらい歩かせられたかというようなことと、又途中食糧不足或いは強行軍のために落伍したかどうかというような点について、分つておるならばお答えして頂きたいと思います。
  285. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 自分はさつき話したように、落伍編成の一番最後の部隊でありまして、病院部隊として出ました。そのときにはもう鉄道が敷かれておりましたから、行軍はやつたことありません。
  286. 天田勝正

    ○天田勝正君 先ず第一に佐藤三郎証人にお伺いいたします。佐藤証人が先程、ドイツ人俘虜も一万人以上おられた。こう話されておりましたが、それにつきまして、ドイツ人俘虜に対する收容所の待遇と、日本人俘虜に対する收容所の待遇と、その違いが分つておられれば一つこの際御証言願います。つまり日本人俘虜收容所には、例えば居住する面積が狭かつたとか、向うは広かつたとか、或いはそれの逆であつたとか、或いは食糧において向うがよかつたか惡かつたか、先ずこういう点が一つであります。  それから次のことは非常にむずかしい質問でありますけれども、それは東独と西独と二つドイツには政府ができておる。そこで東独の方は大体におきましてソ連の同盟国という形になつております。これは條約や何かの時期の問題はありますけれども、そういう形をとつておる。そうすると、その捕虜の中に東独の人がおられたかどうか、このことは同盟国であるから、我々は当然捕虜がおれば同盟の待遇を受けると同時に帰されねばならない、こういう観点に立つたところの質問でありますから、全ずそれを伺います。
  287. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) 私は昭和二十一年の三月頃からドイツ人と共に同じ收容所で以て大体八ヶ月程生活しましたが、その中で聞きますと、今お話しなされたように、東部の者も相当おりましたです。
  288. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 佐藤証人、待遇の点を……。
  289. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) 日本人ドイツ人の差でありますか、それは日本人の方がよかつたようであります。
  290. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでどういう点でよかつたのか、もう少し詳しく……。
  291. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) まあ糧秣並びに被服においても非常に差がありましたです。例えば一度日本人が着たものを今度ドイツ人に着せるとか、或いは糧秣でも、原穀なしでパンだけでドイツ人は過しておりました。我々はパンの外に原穀を貰つておりました。又調味料にしても日本人の方がよかつたのであります。
  292. 天田勝正

    ○天田勝正君 次に小倉証人にお伺いいたします。先程委員長から御注意がありましたその直前に、小倉証人は待遇の何か食糧の点について言及されておられました。パンを六百グラムとかいろいろ述べられておりましたが、その中の油類、或いは砂糖、こういうものは、日本の戰前における比較から見ましても遥かによい待遇だと、こういうふうに私共は考えられるのです。そこでさつき申されました單位、即ち五十グラムととか、或いは動物性脂肪は三十グラムとかいうことは、一日量であるのか、その数字は殆んど一般の日本の中以上の農家でもこの三分の一も攝取していないのではないかと、こういうふうに考えられまするから、あの点をもう一遍日本の内地と比較できまするならば尚更比較したいと、そういうことで一つ証言願いたいと思います。
  293. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 先程の定量について、これは私が第一分所の民主グループ責任者であつた関係上、糧秣についてはソヴイエト側から規定通り毎日受領しておりました。残念ながら小さい数字で忘れたのがありますが、さつき言つたやつの訂正をします。パンは六百グラムと言いましたが、これは六百五十グラムだというように、証人の人達と話合つて分りました。次いで雑穀は、百二十グラムであるという人と二百二十グラムというように、これは記憶がはつきりしておりません。それから馬鈴曹は六百グラム、砂糖は二十五グラム、油は三十グラム乃至五十グラム、これはどういうふうになつておるかと言いますと、動物油の場合には三十グラムで、植物油の場合には五十グラムを貰うことになつております。煙草は十グラム、お茶三グラム、肉、魚、このグラム数は残念ながら忘れました。これは捕虜に対するソヴイエト側からの給與は、普通の給與と旅行する場合の給與、これらが二通りになつております。そうして一般の收容所においてはパン三百五十グラム、穀物の方が遥かに多いようになつておりまして、この輸送業務の給與とは中味が違うわけであります。勿論これは一日の給與であります。
  294. 天田勝正

    ○天田勝正君 分りました。では加藤善雄証人に伺いますが、その第一点は、今小倉証人から申述べられました点と先程あなたの御証言とを比較いたしますると、あなたの方は死亡の原因というものが主として栄養失調である。こういうお話を聞いたわけでありますが、今の小倉証人の言う通りならば、栄養失調等に罹る筈がないという気がするわけですが、こういう点について食糧が、あなたの知つておる限り違いがないかどうか、これを先ず伺います。
  295. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 只今のこの給與関係でありますが、これは地区とか、いわゆる收容所側のソ側の各場所によつて相当の相違があると思います。自分らの所におりました收容所長以下余りいい方とは言えませんので、定量はそのようになつておりますが、現在日本人に入る絶対数というものは定量通り入つておらなかつたわけです。いわゆる途中でかつぱらいされて外の方に流しておつたというような状況つたのです。
  296. 天田勝正

    ○天田勝正君 次は佐藤甚市証人に伺います。それはあなたは各証人の中で逆送されたということを名前を挙げて申されておりまして、非常にこの点を詳しいと思いますから、そこでこれらの逆送に当つては通称人民裁判というような日本人同士の決定とか、或いはソ側に対する訴えとかいうようなことによつてそういうことが起きるのか。或いは全くソ側においてそれらに何ら関係なしに、独自にこのものは旧憲兵関係であるから逆送するというようなことによつてなされたのか。その点を一つ明らかにして頂きたいと存じます。
  297. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 逆送されました私の知つておる人員は大部分のものは、これは五〇%以上の人達は全部日本人の吊し上げによつてソ連側に通告され、それによつてはつきり分つているものがそれだけであります。その後の人達においてははつきりした情報は得ておりませんが、ただその当時二、三の人と話したところによつては、いずれも民主グループの方の人達が各入つてくる梯団中の前職者、或いはそういつた今まで引つかかつておる戰犯関係、或いは反動分子こういつたものの摘発に当つております。
  298. 岡元義人

    委員長岡元義人君) いいですか。
  299. 天田勝正

    ○天田勝正君 よろしいです。
  300. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 私は加藤善雄証人にお尋ねいたしたいのですが、少しお尋するのに長いかと思いますけれども、二十一日の対日理事会を私傍聴いたしまして、そのときにシーボルト議長が声明をお読みになつた後、ソ連の日本人捕虜に対する非人道的な措置とか、そういうものを難詰されましたが、これに対しイギリスの代表ホジソン代表は全面的にその声明書を支持して終戰楠後、英米両国の判断で、役八十万の日本人がソ連に抑留されていたとの推定数字が発表されたときも、ソ連はこれを否定しなかつた。従つてこの推定は正しいかも知れないということを言われたのですが、さつき加藤善雄証人はこのソ軍の一九四六年、カリーニン、これは兵隊ですか、番兵ですか知りませんが、八十六万七千ということを言われたのですが、この点をもう一遍私明らかにして頂きたいと思うのですが、その証言を重ねて求めたいと思います。
  301. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 自分が八十六万七千と言いましたいわゆる基礎でありますが、一九四六年の三月、ウオロシロフにおいて道路作業をやつたのでありますが、そのときソ側の歩哨でカリーニンというのが日ソ戰の総合戰果というパンフレツトを持つて来ております。総合戰果、その中に書いてあつたのを彼は得意滿面として、ソ軍は戰鬪時における直接の損耗は八千で、お前らは八万も死んでおるのだという言葉と、それからワイナープロ、いわゆる軍事捕虜として、一九四五年十二月末で八十六万七千おるのだという事実の一つと、それからこの中には勿論鹵獲兵器とか、将官、将校の数も全部はつきりしておつたのであります。  それからもう一つの判断の基礎は、一九四六年の六月輸送が再開されるという声を聞きまして、我々として一番帰国問題に関心を持つておりましたので、時の收容所長のチエンコフ、現在は委員と捕虜管理とを兼ねております。これに、では一体我々はいつ帰えることができるのだ。入ソしたのは幾らぐらいおるのだ。ということを説明を求めたわけであります。そのチエンコフ大尉は九十八万と言つております。お前達の帰るには日本から船が来ないからいつ帰れるか分からん。但し働きのよいものは直ぐ帰してやるというようなことを言つておりました。飽くまでこれは自分は一九四五年前後でありまして、その以後樺太、滿洲、北鮮からどんどん入つて参りますので、分かりません。滿洲からソ軍が撤兵する直前に相当数の日本人が入ソしております。これだけです。
  302. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 重ねて加藤証人にお尋ねいたしますが、先程この八十六万七千人という数字の、このカリーニン歩哨、カリーニン兵隊言つた一九四六年三月と言いましたか、その日時は御記憶分りませんか。
  303. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 日時は分かりませんです。とにかく三月項であります。
  304. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 重ねて、その歩哨カリーニンとあなたとの、これをあなたが了知された時の問題を更に詳しく私お尋ねしたいのですが、そのカリーニン歩哨が誇らげにいろいろ日ソ総合戰果の発表、そうしたものを見て語つたというのですが、その日ソ総合戰果の発表、或いはパンフレツト、或いは新聞のそうした面について、あなた自身もそうした新聞とか、或いはその発表のパンフレツトとかいうものを直接御覧になつたかどうか。
  305. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 直接見ております。その数字はアラビア数字で書いておるので我々も分かります。
  306. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それは直接あなたが御覧になつたのですか。
  307. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 一番関心を持つておりますので、自分が直接見たのです。
  308. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それから今度はツエンコフ大尉、一九四六年六月、これは九十八万ということを言われたそうですが、それはどういうふうな状況にあつてあなたはこれを聞かれたですか。その点を詳細にお答え願いたいと思います。
  309. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 一番最初にチエンコフ大尉が、今度はダモイが始つたのだ。いわゆる帰る輸送業務が始つた言つたのに対して、自分達はいつ帰れるだろうかというような関心を持つておりましたので、シベリアに今幾らぐらいおるかということを自分が聞いたわけであります。
  310. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 重ねてお尋ねいたしますが、あなたは歩哨のカリーニン兵隊からそうしたものを見せられた。自分もアラビア数字を見て八十六万七千、その後今度はチエンコフ大尉から九十八万ということを聞かされたときに、例えば樺太地区とかシベリア地区、或いはそうした地区から更に入つて来たと思われたのですか、或いは数字の差違に対してはどういうふうにお考えになつておりますか、約十二万開きがありますが。
  311. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 前のパンフレツトは千九百四十五年の十二月末のやつであつて、それもチエンコフ大尉は見ておると思います。それ以後満洲とか北鮮、樺太から入つて来た状況も局部的には見ておりますので、この九十八万という数字は飽くまでもチエンコフ大尉の自分の判断だろうと自分は推測します。
  312. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、二十一日の対日理事会で英連邦代表ホジソン氏が言われた、対日理事会の当初においてその基本数を八十六万と言われましたが、そうした帰をあなたが新聞を御覽になつて、あなた自身がそうしたアラビア数字を見たのと相一致するというふうに思われましたか。
  313. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 相一致すると思います。それはその発表以後あの状況では数字は分りませんが相当数入ソしておりますから、ああいうのは間違いないだろうと自分は思つております。
  314. 千田正

    千田正君 佐藤三郎証人に伺いますが、カラカンダ残留者の中にノモンハン事件の捕虜が混つておるかどうか。或いはカラカンダにおきまして、ノモンハン事件の人達が尚あの地区において何らかの方法によつて生存しておるかどうかという点についてあなたが知つておるならばお答え願いたいと思います。
  315. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) 昨年の十月の中頃私が第一炭鉱に器材の受領に行きましたところが、第一炭鉱でノモンハン事件の捕虜に会いました。大体カラカンダにはどの程度おるのですかと尋ねましたところが、我々一行は四千名来たけれども、カラカンダには五名しかおらん。その五名も今まで会つたことはないけれども、どういう作業をしておるか分らんということを聞きました。
  316. 千田正

    千田正君 重ねて伺いますが、この人達はそれでは今尚残留しておるものとあなたは認められますね。
  317. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) それは勿論ロシアの市民権を持つておりますから。
  318. 千田正

    千田正君 それでは捕虜とは全然別個なやり方で働いておりますね。
  319. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) それは全然別個であります。
  320. 中野重治

    中野重治君 この残留の問題については逆送の問題もありますので、高山証人にお尋ねいたしたいと思います。先程佐藤甚市さんのお話でしたが、逆送のお話があり、淺岡委員質問に更に答えられたのですが、そうしますと、佐藤甚市証人の言われた前職の問題というものは、特高関係、憲兵関係、特務機関関係等々の人々を意味するということになりますか。
  321. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) それについて委員長、高山敷衍いたしたいのですが。
  322. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 高山証人
  323. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 先ず前職者と規定されるものは連合軍の一員であるソ同盟に対する直接の攻撃に参加したものを言います。これは特務機関、それから憲兵、警察、警察は特に、憲兵もそうでありますが、国内の治安に当つていた者はこれに該当いたしませんが、ソヴイエトに対する直接の攻撃に参加した者、それから特殊部隊、例えばさつき御説明申上げました防疫給水部、いわゆる細菌部隊、石井中将を長とする東條の直接の指導下にあつた恐るべき細菌部隊、これは人類の歴史から抹殺しなければいけないと思いますが、そういう恐るべき部隊、それから三四五、それからバルチザン部隊、これらのものが前職者として現在取調べを受けておる筈であります。逆送の問題についていろいろと問題になつておりますし、又当参議院においても人民参判云々の問題でいろいろと問題になつておりますが、この事実について私は特に四七年の三月から七月まで輸送が最も輻輳いたしました当時のナホトカにおける総責任者として、当時の問題についていろいろと御説明を申上げたいと思いますが、その当時四万程度の日本人が集つて参りまして、大体船は三日に一回、そうして戰時標準型のリバテイ型が参りまして、——輸送開始の当時は三千名前後積んでおつたのでありますが、大体六月頃になつてずつと二千名に限定されるというような状態でありまして、大体それが三日に一回、一ケ月の輸送はせいぜい二万程度であります。従つてどうしてもそこにそれだけの人間を置くことはできないし、これを後へ返さなければならない。こういうような実情でありまして、これを順次その附近收容所に收容いたしまして、船の来るのを待つておるという状態であります。その当時反動であるから帰さないとか、或いは民主主義者であるから帰すというような差別は全然ありませんでした。それから又民主グループがいわゆる吊し上げによつてこれを残したということを言つておりますけれども、これはナホトカに来て圧迫された大衆が本当に階級的に見覚めて、これこそ我々の敵である、これをやらなければいけないという自然発生的な大衆集会となつてこの罪状が暴露されて、そうしていろいろなそうした問題が起きたわけでありますが、当時民主主義者としてナホトカ勤務いたしておりました我々といたしましては、これらの人達が若し大衆からいろいろな暴行を加えられるがごときことがあつてはならないというので、これを保護してやつたというのが実態であります。一例を挙げますならば、タイセツトから参りました血盟団の部隊、これは靜岡県の村上という人ですが、大体暴力団ですが、腕に全部桜と冨士をちりばめた入墨をやつておりました。そうして日本に帰つたならば必ずソヴイエトに対する復讐戰争をやろう。又民主運動をやつておる者を全部皆殺しにしようという計画をいたしていた部隊でありまして、そうしてこれらの部隊はナホトカの砂原の中に短刀を全部準備しておりました。これが大衆の中から摘発されてそうして船の中に入つたら、恐らく我々に暴力的な行為を加えて来ることだろう。我々はここにおいて彼らを徹底的にやつつけるという、いわゆる兵士大衆の下から盛り上つて来るところの大衆集会となつて来たわけであります。これは村上君も非常に自分が惡かつた自己反省し、そうして是非あとの船で帰して呉れ、今皆と帰ると、いろいろと船の中で問題が起きると船長以下日本の船員に迷惑を掛けるからというような申し出がありまして、これを残しました。その代りに彼は、左の指だつたと思いますが、みずから大衆の前でこれを切つて自分が惡かつた、今後は必ず正しい日本人として、民主主義者として立直るということを彼みずからが……、これは我々が強要して述べさせたわけでも何でもありませんが、彼みずから大衆の前に詫びていたという状態でありました。そういうような状態でありまして、決してこれはあそこにおいて民主グループが特定の者を帰さないという差別的な待遇をしておつたことは、全然私のおつた当時はありませんし、若し今他の証人が言われましたような事実があつたとするならば、これは何かの問題いだと私はこのように考えております。  次にもう一つ附加えて置きますが……。
  324. 中野重治

    中野重治君 又あとでお聞きしますから、まだ次から次へと問題が沢山ありますから。  もう一つ、やはり高山証人にお尋ねいたしますが、先程加藤さんにもお尋ねしたことなんですが、数の問題が非常に重大なのでお尋ねするのですが、ソヴイエトにおいてその後漸次改善されて来ておるように発表されておりますが、とにかく最初は、四五年頃は相当日本人捕虜が死んだということが言われておりますが、満洲地方からソヴイエト地方へ移動された人として、満洲地方に死亡者が全くなかつたというようなことは高山証人においては了承されますか。
  325. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) それにつきましてお答えしたいと思います。関東軍の無責任なる処置によつて交戰時間は極めて短かくありましたが、非常に大きな無駄がありました。これについて具体的に申上げますと……。
  326. 中野重治

    中野重治君 つまり私の質問は、この数字の算術で行くと、死んだ者は皆ソヴイエトに行つて死んだということになると算術が合うようになるわけであります。さつき加藤証人に私が説明したように、参議院で前に満洲地区から帰つて来られた人を呼んで聞いたときには、満洲地区においても相当の人々が死んでおる。こういう証言があつて、私共もこれをそうだつたろうと肯けるわけです。ところが先に問題になつた算術から行くと、満洲地区では誰も死んでいない、死んだのは皆ソヴイエト地区に行つて死んだということになると計算が合うのです。満洲地区において相当の人が、殊に最初の頃は死んだと私に思えるのですが、満洲地区において全く死亡がなかつた。こうあなたも思われるか、思われないかということをお答え願いたい。
  327. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) それについては非常に多くの犠牲者が出ております。
  328. 中野重治

    中野重治君 もう一つ簡單に……。
  329. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 各証人委員長から御注意申上げて置きますけれども、各委員は事前に今まで数回に亘る証言、その他の資料によつて大体の資料を手持ちしているわけであります。その要点についてそれを確認して行く質問がなされておりますので、証人の方からお考えになりますと、非常にここまで説明しなきや分らないのじやないかと思われる点が沢山あると思います。併し委員会は後程皆さん証言を持ち寄つて委員会自体において持ち寄つて結論を出して行くのでありますから、その点よくお含み願いたい。先程高山証人の御証言等もすでに同じ証言がこの委員会においては他の証人からなされたのであります。それでよくお聞きの上、委員から聞かれた……特に委員長からこの点は詳細に述べて頂きたいというような点はそのように要點いたしますから、それ以外は要点だけにお答えして頂くようにお願いして置きます。
  330. 中野重治

    中野重治君 ソヴイエト内の收容所内での生活の中で、機械を廻せばラジオ放送によつてソヴイエト内に残つている人々から日本にいるその家族に元気である、近いうちに帰るというふうな放送がなされておつたのですが、こういうラジオ放送を日本の放送局を通して一般の家庭の人に分るようにという要求が国会でも出されましたが政府はそういう措置を講じなかつたのですが、そういうようなことがソヴイエトの收容所内で帰りたい人々に分つていたかどうか。もう一つはやはり日本国内では引揚運動というものが盛んに起つてつて、同時に引揚の問題を食い物にするような人々もおつて、そうしていろいろ刑事事件も起きている。そういう惡い者と、まじめな人々との仕事が心配して待つている家族から見れば混線して映つて来て相当苦悶された者もいる。こういうようなことも分つてつたかどうか。
  331. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 第二の問題は、こちらにおいていろいろと向うにおける捕虜の状態は手紙でいろいろと聞いております。特に十六地区内において我々はいろいろ手紙を見たり又分所へ行つて見たのでありますが、モスクワ放送を手紙で通知して呉れてそれは非常に有難かつたけれども、そのために二百円も三百円も取られた、こういうような手紙は沢山来ておりましたし、私の家にも大体二本その手紙が来て、一本は確か神戸附近つたと聞いておりますが、その方から料金を百円を送つて来いと言つて取られたと、これは自分が帰ると家内が直ぐそう言つておりました。それから引揚促進について内地でいろいろ運動が行われているというようなことも日本新聞を通じて大衆には確かに分つております。
  332. 中野重治

    中野重治君 もう一つだけ、これは簡單でいいのです。一言で答えて頂きたいのですが、証人は元関東軍作戰第一課長草知大佐という人を知つていますか。知つているかいないかだけ。
  333. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 草知大佐をよく知つております。
  334. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 これは委員長ちよつとお尋ねいたしますが、各証人にいろいろ亘つて聞いていいのでしようかどうか。或いは時間その他の点がありますから……。
  335. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 大体質問が一通り終つたようでありますから、第二項の項目に入ります。第二項は簡單に済みますので、そういうように進行して行きたいと思います。
  336. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 佐藤甚市証人にお尋ねしたいのですが、実は対日理事会傍聽しましたときに、遺骨の引揚を禁ずということがあつたのです。そういうふうな遺骨とか、死亡者とかいうような面がいろいろありましたが、そうした面に対しまして遺骨を預けたところが、それはもう殆んど顧みられなかつたとか、そういうような面がありましたら、一つ簡單に御証言願いたい。
  337. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚この際佐藤証人只今の淺岡委員質問に加えまして、委員長から午前中に要望いたしました特殊收容所等における残留者の氏名が分つておりましたら、淺岡委員質問に対するお答えが終つた後、重ねてお答え願います。
  338. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 遺骨の引揚げに関しまして、私のおりましたスーチヤンの第二收容所内においては、死亡者三十二名、その外に昨年七月の二十九日前收容所を帰還のために閉鎖いたしましたその時に、遺髪、遺骨一切携行を許可しない、全部品物検査のときに引上げるという通告がありましたので、私と收容所長と長い間の交渉を重ねました結果、一つの箱に納め、遺骨の送り先を附してソ連政府に委託する、ソ連政府から日本政府にこれを送還するということに話がまとまりましたので、当日直ぐに箱を作り、遺骨、遺髪は全部これを白紙で蔽い、日本語並びにロシア語を以て送付先を附し、書類を二通添付いたしまして、ソ連政府に委託してあります。当時のソ連政府の引受けの直接の責任者は中尉クリネシコフ、收容所長は少佐パポフ、管理局長は中佐シユレンコフ、書類二通のうち一通をソ連側に、一通を自分が最後まで保持しておりましたが、書類の携行を一切許可しないためにこれは全部向うに引上げられております。その総数五十八体、遺骨十三体、遺髪、爪、合せたもの四十五体、これは收容所で死んだ者以外に各收容所から持ち寄つて来たものもありますので、それを全部含めております。そのうちの一柱は私宛に送つてあります。これはソ連政府が日本政府に送つて呉れたならば、日本政府は私にその一体を送つて呉れる筈であります。それによつて到着の可否を確めるという処置を講じてあります。その外死亡者の処置につきまして、本年の六月アルチヨムの十四分所を私が出るときに、更に私が病院で預かりました遺髪がありましたが、門を出るときに携行品検査がありまして、一切こういう物も引上げられております。その当時の責任者は收容所長ハバロフ中尉、その外にも引上げられた者もありますが、但しこの人に関しましては遺品を持つて来ておりますので、お届けすることになつております。そういつたように携行は收容所によつては許しておる所もありますが、ウラジオ地区の私の関係した所では絶対に許しておりません。
  339. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 これも私第百二回の対日理事会傍聽しましたときに、英国代表のホジソン氏が、ソ連が調印している諸條約に照してもソ連は当然日本の死亡者が何人あつたか通知すべきである、これ調印している諸條約に照しても、ということなんでありますが、今の遺骨とか或いは遺留品とか、そういう一切の日用品というものは、ヘーグ條約の第十四條或いはジユネーヴ協約の七十七條、そうした点からしても收集して交付する義務があるというようなことを言われておるのですが、こうした面について証人は何かそういうふうなことを知つてシユレンコフ中佐とか、或いはパポフ少佐とか、そういうような人達にこれを委託されたのかどうか。その点を一つ証言願います。
  340. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) その要項ははつきり自分としては覚えておりません。併し国際法によつて死亡者の通知は双方出すべきものであり、平和條約締結後は墓参等、そういつたことを許可せらるるものであり、遺骨についても携行を許可しなければ、政府と政府の間に引渡しが行われる筈であるという見解の下に交渉いたしました。
  341. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 重ねてお尋ねいたしますが、佐藤証人は階級は何であつたのですか。
  342. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 中尉であります。
  343. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 学校はどこでありましたか。
  344. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 長野県の小諸商業学校を出まして、東京のYMCAを出ました。
  345. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、佐藤証人抑留中にこうした国際法とかそうした面に対して何か深い関心を持たれたか、或いは勉強せられる機会があつたか、そういうものを知悉するような情勢にあつたか、そうして点について御証言を願います。
  346. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 国際法につきましては軍隊当時若干数わつております。尚向うに入りましてからも国際法の條約に向こうに要求いたしまして、尚うは概略のところは説明して呉れました。訳文は貰つておりません。
  347. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうした国際法をあなたが若干勉強されたという点につきまして、向うの收容所長なり管理所長なり、そうした方々と話合いをされたことがありますかどうか。
  348. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) はつきりと国際法ということについて向うと話合つたことはありません。
  349. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 佐藤証人、続けて午前中の名前をば……。
  350. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 死亡者の氏名を先に申上げます。
  351. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 残留者の方から。
  352. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 残留者の氏名を申上げます。アルチヨムの第十四分所将校收容所、これは特殊收容所であります。少佐有田浩吉……。
  353. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと証人にお尋ねしますが、有田浩吉というのは……。
  354. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 有田外相の令息であります。
  355. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 続けて下さい。
  356. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 篠原直夫大佐、小西嘉雄中尉、海老原收中尉、高岩清次大尉、永井義仁中尉、今藤績少佐、坪本直人准尉、難波博大尉、松村直准尉、松本文一少尉、小野寺泰雄中尉、田辺鉄二准尉、田村貞直中尉、内藤英行中尉、越智達三郎大尉、長野藤一中尉、八幡稔中尉、矢崎賢三中尉、根食英雄少尉、今井利則准尉、柿崎徳衛准尉、川口光則准尉、影山初太郎准尉、氏家新次郎准尉、石川實准尉、林田眞一准尉、淺倉健次准尉、小林元彦少佐、遠藤純、これは階級は分りません。落合留五郎大尉、沢田行雄大尉、加藤純一少尉、佐々木照政大尉、小林三郎、以下階級不明、斎藤尚幸、四條壽雄、有田智義、牧本充、管林次男、永田頴、山田恒雄、釜谷熊一、渡辺傳三郎、鈴木五郎、長岡政治、浜崎清之助、白石忠幸、斎藤三之助、その他将校收容所以外に残つてつた人達、少尉馬場義雄、久我儼雄大尉、石井十吉少佐、柳田惣吉軍医大尉、木島喜久男軍医、松木成美少尉、草野庸三准尉、中林仁良少尉、金谷保少尉、上堀見習士、成田一雄中尉、鈴木實中尉、南部新太郎中尉、坂木嘉三郎准尉、住谷安中尉、大洞信夫少尉、山本正則少尉、森平國武、原田勝次郎、後藤盛、遠藤昌次、以上樺太警視。大浦平吾、鋤本某以上外交団。その他外交関係者氏名は長命稔中佐、津森藤吉中佐、その他池廣志准尉、田村幸夫准尉、小笠原正三准尉。
  357. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それを一つ書面にして出して頂きたいと思います。
  358. 千田正

    千田正君 山本証人に伺います。あなたは医師の立場からお考えになりまして、ハバロフスク或いはコンソモリスク、或いはホール病院その他におきまして、死亡者状況或いは数、原因、年齢等につきまして、分られる点だけお答え願いたいのです。
  359. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと千田委員に申上げますが、それは三項でやりますから……。
  360. 千田正

