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1950-04-13 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第25号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十五年四月十三日(木曜日)     午前十一時五十二分開議  出席委員    委員長 鍛冶 良作君    理事 安部 俊吾君 理事 菅家 喜六君    理事 小玉 治行君 理事 高木 松吉君    理事 内藤  隆君 理事 吉武 惠市君    理事 小松 勇次君 理事 梨木作次郎君    理事 石田 一松君       小川 平二君    尾関 義一君       大橋 武夫君    岡延右エ門君       佐々木秀世君    篠田 弘作君       島田 末信君    田渕 光一君       塚原 俊郎君    西村 直己君       加藤 鐐造君    横田甚太郎君  委員外出席者         証     人         (元ソ連帰還者         生活擁護同盟委         員長)     津村 謙二君         証     人         (カラカンダ地         区引揚者)   小泉 敏次君         証     人         (カラカンダ地         区引揚者)   加藤幸治郎君     ————————————— 本日の会議に付した事件  日本共産党在外胞引揚妨害問題     —————————————
  2. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これより会議を開きます。  昨日に引続き日本共産党在外胞引揚妨害問題について調査を進めます。証人より証言を求めることといたします。  ただいまお見え証人津村謙二さんですね。  これより日本共産党在外胞引揚妨害問題について証言を求むることといたします。  証言を求める前に、各証人に一言申し上げますが、昭和二十二年法律第三日二十五号議院における証人宣誓及び証言等に関する法律によりまして、証人証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならぬことと相なつております。  宣誓または証言を拒むことのできるのは、証言証人または証人配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係のあつた者及び証人後見人または証人後見を受ける者の刑事上の訴追または処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するとき、及び医師歯科医師薬剤師薬種商産婆弁護士弁理士弁護人公証人宗教または祷祀の職にある者、またはこれらの職にあつた者がその職務知つた事実であつて黙祕すべきものについて尋問を受けたときに限られておりまして、それ以外には証言を拒むことはできないことになつております。しかして、証人が正当の理由がなくて宣誓または証言を拒んだときは、一年以下の禁錮または一万円以下の罰金に処せられ、かつ宣誓した証人虚偽陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処せられることとなつておるのであります。一応このことを御承知なつておいていただきたいと思います。  では法律の定めるところによりまして証人に宣言を求めます。御起立を願います。  津村さん、宣誓書朗読してください。     〔証人津村謙二朗読〕     宣 誓 書  良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又何事もつけ加えないことを誓います。     〔証人津村謙二宣誓〕、
  3. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは署名捺印を願います。     〔証人宣誓書署名捺印
  4. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 津村謙二さんですね。
  5. 津村謙二

    津村証人 そうです。
  6. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの御職業並びに年齢は……
  7. 津村謙二

    津村証人 現在無職です。年は二十七。数え年で二十九です。
  8. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの履歴、それから入ソ以来の径路を大筋でよいから述べていただきます。
  9. 津村謙二

    津村証人 大正十一年十一月十七日生れ、昭和十八年十二月盛岡の第六航空教育隊に入隊、昭和二十年十月十七日ナホトカ上陸昭和二十三年六月一日舞鶴上陸、以上です。
  10. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ソ連ではナホトカからどこをまわられましたか。
  11. 津村謙二

    津村証人 ナホトカにほとんど最後までおりました。
  12. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたはソビエト帰還者生活擁護同盟委員長なつておられましたか。
  13. 津村謙二

    津村証人 以前にはなつておりました。
  14. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 いつからいつまででしんか。
  15. 津村謙二

    津村証人 二十三年の九月から翌年の二月までです。
  16. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 二月にやめられたわけですか。
  17. 津村謙二

    津村証人 そうです、
  18. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どうしておやめになつたのですか。
  19. 津村謙二

    津村証人 ちよつと身体の調子が惡がつたものですから……
  20. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたは共産党に入党しておられますか。
  21. 津村謙二

    津村証人 入党申込み書を出しております。
  22. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 申込み書を出しているだけですか。
  23. 津村謙二

    津村証人 そうです。
  24. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうすると党員にはなつていないのですか。
  25. 津村謙二

    津村証人 党員なつておるだろうと思います。
  26. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはずつと以前でしよう。いつごろでした。
  27. 津村謙二

    津村証人 帰つて来て間もなくです。
  28. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 二十三年の七、八月ごですね。
  29. 津村謙二

    津村証人 はあ、そうです。
  30. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その帰還者生活擁護同というのは共産党の一機関ですか。てれとも別個のものですか。
  31. 津村謙二

    津村証人 それは全然別個のものであります。
  32. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 この帰還者生活擁護同盟目的及び事業を述べていただきたいのですが……
  33. 津村謙二

    津村証人 目的帰還者生活擁護であります。
  34. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どんなことをやりますか。
  35. 津村謙二

    津村証人 大体生活擁護に関するところのいろいろな世話役活動、それをやつております。
  36. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 具体的にどういうこととやつておりますか。
  37. 津村謙二

    津村証人 今大体生業資金とか、それから住宅——ほとんどが失業しておる現在でありますから、そうしたものについて、いろいろ世話役をやつております。
  38. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どこにそういう本部があつて、現実の活動はどんなようなことをやりましたか。
  39. 津村謙二

    津村証人 本部は東京都港区青山南町におります。
  40. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それで、実際の仕事はどんなことをやつておりますか。
  41. 津村謙二

  42. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 具体的に、たとえば住友ら住宅をこしらえてやつたとか、るいはあき家を探してやつたとか、そういうことはないのですか。
  43. 津村謙二

    津村証人 そのことに関しましては、別に建てるとか、そういうことはできませんから、いろいろ政府の方でやつておられることについて、引揚者はほとんどあまり詳しくそういうことを知らないし、そうした点は十分にわれわれは説明して、またいろいろ政府の方にも不備な点がたくさんございますで、そういう点をわれわれはいろいろ実情を申し上げて、訂正していただくようにお願いしておるわけです。
  44. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それから生業資金と言われたが、これもどこからか借りることでもせわしてやるのですか。
  45. 津村謙二

    津村証人 国民金融公庫から更生資金というような名前で出されておりますが、ほとんどこれはもらつていないような現状であります。そういう点、いろいろ国民金融公庫の方と折衝したりなどして、やり方を引揚者人たちに説明するというふうな仕事をやつておりました。
  46. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 大体そんなことですね。
  47. 津村謙二

    津村証人 そうです。
  48. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 昭和二十二年(一九四七年)日本共産党第六回大会で、引揚者復員者に対する生活擁護決議をしておりまするが、この決議に基いてこういう同盟ができたものじやないかと思うが、その点はいかがですか。
  49. 津村謙二

    津村証人 昭和二十二年には私ソビエトにおりまして、帰還者同盟がそういうものによつてできたかどうか全然知りません。
  50. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これはあなた方のやられる方針というもの——はあなたが来られたときは、もうできておつたのですね。できておるところに委員長なつて入られたのですね。
  51. 津村謙二

    津村証人 そうです。
  52. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それにはやつぱりこの活動に関する指針というものがなくちやならぬと思うのですが、その指針となるものは、この決議じやないかと思うのですが、ほかにあなた方はこういうものをこうしてやるんだということについて、何か指針がありましたか。
  53. 津村謙二

    津村証人 それは先に向うから帰つて来た者といたしまして、あとに帰つて来る者のために、日本現状が失業と、そうしてまたいろいろな経済情勢が惡化しておる現状のもとにおいて、いろいろな世話役を必ずやるということを向うにおいて誓つてつて来た関係上、先に帰つて来た者の当然の仕事としてわれわれはやつて来たのであります。またそれが根本的な活動方針でもあります。
  54. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それなら何かはかに規約みたようなものがありますか。
  55. 津村謙二

    津村証人 規約はございます。
  56. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その規約には、この同盟はこういうことをやる、こういうことを目的とするというようなことが書いてありますか。
  57. 津村謙二

    津村証人 さつき私が御説明申し上げたような趣旨のもとに規約はあおのです。
  58. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはいつできたものですか。
  59. 津村謙二

    津村証人 大会ごことにいろいろ改正されて参つております。
  60. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 最初は……
  61. 津村謙二

    津村証人 一番最初にできたのは、昭和二十三年の二月だつた記憶しております。
  62. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 今聞きますと、引揚げて来た者をせわしておられるが、引揚げ促進については、何かこの同盟で積極的にやられたことがありますか。
  63. 津村謙二

    津村証人 大会の際におきましても、引揚げ促進はもちろん再三議題になりましたし、また留守家族人たちとも密接に結びついておつて、正しい意味における引揚げ促進、しかもわれわれ先に帰つて来た者の手でというふうな形でやつておりました。
  64. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 決議をしてどこに持つて行くのですか。相手は……
  65. 津村謙二

    津村証人 総司令部ですか、あそこにも持つて行きましたし、それからソビエト代表部にも持つて行きました。受入れ態勢の不備な点に対しましては、政府にも懇請書を出しました。
  66. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ほかに何か聞くことがありますか。
  67. 吉武恵市

    吉武委員 ちよつと簡単に、一つお尋ねしたいのですが、参議院のこの問題に関する審議の速記録を読みますと、岡元さんの言葉の中に、これは昨年のことだと思いますが「四月十四日たまたま証人として喚問された津村謙二君の口から、いわゆる反動分子引揚港より奥地に逆送し、その帰還を遅らせた事実があるとの証言を得て以来、その後引揚が引続き実施せられたのに伴う調査の進展から、同様の事実が次第に明らかとなつたのであります。」ということがあるのですが、何かこれに関連してお述べになつたことがございましようか。
  68. 津村謙二

    津村証人 そのことに関しては、岡元さんは何か誤解しておるんじやないかと思うのです。私はそういうことを言つた覚えはないのです。
  69. 吉武恵市

    吉武委員 何か誤解ではないかと言われるのですが、全然根拠なくして委員長がこれを言われるはずはないのですが、どういう事情で出たか、だれか人違いであるとか、何か心当りはございませんでしようか。
  70. 津村謙二

    津村証人 心当りといえば、私がナホトカにおつた期間において、帰還者がたくさんナホトカ目当にたまりまして、船は来ないし、結局その付近に船が来るまで待機するということを私説明したわけなんであります。そのことを誤解されたのではないかと思います。
  71. 吉武恵市

    吉武委員 わかりました。
  72. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうすると、ナホトカであなたは主として何をやつておいでになりましたか。
  73. 津村謙二

    津村証人 ナホトカにおいては引揚業務に協力しておりました。
  74. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 協力というと、向うの方の何か事務的のことをやるのですか。
  75. 津村謙二

    津村証人 事務的なことと、収容施設のいろいろな整備、保管に関してやつて、おりました。
  76. 西村直己

    西村(直)委員 先ほど委員長から聞かれましたが、あなたは日本共産党第六回大会における引揚者復員者留守遺家族生活擁護並びに帰還促進闘争決議は大体御存じでございますね。
  77. 津村謙二

    津村証人 そのことに関しては、私ちよつと今記憶にないのです。
  78. 西村直己

    西村(直)委員 記憶にないというのは、そういう決議がなされたことも御存じないのですか。それとも決議の個々の文章的な内容と申しますか、それを知らないのですか。
  79. 津村謙二

    津村証人 日本共産党引揚者留守遺家族のために非常に一生懸命やつていただいて、そうしたものが出たということは私、聞いております。
  80. 西村直己

    西村(直)委員 しかしあなたは共産党に帰国するとするとすぐ入党申込みをされたわけですね。そういう点からいつて、少くとも共産党自分が入つておられるのですが、それを知らないということはないじやないですか。帰還者生活擁護同盟委員長をやつておられるのですから、その点は何か隠しておられませんか。
  81. 津村謙二

    津村証人 別に隠しているわけではないのですけれども、今急にそう言われますと、その第六回の党大会云々ということに関して、特別に私ずつとそれを指針としてやつて来たのではないのでありますから、ちよつと思い出せないのであります。
  82. 西村直己

    西村(直)委員 そうすると、あなたは帰還者生活擁護については、何を指針にして生活擁護をやつて来たのですか。町の世話役みたいなことをやつておるという抽象的な言葉で述べられたのですが、しかしあなたが共産党入党手続をとつて自分共産党員としてやつておられる帰還者生活擁護あるいは在外同胞帰還促進闘争、それについてはどういう点に主力を注いでやつておられましたか。
  83. 津村謙二

    津村証人 生活擁護の根本的なところは、私たちは事実に立脚して参りました。帰還者たち生活の実際、留守遺家族生活の実際、これをわれわれは基礎として今まで活動して参りました。
  84. 西村直己

    西村(直)委員 私がお聞きしたかつた点は、こういう点なんです。たとえば第六回の党大会在外同胞引揚げについての決議というものがあるわけですこれは世間にも発表し、われわれも知つておる。あなた方が帰還者生活擁護をやつておることは、同時に留守家族擁護するのですから、引揚げ促進闘争をやつておられる。一九四七年十二月二十三日、日本共産党が第六回大会において、在外同胞なお八十万あり、その大部分ソ同盟にある。こういうふうに天下に声明をしておられる。しかるに共産党に入党された、この証言台に立つ人は、ほとんど全部帰つて来たようなことを言つておる。しかも八十万あり、大部分ソ同盟にある人間がその後においてどれほど帰つて来たかということについて、非常な食い違いを生じておる。その点どうですか。党大会在外同胞八十万、大部分ソ同盟にあると言つておる。これがかりに六十万としても——大体政府発表はその前後でありますが、その間あなた方が帰還者であり、また帰還者生活擁護をやり、留守家族から夫を、兄弟を帰してくれという沈痛な叫びを聞いておられる。そこに三十七万という人間が現在行方不明になつておる。この事実をあなたはどういうふうに思つておりますか。日本共産党は八十万の在外同胞が一九四七年ソ同盟に残つておるとはつきり確認しておきながら、三十七万名の数がわからなくなつてしまつた。これは新聞にもこんなにでつかい活字で出ておる。あなたは当然字が読めるでしよう。
  85. 津村謙二

    津村証人 読めます。
  86. 西村直己

    西村(直)委員 その場合にどういうふうなお感じをお持ちになりますか。あなたが共産党員であつた。そして共産党大会天下にこれを声明して、三十七万の人間が行方不明になつた。しかもあなたは生活擁護同盟委員長として、留守家族から非常に血の出るような叫びを聞いておられる。どうでしよう、あなたの御所見を伺いたい。     〔発言する者あり〕
  87. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 静粛に願います。
  88. 津村謙二

    津村証人 三十数万という食い違いがあるのは、政府発表にあつたのを私字が読めますから知つております。しかしながらこの三十数万の数字、これが行方不明になるということは、われわれがあの敗戰当時めちやくちやな中において、こうして日本に帰つて来た。その過程をいろいろ考えてみると、当然のことであると思います。しかもそのことに関しましては、日本政府がやはり責任を持つて終戰以来のあらゆる事実をはつきりさせたならば、この三十数万の行方不明の人数は明確になるだろう。こう考えております。
  89. 西村直己

    西村(直)委員 あなた方がこの決議案の立案に直接当られたという関係がわかりませんから、その点については私としても御答弁を求めることを差控えます。証人とこの決議案の直接の関係というものは私にはまだ判明いたしておりません。ただ一つ、この決議につきましてさらにお伺いしておきたいのは、当の日本共産党はこういうことを言つておられる。同じような項目で、われわれは従来の防禦的あるいは弁解的態度を一擲して、人民的要求——言いかえれば、在外同胞帰つてくれという弁解的態度を一擲して、この人民的要求を積極的に取上げるとともに云々と書いてある。日本共産党としては、従来何かうしろ暗いところがあるので、弁解的態度だとか、あるいは防禦的態度というように誤解されているかもしれぬから、この態度を一擲するのだ。こういうことを言つておられますが、あなたがソ連におられたときに、日本共産党は何回日本新聞その他を通じて、諸君よ、帰つてくれという言葉を言つて来たか。あるいは少くとも日本共産党ソ同盟政府に対して、日本人を帰してくれということを正式に言つて来たことを、日本新聞ではどういう機会に、こらんになつておられますか。
  90. 津村謙二

    津村証人 そういうことを私考えてみなかつたものですから、ちよつとわからないのです。
  91. 西村直己

    西村(直)委員 考えてみないというと、あなたは帰りたくなかつたのですか、あるいは帰りたかつたのですか、どつちなんですか。
  92. 津村謙二

    津村証人 帰りたかつたです。
  93. 西村直己

    西村(直)委員 そうすると、帰りたいと言われると、やはり少くともあなた方は向うにおいて、相当いわゆる進歩的な分子として、民主主義者として活動なすつたろうと思うのでありますが、その場合に日本共産党というものは、あなたの立場において、われわれの引揚げをどう促進してくれるかということは、大きな関心の的であつたろうと思います。それについて日本共産党はどういうふうな要求をされておるか。たとえばソ同盟政府に非常に陳情されたというようなこと、あるいはソ同盟のこちらの代理あたりに、強力に働いておつたというようなことがわかつておりますか。
  94. 津村謙二

    津村証人 具体的に日本新聞その他において、われわれは見た記憶が現在ないのですけれども、終戰当初われわれの間において、今自由党がとつておられますけれども、共産党日本政府になつたならば、われわれは早く帰れるだろうということが、何にもわからないなりにもそういうことを言つておりました。
  95. 西村直己

    西村(直)委員 それはあなた方の主観、あるいはあなた方のサークルのお考えでありますが、私がお聞きしたいのは、日本共産党が、あるいは日本国内において、進んではソ同盟政府自体に対して、非常に何か引揚げ促進についておやりになつておつた事実を御存じないでしようか。
  96. 津村謙二

    津村証人 そういうことは知りません。
  97. 西村直己

    西村(直)委員 知らないですか、ないですか。
  98. 津村謙二

    津村証人 記憶がありません。
  99. 西村直己

    西村(直)委員 それから今度は別の問題になりますが、あなた方の同盟指針として、これは答えがいただけないだろうと思いますが、同盟あるいは下部の機構の人たちが、留守家族に向つて、だんなさんが引揚げて来るのを待つているだろう。それにはあなた方も共産党に入つたらよかろうというような働きかけをなすつておりますか。その事実を私は握つておりますが、あなたは共産党に入つたら早く帰れるようになりますぞということを、あなたの責任において指導されているか、あるいは末端がかつてにやつているか、それを聞きたい。
  100. 津村謙二

    津村証人 家族が入党したならば云云ということは、私はやつたことはありません。聞いたこともありません。
  101. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ほかにありませんか。——それでは済みませんでした。御苦労さんでした。  では約一時間休憩いたします。     午後零時二十三分休憩      ————◇—————     午後二時三十四分開議
  102. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 会議を開きます。休憩一別に引続き調査を進めます。証人より証言を求めることといたします。ただいまお見え証人小泉敏次さん。加藤幸治郎さん。そうですね。  これより日本共産党在外胞引揚妨害問題について証言を求めることとなりますが、証言を求める前に、各証人に一言申し上げますが、昭和二十二年法律第二百二十五号議院における証人宣誓及び証言等に関する法律によりまして、証人証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならぬことと相なつております。  宣誓または証言を拒むことのできるのは、証言証人または証人配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係のあつた者及び証人後見人または証人後見を受ける者の刑事上の訴追または処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するとき、及び医師歯科医師薬剤師薬種商産婆弁護士弁理士弁護人公証人宗教または祷祀の職にある者、またはこれらの職にあつた者がその職務知つた事実であつて黙祕すべきものについて尋問を受けたときに限られておりまして、それ以外には証言を拒むことはできないことになつております。しかして、証人が正当の理由がなくて宣誓または証言を拒んだときは、一年以下の禁錮または一万円以下の罰金に処せられ、かつ宣誓した証人虚偽陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処せられることとなつておるのであります。一応このことを御承知なつておいていただきたいと思います。  では法律の定めるところによりまして証人宣誓を求めます。御起立を願います。  小泉さん代表で読んでください。     〔証人小泉敏次名証人代表して朗読〕     宣 誓 書  良心従つて真実を述べ、何事もかくさず、又何事もつけ加えないことを誓います。
  103. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 署名捺印を願います。     〔各証人宣誓書署名捺印
  104. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 証言を求むる順序は小泉さん、それから加藤さんといたしますから、加藤さんはもう一度もとの控室でお待ちを願います。  こちらから聞くときは、かけておられてよろしいですが、答弁せられるときは、委員長の許可を求めて立つてつていただきたい。それから答弁は、質問したことに関してのみ局限してもらいたいのです。議論にわたつたり、多岐にわたらぬように、簡明に願います。  小泉敏次さんですな。
  105. 小泉敏次

    小泉証人 はあ。
  106. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの職業年齢をまず承ります。
  107. 小泉敏次

  108. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どこのです。
  109. 小泉敏次

    小泉証人 大阪に今度就職いたしました。
  110. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの経歴並びに入ソ後の径路ですね、これを大づかみでよろしゆうございますから、簡單に……
  111. 小泉敏次

    小泉証人 大正十一年に東大を出ました。内地で昭和七年まで判事をやつておりました。昭和七年から十年まで天津の総領事館の司法領事、十年から十三年の六月まで奉天の司法領事、それから終戰まで満州国の司法官をやりました。終戰の年の九月十三日につかまりまして、十一月の十五日に満州を出発しまして、チタを経由してウラルに行き、ウラルに翌年の三月二十八日までおりました。三月二十八日からカメノゴロスク、九月になりましてチュアマ、それから翌年の五月から十月ころまでコーカンドにおりまして、ベゴワードというところにしばらくおつて、その年にアングレンに行きまして、翌年の九月までそこにおつて、九月にカラカンダへ移りました。カラカンダにその年の十二月までおりまして、十二月の末にナホトカの出力へ出発しました。一月にナホトカへつきまして、二月の九日に舞鶴ヘつきました。
  112. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 カラガンダへつかれたのは九月の何日でありました。
  113. 小泉敏次

    小泉証人 たしか五日ごろじやないかと思います。ちよつと日にちのところははつきりしません。初めでした。
  114. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 カラカンダへつかれてから、間もなく何か第九分所で捕虜を二つか三つにわけて、寄せて收容所長代理及び政治部将校から話をされたということがございませんでしたか。
  115. 小泉敏次

    小泉証人 着きまして間もなしに、表で点呼をとりまして、その際に点呼が済んだら、半分だけクラブの方に集まつてくれという話がありました。部屋の関係で半分だけ入りました。あとの残りはまた午後集まるということになつておりました。しかし先の半分だけに話があつてあと残つた半分には話がありませんでした。私はあと残つた方に入りました。
  116. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうですが。そこに入らなかつたですね。
  117. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  118. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 九月十五日だというのですが……
  119. 小泉敏次

    小泉証人 そのくらいになりましよう。日にちはよく覚えておりません。
  120. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 カラガンダへ着かれたのは十二日ではないですか、そうして十五日だつた……
  121. 小泉敏次

    小泉証人 十日前後じやなかつたかと思いますが……
  122. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 着いて何日もたつてないんですね。
  123. 小泉敏次

    小泉証人 ええ、着いて間もなくです。
  124. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういう話があつたとお聞きになりました。
  125. 小泉敏次

    小泉証人 私らが表に待つておりましたら、話を聞いて来た連中ががやが、や出て来まして、政治部将校であつたか、所長代理であつたかよくわかりませんが、それの話に、きようひどいこと言つた日本共産党の徳田書記長から、ソ連の方に反動は帰すたということを言つて来ておるから、諸君はここにおる間に作業をりつぱにやり、思想の方面もりつぱな民主主義者になるように、そうして早く帰るようにしるというようなことを言つてつた、こういうことを出て来た者が言つておりました。
  126. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ひどいことを言つておるということは、政治部将校がひどいことを言つておるというのですか、共産党の徳田がひどいことを言つて来たということでありましたか、いずれでありましたか。
  127. 小泉敏次

    小泉証人 両方の意味ではないかと思います。自分らにとつてひどいことを言つて来ておる、ひどいことを言われた、まあ心配なことだという意味……
  128. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういうことからそういう話が出たかはお開きになりませんでしたか。——何か質問があつたから出たとか、向うから……
  129. 小泉敏次

    小泉証人 何もそういうことは聞きません。
  130. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 反動は帰すなということでしたか、その言葉の内容はお開きになりましたか。
  131. 小泉敏次

    小泉証人 反動を帰すなという依頼があつたから、諸君はそういうことのないように、先ほど申し上げましたような……
  132. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それだけのことですれ。それを聞いてみな憤慨しておつたわけですか。
  133. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  134. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 俘虜の間でたいへんなシヨックが起つたということを言つておりますが、どんなようなふうでした。
  135. 小泉敏次

    小泉証人 とにかくみな帰りたい帰りたいという気持でおりますから、大分おそくまで残つておりますから、そういうことでやつかいだなという気持がみなにあつたのではないかと思います。
  136. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 大分やけくそになつた者なんかも……
  137. 小泉敏次

    小泉証人 そうもとればとれるかもしれません。
  138. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 一体カラガンダに行くときには、あなた方はどういうことを言われて来たのでした。
  139. 小泉敏次

    小泉証人 アングレンを立ちますときに、ソ連の方からは朝鮮人の通訳でしたか、今度はとにかくまつすぐ帰れない、途中でとまるが、とにかく帰るためにそこに行くんだ、そういうことを言つておりました。
  140. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どこに行くとも言わなかつたのですか。
  141. 小泉敏次

