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証人(水野等君) お金は二十一ルーブル、円といいましたが……。そうして行
つたものですから、途中の間五キロのパンですから、我々
日本人として一キロ食わなければ足らん。スープも何もない。おつゆがないから、それで二日位で食
つてしま
つた。そうして行きましたら、四人の者と私一人離れておりましたから、私一人、皆が芋を買
つて食
つたり、漬物を食
つているから、どうしたんだと聞いたら、出るてきに肌着とワイシヤツを売
つて食
つた。私は年をと
つておりましたから、困
つたな、私も売らんならん。雪がありましたが、表に、一日汽車が止まるということにな
つて、そうして出ましたら、乞食がおりました。パンを買
つてくれとい
つたから、買
つてもいいと言いましたら、乞食でありました。私もここに乞食というものがいるということを始めて気がつき、
自分もはずかしい話だが、乞食の真似をした。そうしたら大変貰
つて、二キロ貰
つて友達に話したら、友達もそうや
つて二キロ貰
つたのでした。そうすると汽車が出ることにな
つたから、汽車が出て、そうして又行くと、七八日行くと、又一日休む。又乞食をしてそうして貰
つて、タスケントの十五キロばかり向うのセルダニヤという三千戸ばかりある村に着きました。そのときにイズベストを通り、セルダニヤという所の、日本で言いますと役場です。そこへ行
つてパスポート、日本で言いますと身分証明書を一名づづ持
つておりますから、それを持
つて役場へ行
つた。そうしたら私ら年寄りと病人ばかりでありますから、收容してくれるものと思
つたら、これから
農場へ行
つて働けと言いますし、私はどうせ年も六十三歳でありますから、働けませんと言いましたが、とにかく行けと言いましたから、朝鮮部落のスダルヤという
農場へ行きました。そこには朝鮮人ばかりお
つた。そうしたら朝鮮人は白く、お前達は働けるかと言いますから、私は働けんと
言つた。働いたら一日粉を一キロ、それから油脂を絞
つた粕を三合か四合やる。それから煙草も配給がない、それから油も配給がないと言う、塩はないと
言つたので、私は煙草は飲まんから差支ないが、後の人は皆非常に嘆いた。そうして勘定は銭はくれるかと
言つたら、銭は来年の一月の勘定をいうのです。私はもうそれで働けんからここに辛抱はできんと
言つた。併し三日ばかりお
つて行きまして、あなた方はパンをくれなければ食えないから私は行きますとい
つて、二十一日の日であ
つたが、自動車が表を通
つたから、自動車に乘
つて以前のセルダニヤの役場へ行
つて、働かなければパンをくれんというので、働けんし、私は仕方がないから、どこか
收容所に入れてくれと
言つたら、惡いことをせんから
收容所に入れるわけにはいかんと
言つた。そんなら乞食をして食
つてもいいかと
言つたら乞食をして食
つても仕方がないと言うので、又乞食をした。そうしたら山本という人も、僕も血圧が百二十も上
つて、目が
廻つて仕方がないからと言
つて来た。そうして私共は袋へ入
つたパンを貰
つた。乞食をした。そうしたら、又役場から呼びに来た。お前達は今度は、楽な所へ行くからと、楽な百姓の所へ行
つた。そこも勤まらんから、その町で乞食をした。そうしたならば、六月の丁度三十日頃にな
つたら、そこの親切な女の中尉がおりまして、それからそこの役場の日本でいうと村長、向うでは少佐、少佐が、お前達は帰れるから、もう一ケ月が十五日で帰れるから、もう一遍百姓になれ、こう言うので、又三十五里ばかりある所へ行
つたが、そこも勤まらんから帰
つた。又役場へ行
つたら、役場の言うには、タスケントへ行けば帰れるから、タスケントの役場にパスポートを書いてやるから、タスケントという所は百五十万乃至二百万ばかりある都会です。そこへ来た。来て、役場へようようた
つて行
つて話したら、一ケ月ぐらいたてば帰れるから、一ケ月どつかへ行
つて来い。そう言うものだから、行こうか。行
つたつて勤まらんから、行
つても仕様がないから、仕方がない。二人で行く位置を決めましたところが、ユージニア、カサスタンドというような
名前、キリヤースとか何とか言いましたが、そこへ何里あるか。三百里ある。どちらの方へ三百里あるかと
言つたら、モスコーに向
つて三百里ある。今度は汽車に乘る銭がないと
言つたら、どつかへ行
つて貰
つて来いと
言つたから、仕方がないから、タスケントの
鉄道局へ行
つて交渉した。こういうわけで、行きたいが、銭がないから、ただ乘せてくれと