    千田正君 それでは後程伺います。
  361. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは第一項目の点はこの程度で質問を打切ります。
  362. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 ちよつと簡單なことを高山証人にお尋ねいたしたいのですが、さつき高山証人反動ということで前職者の問題と、それから直接戰闘に行つておると言われたのですが、この戰いというのは八日に宣戰が布告されて十五日に終戰になつたのですが、その満洲地区や、そうした方面において戰闘というものは相当つたのですか、どうですか。それを一つお答え願います。簡單に。
  363. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 戰闘の状態についてお答えいたします。大体戰闘は、私共が丁度開戰したときは綏西という所におりましたのですが、九日の朝三時頃から開始されております。そうして直ちに穆稜陣地に行きまして、関東軍の最も全戰線を通じて激戰を極めた穆稜陣地におりました。大体あそこにソ連の機械化部隊が入りましたのが十一日で十一、十二、十三の大体三ケ月間に亘り猛烈な戰闘が開始されました。戰闘が終りましてからも全然戰線は、師団長、或いは兵団長が先に逃げてしまつて、第一線の部隊は置去りにされるという状態で、十四日詔書が下つたということは全然分つておらなくて、戰闘状態にあつたということであります。
  364. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それはあなた御覽になつてつたのですか。
  365. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 自分は穆稜陣地の満洲一〇二軍連隊本部の大隊団列におりました。長は北田少尉、その指導下におりました。
  366. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 階級は何でしたか。
  367. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 砲兵上等兵であります。
  368. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 砲兵上等兵でそういう広い戰列のあり方がお分りになりましたか。
  369. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 連隊長の中曽根中佐は常に戰線の状況について、連隊本部に所属するものについてはその当時の状況を話しておりましたし、それから後退しつつ師団長或いは参謀長と前後してずつて捕虜になつた東京城附近まで下つて行きましたから、本体牡丹江方面の戰闘の状態は砲兵上等兵でありましたけれども、よく分つておりました。
  370. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それからもう一つ簡單にお答え願いたいと思いますが、さつき何か反動分子とか或いは血盟団とかで、短刀を所持して云々と言いますけれども、例えば日本の場合にあつても、刀とかそういうふうなものは取上げられるというのですが、ソ連の各收容所にあつて、そういうような短刀なんかの所持が許されておつたかどうか。
  371. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 收容所内においてはパン切りの小さい刀と、それから炊事用のもの以外は許されてなかつたのでありますが、皆作業に行つて、工場なんかに行きますから、どんどんそんなものを作つて来ておつたわけであります。特に反動分子は、分所の全権力を握つておりましたので、それらがいろいろな方法、手段によつて收容所内部における法規を犯してそういうことをやつてつたわけであります。
  372. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それからもう一つ簡單にお答え願いたいのですが、あなたが勤務されて、そうして責任者とおつしやつたが、あなたは曾つては上等兵であり、それから日本新聞に入られたということでありますが、その勤務というものは日本新聞社に勤務しておられたのですね。
  373. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 日本新聞に一九四五年の……。
  374. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それは國分萬二郎証人から聞いておりますから、そういうことでなく、勤務はどこか、責任者はどこの責任者かということを聞いております。
  375. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 日本新聞宣伝部の責任者、それから第十六地区の議長、つまり責任者です。
  376. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それでは重ねてお尋ねしますが、責任者とか勤務とかいうことは、やはりあなたは收容者である。あなたもやはり捕虜なんですから、捕虜であるけれども特にそういう責任者という立場に置かれておつたんですか。
  377. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 勿論私は軍事捕虜であります。そういう立場において反フアシスト運動が盛んになつて、大衆から選挙されて選ばれたのであります。
  378. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうするとそれは選挙して選ばれた、そこであなたが議長であり、或いは責任者であるということは自由なんですが。やはりその上には何か日本新聞なり或いはそうした宣伝部の方の仕事なりする上に対して、何かソ側の方の許可を得なくても、あなただけでやつて行けたのですか。
  379. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 大衆の選挙によつて選ばれたものはソヴイエト側はこれは承認して呉れました。勿論いろいろと監視、監督する責任はソヴイエト側にありますが、大衆の選挙によつて出たものは、これがいいものでも惡いものでも一応ソヴイエト側には承認して頂いております。
  380. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 もう一つ簡單にお尋ねしたいんですが、そうしますと、あなたが責任者であり、そういうふうな指導者であるということで大衆から選挙されたから、自分が一切責任を持たされておつたのだと、こう私了解してよろしうございますか。
  381. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 一切の責任というと、その意味が非常に広範囲でありますが、その点御説明願いたいと思います。
  382. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 例えばあなたがナホトカに行かれるとか、或いは先程の証人ラーゲル收容所に行かれて、そうしていろいろと指導されたということにおいて、その地区の責任者だということを言われたのでありますから、各地区のそういうことに対してあなたが責任者であるかどうかということをお伺いするのです。
  383. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) ナホトカに出張いたします場合は、一応自分達の監視、監督にある上の方に申し出て、そうしてそれによつて許可して頂く、そういう手続を必要としております。
  384. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、丁度本年の二十四年の五月の下旬から九月中に、このスターリン元帥に対して感謝決議文を署名をされた。その運動を指導された。その署名が六万五千も集まつたということですね。それでそれをあなたが持参される筈であつたということを私ちよつと伺つておるのですが、そうした事実がありますか、簡單でよろしうございますが、ありますか。
  385. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 自分はスターリン大元帥への日本人の感謝文、四ケ年の生活を通じて非常にお世話になつた、健康な体で帰つて行けることを、ソヴイエト政府並びにその指導者である同志スターリンに感謝の手紙を送ろうという大衆の下からの声が盛り上りまして、そうしてこれが大体九月に完成いたしまして、十月の十一日にこれを高山外五名の者がモスクワに持つて行くようになつておりました。
  386. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 重ねてお尋ねしますが、その六万五千名の署名というものは、あなたの、つまり十六地区とさつきおつしやいましたが、その地区のみの署名でございますか。
  387. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) いや、これは全シベリアにおいて広汎に皆さんの要求として行われたものであります。而もそれは自由意思の原則に基いて行われたものであります。
  388. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと淺岡委員に申上げますが、非常にこの問題はいろいろ各委員からの質問もありまして、時間をとると思いますから、一応ここで……、この点は後で又各委員からの御質問もございますから、一応打切ります。  次に進行いたしまして、第二項の点について先ず委員長から國分証人証言を求めます。証人は一応ホルモリンから北朝鮮の古茂山に送られて、又ホルモリンに帰されたようになつておりますが、どういうわけでこの古茂山に送られ、又古茂山から逆送されたか、その経緯、この点について述べて頂きますと同時に、古茂山は一体どういう立場に置かれておるのか。それから古茂山におけるところの衞生状況死亡者の数、それだけ証言を求めるのであります。
  389. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) ホルモリンと言いますのは、これは全然自分は知りません。間違いだろうと思います。自分はカンサマルスクの対岸のピアニーという所でありますが、自分は四十五年十一月四日にピアニーに入りました。そして四月、時間は覚えません、四月まで作業をやりましたところが、栄養失調になり朝鮮に下るようになりました。そしてポセツトに六月半ばに送られまして、そのときももう何杯か前に船が出ておるということであります。六月は全シベリアから体の弱いものばかりを内地に帰すという名目で、自分らもそう思つておりました。そしてあそこのソ側の一番偉い人も自分らにはつきりそう話しました。そして自分はポセツトを一番最後の船、三千トンくらいの船と記憶しておりますが、六千人くらい乘りました。ポセツトでも相当の人が死んだと記憶しておりますが、その数は分りません。船の中は十時間ぐらいかかつたと思います。清津に上りました。その間五人ぐらい死んだと自分は記憶しております。それから清津で二日程夜営をやり、それより古茂山に入りました。入つて丁度晝頃でございましたか、そのとき死人を衞生兵の人が出しておりました。えらいここでは死ぬんだねと自分はお尋ねしましたら、今日はまだ五十二名しか死んでいない、そういう返事でありました。そしてあそこに一月くらいおりましたが、相当数死んでおるとは思いますが、その数ははつきり知りません。併しあそこに八千くらいおつたと思いますが、作業は薪取りと、ただその死人の穴掘りばかりであります。そしてそれから一ケ月くらいして興南に入りました。それで興南に、そのときの十月半ばたつたと思いますが、やはりその前に二箇大隊程体の弱い者ばから出ました。これはどこえ行つたか知りませんけれども……で鎭南浦から船に乘つてお前らはみんな帰るんだというようなあれは聞きました。そして初めは第二船で体の弱い者ばかり帰つたから、第三船目は体の強いやつが帰るのだと言つて、で自分らも体は恢復しましたし、第三梯団に入つたわけです。そして古茂山の駅から貨車に乘ると同時に錠が下りまして、多分一晝夜くらいそのままだつたと思います。そして一週間くらいして朝鮮の雄基という所に着きました。その間逃亡兵も若干あつたように記憶しております。それから雄基から行軍でチヨーコーボを通りシベリアのプラスキーという所に入りました。それからプラスキーで又一月半ぐらいおつてセミノスカという所に入りました。以上であります。
  390. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今の御発言中その行動は、何名くらいでどういう工合に行動されましたか。
  391. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 興南からでありますか。
  392. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 古茂山から……。
  393. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 古茂山からやはり前見たいにしてあれで入りました。興南に入つたときはもう九千名近くだつたと記憶しておりますが、自分らの方は千名くらいであります。
  394. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚もう少し國分証人に詳しく……古茂山からどこへ收容されて行つたんですか。
  395. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 古茂山から興南であります。
  396. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 北鮮ですか。
  397. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 北鮮です。元山から二十キロの所に大きな日本窒素という肥料会社がありますが……。
  398. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 今委員長がお尋ねしているのは、古茂山は一体何をする所か。そしてどういう人達がどの地区から集つて来ておるのか。それから反そこからどういうふうに帰えされたのか。日本に帰された者はおるのか。そういう点について知つておられる範囲の証言を求めます。
  399. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 全然シベリアで使いものにならない一級、二級、三級その下にオーカという病人がある。つまり体の弱い者、よろよろの者はオーカで、そんな者ばかりです。朝鮮に下つたのは……。
  400. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 地域は。
  401. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 地域はよくは知りませんけれども、チタ以北ではないかと自分は考えております。
  402. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それから委員長が聞いておりますように、そこから日本に帰つた者はないのですね。
  403. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) それは自分あとから見たのですが、四十六年の船で帰つた一番最終の十一月、十二月で帰つたあれじやないかと思います。帰つたか帰らないか、その数字は知りません。
  404. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それから尚病弱者と治つた者と……病弱者はそこにいつまでも置いておかれるのですか。
  405. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 病弱者も何も初めて古茂山に入つた我々六千だつたと思います。六千入つたのが、それが六個大隊に向うで分れまして、その部官編成で、それを死んだ者とか何とかというのは又補充しまして興南に入つたわけです。千名隊員を又作りまして……。
  406. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚加藤証人は前に証言を求めておりますので、この察各委員から、抑留後における領内外移動状況について御質問がございましたら、御発言を願います。
  407. 中野重治

    中野重治君 國分さんにお尋ねしますが、あなたは最初に満洲であつたわけですか。
  408. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) はい、そうであります。
  409. 中野重治

    中野重治君 続いてお尋ねします。滿洲国内で戰死した者、それからソヴイエト側へ行くまでの極く短かい期間ですが、滿洲地域内で病死した者、それから今あなたの場合は朝鮮のお話でしたが、滿洲国内において若干でも逃亡した者、これはどのくらいありますか。あなたの直接知り得る範囲で、つまりあなたの部隊が仮に百人であつたとしたならば、その百人の部隊が戰鬪してどれくらい戰死したか……。
  410. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) ちよつと話さして頂きます。自分は大体綏西の二七三部隊におりました。留守部隊としておりました。本隊は穆稜に出ておりました。そのときに戰車が部落に入つてから我々は火を付けて逃げ出したようなわけですが、そのときに八十名ほど逃げました。ばらばらになつて……。
  411. 中野重治

    中野重治君 それは部隊の中で何人……。
  412. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 八十人です。
  413. 中野重治

    中野重治君 全部が……。
  414. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 留守部隊の八十人が三回ぐらいに別れて本隊に立つたわけです。九日の日に……そうして、それから飲まず食わずで穆稜の本隊に着いたわけです。二時頃着いて、その明けの日の七時頃総攻撃を食つて自分の中隊と、いま一個中隊おつたつもりでありますが、それはばらばらになつて大分死んだと自分は記憶しております。又拉哈に自分が最後までおつたのですが、部隊の者としては十人かそこらおつたのです。
  415. 中野重治

    中野重治君 それからもう一つ、ソヴイエト軍がソヴイエトへ引揚げるとき、そのときまでに捕虜状態にあつた日本人以外の日本人を改めて沢山捕えていましたか。
  416. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 日本人以外の日本人ですか。
  417. 中野重治

    中野重治君 いや、戰争が終つたときはこつちが負けたから、日本人が軍関係その他捕まつておりますね、多数の日本人を引連れて引揚げて行つたというふうな話があつたのですが、それは引揚げるときに、改めて他の日本人を沢山捕まえたというようなことが多いのですか。それとも滿洲地域内で捕えられた日本人をそのまま連れて行つたということですか。それ以外に改めて沢山日本人を捕えた意味ですか。あなたの知る範囲で……。
  418. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 自分が捕虜になりましたのは九月一日の日で、それまで山に入つてつたのです。それから九月の半ば頃自分は拉哈に行つたのでありますが、そのとき開拓団の人というのは、皆拉哈の駅から南滿の方に移送されておりました。自分兵隊に潜り込んだら早く帰れるというので、開拓団の人が相当数自発的に入つて来ましたけれども、ソ軍そのものは強制的に連れて行くということは自分は見なかつたのです。
  419. 中野重治

    中野重治君 最初の問題ですが、あなたの部隊は最初は留守部隊の形であり、直接戰鬪に参加されなかつたけれども、穆稜の戰鬪に追付いてそこが激戰であつたために、この八十人に関してはあなたが落伍したときは同じ落伍者は約十名くらいで、あとは殆んど戰死か或いは分からなくなつてしまつた、これはパーセンテージから言うと不当に大きな率だつたと思いますが、大体においてやはりあなたの直接御存じないことではありましようが、大体において相当滿洲地区内においてあの短期間に相当の戰死者が出た、或いは病死者も若干出たというふうに考えられますか。
  420. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 考えます。
  421. 中野重治

    中野重治君 分りました。
  422. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それではもう一点だけ委員長から國分証人に聞いて置きますが、今でもシベリア地区から北鮮地区には、随時にそういう病死者等は送られておる、そのように思つておるわけですか、尚古茂山には今でもそういう者が残つておる、こういうふうにお思いになりますか。
  423. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) それは残つていないと思います。それはもう帰つただろうと思います。
  424. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 ちよつと國分証人に伺いますが、あなたが古茂山にお入りになつたときに、前から朝鮮部隊で抑留された人がおりますか、それとも古茂山に来たのは新たにシベリア地区、滿洲地区から多くの人が入つたのでありますか。
  425. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 勤務者として自分が記憶しておりますのは、朝鮮部官の人は四、五百人おつたと思つております。あとシベリアから行つた人ばかりであります。
  426. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 先程あなたは六千名とおつしやいましたが、六千名の中に四、五百名入つておるわけですか。
  427. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 自分らと一緒に行つたのは六千名であつて、その前は船の人も古茂山におつたわけです。その数ははつきりしたことは自分は分りませんが、相当数一万四、五千名おつたのじやないかと思います。それははつきりしたことは自分は覚えておりません。
  428. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 國分証人にお尋ねしますが、あなたは先程古茂山、雄基、そうした面を言われておりますが、その北鮮地区の人達にもいろいろお会いになつたと思いますけれども、その北鮮地区兵隊であり、或いは一般の基留民でもいいのですが、邦人がおつたかどうかというようなことは当時お聞きになつておりますか。
  429. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 邦人は、古茂山にはセメント会社のお医者さん関係の人が四、五名おつたと記憶しております。
  430. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 雄基その他では……。
  431. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 雄基では見られなかつたのです。興南の肥料会社に技術関係の方が、自分があすこに行軍するときに見ましたが、相当おりました。子供や奥さんが……。
  432. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 相当と言いますと、数字は大体どのくらいですか。
  433. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 数字はちよつと……相当おりました。子供や奥さん、相当と言つても百名くらいだと思います。
  434. 中野重治

    中野重治君 一つだけ簡單に國分さんにお尋ねします。國分さんが古茂山へ来られたときは御一緒に約六千の人が来た、その前は勿論正確ではないが、一万くらいおつたのではなかろうか、こういうお話がありましたが、これを今簡單に加えると約一万六千ということになりますが、この一万六千は、これは多少の曖昧者を加えてよいわけですが、これが又シベリア地区に、少くともその大部分党つたというようなことが、あなたには考えられますか。
  435. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 考えます。
  436. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 その古茂山で大体どのくらい死んだか。あなたは薪取りと死人の穴掘りが仕事だと言われましたが、そうした点から考えて、仕事が二つしかないとすれば相当数が死んだと思われますが、そういう点で余り死にはしなかつたが、穴だけは掘つていた……。
  437. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 私は穴掘りにも行かないから分りませんが、自分が着いたのは十二時過でしたが、今日は五十人しか死んでいないというようなことを言つておりましたから、相当死んでおるだろうと思います。ちよつと補足しますが、穴掘りに行つた者の話では、初めは二人、三人分の穴を掘つてつたが、近頃は余り死ぬもんだから一穴に五十名も百名も、掘つて入れておるというようなことを聞きました。
  438. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと各委員にお諮りいたしますが、第三の死亡者及びその処理状況に入るわけでありますが、ここで十分間休憩いたすことに御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  439. 岡元義人

    委員長(岡元義人君) それでは十分間休憩いたします。    午後三時四十二分休憩    —————・—————    午後四時二分開会
  440. 岡元義人

    委員長岡元義人君) これより休憩前に引続き委員会を開きます。  委員長より先ず佐藤甚市証人に、先程佐藤証人証言せられました補足としてお聞きしたいのでありますが、スカン地区死亡者と、その死亡の原因について証言を先ず求めます。
  441. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 私のおりましたのは第二収容所、その収容所の死亡者総計三十二名中栄養失調者二十名、肺炎一名、炭坑作業の事故者九名、その外、外の收容所から病気のために連れて来られて入院の途中休憩をして、そのまま倒れて行つた人二名、合計三十二名であります。その氏名、全部は分つておりません。これは書類を全部引上げられましたので、自分のまだ記憶にある人達だけ名前をお読みします。塩澤裕、漆畑義雄、大神光男、宮内保彦、長澤忠三、本田輝次、千葉政美、佐藤清藏、松本清、椎名重次郎、岡本正夫、森重寛、榎本幸正、野村儀元、島田民藏、以上の者であります。
  442. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚佐藤証人に、先程この処理状況について証言があつたのでありますが、その遺骨十三体及び遺髪四十五体、これは帰つて来られてから、その家族等に連絡がとれたのでありますか。その点伺つて置きます。
  443. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 自分のところの死亡者は、一人として連絡のとれていないものは今のところないようであります。これは当時全部覚え切れないから、私は死亡者の名簿を作つて置きまして、帰還者が出る度に、その附近のもの二名乃至三名に、その家族に知らせることを委託して帰しております。そのためかこちらに帰つて来て全部書類を調べて見ましたが、行方不明、或いは死亡の場所は分つていないというものは一人もないのであります。
  444. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚もう一点、七月二十九日出発帰還者の全員に、佐藤証人はこれを家族に報告するよう依頼したということを聞いておりますが、今度佐藤証人が帰つて来て、完全にそれが家族に伝達されておつたかどうかということを調査されましたか。
  445. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 稻毛の出張所へ参りまして、そこで全部調査いたしました。家族には、ただ長澤忠三の家族が現在分つておりません。それだけでその外は殆んど分つております。
  446. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう一点佐藤証人に伺つて置きますが、管理の責任は、どこに責任があるかということをお考えになつておられるか、この点伺つて置きます。
  447. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 死亡の原因でありますか。それともその後の措置でありますか。
  448. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 全体的の管理の責任は、一体どこにあるのですか。あなたは先程国際法のことを言つておられましたので、一応ここでその点を、あなたの考えを聞いて置きたい。
  449. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) この死亡の措置につきましては、ソ連側の責任にあると思います。何故ならばソ連側においては、死亡者の一覧名簿を作つてございます。これは番号順に氏名を記したところの帳簿を二通作成しております。これは私が事務所に行きまして、人事係と交渉の際に書類を見ておりますので、分つております。一通はモスコー、一通は司令部の方に保管をするということを、クリメンヨコフ中尉が言つております。
  450. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次に山本証人にお尋ねいたします。先程千田委員から質問が留保されておりますので、死亡者の情況等については、後程千田委員質問に答えて頂きます。尚委員長から一点伺つて置きたいのは、いわゆる平塚運動と言われておりましたこの運動鬪争と、あなたの見た衛生上の観点から見た死舗率、そういう点について証言を求めます。
  451. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 ちよつと……山本証人は医師ですか。
  452. 岡元義人

    委員長岡元義人君) そうです。
  453. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 お医者さんで博士号とか、そういうものをお持ちですか。
  454. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それは後程……、只今委員長の答えを願います。
  455. 山本昇

    証人(山本昇君) その前に、お答えするのにちよつと私招電を受けまして、実は何らの用意もないのであります。種々の事項について詳しいことがありましたならば、書類を以て後でお答えしたいと思つております。これを御承認願いたい。  只今委員長から言われた点についてお答えいたします。この第三号の件だと思つておりますが、收容所内における死亡者とその処理の情況、これについては如何なる病気が発生したか。又死亡者はどれだけかという大きな問題になりまして、僅少な時間においてこれを説明することは困難であります。大きな原因として取上げられましたものは、精神的、肉体的両方面からこれを観察しなければいけないと考えております。  先ず精神的と申しますものは、捕虜となつて、而もあの大文化国に我々が連れて行かれた。入口があつて出口のないような国に連れて行かれた。そういう精神的な打撃というものは非常に大きな打撃であります。而も数氏の証人から言われたように、衣食任すべての点に亘るところの不備、或いはシーボルト議長がこの会議において、対日理事会においてはつきり言つておられますそれ以上の非惨な状況においては、死亡者或いは患者が続出するというのは当然なのであります。この大体四ヶ年の状況を申上げますと、先ず衣食住の方から考えて行かなければいかんと考えます。  第一番に発生いたしましたのは、一九四五年から四六年に亘るところの初期の時代であります、これは私はビラカンにおりましたが、衣食住その他においてもこれは全くお話にならん状況でありました。労働あたりにしても八時間労働というのは全く名ばかりでありまして、これは一日の往復二十キロという所に行つて伐採をする、而もその強い労働をやらなければいかん。ロンドコという所が私の直ぐ隣りにありますが、これはどん底という名前まで付いておつた所であります。死亡者が、二千名中八百名まで出たというような状況であります。食物も大豆の粉と、それから小麦粉、それだけを三ヶ月連続的に食わされたというような、而もその上前をはねられておる。私達のおりました收容所においては、砂糖も二ヶ月も亘らなかつたというような状況が続きました。煙草は勿論であります。外交官の上村公使あたりおられると思いますが、鋸で木をひいて、そうしてその木屑を煙草として吸つておられたような状況であります。あとは推して知るべしというような状況であります。それでその時代に最も多く発生いたしましたのは栄養失調であります。衰弱、栄養失調、それと同時に発疹チフス、宿舎その他の非常な不潔から来るところの発眞チフス、黄疽それからマラリヤ、赤痢、更に後になつて腸チフスが少し発生いたしております。これが大体第一期の状況であります。  第二期の状況になりますと、漸次これは落付いて参りましたが、そのときに多く出ましたのは大体外傷患者、それと同時に今までのこの環境の不良から来るところのロイマチス、或いは神経痛、そういうような疾患であります。それから第二期によく起りましたのは中毒であります。これは食物が不足である。我々は四年数ヶ月おつた。ところが四年数ヶ月全く腹を空かしておつたというような状況であります。それでそのとき何を食つたか、あらゆる物を食つた。蛇がおれば蛇も食つた、蛙も食つた。「とかげ」はいないけれどもあらゆる物を食つた。野菜というものは殆んどなかつた。一年の間二ヶ月くらいしか渡らなかつたという状況であります。従つて草という草も食い盡したというような状況であります。そのとき起りましたのが中毒患者です。「きのこ」の中毒、それから毒芹の中毒、それによつて相当死亡者数を出しております。それと同時に昆布が主食として暫く配給されたことがあります。これによつて昆布の中毒を起して腰が拔けた。とろろ昆布です。そういうような状況であります。  第三期となりますと、今までの不良なる環境からして起るところの結核性疾患、肺結核、或いは胸膜炎、そういうものが漸次殖えて来た。これは当然のことであります。それと同時に高血圧症というのが非常に多くなつて来る。一方において低血圧がある。これは何から起るか。これは衰弱から起る。一方において高血圧は何から起るかというと、これは精神的圧迫と民主運動、そういうものの非常なる圧迫、そういうものから起つてつております。  最後にやつて参りましたのは、これは反動病と申します。これは大衆裁判によつて、大衆の圧力によつて反動として吊し上げられる。そういうものによつて起るところの病気であります。向うにおりますと、その條項の羅列の前に如何ともし難く、我々といたしましては向うの言う通りになつておりますけれども、それと同時にこの反動に対するところの全大衆の作業強制、或いは一例を挙げますと、そこで今まで社会的地位の高かつた者、階級の上だつた者、或いはインテリゲンチヤ、そういう者に対するところの何と言いますか、圧力というものは非常に大きなものでありまして、丸匙の使い方は何だ、お前の歩き方は何だ、お前の右足は合つていないじやないか。そういうような調子で、二十四時間鬪争と言つておりますが、この二十四時間鬪争においてこれを鍛え上げられた。従つて反動たる者は一刻の休む時間もないというような状況でありまして、全くへとへとになつてしまいました。従つて今度はへとへとになるから診断を受けに行く。そうするとお前は仮病じやないか。お前は作業サボだということによつて、徹底的にはねつけられます。従つてもうへとへとになつて全く動けんようになつて、初めて入院させます。従つて、阿南大臣か何かの秘書か何かやつてつたと思いますが、宮本という大佐は、入院後三日で死んでおります。これは我々の病院に入院せしめずに、そこらの病院に入院せしめずに、そこらの病院に入院せしめておるというような状況であります。そうして遂に三日で亡くなつている。それから若松という中佐であります。これは関東軍の鉄道参謀をやつておりました。これはどうか、今のような徹底的な反動で天皇護持者である、或いは現在の日本の吉田反動内閣の一連の手先である、或いは現在の日本を牛耳つているところの政治家、或いは警察官その他の全く道具である、犬であるとして叩かれまして、徹底的にへとへととなつて、今言つたように診断を受けると作業サボだ。或いは仮病だというふうにして帰されて、そうして病院に送られたときには全く意識もない。病院に入院してから退院するまで一言もなくして死んで行つておるのであります。
  456. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと、叩かれるというのはどういうことですか。
  457. 山本昇