    小泉証人 言わなかつた
  142. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうしたらカラガンダに来たら帰らぬということがわかつたんですか。
  143. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。帰るつもりでみな喜んでおりました。とにかくシベリア本線の方に出て来れば、どつかで一応とまつて中間集結地でとまつて帰るのだ、こういう予想をしておりましたが、汽車は全然反対の方向に行つてカラカンダに行つてしまつたので、みながつかりしたのです。
  144. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そのほかカラカンダその他で日本共産党からの手紙またははがき、そういうものが来ておることをごらんになつたことがありますか。
  145. 小泉敏次

    小泉証人 カラガンダの九におりますときに、食堂に日本共産党の事務員らしい人からはがきが来ておつたのをちよつと見ました。私は少し目が惡くなつておりましたので、食堂の薄暗いところで大体一通来たのを読んだ程度で、ほかのはがきは見なかつたのです。
  146. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どんなことが書いてあつたのですか。
  147. 小泉敏次

    小泉証人 見ないのです。
  148. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 張りつけてあつたのですか。壁か何かに……
  149. 小泉敏次

    小泉証人 張りつけてあつたのです。掲示板に……。日本の情勢はよくないからとにかく皆さん現地でがんばつて、りつぱに民主主義者なつて帰つてくれという意味のことではないかと思いますが、あまり注意もせぬ程度で読んだものですから、内容は今申し上げたことについては自信がありません。
  150. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 出し人は何と書いておりましたか。
  151. 小泉敏次

    小泉証人 それがよくわからぬのです。そのときの印象では、共産党の女の事務員でになかつたかと思いますか……
  152. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それ一枚だけですね。
  153. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  154. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そのほか日本共産党から何か連絡があつて、その連絡によつて早められたとか、それがために遅らされたとかいう具体的の事実はございませんでしたか。
  155. 小泉敏次

    小泉証人 一つこういうことがあります。コーカンドにおりますときに、松岡二十世という人がおりまして、それはかつて日本で刑務所に入つてつたときに、徳田書記長と知合いになつたとか、それが突然そよに行くことになりまして、みなのうわさで、あれは徳田書記長の方からソ連の方に特に頼みがあつて早く帰れるのだ、こういうことを言つておりました。そうして本人は立つて行きました。
  156. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それに一般にそう言つてつたのですか。
  157. 小泉敏次

    小泉証人 ええ、そう言つておりました。
  158. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 別にどういう連絡……
  159. 小泉敏次

    小泉証人 具体的にはつきりした何はありません。想像もあつたのじやないか、ただ先にぼつと一人帰るわけですから……。そうして本人が言つておりましたのには、徳田書記長と一緒に網走の刑務所でしたか、一緒におつたことがあるということを言つておりましたから、想像であつたかもしれない。そういうことからそういううわさか出たのかもしれません。
  160. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 というと、一人だけ特別に帰したということは間達いないですね。
  161. 小泉敏次

    小泉証人 それが信用できないと思えるのは、本人が日本新聞に詩を出しまして、それが次の日本新聞に載つた。懸賞に当選して載つたことがふるのであります。そうして間もなく日本に帰らずに、ハバロフスクかどつかの付近におるらしいということで、また新聞に名が載つておりましたから、日本に帰らずに向うにおるのだろう、そうしてコーカンドというところより先へ立つてつたのも、そういう文筆の方の何があるから、ハバロフスクに呼び寄せられたのではないかということも考えられ、たわけであります。
  162. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなた方は徳田氏の要請があつたために遅らされたと思つておりますか。
  163. 小泉敏次

    小泉証人 私は思つておりません。
  164. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その他に遅らされたということは実際の例はありませんね。
  165. 小泉敏次

    小泉証人 他の人のことですか。——覚えません。
  166. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 在ソ捕虜の中で、いわゆる民主運動というものが非常に熾烈であつたようでありますが、その大略の行き方を説明してください。
  167. 小泉敏次

    小泉証人 簡單に申し上げます。コーカンドへ行くまでは——コーカンドへ行きましたのが二十二年五月になります……
  168. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 二十二年ですか。
  169. 小泉敏次

    小泉証人 二十二年であります。その時分まではほとんどこれということはなかつたのです。ただ国際情勢などをみなに伝えたりした程度、書物、パンフレット等をまわしたり、新聞の解説をしたり、その程度でした。コーカンドヘ行きまして間もなく、ぼつぼつそういう民主運動というものが始まりました。ソ連側から任命された民主委員会というものができまして、それに権限をはつきり與えるということになりましたのが六月か七月のころだと思います。その中には収容所の内務のこと、それから帰還問題についても民主委員会に権限を與えるというようなことが加わりまして、それがみなに対して非常な勢力を持つということで、それで民主運動に参加しないものは不利益をこうむるぞというようなことから、非常に勢力が増大したわけであります。最初の間にはいわゆるつるし上げというものもあまりなかつたようでありましたが、だんだんそれが盛んになつて来まして、内務規律に反する者とか、思想上非常に極端に反動的と認められる者に対しては、いわゆるつるし上げということをやり出した。大体最後までそれが続きました。
  170. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 最初友の会とか、そういうものはあなたの方はなかつたのですか。
  171. 小泉敏次

    小泉証人 それはなかつた……
  172. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 この民主運動の起つたのは反軍闘争からだという人がおりますが、あなたの方はそういうことはありませんか。
  173. 小泉敏次

    小泉証人 ありません。
  174. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 帰還問題を取扱うようになつたと言われるが、具体的にはどういうことをするのですか。
  175. 小泉敏次

    小泉証人 とにかくソ連側にいろいろ思想動向、作業成績等を報告して、何か参考の資料にするのじやないかと思つておりました。
  176. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこでこの民主委員会の指導にあつた人どもほどういう人どもでした。
  177. 小泉敏次

    小泉証人 大体ソ連の方で短期講習を受けた若い人が多かつたように思います。
  178. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どんなような人、名前はわかりませんか。
  179. 小泉敏次

    小泉証人 最初コーカンドでは中西という中尉だつたと思います。それからあるとでは兵卒の方の若い人で上田、名前はよし何とかいいました。
  180. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それからカラカンダへ来ては。
  181. 小泉敏次

    小泉証人 カラカンダヘ来ました当時にははつきりしない。と申しますのは、よくかわつたものですから、ロシア語がよくできて、前からそういう運動に参加している、名前は宇野とかいいました。
  182. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 宇野。
  183. 小泉敏次

    小泉証人 はい。
  184. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 菅という人にも何か講義を聞かれたことはなりますか。
  185. 小泉敏次

    小泉証人 私がですか。
  186. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうです。
  187. 小泉敏次

    小泉証人 私はありません。本人も知りません。名前は聞きました。
  188. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 この民主運動の根本は、いわゆる人間変革をやるとか言われておるが、どういうふうにし向けることをやつておりました。
  189. 小泉敏次

    小泉証人 日本新聞をよく読んだり、それからプリントを研究するとか、それに基いて、日本の情勢なり国際情勢の共産主義的なものと、それからいわゆる資本主義社会のいいところと惡いところですね、それをよく分析して説明する。そして理論武装ということを絶対にやれ、それからあとは団結だ、いわゆる階級意識をはつきりして、そして団結する。
  190. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 要するに共産主義にし向けることですか、
  191. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  192. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたは反動だというので、つるし上げにあわれたことがあるそうですね。
  193. 小泉敏次

    小泉証人 はい、あります。私は最初は民主運動に入つておりました。ところが年齢関係もありますし、若い人たちと一緒について行けないといいますなそういうところもあり、持前の、彼らから見てほんとの労働者のようなところがありませんから、言うことなすことについて行けない。いろいろなことを言うけれども、結局プチ・ブル的なものであるというような意味でつるし上げを受けたのです。
  194. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 プチ・ブルというと、ほんとうの共産主義になり切つておらぬということですか。
  195. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  196. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その反動ということは、共産主義にあらざる者はすべて反動なんですか。
  197. 小泉敏次

    小泉証人 結局そういうことになります。
  198. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それからこの民主運動は次第に反米闘争にかわつてつたという人がありますが、そういう事実はございましたか。
  199. 小泉敏次

    小泉証人 それははつきりしております。
  200. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういうことです。
  201. 小泉敏次

    小泉証人 事ごとに日本新聞なんかに載つておりますのは、アメリカの惡いことを載せるようになりました。日本政府のことを言う場合にも、いつもアメリカのことが惡くそれにつけ加えて言われておりました。
  202. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 戰いがあれば、戰うということまで行くんですか。
  203. 小泉敏次

    小泉証人 そこまでは行きません。アメリカの行き方がとにかく資本主義、独占資本の何である。そういうことを具体的な国際情勢なり日本の社会情勢なりを分析して、それに納得の行くような説明を加えて、そしてアメリカの攻撃をやつたわけです。
  204. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ほかに何かありますか。
  205. 島田末信

    ○島田委員 ちよつとお聞きしますか、今の反米闘争的ないろいろな事実か現われて来たのはいつごろからですか。
  206. 小泉敏次

    小泉証人 ちよつと記憶がはつきりしませんが……
  207. 島田末信

    ○島田委員 つい今民主運動が盛んになり出した二十二年の五、六月ごろですか、夏ごろと言いましたね。
  208. 小泉敏次

    小泉証人 はい。
  209. 島田末信

    ○島田委員 そういうころと大体一致しておるじやありませんか。
  210. 小泉敏次

    小泉証人 二十二年の夏ごろには、まだそういうものはなかつたと思います。
  211. 島田末信

    ○島田委員 そういうものは、日本新聞やいろいろなもので反米闘争的な事実はなかつたのですね。
  212. 小泉敏次

    小泉証人 その日にちははつきりしませんが……
  213. 島田末信

    ○島田委員 大体でいいですが、あなた方民主運動がそろそろ頭を持ち上げて来たころに、同時に反米闘争に対するいろいろな何が現われ棄たことはありませんか。
  214. 小泉敏次

    小泉証人 ありません。少し間があつたように思います。
  215. 島田末信

    ○島田委員 それは反米闘争の方が少しあとなんですね。
  216. 小泉敏次

    小泉証人 あとです。
  217. 島田末信

    ○島田委員 あなた方にはつきりわかつて来たのはあとなんですね。
  218. 小泉敏次

    小泉証人 それにつきまして、最初チュアマにおりましたときには、日本共産党は何を求めるかというパンフレットが来ました。その中にもむしろアメリカのことをほめてあつたように思います。
  219. 島田末信

    ○島田委員 それからあなたは強制労働はやりましたか。
  220. 小泉敏次

    小泉証人 私は初めからしまいまで……
  221. 島田末信

    ○島田委員 初めからということは、捕虜になつソ連へいわゆる入ソして、爾来ずつと続けておつたわけですね。
  222. 小泉敏次

    小泉証人 途中からだを惡くして、いわゆる作業免除になりました以外はずつと続けました。
  223. 島田末信

    ○島田委員 それからつるし上げられたと言われましたが、あなたがつるし上げたことはありますか。
  224. 小泉敏次

    小泉証人 私がですか。
  225. 島田末信

    ○島田委員 ええ。
  226. 小泉敏次

    小泉証人 ありません。
  227. 島田末信

    ○島田委員 あなたはソ連日本へ同胞を帰す際、早いおそいがずいぶんあつたように思うのですが、それはまず強制労働を要求しているということに重点がありましたか。あるいはその思想をたたき込んで、人間変革をやるということに重点がありましたか。
  228. 小泉敏次

    小泉証人 私の考えでは……。その点はよくわかりません。
  229. 島田末信

    ○島田委員 それじや、今の労働をまじめにやつて、作業成績をうんと上げた者の方が帰りやすい立場にあつたか、あるいは徹底的な今のソ連流の民主主義として認められたものが早く帰れたか。その辺の大体の模様は、あなたの周辺を見てわかりませんか。
  230. 小泉敏次

    小泉証人 両方、作業の方もよくて早く帰つたというように思える人もごくわずかにあつたように思いますが、片一方思想の方面で努力したから先に帰つたと思えるような者はちよつと少いように思います。はつきり記憶にありません。現に最初から熱心に運動している人で、まだ私らよりは遅れている人もあります。
  231. 島田末信

    ○島田委員 それではあなたが今のカラカンダ九分所で例の徳田要請のあつたという集会後——あなたは加わつていなかつたですが、その集会後にその模様は大勢から聞きましたか。
  232. 小泉敏次

    小泉証人 大勢から聞きました。
  233. 島田末信

    ○島田委員 その大勢がみな一致しておつたわけですか。
  234. 小泉敏次

    小泉証人 その点は一致しておりました。
  235. 島田末信

    ○島田委員 いわゆる日本共産党書記長徳田が反動は帰すなということを言うている。きようはひどいことを言われたということは一致しておつたのですか。
  236. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  237. 島田末信

    ○島田委員 それから、その場合、本物の民主主義者、いわゆる共産主義者ですね、そういう連中はそのときにどう言つておりましたか。その大勢の中には本物の共産主義者もあつたと思うのですが、そういう連中は何か別のことを言つておりませんでしたか。
  238. 小泉敏次

    小泉証人 何も言つておりません。
  239. 島田末信

    ○島田委員 言つてつたが……
  240. 小泉敏次

    小泉証人 私は聞きません。
  241. 島田末信

    ○島田委員 それじや先ほどの、たとえばまじめに労働してほんとうの民主主義者にならぬと、これはとても帰れそうもないぞというようなことは言つてつたわけですね。
  242. 小泉敏次

    小泉証人 みんなの人がですか。
  243. 島田末信

    ○島田委員 ええ。
  244. 小泉敏次

    小泉証人 そうですけれども、しかしそんことを言うのはソ連の将校の手だからというのもおりました。
  245. 島田末信

    ○島田委員 いずれにしましても、大勢の一致した言葉として、ただいま申し上げたようなことをあなたはお聞きになつたわけですね。あなたが耳にした点は、一人や二人でなく、みなそういうことを言つてつたということなんですね。
  246. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  247. 石田一松

    ○石田(一)委員 ちよつとお尋ねいたしますが、先ほどのお話で、カラカンダへおいでになりまして、掲示板か何かに日本共産党の女事務員らしい人から来たはがきをごらんになつた、その内容は、目が惡いのでしつかりは覚ていないけれども、これこれであつたと思うという御証言がありましたけれども、それは掲示場に張つてあるとすれば、その收容所あてのはがきなのでしようか、それともだれか容所に牧容されている日本人の個人にあてららたはがきだというのでしようか、どちらですか。
  248. 小泉敏次

    小泉証人 それは個人あてのように思います。
  249. 石田一松

    ○石田(一)委員 それは個人あてのものだとお考えになるのですか、それとも個人あてだということをはつきりごらんになりましたのですか。
  250. 小泉敏次

    小泉証人 その文字をはつきり覚えておりませんが、個人あてに違いないと思います。というのは、日本共産党にあてて個人が出したものの返事だというように思います。
  251. 石田一松

    ○石田(一)委員 日本共産党にあてて個人が出した返事であれば、それは捕虜用の往復はがきを使われていたのですか。
  252. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。そのように思います。
  253. 石田一松

    ○石田(一)委員 その消印などについては何かお聞きになりませんでしたか。
  254. 小泉敏次

    小泉証人 聞きません。
  255. 石田一松

    ○石田(一)委員 実は今証人のお言葉を聞きますと、以前に小島さんという方がお見えになりまして、その方がごみ捨場をちよつと見ていたところ、前の人が引揚げるときに整理して落したのだろうと思つたが、はがきが一枚あつたので、つい何ものかと拾つてみたら、これが日本共産党代々木何とか書いてあつた女の手紙で、名前はよく覚えない、それにこういうことがあつたので、私はこれをみなに見せて、それを当分の間私はポケットへしまつてずつと歩いていたが、それに日本の東京の消印があつたかどうかということを私が聞きましたら、その消印は私も不用意にして十分に見ていないということですが、小島さんが大切にしまつてポケットへ入れて歩いていたというのは、あなたのおはがきじやないかと思うのですが、ただ食い違います点は、あなたもそれと同じようなことですし、小島さんも同じ文章だとおつしやるのに、あなたは掲示場でごらんになつた、小島さんはポケットにしまつて置いたということにたるのですが、これは小島さんがそこへお張りになつたということ、なんでしようか。
  256. 小泉敏次

    小泉証人 ほかにもはがきがありまして、掲示板に張つてつたのは一枚ではありません。
  257. 石田一松

    ○石田(一)委員 こういうようないろいろな意味のはがきが何枚も掲示してあつて、そのうちの一枚がこういうものであつたということですか。
  258. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  259. 石田一松

    ○石田(一)委員 私がこういうことを言いますのは、何も食い違いがどうという意味ではありませんけれども、小島氏のおつしやるところのはがきの内容と差出人とが、今あなたのおつしやいました掲示場のものど同一であるということだけは、常識的に考えてもよくわかる思うのであります。(「そんなことはない」と呼ぶ者あり)これは証言によつて私は聞いておるのでありますから、決してどうこうというのではありませんが……、(「名前もあるのだ」と呼ぶ者あり)多分それでは、謄写版か何かで刷つたのでしようね。
  260. 小泉敏次

    小泉証人 一枚ではありません。ほかにも共産党から来ているのがあつたようです。
  261. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 筆でしたか。
  262. 小泉敏次

    小泉証人 ペンで書いてあつたようです。
  263. 石田一松

    ○石田(一)委員 そうすると、名前もそれと同じようなものが来ておつたということですか。
  264. 小泉敏次

    小泉証人 それは全部見たわけではありませんから、全部共産党から来たのかどうかわかりませんが、内地から来たので、いわゆる日本の状況にろいて、大いに思想的にはつきりしなければならぬという参考に出したものであります。
  265. 石田一松

    ○石田(一)委員 わかりました。そういたしますと、そこに掲示してあつたはがきというものは、捕虜用の往復はがきを日本に出して、その返事が行つたものでも、掲示場に出されるものはほとんど共産党関係の返事のみが掲示されると見てさしつかえありませんな。
  266. 小泉敏次

    小泉証人 いや、そうじやありません。ほかのものもあります。
  267. 石田一松

    ○石田(一)委員 ほかの意味の手紙に、たとえばまあどうにかこうにか日本では生活が苦しいながらも生きている、早く帰つて来てくれても大丈夫だというような意味のはがきは張つてありませんでしたか。
  268. 小泉敏次

    小泉証人 ありました。
  269. 石田一松

    ○石田(一)委員 そうだとすれば、まことに、公平にそれぞれはがきは出してあつたわけですね、私たちが考えれば……。(「そんなことを質問することはないと呼ぶ者あり)いやにうるさいな、何言つてんだ、よけいなことを言うな。(「毎言つてやがんだい、大きな顔をするな、売名。」)と呼ぶ者あり)実際困つたものだ。(「お前が困つたものだ。何だそのかつこうは。」と呼ぶ者あり)
  270. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 まあかかわり合わないで質問してください。
  271. 石田一松

    ○石田(一)委員 かかわり合わないでいられないじやないか。それからちよつとお尋ねします。まあ証人もよくこの事情を見ておいてください。私が先ほどからあなたに聞いているのは、むりを聞いたり、あなたの人格を無視するようなことは一つも言つていないつもりであります。ほんとうに一つの事実を聞こう聞こうとしているわけです。聞こうとすると、こういうふうに私はやられるのです。遺憾なことであります。(「それは共産党が妨害するからだ。」「共産党に味方したらいけないのか。」と呼ぶ者あり)ちよつとお尋ねいたしますが、先ほどカラカンダの収容所においでになつてから、九月の十五日ごろだつたと思うが、あなたはその訓辞か訓話か心得かの話があるその部屋には入らなかつたけれども、待つていたところが出て来た者たちから、実はひどいことを言つておる。われわれは聞いた。それは日本共産党徳田書記長が反動は帰すなというようなことを言つて来ておるぞ。それがあるので、おれたちは何か帰れないらしいという話があつた。こうおつしやいましたね。そのときにあなたがお聞きになつたこの言葉は、非常に普通会話体の言葉なんです。この言葉の中に、日本共産党徳田書記長は反動は帰すなと要請して、来ている。という要請などという言葉はお聞きになりませんでしたか。そのときの会話で……
  272. 小泉敏次

    小泉証人 要請という言葉は使つておりませんでした。
  273. 石田一松

    ○石田(一)委員 何という言葉ですか。
  274. 小泉敏次

    小泉証人 反動は帰すなと言つて来ているから……
  275. 石田一松

    ○石田(一)委員 それで先ほどの証言の中に、菅という人は名前は聞いているが、一度も会つたこともない。全然見たこともない。こうおつしやるのでありますが、昨年の九月十五日に、政治部の上級中尉がロシア語で話したものを通訳したのが菅証人である、こういうことになつておるのでありますが、そのときにおいても菅氏を御存じありませんでしたか。
  276. 小泉敏次

    小泉証人 菅という人が通訳したということは、日本に帰つたから知りました。
  277. 石田一松

    ○石田(一)委員 あなたがお待ちになつていたのは、その入口でお待ちになつていたわけですね。
  278. 小泉敏次

    小泉証人 表で立つてつたときです。入口ではありません。
  279. 石田一松

    ○石田(一)委員 距離は相当離れているのですか。
  280. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  281. 石田一松

    ○石田(一)委員 ソ連の政治将校とか通訳とかが出入りする通路というものは、あなたたちの目から見えないところから出入りするのですか。
  282. 小泉敏次

    小泉証人 ソ連の将校がその方向に行くというようなことは見えます。しかし入つたかどうかということは一々見ておりませんし……
  283. 石田一松

    ○石田(一)委員 ただ場所的に見える所かどうだろうかということです。
  284. 小泉敏次

    小泉証人 みんなにクラブの方に集まれといつて、半分が集まつたときに将校が通れば、そつちの方に行くんだという想像がつくような、姿が見えるところにおりました。
  285. 石田一松

    ○石田(一)委員 それではそのときに——また怒られるかもしれませんが、菅という通訳が行つていても、あなたはその人を知らないから、菅だかだれだかわからない。こういうことになるわけですね。
  286. 小泉敏次

    小泉証人 通訳のことは全然知りません。
  287. 石田一松

    ○石田(一)委員 先ほどもう一つ私が証言をお聞しておりましてちよつと考えましたことですが、思想的に真の共産主義者になつたから早て帰国を許されたというよりか、あなたの考えでは、最もよく働いたために早く帰されたという方が多いと思うということをおつしやいましたが、これは間違いございませんか。そういう考えですか、今でも……
  288. 小泉敏次

    小泉証人 私の判断というよりも、あれはよく働いたから帰つたんだということを言つておるのはいました。
  289. 石田一松

    ○石田(一)委員 それからいまひとつ、あなたたちカラカンダにいらつしやいました一団は、いわゆる団体的に動いていらつしやいます。七百人か九百人かと記憶しておりますが、その方方は反動とか何とか目されている人々だというようなことも聞いていたんですが、全部が全部そうではないのですか。
  290. 小泉敏次

    小泉証人 全部が全部そうじやないと思います。
  291. 石田一松

    ○石田(一)委員 そういたしますと、その中にはこのソ連将校の言つたことを。日本人の菅氏がこれを通訳した。この通訳を聞いて反動と目されない人もあり、反動と目されている人もある。こういうのであれば、この日本語に通訳された言葉自体をそれぞれ自分に関連して解釈して、外でこれを皆さんにお話する。たとえばあなたのただいま御証言になりましたように、これはどうだかわからぬ。徳田書記長があんなに言つて来たとかなんとかいうことは、ソ連の手だからなあと言う人もあつたというのですが、こういう意見がわかれろのは、そのことをあなたたちにお話する、伝える人たちの思想的立場による、こういうことは考えられませんか、判断の違いは、通訳の聞き出遅いは……
  292. 小泉敏次

    小泉証人 そういうふうにとれません。思想のいかんにかかわらずですね。その人がどういう思想を持つているか、一々私が知つてるれけしやありませんから……。私の聞いた人は、それは多数がそう言つてつたと言いますけれども、一々聞いてまわつたわけじやないですから——そこで反対する人もないし、出て来た人がそう言つておりますから、大体そういうふうなことを聞いたんだろうと思つただけです。
  293. 石田一松

    ○石田(一)委員 あなたがお聞きになつたその相手方は、御存じの方ですか。もちろん御存じだろうと思うのですが……
  294. 小泉敏次

    小泉証人 それは覚えておりません。たれが話したか覚えておりません。あちらの生活御存じになれば、一々そういうことは記憶に残らぬと思います。
  295. 石田一松

    ○石田(一)委員 しかしこの問題のためにたいへんその当時激昂なさつたんじやないですか。そのカラカンダの收容所で……
  296. 小泉敏次

    小泉証人 私個人としては、別にそういうことを気にしておりませんでした。
  297. 石田一松

    ○石田(一)委員 その收容所の空気が、要するに方々でこういうことを言つて来ているぞというので、内々そういう気分が燃え上つていたかどうかということです。
  298. 小泉敏次

    小泉証人 それはそういう点は認められましたね。それは先ほど申し上げた通り、みな帰りたいと思つているときですから、相当おそくなつておりますから、その問題がななに相当大きな影響を與えられたことは考えられます。それについて、どういうようなことで日本共産党に対して憤慨しておつたかというところまではわかりません。
  299. 石田一松

    ○石田(一)委員 その中にも、それはソ連の手だということを言つている者もあつたということは、お聞きになつたのですか。そういうことを言つている人もあつたのを……
  300. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  301. 梨木作次郎

