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1950-04-12 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第24号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十五年四月十二日(水曜日)     午前十一時三十一分開議  出席委員    委員長 鍛冶 良作君    理事 安部 俊吾君 理事 菅家 喜六君    理事 小玉 治行君 理事 内藤  隆君    理事 吉武 惠市君 理事 猪俣 浩三君    理事 梨木作次郎君 理事 石田 一松君       小川 平二君    尾関 義一君       大橋 武夫君    岡延右エ門君       佐々木秀世君    田渕 光一君       塚原 俊郎君    西村 直己君       坂本 泰良君    横田甚太郎君  委員外出席者         証     人         (ハバロフスク         地区引揚者)  坂垣  正君         証     人         (ホルモリー地         区引揚者)   小澤常次郎君         証     人         (カラカンダ地         区引揚者)   相原 和光君         証     人         (アングレン地         区引揚者)   一木 春夫君 四月十一日  委員黒澤富次郎君辞任につき、その補欠として  小川平二君が議長の指名で委員に選任された。     ————————————— 本日の会議に付した事件  日本共産党在外胞引揚妨害問題  証人出頭要求に関する件     —————————————
  2. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これより会議を開きます。  日本共産党在外胞引揚妨害問題につき一調査を進めることにいたします。  この際お諮りいたします。本件につきましては理事諸君と協議の結果、十三日に津村謙二君、小泉敏次君、加藤幸治郎君、以上五名の諸君証人として本委員会出頭を求めたいと思いますが、御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  3. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 御異議なきものと認めます。それでは証人として本委員会出頭を求めることに決します。     —————————————
  4. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 横田甚太郎君より議事進行について発言を求められておりますから、この際これを許します。横田甚太郎君。
  5. 横田甚太郎

    横田委員 ナイチンゲールの寝言のようなことをお尋ねするのですが、証人に対しましては、いろいろと法律によつて呼び出されて、規則によつて扱われておる。これについてはいろいろの議論もありましようが、私が今委員長にお尋ねをし、また考慮を願いたいというのは、証人は呼び出されましても、その日に取調べが終らずに、往々にして帰る場合が多い。そしてその場合待つておる時間が多いが、その間は控室に入つてどうしておるか、それを聞きたい。それに対して今後考慮してもらつて——なるほど証人控室ぶた箱ではない。きれいな室なんですけれども、取調べを前にして待たされるところのいらいらした気持は格別だと思うのです。だからそういうような点に対しまして、今後委員長の方において考慮してもらつて、待つ時間を少くしてもらうか、それでなかつたならば何とか別の形において、根本的に証人に対してはそういういらいらした時間を少くするという意味合いにおいて、何か方法があるかどうか。ちよつとお伺いしたいのです。
  6. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これは前からたびたび話がありますので、でき得る限りやつておりますが、ただあすこで読物でも與えて……。(「趣旨には賛成だ。理事会でやろう」と呼ぶ者あり)前からよく言われておることなんで、十分考えておきます。  ではさつそく証人より証言を求めることといたします。ただいまお見えの証人板垣正さんです。出頭要求の書類にも記載しておきましたことで、これより日本共産党在外胞引揚妨害問題について、証言を求めることとなります。  証言を求める前に、各証人に一言申し上げますが、昭和二十二年法律第二百二十五号議院における証人宣誓及び証言等に関する法律によりまして、証人証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならぬことと相なつております。  宣誓または証言を拒むことのできるのは、証言証人または証人配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係のあつた者及び証人の後見人または証人の後見を受ける者の刑事上の訴追声たは処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するとき、及び医師歯科医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁理士弁護人公証人、宗教または祷祀の職にある者、またはこれらの職にあつた者がその職務上知つた事実であつて黙秘すべきものについて尋問を受けたときに限られておりまして、それ以外には証言を拒むことはできないことになつております。しかして、証人が正当の理由がなくて宣誓または証言を拒んだときは、一年以下の禁錮または一万円以下の罰金に処せられ、かつ宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処せられることとなつておるのであります心一応このことを御承知になつておいていただきたいと思います。  では法律の定めるところによりまして証人宣誓を求めます。御起立を願います。     〔証人板垣正君朗読〕    宣誓書   良心に従つて、真実を述べ、何事  もかくさず、又何事もつけ加えない  ことを誓います。
  7. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは署名捺印を願います。     〔証人宣誓書署名捺印
  8. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 こちらから聞くときはかけておられてよろしいですが、答弁せられるときは委員長の許可を得て、立つてつてください。それから答弁は質問されだことに関することのみにとどめて、簡潔に、あまり議論にわたつたり多岐にわたらぬようにお願いいたします。——板垣正さんですね。
  9. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  10. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 職業、年齢は。
  11. 板垣正

    板垣証人 職業無職、二十五歳。
  12. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの経歴、それから入ソ以来の径路、これをほんの大筋だけでよろしいから……。
  13. 板垣正

    板垣証人 昭和二十年三月に士官学校を卒業、北鮮の第十一教育飛行隊付、八月に停職一十一月に入ソ、ヨーロッパのタタール第九十七收容所エラブカ、そこに四八年の七月。ハバロフスク收容所、今年の一月帰国。
  14. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたは在ソ中天皇制護持論者先頭に立つておいでだということですが、そういうことはありましたか。
  15. 板垣正

    板垣証人 先頭に立つてつたということはどういうのですか——私の気持としてもちろん天皇制護持論者として……。そういう気持でおりました。
  16. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ところがそのために民主グループから、俗に言うつるし上げか何かにあわれたということを聞くのですが、そういう事実はありましたか。
  17. 板垣正

    板垣証人 ハバロフスク收容所において、いわゆるそういう経過はありました。
  18. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ハバロフスクへ来てからですね。
  19. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  20. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 この民主グループでそういう批判をやつておるところから見ますと、民主グループでは天皇制を護持するか、またはこれを支持せないか、いわゆる白であるか黒であるかという、二者一をいれない傾向のものであつたのですか。要するにあなたにそういう批判をしたわけですね。そうすると天皇制を護持するのか護持せないのか、どつちだ、こういう議論で問い詰めて来るものではないのですか。
  21. 板垣正

    板垣証人 それは護持するかしないかという問題よりも、過去の自分立場というものに対する反省、こういうものがもつと大きなものとして含まれております。單に民主グループだけの運動ではなくして、これがシベリア全土における、いわゆる目ざめた旧兵士の広汎な運動として行われたものであります。
  22. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうすると、天皇制を護持しておるということは、いまだ目ざめぬという証拠だ、こういうことで批判されたわけですね。
  23. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  24. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 わかりました。そうするとあなたは、それまではやつぱり日本人として天皇制護持でなければならぬと思つておいでになつたわけですか。
  25. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  26. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこで、その批判によつてあなたの考えがかわつて参りましたか。
  27. 板垣正

    板垣証人 そうです。それは單なる批判だけではありません。その批判も一部に加わります。曲
  28. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 いつごろかわつたわけですか。
  29. 板垣正

    板垣証人 四八年の暮れから、次の年にかけてです。
  30. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたは相当おそくまでおつたわけですが、そう帰還が遅れておつたのには、何か理由がございますか。
  31. 板垣正

    板垣証人 自分ではわかりません。
  32. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何か、こういうことだからほかの者より遅れたのだという考えがありませんですか。
  33. 板垣正

    板垣証人 想像はいろいろできますけれども、ほんとうのことはわかりません。
  34. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どう思つておりますか、想像でも……。
  35. 板垣正

    板垣証人 たとえばエラブカにおいて、いわゆる五十八期というものが、これは向うの誤解によるものでありますけれども、いわゆる団体をつくつていた心そういうようなところから、あるいは注目されたということも考えられます。
  36. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういう団体です。
  37. 板垣正

    板垣証人 それはいわゆる同期生会です。
  38. 鍛冶良作

  39. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  40. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの御親父は、元の大将板垣征四郎さんであつたのですね。
  41. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  42. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 御親父戰犯として処刑されたことをお聞きになつて、これによつて相当何か心境変化を来したような事実はございましたか。
  43. 板垣正

    板垣証人 それも一つの刺激となりました。
  44. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どうお思いでした。
  45. 板垣正

    板垣証人 時代かわりということです。
  46. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこで青年行動隊員になられたそうですが、それはいつごろからですか。
  47. 板垣正

    板垣証人 四九年の八月。
  48. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこで前の年まで、天皇制護持といえば、天皇中心とする政治にたよつておられた、こうわれわれは解釈するのですが、かわつてからはあなたのたよりどころはどこになりましたか。
  49. 板垣正

    板垣証人 今までの考えでは、天皇中心にするという考えよりは、従来の歴史的な意味から言つても、天皇というものはあくまで非常に尊嚴なものである。こういう立場から行つたのであつて政治の制度、そういうものについて考えたことはありません。それでその後の心境変化というのは、結局天皇制というものが今まで置かれて来たところの立場、これは現在の大きな世界の流れからして否定されなければならない、そういう心境になりました。
  50. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういう政治——これは言えなければ言わぬでもいいですが、どういう政治にたよる方がいいと思つておいでになりましたか、その後は……。
  51. 板垣正

  52. 鍛冶良作

  53. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  54. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなた方は在ソ中に、スターリンへの感謝決議というものをして、誓い女をお選りになつたということですが、そういう事実はありますか。
  55. 板垣正

    板垣証人 感謝文を送つたことがあります。
  56. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これはどういう意味でなされたものです。
  57. 板垣正

    板垣証人 かつて天皇制のフアシスト、兵隊、将校、そういうものがほんとう民主主義者として目ざめた。それはあくまでソビエトにおける指導というものが大きぐあずかつて力つた。そういう意味において、スターリンに対する感謝文というものが送られたわけです。
  58. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ソ連における民主運動の結果、目ざめさせてもらつたことに感謝する、こういうことですね。
  59. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  60. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これは何かそういう誓いをするということを、決議によつてつたんだそうですね。
  61. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  62. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ところがそれに対して日本新聞では、これは聖なる誓いである、また生命をかけてこれを守らなければならぬ、こういう意味のことを書いてありましたが、これをあなた方はどう解釈しておいでになりますか。
  63. 板垣正

    板垣証人 当時の要するに民主運動というものは、これは一貫して反ファシズム、これに対しての運動であります。自分自身がかつて日本帝国主義のファシストの将兵として、戰争に狩り出されて来た、そういう立場を大きく反省をして、そこからあくまで現在の全世界人民勢力日本勤労大衆、この基盤において、あくまでこの生活を通じて自覚した、そのことを守つて行く、そういう意味において、日本新聞ではこれが聖なる誓いと言われたと思うのです。
  64. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 聖というと、もう普通の事実を超越した特殊の心理状態を言うもののように思うのですが、やつぱりそういう意味でしよう。絶対に心服するというようなことでなければならぬと思うが……。
  65. 板垣正

    板垣証人 心服するというより、は自分自身気持といるものをあくまで守つて行く、そういうものであつて、これはだれか相手に心服するとか何とかいうものではありません。
  66. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 自分自身でそうだとするなら、それを生命をかけて守らなければならぬということとちよつと合わぬように思いますが、それはどうですか、あとの方はどういう意味です。
  67. 板垣正

    板垣証人 あのころのシベリア民主運動、そうして大きな高揚、ああいう雰囲気というものをここから想像しても、もちろんこれは想像できないし、それを考えてここで云々しても、それがわからないと思うのです。
  68. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 今言うてもわからぬというのですか。
  69. 板垣正

    板垣証人 いやそのときの気持ですね。それをここで想像されてもおそらくそれが……。
  70. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それじやこう聞きましよう。自分自身かわりのないように、命にかけて守ろうというのですか。お互いみんながこの気持をかえないように、命をかけて行こうというのですか、それはどつちですか。ただこれをどう考えておられましたというだけなんですよ。
  71. 板垣正

    板垣証人 結局感謝文というのは、これは当時のほんとう感謝をする、そういう気持を表わしたものなんで、これはそういうどつちに対して命をかけるとか、そういうつき詰めたことを言われても……。
  72. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 思い当ることはありませんか。
  73. 板垣正

    板垣証人 まあ説明のしようがありません。
  74. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうですが。それでは現在の日本共産党というものが民族独立のために最も勇敢に闘つている、そういう意味において、これは正しいから私は入つたのであつて、何も向う全員入党という言葉があつたから入つた、希望した、そういうものではありません。
  75. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 日本新聞その他等で、日本共産党政治部員いろいろ説を載せたり、指導的のことを述べたのが載つてつたりしたそうですね。
  76. 板垣正

    板垣証人 はい。
  77. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それらの点から見て、シベリアにおける民主運動は、日本共産党と非常に関係の深いものだとお認めになりましたか。
  78. 板垣正

    板垣証人 アカハタ記事、そういうものが日本新聞に転載されておりましたが、しかしそれが日本共産党と直接の関係があつたということはないと思います。
  79. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 しかし共産党首脳部ば、日本新聞というものは在ソ捕虜のまず唯一の指導機関であつたという人がおるが、これをお認めですか。
  80. 板垣正

    板垣証人 日本新聞は、ソビエト側日本軍人捕虜のために発行しておつた新聞です。
  81. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 第一の指導機関でありた、こうみな言つておるのですが、その点はいかがですか。ほかに大衆的な読みものは何もなかつたのでしよう。
  82. 板垣正

    板垣証人 新聞としてはそうであります。
  83. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それにアカハタ記事及び日本共産党首脳部の論説が載つてつたとすれば、その日本共産党首脳部がその指導の任に当つてつた——任に当るというか、それによつて指導されておつたと見ていいと思いますが、それはどうですか。
  84. 板垣正

    板垣証人 そういうことは言えないと思います。
  85. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ただ單にそういう記事として載つただけですか。
  86. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  87. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 まあそれ以上お尋ねしません。それではほかに何か……。
  88. 内藤隆

    内藤(隆)委員 板垣証人にまずお伺いしますが、あなたはただいま委員長尋問に答えて、職業はと聞きましたところが、無職とおつしやいましたね。間違いありませんか。
  89. 板垣正

    板垣証人 は、い。
  90. 内藤隆

    内藤(隆)委員 このはげしい生活難就職難時代に、無職でどうしてご飯を食べておりますか。
  91. 板垣正

    板垣証人 自由労働者として……。
  92. 内藤隆

    内藤(隆)委員 どんな自由労働者ですか。
  93. 板垣正

    板垣証人 日雇いです。
  94. 内藤隆

    内藤(隆)委員 あなたの御親父は有名な板垣征四郎大将でありますが、戰犯として絞首台の露と消えられました。その大将の遺産でもありませんか。
  95. 板垣正

    板垣証人 ありません。
  96. 内藤隆

    内藤(隆)委員 何にもない……。
  97. 板垣正

    板垣証人 ありません。
  98. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そこでやむを得ず日雇い労働者として食つている、その意味無職というのですね。
  99. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  100. 内藤隆

    内藤(隆)委員 それからただいま聞いておりますと、共産党入党手続をしているということですね。
  101. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  102. 内藤隆

    内藤(隆)委員 父征四郎大将軍国主義者として、その元兇とまで言われて、われわれ日本を今日のこの亡国の悲境に陥れた、あなたはさらにその子として共産党に入られて、私たち保守陣営というと語弊がありますが、天皇制を護持して行こうという建前から見ると、父子二代にわたつてわれわれ民族に対する何と申しましようか、われわれ民族苦境に落すような感じがしてならないのでありますが、それに対する御心境なり御感想を聞きたいと思います。
  103. 板垣正

    板垣証人 日本共産党ほんとう民族独立のために闘つているのであつて、これに対して、日本民族を再び苦境に陥れる、そういうようなことは実に心外だと思います。
  104. 内藤隆

    内藤(隆)委員 いずれその点はあとでお伺いします。  それからあなたは今征四郎大将の絞首刑を受けられたことを聞いて、心境はどうだと委員長が聞いたときに、時代がかわつたんだと單におつしやつたようですが、その程度であつたのですか。何かそこにあなたは、自分の父が絞首台上つたというときに、そんな簡單なことでは——父子の情愛から見て、またあなたが父に対する尊敬の念から見ても、そういう簡單なものではなかつたと私は思いますが、もう一度その点について明瞭にお述べを願いたい。
  105. 板垣正

    板垣証人 もちろん父が死んだ場合には子として涙も出ました。そして私自身がたれよりも知つているように、父は單なる俗人でなかつたし、ほんとうに家庭というものも捨ててやつていた、そういう意味において——しかしながら現実において日本民族を破滅に陥れ、さらに日本侵略戰争の上から言つても大きな役割を演じた、そういう意味において、私自身としてほんとう民族独立のため、発展のためにどうすればいいか。單に私心がない、誠実である、それだけでは足りない、もつと大きな立場から、世界的な立場からこれを批判して、その中における日本というものの立場、そこから自分の将来も定めて行く、そういうことを感じます。
  106. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ちよつと、御親父の処刑は何年何月ですか。
  107. 板垣正

    板垣証人 四八年の十一月二十三日です。
  108. 内藤隆

    内藤(隆)委員 私たちの知り得る範囲のソビエト組織、あるいは共産党共産主義ロシヤの行き方を見ておりますと、これは独裁専制であるということを私たちははつきりと認識しておりますが、この独裁専制大元帥と言われておるスターリンに、いわゆる感謝の辞をささげ、そこに生命をかけて誓いをするということは、かつて天皇制に対するあなた方の誓い、生命をかけた以上に、私はそこに非常な矛盾を感ぜざるを得ないのです。それに対してあなたの御意見はどうですか。
  109. 板垣正

    板垣証人 ただいまスターリン独裁専制であやと言われましたけれども、これは決してスターリンがかつて独裁専制をやつているのじやない、現実に私たちが見て来たソビエトにおいても、大部分のソビエト人というものは、スターリンに対して非常に信頼を寄せている。なぜならば、ソビエト人民生活そのものが、ソビエトの今までの歴史そのものが、スターリンという偉大な指導によつてソビエト人民の持つておる力というものが遺憾なく発揮された。生活も目に見えてよくなつた。孝の意味において、單なる独裁専制であるということは言えないと思います。
  110. 内藤隆

    内藤(隆)委員 今ここであなたとスターリンのやつておる政治独裁専制かどうかということを議論しましたところでしかたがないが、ともかくも鉄のカーテンの向うに隠れておるスターリン政治は、独裁専制であることは、これは間違いない。あなたがどういうふうな教育をされて来てそういうことを御弁明になるかしらぬが、われわれはかく信じておるのであります。  そこでもう一つお伺いしたいのは、敵前上陸意味があなたの答弁でははなだ不明確であります。しかもなつかしの故国に向つてこれを敵前上陸という感じは、さいぜんのあなたの御証言では私たちどうも理解できない。この意味をもう少し徹底して御説明を願いたい。
  111. 板垣正

    板垣証人 日本民族独立のために、勤労大衆の解放のために、そういうほんとうに大きな希望に燃えてなつかしい日本に帰つて来たのです。その気持において、これに対して敵前上陸、そういう殺伐なる気持ではなくして、ほんとうなつかしい日本、そういう気持、さらにほんとうにこの平和なゆたかな日本を建設する、そういう意味において、現在この日本を牛耳つておるところの権力、こういうものに対して、真に民族独立ということを考えて帰つて来たのであります。
  112. 内藤隆

    内藤(隆)委員 それを敵前上陸というのですか。
  113. 板垣正

    板垣証人 敵前上陸というのは……。
  114. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そうお苦しみになつておられると困るから、この程度でよろしゆうございます。敵前上陸説明はできないのでしよう。それからもうしつお伺いしたいのは、あなたは今、日本共産党入党手続をとつておる、こうおつしやいましたね。そこで私たち考えるには、あなたのような父征四郎大将の血を引いて、しかも青年将校になるまでの間長き軍隊教育を受けた人が、三年か四年のソ連抑留中に学んだそのことによつて、ただちに共産党に共鳴されるということはどうも考えられない。そこで私は思うに、おそらくロシヤのいわゆる独裁専制のこのソビエト組織と、日本軍国主義、あるいはファシズムとが一点相通するものがあるのじやないか、だからあなた方はそこへ入りやすいのじやないかと考えるのですが、この点はどうですか。
  115. 板垣正

    板垣証人 私たちはフアシズムに対しての徹底的な憎しみから、現在のような心境になつたのであります。
  116. 内藤隆

    内藤(隆)委員 どうもそれでは証言になつていないのですが、何かそこに今のロシヤ共産党のやつておるところソビエト組織と、日本のかつて軍国主義ファシズムとが霊犀一点通ずるものがありて、あなたは転向して入つて行つたのじやないかと考えるのですが、その点はどうですか。——答弁がないようでありますから、これは非常にお苦しみになつておると思う。私の考えるところでは、まだまだ板垣正さんは、ほんとう共産党になり切つておらぬ、きのうの高山証人なんかと比べると、まことに私たちは好意を持てるのであります。ほんとうになり切つていないと思うから、共産党もまだまだ入党を許していないのじやないか、かように試験中だと思う。そこで民族独立のために闘つておるとあなたはおつしやるのですが、共産主義者は口を開けば、日本人であつてソ連を祖国と言うような者がおつたり、ソ連独裁専制大元帥スターリンに命をかけて誓う、一体かような共産党がどこに民族独立ほんとうにやるのですか、この点についてあなたの忌憚ない御意見を承りたいと思います。
  117. 板垣正

    板垣証人 日本共産党は創立以来、日本帝国主義戰争、そういうものに反対をして、人民の幸福のために闘つて来ております。その意味において、現在……。
  118. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そう考えて答えることはいらないのだ。今まで知つていること、それから自分の経験したことをすらりと述べればいいので、考えなければならぬようなことは答えないでいいのですよ。
  119. 内藤隆

    内藤(隆)委員 私のあなたに聞かんとすることは、要するにマルクスの共産党宣言を見ましても、世界労働者に団結を求めるような一種の思想があり、そのものが一体民族的な運動をするということに私は非常な矛盾を感ぜざるを得ない。これは議論じやないのです。あなたはここで明瞭な説明——幸いにどうも共産党に対する勉強が、足りないのか、研究が足りないのかしれませんが、私はこれで喜んで私の質問を終ります。
  120. 塚原俊郎

    ○塚原委員証人 に教育のことについてお伺いしたいのですが、証人は幼年学校を出られたそうですね。
  121. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  122. 塚原俊郎

    ○塚原委員 どこの幼年学校ですか。
  123. 板垣正

    板垣証人 仙台です。
  124. 塚原俊郎

    ○塚原委員 先ほどの内藤委員の質問に対して、ファシズムに対する憎しみから今のような心境になつたとおつしやいましたが、もちろんあなたは幼年学校に入られたのは十何歳の若いときですから一そういうものに対する認識は足りなかつたでしようが、当時のあなたが幼年学校並びに十官学校に在学中、ファシズムというものをどういうふうにお考えになつておりましたか。
  125. 板垣正

    板垣証人 そのころはファシズムということを聞いたこともありません。
  126. 塚原俊郎

    ○塚原委員 当時あなたが幼年学校、士官学校に入つたのは、お父さんから、また家族の方から強制されてお入りになつたのですか。それともあなたの御意思に基いてお入りになつたのですか。
  127. 板垣正

    板垣証人 私の意思であります。
  128. 塚原俊郎

    ○塚原委員 そうするとあなたはおそらく軍隊教育の中で、軍人勅諭を中心とし、その他いろいろの教育を受けるときに、天皇制というものは絶対のものであると教え込まれ、たとえば点呼のとき、または精神訓話のとき、その他のときにおいても、天皇という言葉が出れば、直立不動の姿勢をとつてあなた方は教育を受けたと思います。そのときあなたは、あくまでも天皇中心にして戰争を勝ち抜くという気持は絶えず持つておられたのですか。
  129. 板垣正

    板垣証人 持つておりました。
  130. 塚原俊郎

    ○塚原委員 それだけの強い決意と信念を持つてあなたが、将校にまでなられたのか、見習士官にまでなられたのか、それはわかじませんが、そのあなたが、抑留されてから向う教育によつて二、三年の間、先ほどのお話では一九四八年に、天皇制を保持することは間違いであるというふろに自分の心の支柱を持つようになられたというのですが、その間においてあなた方が日本の軍隊において、士官学校、幼年学校において受けた教育というものと、抑留時代ソビエト側から受けた教育というものと、どちらが民主的に行われたか、どちらが強制的に行われたか、その辺のところをお伺いしたいと思います。
  131. 板垣正

