○一木
証人 事実です。これについて一応それの経過を申し述べたいと思います。たしか船が来たのは六日の午後であ
つたと思いますけれども、その出航の一晩前に、久保田善藏氏と若干口論をしております。というのは、宿舎内において久保田善藏氏が中隊長に推されたわけです。久保田善藏氏はカラガンダ中隊の邦人中隊
——一般捕虜、軍人捕虜、
戰犯に類する捕虜を全部区別されておりました。その邦人捕虜中隊の中隊長に推されております。中隊長に推されたときの彼氏の言が非常にあいまい模糊だ
つた。たとえば、今度われわれは帰
つたならば、
ほんとうに
日本の民主化のために闘わなけんばならない。言うだけじやだめだ。やらなければだめだというような漠然とした投げ與え方をしてお
つたようです。これに対して
自分が、もう少し闘争目標とか、あるいはそういう中隊長の就任の辞ははつきりみんなにわかるように言
つたらどうかと言いましたところが、俄然久保田氏を取省く一派がこつちに食
つてかか
つて来たわけです。という
意味は、あなたは軍人捕虜であ
つて、何つつがなく五箇年間服務しておる。ところが私
たちは囚人ラーゲルに似たところに
生活して来ておるので、民主
主義というものを理解じかねる。そこで相当の口論にな
つて、そのあげく、
あとからあいさつをするという捨ぜりふを残して行きました。その晩約二時間後、九時ごろと記憶しておりますが、久保田善藏氏が一人で
自分の寝所にや
つて参りました。
自分の寝所は久保田氏の隣であ
つたと思いますが、来るなり、
自分は一木という名前をアングレンで聞いてお
つた。
自分はタシケソトの十一分目において
民主運動をや
つて来、またわれわれの囚人ラーゲルの中で民主的に闘
つて来た。おれは民主
委員長までや
つて来た男だ。きようの君の発言は水準の低い大衆に対しては非常に悪い影響を及ぼす。私は少くともこの人
たちがソ同盟に対して反感を持たないような線まで
考えておる。このようなことを久保田氏は言いました。それは大いにけつこうである。さらに久保田氏は、私は帰
つてからもやくざ的なものであるけれども、やくざにも二通りある。ある
意味において正しいやくざとして活躍したいということを私の前でとうとうと述べております。二月六日乗船すると、ただちに吉田政令を渡されましたが、しかしだれしも船が出る以上は、五年間の
ロシヤの地に対して何らかの感情を抱くものと
自分は見ております。その間に彼らはどういうことをしたか知りませんが、私
たちが船に乗
つて、宿舎の割当を事務長に今村梯団長がと
つてお
つたわけです。そうしたところが御承知のように高砂丸というのは、船は大きいけれども、百名とまとま
つた一個中隊は乗せられない船なんです。みんなばらばらです。いろいろ調査の必要もあるから、なるべく二分団にわけて乗せろと事務長に二時間にわた
つて部屋の割当をや
つておりました。部屋の割当が早く終
つてくれればいいがということを思
つておりましたが、もう三マイルも出ないうちに部屋の割当が終
つた。部屋の割当が終ると同時に、久保田氏が来ていわく。入
つて来るとともに、おいとんでもないところをおれ
たちにくれたとどな
つて来た。どういうわけか。部屋が便所が遠くて、おまけに疊が敷いてない。これは交換してくれ。そういうことは船長に
言つてくれと言いまして、す
つたもんだして、結局邦人中隊の百六十七名と交換するということを、中隊の同志に諮
つて交代したわけです。そうしたら、その晩に刊
ちようど十時ごろだと思
つています。臼井という復員官が来て、梯団長及び副梯団長その他一名来てくれ、用件はどういう
意味だと言いましたところが、用件は久保田さんが何か話があるそうです。内容がよくわからないからもう少しはつきり
言つてくれと言
つたら、久保田さんが、あなた
たちの梯団と一緒に行
つて、行動したくないというようなことを
言つておりました。そして復員官としても一緒に立会
つてもらいたいと言うので、たしか一等船室へ、こちらから五名行きました。
自分と今村梯団長ともう一人は藤本という人だと思います。それから
向うから三名、久保田氏に、もう一名は記憶しておりませんが顔の四角ながんじようそうな男でした。これと五名、そのほかに復員官が五、六名。そうしてその部屋で、結局久保田氏いわく、私
たちはあなた
たちと行動をともにできない、それはどういうわけかと言うと、思想上の違いがあるために、このまま行くならばあなた
たちと血の雨をふらすことになる、こういうことを言
つた。血の雨をふらすことになると言うほどあなた