    ○梨木委員 先ほどあなたは民主グループに最初つてつたことはあると言つておりましたね。それはいつからいつまで入つておられて、その後どういうような形で民主グループからやめられたのですか。
  302. 小泉敏次

    小泉証人 それは先ほど申しましえ通り年をとつておりますし……
  303. 梨木作次郎

    ○梨木委員 いつからいつまで。そしてどういう形でやめられたか。
  304. 小泉敏次

    小泉証人 二十二年の五月の中ごろに民主グループというものかできまして、そのときから入りました。それからやめたのが翌年の三十三年の五、六月ごろじやないかと思います。もう少しおそかつたかもしれません。先ほど言つたような理由、いわゆるつるし上げを受けましたので、それなら入らぬと除名されました。
  305. 梨木作次郎

    ○梨木委員 除名されたのですか。
  306. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  307. 梨木作次郎

    ○梨木委員 ごく簡單に伺いますが民主グループへお入りになつた動機はどういうことからでありましようか。
  308. 小泉敏次

    小泉証人 とにかく共産主義というものについては研究しなければならぬ。それから戰争に日本が負けて、過去のことを考えてみると、日本人がもつとこういう方面で反省しなければならぬというような気持で入りました。そのときはいいと思つておりました。
  309. 梨木作次郎

    ○梨木委員 つまりそこで共産主義思想を研究すべきであるという考え方でお入りになり、さらにそこで民主グループの運動のようなものはおやりになりましたか。
  310. 小泉敏次

    小泉証人 研究程度のことであります。みなにそれを勧めました。
  311. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そのほかに、何か民主グループとしての活動に参加されたようなことはありませんか。
  312. 小泉敏次

    小泉証人 その活動が鈍いというので……
  313. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その活動は、あなたが入つておられたころどんなことをやつておりましたか。
  314. 小泉敏次

    小泉証人 結局そういう方面の研究の会合を開いて、それを研究する機会をつくつてそれをするということです。それから民主主義に基く作業というものをしなければならぬということで、会合などのことも引受けたことはありましたが、作業から帰つて来ると、年もとつておりますし、出席が少かつたり、壁新聞にものを書けと言つても書かなかつたり、そういうことで、結局民主主義者としての価値がないというようなことをいろいろ言われ、まだプチブルだ、ひより見主義である、民主主義者ではないということでありました。
  315. 梨木作次郎

    ○梨木委員 わかりました。そこで民主グループに入つておられる時分に、この民主グループの中の運動を進めて行く上においての、何かせわをやくような人があつたと思いますが、それはどういうぐあいにして選ばれたかを聞かせていただきたい。
  316. 小泉敏次

    小泉証人 いわゆる選挙というもので選ばれました。
  317. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そこで、その次に伺いたいのでありますが、先ほど私はちよつと聞き漏らしたのですが、何かそこの指導的な人々が、ソビエト側から任命されたというふうに言われたようですが、私声が小さかつたので聞き取れなかつたから、そこのところをちよつと聞かしていただきたい。
  318. 小泉敏次

    小泉証人 それは先ほども申し上げましたように、フンクチョネールという名前で呼んでおります。
  319. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それを日本語に直すと何というのですか。
  320. 小泉敏次

    小泉証人 大体ソ連から、お前はフソクチョネールにするという任命の形でなつておつたように思います。
  321. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それはどういうことをするのですか。
  322. 小泉敏次

    小泉証人 それが主になつて、民主運動の中核になるわけです。
  323. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それは日本語でどういうことですか。
  324. 小泉敏次

    小泉証人 何と訳するのでしようか。みんながそういつておりますから、自分ひとりで訳しても通用しないと思います。
  325. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それはソビエト側から任命されるのですか。
  326. 小泉敏次

    小泉証人 任命されたかどうかはわかりませんが、私は任命されておるように記憶しております。
  327. 梨木作次郎

    ○梨木議員 あなたが任命されておられると思つておるわけですね。現実に任命されておるというような組織関係ははつきりしておるわけではないのですね。
  328. 小泉敏次

    小泉証人 ええ。
  329. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それと関連しますが、帰還問題の権限を與えられるようになつたということを先ほどおつしやいましたが、その帰還問題の権限を與えられるようになつたというのは、何に與えられるようになつたのですか。
  330. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 帰還問題を取扱うようになつた……
  331. 小泉敏次

    小泉証人 帰還問題に関してある程度の権限を與えられる。たとえば先ほど申し上げました通り……
  332. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それは何に與えられるのですか。
  333. 小泉敏次

    小泉証人 民主委員。その民主委員というのは大体民主運動の中核をなす者です。その中には必然的にフンクチョネールというものが入つておるわけです。それが作業の成績であるとか、思想動向等をソ連側に参考に供する。それがひいては引揚げ関係するのではないか、そういう意味の権限のように思います。
  334. 梨木作次郎

    ○梨木委員 わかりました。私が事務当局から聞いたところでは、あなたは日の丸梯団に入つておられたように伺つておりますが、その通りでありましようか。
  335. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  336. 梨木作次郎

    ○梨木委員 日の丸梯団にはいつごろ、どういう経過でお入りになりましたか。
  337. 小泉敏次

    小泉証人 日の丸梯団は船の中でできました。
  338. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それは久保田善藏さんなんかと一緒の船でありますか。
  339. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  340. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それではひとつそれを詳しく聞きたいのでありますが、船に乗られる前に、在ソ中に日の丸梯団を結成するというような話、そういう運動に類したことはあつたかどうか、またそれにあなたは参加されたかどうか。
  341. 小泉敏次

    小泉証人 あつたかどうか知りまやん。私は参加しておりません。
  342. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そこで船に乘られてからどういう経過で日の九梯団に入られたか。
  343. 小泉敏次

    小泉証人 大体私らのように捕虜でない者は、一番あとで船に乗り込みました。それまでに、船の人が出迎えてくれたりするのに対して前に乘つた連中があいさつひとつしない。われわれはそういうことをしないで、あいさつをして、そしてソ連の方に向つていろいろ感謝のミーティングなんがをやるにしても、それに参加しない。それで船の裏側の方に向つてソ連の方には出なかつたわけです。大体どういうことになるかということは考えていなかつたのですが、間もなく船が領海を離れたときに、ここまで来ればいよいよわれわれは行動を別にしようではないかという議がありまして、もちろん私は賛成であつたものですから、それに参加したわけであります。
  344. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その運動の中心になつておつたのは、久保田さんあたりがなつておつたわけですか。
  345. 小泉敏次

    小泉証人 久保田善藏、日高清……。中心になつた人物はまだほかにもありますが、名前はちよいと忘れました。
  346. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そこで何か結成式のようなものはあつたのですか。
  347. 小泉敏次

    小泉証人 ありました。
  348. 梨木作次郎

    ○梨木委員 結成式に参加されましたか。
  349. 小泉敏次

    小泉証人 しました。
  350. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そこで何か日の丸梯団の目的とか綱領だとか、そういうものはそこで決定されましたか。
  351. 小泉敏次

    小泉証人 できたと思います。
  352. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その綱領の中で覚えておられる重要な点を聞かしてもらいたい。
  353. 小泉敏次

    小泉証人 あまり覚えておりません。
  354. 梨木作次郎

    ○梨木委員 何か覚えておられる点がありますか。全然ないのですか。
  355. 小泉敏次

    小泉証人 とにかく思想的には共産主義というものには賛成しない。それからこまかいことは忘れました。
  356. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その中で軍国主義的な考え方を非常に鼓吹するような点はなかつたのですか。たとえば私の聞いておるところでは、その日の丸梯団のやはり中心的な分子並びに日の丸梯団を組織する思想的な底流というものは、これは元の日本の将校が中心になつて、この人たち日本を再建しなければならぬ。こういう考え方の上に立つてできておるように聞いておるのでありますが、あなたはその結成式に参加されて、さような空気を察知されませんでしたか。
  357. 小泉敏次

    小泉証人 綱領の詳しいことはわかりませんが、そういつたようなあまり目立つという感じは受けておりません。何かそういうにおいがしたかもわかりませんが、そういうものは頭にありませんし、私自身としては、日の丸梯団というものは、船で舞鶴へ上れば解消すべきものだ。これを日本へ上つて、将来も一つの団体として政治運動をするようなかつこうに持つて行くことは反対だ。そして最後に舞鶴に着きまして、解消の決議をしたはずです。
  358. 梨木作次郎

    ○梨木委員 ところがその後この日の丸梯団が舞鶴へ着いてから後においても、ますます結成当初の目的をはつきりさして、内地において運動を展開している事実をあなたは御承知ありませんか。
  359. 小泉敏次

    小泉証人 私のところには何らの連絡もないし、そういう運動をしておるということも知りません。
  360. 梨木作次郎

    ○梨木委員 舞鶴へ着かれましてから、この日の丸梯団の人々は、何か反動を帰すなというような徳田共産党書記長からの要請云々の問題があつたと称してその事実の調査を参議院に要請するというような運動が上陸後において行われたように聞いておるのでありますが、それをあなた御承知ありませんか。
  361. 小泉敏次

    小泉証人 あります。それは舞鶴の收容所でそういう話が出まして……
  362. 梨木作次郎

    ○梨木委員 舞鶴の收容所で、どういう話がどういうぐあいに進んで行つたか聞かせてください。
  363. 小泉敏次

    小泉証人 今問題になつております徳田要請なるものを、日本の国民全部に知らして、引揚げ問題をもつと活発にしてもらうという趣旨で運動を展開しようじやないか、こういう話がありまして、それを新聞発表するなり、議会べ持つて行くというようなことまで私は記憶がないのですが、それはあつたのかもしれません。とにかくそういう運動をやろう、少くとも徳田書記長の方からこういう話があつたということはあるのだから、これを公表して事実だかどうかをはつきりして、今なお残留しておる者たち帰還を促進することはわれわれの義務じやないか、こういう決議が行われることになりました。それでそれに署名しました。
  364. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それは舞鶴引揚寮の中かどこかで行われたのですか。
  365. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  366. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そういう集会を持たれたわけでありますか。
  367. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  368. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そこでそうして決議がされて、あなたも署名されたわけですね。
  369. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  370. 梨木作次郎

    ○梨木委員 私たちの聞いたところでは、何でも四十四名の人たちがその署名に参加しておるというのですが、あなたはその四十四名の一人ですか。
  371. 小泉敏次

    小泉証人 そこははつきりしません。ずさんといえばずさんですが、署名するときにあまり責任を持つたような署名をしておりませんから……
  372. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そのあなたがなされた署名というのは、参議院に対する調査懇諾の署名なんですか。それともそのほかの何か世間一般に対する公表文に署名されたのですか。その点はどうでありますか。
  373. 小泉敏次

    小泉証人 それははつきりしないのですが、四十四名という数字を聞きますと、どうも私はそれに入つていないように思います。
  374. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 もつと多かつたですか。
  375. 小泉敏次

    小泉証人 全員やつておるから、われわれもやらなければいかぬという調子でやつたと思います。少しともカラカンダの第九におつた者は、全員それをやらなければというのでやつたように思うのです。そして署名しますときには、前文と署名の紙が別にまわつて来るのです。ただ署名の紙がまわつて来るものだから、署名してしまつたのです。その文句も覚えておりませんし、読んでもおりません。
  376. 梨木作次郎

    ○梨木委員 文句も読んでおられないし、カラカンダから引揚げて来た者は全部署名するのだということで、あなたは署名されたのですね。
  377. 小泉敏次

    小泉証人 私の気持はそうですが、全部といつても九の連中だけだろうと思います。
  378. 梨木作次郎

    ○梨木委員 九というのは……
  379. 小泉敏次

    小泉証人 カラカンダに第九ラーゲルと第十五ラーゲルトがあつたのです。
  380. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その第九ラーゲルからそのとき引揚げたのは、何名くらいありましたか。
  381. 小泉敏次

    小泉証人 忘れました。
  382. 梨木作次郎

    ○梨木委員 次に伺いますが、あなたは舞鶴に上つてから、占領軍の方から徳田要請の有無について、調書か何かとられたようなことはありませんか。
  383. 小泉敏次

    小泉証人 ありません。
  384. 梨木作次郎

    ○梨木委員 舞鶴に上られまして、いわゆる徳田要請なるものは、反動を帰すなという、そういう要請があつたと主張する人々と、いや、そういう要請は全然なかつたと主張する人々とあつたわけですが、あつたとして署名をとつておる一つのグループがあり、それからなかつたといつてそのなかつた事実に署名してもらいたいという署名運動が行われたと聞いておるのですが、そういう事実をあなたは御承知ありませんか。
  385. 小泉敏次

    小泉証人 もう私らのおりますところと、それからいわゆる赤といつて、日の丸梯団でない人のいるところとは、全然別の場所にありましたから、向うの方でどういうようなことをやつたかわかりません。私らの方でそんなものはなかつたという人は、一人もいなかつたと思います。
  386. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうしますと、あなたの方ではそういう署名をするための集合や、署名の活動というものは、自由にたれの妨害も圧力もなくして、自由に行われたわけですか。
  387. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。
  388. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それから舞鶴に上られましてから、こういうことはありませんでしたか。何か引揚者の中には共産主義教育の洗礼を受けて、相当尖鋭化した不具分子がおつた。これに対して善良な分子といろいろわけなければならないので、その不良分子にはどういう者がいるかという調査をするというので、そういう不良分子の事実を知つておる者があつたら、ひとつ情報を提供してもらいたい、こういうようなことを言つて来る人はありませんでしたか。
  389. 小泉敏次

    小泉証人 ありませんでした。
  390. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そういうことを聞かれているのを見たという事実もありませんか。
  391. 小泉敏次

    小泉証人 ありません。
  392. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それからその次にお伺いしたいのですが、あなたがこの考査委員会に呼び出されるにつきまして、あなたが何か考査委員会の事務局から、あらかじめあなたの方へ調査があつて、こういう事実をあなたは知つている、こういう関係を知つているということで行つたのか、あなたは積極的に、私はこういう事実を知つているから、この点を今国会で問題になつているかち証言したいと、みずから積極的に買つて出ておいでになつたのか。これをひとつ聞かしていただきたい。
  393. 小泉敏次

    小泉証人 私はむしろお断りできればお断りしたがつたのであります。
  394. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうすると、考査特別委員会がどうしてあなたの存在を知り得たかは私にはわからないのでありますが、そこのところを、あなたがいわゆる徳田要請問題について、この程度の知識を持つておられるということを、考査委員会の事務局がどうして知つたかということを、あなたがもし知つておられるなら話してもらいたい。
  395. 小泉敏次

    小泉証人 それは岸勇一という人が私に聞いたらいいだろうということを、事務局の方へ言つたのだろうと思います。
  396. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その岸という方はどうい方です。
  397. 小泉敏次

    小泉証人 一緒に帰つて来た人です。
  398. 梨木作次郎

    ○梨木委員 職業は。
  399. 小泉敏次

    小泉証人 朝鮮の知事です。私は親しくしておりましたから……
  400. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その方は東京にでもおられるのですか。
  401. 小泉敏次

    小泉証人 いや奈良です。それは岸という人があなたのことを言つてつたからということを、ちよつと耳にしたものですから、その人がそう言つたのではないかと思うのです。
  402. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなたは中央公論の三月号に「日の丸梯団の報告書」というものが出ておるのでありますが、これをお読みになりましたか。
  403. 小泉敏次

    小泉証人 読みません。
  404. 梨木作次郎

    ○梨木委員 お読みにならないなら、私それを読んで記憶を呼び起してもら叩いたいと思うのでありますが、ここにこういうことが書いてある。「実践綱目」という中の第一に「日本人同胞、同僚を敵に売つた者に対するアクトの作成」として、その「イ」として「日本人たるの自覚を失ひたる者」ということが書かれておるわけでありますが、これから見ますと、旧職業軍人で、しかも日本人たる自覚を失つた者、こういう者に対して「アクトを作成し上陸後合法的手段に依り全国的に真相を公表し、且つ社会的地位の剥奪」を行うということに書かれておるわけであります。そこで私は伺いたいのでありますが、このことは裏返して言えば、つまり旧軍人精神を堅持しなければならぬ。旧軍人精神を忘れたような者は、アクトをつくつて社会的地位を剥奪しなければならぬということになるわけであります。日の丸梯団というものはこういう組織でありますが、一体あなたはこの点をどの程度に理解し、それからこういう梯団の存在をどう考えておられるか、それを伺い
  405. 小泉敏次

    小泉証人 今読まれたところは私は全然記憶いたしません。そういうことかあつたようにも思いません。
  406. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうするとあなたがお入りになつ時分には、こういうまとまつたものはできていなかつたのですか。
  407. 小泉敏次

    小泉証人 そたはわかりません。あつても私は注意しなかつたのかもしれませんが、私の頭にはありません。それからその後どうしておるとか何とかいうことは、先ほど申し上げました通り、日の丸梯団というものは舞鶴へ上つて汽車に乘ると同時に解消するものだということは、はつきりきまつたと思います。
  408. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなたも法律家なのでありますから、私は特にこの点を伺うのでありますが、もしそれが真実であり、しかもこれが上陸後においても存続しておるということになれば、これは明らかにポツダム宣言によつて、こういう団体の結成というものは禁止されており、具体的には団体等規正令によつて解散を命ぜらるべきものと思うのでありますが、ひとつこの点の御見解を承りたい。
  409. 小泉敏次

    小泉証人 私はそれは法律の解釈はわかりませんが、そういうものはいけないことだと思います。私はことに司法官に復活しようという気がありましたし、過去もそうでしたし、そういう団体には参加しないし、でき得れば全部が解消すればいいのだと思つておりましたところが、幸いにして最後の会合のときには、もう全部これは打切つてしまうということになつたから、そういう点は問題はないと思つております。
  410. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そこでもう一ぺん最後に伺いますが、これは大体日の丸梯団というものは、船の中でできて船の中たけのものであると、こういうぐあいに、入つておられるあまり積極的でないメンバーは考えておつたというように承つてよろしうございますか。
  411. 小泉敏次

    小泉証人 そう思います。
  412. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それがその後も依然として続いておるということになれば、これはなかなか問題になることだうと思うのでありますが、どうです。つまりこの日の丸梯団というものは、依然として上陸後も存続しておつて、日の丸梯団に所属しておつた人々がいわゆろ徳田要請問題というものがあつたということを主張し、これが今国会の問題になり、そうしてそれがいろいろと反共反ソ的な宣伝に使われておるのでありますが…
  413. 小泉敏次

    小泉証人 私は証人ですから、私の知らぬことは私に関係ないと思いますから、どうなつておるということは私はわかりません。
  414. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それはその通りだと思うのですが、そこであなたに聞きたいことは、上陸後においても、こういうようなものが日の丸梯団の名前において活動をやつておるとするならば……
  415. 小泉敏次

    小泉証人 するならばといつて、私はしてはおらないと思います。
  416. 梨木作次郎

    ○梨木委員 しかしほかの者は現にやつている。
  417. 小泉敏次

    小泉証人 それは私にはわかりません。
  418. 梨木作次郎

    ○梨木委員 だからやつておる事実についてあなたはこういうことは希望しないことでありますか、希望するのですか。
  419. 小泉敏次

    小泉証人 もちろんしません。なくなつておるのですから。私の見解ではなくなつておると思います。
  420. 田渕光一

    ○田渕委員 私が伺いたいのは、先ほど石田委員から尋ねられました掲示の葉書が、前までの証人は一枚であつたということでありましたが、証人は数枚張られておつたと言われた。これは証人の信用上にも関係しますので、私はこれを伺うのです。今日まで出られた証人は多く若い人であり、壯年であり、血気にはやり、いろいろ感情もまじえて話されておりますが、職業といい、年齢といい、まことにこの方に真実を冷静に伺うことがほんとうじやないかと思いますので、証人の信用上これを伺うのであります。このカラカンタの第九分所の收容人員が千名ぐらいと聞いております。そうすると、これだけの千人からの收容人員の炊事をいたしますところは、おそらく一箇所じやないだろうと思う。一千人からの方方が整列して食糧の配給を受けるということは、非常に時間がかかるし、そういうようなことで、この炊事場あるいは食堂の掲示場というものは、幾つもあつたのではなかろうかと思われますので、この点を伺いたい。
  421. 小泉敏次

    小泉証人 一つです。
  422. 田渕光一

    ○田渕委員 それからもう一つ伺いたいのは、この食堂が一つであつて、そうして大体九月から十二月までの間に一枚だけ張つてつたということを前の証人が言つております。私は大分欠席しておりますから、もしそういう点違いましたら……
  423. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 机の上にも何枚もあつたという証人もあつたのです。
  424. 田渕光一

    ○田渕委員 それから強制労働をされたということを伺いましたが、この強制労働の大体の実態を伺いたいのであります。
  425. 小泉敏次

    小泉証人 私のやりましたのは、たとえば貨車の材木をおろしたり、石炭をおろしたり、肥料の原料をおろしたり、自動車に砂を積み込んだり、おろしたり、それから土工、壁塗り、そのほかいろいろなことをやりました。
  426. 田渕光一

    ○田渕委員 たとえば貨車の荷物をおろします、積み込みます、また石炭を積みます、おろします、いろいろございましたでしようが、たとえばそのうち貨車からかりにおろすといたしましても、何貨車と何時間ぐらいでおろす、午前中あるいは何時間働いて、何時間の休養時間を與えられたか、こういうような点を伺いたいのであります。
  427. 小泉敏次

    小泉証人 労働時間は八時間です。
  428. 田渕光一

    ○田渕委員 そこで、あなたはとにかく司法官生活を長くされているのですから、重労働には耐えられなかつたと思いますが、非常な苦痛でございましたか、楽な作業状態でありましたか。
  429. 小泉敏次

    小泉証人 からだの調子のいいときは何ともなかりたのです。弱つたときは参りました。
  430. 田渕光一

    ○田渕委員 それから伺いたいのは、七月二十六日にポツダム宣言が発せられまして、それが二十八、九日に日本新聞に出た。それから終戰のあれが出たのが八月の十五日、それで証人がチタを経由してウラルに入られたのが十二月と伺つております。証人は天津、奉天の司法領事をされ、また満州で司法官をされておつたのですから、国際公法を十分に御存じだろうと思いますが、このポツダム宣言が発せられたときの條項というもの、それから降伏文書というものを満州においてお聞きになりましたか、いかがですか。
  431. 小泉敏次

    小泉証人 満州ではポツダム宣言の一部を見ました。新聞に載つたことは見ましたがよく注意しておりません。一応読みましたが、頭に残つておりません。それから降伏文書は全然わかりませんでした。
  432. 田渕光一

    ○田渕委員 この降伏文書にこれが出ておるのでございます。これはもちろん勝者と敗者との関係からいたしかたがないといたしましても、ミズリー艦上でこれをやられておる。下名はここに日本帝国政府及び日本帝国大本営に対し現に日本国の支配下にある一切の連合国俘虜及び被抑留者をただちに解放すること並びにその保護、手当、給養及び指示せられる場所べの即時輸送のための措置をとることを命ず、こういうように日本の天皇が言つております。これは日本が負けたのでありますから強くしいられなくても、日本は国際正義の立場からただちにお帰しすべきである、こういうことを降伏文書にはつきりうたつております。ところがポツダム宣言は一方的でございまして、ポツダム宣言の九條には、日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し、平和的かつ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべしと書いていていつ帰すということは書いてないのでございます、この点において私は国際正義というものを疑うのでございますが、しかしこのポツダム宣言に即時帰すということは書いてありませんけれども、イギリスも、アメリカも、さらにあれだけのことをした中国も、直ちに母の手元に帰して、日本の兵隊には一つも手をつけてはいかぬという訓令を蒋介石は出しております。ソ連が今日まであなた方を四年も五年も抑留しておつたことに対して、おなたはポツダム宣言を完全に履行しなかつたのは、ソ連があなた方を共産主義的な人間に変革してからでなければ帰さないというので、こういうふうに帰還が遅れたのだというようにはおとりになりませんか。
  433. 小泉敏次

    小泉証人 そこまで考えておりません。
  434. 田渕光一

    ○田渕委員 昨日品の証人は、ポツダム宣言には何ら無関心でありました。今日私は、あなたが司法官生活を長くされ、ことに五十二というお年で、最も円熟され、思想もまつたく健全な年輩でおられるために伺うのでありますが、そうすると終戰後、入ソ以来転々として連れて歩かれ、いつ帰れるかわからぬ、半ば人生観というものを、運命論者のようになつてあきらめておられる。いつ帰れるかわからぬ、しかたがない、こういう自分の運命だという観念から、このポツダム宣言あるいは国際公法あるいは国際正義というような点をどういうふうにお考えになつておられたか。全然無関心にまでソ連の抑留生活においてしいたげられたかどうかということを伺いたいのであります。
  435. 小泉敏次

    小泉証人 無関心になつております。
  436. 田渕光一

    ○田渕委員 そこで、その無関心になるまでというのは、結局重労働以外に、たとえば日本の刑務所における——今日ほともかく、旧憲法下における刑務町では、相互に話をさせないというようなこともしておりますが、かような意味で、ソ連收容所もお互いか和気あいあいと話されるという機会はなかつたのでありましようか。
  437. 小泉敏次

