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1950-03-03 第7回国会 参議院 建設委員会 第8号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十五年三月三日(金曜日)    午後一時三十五分開会   —————————————   本日の会議に付した事件 ○建設事業一般並びに国土その他諸計  画に関する調査の件  (南海地震影響による地盤沈下そ  の他に関する件につき証人証言あ  り)   —————————————
  2. 中川幸平

    委員長中川幸平君) それでは只今より委員会を開会いたします。 本日は南海地震影響による地盤沈下について証人意見を聴取することにいたしました。委員方々にお諮りいたしますが、議院に於ける証人宣誓及び証言等に関する法律の第三条によりますると、宣誓を行う場合には証人宣誓書を朗読させ、且つこれに署名捺印させることになつておりまするが、すでに委員長の手許に署名捺印宣誓書参つておるのでありまして、宣誓書の朗読を省略いたしたいと思いますが御異議ございませんか。    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 中川幸平

    委員長中川幸平君) それでは御異議はないと存じまして、宣誓を終つたことにいたします。  次に、証人に申上げますが、御発言になるときは委員長の許可を得て御発言を願いたいと存じます。  先ず、証人方々に一言御挨拶申します。本日はどうも誠に御多忙中お出で下さいまして厚く御礼申上げます。南海地方地震被害については我々かねて承つてつたのでございますが、殊にこの地盤沈下によつて関係地方が今なおいろいろの被害を蒙つておるということは、最近は又相当広範囲の井戸が使用に堪えない。従つて飲料水について非常に難儀をしておるというような事柄を伺つて、本委員会といたしましても、石坂前委員長を初め、委員方々現地調査参つて、その苦痛の速かに除去されるべく対策を講じなくてはならないということから、本委員会地盤沈下対策小委員会を設けまして、これらの対策を考究いたしまして、政府にその施策を強力に要求したいという考えを以て進んでおるのであります。これらの対策について、斯界の権威者である方方の御意見を拝聴いたしたいというところから、大変御迷惑とは存じましたが、御出席頂いた次第でありまして、尚証人という名も大変失礼なことと存じますが、手続上簡便にいたすために証人という形式をとつたような次第でございまして、どうか悪しからず御了承を頂きたい。かような関係でございますから、貴重なる御研究の御発表を頂ければ大変幸いといたす次第でございます。どうか何分よろしくお願いいたします。御意見発表のあとで、委員の各位から質疑もあるかと存じますので、時間の関係上、二、三十分程度に要約してお願いいたしたいと存じます。先ず東京大学地震研究所河角教授からお願いいたしたいと思つております。
  4. 河角廣