    証人(山本昇君) 叩かれるというのは手で叩くわけではありません。それからもう一つは永田忠、樺太の判事をしておつた人がおる筈です。その人が入院して来た時は、精神病で、これは食わせなければならない物を絶対受付けない。拒絶症を持つている、何故精神病にならなければならなかつたかという原因は、今も言つたところの反動病であると考える。これの肉体的、精神的症状、いろいろなことを申上げますと詳しくなりますけれども、確かに私は反動病としてよい、そういうふうな状況において全く阿呆ののように、馬鹿になつてしまつた、それで病院に来た時は全くものも言えない。それを仮病、詐病として部屋にいる者達が押え付けて口をこじ開けて飲ませる、食わせる。従つて歯を折つてしまう、そのうちに実際栄養失調を起しているために、下痢は起して来る、衰弱は加つて行く、それは当熱です。そうして遂に死んでしまつたというような状況です。又阿部という樺太の検事正があります。この人も一言も言わず肺炎で死んだ、これは年齢の関係もあります。或いは肺炎菌の強さもありますでしようが、大体は分所においてそういうように徹底的に叩かれたということが大きな原因をなしている。それから田村全定、元新京の警察副総監か何かやつてつた田村仙定という人、この人も死んでいるのであります。瀬川中佐、これも死んで行つている。そういうような状況であります。それでこれを考えますのに、大体そういうような患者、或いは日本人についての実権は、誰が一体握つてつたかという問題であります。我々は捕虜である以上は、当然国際法に従つてソ同盟、ロシアの権力下にある。その実権によつて我々はすべて律せられるわけでありますが、逐次、一九四七年ですか、友の会ができて、民主運動というものが盛んに起り始めて来た。そうしてその実権が漸次この友の会、或いは更に去年の二月……今年の二月ですか、反フアシスト委員会というものができて、全くこの実権というものが、この民主委員というものの手によつて握られるようになつたのであります。従つてこの作業という問題についても、我々の祖国というものはロシアである、日本ではない。そこで祖国を強化するところの第一の任務が我々に課せられているのだ、祖国強化のためにやらなければならないということにおいて、徹底的に作業というものをさせられた。そこで或いは突撃隊の結成、青年行動隊というものがその中において、徹底的に働いて反動を吊し上げる。アクチブというものが活動する、平塚運動というものが日本のをやる。これはスタハーノフ運動に相当する運動であります。そういうことをやつて徹底的にこの作業というものに邁進し、それと同時に理論鬪争をやらなければならん、マルクス・レーニン主義を体得して、そうして当面の敵であるところの吉田反動内閣というものを、ぶつ倒さなければいかんということをやつたのであります。従つてこういうような患者、そういうものについての実権というものが全部民主委員が握つている。帰国の問題にしても然りであります。私自身六月帰国というのを、それを大衆裁判にかけて更に九月まで延されております。この事実を何と見るか。尚ナホトカで九月九日に着いてから四十数日間延しております。この事実を以てどうするか。即ち実権というものは全部民主委員、共産党というものが握つてつたということがはつきり言えるのであります。  それから死体の処置であります。病院における死体の処置、そういうことについて一言申上げます。これは初め我々がソ連に入りましたときには遺骨を持つておりました。例えば孫呉部隊、佳木斬部隊の将校、こういう連中一緒でありましたから死亡者の名簿とか、又遺骨というものは沢山持つております。遺品というものを持つております。それをどうしたかというと、これは被服の検査とか何とかいうことで蹴散らし、投げ捨てられてしまつたのであります。書付を持つていると、これは反共、反ソのデマにするということで全部取上げられてしまつた死亡者について、四年間の中に馬鹿になつている頭でそれをよく憶えている能力はありません。それを全部忘れてしまつている状況であります。それから名簿の件でありますが、ナホトカに参りまして、これは十月二十一日ですか、九月九日にナホトカに私が参りましたときは、川端という元少尉がおります。それが何故止められたかというと名簿を持つていたからであります。これは中央アジア方面から参つた男でありますが、遺骨と名簿を持つて帰りたいということを收容所の職員に言つたそうであります。ところが遺骨の方は俺の方から送るからということで、遺骨は預けた。そうして名簿だけ持つて来て、ナホトカの民主委員の方に提出した。ところがそれを掴まえてお前は反共、反ソのデマをやる男だというわけで、ずつと残されております。私がここに行きましたときは、ここにいる佐藤証人あたりもはつきり知つていると思いますが、川端という者であります。そういうふうな状況死亡者が何人出たか、或いは患者の状況はどうなつたか。これはあとになると病床日誌の整理というのは、非常によくやつておりますけれども、一年前、或いは二年前の状況というものが、はつきり分らないというのが当然ではないかと私は考えます。大体患者の状況についてはこれで止めます。
  458. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚山本証人に、ちよつと先程委員長から聴きました四八年の夏頃から、平塚運動が展開されて来た。その結果従前と死亡者の関係が、どのような率を示したかという点について、簡單に証言して頂きたい。
  459. 山本昇

    証人(山本昇君) 平塚運動が起つてからと、それ以前の関係ということについては、私も統計も持つておりませんし、実際はつきりしたところは分りません。ただどの兵隊、どの人達に聞いても殆んど大分の者がへとへとになつているということだけを言つております。ただ平塚運動というものは、それをソ連においてやつたために、帰国した後の状況というものに非常に大きな関係を持つて来るのじやないか。従つて私といたしましては、帰つたところの人達の健康状況というものを、今後監視して頂きたいというふうに考えております。
  460. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 高山証人証言を求めますが、今の平塚運動の起つた原因について……。
  461. 千田正

    千田正君 議事進行について……。僕は先程提案して、それで質問を延ばしましたが、あなたが今御要求になつておる平塚運動というものは、死亡の問題に直ちに関連して来る問題として一応聴きますか。私は山本証人に対して先程から答弁を要求してあるのです。委員長は成るべく補足的に質問して頂きたい。
  462. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 千田委員お答えいたしますが、先程申合せしたように一応聴きまして、先程千田委員から質問されたことを留保して、今外の点を聴いておるのです。もう二、三人で終つてから委員質問を許すということになつたのです。補足というのは……。
  463. 千田正

    千田正君 そうではなくて、最初一般的に一応委員長から全部について質問した後は、一般状況死亡状況、或いはその他の調査状況について、各証人質問するように私はそう承知して、それで午前中に一般質問されたと思うのです。
  464. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 千田委員に申上げます。一般質問が終つたような形になつておりましたが、そうでなくて、このプリントは多少間違つたと思いますが、後から証人が殖えたものですから、それだけ加わつたのがこのプリントに落ちておつたのです。その点御了解を、先程事務局には申して置いたのです。
  465. 千田正

    千田正君 我々にはよく伝わつておりません。
  466. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それでは高山証人証言は後にいたしまして、小倉証人に一応証言を求めます。小倉証人はホルモリン地区にありますところの集団墓地等について、知つておられる範囲において証言をして頂きたい。
  467. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 発言いたします。委員長質問の集団墓地の説明の前に、これは是非共全委員に知つて頂きたいシベリア死亡者の問題について、重要な問題がありますから、簡單に発言を許して頂きたい。
  468. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 簡單に一つ願います。
  469. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) シベリアにおける死亡者で、御家族の方々がいろいろ心配しておられる。委員の方も非常に心配しておられると思いますので、又死因の問題についても今山本証人から説明がありましたが、これが実際にその原因、或いは具体的な数を本委員会においては、最も的確に知るのが目的だろうと思いますが、只今証言ではむしろ具体的な問題よりはこれが何らかの政治的反ソ、反共デマの材料に用いられるというような傾向に流れておりますので、私はもつと具体的な問題を提出いたします。問題はウハ、ハラゲンにおいて相当数死んでおります。それは部隊長上古茂樹少佐、中隊長吉井良幸大尉、この中隊において地獄谷と言われた旧関東軍軍国主義的な将校の、兵隊に対する残虐極りない暴行があつて、吉井の手によつて直接死んだ者でも二十三名に及んでおります。その中で分つている名前は星子、高橋、峰島事件、この三つの事件が特に大きな事件でありまして、吉村隊長事件よりはもつとこの方が惡虐な、フアシスト的な残虐な行為として、シベリアにおいては、真面目な民主主義者に非常な問題として取上げられている問題であります。いずれもこれは寒中、而も夜中に俺の命令を聴かないというので、屋外に杭又は古木に裸体で縛り付ける。そうして樽でこれに水をかけて翌朝凍らせたという事件であります。これは拷問をかけたあげくの果てやつたのでありまして、このために、横暴な将校及び上級幹部のこの行為によつて、発狂して死んで行つた者は数知れないという状態であります。この具体的な証人は、集結地に来て、このことを非常に憤激して、生き残つてつた村山という人達が実際に生き残つた中の人達でありますので、参考のために申上げます。こういうふうにしてソヴイエト側からいろいろ強制労働に遭つたという話でありますが、実際は言うことを聴かないというので、作業から帰つて来た奴を、お前はもう一回強制労働へ行けというので、日本軍の幹部が帰つて来た者を、ソ側に話して追出したというような、こういう事件がそもそも民主主義運動が、俘虜大衆の怒り孰発の起因であつたということを証言いたします。こういうことを、どうか引揚委員方々は具体的に調査をされて、本当の原因というものはどこにあつたのか、人間らしく良心的に追及することを切望するのであります。
  470. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 小倉証人に申上げますが、委員会委員会調査をいろいろいたしておりますが、今委員長がお尋ねをしましたホルモリン地区の集団墓地等について、小倉証人が知つておる範囲内において、どのようにして、どのような場所にあり、どのような処置をしておるかという点について、小倉証人証言を求めておるのであります。
  471. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 分りました。私の知つておる集団墓地は、ホルモリンのゴーリンという所の二百八分所におりましたが、二百八分所の前にはゴーリン病院というホルモリン地区の病院がありました。ここに大体ホルモリン地区で病気になつた人、或いは工合の惡い人が入つたのでありましたが、この病院でどのくらい死んだか、私は直接行つておりませんので知りませんが、ここにおいては病院で亡くなつた方は必ず解剖されてその死因が明らかにされ、そうして病院の裏に墓地がありまして、ここに亡くなられた方は埋められてあります。この柱は何柱あるかは具体的に分りません。この病院の死亡者状況については、このゴーリン病院におられた方を是非とも呼んで頂きたいと思います。ここにおいては日本側とソ側と協議の上で墓地が作られ、ここにはきちんと墓標も立てられておるということを私は知つております。それ以外の場所については余り知つておる事項はありません。終ります。
  472. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 証人に重ねて委員長から申上げますが、その集団墓地に対して、今後いつでも氏名等が分るような処置がしてあるのかどうか、その点を伺つて置きます。
  473. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 当時病院におきましては、ドクトルの話によりますと、名簿があるそうであります。私は実際にその現物を見ておりませんので、これ以上の証言はできません。
  474. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚高山証人に一点だけ委員長から伺つて置きたいのですが、ハバロフスク第五收容所で死亡した……火災がありましたですね、そのときの死亡人員を高山証人御存じと思いますが、知つておる範囲において証言を求めます。
  475. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 第五分所の火災による死亡の問題については、自分は記憶はありませんが、死亡の事実については……。
  476. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 高山証人委員長が聽いたことだけお答え願いたいと思います。
  477. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) いろいろと関連がありますし、前の証人発言もまだ不徹底であつたし、この問題について委員会の方でも御努力されておるようでありますし、この問題を明らかにすることが証人の責任である、国民の責任であると考えますので、この点を明瞭に御説明申上げたいと、こう考えて発言をお願いするわけであります。
  478. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 特に委員会が高山証人に聽きたいのは、只今の第五收容所の火事の際に死亡した者の人数を知りたいのであります。その点について先ずお答え願いたい。あなたは先程第五分所はよく知つている。自分はそこに滞在してないが、いつも行つてつたという御証言がありました。で、第五分所の火事について御存じない筈はないと考えられますので、その当時而も日本新聞におられたあなたが、その火事の際に死亡された人数等御存じの筈だと我々には考えられますから、知つておられる範囲において御証言を求めるのであります。
  479. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 分りました。甚だ残念でありますが、私は日本新聞の者でありまして、日本新聞はこれは第五分所に籍があります。そういう立場から言うと、分つていなければならないのでありますが、丁度第四地区の青年大会がありまして、私はその方に出張しておりました。帰つて見たら第五分所に火災があつたというような状態でありまして、その当時の具体的な問題、又何名死んだかというような問題については全く記憶にないのであります。
  480. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚重ねて高山証人に伺いますが、何人ということは分らなかつたが、死亡者があつたということは承知しておられるのですか。
  481. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) それは分つております。それは聽いております。
  482. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 次に加藤証人佐藤証人と二人だけで……、加藤証人にお伺いします。  先ず先程大体の証言はあつたのでありますが、大体労働大隊の作業と、その死亡者の数について、尚もう一度証言を求めたいと思います。
  483. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 加藤が一番最初入ソいたしましたのは、二十年の九月十五日に国境を通過いたしまして、十月から一月までエリンカという所におりましたが、一千名のこれは編成であります。それが一ケ月半の中に二百人の人間が死んでおります。それで一月になりましていわゆる作業に堪えない者、これは全部満洲の牡丹江に貨車輸送をやつております。その間の死亡は相当数あると聽いておりますが、具体的な数字に関しては自分は知つておりません。その一ケ月半における二百名の死亡の主なる原因としましては、殆んどが栄養失調でありますが、当時私がおりましたとき一枚の敷布もなかつたわけであります。加うるに彼らは附近のコレホーズの者と交換するために、次々といい物を物色し、いわゆる総合検査と称して掻つ拂つてつたわけであります。作業場は最初はラーゲル附近から稻刈をやつておりましたが、自分達の稻刈をやつたのは約八万町歩です、八百ヘクタール、段々遠くの方まで行きまして三里か四里、その間を行軍するわけであります。朝三時に起床させられまして、現地に着くのはまあ屠場に曳かれる牛のようなぶらぶら行きますから十一時頃になります。帰つて来るのは十一時頃で殆んど休む暇がなかつた。給與は彼らは上前のぴんをやるので、飯盒に四分の一ぐらいが上々でありまして、食べない兵隊は腹が減るので、食える雑草というものは殆んど食べて、その中毒による死亡もあります。それから鼠の奪い合いで、命を賭けて喧嘩して奪い合つたというような状況もあります。それから死亡者に対する措置、これはその状況下にあつて、体力、気力共に衰えておつたとは言え、死亡した死体は殆んど野つ原におつぽり出されたような状況でありまして、翌朝行きましたところが、野犬とか、あの附近には一部狼がおりますが、狼が皆食つてつたというような状況であります。とにかく給與と、いわゆる作業量のバランスがとれておらなかつたのが原因だろうと自分は思つております。それから今隣におります小倉証人がその責任というものは日本軍の将校にあつたと、将校のフアシスト的な、兵に対する專横と、それから糧秣を掻つ拂つたり、いわゆる精養軒料理なるものを食べたために、兵隊は痩せ衰えて死んで行つたというような点などを、言明しておるようでありますが、自分の考えでは成る程一部の者はこのような間違つた者のために……、このような状況が全然なかつたとは私は決して否定するものではありません。が総体的に言つて戰いがすでに終りまして、その当時におけるいわゆる将校、いわゆる幹部の任務というものは、如何にして日本人を一人でも多く損耗なくして祖国に還えすことが、一番の任務であつたろうし、わしらが今まで体験しました昔の幹部は、これを肝に銘じて最大の努力を傾倒し、善処しておつたことを、私は確信を以てここで答うるものであります。
  484. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 佐藤証人質問は一応留保いたしまして、以上の点について各委員から御質問の御発言がありましたら……。
  485. 天田勝正

    ○天田勝正君 早速加藤証人に伺いますが、先程の証言で、今お述べになつた点から言いましても、同胞の死体が遺棄せられて野犬の食うに任せられたというお話がございましたが、そのことはあなた自分が所属になりました隊だけのお話でありまするか、又このことはあなたが知り得る範囲の地区の各收容所がそれぞれそうであつたか。先ずこのことをお聞きします。
  486. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 自分がおりました收容所は、そこに一ケ所しかありませんでした。独立家屋でその收容所に一千名入つてつたわけです。大隊として……。
  487. 天田勝正

    ○天田勝正君 次にそれら遺棄死体の方々も、やはりソ連側において何かちやんとした記録等がとられておられたかどうか。或いはこちらの、あなた方の所属されておる隊内において、例えば遺棄されたにしても、死亡者はちやんと記録されておられたかどうか。
  488. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) その当時ロシア側においてはそのような書類は作つていなかつたように記憶しております。日本側には日本のドクトルがいわゆる死亡者名簿というものを作つておりました。各中隊ごとに作つておりましたが、そのような書類の携行は許されませんでした。
  489. 天田勝正

    ○天田勝正君 小倉証人に伺いますが、山本証人の御証言でも、又加藤証人の御証言でも、非常に待遇に関連しての病気並びに死亡ということが詳細に述べられております。あなたの先程の二度の証言によりますれば、その給與が極めて完備しておりまして、恐らく現在それらを、支給されたものを十分料理するならば、この議会食堂よりもよろしいくらいではないかと、私はまあそう思うわけですが、あなたは各收容所におきましてさような待遇によつて病気等を起すというようなことはないと、こう否定されますか。
  490. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 待遇の問題については、入ソ当時においては非常に交通不便な辺境の地に配置されたところにおいて、現在、我々が帰還した当時のごとく完全な給與が支給されているというふうに、私は確証はいたしません。そういうことが部分的にあつたことは認めます。併しながらそれらが全般的な状態として糧秣が少かつたが故に、栄養失調になつて死んで行つたという決定的な原因とすることは、私は良心的にできないというふうに言うわけであります。なぜならばその理由は先程申述べました通り、必ずしもそれが全般的な問題ではないということ、更に実際の給與はソヴイエト側から支給されており、それらがソヴイエト側の幹部が恰も全部を流したようなことを言われますが、勿論それもあつたでしよう。ですがそれよりも今私が言わないことも隣りの証人が言われたように、精養軒料理と称する、将校及び上級幹部が私の知つている範囲でも、そのような飯盒に四分の一の飯を食つておるときに、どんなものを食つてつたかというと、ロールキヤベツ、或いは天ぷら、コロツケ、カツレツ、こういうようなものを上級将校は沢山食べておつたという事実は、一体どこに責任を持つて行くべきかということを、もつと検討すべきだということを考えるのです。
  491. 天田勝正

    ○天田勝正君 そのことは小倉証人に続けて伺いますが、今のその天ぷら或いはコロツケとかいうことは、あなたの先程御証言になつたような給與があるならば、ただ一部の幹部が食べられたことでなしに、全部の人が食べられるようなですね。そこでです、それが全部に行渡らないというのは、これはソ側が横流しをしたとか、或いは日本側が横流しをしたとかという、意見の相違はありまするけれども、どこかへ流れなければそういう一部の人だけしか食えないという理由が、私共には了解できないのです。そういうことでありまするから、あなたはそうすると、それらが死んだのはそうした食待遇によるものではないとすれば、これらは天然自然に死んで行つたのだ、こう御証言になりますか。
  492. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 食糧関係の横流しの責任は誰かという問題は別として、それがやはり第一に挙げられるでしよう。第二には労働において強制労働をさせた。そのような軍国主義的、人権蹂躪犯罪人である旧幹部の酷使が、これが大きな問題であると考えます。
  493. 天田勝正

    ○天田勝正君 加藤証人にもう一度伺いますが、先程あなたが証言されました、彼等は横流しという言葉がありましたが、当然これは私共、あなたの言葉から推しまして、ソ側がというふうに読替えて理解してよろしいですか。
  494. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) よろしいであります。
  495. 天田勝正

    ○天田勝正君 ではその強制労働ということは山本さんも、あなたも、又今の小倉さんもおつしやつていることですが、それがいずれかということなんでありますが、あなたの所属された隊においてはこの強制された食糧にマツチしない労働は、あなた方の幹部によつて強制されましたか。
  496. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 日本軍幹部にはそのような要求はありません。ソ側が要求しなかつたならば、決してそのような要求はなかつたのであります。
  497. 天田勝正

    ○天田勝正君 高山証人に伺いたいのです。高山証人は先程のお話で、権限と言つては少し強い言葉になりますけれども、とにかく他の人と違つて相当他の地区廻つて歩けるだけの自由があつた。いわばそういう自由の立場を要求し得る地位にあつた。これを詳しく言えば他の人の持たない権利を持つてつた。こういう地位であつたと私共は理解するのです。そういたしますると、各地を廻つておられるあなたが、一番全般的によく御存じだと思いますが、今の病気と給與状況との関係につきましては、或る地区では山本証人とか、或いは加藤証人とかの言うようなこともあつた。或る地区においてはそれを否定するようないい所もあつた。こういうふうにお認めになりますか。
  498. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) いろいろと各証人から当時の状態について意見がありましたが、これについて自分の考えを申上げますと、入ソ当時将校共は、我々は敗戰ではない、停戰によつてソヴイエトに来たものである。従つて日本に帰るまでは軍隊編成のままでなければならない。軍隊は言うまでもなく天皇の命令によつて任命されたものであるからして、肩章を外すことはまかりならぬ。そうして上官の命令は如何なることでも服従しなければいかん。聊かでもこれに反する者は日本に帰つて軍法会議に付する。こういうような嚴しい規律が押し付けられ、そして又その上に彼らは小倉証人が言いましたように、我々にソヴイエトから定量で配給されておつたパン三百五十、雜穀四百五十、野菜八百、肉五十、魚七十五、砂糖十八、植物性の油が二十と、このようにカロリーにして大体二千八百から三千カロリーぐらいの給與が行われておりまして、これが当然我々に廻つて来るならば、どのような労働にも堪えられる健康を保障される筈でありますが、将校がこれを殆んどこまかしておつたわけです。そうして彼らはどういうことをやつてつたかというと、唄を歌う者だとか、或いは踊りを踊る者だとか、こういう者を将校室に集めて、そうして彼らは毎日作業に出ないで碁、麻雀に耽る。こういう娯楽に耽つて、そうして遊び暮らして贅沢三昧の生活をやつてつたわけです。こういう自分達の権力が崩れて行くがために、それを恐れるがために、我々の上にいろいろな強制をやつて来たわけであります。山本証人が言われたり、佐藤証人が言われたような事実があつたということは、これは知つておりますが、若しそういうあれを裏付けるとするならば、こういう事実によつて証明されなければならない。私はこのように考えます。で、シベリアから帰つて来た各地区状況を、皆さん調査されてよく御承知のように、民主運動が盛んな所は皆健康で帰つて来ます。そうして、吉村隊のような事件の起きた所においては極めて不健康な、そして何と言いますか、非然に気の毒な状態で帰つて来る。この一つの例を見ましても、如何にシベリアにおける民主運動が兵士達の生命を守るのに、必然の運動であつたかということが十分に頷けるのではないかと、かように考えます。
  499. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 高山証人発言中ですが、まだいろいろ聽かれるのですから、一応今天田委員から質問された要点だけ答えて頂きたい。
  500. 天田勝正

    ○天田勝正君 続いて伺いますが、そういたしますると、あなたは山本証人加藤証人の言うような事実があつた。ただその原因というものが、旧日本将校又それに準ずる幹部がやつたんだ。こういうふうに証言なさると理解してよろしいですか。
  501. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) そうでございます。
  502. 天田勝正

    ○天田勝正君 そう通りですね。
  503. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) はい。
  504. 天田勝正

    ○天田勝正君 そういたしますと、又そこに疑問が起きて参りますのは、さつきも言いましたように、二千八百カロリーと言えば、これは全員に渡らなければならない。人間の体力というものは、日本人で言えば二千四百カロリーぐらいが普通でありますけれども、これ以上超えて攝取すると言つても、人の三倍は取れないものである。初めの一日、二日は取れるけれども、五日、一週間となつて来るというと、今度は量の方が減つて事実は取れない。そこでそれが主として贅沢若しくは横流しと、こう言われるんだろうと思うのですね。自分が食べるということは、それはとても続いてなどできはしないのです。そこでこれらは、あの通りソ連はいわゆる計画経済の国で、そうしたものがどんどん横流しをされるルートがあるのかどうか、このことを伺います。
  505. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 只今申上げましたように、我々の民主運動が盛んになつて参りました後は、いろいろな天ぷら、或いはぼた餅だとか、そういう料理方面においては非常に豊富になりまして、皆から喜ばれたものです。ソヴイエトの幹部にこの責任を転嫁しておりますけれども、最初はいろいろと言葉が分らないし、幹部にすべての権限を委ねたというような状態で、こういう不正な行為を反動的な幹部がやつたわけであります。これをソヴイエトに流しておつたかという質問でありますが、そういう事実は一部にあつたかも知れませんが、全般としては、一週間に一回、或いは一ケ月に数回に亘つて政治部員、つまりコミサールと言つておりますが、この人が点検に来ますので、ソヴイエトの側においてはそういう不正は全然なかつたと、私は断言するものであります。
  506. 天田勝正

    ○天田勝正君 そうすると、あなたの御覽になつたところからすれば、すべてそれらは、十分の一くらいいるそれらの幹部が食つてしまつた、こういうふうに理解していいですか。
  507. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) そうです。幹部やそれから彼らの養つてつた暴力団とか、或いは反動的な下士官、こういうものが贅沢をするためにごまかしておつたということが言えます。
  508. 天田勝正

    ○天田勝正君 それらの比率は、総体の隊員から見まする場合に何%くらいですか。
  509. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 初期においては大体三〇%から四〇%を占めておつたと思います。下士官、暴力団、反動将校、こういうものを入れて大体力関係において三〇%から四〇%であつたと、このように考えます。一番悲惨な状態にあつたのは何にも言えない初年兵、それから満洲における応召者、こういう人達であります。
  510. 天田勝正

    ○天田勝正君 よろしい。そうなりますとあなたが、これを各地御自由に旅行されて見られたのであつたが、全部そういうような比率でありましたか。というのは外の隊でそういう横暴が行われる、行われないは別です。併し、幹部と隊員の比率がこのようでありましたか。
  511. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 大体コムソモリスクからハバロフスクの状態であります。特にハバロフスクから遠くに離れた地区においては、御承知のように吉村隊のように事件が、四十八年から九年においても行われたという例がありますから、それは一概に言えないと思います。運動の遅れえところ程ひどかつたということは、はつきり言えると思います。
  512. 天田勝正

    ○天田勝正君 それらの幹部諸君は病気になつた場合に、獸医にかからなければならなかつた程胃袋を食い拡げてしまつた、それ程食つたと、こういうことになるわけですね。
  513. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) それはどういう実態であつたか、いずれにしても現実はそういう状態であつたわけであります。
  514. 天田勝正

    ○天田勝正君 委員長ちよつと一人だけ……。山本証人に伺います。山本証人はお医者さんでありますし、この病気の問題については一番よく御承知だと思いますが、あなたはよその隊のそれらの、今高山さんがお話しになつたようなことについて、よその隊員のことについて聞くとか、或いは自分が見るとか、病院においてそうしたことを情報を集めたことがありますか。
  515. 山本昇

    証人(山本昇君) 只今質問がありましたが、私はそういうことは一度も聞いたことはありません。又幹部の非常に横暴なところがあつたという話は聞いております。私は十数ケ所廻つておりますけれども、そういうことをやつてつたのは、最後になつて民主委員というものが、盛んにそれをやつてつたということを私は事実を知つております。それから一番初に周りの者がやつたことは知つておりますけれども、全般の者がそうだつたということは絶対に言えないと思います。又例えば今言われたように、ここに千人の者があるとします。その中幹部が二十人……例えば百人あつたとします。それが一体何時間食えば、そういうふうな暖衣飽食を続けることができるか。それによつて残りの者が死ななければいかんような状態にまで、その連中が食い続けることができるかということが、大きな問題だと考えます。
  516. 天田勝正

    ○天田勝正君 ちよつと大事なことを聞き忘れたと思いますが、山本証人はずつと病院勤務でありましたでしようか、どうでありましようか。
  517. 山本昇

    証人(山本昇君) 私は大体ラーゲルにおける医務室の勤務、それから強制労働六ケ月、後に病院勤務をいたしました。
  518. 千田正

    千田正君 山本証人に伺いますが、最初入所の当時、ソ連側から配給されておつた医療、或いはそういう点がどうであつたかという点と、この概して医療設備の問題ですね、医療に対する配給、その他に対しては十分であつたかどうか。その点を伺いたいと思います。
  519. 山本昇

    証人(山本昇君) お答えします。医療設備でありますが、これは各分所共、大体その医務室という形は整えております。但し建物があるというだけで、内容は皆無であつたことは一番初め申しました。ある薬は何かというと、大体日本で二十年乃至三十年前の我々の親父が使つてつたようなチンキ類が二、三あつたというような状態であります。その後参りましたのは、ソ連からの薬で、ずつと見ましたのはノボカインとカンフル、これだけであります。あとは大体チエツコスロバキア、それからポーランド、それからアメリカの製品、これであります。あとは殆んど全部が日本のものであります。それでペニシリンはアメリカ製であります。それで補給状況はどうであるかと申しますと、先程申しましたように、初めは殆んどなかつた。それで将校、或いは兵、各人が持つてつてつたのを全部出し合わしてやつとやつと凌いでいた。それが大体六ケ月間そういう状況が続きました。その後は言えば持つて来る。それも全部今いつたような国々の品物でありました。それは十分どころか日本の医務室に比較いたしますと、あの三分の一程度であるというような状況であります。又医療機械となると、全くなかつたと言えます。
  520. 千田正