    小泉証人 それはあります。しかし事柄によつては、なるべく話さないがいいという警戒はしております。
  438. 横田甚太郎

    ○横田委員 一点質問いたします。先日証人として呼ばれた日の丸梯団の小立原唯雄という人、これは御承知ですね。
  439. 小泉敏次

    小泉証人 知つております。
  440. 横田甚太郎

    ○横田委員 この方が、日の丸梯団の火持によつてこの徳田要請を議会に訴えた、こういうことを言つておられた。これはあなたと関係ないことですが、この点においてこれらの証人と食い違うのですが、あなたに言わせれば、所内において解消したと言われたのですが、その解消ということをはつきりやられて、それから後の行動は小笠原君などはかつてにやつている、こういうように解釈していいのですか。
  441. 小泉敏次

    小泉証人 一応、とにかく汽車に来つてしまえば、その後はやらない。しかし、あと残つた人の帰還を促進するという運動はわれわれの義務だから、何かの機会にそれをやろう。最後の方法として、とにかくこのごろ言われております徳田要請の問題、これを日本人たちに公表することによつて促進が少しでも早くなりはしないかということで、それだけはとにかくやろうじやないかという話はそこでできております。
  442. 横田甚太郎

    ○横田委員 それでは、その中にはあなたもおられるかどうか知りませんが、一部の人がそういう運動を続けてもいいというゆとりはあつたわけですね。
  443. 小泉敏次

    小泉証人 そうです。それを最後に打切るまでの仕事の一つとして、それを含めてやめたわけです。
  444. 横田甚太郎

    ○横田委員 日の丸梯団の趣意書、在ソ未帰還の同胞、同僚を一日も早く救い助けるためにという、それから、舞鶴引揚所における健全な思想確立のために気勢をあげるというような意味のことがありましたが、あまり簡單過ぎる。だからそういうゆとりがあつたという……
  445. 小泉敏次

    小泉証人 そういうような綱領みたようなものは、日の丸梯団ができたときこしらえまして、あとの方はそういうことと関係なしにやめてしまう。最後に、いつまでも続けるのはどうかと思うから、とりあえずそのとき、日の丸梯団を続けるかどうかということは、現在幹部になつている連中に、みんながまた納得しないものがあるようだし、これの交代等もしなければなるまいというようなことかあつたのです。そうがると、せつかく今までせわをしてくれた人に対していやな思いをさせるので、幹部の入れかえというのをわずかの期間にやつて、せつかく落ちついてみんな帰ろうとしているのに、おもしろくないことだというので、その点はどうかなという話があつた。そうして最後に、幹部の入れかえに話が行くまでに、結局これはいつまでも続けるべきものじやない、汽車に乘つてしまえば散り散りばらばらになるのだし、それはこれまでのこととして、幹部の入れかえはやらずに、今まで通りスムースに行つているのだから、これをもう少し強固にしてやつて行こう、そういう意味合いで、汽車に来つてしまえばやめてしまおう、こういうことです。
  446. 横田甚太郎

    ○横田委員 くどいようですが、そうすると日の丸梯団の報告書なるものは十二分に討議されて納得してやつたほど愼重なものではなかつたのですね。
  447. 小泉敏次

    小泉証人 報告と言いますと……
  448. 横田甚太郎

    ○横田委員 先ほど梨木君が言つておりましたように……。(「知らないんだよ」と呼ぶ者あり)知らない程度なんですから、その趣意書というものは出なかつたんですね。ただ集まられた方がこういう趣旨だという、あなたが知つておられる程度のことを言われて賛成されただけだ、こういう意味合いですね。
  449. 小泉敏次

    小泉証人 そこのところは記憶がないのですが……
  450. 横田甚太郎

    ○横田委員 私たちがこの日の丸梯団の報告書を見ると、非常に誤解するのです。ところが出て来られた証人を見ますと、非常に自由主義的な中立的な方なんです。そうして非常に勘が違うのです。これで見ましたら二・二六事件のときの将校と比べてそう違わぬ。この報告書のしまいを見ますと、方法としては「カラカンダ梯団を基幹とし地区先進分子を強力に指尋し、すみやかに一切の権力をわが手に掌握するごとく指導す。」実に乱暴しごくなことが書いてあるが、そんなことはないですか。
  451. 小泉敏次

    小泉証人 そういうことは全然記憶にないのです。
  452. 横田甚太郎

    ○横田委員 そういたしますと、最後に一つだけ伺いますが、そういうような漠然とした形でやられたものが、單に徳田要請があつたなかつたくらいでわかれてはいけないから、もし有志の人があるならば、その人たちは徳田要請の問題だけでこの議会に要請する程度のことぐらいはやつてもいいというような意味の解散になつたのですか。それも御存じありませんか。それで終りです。
  453. 小泉敏次

    小泉証人 それは、とにかく帰還促進をするために、この問題だけはみんなで署名をしてやろうじやないか、それで解散になつたのです。
  454. 横田甚太郎

    ○横田委員 ありがとうございました。
  455. 小川平二

    ○小川(平)委員 民主委員会が帰還問題についてある程度の権限を持つてつたという点は、あるいは証言をなさつたかもしれないが、私うつかりして聞き漏らしましたので、どういうことかもう一度御説明を願いたい。
  456. 小泉敏次

    小泉証人 收容者の作業成績とか、それから思想動向等を報告することによつて帰還に影響を與える権限があるのだという意味の帰還についての権限を與える、そういうふうに解釈しておりました。
  457. 小川平二

    ○小川(平)委員 そうしますと、あとの方の証言で、あなたのお話によりますと必ずしもいわゆる思想堅固な者が先に帰つておるという事実はない、むしろそういう者は少数である。あるいはまた作業成績をあげた者が早く帰されたという事実もない。こういうことになりますと、委員の報告と実際の帰還ということの間に関連かないということになりますか。そうなりますと、作業成績をあげた者を早く帰す、あるいは思想堅固な者を早く帰す、一応こういう建前にはなつておるのたが、現実の問題としては必ずしもそうでなかつた、こう解釈すべきでしようか。
  458. 小泉敏次

    小泉証人 それが私にはわからぬのです。作業成績がいいから帰つたと言われておるだけでして、実際作業成績がいいので帰つたのかどうかそれはわからない。それから思想の方も私にはわからないのです。ですから実際上作業成績がいいために早く帰つたとか、思想がいいから早く帰つたとかいうことは私としてはわかりません。
  459. 小川平二

    ○小川(平)委員 そうしますと、思想動向だとか作業成績だとかいうことを報告することによつて帰還問題にある程度の影響を及ぼし得るということは、これは何らかの機会に正式にこの委員に対してソ連側から告げられたとでも考えるべきものですか。
  460. 小泉敏次

    小泉証人 それは委員に対して言われたことは間違いないと思います。そうして委員会の組織内容として、そういうことも委員会の権限の中に公表されておりました。
  461. 小川平二

    ○小川(平)委員 そうしますと、実際の事実からは必ずしもそういう帰結が出て来ないのたが、民主委員なるものが思想動向、作業成績等を報告することによつてある程度帰還がおそくなるか早くなるかの問題は左右し得るということを、はつきり言われておつたわけですね。そう解釈していいですか。
  462. 小泉敏次

    小泉証人 言われておりました。そうしてなお今のお言葉の、実際はそういうふうに行われていないことになるがと言われましたが、それは私にはわからぬ、こういうのです。
  463. 小川平二

    ○小川(平)委員 わからないと言われるのですが、必ずしも思想堅固な者は早く帰つていない、むしろそういう者は少数た、こう言われるのですが、そう言われますと、あなたの見るところとは別にソ連側が独自の判断をしてこの者は思想堅固である、こういうような判断をして早く帰した、こういうふうなりくつになるが、いかがですか。
  464. 小泉敏次

    小泉証人 そうなるかもしれません。私の現在の記憶でそういうふうに思うのです。
  465. 小川平二

    ○小川(平)委員 けつこうです。
  466. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 一つだけお伺いいたします。あなたは先ほど宇野という人を御存じだと言われましたが、間違いありませんか。
  467. 小泉敏次

    小泉証人 ええ、間違いありません。
  468. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 この人はやはり反フアシスト委員会の委員であつたことも知つていますか。
  469. 小泉敏次

    小泉証人 知つています。
  470. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そこでもう一つただしたいのは、その委員会が要するに帰還者ソ同盟においてきめる場合の一つの参考資料として——その委員がきめるのではないのですが、参考として、向うから聞かれれば個人のいわゆる作業の成績あるいは思想等を答申していた。それがいわゆる帰還にある程度の影響があつたということをあなたはお認めになりますか。
  471. 小泉敏次

    小泉証人 影響があつたとまではよう言いません。
  472. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 影響はどちらにしても、そうしたいわゆる仕事をしていたということだけはお認めになりますか。
  473. 小泉敏次

    小泉証人 コーカンドでの委員会ではしておつたように思います。
  474. 田渕光一

    ○田渕委員 もう一つあなたにお伺いしたいのですが、先ほど経歴を伺いましたときに、満州国司法官をされておつた。それから終戰と同時に捕虜の名前になつたのだと思いますが、何か軍隊に御関係をなすつたことはありませんか。
  475. 小泉敏次

    小泉証人 全然ありません。
  476. 田渕光一

    ○田渕委員 そうすると委員長、これを私は伺いたいのですが、たいへんな問題になるのです。ポツダム宣言の九條、これに絶えず問題がかかつて来る。「日本国軍隊ハ完全二武装ヲ解除セラレタル後」とこうあるのに、軍隊でない非戰闘員までもソ連が連れて行つて四、五年間も置いておくそのソ連の暴虐さ、これをもポツダム宣言の違反だ、国際正義に反したとお認めになりませんでしたか、これを伺いたい。
  477. 小泉敏次

    小泉証人 私はポツダム宣言というものは無関心だということを申しましたが、そうでなしに、私自身に反してソ連のやつたことは非常にむちやだと言つておりました。
  478. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 非戰闘員に対して軍隊と同等な行為をやつておる。そうして引きずりまわしたことは国際正義に反したというふうに伺つてよろしゆうございますか。
  479. 小泉敏次

    小泉証人 そう思います。
  480. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 けつこうです。
  481. 小玉治行

    ○小玉委員 あなたは今ソ連で強制労働に服した、そう申されましたね。
  482. 小泉敏次

    小泉証人 ええ。
  483. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その通りです。
  484. 小玉治行

    ○小玉委員 それは結局あなた方の自由意思に基かずして労働さすという意味に承つてよろしゆうございますか。
  485. 小泉敏次

    小泉証人 その通りです。
  486. 小玉治行

    ○小玉委員 ところが今までの証人の中には、ソ連においては自由意思に反して捕虜に対しては労働をしいないのだという証言をした者があるのですが、それは事実と相違いたしますか。
  487. 小泉敏次

    小泉証人 そんなことは絶対ありません。
  488. 小玉治行

    ○小玉委員 それから私中途で参つたので、あるいは重複するかもしれませんが、スターリンへの誓い、いわゆる感謝文ですが、それが日本新聞に載つ」たということはあなた御存じでございましようか。
  489. 小泉敏次

    小泉証人 新聞に載つたかどうかは記憶ありません。
  490. 小玉治行

    ○小玉委員 何かその感謝文というものを、ごらんになつたことはございますか
  491. 小泉敏次

    小泉証人 感謝文は私はもうしよつちゆう書きました。
  492. 小玉治行

    ○小玉委員 その感謝文の中に聖なる誓いとか、あるいは命を捨ててもその誓いを貫かんというふうな趣旨のことを書かれるか、あるいは人の書いたのをごらんになつたことがありますか。
  493. 小泉敏次

    小泉証人 命を捨てても貫かん、どういうことですか。
  494. 小川平二

    ○小川(平)委員 スターリン元帥についての誓い、いろいろな誓いを感謝文の中に聖なる誓いとか、そういう言葉を使つてあるのを見聞されたことはありませんか。
  495. 小泉敏次

    小泉証人 私らの署名したやつにもそんなのがあつたと思いますね。しかしとにかくはつきりした記憶はありません。
  496. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたはやはり署名されたのですか。
  497. 小泉敏次

    小泉証人 感謝文というのは何度も書きました。
  498. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 けれどもよほど大きなものと……
  499. 小泉敏次

    小泉証人 とにかく感謝文を出すからと言いまして、みな読み上げます。それじやそれに対して署名する者は署著しろと言うのです。
  500. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それについで日本新聞にそういうことが載つてつたのですが、覚えておりませんか。
  501. 小泉敏次

    小泉証人 日本新聞との関係記憶がないのです
  502. 小玉治行

    ○小玉委員 聖なる誓いというような言葉があつたことは御記憶がありますか。
  503. 小泉敏次

    小泉証人 とにかく最大級の言葉を使つてつたような気がするのですが、しかしそれはむしろ記憶がないと言つておいた方がいいかもしれません。はつきりしないからその方が無難のようです。
  504. 小玉治行

    ○小玉委員 よろしゆうございます。結局感謝文の趣旨は、スターリン元帥に何を感謝するということで書けというのですか。
  505. 小泉敏次

    小泉証人 在ソ中捕虜として非常に寛大なるおせわになつて、今度帰していただく。たいていは帰るときで、私らが収容所を移るときに帰ると言われましてそのとき、に感謝文を出した。
  506. 小玉治行

    ○小玉委員 それは書くことを拒否する人も相当あつたのですか。
  507. 小泉敏次

    小泉証人 そういうことはありません。
  508. 小玉治行

    ○小玉委員 そういうことはなし得ないのですか。
  509. 小泉敏次

    小泉証人 拒否することはなし得ます。書かぬ人もあるだろうと思います。書いておいてもさしつかえないというので、みな書いておつたのです。
  510. 小玉治行

    ○小玉委員 これはそうするとどういうことか知らないですが、真に感謝していなくても書かなければ、それに署名しなければ何か在ソ中にまた帰還を遅らされるとか、あるいはいろいろ待遇上において残酷なことをされるというような恐怖心と申しますか、ないしは心にもないへつらいを言つて、そうしてソ連の方に気に入るようにやつて帰還を早くしようというような心持からやつておるわけではないですか。
  511. 小泉敏次

    小泉証人 全部が全部そうではないかもしれませんが、そういう人が相当おるたろうと思います。私自身はやはり書いておいたらいいということで書きました。
  512. 小玉治行

    ○小玉委員 そういうわけですか。私は歴史を調べてみないとわかりませんが、捕虜がいわゆる捕虜にしたところの元首に感謝文を出すというようなことは、歴史上例があるかどうかわかりませんが、そういうことはあなた方が感謝文に書かれるときに少し残酷だ、ひどいというような気持はお持ちになりませんでしたか。
  513. 小泉敏次

    小泉証人 書くことそれ自身です院か。
  514. 小玉治行

    ○小玉委員 少しひどいことをさせる、あなた方を捕虜にしておるところの元首に三拝九拝することを書けということは……
  515. 小泉敏次

    小泉証人 全般的に、捕虜生活それ自身が残酷なものと思つておりましたから、初めから無意味なものであろうと感謝文の一枚くらい何ともないと思つております。
  516. 小玉治行

    ○小玉委員 私は民主国家として元首に対してそういうことを書かせるのは、日本でいえば神様か仏様のようにスターリンをあたかも偶像視して、そういうふうにまつり上げておつて、そうして絶対服従と申しますか、誓わせるというようなふうにあなたはお考えになりませんか。
  517. 小泉敏次

    小泉証人 それはソ連側からそういうことまで言つて来たのじやなしに、民主委員会の方でやるのじやないかというように解釈しております。
  518. 小玉治行

    ○小玉委員 ソ連側の要求ではない……
  519. 小泉敏次

    小泉証人 そのことははつきりしませんが。
  520. 小玉治行

    ○小玉委員 先方と相通ずるものがあるのではありませんか。
  521. 小泉敏次

    小泉証人 あるかもしれませんが、いずれにしても、問題にしてみても……
  522. 小玉治行

    ○小玉委員 問題にしない、持つて来たから書けという意味でお書きになつた、こうおつしやるのですか。よろしゆうございます。
  523. 梨木作次郎

    ○梨木委員 ちよつと今田渕委員の方から、あなたは非戰闘員であつたのにこんな扱いをされたという質問がありましたですね。これはソビエトの方ではこの捕虜の取扱いに関する国際條約がありますが、あなたは終戰前におきましては奉天に司法官をしておつたというように聞いておりましたが……
  524. 小泉敏次

    小泉証人 満州国の……
  525. 梨木作次郎

    ○梨木委員 満州国の何ですか。
  526. 小泉敏次

    小泉証人 高等法院の次長です。
  527. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そういうことで日本の帝国主義の出先的の官憲として、いわゆる正規の軍隊に入らないが、それに付随するものとして、そういう関係から捕虜の扱いを受けたのではありませんか。
  528. 小泉敏次

    小泉証人 それはロシヤの方でそういうように考えておつたかもしれません。
  529. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そう考えておつたかもしれませんですね。済みました。
  530. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 済みました。御苦労さんでした。  加藤幸治郎さんですね。
  531. 加藤幸治郎

    加藤証人 はい。
  532. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの御職業及び年齢は。
  533. 加藤幸治郎

    加藤証人 職業は、満州の新京で映画劇場の経営並びに支配人をやつておりました。
  534. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 今は。
  535. 加藤幸治郎

    加藤証人 今は無職です。年齢は四十四歳です。
  536. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの経歴と入ソ後の径路、これを大筋だけでいいですからお話し願います。
  537. 加藤幸治郎

    加藤証人 経歴は、軍隊を出まして、それから満州国ができましてから、満州国の官吏をやつておりました。それをやめまして商売人になりました。それで映画館を経営しまして、新京に行つた人はよく知つておりますが、新京の豊楽映画劇場、それの経営並びに支配人をやつておりました。それから終戰の年の十二月一日にソ連軍につかまえられまして、十二月十七日の日に新京から送られましてチタに行きました。チタを経由しまして、中央アジアのアルマアタに一月十九日に着きました。それから二年半アルマアタにおりました。二年半おりましてカテカンダに送られました。カラカンダに一年と九箇月おりました。それで今年の二月九日に舞鶴上陸して帰つて参りました。
  538. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうするとカラガンダへはいつ行かれたのですか。
  539. 加藤幸治郎

    加藤証人 カラカンダには昭和二十三年の六月です。
  540. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これは何分所におられたのですか。
  541. 加藤幸治郎

    加藤証人 カラガンダは一番最初は二十四分所というものをわれわれつくりました。三十八号の新しい炭坑に必要な現地要員であります。六百名くらいで、一番最初は小屋でない幕舎です。その次には十九收容所、その次には二十收容所、その次は第二収容所、その次は第十五収容所、それか帰つて来ました。
  542. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたはそれでは戰争の済んだときには、軍隊には何も関係なかつたのですか。
  543. 加藤幸治郎

    加藤証人 満州事変のときに軍隊に参加しております。
  544. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 停戰になつたときは。
  545. 加藤幸治郎

    加藤証人 停戰になつたときは商売人です。軍隊をやめたのは昭和九年です。
  546. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それではどうしてあなたはつかまえて行かれたのか。
  547. 加藤幸治郎

    加藤証人 これは私らにはわからないわけです。これがわかれば何も問題はないわけです。それで大体つかまつた理由というのは、これはもちろん満州におられた人はこの中にもおるかもしれません。あの進駐をして参りましたときに、家財その他のものは全部掠奪す。われわれを称して彼らは強盗戰争と言いますが、もちろんわれわれ以上の鬼畜の行為であつたと思うのです。われわれ満州事変ではそうい鬼畜の行為をやりません。やつた覚えはありません。はたして支那事変その他でそういうことをやつたか知れませんが、われわれに與えられたものは何であつたかというと、まさに鬼畜そのものです。
  548. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこであなたは、私は捕虜になるべきものでないのをむりに連れて行かれたと思つておりますか。
  549. 加藤幸治郎

    加藤証人 もちろんです。不法です。いかなる理由を問わず不法です。
  550. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そう思つておる……
  551. 加藤幸治郎

    加藤証人 思つておるじやない。その通りであります。
  552. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 カラカンダにおられるときに、タシケントの方からカラガンダに来た人が、二十四年の九月ごろ相当入つて来たそうですが、そういうことはありましたか。
  553. 加藤幸治郎

    加藤証人 ありました。しかしこれは收容所が違います。第九收容所に入つて来たと思います。これは千名くらいたしか入つて来たのじやないかと思います。
  554. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その人たちの第九分所れで、そのうちの半分ほどの人をクラブへ集めて、收容所長代理及びソ連の政治将校から、いわゆる徳田要請というものを聞かされたという話は聞かれたことはありますか。
  555. 加藤幸治郎

    加藤証人 それは收容所が違うから、その当時においてはわれわれの関知したところではありません。私自体としては関知したところでありません。それをうわさに聞いたのは、われわれが舞鶴に来て、ごたごた騒がない前からその話はうわさに聞いておりました。そういうような話は、われわれの收容所の中にも盛んと伝わるわけです。反動は帰さないんだという問題、それはどこの收容所でも言つておるわけです。
  556. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 だからあなたの收容所にそれがわかつて来たわけですか。
  557. 加藤幸治郎

    加藤証人 もちろんそういううわさが伝わつて来たのです。そういうのは最も鋭敏に伝わつて来る。そういうのは第九收容所において、何々政治将校なる者が何百名の前においてかくのごとく言つたということは、確実に確認されないのです。われわれは收容所が違うのです。
  558. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どう言つたと聞きました。
  559. 加藤幸治郎

    加藤証人 反動は帰してはならないということです。そういうように聞きました。
  560. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 反動は帰してやらないとたれから言うて来たのか。
  561. 加藤幸治郎

    加藤証人 日本共産党からです。
  562. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 徳田という話は出なかつたか。
  563. 加藤幸治郎

    加藤証人 それは出ない。その当時はわれわれとして商いおりません。但し今度は私もここでみんなの批判を仰ぐわけですが、署名をしております。三百八十名の日の丸隊の幹部として、私は署名をしております。実際には確認していないけれども、署名をしております。
  564. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それをあなたは確かにあつたという信念のもとで……
  565. 加藤幸治郎

    加藤証人 それは第九收容所の一番古しめられた人間が、反撥的に日の丸梯団というものをでかしたわけです。それには各種類の人が来たのであります。われわれのようにアルマアタから行つた者もおります。タシケントから行つた者もおります。それからいろいろのところから集まつております。しかしおそらく第九收容所では、私らが二百八十名のうち絶対多数だろうと思います。それらの人が血眼になつて、たれ言うとなしにその問題を取上げたわけです。そうしてこれはあくまで真劍に、これからの日本人のためにわれわれは闘わなければならぬと決議したわけです。それでわれわれ幹部としては、それに対する闘争方針をとつて決議しなければならぬわけです。そこに至つてこれを強くするためには、いろいろな方面に出す必要もある。それがためにはとにかくこの日の丸隊三百八十名というものは、血の一丸となつて署名するという運動が当時の情勢から当然巻き上つて来る。たとえば皆さんがそういう環境でないとしても、心情においてやはり同じたと思う。その意味において、私は絶対的にそれを確認すると認めたのですよ。確かに認めたという言葉ちよつとむずかしいかもしれませんが……
  566. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あそこでも聞いておるし、そうしてほかの人からも聞いたかり、間違いないと思つたのか。
  567. 加藤幸治郎

    加藤証人 そうです。そのときもわれわれ同志の間の雰囲気では、あれを見たときには、われわれは真実という言葉以外に言葉がないのです。
  568. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたはソ連ではいわゆる反動として扱われたのじやないか。
  569. 加藤幸治郎

    加藤証人 私はその点が割合要領がよかつたのです。(笑声)笑いごとじやはいのです。これはやはり帰りたいのです。命を全うして七本に真実を伝えたい。われわればかりではなく、残つた者もさらに救わなければならぬ。露骨に反動を出したならば、裁判にまわされるか、懲罰にまわされるか、もつともつとひどい強制労働をさせられます。帰りたいというのは当然です。あたりまえです。機を見るに敏なる人間はそういうふうに乗じます。それをしないのはばかの骨頂です。あたりまえりことです。ですから歌を歌えと言えば歌います。踊りをおどれと言えばおどります。民主運動をやれと言えば民主運動をします。スターリンへの宣誓をしろと言えば、宣誓の署名もやりました。しかしここの宣誓とは意味が違いますよ。
  570. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたは民主グループには入つてつたのですね。
  571. 加藤幸治郎

    加藤証人 民主グループにも姿を出しております。アクチーブにもなつたことがあります。但しそこらの民主運動の実体者からは絶対的に好感を持たれていない。しかしボロを出さないから、しつぽをつかまえられませんでした。
  572. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 反動分子と認められると、いわゆるつるし上げをやられたそうですね。それはどういうふうにやられるのですか。
  573. 加藤幸治郎

    加藤証人 つるし上げは、これはいろいろお聞きになつて説明の要はないと思うのですが、お互いに共同生活をやつているのですから、お互い同士がそれを摘発する場合、つまり尖鋭分子であるアクチーヴが全権力を握つておるから、あらゆる分野において反動分子というものはつるし上げられるわけです。そういう場合と、それからアクチーヴがお互いに手わけをして、日本人が日本人を監視し合うという最も忌まわしい、要するにスパイ網といいますか、密偵網というものをつくるわけです。これは実際にあなた方が俘虜になつてみなければわからない。そういうふうにして、お互いに陰になりひなたになつて、お互い同士をつるし上げをすることが発展の道だと教えているわけです。批判は向上への道であると言う。共産党の原則に基くかどうかは知りませんが、われわれはそう教えられました。当時そういうふうにしてつるし上げをして伸ばすということが正しい発展だというわけです。つるし上げを徹底的にやらなければならぬ。たとえば相手のタバコを盗んでも反動としてつるし上げる。御飯をちよつとしつけいしても上げます。パンをちよつと盗んでも上げます。とにかくあらゆる動作が、そこらにちよつと小便たれても反動として上げられます。反動の範囲ははなはだ広い。
  574. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 反動というのは、どういうのを反動というんだね。
  575. 加藤幸治郎