    証人河角廣君) 私から先ず第一に四国地方地盤変動実情について申上げたいと存じます。被害関係のことは一切省かせて頂きたいと存じます。私は南海地震のありまして直ず直後、この地震調査現地に参りまして、一番最初に高知付近の非常に広い面積に亙りまして海水が被つたという実情を見まして、非常にまあ驚きもし、そのことにつきまして、調査を特に念を入れた次第でございます。その後三月頃になりまして、高知県からの以来でもう一度調査に参りまして、一応地盤変動趨勢といつたようなものを調べたのでありますが、一昨年の秋になりまして、四国地方地盤変動の問題が大分地方においてやかましくなりまして、中国四国地方建設局の斡旋によりまして、四国地方地盤変動調査特別委員会というものが始まりましたときに頼まれまして、その委員となり調査をいたしたのでありますが、その際、地震研究所といたしまして、地盤変動の実際の量がどの程度かという問題を特に頼まれまして調査いたしましたので、それに関係して地震研究所における調査の結果を纒めて、これから御報告いたしますと共に、中国四国地方地盤変動といつたものが、昔からどんなふうに行われておるかという、特徴といつたようなものまで一緒に申上げたいと存じます。  昔から南海地方に起こりました地震には相当大きな地盤変動を伴いました。天武天皇白鳳十二年の地震に「土佐の田園五十万頃化して海となる」というような記事が日本書紀に残つておりますが、五十万というような大きな数字であるためにいろいろ憶説も生まれましたし、又記録信憑性についても疑う向きもありましたが、一頃という単位が当時の五坪であること、及び当時高麗尺というものが用いられておつたことから推定いたしますと、約十二万平方キロの面積に相当する広さであり、昭和二十一年度の南海地震に際しまして、高知付近において地盤沈下が行われ、海水浸水を見た約一千町歩面積とほぼ相ひとしいことになります。又紀貴之土佐日記に記してあります、当時の海が丁度この度の浸水区域に当たるということからも、この地域白鳳地震によりまして沈下したのであろうということが想像されるのであります。実際この想像が荒唐無稽のものでないということは、近代に起こりました宝永安政年代南海地震におきましても、全く同一地域に同様な地変が起つたということから、先ず間違いのないことが推定されるのであります。  次に、南海地震に伴います地盤変動特徴というものを簡単に申上げまして、その相似性を明らかにしたいと存じます。先ず、昭和二十一年度の南海地震に伴いました地盤変動の大略を申上げますというと、これは大昔から日本に起こりました大地震の起つた場所で、地震の大きさによつて区別いたしまして書かれた図面でありますが、昭和南海地震というのは、この辺に起つたことになつておりますが、この前の安政というのはこの辺、それから宝永というのはこの辺とこの辺といつたように二つ程挙げられております。昭和年代南海地震におきまして見られた地震変動と言いますのは、ここに色分けいたしまして、地盤上昇したところを赤く塗り、沈下したところは青く塗つてありますが、大きさは、大体直径は沈下を比例して書いてありますが、昭和年代南海地震沈下したと分かつておりますのは、土佐から始まりまして紀州海岸神宮あたりまでは地盤沈下があり、それから紀伊半島南端から地盤隆起いたしまして、それから白浜の温泉地帯から田辺の北の付近沈下いたしまして、それから又淡路島から徳島県の海岸全般に亙りまして地盤沈下が行われました。その辺の、これは徳島県の南の方の海岸でございますが由岐、浅川という辺では約九十センチもの沈下が行われたというふうに、その当時土地の人の話から推定されたのでありますが、それから更に南に参りまして、室戸岬近くに参りますと、その土地の人の話によりますと、一メートルも地盤上昇したというようなことを言われておりまして、実際にもその程度地震が分つたのであります。それが更に西に参りまして高知市の付近になりますと非常に大きな地盤沈下が行われまして、海水が田地の中に入つて来たというようなこともあります。  それから同じような現象が直ぐ西の須崎と言う町の付近にも、殆んど同じような沈下が行われて、やはり浸水があつたのであります。それから南に参りますというと、徐々に沈下量が少なくなり足摺岬付近では数十センチの上昇が行われて、清水の港では検潮記録があり、その結果からも三、四十センチの上昇がありますが、これについては後程申上げます。それから西の宿毛と言う町の附近におきましては約二、三十センチの沈下が行われ、ここでは数百町歩の田が海水につかつてしまつたのであります。それから四国の西の宇和島では検潮記録で二十センチかの沈下があることが分かりましたが、四国北の方面の調査というものは余り行われませんでした。ただこの四国の北の高松と対岸の宇野とにおいて、鉄道の関係の方で調査しておりました検潮記録から、数センチの地盤沈下があつたということあつたのでありますが、こちらの愛媛県の調査南海地震の後は行われなかつたのであります。  それからその前の安政元年の十一月四日、五日の地震によりますれば、四日にこちらの東海地方に起こりまして、五日にこちらの南海地方に起つたのでありますが、その地震による地変をこうして見ますというと、浜名湖の北の気賀というところで二百八十万町歩土地浸水したのであります。それから渥美海の北側にも沈下が行われました。又伊勢、志摩の方にも、ここにありますような地点沈下が行われたという記録があります。そうしてその紀州南端潮岬は約一メートル以上、一メートル半くらい隆起したといわれる、それから北の方に参りますと、三尺くらい沈下したという記録があります。それから徳島建設海岸におきましては、やはり沈下が行われまして、室戸崎に参りますというと、やはり先程のように隆起がある。又高知付近におきましては、三尺四、五寸の地盤沈下が行われ、やはりこの度の南海地震と同じように海中に沈んだのでありまして、西の方の辺においては三尺くらいの沈下があつたという記録だけで後のことは分かりません。ただ後程申します愛媛県の西条付近において、やはり一、二尺の地盤沈下があつたということが伝えられております。宝永四年の地震というのは、南海地震におきましては日本でも最大の地震といわれた地震でありますが、それに対する地変というものは余り記録が古いせいか残つておりませんが、渥美半島の辺で島が急に現れて来たというような記録があります。それからこれも地盤隆起かと思われますが、この辺の紀州南端のことは分つておりませんが、今まで二つ地震沈下が行われた辺にやはり沈下の異変がございます。大阪にも少し海中に入つて来たという状況があります。それから室戸崎はこの宝永地震では五尺から七、八尺というようなことが語られておりまして、殊に五尺というような数字は個々の室戸崎に住んでおりました、庄屋の記録によりますと、五尺くらいの沈下があつたということを言つておりますが、それは確かな記録であります。そうして高知付近におきましては、昭和のときの浸水というものも、非常に広い範囲に津波、地震というものがありまして、大体推定いたしますというと、昭和二十一年の地震安政地震よりも二尺くらい余分に沈下したと思われますから、この辺は五尺くらいの沈下があつたらしい。それから須崎というような所もやはり海になりましたが、この辺まで沈下が行われたということも記録に確かめられております。こういうふうに挙げましたこの三つ地震地盤変動というのは、紀伊半島とか、室戸崎と言うような南の太平洋方面に突出しております半島の岬では隆起が行われ、その北の方では沈下が行われるというようなことは三つとも全く同じでありまして、先程白鳳十二年の天武天皇の頃の地震の際には、地盤変動高知付近に行われたというような推定というのも先ず確かなものだと思われるわけであります。併し地震度ごとにこの地方がこのように、同じ所が同じように隆起沈下とかというようなことをいたして参りますというと、あるところでは地面がどんどん狭くなつて行くというようなことになり、或いは室戸崎にある室戸というような港では、どんどん浅くなつて行くというようなことにならなくてはならぬ筈でありますが、併し記録にははつきりございませんけれども高知市内で大地震の後に、町の中でありますから地盛りが行われなかつたと思われますし、又川によつて、そこに砂が堆積したというようなことも考えられない所でありますが、そういうところで宝永地震で約五尺も沈下したのに、そのときに浸水した区域安政のときに約三尺四、五寸沈下したのにも拘わらず、浸水区域宝永のときよりも少なかつた。又同じその区域昭和地震でも約三尺程沈下したにも拘わらず、浸水区域安政のときと変わらなかつたというようなことから考えまして、大地震の前にはその前の地震の際の変動した量が殆ど回復して元に戻つていて、それ又新しい地震によつて沈下とか、隆起とかをするのではないかというふうに考えざるを得ないわけでございます。実際明治時代以来、この地方で各種の測量が行われておるのでありまして、先程申上げました紀州だとか、或いは室戸崎とかいうような、太平洋に突出しておりまして、地震の時には隆起いたします半島とか、岬の辺は最近いずれも逆に沈下をいたして来たのでありまして、その極端に達したというような結果かと思われますが、昭和二十一年十二月二十一日に南海地震になつたのであります。而も地震直後はこの回復運動が相当急に行われるということも、昭和南海地震の際にもはつきりと分つたことでありますが、そういつたことは昔もやはりあつたらしく、安政地震の直後に紀州の由良港に住んでおります木綿屋平兵衛という人の手記に「潮三尺ばかりに相成り、但し後々少しずつ直ると見えたり。」というような記録がございますし、又三災録という本には、これは土佐地震のことを、書いた記録でございますが、その中にも「潮も三年を経て治定したり。」というようなことが田ノ浦と言うところの伝説に残つておるということでございます。