    板垣証人 ロシヤにおけるいわゆる政治サークルというものは、決して強制的ではなくして、それに参加するものは参加する、そういう程度であります。
  132. 塚原俊郎

    ○塚原委員 それでは日本軍隊教育は強制的に行われたのですか。
  133. 板垣正

    板垣証人 志願して士官学校に入つて勉強したのです。
  134. 塚原俊郎

    ○塚原委員 その教育の方法はどの程度ですか。
  135. 板垣正

    板垣証人 強制というよりは、自分みずからこれに対して積極的に教育を受けておりました。
  136. 塚原俊郎

    ○塚原委員 私は抑留者になつておりませんからわかりませんが、抑留者というのは馬車馬みたいに、外に全然目を向けさせないで、ソビエト側教育をしたというのは大体常識だと思いますが、あなたはそういう教育すら非常に民主的に、強制力が全然伴わないで行われたということが証言できますか。
  137. 板垣正

    板垣証人 自分が今まで正しいと思つてつていた気持、非常に独善的な八紘一宇というような気持、また自分たち日本民族が偉いのだという気持、それから働く人間に対しての気持、こういうことに非常に誤つたものがあつた。そういうことの反省から、かつて天皇制教育というものが、非常に狭いものであつた、そうして自分自身戰争において死ぬ、そのことだけによつて自分の生きがいを感じておつたという気持から、ほんとうに人間らしい、ゆたかな幸福な生活を求めるために、そういう人間らしい気持になつた。そこに自分みずからが人間性を解放されたというそういう反省並びに自分自身が今まで踏んで来た立場、そういうものの反省から、ほんとうソビエトにおいて勤労者がゆたかな生活をしておるというような点から、そういう政治サークルに対しても積極的に参加するのであります。
  138. 塚原俊郎

    ○塚原委員 あなたのお答を聞いていますと、今抑留者でありながら、ソビエトの大衆人民が非常にゆたかな生活をしている、そういう見聞を非常に広めて来たように聞きとれるのですが、先ほどあなたが奴隷兵士ということをおつしやいましたけれども、あなたは幼年学校、士官学校を出て、奴隷兵士の気持がどの程度にわかつているのか、非常に疑問に思います。あなたはただ文字の上からそういうことを知つているのではないかというふうに私には思われるのです。先ほどソビエトのいろいろな生活上のことなんかについてても、独断的にあなたは非常にいいということを言われていますが、実際あなたが身をもつて見聞され、体験されて来たのですか、その点をお伺いしたい。
  139. 板垣正

    板垣証人 もちろんソビエトの全部を見て来たのではなくて、これはほんの一部です。しかしその生活環境を通じて、自分自身生活を通じても、すでに戰後三回にわたつて物価の引下げを行つている、町に行つても食糧はきわめて豊富である、住宅建築もどんどんできている、そういうところです。
  140. 塚原俊郎

    ○塚原委員 そういつたことはあなたが聞いたのじやないのですか。あなたの目で見て来たのですか。
  141. 板垣正

    板垣証人 見ました。
  142. 塚原俊郎

    ○塚原委員 抑留されている間にそうい、う余裕がありますか。
  143. 板垣正

    板垣証人 あります。
  144. 塚原俊郎

    ○塚原委員 抑留者全体に対してありますか。
  145. 板垣正

    板垣証人 作業に行けば……。
  146. 塚原俊郎

    ○塚原委員 作業に行つたときに見る程度でしよう。
  147. 板垣正

    板垣証人 見ます。かつて将校收容所におつたころは、割に自由な行動をとつておりました。
  148. 塚原俊郎

    ○塚原委員 あなたはどうも純粋な気持を持つておられる方で、これ以上追究しようという気持はないのですが、あなたは現在内地に帰つて来られて、大した期間も置かないで、共産党入党手続をとられ、人民解放のために闘うということをおつしやいましたけれども、あなたが数年前には、陛下の御馬前に死すという気持教育を受けておつた。それが数年にして、いかに情勢の変化があろうとも、全然百八十度の転換をした。今後また新たな状態が起つたときに、またあなたは転換するのではないか、あなたの気持はかわつて来るのではないかという気がするのですが、現在のあなたの心境はいかがですか。
  149. 板垣正

    板垣証人 かわりありません。私の一貫した、私心なく民族独立のために闘うという気持にはかわりないし、現在の心境にもかわりありません。
  150. 塚原俊郎

    ○塚原委員 それならば非常にけつこうです。あなたの行く道と私の行く道と違うかもしれませんが、あなたの話を聞いていると、ぐらぐらとそのときの情勢によつてかわる。君が代を歌つたあなたがインターを歌つてみたり、日の丸を振つたあなたがアカハタを振る、どうも一時の気まぐれのようにしか私には考えられないのです。  最後に、先ほど委員長からの第八番目の質問に対して、スターリンへの誓いのときに、あなたはこれは決議によつてつたということを言うておりましたけれども、これに参加した者としない者との比率はどうでしたか。
  151. 板垣正

    板垣証人 ほとんど全員が参加しました。
  152. 塚原俊郎

    ○塚原委員 ほとんど全員というと、参加しない者もいるのですか。
  153. 板垣正

    板垣証人 署名した者ですか。
  154. 塚原俊郎

    ○塚原委員 そうです。署名しなかつた者は何%くらいありましたか。
  155. 板垣正

    板垣証人 私のおりました所ではほんの一部です。
  156. 塚原俊郎

    ○塚原委員 一部というのは一割とか二割でしよう。一割にも満たないくらいだつたですか。
  157. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  158. 塚原俊郎

    ○塚原委員 ほとんど全員ですか。
  159. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  160. 塚原俊郎

    ○塚原委員 この方々は全部自分の本心から、あるいは帰りたいという気持からでなく、本心からやつたとあなたは認めておりますか。
  161. 板垣正

    板垣証人 中にはほんとうに純粋な気持でなくてやつた者もあると思います。
  162. 塚原俊郎

    ○塚原委員 その純粋な気持でなくやつたという方は、署名された方のうちどのくらいありましたか。あなたの見るところでけつこうです。
  163. 板垣正

    板垣証人 これもあまりいなかつたと思います。
  164. 塚原俊郎

    ○塚原委員 大体の見当はつきませんか。三分の一くらいはそうだとか、申分くらいはそうだつたとかいうことは言えると思いますが……。答えにくければけつこうですが、言えませんか。
  165. 板垣正

    板垣証人 はつきりしたところはわかりません。
  166. 菅家喜六

    ○菅家委員 証人にお尋ねしますが、先ほど証人委員長尋問の場合にも、内藤委員から尋ねられましたときにも、日本を牛耳つておる権力ということを言われた。日本を牛耳つておる権力とはどういうものをさして言われるのですか。何回も言われておる。
  167. 板垣正

    板垣証人 現在の……。
  168. 菅家喜六

    ○菅家委員 そうむずかしい質問じやない。委員長にお願いするが、質問の意味がわからないのか、答弁ができないのか、それを確かめていただきたい。この証人はまだ年も若いし、先ほどからの証言を聞いておつても、考え方がまことに幼稚のように思う。私はあえて深く追究するという考えはありませんけれども、証人として述べられたことの信憑力を得るために、述べられた言葉だけを二、三聞こうと思つておるのであります。答弁ができないならできないでよろしい、質問の意味がわからないならわからないでよろしい。日本を牛耳つておる権力と言つたのは、自分はどういう意味で言つたのか、わからないならわからないと言つてもよいし、日本を牛耳つておる権力がわからないならわからないでよろしい。何か御返事がなければならぬ。ぞうきゆうくつに考えないで、軽い意味で、ひとつ雑談をするような意味で答えてもらつていい。あと考えて御返事になりますか、それとも答弁できないですか。
  169. 板垣正

    板垣証人 考えて返事いたします。
  170. 菅家喜六

    ○菅家委員 それからさつきやはり証人証言中に、日本の過去の軍隊は奴隷の軍隊であつだ、こういう証言があつた。かつて日本の軍隊が奴隷の軍隊であつたという意味は、具体的に言つて見ればどういうものが奴隷の軍隊だと、あなたは軍隊生活をされておつたが、簡單でよろしい。
  171. 板垣正

    板垣証人 たとえば兵隊にしてもほとんど何もわからぬ。ただ爆弾を抱いて死ぬ、そういうことだけを教えられた。そういうところからほんとうのいわゆる人間性というものが非常に無視された、そういうところからであります。
  172. 菅家喜六

    ○菅家委員 何にも知らないで軍隊に入つた。そうして爆弾を抱いて死ぬこと以外には過去の軍隊には何もなかつた。それでこれを奴隷の軍隊であると言つた。こういうふうに承知してよろしいか。
  173. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  174. 菅家喜六

    ○菅家委員 あなたは幼年学校から士官学校を出て、終戰のときのあなたは何でしたか。
  175. 板垣正

    板垣証人 少尉です。
  176. 菅家喜六

    ○菅家委員 あなたの部下はありましたね。
  177. 板垣正

    板垣証人 ありません。教育除で教育を受けておりました。
  178. 菅家喜六

    ○菅家委員 そんな單純な考え方で、幼年学校を出て、士官学校へ行つて、少くとも軍隊の飯を食い、あなたのお父さんは有名な大将であつて、あなたの家庭というものは日本における軍人では最高峰の軍人の家庭であつた。子供のときから軍隊のこともよく聞いておつたり、また見たりされておつたが、そんな單純な考え方で、これが奴隷の軍隊だなんていうことを断定されるのはおかしいと思う。どこの国の軍隊でこれに反する軍隊がありますか。私もロシヤに行つて見て来た。四箇月間ロシヤを見た。この前の戰争の終つたときでありたから、今日とは情勢がかわつていますが、ロシヤの軍隊というものはそれではどういうふうに違うか。あなたは陛下の軍隊だとおつしやるけれども、ソ連の軍隊はだれの軍隊ですか。
  179. 板垣正

    板垣証人 人民の軍隊であります。
  180. 菅家喜六

    ○菅家委員 日本の軍隊も人民の軍隊じやないか。日本の軍隊と何も違わないではないか。赤軍はスターリンに誓つた軍隊ではないか。自覚した軍隊であるか、自覚した軍隊でないかということはどこに標準を置くか。日本の軍隊の中にも自覚した軍隊もあつたのではないか。ソ連の軍隊の中にも自覚したものも自覚しないものもある。何もわからない、時計のねじを巻くのもわからないような軍隊がたくさん満洲に来ておつたではないか。そういう單純なことで奴隷的軍隊だというようなことを、長い間軍人の家庭に育てられて軍人教育を受けたあなたが、独断的にこういう文字を使われるということは私にはのみ込めない。  そこで私はお尋ねする。今あなたのお母さんはおられますね。
  181. 板垣正

    板垣証人 おります。
  182. 菅家喜六

    ○菅家委員 御兄弟何人でいらつしやいますか。
  183. 板垣正

    板垣証人 四人です。
  184. 菅家喜六

    ○菅家委員 あなたは一番上ですか。
  185. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  186. 菅家喜六

    ○菅家委員 あなたの妹さんですか、弟さんですか。
  187. 板垣正

    板垣証人 妹と弟と姉です。
  188. 菅家喜六

    ○菅家委員 とついでおられるのですね。
  189. 板垣正

    板垣証人 死んでおります。
  190. 菅家喜六

    ○菅家委員 これはあなたは答えたくなければ答えてくださらなくてもけつこうです。その次に聞く質問のために私としては必要だと息つて聞くのであるが、あなたは答弁したくなければお答えにならなくてもいいのですよ。あなたは向うから帰つて来られて、第一にだれにお会いになりましたか。
  191. 板垣正

    板垣証人 母です。
  192. 菅家喜六

    ○菅家委員 お母さんでしよう。お母さんに会われて、そうしてしばらくお母さんと一緒におられたのでしよう。
  193. 板垣正

    板垣証人 今でもおります。
  194. 菅家喜六

    ○菅家委員 今でもお母さんと一緒におられる。そうして絶えず朝夕お母さんといろいろな話があられるだろうが、先ほどから述べられたようなあなたの心境をお母さんに語られましたか。お話になつたでしよう。
  195. 板垣正

    板垣証人 話してあります。
  196. 菅家喜六

    ○菅家委員 お母さんは何とおつしやいましたか。あなたに同感だと——日ごろ考えておるあなたの考え方、あなたの思想だとか、これから民族独立のためにおれは共産党になつて働くということもあなたは考えられた、だろうが、お母さんにお話になりませんでしたか。
  197. 板垣正

    板垣証人 母としては、正しいと思つたことをやれと……。
  198. 菅家喜六

    ○菅家委員 正しいと思つたことをやれとおつしやつたのですか。
  199. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  200. 菅家喜六

    ○菅家委員 日本共産党に入つて民族独立のために闘うのだという感想をあなたが述べられても、別段口ではお前の自由であるからやれとおつしやつたのですか。
  201. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  202. 菅家喜六

    ○菅家委員 一体民族独立のために闘うということはどういうことです。もつとわれわれのようなわからない者に簡單にわかりやすく言えばどういうことです。あなたはどんなことを考えておられるか。
  203. 板垣正

    板垣証人 働く人たち職業を保障されてゆたかな生活をすることです。
  204. 菅家喜六

    ○菅家委員 そうすると今までの過去の日本はそういうことはなかつたか。
  205. 板垣正

    板垣証人 ありません。
  206. 菅家喜六

    ○菅家委員 どういう点でないとあなたは断定するか。
  207. 板垣正

    板垣証人 シベリアにおける兵隊の気持、そういう人たちの話、それから日本勤労大衆は非常に苦しい生活をしているということを現に知つております。さらに私は今日雇いに行つて日雇いの人と一緒に働いています。そういう人たちがいかに苦しい生活をしているかということもはつきり知つております。
  208. 菅家喜六

    ○菅家委員 それは勤労大衆のものも苦しい生活をしておるものはある。しかしあなた自身ソ連のことを祖国とは、先ほどから何もそういうことはおつしやらなかつた。よく共産党員はわれわれ祖国とソ連のことを言つておる。あなたは長い年月ではあるけれども、あの広いソ連を部分的にしかごらんになつていない。たとえば塚原委員の質問に、ソ連にはどんどんうちも建つておる、生活も非常にゆたかだ、物価も下つて来たというようなことを局部的に見てあなたは結論を簡單に出しておるけれども、広いソ連のわずか二、三箇所を見て来て、建築場にうちも建つているのだということは、ちようどわれわれが見ていて、負けた日本にうちが建つている、日本には住宅が盛んに建つている、ああいいなという感想と何らかわからない。窓から見たあなたの話だと私は思うのですが。
  209. 板垣正

    板垣証人 そうじやないのです。
  210. 菅家喜六

    ○菅家委員 そうじやないと言うが、先ほどから塚原委員も言つたが、あなたは旧日本旧憲法下においては極右だ。陛下の軍人として、また軍隊の家庭に育つて、そうして死をもつて戰いに行つて日本が勝とうという考え方、ぎゆうつとそういう方に行つた。世の中がかわつて来た。時代の変遷だといつて、帰つて来ると何か狭い窓から世間を見て、今度は極左の方に行つた。あなたの思想はまだ私の次男坊ぐらいの年だからむりないことで、今一番かわりやすいときだ。だからあまり詳しいことをあなたに聞くのは気の毒だからこの辺でやめておくが、もう少し窓を広くして見ることだ。ロシヤの事情はあなたのは簡單な例であるから、私はあなたに材料を上げるから、ソ連の事情をよく見た方がいい。決して共産党を抜けろとか——お母さんは自由意思でやれと言われるが、あなたのお母さんは偉い。そこでもう一つあなたに聞いておきたい。先ほどの日本を牛耳つている権力というのは、もう相当に考えたろう。どんな権力が日本を牛耳つておるか。
  211. 板垣正

    板垣証人 資本主義です。資本家です。
  212. 菅家喜六

    ○菅家委員 具体的に言うとどういうところを資本家は握つておるか。何も握つていないではないか。     〔「握つておる」と呼び、その他発言する者あり〕
  213. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 質問の最中に感情を入れることはお互いに……。菅家君、もうよろしいですか。
  214. 菅家喜六

    ○菅家委員 もう一点証人に感想を聞いて私の質問を終るが、あなたのお父さんのためにわれわれの多くの子弟が死んで行つているのですよ。あなたのお父さんは清算されてその罪は償われたと思う。戰犯として絞首台に立たれてしまつたので濁りまするから、その罪はみなきれいに消えてしまつた。けれども残された人たちから言いますと、これはあなたのお父さんを信じておつた。そういうふうにして行つて、たくさんの人がなくなつておるのであるから、それらの多くのなくなつた人々に対する償いというものは生れて来なくてはならないと思う。あなたは先ほど部下は持たないと言うが、あなたの同僚があり、あなたの教えを受けた人などがあるのだが、あなたの家庭から見て、これらに対してどういうことをすれば償いができるかということを考えられたことはありませんか。多くの日本人が信じた父に対し、またあなたのうちに対してやつてつたことは、やはり日本共産党の党員になつてやることが一番それらの人に償いのつく道であるとあなたは今でも考えておりますか。
  215. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  216. 菅家喜六

    ○菅家委員 もうこれ以上この証人には言うことはありません。
  217. 岡延右エ門

    ○岡(延)委員 数日前のこの委員会に喚問された菅証人が自殺されたことは、まことに哀悼の至りにたえないのでありますが、この菅君がカラカンダにおいてアクチーヴとして活躍した点一またこつちに帰つてから、この引揚げ妨害問題で徳田球一君及び共産党が非常に不利の立場に立つということになると、これを極力かばつた点、あるいは終日にわたつたこの間の証言の態度、天皇制を否認するその思想、それらから私は、菅君は日本共産党以上の、本物のソ連式典産党員と断じたのでありますが、その数日後新聞紙上に、彼は重要なるソ連のスパイであつたということが出ておりました。(発言する者あり)ここで私の断定は確認されたわけでありますが、その菅君すらソ連における捕虜に対する待遇、たとえば死体はそのままほうり出しておくという……。     〔「死者冒涜だ」「委員長注意しろ」と呼び、その他発言する者あり〕
  218. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 静粛に。質問を簡單に、なるべく早く。     〔発言する者あり〕
  219. 石田一松

    ○石田(一)委員 議事進行。菅君がソ連のスパイだつたということを発言していいのか。
  220. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 スパイだと言つてやせぬ。そういうことが新聞に出たと言つただけだ。   (「進行々々」と呼ぶ者あり〕
  221. 岡延右エ門

    ○岡(延)委員 この菅証人が、ソ連におけるところの捕虜の待遇というものはポツダム宣言の精神に違反し、あるいは戰時国際公法に違反しなかつたかという私の質問に対して、その点は遺憾であつたということを申しておる。また正義人道の立場から見ても、これは遺憾であつだということをはつきりと認めておる。ところが板垣青年は紅顔可憐の青年であつて、最も正義を愛好する年輩である。あなたはああいう待遇——これは数万の引揚者が異口回一音にそう言つておるのでありますが、ああいう待遇を受けて、あなたはソ連の待遇をどう思つたか。ああいうものは、正義人道に反しないと思うかどうか。
  222. 板垣正

    板垣証人 私の接した範囲では、ソビエトの待遇が非常に非人道的であつたということはありません。今数万人の人が言つておるということを言われましたけれども、私たちソビエトにおいて受けて来た待遇というものは、今言つたように決して非人道的なものでもなければ、何でもない。
  223. 岡延右エ門

    ○岡(延)委員 他の証人証言によりますと、犬も豚も食わないような食物を與えられたこともある。それからふらふらになつた人にノルマを課する。それから便所に行つて倒れる人がある。だからだれかしら監視人が行かなければならぬ、こういうひどい人々に対してノルマを課した。それから一千名のうち二百五十名もばたばた倒れた、こういうふうな処遇を受けているのです。あなたがそれを聞かぬということはおかしい。こういうことに対して、あなたはどういうふうに考えるか。
  224. 板垣正

    板垣証人 その死んでおるのは、天皇制の軍隊機構というものをそのままソビエトに持つてつて、そこで昔の上級幹部というものがあぐらをかいて非常な横暴を働いた。そういうところから特に死んだ人を——もちろんこれは栄養失調その他で入ソ当時死んだということは私も知つております。しかしながらこの死んだ人間は初年兵が非常に多かつた、こういうことから見ても、昔の軍隊機構のまま入つてつて、そうしてたとえばある人間に対してノルマが與えられる。その人員に対して與えられたノルマも、結局順繰りになるのでなしに、下士官であるとか古年兵がこれを初年兵に押しつけてしまう。そういうところから初年兵は非常に苦しい目をみた。そういう軍隊機構の持つている封建的なものが非常に害をして、人間が多く死んでおる。現に私の聞いた範囲では、たとえば入つた場合には、通訳というものはいわゆる火除本部というようなところについておる。だからソビエト側では、どういうふうに行われているのだか、はつきりわからぬ。それでソビエト側で巡視するときには、收容所では一応食物を與えて、いいようなかつこうをする。それで私のそばにいるかつての兵隊ですけれども、この人なんかは、その收容所においては張紙をした。張紙に将校が腹一ぱい食つてつている姿と、兵隊はやせ衰えている姿、これを張りつけて、初めてソビエト側将校がこれはおかしいというのでほんとうの実情を調べたところ、あの昔の軍隊機構のままの非常なでたらめが行われていた。こういうふうに結局シベリア民主運動というものも、かつての軍隊機構の旧幹部の横暴の中から、兵隊たち自分たち生活を守るために盛り上つて来たのが民主運動である。そういう意味において、これは本質的に昔のそういうところから出ているのであつてソビエト側が故意に非人道的な取扱いをしたということはないと思う。
  225. 岡延右エ門

    ○岡(延)委員 その軍隊の組織そのものを利用したことは事実だ。しかしながら特に入ソ当時は嚴重なるソ連の官需心の監視下においてやられた。だから結局ソ連がやつたのと同じだ、ソ連が強制したから……。その組織ソ連が強制的に利用したにすぎない。あなたはそういう簡單理由もわからぬのか。
  226. 板垣正

    板垣証人 何ですか。
  227. 岡延右エ門

    ○岡(延)委員 ソ連は極力その組織そのものを利用した、強制した。ハだからこれすなわちソ連がやつたということになる。
  228. 板垣正

    板垣証人 ソ連が強制したということはありませんか。
  229. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それ以上は議論になるからいいでしよう。
  230. 岡延右エ門

    ○岡(延)委員 それからそういうひどいノルマを課したばかりでなく、これが死んで行く。たとえばハバロフスクにおいては、冬は穴が掘りにくいからというので軒下に積み重ねておく、こういうことまである。日本では犬やねこの死体でも、もう少し鄭重に扱う。あなたはこういうことに対して、どういうお考えですか。
  231. 板垣正

    板垣証人 ソビエトがそういう扱いをした、そういうことは自分は聞いたことはありません。おそらく帰還者のほんの一部の者の言う言葉をそのまま信じて、最も悪辣なそういう言葉を通じて、結局反ソ反共のもとにしているとしか私は考えられません。
  232. 岡延右エ門

    ○岡(延)委員 数万の人が異口同音に言うことすらあなたはまだ知つていない。だから家を建てたり、食糧がよくなつたり、その他生活がよくなつた、それらの証人証言というものは信憑力がきわめて薄弱である。だからあなたにこれ以上聞くのはむだだけれども、ひとつ伺いたいことは、あなたはまだ思想的に大した訓練を受けていない。それが突如としてこちらに帰つて入党手続をとつたということは、あなたは何か特に利用価値ありとして向うで何か尊重された、待遇を受けたのではないかと私らは考える。だから食糧等もほかの者はまずかつたけれども、あなたは自分はうまい食糧を食つた。そこであなたを帰すにあたつて、何か一札とられたのではないかという私は感じがするのですが、どうですか。
  233. 板垣正