    加藤証人 われわれの反動というのは、これはもう反対用語にもなるわけですが要するに共産党に反対をして、共産党がとなえるところの自由とか平和というものに妨害を加える者、もつとわかりやすく言うならば、平和に逆行する輩ですね、そういうふうに教えられましたね。そういうふうに言うんじやないかと思いますが…
  576. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 今あなたが日本に来て、民主主義々々々々ということをみな言つておることは御承知ですか。
  577. 加藤幸治郎

    加藤証人 はい。
  578. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 日本で言う民主主義とソ連で言う民主主義とどういう違いがありますか。
  579. 加藤幸治郎

    加藤証人 これは非常にむずかしい問題だと思うのですが、日本の行き方自体でも、はたしてこれが民主主義かどうかという疑いもあります。共産党、特に日本共産党の行き方は私はまだ知りません。ロシアの共産党がロシア国民にわれわれの目に映じた範囲において、あるいはわれわれを世界の人類の一員とみなして取扱つてくださつたいろいろな方法に関して、それが正しい民主主義がどうかということについての多大の疑念を持ちます。
  580. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 もつと言うてみれば、共産党にあらざる者はすべて反動ではないの。
  581. 加藤幸治郎

    加藤証人 まあそういうふうに……ソ連のボルシェヴイーキの行き方は、根本に流れるものはそうでないかもしれませんよ。しかしその流れをくんで自主的な民主運動というものによつて規制された、ノルマの範囲内においてのわく内における対日本人に対するところの共産運動というものは、要するに共産主義者の命令、あるいは指示、あるいはそのわく内に入らない者は、これすべて反動とみなすというのが、これまで行われて来、現にその通りにやつております。
  582. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこであなた方はどういう仕事をおもにやつたの。
  583. 加藤幸治郎

    加藤証人 私らの仕事は、大体最初に行きますと、どこの收容所でもソ連は五箇年計画で忙しいのです。ことし一ぱいで終る五箇年計画をもう二同、つまり十五年続けなければアメリカと戦争はできないのだ、こういうふうな調子で、盛んにやられた。そのために最初は行つてから間もなく、まずお前たちの中でれんがを積むのを勉強したい者出ろ。それから左官をやる者出ろ。それから大工を経験したい者出ろ。こういう特殊技能を覚えたい者は出ろというので出されました。その出た、希望した人間に対しては、日本人の特有の者、あるいはロシア人の特有の者が三箇月くらい特別教育をしました。そして一人前に使えるようにして使いました。大体われわれの場合、中央アジア方面においては、炭鉱を除いてはほとんど大部分と言つていいほど建築作業です。建築作業というのはどんなことをするかといいますと、ここのような建物を立てるわけです。ですかられんがを積む者、その壁を塗る者、大工で窓わくをはめたりいろいろなことをやる者です。私は最初から、ひつぱり出される動機からしてもおもしろくないものですから、そういうふうなおもしろくない国に御奉公するために特業は覚えなくてもよろしいという確信を持つたわけです。ですから私は覚えません。全然覚えない。(笑声)
  584. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何をやつたのかね。
  585. 加藤幸治郎

    加藤証人 四年三箇月の間、雑業です。日雇いです。何でも與えられたら、材木かつぎ。はい。石を持つて来い。はい。セメントを持つて来い。はい。ですから私としては自慢じやありませんが、大工のまねでもれんがを積むのでも、小屋の一つぐらいはできるほど修練を積んで来ました。(笑声)
  586. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 わかつた。そこで被服や食糧は十分ありましたか。
  587. 加藤幸治郎

    加藤証人 被服の話を申し上げます。われわれが四年三箇月の間において受けた被服は、帰つて来るときにもらつた満服の綿入れ、あれを除いては四年三箇月の間全部が全部と言つてもいいほど、わが関東軍の給與です。それだけ言えばわかるでしよう。
  588. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 関東軍のものを向うに持つてつてあなたたちに配つた
  589. 加藤幸治郎

    加藤証人 その通りです。ですからほとんど関東軍の給與だと言つてさしつかえありません。それからわれわれの二十收容所というのは、一般邦人が大部分ですから、非常に働きが悪いというので、待遇が惡い。ほかの收容所ですと、兵隊さんの方で、若い兵隊は非常によく働きます。ですからいい服をもらいますが、われわれの收容所はいつもぼろぼろ、こじきと同じようなかつこうでした。ですから兵隊の方はわれわれを目して、あれはこじき部隊と言う。つまり働きによる差をつけられた。それから食物の点においても、他の収容所に比較して、ここに来たわれわれのグループというのは裁判官とか判事だとか、それから新聞社の社長だとか新聞記者とか、満鉄の諜報関係におつた調査員とか、電電の調査員とか、そういう人たちだけです。ですから大体働いたことのない人です。それらに二十台と同じように重労働を相もかわらずノルマの範囲でやらされる。やらなければやらせられるわけです。ですから能率が上るわけはない。たとえばここにおられる議員さんでも、ソ連にそのままひつぱつてつてやれと言つても、やれない。やれると思つたら大間違いです。やれないのがあたりまえ。それでも働けないから栄養失調はどんどん来ます。そこでソ連という国は、その点ははつきりしていみから、働かなければ徹底的に待遇を惡くされますから、われわれの場合においては、他の收容所よりも非常に惡いということは何人に聞いてもわかると思う。
  590. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 いつも腹ぺこぺこで暮したのですか。
  591. 加藤幸治郎

    加藤証人 もちろんです。四年三箇月の間、普通の状態においては腹の減りない日は一日もなかつた
  592. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それから寒さは、衣服は悪くもこらえられるだけのものは……
  593. 加藤幸治郎

    加藤証人 寒さは薄着をしておつても、せい一ぱい働けば寒くない。(笑声)そういうふうに教えるのです。そういうふうにやらされます。
  594. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 じつとしていたら寒い……
  595. 加藤幸治郎

    加藤証人 もちろんじつとしておつたら凍ります。零下丑十度は普通ですから。
  596. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 まあいいでしよう。何かほかにありますか。田渕光一君。
  597. 田渕光一

    ○田渕委員 伺いますが、れんがをつくつたりいろいろされたというのですが、私はれんがの作業状態、ノルマというのはどんなものか伺いたい。たとえば土を型に入れてこれを手でつくるとか、あるいは機械工具でつくるかどうか知りませんが、たとえば日本のれんがと同じくらいのものを何枚くらい一日つくるのがノルマでありますか。
  598. 加藤幸治郎

    加藤証人 ちよつと申し上げます。れんがはソ連では、大体今のところは相当遅れたところでも機械でやつております。機械でちようど豆腐のように四つに切れるように出て来ます。ですから土はトロでもつて押して坂をずつと流して行く。それをそのまま自動式な機械でもつて練ります。練つたやつかひとりで出て来ます。豆腐四つくらいのやつが……それを軽く押し切りみたいに切るわけです。二つずつ持つてつて台に上げるわけです。乾燥して来ますから……大体の量はどういうことになりますかといいますと、山の谷みたいなところから土を出すのに六人、それからつくる機械のところに六人、それからそれを運搬し、さらにそれを乾燥するところに十人くらい。そうしますと、何んぼになりますか。
  599. 田渕光一

    ○田渕委員 二十二人ですかな。
  600. 加藤幸治郎

    加藤証人 二十二人、そのくらいで、大体一〇〇%やるためには、れんがは日本のれんがより大きい。ずつと型が大きいです。それを一万二千から一万五千くらいです。大体そのくらいが一〇〇%のノルマ。今はまだまだノルマがもつと上つているわけです。大体一万八千くらいつくらなかつたら一〇〇%にならないでしよう。人間が少くなればなるほど——要するに人間がふえればよくなるわけですが、それ以上は人数を減らされる。それがれんがづくりです。
  601. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 あなたは四年何箇月かの長い間おられたんですが、最初收容所で非常に栄養失調や寒さのために死んで行くということを、われわれはいろいろの証人証言から聞いておるのですが、最もひどかつたと思われるときに、何人ぐらい收容されていて、どのくらい一箇年に死んで行つたかというような御記憶がありますか。
  602. 加藤幸治郎

    加藤証人 大体第一回にアルマアタに行つたのは、一番最初に申し上げましたように終戰の翌年、昭和二十一年の一月十九日にアルマアタに着きました。行つて間もなく死んだのが三名、行つたのが六百何名ですが、この中には白系露人の百何十名を含みます。
  603. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 それは一年間ですか。
  604. 加藤幸治郎

    加藤証人 一年間じやありません。行つたときの人間は六百名ぐらいです。それでその中に白系露人を百何本名含んでおりました。ですから五百名足らずが日本人です。これは新京とハルピンから行つたところの、大体においてインテリゲンチャーと目される者、それから報道人、諜報関係の者で、年齢はあまり若い者はありません。それで行つたわけですが、間もなく——間もなくというのは、すぐ死んだ者が二名か五名あります。大体あとはいつ死んで、どういう病名でどうなつたかということは、われわれにはわかりません。同じ隣合せのような病院におるけれども、いつの間にどこへ送つたのか死んだのか、そんなことはわからない。この点は政府としても非常に追究しなければならぬ問題だと思います。最後には、やはり国際関係で何か言われたのではないかと思いますが、一年後になつてから、たまには主治医を立ち会せるということもありましたが、行つてから一年の間は、てんで主治医を立ち会わせるというようなことはありませんでした。それから死んだ数ですが、六百名のうちどのくらい死んだかと申しますと、われわれの知つている範囲では、二年半ばかりの間に、六百人の中で確認される者は一割五分はあるでしよう。これは舞鶴で名前を拾つたのですが、一割五分ぐらいあるのではないかと思います。栄養失調や風土病でぱたぱたやられましたが、そういうものが大体一割五分ぐらいじやないかと思います。それから、そのほかにまたカラガンダへ行つて死んだり、そのほわぼつぼつ死んでおります。それからけがをして死んだり、自殺した者もあります。
  605. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 いろいろな証人証言を聞くと、非常にわれわれはわからなくなつて来るのですが、アクチーヴであつたり、それから日本に来てから共産党に入党を申し込んだ人たちのを聞くと、捕虜の待遇というものは非常によかつたと、七、八割まではつきり言つております。八〇%ぐらいまでの者は、何にも不平なしに働いている。中にはすき焼も食べれば、キャバレーのあつたようなところにもいた。だからわれわれとしては、四年間働いて来たが、何も抑留されていることもふしぎに思わないし、ソビエトのやることは非常に民主主義的で、われわれとしては模範となるようなことだとこの席上で証言しておるのですが、もちろん各分所によつて違いましようが、そうしたりつぱな待遇をして、そうして朗らかに八〇%までの人たちが働いておるたどという收容所があるということを、あなたはお聞きになつたことがありますか。
  606. 加藤幸治郎

    加藤証人 聞いたのではなしに、われわれが現実に方々の收容所を全部まわりました。そんな関係で今の話の一部は肯定します。話しましようか。
  607. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 どうぞ。
  608. 加藤幸治郎

    加藤証人 若い人で、捕虜生活の中で、しかも正しいマルクス主義というものを信じて、そうしてマルクス主義あるいはレーニン主義というものを日本に広めて、日本共産党と提携をして、ほんとうの人民政府を打立てるのだというふうに、われわれも頭が下るほど熱心に勉強した人もたくさんあります。それからわれわれのような中年以下の者と、同じ若い人であつても、同じ收容所におりながら、どんなにしてもそれに染まらない者と——染まるというと語弊がありますが、なぜそれを信じない者と信ずる者との差ができるかという問題です。これは境遇上の立場です。一例を申し上げますとこういうことになる。これはどうもはつきり伝えらないで、非常に誤解を受ける原因になりますから、はつきり言つておきます。中年以上になりますと、大体からだとか、年齢とか、昔の階級とか、いろいろな点において、働いていない者がむりに働かされる関係で、働きたくても働けないのです。それで幾ら腹が減つても、働いても能率が上らないからパンを買うだけの金をもらえないわけです。それでますます自分自分のからだにむちうつて、結局倒れてしまうのが現況なんです。ですから現実問題として、幾らりつぱなマルクス主義を信じておつても、ヤルクス主義というものを教えられても、それに同化し得ないということは、これは人情の当然です。そこにりつぱなぼたもちがあても、声おりばかりかがされて食わされないものであつたな、そのぼたもちを何と考えるかと同じ問題です。今度兵隊の問題ですが、終戰前後のあの苦しいさ中において、配給の米も食うや食わずにいたときに、日本の軍隊に入つても相当つらかつたでしよう。そこでソ連に入つたときは、やはりわれわれと同じように復讐心に、燃え上つてつたのです。戰争が終つて何も敵対行為をしないところの兵隊、一般邦人というものを、無法無理にソ連にひつぱつて、五箇年計画の奴隷的な存在、肉彈にしようとし、牛馬にかえようと、たその行為というものは、これは何人もおおうことができない。それで復讐心が燃え上つたわけです。復讐心が燃え上つて、大部分の捕虜、抑留者というものは自暴自棄になつた。そのときは、ちようど風土病でぱたぱたとやられたときです。精神的にも、肉体的にも荒れ果てた気持、あのときの気持は、まさに鬼気が漂うと言うても過言ではありません。それから一年半が過ぎてから、そろそろ働いているからだに慣れて来たわけです。それで著い者は喜んで特業を覚えました。それからこの若い人で特に仕合せな收容所の生活をしたという人は、その大部分が出鉱内の人です。調べて見ればわかります。炭鉱内で働いたのです。地上勤務において、材木をころがし、石をころがし——もつとわかりやすく言うならば、基礎工事をやりますのに穴を掘りますが、一〇〇%の一人のノルマが八立米です。皆さん、日本の土方が一メートル四角の土を八時間の労働のうちに八立米はね上げる土方がたくさんありましようか。これは弱かろうと強かろうと、ちようど六十になる者であろうと二十になる者であろうと、八立米の土を掘らなければ一〇〇彫にならないのです。ですから地上ではどんなにやつても、よほどの百姓でも、あるいは労働者出身でも、頑強な腕を持つている人間以外においては、パンを買つて食うだけの金をもらえないのです。これが現状です。しかしながら炭鉱に入りますと、特にカラカンダの炭鉱はメタン・ガスが猛烈です。マッチを持つてつたら燃えるようなところです。だからマッチを持つてつたら嚴罰に処せられる。タバコももちろんです。それから炭酸ガスがあります。また水がじやぶじやぶとあります。その中へ入つて行くのです。しかも捕虜、抑留者の入る炭鉱は、ソ連労務者の第二義的、第三義的なもので、われわれの入つた炭鉱は、前に落盤で百七十名も死んだあとの復旧に使われました。そういうものです。それから非常に條件の惡い——もぬろんそうでしよう、どこの国でも、自分の国の人間を一番よいところにやつて、捕虜や抑留者というものは憎むべき存在であるとするならば、それを第二義的に使うのが当り前でしよう。これを逆に使いましたならば、まさにこういうような問題は起きないでしよう。それから今度その炭鉱に入りますと——一〇〇%が普通の事業では、穴を掘つた場合に十五円から二十円ぐらい、れんが積みの一〇〇%は幾らと、仕事によつて全部金額が違うのです。それで穴を掘つた場合においては、一〇〇%は大体十五円ぐらいです。左官の一〇〇%は大体二十円、大工の一〇〇%は二十二、三円というものが一〇〇%のノルマの金です。炭鉱は一〇〇%が四十円から五十円であります。それはもちろん危險手当というものがあります。ガス、落盤、水、そういうところで一日お日様も拝まないのです。そういう関係で、危險手当もついているのです。また炭鉱の中に入りますと、冬は寒さを知らないわけです。夏は暑さを知らないわけです。ですから若い者にとつては非常に調子よく働けるわけです。そして同じ一〇〇%働いて、片方は十五円か二十円しかもらえないが、その倍ないしは倍以上の金がもらえるのです。しかも仕事は毎日同じ仕事です。炭鉱で仕事がかわつたらけがをするだけで同じです。トロに積む者はトロに積む、掘る者は掘る、はつぱをかける者ははつぱをかけるたけ、たから仕事を楽に覚えるわけでしよう。若いからすぐ覚えるから、能率が上るわけですし、單価がよくて金をたくさんもらう。
  609. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 わかりました。
  610. 加藤幸治郎

    加藤証人 だから仕合せになるわけです。
  611. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 大体わかりました。それで仕事の種類とか何とかはわかりました。一般が労働をやらなくちやならぬということはわかりますが、特にアクチーヴと言われた、あるいは共産主義をみんなの人に宣伝する、あるいは教えるというような指導者階級の人たちが、特に待遇かよかつたというようなことはありませんでしたか、簡單でよろしうございます。
  612. 加藤幸治郎

    加藤証人 これは民主運動といつていますが、民主運動の非常に高度に発達したところでは、アクチーヴといえども、幹部といえども、われわれの見る目では見通せないほど決して惡いことはしていないようです。そうして食べものなんかは非常によく守つておられる。むしろわれわれの收容所よりも秩序が保たれているようです。しかし民主運動が中途半端のところでは、あるいはとらの威をかるおおかみのように、ソ連の力をかりて一般をおどします。結局ソ連とつながりを持つわけですから、アクチーヴの力は絶対です。ソ連のアクチーヴ砥どこでも同じことだと思いますが、自分の管掌以外のこと、收容所のことではどんなことにくちぼしをいれてもさしつかえないわけです。身分が大隊長であろうと何であろうと、そのやることに対しては徹底的な批判を加えてよい。飯の盛りかか恥食べ方、水のくみ方から歩き方、頭の上げ方からおじぎの仕方に対しても、徹底的に何人に対しても教育することができる。だから非常に強い。だからそのアクチーヴというものがほんとうに正しいアクチーヴの場合においては、その收容所というものは確かによくなりましよう。しかしそれがいろいろな問題を起しますように、なかなかうまく行つていないわけです。
  613. 田渕光一

    ○田渕委員 もう一つ伺いたい。先ほどのれんがのあれで、私はその経験があるのですが、おそらく一箇月二十五日やるとして、三十万枚のれんがをつくるということは、月本の工場ではないのであります。それは相当スタハノフ運動というものを強要したものだろうと思います。そこで伺いたいのですが、つまり灰土にしても何にしても容易ならぬことです。地上勤務者はぱたぼた倒れて行くということは当然であります。先ほど伺つた通り、坑内で働けば冬は暖かいし夏は涼しい。ところが八時間労働で伺いたいのですが、一日八時間ずつ働くのですが、一箇月に休暇と言いましようか、休養する日は何日ぐらい與えられておりました。
  614. 加藤幸治郎

    加藤証人 これはちやんとソ連の規定にきまつておるようですが、一箇月に四日間休ませます。しかしながら休ませやことになつておりますが、忙しい夏場になりましたら、ほとんど休まなくていいというぐあいになります。しかし炭鉱の中に入る人は、確実に一箇月に四日は休ませてくルます。これは疲れたりしますと必ず事故が起きます。われわれ地上勤務は一箇月四日なんで休んだことはありません。だんだん農作物が出て来ますと、自分たちの食べるじやがいも畑などやりますので、春から夏になりましたらほとんど休みはその方に充当されますから、休むことがないというくらいに使います。
  615. 田渕光一

    ○田渕委員 日本の炭鉱においても、労働基準法あるいは鉱内保安法などあつて、非常にやかましく言うわけですが、排水が惡くて水がジャブジャブしておるというところで、どういうぐあいに石炭を掘つておられるかどいうことを、もしごらんになわ知つておるならば、大体でけつこうですからお話願いたいと思います。
  616. 加藤幸治郎

    加藤証人 水は結局ポンプが不完全なために、ちよつと停電したならば水がいつでもジャブジャブ入つおる。われわれの廃坑の場合には、腰くらいまでたまる。しかし掘るところは水がたまつておるわけではない。上穴を掘るのですが、がむしやらですからやれるわけです。とにかく掘れるところは掘る。とにかくポンプが直ればまた水が上るので掘る。
  617. 田渕光一

    ○田渕委員 大体これでソ連の労働のあり方というものは私も会得できましたが、もう一つ伺いたい点は、あなたが終戰当時に満州の劇場を経営されていて、御家族はどんなぐあいになつたのでございましようか。
  618. 加藤幸治郎

    加藤証人 家族は私だけじやありませんで、劇場の家族も全部でありますし、新京の家族全部でありますが、翌年の大体九月まで全部残つておりました。これはある一定の地域を指定されまして、そこのところへみんな入つておりました。それで翌二十一年の九月に大体新京の者は帰つております。われわれの家族の死にそうな子供をかかえてみんな帰つて来ております。
  619. 田渕光一

    ○田渕委員 連れて行かれるときには、家族の方々とも一緒におられたのだろうが、ただ男だけひつぱつて行く、ソ連の五箇年計画の労働力に使うために、とにかく在満の働ける者はみんなひつぱつて行くというような方針で連れて行かれたのですか。
  620. 加藤幸治郎

    加藤証人 大体目についた者でも、全部をひつぱるというわけには行かないでしよう。ですから帰つた者も相当あるわけです。兵隊に関係のある者は大体集合させられまして、当然ひつぱつて行かれました。けれども穴にもぐつたり、屋根裏にもぐつたりして、二、三箇月も暮らしてソ連が撤退したあとなつて現われたりした者は相当帰つております。しかし何か肩書のついておつた者、つまり公職を持つてつたとか、ちよつとした兵隊の関係とか、からだを見たところ非常に丈夫そうだという者は、トラックに積んで手当り次第持つてつた。私の場合は朝家に入つて来まして、有無を言わずにひつぱつて行かれた。それだけであります。
  621. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 手を持つてひつぱつてつたのですか。
  622. 加藤幸治郎

    加藤証人 ソ連はなわをかけるということはあまりいたしません。非常に人道的です。なわをかけませんがピストルなり自動拳銃を持つてつてそれで……
  623. 田渕光一

    ○田渕委員 大体終戰の八月十五日から九月、ころまでの間に、ほとんど満州の設備をソ連に運んでしまつたということを聞いております。目撃したわけではないのでありますが……。その後あなたがチタを経由して連れて行かれる間に、日本の設備ばかりでなくて、またソ連将校、ソ連兵か行つてしまつたあとへ中共軍と言いましようか、そういうものがただちにまた入れかわつてつて来たということはありません。
  624. 加藤幸治郎

    加藤証人 私がひつぱられたのは十二月一日ですから八月から言いますと四箇月日です。中共軍はまだそのときは入つて来ておりません。ソ連軍ががんとしてがんばつておりました。ですから中共軍としての形は全然現われておりません。国民党軍も入つておりません。ですからソ連軍が全部の軍政を扱つておりました。
  625. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 各委員の触れない点を一、二点お聞きします。あなたは民主委員会を御存じですね。
  626. 加藤幸治郎

    加藤証人 知つております。
  627. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 その民主委員会はどいう目的でもつてどうしたか、よく聞きましたからわかりましたが、それに帰還者の順序を定める権限を與えたということを聞きますが、その間の事情を……
  628. 加藤幸治郎

    加藤証人 こればアルマアタにおつた時代からの問題です。大体帰還者が出て来たのは昭和二十三年の秋ごろからぼつぼつ帰つておるはずです。そのろから民主委員会というものを、收容所の非常に作業成績の上つているところから選挙制によつて許したわけです。作業成績の上つているところから逐次民主委員会を選挙制によつて自主的にこれを許したわけです。それからわれわれのラーゲルは、さつき言いましたように年寄りぞろいで、なかなか成績が上らぬので、われわれの場合は、兵隊と同じような意味における民主委員会というものは最後までできなかつた。しかし一般軍捕虜の場合は、今言つた各選挙によつて、民主委員というものはソ連側の指示によつてでかしたわけです。われわれの場合はどうなつたかと甲すと、われわれの場合は選挙にあらずして、お前たちにはまだ選挙の資格はない、だからわれわれの方で優秀と認める者を命ずるからといつて、われわれの場合は命ぜられたのです。ちようどそのときの委員長というのが、今ここで弁護士をやつておるそうですが、満州の主計中尉をやつておられた飯沢壽一という東大出の人ですが、それらの人が指名されたわけです。そのときは——はつきり言いますが、これはどこでも同じことです。この民主委員会に與える権能の中で最も重大なのは、帰還者の順位に関してソ連当局に申請する——決定ではありませんが、申請することを認めるということは間違いありません。たとえば帰還者の順位に関してソ連側の諮問があろうとなかろうとを問わず、順位というものは、この人間は反動だから帰さない。この人間は右翼だから帰さない。この人間はこうだから帰すということは、この民主委員会に與えた最も重大なる権能の一つだということを明示されました。
  629. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 そうしますと、いろいろあなたと同様な、ここで陳述をした人もおりますが、中には全然これを否定して、さような権限がなかつたと言う者もおるのですが、それはそれといたしましよう。あなたの証言によつて、民主委員会というものが、いわゆる抑留者の生殺與奪の権を持つほどの地位になりつつあつた
  630. 加藤幸治郎

    加藤証人 その通りです。
  631. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 そこで民主委員のいわゆる結成というものは、アクチーヴなんですな。そのアクチーヴのうちで、われわれの同胞に向つて最も残酷なことをしたようなものの名前を御記憶ならば、ここでずつと述べてください。
  632. 加藤幸治郎