又対象の関東大震災に大隆起をいたしました三浦半島で、三崎と城ヶ島との間が地震直後一ヶ月ぐらいは橋渡りすることができたということを長岡半太郎先生から伺つております。このように地震直後に非常に急激に回復運動が行われるということが、これでも明らかでありますが、実際の実情につきましては後で申上げることにいたします。このように地盤というものが変動の著しいものでありますからして、地震影響による地盤変動というものは、本質的には長期に亘る変動の全輪廻ということになるのであります。従つて普通に考えられる地震当時に行われる変動というだけではなく、地震前の変動も、又地震後の変動も知らなければならないわけであります。併しながらこのような全輪廻を知るというようなことはなかなか容易なことではない。そのようなことの可能な地点というのも非常に限られております。地盤の高さの時々刻々の変動を図る直接の方法といたしましては検潮儀というものがあります。間接的な方法には地面傾斜を図る傾斜計というものを順々に据え付けて置きまして、その傾斜順々に測つて行くということで、地盤の全体の変動量を出すことが原理的にはできる筈でありますがなかなか実行できない。現在私共の利用できるものは従つて直接測る方法としては検潮儀だけということになりますが、その他に水準測量というものを反復実施することができますれば、相当なところまでは地盤変動趨勢も分かるわけでありますが、これも四国地方のような広範囲な区域になりますと、時間や経費の点でなかなか容易なことではございません。四国地方の現実といたしましては、連続的の検潮記録のとれた検潮所も少く、傾斜計というようなものの据付けは全くなかつたのでありますし、水準測量と言うようなものも、明治以来多いところでも三、四回繰返されたのに過ぎないようであります。それでも水準測量の結果からは、先にも申上げましたようなに、例えば室戸半島においては明治二十八年から昭和四年までの三十年間に約二十センチも沈下したというようなことが、今村博士の研究によつて見出されました。その半島がこの度の大地震で一メートル近くも隆起したということも、先程申上げました。四国全域に亘つて同様なことが行われ、地震前の変動地震時の変動とが逆向きであるというようなことも、地理調査所の御調査で分かりましたが、詳しいことは後程同調査所長武藤博士からお話があることと存じます。  次に、検潮記録によります調査の結果を申上げます。今村博士が、先程申上げましたように、太平洋側に突出しております半島部地震に伴う変動と、しれに前駆する変動の特質とに注意されまして、後者の調査によりまして、来るべき地震を予知しようと、一方ならぬ努力を払われたわけでありますが、室戸岬の方は十分な結果が出ませんでしたが、同様な運動は、紀伊半島の先端に近い串本では年々〇・七センチというような速度で沈下を続けて来たということが見出され、水準測量によりまして、室戸岬付近の三十年間に二十センチ変動したということも、全く量まで同じであるというようなことが非常に注目を引いたのであります。四国地方で連続的に観測の行われております検潮所と申しますと、浦戸清水宇和島豊益というくらいのものでありますが、これらの観測にも、途中に欠測がありましたり、或いは又観測方法不備であつたりというようなことによりまして、或いは又観測資料が散逸してしまつて、現在は残つていないというようなことがありまして、地震前後の地盤変動趨勢を調べるというのは、なかなか十分には行われないのでありますが、そのできるだけの資料を集めました調査の結果は、四国地方地盤変動調査報告書、これの第三集というのに報告してございますので、その結果の分かりました結論を図によつて要約して申上げますというと、これが一年々々の平均潮立、これが一九一五年頃から最近までの資料をできるだけ集めて書いたものでございますが、平均潮位と申しましても、いろいろ不揃いな資料でございまして、或いは本当の平均潮位であつたり或いはそれも出なくて望とか朔とかいうような形のもので、僅かな期間の平均であつたり、いろいろ不揃いでありまして、これは余り信用は置けないかと思います。その外の資料といいますのは、大体平均水面を占めているものと思われますが、大体こういうふうに連続しているのがあります。これは九州の細島でありまして、これは四国ではありませんが、こういうものを見ますと、この間が十センチでございますからして、この辺で幾ら大きく見積つても十センチか十五センチといつたような程度で、この辺部も殆ど十センチ内外の反応といつたようなことで、地震の前にはここに揚げました場所に置いては、余り大きな変動がなかつたということが言われております。ただ一つ宇和島というところで、地震の約十年くらい前に、非常に地盤隆起したというようなことが言われたのでありますが、その調査の正確な結果がどうも今得られないのが残念でありますが、その場所検潮記録は、ちよつと残念ながら観測不備がありまして、詳しいことが分かりませんが、とにかく地震前の変動と言いますのは、せいぜい十センチから十五センチと言うような変動がありまして、殊に高知付近で約十センチか十五センチくらい水位が上つておるということは、これは高知浦戸湾というのは口が狭い湾でありまして、気象的な影響がありますので、大体十八年くらいの周期で変化が来る。そういうものがあるかと思いまして、その変動と言つたようなものも余りはつきりしたことはこれからは言えないかと思います。そういうふうに、地震前は大して変動がなかつたのでありますが、地震の瞬間と言いますが、丁度地震のときには非常に急激な変化が起こりまして、例えば浦戸というのは高知の湾の出先の所でありますが、そこでは、図が書けないために一メートルもずらしてこれに書いてありますが、これに急激な地盤変動地震の際には起つた。それからこれは清水でありますが、ここで約十センチくらいの変動が起つた。こういうことが年平均の方でも見られます。併し地震後の回復運動が著しい場所では、これを以て地盤変動の全体と見ることはできません。これと月平均の値について調べて見ますと、これに書いてありますようにこれは今の浦戸のものでありますが、こういうふうに順々水位が初めから見ますと二、三十センチも変つて来ておる、足摺岬の近くにあります清水という港では、四十センチもこういうふうに地震のときに水位が高くなり、地盤上昇いたしまして、そうしてその後順々に又回復して来ておる宇和島では、地震のときに十何センチか沈下いたしまして、その後は大して変つていない。それからこれは高松でありますが、高松では地震後の平均をとると、地震のところでほんのわずかに十センチ足らずの変化があつてその後は少し水位が上つて来ております。それから徳島県の那賀川河口にあります豊益というこの辺でありますが、そこの検潮所におきましては、地震のときにやはり十センチばかりの変動が起こりまして、そうしてその後幾らかやはり水位が上つて来た、即ち地盤が更に沈降を続けたというような結果が見られます。それでもう少し地震直後の変動というのを詳しく調べてみますというと、実際に地盤が変つたということを如実に示す例といたしましては、検潮記録で急に水位が変つたように現れるという記録が一番確かなわけでございますが、これは四国仁淀川河口にあります検潮所と、それからもう一つ先程那賀川河口にあります豊益という検潮所との二ヶ所における変動の曲線を書いたものでありますが、これから推定いたしますと、豊益仁淀川河口においては約一メートル二十センチくらいの変動があり、豊益ではその地震の直後には二十七センチかの変動があつたらしく見られるというようなこと。それから高知の近くの浦戸におきましても、やはり同様なことがあつたということは、検潮記録の方を調べて見ますと言うと出て参りまして、やはり地震直後には約一メートル二十センチの地盤沈下が行われたのが、順々に急激に回復して約百日の間で数十センチの回復を見たといつたようなこと、地震直後参りましたときに調べたのであります。それからこれは検潮記録ではございませんが、須崎の町におきまして、海岸であります港の所に物指を立てまして、それを読取つてつたときの変化から、平均水面変化を出しますと、地震の直後に二十センチだつたものが順々に約百日ぐらいの間に百五十センチぐらいに沈下しているといつたようなことが分かりまして、この結果は高知の結果と全く同じであり、その変動が百二十センチあつたということは、その近くの地理調査所水準点と比べて分つたのでありまして、とにかく高知から須崎に至ります間では、地震直後では百二十センチにも及ぶ変動があつたのが、とにかく百日ぐらいの間で数十センチの回復が行われたというようなことが分つたのであります。その後の結果は、その結果を見て頂きますと、こんなふうなにりまして、現在過去の三月頃では大体もう変動後の沈下量として残つておる部分は五十センチそこそこといつたようなことが、これから推定できるわけでございます。まあそんなふうにいたしまして、地震のときに起る地盤変動というのは可なり大きなものでありましても、非常に大きな変動をした所では急激に回復して行くというようなことが分りますが、併しこの図で御覧頂くように、宇和島という所には地盤変動地震のときに二十五、六センチあつたのが、その後殆ど変わらないというようなことが僅か回復したかどうかというところですが、この高松という所では地震のときの変動は少かつたけれども、やはり沈下が少し進行しているらしく、豊益でもそういつたような傾向がある。こういうようなことでございまして、こういつたことは地方の人達の言う地盤沈下進行して行くというのを裏書するとも言えますあの程度の、一年四五ヶ月で十センチ程度というような沈下進行と言うことは、これは必ずしも地盤変動結付けなくても、気象状態では変化といつたようなこともふだんいろいろな場所に起り得ることでありますが、併しあの地盤変動進行といつたようなことが、ただどこにでもある気象状態変化によつてでないということは後程申上げたいと思います。  