    板垣証人 そういうことはありません。おそらくあなた方のような立場からはそういう邪推ですね、そういうことを当然考えると思いますけれども、私は何らの特別な待遇も何も受けていない。
  234. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 いいでしよう。ほかにありませんか。
  235. 石田一松

    ○石田(一)委員 私はせんだつて委員会で菅君の問題を取上げて何か発言したので……。
  236. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 証人の質問じやないのですか。
  237. 石田一松

    ○石田(一)委員 それでその前に、ただいまの委員の発言の中に……。
  238. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 私は聞くが、証人に対する質問だと思つてつたが、議事進行か何ですか。
  239. 石田一松

    ○石田(一)委員 私は証人に質問するのだが、その前に私は一応質問の前提をやつておかなければいけない。菅君の自殺を、毎日新聞の十日の記事は、どこから材料を出されたか知らぬが、さながら菅君がスパイであつたという一新聞記事をとつて、スパイであつたからこうだ、それで死んだのであるというようなことを前提としながら、しかも証人にその証言を求める。しかも毎日新聞のこれが真実なものであるとするならば——菅君自身が残した遺書が三通も四通も各新聞に出たのですが、その遺書によると、彼自身は死の直前にスパイであつたとか何とか言つていない。ただ一つの真実を守り通すためには、世の中のいろいろなものと闘おうとしましたが、私は非常に弱い人間であつたということを言つて、本人自身が非常に疑問を持つている。それにもかかわらず、この委員会ですでに断定的にきのうあたりからスパイであるとか何とか言う。たとえば参議院の控室でだれかに脅迫された、監視しておるぞとか言われた結果、菅氏が死んだのだから監視しなくてもいいかもしれぬが、実際せんだつてから私が言うのは、具体的な公式な資料が集まつてから後に、この萱証人の死に対するところの委員会の態度を決定するということになつておるの、だから、その途中で、いたずらに事務局や委員長あたりが委員会に投書のあつたものを、われわれ理事には見せないで新聞記者に発表して、事前に国民を誤らせるようなことをしてはいかんと思う。最近の一番いい例が下山総裁の死です。あれも下山総裁が変死を遂げた当時は、国民全部が新聞、ラジオ、検察庁などに……。(発言する者あり)他殺だと思われていたのが、いまだにその他殺の……。
  240. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ちよつと待つてください。それは証人に対する質問ですか。
  241. 石田一松

    ○石田(一)委員 そういうようなみつともない状態がまたこの委員会で繰返されないために質問……。(発言する者あり)そういうような信念において証人に質問を求めるということは……。
  242. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そんなことは困りますよ。そんなことをだれも言つていませんよ。そういうことが新聞に載つたがと言つたんだから……。君はぼくが何か材料を出したと思つているのですか。
  243. 石田一松

    ○石田(一)委員 出したのではないかと思つて……。
  244. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは私に対する質問ですか。そんなことを板垣証人に対して聞いて何になりますか。
  245. 石田一松

    ○石田(一)委員 そういう考え方をもつてこれから証人に質問をするのです。
  246. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 もう少しまじめにやつてもらおうじやないか。
  247. 石田一松

    ○石田(一)委員 先ほどからあなたに対して温情あふれる委員の御説諭がありまして、さぞかしあなたも心に銘じたことと思います。しかし私は、あなたのお母さんがお前の信ずるところに向つて進めと言われたことは、さすがに日本の賢婦人だと思つております。しかしただ私はあなたの証言の中に——きのうもこれは言つたのだが、立場を明らかにするために特に言つておきますが、いわゆる日本の軍隊が天皇に隷属していたことは旧憲法から見ても間違いありません。それが奴隷であつたというお言葉、奴隷の軍隊というようなお言葉、ひいてはそれが現在少くとも新しい憲法のもとにおいて、われわれが認める憲法のもとにおいては、国の象徴であり、国民の象徴であられている方なのです。しかももう政治に対して権力も何も持つていらつしやらない方に対して、何らかてのひらを返すような態度が三年や四年のソ連生活の中で体験から生れたということ、たけには、私は承服はできません。ただ一つ私がお聞きしたいのは、あなたの入ソ当時は、幹部の一人として一つ收容所、あるいは小隊とか中隊の指揮権監督権をまかせられたのですか。
  248. 板垣正

    板垣証人 教育隊で、全部同期生が  一緒になつて将校收容所におしましたので、特に部下を持つとか、そういう機会はありませんでした。
  249. 石田一松

    ○石田(一)委員 そうするとあなたのいた收容所には、兵というものは捕虜になりて、いなかりたのですか。
  250. 板垣正

    板垣証人 エラブカ收容所においては兵は二、三十名程度あとはほとんど将校です。
  251. 石田一松

    ○石田(一)委員 その兵に対して、見習中であつたあなたたち将校のどなたかが乱暴をなさつたことはありませんか。
  252. 板垣正

    板垣証人 私たち收容所ではそういうことはありませんでした。
  253. 石田一松

    ○石田(一)委員 三十名ばかりの兵の中で、やはりそこでもいわゆる反軍闘争というものは起りましたか。
  254. 板垣正

    板垣証人 反軍闘争はそこの收容所では起りませんでした。
  255. 石田一松

    ○石田(一)委員 そういたしますと反軍闘争というのは、少くともその動機は、その收容所の指揮権をまかされた将校が、兵に対して元の軍隊的な猛烈な訓練をしたというのか、びんたをしたというのか、そういうような将校の乱暴とか、兵隊の食糧の頭をはねるとか、病人に與えたものを将校が食べて涼しい顔をしているとか、こういう将校——同じ日本人で階級はあるけれども、一旦捕虜というような同じ身分になつたというようなことを考えないで、常軌を失した将校の無軌道さがあつた、そこに対する憤りというものが反軍闘争に移行して行つた、こういうふうに考えて間違いありませんか。
  256. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  257. 石田一松

    ○石田(一)委員 そういう実例をあなたはごらんになつたか、お聞きになつたことはありますか、最もひどい実例で、こういう事実があつたために兵がこういうふうになつた、実際的な反軍闘争というものをやり始めたというようなことを御存じありませんか。
  258. 板垣正

    板垣証人 私の経験したところではそういうことはありませんでしたけれども、ハバロフスクに行つてから昔の兵隊、そういうものから聞きました。
  259. 石田一松

    ○石田(一)委員 どういうお話をお聞きになりましたか。
  260. 板垣正

    板垣証人 結局将校というものが非常に兵隊の糧床の上前をはねる。それでいわゆる曉に斬る——木に兵隊を縛りつけてこれを非常に虐待した。また高山教授、こういう事件についても聞きました。高山教授に対して当時の幹部が暴行を加えて遂にこれを殺した、そういうことも聞いております。
  261. 石田一松

    ○石田(一)委員 そういたしますと、あなたが最初にいらした收容所のいわゆる幹部見習というか、勉強中の方々はほとんど全部いわゆる民主化運動、あるいは反ファシスト委員会というものの運動にお入りになりましたか、それとも一部ですか。
  262. 板垣正

    板垣証人 私が行つてからですか。
  263. 石田一松

    ○石田(一)委員 要するにあなたの同期生ですね。
  264. 板垣正

    板垣証人 私の同期生はほとんど四八年までに帰つてしまいました。私と一緒に同期生でハバロフスクに行つたのはもう一人で、二名だけです。そのほかはいわゆるほかの将校でありまして、二百七十名ほどハバロフスクでおりてハバロフスク收容所に行きました。その当時はまだ二百七十名はほとんど階級章をつけて……。
  265. 石田一松

    ○石田(一)委員 それはいつころですか。
  266. 板垣正

    板垣証人 四八年の七月ごろです。
  267. 石田一松

    ○石田(一)委員 それで要するにあなたの友だちで、ハバロフスクに行く前に二百七、八十人いらつしやいましたね。その友だちの中で、あなたと一緒にお帰りになつた方がありますか。
  268. 板垣正

    板垣証人 一人おります。
  269. 石田一松

    ○石田(一)委員 その方は現在どういう運動——運動というと変だけれども、どういう思想的な傾向ですか。
  270. 板垣正

    板垣証人 私より前に帰りましたけれども、私と同じ立場に立つております。
  271. 石田一松

    ○石田(一)委員 そうするとほかに将校の方でも、相当日本に帰つて共産党入党されたという方が多いわけですね。
  272. 板垣正

    板垣証人 多いと思います。
  273. 石田一松

    ○石田(一)委員 もう一つ観点をかえてお聞きしたいのですが、あなたは高砂丸でことしの正月帰つて来たいわゆる久保田善藏氏を団長とする日の丸梯団というものを御存じですか。
  274. 板垣正

    板垣証人 日の丸梯団は知つております。
  275. 石田一松

    ○石田(一)委員 この日の丸柳川に所属しておる幹部とかで、どなたか御存じの方はありませんか。
  276. 板垣正

    板垣証人 久保田氏は、ことしの第二回目の高砂丸で帰つて来ましたが、私が帰つて来たのは一回目の高砂丸であります。そのときも高砂丸の中で日の丸梯団が結成されました。日の丸梯団というものをおもに牛耳つてつくつたのは、ナホトカに来てもまだ階級章をつけておるのが三、四十名ほどおりました。こういう人間——ハバロフスクその他において、国際法というものをたてにして一切労働しない、こういう行き方をしておる人が若干おりました。そういう者が音頭をとつて日の丸梯団というものができております。
  277. 石田一松

    ○石田(一)委員 今あなたのお言葉では、收容所にいて全然労働につかない、こういう人たちが主になつて日の丸梯団をつくつておるというお話ですが、ソ連收容所ではノルマが與えられて、それを全然実行しない、仕事もしない、こういう人たちに対する待遇はどういう待遇ですか。
  278. 板垣正

    板垣証人 私たち收容所では転校も——将校は国際法上では労働しないでいいことになつております。しかし全員ほとんど希望しまして、昔の兵隊と一緒になつて仕事をしました。一時そういう労働をやらない人間が約二十名ほど收容所に来たことがあります。その場合にもその人たちは、おれたち将校だから労働はやらない、将校食を食わせろ——当時私たち将校食というものを全部労働に最も適当な兵食に切りかえ、これを希望して、みんな兵隊も将校も同じく一緒になつて仕事をやつてつたわけであります。そこにやつて来て、将校食を食わせろ、おれたちは仕事をやらない。営内作業も拒否する。——毎日自分たちが一生懸命やつておるかたわらで碁をやり、あぐらをかいておる。こういうイデオロギー、これに対して私たちはもちろん闘争をやりました。しかしながらこれに対するソ連側の態度というものはきわめて寛大というか、むしろわざわざそういう人間たちのところへ行つていろいろタバコを勧めたり話をする、そういうところを見て、いかにソ連側が国際法というものによつてあくまで強制すべきでないことは強制しない、その大きさというものを私たちはそのとき感じたのであります。
  279. 石田一松

    ○石田(一)委員 これは私の邪推かもしれませんが、特にそうした将校、あなたたち、ことに職業軍人として徹底的に教育をお受けになつた方々に対しては、ソ連側がこの若い将校たち日本においても相当インテリの暦に属するものだ。こういうものに対して收容所でもしちよつとでも間違つた待遇をしておると、ソ連に対してあまり誹謗をされると困るというような一つの作戰的の意向から、特にそういうことをされたというようなことは私の邪推ですか。そういうことはありませんか。そうとは思いませんか。
  280. 板垣正

    板垣証人 そうとは思いません。
  281. 石田一松

    ○石田(一)委員 今あなたのお口から日の丸梯団の久保田善藏氏の名前がちよつと出ましたけれども、この人の話は何かお聞きになつたことはありますか。
  282. 板垣正

    板垣証人 久保田は、あれが問題を起してから……それまでは私も知りませんでした。
  283. 石田一松

    ○石田(一)委員 問題を起してから御承知になつたのですか。
  284. 板垣正

    板垣証人 後に彼の名前を知りました。
  285. 石田一松

    ○石田(一)委員 あなたたちの仲間の将校で、たとえば捕虜になつていた当時、将校に対して日本人の良心を失つて、態度を失つて、反抗的態度をとつた兵隊がおる。こういうものは徹底的にやつつけなければならぬというようなことを言つてつた人があつたことを聞いておりませんか。
  286. 板垣正

    板垣証人 私たちハバロフスクに行くまでは、シベリアにおける民主運動というものについて新聞やその他で聞いております。しかし私の気持としても、兵隊たちがわずかの期間にそういうようにかわつたということに対しては、私もそのころはこれに対して反感を感じました。
  287. 石田一松

    ○石田(一)委員 それはいつごろですか。あなたにそういう考え方がまだあつた当時は……。
  288. 板垣正

    板垣証人 四八年七月のことです。
  289. 石田一松

    ○石田(一)委員 それはあなたがいつごろから現在の心境に到達するような周囲の変化というか……。
  290. 板垣正

    板垣証人 四八年終りから四九年……。
  291. 石田一松

    ○石田(一)委員 そうすると、おととしの終りから去年あたりにかけてそうじた考え方をお持ちになつた、こういうわけですね。
  292. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  293. 石田一松

    ○石田(一)委員 そうすると、それまではやはわ一つの何か他の将校考えておるような感情的なものを持つて、この民主化運動にも反感を感ずるという気持になつたというのですね。
  294. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  295. 石田一松

    ○石田(一)委員 私はまことにあなたの証言が正直だと思うのです。そうすると四八年終りから四九年にかけて特にあなたが收容所でよくされたというようなことはありませんか。それまでずつと同じでしたか。待遇と、いうか、ソ連側の取扱いが非常によいということは、初めからずつと一貫してよかつたのですか。思想的なこういうふうな考え方が出て来るときには、何か自分の胸を打たれたような、ある動機というものがあるのではないですか。
  296. 板垣正

    板垣証人 そこの扱いというものは一貫しております。私たち考えたのは、結局ソ側としては一貫して自分たちに接触した。ただこつちは、まだ腹の底に反共的な、反ソ的な感情を非常に強く持つている場合には、同じ待遇を受けても、それが非常に悪く、曲つて感じられます。しかしだんだんそこへ目ざめて来た場合に、初めてそこでほんとうにわけ隔てのない好意というものが逐次わかつて来た。
  297. 石田一松

    ○石田(一)委員 特に日の丸梯団の方たちがこの委員会に来て、あなたはカラカンダでなかつたので直接お聞きにはならぬだろうけれども、日本共産党の書記長徳田球一君から、反動は帰すなという要請がなされたということを述べたので、実はこの委員会が、こういう事実があつたかどうか、もし事実共産党の書記長という立場で、反動は帰してはいかぬというような要請がソ連当局になざれたとしたら、これは重大問題だ、私たちは一日も早く、反動でも何でも日本に帰してもらうという気持でこの調査をやり始めたのですが、あなたはこんな事実についてお聞きになつたか。あるいは直接そういう書いたものをごらんになつたか。そういう経験がございますか。
  298. 板垣正

    板垣証人 向うではそういうことを聞いたことはありません。
  299. 石田一松

    ○石田(一)委員 そういううわさもありませんですか。
  300. 板垣正

    板垣証人 ありません。
  301. 石田一松

    ○石田(一)委員 あなたは新聞とか何かで、それに間違えられるようなものをお読みになつたことはありませんか。
  302. 板垣正

    板垣証人 当時の民主運動そのものは、これは日本人同士の問題ですけれども、それでは反動を帰さない。そういうような雰囲気でありました。
  303. 石田一松

    ○石田(一)委員 ソ連における民主主義化の運動自体の中には、そういう空気があつたというのですね。
  304. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  305. 石田一松

    ○石田(一)委員 それはだれか特にこの運動指導したというような、責任のある立場にある人というものはないのですか。やはり民主化運動だから、民主的に下から盛り上る声でそういうことになつたのですか。それともその中に、一部強力にこのことを発言し、みんなをひつぱるような形で、反動は帰すなというような言葉が出たのかどうか。これはいかがですか。
  306. 板垣正

    板垣証人 私の知つている範囲では、そういうことを特に一部の者が強烈にやつたというようなことは知りません。
  307. 石田一松

    ○石田(一)委員 最後に二つばかりお聞きしたいのですが、私はどなたにも聞いているのですが、あなたが捕虜生活をしていらつしやる間に、日本の政府の発行したはがき、あるいは切手を貼用した手紙、そしてこれが東京ならば東京の、ある特定の中央郵便局なら東京中央と書いて、何月何日と書いてある、こうした日本政府の郵政省の郵便局の消印、これで内地から通信をお受取りになつたことがございますか。要するに捕虜のはがきではなくて……。
  308. 板垣正

    板垣証人 そういうものは手に入れたことはありません。
  309. 石田一松

    ○石田(一)委員 あなたのお知りになつている範囲で、日本一つの政党なら政党、あるいはある団体なら団体、これからあなたたちに対して、日本の郵便局の消印を押したもので直接通信を送つたということは、御経験はありませんか。
  310. 板垣正

    板垣証人 ありません。
  311. 石田一松

    ○石田(一)委員 もし通信をほかの方法でお受けになつたことがあれば、その消印等はどういうふうになつていたか。そのはがきはどういうものであつたかということを、もし事実そういうものがあれば御証言願います。
  312. 板垣正

    板垣証人 捕虜郵便で出して、結局それが往復はがきのような形で返事が来ます。それはずいぶん来ておりました。
  313. 石田一松

    ○石田(一)委員 その返事が内地から行きますね。その行きますときの消印はどういうことになつておりますか。捕虜はがきの切手のところに押す消印です、検印証といいますか、これはどういうものですか。今私が言つた日本の東京なら東京の、代々木の共産党本部とある証人が言つた。それには東京の消印が押してあるというのです。それは日本政府の発行したはがきだというのですが、そういうものはあなたには入らないわけですね、今の証言では……。
  314. 板垣正

    板垣証人 入つておりません。
  315. 石田一松

    ○石田(一)委員 そうすると捕虜郵便の往復の復の方で来る通信はどういう消印、検印が使つて押されてあるかということです。
  316. 板垣正

    板垣証人 よく記憶しておりません。
  317. 石田一松

    ○石田(一)委員 そのたくさんはがきをお受取りになつた消印の記憶はございませんか。
  318. 板垣正

    板垣証人 はあ。
  319. 石田一松

    ○石田(一)委員 東京とあつたか、あるいは英語で書いた消印であつたか、あるいは露語で書いた消印であつたかということは御記憶ありませんか。
  320. 板垣正

    板垣証人 はつきり覚えておりません。
  321. 石田一松

    ○石田(一)委員 そうしますと、先ほどあなだのたくさんだよりがあつた、往復はがきの復の方が来たというお言葉も、何だか信頼性が薄らいで来るように思うのですが、これはまあ御記憶がなければしかたがありません。  最後に一つお聞きしますが、実はさつき私が興奮しましたソ連收容所における菅氏の問題ですが、これはカラガンダ地区司令部付地区工作員で、同地区の最高政治指導者でした、こういうのですが、收容所の中で、しかも日本人で、その地区の最高政治指導者というものがありますか。
  322. 板垣正

    板垣証人 地区ですか——たとえばハバロフスク地区では地区のいわゆるビューローがあります。それから各牧容所には民主委員委員長、宣伝係とか青年係、そういうような組織はあります。
  323. 石田一松

    ○石田(一)委員 その組織の、要する、に委員会なら委員会委員長、この委員長をさして、その地区の最高政治指導者というようなことを言いますか。最高政治指導者というのはスターリン元帥じやないですか。その地区の最高だつたら、たとえばソ連政治局の将校なら将校がいて、それが最高の政治指導者ではないかと私は思うのですが、こういうことがあり得ますか。收容所の地区において日本人で……。菅氏は参院に喚問された際通訳と言つていたが、実はカラガンダ地区司令部付地区工作員で、同地区の最高政治指導者でした。私はずいぶんあの人は偉いと思つている、当所ではスターリンと親戚かしらと思つていたくらいです。スパイだつたということを言うためにこういうことを言つているのですが、あなたはこういうことの御記憶はありませんか。
  324. 板垣正

    板垣証人 ありません。
  325. 石田一松

    ○石田(一)委員 ばかばかしくてこんなものは信じられません。ちよつとおかしいと思うのです。それで聞いてみたいと思うのは、その当時中華の作戰中に残虐行為をやつた、いわゆる戰犯があつたならば徹底的にこれを追究して、資料を詳細に提出しろ、資料を出した者は早く帰れるように責任を持つてとりはからうというようなことが言われて、それぞれ彼は何をやつた、彼は何をやつたといつて戰犯を追究して資料を出した。出したところが、ソ連当局からその資料を出した者は全部呼び出されて、お前らこそが戰犯だといつてかえつて詰問されて、その資料を出した連中は帰還が延びた、こういうことです。但しその中で菅君だけは昨年の十月ごろさつさと帰つた。昨年の十月帰つたのは、そんなに特別のとりはからいがあつたから昨年の十月帰つたのですか。私は昨年の十月帰つたというのは、帰還としてはおそい方だと思うのです。最高政治指導の責任者で、それほど向うに好意を持たれている者が、ほかの者はとにもかくにも残されたのに菅君だけ早く帰されたというのは、三年前に帰されたんだつたらそれはそう言えますが、それが菅君だけ特に去年の十月に早く帰された、ほかの者は二箇月、三箇月おくれた、そういう言い方をするのは、向うから命令があつて戰犯を追究して、こういう資料を出した者は早く帰してやるから資料を出せ、こういうことを指示されたことがありましたか。
  326. 板垣正

    板垣証人 そういうことはありません。
  327. 石田一松

    ○石田(一)委員 これは少くとも民主化の同盟で、民主的に反軍湖争から民主化同盟に移行したこのグループが、自発的に討論しておるうちにこれを摘発するということになつたのでしよう。
  328. 板垣正

    板垣証人 そうです。
  329. 石田一松

    ○石田(一)委員 ソ連当局から戰犯を摘発した者は早く帰すなどと言われたのではないでしよう。
  330. 板垣正

    板垣証人 違います。
  331. 石田一松

    ○石田(一)委員 だからこそ私はこの中にこうい者があつたつたといつて民主的にやつたのだけれども、持つてつたソ連当局は、お前らはよけいなことをしなくても、こつちではちやんと手続なら手続を経て、日本でもちやんとやつておるのだ、よけいなことだと、あまりにこの当時激昂した兵隊さんたちちよつとやり過ぎて——ほんとうにないとは言えないが、ちよつとやり過ぎて、それで向うから冷静にぽんとやられた。特にこの中で、この間この委員会証言した菅君の証言だけは、あの冷静な、中庸をあやまたない、実にりつぱな、何とも言えない証言をしておる。その証言と同じような表現方法でこの戰犯の追究問題にも菅君は対処せられた。そういうことがソ連のいわゆる政府なら政府に一応買われたというふうに私は解釈すべきだと思うのですが、要するに命令ざれたことはないのですね。
  332. 板垣正

    板垣証人 ありません。
  333. 石田一松

    ○石田(一)委員 私は先ほど来いろいろとあなたに対しての……。(「誘導尋問だよ」と呼ぶ者あり)もし私の質問が今内藤君のおつしやる誘導尋問つたとするならば、誘導尋問の部分は速記録から削除なさるなり何なりされてもけつこうです。もしそれと同じような前例があつたならば、全部速記録から抹殺してもらいたい。私は証人に対して一言もお説教がましいことを申すだけの資格は持つておりません。事実だけをお聞きしたのです。ほかの委員のように偉くありませんから……。
  334. 横田甚太郎

    横田委員 証人ちよつとぶしつけな質問をいたします。その前に委員長答えてくれるかどうか。そこに徳田要請があつたのだということを印象づけるために、集会の状況を描いたのが張られてあつた。あの看板はもう終つたのですか。あれはかつてにとつたのですか。あんな会合があつただろう、あつただろうという看板はもう目的を達したのですか。
  335. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 いやそんなことはない。
  336. 横田甚太郎

    横田委員 あれはどういうわけでとつたんですか。
  337. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはあとにしよう。まず証人に聞いてくれ。
  338. 横田甚太郎