    加藤証人 だんだん首にむずかしいようななわがかかつて来るようですが、これもちようど証人に呼ばれてまして、自殺をしたと伝えられました菅さんですな。この問題はカラカンダ地区の問題で、あの人と直接には寝食を共にしませんが、あの人の問題についてまず触れましよう。あの人は通訳もしておりましたでしようが。あの人のほんとうの仕事は、ロシア語ではフンクチョネール、これはカラカンダ地区工作員というのがほんとうの名前です。それではカラカンダ地区工作員とはどんなことをやるかといいますと、たとえば東京を小さくした東京地区と同じようなものです。それでカラカンダには多いときには、日本人だけで三万人くらいおつたと思います。ドイツ人なんか入れたらものすごい数です。国際ラーゲルと同じです。至るところ、の国の人間がみなおりますから。大体日本人の收容所でも十幾つあつた。その收容所の中には二千人くらい、六百人くらいのところもあります。ドイツ人のまざつておるところもあります。そこのところで、われわれは一歩外に出るにしても、劍つき鉄砲がなかつたら出ることもできません。柵外に出たら殺される。彼らは交通証明という証明書をもらう。そうして彼らは証明書があれば、いついかなる場合においても、カラカンダ地区内を自由にまわつてさしつかえない。自由行動、單独行動がとれる、それだけのものが許されるわけです。写真を張つた交通証明書を持つて歩くわけです。そうして自分の思うところに向つて、あるいはソ連の指示によつて、あの収容所は非常に程度が惡い。あの收容所にはこういう誤謬がある。あの收容所はこういう誤りを犯しておる。あの収容所は非常によく働いた。原因はどこにあるか。あの收容所は非常に惡く働いておる。どこにその欠陷があるかという問題を研究させるとともにそれからもちろん日本人として政治教育の最高責任者であります。それはソ連と密接なる連繋をこるところの二者一体不可分の関係にあるところのものです。それで私の二十收容所は、先ほど申しましたように、大学を出たり、裁判官とかいろいろな偉い人がおりましたが、さつぱり民主運動というものは伸びないのです。そのために一番程度の惡い民主運動だとわれわれは酷評を受けて、再三つるし上げをやられるわけです。ですからほかの軍事俘虜の收容所はみんなが選挙によつて民主委員を選出するという権能を與えられたけれども、われわれは五年の間その自由を許されません。全部ソ連側の任命した人間だけで構成しておつたわけであります。
  633. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 それは菅君の場合ですか。
  634. 加藤幸治郎

    加藤証人 それで彼は地区工作員をやつて、この遅れたところのわれわれの收容所には再三再四となしに、彼は哲学の出身だと思いますがマルクス弁証法の講義に盛んに来ております。私も二、三回聞きました。それで菅さんが来ると、ああまた有名な弁証法が来たというので非常に人気がありました。たしかに人気があつた。話もうまかつたし、人気があつたし、若い情熱もありました。あれはどこそこ大学系統のどういう系統である。なかなか頭がよいというわけで……。もう一人板垣というのがおりました。あの板垣は、板垣大将のむすこではない。板垣というのは相当な、われわれ年輩の人です。この人も京都大学の同科の人ではないかと思うのですが、この名前は忘れましたが、この人と二人です。それで工作員というのは自由自在に動いておつた。その工作員であつて、ほんとうのことは知らぬが、ちようど毎日新聞に荒巻というのが出ておつたでしよう。荒巻というのはアルマアタ時代から非常に知り合い手。なかなか気骨のある男です。この男がよくわれわれに言つたつたし、またわれわれも聞いたのですが、あそこの師団は三十九師団といつて、中支那において共産軍の掃蕩戰をやつた師団らしい。これは私よく知りませんが、そういうことを彼らはみな言つております。それで去年の夏ごろまでは、要するに共産軍に対するところの掃蕩戰、たとえば暴虐といいましようか、そういうような問題があつたか、何も知りませんが、そういうことが何も表に出なかつたわけです。それが話によりますと、何かしらそこで仲間割れをしたか、あるいは民主運動系統の人間がどうしたか、そいつもはつきりしないが、とにかく日本人同士の間でばらした者がおるそうだという話です。これも話ですよ。それで俄然ソ連当局が最も大々的な取調べを開始したわけです。ゲーぺ一ウーをたくさん派遣しまして取調べを開始したので、帰国が遅れ、いろいろの問題があつたのですが、それで自分が遅れ、民主運動が盛んだといつても、帰るのはやはり人一倍帰りたいです。そこで菅さんは、むしろ政治将校あるいはそうした者との関係は密接につながつているわけですから、あの新聞材料によつたり、またわれわれが向うでも聞いたのによりますと、お前たちはすぐ帰れるのだ。だからお前たちはりつぱなデモクラートになつたのだ。民主主義者になつたのだから ざんげをしなければいかぬ。だからお前たちにも中支那においてどれだけ共産軍に対して暴虐を加えたか、拷問をしたか、何人殺したか、どんな殺し方をしたかということを書けということを言つた
  635. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 菅君の在ソ中やつたことについて、今ここで聞いてもしかたがない。すでに幽冥境を異にしておりますからしかたがないが、大体において管君のここで述べておつた証言と、証人証言とはたいへんた食い違いを生じておる。菅通訳という者は、今の証言言葉を聞くと、おそらくは日本共産党以上の共産党員であるように私は思う。すなわち向うにおつて共産党員を教育するような大責任を持つてつたということは明瞭である。これを称して工作員という。まことに私はいい証言を得たと考えております。それで菅君以外にまだいなかつたですか。
  636. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 だから板垣というのがいた。
  637. 加藤幸治郎

    加藤証人 やはり具体的に少し言つておかぬと、あの証人が何を言つたかわからぬということになる。大阪を離れた、なかなか簡單に出て来られませんから、あまり急がせないで話せるところは話させる。ほかの証人も私のように心臓か強ければよろしいが、さつきあそこから見ますと、予審判事でもあがつております。みんなであちこちからやられたら予審判事でもあがつてしまう。私と話したときには、私は何十人となく被告を調べたことはあるが、調べられるのは初めてだ。ちよつとこわい。老巧な人間たちだからどうも苦手だねと言つておりました。その通りですよ。あそこから見ておると、顔色をかえておりますよ。だからその点でいろいろ問題になる。お前たちの調べ方が悪いから彼が自殺したのだということになる。だからもう少し何というか、時間を與えて話せる人間にはゆつくり話させたらいい。話せない人間はやめさせた方がいい。それが議長としての務めではないかと思います。(笑声)  それでは一つ申し上げます。これも重大問題です。これは二十ラーゲルにおいて現実にこの日で見た事件であります。これはある一部には出ておるかどうか知りませんが、二十收容所で去年の八月ごろ——大体八月前後だと思うのです。あそこにソ連側から任命された工賃がいた。われわれの場合においては、彼らを正式に民主委員とは言わないで、工作員と言つた。それはほかではなく、われわれの收容所だけです。名前は何と育つたか、そのうち思い出しましよう。その満州国の軍官学校の教官をしていてつかまつてつた人間が、やはりソ連側のとらの威を借るきつねでやつてつたわけです。ちようどわれわれの部隊には約二百名ぐらい——奉天でワンサン事件という——これは終戰日本軍のくずれ、それから奉天におつた在留邦人の血の気の多い者が、あの終戰の当時、日本軍も全部解体をしたということで行くべき道がない。結局ここへは国民党軍が入つて来るというわけで、それに協力するために有志の者が集まつて奉天付近を治めるということで、これははつきりしませんが、ソ連では、ソ連軍に対抗する部隊だとこう言つておるのです。そういう意味でワンサン事件を起した。ワンサンというのは名前だと思うのですが、ワンさん待つてちようだいなというあのワンさんではないのです。(笑声)名前はどう言うのか知りませんが、とにかくワンサン事件というのです。まだ兵隊に行かない十六、十七、十八、十九の若い満鉄の青年行動隊というようなものとか、憲兵の出身であるとか、兵隊の血の気の多い者だとか、居留民も何十人もいたですが、この連れられて来たのがわれわれの收容所に二百名ぐらいおつたのです。そうして去年の八月前後ごろからそれらに対する取調べが峻烈になつたわけです。つまり反ソ行為、わか力やすく言えばソ連の占領治下における撹乱行為とでも言いましようか。そんなような意味で取調べを開始したわけです。まだ名前が浮び上つて来ませんが、そのときに、その男がソ連側の政治将校と取調官と一緒になつて、その二百何本名の者を一番先に帰す第一次帰還者として発表してしまつたのです。それで、一番最初にお前たちは帰るのだから特別の教育をする必要があるというので、收容所のバラックを全然別に移して、お前たち帰還部除だからというので、小屋の中へとじ込めてしまつたわけです。それで本人たちの喜びは天にも上る勢い、いよいよわれわれは帰れる、しかもバラックまでちやんと別にしてもらつた。そうして帰れると思つておるとなかなか帰れない。その間に、先ほども申しました菅さんの場合と同じように、事実歴というものを書かした。それには藤島某というのがあります。これは九州の鹿兒島の人間だと言いますか、はつきりわかりません。それから松原某というのも手先になつておりました。それで事実歴というものを書かしたわけです、何人ソ連兵をあやめた、どういう撹乱行為をした、中国人をどういうふうに殺したというふうなことを、お前たちはすぐ帰れるのだから書けというのです。そうして一人々々呼んだり、あるいは二人呼んだりして終日調べて書かしたわけです。書かした結果、書かした御本人は三人とも帰りました。あごの人間は全部といつていいぐらい残つております。ですからワンサン事件の関係者であるそれらの人々は、その次に正式に帰す発表が出たときには載つていない。その次の発表があつてもまた載つていない。それで喧々ごうごうとして若いやつが騒いだ。らんちき騒ぎをやる。働く者も働かぬ。いつになつても帰さぬのならば、とにかく帰すためにバラックに移したのを一応返そうじやないかというので、また全部元に復帰しました。それらの若い者は涙をのんで今も残つております。
  638. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 その中で戰犯は出なかつたのですか。
  639. 加藤幸治郎

    加藤証人 その間にどこへともなしに送られたのがたくさんおります。これは裁判にまわつたんでしよう。
  640. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 それは何と言つたか、名前はわかりませんか。
  641. 加藤幸治郎

    加藤証人 名前はわかりませんね。
  642. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 やはり工作員だね。
  643. 加藤幸治郎

    加藤証人 それは二十收容所だけの工作員です。
  644. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 一人々々のことを聞いておりましては時間をとりますので、私がここで名前を述べる人について、御記憶があれば説明していただきたい。御記憶がなければよいです。これは私の考えですが、最も在留同胞をアクチーヴとしていじめ上げた人間の名前を申し上げます。小澤常次郎なる者。
  645. 加藤幸治郎

    加藤証人 知りません。
  646. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 相原和光なる者。
  647. 加藤幸治郎

    加藤証人 知りません。それは日本新聞関係ではありませんか。
  648. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 それは日本新聞関係ですが……。それでは宇野喬夫なる者。
  649. 加藤幸治郎

    加藤証人 知りません。
  650. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 矢浪久雄なる者。
  651. 加藤幸治郎

    加藤証人 知りません。
  652. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 高山秀夫なる者。
  653. 加藤幸治郎

    加藤証人 知りません。
  654. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 これは所が違うのですな。——わかりました。
  655. 加藤幸治郎

    加藤証人 今度帰つて来る人間がたくさん持つて来るでしよう。
  656. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 それではもう一点お伺いします。あなたの收容所にスターリン大元帥の肖像がかけてありましたか。
  657. 加藤幸治郎

    加藤証人 これはもちろん大元帥と言つております。日本語で大元帥と書いてありますから間違いありません。スタ治リンがマルクス、レーニン主義での信奉者であり、また共産主義の偉大なる建設者として、ソ連ではスターリンはほとんど神格化しております。大東亜戰争中の日本の天皇よりもはるかに高い地位にあると思います。とにかくどんなあばらやの中にも、レストランの中にもクラブの中にも、映画館の中にも、多数人の目につくところには必ずスターリンの肖像があります。それからわれわれの収容所のわきにはアジアの共産党の指導者として徳田さんの省像もあります。スターリンと並んであります。毛沢東もあります。金日成もあります。そうしてそれを毎日伏し拝みながら民主運動に挺身をするわけです。(笑声)
  658. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 なかなかこの証人雄弁でありますから、私の聞かんとするところを早く答え過ぎて実は困るのだが、スターリン大元帥の肖像が張つてあることはわかる、これはロシアだから。日本に張つてはこつけいになるが、ロシアならよいでしよう。今証言になりましたが、徳田球一あるいは野下坂參三、毛沢東といつたような人々の肖像も並んでおつたのですな。そうしてそれをあなた方がその日の作業に出るときに伏し拝んで、その前を通つて……
  659. 加藤幸治郎

    加藤証人 それは言葉が違います。通つてというのは、大体クラブのような集合所、人間の集まるようなところには必ずかかつておりますので、見なければならないのです。
  660. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 あなた方はそのときに、その徳田球一君の肖像なり野坂參三君の肖像がかかつているのを眺めまして、一体どういう感じがいたしました一。
  661. 加藤幸治郎

    加藤証人 この議員の額と同じくらいです。別に偉いとも思いません。うまく宣伝しておるというような感じです。(笑声)
  662. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 要するに日本に帰つたらこれらの人々はロシアにおけるスターリンの、ごとくこれに敬意を表し、旧天皇以上に敬わなければならぬというような意図のもとにあつたような気がしますね。
  663. 加藤幸治郎

    加藤証人 私はしません。それで非常に若い熱心な民主運動をやられる人は、自分が尊敬する人は子供が自分の親を愛するのと同じものです。そういう境遇におる人々はよく見たでしようが、われわれはうまく宣伝しておるものだなと感ずる意外はなかつたのです
  664. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 それではもう一点、コミッサルという言葉御存じですか。
  665. 加藤幸治郎

    加藤証人 コミッサルというのは、昔ゲー・ペーウーとわれわれが言つてつたものがありますが、いゆるソ連の憲兵で、戰犯とかそうしたものを取調べる人であります。
  666. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 そのコミッサルというものには日本人はいなかつたですか。
  667. 加藤幸治郎

    加藤証人 日本人にはもちろんコミッサルはいない。但しさつき言いましたような、その手先になるものを称して、われわれヤポンスキー・コミッサル、これはあだなです。そんなものを任命するはずがありません。要するにその人の言うこと聞いていろいろな働きをする、そういう人はあります。
  668. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 よろしゆうございます。
  669. 島田末信

    ○島田委員 あなたは、先ほど民主化運動をやる場合にスパイもおつたと言われておるが、日本人がスパイになつたわけですか。
  670. 加藤幸治郎

    加藤証人 その通りです。
  671. 島田末信

    ○島田委員 それであなたの知つた範囲で相当スパイをやつた方を御存じですか。
  672. 加藤幸治郎

    加藤証人 その点を説明申し上げましよう。これは誤解を招くと思いますから。スパイという原語が非常にむずかしいと思うのですが、たとえばこういう手をやる。そのコミッサルというのは、甲の人間を調べるとする、乙の人間はその甲と非常に親しい。そうすると乙の人間を呼ぶわけです。こちそうを食わせる場合もあるわけです。あるいは作業をちよつと休ませてくれるとか、いろいろな手を使います。そこでお前はこれと親しいのだから、本人に絶対にわからないようにしてこれこれのことについて調べろ、そうしておれに報告しろ。ですから、もしもお前がこの秘密を甲に漏らしたときにはお前はどんな処分を受けてもさしつかえないという宣誓書を書けと言う。これは私自体がその体験者の一人です。私が使つておりました一つのブリ、ガード、作業隊の一人の人間が、ハルピンの北緯済済調査所というところに勤務しておつた。この人が合法的スパイの嫌疑をむつて調べられておつた。どうしてもスパイではない。ソ連の文献を持つていてそれを飜訳し、それを資料としてとつてつた。これをもつてお前は合法的スパイだという。いやそんな疑いる受けるはずがないと言つて本人は泣き出した。それならスパイではないという立証をしろという。だが彼は東北人の悲しさ、取調べなんて受けたこともないので頭があがつちやつた。泣きわめいてもしようがない。まだ残つております。裁判にまわされたか、どこへ行つたかわからない。私はそのとき班長をしておつたのですが、加藤のやつなら多分うまく言い開きをしてくれるだろうと思つたのでしよう。それで本人は、私の作業隊長は私と同郷でもありますし、私のことを知つておりますから立証してくれます、こう言つた。私はそういうことを知らなかつた。ところが高橋何がしを知つておるか、知つておる、私の使つておる組下の人間だと言うと、そうしたらお前は在満山において彼の行動を知つておるか、知りません。何で知らぬ。彼はハルピンで、私は新京、何で知るわけがあるか。しかし彼は、彼が合法スパイではないということをお前が立証するということを言つておる、知らぬことはないだろう。必ずお前は満州において彼と連絡があつたはずだ。知らぬ、全然知らぬ。そんなばかなことはない、結局お前が知らぬならどうにもようがない、そういうことになつた。そこで知らぬことはないというので、五分間たけ調べられて、私は営倉にぶち込まれた。重営倉に入れると一日パン二百グラムに水だけです。暗やみで一寸先も見えない。それで二日目に出されました。どうだ身にこたえたか、相当こたえた。こたえたら白状せい、こう言う。知りません。よろしい、それではここへ来いというので、別室に連れて行かれた。そうしてお前宣誓書を書け。これははつきり覚えております。宣誓書を書けというが何のために書くのか、できない。一緒に勤務したこともなければ、彼がスパイであつたという立証ということもわからない。ただ私らと一緒に仕事をしておる間には、彼は非常にまじめな人間つた。いつでも非常によく働いておつた。非常によく働いておつたということはソ連に孝行しておることではないか、忠義を盡しておることだ。その人間は決してスパイ行為をやる人間ではない、こういうふうに私は思つた宣誓書を書けというが、私は宣誓書を書いてもその宣誓を守らぬと言つたが、とにかく書けという。彼は日本語がうまい、それで彼は宣誓書に私儀と——私儀なんてこんなことも知つてつた。私儀藤橋何がしの諜報行為について内偵をして報告する義務を有する、この事件に関しては高橋何がしには絶対に秘密である。もしも漏らしたら、お前だけしか知らないのだから、いかなる嚴罰に処せられても異議のないことを書けと言われた。書けといつても守らないと言うと、守らなくてもいいから書けと言う。私は書いて、サインをしろと言うからサインした。それでは二日の猶予を與えるからやれと言う。どんなことがあつてもできますん。営倉から出されまして、結局もう嚴罰に処せられてもかまわぬからと思い、高橋こつちへ来い。お前もひどいやろうだな。何にも知らないおれをこんな目にあわせて。しかしお前のためにはしかたかない。現実問題として誓約書を帯いて来た以上何か言わなければならぬ。そでお前が今まで北満の経済調査所においてどんなことをやつてつたのか知らせろと、大体の概要を私が聞いたわけであります。だけれどもソ連側では、ソ連の文献を集めて通訳をして、それを資料にしたということがすなわち諜報行為であると、それならばこれは一方的行為でやむを得ないのだ。それでよしわかつた、聞かれたらそういうふうに話そう、そうして二、三日して呼ばれました。そこで幾ら私の頭で調べても私にはわかりません、こう言つたらまた営倉に入れられました。営倉に入れられて翌日また出された。どうだもう一ぺん調べるか、やりません、どんなに営倉に入れられても、二十日、三十日入れられてもいい、やれません、こういうことを言つた。それでまあ私は許された。許されたか、その男はそれから二、三日後、石井とか高橋とか名前をみな記帳したのですか、その四名の者はさびしそうにその翌日送られて行つた。裁判にまわつたかどうかわかりませんが、大体こういうようなわけです。まあ一例をあげればそういうふうなものがスパイ行為の中にまず入るのではないかと思います。
  673. 島田末信

    ○島田委員 ただいまの御説明のスパイというのは、日本人同士のあらを探す、いわゆる反動分子を見つけ出すというのとは別なのですか。
  674. 加藤幸治郎

    加藤証人 いろいろな形があるわけです。色めがねをかけたスパイもあるし、女のスパイもある。それと同じように皆使い方ひとつです。一つだけ使うわけではなく、結局は今言つたように反動分子を摘発する場合と、また取調べ中の人間に対して、そのものをそぼから調べ上げて行くというような行き方、いろいろあると思います。それは政党方面でもいろいろ使つておることではないですか。
  675. 島田末信

    ○島田委員 いろいろなスパイに対しては、今あなたの御説明になられた実例以外にも、あげれば相当あるわけですね。
  676. 加藤幸治郎

    加藤証人 それはわれわれも、一々名前をあげて云々ということは忘れることがあるのですが、現実問題としてこれもまた満鉄の調査部におつた人間で、まだ帰りませんが、今度帰つて来るかどうか知りませんか、これも私か非常に親しくしておつたものです。それか今度日本に帰つてつてスパイをやらないと、おれの首が飛ぶと真劍な顧をして言いましたが、これは割合に若い者です。外語出の人ですがね。そういうことは実際にあることで、虚構な事実ではありません。そういうふうに涙とともに訴えたことがあつた。私は断乎としてはねろ、命をとられてもやめろと言つたのですか、そういうのもあります。ですからいろいろな形においてやつておるのではないかと思われるような点が、多分にあるのではないかと思います。
  677. 島田末信

    ○島田委員 ついでにお聞きいたしますが、コミッサルと先ほど言われたのですが、そういうものはソ連のゲーぺー・ウーと同じような組織のもので、嚴重な監視を受け、あるいは拷問あるいは体刑を受けるとか、いろいろな手段が講ぜられて、あの中から日本に帰つてから金がなくなつたソ連のどこそこに行け、まただれそれの行動を監視しろという使命を帶びたいわゆるコミッサルが相当入つておるといううわさも聞きますか。
  678. 加藤幸治郎

    加藤証人 それはいろいろうわさがあります。うわさがありますが確認はできません。そういう話もありましたし、ナホトカでもそれに似たような話かずいぶん流布されておりました。それから諸般の事情から考えてみて、わかるようにやをスパイはスパイじやないのです。わからないようにやるのがスパイなのです。だからそういうことがあり得るということはその人の判定によると思います。まずそういうことがあるかないかというような問題よりも、要するに判定問題だと思います。とにかくさつき言いましたように、お前がスパイになれというようなことを言うのではスパイではないので、もつと鋭いところのものだと思います。
  679. 島田末信

    ○島田委員 あなたはスターリンへの誓いということを知つておりますか。また誓いをしたこと、かありますか。
  680. 加藤幸治郎

    加藤証人 しました。これは一年に何回となく労働競争というものをやらせます。ある収容所と収容所と競争させます。またスターリンの誕生日とか、革命記念日、メーデー等の記念日をトして突貫日と称してやりました。そういう大きな記念日には、大体ソ連の行事としましては、各労働団体がスターリンに対して、おれたちは今まで二〇%途行していたが、今度は一二〇%遂行しよう。これをスターリンへ誓う。そしてスターリンに対する感謝のまことを捧げよう、こういうしきたりです。ですからいろいろな意味においてスターリンの長壽を祈り、スターリンの七十九歳の誕生日の式をあげる場合には言葉でも言いますが、その場でみんなが誓いをします。ただ成文に表わしてスターリンに対しで感謝のまことを捧げたというのは、ナホトカに来てからです。これは全部かやつたのです。反動であろうとなかろうと全部がやつた。やらなかつたら帰れない、それでこれはどういうものかといいますと、とにかくわれわれは、今ソ連の四年有半にわたる友情といいますか、愛情あふれるような待遇を受けて——文章です(笑声)笑つてはいけません文章です。とにかく愛情あふれるような厚合を受けてわれわれは今祖国日本に帰らんとすということです。祖国日本は怒濤荒れ狂うところの吉田政権が気違いのようになつて騒いでおる。これを打倒しなければならぬ。天皇制を打倒しなければならぬということは、きまり文句ですかう言うまでもないわけです。そういう文句をつけて、そしてスターリンの長壽を祈り、スターリンがわれわれに賜わつたありがたい政治教育、いろいろなおいしい食べもの、いろいろなきれい洗濯物、そうしたあがいかにわれわれに対してありがたかつたかということ、もう一つ大切なことは、われわれ二千六百年のからを破つて、われわれに人間変革をしてくれたということ、これを忘れてはいけない。われわれに対して人間変革をしてくれたこと、その恩人である。またもう一つは、こういう意味においてプロレタリアの祖国であるソビエトに対しては、われわれはいついかなる理由に基いても断じてほこをとらない。いついかなる場合といえども、世界情勢がかわろとも、われわれはプロレタリアの城砦である、人民の擁護者であるところの祖国ソビエトに対しては断じてほこをとらない。われわれは平和のためにあくまでも反動を粉碎して、人民政府を打立てるのであるということが骨子なのです。これはいつの場合も同じ文句でする
  681. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これは誓うと書いてあるが……
  682. 加藤幸治郎