以上の結果から申しまして、纒めて申しますというと、検潮記録を、確かに変動が認められるというような信用できる記録を調べて見ますというと、地震の直後に高知県の高知から須崎に至る間ぐらいでは一メートル以上の変動があつたが、その後最近までには殆んど半分以上回復して参つたということ。それから清水港においては地震のときに四十センチくらい隆起したのが、その後六、七センチ回復した。それから四国の西側の宇和島では地震のときは二十数センチ沈下いたしましたが、その後余り変化がない。こういつたことに対しまして、四国の東と北側豊益高松におきましては、地震のときの変動が大体十数センチとなつた、十センチから十二、三センチとなつた、こうありますが、そういつたところで地震後に十センチ及至六、七センチといつたような水位上昇が認められたということであります。このように地震を挟みまして殊に地震後では変動が非常に激しいわけでありますからして、こういつたものを確実に掴むということは検潮記録を調べるより今のところ方法がないのでありますが、残念ながらその資料というのは、四国の中には今申し上げたものようないのであります。そうして今分かりましたことは、非常にぽつぼつとした僅かな点のことだけでございますが、地震直後に、地震の翌年に地理調査所におきまして、四国全域に亘りまして水準測量が行われまして、異変の結果と比較されて変動量が分つたのでありますが、そのことにつきましては、後程各氏からお話があると思いますから、ここでは一切省きます。  地震の翌年の変動量といつたようなものは、そういうふうな程度であつたが、併しこれは四国内の相対的の変動でありまして、絶対的にはどれだけ四国地盤が下つたかということは、変動のありました四国内の調査だけでは分からないのでありまして、ずつとそういうところから甚だしい変動のなかつたところまで調査して見なければ変動の状態が分からないということで、四国地方地盤調査委員会の始まつた時分には、絶対量が何とかして欲しいということ、それから地理調査所測量で分つたことは、地震の翌年の変動であつて、それ以後にはどれだけ沈降したかということは、それだけでは分からないということ、そのことがありましたので、四国地方地震変動の絶対量を測ると言うことで、四国地方地盤変動調査委員会で取上げまして、そうしてその仕事を地震研究所に任せられたのであります。それでそういう変動を調べるということを検潮所において調べたのと同じようなことを短期間にやりまして、平均海水面が現在どこに行つているかということを調べて、その潮位の観測から出しまして、その潮位から今まで分つております支点の高さを調べまして、それが地震前の高さとどれだけ違うかということを調べてみれば、現在の沈下量が出るわけであります。そういう方法によつて地震研究所の高橋、那須、岸上三博士が四国全般を分担されまして調査を行つたのでありますが、疎の結果はここに(図示)これは遠くから薄くてお見えにならないかと存じますが、これが四国の大体の形でございますが、これが室戸崎で、この辺が昨年の五、六月頃までの間には約八十センチぐらいの隆起量が残つており、この高知付近では、これは先程の検潮から出した結果でありますが、五、六十センチぐらい沈下量が残つており、須崎では四十七センチ沈下清水で三十三センチという隆起が残つており、宿毛の辺で二十二センチ、この辺(撫養)これは場所が違いますが、沖積土地盤で三十センチぐらい沈下しており、こちら(豊益)は十八センチ、更に参りますと、高松付近に参りますというと、長浜とか、松山、三津ヶ浜、この辺になりますと、四十八センチとか、四十三センチとかいつたような変動量が大きくなります。それからこの半島の北の今治、波止浜辺では二、三十センチの程度でありますが、南の壬生川辺では現在六十センチぐらいの沈下がある。それからこちらの方の三島とか、新居浜とかいつたような辺では三十八センチから四十三センチと言うような、大体四十センチ程度沈下が……それから香川県のこちらに参りますというと、高松では検潮記録の結果から大体十九センチ及至二十センチぐらいの変動、それからここは引田でございますが、引田では四十センチくらいの沈下量、それから撫養の辺では二、三十センチの沈下量、それから小松島では現在変動量が殆んどない。それからこの橘とか……これは豊益でございます。豊益では十八センチくらいの沈下量、それから橘の辺では八センチぐらい、日和佐で十センチから二十センチぐらい、この甲浦で二十センチのそれぞれの沈下、佐喜ノ浜で三十センチくらいの隆起といつたようなことが出て参ります。ここに出しました数字は、これは又調査が十分完了しておりませんで、暫定的な数字でありますし、そうして比較に用いました以前の高さと言いますものが、成るべく古いところの変動量と比較するというようなことで、こちらの方は明治三十年、その頃のでやつておりますが、こちらの方は記録をとつた時期が少し違うのもありまして、この辺などは対象の時代のものと比較して見るといつたようなことで、統一がとれておりませんし、又そういう古いのと比較しますと言うと、その途中で地盤が、例えばこの辺は沈下した。この辺は一時隆起したといつたようなことが伝えられたこともあるわけでありますからして、そうしますと、その隆起したときと、現在の沈下量というものはもつと大きく土地に人に上に感じた量というものは、これよりも低いかと存じます。以上私共の調べましたのはこの程度でございます。全般的に見まして、非常にこの南の方の半島の辺の隆起量というのは、この辺で七、八十センチというような大きなところもありますが、そういうものも順々回復運動をやつておりますし、それからこの検潮記録の結果からも回復しておるということが分かりました。この室戸崎回復運動につきましては、東京大学の長田博士がここの狭い範囲の測量をやりまして、地盤傾斜変化を測りまして、それから出しましても、やはり非常に急激にその変動地震のときに持上つたというのが、やはり元に戻つて行くというような傾向が実証されております。この南の方は大体回復運動でございますが、こちらの北側の方で上つておりますのは、この豊益という所と、高松検潮記録から、十センチ暗いの地盤の沈隆が進行したのではないかということが言われているのでありますが、こちらの非常に沈下の著しかつた愛媛県におきまして、どうであるかというようなことは、これは測定をもつと繰返さなければはつきりしたことは言えないのであります、この地域における地理調査所の御調査は、この度のそれよりも一年半ぐらい遅れまして、地震研究所調査結果と比較して見ますというと、やはりこの変動のひどい所では二十センチから三十センチの差があつたように思います。まだ地理調査所の方の絶対の変動量というものがよく私どもには分つておりませんので、大体のことだけでございますが、推定いたしました結果、結局高橋教授の測られた結果がございますが、地盤の堅いと言いますか、南の方では殆ど地理調査所の結果と一致しておりますが、小松島とか、それから撫養と言いますような地盤変動のひどかつた所では、地理調査所で、昭和二十二年に測定された結果と、二十四年に地震研究所調査した結果とでは、大きい所では二十センチ程度の違いがあるというのが、或いは地盤沈下進行したという証拠かと思われますが、これを実証するということは、地理調査所の方の測量を繰返して頂くか、或いは私共の方の海岸水面を基準にした調査をもう一度繰返すか、そういうことをしなければはつきりしないわけでありまするが、どうも今のところ調査費用の点で、この調査を本年度限り打切らなければならないような実情でございます。いずれにしましても、変動量というものが一番ひどい所は五、六十センチという程度にしか変動していないというのに、土地の人は一メートル以上も沈下したじやないかというようなことを感じております。  そのことについて、少し私の考えましたことを申上げますというと、地震の翌年の昭和二十三年の十月四日、五日頃に、四国太平洋側の南と言いますか、日本の南に方をリリー台風というのが通過したのでありますが、これは十月の三、四日頃でございますが、このときに浦戸清水宇和島豊益というような検潮記録にあります満潮位をここに描いてございますが、一体にこのころの潮位と言いますのは、潮位予報によつて決めたものが、ここに点線で描いておりますが、それと比べて見ますというと、この辺では三十センチで、この辺では四十センチといつたようなことがありまして、とにかく一番高い潮よりも一尺も潮が高くついたというようなことが台風の影響で起こりましたので、而もその時期というのは、一年で一番潮位の高い秋で、而も満月の近くで、一番潮位の高いときに台風がやつた来たというようなことで、そのためにふだんでさえ高い潮の上に、三十センチ以上もの台風による潮位の上昇が起つたというためい、非常に広範囲に亘る海水の侵入があつたのでありまして、それが土地の人に非常に恐怖感を与えたということがあつたということだけは否定できないと認めます。まあ実際に地震研究所調査した結果というのは、現在のと言いますか、去年の夏頃の変動量というのは、今廻ししました図面でありますが、その図面の測量制度について一言申上げて、このお話を終わりたいと存じますが、このような簡単な方法によりまして出したものでございますからして、先ず十センチ程度の誤差というのは、ないとは言い切れないのでありますが、その上に測定変化を出す、比較した昔の高さといつたようなものにもまだ統一がとれておりませんし、それから測定方法についての吟味も、今から皆が衆智を集めて十分の調査をしたいとやつておる最中でございまして、まあ結果が本当の暫定的な結果に過ぎないので、或いは十センチ程度の改訂は行われるかと存じておりますので、いずれからいたしましても、十数センチ程度の精度だと思つて頂けば恐らく間違いはないかと存じます。私のお話を終わります。
  5. 中川幸平