たちの思想はあぶないものか。これを全然別個にわけるということはいまだ。そういうことを聞いたためしがない。これに対して復員官はいわく、船長に話をしてもこれはわけようと思えばわけられる、なぜならば、吉田政令に基き、安穏な航海をしなければならぬために、どうしても不稔だというならば、この船の中でこつの梯団にわけるということを復員官の方から言
つたわけです。こちらの方としては、全然そのような危害を加えるというふうなことは
言つてないのにかかわらず、久保田氏の方から危害を加えるようになるとか、おれの下の子分
たちがあばれ出すかもしれない、そういうようなことにな
つては困るからとい
つたような事件を持出すことにな
つたために、もしたそういう危険人物がいるなら、危険人物を監視してもらいたいということを言いましたところが、復員官は依然として聞きません。そうしてここに日の丸梯団という名前ではありませんけれども、久保田梯団と今村梯団というようにわけたわけです。このときの條件は両者とも現在人員に
従つて、全然加えもしないし抜きもしない。いわば左翼と右翼ですね。抜きもしないという約束のもとに、ここで調停を終
つたわけです。そうしてそのあくる日の朝にな
つたら、俄然その久保田氏の梯団の者は胸に白いカーゼの上にこ
ちよんと赤いしるしをつけた。これははなはだ日の丸と見るにはあまりにおそまつな品物でした。これを胸につけております。そして呼称も日の丸梯団という名前を使
つている。こういうことに対しては全然われわれは耳新らしいことであ
つたわけです。
さらにこの問題に関して、船内においても復員官はさらに要請している通りに、集会及びいろいろな集団的行動というものをと
つてはいけないということを再三
言つております。こちらはそれに対して数回となく協議を徹底せしめ、このようなことがないように諮
つております。この点については久保田氏の方で
一つの集会なるものを持
つて、感想、すなわち
ソビエトの真実とはかくいうものであるというふうな、いわく一口に
言つて反ソ的なもの、そのような演説を盛んにや
つて、か
つての
ファシズム的な気焔をあげております。これに対して若干の中隊が故障を申し入れろというような動静に出ておりますけれども、これはとどめておりました。そのようなかげんで、ここに日の丸梯団というのができた。
それから別に入
つた資料では、当時船内に配給されてお
つた若草もちとか称するボンタンあめ式のもちを包んだきれの薄板にこういうことが書いてあります。それはある人が廊下で船員からもら
つたと称するもので、それには一月の二十三日
——大体二十三日ごろだと記憶しますが、一月二十三日一千二百の同志は胸に日の丸のバッジをはめ一日の丸の旗高く掲げて舞鶴に入港りた、いざ同志よ、続け、こういう内容のものです。そうしてこの久保田氏
たちが全然日の丸梯団というようなことを意識しておらずに、あるいは意識して行
つたかどうかそれは知りませんが、忽然として船の中ででき
上つたということに関して、私
たちは唖然とした目を向けざるを得なか
つたのであります。それからその後、船が舞鶴に着くと同時に、私
たちは大体どういうかうを
日本がかわ
つているかという好奇心で一ぱいでありました。ところが船が着くなり、船のまわりを
新聞社のランチと称するものがぐるぐるまわ
つたわけです。そうしてあの写真機でパツパツとと
つて行きました。そのときに、日の丸梯団は何名だ、日の丸梯団は今度は多いか、あるいははなはだしいのになれば猪狩大尉は帰
つて来たか、だれだれ中尉はおらぬかというような非常に積極的な叫び声、これが聞えたつわれわれも唖然とならざるを得なか
つた。ところが、そのときには今村梯団は梯団の人員も多いし、また夜間でもあ
つたために、日の丸梯団は日の丸をあげることができなか
つた模様だと
考えます。それからそのあくる日、九日の朝もランチが来て、そうして久保田氏は卒先してランチと話をしておりました。ナホトカに何名残
つたとか、カラカンタにいるとかいないとか、あるいは日の丸梯団は何百何名だとか、そのうちに何直向名獲得するとか、このようなことを
言つております。そうしてその騒動のまま、九日の午前中に日の丸梯団は、三百何名上陸し、その後相次いで今村梯団が入
つております。大体船中における日の丸梯団と称するのはそのようなことで、憶測で申し上げるならば、私は前の船に日の丸梯団と称するものがすでにあ
つた、そのことを船の中でだれかがどういう径路かによ
つて久保田氏らに伝えた、このように
考えております。