    横田委員 それではお伺いしますが、第一この委員会でお尋ねしたいのは、日本共産党が引揚げを妨害する、妨害したのは一体何だ。たとえば向うに描かれておりまして——証人は御存じないでしようが、その場所におけるところの徳田要請という問題があつたかなかつたかということを中心にして論議して行けばいい。ところが事実はそうなつていない。ここに来ておりますと、聞いております委員自身頭が変になつて日本共産党が引揚げを妨害したというその事実を調べておるのか、引揚げを阻害するためにこの委員会はやられておるのか、われわれの頭はわからなくなつて来る。それでちよつとピントのくずれたような質問になるかもしれませんが、自由党の人に教わつた通りの様式でひとつやらしていただきます。ここに真相小説十八集というのがございます。この中に板垣さんは、私はシベリアで生れかわつたということを書いておられますが、これはあなたがお書きになつたのでしよう。
  339. 板垣正

    板垣証人 そうです。私が口述したのをつづつたのです。
  340. 横田甚太郎

    横田委員 これは創作ではないでしようね。事実に基いてやられたのでしようね。
  341. 板垣正

    板垣証人 事実です。
  342. 横田甚太郎

    横田委員 そういたしますと、ソ同盟に日本の軍隊が入りまして、どうしていわゆる皇軍としての軍律を失つたか、この点を伺いたいのです。たとえて申しますと、ソ同盟に入つてから非常に虐待された、労働させられた、これが悪いように言つておられますが、国際法規を調べましたところ、捕虜が労働するのは、私の考えといたしましては軍組織の中にあるのだと思う。将校に労働を強要してはいけないかしれないが、軍隊の中に将校と兵卒があつて、兵卒は捕虜になつたら、これは労働しなくちやならぬというような規定があると思う。こういうような意味合いにおきまして、労働それ自体が悪いと言つておるのか、労働が苛酷であると言つておるのか、この委員会に参加しておるとだんだんわからなくなつて来る。そこにおいては日本人を盛んに虐待した、虐待したと言いますけれども、私も戰争中刑務所に入つてつたが、日本の政府自身もいいことをやつていない。私はこんなことは言いにくいのですが、私の入つていた堺市の大阪刑務所におきましても、食わすべき食糧も食わさないで、そこの囚人たちが、出てから仕返しをしてやると言つてつて出たことは事実です。あれは戰争が終りましてもそういうことはありがちだつたと思う。ところがそれは遺憾であることは事実です。そういうような点におきまして、これは別に関係のないようなことですが、自由党の各委員の言われることを聞いておりますと、何か引揚げ要請問題と関係のないようなことをごちやごちや言われておるように思うのです。
  343. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 板垣証人にそんなことを言つてもわかりはしないよ。
  344. 横田甚太郎

    横田委員 だつたらあなた聞いたらいいだろう。あなた自由党の代表者で質問したらいい。
  345. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そんなことを言つたつてしようがない。質問の方を……。
  346. 横田甚太郎

    横田委員 ぼつぼつやるよ。大体こんなものは何を調べておるのか、何をやつておるのかわからない。徳田要請の問題はエルマーラエフという政治部の上級中尉が言つたにしても、本人が言うことだつたらかつてなことじやないか。それを徳田書記長の判を押したというのは……。
  347. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そんなことはここで言つたつてしようがないじやないか。
  348. 横田甚太郎

    横田委員 委員長、そんなことを言う必要はない。黙つておれ。
  349. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 默つておれとは何だ。
  350. 横田甚太郎

    横田委員 第一、きようは新聞の締切りがまだ済んでいないから言わさぬのか。(笑声)大体承りたいのですが、簡單に申しますと日本軍としての規律をソ同盟が強要して、これを破壊したのか、それともかつてにこれはくずれなければならないようなだらしのないことをやつてくずれたのか、その点をお伺いしたい。
  351. 板垣正

    板垣証人 結局戰争中はまだいわゆる皇軍としての規律を持つていたし、将校も一応そういう気持を持つてつた。しかしながら本質的に日本の軍隊というものが結局日本帝国主義戰争侵略戰争のそれを美化するために、観念的な八紘一宇とか、そういうことをとなえていたけれども、本質的にはやはりこれが侵略の軍隊であつた。そういう意味から戰争に負けて、そういうところに入つて行くと、そういう観念的なものがすぐくずれて、ただ昔の軍隊の非常に悪いところだけが出て来る。これはソ側が強制してその組織をどうこうしたのでなくて、軍隊そのものが持つておる本質がそこに現われて来たと私は考えます。
  352. 横田甚太郎

    横田委員 その場合にソ同盟が将校に作業を強要したのですか、将校自身が作業を志願したのですか。それからもう一つは、お帰りになるまで、将校の中で最後まで作業をしなかつた人がおりますか。
  353. 板垣正

    板垣証人 これは作業を強制したのではなくて、自分たちの希望によるものであります。それからハバロフスクにおいても最後までそういう労働をやらなかつたという者が、私の知る範囲では約二十名ほどおりました。
  354. 横田甚太郎

    横田委員 その将校たちは入ソいたしまして、ソビエトに捕虜になりまして、それからしばらくの問いわゆる帶剣が許されておつたのですか。あなたの記録によりますと、将校日本刀をまき割りに使つたというようなことを書いておるのですが、それはいつころめことですか。
  355. 板垣正

    板垣証人 私がヨーロツパのエラブカに行つたのは四六年の一月でありましたが、そこで約半年近くの間はまだ昔のまま軍刀を持つておりました。それでそのときそれをまき割りに使つたというような事実もありました。その後これはまとめてソ側の方で没收されました。
  356. 横田甚太郎

    横田委員 そのうちに軍刀は君たち日本軍人の魂と聞いておる、もつと大切にしてはどうか。こういうような話をソ同盟の将校から言われたように書いてありますが、これは前の、名前は忘れましたが、証人の言葉によりましても、日本の軍隊としてその人たちが全部ソ同盟に捕虜になつておりながら、その中において密告し合いをする、人の物をかすめとる。それに対して自分の言うことはいいのであつて、人の言うことは悪い。密告し合い争い合うので、そんな醜いやり方をしてはいけない。日本人にはあいそが盡きたというようなことを言われたのを私は聞いたのですがそういうような雰囲気はあつたのですか。
  357. 板垣正

    板垣証人 将校收容所においても非常に規律が乱れた。そういう面において、かえつてソ側から自覚を促されるというような事実はありました。
  358. 横田甚太郎

    横田委員 その場合にエラブカの大隊本部事件というものが出ておりますが、いわゆる高級将校の事件ですね。これは事実あつたのですか。あつたといたしましたら、その内容は一体どんなものだつたでしよう。
  359. 板垣正

    板垣証人 どういう事件ですか。
  360. 横田甚太郎

    横田委員 エラブカで高級将校たちがほした魚をごまかしたとか、タバコをごまかしておつたということは、あなたが見られたのですか、聞かれたのですか。
  361. 板垣正

    板垣証人 それはハバロフスクに来てからであります。ハバロフスクにおいて、いわゆる持ち物の検査とかそういうことがありましたが、その場合に、旧幹部の中で非常に荷物をたくさん持つてつて、中からほし魚とか豆とか、非常につまらないものがたくさん出て来る。それで非常な物笑いの種になつた。そういうようなことはありました。
  362. 横田甚太郎

    横田委員 それは何ですか。兵卒が食うべきもの、捕虜が食うべきものとしてもらつたものをごまかしておつたのですか。
  363. 板垣正

    板垣証人 それは汽車輸送聞においてそういう行為があつたのです。
  364. 横田甚太郎

    横田委員 そういたしますと、このことを聞いてむりだつたらお答えを願わなくてもいいですが、その量をかすめとりますと、ほかの人が食うのは非常に少量になる、そういうような量ですか。それともまたそれをごまかしておつてもわからないようなものなんですか。
  365. 板垣正

    板垣証人 わからないような量です。
  366. 横田甚太郎

    横田委員 それからこれは日の丸梯団のことについて、あなたの立場からちよつと聞かしていた、だきたいと思うのですが、それはなぜこんなことを聞くかというと、今度のこの徳田要請問題は、私たちは非常にわかり得ないものがあるのです。日の丸梯団のカンパニアのように思う。そういうような意味合いにおいて、日の丸梯団においてはかつて将校であり、憲兵であり、警察官であつた。そうしてあなたの前身もそれにふさわしいように思うのですが、どうしてその人たちと行動が一つにできないのでしようか。その点を承りたいと思います。
  367. 板垣正

    板垣証人 もう一度……。
  368. 横田甚太郎

    横田委員 何というか……。
  369. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 同じ将校であつて、あなたがかわるのはどういうわけだというのです。
  370. 板垣正

    板垣証人 私の考えでは、シベリヤの生活というものを通じて、かつて自分自身の役割、自分自身立場反省して、それからほんとうにいわゆる人民立場に立つ、そういう面においてかつての特高、憲兵、警察官というものと自分の役割とをほんとう考えた場合に、これは結局国家の権力の一部として大衆を抑圧していた。そういうことを反省して、それから新しい民主主義者として立ち直つて行く、そういう過程を通つた者もあります。しかしながらそういうふうに昔の特高なり警察そのままが自分気持にしみ込んでいるあの反ソ、反共的な気持、またいろいろ感情的なものをそのまま根強く持つておる人間、そういう人たちは結局そのままの気持で四箇年を過している、そういう意味においてそこから差が出て来たのだと思います。
  371. 横田甚太郎

    横田委員 日の丸梯団に参加しておられる人で、あなたが御存じの方がありますか。もし御存じでございましたならば、知つたというのは、帰りの船に乗つてその引揚げ梯団ができる過程において知つた人々、そういう人は用事がないのです。ソ連において捕虜中に知つておられた方で、引揚げ梯団に関係のある人があるかないか、あなた御存じか、このことをちよつと聞かしていた、だきたいと思います。
  372. 板垣正

    板垣証人 ナホトカで一緒にいて、船の中で日の丸を配られて胸に日の丸をつけられたという人も私の知つておる人におります。
  373. 横田甚太郎

    横田委員 入ソ中に御存じの方で、日の丸梯団に入つておる人はおらぬですか。
  374. 板垣正

    板垣証人 向うで初めがら知つておる人ですか。
  375. 横田甚太郎

    横田委員 そうです。
  376. 板垣正

    板垣証人 あります。
  377. 横田甚太郎

    横田委員 どんな人ですか。もしわかつておりましたら……。
  378. 板垣正

    板垣証人 濱田という男がいます。それから……。
  379. 横田甚太郎

    横田委員 おもに幹部の人でいいのです。幹部でなかつたら……。
  380. 板垣正

    板垣証人 幹部ではありません。
  381. 横田甚太郎

    横田委員委員長 濱田という人はここに関係しておりませんね。
  382. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 来ておりません。
  383. 横田甚太郎

    横田委員 それでは日の丸梯団の幹部の方で、入ソ中に非常にひどい目にあつたということを聞くのですが、そういう人たち向うでどういうことを受けたか受けないか、あなたにお聞きしてもわからないですね。
  384. 板垣正

    板垣証人 わかりません。
  385. 横田甚太郎

    横田委員 そういたしますと、簡單に質問をまとめます。もう二、三お伺いしたいのですが、たとえばあなたたちいわゆる軍の中核であつたたちは、神州不滅の信念を持つてつた。それが承認必謹とか、あるいは経験の詔勅くらいで簡單に平和な民になれるものではないと私は考える。そういう人たちソビエトに入りましてどういう動きをしておつたか、そういうふうな動きがもしあつたとするならば、今日帰つた後においても、日の丸梯団に何か連絡があるように思われるか思われないか。私たちが日の丸梯団の報告書を見ますと、二二六事件の将校そつくりの考え方だと思う。こういうふうな意味合いで聞くのですが、入ソ中において民主化一反動の対立があつたと言われておるのですが、民族相剋の闘いというのは日本の軍組織の中にこそあつたと私は考える。そういうような意味におきまして今お尋ねしたのですが、神州不滅の信念を持つてつたたちが、單に承詔必謹の理念から中和な民に帰れるものでありましようか、ないか。帰れるものでなかつたならば、人ソ中にどんなことをしておつたか。その人たち日本に帰つて日の丸梯団に入つておるか、ないか、こういうことを聞きたい。
  386. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 神州不滅の考えを持つておる者が日の丸梯団に入つておるのではないかどうかということです。
  387. 横田甚太郎

    横田委員 あなたは戰争に狩り出されたのはあなたのお父さんが将軍であつて、あなたは職業軍人であつたと、こういうふうなことを言われますけれども、これは何もあなたが志願してやつたのではないのですが、そういうふうな意味において、戰争に行つたこと自体は、たれによつてつれ出されたというように考えられますか。もつと簡單に言うと、戰犯の責任が天皇にあるように思われますか。
  388. 板垣正

    板垣証人 戰犯の責任は天皇にもあると思われます。
  389. 横田甚太郎

    横田委員 あなたたちの中で言われている、また言つているように、真実の日本人に立ち返る、生れかわるということと、日の丸梯団の人たち言つておるように、日本人らしく意識の高揚した日本人になるという、この日本人ということを同じように使われているのですが、これの大きな違いは一体どこにあるように思われますか。
  390. 板垣正

    板垣証人 いわゆる日の丸梯団などの言う日本人らしいというところにはまだ昔の民族主義的な気持が非常に強く残つていると思います。ほんとうに真実の日本人として、働く者たち——結局現在の世界は、資本主義が逐次崩壊をして、社会主義の力が発展をして行く、そういう大きな世界の流れというものの中に日本人民勢力というものを結合して、そこにほんとう民族の生きる道が見出されると考えます。
  391. 横田甚太郎

    横田委員 もう二つだけ聞かせていただきます。そのうちの一つは、民主グループとあなたが関係なかりた以前において、日本人でありながら一しかも同じ捕虜でありながら、その捕虜が日本人のいわゆる捕虜を帰すのをじやましておるような感じを受けられたことがありますか。またそれから後において、あなたが民主グループに連絡をとられるようになつてから、その考え方が間違いであつたというような気持をお起しになつたことがありますか。
  392. 板垣正

    板垣証人 初めはそういう気持はありました。
  393. 横田甚太郎

    横田委員 実際はなかつたのですか。
  394. 板垣正

    板垣証人 実際は帰国問題に関しては指導部、民主グループ、そういうものは関係できない、一切入側が扱つたということを知りました。
  395. 横田甚太郎

    横田委員 最後にあなたが肉弾突入しろというような意味合いの教育を受けて行かれた戰争が終り、それでソ同盟で新世界を見て来られた、その結果はどうでありたこうであつたということは、ここに書かれた通りでないかもしれませんが、今日本に帰られて、私の記憶に間違いがなかつたならば、たしか公職追放に該当すると思うのでありますが、そんな目にあわされ、また考査委員会に呼び出されてしつこく根掘り葉掘り聞かれるあなたとして、そういう日本に対して一体どんな気持がしますか——わからなかつたらいいです。
  396. 板垣正

    板垣証人 結局徳田書記長の問題にしても、現在の日本共産党を誹誇して大衆から切り離す、共産党をあわよくば非合法に追い込もうという、こういう現在の国内の反共の一つの現われであります。そういう現われからして、根も葉もないこういうことをつくり上げて、高揚しておる人民の勢力を抑圧するというように私には考えられる。
  397. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなた方将校エラブカ收容所に集結して、そこに帰られたそのときには、その大部分が将校であつたのですか、ほかに兵士は入つておりませんでしたか。
  398. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 三十名あると言われておる。
  399. 板垣正

    板垣証人 他は大部分が将校です。
  400. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その将校の中に、われわれが日本に帰つたならば、新しい日本はこの旧将校中心にして再建いたさなければならない、そういう言葉の中には、以前の軍国主義的な日本の再建ということをも含めてそういう話がかわされておつたというような事実はありませんか。
  401. 板垣正

    板垣証人 当時の気持としては、第一次大戰後で敗れたドイツが復興したように、軍事力にしても警察力というものが逐次軍隊を復興して行く、そういうようにあくまで軍備を再建するという気持を当時は持つておりました。
  402. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そこでお尋ねいたしますが、そういう気持将校は、あなたの見られるところではどれくらい帰つて来ておると思われますか。
  403. 板垣正

    板垣証人 そういう気持のままですか。
  404. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうです。
  405. 板垣正

    板垣証人 その收容所には一万人の将校がおりました。その中で四七年、四八年までには大部分が帰つて来ておると思います。当時の状況としては、ナホトカまでまだ昔のままの階級章をつけて、昔のままの気持で帰つて来ておる者が大分おります。それで極端な軍国主義というものはあまり考えられませんけれども、まだ反ソ、反共的な気持というものを非常に根強く持つたまま帰つて来ておるということは考えられます。
  406. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうしますと今の日の丸梯団というのは、これはあなたの見られるところでは将校中心でありますか、どうですか。
  407. 板垣正

    板垣証人 私の船は旧将校中心になつておりました。
  408. 梨木作次郎

    ○梨木委員 この日の丸梯団の考え方というものは、やはり第一次大戰後のドイツの復興というもの、これが旧将校中心に行われた。それと同じような形で日本軍国主義の再建をしなければならぬというような考え方の上に立つておるのではないでしようか。それをどうお考えになりますか。
  409. 板垣正

    板垣証人 日の丸梯団には、これはやはりそういう一つの統一した意思は持つてないと考えます。長い間ずつと捕虜生活の間階級章をつけ続けて、そうして昔のそういう気持を持つてつた者、それから船の中でいつでも旗色のいい方にどちらでもつく、そういう行き方をしている人はどつちでもつきます。そういうふうにして舞鶴についた場合にも、この行動というものは非常にばらばらな統一をされないものがありました。こういうふうに一つの統一意思によつてまとめられたものではないと思います。そうして一番根強いものとしては、やはりいろいろな感情的な問題で、非常におもしろくない。生活を通じて、そういうようなところから——感情的なものから反ソ、反共的な気持が非常に強い。それは持つてお  ると思うのです。
  410. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それはそうすると、あなたの日の丸梯団についての知識というものは、私の持つておる材料によりますと、たとえば中央公論の三月号では、日の丸梯団はちやんと行動綱領というものを持つて、そうして統一した一つのあれを持つておるらしいのでありますが、だからあなたの今おつしやつたのは、あなたの知つておる程度のことなのでありますね。その後における日の丸梯団の活動状況というものはあなたは御存じないわけですね。そう承つていいわけですね。
  411. 板垣正

    板垣証人 はい。
  412. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなたの知つておられる程度ですね。
  413. 板垣正

    板垣証人 はい。
  414. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その後国内においていろいろな統一的な行動をやつておるらしいが、それはあなた御存じないわけですね。
  415. 板垣正

    板垣証人 そのことについては直接知りませんが、聞いてはおります。
  416. 梨木作次郎

    ○梨木委員 どの程度ですか。
  417. 板垣正

    板垣証人 引揚げ問題にしても、こういうことを反ソ、反共の方に結びつけて、国民の間にそういう感情をあおる。そういうような役割をやつておる。
  418. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その中にはやつぱりソビエトにも復讐しなければならぬというような考え方も相当含んでおるとあなたは見られまげ坊。
  419. 板垣正

    板垣証人 中にはそういう気持を持つて捗るものもあると思います。
  420. 梨木作次郎

    ○梨木委員 ところであなたがソビエトにおられまして、ソビエト人民に接しられまして、ソビエト人民日本人に対してどういう態度をとり、そこからどんな感情を抱いたか。
  421. 板垣正

    板垣証人 ソビエト人民というものは非常にいわゆる民族的な差別がない、民族的な偏見がない、そういうことを感じます。特にこれは單に人がいい、だから、だれでもそういうふうになつかしむというのじやなくして、そこにやはりたとえばロシヤ人がこういうことを言います。自分たちがもし日本に捕虜になつたらひどい目にあわされるかもしれぬ。しかしロシヤ人はそういうことをやらない。われわれはそういうなぐつたり、ひどい目にあわせない。それからそうやつて戰争に出ているけれども、決してそれはあなたたち自身戰争したくてやつて来たわけじやないだろう。そういうふうに接した場合にも、そこにいわゆる復讐感とか、われわれに対するところの偏見というものは感じられませんでした。
  422. 梨木作次郎

    ○梨木委員 戰争前の日本人というのは、他国と戰争するということをちつとも罪悪とか、犯罪だとか、いけないとかいうことを考えておりませんでしたね。今のソビエト人戰争というものに対してどういうような考え方を持つているかということを、ソビエト人との接触から感じられたことはありませんですか。
  423. 板垣正

    板垣証人 ソビエト人は現在社会主義社会を建設し、戰後の経済を復興して、さらに社会主義社会を共産主義に向つて建設して行く。そういう意味において平和的な建設ということに熱烈な希望を持つてつております。それで、われわれには戰争は必要はない。どのロシヤ人に聞いた場合にも、われわれには戰争は必要はない。われわれは非常に平和を愛している。しかしひとたびもし敵が侵入して来た場合には、これに対してはあのドイツのようにわれわれは必ず団結してこれを倒す。しかしながらあくまでわれわれには戰争は必要はない。そういうふうに平和を愛していると思つております。
  424. 安部俊吾

    ○安部委員 あなたは共産党員であり、日本共産党入党している。しかもこの委員会における共産党員である梨木君の誘導尋問によりまして、あなたはソ連に抑留された軍人の中でも、ちようど第一回の世界戰争後においてドイツの警官が軍隊的な訓練を受けて復興した。そういう考えを持つている元の将校がたくさん日本に来ている。そういうような証言に聞きとれましたが、これは重大な証言である。そういうことは何によつてあなたは確めてこの証言台において証言をされたか。それを聞きたい。
  425. 板垣正

    板垣証人 私が申し上げたのは、その当時にそういう気持を持つていた。そう申し上げたのであります。
  426. 安部俊吾

    ○安部委員 それではあなたの「真相小論」に書いておつたように、ある軍人はアクチーヴにつるし上げられて、その場合にぶるぶるふるえ、顔色をかえたので、上官に対する侮蔑を感じた。終戰直後ソ連に抑留された場合には、海外の事情を知らなかつたためにそういう考えを持つてつた人もあつたかもしれぬけれども、そり後そういうような元将校日本に帰還した中に、ドイツの復興のような考えを持つて日本がまだ復讐戰をやろうという考えを持つた人があるということをあなたは証言したわけではないですね。
  427. 板垣正

    板垣証人 私がかつてそういう気持を持つていたということを申し上げたのです。
  428. 安部俊吾

    ○安部委員 けれども梨木君の誘導尋問によつて、他の将校もそういう考えを持つてつて来たということを申しましたが……。
  429. 板垣正

    板垣証人 当時そういう考えを持つていたということを申し上げたのであります。
  430. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 済みました。御苦労さまでした。  それでは三十分間休憩いたします。     午後二時十一分休憩      ————◇—————     午後三時十一分開議
  431. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 会議を開きます。休憩前に引続き調査を続行いたします。  ただいまお見えの証人は、相原和光さん、小澤常次郎さん、お二人ですね。出頭要求の書類にも記載しておきましたごとく、これより日本共産党在外胞引揚妨害問題について、証言を求めることとなりますが、証言を求める前に、各証人に一言申し上げますが、昭和二十二年法律第二百二十五号議院における証人宣誓及び証言等に関する法律によりまして、証人証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならぬことと相なつております。  宣誓または証言を拒むことのできるのは証言証人または証人配偶者、四親等内血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係のあつた者及び証人の後見人または証人の後見を受ける者の刑事上の訴追または処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するとき、及び医師歯科医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁理士弁護人公証人、宗教または祷祀の職にある者、またはこれらの職にあつた者がその職務上知つた事実であつて黙秘すべきものについて尋問を受けたときに限られておりまして、それ以外には証言を拒むことはできないことになつております。しかして、証人が正当の理由がなくて宣誓または証言を拒んだときは、一年以下の禁錮または一万円以下の罰金に処せられ、かつ宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処せられることとなつておるのであります。一応このことを御承知になつておいていただきたいと思います。  では法律の定めるところによりまして証人宣誓を求めます。御起立を願います。  相原さん、読んでください。     〔証人相原和光君朗読〕    宣誓書   良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、また何事もつけ加えないことを誓います。     〔証人小澤常次郎君朗読〕    宣誓書   良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、また何事もつけ加えないことを誓います。
  432. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 署名捺印を願います。     〔各証人宣誓書署名捺印
  433. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 証言を求める順序は、相原さん、小澤さんといたしますから、小澤さんはもう一度元の控室でお待ちを願います。
  434. 小澤常次郎