    千田正君 続いて、私これは非常に重大な問題でありますから、今までに述べられた証人方々にもはつきりして頂きたいと思います。先程強制労働、その他のために衰弱して死んで行つた。こういう話が、証言がありましたが、ジユネーヴの浮虜規定の第三十二條には、懲罰の手段として、労働條件の一切の加重を禁止するという條項があるのでありまして、先般吉村隊をやはりここで証言をして貰つた場合において、非常に吉村隊長証人の間を食違いがあつた。それは一方はソ連側の命令で強制労働を強いると言う。一方は吉村隊長の個人の考えで、隊員に対して強制労働を強いた。そうしてああした問題が起きた。このイエスかノーかという問題は、未だに明瞭に判決は下らない状況であります。併しながらこの問題は死亡の原因を探索した場合において、大きな問題として今後残されなければならない問題であるから、今まで証言された死亡の原因の一つとして、強制労働を課せられた、普通の労働以上の強制労働を課せられたために死亡して行つたというようなことが、これはソ連側の或いは命令によつてそういう労働を課せられた程度か。或いはソ連側の命令ではなくて、むしろそこの反動とか、或いは民主グループというものの一つのサゼツシヨンによつて、そういう労働を課せられたために、死亡して行つたというような事実があるとするならば、今一応証言をして頂きたい。これにつきましては小倉証人加藤証人加藤甚市証人、山本昇証人、この方々からそれはどつちであつたかということだけ、はつきりして頂きたいと思います。順次お伺いいたします。小倉証人から……。
  521. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 強制労働という問題が指摘されて来ましたが、強制労働に関する解釈は非常にむずかしいと思います。なぜならば、我々に課せられた作業量というものは、ソヴイエト人がやつておるノルマという基準量があります。その基準量に基いて我々に今日の仕事は、これだけをやつて貰いたいというふうに、ソヴイエト側から課せられました。併し我々はそれができるまであらゆる部隊は十時過になつても、十二時になつても、翌朝になつても、やらされたという……。
  522. 千田正

    千田正君 私の言つているのは基準量のことではない。懲罰の手段として労働が課せられたかどうかということであります。
  523. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 懲罰の手段ですか。
  524. 千田正

    千田正君 懲罰の手段として労働が課せられたとか、或いは何かやつた、惡いことをやつた。或いはそこにおいては惡いことではないでしようけれども、片つ方から見ると惡いことであつたということの手段として、懲罰労働を課せられたとかいうことであります。
  525. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 懲罰の手段として労働を課するということは絶対にありません。私の四ヶ年半の経験において、一つも見たことはありません。
  526. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) それはロシア側にあつたということを自分は申上げます。
  527. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) ロシア側において確かにやつております。自分は当時の大隊長をしておりました。やらせたソ連側の相手の将校はチエレワニ並びに收容所長リビオトカ、これは何十回に亘つてつております。八時間労働の外に更に十時間労働を課します。その外に休憩時間をなくしたということがあります。
  528. 山本昇

    証人(山本昇君) やつております。
  529. 千田正

    千田正君 どつちがありましたか。
  530. 山本昇

    証人(山本昇君) 強制労働をやらせております。
  531. 千田正

    千田正君 強制労働はソヴイエト側の命令でやつておるか、先般の例は吉対隊のように、隊長個人がそれを命令しておつて、隊員に懲罰の手段として労働を課したというような問題が起きて来ておるのでありますが、その点をはつきりして貰いたい。
  532. 山本昇

    証人(山本昇君) 吉村隊のことは知りませんが、要するにソ連側の所長或いは作業係の命令によつて、日本の大隊長或いはすべての者が動いております。当然ソ連側からやられておるということは言えます。
  533. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 小倉証人にお尋ねいたしますが、あなたが先程の証言中に、裸にして戸外に繋いで、そうして水をかけて朝までに凍らせたというような御発言がありました、御証言がありましたが、それはあなたがどこかで御覧になつたのですか、目撃されたのですか。
  534. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 私がナホトカ勤務をやつておりましたときに、ここに集つて来る多くの方々が、口々にどうかこの問題だけは日本に帰つて、全部の人に明らかにしてこの問題を知つて貰いたいと、書類或いは口頭を以て何百か何千か参りまして、私はこの席上でどうしてもこれを申上げなければならないという状態にあつたのであります。経過はそういう経過であります。
  535. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 それでは目撃なさつたわけではありませんね。
  536. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 初め目撃したのは村山、片成、この両人であります。現在東京におります。
  537. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 これは簡單でよろしうございますが、佐藤甚市証人、それから高山証人小倉証人、先程小倉証人、高山証人は、将校は非常な暖衣飽食をしておつたとか、或いは階級記章をつけておつたとか、そうして命令をしたとかというようなことを言われておつたのですが、このジユネーヴの国際法の第九條によりまして、将校は一般の兵隊とは違つて、階級記章及び勲章の佩用を許されておるわけです。そうしたことを佐藤甚市証人は、先程国際法のことを知つておると言つておられましたが、知つおられましたか。
  538. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 知つております。私は従つてナホトカに、最終集結地に来てまでも、階級章など一切佩用しておりました。尚收容所兵隊一緒にいる間においても佩用しております。
  539. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 分りました。
  540. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 尚一言附加えますが、先程の強制労働の追加の命令書というものは、モスクワから来ておるということを印刷物で見ております。チエレワニ中尉が自分のところに見えております。作業成績のノルマに達しない場合には更に二時間を延長することを得と、ロシア文でありますが、通訳もその通り訳しております。
  541. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 高山証人、今の国際法の問題を、階級章をつけている、或いはそうしたものを佩用しているということを知つておられたかどうか。
  542. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) それはよく知ておりました。これは又関東軍の……。
  543. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それはよろしい、知つておるかどうかを聞いておるのであります。
  544. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 知つております。
  545. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) よく知つております。
  546. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 高山証人に伺いますが、先程のお話を承わつておりますと、食糧はパンが三百十グラムその他で先ず二千八百カロリーから三千カロリーぐらいのものがあつた、そうしてそれを上層階級の人が或る部分私していたのだというお話でございましたが、抑留四年の間、食糧状況というものが初めからしましまで、やはりそういう定量が渡つていたのでございましようか、その点を伺います。
  547. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) ソヴイエト側の方からは收容所の幹部、即ち日本人の大隊長にこの定量は全部渡されておつたのであります。でありますから我々が帰る頃になつて、又民主グループ運動が勝利いたしましてからの給與というものは非常によくなつております。
  548. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 そこを伺つておるのであります。帰りの、あとになつてよくなつたということは、今までの皆さんから伺つておるのであります。先程のあなたの御証言によりますと、どうも初めからそういう配給があつて、そうして一部分の人が私していたというふうに聞こえたのであります。この点如何なのでございましよう。
  549. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) やはり将校を中心とする反動グループがこれをごまかして、彼等で上前をはねて食べておつた、これを事実であります。
  550. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 そうするとあなたのお答えは、初めからそれだけの定量が渡つていたということになるのでございますか。
  551. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) そうであります。それを幹部がごまかしておつたわけであります。
  552. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 今あなたは、おしまいになると大変給與がよくなつたとおつしやいました。それと今の御発言とはどういうことになるのですか。
  553. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) それは幹部が完全にそういうことができなくなつた、そうして民主運動が盛んになつた。不正が全然行われないで、皆に給與が正しく配給されたというところに原因があろうと思います。
  554. 千田正

    千田正君 高山証人に伺いますが、これはしばしば今までの証人喚問の機会に聽いておるのですが、それは終戰当時よりソヴィエトの国内の事情が非常に産業が復興して来て、段々食糧事情が好転した来たと同時に、ソヴイエトの人達も捕虜もそこに区別のないように配給が行われて来たので、漸次それが上昇して来ると同時に、下部の者に対しての食糧も非常によくなつたということが分つた。ところが今のお話だと、初めから相当の量が配給されておつたにも拘わらず、一部の将校或いは反動分子がそれを横取りしたために惡かつたが、途中からそういうことがなくなつて、そうして十分配給されて来たというのは大分食違いがあるので、むしろ今までの、我々が長い間の調査によると、ソヴイエト国内の産業が日に日に増進して来たために、各收容所によけるところの人達のあらゆる面において待遇がよくなつて来た、希望を持てるようになつたというのが多くの証言であつたのでありますが、この点は我々が今まで聽いておるのと大分食違いがあるので、その点をはつきり承わりたいのであります。
  555. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) ソヴイエトからの給與規定というものは大体最初からしまいまで同じであります。ただソヴイエトの偉大なる工業力の発展によつて非常に物が豊富になりました。各分所内にも、マガジンだとかレストランというものが設けられて参りました。給與がよくなると同時にそういうものが設けられ、そうしてこれが兵士大衆の手によつて運営されていた。よく真面目に働く者は俸給を貰いました。それを利用することができましたし、相当贅沢な生活が保障されておつたわけであります。その点において問題をよくお考え頂くならば極めて明瞭ではないか、このように考えるのであります。
  556. 天田勝正

    ○天田勝正君 それは、あなたはどういうお考えで明瞭だとおつしやるか知れないが、我々は特別なそうしたレストランによつて食べるという制度か何か、そういうことは知りません。併し問題は定量にあるのです。いいですか、その定量が今までの証人の喚問や今日の他の人の証言によりましても徐々によくなつて来た、こういうことを言われておる。その原因についてはいろいろ証人々々によつて理由があります。けれども徐々によくなつて来たということは殆んど一致して来たが、あなたの場合はその定量がずつて初めから同じように給與されて来た。ただそれが少いのは途中で掻つ拂われておつたからだ、こういう御発言だからそれが非常に他の人と違いはしませんか、こういうことを言つておるのです、各委員は……その点はどうです。
  557. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) それはやはり徐々に量を増して来たのではありません。最初から大体パンは三百五十、雑穀は四百、一応四十六年の旱魃のとき若干一、二ケ月減らされたこともあるかとも思いますが、定量には全然狂いがなかつたと思います。私はそのような給與を受けて来ました。各地を見て参りましたけれども、この給與には全然変りがなかつたのであります。将校がこれをごまかしておつたのであります。若しそういうことが段々に殖えて来たという者があつたとするならば、その証言は極めて不明瞭なものであります。過ちであると、私はこのように考えます。ソヴイエトの給與規定というものは私が入りましてから、直ちに分所の状態を調べたのでありまするが、これは最初からそういう規定でありましたし、それを受けてやつた筈であります。
  558. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと証人に御注意申上げて置きますが、冒頭にも注意してあります通りに、当委員会には今までいろいろな証言もありますし、その証言等と食違うという点等については非常に問題を残して行きますので、宣誓の通りに真実を述べて頂くということに十分注意して頂きたいと思うのであります。
  559. 天田勝正

    ○天田勝正君 高山証人に重ねて伺いますが、あなたは給與規定というお話をされますけれども、この給與規定のことについては、今までの証人もそのようだと大体言うておるのです。併し給與規定の問題と実際の給與と、これは別に考えなければならない、そこで実際の給與においては初めの中は、さつき山本証人が言われましたように、時によつては大豆粕ばかりが三十日続く、こういうことがあつたとそれぞれ申されておるのであります。例はそれぞれ違いますが、併しとにかくこういう差があつたということを申されております。ところがあなたの場合では初めからさつき申されました基準量というものがずつとあつと、そうするとこういうことになるのです、山本証人のおつしやるように、高梁と大豆粕ばかりで一ケ月と続くということになりますると、その間砂糖もタバコも、或いは油も、こういうようなものは一切、その二割か三割の幹部が挙げて食つてしまう、こういうことは恐らく人間業ではとてもできないと思うのです。我々の常識からすれば……。そういうことについて何かお考え違いであつて、それはやはり初めの方は惡くて、段々良くなつてつたと、その良くなつてつたのがただレストランばかりどいうことでなしに、一般的にそう良くなつてつたのだと、こういうふうにお認めになりませんか。
  560. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 今天田さんの方から言われましたが、ソヴイエトの方で規定された給與、これを受取らないとか、いろいろの問題が提起されておりますが、勿論山奧でそういう不便極まる所で、輸送なんか困難な所では、或いはそれが変更になつたことがあるかも知れませんが、必ずこれは加配して分配されたわけです。又野菜がない場合には雑穀に換算されて配給されるとか或いは生野菜がない場合には乾燥野菜で配給されるとか、必ず何等かの方法によつて給與規定に基く配給というものは、終給一貫行われております。
  561. 千田正

    千田正君 これは高山証人でかりでなく他の証人にも伺いたいのですが、これは重大なる問題であるということは、あなた方の曾ての同志と称せられる方々が帰つて来て、そうして我々の証人喚問の際、こういうことを言つています。ソ連の人達は非常に親切で何等日本人に分け隔てがなかつた、捕虜に対しても分け隔てがなくて、初めはいわゆね戰後におけるソ連の復興状況が誠に遅々として進まなかつたから、捕虜と同じようなものを皆食つてつた、段々回復するに従つてすべて、捕虜に対してもいわゆる国民と同じように、人民と同じようなものを食わして呉れた。我々はそのお陰でこうして丈夫に帰つて来られた、ソ連が復興をしたお陰で我々は丈夫になつたつて来た、定量はなかつたかも知れない、或いはまずいものを食わされたかも知れないが、捕虜とソ連の人民と、区別しないで食わしたから我々はそういうことに感謝して帰つて来た。こういうことをあなた方の同志はこの席上で証言されたのです。併しながらあなたのおつしやることは、定置を初め與えられておつたけれども、幹部が横取したために、うまいものを食わせなかつた。後でなくなつたから食べられなくなつたということになると、今ソ連の人民に対して我々が考えておる国民性というものに対して、我々は新たに疑問を持つて来る。そこであなた方の証言というものは、正しい判断をして貰わないというと、今後の問題に大きな影響を及ぼしますから、先程から食違いがあるのじやないかということを、各委員から質問しておるのです。そこで私は小倉証人に伺います。今私が述べた点におきまして、先程高山証人から、初めから定量を與えておつたのだ、ところが途中から反動分子或いは将校達が横取りをしなくなつたから、配給がよくなつて来たのだ。初めから定量であるというと、私が今まで多くの他の証人から聞いておるあなた方の同志と称する人達から聞いておつたところのソ連の人民の考えは、国境はないのだ、我々人民も同じ人達として待遇しておつたのだ、それがソ連の復興によつた段々皆さんの口にも我々の口にも、こうした平等無差別の食糧を與えるようにないのだというのとは、大分差がありますが、いずれであつたかということについて、あなたから伺いたい。
  562. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 根本的に高山証人の言と同じ意見を持つております。そうしてこれを敢て補足すれば……これは非常に重要な問題ですからもう少し真劍に願います。これは非常に遠いところにあつた場合には高山証人が言われたように、吹雪のために自動車が行かなかつたという場合には、その品物は届かなかつた場合がこれは全然なかつたというのではない。これはあるのです。その来なかつた分は次のやつに加算して配給になるか、或いはその品物がなかつた場合には別に何かと喚算して、いずれにしろ定量に満たして配給になるということを高山証人は言われておる、ですからその品物の質がいつも同じように米なら米、麦なら麦というように、きつちりとなるということは誰も言つておらない。勿論若干の差はあつたけれども定量だけは渡るようになつたということを、証言しておるわけであります。
  563. 天田勝正

    ○天田勝正君 ますます分らない。私は極く具体的に申上げますが、これは小倉証人でも高山証人でもいずれでもいいのです。というのはさつき山本証人その外の人達が食えるものはあらゆるものを食つた、こういうことを言つておる。伊達や醉狂で恐らく草の根を食い盡したり、蛙を食うということは、余程の物好きでなければないと思いますが、これらのものがそういう状態に置かれておつた。あなた方の証言はそういうことでなしに、定量が與えられておるということになると、それらの人達が言うておることは、たわ言か、或いは何か物好きで、そういうものを食つたというようにあなた方は理解されるか、これが一点、もう一つ具体的なことはさつきの山本証言のように、高梁とか大豆粕が続いて来たのだとすれば、その間におけるところの砂糖だとか油だとか、こういうような高級食料、これらは挙げて一部の人が食つてしまうか、横流しをするか二通りしかないと思います。横流しについては、ソ連のあの計画経済の国で、あなた方がおつしやるように極めて完備した国である、こういうことになると、その横流しがないと、こういうことを証言されておる。一体その辻褄がどうしてもそのところで合わない。これが人間が馬や牛のように大量食えるならとにかくさつきも私言うように、一回や二回は食えるが、栄養価の高いものを食えば必ず量が減つて来て、人の三倍とは決して食えるものではない。このことからも常識的に食違いが起きて来るのではないか、こういうことであなた方の同志諸君も、千田委員の言うように段々上つて来たということを言つておられるし、他の人もそう言つておられるので、根本的でも根本的でなくとも、そういう状態はなかつたかどうか、この二点を伺います。
  564. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 関東軍の終戰当時命令が全然第一線に伝達されないで、我々は全く山の中を毎日のように行軍し続けて行つてわけです。樹海の中を私達は二十日ぐらい歩いたと思いますが、その間食物というものは殆んど馬の肉と野葡萄の葉ばかりだつたのです。そういうような状態で、ソヴイエトに入つた時には大分皆が食糧の問題で困つてつてということが言えると思います。従つて、ソヴイエトから定量が配給されても、将校にごまかされる、皆非常に腹を空かしておる、そういうような状況下にあつて、特に奥地不便なところにおいて、送輸が跡絶えるというような所においては、或いは蛙を食つたり、蛇を食つたところがあるかも知れません。我々はこれを決して否定するものではありませんが、要するに定量が全然我々の手に渡らなかつた。それを毎日全部ごまかしたかというと、そうではないのです。或いは二割か三割の、或いは一割か、それは各收容所によつておのおの異なると思いますが、いずれにしても相当量幹部がごまかしておつた、これが漸次皆の自覚意識の高揚と共に、不正を許さないというような状態に立帰つて、民主運動を正しく展開することによつて解決して行つたものであることは、この点をはつきり理解して頂くならば、十分に賢明な委員の皆様にはよく了解して頂けると、このように考えます。漸次量を増して行つたんだと、ソヴイエトが量を増して行つたのだという見解は全然誤りであります。最初から給與規定に基いて配給されておりました。
  565. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 入ソ当時において、敗戰中の非常な疲労と、食に対する餓鬼のような気持になつて、人格も道徳も皆滅茶々々になつたというような状態で入つたということはすでに御承知の筈ですから、そのときに入ソしたばかりの一般の……私自身もそうです。どんなにか物を食べるということに対して、血眼になつてつたかということは、その通りです。その当時私もやはり配給の食物の外に食べたかつた一人であることは間違いはありません。そのようなときに、更に配給になつたものが確実に我々の手に渡らずして、そうして将校の幹部、勿論将校と言つても全部の将校ではないのですが、この将校の一部を中心とする軍国主義的な連中が躍動したということは、果して一般の兵士達がどのくらい足らなく感失るでしようか。実際において私達はそういう中をくぐつて来ました。だから決して殖したのではなくて、最初から與えられておつたのであります。
  566. 千田正

    千田正君 定量ということは、これは勿論ソヴイエトとしては間違いなく渡したのでしよう、それは我々も十分よく分りますが、その定量が途中で或いは将校団とか、或いはその他の幹部において横取りされたために不足に渡つたという事実はあつたと思います。いろいろそういう事実も聞いております。ただその定量そのもの以上に、ソヴイエトの人民があなた方に対して温かい気持を徐々に注いで来たということを、あなた方は否定しておるように我々は聞える。それはさつき高山証人の言うのは、最初二千五百カロリーなら二千五百カロリーであつて、最後まで二千五百カロリーであつたということになると、日本人であろうと、ドイツ人であろうと、いわゆるソヴイエトの人民が皆温かい気持で、あなた方を同一に扱つておるのだという今までのあなた方の同志の証言というものは、ここの覆らなければならん。そこであなた方の答えは非常に重大問題になつて来たものと私は思います。ソヴイエトに対する考え方は、我々が今まで聞いていた問題と、あなた方の答えによると、捕虜に対する待遇という問題に対してはここに大きな矛盾が生じて来ておる。でありますから、正確にあなた方がそう思つておるならば、今までのあなた方の同志のここで証言されたことに対して、ソヴイエトの日本の捕虜に対する考え方、或いは食糧その他を通じて、ソヴイエトの人民の温かい気持というものは、そこになかつたという結論になりますが、それでよろしいですか。
  567. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 定量の問題と、それからソヴイエトの民族的な差別の問題で、問題を提起されておられるようでありますが、ソヴイエトは如何なる状態に下にあつても、我々に対する民族的な差別、人種的な偏見というものは全然ありませんでした。四六年はウクライナ地方が非常に旱魃で困難な状況でありました。地方人の人達もマガジンの前に並ぶ、こういうような状態の下にあつても、捕虜に不自由さしてはいかないと、特別な配慮によつて定量、或いは一、二ケ月若干定量より下つたことはあるように記憶いたしますけれども、それは直ちに改善されて、ずつと定量が我々には支給されました。この点については、如何なる反動的な人達もソヴイエトの温かい配慮に対しては感激したものです。それから我々に対する特別の配慮、これはマガジン或いはレストラン等の開設についても、收容所幹部があらゆる援助をして呉れました。物的な精神的な極めて絶大な援助が行われました。このように我々は、ソヴイエトにおいては何らの人種的な偏見も、民族的な差別をも受けることなく、本当に朗らかにやつて来ました。定量とは全然問題が異なりますから、問題をよく分けて御理解を願えば、よく理解できると思います。
  568. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと各委員にお諮りいたしますが、まだ今の問題はいろいろ御意見もあることかと思いまするので、一番最後に総括事項のところで尚御質問を頂くことにいたしまして、まだ外に時間の関係上、証言を求めなければならない事項が多少残つておりますので、御了解を得ますならば第五の項目に入りたいと思うのですが、御異議ございませんか……ちよつて速記を止めて。    〔速記中止〕
  569. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 速記を始めて。  それでは一応今の問題は留保いたしまして、最後の総括事項のところで質問して頂くことにして、第五の終戰後樺太で処刑された者の状況の項について、水野証人証言を求めたいと思いますが、御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  570. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 委員長から水野証人証言を求めます。  先ず水野証人がどういう理由で樺太からシベリア地区に送られ、そうして特にマーガジンニ及びヘンガンチヤ地区へ送られて、それから後いわゆる滿刑の処置を受けて、そうして帰つて来られるまでの経緯と、並びにあなたと一緒に行かれた、一緒に送られたというような人達の状況と、樺太の状況等について、御承知になつておられる範囲において御証言を願います。水野証人ちよつとお待ちを願います。先程委員長からヘンガンチヤ地区と申上げましたが、訂正いたします。  水野証人がいわゆる滿刑になりましてから、セルダニヤ地区に送られる間の事情並びに今回帰つて来られた経緯について述べて頂きます。
  571. 水野等

    証人(水野等君) 私は昭和二十一年の九月の十一日に、ソ連側の将校三人、兵士三十名位で鮮人の密告によりまして、物を持つているというような、物を隠匿しているというようなことで、そして家宅捜索を受けて、その結果二年の刑を豊原裁判所で受けました。余り長くなりますから省略しますか。そういうところは……。
  572. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 水野証人に申上げますが、多少その間の事情、詳しく説明を願いたいと思います。
  573. 水野等

    証人(水野等君) そうですか。その鮮人と私と少々仲違いの結果、密告をしまして、そうしてソ連はその密告した通りの……。
  574. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと発言中ですが、証人の樺太におきまする仕事について……。
  575. 水野等

    証人(水野等君) 仕事は私は商人でありまして、百貨店事業、或いは海産商、或いは料理店というような営業をいたしておりました。そうしまして、非常に密告の数が、厖大な密告でありまして、お前は物を隠しているからというので、家宅捜索を受けました。そうしまして調べた結果、向うの思うようなことは十分の一もないのです。それを自動車に積んで運んでしまつて、私の身柄を豊原のもとの裁判所に、日本の時の裁判所に連れて行かれた、そうしてこの密告に、金を五十万円ぐらす隠匿している、米は五十俵位隠匿している、糧食その他は五十個位柳行李にに隠匿されている、それを白状すれば帰してやるというようなことを三ヶ月くらいも尋問したのです。八ヶ月位ですか。それから私はないものは決して白状できんと言いましたら、二ヶ年という刑が科せられました。その時に私は日本ではこういうことは刑にならないぞと言いましたら、それは日本ではならぬか知らぬが、ソ連の刑法であるから強制労働を二ヶ年、どうも私も仕方がないから控訴権はありませんかと言いましたら、控訴権はある、五日間以内に控訴せよと言いましたから私は老人でもあるし、眼鏡もないし、字も書けませんから、その当時一緒にいた郵便局の山本という人に代筆を頼んで控訴をした。それが十一月の七日でありまして、レーニンの祝日で非常に混雑をしておりましたから、五日間の期限が切れれば控訴期間がなくなるというので、心配して再三請求しました。官廳はそうしたらよいといつて返事をしておりまして、遂に七、八日経つてしまつた。そうしてちよつと後先になりましたが、刑を受けましたのが十一月の五日の日です。それで到頭十日になりまして、私が又尋ねましたら、それで控訴になつておるといつて十五日になりまして、お前は今度未決から出て既決に決まつたから働かなければならんといつて、裁判所から一里ばかり離れたところの労働刑務所に送られることになりました。そうして私は控訴はどうなりますかと聞きましたら、控訴はお前はもう期間が切れておるから無効だ、こう言いますので、これは期限が切れておる、無効であるという。そんなものは効力が切れました。こういうことで一里ばかり離れておるところの刑務所に送られました。そうして止むを得ませんから、刑を勤めるつもりで、そうしてその年の、二十一年の十二月の三十一日の三時頃に、お前は今度ロシヤを送るのだ、こういつて来ましたから、もう仕方がありませんから、それから元の裁判所に三時から移りまして、その夜中の二時頃に百二十名ばかりの隊伍となりまして、そうして大泊から一日の朝に乘船することになつたのであります。そうしましてそのときの私のことだけ申しますと、そのときの乘船した主な人名だけ述べましようか。
  576. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 何名ですか。
  577. 水野等

    証人(水野等君) 百二十名ぐらいです。
  578. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 全部知つておりますか。
  579. 水野等

    証人(水野等君) 一人か二人ぐらいして記憶がありません。
  580. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 知つておられるだけお願いします。
  581. 水野等

    証人(水野等君) そのときに乘船しましたのが筑柴参謀大佐、それから中村という人がロシアの国境に、元警察の署長さんで中村という人が翼賛会、何会というか確かあつたのですが……戰争に協力する青年行動隊のようなもの、あなたの方で調べて見れば分かると思いますが、その人と佐藤三之助、この人は死刑の人です。それからまあそんなものですね、覚えているのは……。そのお方と私らと同勢で行きまして、その人の刑の処分はみなん覚えておりますが、それを申上げますか。
  582. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 知つておる範囲で……。
  583. 水野等