    委員長中川幸平君) どうも有難うございました。  次は、地理調査所の武藤所長にお願いいたします。
  6. 武藤勝彦

    証人(武藤勝彦君) 私のこれからお話申上げようと思います南海地方地盤変動は、主としまして水銀測量によつて得ました結果についてでございます。水銀測量と申しますのは、御存じと存じますが、道路のふちなんかで物指の大きなやつを地面に立てまして、そうしてその中間へ水銀器と申します機会を据えまして、前と後ろの高さの違いを求めて、それを次から次へ連絡しまして、所用の地点の高さを求めると、こういう方法でござのます。わが国では全国の主要道路に約二キロ感覚に水銀点と申します、しつかりしました石が埋めてございます。そうしてこの石の上面の高さは今申し上げました水銀測量によりまして非常に精密に決められております。それでもし地震等によりまして、地盤上昇或いは低下と言つたような変化が起こりますと、先に河角教授よりもお話がありましたように、地震影響を受けなかつたと思われるような地点から水銀測量を始めまして、新しく元やりました標石の上を水銀測量で以て測つて参りましたその新しい結果と、元の結果を比較しまして土地の移動を求めるこりができます。でこれから申上げますのは、その方法によりました土地変動でございます。この水銀測量の正確さはどの程度にやつておるかと申しますと、標石の間隔が約二キロメートルでございますが、二キロの間を往復観測いたしまして、一度Aの標石からBの標石まで測りまして、更にBからAへ戻つて来まして、その違いが三ミリメートル、三ミリメートルまでは差支えない、三ミリメートルまでの違いで両方の高さの違いが出ましたならば、それを平均したものをAB間の比高として採用しているのでございます。又こういうふうにしまして、可なり厳格に測つて参りましても、例えばこういうところをぐるつとこうまるくやります。そうすると、この点から出まして更にここに戻つて来ますというと、初めここを仮に高さが零であるとして出発しましても、ここに戻つた来たときに零になりません。必ず食違いが起こつて来ます。これは地球の形状或いは重力の関係等による理論的の誤差がございますが、これは全部引き去ることができるのでございまして、これは心配ないのでざいますが、この外に途中の観測に伴うところの誤差が必ず伴いますので、出発したときの値とそれから一まわり廻つてつて来たときの値とは必ず食違いがございます。この食違いの程度の制限をどのくらいにしておるかと申しますと、地理調査所におきましては、一ミリメートル五へ持つて来まして、そうしてこの測りました距離の平方根でございます、平方に開いた数をかけてやる。その制限まではよろしい。その場合には、その制限内に入りましたならば、これは厄介な計算もございますが、簡単に申しますると、一つの間で申しますと、入つた来ました誤差を全部に配付してしまうといつたような方法をとつて、この間の高さの調整を図るのでございます。例えば百キロメートルであります、一つのループを測つたといたしますと、百キロメートルの平方根は十でございますから、一ミリ五へ持つてつて十をかける、即ち一センチ五ミリメートル。そのくらいのときは許してやる。こういつたような程度でございます。で、こういつたような方法南海地震が起こりました後に、翌年一月に、直ちにこの四国地域の水銀測量を始めました。そうしてそのときは全体のどこが動かない点ということは、まるつきり見当が付きませんので、取敢えず暫定的に高松の石、高松にあります水銀点を動かないものと仮定いたしまして、全部の測量をやつたのでございます。それで四国の中で、ここで小さくてお見えにならんと思いますが、この間、一、二、三、四、四つの水準のループ賀できております。これは一つを以てやりますというと、間違いましたときに、つまりこの閉塞差が非常に大きい、さつき申しました一ミリメートル五の平方根をかけてやつておるが、非常に大きく出たということになりますと、これを測り直さなければなりません。その場合に、これは大きい場合にははかり直すのが大変でございますので、小さく分割してあるわけであります。小さく分割していたしますと、例えば一つのループと二のループの閉塞差が非常に大きくなつて測り直さなければならないようなものが出たといたします。その場合にこの調べたものが制限内に入つておりますというと、この二つに分けられた線が明かに悪いということが出るわけで、そういうような測量します地点を発見する上から申しましても小さく分けた方がいいのであります。これは事実上の便宜のためにこういうふなに分割してやつております。それで南海地震の直後に始めました測量は、さつき、申げましたように、高松変化しないものと仮定しまして、実施しております。それで今まで外へでております成果は、全部その成果なのでございまして、さつき河角教授のおつしやられた地震研究所でお扱いになりました数字も、その数字でございます。併しながら高松も相当な地震のショックを受けておるのでありまして、これは明らかに相当な変動を受けておるのであろうということは、我々素人考えでも見当が付くのでございまして、どこかもつと変化のないところから持つて来る必要があるのではないか、つまり玄人考えの点を、もつと影響のなかつたような土地に求める必要がある。こういうふうな考えで以て、広島から出発してこの線を測り、それから淡路島と岡山付近から坂出へ、この付近一つ渡し、それから淡路島から和歌山県へ一つ渡し、それから三原の付近から細かい島を幾つか亘りまして、この四国の北端へ継いでおります。こういつたような方法で以て広島から出たものはどんなふうなるかということを見てみたのでございます。ここに書き入れてあります数字は、あとで御覧願いたいと思いますが、広島を不動といたしまして出した数字でございますが、これによりまするというと、今度の地震によりまして隆起しました地帯は、この四国におきましては、室崎の付近の僅かな土地でございます。それから紀州半島におきましては、潮ノ岬のちよつとのところでございます。あとは全部沈下したように出ております。その沈下量は広島を動かないものと仮定いたしますと、高知付近で七十センチ近い、六十六センチメートルくらい、約七十センチ程度つております。一番大きいのは高知より少し西の辺でございまして、これが七十センチくらい下つております。それからぐるつと廻りまして、愛媛県に行つて低下量が段々減じまして、約三十センチから五十センチ程度愛媛県の長浜の方に参りまして、この辺が三十センチくらい、それから松山付近へ来まして約三十センチ内外、三十センチよりちよつと大きく三十三センチ、三十一センチ程度でございます。この岬の突端に来まして、この辺が少し減つておりまして二十八センチとか、二十六センチとか、そういつた数字になつております。それから又引込んでおる川之江付近へ来まして約三十八センチとか、三十六センチ四十三センチと言つたような、四十センチ内外の値を示しております。それから坂井付近では十九センチ或いは二十センチ、その程度でございます。それから動かないものとして、初めに測量いたしました高松が六十九センチメートルこれは低下している。それから東海岸へ行きまして、徳島付近で三十三センチメートル、それからここの隆起は七十一センチ、これは室戸崎付近でございます。一番突端でございませんから、国道の上でございますから、実際に室戸崎の突端で測りました数字とは大分違うのではないかと思いますが、とにかく七十センチくらい隆起しております。それから紀州半島の方では、潮ノ岬のところで約二十五センチの隆起となつております。それから二十センチ、三十センチ、五十センチ、田部の付近へ来まして五十センチ、四十六センチ、とにかく四十センチ、五十センチの間くらいの変化を示しております。それからもつと北の方へ参りまして、和歌山の付近では約二十センチくらいの低下になつております。それから大阪の近くに来まして一デシくらい下つております。こういつた数字を示しております。又東海岸の方では新宮で三十五センチ、それから少し増しまして北の方へ行きまして四十センチ、四十七センチ、それから尚北の方に参りまして、又再び少し減りまして四十センチ、三十センチと言つたようなふうに少し減つております。それから一番沢山低下しましたところは、田辺から新宮の来たにかけての線にあるわけであります。これを中心に両方から傾いたようになつております。それから中国海岸でございますが、この線では四国のように大きな変動がないのでございまして、三原の付近で十六センチくらい、それから岡山の附近へ参りまして僅かに四センチ程度隆起しております。それから西の方のこの辺が二センチとか、四センチとか、僅かに隆起したように見えております。大体広島を動かないものとしますと、こういつたような程度変化なのでございますが、さてそれでは広島は果たして動かなかつたかどうかということが問題になるわけであります。土地の人の話によりましても、又実際測定しました結果を見ましても、どうも幾らか動いているのじやないかという疑いが見られたのであります。それで更に広島から今度は浜田へ線を延ばして参りまして、浜田には中央気象台の検潮所があります。海の潮の変化記録したり、高さを調べたりする機械がございますが、その機械を使わないでやりました。それから福井技師の関係もあつたのですが、これを更に延ばしまして、能登半島の突つぱなまで持つてつたのです。能登半島の先端には私共の検潮所がございます。この両方へ持つてつた結果はどうかと申しますと、ここでは広島を動かないものとしますと、浜田に参りまして、七センチ四ミリ程度隆起になつております。検潮儀の方の観察から申しますと、これは余り変化しておりません。それですから、ここに七センチ四ミリ出ているということは、結局その程度広島が低下しているということになるわけであります。それから一方能登半島に参りますと、約九センチ程高く出ております。これは距離も非常に長ごうございますし、その間の誤差も考えますので、浜田と能登半島との七センチ或いは九センチというあたりは相当信用のできるあたりではないかと考えている次第でございます。この線の観測結果の点検は未だ全部済んでおりません。その帳簿を所内で更に厳重に点検いたします。これは誤差があると困るのでありまして、それを厳重に調べた結果、著しい間違いのあつたためしがないのでございまして、一部まだ未点検の地帯がございますが、先ずこの程度数字は信用ができるのじやないかと考えている次第でございます。そうしますと、広島が更に七センチになり、八センチなり低下しているとしますと、四国土地は更にそれだけ低下することになります。従つて室戸崎でさつき七十センチ上つていると申しましたが、約六十センチ程度隆起になるわけでございます。それから松山付近で四十センチ程低下しておりますが、これは約五十センチの低下になるわけでございます。ですから約一尺五、六寸程度土地が下つている。それから例えば高松におきましても、二デシ半くらい下つているといつたようなことになるわけでございます。それでとにかく全般を通じまして、三十センチから六十センチ程度の低下がありますから、大部分のところは約四十センチから五十センチの間のようでございますが、その程度全体を通じて低下しているように思われるのでございます。これだけの低下がありますと、これは土地の人が実際に気が付いていろいろお困りになる点が生じて来るのは、これは尤もだと考えられるのであります。今まで高松を中心にしました結果では、それほど大きな数字が見えておりませんので、大したことはないのじやないかと実は考えておつたのでございますが、こうしまして可なり確実と思われる数字が出て参りますと、この測量後の変動がどうあろうとも、とにかく一時この測量をやつた期間におきましては、この程度の大きな変動があつたのでございますから、これは土地に住んでいる方にとつては重大な問題であろうと思います。更に今年この東海道に沿いまして、ずつと水利測量を延ばしまして、三浦岬に私の方の検潮所がございまして、これまで入る予定でありますが、そこに行きますと、更にもう一つの基準が出て参ります。大体それがこの数字余り違わないものだろうと予想しておりますが、今のところ予想は付きません。とにかく今知れているところでは、大体四国では室戸崎におきまして約六十センチの上昇、外の地帯におきましては、四十センチ或いは五十センチ前後の変動があつたということが言えるだろうと思います。又紀州の方におきましては、潮ノ岬におきまして約十五センチぐらいの上昇がある。これは無論岬の突端でありません。道路に沿つているのでございますから海岸ではないのであります。その他の地点におきましては、田辺の付近で五十五センチぐらい、それから大阪の付近まで参りまして約二十チンチぐらい変動があつたのじやないかと思われます。それから中国の方におきましては、三原の付近が一番大きいのでございまして、これが約二十五センチ程度変動の低下があつたろうと思われます。この線は殆んど全部低下しておることになります。広島を変動しないものとしますと、この辺から僅か五ミリとか、或いは四ミリとか、僅かの隆起になつておりますが、これは全部五、六センチ程度の低下になつておる、こういう結果に見られるのでございます。それからこちらの方の変動でございますが、こちらの方の変動では、今度の地震ばかりでなく、すでに東南海地震がございましたが、その後の測量はやつておりませんので、今度の機会に東南海地震影響を受けたと思われる地帯を整理する考えでありますが、東南海地震影響も相当含まれておるのではないかと考えられるのでございます。尚さつき河角教授から地震後の変動、或いは長い間の惰性的変化、そういつたものについてのお話はございましてが、何しろ私の方で持つております資料では、この前の安政地震でございますが、とにかくこの付近にありました大きな地震後から可なり距つたときから始めております。明治の中年からやつておるのでございますから、果たして前の変動を全部回復下ものか、回復してないのか、そういつた点も余り見当が付きません。併しながらその頃から、明治年代から掛かりました結果を幾つか照らし合わせて見ましても、相当大きな地震のときに起こりますような、そういうふうな大きな数字が見えていないのでございます。ですから例えば上昇なり低下なりを急激に地震に伴つてやるとしましても、それを回復するには、地震直後には可なり急激にやるでございましようが、それから後は非常に緩慢で而もその量は余り大きくないといつたように観察されるのでございます。尚この辺の土地の高さの問題に関しまして、この外に実は鉛直線偏倚の影響に伴う変化といつたものも考えなければならないのでざいますが、それは直接今の段階におきまして問題にするのもどうかと思いますし、又今尚測定中でございますので、この方につきましては今日は述べないことにいたしたいと存じます。  大変簡単でございますが、私の申上げるのはこの程度で失礼さして頂きたいと存じますが、尚細かい各点のデーターを持つて参つております。それで詳細にお調べになられる方は、これをお持帰りになつて一向お差支えございませんから、御覧になつて頂きたいと思います。ここで一々この数字を読み上げましてもこれは大した効果はないと思いますので、ここへこの付近地帯全部の何を持つて来ておりますから、御参考までにどうぞ……
  7. 中川幸平