    加藤証人 もちろん宣誓文ですから全部が誓う。これを誓つて、怒濤さかまくところの吉田反動内閣の荒れ狂うところに敵前上陸をするということです。そういうわけで宣誓文を書いた。ここで私は皆さんにもお話したように、嚴正な意味において自己批判をしなければならぬ。非良心的な人間であると共産党の方から言われた。私は卑劣漢でしよう、卑怯でしよう。確かに日本人として、日本人でなくても人間として、男としてわかるはずです。われわれ人間がなぜその宣誓をしなければいけなかつたか、しかも私は好んでその宣誓をして、しかもまだ書かない人間を集め書け書け、お前たちがこれをお守りとして書かかなかつたならば帰れないんだと書かせました。なぜならば全部自由意思にはなつておりますけれども、もしも五十名おるところで一人が書かなかつたならば、全部が災いを受ける。また団結を疑われる。だから全員が書くわけです。なぜでありましよう。四年有半の間に骨身を削るところのわれわれのさいなまれたその気持、その気持を今日本に帰ろうとするときに帰れなかつたならばどうなります。この気持が、私は何べんも言うようですが、二千六百年の日本人が初めて味わう気持なのです。ですから帰らんがためにはうそも方便です。この一言で盡きます。そういうふうにしてやりました。
  683. 島田末信

    ○島田委員 このスターリンへの誓いの中に、日本へ帰つたソ連の真実を知らせということは……
  684. 加藤幸治郎

    加藤証人 その通り。それも重要項目の一つ。断じてほこをとらないということ、それから今言つた問題……
  685. 島田末信

    ○島田委員 あなたが先ほど来ソ連の量をいろいろ実例をもつてるる申されましたが、そういう真実を知らせるという意味でありましようか。
  686. 加藤幸治郎

    加藤証人 いやそれは違います。そういうことは知らされたならば困るでしよう。(笑声)たしか困るはずです。それで、そうではなしにソ連が三十二年の輝かしい革命の歴史、マルクス、レーニン主義というものが歴史的必然性を持つて誕生をして、世界の六分の一の占めるところのソビエトが成功しているではないか。しかもそれに並んで四億の民、中国もまたそれにならつておるではないかということです。そこれを見てもいかにマルクス、レーニン主義という者のが人類社会の発展の歴史の前には必然性であるかということ、正しいということ、資本主義は憎むべきものである。共産主義こそまさに人類至高の楽天境であるという意味です。
  687. 田渕光一

    ○田渕委員 私は先ほどの証人小泉さんですか。年輩も五十二才であり、奉天の司法領事というようなことから、満州のまた司法官までしていたということで、人格的に実は大勢の証人のうちでも重要な証言がとれると私は信じておつたのです。ところが何かどこかに圧迫を受けておるのか釈然としないものがたくさんありました。そのうちの一つにフンクチョネールということを聞きましたときに、それは私にはわからぬのだと言う。その点について先ほどあなたと控室でお会いになつた小泉さんが、フンクチョネールということの意味は知らないと言うのです。われわれは真実を知つて、どうかして日本の再建をしようという意味で伺つておるのですから、誤解のないようにお伺いしたいのです。どうです。あなたの感想から見て、あれだけの年輩の方が実際ソ連に四年もいて、フンクチョネールという言葉を知らなかつたのでしようか。あなたはどう思いますか。
  688. 加藤幸治郎

    加藤証人 それでは私はあの人の特別弁護人になりましたよう。なぜならば、あの人はからだが丈夫ではありません。ですから仕事の面ではてんでうだつが上らないと思います。ですから下積みの下積みです。若い者にけ飛ばされ、押し飛ばされて全然発言権もなければ、何もありません。もうあるかないかのわかちない存在です。ですから政治教育その他の問題でも問題にしていないわけです。彼みずからインテリゲンチャーでしよう。だから仕事に対しても、それからまたそうした政治教育の面でもいくら教えたつてわからないわけです。しかもあのタシケントー組は、ほとんど若い兵隊の中にぽつりぽつりと入つておるわけです。問題にされないわけですね。そういうような関係で、もちろん労働に対するいろいろな問題“それから政治教育、そういう問題に関しても、正しい認識は持つてつたでしよう。しかしあの人の收容所におけるところの生活の態様、境遇からして、私のようにはつきりしたことは言えないと思います。しかもあの人は、また判事に復職しましたというような関係も多分にあつて、当らずさわらずということでしよう。
  689. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 こういうことですよ。フンクチヨネールというのをあなたは政治工作員と言われたね。それは向うでそういう言葉を使つていたのじやないのか。
  690. 加藤幸治郎

    加藤証人 使いましたよ。ロシア語で言うのはあたりまえです。
  691. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 アンタチヨネールは今本人は政治工作員だと言つてつたんじやないか。
  692. 加藤幸治郎

    加藤証人 もちろん政治工作員ですよ。だからフン・クチョネールの場合は地区工作員を言うのです。しかしわれわれのラーゲルは特殊ラーゲルでしたから、一つの收容所でもフンクチヨネールと言いましたよ。
  693. 西村直己

    西村(直)委員 簡單にお聞きしたいのは、証人にわざわざおいでを願つておるのは、日本共産党なる政党が、たくさんなソ連の抑留同胞引揚げに対して、阻害しておるかどうかという実相を調査したい、こういう意味でございます。まだ全国の留守家族かたくさん心配しておられる。それであなたにお聞きしたいのは、抑留者が相当戰犯以外にも残つておるかどうかという点です。あなたがカラカンダからナホトカにおいでになる間において、あるいはうわさに、あるいは現実の目において、汽車の窓からでも見たところによつて、シベリア地区でどのくらい残つておるだろうかというような話合いなり、感想なりあればお聞かせ願いたいと思いす。
  694. 加藤幸治郎

    加藤証人 僕らの挾い範囲で全ソ云云ということは、確信的には申し上げられません。わかりません。ただカラカンダ方面には監獄に入つた者だとか、裁判中の者とか、それへの者を合せて千か二千くらいおるじやないかと思います。それからまた準戰犯で取調べもなし、われわれと同じように残されておる口が五、六百人から千人くらいおるというところが大体じやないかと思うのですがね。
  695. 西村直己

    西村(直)委員 戰犯で取調べられておる者は二千人くらい、そうでないものも千人くらいじやないということですか。
  696. 加藤幸治郎

    加藤証人 そうじやないかと思うのです。それは今言つた通り確信がありません。
  697. 西村直己

    西村(直)委員 実は共産党に入党されておるところの証人は、大部分の方は、戰犯以外は残つておらないのだと盛んに証言をされます。あなたのお話を聞いておる間にも、まだあれは残つておる、彼は残つておる、これは必ずしも戰犯、あるいは戰犯容疑で残つておるようにも受取れない。先般来新聞で御承知の通り、三十七万人がとにかく総司令部日本政府発表によつておると言われたが、タスの発表と非常な食い違いが拠る。この委員会はもちろんソ連の実情が云々ということもありましようが、問題は残つておる人がどれくらいあるか、死亡者がどれくらいあるか、いつ帰れるか、だれがこれを妨害してるか、こういう点を明らかにしたい。今の数についてはもちろんあなたは知らぬが、戰犯以外にも残つておるとお考えになるかどうか。数は別でよろしゆうございます。
  698. 加藤幸治郎

    加藤証人 戰犯というのはどの程度を戰犯と言うのか非常にむずかしいので、われわれ商うではあるいは戰犯に見られたかもしれぬのですね。ですからわれわれ誓うところの戰犯というのは、ほんとうに戰争犯罪人として当然起訴されて裁判に付されて、刑を宣告さるべきものだというのを私は戰犯たと思うのです。大体の解釈は当然だと思うのですが、戰犯かどうかという問題は、準戰犯という問題もありましよう、いろいろの問題がありますが、今まで帰つた者の中にも、相当戰犯として取扱われて調べた結果、何にもない者は相当帰つております。今でも全然何ともないという人間が相当おります。それは特務機関の運転手をしておつたとか、小使をしておつたとか、馬下をしておつたとかいうのは、勤めている先が憲兵隊であり、特務機関だというので残つております。
  699. 西村直己

    西村(直)委員 それはただ特務機関の勤務者であつたという者以外に、何も関係がなくて、また抑留を続けておるような人もあると見てよろしいのですか。
  700. 加藤幸治郎

    加藤証人 特に私らのラーゲルにおいても、今度帰つて来ると思いますが、二百名くらい残つておりますからね。
  701. 西村直己

    西村(直)委員 それから次の問題は、あなたは在ソ約四年半の間に日本共産党その他の名において、日本新聞等において、非常な引揚げ促進をやつておるというようにお感じになりましたか。
  702. 加藤幸治郎

    加藤証人 日本共産党が促進運動をやつたというのは、新聞は大体見通しておりますが、寡聞にして見たことはありませんな。
  703. 西村直己

    西村(直)委員 あなた並びにあなたの仲間でありますところのたくさんの抑留者は、先ほどもあるいは徳田、あるいは野坂という人たちの肖像画は毎日見た。これらの人がとにかくあなた方を一日も早く帰してくれるような印象で受取つたかどうですか。
  704. 加藤幸治郎

    加藤証人 それは見る人によつてでしようが、私は帰してくれるから飾つたのではなしに、まあ宣伝のために飾つておるのだと思いますね。
  705. 西村直己

    西村(直)委員 そこで私がお聞きしたいのは、日本共産党その他からあるいは一日も早くりつぱな、いわゆる向うの通用語で言う民主主義者日本で言うと共産主義者になつて帰つてくれということが問題になりますが、そういう意味の激励の手紙とか、あるいはカラカンダの食堂とか、クラブの机等に多少来ておつた例はございませんか。他の証人は見た人もありますが。
  706. 加藤幸治郎

    加藤証人 日本共産党からですか。
  707. 西村直己

    西村(直)委員 日本共産党あるいは日本共産党の細胞からはがきが……
  708. 加藤幸治郎

    加藤証人 それは見たことがあるように記憶しますが、はつきりしません。個人に来た手紙を読み上げたことがあります。二度か三度読み上げたことかあります。
  709. 西村直己

    西村(直)委員 それはひとつ記憶をたどつて具体的に……
  710. 加藤幸治郎

    加藤証人 それはさりき名前は忘れたが、われわれのフンクチョネールにおつた人間が読み上げたもの、ともかくその中にはこういうのもありました。りつぱな民主運動をやられて帰つて来て続々と共産党に入つておる。しつかりした民主主義者なつて帰つ、て来てくれ。こいう意味ですな。ですから今言つたむずかしい意味において云々ということはありません。大体そんな意味です。りつぱな民主主義者として帰つてもらいたいというような個人的に来た手紙ですよ。
  711. 西村直己

    西村(直)委員 そういうような手紙を普通続み上げるときには、内地で使つておるようなはがきか何かに書いたものを読んでるのですか。
  712. 加藤幸治郎

    加藤証人 それは内地から来た普通の郵便もありますし、今の返信料つきの無料の捕虜用のやつがありますが、ああいうのが来たように思います。
  713. 西村直己

    西村(直)委員 普通の手紙も来ることがありますか。
  714. 加藤幸治郎

    加藤証人 あります。但し封書は全然来ません。
  715. 西村直己

    西村(直)委員 普通の手紙はどういう経路で来るように思いますか。
  716. 加藤幸治郎

    加藤証人 直接来ます。日本から直接ロシアにまつすぐに行きます。あの捕虜用と一緒に来るのと、それからもう一つはフランスだか、ゼネバだか、国際連盟がありますが、ああいう方面の赤十字か何かの方面からまわつて来たのもあります。
  717. 西村直己

    西村(直)委員 ちよつと私にはわからないのですか、捕虜用では万国赤十字のマークの入つたやつが、赤十字の手によてあなた方抑留者に行くことは知つておりましたが、普通のはがきがあなた方に来るというのはどういうことですか。
  718. 加藤幸治郎

    加藤証人 普通の手紙は今でもあなた方書けば行きます。切手さえ張れば行きます。私現実に二通も受取つております。
  719. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは出しても、これが極東委員会の許可を得るとか……
  720. 加藤幸治郎

    加藤証人 そんなことはないのですよ。外国郵便で出して、普通で来ますよ。出してみなさい。現実に来ております。
  721. 西村直己

    西村(直)委員 そうすると、たとえほ消印なんか……
  722. 加藤幸治郎

    加藤証人 消印はちやんとあります。
  723. 西村直己

    西村(直)委員 あなたは記憶を正確にやらぬと混乱するが、要するに内地のたよりというものはあなた方は非常に待つておられて、はがきのにおいさえもかぎたいような気持だろう。そういう場合、おそらく普通のはがきが来れば、何月何日にだれが筆で書いたとか、ペンで書したとか、消印がどこにあるか、このはがきの品質はどうだとか、いろいろうわさが出るでしようが、普通のはがきについて消印その他はお考えにたりましたか。こ
  724. 加藤幸治郎

    加藤証人 それは穴のあくまで見ておりますが、ちやんと消印は押してあります。
  725. 西村直己

    西村(直)委員 消印はどこのですか。
  726. 加藤幸治郎

    加藤証人 日本の消印です。
  727. 西村直己

    西村(直)委員 日本の消印だけでそこに行つておりますか。
  728. 加藤幸治郎

    加藤証人 来ております。
  729. 西村直己

    西村(直)委員 それはいつごろですか
  730. 加藤幸治郎

    加藤証人 それは持つて来ればよいのですが、ナホトカまで持つて来たのですが、書いたものは一切取上げられてしまうので、みな燃やしてしまいました。私に一番初めに手紙を許されたのは三年目です。普通の捕虜は大体一年くらいたてば許されたようですが、自分は準戰犯になつておつた関係かどうかしりませんが、三年目から許されたのです。それは昭和二十四年の四月か五月ころです。山形の私の実家から私の方へ来ております。
  731. 西村直己

    西村(直)委員 そうするとあなた方は、逆に内地に出す場合にはどういうふうにしておりましたか。
  732. 加藤幸治郎

    加藤証人 これはソ連でもらうもの以外にはいかなる場合においても許しません。
  733. 西村直己

    西村(直)委員 ソ連でもらうというのは……
  734. 加藤幸治郎

    加藤証人 捕虜用の往復はがきです。
  735. 西村直己

    西村(直)委員 それをもらつてあなた方が書いて出す、その返事はあなたのところに着きましたか。
  736. 加藤幸治郎

    加藤証人 その返事が着かない場合もあります。途中で検閲がありますから、とまる場合もありましよう。私が最初に書いたときには、全部かたかなで書けと言われましたので書きましたが、それは書きにくいものです。しかもなるべく多く、何字でも多く書こうという場合ずいぶん苦しいものです。それでみんな原稿を書いたわけでありますが、その手紙は、私の場合には家に帰つてみますと来ておりません。なぜ来ていないかというと、来ないのがあたりまえだ、そこで私は少しためしてみたのですが、どうせかたかなで書くのだ、着くかもしれない、着かないかもしれない、向うで検閲するのは、全部ウラジオストック郵便私書函の何号となるのです。だからどこで働いておるか、何をやつておるかということは書けない、とにかくロシアで丈夫で働いておるとしか書けないのです。ですから私は、こういうかわつたやつですから、もしうまく行つたらと思つてとにかく家族にただ丈夫で働いておると書いたつてわからない。しかもかたかなで書いたら筆跡も違つて来る、わけもわからない、それで内容はこういうことを書きました。満州におるころよりも二十キロもやせたということを書いたのです。それでむべなるかな届きません。
  737. 西村直己

    西村(直)委員 それはひとつ事務局の方でお調べ願いたいのでありますが、普通のはがきが面接ソ同盟の抑留者の手に渡るということはちよつとふに落ちませんが、手続、時期等をお調べ願えれば……
  738. 加藤幸治郎

    加藤証人 われわれも手紙を書ときには、私はみんなによく言いました。手紙をお前たち書くときは、普通便で手紙を書けば着くのだから、どんどん出しなさいと言つて、私もじやんじやん家に出しました。それで普通便ではがきが来ました。たしか十円張つてつたと思います。
  739. 西村直己

    西村(直)委員 なおこれは御感想をお聞きしたいのですが、日本新聞などにもアカハタの記事が盛んに転載されておつたのは御記憶なつておりますか。
  740. 加藤幸治郎

    加藤証人 その通りであります。
  741. 西村直己

    西村(直)委員 今のように肖像画等が掲げられておる実情は、民主主義教育と称しながら、実際は共産主義を押し進めて行く、国内においては怒濤のごとき形で吉田反動内閣が大きく動いておる。そうして唯一の人民政府代表者としての日本共産党が闘つておる。こういう関係において、日本共産党というものは引揚げ促進についてどういうふうな運動をされておるか、おそらくあまり聞いてはおられないと思うが、しかし收容所におられる方々はそれをどう受取つておられますか。徳田さんなり、野坂さんなり、そういう方々をあなた方抑留者はどういう気持で見ておられたか。
  742. 加藤幸治郎

    加藤証人 もちろんわれわれは聞えないような話はたくさんするわけです。ぐあいの惡い話はこそこそやるわけです。およそわれわれの耳に入つてつたのでは、共産党引揚げ促進をやつておるということは問いたことはありません。話合いに出たこともありませんし、そう感じたことは一ぺんもありません。むしろ逆に、どうもこれはくさいな、これは何か遅らしておるのじやないかというような感じを持ついおりました。これが偽らざる気持ちです。
  743. 小玉治行

    ○小玉委員 今ちよつとあなた言われたのですが、あなたのところにはがきや手紙が着くとすれば、あなた方の佳所が内地から手紙やはがきを出す人にわかつておられるのだと思うのですが、あなた方が手紙、はがきを受取られる、あなた方のあて名は全部ウラジオストック郵便私書函ですね。
  744. 加藤幸治郎

    加藤証人 そうです。各收容所の記号があるのです。たとえば九十九地区ならば、九十九イコール十五分所というふうに書くのです。
  745. 小玉治行

    ○小玉委員 そうするとウラジオのそこあてに内地からはがきを出せば、それからカラカンダの方に着く、そういう組織になつているわけですね。
  746. 加藤幸治郎

    加藤証人 その通りです。
  747. 小玉治行

    ○小玉委員 そこでその往復のはがきには、そのところに手紙を出すように書いて出すのですね。そこに内地からはがきをよこしてくれといつて……
  748. 加藤幸治郎

    加藤証人 向うで親切に、こつちの人が心配のないようにちやんとあて名は書いてくれます。
  749. 小玉治行

    ○小玉委員 内地から出したはがきがあなた方の手に入る経路はわかりました。  もう一点、あらゆる集会所にスターリン元帥の肖像画、それに加えて徳田球一や毛澤東といつたようら肖像画があるそうですが、それは相当大きなものですか。
  750. 加藤幸治郎

    加藤証人 それは場所によつて違うのです。
  751. 小玉治行

    ○小玉委員 最もいいのはどうですか。
  752. 加藤幸治郎

    加藤証人 場所によつて違います。つまり屋根の低いところや場所によつて違うわけですね。
  753. 小玉治行

    ○小玉委員 そのうちの一番大きいのは……
  754. 加藤幸治郎

    加藤証人 ですからソ連の宣伝の強みというのは、最も大きく、最も色彩を明瞭にして、最も見やすいところに張るというのが特徴です。しかも同じことを反復的にやるのです。どこへ行つても同じような文句が見られるというふうな宣伝、たとえば一つのスローガンがあつたならば、そのスローガンに全部を集中させるという方法です。たとえばこの部屋なら部屋にどのくらいの大きさならば一番みやすいかということを研究してやつている。これは学ばなければならぬ。
  755. 小玉治行

    ○小玉委員 その場所々々によりて大小さまそれな肖像画がある……
  756. 加藤幸治郎

    加藤証人 小さいうちに大きな額をかけたらばかみたいなもので、小さいところには小さいのを、大きいところにに大きいのを、おめでたいときには赤いテープを張つて、左右に赤い旗を必ずやる、これは規定です。
  757. 小玉治行

    ○小玉委員 そこで徳田球一の肖像画はけしからぬ、しやくにさわるというようなことからそれをひつぱたいたりすると、何か刑罰かなんかあるのですか。
  758. 加藤幸治郎

    加藤証人 そういうばかな者はいないですね。実際言うと、そういう反対的な立場からいつたならば、け飛ばす人もあるでしよう。しかしけ飛ばしたことによつて自分の反感を暴露する——われわれの知る範囲においては、肖像画を足げにしたり、け飛ばしたということは聞かぬですね。
  759. 大橋武夫

    ○大橋委員 今あなたのおつしやいました、日本共産党がことによると引揚げを早くするよりおそくしてじやましていないか、そういうことはいつお感じになりましたか。
  760. 加藤幸治郎

    加藤証人 これは引揚げが始まつてからずつと猛烈な民主運動が始まつて、徳田書記長からこちらあての手紙が来て、それから野坂さんの説が新聞に載つた。あんた方は日本に帰つて日本共産党に入るときは甘い考えで来てはいかぬ、革命の前夜た、かような早急な考えではいかぬ、日本の事情は複雑である、それにはりつぱなマルクス主義を体験して来てくれ、りつぱな民主主義者として帰つて来てくれ、そういうことが懇切丁寧に二度も三度も新聞に載つている。そういうようないろんなことから考えて、とにかくわれわれの推測していることは、どうも民主主義者にならないで帰つてはぐあいが悪いのだ、そういうふうにとりました。ソ連の政治将校その他でも、口ぐせのようにあらゆる機会に、お前たちはほんとうにまじめな民主主義者なつて帰つてくれ、日本国民のために、アジアの平和のために、祖国ソビエトのために、ほんとうにりつぱな民主主義者で帰つてくれ、それを日本共産党は期待しているのだということです。
  761. 大橋武夫

    ○大橋委員 それはだれが言いましたか。
  762. 加藤幸治郎

    加藤証人 それは政治将校です。
  763. 大橋武夫

    ○大橋委員 いつ言われましたか。
  764. 加藤幸治郎

    加藤証人 一いつでも言つております。枚挙にいとまがない。
  765. 大橋武夫

    ○大橋委員 今おつしやつた徳田球一君から手紙が個人あてに来たというのは、だれに来たのですか。
  766. 加藤幸治郎

    加藤証人 それはわかわません。記憶がはつきりしません。
  767. 大橋武夫

    ○大橋委員 来たのは事実ですね。
  768. 加藤幸治郎

    加藤証人 事実です。
  769. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どこでそれを見ましたか。
  770. 加藤幸治郎

    加藤証人 カラカンダの二十分所です。
  771. 大橋武夫

    ○大橋委員 いつ、ころですか。
  772. 加藤幸治郎

    加藤証人 昭和二十四年の六月から八月ごろの間です。
  773. 大橋武夫

    ○大橋委員 徳田君の手紙だということはどういうことでわかりましたか。
  774. 加藤幸治郎

    加藤証人 読み上げましたから……
  775. 大橋武夫

    ○大橋委員 だれが読み上げましたか。
  776. 加藤幸治郎

    加藤証人 丸茂武重とか何とか言つておりましたね。
  777. 大橋武夫

    ○大橋委員 そのとき読み上げられた徳田君の手紙の内容は、大体どういうことですか。
  778. 加藤幸治郎

    加藤証人 さつき言いましたように、りつぱな民主主義者として帰つて来てくれということです。要約すれば、みんなよく勉強して、帰つて来る者はどんどん共産党に入党するようなりつぱな共産主義者として帰つてくれ。りつぱな民主主義者として帰つて来てくれということです。
  779. 大橋武夫

    ○大橋委員 日本共産労が、ソ連から帰つて来るときには、ほとんど全部がりつぱな共産主義者として帰つて来てくれ、こういう希望を持つておるということは、これはあなたが今言われたばかりでなく、ソ連に收容されておつた人たちは全部そういう感じを持つておりましたか。
  780. 加藤幸治郎

    加藤証人 私は民主主義であろうとなかろうと、全部がそういうふうにとつているんじやないかと思います。
  781. 大橋武夫

    ○大橋委員 日本共産党では共産主義にならない人に対しては、なるべく帰つて来てもらいたいんだ、こういう希望を逆に持つておるような感じを受けておられましたか。
  782. 加藤幸治郎

    加藤証人 反面の解釈としては、当然そういうことは考えますね。
  783. 安部俊吾

    ○安部委員 一点だけ証人に伺いたいのですが、アクチーヴとか、日本に帰つて来てから共産党に入党の手続をしたというような証人らは、友の会とか民主グループとか、そういう組織をしたのは、要するに、その原因は反軍闘争から起きたんだ、こういうように言つているんですが、実際そうなんですか。
  784. 加藤幸治郎

    加藤証人 その一通りです。これは重要な問題の一つです。それでマルクス主義から言いますと、とにかく革命というものを出かすためには闘争を経なければならぬ。革命は闘争である。闘争は武器である。闘争はあらゆるものの発展の母である。そういうような意味から民主運動の形態としては、一番最初は友の会というものをつくらしたわけです。大体そのころは非常に幼稚な日本新聞でありました。編集も惡ければ、あらゆる点において幼稚なもんでした。そのころはまだパンフレットというものもあまりできておりません。ですからむしろ若干大学におつてそうしたものの社会科学を勉強したような人たちが寄り集まつて、一つの友の会というグループをつくつたわけです。それが漸次進んで、民主運動が今度選挙制になるというとき——その前に要するに旧兵士と言いますか、兵隊さんたちは、将校あるいは幹部が、自分たちが在営中天皇制軍隊時代においていかに自分たちに苛酷な取扱いをし家。階級的に、いかにわれわれをひどい目にありわせたか、あるいはリンチをしたか。ぶんなぐつた、け飛ばした、食い物をろくに食わせなかつた。将校は特権的な存在であつた。われわれをどんどん当番に使つたというような問題を取上げて、階級闘争の一番最初の勉強は反軍闘争であつたわけです。その反軍闘争によつてまず将校を追放したわけです。追放と言つても決してほうり出したのではない。大隊長、中隊長の地位からほうり落した。そうしてソ連側に、こういうものはこういうふうにわれわれをいじめていたんだから資格がないと言うことです。そうしてソ連側がそれをやめさせるわけです。ある收容所から別な收容所に送つてしまう。それから今度民主グループの選挙の場合において、全部これらをオミットして、今の反軍闘争の経験を生かして、これらの若い兵士たちが全権力を握るわけです。そして民主委員生活部門に政治部門に、文化部門にあらゆる部門にわかれて委員を組織するわけです。会議制によつてつておるわけです。そうして一番最初は友の会それから反軍闘争を通じて階級闘争を彼らは現実に体験したわけです。要するに労働者、農民の出身であるところのプロレタリアートという兵士がソビエトというものを彼らの手によつてつたようになつたわけです。これはソ連の指導であります。
  785. 安部俊吾