    証人(水野等君) 筑柴参謀大佐は死刑の宣告を受けられましたけれども二十五年、それから中村さんは本籍は北海道の天塩国中川郡豊平という所でありますが、その人は死刑の宣告を受けました。それから佐藤三之助さんという人は私と同じで二年です。そうしてこの一行と一月の初め五晝夜かかりまして、大泊から一日の日に出まして、ウラじオに五日の日に上陸しました。それから今のナホトカという所、今度急に出て来ましたナホトカにやられたのです。ナホトカに一月の二十九日までおりまして、二十九日からイズベストですが、どうも年寄りだから若干言葉が分らないのですが、イズベストという所ですが、そこはハバロフスクから七八十里奥の所でありまして、そこからウルガルという所があります。ちよつて間違いました。その前にハバロフスクへやられた、ハバロフスクへ行つてそこに二十日間おりまして、それからイズベストに行きました。イズベストヘ行きまして、そうしてウルガルという所は鉄道で八十里ぐらい行きまして、それから又五十里ぐらい山奥に行つた鉄道の開発工事であります。トンネルなんかを掘つておるのであります。その際に沿海州の方から廻つて来た日本の軍人、滿洲から、樺太から来た地方人、合計百八十名ばかりの人が来て三百名となつて、中それはナホトカで三百になつたのです。ハバロフスクに来る前に、……そうして百八十名ばかりが沿海洲に、一月一十日の日に沿海洲に砂金掘りに行つたのです。自分らと筑柴参謀、中村というような連中は検査が通らんために、二十六名体が惡いために砂金掘りに行かなかつたのです。そうして筑紫参謀や中村さんは確かハバロフスクの方に別れちまつた。そのイズベストという所に我々が行つたらば又後から沿海州の方から廻した人間が五六十人で、イズベストに百二十名ばかりの団体が来て……大変前後して申訳ありません。そうしてそこからナホトカ六百三というラーゲル名前の所であります。そこへ行きまして、三月十日の日であります。十日に行きまして、そこで病気をしまして、病院へ出たり入つたりして、そこで死亡した人間が百二十名ばかりの中で二十名ばかりであります。死亡した人間名前を申上げますか、どうしますか。
  584. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 何名いるんですか。
  585. 水野等

    証人(水野等君) 二十名ばかりです。
  586. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 記憶しておりますか。
  587. 水野等

    証人(水野等君) 記憶しているのは五、六人おります。名前を申上げますか。その月日は省略しますか、申上げますか。覚えておる者もあります。
  588. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 名前だけとにかく述べて下さい
  589. 水野等

    証人(水野等君) これは函館の日魯漁業の千島の工場課長の太田という人が五十八條の刑で十年の刑を受けて、その人は二十三年の二月に死んでおります。年齢は五十七歳であります。それから日魯漁業の営業部長をしておりました幾田という方が、これは二十二年の十一月の二十日頃に死んでおります。それから佐藤三之助というのは二十二年の八月に死んでおります。熊本という人は九月頃に死んでおります。このくらいで外に記憶ありません。あと記憶はない。皆名前は忘れてしまいました。そうしてこの六百一というところから、七月の三十一日までおりましてその年の七月三十一日から六百一に下りました。全部その時分に日本人は一人残らず、朝鮮人も残らずおりました、六百一に……。六百一に一月の三十一日から翌年の昭和二十四年の一月五日までおりました。二十四年の一月五日までおつて、そうして元のイズベストは病人というので日本人十七名、ロシヤ人三十名がそこで一月九日にイズベスト、そこの所へ入院したのです、病気のために……。そうしてそこで入院しておる内に、五月の一日までそこにおりました。おりましたらハバロフスクの裁判所の大佐級のお方が五六人来て、そうして、お前たちは刑も軽い罪名であるし、今度釈放するというので、釈放命令が出ました。その間は一ケ年と七ケ月勤めました。そうして五月の一日の釈放になつたのです。釈放になりまして還してくれると思つていたら、その日の内に、お前たちはこれから中央アジアのタスケントというところに行くのだ、そう言うのです。二年勤めれば還して貰うという約束の下に勤めたのだから、樺太まででもいいから還して貰いたいと言うても、お前たちはもう還れない、ロシヤの人になつたのだと、こう言いますから、そのとき、五人の日本人が放免になつた。五人の名前は覚えておりますが、申上げますか。
  590. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 言つて下さい。
  591. 水野等

    証人(水野等君) 申上げます。私水野等に、山本有常、それから手塚、それから大野、三國、これで五名になりますが、五名釈放になりまして、私がそのときに、樺太まででもいいから帰して貰いたい、樺太もあなたの領地であるから樺太まででも帰して貰いたいと言つたら、どうしてもお前達は帰すことはできないと言いますから、そんならどこへやると言つたら、タスケントへ行けと言うので、切符を向うで買いまして、そうして十日分の一日五百グラムのパンと、それから鱒を一匹と砂糖を三百グラムばかり持たして、幾日かかると言つたら十日かかると言いますので、五百グラムぐらいでは食えんと思つたがしようがない、それで銭を二十一円貰いました。そうして二日の日にそこを五人で汽車に乘つてつた。タスケントへは丁度十六日間かかつてつたんです。
  592. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 二十一ルーブルですね。円というのは。
  593. 水野等

    証人(水野等君) 今言う五月一日に出て、十七日の日にタスケントに……。
  594. 岡元義人

    委員長岡元義人君) お金です。
  595. 水野等

    証人(水野等君) お金は二十一ルーブル、円といいましたが……。そうして行つたものですから、途中の間五キロのパンですから、我々日本人として一キロ食わなければ足らん。スープも何もない。おつゆがないから、それで二日位で食つてしまつた。そうして行きましたら、四人の者と私一人離れておりましたから、私一人、皆が芋を買つてつたり、漬物を食つているから、どうしたんだと聞いたら、出るてきに肌着とワイシヤツを売つてつた。私は年をとつておりましたから、困つたな、私も売らんならん。雪がありましたが、表に、一日汽車が止まるということになつて、そうして出ましたら、乞食がおりました。パンを買つてくれといつたから、買つてもいいと言いましたら、乞食でありました。私もここに乞食というものがいるということを始めて気がつき、自分もはずかしい話だが、乞食の真似をした。そうしたら大変貰つて、二キロ貰つて友達に話したら、友達もそうやつて二キロ貰つたのでした。そうすると汽車が出ることになつたから、汽車が出て、そうして又行くと、七八日行くと、又一日休む。又乞食をしてそうして貰つて、タスケントの十五キロばかり向うのセルダニヤという三千戸ばかりある村に着きました。そのときにイズベストを通り、セルダニヤという所の、日本で言いますと役場です。そこへ行つてパスポート、日本で言いますと身分証明書を一名づづ持つておりますから、それを持つて役場へ行つた。そうしたら私ら年寄りと病人ばかりでありますから、收容してくれるものと思つたら、これから農場へ行つて働けと言いますし、私はどうせ年も六十三歳でありますから、働けませんと言いましたが、とにかく行けと言いましたから、朝鮮部落のスダルヤという農場へ行きました。そこには朝鮮人ばかりおつた。そうしたら朝鮮人は白く、お前達は働けるかと言いますから、私は働けんと言つた。働いたら一日粉を一キロ、それから油脂を絞つた粕を三合か四合やる。それから煙草も配給がない、それから油も配給がないと言う、塩はないと言つたので、私は煙草は飲まんから差支ないが、後の人は皆非常に嘆いた。そうして勘定は銭はくれるかと言つたら、銭は来年の一月の勘定をいうのです。私はもうそれで働けんからここに辛抱はできんと言つた。併し三日ばかりおつて行きまして、あなた方はパンをくれなければ食えないから私は行きますといつて、二十一日の日であつたが、自動車が表を通つたから、自動車に乘つて以前のセルダニヤの役場へ行つて、働かなければパンをくれんというので、働けんし、私は仕方がないから、どこか收容所に入れてくれと言つたら、惡いことをせんから收容所に入れるわけにはいかんと言つた。そんなら乞食をして食つてもいいかと言つたら乞食をして食つても仕方がないと言うので、又乞食をした。そうしたら山本という人も、僕も血圧が百二十も上つて、目が廻つて仕方がないからと言つて来た。そうして私共は袋へ入つたパンを貰つた。乞食をした。そうしたら、又役場から呼びに来た。お前達は今度は、楽な所へ行くからと、楽な百姓の所へ行つた。そこも勤まらんから、その町で乞食をした。そうしたならば、六月の丁度三十日頃になつたら、そこの親切な女の中尉がおりまして、それからそこの役場の日本でいうと村長、向うでは少佐、少佐が、お前達は帰れるから、もう一ケ月が十五日で帰れるから、もう一遍百姓になれ、こう言うので、又三十五里ばかりある所へ行つたが、そこも勤まらんから帰つた。又役場へ行つたら、役場の言うには、タスケントへ行けば帰れるから、タスケントの役場にパスポートを書いてやるから、タスケントという所は百五十万乃至二百万ばかりある都会です。そこへ来た。来て、役場へようようたつてつて話したら、一ケ月ぐらいたてば帰れるから、一ケ月どつかへ行つて来い。そう言うものだから、行こうか。行つたつて勤まらんから、行つても仕様がないから、仕方がない。二人で行く位置を決めましたところが、ユージニア、カサスタンドというような名前、キリヤースとか何とか言いましたが、そこへ何里あるか。三百里ある。どちらの方へ三百里あるかと言つたら、モスコーに向つて三百里ある。今度は汽車に乘る銭がないと言つたら、どつかへ行つてつて来いと言つたから、仕方がないから、タスケントの鉄道局へ行つて交渉した。こういうわけで、行きたいが、銭がないから、ただ乘せてくれと言つたら、中尉か大尉がおれらには分らんからと言うので、駅長の偉い人に話した。そうしたらその時分には、髪はぼうぼうになつて、丁度北海道のアイヌのような伸び方になつてしまつた。体は、野原で毎日寢ているから、寢る所は、あつちでは泥棒の用心をするから、軒下へ行つて寢られない。松の木の下やら、下水の中へ行つて寢る。それでも気持が太くなつているから、偉い人の所へ二回会いに行つたが、どうしてもいない時ばかりで、いれば会つてくれるが、いない。そこへ三日ばかりして、あつちの停車場へ行けば会つてくれるというので、又行つたが、会つてくれない。そのうちに全部お金がなくなつたから、薩摩芋をやろうじやないかというので、ただ乘りがはやりまして、夜になつて構内に忍び込むにも、相当大きな都市だから忍び込めないが、ようやく一里も廻つて忍び込んで、汽車の裏の方に隠れて、夜分出発する時に乘つて、三百里ある所を目がけて出かけた。その後六十里ばかり行つたら見付かつて、降されて、仕方がないから一晩泊つて、明日乘ろう、寒いからというので、その晩木の下へ寢つてつたら、泥棒の乞食が来て、二人共パンを取られた。翌る日パンなしになつた。腹が減つて仕様がないから、もう一度乞食をしよう、パンを取られて、もう仕方がないから、粉を入れる一枚の綿袋を拵えて、そうしてその町で又貰つて、その晩のうちに行つた。で、ようよう五十里ばかり行つたら又見付かつて降された。夜の十二時頃降されて、丁度そこは惡くて、工場地帶で劍付鉄砲の兵隊が、五、六人いて、お前達はずるいからと言つて劍付鉄砲を突き付けられて、いや、おれはそうではない。この通り証明書を持つておる。銭がないから乘つたのだと言つたら、許すから行けというわけで、六人に追われて停車場の構内を行つたけれドも、真暗で、そこは工場の、日本でも見られんような大きな工場なんです。何とかして、奴が行つたら乘ろうじやないかというので、そいつが向うに行つたから、又こそこそ出て来て又そのユージニアのカンクスという方に向つてつて、五十里程行つたらとても風が強くて雰き飛ばされそうになり、上り口に腰かけているものだから、もうこれはとてもかなわないから、ほこりが眼に入つてしようがないから降りようじやないかと言つて降りて、夜明けまで降りていたら、丁度朝になつた。十キロ程向うに歩哨の付いた人が三十名ばかりおりました。或る日本兵がお前達はどうしたかと言う。こうこうこういうわけでありますと言いましたら、これは捕虜に、私共はユージニアのカンクスという所に行く、キリヤースという所に行くところだと言つたら、方向が違う、反対の、さかさまの方に行つている、そういうことになつて、それは大変だ、困つたなというので、そんな馬鹿くさいことはないから戻ろうじやないかというので、元のタスケントの方に戻つた。夜になるのを待つて汽車に乘つてつたら、又途中で山本有常は降されてしまつた。私は年寄のために可哀そうだというので、汽車の中に入れて呉れて、そうしてタスケントまで来てしまつたが、山本有常は若いためにそこで降されてしまつた。私はそこでしようがないから役場に行かないで乞食するというので私は乞食しておつた。そうしたら、そうこうしておるうちに七月の月になつてしまつた。歩いておるうちに七月になつてから、七月の二十日頃から病気して寢ておつた。その間に貰つた金が百円ばかり溜まつてつたから、砂糖を買つて食べたり、白いパンを食べたりして、そうしたら丁度七月の三十日の日に、日曜に当りまして、兵隊が二十人ばかり通つていた。そこの靴屋の家の良い友達ができまして、それが非常に惠んでくれまして、公園に日本兵が通るから出て見ようというので、飛んで行つて見た。二十間程離れたところに日本兵がいて、どういうわけでおじいさん来たのか、こうこうこういうわけで、今わしらはハシト劇場の見学に通つて行くわけだから、帰りに寄るから待つておれというので、待つてつたら三時頃戻つて来た。そうしてこの人間をこうした置けば死んでしまうから連れて行け。第一サンギリという所へ連れて行つた。サンギリというのは收容所ですね、收容所に連れて行つて、連れて来た歩哨に聞いたら、連れて行つてもいいというので、私は歩けないから兵隊を一人つけて、電車に乘つて司令部の、そこの收容所に連れて行つてつて、その晩入れられて翌三十一日の日にそこに身体をすつかり検査して入れて貰つた。そうして兵隊と同様に扱つて、まあ帰れるようになつた次第であります。それもありますけれども、それで……。
  596. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 各委員にお諮りいたします。時間が六時を過ぎましたので、約七時まで休憩いたしたいと思います。御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  597. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 七時まで休憩いたします。    午後六時十五分休憩    —————・—————    午後七時十八分開会
  598. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 休憩前に引続き委員会只今より開会いたします。この際各委員にお諮りいたしたいと思いますが、非常に時間を経過いたしておりますので、只今休憩前に水野証人証言を求めたのでありますが、水野証人証言に対する一応委員より質問がありましたら質問をして頂きまして、次の六の項は明日の補足証言によつて補うことにいたしまして、七と八をば一括証言を求めることにいたしまして御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  599. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それではさように決定いたします。  水野証人に一二点伺つて置きたいことがあります。先程の証言の中で六〇一收容所という証言がありましたが、六〇一、六〇二、六〇三というのは、囚人の收容所はこういう工合になつておるのかどうか、その点を明らかにして頂きたいと思います。そのあなたが立たれたときにどの程度の者が残つてつたかということもこの際御証言を願います。
  600. 水野等

    証人(水野等君) 申上げます。あちらでは日本の刑務所のことをチユリマと言つております。六〇三というのは一番奧なんであります。それから三里下つた所を六〇一と言いまして、それから四里下つたところを六〇二と言います。それで順序としますと六〇一、六〇二、六〇三と行かなければならないのですが、向うの番号の付け方が、後からできたのか先にできたのか分りませんが、六〇三が一番奧なんであります。イズヴエストコーバカヤの方から自動車で行きますと、六〇一というのに最初行きまして、今度三里下つた病院と刑務所とのある、その附近の囚人を全部集中する病院がそこにあります。そこに患者を全部收容する大きな病院がありまして、そのときに私が六〇一から二十三年の一月五日に立つ時分には、まだ日本人は死んだ残りが百名くらいおりました。百名のうち十七立つたから、八十四五その六〇一という所に残つております。そのうちに、十七名残つたうちに、生存しておられる人が三名と申上げてよいと思いますが、三名の名前は覚えております。それは米沢の人で足川という人です。上杉家の前の家の人でありまして、足川、これは樺太の製糖会社の工場課長です。その人の刑は三年です。イズヴエストコーバカヤには十七名おりました。それから小野寺幸一といつてこれはノシロの支庁長をしておりまして、辞めて製糖会社に入つた小野寺幸一という人、その人も三年の刑で入つておられます。それから函館の元日魯漁業にずつと勤めた人で、戰争中止時代には樺太の合同漁業の片岡さんの秘書を勤めておられた、この人も十年の刑です。この人は千島の、元千島領に関係しておつたから引張られておるので、結局十年、それがイズヴエストコーバカヤに私が来るときに入つておられました。
  601. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 分りました。もう一件だけ伺いますが、六〇一、六〇二、六〇三という收容所の中に樺太地区から日本の帰女子の人が相当つておりましたか、その点知つておられましたら簡單に願います。
  602. 水野等

    証人(水野等君) 名前は忘れましたが、女は樺太の女が一人です。三十五六歳の東海岸敷香から行つた人です。
  603. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それだけですか。
  604. 水野等

    証人(水野等君) そうです。
  605. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 今委員長からの何がありましたので、それに関連して水野証人にお尋ねしたいと思いますが、ずい分あなたはあちらこちらと放浪なさつたわけですが、その途中で日本の帰女子の方にどこかでお会いになつたというようなことがございますか。
  606. 水野等

    証人(水野等君) 女の人には会いません。
  607. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 全然会いませんでしたか。
  608. 水野等

    証人(水野等君) ええ。
  609. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 帰女子の問題について連続して、大して時間はかからないと思いますので、二、三の証人の方にお尋ねしたいと思いますので、お許し頂きます。
  610. 岡元義人

    委員長岡元義人君) それで水野証人は終りますから、各委員質問のときに願います。
  611. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 そうですか。私関連して伺つておりますが……。
  612. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと紅露委員に申上げますが、もうこの水野証人だけで打切りまして、六を省略いたしまして、七と八と一括質問するということになりましたので、そのときにこの問題を取上げて、各証人証言を求められるようにお願いしたいと思います。それでは各委員から水野証人について、何か御質問がございますか。━━なければ次の項へ移りたいと思います。御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  613. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ではあように取計らいます。それではいわゆる人民裁判等により、残留させられたいわゆる調査取調べ等のために残留させられたものの状況、及びその他一括事項として証人証言を求めます。先ず佐藤甚市証人に一応証言を求めますが、ウラジオ地区のいわゆるウオロシロフ検察機関の取調べについて述べて頂きたい。
  614. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) ウラジオ地区における取調べの中枢は、ウラジオの第二分所でいたします。並びにアルチヨム第十四收容分所、ここに集つておりますのは、前職者、それから防疫給水部、特務機関、憲法、そういつた特殊なもの、並びに反動と目されたものが集合させられております。取調べは、非常に嚴重を極めておる模様でありまして、簡單に営倉に入れる。或いは嚇かす、威嚇、そういうような精神錯乱を起さしめるような方法を以て一方的な訊問が行われておるという事実を強く強調したいと思います。そのやり方につきましては、特に営倉、その中におけるところの給與、食事の給與、或いはそれに附するところの、附随して共に一緒に入れるところの人員というようなことに関してまでも注意が拂われておる。例えば甲という人間を入れるならば乙という監視人をつけて入れる。そうしてその間に話せさせて混乱を起させるというような方法を採つておるようであります。そのために精神的な苦痛並びに作業に……或いは営倉に入れながら作業に出す。帰つて来れば営倉に入れるという方法を合せて採つております。内体的過労時に加えて営倉という精神的な過労、以て精神混乱を起さしめる。書類の調制に当つては、そういつた一方の精神錯乱者の圧迫された精神状態において作る書類でありますから、一方的に作つておるということは調査に行てつおる者は等しくこれを言い、又自分もそういつた調査を受けております。  六月の下旬からハバロフスク、ウラジオ地区におきまして極祕裡に單独軍法会議が開催されておるということがはつきり入つております。これはその構成は、上級中尉を裁判長とする若干名の人員から成り、中に日本人証人も交えておる。場所はウラジオストツクとハバロフスクにおいて行われておる模様です。このための前兆として六月並びに十月、十一月、アルチヨム十四收容所将校收容所の人事異動が行われております。これは関東軍遊撃隊長であつた中尉成田一夫、南部新太郎、鈴木實、これは十月に転属、ウラジオストツクに転属させられ、更に裁判にかけられておる。更に十月大洞信夫、これは特務機関の大洞信夫、山本正則この二名はハバロフスクに送られておるのであります。尚六月二十五日ナホトカにおいて民主グループ派の指導者であるところの嵐田万壽男が自分に恐喝をした際に、長命稔中佐、津森中佐、何れもハバロフスクにおいて軍法会議に付せられ、二十五年の刑を言い渡されておるということをはきつり言明されておる。お前達もこういうことになるんだということを恐喝されております。尚スーチヤンにおける十五分所、そこにおいても同じく調査が非常に激しく続けられておる。何れもこの軍法会議の開催時期をめぐつて激しいところの追及、それから民主グループ派の指導によるところの殆んど半強制といつてもいいくらいの自供を差迫つておるという事実、自供をするのは愛国者であり、ロシア側の利益になることはすべて提供せよということをはつきり公言しておるところの民主グループ派のやつておる仕事一つであります。これは自分はつきり聞いておりますから、確信をもつて証言いたします。各方面から調査関係並びに民主グループ派関係、そういつた者を手先に使つたところの調査というもののために兵、下七官、将校、收容せられておるところの者はどこの場所におつても一時たりとも気を許すことができない精神的不安と肉体的苦痛と、この重圧の中に喘いでいるというのが現在の一般の残留同胞の精神的並びに肉体的状態であるということが言えるのであります。自分も向うにおりましたときに、その不安の念から一日も離れたことはありませんでした。尚この調査、それから調査を行つておるのに連れて政治、要するに民主運動と称するものの関連性ということがどこまでも切つても切れない緑を持つておる。生活面、或いはそういつた調査面においてもどこにおいてもこの政治運動というものが入り込んで、これが指導しておるということは動かせない事実であります。例といたしまして、昨年の十一月末、場所アルチヨム将校收容所においてウラじオストツクに全洲日本人関係政治部長チユーベル大尉が一緒に来まして、解時私長命中佐並びに津森中佐を長としたところの将校の一団にありました。ここに即日の集合をかけております。何の集合か。何でもいいから直ちに集合せよ。一体政治運動であるならば拒否しますとはつきり言つたところが、何でもいいから命令だ、一切発言を禁ずる、部屋の出入も禁止するというので、部屋に監禁されまして、アクチーブと名の付いたところの者を二十数名一緒に引張つて来ております。やつたことはおのおの昔の関係者、関係上官であつたところの人達に対するところの、特に惡辣なる手段、帰国阻止決議、罪状暴露文なるものを読上げ、速かにこれを清算し、我々の周動に共鳴せよ、又チユーベル大尉のそのときの開会の辞において、昨年あなた方の仲間を帰したことについては我々も大きな失敗を演じている、国際法はすでに古い。ポツダム宣言が新しい国際法である、本年も帰還せしめるについては更に強く注意するであろうということも言つております。なおその席上において、最後に高橋喜代治なる者は元少尉でありますが、この将校団は絶対に内地に帰還せしめざるように、ソ連政府当局に要望し又懇願するものであるという決議文を出しております。なおこの材料の蒐集に当つては嵐田万壽男が全部の材料の蒐集に当つておるということを自分に言明しております。これは山形県の出身であります。以上のような特殊收容所におけるところの環境は、そういうような状況であります。兵、下士官の方におきましても反動と目されるところの者に関しては、全部一日の行動に監視員を付し、收容所以外の作業場に出さないというような方針の下に一個所にまとめて、日常の行動すべてを日本人の監督でやつていると見せかけて、すべてはソ連政治部員の指導なくしては何もできないということで、彼ら自身も言つている通りにすべてがソ連側の指示によつて行われております。又ソ連側の行なつている事実として、ハバロフスクにおいて発行されておるところの日本新聞、これには本年の三月頃までと思いますが、カバレンスタという発行責任者の名前がついております。が、この問題がやかましく取方げられるようになり、民主運動は日本人がやつていると見せかけるように、この名前を外ずしております。現在はついておりません、恐らく……。この事実を如何に逃れるか、又我々のやることについては一つ一つソ連政治部員の認可なくては、許可なくてはできないということを民主グループ委員であるところの田子、これはナホトカにおります、三間、嵐田、高橋、そういつた指導的地位にあつた者が自分にも恐喝的に述べております。これらの事実ははつきりソ連側がこれを指導し、すべての最後の点に至るまで握つているという事実を物語る以外に何もない。又細かいことにおいてもソ連側の政治部員がはつきり知つているという点を強調したいと思います。  次に今の第八の現在そのために残されている人員はこれはそこに名簿で以て出してあります。  次は総括事項、入ソ人員の概略といたしまして、自分が在ソ期間二十一年の三月から翌年の二月まで集め得ましたところの資料に基きまして判断いたしましたところの資料、軍人関係において七十万、地方人二十五万、これははつきりした細かい数字は現在忘れておりますが、大まかのところこれを下つていないということを証言いたします。特に北鮮、滿洲にあつて終戰時人員不足と称して一般地方人で軍籍にあつた者、これを狩出しております。これは現に自分が中隊長をしておりまして、即日召集解除したところの現地の兵隊をそのままやはり狩出して入つて来ております。
  615. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 佐藤証人に……。今の数字をもう一回はつきり言つて頂きたい。
  616. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 軍人関係軍属、それから第一次の狩出し者を含めて滿洲、北鮮、樺太、千島の一部について調べましたのが約七十万、地方人関係二十五万、滿洲、北鮮、樺太。この狩出しは第一次から第四次まで行われた。これは現地に入ソした者の各人の調査を、調べて聞いた時に、第四次までの者がおります。恐らく第四次が最後であつたろうという判断であります。特に警察官、滿州においては特殊会社、社員、タイピスト、それからその外に技術者、特に技術者は全員登録せよという名前の下に北鮮或いは滿洲においては登録に行くとその場から汽車に積込まれてソ連に送り込まれております。この数というものが決して少い数ではない。
  617. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 佐藤証人に、只今委員長が聞いておるのは、ウラジオ地区の検察機関の点をお聞きしたいので、その方のことは後で御質問があると思いますから、お答え願います。分りましたか。
  618. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 分りました。ウラジオ地区には更にマガダンから入つて来たところの警察官が現在残つておるということであります。
  619. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚この際委員長が前に質問をいたしまして、その後各委員から質問をいたすことにしてありましたが、これを逆にいたしまして、後で委員長で補足的に質問をいたすことにいたします。  第七のいわゆる人民裁判等により彈圧された者の状況を含んで一括した問題として各委員から証人質問のある方は御発言を順次願います。
  620. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 佐藤証人にお尋ねいたしますが、今の軍人、軍属を含めて七十万、それから一般邦人二十五万、合して九十五万という数字でありますが、このいろいろあなたの御調査になつたその時期ですね、そうした時はいつか。
  621. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 調査の時期は二十一年の三月から二十二年の二月までとなつております。約一年に亘つております。なおその間にソ連側の将校につきまして調べましたのは、パランタイフという中尉の話してくれましたのは、八十六万というふうに自分には話しております。
  622. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 ちよつと、いわゆるその時期ですが、パランタイフの言つたのは同じ時期ですか。
  623. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) そうでございます。この期間内です。
  624. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 場所は。
  625. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) スーチヤンの第二收容所
  626. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 スーチヤンの第二收容所。そうしますと加藤善雄証人に再び私お尋ねいたしたいのですが、加藤証人がチンチコーフ大尉から聞いた九十八万という数字、こうした点からこの数字を思い合して見まして、もう一度、誠に私くどいようでありますが、このチンチコーフ大尉との話のときの模様を加藤証人から再びお聽きしたいと思います。
  627. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 自分が尋ねましたのは一九四六年の六月、輸送が再開せられるというようなお話を聞きましたので、我々といたしましては最も大きな関心事でありましたために、帰国問題でございますね、それに関係がありますので、收容所長をしておりましたチンチコーフ大尉、現在は沿海州の捕虜管理局に勤めておりますが、それに、入ソした日本人は、いわゆる捕虜の数は大体幾らぐらいで、それから我々の帰国する時期はいつ頃だということを聞いたのであります。そのとき、チンチコーフ大尉は約九十八万入つておる、そしてお前達の帰るのは日本から来る船の関係上分らない、ところがハラシヨウラボータ、働きが良ければ早く帰してやるというようなことを言明しております。
  628. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 加藤証人はそのチンチコーフ大尉とは親しいとか親しくないということは別問題にいたしまして、面接は常に行われておつた人でありましようか、どうですか。
  629. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 常に作業面で関係はしておりましたです。
  630. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今度は重ねてその佐藤甚市証人にお尋ねするのですが、先程佐藤証人が聞かれたその将校佐藤証人との関係はどういうふうでございましようか、やはり常に接触を保つてつたのでありましようか、どうですか。或いはその親しさ、こうした面を一つ証言頂きたいと思います。
  631. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 常に話はしておりました。関係は私が大隊長、彼はソ軍側の主計中尉でございます。
  632. 穗積眞六郎