    ○小澤証人 小澤は今晩友人の結婚式がありますので、なるべく早くやつていただきたいと思います。
  435. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは順序をかえましよう。小澤さんを先にして、相原さんはあとにしていただきます。相原さんはもとの控室でお待ちを願います。  こちらから聞きますときは腰かけておられてよろしいのですが、答弁せられるときは、委員長の許可を得て、立つて発言していただきたい。それから答弁は質問したことに対してのみお願いします。多岐にわたつたり、議論にわたらないように、簡明にお願いいたします。  小澤常次郎さんですね。
  436. 小澤常次郎

    ○小澤証人 そうです。
  437. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの職業及び年齢をまず承ります。
  438. 小澤常次郎

    ○小澤証人 職業は建築技師であります。生れば一九〇六年十一月三日。
  439. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 数え年で幾つになりますか。
  440. 小澤常次郎

    ○小澤証人 四十五才です。
  441. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの履歴、それから入ソ後の径路、これは荒筋でよろしゆうございますから、ちよつとお述べ願いたい。
  442. 小澤常次郎

    ○小澤証人 東京に生れました。学校は早稻田大学建築科を昭和六年に卒業しました。以後建築技術者として建築に従事しております。昭和二十年五月に、当時満洲におりまして、満洲竹中工務店に勤めておりました。そのときに五月に応召し、そうして関東軍六四六部隊に入隊いたしました。約三箇月間山の中で陣地構築をやりまして、八月に敗戰と同時に捕虜として入ソいたしました。入ソした箇所は第五地区であります。第五地区におりまして、一九四七年八月、第五地区の民主グループの議長になりました。一九四八年五月に、第四地区に転属を命ぜられ、第四地区に行きました。一九四八年六月に、第四地区の反フアシスト委員会の議長に選ばれました。一九四九年九月に、ハバロフスクに転属を命ぜられ、十一月に帰つて参りました。
  443. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたはまず最初に民主グループの議長になられて、それから反フアシスト委員会の議長になられた、こういうのですね。
  444. 小澤常次郎

    ○小澤証人 そうです。
  445. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それに至るまでの、いわゆる民主運動なるものの経過を概略お述べ願います。
  446. 小澤常次郎

    ○小澤証人 簡單に申し上げます。まず私たちが召集されまして陣地構築に従つている当時、関東軍の給與が非常に悪かつたのであります。この三箇月間に、われわれ老二等兵の中には多くの栄養失調者を出したのであります。そうしてこれが敗戰と同時にソ連領内に入りましてから、非常にその前の衰弱がたたりまして、ソ連領内で非常に多くの病弱者を出しました。そうしてこの病弱者は特に私たち老二等兵を初めとして、下級の兵士に多かつたのであります。この中でわれわれが感じたことは、常に当時の軍隊の旧将校たち言つておることは、お前たちは捕虜ではない。捕虜ではなくて復員せざる軍人である。従つて軍隊的規律を守らなければならない。上官の命令には絶対に従わなければならない。こういう立場から、旧軍隊と同じようにびんたの中に暮したのであります。そうしてこの中でわれわれの糧秣その他を将校たちが横領し、そうして彼ら並びに一部の下士官によつて、これがわれわれの間には非常にわずかしか配給されなかつた。そのためにただでさえ弱つていたからだであつたために、さらに多くの栄養失調者を出したのであります。ところが私たち感じたことは、このような状態にありまして、ソビエト側は非常にわれわれから房聖者難して作業その他においても厚い配慮があつたのであります。たとえば私のごときは、三級者として一日四時間の労働しか與えられていなかつたのであります。それでもわれわれはからだはますます衰弱して行きました。そうして四五年の終りころから私はオーカーというので、特に病弱者として労働を免除されております。そうして労働を免除されて約半年間毎日寝て暮したのであります。これはもちろんからだを動かすのは何でもないのですけれども、衰弱しているのを回復させるためにそのような処置をとつてくれたのであります。われわれはこういつたソビエト側の配慮から見て、われわれにとつてこれはまことに意外なことであつた従つて将校たちに、お前たちは捕虜ではない、復員せざる軍人であると言われたことも、なるほどこのようなソビエト側の配慮もそういうことに原因するのじやないかというくらいにわれわれは考えておつたのであります。ところが四六年の春先ごろになりましても、やはり食糧の問題はあまり改善されなかつた。たとえば班長とか小隊長とか、中隊長とかいうのが、ほとんど彼らは二度食いぐらいはやつているわけです。食事をもらいに行きましても、彼らは一度そこで食つて、さらに兵舎へ帰つて来てからまた食うというふうな状況が続けられておつた。これに対してわれわれ兵隊たちは非常な不満を持ちまして、そうしてこのような班長や小隊長がおつたんではいけないというわけで、私のおりました小隊では遂に班長を選挙したのであります。班長を選挙しましてから、班内の少くとも食事の分配についての不公平はなくなつて来た。それでさらに小隊長も選挙をやつたのであります。そうして小隊長の選挙をやつた結果として、さらに小隊全体としての食事の横領その他がだんだんなくなつて来たのであります。しかしながらわれわれの收容所全体としては、これは相変らずそういう全般的な状態があつた。ところが私は小隊長の選挙をみなに提唱してやつたということをもつて、夜中に突然呼出されまして、やみ討ちをくらつたのであります。こういうようなことも再三ありました。そのうちで私たちの小隊のやつたことが收容所全体の大衆の気持と合つて、そうして全体にこの問題について大きなシヨックを與えたのです。特に私の小隊でもつて選挙をやりましてから、小隊長として選挙されたのが兵長の人でした。下士官その他がいるのに兵長が小隊長になつたために、これは元の階級をそのまま残しておいたのでは治まりがつかないのではないかというところから、私のところでは階級章を撤廃いたしました。これは非常に大きな衝撃を大衆の間に與えました。そうして私の收容所全体がこの階級章撤廃をとなえまして、私の收容所は全部階級章を四七年の五月ごろに撤廃いたしました。それからもちろん撤廃するまでに将校の猛烈な反対があつた。私に加えられた暴行もそういつた一つの現われであります。こういう反軍的な、横暴をきわめた旧幹部に対する反抗、こういつた闘争の中から民主運動が目ざめて来たのであります。こういつた状態になつて、初めて日本の状況を日本新聞によつて知るようになり、そうして今庄でみたいな軍国主義的な考え方ではいけない、もつと民主主義的な平和な世の中をつくるようにわれわれは勉強しなければならない。こういう気持から民主運動が起りました。私のおりました第五地区全般に、大体においてこういう径路をたどつて民主運動が自然発生的に各所に起つたのであります。これらの者たちが漸次将校のそういう今までの圧制を投げ飛ばした結果として、兵隊たちの間から、それぞれの技術を持つている者には、それぞれの能力を生かした仕事が與えられるようになりました。私は建築家でありますから、建築の面において監督の方の仕事をやりました。そのために仕事の能率もしろうとがやるのとは違つてつて来ました。そうしてわれわれの生活状態も、作業成績の増進とともに向上して参つたのであります。これがみなの間に広まりまして、民主運動が地区全体に起り、そうして私が民主グループの議長として選ばれるようになつたのであります。
  447. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 民主グループというのは、そうすると反軍闘争と民主教育をする一つ団体と、こう聞いてよろしいのですか。
  448. 小澤常次郎

    ○小澤証人 民主グループというのは、そのように旧軍隊の幹部のやり方に対して反対するのに、一人でやつてはとてもできません。私が現に夜中に呼び出されて暴行を受けたのと同じように、各所にこういうことが起つたのであります。従つて下級の兵隊たちは、みなで力を合せなければだめだということを知つて来て、そうしてそこに自然にグループができた。これは日本の現状を知り、また過去における日本の犯罪的な戰争の本質を知つて、勉強するという気が起つて来た、決して教育を強制されたりなんかしたものではなくて、そういう中から自然にみなが勉強しようという気持が起つて来た。だからああいう戰争をやらない、ほんとうの平和なゆたかな日本をつくるのには、どうしたらよいかということが大きな関心となつて、みなが勉強し始めたというわけであります。
  449. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうすると研究会ですか。
  450. 小澤常次郎

    ○小澤証人 研究会です。
  451. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それからさらに進んで反フアシスト委員会というものができたそうですが、これはどういう目的でできたのですか。
  452. 小澤常次郎

    ○小澤証人 反フアシスト委員会というのは、これは最初のうちは、こういつたようた民主主義的な気持を持つた人は非常に少数でありました。それがだんだんとそういう運動が発展して来ますと、大部分の者が民主主義に賛成にたるようになりました。従つて一小グループだけの研究会ではなくて、全体の手でもつて自分たち生活をよくしようじやないか、作業から何から、一切自分たちの手でやろうじやないかということになつて来たわけであります。従つてその指導者としては、全体の中から選挙されて選ばれた人がやるべきであるかという意見が起つて来た。そこでフアシスト的な思想に反対をし、フアシスト的な今までの行動に反対する人たち、これらが全体として反フアシスト委員会の結成をしたのであります。
  453. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それで同様な原因から、あなたは委員会の議長になられたのでしような。
  454. 小澤常次郎

    ○小澤証人 そうでございます。
  455. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなた方の言われる民主主義ということは、ソ連で行われておる共産主義ということと相一致するものですか。
  456. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私たちはどこまでも、この運動は反フアシスト運動としてやつた。それはフアシズムに反対するという思想であります。それは共産主義でむ何でもない。みな戰争に反対し、軍国主義に反対する、こういう思想であります。そこでもちろん戰争に反対し、軍国主義に反対するのは民主主義でありますから、こういう本来の……。
  457. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ソ連においては、共産主義以外のことは許されますか。
  458. 小澤常次郎

    ○小澤証人 それは許されます。民主主義ならば……。だから私たち運動は、最初から反フアシストの運動であります。
  459. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは英米で言うデモクラシーということは許されるのですか。
  460. 小澤常次郎

    ○小澤証人 デモクラシーですね。民主グループ員、反フアシストの者は、向うではデモクラートと言つております。
  461. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ソ連においては、いわゆる白にあらざれば黒で、共産主義か、しからざるものかに判然区別しておるように言つておる者が現におるのですが、あなたの言われるのとはちよつと違うのですが、間違いありませんんか。
  462. 小澤常次郎

    ○小澤証人 そんなことはありません。
  463. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それ以上は議論になりますから、よいでしよう。  この反フアシスト委員会では、帰国者の選定に関して何らか関係のあることをなされたことはありますか。
  464. 小澤常次郎

    ○小澤証人 帰国の問題については、これは全部ソ連側の責任においてやつております。別に反フアシスト委員会としては関與しておりません。
  465. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 意見を求めるとか、参考資料を求めるということはあつたのではありませんか。
  466. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私の知つておる範囲では、そういうことはありません。あるいは他の地区では、そういうことはあつたかもしれませんが、私の知つておる範囲では……。
  467. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 他の地区というとどの辺ですか。
  468. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私の知らない所においてという意味であります。今の問題について、なお——ただわれわれとしては、また再び日本軍国主義日本にもどそうとするような者、そういう人たちの思想を、私たちはぜひとも直さなければならないというように考えておりました。別に帰国の問題については、それを云々するのではなくて、これは全部ソビエト側の決定によつてつておりました。
  469. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 軍国思想の者は直さなければいかぬというのは、それに直らぬ者に日本に帰られてはいかぬということもつけ加えられるのではありませんか。
  470. 小澤常次郎

    ○小澤証人 その問題については、その選定がソビエト側にありますから、われわれの関することではありません。
  471. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 帰られてから日本帰還者同盟というものをおつくりになつたというのですが、それをあなたは御存じですか。
  472. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私が帰る前から日本帰還者同盟——私は昨年の暮れに帰つてつたのでありますが、それ以前からありました。
  473. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたはその中にお入りになつておりますか。
  474. 小澤常次郎

    ○小澤証人 入つております。
  475. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはいつころからつくられて、どういうものなんですか。
  476. 小澤常次郎

    ○小澤証人 いつころからつくられたかということは私はよく知りませんが、現在帰還者同盟のやつておることは、これは帰つて参りまして——私の例を申し上げますと、私は満洲の奉天におりまして、竹中工務店の奉天の支店次長であり、工務部長をやつてつたのでありますが、帰つて来ましたら、ソ連から帰つたというだけで首になつたのであります。こういう人は非常に多いのであります。われわれ帰還者の大部分がこういう目にあつておるのです。従つてわれわれがほんとうに力を合せてこういう問題をお互いに救済しなければ、われわれは生きて行くことができないのです。従つてそういう生活擁護の目的をもつて帰還者同盟があつたから入つたのであります。
  477. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうすると帰還者の生活擁護連盟ですね。そう聞いてよろしうございますね。
  478. 小澤常次郎

    ○小澤証人 そうです。
  479. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それで、それに対してどういう実践運動をやつておられますか。
  480. 小澤常次郎

    ○小澤証人 これは帰還者がお互いに協同組合をつくつたり、あるいは就職のお互いのあつせんをし合つたり、そういつた生活の擁護のために、あるいは遺家族の慰問をやつたり、そういうことをやります。
  481. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これは政治団体なのですか。單なるそういう団体ですか。
  482. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私は政治団体とは思つておりません。
  483. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 別に届出もしておりませんね。
  484. 小澤常次郎

    ○小澤証人 しかしこれは私の聞くとこるによりますと、届け出ろというあれがあつたそうであります。それでこれは一応の届出はやつておるそうであります。
  485. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなた方は在ソ中にスターリンに対する感謝決議として誓いの文を上呈せられたそうですが、そういう事実はございましたか。
  486. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私たちが四年間もあすこにおせわになりまして、われわれはこれに対して当然感謝の意を表するという意味感謝文を出しました。しかし誓いというようなことはやりませんでした。
  487. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これは日本文で書いたのですか。ロシヤ文で書いたのですか。
  488. 小澤常次郎

    ○小澤証人 日本文であります。
  489. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 露語も中につけ加えてあるのですか。
  490. 小澤常次郎

    ○小澤証人 いや、全然露語は一字もありません。
  491. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 誓いじやないのですか。
  492. 小澤常次郎

    ○小澤証人 誓いじやありません。感謝文であります。
  493. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 感謝決議となつてつたそうですが、中に入つておるのは誓いじやないですか。
  494. 小澤常次郎

    ○小澤証人 誓いじやありません。
  495. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ところが日本新聞にはこれに対して單なる誓いどころではない。聖なる誓いと言つておるのですが、これはどういう意味ですか。
  496. 小澤常次郎

    ○小澤証人 それはそれぞれの人々がこれをどういうふうにとるかという問題だろうと思います。それはたとえばその署名をする人が——これは感謝文そのものはどこまでも感謝文です。ただそれに対して署名する人たちがどういう気持か、これは個人々々の考え方だろうと思います。だから中にはいろいろな人がおりますから、その点でそういうことを書いた人があつたとするならば、それはその人自身気持だろうと思います。
  497. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 一九四九年六月二十五日の日本新聞、これに「感激新たに各地区署名式」として……。こういう署名式はあつたんでしような。
  498. 小澤常次郎

    ○小澤証人 各收容所において署名式をやりました。
  499. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その中に同志スターリンへの誓いを果さんと書いてありますが、同志スターリンへの誓いを果さん……。
  500. 小澤常次郎

    ○小澤証人 それはさつき言つた通りだろうと思います。その人によつてそれを誓いととる人もあるし、感謝としてとる人もあるし、それはいろいろある。
  501. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうでなく、その式で書き出したそのものです、式場における……。そういうことであんた方は署名式をやられたんでしよう。
  502. 小澤常次郎

    ○小澤証人 これは私の所ではありませんから、それぞれみなそういつたあれをもつてつたんでしよう。誓いとしてやつた所もあるだろうし、誓いという気持を表現した人もあるでしようね。それはそれぞれの個々の意思で、たといわれわれが誓いと言つたところで、それを誓いと感じない人もあるだろうし、それは個々の意思だろうと思います。
  503. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 決議をしたのだそうですね、各支部で。
  504. 小澤常次郎

    ○小澤証人 感謝文を出そうという決議です。それだけです。
  505. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その決議によつてみな署名したのでしよう。その決議の内容が誓いであつたのじやないですか。
  506. 小澤常次郎

    ○小澤証人 それは感謝文であります。決して誓いではありません。誓いという言葉——私は覚えてい、ませんが、そういう言葉はなかつたと思う。
  507. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは日本新聞はあなた方の意思と反したものを書いて出したのですか。
  508. 小澤常次郎

    ○小澤証人 それはわれわれと日本新聞とは違いますから……。
  509. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうですが、まあいいでしよう。なおこの民主グループとして、あなたの言われる研究というか、お互いに研鑑し合つたのでしようが、そのうち最も重要に使われた言葉は人間変革という言葉だつたと聞いておりますが、そういう事実はありましたか。
  510. 小澤常次郎

    ○小澤証人 人間変革という言葉はありました。またわれわれ自身も人間変革をしたと思つております。私は政治的には無知な一技術者であります。それがやはり過去において、日本軍国主義的な行き方に、われわれはある程度そういうふうなことに対してそれが正しいというふうに考えて来たのであります。これがソ連生活の中で目ざめて、民主主義でなければいけないというところまで成長して来た。このことをもつて人間的変革というふうに言つているんだろうと思います。また事実、かつて百姓やあるいは貧しい労働者の家庭で生れて、字もろくに読めなかつたような人たちが、あすこのわずか一年か二年ぐらいの勉強でもつて新聞も読めるようになつた人がたくさんあります。そういうようなところから言つても、人間変革と言えると思います。
  511. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 新聞を読めるようになつたことが人間変革というのはちよつと受取れないですよ。
  512. 小澤常次郎

    ○小澤証人 これは新聞を読めるということは、ただ單に新聞を読んだということじやなくて一民主主義的になつたということであります。そういう意味です。
  513. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それならいいだろうが、新聞を読めるようになつただけでは……。この間あなた何かえらく私に面会を求めて来たそうで、私は忙しくて会えなかつたんだが、あれはどういうことで面会を求められたのですか。
  514. 小澤常次郎

    ○小澤証人 それは菅君の問題についてちよつとお話したいと思つておりました。
  515. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 この日本帰還者同盟の方と言つておいでになつたようですね。
  516. 小澤常次郎

    ○小澤証人 ええそうです。
  517. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 日本帰還者同盟として、どういうことを委員長である私に申し出たかつたのですか。
  518. 小澤常次郎

    ○小澤証人 日本帰還者同盟の者として、委員長に一言菅さんの厘とについてお話したいと思つておりました。
  519. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 今度私のところに公開状として何か……。このことですか。
  520. 小澤常次郎

    ○小澤証人 そうです。
  521. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何かありますか。
  522. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 証人にお尋ねしますが、証人はただいまの証言で、四年間非常におせわになつたということを申されましたが、四年間のいわゆる抑留生活で、ソビエトに対しましてあなたは非常におせわになつたという感謝気持を現在持つていらつしやるのかどうか。
  523. 小澤常次郎

    ○小澤証人 感謝気持を持つております。
  524. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 あなたはポツダム宣言に、武装解除されたその国の軍隊は、ただちにその国へ帰つて中和的な生産的な生活を営ましめなければならないというポツダム宣言の條項を御存じでございますか。
  525. 小澤常次郎

    ○小澤証人 知つております。
  526. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そのポツダム宣言に基いて、各国が日本のいわゆる同胞、あるいは当時の軍人、その方々が時期は多少ずれたかむしれませんが、ただちに帰国されたという情報等もお聞きになつていらつしやいましたか。
  527. 小澤常次郎

    ○小澤証人 帰国の問題については、ソビエト以外の所の方が先に帰つたということは聞いております。
  528. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そういたしますと、ソビエトも連合軍でありますが、他の国のいわゆる抑留者あるいは同胞はた、だちに帰したにもかかわらず、ソビエトが終戰後二年三年四年と、その條約に違反して帰さなかつたという、そのソビエトの行動をあなたは條約違反だとは考えておりませんですか。
  529. 小澤常次郎

    ○小澤証人 そういうことは国際的な問題であつて、私の知るところではありません。しかしながら平和的生産的業務に復さしめるべしということは、帰つた人間に職を與えて生活を保障すること、だと思つておりました。
  530. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 答弁するのにそんな態度でやつちや困る。証言すればいい。
  531. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 証言を求めているのです。
  532. 小澤常次郎

    ○小澤証人 いや証言です。
  533. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そういうことが証言なら、それなら要するに国際的な問題はどちらでもよろしい。そうしたらあなたは常識として、連合軍できめたそのものを実行しないソビエトのやり方を、スターリンのやり方をあなたは人道的に考えてどう見ますか。
  534. 小澤常次郎

    ○小澤証人 帰還の問題についてはわれわれの知るところではありません。これは連合軍の間で協定がなされてやられたものだと私は考えております。しかしながらポツダム宣言に違反しているかとか何とかという問題については、平和的生産的業務に復さしめないことこそポツダム宣言に違反しているものと私は解釈しております。
  535. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 いわゆる中和的生産的な生活を営ましめているか営ましめていないかは、帰つて来なければわからないのじやないですか。向うに抑留されていてはたしてすべての者が就職するかどうかということは、帰つてみなければわからない。そのことについて帰さないことそのことをあなたはどう考えていますか。
  536. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私は何へんも言つております通り、帰す帰さぬという問題はわれわれの問題じやない。それは米ソ間で協定がなされてやられておるものと私は聞いております。
  537. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 質問は、あなたに関係したことではないけれども、あなたはそれをどう考えておつたかということを聞いておるのです。
  538. 小澤常次郎

    ○小澤証人 だから言つておる通り、これは米ソ協定によつてなされておるものと考えておりました。それだけであります。
  539. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そうしたら三年も四年も置くのはあたりまえのことだと考えておりますか。
  540. 小澤常次郎

    ○小澤証人 これはあたりまえであるとかないとかいうことではなくて、日本を現在占領しておる連合国においてなされたのであつて、当然日本政府もこれに参加しておるものと思つて、われわれは何ら不審を抱かなかすたのであります。
  541. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 長く置かれたことをこの証人は何らふしぎとも思つてない。しかも連合国においてなされたと言いますが、連合国の大部分はことごとく帰したのであります。ただソビエト一つのみが実行しなかつた。そのことをあなたは当然と考えるのですか。もう一度確認を願いたい。
  542. 小澤常次郎

    ○小澤証人 日本を占領しておる連合国の一員であるソビエト同盟が、当然米ソ協定においてなされておると思われる問題について、われわれがとやかく言うべきではないと考えております。
  543. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 極東委員会その他等において、シーボルド議長を初めとして、この引揚げ問題が再三論議せられ、また連合国から早く帰してもらいたいという要請等のあつたことを、ソ連においては御存じなかつたかもしれませんが、帰られてからそういうことがあつたということをあなたはお聞きでございますか。
  544. 小澤常次郎

    ○小澤証人 帰つてからそういうことについて、新聞を見て知りました。
  545. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そこでそういうことを連合軍が要請しておるにもかかわらず、三年も四年もソビエトが置いたということはおわかりでしよう。だからそのことについて連合軍も要請し、日本においても国会を初めとして、あらゆる民間団体が早く帰してもらいたいという要請をしたことも、当然あなたは御存じだろうと思う。そういうふうに国をあげて、また連合軍をあげて要請しておるにもかかわらず、置かれておるというこの実態から見ても、あなたは今なおこれは当然であるとお考えになりますか。再度御証言を願います。
  546. 小澤常次郎