    委員長中川幸平君) どうも有難うございました。  次は、厚生省公衆衛生局水道課の田辺技監にお願いいたします。
  8. 田辺弘

    証人(田辺弘君) 厚生省の水道課の田辺でございます。南海震災に伴いました地盤沈下、この現象が現地の方の生活に最も強く響きました問題は、井戸水が海水が入りましたために塩化した現象と、もう一つは、海水が低い陸地に浸水しまして自然排水ができなくなりました。この二問題であると思うのであります。私の方の役所の所管上この問題に限定いたしまして、お話を申上げたいと思います。  先ず、この問題が厚生省におきまして取上げられました経緯を申上げます。 昨年十一月、愛媛県庁から係官が厚生省に参られまして、口頭で一応の報告があつたのであります。その報告によりますと、大体のことは分かりましたのでありますが、詳細の事柄が不明でありましたので、一層詳細の調査を依頼いたしたのであります。ここに揚げてありますのが、その資料であります。この資料につきましてよく調べて見ましたところ、これは正に震災に伴う地盤沈下によります天然の災害でありまして、公衆衛生上又治安の上からも放つて置くことができないと認められましたので、二十五年度の災害復旧の事業といたしまして実施すべきものであると考えまして、直ちに経済安定本部と予算の処置について折衝を開始いたしたのであります。併しながら時すでに遅く、公共事業の予算はすでに大綱が決定しておりまして、遂にバスに乗り遅れたというような格好になつてしまつたのでありますが、併し引続きまして、何とかして本事業を実現いたしたいと努力をいたしておる次第であります。又一方只今厚生省からこの問題につきまして係官を二名現地に派遣いたしまして、実情の詳細なる調査をいたしておる次第であります。本年度におきまして、特に愛媛県下におきまして、被害の甚大なところ、例えば菊間町その外七ヶ所につきまして、実情が放置を許されないということでありましたので、差当り起債をお世話いたしまして、僅かではありましたが、七百万の起債ですでに工事に現地では着工されておる筈であります。  次に飲料水の塩化、段々塩辛くなる、この対策とそれから被害実情、範囲、こういつたものにつてい申上げます。その被害の範囲は最もひどいと思われますのは、現地からの報告によりますと、愛媛県であります。その外高知県、香川県、徳島県、この四国全体の地域と、それから和歌山県の西部の海岸、この地帯に只今の所では被害が特に著しいように報告が参つておるのであります。愛媛県の被害の詳細は、大体報告で分かるのでありますが、外の件は只今照会中でもあり、又現地に係官が行つて調べておるのでありまするが、まだ詳細な状態はよく分からないのでありますが、愛媛県下における被害の状況を申上げますと被害の発生しております市町村の数は、六十五市町村に及んでおります。その戸数は十四万三千戸、住民の人口にいたしまして六十八万五千人、こういう大きな数字になつております。只今分かつておるところでは香川県で四ヶ所でございまして、徳島県で四ヶ所、和歌山県で二ヶ所、箇所数総体にいたしますると七十五ヶ所、そうしてこの地域に水道を新しく作りまして対策するといたしますると、その必要経費が二億九千一百万円になります。  次は、浸水対策の問題を申上げますと、地盤沈下に伴いまして海水が陸地の方に侵入して参りまして、海岸地帯各所に自然排水が不可能となりまして、衛生上誠に由々しい状態になつておるのであります。愛媛県におきましては、その被害の状況、は市町村の数にいたしまして三十四ヶ所、戸数にいたしまして三万四千戸、人口にいたしまして十四万二千、排水施設を要する面積が約千三百ヘクタールに及んでおります。愛媛県の他の方を申上げますと、高知県で一ヶ所、これは高知市であります。それから徳島市一ヶ所、これかを加えますると、三十六市町村になりまして、下水施設をいたすと、いたしますると、その経費は三億三千九百万円を要することになります。水道、下水道を合計いたしますると、箇所数にいたしまして百十一市町村、金額にいたしまして六億三千万円に及ぶのであります。これは愛媛県の状態を現したたものでありまするが、この赤く点々と、見にくいかも知れませんが、現してありますのが、海岸地帯の在来あります井戸で、これが塩辛くなりましたので、水道の設置を要する場所を現しております。こちらの図面は、浸水いたしまして下水施設を要する地域を表しております。実はこの南海震災の直後に置きまして、この地盤沈下のために井戸か塩辛くなつたり、或いは排水が非常に悪くなりました。この問題を取上げまして、二十三年度におきまして災害復旧事業として、金額としまして二千四百七十八万八千円、このうち四分の一国庫補助となつております事業をいたしたのであります。その最も代表的なものは、高知市の南方の海岸地帯の井戸が塩辛くなりましたために、その地域に極く簡単な水道を設置したのが一番大きな事業あつたのであります。その後徐々に海水浸水して参つたわけでありますが、結局地質の関係、或いは地下水の補給の関係から、このように井戸が塩化される速度にいろいろ段階が生じたのであろうと考えられるのであります。  この井戸水の塩化の問題につきまして考えられます問題は三つあるように思います。その第一は、飲み水の中に一体どの程度まで塩分が入つても生理的に支障がないかどうかという問題。 その次は、現在海水が侵入して来ております井戸に何か適当な手を加えまして、この塩分の侵入を防ぐことができないかどうか、こういう問題。その次は、只今相当な塩が入つて来ておりますが、これが近い将来に地盤隆起いたしまして、又以前の井戸の状態に回復するということがあり得ないかどうか、この三つの問題が考えられるのであります。第一の、我々が生活して行く上に飲み水の中にどの程度まで塩分が入つてつても差支えないかという問題を考えて見ますると、水道の方で水質を論じます場合、この塩分をクロールの量で現しておりますが、クロールの量が一リッター中に何ミリグラムあるかと、この数字で表しております。日本の水道の規定によりますと、この水道の中の塩分は三十ミリグラムとなつております。これは但し汚染によつて、いわゆる動物の排泄物によつて汚染されました場合のこれがクロールの限度になつておるのでありまして、実際にはその汚染の虞れのない水でありましたならば、遙かに大きなもつと大きな数字まで実際には差支えないのであります。アメリカの水道では、この塩素の、クロール量は二百五十ミリグラムと言うことに規定されております。海の水はどのくらいクロールがあるかと申上げますと、これは場所によりまして、又時期によつてもいろいろ差はありますが、大体二万ミリグラムであります。それから御参考までに申上げますと、食塩注射をいたしますときのクロールの濃度は約五千ミリグラムであります。被害地の井戸水の水質検査をいたして見ますると、このクロールの量が、これも極めて広い範囲に亘つておりますが、愛媛県における例でありますが、最もひどい所では一万七千九百という数字が出ております。その外一万二千一万前後のものも多い所はあります。少ない所でも千、二千或いはもう少し上がりまして五千、六千と、まあいろいろな数がありますが、これから判断いたしますと、最もひどい井戸では海の水が八割及至九割ぐらいまで入つておる。こういうことになるのであります。実際問題といたしまして、我々が井戸水を飲みまして塩分を感じますのは、大体七、八百ミリグラムから普通の人々は感ずるのであります。舌の極く鋭敏な方では五百ミリグラムから感ずるのであります。こういつた塩分の非常に多い水を私達が飲みました場合、どういうことになるかと、申上げますと、身体の中に吸収されました過剰の塩分、大体我々の身体の中の塩分というものはコンスタントに保たれておるのであります。大体塩分にいたしまして〇・八五%ぐらいだそうでありますが、自然とそういう作用があるのであります。過剰に塩分をとりますと、身体の中に塩分の量が殖えまして、従つて滲透圧が高まつて来ます。身体の組織の細胞から水分を吸収するということになりまして、従つて尿の排泄する量が増加して来ます。身体が衰弱をして来る。又腎臓を害することになりまして、腎臓に障害を生じて身体がむくんで来る。又は塩分のために下痢症状を起こすというようなことになつて参ります。特に実験的に濃度の高い食塩水を大量に身体に注射いたしますと、血管の中の血球が萎縮、凝集して参ります。滲透圧の関係で、血球の中の水分をとるわけでありますから萎縮して来ます。又小さな血管が縮んで詰つて来ます。そういうことで身体にいろいろな障害が起きて来ます。運動ができなくなる。ひどくなりますと、失神、痙攣というような脳症を発生しまして遂には死亡すると言われておるのであります。こういうふうに塩分の高い水は到底私達の生活を続けることはできないのであります。  次に、現在の塩辛くなりました井戸を何とかして塩分の入るのを防ぐ方法がないかどうかと申上げますと、これは恐らく方法がないと私は存じます。 第三番目の、近い将来におきまして、地盤沈下回復して井戸の状態が元のようにならないかということは只今のお二方の御説明にもありましたように、この回復には相当、長い期間を要するのでありまして、左様なことを望むことは無理なことであると存ずるのであります。 以上極めて複雑なことを申上げましたが、結論といたしまして、この沈下地域の井戸の塩化対策といたしましては、水道を敷設してやる以外には方法はないと存じます。又、排水施設の不良になりました地域に対しましては、下水施設を作りまして、排水を図るなり或いはポンプ排水をいたしましてやる以外には方法はないと存ずるのであります。簡単でございますがこれを以て終ります。
  9. 中川幸平

    委員長中川幸平君) どうも有り難うございました。御質疑ありましたら、引続きお願いいたします。
  10. 久松定武

    ○久松定武君 各証人のいろいろと御高説を拝聴いたしまして有難うございました。実は今のお話を承りますと、地震方面の研究と地質調査方面の御研究によりますと、大体が主点が四国の南部である、太平洋に面した方がよく御調査が行届いておる、瀬戸内海に面した方が比較的に調査が少い。つまり検潮儀その他の設備がなかつたために、その御調査が非常に困難だという事情は分かるのでありますが、瀬戸内海の中における島嶼部の御調査はありますでしようか。この辺(図示)からこの尾道、忠海辺間で、この辺では大体最高三十センチ対岸で十七センチ、十二センチ。その辺の島嶼部だけですか。
  11. 河角廣