    ○穗積眞六郎君 佐藤甚市証人に伺いますが、只今のお話でこの七十万、一般人が二十五万、これが一次から四次迄に狩出されたというお話でございましたが、この一次はいつに、二次はいつというようなことが大略分つておりましたら、御証言願いたいと思います。
  633. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 第一次は終戰直後でございます。四日迄の間に出されております。第二次、第三次、第四次はそれ以降に行われておりますが、時期的にははつきり分つておりません。第四次の收容したのは一ケ月もあります。
  634. 天田勝正

    ○天田勝正君 加藤証人に伺います。あなたが先程の御証言で、八十六万七千、これはカニーイに聞いた、更にチンチコーフ大尉から九十八万と聞いた。こういう話でございますが、この初めの方の八十六万七千という内には一般邦人は全然考えに入れないで、本当に軍人だけ、軍人関係だけを八十六万とこういう意味でその歩哨が言われたかどうかということについて、お分りになつたら御証言願いたいと思います。
  635. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) そのとき通訳に飜訳して貰いましたところが、その数字は、ワイナープロ、いわゆる軍事捕虜となつてつただけであります。
  636. 天田勝正

    ○天田勝正君 そうすると普通の常識からしますれば、この外に一般邦人と、こう考えて差支ありませんか。
  637. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 加藤個人の考え方では、地方人を全部入つている。
  638. 天田勝正

    ○天田勝正君 入つている……。
  639. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 入つていると自分は解釈します。その後ソ軍が撤兵する直前、四月三日でありますが、これが大体一九四五年の十二月末の調査でありますから、いわゆる一九四六年の四月、この間において厖大な滿洲から、北鮮から樺太から入ソさせておりますからその絶対数というのは自分には分りません。
  640. 天田勝正

    ○天田勝正君 次に高山証人に伺いますが、あなたは先程の証言で、一般のときに述べられたのは防疫給水部隊ですか、これらの点にまで言及されまして、それらのものが現在残されておるというようなふうに私は聞いたのですが、勿論その他のことも言及されております。そこであなたは、そうしたことについてどこからそういう情報を入手されたのか、あなたがその以前において、そういうことをよく知るべき立場に置かれておつたのかどうか、この点伺いいたします。
  641. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 私は特に四十七年の暮から帰るまで、憲兵、警察、特務機関、山田乙三以下そういう戰犯が集つております十六地区の責任者でありますから、そういう立場から、こうした戰犯が集つている状況はよく分つております。
  642. 天田勝正

    ○天田勝正君 いや、その給水部隊ですか、それらのものが、あなたは先程東條直轄云々ということを言われておる。であるから戰犯として残されておるということを言われておる。そういう、我々にも到底分らないような、言つて見れば、昔で言えば軍の機密に属することを、今までどなたも言わなかつたことをあなたはおつしやつておる。で、そういうことを当時知り得る地位にあつたか、あとで噂で聞いたか、それをあなたがそのまま信じられたのか、こういうことなんであります。
  643. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 分りました。これは防疫給水部の唐澤という少佐と自分は直接合いまして、そうして彼から、恐るべき防疫給水部の内情を聞いたのであります。  七三一部隊の部隊長の石井は、敗戰と同時に飛行機でハルピンから東京に逃げた。あとの者は滿洲に残された。彼はハバロフスク收容所に参りまして、私は彼と十三分所で会いましたが、そのとき自分達の反人民的なことが如何に中国の人民に、或いは満洲の人達に迷惑をかけたかという具体的な問題について語つたわけであります。その一例としまして、防疫給水部は大体日本の細菌学者が百数十名集つてそうしてこれらの者がペスト、コレラ、発疹チブス、そういうような黴菌を培養して、そうして飛行機も大体十台ぐらい持つておりました。ハルピンの香坊の一角にもの凄い細菌工場が建設されておつた。そうしてこれらが対ソ戰と同時にソヴイエツトの無辜の人民にこれをばら撒いて、そうして全滅させる恐るべき計画が立てられておつた、ということを彼から聽いております。そして又建国十週年のとき新京におられた人は誰でも知つておられると思いますが、これらが……。
  644. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 高山証人質問された要点だけ……。
  645. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) そういう人達が今責任ある立場におつた者が取調べを受けておるわけであります。
  646. 天田勝正

    ○天田勝正君 よろしいです。山本証人に伺います。先程高山証人並びに小倉証人に私外千田委員も又穗積委員質問しておりました点についてですが、このことは誹謗関係、讒訴ということに影響いたしておる問題であります。そこであなたの前の証言によれば、食糧は極めて惡いということを、例を挙げて申されておつた。然るに一方は全くそうでないのです。まあ一言にして言えばそういう証言をされた。こうなりますと、私共は全く迷わざるを得ないわけでありますが、そこで主としてその時によつては遅れる、少くするのでなくして遅れるということを言われておるわけでありますが、あなたは一月、二月という間高梁か或いは大豆粕ばかり食べておつたと、こういうことでありますが、その場合に後にそれらの讒訴……。先程言いました、パンで言えば六五〇、雜穀一二〇、或いは馬鈴薯六〇〇、油は三〇から五〇、煙草は一〇というような、外にもまだありますが、これらのものがあとでそれだけが届けられたかどうか。これが第一点。  更に他に機会における証人喚問によりましても、医師という者は、大体その隊におけるところの、まあ旧制度にしても上位に置かれておつた。そうすると当然あなたが旧制度を維持されたとしても、相当他の者よりも好い待遇を受けなければならないと、こうまあなるわけです。ところがあなた方の手許において、さような砂糖、外いろいろな物を横流しするとか、或いは自分達だけが全部それを食つてしまつたと、こういうようなことがなされるだけの余裕の物資があるかどうか。この点について伺います。
  647. 山本昇

    証人(山本昇君) お答えいたします。第一の件、これはさつきも申上げた通りでありまして、後になつて追加とか、或いは補充とか、そういうようなことは一度もありません。それから私のおりました所は、ハバロフスクから約九時間で行けますビロビジヤン地区、ビロビジヤン地区は六時間で行けます。それから三時間で行けるところのユダヤ自治州の、最も交通の便利な所であります。山の中でも何でもありません。シベリヤの大鉄道の沿線であります。而もさつき申上げたような状況が現出しております。  それから又食糧といたしますと、同じ食糧……全く無計画であります。高梁ならば高梁数ヶ月、大豆ならば大豆を数ヶ月やる。米というものはない。燕麦ならば燕麦、粟ならば粟、そういうような状況であつて、私一八九三病院におりましたときも、肺炎患者で入院して来る患者が何を食うかというと、高梁、或いは粟のぶつぶつ入つたようなものを四十度の熱のある患者にやる。而もその食物が変るのは三日目くらい経つてからであります。これが第一のお答えであります。  第二問題で、医師として私はおりました。従つて今まで非常な上級待遇を受けておるだろうというようなお話でございますが、私は未だ曾て人並以上の食物を受けたことは一度もありません。従つて私共と一緒におりました将校連中も、兵隊の上前をはねるとか、或いは外の者から取つて来るということは、未だ曾つやつたことはありません。ただソ側の将校連中が時たまに葱とか何とかを持つて来てくれるのでありますが、そういうときには、ほんの端切れを貰つたことはありますけれども、その他のことは一切ありません。
  648. 天田勝正

    ○天田勝正君 それに関連しておるのですが、私の質問は、勿論あなたが先程からの御証言で、そうした個人的にいわゆるまあ惡事をやつたとは思つておらない。併しやればやり得るだけの余裕が要するにあつたことがあるかどうかてジこういうことを聞いておるわけです。
  649. 山本昇

    証人(山本昇君) 分りました。今の件でございますが、これにつきましては、料理の方をやるのは皆兵士大衆諸君であります。従つて私たちが、これをせい、あれをせいと言うことになりますと、これはもう全般の統制を紊し、而も不明瞭にする、感情を持たすという、そういう見地にありますので、そういうような立場にもありませんし、又そういうようなことをやらしたこともありません。
  650. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 私は佐藤証人にお尋ねし、更に二三の証人に簡單なことですから一つお尋ねしたいと思います。  国際法、要するにジユネーブ二十二條の、将校の食事は自弁である、将校はその国の将校と同じ俸給を受けるということがこのヘーグ條約の十七條、ジユネーブの二十二條に書かれてあるわけでありまするが、そうした点について佐藤証人はさつき国際法を知つておると言つておられましたが、そういうことを一応了承しておられましたかどうか。
  651. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) その点は承知しておりました。入ソいたしまして一度その件を所長と交渉したことがありますが、ソ連側としては、将校以下の者は十ルーブル、佐官は十五ルーブルという規定になつているんです。その外職務についておる者は職務に対するところの手当を支給するという返答でありまして、この点につきましては合致しておりません。
  652. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 重ねてお伺いしますが、今の佐官或いは尉官、そうした将校に対してもその支給額というか、俸給額、そうしたものがソ連の将校とは違つておりましたか。
  653. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 勿論違つております。
  654. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 その差はどういう程度ですか。
  655. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) その差はソ連側の将校の金銭給與は、少尉において、これははつきりした金額は分りませんが、規定はうろ覚えに覚えておりますが、少尉が千二百ルーブル、それに加俸がついて全部で二千八百ルーブル、中尉で二千百ルーブル、それに加給に対するところの手当でありますが、それがついて概ね四千百ルーブルと聞いております。
  656. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと非常にその差が大きいんですが、そうした問題に対してあなたのところのチンチコーフ大尉、或いはパポフ少佐とか、そういう人達に、こうした問題を別段難詰するという問題でなくして、お話になつたことがありますか。
  657. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) あります。
  658. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そのときのソ連側の回答はどういうふうで、或いはそれに対する答えはどういうふうだつたですか。
  659. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) ソ連側にこちらの、そういう将校は自国の将校と同じ金銭給與をする筈じやないか、而もそれは兵隊に支給する賃金には関係なく、政府の方で別途支給される筈じやないか、ソ連側はそれは知らない、現在のモスクワからの命令においては将校以下十ルーブル、佐官は十五ルーブル渡すようになつておる、それ以外は大隊長なら大隊長の手当を出す、主計なら主計の手当を出すことになつておる、その外のことについては知らない、そういうふうに答えておりました。
  660. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、佐藤証人はその階級は中尉だつたんですか。
  661. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) そうです。
  662. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それからソ連におりましたときは大隊長の役目をしたんですね。
  663. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) そうであります。
  664. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうした場合にあなた個人の受けられた俸給、給料はどのくらいですか。
  665. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 全期間に亘つては受けておりませんが、自分が大隊長をしておりましたのは昭和二十年から二十三年の七月まで大隊長をしておりました。その間貰いましたのは概ね三分の二の期間で、金額は八十五ルーブルであります。
  666. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうすると今度山本証人にお尋ねしますが、山本証人は医者として或いはそういう軍籍における階級はあつたのですか。
  667. 山本昇

    証人(山本昇君) 私は向うの方では佐官待遇でやつておりました。
  668. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、軍医という立場における佐官ですか。
  669. 山本昇

    証人(山本昇君) はあ。
  670. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 重ねてお尋ねいたしますが、そうすると……。
  671. 山本昇

    証人(山本昇君) それはちよつと訂正いたします。教授として向うの方で取扱つております。
  672. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、待遇はやはり将校並の待遇をされておつたのですかどうか。
  673. 山本昇

    証人(山本昇君) 申上げます。月手当は佐官待遇でありますから十五ルーブルであります。それから医者として勤務する場合は、四十ルーブルつきまして五十五ルーブル。但し全四年三ケ月を通じましてそういうようないろいろな勤務もやりましたけれども、実際勤務をやつてつた金というものは殆んど数ケ月分であるということを申上げます。
  674. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと重ねてお尋ねいたしますが、ジユネーブの第十一條に量質共に捕獲側、ですからソ側の補充部隊と同じ給與がされるというのでありまして、これは将校兵隊とは違うわけです。そうした点において将校の待遇を受けたり或いはプロフエツサアの待遇を受けたりした方は兵隊とは全然給與の差が違うのですね。そうしたものの炊事というものは別々ではなくやはり兵隊一緒にやつてつたのですかどうですか。
  675. 山本昇

    証人(山本昇君) 初めは別でありましたが、後になつて全部一緒になりました。
  676. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 後になつて一緒になつたということはこの量質共に兵隊将校或いはプロフエツサアが一緒になつたのですか。
  677. 山本昇

    証人(山本昇君) そうです。
  678. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今度佐藤証人に重ねてお尋ねいたしますが、あなたの場合はどういうふうだつたでしようか。
  679. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 私のところは初めから炊事は一つであります。全部一緒になつておりました。但し貰う糧秣は将校将校の定量、兵下士官は兵下士官の定量を貰つてつたが、全員の了解の下に全部一緒に行いました。ソ連側においては別々に実施せよといつて参りました。自分の方といたしましては一緒に飯を食おうという建前で全部込みで同じようにやつておりました。
  680. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと同じようにやつておられたけれども、その量、質という面については若干の差があつたのですか。
  681. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 差はありますが、実際に食べるものは同じものを食べております。
  682. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと将校の方の量、質がソ連の将校と同様であるという立場において一般の兵隊よりよかつたわけですか。
  683. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 一般の兵隊と大差ありません。パン、雑穀は一般兵隊より若干少いのであります。油、砂糖、そういう点において約倍に近いくらい多いという点はあります。
  684. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、重ねてお尋ねしますが、ジユネーブの第二十二條の将校の食事は自弁であるという点に対して、勿論給與は僅か十五ルーブルというようなことでは、自弁したのではないでしようけれども……。
  685. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) ありません。
  686. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、一般の兵隊はそういうことを知つておりましたか。
  687. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 一般の兵隊には次のように言われております。一般の兵下士官は月の労働賃金より生活費として四百五十六ルーブルを差引き、その残額に対して地上勤務七〇%、坑内勤務は八〇%を支拂う。但し一回の手当金額は百五十ルーブルというふうに兵には言つております。
  688. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それから小倉証人にお尋ねします。今佐藤証人や山本証人の言われたような国際法の問題をあなたは知つておられたかどうですか。
  689. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 将校の給料、俸給について私が聞いているのは、十ルーブルと十五ルーブル、その外自弁という問題については、私は民主指導部の方で管理部の方と関係ありませんから聞いておりません。
  690. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 分りました。
  691. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 将校兵隊と別の給與であるということは知つておりましたし、それに基いて行いました。国際法にあるということを知つております。
  692. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それからもう一点、ちよつと高山証人にお尋ねいたしますが、スターリン元帥宛の感謝決議文を提出された、確か九月十八日とさつきおつしやつたように、九月の式に集合された地区毎の代表者のお名前を御存じでしようか。
  693. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) もう一度質問の要点をはつきりとお願いしたいと思います。
  694. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 重ねて申上げます。スターリン元帥への感謝決議文、あれは六万五千の署名を持つたものを捧持するということでありましたが、それに対しましてその提出する式、或いは署名を終つたとか、そうした何か催しのときに地区毎の代表者という者が、そこへ集つたかどうか、ただ或いはあなた方二三の人だけでそういうことを計画され、そうして署名を集められただけか、或いはそういうふうな式をやられたかどうか。
  695. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 同志スターリンへの感謝文、これには残留在ソ同胞の六万六千人が、九万五千人の中六万六千人が参加しております。このモスクワへの贈呈に当つては、各地区から代表を大衆の選挙によつて選んで送つております。そうして九月の七日だつたと思いますが、ハバロフスクにおいてこれの贈呈の委託式が行われまして、各地区、例えば四地区、四地区から同志小澤以下十数名、それから五地区から美勢君以下十数名です。それから十九地区からは依田君以下十数名、それから沿海州からは須藤君以下二十数名の人達が集まつたと思います。そうしてここで民主的な方法で代表を決めよう、こういう話になりまして、結局五名が決定したわけであります。
  696. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 その五名は誰ですか。
  697. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 高山、土井、相川、小澤、美勢。
  698. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それからもう一つお尋ねいたしますが、この今の六万六千の署名を取られたというのは、今申された十九地区なり或いは四地区とか、五地区とか、沿海州地区とか、こうした地区方々から取られたのですか。この六万六千の署名です。サインですね。
  699. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) この問題について大体本文は……。
  700. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 いやもう本文はいいですが、大体どの地区から取られたか。今私のお尋ねしているのは、あなたのおつしやつた高山、土井、相川、小澤、美勢、こうした方のおられておる地区から取られたのですか。或いはその他の地区もこの六万六千の署名の中に入つておりますか。
  701. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) オハ地区、その外の若干の地区が、我々の方から代表を送れないからハバロフスク地方へ委託すると言つて来ております。
  702. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと、これは五月から九月までの間で、この六万六千の署名が取られたのですか。
  703. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 大体署名は六月の上旬から……九月に贈呈式が行われたように記憶いたしますから、その前に大体終つております。
  704. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 大体六月から九月の上旬までに……。
  705. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 大体終つております。
  706. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 ああそうですか。それからもう一つお尋ねいたしますが、この日本新聞のあなたが先程責任者と言われましたが、ソ連側の責任者はなかつたのですか。あつたのですか。
  707. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 日本新聞の社長はおられます。
  708. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 社長はおられますか、どなたですか。
  709. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) コワレンコ中佐であります。
  710. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 それからこれは……又後で聞きます。あまり私ばかり長くなりましてもいけませんから……。
  711. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと今淺岡委員質問委員長から補足しておきます。只今淺岡委員から質問されました点で、ちよつと委員長から高山証人に確めておきたいことがあるんですが、この署名につきまして、九月七日頃という今証言がありましたが、九月十九日ではなかつたのですか。
  712. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) ハバロフスク地方の全部を一括して、又沿海州が参加して一応依託贈呈の祝典カンパをやりましたのは、九月の……十月の七日でございます。
  713. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 尚もう一点お聞きしておきますが、この署名には、マガダン地区とナリンスク、ウオルクタ地区收容所の代表が署名しておりますか。
  714. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 今の日にちの問題、やはり九月の七日であります。それからマガダンでございますか。
  715. 岡元義人

    委員長岡元義人君) はい。
  716. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) マガダンは記憶にありません。大体各地区から日本新聞、並びにハバロフスク地方の司令部に宛てて署名箱がどんどん送られて来ておりましたから、その点だけ附加えておきます。
  717. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 本日出席されております証人の所属されておる部隊で、この感謝決議の署名をされなかつた部隊がありましたら、一応挙手して頂いて、発言して頂きたいと思います。    〔佐藤甚市証人挙手〕
  718. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 外にありませんか。佐藤甚市証人
  719. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 自分のところは拒否しております。何もやる必要もありませんので。
  720. 岡元義人

    委員長岡元義人君) してない。
  721. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) ありません。
  722. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 自分のところでも拒否しております。感謝する必要はない。
  723. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 山本証人にお尋ねいたしますが、先程の患者の給食のことですが、四十度もある患者に高梁の食事という証言でございましたけれども、あれは普通の場合にはやはり患者に特別な食事があつて、ときにそういうことがあつたのでございますか。それとも又、相当長い間病院に勤務しておられたようですが、初めのうちは私共大変に食糧の事情が惡かつた承知しておるのでございますが、終いには病人らしい、或いはお粥とか、米がなければ外のものでも病人らしい食事に改善されたのか、それとも勤務された全期間を通してそんな状態でございましたのか、それを一つ伺いたいと思います。
  724. 山本昇

    証人(山本昇君) 只今の御質問は、私一九四八年の十一月二十二日から今年の九月九日まで、一八九三病院におりました。その間の大部分は、さつき申上げましたように、入院するときは、どんな熱があろうと、どんな重体であろうと、皆真つ裸にしてお湯を使わせます。これもお湯に入るのではなくて、小さな水桶一つ、熱かつたりぬるかつたりするようなお湯を汲んで、それで下の毛から腋の下の毛まで全部剃らして来る。従つて、その入るとき死亡したという者もおります。そういう状況で、今度病院に入るときはどうかというと、零下四十度のときでも皆夏のシヤツ一枚です。シヤツの上下です。そうしてその入浴場から病室まで大体百メートルありますが、その間は黒い日本の外套一つであります。従つて、七十一の井上元中将あたりでもその通りですが、若い者も勿論、年寄は全く震え上つて、一晩中全く温まらんという状況でありました。今度入つて参りましたならばどうかというと、さつき申しましたように、大体熱が四十度あろうと、私達も肺炎で初め入院しましたが、粟御飯のごつごつした、それに「じやがいも」の皮を剥がんのが入つておる。そうしてそれには魚の、私のは「にしん」でした。外の患者には「にしん」だつたり、小魚だつたり、或いは「さけ」だつたりすることもありますが、その骨も皮も「えら」もごつたに切つたのが入り込んでおります。それが大体二日続きまして、三日目から本当の患者食に変つておる、そういう状況であります。
  725. 中野重治

    中野重治君 加藤証人にお尋ねいたします。先程の加藤証人証言の中にあつた加藤証人の隊が病気で死んだ死骸を遺棄して、それが凍つて狼が食べたというのはいつどこでですか。
  726. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) それは一九四五年の十月から十二月一杯までの状況であります。場所はエリンカです。ソ軍の責任者、いわゆる收容所長はイストーメン少尉であります。
  727. 中野重治

    中野重治君 それは狼が食つたのですか。
  728. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 狼か、とにかく野犬であります。
  729. 中野重治

    中野重治君 何も彼も食べられた……。
  730. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 食べませんです。
  731. 中野重治

    中野重治君 あなたの隊が遺棄した死体が野犬か何かによつて食われたのですか。
  732. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 腕とか肩を食われておつた状況自分らは見ております。
  733. 中野重治

    中野重治君 あなたが御覽になつた……。
  734. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) はあ見ております。
  735. 中野重治

    中野重治君 それでその場合、それはソ連側の命令によつて、そういう所に遺棄したわけですか。
  736. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) そうです。場所は、埋沒する位置はソ側の方が指示しましたです。
  737. 中野重治

    中野重治君 ソ側の方が……埋沒とは……。
  738. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) いや埋めるために……ところがそのときには凍つておりましたので、機材もなし穴も掘れないから、その附近から乾草とか立枯草を持つて来てパサツとかけておつたわけです。
  739. 中野重治

    中野重治君 そうしますと、あなたはそのときに大隊長でしたね。
  740. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 違います。自分はそのとき小隊長です。
  741. 中野重治

    中野重治君 あなたの小隊の人ですか、それは……。
  742. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 違います。自分の小隊はそのとき運がよいといいますか、そのコルホーズの稻刈作業の間に薯掘り作業をその前ちよつとやつておりましたので、食い溜めをやつてつたといいますか、比較的体がよかつたために、そのとき二名の損耗しか隊では出しておりません。殆んど外の隊の損耗であります。
  743. 中野重治

    中野重治君 加藤証人の小隊では死体をそういうふうに遺棄しなかつたわけですか。
  744. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 自分のところでも恥しい話ですが、そこの附近からキユウソウを持つて来て、死体だけ見えないようにパサツとかけて置きました。
  745. 中野重治

    中野重治君 それは凍つていて掘れなかつたという原因があつたわけですね。
  746. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 勿論掘れないし、そのときは全部が全部病人のようにふらふらしておりました。それからソ側では、そのようないわゆる墓の穴を掘るというような余分な人間を残して呉れませんでした。そのような状況でありました。
  747. 中野重治

    中野重治君 そういう場合には、小隊としてはあなたが責任者であつたわけですか。
  748. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) そうです。
  749. 中野重治

    中野重治君 具体的な処置、その命令、ここへ葬れという命令が来て、それを與えられた條件でどう処置するかということは、あなたの小隊に関する限りはあなたが責任者であつたと、こういうことになりますか。
  750. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) それは責任者は自分です。
  751. 中野重治

    中野重治君 結構です。  佐藤甚市証人にお尋ねします。一般に作業をやる場合に、日本人責任者がいろいろ指示命令を與える、一定の基準の下に與えるというようなことになりましようが、ソヴイエト側から作業指示が来る場合にはどういう形でやりますか。というのはどういう仕事を何人くらいでしろというふうに話が来るのか、それとも誰々何の何がしをこういう仕事に出せ、こういうふうに来るのか、どつちですか。
  752. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 作業の割当はソ連当局、收容所当局の方からどこどこの作業、例えばこの石切山の作業に何名出せというふうに出て、人員を指定して来ます。尚仕事の割当につきましては現場に監督がおります。それをデシヤートニクと言つております。それが仕事の量、やる要領、そういつたものを示します。尚その監督によつて違いますが、人員その他も、そこに行く人間さえも向う側で指定しております。
  753. 中野重治

    中野重治君 特別の場合は別として、一般に仕事をこれだけやるために何人出せ、こういうふうに仕事全体に関するいわば割当が来る。こうなりますね。
  754. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) そういうふうにはなりません。この仕事に対して何名出せ、それだけです。
  755. 中野重治

    中野重治君 そうしますとどういう人を選ぶか、一般には日本人責任者の掌握するところと、こうなつておりますか。
  756. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 一般にはそうであります。
  757. 中野重治

    中野重治君 先程佐藤甚市証人千田委員の問に答えて、懲罰としての重労働がソ側の命令によつて決せられた事実があつて、こう言われましたね。
  758. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) あります。
  759. 中野重治

    中野重治君 そうしてその際八時間労働以外に更に十時間労働が課せられた、こう言われたと思いますが、八時間労働が二時間延ばして十時間になつた、こういう意味でありますか。
  760. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) はい。
  761. 中野重治

    中野重治君 その八時間労働に二時間加えて十時間に引延ばされたというのは何に対する懲罰ですか。
  762. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) ノルマを遂行していないからです。
  763. 中野重治

    中野重治君 そうすると八時間を十時間に延ばすのはノルマを仕上げるためですか。
  764. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 向うから言えばノルマを仕上げるためということになります。
  765. 中野重治

    中野重治君 そうしてそれが懲罰として二時間延ばされたということは何かきちんとそういうふうに指示されるわけですか。
  766. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 指示されます。
  767. 中野重治

    中野重治君 どういうふうに指示されましたか。
  768. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) これは何回もありましたが、第二收容所の直ぐ前に家の建築を一ケ所しておる小隊がありました。これは金田小隊であります。この小隊は私がおりましたときに三回に亘つて延長作業を命ぜられております。時間が来て仕事を終ろうといたときには作業係のチエレワニー或いはサローキンというのが廻つて来て、ノルマが出来ていない、更に二時間やれということを命令して目の行でやらせております。
  769. 中野重治

    中野重治君 それはノルマを遂行するために労働時間を延長したのではないか。
  770. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) それはノルマを遂行せしめるためです、これが一つ。その次にノルマを遂行しないということは向うでは怠けておるというふうに見ております。この面から……。
  771. 中野重治

    中野重治君 私の聞きたいのはあなたのお答えはよく分りますが、つまり千田委員から出た問は懲罰として過重労働が課せられたかと、こういう問題であつたわけです。それに対して懲罰として過重労働が課せられた、こういうお答えがあつたので、私はこれはただ現象だけ見れば似て来る点がないとも言えないと思いますが、つまり遂行せざるノルマを遂行させるために労働時間が二時間延長させられたのじやないか。
  772. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) それが一つ、更に作業場から帰つて……。
  773. 中野重治

    中野重治君 そうではなかつたのか……、この二時間は懲罰ではなかつたのか……。
  774. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) この二時間も懲罰です。
  775. 中野重治

    中野重治君 そういう場合に、佐藤証人は先程淺岡委員との問答にもありましたように、国際法或いは戰時国際法等に或る程度通曉しておるし、それから大隊長でもあり、又確かロシア語に堪能で、当局との間に通訳仕事も確かやつておられた……。
  776. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 将校のとき少しやつております。
  777. 中野重治

    中野重治君 そういう場合にこれに対して懲罰としての過重労働であるとすれば、その点に対して何らかの具体的な抗議等をなさいましたか。
  778. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) しております。
  779. 中野重治