    ○小澤証人 当然であるとかないとかいう問題でなくて、そういうことはわれわれに聞く問題ではないということを言つておるのであります。委員の方々が言われておるように、われわれの帰還することを非常に切望し、いろいろと心配していただいておることはわかるのであります。しからば何のためにわれわれの帰ることを希望しておるか、それはわれわれが日本に帰つて平和な生活を営むことを希望して、そういうことをやられたのだろうと思います。この点においてはなはだ遺憾ながら、われわれ帰還者の八〇%以上は失業して、餓死と貧窮のどん底にあることを訴えなければならぬのであります。
  547. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 小澤君は八〇%とはつきりおつしやつて、餓死と失業の中に飛び込んでおるということでありますが、その点議論すれば長くなりますからやめます。あなたはた、だいまどこかの政党に所属しておられますか。
  548. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私は共産党入党を申し込んでありますが、まだ確認がありません。
  549. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 もう一つお伺いいたします。あなたはソビエトの抑留者生活中の待遇がよかつたということを申したのでありますが、そのよかつたというのはどういう点がよかつたのか、具体的にひとつお述べを願いたい。
  550. 小澤常次郎

    ○小澤証人 少くとも帰つて来てからのわれわれの生活より、ソビエト同盟における生活がよかつたということをもつてそう思います。
  551. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 收容所によつていろいろ違いますが、ある收容所のごときはたいがい一收容所に千人程度おるのでありますが、その中で、事実として約四分の一の二百五十名の抑留者が一年足らずのうちに死亡した。しかもその死亡した人の扱い方というものは、従来の証人証言によると、ことごとく上衣を腕がして、あるいはズボンをとつて、ふんどし一つにして、あの零下四十度の中に積み上げていたという事実を証言しております。こうした取扱いをするようなソビエトの抑留者に対するやり方が、それをあなたは知らないとおつしやるかもしれませんが、この委員会において速記をとつて、しかも宣誓した証言でありますから、われわれはその証言を信頼いたします。そのことをあなたは初めて聞くのかもしりませんが、そういう事実があつたとしても、なおかつソビエトのやり方は非常に待遇がよかつたということを証言できますか、それをお伺いしたいのであります。
  552. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私は、私の経験の範囲内のことしか申し上げられません。そのことをまず先に御了解願いたい。私のおつたところでそういうようなことはありませんでした。従つて私はそういうことは知りません。しかしわれわれのいた範囲内においては、病人なんかに対しても十分な手当をなしたし、死者に対しても十分な手当がなされたのであります心
  553. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そこであなたに一つお伺いしたいのは、先ほど委員長からも聞かれましたが、スターリンへの誓いあるいは決議、これもけつこうです。これはその人人の考えによつて違うとおつしやいましたが、あなた個人の当時決議をなざれたそのお気持は、日本新聞に出ていたような、ああいう誓いのような程度のものでありましたか、それとも決議されましたからしかたなくやつたのか、あるいは進んでやつたのか、その当時の個人の気持をお伺いしたい。
  554. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私はどこまでも深い感謝気持をもつてやりました。
  555. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 よろしいです。
  556. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 質問はありませんか。
  557. 内藤隆

    内藤(隆)委員 あなたは竹中の会社におつて、満洲に行つておられたのですか。
  558. 小澤常次郎

    ○小澤証人 そうであります。
  559. 内藤隆

    内藤(隆)委員 満洲で竹中建設の仕事をしておられたのですね。
  560. 小澤常次郎

    ○小澤証人 そうであります。
  561. 内藤隆

    内藤(隆)委員 竹中は満洲でどういう仕事をおもにやつておりましたか。
  562. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私の竹中におりましたのは約一年間であります。やつておりましたのは、建築の方としては鉄骨であります。おもに安東の軽金属の工事をやつておりました。
  563. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そうすると、満洲帝国の建設のために竹中に行つてつたのですね。
  564. 小澤常次郎

    ○小澤証人 そうであります。
  565. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そうすると、あなたも満洲侵略の手先になつたこともあるわけですね。
  566. 小澤常次郎

    ○小澤証人 そうであります。
  567. 内藤隆

    内藤(隆)委員 あなたは最初二度食いをする将校があつたということを証言したが、一体向うの俘虜生活の飯を食うときには、どういう組織で食つておりましたか。何か切符制度でもあるのですか。また自由に食えるのですか。
  568. 小澤常次郎

    ○小澤証人 一番最初は旧軍隊式のやり方で、それぞれの各小隊あるいは班がバツカンを持つて——バツカンというのは軍隊の言葉だから御存じかどうか知らぬが、バツカソを持つてこれをとりに来ます。そうしてこれを自分の部屋へ持つて来て分配します。分配するときには、班長がまず上の方におつてにらんでおります。そういうやり方で配ります。
  569. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そうすると、最初はそういう軍隊式にやつてつたが、だんだん俘虜の生活程度が上つて来るに従つて、何か切符制度であつたという証言をした証人がありますが、あなたの方はそうでなかつたか。
  570. 小澤常次郎

    ○小澤証人 食堂制になりまして、パンも目方を一々はかります。それから糧秣の量も……。
  571. 内藤隆

    内藤(隆)委員 その食堂制になつてからも二度食いをする将校がおりましたか。
  572. 小澤常次郎

    ○小澤証人 食堂制になつたのは、これは将校たちをたたき出してからであります。しかしながら将校はもちろんそのころでも残つておるのがあります。この中でほんとうに民主主義に目ざめた将校もありますし、悪いのもあります。こういうのは、炊事の係とぐるになつて二度食いをしておつたのがあります。
  573. 内藤隆

    内藤(隆)委員 それは組織があいまいであつたのですね。それではあなたは反ファシスト委員会の議長をやつたことがありますね。
  574. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 さつきあると言つた
  575. 内藤隆

    内藤(隆)委員 ところがその反フアシスト委員会の仕事は、先般来のあなたの共鳴しておられる共産党の方の証人証言にもありましたが、帰国者の選定まではしませんけれども、だれだれを帰すかという向うからの諮問があつだ場合、これに参考として何らか答申をしておつたという証言があるのですが、あなたの証言は全然さようなものに関係ないとおつしやる。どつちがほんとうですか。
  576. 小澤常次郎

    ○小澤証人 これは私がそういう問題について諮問されたことはあむません。
  577. 内藤隆

    内藤(隆)委員 議長であつても……。
  578. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私は議長でありましたが、地区の議長をやつておりまして、これはやられたことはありません。しかしながら各收容所において、そういう諮問があつたことはあります。
  579. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そのときに反フアシスト委員会は、それを選定する権限はないけれども、それに参考として何らかあなたは答申したでしよう。
  580. 小澤常次郎

    ○小澤証人 その意見といいましても、これはほとんどソビエト側は、一応皆の意見を聞くということも形式的なものであつて、これに対してほとんどその意見が云々というようなことはなかつたのであります。
  581. 内藤隆

    内藤(隆)委員 けれども参考として聞きに来た以上は、何らかそこに参考にするために来たのでしよう。そうすれば帰国選定に対して、相当の役割を反ファシスト委員会は演じておつたと思われますが、いかがですか。
  582. 小澤常次郎

    ○小澤証人 この問題はこういう問題があります。私の地区の例でありましたが、これは大澤という、例の細菌戦術の七三一部隊ですが、そこにいた人間があります。これは非常に巧妙にもぐつていた。そういうような細菌戰犯や何かの問題が起つて来るに従つて、元そういう部隊のもの、あるいは特務機関その他のものは名前をかえたりいろいろなことをして隠れております。これははつきりと戰犯分子です。こういう戰犯分子をソビエト側の方では捜索しておりました。われわれもこういう戰犯分子に対しては、当然処分するのが正しいと考えておりました。そういうようなために、そういう意見を徴せられたことはあると思います。
  583. 内藤隆

    内藤(隆)委員 戰犯を判定するのはどなたですか。
  584. 小澤常次郎

    ○小澤証人 それはソビエト側です。
  585. 内藤隆

    内藤(隆)委員 あなたの証言ではこういうものがあるとまず前提に置かれましたが、それはどういうわけですか。
  586. 小澤常次郎

    ○小澤証人 七三一部隊のようなもの、こういうようなものはわれわれはやはり戰犯と思います。
  587. 内藤隆

    内藤(隆)委員 その部隊のことをあなたはどこでお聞きになつたのですか。
  588. 小澤常次郎

    ○小澤証人 七三一部隊のことですか——それは日本新聞に発表になつております。
  589. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そうすると、あなた方は日本新聞のいわゆる判定によつてこれを戰犯と裏書きして、参考としてソ連側に出したのですね。
  590. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私が出したとは言いません。これは私の地区に大澤という事実においてそういう残虐な行為をやつてつた者があります。これは私は話を聞いて知つております。
  591. 内藤隆

    内藤(隆)委員 もし共産党に共鳴しない、あるいは何と申しまするか、民主グループに入らない、そういう人々を反動分子ととなえて、あなた方はこれを参考にしては帰国をおくらしておつたことは、これはほかの証言から見ると十分に速記に残つておる。そういう事実をあなたは否定されますか。
  592. 小澤常次郎

    ○小澤証人 はつきり否定します。そういう事実は絶対にありません。もしあつたとすれば、これは私はこういう点をあげたいと思います。それはその軍国主義的な行き方がやがてみんなの力でやれなくなつて来ると、一部の将校あるいは特務機関、憲兵、警官等の中において、巧みに民主主義者づらをしてもぐり込ん、だやつがたくさんおります。これらはほんとう民主主義者が出て来ると、これをいろいろと中傷をして、そうしてこれらのものをいわゆるつるし上げたりなんかして悪いことをやつております。おそらくそういう連中でしよう。
  593. 内藤隆

    内藤(隆)委員 あなたは民主グループづらをしたやつを摘発した覚えもないのですね。
  594. 小澤常次郎

    ○小澤証人 そういうやつはあります。たとえば民主グループの中にもぐり込んで、実際においてはこの民主運動を妨害しようとした者があります。そういう者があるということを言つたのです。
  595. 内藤隆

    内藤(隆)委員 私はそういう者を摘発したことがあるかどうかということを聞いておる。
  596. 小澤常次郎

    ○小澤証人 摘発というのはどういう意味ですか。
  597. 内藤隆

    内藤(隆)委員 参考として……。
  598. 小澤常次郎

    ○小澤証人 それは私はいたしません。
  599. 内藤隆

    内藤(隆)委員 委員会でも……。
  600. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私の言うのは、これらのものがそういうことをやつたことがあるということを言つている。
  601. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そういうことを参考として向うへ出したことがあるかどうか。
  602. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私がやつたのではなくして、それらのにぜ民主グループが、にせものが自分の気に入らない、やつをそういう中傷したことがあるということを言つたのです。
  603. 内藤隆

    内藤(隆)委員 にせものはやつたけれども、自分たちはやらなかつたというのですか。
  604. 小澤常次郎

    ○小澤証人 われわれはやりません。
  605. 内藤隆

    内藤(隆)委員 それからもう一つ、君の今の証言ソ連から帰るとただちに竹中から首櫓なつた言つて憤慨された。まことにお気の毒です。それは帰還者として首になつたのではない。何か他に原因がありませんか。理由がありませんか。
  606. 小澤常次郎

    ○小澤証人 具体的に言いましよう。私は竹中に入つて一年とおらなかつた。それから以後も——その一年間においても、私のような新入社のものを重要な部署につけて使つていたわけであります。しかし帰つて来まして、私は竹中へ復職をしてもちろんもらえるものと思つておりました。そうしたところが竹中の方では、一応満洲竹中工務店は名義上解散されているという形で復職を拒否して来ました。しかしながら満洲竹中工務店に勤めておつたもので現在竹中に勤めているものがいるのであります。そういうところから行くならば、事実においてシベリアから帰つたからだということになると思います。
  607. 内藤隆

    内藤(隆)委員 あまりに露骨に共産主義を宣伝したり、共産党員であるがためにやられたのではないのか。
  608. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私は帰つて来たばかりでありますから、共産定義の宣伝も何もいたしません。
  609. 内藤隆

    内藤(隆)委員 それからあなたの話を聞いていると、まことにいわゆる共産党の祖国ソ連は天国のようにあなたたちおつしやるが、そういう方々がなぜ帰つておいでになるのですか。
  610. 小澤常次郎

    ○小澤証人 その質問はおかしなものだと思います。さつきはつきりポリダム宣言にちやんとあるという條項が述べられております。だからそんなことは実につまらぬ話だと思います。
  611. 内藤隆

    内藤(隆)委員 しかし希望しておつたんでしよう。向うにおるときはまるまると太つてつたが、こちらへ帰つて来たらただちに細々とやせる。そういう国にあなた方はなぜお帰りになるか。ちよりと私たちには考えられないのだ。(発言する者あり)もう答えなくてもいい。
  612. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 証言を求められたら、その範囲内でとどめておかなければならぬ。委員と言い争うような態度ははなはだ困る。
  613. 小澤常次郎

    ○小澤証人 ちよつと伺いますが、私はここへ被告として来たのではなく、証人として来ておるのであります。従つて証人としての人格を認めるべきだと思います。
  614. 安部俊吾

    ○安部委員 証人に伺いますが、ゲー・ペーウーの後身で、今MVDという国家警察の機関があるのですが、そのMVDというものとあなた方が收容所において何か接触したことがありますか。
  615. 小澤常次郎

    ○小澤証人 MVDとかいうようなのも私は知りません。そういうことについては、かえつて御質問者の方がよく知つておられるのじやないかと思います。
  616. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そういうことを言うからいけない。知らないなら知らないと言つたらいい。     〔発言する者あり〕
  617. 安部俊吾

    ○安部委員 われわれは証人もて、相当礼儀を益して聞くのですから……。それで收容所の内部に、いろいろMVDの関係があつて、そうしてそこにスパイ網がしかれておつたというような情報があるのでありますが、それは特にあなたが議長であつたところの反フアシスト委員会というものにつながりがあつた。こういうことの証言もあり、またそういう情報もあるのでありますが、確かにあなたはこのMVDというものと何らの関係もなかつたですな。
  618. 小澤常次郎

    ○小澤証人 何の関係もありません。
  619. 安部俊吾

    ○安部委員 それではそこにスパイ——スパイといつてもあなたは否定されるでしようが、具体的に申しますれば、共産主義教育にじやまになる者の排除の奏に、いろいろな密告もしくは摘発というようなことがあつた。第二番目には反ソ、反動分子——何か共産党に対して協力せぬとか、あるいは共産党教育に対して協調しないとか、そういう反動分子の摘発。第三番目には戰犯容疑者。それはソ連意味戰犯容疑者である。東京裁判における戰犯意味でなくして、單に前職者であつた、憲兵であつたとか特務機関におつたとか、警察官であつたとか、検察官であつたとか、将校であつたとか、高級官吏であつたとか、そういう前職にあつた者を特にあなた方民主グループとかアクチーヴ、あるいは反フアシスト委員会委員なるものが調査して、そうしてそういう者の的確な情報を與えた。こういうことは一つのスパイ的行為だ。それから第四番目には民主化の徹底的工作のために、擬装民主主義者の暴露。先ほどあなたから御証言があつたような擬装民主主義者。早く日本に帰りたい、あるいはいいものを食べたい、あるいは過激な労働に服さなくても済むとか、そういうような恩恵をこうむりたいために、あるいはまたつるし上げを恐れるがために、あるいはいろいろな弾圧を恐れたがために一時的に擬装的なアクチーヴになつた者がある。そういう者を互いに摘発するとか、あるいはスパイ的にこれを暴露するような行動があつた。それはおもにMVDの監督のもとにあなた方いわゆる反フアシスト委員会がそういうことに当つたという情報があり、また証言もあつたのでありますが、あなたはどうですか。ありのままを率直に証言してください。
  620. 小澤常次郎

    ○小澤証人 今の質問に対して、まず民主グループあるいは反フアシスト委員会共産主義に反対の者を摘発するというよろなこと、あるいはまた協力しない者を摘発するということ、このようなことはありませんでした。  それから戰犯容疑者の問題については、われわれは容疑者というよりも、戰犯に対してわれわれは憎しみを持つておりましたが、われわれはこれに対してもちろんこれらの者を民主主義者としなければならないということを心がけておりました。  なお擬装民主主義者の暴露ということ、これは大衆自身運動の発展とともに、この民主主義指導者はにせものである。それを彼もの行動の中から見破つて、そうして暴露して行つたのであります。  最後にいわゆるスパイ的な者の問題、これについて反フアシスト委員会がMVDなんとかいうもののスパイとしての手先になつてつたというようなことはありません。しかしながらそういうスパイ的行動をやつた者があるということは事実であります。それはどのような者であるかというと、かつての憲兵、警官、特務機関員あるいは将校、彼らでなければそういう人間を見つげ出すことはできないのでありますから、これらの者の中にそういう者がありました。そうしてこれらの者がこういつたことをうまく利用して、そうして民主グループ委員長あるいは反フアシスト委員会の議長になつてつた者もあります。その一例をあげると、一ノ關喜三郎という私の地区におつた男、これがそうであります。また上村なんとかいうのもやはりこの類に入ります。
  621. 安部俊吾

    ○安部委員 今証人証言のうちの戰犯容疑者というのを——戰争犯罪人ということは、ある特定の戰争を勃発するための張本人であるとか、あるいは捕虜を虐待したとか、そういうものであれば戰争犯罪になりますが、あなた方の戰争犯罪人というのは、犯罪人ではなくて、ただ軍人であつたとか将校であつたとか、その将校にしても憲兵であつたとか、あるいは特務機関の要員であつた、そういう者を総称して戰争犯罪人といつたような傾向がありますね。  それからもう一つ、あなた方の特に民主グループに入つて来た者に軍人であつた者、あるいは将校であつた者、そういう者があつた。これをある点からひつくり返して裏から考えれば、あなた方反フアシスト委員会の、特にあなたのような議長という、そういうようなりつぱな、その場合の雰囲気においては人の羨望するようなあなたが要職にあつた。そういう人がいろいろこういうような弱い境遇にある将校であるとか、戰争犯罪人とかいうつるし上げられるような境遇にある人に、もしお前がだれかそのうちに、さらにまた偽装民主主義グループに前職者があつたならばそれを申し出でよ、そうしたならばお前は日本に帰す、帰還者になる便宜を與えてやる。こう言つてひそかにそういうことを奨励し、あるいはそういうような示唆を與えて、たまたま何のそれがしが自分の友だちを売るように、非常に良心的には苦しいが、あなた方の命令を奉じて、早く日本に帰りたい、あるいはいい待遇を受けたいというその念願から、友を売つて、あれはこういう者でこういうことがあつた、とこそこでこういうようなことをやつてつた、アクチーヴのようなことを言うが、実はこういうことをやつてつたというように、スパイを使つてそういうことを摘発して、その者も帰すというようなことをやらずにほつておいた。そういう事例があつたと承つておりますが、その点はいかがですか。
  622. 小澤常次郎

    ○小澤証人 この問題はわれわれ民主グループ、あるいは反フアシスト委員会がやつたのではなくて、かつて憲兵とか警察とか、あるいは特務機関に属しておつた人間でなければ、実はだれがだれなんだかわからないのです。これらの者が一部やつてつたということを聞いております。われわれがこれに対して何ら命令すべきでも何でもないのです。
  623. 安部俊吾

    ○安部委員 大体わかりました。それ以上は追究しなくても、あなたは共産主義者であつて、どうもなかなか答弁がうまい。そこで私の聞きたいことは、あなたは何か労働にも適さぬというので、しばらく休養の特典を與えられたという証言をされましたが、大体收容所における日本の捕虜、もしくは收容者という者は、みんなあなたのように、少しからだがぐあいが悪かつたら病院に入院させる、あるいは休養させる、働かなくてもよかつたのですか。労働しなくてもよかつたのですか。
  624. 小澤常次郎

    ○小澤証人 その点は毎月一回体格の検査があります。そうしてこの体格の検査の上で、それぞれの適した労働が與えられます。そうして一級者と二級者、一級者はいわゆる土工その他の工事であります。二級者は中労働、すなわち建築作業その他であります。三級着は労働時間が半分、あるいは工場の機械を使う軽作業であります。そうしてオーカーというのは、これは全然作業は免除であります。そうしてからだが回復するまで休養するのであります。それが一九四五年、四六年ごろには、私のおりました地区でもオーカー大隊というのが約五箇所くらい、ここにそれぞれ約千人くらいずつ休んでおりました。そういう状態であります。
  625. 安部俊吾

    ○安部委員 たとえば土木工事、伐採、森林に行つて大きな木を伐採する、とか、あるいはまた土方のようないろいろの仕事をするとか、それから停車場の荷役であるとか、鉱山、炭鉱かなんか、そういう方面で非常な働きをする。そういう作業はなかつたのですか。
  626. 小澤常次郎

    ○小澤証人 一級者、二級者はそういう作業をやつておりました。
  627. 安部俊吾

    ○安部委員 それは何時間ぐらいで、そうして收容所に行くときは何か乗物でも乗つて行くのですか。
  628. 小澤常次郎

    ○小澤証人 労働時間は八時間であります。それは收容所の門を出て帰つて来るまでが八時間であります。そうして六キロ以上の地点へ行く場合には自動車であります。そうしてもしそれが乗物に乗らない場合には、その歩く時間は労働時間の中から控除されます。
  629. 安部俊吾

    ○安部委員 鉄道の修理とかあるいは道路工事というようなこともあつたようだね。
  630. 小澤常次郎

    ○小澤証人 ありました。
  631. 安部俊吾

    ○安部委員 これらは先ほども同僚佐々木委員からも指摘がありましたが、利敵行為といいますか、いわゆるそういう軍事鉄道、あるいは軍事道路に使用するような場合は、これはゼネバ・コンヴエンシヨンの議定書に違反するわけだが、そういうことをどんどんあなた方は命令されるままに、いろいろの道路の修理とか、あるいは鉄道の修理とか、あるいは鉱山、しかもそれがいろいろ軍事的に使われるというようなことは、終戰後だからして、それは戰争の目的には使わぬだろうけれども、しかし少くともこのコソヴエンシヨンの議定書の精神によれば、そういうような過激な労働に使用せずして、できるだけ早く日本に帰還せしむべきであるというにかかわらず、四年も五年もにわたつてそういうような過激な労働に従事するということに、あなた方は満足して喜んで作業に従事して来たのですか。
  632. 小澤常次郎

    ○小澤証人 今の委員は利敵行為と言われましたが、ソ連に対して敵といつているのでありますか。それからまず聞きたいと思います。
  633. 安部俊吾

    ○安部委員 それは議定書によれば……。あなた方は誤解していかんですよ。ゼネバ・コンヴエンシヨンの議定書で、利敵行為をしてはいかぬというような(発言する者あり)文書があつた。しかし真相が……。     〔「——とは許さない」と呼びその他発言する者、離席する者多く、議場騒然〕
  634. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私が今発言中に……。
  635. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 君の態度が挑発的だからさつきから注意しておる。そういうことは、証人委員に対してよくないことだから、取消してもらいましよう。
  636. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私に今質問している際に……。
  637. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そんなことを言つておるのじやない。取消すか、取消さないかと言つておるのだ。     〔発言する者、離席する者多く、議場騒然〕
  638. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私は——と言つたことは取消しますが、今後……。
  639. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そういうことは委員長なりほかの委員が言うことで、君が言うたのでは……。御着席願います。
  640. 安部俊吾

    ○安部委員 証人に質問したことは、ゼネバ・コンヴエンシヨンの議定書の中には、そういうような利敵行為をしてはいかぬということがあつた。もつとも今は終戰後であるから、議定書のそういうことは関係ないが、ポツダム宣言によつても、国際戰時公法にようても、議定書の精神によつても、終戰後にはすみやかにあなた方を日本に帰還せしめて、鉄道の修理であるとか、あるいは炭鉱の労働者であるとか、そういうような最も重労働に服せしめることがあつてはならぬと私は思うのでありますが、しかも四年間、五年間にわたつてそういう労働に服して、あなた方は満足であつたのでありますかどうか。こういうことを聞いたのであります。
  641. 小澤常次郎

    ○小澤証人 その鉄道とか炭鉱というのが捕虜労働として規定されているかいないかということは私は知りませんが、この労働がわれわれにとつて耐えがたい苦痛ではなかつた。労働時間も苦痛ではなかつた。それが証拠には、帰つて来ている人たちもみな健康で帰つているということが証明していると思います。
  642. 安部俊吾