    証人河角廣君) こちらの方はございません。
  12. 久松定武

    ○久松定武君 むしろそちらの方が非常に沈下しておるのを見ます。
  13. 河角廣

    証人河角廣君) こつちの方は調査費が全然なくなりまして、できなくなりました。
  14. 武藤勝彦

    証人(武藤勝彦君) 瀬戸内海の島の高さの調査は、地質調査所でおりましたのは三ヶ所とつておりますが、そのときの調査が僅かに現在あるだけでございます。一番西の方は、つまり三原付近から四国の北の出つ端の附近に通したその間の島では、広島の低下を約一デシと考えまして、場所によりましては二デシ四、五センチ或いは三デシ五、六センチそういつたような程度の島の低下になつております。それから淡路島ではやはり三デシ四十センチ。それから淡路島の一番北の方のはございませんが、大体三デシ四、五センチ程度沈下になつております。それから真ん中に等しました岡山から坂出に通しました中間のところでは一デシ半ぐらい、十五センチ程度の低下になつております。それからこれらの島には三角点が相当数あると思われますが、これは更に現在三等三角測量を実施中でありますが、それが終わりますともつと詳細なものが出て参ります。
  15. 久松定武

    ○久松定武君 もう一つお伺いしたいのは、四国太平洋に面しておる側の回復の速度が顕著になつておると今伺いましたが、この地盤沈下による愛媛県を中心にした瀬戸内海に面した方は今まで問題が起こりませんでしたが、井戸水が塩に変つたというと大問題ですが、これは四国がまだ沈下しておるという証左でありますか。それとも地盤沈下が止つたが、その後の何らかの影響で塩水が井戸の中に入つて来た、こういうように解釈すべきですか。どちらですか。
  16. 河角廣

    証人河角廣君) その沈下進行しておるということにつきましては、まだはつきりした確証というものを私共得るまでに至つておりませんので、先程武藤調査所長からの御報告と、私共の調査結果と比較して見ましても、そう大きな開きがないようでございますので、進行ということについては、あつてもそう大きなものでないということと、それから塩害といつたようなものが漸次に崩れてくるというためには、海水が地下を順々に廻つて侵入した来るというまでに相当の時間がかかるというようなことから、幾らか時期が遅れたというようなことがあるのではないかと思います。
  17. 久松定武

    ○久松定武君 もう約三年経つておりますからね。昨年の夏からこの問題が起つて来た。沿岸全体と言つていいくらいです。
  18. 赤木正雄

    ○赤木正雄君 田辺証人にお伺いいたします。現在井戸水が海水関係と申しますか、非常に塩分があつた場合、水道を新しく設ければ、申すまでもなく立派な飲料水になりますが、現在ある井戸の付近に新しく井戸を掘りまして、或いはその井戸を尚深く掘るとか、そういう方法で飲料水を得るようなことはお考えになつておりましようか、どうでしようか。
  19. 田辺弘

    証人(田辺弘君) これはその場所場所によりまして条件が違うと思うのであります。地形地質によりましては、極く僅か離して新たに井戸を掘ることによりまして目的を達せられるかも知れません。又それと反対に条件の悪い場合には、その付近ではいい水は絶対に求められない。どうしても遠方から水道でこなければいかぬというような場合も考慮されます。場合々々によつて違うと思いますが。
  20. 赤木正雄

    ○赤木正雄君 無論地形或いはすべての条件で違いますが、厚生省方面では単に水道を新しく設けることだけにお考えになつておりますか。場所によつては井戸を新しく掘ると、そういうようなお考えを持つておりますか。
  21. 田辺弘

    証人(田辺弘君) 実はこの問題が厚生省に話がありましたは、先程申上げましたように昨年の十一月からでございまして、実は現地の詳細な調査を只今やつておるような状態でありまして、県庁で調べまして出して来ました資料、先程申上げました資料は水道を設置しなければ方法がないというところだけの計画であります。簡単に求められるものはあの中には含んでおらないと存じます。
  22. 久松定武

    ○久松定武君 す田辺証人にお伺いいたしますが、この水道の問題もですね、水道条例で制限されている。年はつまり人口の一万以上のところは水道条例で縛りますが、大体は沿岸のところは漁村、農村が多いので、その費用もでないということも大部分ですが、これを二十五年度の公共事業費から出す場合には、場合によつたら国庫全額負担というようなことを言われておる、そういう見地から考えましたときに、これを災害として厚生省はお取扱いになる空気がありますでしようか。
  23. 田辺弘

    証人(田辺弘君) 先程申上げましたように、この話に参りましたときに、直ぐに安本に二十五年度災害として取上げて貰うように直に折衝したのでありますが、もうすでに予算の内容は決定済みになつておりまして、入る余地がなかつたのでございます。それで安本の只今の見解では、二十五年度中に二十五年度災害が起きました場合には、何とかしてこれを取上げて行くたいと担当の方が言うておられましたが、予備費が僅かしかないのでありますし、なかなか容易なことじやないと考えております。我々の方といたしまして、これは明らかに天然の災害でありますから、何とかして災害復旧事業としまして補助を差上げて実施して行きたいと考えております。
  24. 久松定武

    ○久松定武君 田辺証人にもう一度お伺いいたしますが、そうしますと、さつきのお話によりますというと、塩分の強いところでは人体に影響が非常にある。そういう見地から見ますと、只今のお話で愛媛県の井戸水の塩分の含有量が非常に多い。あの程度ですと、相当に障害を与えて来るという可能性は十分あるであろうと思います。
  25. 田辺弘

    証人(田辺弘君) このひどいところは海水と同じようなところもありまして、そういうものは到底飲用することは不可能でございます。この表を見てみますと、全くこれは到底井戸水と言えないのであります。一番少ない数字を拾つて見ましても……尤も塩化されていない井戸の検査もしてありますので、そうしますと、それを除いて考えて見ますと、やはり大体千ぐらい、少なくとも数百程度で納つているところもございますが、千ぐらいは少ない方でありまして、これはどんな舌の悪い方でも塩分の味がしまして、到底それは使用できるものではございません。実は私長く大連におりまして、あの水道に関係しておつたのでありますが、昭和十三年、十四年に非常に極端な渇水に遭いまして、御承知の通りあすこの水道は貯水池に頼つておりますので、雨が降らなければ給水する能力がなくなつてしまうのでありまして、これは内地もあのときは非常に渇水の年であつた筈でありますが、向こうではもう極端な渇水の年でありましたから、貯水池の水が空になりまして、それで大急ぎで井戸を沢山掘つたのであります。御承知の通りああいつた岩磐のところでありますので、地下水を求めることは非常に困難であります。海岸の地帯は主としまして石炭岩地帯であります。そこに井戸を沢山掘りまして、それから応急的に給水したのでありますが、そのためにやはり海岸に近いところはどんどん海水影響を受けまして、最初のうちはそれ程でもありませんでしたが、汲んでおるうちに大体塩分が殖えて来まして、終い頃には市民の口に入るときに千以上になりした。非常なこれは苦痛でありまして、雑用水、煮炊き、洗濯とか、雑巾がけとか、そういうものには差支えありませんけれども、飲み水には全く困りました、市内にあります井戸、これを皆市民が行列しまして、汲んで飲み水としており、やはり塩分のないものを使つておる次第でありまして、千以上になりますと、実際問題として生活ができないのであります。
  26. 仲子隆

    ○仲子隆君 ちよつと伺いますが、例えば地盤変動は先程のお話でもう進行は止めたというような……百五十年ぐらいの周期を以て上つたり下つたりするという大体の観念を持つてつていいかも知れませんが、今四国各地の現状、殊に北の海岸等においては、農地或いは塩田、さつきの飲料水、すべてに問題がありますので、これが進行するというのならば、落付くまで待つて対策をするというような形になります。井戸の方の水なら、百年も経つて又変わるのは、それはで待てないというような話であります。今日までの御観察で大体この程度で停止であるか、或いはまだ下がる方に向うか、つまり上がる方ならよろしうございますが、下がる方の傾向にあるかどうかについての御意見を賜りたい。もう一つ地盤沈下後起つて来るところの井戸の問題、或いは井戸水の問題、或いは他の潮の吹上げる問題から見まして、単に下つたからといつて、急に井戸水や田園の中の水が多くなるとは思われない事情があります。これは天文関係か、気象の関係からか、昨年度は高潮が多かつたということが考えられますかどうか、これも伺いたいのであります。以上二つのことを……
  27. 河角廣

    証人河角廣君) 只今の御質問に対しましては、私共の調査範囲で申上げますというと、正確な資料四国愛媛県の海岸のは得ておりませんので、はつきりしたところを証言することはできないのでありますが、とにかく南海地震後、回復という兆候は見られないで、或いは幾分進行しておるのではないかというような想像をいたす程度でありまして、南海地震影響と言うよりも、或いは何か外の現象が又はじまつたのではないかという危惧も実は抱きまして、この地方調査に全力を傾けて参り増したが、残念ながら調査費の不足によりまして、十分な調査ができませんが、昨年の六月頃でしたか、丁度愛媛県の北の海岸にちよつとした被害があるような地震がありまして、その影響であるかどうかといつたようなことも考えられるし、又その辺の潮の調査をやはり地震研究所の高橋教授が、高縄半島の小部分でありますが、実施した結果と、その以前の調査とを比べますというと、少し地震のあとでは傾向が変つて来ておるというようなこともありまして、あの辺に何か又別な現象が始まつたのではないかということも私共としては気に病んでおるわけでありますが、できるだけの調査は考えております、が財政的の点で、こういうものがどれだけできるかということはまだちよつと申上げかねるのであります。
  28. 仲子隆