    中野重治君 その結果はどんな工合でしたか。
  780. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) その結果或る程度のものについては取止めて貰つたのもあります。最後まで命令としてお前も一緒に出ろというので、私も引つ張り出されたことがあります。その外に收容所に帰つて来まして、更に一度外の作業に引つ張り出されたことがあります。
  781. 中野重治

    中野重治君 加藤証人にお尋ねしたいのですが、作業趣旨のやり方、今佐藤甚市証人から言われたように、どの仕事に何人出せというふうに来るのが本式であつて、それを受けたところの日本人の責任者がそこへ誰々を向けるということは自分の責任で向ける、こういうふうになつてつたというので、あなたの場合も異議ありませんか。
  782. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) そういう場合もありますが、いわゆるソ側で特業者のような場合はソ側で指名して参ります。誰それはどこの作業場、誰それはどこの作業場に行けというように指名して参ります。
  783. 中野重治

    中野重治君 特業者というのは、特別の技術者という意味かとも思いますが……。
  784. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) そうです。
  785. 中野重治

    中野重治君 私のお尋ねしておるのは、普通の、特別の仕事でない普通の仕事、石切場の仕事とか、材木の切出しとかいう仕事に対しては、この仕事に何人出せとこういうふうに言つて来ますか。
  786. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) そうです。
  787. 中野重治

    中野重治君 そうすると先程からのいろいろの場合に非常に過重な労働が課せられて、それでそのためにぶつ倒れてしまつたとか、死んでしまつたとかいう場合に、倒れてしまつた個人について言えば、その個人を指定したのは普通の仕事の場合は日本人の責任者ということになりますか。
  788. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) そんなことはありません。
  789. 中野重治

    中野重治君 あなた自身がそうであつたとかそうでなかつたとかいうのでなしに一般に……。
  790. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) わしらは飽くまでも捕虜でありますから、すべてのものの権力はソ側が持つておるわけであります。
  791. 中野重治

    中野重治君 それは分つておるのですが、基本権力を持さておるソ側からどの仕事に何人出せというふうに話しに来た場合に、誰と誰とを出すかは日本人の責任者の任務となる。そこで仕事がうまく行かなかつた場合に、更に時間を延ばされるとか、その他のことがあつた場合、帰つて来た者をもう一遍仕事に出すのに誰を出すかというようなことは日本人側の責任者が指名するということになつているわけですね。
  792. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) そういうことはできないのです。飽くまでもロシア側でそれは出させます。
  793. 中野重治

    中野重治君 そうすると仕事に誰を出すかということは日本人側の責任じやないのですか。私は先程佐藤甚市証人から聞いたところでは、特別の場合を除き一般には、作業趣旨というのは何の仕事には何人出すとこう言つて来る、そこで或いは自分のところに身体の悪い者もいるだろうし、少し弱つている者もいるだろうし、いろいろな関係を考慮して、日本人責任者がその人員自分の掌握している範囲内で指名して揃えて出す。個々の人を選ぶのは日本人側責任者の責任だ。ソヴイエト側からはどの仕事に何人というふうに総括的な趣旨を指示して来る。こういうふうに聞いたので、あなたにもそれをお聞きしたのですが、特業の場合は別として、一般の場合はやはりそうだつたというが、今あなたのお答えだとそこは違つて来ますか。
  794. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 違つて参ります。いわゆる一般作業においても、ソ側においてはその仕事に慣れて来ると作業能率が上がるという観点から絶対に作業場を変えてはいかんという嚴命があります。
  795. 中野重治

    中野重治君 作業者を……。
  796. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) いわゆる甲の作業場から乙の作業場に変えてはいかんという嚴命があります。
  797. 中野重治

    中野重治君 佐藤甚市証人はその点は如何ですか。
  798. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 作業の状態でこの仕事に何人出せという命令が来る……。
  799. 中野重治

    中野重治君 そうすると日本人責任者が健康その他を考慮して所管内の人員の中から個人を指名してこれを差出す、そのあとの方の責任は一般には日本人責任者にある、こういう証言を得て、加藤証人にお尋ねしたところが、初めはその通りであるというお話であつたけれども、話を具体的に進めて行くうちに段々そうでないようなお答えになつて来て、つまりどこまでもやはりソヴイエト側に命令権力があつて、個人の指名も向う側でするのだと、こういうふうなところに今話が落ち着きそうなんですが、その点はどうですか。
  800. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 結論を先に申上げます。窮極の責任は勿論ソ連側です。その代行として日本人隊長が、どの作業に何名出せという指示があつて、その指示によつて人員日本人側において選考いたします。健康、作業その他を考慮いたしまして、その名簿としうものは直ちにソ連側に提出いたします。それによつて……。
  801. 中野重治

    中野重治君 その点においては、あなたの今のお言葉は先の証言と全く変らないわけですね。
  802. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 変りません。日本人側で選考しまして、更にこれを……。
  803. 中野重治

    中野重治君 その点について他の証人にお尋ねしたいのですが、丸山証人にその点をお尋ねします。そうであつたかどうか。
  804. 丸山末藏

    証人丸山末藏君) 作業に関して申上げます。これは大体ソ軍の司令部よりコンバートという大隊長が……。
  805. 中野重治

    中野重治君 ちよつと待つて下さい。一般には作業は今佐藤甚市証人証言されたように、この仕事に何人出せというふうに、向うから命令をして、勿論根本の権力は向うにあることは分り切つたことですよ。それだから要するに私の聞きたいのは、仕事をやる場合の手続の仕組です。向う側からは、ソ側からはこの仕事に何人出せと言つて来ると、それを受けた日本人責任者が適当に自分の責任において人員を出すと、こういうふうであつたかどうか。
  806. 丸山末藏

    証人丸山末藏君) そうであります。結局副官というのがやるのですから、副官の上に大隊長がおる……。
  807. 中野重治

    中野重治君 そうしますと、こういうことがありましたかどうか、高山証人にお尋ねしたい。それはいろいろな人がひどい目にあつたというふうなことが伝えられて、私共も、直接知合でそういう経験を嘗めて来た者がおるのですが、惡い人が上に立つて、責任者に日本人側の責任者になつておる場合に、自分の近しい関係にあるものは、まあつらい仕事に出さないように指名しないようにする。そして余り自分としては感心しないような人間を指名する。併しそれを数を揃えて出すからして、どの仕事に何人ということは実際には行われる。そこでそういうことに対してそういう内部指名の仕方に対して反対をすると狙われて、更に重ねて指名されて仕事にやらされる。これが気候の関係、健康の関係で余程苦しいことがあつて、そのために相当つた人もあるという話を聞いておるのですが、そういう事実が全くなかつたというふうに言えますか。それともそういうことは或る程度あつたと思われますか。
  808. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) そういうことは各地においてしばしばありました。特に初期の頃は反動的な将校が分所の実権を握つておりました。そして通訳も彼らの支配下にあつたわけです。
  809. 中野重治

    中野重治君 続けてお尋ねします。そういう場合にやはり私共の身近かな人間の経験として聞いておるのですが、日本の元将校、これはまあ何か国際法かなんかで階級章をそのまま保存し得るわけですから、ずつと長く将校であつたのですが、その将校がとにかく自分達としては健康を保つて、一日も早く日本へ帰らなければならん。それに又いろいろな思想的なニユアンスを絡ませるものもあしたりなかつたつたそうですから、とにかくここでどんどん仕事をすれば、それは共産主義を助けることになる。それだからできるだけ仕事はほどほどにやる。或いは場合によつては怠ける。とにかくそれで健康を保つようにしてやらなくちやならん。こういうふうに言つてそこから生産サボが生まれる。そうするとそれが問題になつて来る。さつきの八時間労働が十時間労働になるというようなことがある。そうするとそういう将校に対して反対な立場に立つ人が、その十時間労働の方へ廻される。在いはもつと複雑な形で労働に廻される。そうしてそういう者が結局参つてしまう。そうすると一方では反動的な人の場合は、強制労働でそれこそ殺されるんだというふうなことで内部を脅かす。こういうことがあつちこつちにあつたというふうに聞いておりますが、そういうことがあつちこつちにあつたか、それとも全くなかつたか、こういうことをお伺います。
  810. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) これは反動将校は常にロシヤは敵国であるから、ロシヤに対して貢献するがごとき作業はやつちやいけない。作業サボを常に宣伝煽動しておりました。そういうような関係で、結局支動将校の言うがごとき方法でやるならば、收容所はますます暗くなつて行く一方であります。そうして今言つたように、八時間でできるところも、全然作業サボをやつてやらないというような状態で、最も作業成績の惡い分所においては、十時間まで二時間の追加をやらすというようなことは設けられましたけれども、漸次運動が進展するに従つて、こういう状態はなくなつて收容所は極めて明朗になつて来たわけであります。
  811. 中野重治

    中野重治君 そうすると高山証人の場合は、ノルマが遂行されなかつたために、八時間労働が十時間労働に延長されたというのは、ノルマ遂行のためのやり方であつて懲罰としての過重労働ということではな四ということになりますか。
  812. 高山秀夫

    証人(高山秀君) 懲罰ではありません。それは全然懲罰ではないのであります。
  813. 中野重治

    中野重治君 もう一つだけお尋ねします。これは特に高山証人に尋ねたいのですが、東京農業大学の講師であつた高山庄吉氏が殺された事件がありまして、これは日本でも新聞なんかにも出ましたが、それでこの問題が大きくなつて、それでそういう犯罪をやつた人が軍法会議に掛けられた。高山証人自身は、その軍法会確に証人として喚ばれた。証人としてだか何だかで喚ばれたといとうきとを聞いているのですが、この高山講師の虐殺ということは、何のために生じたか。それからそれが本当に、つまり正式の軍法会議に掛けられたのかどうか。このことを、分つていたら、時間が遅いですから簡單に証言して頂きたいと思います。
  814. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) ソヴィエトに入りましてから、反動的な将校共は、今度の戰争は敗けたのではない、停戰協定によるものである、であるからしてお前達は帰るまで、日本の軍隊の法規に従つて動かなければならない、若しそれに反する場合は、軍法会議に帰つてから付するというような工合で、あらゆる圧迫が、そうして暴虐な限りが我々の上に加えられて参りました。特に自分のコムソモリスクの第一分所には三百大隊ありまして、自分は二百七十三大隊であります。そうして自分は三中隊でありまして、高山助教授は二中隊でありました。かかる状況から、我々が苦境を切り開いて行くためには、同じ境遇にある我々が団結して行かなければいかんというので、我々は当時は非常な圧迫下にあつたにも拘りませず、しばしば高山助教授以下、進歩的な人達が分所内において集合し、これらの人達と鬪つて、本当に民主的な分所を作つて行く、明るい分所を作つて行くというために努力をしておつたわけであります。
  815. 中野重治

    中野重治君 これはいつ頃ですか。
  816. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) それは千九百四十五年の十月であります。九月の二十九日に分所に入りましてから、それから直ちに運動が展開されたわけであります。それで高山助教授が虐殺された直接の原因といたしましては、彼は病気で入院しておつたわけです。そうして入院から下番いたしまして歸つて、本官要これは関東軍の第五軍の参謀所におつた中尉でありますが、挨拶に行つたわけです、山本という下士官と……。そうしたところが挨拶の仕方が惡いからやり返せというわけで、高山助教授はそれに従つて又外に出てノツクをして入つたわけです。そうしたらまだ不十分であるからというので、こういうことが四五回繰返されて行われたわけです。そうしたところが高山助教授が、大体この事件のあつた当日は、十月の二十二日頃だと記憶いたします。私は地方人であんた達のために十分満足行くような敬礼ができないからして、軍官の作法を知らんから教えて貰いたいという工合に発言いたしましたら、中官長の命は絶対である、生意気だというので、そこで二つ三つ叩いたわけです。そこで彼は退院して非常に力がなかつたのですが、叩いて来るからこうよけようとしたら、本宮中尉の体に手が当つたというので、上官に暴行したというので、そこにおつた本官、それから上島、長内、渡邊、これらの将校が寄つてたかつて高山助教授をぶん毆り、終りにはこの荒繩で縛り上げ、板間の上にぶん投げて毆りつけた。これは高山助教授だけではなく、私達の進報的な人間に対する白色テロであります。で渡邊、本宮というのは、俺は戰場で人間の肉を喰うのが一番楽しみである。そうして三千人の大衆からは鬼渡邊、鬼本宮と言つて非常に恐れられた男であります。このような極めて非人間的な暴力が加えられた。その夜即ち彼は三十九度五分の高熱を発しまして、分所にあつた医務室に入室し、そうして二日、三日後にこれが因で死んだわけであります。これの診断は吉井という京都帝大を出ました男が診察をしておりましたが……。
  817. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 議事進行について……。
  818. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) もうちよつと関連があるのでありますから……。
  819. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 その今の高山事件は高山証人自身が密告されて、あなたが有名になつた事件ですから、それの詳細は文書を以て出して頂くということで、他の議事をもつとお進めして頂きたいと思います。お諮りいたします。
  820. 中野重治

    中野重治君 この問題はどういう経過で、軍法会議に上つたのかということは別として、ここまで話が来たのだから、文書にあとを委せるというのでなしに例えば、水野老の場合のごとく多くの人の名前だということでなく、証人に私からも要求して、最も簡單にあと軍法会議までのことを述べて貰いたい、こう思います。
  821. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 議事進行、今日のこの問題は一高山事件を裁いておるのじやない。裁くのじやなくて、高山事件によつて証人を喚問してやつているのではないのでありますから、まだ広汎な問題があるのですから、そうした問題を掘下げて行くというのならば、これは又別個の委員会として扱つて行くということで、或いはそうした問題は文書によつて出して頂いても然るべきだと思うので、殊に沢山の問題があるのですから、その問題で一つ議事進行を図つて頂きたいと思います。
  822. 中野重治

    中野重治君 我々が高山虐殺事件を問題にしているのじやないということは申すまでもないのであつて、問題はこういうことが隠されておつて、それで收容所における民主化の運動がいろいろに伝えられている。又ノルマの強行とか、それから懲罰とか、いろいろなことが伝えられている。こういうものの全貌を明らかにして、ソヴエツト地区内に残つている残数の正確なめどをつける。そうして全体としての引揚を円滑に進めるというところの問題があるのであつて、これは今更言うまでもないことであると私は信ずる。そこでこういう民主化のための犠牲が、どういうきつかけで起つて、それが結果において、どういういいことをもたらしたか、それから軍法会議の問題、或いはナホトカにおける、さつきの他の証人のお話によれば、軍法会議であるか、それともここにプリントされている人民裁判であるのか分らないような証言が、佐藤甚市証人によつてなされておる。それだから人民裁判、人民裁判と言われているものや、それから吊し上げ吊し上げと言われているものや、それから正式のソヴイエトの軍法会議との差別、こういうことを明らかにして行かなければならない。そうしなければ、ただ吊し上げとか、人民裁判とかいうような言葉に脅かされた人々が徒らに心配する。徒らな心配からして、決して客観的にいい結果は生じて来ない。こういうことがあるから、問題を出しているんですから、それですから、そういう問題に、この問題に立入るならば、そういう根本的な問題が妨げられると思われるような、淺岡君の何か個人的原因があれば、それを出して貰えば、私ももう一度考えてよろしい。
  823. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと速記を止めて。    〔速記中止〕
  824. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 速記を始めて。高山証人委員長から申上げますが、非常に時間が制約されておりますので、今の問題をできるだけ要約いたしまして、できますなら五分間くらい、後五分間ぐらいで説明のできるように、無理な御相談ですが、一つ要約して各位に分るように一つ証言を願います。高山証人
  825. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) そのようにして高山助教授は虐殺されて行つたわけでありますが、直ちに我々はこの問題をソ連側の方にお願いしたのですが、これは不十分である。当時吉井という軍医が急性肺炎で診断書を書いておるので、これに基いて不十分であるということで、一応済んだのでありますが、我々はこれだけではどうしても満足できない。民主々義のために倒れた高山助教授は、これは決して高山個人の問的ではなく、民主的な当時のシベリヤにおける我々全体の問題であるというので、モスクワの方にお願いいたしました。これは結局四八年、去年の十二月の十三日に問題が明瞭になりまして、本宮、それから上島、長内、この三名が極東軍法会議に付せられまして、私証人として参加いたしました。で、ソヴエツトにおけるいろいろな問題が、特に闇から闇へ葬られるというようなことを、いろいろとデマられておるようでありますが、私の経験からいたしますならば、極めて公正な立場から、決して捕虜であるとか、或いは日本人であるというような立場からでなく、時の裁判長は少佐の方でありましたが、極めて微に入り細に入り、証人に決して押付けるのではなく、自由な立場から発言を求められ、更にこれに対して証人発言を要求し、証人発言が終つたあとで、直ちにそれについて各被告に一人々々質して、今証人発言したことに対して、各被告は異議があるかないか、異議があればどの点において異議があるということを申し出よ。極めて民主的に行われ、最後に軍医の大佐の人でありましたが、この人が被告人の特別弁護人として、被告が直接高山に加えたこのいわゆる傷害致死、その問題についても医学的な、法医学的な立場からこれを弁護されて、非常にソヴイエツトの法律というものが、日本の裁判のような暗黒的なものではなく、極めて公正に民主的に行われるということを、私達は身を以て体験したわけであります。それで大体私の高山助教授事件に対する発言を終りたいと思います。
  826. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 先程保留いたしておりました日本人婦女子の問題でございますが、山本証人に伺いたいと思いますが、関東軍の中に看護婦が相当つたと思いますが、その人がソ連の方へ移動して行つてつたように思いますが、行つてつたとすれば、どのくらいな看護婦の数がございましたか。そうして又その状況はどんなふうでございましたか、伺いたいと思います。
  827. 山本昇

    証人(山本昇君) お尋の件、一九四五年、昭和二十年であります。その九月の三日、三日でございません。九月の終でございます。二十二、三日であつたと思います。ハバロフスク将校收容所に私参りましたときに、チヤムスの病院におりました看護婦、大体百二十六名ぐらいであつたと記憶いたしますが、もつとおつたかも知れません。これは看護婦の中に地方人も入つておりました。その人達が大体百三十名近くそこに来ておりました。それからその十一月頃、大体各分所並びに病院に配属せられまして、そうしてその大部分は一九四七年の夏に帰つた筈でございます。その中に一例としてこういうことをこれは聞きました。これはソ連側の人からはつきり聞きました。衞兵所にその女の看護婦が一名呼ばれたそうです。ところがその看護婦が拳銃で以て、その人を打殺した。それで結局どういうことになつたかと言うと、それはやはり何か怪しからんことをやろうとしたことのために、それが持つてつた拳銃で打殺したというようなこと、そうしてその看護婦はどこかへやられたということを、これは噂で聞いております。
  828. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 それで健康なんかは保てて、丈夫で、各所から引揚げられて、今は残つておる人はないでしようか。
  829. 山本昇

    証人(山本昇君) 現在は殆んど……、全然ないと思つております。
  830. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 そうですか。
  831. 山本昇

    証人(山本昇君) そのうち結核で死んだ者、藤田という看護婦を一名知つております。
  832. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 それでは続いてお尋ねいたしますが、佐藤甚市証人に伺いますが、先程地方人の中のタイピストということを御証言になられましたが、これは女のタイピストでございますか。
  833. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 女のタイピストであります。
  834. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 それでしたらどのくらいの人がおりまして、どういう方面におりましたか。
  835. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) これは私が直接見たわけではございませんが、三十名タイピストがハバロフスクにおられたそうであります。
  836. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 その人達が引揚げたかどうか分りませんか。
  837. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) その後の動勢については分つておりません。
  838. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 それではもう一人伺いたいと思いますが、佐藤三郎証人に伺いますが、あなたはハバロフスクからカラカンダと大分広い地域を移動されたのでございますが、その間における日本人帰女子の問題で、お知りになつていらつしやることを伺いたいと思います。
  839. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) これは印刷が間違いまして、これはカラカンダからハバロフスクとございますが、私はデスカジンに約一年四ケ月、それからバルハシに一年ぐらいおりまして、昨年の九月にカラカンダに参りました。カラカンダの第五分所というのは病院でありますが、そこで三名の方が何か縫工所の病衣の修理とか、そういうことをやつておりました。私が十一月二日にナホトカで船に乘りました。その時私のあとから来た梯団に一名の方が来ておりました。
  840. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 帰りのですね。
  841. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) そうであります。
  842. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 それであとの二名の方は。
  843. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) あとの二名の方は向うに残つております。そういう話を向うで聞きました。
  844. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 有難うございました。  もう一つ高山証人に伺いたいと思いますが、あなたのところは日本新聞でございますので、事務員とかタイピストとか、そういう方面の人がいたと思いますが、日本人の帰女子がいたと思いますが、その状況を簡單に伺いたいと思います。
  845. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 大体ハブロフスク地方に五、六十名の帰女子が来ておりました。そうして大体主としてハバロフスク、それからライチハ、それからビロピジヤンの四十六地区、ホールに分散しておりましたが、これは大体四十六年の第一次梯団で主力が帰つて参りました。それから四十七年の七、八月頃までには全部帰つております。特にあすこに希望して残られた須藤敬子さん、この人は現在東京に帰つておりますが、その人を除いて、ハバロフスク地区におられた婦女子は全部帰つております。各地区状況については、詳細は知りませんが、帰女子が入つてつたのは非常に少い数で、現在殆んどいないと、かように思います。
  846. 千田正

    千田正君 大分遅くなりましたから簡明にお答えを願いたいと思いますが、先後高山、小倉証人から、食糧問題につきましては、初めから定量をやつてつたので、途中でいわゆる将校その他の者があれして、段々ソ連の状況が、産業が恢復するに伴つて、全般的に捕虜の方に対しても、影響して来たというようなことはないというふうな意味証言をされておつたのでありますが、この点につきまして、山本証人並びに佐藤三郎証人に伺いますが、入ソ当時のあなた方が捕虜として受けたところの食糧については、先程からいろいろあなた方から御陳述があつたのでありますが、帰る項に当つて、大分質或いは量において変つて来たかどうか、非常にソヴイエトの方では最初のときと違つて相当質或いは量という面において、豊富になるとか、質の内容が変つて来るとかいうふうに、順次好転になつて来ておつたかどうかという点について証言して頂きたい。
  847. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) 私は昭和二十年の十月二十六日に、カラガンダを西に約六百キロ離れたヂスカジカンという所に入りました。それから翌年の大体七月頃までは非常に惡くて、近藤中尉という方が糧秣の方の受領をやつておりましたが、その方に余りひどいのでお伺いしましたところが、大体今のところ三百七、八十グラムしか貰つていないということを申しておりました。将校の方も非常に兵隊に対して気の毒だということを申して、三百五、六十グラムのパンを、将校団が八十四名おりましたから、交替々々に兵隊にパンをくれるとか、或いは煙草をくれるとか、そういうことをやつていろいろ我々に援助してくれました。
  848. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) その後七月頃から大分日本側として、食糧について要求しましたところが、今までは大体一人に対して何グラムやるということは、確実な規程がなかつた。今まで惡かつたけれども、新らしく内務省規程が出来たから、それによつて分配するということを申しておりまして、その都度段々よくなりました。
  849. 山本昇

    証人(山本昇君) 捕虜の給與規程として下士官、兵、それから将校、それから将官、患者将校、これは皆給與が別になつて規定されております。但し規程と実際問題は別であります。私先刻申上げましたように、初めの状況は非常に惡く、衝次によくなつて来た。これはロシア内の一般状況が非常に惡かつた。殆んどハバロフスクの駅に着いても、無一物で跣でいる。日本の風呂敷や或いは紋附あたりを着て、女子供は歩いているというような状況でありまして、従つて食糧事情も窮迫しておつた。殆んどすべての罐詰、或いは食糧はアメリカから来ておつて、米はアメリカ、カルフオルニヤ産であります。そういうような状況であつたために、給與規程があつたけれども、果してその給與通りにくれるのか、或いはそういうような状況のために途中で拔いて行つたのか、これは二つともその理由があると思いますが、初めは非常に惡く、漸次よくなつたという状況であります。それで途中でなくなつた状況を申上げますと、ビロビジヤンからビラカンに来る僅か三時間ぐらいの間に、小さな車に乘ります。そうしてこちらから糧秣を受領に行きますと、途中で大概掻拂われる。これはもう乘つている職員と、それから掻拂う奴とぐるになつておるというようなことを又言つております。そうやつて大きなアメリカ整の豚の罐詰あたりを、途中で取つておるというような状況であります。
  850. 千田正

    千田正君 分りました。結論は、ソ連の国内事情が非常によくなつたから、同時にいわゆる捕虜に対するそういう配給もよくなつたというふうにお考えですか。或いは先程高山証人の言にあつたように、民主グループの諸君が後から大いに改革しなければならんというので、相当ないわゆる民主的な活動によつて、漸次好調になつて来たという証言があるのだが、あなたの考え方から見れば、今の民主グループの活動によつて好調になつて来たのか、或いは民主グループの活動もさることながら、国内におけるところの経済状況のいわゆる回復によつて、あなた方が漸次好調になつた影響を受けて来たのか、そのどつちだと考えておりますか。
  851. 山本昇

    証人(山本昇君) 民主グループのあれは全然ないと思います。大体民主グループ連中が如何に患者の食事を掻拂つてつたか。それから民主グループの者が自由勝手に外出許可証を持つて、或いは又帰るときにどんな被服を着て、どんな靴を履いて来たか、それは反動将校のやつた、それ以上のことをやつてつたということがお分りになると思います。
  852. 千田正

    千田正君 高山証人に伺いますが、今外の二人の証言がありましたが、あなた自身としては、民主グループの活動が主として預かつたというように先程言つておられましたが、さつきあなたは国内の事情の如何に拘らず、とにかく初めから終りまでソヴイエトは定量を與えておつたのだというふうな点においては変りはないと、現に主張しておりましたが、質或いは量において大分、外の証言によるというと、後になつて好調になつて来た、それはソヴイエトの国内におけるところの産業状態その他において復興して来たから、それがその他に対しては影響を及ぼして来たのだというふうに、外の証人が言つておりますが、この点を重ねてあなたがどういうように考えておられるか、証言して貰いたいと思います。
  853. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 捕虜の食糧の規定、これは同じであつたのでありますが、その内容において質において非常に好調になつておりました。私の経験から申上げますなら、最初の頃は主としてコムソモリスクにおいては、河で獲れた鯰が配給されておつたのでありますが、ずつと四六年の末から四七年にかけては、鮭、それから諫、こういうものがどんどん配給されているというような状態でありましたし、それから作業能率を上げます者に対しては、特に増配が五十グラム行われるというような状態でありまして、ソヴイエトの国力の恢復、復興、発展と同時に、我々に対する特別の配慮が行われております。又高梁等も原穀でくれておりましたが、これはどんどん我々の方で搗いて食べる。或いは米等も最初は玄米でありましたが、これを我々の方で搗いて食べる。又いろいろと質を向上をさせるために努力を拂いまして、民主運動の発展とソヴイエトの配慮によつて、分所内における生活は非常に豊かに明朗になつて来たのであります。
  854. 千田正

    千田正君 分りました。それで結論としては途中でそれを掠奪して巧くやつてつたというのではなくして、むしろ定量をソヴイエト側としては配給しておつたのであるが、その定量の内容においては、当時のいろいろの事情によつてつてつたということだけは、あなたは認められるわけでありますね。簡單に……。
  855. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 反動将校が定量をごまかしておつたという事実は、これは……。
  856. 千田正

    千田正君 その点は、そういうこともあるだろうし、そうじやないところもあるだろうから、これは広い收容所内のことだからいろいろあると思います。ただ国内の事情が、段々ソヴイエトの国内の事情が恢復するにつれて、そうして定量の配給に対する内容も変つて来たということは、あなたは認めますか。
  857. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 認めます。
  858. 千田正