    ○安部委員 これについて証人と論議する必要はありませんが、しかしながら森林の伐採とか鉱山において労働するということは、これは相当に重労働でありまするが、そういうことも喜んであまり苦痛としないということであつたのですか。また証人は議長であるとか、アクチーヴであるとかいうようなことで、相当の優遇を受けたのであるが、單に共産主義者でなかつたために、反動という烙印を押されて長い間働いた人は、非常に苦痛であると思う。またあなた以外の証人も、この委員会においてそういう証言をした証人はたくさんあるのでありますが、そういうことはあなた方は何にも考えなかつたかどうか。またあなたの議長であつた反フアシスト委員会なるものは、日本の抑留者がすみやかに帰還すべきを、日本に帰還しないように、ともかく社会主義教育してから後に帰還させようというので妨害したという点については、あなたは否定するでしようが、そういうことはお認めになりませんか。
  643. 小澤常次郎

    ○小澤証人 今の質問の要点がよくわからないのでありますが、共産主義教育をし、共産主義者にならなければ帰さなかつたというようなばかげたことはありませんでした。
  644. 安部俊吾

    ○安部委員 アクチーヴにならなければなかなか帰れないかということを質問する場合に、証言の中でばかげたなんてよけいなことは言う必要はない。もう少し謙虚な態度で、紳士的に証言しなければならぬ。
  645. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 証人に重ねて注意しますが、証言は求められた範囲に限ること。不穏当な発言行為は嚴に戒めてもらわなければならぬ。なおこの上不穏当なことがあれば、発言を禁止したり、退場を命じたりすることがあるかもしれませんから、あらかじめ承知しておいてもらいます。
  646. 小玉治行

    ○小玉委員 今安部委員から言われた通り、ソ連の鉄道建設、森林伐採というようなことは、結局はソ連の戰力の拡大に役立つのである。そういう仕事に四年間も五箇年間も日本人捕虜が心から喜んで働けるか。あなた方はスターリン元帥に感謝文を書いて帰りたが、かりに戰力の増強にならなくても、ソ連を強化することになる。聞くところによると、ソ連は非常な労働不足だそうですが、労働不足のソ連において、日本人捕虜の何十万、何百万が働くということは、ソ連の戰力増強は別として、国力の増強になる。そのソ連の国力を増大せしめるということについて、日本人捕虜がはたして心から喜んで自由意思で働けるかどうかどいうことを、われわれは非常に疑問にしているのですが……。
  647. 小澤常次郎

    ○小澤証人 現実に働いております。
  648. 小玉治行

    ○小玉委員 現実に働くのはよろしいのだ。自分たちの行為が、ソ連の国力の増強に寄與するということを認識し、そのことを自覚して、精神的に喜んで働いておつたかどうかということです。現実に働いているのはわかります。
  649. 小澤常次郎

    ○小澤証人 大部分の者は喜んで働いております。
  650. 小玉治行

    ○小玉委員 大部分の者は喜んで働いておるというのですが、あなたは喜んで働きましたか。
  651. 小澤常次郎

    ○小澤証人 もちろん喜んで働きました。
  652. 小玉治行

    ○小玉委員 そういたしますと、あなたは私が前提に申し上げたように、ソ連の国力の増強に役立つということを認識し、そのことを自覚しながら喜んで働いてお帰りになつたわけですね。
  653. 小澤常次郎

    ○小澤証人 国力の増強とか何とかいう問題よりも、われわれは適当な労働が與えられ、適当な労働時間で働き、そのあとの余暇を十分に文化的に楽しむことができたゆえに、われわれは喜んで働いておつたのであります。
  654. 小玉治行

    ○小玉委員 その結果はソ連の国力の増大なりソ連のためになるということは、自覚されておつたと思うのですが、いかがですか。
  655. 小澤常次郎

    ○小澤証人 それは解釈のしようだと思います。
  656. 小玉治行

    ○小玉委員 解釈によらなければわかりませんか。
  657. 小澤常次郎

    ○小澤証人 要するにわれわれはそういうふうに働いておつたということを言うのです。
  658. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 みんな大部分の者は喜んで働いていたということから解釈しますと、もちろん早急に帰りたいなんということも忘れていたと思います。そういうことはどつちでもいいのですが、あなたは反フアシスト委員会の議長ですが、との委員会は、スターリンに対する決議をこしらえたり何かすることも相談があつたろうが、一回でも二回でもスターリンに決議文を出すと同時に、この委員会の名を通して、早く帰してもらいたいなどという決議もやつたことはないでしような、あなたのお気持では。
  659. 小澤常次郎

    ○小澤証人 われわれは、早く帰りたいという気持はだれしもかわりません。そういう気持は持つておりました。しかしわれわれはソ同盟が正しくこの帰還問題は取扱つてくれるだろうということを信じておりました。
  660. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そうすれば、ソビエトはすべてを正しくやつてくれるから、特にこの委員会の名をもつて嘆願するなどということはやる必要はない、こうお思いになつていらつしやつたのですか。
  661. 小澤常次郎

    ○小澤証人 そうです。
  662. 梨木作次郎

    ○梨木委員 委員長にこの点御注意願いたいと思うのでありますが、ただいま安部委員は、証人に対してこういう趣旨の質問をされたと私は聞いたのであります。つまり捕虜がソビエト内において森林の伐採、鉄道の敷設というような労働に服することは、利敵行為になりはしないかという質問であつたと私は聞いたのであります。この私の理解に誤りなしとすれば、これは連合国に対する依然たる敵意がありはしないかと思うのでありまするが、これはお取消しになつた方がいいと思うのであります。この点委員長から、その旨の注意を促していただきたいと思います。
  663. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 安部君がさらに言われたことで明瞭と思いますが、もし前の言葉がそのように速記録に載つてつたとすれば、何らかの方法をとりましよう。
  664. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それでは伺いますが、吉田幸平というのを御存じですか。
  665. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私は知りません。
  666. 梨木作次郎

    ○梨木委員 吉田幸平というのと一緒におられたことはないのですか。
  667. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 知らないというんだよ。
  668. 梨木作次郎

    ○梨木委員 上村宗平は……。
  669. 小澤常次郎

    ○小澤証人 上村というのも私は知りません。但し四地区におつたということは聞いております。
  670. 小玉治行

    ○小玉委員 ちよつとお尋ねいたします。さきのに関連するのですが、あなた方は捕虜だから、ソ連で働く場合にはストライキというものはできないでしようね。
  671. 小澤常次郎

    ○小澤証人 もう一度はつきり言つていた、だきたい。
  672. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ソ連ではあなた方が働く場合に、ストライキというものができるのかできないのか。
  673. 小澤常次郎

    ○小澤証人 捕虜はストライキができるかどうか、そんなことは考えてみたこともありません。
  674. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 できないのか。
  675. 小澤常次郎

    ○小澤証人 それは知りません。やつたものがありませんから。
  676. 小玉治行

    ○小玉委員 そうしますと、これまでの証人が幾多述べておるのですが、ソ連で捕虜が働くのはまつたく自由意思で働いておる、こういうふうな証言をされておるのですが、そうしますと、ストライキをやつたこともない、やることができるかどうかもわからぬということであれば、ソ連においての日本人捕虜は自由意思に従つて働いておるわけではないのじやないですか。
  677. 小澤常次郎

    ○小澤証人 ストライキをやるのを見ますと、それは労働者ほんとう生活が苦しくて、それの改善を要求し、これが聞き入れられないからストライキをやすのであります。われわれ捕虜の場合においては、われわれの生活を苦しめていた将校に対してはわれわれは闘い策した。これはある意味ではストライキと言えるかもしれません。しかしこれがいなくなつてからは、そういうようなことをやる必要がなかつたのです。
  678. 小玉治行

    ○小玉委員 そこで労働條件の点については、かりにあなたの言うことをお聞きして、満足であつたとしても、五年も六年もとめおかれるということについては、非常な私は苦労があると思う。そういうことを材料にいわゆるストライキを起して、ソ連当局に反省さして、あなた方が早く帰れる突破口を見出すというようなことはお考えになりませんでしたか。
  679. 小澤常次郎

    ○小澤証人 それは連合国軍に反抗しろという意味ですか。(発言する者あり)
  680. 小玉治行

    ○小玉委員 反抗じやない。そういうことをあなた方はやれないかということを聞いておる。
  681. 小澤常次郎

    ○小澤証人 われわれはそういうことはやらなかつたのです。
  682. 小玉治行

    ○小玉委員 やれないのですか、やらなかつたのですか。
  683. 小澤常次郎

    ○小澤証人 やる必要がなかつたのです。
  684. 小玉治行

    ○小玉委員 そうしますと、あなた方はやる必要がないとおつしやれば、五年も六年もとめおかれておつても、なおかつ晏如としてソ連において生活することを希望しておつたというふうに承つてよろしいですか。
  685. 小澤常次郎

    ○小澤証人 それについて私が最近もらつた手紙を話しますと、これはソ連から日本へ帰つて来てから非常な生活一苦の中にソ連を思い出し、ソ連に再び帰りたいと言つて来たものもあります。(笑声)これくらいはつきりしていると思います。
  686. 小玉治行

    ○小玉委員 その手紙の主はどなたですか。
  687. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私はその手紙を今ここに持つておりませんが、必要とあれば私の方で証拠として出してもよろしゆうございます。
  688. 内藤隆

    内藤(隆)委員 あなたは何級に従事しておりましたか。
  689. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私は建築の技術者として建築の監督をしておりました。
  690. 内藤隆

    内藤(隆)委員 それは何級ですか。
  691. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私はその当時三級でありました。
  692. 内藤隆

    内藤(隆)委員 三級というのは何時間働くのですか。
  693. 小澤常次郎

    ○小澤証人 三級は中労働ならば四時間、軽労働ならば一日八時間働く。
  694. 内藤隆

    内藤(隆)委員 あなたのさいぜんの証言の中に、自分ソ連におつたときの方が現在よりもむしろ楽であつて、幸福であつて健康であつた、こういう証言をしております。そうすると、あなたは労働に適さぬほどの健康状態であつたから、三級の四時間という恩典にあずかつたのでしよう。それは違うのですか。
  695. 小澤常次郎

    ○小澤証人 まず私は向うにおいてその生活がよかつた、そうして非常に幸福であつた、そういうふうには言わなかつたと思います。生活がよかつたということを言つたけれども、われわれが家族から離れてあそこで一人生活していることがどうして幸福であるか。だからそういうことは言わなかつたと思います。
  696. 内藤隆

    内藤(隆)委員 要するに生活が楽で、あなたは現在の日本に帰つて来ている状態よりもむしろよいと証言しております。
  697. 小澤常次郎

    ○小澤証人 そうです。
  698. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そうすれば、あなたは向うで労働に適さぬほどの健康状態であつたがために、いわゆる三級の恩典に浴しておつたのでしよう。そらじやないのですか。
  699. 小澤常次郎

    ○小澤証人 そうじやありません。
  700. 内藤隆

    内藤(隆)委員 どういう理由で三級の一日四時間の恩典に浴したのですか。
  701. 小澤常次郎

    ○小澤証人 私が三級であつたのは、われわれがソビエトに入つた当時、非常に体力が衰弱しておつたということで、その当時最初三級であつた。これから約半年間療養して、それから三級として私は建築の監督をやつておりました。
  702. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ずつと……。
  703. 小澤常次郎

    ○小澤証人 ずつとでありません。その後に議長になつた。議長になつてからは私は作業はやりませんでした。
  704. 内藤隆

    内藤(隆)委員 要するに私の言わんとするのは、向うにおつて長く働いておつたような顔をしておるが、実は議長という恩典の地位におつて、われわれの在留同胞に向つておごつておる態度を持つてつたことを認定し得る。
  705. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それじや済みました。     —————————————
  706. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 この際お諮りいたします。昨日の委員会出頭の予定でありました証人一木春夫君が、ただいま北海道の根室から到着されたそうであります。本日出頭証人あとで引続いて証言を求めることにいたしましようか。いかがいたしましようか。——ちよつと速記をとめて……。     〔速記中止〕
  707. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは一木証人を調べることにしますから、むりに質問は制限はいたしませんが、なるべく簡潔にやつていただくようにお願いします。そのおつもりでお願いいたします。  相川和光さんですね。
  708. 相原和光

    ○相原証人 そうです。
  709. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 答弁はこちらから問うたことだけにしてください。議論や多岐にわたつては困りますから、簡明に願います。  あなたの今の職業並びに年齢は…。
  710. 相原和光

    ○相原証人 私帰つて来たのは今年の一月ですから、まだ職はありませんでしたが、今年四月の一日から日本キリスト教育年会同盟に就職いたしました。
  711. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 お年は……。
  712. 相原和光

    ○相原証人 大正六年二月二十八日生れ……。
  713. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうすると幾つになる。
  714. 相原和光

    ○相原証人 満ですと三十二、数え年で三十四です。
  715. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの履歴、それからソ連へ入つてからの径路をごく大筋でけつこうですからお述べください。
  716. 相原和光

    ○相原証人 委員長殿に一つお願いがあるのですが、これから私いろいろお話を申し上げます。先ほど宣誓したように真実を語りますが、私としては真実を語る場合に、また真実を話しているうちに、この間の菅君ですが、菅君は私若干でしたが、知つている人です。あの人みたいに何か九州の特攻隊将校グループというような人たちからお前を殺すぞというような脅迫が来たら困るわけです。またおまけにそういう人たちが来て、あのやろうなまいきだ、殺してしまえと言つて殺されたのでは、私の家族が困るわけです。やはり家内や父も心配して、きようもわざわざついて来てくれているわけです。そういうような点から考えまして、やはり生命の保障というものをあなた方はしていただきたいのです。
  717. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 われわれはあなたの身体を保護すべき立場にはない。保護すべき任務のものはほかにありますから、もし保護するの任務に足らないことがあれば、われわれも注意いたします。
  718. 相原和光

    ○相原証人 国会内はよいのですが、家に帰つて町をまたり、いろいろ生活をするわけです。
  719. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 さようなことはありません。臆せずに言つてください。
  720. 相原和光

    ○相原証人 わかりました。それでは履歴からお話いたします。  東京で生れまして、中学は東京の青山学院、高等学校は仙台の第二高等学校、それから大学は京都の法学部を昭和十七年の三月に卒業いたしまして、一回応召になつたのですが、非常に残念なことに、からだが悪かつたものですから帰されました。その後拓務省、大東亜省に勤め、しかる後に満洲国に参りまして、満洲の総務庁に入り、それから満洲にある大同学院第十七期を出まして、十九年の十月に満洲の錦州省の義県の県公署に初めて赴任いたしました。それから七箇月義県の県公署におりまして、後に錦州省の省公署の総務課に勤めるようになりました。その省公署に勤めるようになつたのが二十年の五月一日で、それから召集令状が五月十日に参りまして、五月二十二日に隙陽の五七一部隊に入り、それから一日で転属しまして、鉄嶺の六六九部隊の衛生軸重像に兵隊として入りました。それから兵隊になつて一生懸命やりましたが、遺憾ながら日本が負けまして……。
  721. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あまり形容詞などは言わない方がいい。
  722. 相原和光

    ○相原証人 それから捕虜になりまして、錦州省の飛行場に收容されました。それから十月五日に錦州省の錦県を立ちましたが、そのとき作業大隊として千名ずつつくられまして、そのときの大隊長は前田大尉という人でした。
  723. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そういうことは言わないでも、いつどこへ行つて、どうしたということだけでいいです。
  724. 相原和光

    ○相原証人 それからブラゴエを経てソ連に入りました。ソ連で一番最初に打つたのは、タシケントからサマルカンドへ行く中間のベグワードで、ここへ一九四五年の十二月十五日に参りました。ベグワードに一九四八年の暮れまでおりまして、十二月五日に今度はタシケントに参りまして、それからアンダレンに参りまして、それからカラガンダに参りました。カラカンダは一九四九年の九月でした。そうして昨年の十一月十二日にカラカンダを出発してナホトカに来て、ナホトカから今年の第一回の高砂丸で帰つて来たものです。
  725. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 一月ですね。
  726. 相原和光

    ○相原証人 そうです。一月二十二日に舞鶴に着きました。
  727. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 九月幾日ごろカラカンダへ着きましたか。
  728. 相原和光

    ○相原証人 皆と一緒です。
  729. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 十日ぐらいでしよう。十二、三日か。
  730. 相原和光

    ○相原証人 いやそれほど……。私は日ははつきりわかりません。
  731. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 日は大体のことを覚えておりませんか。
  732. 相原和光

    ○相原証人 日は大体九月のやつぱり十日ごろじやないかと思いますが、約千名近くが行つたあのグループです。
  733. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたは在ソ中いわゆる民主グループのアクチーヴとして働いておりましたか、それともアクチーヴ外でありましたか。
  734. 相原和光

    ○相原証人 私はいろいろな運動をして来ておるわけです。初めはからだが弱かつたものですから、衛兵所の当番をやりました。それからだんだんロシヤ語を覚えまして通訳になりました。それから当初関東軍の旧幹部の人たちが非常にわれわれ兵隊に対してよくなかつたのです。特別賞を将校の人たちが食つたり、いろいろなことがありまして、必然的に兵隊が反軍闘争に出て来ました。もちろん私は、やはりそういう反軍闘争が出て来るときに、どうしたつて正しいことは行つて行かなければいけない。特に一兵卒の者が営々として苦しみ、すぐぶんなぐられる、こういうことであつてはならない。(「簡單に」と呼ぶ者あり)それから反軍闘争から民主運動になりまして、私は一九四七年七月、民主運動指導者と言うと語弊がありますが、やはり指導者の中に入りました。
  735. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 いわゆるアクチーヴでしよう。
  736. 相原和光

    ○相原証人 そうです。ベグワード地区のやはり指導者の一員に入りまして、それからやつて行つたのでありますが、私自身キリスト教徒でありまして、そうしてキリスト教的な人道主義、そういうもの、それからいろいろなあれがありましたので、いろいろとやはりうまく行かなかつたわけです。そこで結局私はやめさせられまして、アクチーヴからも遂に除名されたわけです。四八年の三月に除名されまして、五月からいわゆる一般——一般と言うと語弊がありますが、労働につきまして、その後労働しながらやつて来たわけであります。しかしながらいかにいろいろなことがあつたにしても、やはり私としては民主主義というものは正しいものである。やはり民主主義というものの線に沿うて、平和な世界をつくらなければいけない。そうしてそうやつて行きますと、今度は自分がアクチーヴにならなくても、人がやはり推薦してくれるようになります。そうして私は自分民主主義者だ、このように思つております。
  737. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこであなたの今言われたのを聞くと、あなたは民主主義者でおられるが、アクチーヴにはその後ならなかつたのですね。
  738. 相原和光

    ○相原証人 その後やはり推薦されてなりました。
  739. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 いつから復活したのか。
  740. 相原和光

    ○相原証人 復活したのはアンダレンにおいてです。四八年の十月ですね。ベグワード地区における一般の人たちが全部帰つた。そして戰犯容疑者としてのいわゆる憲兵、警察官、特務機関、これの容疑者あるいは協和会、こういうグループと一緒に残されたわけです。そして私はその後タシケントからアソグレンという炭鉱の方に邊られました。そしてそのアンダレンの方で、民主グループ委員でもなく、いわゆる除名されておつた私が、そこで今度は民主分子の中に入れてもらいました。
  741. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 アクチーヴになつたの
  742. 相原和光

    ○相原証人 そうです。
  743. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたは今民主主義というものを非常に謳歌せられたが、あれはあなたは初めから民主主義というものを信奉しておられたのでしようね。
  744. 相原和光

    ○相原証人 私はやはり民主主義というものを知らなかつた
  745. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 最初のときは。
  746. 相原和光

    ○相原証人 最初のときは、日本におるまだ学生時代、絶対天皇制のやはり徹底的な支持者だつたです。
  747. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはそうだが、向うに入つてから最初のアクチーヴになつたとき、そのときは、あなたは民主主義を信奉して入つたのでしよう。
  748. 相原和光

    ○相原証人 だんだん勉強して入つたのです。
  749. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 民主主義になつたわけでしよう。
  750. 相原和光

    ○相原証人 そうです。
  751. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこで伺いたいのだが、あなたは先ほどキリスト教信者であるがゆえにおつぽり出された。あなたは同じ民主主義者だが、キリスト教徒であれば、ソ連で言う民主主義には反するのですか。
  752. 相原和光

    ○相原証人 私はクリスチヤンであるということをはつきり表明しております。それでソ連将校も、私がクリスチヤンであるということをみな知つてつた。私が食事する前に祈祷するということ、これはみな知つておるのですから、ソ連の人は私がクリスチャンであるということを知つておりました。それでいわゆる地区の委員に選ばれたときも、私がキリスト教徒であるということを知つて選ばれたわけです。ですからソ連において——初め私がソ連に入る前に、ソ連としてはキリスト教、いわゆる宗教に対しては全然禁遇する国だ、このように聞かされた。キリスト教的立場においても、宗教を弾圧し宗教を認めないような国はこれはいけない国だ、こういう国はわれわれの敵国であるとわれわれ自身考えておつたものであります。しかるに私がソ連に参りまして、私がクリスチャンであるということをはつきり表明し、またソ連の人もからかつて私のことを言うておるにもかかわらず——からかつてというのは決して悪い意味ではなくして、かえつて信頼してくれたわけです。それでクリスチャンであるということをみな知つていた。それでソ連においては、また作業をやつておるときも、向うはウズベック共和国でマホメット教が多いわけです。マホメット教の人たちもみな礼拜をやつております。それでこの国は、宗教はこんなに自由なのかなあとだんだん思うようになつて来たわけです。
  753. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どうもあなたは少ししやべり過ぎるね。こつちの言うことを答えてもらいたいのだ。私の言うことを答えてもらわぬと制限しなければいかぬ。あなたは民主主義なのでしよう。
  754. 相原和光

    ○相原証人 そうです。
  755. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 民主主義であつてアクチーヴになつたのでしよう
  756. 相原和光

    ○相原証人 そうです。
  757. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうすると民主主義とクリスチヤンというものと相いれないのか。
  758. 相原和光

    ○相原証人 相いれます。
  759. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それではなぜ除名されたか。
  760. 相原和光

    ○相原証人 それは結局、なぜ除名されたかと言われると……。
  761. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 けれどもあなたは除名された。先ほどあなたは、キリスト教徒であつたがゆえに除名されたと言つた。それを聞いておるのだ。
  762. 相原和光

    ○相原証人 結局やはり極左的な偏向に対して、私がやはり反対をするわけですね。徹底しておらなかつた
  763. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 徹底をしておらなかつた。そういうわけか。(「そう断定的におつかぶされては答えられませんよ」と呼ぶ者あり)極左に徹底しておらなかつたから除名された、こういうのですね。
  764. 相原和光

    ○相原証人 そうでもないですがね。
  765. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そういうことをはつきり言つてもらえばいいのだよ。よけいなことは言わなくてもいいから……。
  766. 相原和光

    ○相原証人 それでははつきり申します。少し長くなります。
  767. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 長く聞く必要はないのだ。今私の言うたことを答えればいいのだよ。もう一ぺん言いましようか。あなたは民主主義になつたがゆえにアクチーヴへか行つたのでしよう。
  768. 相原和光

    ○相原証人 そうです。
  769. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 しかるにキリスト教徒なるがゆえに除名されたということをさつき言つた……。
  770. 相原和光

    ○相原証人 いやキリスト教徒なるがゆえに除名されたとは言わぬ。それは間違いです。キリスト教なるがゆえにではなくて、やはり運動に対しての偏向に対して、私がやはりいろいろと批判ずるわけですね。そうしてやはり統一が破れるわけです。
  771. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 先ほどあなたキリスト教的人道主義をとなえておつたがためにと言われた……。
  772. 相原和光

    ○相原証人 ですからやはり……。
  773. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 もしそれを言わないのなら、どういうときに除名された……。それを簡潔に……。
  774. 相原和光