言つたら、中尉か大尉がおれらには分らんからと言うので、駅長の偉い人に話した。そうしたらその時分には、髪はぼうぼうにな
つて、丁度北海道のアイヌのような伸び方にな
つてしま
つた。体は、野原で毎日寢ているから、寢る所は、あつちでは泥棒の用心をするから、軒下へ行
つて寢られない。松の木の下やら、下水の中へ行
つて寢る。それでも気持が太くな
つているから、偉い人の所へ二回会いに行
つたが、どうしてもいない時ばかりで、いれば会
つてくれるが、いない。そこへ三日ばかりして、あつちの停車場へ行けば会
つてくれるというので、又行
つたが、会
つてくれない。そのうちに全部お金がなくな
つたから、薩摩芋をやろうじやないかというので、ただ乘りがはやりまして、夜にな
つて構内に忍び込むにも、
相当大きな都市だから忍び込めないが、ようやく一里も
廻つて忍び込んで、汽車の裏の方に隠れて、夜分出発する時に乘
つて、三百里ある所を目がけて出かけた。その後六十里ばかり行
つたら見付か
つて、降されて、仕方がないから一晩泊
つて、明日乘ろう、寒いからというので、その晩木の下へ寢
つてお
つたら、泥棒の乞食が来て、二人共パンを取られた。翌る日パンなしにな
つた。腹が減
つて仕様がないから、もう一度乞食をしよう、パンを取られて、もう仕方がないから、粉を入れる一枚の綿袋を拵えて、そうしてその町で又貰
つて、その晩のうちに行
つた。で、ようよう五十里ばかり行
つたら又見付か
つて降された。夜の十二時頃降されて、丁度そこは惡くて、工場地帶で劍付鉄砲の
兵隊が、五、六人いて、お前達はずるいからと言
つて劍付鉄砲を突き付けられて、いや、おれはそうではない。この通り証明書を持
つておる。銭がないから乘
つたのだと
言つたら、許すから行けというわけで、六人に追われて停車場の構内を行
つたけれドも、真暗で、そこは工場の、日本でも見られんような大きな工場なんです。何とかして、奴が行
つたら乘ろうじやないかというので、そいつが向うに行
つたから、又こそこそ出て来て又そのユージニアのカンクスという方に向
つて行
つて、五十里程行
つたらとても風が強くて雰き飛ばされそうになり、上り口に腰かけているものだから、もうこれはとてもかなわないから、ほこりが眼に入
つてしようがないから降りようじやないかと言
つて降りて、夜明けまで降りていたら、丁度朝にな
つた。十キロ程向うに歩哨の付いた人が三十名ばかりおりました。或る日本兵がお前達はどうしたかと言う。こうこうこういうわけでありますと言いましたら、これは捕虜に、私共はユージニアのカンクスという所に行く、キリヤースという所に行くところだと
言つたら、方向が違う、反対の、さかさまの方に行
つている、そういうことにな
つて、それは大変だ、困
つたなというので、そんな馬鹿くさいことはないから戻ろうじやないかというので、元のタスケントの方に戻
つた。夜になるのを待
つて汽車に乘
つて戻
つたら、又途中で山本有常は降されてしま
つた。私は年寄のために可哀そうだというので、汽車の中に入れて呉れて、そうしてタスケントまで来てしま
つたが、山本有常は若いためにそこで降されてしま
つた。私はそこでしようがないから役場に行かないで乞食するというので私は乞食してお
つた。そうしたら、そうこうしておるうちに七月の月にな
つてしま
つた。歩いておるうちに七月にな
つてから、七月の二十日頃から病気して寢てお
つた。その間に貰
つた金が百円ばかり溜ま
つてお
つたから、砂糖を買
つて食べたり、白いパンを食べたりして、そうしたら丁度七月の三十日の日に、日曜に当りまして、
兵隊が二十人ばかり通
つていた。そこの靴屋の家の良い友達ができまして、それが非常に惠んでくれまして、公園に日本兵が通るから出て見ようというので、飛んで行
つて見た。二十間程離れたところに日本兵がいて、どういうわけでおじいさん来たのか、こうこうこういうわけで、今わしらはハシト劇場の見学に通
つて行くわけだから、帰りに寄るから待
つておれというので、待
つてお
つたら三時頃戻
つて来た。そうしてこの
人間をこうした置けば死んでしまうから連れて行け。第一サンギリという所へ連れて行
つた。サンギリというのは
收容所ですね、
收容所に連れて行
つて、連れて来た歩哨に聞いたら、連れて行
つてもいいというので、私は歩けないから
兵隊を一人つけて、電車に乘
つて司令部の、そこの
收容所に連れて行
つて貰
つて、その晩入れられて翌三十一日の日にそこに身体をすつかり検査して入れて貰
つた。そうして
兵隊と同様に扱
つて、まあ帰れるようにな
つた次第であります。それもありますけれども、それで……。