    ○仲子隆君 続いてもう一つ、今の財政の方の問題で、一体どれくらい要るものであるか、或いはどういうふうに今まではなされておるか、それから我々の方で工夫したらいいか、御意見があつたらそれをお聞かせ願いたい。
  29. 河角廣

    証人河角廣君) 今までの四国地盤変動に関しましては、四国地方地盤変動調査特別委員会に対して、地震研究所宛に交付されました調査費は大体百八十万円程度のものでございまして、それも今申上げましたような調査だけでなく、もつと広いいろいろな調査に使いますために、今お話になりましたような地盤変動だけの観測をいたしますというと、まあ年百万円程度の費用があれば、今まで通りのことはできますが、併しそういう方法だけでは、変動が大きい場合にはそれによつて変化を生み出すことができますが、併し変動が僅かな場合には、もつといろいろ詳しい調査をやらなければなりませんので、実際の変動、状況を見出すための精密な調査をこの際やる。例えば地理調査所にお願いいたしまして、水準測量の細かい調査をやるということになりますと、やはり相当な額の測量費が要ると思いますし、それから又精密な機械を方々に据付けて、測量によらない地盤変動を出すというようなことも、只今松山市の近くで一ヶ所やつておりますが、そういつたようなものを数点用意するということになりますと、やはりまあ一ヶ所大体五十万円程度の金がかかると思います。
  30. 仲子隆

    ○仲子隆君 先程私の申しました高潮という問題は、天文か、気象か、或いは地震後に起る問題か知りませんが、昨年は非常に回数が多つたらしいように思います。これはどなたの方に御返事願つたらいいか存じませんが。
  31. 河角廣

    証人河角廣君) どうも御質問の点にお答えするのを忘れまして申訳ございませんが、昨年は台風が度々繰返して日本を襲いまして、そのために大分四国地方の船の転覆というようなことはで起こりましたし、そういつたような高潮の台風に対しましては、必ず海岸地方に高潮があることと存じますので、やはり地盤変動の著しかつた愛媛県の各地にも相当の被害が多つたと存じますが、これは気象の方の問題でありまして、直接どうも地盤との関係というわけではないと存じます。
  32. 仲子隆

    ○仲子隆君 今度はそれに伴う井戸水の問題でございますが、実は我々視察の際に、愛媛県の郡中から始めて、ずつと全部海岸通りを通つて井戸水を皆飲んで廻つたわけであります。その中でからいのは先程の海の水と同じというのがありましたが、事実海水の溜つたところから一メートルくらいの井戸であります。これは当然井戸と言われるかどうか、以前は割合に沈下してないときは、それは澄んでいたかも知れませんが、併しもう一つ見ると、この高潮のときに町やら何かをすつかり洗つておりますから、井戸の上から入つておのるのが随分ある。従つてアンモニア類も含んでおるので、下水や便所の水か入つたのも多いのであります。これはきれいに汲み出したかどうか知りませんが、飲んで見ると非常に濁つて要る、或いは非常に塩辛い、海の水よりまだ汚い井戸水も見て来た。こういうのは海岸に近いものは仕方がないが、併し海岸よりはずつと入つたところを考えて見れば、或いは下から滲透したとも考えられる、併しこの滲透は一般地盤沈下すると共に海水が入つて来る、川の中やその他に入つて来る入り方が多いのでありまして、初めは僅かであつて潮留のあるところまでであつたのが、それが一キロ、二キロまで奥へ潮が入つて来る。そうすると、その入口に満潮時に潮留をして置けば、これは止まるということが考えられる。そうして雨の降るのを待つて隈なく洗い流すという工夫を考えれば、井戸水が回復すると思う点が大分あるのでありまして、この点は単にこの井戸だけでなくて、吉野川の下流において、川の上から水をどんどん流し込んでしまへば、下から入つて来る滲透して来る塩水は荒い流してしまうと想像されるものがあります。それが一つであります。そこでこの井戸は全然回復が見込みなしとおとつしやる部分についても、これはいつもいつも大潮のたたえて来るときに潮が滲み込んでおるということが考えられる。これは何らかの工事を施すことによつて、潮が上へ上がらないようにして、回復し得るものが大分あると思います。その次には、どの町であつたか億えませんが、とにかく一ところで大きな工場が塩水を吸い上げておる、その線に沿つて海水が地下水に入つて来ておる。若しこのポンプを止めてしまつて、逆に上の河川の水をその工場に使わせるようにして置けば、今まで笹の葉の形にずつと細長く来ておるのがありますが、これは逆に水を流し込むことによつて井戸が回復し得るものがある。地下水を大きなポンプで汲み出すことを終始命ずれば、これはできる。こういうような一種の施設を施すことによつて井戸が回復できると思いますが、大島のごとく、島であつて非常にあそこは塩の取れるところですが、雨の少ないところでございます。こういう所には簡易水道にしても何にしても大体設ける方法がない。地質がああいう地質ですから、水が常に平均に出ることは考えられない。横穴その他の施設を以て天然水を溜めて置くと言うこともできるのじやないかと思います。これらに関する水道の御関係方面の御意見一つ承りたいと思います。
  33. 田辺弘

    証人(田辺弘君) 御返答申上げます。実はまだ私も現地を見たことはございませんで、役所の者も丁度係官が行つて調査に当つておる次第であります。今のお説にように、場所によりましては適当な方法を講ずることにより、或いは工場がどんどん地下水を汲んでおるのを止めさせて、地表水に切替えさせるというようなことによつて防止し得るところもあり得ると存じます。そういう点は個々の計画につきまして、よく検討いたしたいと思います。  それから全然地表水とか、地下水を求められぬような島のようなところではどうするか、水道を作るにしても水源が容易に求められぬというような場合も、お説のようにあるかと思います。いろいろ個々について研究いたすより仕方ないと存じます。或いは少し距離を離して水源を求めれば解決する所もありましようし、ダムの位置を適当に選べば水を求めることの可能な場合もありましようし、個々についてよく検討いたしたいと思います。
  34. 仲子隆

    ○仲子隆君 このさつきの塩のミリグラム千という程度の所は、私は一カ年以上暮らしたことがあります。非常にからいのだけれども、これは暮らせる。しそういう地方は、この前見たときにも冗談半分に申上げたのでありますが、大分子供が沢山産まれるのであります。例えば山口県の宝積のごときは今日実際に調べたところの町があります。水がからい、四国のどこかにもそういうとろこがある。私の家は元醤油屋であつた関係上、塩水が井戸に入つて、それだけでは余り困難を感じなかつた。ただ病気が多く起こる。理由は鉄びんで沸かすと非常に病人が多かつた。鉄びんで沸かす家には病人が非常に多いということを経験した。焼物で沸かすような場合は大してない。今の四国の場合においては、さつきの塩水の外に大便、小便、それから下水、これらが皆井戸に流れ込んでありますから、これはただの塩水にアンモニア類が、有機物が非常に沢山含まれている。これはいけないと思うのであります。軍中のごときはもう井戸水が非常にからくて、子供が顔を洗わないで毎日学校に行つている。約二キロくらい離れているところの奥から運んでおる。ああいうようなところは、今おつしやるような水源も簡単にできかねる。或る別なところの部落においては農地が全部駄目、井戸が全部駄目、六十戸ばかりの人間は今おり場がないというような状態になつているところがありますが、それらの状態を早く何とかやつて頂かないと皆病気になる。伝染病と違つてじわりじわりとそこの住民は害を蒙るのであります。本年度の予算がいい工合に行かなかつた、乗り遅れたたといような話でありますが、ああして置いたならば、十何万、という人間の六十万と考えられる人間達の生活を脅威するが、これに対して厚生省の方では何か早急にこれを救済するような方法が考えられておるかどうか、これをお伺いしたいと思います。
  35. 田辺弘

    証人(田辺弘君) お説の通りでありまして、場所によりましては全く一日も放置できないところも相当あるかと思います。それに対しまして、国の予算が取れないからして事業ができないとかいうようなことでは実情に即しないと考えまして、実は先程申上げましたように、二十四年度におきましても極僅かではありましたが、起債の方の獲得をいたしまして、特にひどいところに手を付けて頂きました。二十五年度におきましても公共事業に入り得るかどうかは、まあとにかく最前を尽くしましてやることにいたしまして、その問題は別としまして、起債を地盤沈下の水道の問題に集中をいたしたいと考えまして、地方自治庁、大蔵省の担当のところに起債の枠の設定をいたしたいと考えておるところであります。
  36. 中川幸平

    委員長中川幸平君) 大体これでようございますか……  それでは長時間どうも有難うございました。本日はこれにて散会いたします。    午後三時五十九分散会  出席者は左の通り。    委員長     中川 幸平君    理事            仲子  隆君            赤木 正雄君    委員            石坂 豊一君            大隅 憲二君            安部  定君            久松 定武君            佐々木鹿藏君   証人    東京大学教授地    震研究所員   河角  廣君    厚生省公衆衛生    局水道課    田辺  弘君    建設省地理調査    所長      武藤 勝彦君