    千田正君 佐藤証人その点はどう思いますか。簡單でよろしいがお願いいたします。
  859. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 私は昨年の九月二十一日にカラカンダに来ましたが、大体私がカラカンダに来る一ヶ月程前から、民主運動が非常に活発となり、その前から食糧事情は段々よくなつておりましたのですから、これは果して民主運動の活動によつて食糧がよくなつたということは云えないと思います。又ヂスカジカンにおいて、わずか一年一ヶ月の間に九十九名死に、その何名しか死んでい、それを見ても如何に食糧で以て悩まされておつたかということは、はつきりしておると思います。
  860. 天田勝正

    ○天田勝正君 私も今まで聞きました中で、非常に不審に思う点を先ず佐藤甚市証人に伺います。それは先程の中野委員の問に対しましての答でありますが、何か日本側の責任者である大隊長なり中隊長なり、これらの方に作業に出すところの指定権がある、こういうように響くのですが、その指定権を百名いるところを五名出すというのならば、これは成る程自分の気に入らない奴を出してやるとか、弱い奴を不当に出してやるというような取拾選択ができるだろうけれども、土方をするか、石を運ぶか、大同小異、似たようなものに、一体全員がその仕事を割当てられるのじやないのですか。
  861. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 全員ではありません。
  862. 天田勝正

    ○天田勝正君 全員ではない……。
  863. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 作業への出場につきましては、当時の毎日の作業への出場率は八五%と決められております。それで作業の割当方は石切山なら石切山に十五名、炭鉱なら炭鉱に十五名というように向うから指示して参ります。それに対してそれに堪え得る人員を、医官の方の意見を参酌をして、関係小隊長集まつて来て、ここで大隊長の下に決定するわけであります。
  864. 天田勝正

    ○天田勝正君 重要な問題ですが、よく私の問を一つ誤解なさらないように、つまりこういうことなんです。百名あなたが掌握していれば、そこへその石切とか石炭とか、どこであろうと、とにかく百名のところへ五名の者を出せと言つて来れば、それならばあなたが気に入らない者を出すなり、或いは弱い者でも不当に出すなり、その取拾選択権があなたにある。ところが五人はそれは或る程石切だ、五人は石運びだ、後の八十名は今度は土方だ、或いはその他の残りは今度は大工だと、こういうふうに百名が百名、これは病気の人は別ですが、それを除いて丈夫の人は全員どの仕事かに一体割当てられて来るのじやないですか。
  865. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) そうです。全部割り当てられて来るのであります。
  866. 天田勝正

    ○天田勝正君 そうでしよう。それだからそれが重要なんです。さつきの問で行けば、百名のうち五名なら五名の取捨選択権があると、そういうことになれば、これはもつと先を申しますると、さつき中野委員の問の如く、挙げて、食糧問題は別の問題として、その他の要するに病気やら、それに原因するところの死亡やらということは、あなたの場合にはあなたの責任になる、こういうふうに考えられるのです。そういうふうな証言に聞えたから、ここは重要だから念を押して聴いて置くのであります。俘虜という者がそんな自由なものであるかどうか。大切なことです。そのことを聴いているのですから、はつきり一つして下さい。
  867. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 作業は全員に対して割当が来ます。そうしてその区分という区分も向うから全部指定して来ます。どこに何名、どこに何名というふうに指定して参ります。一人として動いておりません。ただその人選を日本人側において原案を作つて、名簿を提出して、採用するのであります。
  868. 天田勝正

    ○天田勝正君 このことは最後的にこう理解してよろしいでしよう。つまり百名仮におつて、病人が五人なら五人おると、残りは九十五名である。併し九十五名全部に何かの仕事が割当てられるのだ。ただ甲の所へは五名、乙の所へは十名、丙の所へは二十名という数の指定があつて、そのどこへ二十名の者を誰をやるかということだけが、特殊の命令がない限りはあなたに選択権がある、こういうふうに理解しなければならないのでしよう。
  869. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) そうでございます。
  870. 天田勝正

    ○天田勝正君 高山証人に伺いますが、あなたが先程の署名運動の場合に、いろいろ收容所、或いは地区名前を言われておりましたが、この各地とおつしやるのは全ソ連の收容所のことをおつしやいますか。全ソ連の收容所のことを……。
  871. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 大体主としてこの署名運動に参加いたしましたのはハバロフスク、沿海州地方、それから樺太のオハ、それからずつと遠い所で、我々の方で出向いて行けない所は、向うの方から署名分を一括して我々の方へ送つて来まして、これを我々の方で更にまとめてモスコーに送るような手続をいたしました。でありますから中央アジア、モスコー附近の方からも、これに参加いたしておりまして、ただ地区名を記憶いたしておりません。
  872. 天田勝正

    ○天田勝正君 だから私の聴くのは、送ろうが送るまいが、その六万六千名の署名というものは、全ソ連の一つ残らずの收容所、拒否したもの以外はこれは参加している筈であります。
  873. 天田勝正

    ○天田勝正君 あなたはそれが九万五千の中六万六千という話をされましたが、その九万五千とはあなたはどこから取られましたか。
  874. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 九万五千は五月二十日のタス通信によるソヴイエトの発表であります。これに基いて我々は九万五千という数字を認めておるわけであります。
  875. 天田勝正

    ○天田勝正君 それだけですね。次にその贈呈式と言いますか、贈る式の場合、各地から代表が来られたという話でありますが、そこでその場合に残留者とか、或いは帰国ということは非常に重大な関心を持つておられたと思いますが、そこでそれらの代表諸君が、俺の分所、俺の收容所には幾らいるという話は出ませんでしたか。
  876. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) それについてお答えいたします。大体各分所において、スターリン大元帥への感謝文署名運動の準備会というものが、大衆集会において各分所に置かれまして、それから全地区においては、各分所の代表地区に集まりまして、その中から全地区の準備委員会というものを選んでおります。このようにして下から下からずつと民主的に選んで、各地区から結局特にハバロフスク地方、それから沿海州地方以外はチタ、或いはイルクーツク、中央アジア方面からは、汽車の便や又人員の点で、又いつ移動するか分らないので、これに参加することはできなくて、結局文書によつてこれをハバロフスク地方に一任する、そういう文書を得まして、そしてこれを我々は九月七日の……。
  877. 天田勝正

    ○天田勝正君 いや手続の一任はよろしいです。問題は数なんですがね。その九万五千というのはタス通信ということは今分つたのですが、それを裏附けるべきところの、あなた方がそうしたお集りのときに、日本人みずから、つまりあなた方みずからが、それを集積されたことがあるかどうか。
  878. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) あります。それは十六地区においても、各地区においてもやりましたが、又自分地区においても、これに参加した者は何名、拒否者が何名、総員何名というように出して来ましたし、各地区においてもこれはやつて来ました。参加した所は……。
  879. 天田勝正

    ○天田勝正君 それの総計が九万五千対六万六千と、こうおつしやるのですか。
  880. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) それははつきり記憶にありません。ハバロフスク地方においては、これは明瞭に出て来ております。
  881. 天田勝正

    ○天田勝正君 ハバロフスク地区についてははつきりするけれども、他の地区総計としてははつきりしない、そう理解してよろしいですか。
  882. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 他の地区においては、そう理解してよろしいです。
  883. 天田勝正

    ○天田勝正君 つまり、あなたのおつしやるのは、ハバロフスク地区についてははつきりあなたは掌握しておる。併し他のそれ以外の地区のことについてははつきりしない。しないというのは全然知らんという意味じやないでしようが、とにかくはつきりこれだけの数に対して幾らだということは証言できない。こう理解してよろしいですか。
  884. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) ハバロフスクとそれから沿海州は大体今申上げた方式によつてつております。他の地区においては、大体署名書を送つて来た奴に基いて、これを送つたわけでありまして、その数ははつきりしたことを掴んでおりません。
  885. 天田勝正

    ○天田勝正君 あなたのおつしやるハバロフスクと沿海州だけは、その数ははつきりここでお分りになりますか。
  886. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) これは今直ぐ分つておりません。これは後から文書で送りますが、大体数の問題について、若干私は自分の見解を申上げたいと思います。(「見解は要らない。証言だ。」と呼ぶ者あり)
  887. 天田勝正

    ○天田勝正君 もう一つお尋ねします。先程代表が集まつたという話。それから、我々は行かれないから、そちらへ委任するという話があつたわけですが、何かこの話を聞くと、国内で我我が労働組合の大会へでも行くような調子に、叶めて捕虜という感じを受けない気になるのですが、そういう勝手気ままというか、自由があつたわけですか。
  888. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) そういう我々は自由を與えられております。
  889. 天田勝正

    ○天田勝正君 そうすると、それは他の人のお話を聞くと、他の人はなかなかそういう自由を持つておられない。そうすると、あなた達だけですか、そういう自由を持つておるのは……。何か、俺、こちらにおるか、行かれないから、そちらに任せるということになると、えらい、我々が何か大阪の大会にでも行くがごとき感じを受けるのですがね。そういう趣旨のもんですか。
  890. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 中央アジアの方は距離からいたしましても、又ハバロフスクへ来るといたしましても、一週間或いは五日というように長い日にちが掛かりますし、これは又捕虜だけで勝手に歩くわけに行きませんし、ソヴイエト側の将校が附いて行かなければならないというような状態で、向うの方からはこれに参加することはできなかつたわけであります。
  891. 天田勝正

    ○天田勝正君 質問を変えます。ではあなた達沿海州やなんかの各地から、その贈呈式に集まつた人達は、ソ側の監督者やなんか附いて来るということでなしに、汽車に乘つて集まつて来られたわけですか。
  892. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) それは各地区から代表が来る場合は、必ずソヴイエト側の将校の方が、我々を保護するために附いて来てくれております。
  893. 天田勝正

    ○天田勝正君 保護じやない。それは監視するためでしよう。
  894. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 保護するためです。
  895. 天田勝正

    ○天田勝正君 どうしてです。
  896. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 例えば、捕虜でありますから、他の者から見ると、証明書なく他へ連れて行かれるとか、或いは危害を加えられるということのないように、保護し、保護するために我々を送つてくれておつたわけです。
  897. 天田勝正

    ○天田勝正君 いや私共は、千田委員もおつしやつたように、非常にソ連というところは、人種的差別観念が何もない、或いは又さつきも水野さんの御証言で答えてあるんでも、さして危險もない。そうすると許されれば、保護も何も要らん。監視以外に必要ないのじやないのですか。特にあなたが保護とおつしやるのはどういうわけですか。
  898. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 何でありますか。
  899. 天田勝正

    ○天田勝正君 特に保護というのが……、向うの確かに捕虜だから、許されなければ、私は出られないと思う。そういうので、あなた方代表もお集りになつたと思うのですがね。それは監視について来るのじやありませんか。保護というのは何か今まで私の聴いておつたのでは、ソ連というところは非常に人種的差別観念がない、どこに行つても同じように扱つてくれる、このように聴いている。扱つてくれるけれども捕虜であるから、監視しなければならない、これが普通の常識であるのですね。だから許されて代表として来るには、監視はされるけれども、別に保護されることは要らんのじやないかという気がするのですが、保護というのはどういう意味ですか。
  900. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) まあ我々も捕虜ですから、あなたのおつしやる通り正式に言えばそうだと思いますが、我々はまあ保護されておつたというように考えておつたわけです。
  901. 天田勝正

    ○天田勝正君 もういいです。
  902. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 高山証人に尋ねますが、大体天田委員の御質問で、又それに対する御証言はつきりして参りましたが、あの署名運動に参加しました地区のことですが、ドうもはつきりしませんのですけれども、もう少しはつきりとお考え頂いたらと思います。そして御証言をして頂きたいと思います。
  903. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 主としてハバロフスク地方、その参加地区は、第十六地区、それから第五地区、コムソモリスク、第四地区、イズヴエスト地区、第十九地区ライチハ、それから沿海州の管轄の内務省、それから労働大隊、それから最終集結のナホトカ、それから樺太のオハ、これらの地区が主として参加しております。その外中央アジアの方からも、只今申上げましたように、各地区から署名した文書が郵送されて来ております。これを我々の方でまとめて、モスクワに贈呈したわけであります。
  904. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 郵送されて来たのでも何でも構いませんが、中央アジアの方を又もう少し詳しくお述べ下さい。
  905. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) それについてはもう、ちよつと記憶にありません。この問題については、日本新聞の相川さんがよく知つておるのでありますから、この御質問に答えて頂きたいと思います。
  906. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 もう少しお考えを頂いたら思い出すのではないかと思います。高山証人相当しつかりしているようなので、少しお考えを頂いたら分るのではないかと思います。折角これだけ分つて参りましたので、もう少しお考え下さつてからで結構です。
  907. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 中央アジアから、それからモスクワ地区から我々に送つて参りました。地区名を今思い出せないので、記憶を辿つて、文書で又これを申上げたいと、このように考えております。
  908. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 少しお考え願つてからで結構です。成るべくこれだけ分つておりますから、まとめて置いたらと思いますので、あとで又伺います、お考えを頂いてから……。
  909. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 大分時間も経過しましたので、一、二点委員長から質問をいたしまして、今日の委員会を閉じたいと思うのであります。簡單に一、二点お答えを願いたいと思います。先ず高山証人にお伺いしますが、日本新聞の発行部数について知らして頂きたい。
  910. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 日本新聞の発行、これは大体工場が別のところにありますので、はつきりした数字を我々掴んでおりません。これは日本人側には誰も分らないと思います。
  911. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 高山証人委員長からお伺いしますが、あなたの先程来の証言中、自分が宣伝部長もやりとはつきり言つておられて、部数は分りませんか。
  912. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 自分は部数は分りません。
  913. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう一点高山証人に伺います。コバレンコ社長と言われましたが、これはいつお辞めになりましたか。
  914. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 自分は十月の二十一日にハバロフスクを発つたんでありますが、コバレンコさんは依然として日本新聞社の、自分の出発した当時は社長であります。休暇のためにちよつと休まれたが、新聞社の社長は依然としてコバレンコ中佐であります。
  915. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 六月に辞められたんではないのですか。
  916. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 六月に辞められたという事実は全然ありません。それはデマであります。
  917. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう一点伺いますが、大場三平という人はどなたですか。
  918. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) それは自分は記憶にありません。
  919. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 高山証人に伺いますが、日本新聞はこちらの手許にもあります。あなたは日本新聞の宣伝部の責任者であり、大場三平という名前はその都度社説に載つておる名前であつて、あなたが知らないとおつしやるのは、非常に了解に苦しみます。はつきりと宣誓がしてありますので……。日本新聞に明らかに大場三平と書いてある人について、高山証人にお聞きしておる。証言を求めます。
  920. 高山秀夫

    証人(高山君夫君) はつきりした記憶はありませんが、大場三平はペンネームでありまして……。
  921. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 誰のペンネームですか。
  922. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) これは淺原正基のペンネームだと思います。
  923. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 重ねて高山証人に伺いますが、淺原正一と諸戸文夫氏との関係はどうなつているのですか。この点を証言を求めます。
  924. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 淺原と自分とは友人であります。
  925. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今委員長証人に(「ちよつと話が違うじやないか」と呼ぶ者あり)お聞きいたしましたのは、淺原正一と諸戸という人とはどういう関係にあるかということをお尋ねしております。
  926. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 淺原と諸戸は同一人であります。淺原正基が本名でありまして、諸戸文夫はペンネームであります。
  927. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 大場三平は淺原正一であり、諸戸である、こういう工合に証言されますか。
  928. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 証言します。但し淺原正基ですね。淺原正一ではありません。
  929. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 淺原正一は基ですね。
  930. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 淺原正基と諸戸文夫はこれは同一人であります。諸戸文夫の方はペンネームであります。
  931. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 大場三平は……。
  932. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 大場三平も淺原のペンネームであります。
  933. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう一点高山証人に伺つておきます。日本新聞は何人宛てに一部割当てて配分されておりますか。
  934. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 日本新聞は赤軍が日本軍捕虜に與える新聞でありまして、工場も別にありましたし、何名に一部というような発送の問題等については我々は全然知りません。
  935. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 小倉証人に、今の問題について発行部数、それに何人当にどのように配つておられたか、知つている範囲内において証言を求めます。
  936. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 日本新聞の発行部数について、私は日本新聞社関係でありませんので、はつきりしたことは分りません。ナホトカにおりましたときには、新らしい号が、大体五百から八百ぐらい毎期受領しております。
  937. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 小倉証人にもう一点お聞きしますが、日の丸署名運動に出られましたか。
  938. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 何ですか。
  939. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 訂正いたします。スターリン感謝文決議運動に参加されましたか。
  940. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 署名にですか、会議にですか。
  941. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 前に集まられた各地区の代表、地区講習生、その他の方が集まられたそのときに出席されましたか。
  942. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 出席しております。
  943. 岡元義人

    委員長岡元義人君) もう一点高山証人に伺つておきますが、その署名運動のときに、外蒙の代表が参加しておりますか、おりませんか。高山証人に伺います。
  944. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 外蒙の代表は参加しておりません。
  945. 岡元義人

    委員長岡元義人君) していませんか。
  946. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) しておりません。
  947. 紅露みつ

    ○紅露みつ君 高山証人に伺いますが、大変しつこいようでございますが、先程の地区ですね、署名運動の参加地区の後の残りの分を思い出して頂きたいと思いますが、中央アジヤの辺り、その他を、責任者でいらつしやるのですから、そうして随分明敏な頭脳でいらつしやるのですから、思い出しになられると思いますが……。
  948. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 紅露さんの方から各地区においての名前を思い出せというのでありますが、各地区名前を今記憶を辿つているのでありますが、まだ思い出せません。
  949. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 佐藤甚市、佐藤三郎、山本昇、丸山末藏、この四人の証人に簡單にお答え頂きたいのですが、日本新聞の最高幹部諸戸文夫君が、吊し上げを受けて今尚帰還しないが、これは在ソ同胞に対するシベリヤ民主化運動の全責任を彼に負わさんとする、ソ連側の戰術ではないかと思われているのですが、それはそうであるかないか、簡單にお答えを頂きたい。佐藤証人……。
  950. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) この問題は、当時ナホトカにおいて起きました問題でありますが、自分としては明らかにソ連側の、日本人側に責任を転嫁せしめるところの手段であると考えておりました。
  951. 丸山末藏

    証人丸山末藏君) 自分もその通りであります。自分も、今証人佐藤氏の言つたように、同じ見解であります。
  952. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) 同感であります。
  953. 山本昇

    証人(山本昇君) この問題については非常に大きな問題でありまして、大体二つのことが考えられます。只今淺岡議がから言われました通りに、確かに向うの方の戰術である、或いは日本側民主委員の新聞社側、並びに地区責任者辺りの戰術であると考えられると同時に、もう一つは実際淺原らのような三四五部隊におつた者である以上は、そういうふうにやらなければならんというふうな、二つの問題が考えられますけれども、私としてはやはり向うの戰術として、こういう方策を採つたと考えております。
  954. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 更に加藤証人に……。
  955. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 私は淺原事件に関しては全然知つておりません。我々、反動に対しては都合の惡いような新聞は別になかつたのであります。全然知りませんでした。
  956. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 自分加藤証人と同じであります。
  957. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 今度はこの佐藤甚市証人佐藤三郎証人、山本昇証人丸山末藏証人にお尋ねしたいのですが、皆さんは日本新聞を見られておつたのですが、皆さんのお考えでは、皆さん自身が手にされた日本新聞は何名に一枚とか、或いは五名に一枚とか、二人に一枚とか、そうした割合は、皆さんの方で知つておられる範囲で御証言を願いたい。
  958. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 当初入ソ当時は二十名に対し一枚、翌年二十一年の末から二十二年の初まり以降は十名に対して一枚、尚自分が今年の六月收容所を出るまで十名に対して一枚の割合で来ております。ナホトカに対しては各人一枚の割当で来ております。
  959. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) 地区によつてそれは又違いますが、自分がおりました地区は大体三名に一枚、少いときで五名に一枚来ております。
  960. 山本昇

    証人(山本昇君) これはさつきの食糧問題と同じで、この年度によつて逐次増しております。初めは二十名に一枚、その翌年は十名に一枚、逐次増しまして、最後においては大体四人に一枚、ナホトカにおいては我々にまで頂けるようになつたというような状況であります。
  961. 丸山末藏

    証人丸山末藏君) 自分のイルクーツク地方では、一番最初十名に一枚でありました。四十八年度におきまして、十名に二枚くらいの割合で参りまして、四十九年度になりましてから、大体二名に一枚ずつの日本新聞が配付されております。
  962. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 高山証人にお尋ねしますが、高山証人は私が証言を求めたのに対して、日本新聞の責任者である、宣伝の方の責任者であるということを言われましたが、先程からのいろいろの御証言によると、あなたの責任者という意味は聊か違うのじやないかと思いますが、その点はどうですか。その点の御証言を求めます。
  963. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 自分が日本新聞の責任者ということでは全然ありません。私は日本新聞の内部にある宣伝部の日本人側の責任者である。
  964. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 よろしい。そうしますと、宣伝という立場から見て、その新聞の部数がどのくらい出たかということがお分りになつてつたのかどうか。先程はお分りになつておらんとおつしやいましたが、その点で聊か矛盾があるように感ずるのですが、その点はどうですか。
  965. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 新聞はコバレンコ社長の指導の下に出されておりますし、部数等については我々はこれは全然関係ありません。私はただ外部に対して、各文書において、ポツダム宣言に基いて日本の民主化と非軍国化、こういう宣伝と、そうして文書課の職務として民主化するという問題を指導しておつたわけであります。
  966. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 そうしますと部数がどのくらい出ておるか、何がどうであるかということが分らなくて、果して新聞の宣伝部の責任者としての仕事ができたかどうかということに非常に疑を持ちますが、これは時間がありませんから、又の機会に証言を求めることにいたします。
  967. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 大分時間も経過しましたが、イエス、ノーということだけ、小倉証人と高山証人を除く他の証人からお願いいたします。委員長から先程高山証人証言で、諸戸文夫、淺原正基、大場三平、その三つの名前一つであるという証言があつたのでありますが、これについて、大場三平はコウレンコのペンネームではないかということが考えられておるのでありますが、この点について違うなら違う、知らないなら知らない、自分はそう思うなら思うという簡單な答で、先ず加藤善雄証人から証言を求めます。
  968. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 加藤はその点は分りません。淺原と諸戸は同じだということは聞いております。
  969. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 國分も同じであります。
  970. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) 佐藤も同じであります。
  971. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 同じであります。
  972. 丸山末藏

    証人丸山末藏君) 自分も同じであります。
  973. 水野等

    証人(水野等君) 私も同感であります。同じです。
  974. 山本昇

    証人(山本昇君) 私も同感であります。
  975. 中野重治

    中野重治君 只今委員長質問は、こうでありましたか。日本新聞の大場三平という名前が出ておるが、その大場三平はコワレンコのペンネームではないかという只今の間でしたね。
  976. 岡元義人

    委員長岡元義人君) そうです。それでは時間も大分経過いたしましたので、これにて本日は……。
  977. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 簡單ですから一つ……。実は今日の証人に、この二十一日の対日理事会のあの新聞をお読みになつたかどうかということ、お読みになつたなら感想を、あれはこういうふうに自分達は思うとか、或いは思わんとか、つまりシーボルト議長が声明された。それで英国代表もそれを支持された。中国代表もそれを支持された。そういうことに対して皆さんは極めて近い最近にお帰りになつた。そうしたお帰りになつた立場から見られて、あれは自分はあの通りに思う、あれは自分は支持しない。それを一応各証人から証言を求めたいと思います。
  978. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 只今淺岡委員の御質問に対しまして、先ず小倉証人から証言を求めます。
  979. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 在ソ同胞の正確なる数字は、最初の私の証言で述べた通り、入ソ当時の各ラーゲルの団長並びに責任者、最後まで残つてつた地区の責任者、並びに各団長、これを集合せしめた上での証言が、最も正しいと考えます。従つて各地の状況が今までの証言であつた通り、非常にまちまちであり、確信が持てない場合があります。私自身ナホトカにおいて……。
  980. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 私の質問と違う。
  981. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 支持するか否かというのは、どういう点ですか。私は責任を持つた回答をすることができません。
  982. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 できなければできないでいいのだ。
  983. 岡元義人

    委員長岡元義人君) ちよつと小倉証人に……。あなた個人のことをば、個人の考えをば証言として求めているのであつて、何の責任を持つというのでありますか。
  984. 千田正

    千田正君 時間が余りありませんから、今淺岡委員質問に対しては、先程あのシーボルト議長の発表に対して、それを支持するか、イエスかノーかということを、簡單にイエスかノーか決めて下さい。それでなければ、おのおのの主観を以て言えばきりがない。
  985. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 私はイエスか、ノーか。支持するか、しないかということを聞いております。
  986. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 小倉証人は簡單に支持するかしないかという点について、イエス、ノーで答えて頂きたい。
  987. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) 淺岡委員質問があります。
  988. 千田正

    千田正君 淺岡委員は恐らくシーボルト議長の声明を支持するかということを聞いたわけですが、あの部分はシーボルト議長の声明を支持するか否かということですね。その点を明確にした方がいい。
  989. 淺岡信夫

    淺岡信夫君 私が先程申上げたことは、皆さんが二十一日の対日理事会の模様を、その引揚げられた直後でもあり、新聞にもああして大きく書かれておりますから、それを読まれたかどうかということで、読まれた曉においてそれを支持されますかされませんかという、そういうふうに思うか思わないかという、そのイエスかノーかで結構です。読まれない人はこれはどうも御理解のしようがないのです。そうした点を簡單に一つイエスかノーかで。    〔高山証人委員長、高山発言」と呼ぶ〕
  990. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 簡單に、小倉証人
  991. 小倉孝行

    証人小倉孝行君) この問題について、こういう重大な問題の証言をする場合には、それだけの確固たる基礎があつて、初めてこれはこれこれの基礎によつて、これは正しいと思うという意見が決定するのであつて、私は何等の根拠なしにこれを正しいと思うとか、どうとかいうことは、実際問題としてできないと思います。従つて私は最初からできないと言つております。
  992. 加藤善雄

    証人加藤善雄君) 自分は支持します。新聞を読んで見ました。
  993. 國分萬二郎

    証人國分萬二郎君) 自分は読みませんでした。
  994. 佐藤三郎

    証人佐藤三郎君) 佐藤は支持します。
  995. 佐藤甚市

    証人佐藤甚市君) 支持します。
  996. 丸山末藏

    証人丸山末藏君) 自分はあり得ることと思いまして、支持します。
  997. 高山秀夫

    証人(高山秀夫君) 自分は数の問題において、三十数万というふうに書かれておりますが、ソヴイエトにおいて自分が現実を見て参りまして、而も自分達は最後の引揚者でありましたし、この数においては非常に違いますので、これは私は支持いたしません。現実に基いてこれは矛盾しておると思います。
  998. 水野等

    証人(水野等君) 私は申上げます。この死亡率が……ソ連に收容してから全部死んだこととは認めない。これは満洲各地にいる、両方でこれぐらいは死んだと思つております。
  999. 山本昇

    証人(山本昇君) 私もこの数の問題においては、これはソ連だけでなくて、満洲の分が一部含まれているではないか。その他のものについては全面的に支持いたします。
  1000. 岡元義人

    委員長岡元義人君) 長時間に亘りまして、各証人から貴重なる証言を得られましたことに対して、深く感謝いたします。尚時間が許しますならば、各証人からこの委員会に対しまして、特に発言等をば考慮したかつたのでありますけれども、御承知の通にすでに時間も十時を経過いたしてしまいましたので、誠にこの点残念に思いますが、惡しからず御了承を願いたいのであります。遠路のところお出になつた方もございますし、最後にかく愼重に審議をさして頂いたことを感謝いたしますと同時に、当委員会におきましては本日の資料に基いて、更にこれを審議いたしまして、結論を出したいと考えておる次第であります。誠に有難うございました。本日はこれにて閉会いたします。    午後十時六分散会  出席者は左の通り。    委員長     岡元 義人君    理事            天田 勝正君            水久保甚作君            紅露 みつ君            千田  正君    委員            原  虎一君            淺岡 信夫君           池田宇右衞門君            木内キヤウ君            穗積眞六郎君            中野 重治君   証人            加藤 善雄君            國分萬二郎君            佐藤 三郎君            佐藤 甚市君            高山 秀夫君            丸山 末藏君            水野  等君            山本  昇君            小倉 孝行