    ○安部委員 善良な将校でも、将校であるために、普通の若い兵隊のようにノルマを上げることができないという状態にある者を、ずるいとか反動であるとかいうようなことで、反軍闘争ということを、理由にしてやつたこともありますね。
  786. 加藤幸治郎

    加藤証人 もちろん一つの革命ですから……これは軍事捕虜の民主主義者がほんとうに権力を獲得するまでの闘いというものはすさまじいものです。彼らは、何者にも屈しない。少々の障害は突破します。ですからいろいろな意味において術策も使います。
  787. 田渕光一

    ○田渕委員 加藤さんにお伺いしたいのですが、徳田書記長、毛沢東あるいは金日成という額はもちろんそうではありますが、スターリンの額をこわしたり、あるいはスターリンはけしからぬやつだというようなことを、かりにもあなた方捕虜ばかりでなく、囚人で来ておるソビエト人、ドイツ人がそういうことを言つた場合にはどういうような迫害にあうかということはどうですか。
  788. 加藤幸治郎

    加藤証人 それは聞いたことがありませんし、そういうのは表面ではソ連にはありません。
  789. 田渕光一

    ○田渕委員 もう一つ加藤さんにお伺いしたいのですが、あなたがアルマアタに三年ばかりおられた間に、日本人はどのくらい死んだかという合計がおわかりになりませんか。
  790. 加藤幸治郎

    加藤証人 それはわかりませんね。アルマアタにはわれわれが行つた当時は一万人以上おつた。收容所も十くらいわかれております。その中で收容所と収容所の関係もありませんし、われわれの收容所は大体一割五分くらい死んだというようなくらいで、実際の統計はわかりません。
  791. 田渕光一

    ○田渕委員 墓場はありますか。
  792. 加藤幸治郎

    加藤証人 ありません。土まんじゆうはあります。
  793. 田渕光一

    ○田渕委員 アルマアタの土まんじゆうで、およそどのくらいという御想像はつきませんか。
  794. 加藤幸治郎

    加藤証人 收容所は至る所に点在しております。何里四方に一つというように收容所自体がかたまつておりません。特にカラカンダというところは、何十里四方にぽつつりぽつつりと炭鉱の一番炭質のいい所に村や町を形成して行くのでありますから、そこまで歩いて行かなければわから、ないわけです。
  795. 田渕光一

    ○田渕委員 アルマアタでは土まんじゆうに十字架とか、あるいは墓標というよう次ものは建てられてありましたか。
  796. 加藤幸治郎

    加藤証人 それはわれわれが建てました。こういうことがあります。最初は、われわれがか知つておる範囲では、人間が死ぬとまつぱだかにしてしまつて、風呂場の中へぶち込んで、それを全部解剖する。そうして裸のまま馬そりなり馬の車に乗せて山の方に持つてつて——われわれが穴掘つてありますからそこへ埋めるだけです。
  797. 田渕光一

    ○田渕委員 それはあなた方がそこへ運んだのですか。それともソ連の囚人が運んだのですか。
  798. 加藤幸治郎

    加藤証人 日本人が死んだ場合にはわれわれが運びます。と言つてもこれはわれわれがあつてにやるのではありません。向うの指示によつて全部やるわけです。またわれわれの收容所で死んだ者でもわれわれが全部するわけではありません。ほかの者が持つて行くこともあります。
  799. 田渕光一

    ○田渕委員 内地では轢殺、自殺とかいうようなときには、むしろをかぶせるくらいなことはしますが、これはまことにわれわれも目をおうのでありますが、裸に引きまくつて棺にも入れず、こもにも包まず、そのまま生魚のように運ぶのでありますか。
  800. 加藤幸治郎

    加藤証人 大体車の上に載せて、上に死んだ人間の使つた毛布をかけます。だから外からは見えません。
  801. 田渕光一

    ○田渕委員 もう一つお伺いしたいのですが、加藤さんがカラカンダにおられるうちに、大分日本共産党になりおつたなという、向うから見た日本——いろいろ日本新聞を通じて、こんなことが大分日本新聞に出るくらいでは、日本も大分赤になつたな、われわれも赤にならなければ帰れないぞというような御感想はどうでしたか。
  802. 加藤幸治郎

    加藤証人 それは日本新聞の効果という問題ですね。われわれに対する一つの慰安というものは、日本文で読めるもので、それは新聞としては、ハバロフスクでつくる日本新聞だけでした。それから本ではモスコーでこしらえたこのくらい厚い、何ページくらいありますか、千ページくらいありますか、ソ連共産党小史というものがあります。りつぱな紙を使つた本であります。これも大体多いときは三人に一部とか、十人に一部渡りました。それからパンフレットは無数に出ます。日本の強盗戦争の経過というものもあります。ソ連のいろんな制度をたたえたもの、それからひところ非常ににぎわつたのは「歴史の偽造者」という、これはちうよど第三次欧州大戰において、欧州の反ソビエト外交がいかに欺瞞であつたかということ、それを、フランスが、イギリスが、アメリカが発表した問題は、まさに政治の偽造だというのでこれを反駁したもので、非常に興味深く読まされたのですが、そういうものもありました。それから單行本では、共産党のボルシエヴィーキの鋭い心理を描いたもので「征服されぬ民」という小説があります。これはなかなかいいものです。それから「幸福」というもの、これは前後編二編にわかれておりますが、こういう小説が単行本として出ておりました。それから小さなパンフレットは無数にあります。その効果ですが、われわれは少くと高年も内地から離れておりまして、ラジオは聞けません。それから日本人同士がしやべつても、同じような顔で同じような声で聞く、もちろん女の声もないわけですから、潤いが少しもないわけです。同じような醜い顏をした人間が、同じようなどら声をあげて、醜い声を張りあげているだけで、われわれが慰められるものは何かといえば日本新聞です。それには日本の記事も相当載つております。最近になつてはアカハタから転載したのが相当載つております。それから小林多喜二さんが書いた「蟹工船」というものもちよいくと必要なところを抜いて載せております。大体一貫して流れるものは、とにかくアメリカ帝国主義の真相暴露、それから日本侵略強盗戦争というものの真相暴露、それから現在の天皇制の矛盾、現在の反動政府の矛盾、あるいは経済、思想、文化、あらゆる面において破壊的な行為をやつておるところの反動的吉田内閣というものを取上げては、それを克明に書いております。その間に心身つあは、われわれ引揚者がどんどん帰つて行くけれども、北海道にやられ、三疊の間に三人も四人も寝させられる、疊〇・六枚、半分より少し多いところに二人ぐらい寝せられておるというような記事、それから職を與えられない、北海道には行つたものの、もらつてつた着物はさつそく食つてしまつてあと政府が補給してくれない。塗炭の苦しみにあえいでばたばた死んで行くというような問題、そうしたともかく最も悲惨なようなことがいろいろたくさん載せられております。そうしてまずわれわれとしては、明るい面のものは一つもないわけです。内地がいかに悲惨であるかということ、いかに反動内閣がものすごく暴れまわつておるかということ、多数党がいかにあばれまわつておるかということ、それから天皇制はいかに矛盾があるかということ、しかも美名をかぶつたところのアメリカ帝国主義というものが日本をいかにして奴隷化そうとし、植民地化そうとしておるかということ、それから單独講和のことを反駁しておりました。原子爆彈の問題については、あくまでもソ連こそ終始一貫国際連合において、原子力並びに原子爆彈の国際管理をとなえているにかかわらず、反対するのはアメリカだ。だから治まらないのだ。軍備縮小も、軍備を三分の一に縮小するということを再三言つておるにかかわらず、これも反対するのはアメリカであるというような行き方、そういうのが毎日の記事をにぎわしたわけです。そうして生活苦を訴えられ、失業者は干何百万もあつて引揚者はさつぱり職もないとらいういろいろな問題がたくさん取上げられております。ですからそういう新聞を四年も見せられ、外界からは遮断され、日本人は同じグループの人以外はわからないというときに、その新聞というものが一番たよりになるわけです。人間は、うそだと思つても、それを三べんも続けられると、それを信ずるようになるでしよう。皆さん御承知の通りです。それを日本新聞が連続的にわれわれの限の前にやつたきに、なるほどこれは正しいのかなと思います。ましてや若い燃え上るような人が、一方には政治学校があり講習会がありサークルがあります。そうして書はラボーター、夜はそういう政治教育を受けておる。その反面こういう新聞を毎日のようにどんどん見せられたんでは、若くなくわれわれでも幾度も疑つたことがあります。
  803. 田渕光一

    ○田渕委員 もちろんそうでありましよう。私は若い人たちが咀嚼もせずに、結局日々四年間も日本新聞を通じて完全な共産主義をたたき込まれたのでは、それは当然若い人はそうでありましよう。ところで加藤さんが向う日本新聞を見たときに、大分日本も共産主義になりおつた、これではどうも共産主義にならなければ帰れないぞというような心境にまでなられたでしようか。向うから日本内地を見て、どんなふうにお感じになりましたか。
  804. 加藤幸治郎

    加藤証人 その点は、まず共産党が五名か四名の議員が、総選挙において一拳に三十何名になつたというのが、とにかく特筆大書して毎日のように聞かされました。そうして祝賀会までやらされました。そういうようなことを考えたら、なるほど日本の民主主義的な傾向というものは、大分左傾的な、左翼的な方面に走つておるどいうことは、何人も感じざるを得ないわけです。しかしながらわれわれは、いいかげんずるくなつておるかもしれませんが、やはりまだ早いのじやないか、まだちよつとむりだなという感じがしました。われわれが見た感じから言ううと、そういうふうに騒げば、われわれはずるいから、こう考える。ラジオや新聞がじやんじやん宣伝しておつたら、その裏を考えたらいい。その裏があるでしよう。われわれがラジオを毎日まともに聞いておつたら、今ごろはアメリカとロシアは戰争を始めておるはずです。それがさつぱり始まらぬ。結局その裏を考えるわけです。そうして原子力がどうだ、日本が悪いのだということをじやんじやんやつておる、その反面を考えたときに心配した。私はいつも説明しているのです。うのみしないで、常にその反対を考えろ。反対を考えたら正しさを得られるのだと言つているのです。帰つてみればその通りでしよう。それは矛盾もあるでしよう……
  805. 田渕光一

    ○田渕委員 委員長に率直に申し上げますが、くだらぬ証人に何時間しやべらしても何にもなりません。信憑性のある人に十分聞かなければならぬ。先ほどから加藤さんはほんとうのことを言つてくれている。だから聞く人は十分聞けというようにしなければならぬ。それをさつきから帳面をとじたり、いかにもこの委員会をしまうような態度をとられることは、まことにけしからぬ。かりに共産党にどんな作戰があろうと、こういうりつぱな証人がいるときには、夜を徹しても聞くだけの熱意がなければならぬと思う。それをどうもさつきからの行動はけしからぬと思う。事務局もいかぬ。もし委員長に話があれば、筆談でしなさい。人が重要なことを聞いているときに、そばでがやがややつて、まつたく嚴粛を欠いておる。もつと聞くところはどんどん聞けばよろしい。これほど大事な証人はない。これほど真相を言つてくれるりつぱな証人はない。
  806. 小玉治行

    ○小玉委員 今あなたは、死亡者はことごとく風呂場にぶち込んで解剖すると申されましたね。それから墓場に持つて行くというのですが、どういう必要があつて解剖したんでしよう。
  807. 加藤幸治郎

    加藤証人 それはわかりません。当初の間で、あとはそういうことはなくなつたようです。行つてから半年ぐらいの寒い間は、死んだ者は大部分解剖しました。それはどういうわけかわかりませんが、ソ連の方で何か必要があつたのでしよう。
  808. 吉武恵市

    吉武委員 ごく簡單に一言だけお聞きしたいのですが、在ソ四年間の教育が共産教育であつたということは、われわれの想像いたした通りでありまして、証人からの証言ではつきりしましたが、その際に、帰つた日本共産党に全員入党するようにという話は受けませんでしたか。
  809. 加藤幸治郎

    加藤証人 受けました。これも重要な問題です。とにかくあれほど一生懸命勉強さしておるわけですからね。勉強しているならば、効果がなければならない。効果は何で現われるかと申しますと、結局はりつぱな民主主義者というよりも、共産主義者になつ日本へ帰つて、全部入党して日本人民政府をつくるということが目的でなければいけないわけです。ですからわれわれが教育を受ける、あるいは帰還の際においても、全員入党ということは、耳が痛くなるほど聞かされた。カラカンリからナオトカに来るところの二十日間の列車の中においても、全員入党の論議をされている。お前は入るか入らぬかという問題です。入らなければあぶないですから、大体において入るという約束をするわけです。それから日本新聞にはこういうことが載つておりました。これは去年の夏ごろ、元気のよい、おどつたり歌つたりする人たちが帰つて来たでしよう。あの人たちが帰つたころ、入党したのもたくさんあつた。何十名々々々といつて共産党に八〇%は入党したという記事を見たことがあります。これは新聞でもじやんじやんアジりますし、そうしたグループでも盛んにアジるわけです。特にナオトカに来るまでの間に私も勧誘されました。これは二千何百名もおります。これはカラカンダだけではありません。全部集まる。各グループごとに集まる、あるいは県ごとに集まる。そうするとまず全員入党の問題が論議されます。私の聞かれたときにも、やはり一刻も早く帰りたい。しかし女房に相談しないとぐあいが惡い。生死をともにする女房が、あなたも入りなさいといつたら入ります。ということにならないとうまく行かない。そう言うと、きつねにつままれたような顏をして行つてしまつた。ほかの人間は大体約束しておりましたが、全部入つたかどうか。大体これは汽車の中でも、あるいはあらゆる面において強要して行きます。もつとも目的はそこにあるわけですから……
  810. 田渕光一

    ○田渕委員 第一次欧州大戰のときに、ニコライ皇常が虐殺され、レーニンが血の粛清をやつた。あなた方が入ソされてまず反軍闘争で将校をつるし上げて、結局加藤さんのお話では激烈な闘争があつた。こういうよう次意味から、あなたはお知りでないでしようけれども、あなた方が帰還前に、野坂批判というものを野坂君はやられた。それは結局平和な議会闘争ではだめなのだということを批判されておるのが問題になつておるのです。それであなた方のいう完全な民主主義というのは、完全な共産主義とわれわれは解釈しますが、完全な民主主義という名に隠れて、合法的な議会を通じ、あるいは委員会を通ずるような革命でなく、都合によれば破壞工作に持つて行かなければならぬというような、えらい暗示があるような、えらい暗示があるようなことはなかつたのですか。
  811. 加藤幸治郎

    加藤証人 それはあります。野坂批判の問題は、われわれがカラカンダを出発したのは昨年の十二月二十九日で子が、そのころからぼつぼつ入つて来ております。しかしそれがどういう誤謬を犯したのか、どういう批判をされたのかという問題は、カラカンダでは初めわれわれはわからなかつた。それが列車の中でだんだんわかつて来、ナオトカに着いてようやくわかつた。それは野坂さんの言う合法運動によるところの日本共産党の行き方が、人民大衆にかわいがられて、三十数名の代議士を獲得したかどうかはしりませんが、とにかくそう言われております。それでそういうような意味で、今度野坂批判というものが非常に嚴正な意味で峻烈に批判された。やはり日本であろうと、どこであろうと、革命というものはやはり武力的でなければいかぬ、暴力革命でなければいかぬ。ほんとうにブルジョアというものはたたきつけることはできないのだというあくまでも確固たる理論です。そういうようなことをやつている。ナオトカでは猛烈な気合がかかつた。それで野坂はばかだというわけだ。ああいうことをやつて若い者をたぶらかしておる。やはりわれわれのように断固としてやれというような猛烈な気合いがかかつた。それからもう一つあります。ナオトカべ来るまでの間に何列車かしりませんが、列車の中でこういう討論があつたのです。これも列車番号も忘れましたし、これははつきりすると興味ある問題だと思つたのですが、あつたということだけ記憶していただけばいいのです。ある列車が何十輛もつながつている場合に、アクチーヴがこういう討論をいたしたわけです。日本が戰争の渦中に投じた場合、中立を放棄してどうしても武器をとらなければならないようになつた場合、たとえば日本がファアショ的になつて、アメリカのために肉彈になれ、あるいはそうでなくてもうまいしるを吸おうとして立ち上つて満州でも返してもらおうと、うまいしるでも吸わされてまた武器をとつた場合に、お前たちはどうするかという問題を出した。これはあなた方でも非常にむずかしい問題だろうと思いますが、こういう問題を出した。そうすると、平和擁護運動というものをソ連で盛んにやつております。猛烈な平和擁護で、国際スターリン賞というものを制定しています。これはスターリンの誕生日を記念して、世界のどこの人でも、団体であつても、個人であつても、世界の平和に最も貢献したものに対しては国際スターリン賞を贈つて二十何億ルーブルもやつて、平和擁護運動というものを展開しました。そういうようなわけで、しかもわれわれは絶対に日本は戰争に巻き込まれちやいかぬ、戰争の惨害というものはどんなものか知つておるか、しかもこの六十万の捕虜抑留者がお前たちみずからがこれを味わつて来たじやないかもだれがかつてにひつぱつて、だれが奬励させたか、その結果お前たちが現実に苦しんで来ているじやないか。これは要するに戰争のお陰だというような行き方をしているわけです。ですからそういうふうに教え込まれているから、断じてわれわれはソビエトに対してほこをとらぬ、アメリカの肉彈にはならぬ。お前はどうか、私もそうだ。わしは逃げる、わしは隠れる、私は捕虜になりたくないと言う。そうするとそのリーダーは答えが違う。武器をとれ、但しその武器はソ連邦に向けるのではなしに、向ける相手がある。内乱へである。要するにこれもマルクス主義の革命の定義ですな。そういうふうに教えるわけです。だからそういうことを考えてみたときに、若い者は必ず——若い者でなくつたつて、進歩的な人は必ず野坂批判の誤謬を犯した欠陷というものは、なるほどそれじやいかぬのだ。やはり教えられた通りの理論で進まなければ革命は成就しないと思つているでしよう。
  812. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それ以外に、革命の理論は先ほどから教育されたと言われたが、実際にこうして革命を行うという教育はなかつたか。
  813. 加藤幸治郎

    加藤証人 どうして革命を起すかということは、ソビエト共産党史にも事こまかく書いてあります。もう一つ忘れましたが、二千何ページの百科全集よりもまだ大きい本がある。それにはレーニン主義の理論というのがあります。日本にも入つているでじよう。それは革命の戰術と戰略というものの字引になつております。そういうものが貢献するわけです。
  814. 田渕光一

    ○田渕委員 そこでもう一つ伺いたいのでありますが、先般のある証人がこう言つております。もし日本に帰つて革命をやつたならば、まず警察にスパイを入れて警察から内乱を起させる。通信を破壊するんだ、電源地を破壞するのだというような教えを受けて来たということを言つております。あなた方がいるうちにそういう話も出たことがございますか。
  815. 加藤幸治郎

    加藤証人 私はそういう話を聞いたことはございませんが、少くとも右翼であろうと左翼であろうと、革命をなし遂げる場合において、しかもそれが国民の意思を最も端的に、最も短い時間に、最も有効にやるためにはそのくらいなことをやらなければできません。これは愚問ですよ。(笑声)
  816. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなたは今年の二月九日に舞鶴に着かれたのですか。
  817. 加藤幸治郎

    加藤証人 そうです。
  818. 梨木作次郎

    ○梨木委員 野坂批判を聞いたのは十二月の幾日ですか。
  819. 加藤幸治郎

    加藤証人 二十九日ごろですね。私らがカラカンダを出発した日です。そのころじやなかつたと思うのです。そのころからそういううわさがあつたのです。
  820. 梨木作次郎

    ○梨木委員 どういううわさですか。
  821. 加藤幸治郎

    加藤証人 野坂批判です。
  822. 梨木作次郎

    ○梨木委員 野坂批判のうわさというのはどんな内容のうわさですか。
  823. 加藤幸治郎

    加藤証人 それがさつきも言つたようにあまりはつきりしない。とにかく野坂さんの誤謬を非常に峻烈に批判をされているといううわさがあつたが、そのときははつきりわからなかつた
  824. 梨木作次郎

    ○梨木委員 どこからされている……
  825. 加藤幸治郎

    加藤証人 收容所の中でです。そういうのは非常に早く知れるのです。
  826. 梨木作次郎

    ○梨木委員 私の聞くことだけに答えてもらえばいい。收容所の中で野坂さんが峻烈に批判されているといううわさがあつた、その峻烈に批判されているというのは、だれから批判されているといううわさを聞いたのですか。
  827. 加藤幸治郎

    加藤証人 そのときにはわからぬです。
  828. 梨木作次郎

    ○梨木委員 ではどういうふうに批判されているのですか。
  829. 加藤幸治郎

    加藤証人 だから今言つたのと同じなのです。野坂さんの誤謬が……
  830. 梨木作次郎

    ○梨木委員 だからどういうところが……
  831. 加藤幸治郎

    加藤証人 それがわからないのです。十二月二十九日ごろはわからないのです。ただそのころからそうしたようなうわさがあつた、そうして汽車に乗つて来る間に漸次全貌がわかつて来て、ナホトカに着いてようやくそれがわかつたと私は説明した。
  832. 梨木作次郎

    ○梨木委員 ナホトカに着かれたのはいつですか。
  833. 加藤幸治郎

    加藤証人 カラカンダを出たのは十二月の二十九日で、二十日目にナホトカに着き、二月六日までそこにおりました。
  834. 梨木作次郎

    ○梨木委員 ナホトカに着きましてその内容がわかつたのですか。
  835. 加藤幸治郎

    加藤証人 そうです。
  836. 梨木作次郎

    ○梨木委員 どこからどういうふうに批判されたと聞きましたか。
  837. 加藤幸治郎

    加藤証人 何といいますか、コミンフォルムとか何とかいうのがありますね。要するに私もああいう言葉はよくわからないが、それに批判されたということが伝えられたわけです。
  838. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その批判の内容はどういうぐあいのものですか。
  839. 加藤幸治郎

    加藤証人 野坂さんの主義としては、日本共産党は人民大衆に愛されておつたという話たつたから、野坂さんの合法主義に基くところの革命は可能であるという説だつたのではないのですか。私はよく知らないが、そこがコミンフォルムかどこかの批判によつて、それは間違つている、根本的に間違つているという誤謬を峻烈に批判をされた。しかも野坂さんはそれを肯定したというように聞きました。
  840. 梨木作次郎

    ○梨木委員 肯定したというのは、いつごろそういう話が出ましたか。
  841. 加藤幸治郎

    加藤証人 ナホトカにおつたころに……。そのように記憶しております。それはあまりはつきりしませんよ。あるいはその後にわれわれが舞鶴に来てから、今度読売か何かの記事があつて、あれにこまかくはつきり載つておりました。そういうことも記憶に入つておるかもしれませんが、大体そのころです。
  842. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなたはこの委員会に呼ばれる前に、考査委員会の事務当局が何か話をあなたにいたしましたか。
  843. 加藤幸治郎

    加藤証人 全然ありません。
  844. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうすると、あなたは自分で買つて出て来られたわけですか。自分証言したいということをみずから買つて出て、自分を呼んでもらいたいというような申出をされたのですか。
  845. 加藤幸治郎

    加藤証人 とんでもない、違います。
  846. 梨木作次郎

    ○梨木委員 事務当局に委員長から聞いてほしいのですが、この証人はどういう関係で呼んだのですが。
  847. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはあとにしましよう。証人に質問してください。
  848. 加藤幸治郎

    加藤証人 電報が来たのは十一日の九時過ぎです。だから私は、全然何も連絡はありませんし、何人からも慫慂されません。こういう会合に出て、皆さんからぎよろぎようにらまれ言うほど私は心臓が強くない。何も好んで来たわけではない。但し自分の信念を問われた限りにおいては述べることに躊躇いたしません。
  849. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなたは日の丸梯団に入つておりましたね。
  850. 加藤幸治郎

    加藤証人 その通りです。
  851. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなたが日の丸梯団に入つたのはいつですか。
  852. 加藤幸治郎

    加藤証人 それはナホトカから船に乘つて、三海里まではロシアの領海内ですから、あぶなくてものが言えない。だから三海里を出てからです。これは何人の慫慂もありません。期せずして三百八十名が翕然と集まつた
  853. 梨木作次郎

    ○梨木委員 わかりました。
  854. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 よろしいですか、それでは済みました。御苦労さまでした。  それでは本日はこれにて散会いたします。     午後六時四十八分散会