    ○相原証人 それはやはりつるし上げとか何かあるわけですね。一応私はそういうものに対して反対したわけです。それからやはり收容所内は明るくなければいかぬという立場に立つてつた。それであるときソ軍の偉いお方——偉いお方といつても、ピテゴロスキー大佐というウズベック管下における内務省の政治部長をやつておられる方が收容所生活を見に来られた、この收容所生活についてのいろいろな報告がなされたのです。民主運動も非常によくできているし、またあらゆる方面に生殖全く上つている、いろいろと話があつたわけです。そのあとで私がそういう報告があつたにもかかわらず立ちまして、きわめていいように見えるかもしれぬけれども、私はあまりすぐれているとは思わない、自分の管下ではあるが、收容所内でやはり暗い気持があるとしたならば、それはやはり決していいものとは思われない、こういうように申しまして……。
  775. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どの点がおもしろくないと言つたのです。どういうことが……。
  776. 相原和光

    ○相原証人 それはソ軍の通訳の人ですね、これはソ同盟の人ですが、向うにはソ同盟の朝鮮の通訳の方がおつたわけです。それから調査官という職名の人たちがおつた。こういつたたちが、結局やはり私たちのおつたところにも憲兵が二千六百くらい——和田憲兵大性とか憲兵の人がたくさんおつた。それでそういつた取調べがあつただろうこ思いますけれども、そういうことに利して私自身、まだ民主主義とは申しましてもだんだん成長して行くわけです。ですからなかなかわからぬとこちかたくさんある。それで私としては、まだこのくらいの段階におきまして一、そういつた方々に対してとにかく收容所を暗くするようなものは正しくばいということ、その責任は私たちにもあるけれども、ソ軍側にもあるということで、ずいぶん言うわけです。やはりこれが極左的な偏向をなしてはなりないというような指令も出たけれども、そうなると私自身考えて見ますに、正しいほんとう意味の民主主義の線にまでまだ達していないときに、そういうような批判をし、その結果私よりももつと高度の人たちから見れば、非常に間違つておるわけです。そういつた間違いを犯すその本質はどこにあるかといえば、まだ階級的な目ざめもしてないし……。
  777. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこを聞いているのではない。そのときにあなたが除名されたことを聞いておるのだ。
  778. 相原和光

    ○相原証人 結局私がそういう誤つた批判をしたということです。私が誤つた正しくない批判を行つたということが……。
  779. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 よろしい、その調査官というものがいろいろの人の調査をした、それで非常に暗い影が起つたことを批判された、さつきも言われたつるし上げに対しても、あなたのいわゆる人道主義からおもしろくないと感じられたのですからそのことも言うた……。
  780. 相原和光

    ○相原証人 もちろん言いました。
  781. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それで除名された……。
  782. 相原和光

    ○相原証人 そうです。
  783. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 わかりました、そういうことを簡明に言つてくれればいい。そこであなたは先ほど聞くと、ほかの人は皆帰つたが、あなたは遅れた、そのあなたの遅れた理由は何にあつた……。
  784. 相原和光

    ○相原証人 やはり大同学院を出ております。それから満洲国の官吏ですし、その後新しい特別な收容所になつてから、人の名前は出したくないのですが、一九四八年九月二十七日ごろ、新しい特別の收容所ができまして、そうしてその收容所に憲兵、警察官、協和会、特務機関、容疑者、こういうものが入つた收容所にコカウントからいわゆる地方人の方、抑留者の方が来たわけです。その中に協和会、それから副県長、こういういわゆる戰犯関係の人たちが参りまして、そこに戰犯ラーゲルができたわけであります。そのとき今度問題になつております徳田要請なんかの……。
  785. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そういうことを聞いておるのではない。そんなことはあとから聞きますよ。私の聞いているのは、あなたはほかの者は皆帰つたが、あなたは遅れたと言われたでしよう。なぜあなたがそのとき残されたか、それを聞いておる。経歴と、そのほかもう一つは、まだほんとうに民主主義化されてないからということが加わつているからでしよう。
  786. 相原和光

    ○相原証人 それはわからぬです。自分よりも下の者は皆帰つておる、民主主義でなくても帰つておるのですから、やはり民主主義分子でなかつたから帰れなかつたとも言えないのです。
  787. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうすると前歴がものをいつて戰犯と同様のところに入れられた、こういうことですね。
  788. 相原和光

    ○相原証人 そうです。
  789. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 簡明直截に言つてもらわぬと……。そこで今あなたが言われたカラガンダ第九分所で、何か徳田からの要請があつたといつてソ連政治将校から言い渡されたことがあるそうですが、それをお聞きになりましたか。
  790. 相原和光

    ○相原証人 確かな日は忘れましたが、皆全部御存じのことと思います。九月十五日ごろだと思います。新しい收容所に参りましたもので、收容所長の代理の方がわれわれを集めまし、て講堂には全部が入れませんので、大体三百二、三十名入りまして、生活に対してのいろいろなことを申されたわけです。收容所ではタバコを室内でのんではならぬとか、いろいろなこと申されまして、その席上で私のうしろにおりました質問した人、これは植松という人ですが、この人がわれわれは本年中に帰れるかどうか、タス通信の発表によれば、十一月に九万五千人帰すことになつておるが、われわれはその中に入るのかどうかという、いつ帰れるかという質問をいたしました。それまでは收容所長の代理の人が答えておつたのが、そのとき——私も情景を思い出しますが、それに対して御返事されないで、かたわらにおつたエルマーラエフという人ですか、名前は私はつきりわかりませんが、上級中尉の政治将校の方、年をとられた方ですが、この方が話されまして、これを菅君が通訳しました。そのとき菅君を初めて見たわけです。そうして菅君が言われたように、いわゆる帰るも帰らないも諸君たちいかんにかかつておるのであります。良心的な作業を行い、よき民主分子になるように、そうして日本共産党——私は徳田書記長という徳田という名前、書記長という言葉は覚えておりませんが、しかし日本共産党から、諸君たちがいわゆるりつぱな民主分子となつて帰られんことを期待しておる——希望しておる、期待しておる、こういう手紙が来ておる、こういうように菅君は訳されたということ、それからさつき私新聞で読みますと、毎日新聞に書いてある菅君の証言、これが正しい、私はそのとき聞いた通りだつたと思います。
  791. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 一体証人はどうしてそういうことを言うのですか。何も君に菅君の証言がいいか悪いか聞いておるのではない。そんなことを言うと、君自身が何か目的を持つてここでしやべつておるように聞える。どういうことを聞いたかと私は聞いておるので、菅君の是非を君にただしているのではないのです。(「上手に聞かんか」と呼ぶ者あり。)上手に聞かんも何もない。こつちの聞かぬことを言つておる。
  792. 相原和光

    ○相原証人 要するにりつぱな民主分子として帰られんことを希望しておる、期待しておる、このように申されました。
  793. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたはロシヤ語ができるそうですが、その上級中尉の言つた原語を覚えておりますか。
  794. 相原和光

    ○相原証人 忘れております。
  795. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 覚えておらない……。
  796. 相原和光

    ○相原証人 覚えておりません。
  797. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何か今言われた本年中に帰れるということについて、五月か六月に出た声明書には、十一月中に帰すとあるが、その声明の通り帰れるかと植松君が質問したという人があるが、そうですが。
  798. 相原和光

    ○相原証人 その通りであります。
  799. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その声明についての返答をしなかつたのですか。
  800. 相原和光

    ○相原証人 その声明については、反動にはこの声明は適用されない。いわゆる反動並びに戰犯容疑者には……
  801. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは間違いなくありましたね。
  802. 相原和光

    ○相原証人 はつきり覚えておりません。
  803. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 反動には適用しないということを言つたのですね。——そうあなたが言われたから聞くが、あなたは菅君の新聞に出ておつたのに間違いないと言われるが、そういうことがあれに載つておらないのですが……。
  804. 相原和光

    ○相原証人 そうですが。そうすると……。
  805. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 大事なところが載つておらぬのだが……。もう一つ伺いたいのは、先ほどもあなたの言葉にありましたが、あなたは今でもりつぱなクリスチヤンだと私は信じておりますが、日本人捕虜に対するソ連の扱いは人道主義に反しておると思われたことを今日も同様に思つておいでになりますかりいかがですか。
  806. 相原和光

    ○相原証人 私は、ソ連は私たちに対しての待遇は決して非人道的ではなかつた、このように思います。
  807. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それではつるし上げであるとか、先ほど言われたそういう前歴によつて特に長さをされるというようなことに対してはどうですか。
  808. 相原和光

    ○相原証人 私は戰犯者に対しては当然追究しなければいけない問題だ、このように思います。
  809. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 戰犯はそうだろうが、あなたがさつき言われた大同学院、満洲国官吏ということで特別の待遇を受けるということになればどうですか。——もつと言えば、その当時の人道主義に基く考えと今日と違いがあるかどうかということです。
  810. 相原和光

    ○相原証人 今日においても戰犯者並びに新しく戰争放火を企てる人たちに対しては、断固闘争しなくてはいかぬと思います。
  811. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 つるし上げは……。
  812. 相原和光

    ○相原証人 つるし上げも上げられる人によつて、やはりその人が悪い人だつたらつるし上げてもかまわないと思うのです。
  813. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 君自身はつるし上げられたのはよかつたか悪かつたか。
  814. 相原和光

    ○相原証人 私をつるし上げた人は久保田善藏、彼は日の丸梯団長で帰つて参りましたが、私は彼からつるし上げられておるのです。いわゆるキリスト教徒の人道主義者としてそれまで私はバイブルと金の十字架を持つておりましたが、そういうものを持つておるのは本質的にいわゆる民主分子というものではないというので、彼に取上げられたといつた方が早いです。
  815. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そういうことは今日考えて見るとどうだね。
  816. 相原和光

    ○相原証人 久保田という人は昔何か非常にかわつてつた人であるにもかかわらず——いわゆる親分子分と言われる何かであつた方ですが、それにもかかわらず民主分子になつた。あの方はその前にヘルガナかどこかで中村八郎という人とけんかして腹に傷を負わせられた。その腹に傷を受けた人、その人を私は当時は尊敬したのです。そしてその人に対して私はほんとうにその人のために益してやらなければいかんなと思つた。そして私は彼に対して血書を書いて出した。その当時の久保田善藏並びに石原幸四郎——当時闘争委員長であつた人ですが、この人が私に対して、久保田善藏は——この人は後には民主委員長でプロバガンジストになつたのですが、彼は久保田善藏という人が日本に帰つたならば、日本共産党の文化部を将来やる。そういうふうに言われておつた方で……。
  817. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そんなことを聞いておるのじやない。君はつるし上げに対して今どう思つておるかということです。
  818. 相原和光

    ○相原証人 それが今度帰つて全然反対の行動をとつておるということに対して、私は非常に遺憾に思つておるのです。
  819. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 証人に……。     〔発言する者あり〕
  820. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 静粛に。
  821. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 証人にお伺いいたしますが、民主主義ということはやり方にもいろいろなものがありましようが、民主主義ということは十分に民衆の声を聞いて諸般のことを行う、これがいわゆる民主主義だと私は考えております。当然言論などということも自由でなければならないと思いますが、証人はどう考えておりますか。
  822. 相原和光

    ○相原証人 社会をば進歩発展せしめるための言論はあくまでも自由である。しかしながら社会の発展に対して阻害するような言論に対しては、決して自由であるべきではない。
  823. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 それはソ同盟の憲法の百二十五條には書いてあります。言論の自由は書いてありますが、しかし自由ということで一つの制圧を加え制約を加えるような、たとえばあなたの主観論において、ソビエトの主観論において、どの国かの主観論において、それに反するところの言論は自由でないというような制限をつける自由というものを、真の自由と解釈なさいますかどうか、もう一回聞きたいと思います。
  824. 相原和光

    ○相原証人 私たちつて天皇制時代においては、天皇に反対することは一切自由ではない、このように教育され、またそのように信じておりました。現在においては、人民の幸福のために反するヒとは、これは決して自由ではない。これをいわゆるソ同盟の国において行うのは当然である、私はそう思います。
  825. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 私は証人と見解を異にしているのですが、天皇制のときにおけるいわゆる日本の言論が、天皇制に従わなくてはならぬというような方針に基く言論の扱い方も、自由ではないと私は考える。またソビエト式の行き方において、それに反するものの言動、言論は自由であるべきでないというような、方的にあなたの証言のように解釈することを、私は真の自由とは解釈していないのです。そこであなたが一九四七年の七月に民主グループにみずから進んで入つたということは、いわゆる民主主義の度合いはいずれにいたしましても、みずから進んで私はソ同盟式の民主主義になろうというので入つたのだろうと思うのです。それが一九四八年の三月、あなたは民主グループから除名せられた。しかもその除名せられた理由というものは、キリスト教徒であつたがためだけでもありますまいが、なかなかうまく行かなかつた。同時にまたあなた御自身の良心によつて向うのいわゆる收容所を視察に来られた人たちが非常に民主的になつた、同時にまた生産も上つているというお話があつたときに、あなたは良心の命ずるところで、そうじやない、まだ十分ではないのだ、まだ暗い影があるという、真の良心から出発した発言をした、そのものが私は正しいあなたの言論の自由に基いたあなた自身の御批判であり、考え方であり、あるいは正しい行動だと私は思う。そうしてあなたがほんとうに良心に従つて発言したそのもの理由となつて、除名せられるなどということは、非常にその個人の言論というものを抑圧した行動であり、態度だと私は解釈するのですが、あなたのそのときのお考え、今のお考えはどういうお考えでございますか。
  826. 相原和光

    ○相原証人 先ほど話したように、一九四八年三月当時の私の考え方は、まだ未熟であつたということです。あの当時はやはり私の方が誤謬であるということです。
  827. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そうするとあなたが先ほど証言された、まだ十分に收容所が民主化されていなかつたというそのことも間違つていたとお考えでございますか。
  828. 相原和光

    ○相原証人 ……。
  829. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 わからないのですか、今の問いは……。
  830. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そこが非常に重要なポイントですから……。
  831. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 わかる程度で答えられないのか。
  832. 相原和光

    ○相原証人 ……。
  833. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そうすると、あなたが一九四八年三月除名されるときに、收容所の状態に対して直感した——民主的になつた向うが言つたのに対して、まだ民主主義には遠いという考え方で発言したのですが、今考えてみれば民主主義でなかつたかということを私今聞いておるのですが、民主主義になり切つていたかどうか。そうするとあなたの考え方では、まだ民主主義ではなかつたと当時思つて言われたと思うのです。そうすると今静かに考えてみると、あのときは收容所というものはりつぱに民主主義になつていたのだ、ソ連将校の言う通りになつていたのだと、こう今考えておられますか。逆に聞いてみます。
  834. 相原和光

    ○相原証人 ソ軍の将校の方も、それは現在のあれが完全に民主主義だとは申されません。ですから私の言葉をその方は取上げられて、いわゆる偏向に対する戒めというものをなされております。
  835. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そうすれば、あなたのお言葉を取上げられて、全員を戒めたということそれ自体が、あなたの直感というものは正しい直感であつたと私は解釈するのです。正しいことを言つたあなたが除名されるなどということは、正しいものを取上げないような、そうした除名までするようなことは、私たちは非民主主義だと考えるのですが、あなたはそれに対してどう考えますか。
  836. 相原和光

    ○相原証人 ソ同盟の方々はりつぱに指導されるものですが、結局日本人側は、その当時やはりまだそこまで行つていなかつたのだと、こう私は思います。
  837. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 それからもう一つあなたにお伺いしたいのは、先ほど菅君のいわゆる新聞記事、あるいはここでなされた証言が正しいのだということでございましたが、その正しいという最後の言葉の中に、期待と希望という二つをあなたが用いられたようですが、期待というのがほんとうですか、希望というのがほんとうつたですか。これはもう非常に最後の結びでありますから……。
  838. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 新聞で見て言つてはだめだ。あなたの記憶を言わなければ……。
  839. 相原和光

    ○相原証人 記憶といつたつて、私は忘れておるですよ。記憶と言われても、そんなあなた……。     〔発言する者あり〕
  840. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 議論じやないですが、そうすると、あなたは忘れておるのですね。
  841. 相原和光

    ○相原証人 忘れでおるとは言えないですよ。そうすると忘れておるというと、特に私が反動を帰さない、適用しないと、忘れておるにもかかわらず言つたということにもなるのですね。
  842. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そういう証人をひつかけようというのじやないのです。
  843. 相原和光

    ○相原証人 そうなるのですよ。     〔発言する者あり〕
  844. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そう意地悪く言つておるのじない。
  845. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 証人に言うがそんなりくつを言うのじやない。ただこうだつたとか、覚えがあるとか……。その書いておるのを見て言うたりしてはいかぬ。
  846. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 今までこの委員会において証人証言を求めておるのは、幾多の理由はありますが、期待、希望、要請というようなことで、お互いがまちまちの証言をしておるのであります、たまたまあなたの本日の証言の中に、希望と期待という言葉が二つ出たのですが、われわれはどちらがほんとうつたかということを、今静かにあなたの口から出た言葉ですから、ひとつお知らせ願いたいと思う。私たちが要請したのでなく、あなたの言葉御自身から出た言葉です。
  847. 相原和光

    ○相原証人 期待と希望の言葉、どつちかとこう言われるのですが、結局そうするとまたお叱りを受けるかもしれませんが、そのときに言われた言葉は何ら收容所内において問題にはされなかつたということです。それによつて收容所内において徳田要請があるとか、云々ということはなかつたということです。
  848. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 私は問題になつた、ならないということを聞いておるのではないのです。あなたの耳において、その当日受けた言葉をお聞きしているのです。期待であつたか、希望であつたか、菅君がどういう言葉をもつてつたか。あなたはきよう希望と期待という二つの言葉を言われたのです。そうすると希望と期待ということを菅君が二つ一緒に言つた——あとは私たち想像しないし、また今までの証人もそんな二つの言葉を述べておりません。たまたまあなたの口から希望と期待という言葉がきよう出たので、そのいずれであつたかということを静かに——私はあなたを偽証にひつかけようとか、意地悪で言つているのではないので、期待であつたか、希望であつたか、どつちでもいいのですが、その一つを今ちよつとお聞きしたいのです。
  849. 相原和光

    ○相原証人 日本共産党は、諸君たちがりつぱな民主分子として帰つて来られることを希望するのであります。
  850. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そうですが。そうすると菅君のがちよつと間違つて来たのですね。  あなたはロシヤ語を御存じだそうですが、今はつきり希望と言われたのですが、その希望ということを原語で——それを今御存じでありませんか。
  851. 相原和光

    ○相原証人 私は正確なロシヤ語を向うで覚えたわけではありません。向うへ行つて耳から覚えたのであつて、字を見て覚えたのではないのです。
  852. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 どういう言葉ですか。
  853. 相原和光

    ○相原証人 ナデジユダイジエ、そういう言葉があるかないかわかりませんが、たしかナデジユダイジエだつたと思います。
  854. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 あなた、さつきいつ帰れるかといつたときに、それからまた九万五千人帰すということがあるがどうなんだと聞いたときに、それは反動には適用しないのだということをあなたははつきりおつしやいましたが、それは確認してさしつかえありませんね。
  855. 相原和光

    ○相原証人 確認してはいけませんね。
  856. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 それは重大問題です。しかも宣誓して神聖なる委員会において、あなたははつきりと反動には適用しないと言われた。そうすると(「それは恫喝じやないか」と呼ぶ者あり)恫喝じやありません。これは重要だから私は申し上げているのです。毒の低い高いは自由です。恫喝ではありません。そこで反動には適用しないどいうことを、あなたは宣誓された証言の中にはつきりと申されております。これは速記録を調べればわかります。それを私がただいま確認しようとするのを、笑いながら確認してはいけませんということは、まるでこの委員会のあなたの証言というものは真実を申し上げますと言つておきながら、一旦言つたその言葉をまるで否定するようなことは、あなたの良心に聞いてどう思いますか。
  857. 相原和光

    ○相原証人 なぜならば、あなたがさつき期待か、希望かという言葉を言われましたね。そうしてその言葉がどちらであつたか、私は忘れかかつていることに対して質問されましたですね。そうすると私だつてすべてをはつきりとは覚えていないわけですよ。ですからよく反動は帰すな反動は帰すなという言葉があつたですから、そういうことについて私が言わないとも限らないわけですね。
  858. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 わかりました。これは今から一年も二年も前に言つたことをどつち、だといつて追求すること自体私はむりだと思うのです。人間ですから忘れることもあります。
  859. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 忘れたら忘れたでいいのです。
  860. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 忘れたら忘れたでいいのですよ。ただあなたの口から先ほど希望と期待という言葉が出たから、どつちだということを聞くので、それもわからないというのならそれでいいのです。しかし反動には適用しないといつたその言葉は、一年も、二年も前の言葉ではありません。これは十分か、十五分前のあなたのおつしやつた言葉なんです。それをその通りとつてもらつちや困りますということは、その記憶の薄らいだあなたの言葉を押えて私は言つているのではなくて、なまなましい先ほどおつしやられたその言葉を私は申し上げているのです。そのことはこれ以上私は追究いたしません。  そこで質問を別にいたしますが、私はどの証人にもお聞きしているのですが、ソ同盟が戰争が終つてから三年も四年も帰さなかつたというこの事実は、あなた方が体験されて来たのですからわかつているでしようが、私らの考え方では、ポツダム宣言の條項に、武装を解除された国の軍隊は云々、帰さなければならないということが書いてある。時期は多少ずれましたけれども、結局みな帰してくれました。しかしソ同盟だけはとにかく何十万という人が、それは数字はいろいろ違つているでしようが、何万という人を三年も四年も帰さなかつたというこのソ同盟のやつている態度は、ポツダム宣言違反であり、人道上許される行為でないと私たち考えているのですが、あなたはどうお考えになつておられますか。
  861. 相原和光

    ○相原証人 私は昨年十一月末をもつてソ同盟はいわゆる引揚げは完了した、このように思つております。
  862. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 それは全然違うので、昨年完了したか完了しないか、まだ四千人帰つて来るというのですから、まだ完了していないはずだ、そのことでぼくは議論いたしません、ただ三年なり四年置いたというソビエトのやつて来ました行動が、ポツダム宣言通りやらなかつたでしよう。それから先ほどの証人は捕虜として満足な生活をして帰つて来たというので、非常に喜んだ証言をしておりましたが、捕虜になつてぼくは、喜んでいる人はないと思う、どなただつて帰りたい気持は一ぱいだと思う。それを三年も四年も帰さなかつたということにおけるソビエトのやり方は、あなたは非常に遺憾だというならば——遺憾という言葉でもいいのです。強い言葉で言うなら、ポツダム宣言違反、人道上許されぬとか許すとかいうことは別にして、こうした行動は普通のいわゆる戰争に勝つた国、しかも世界の大きな指導国であるソ同盟のとるべき態度としてははなはだ遺憾だという程度までも考えておりませんか。これはものの考え方の中心になりますから、こういう問題を重ねてお考えなさつて……。
  863. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どうですかその点に対しては……。
  864. 相原和光

    ○相原証人 もう一度言つてください……。
  865. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 たとえば諸外国の連合国はみんな日本人を帰してくれたというのにかかわらず、ポツダム條項にもある——また捕虜になられた人々は帰りたいという気持はみな持つておる、それを三年も四年も帰さなかつたというこのソビエトのやり方は、人道上から見ても、いろいろな條約の方面から見ても非常な遺憾なやり方であつたというお考えを持つておりませんかということです。
  866. 相原和光

    ○相原証人 この問題は主観の問題です。私は思つておりません。
  867. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 これは重大なことでありまして、三年も四年も置かれて遺憾でないと思う、これは当然だという証言なんです。先ほどの方もそうです。しからば国会において、あるいは国民全体が、あるいは留守家族、遺家族の人たちが、もう連日、連夜帰してもらいたいという遺勅をして来たことが、われわれの運動は何もならないことで、いわゆる嘆願し、懇願したことが何らその必要性を認めないという証言と同じことなんです。こういう考え方を持つておる人たちがあるということは、私は引揚げ問題に一生懸命奔走した方々に対して申訳ないと同時に、また何年か自分たちの子供やあるいは兄弟を持つていた留守家族に対して、はなはだ私は慙愧にたえない。こういうことを私は聞いて、証人証言としては、私自身はなはだ遺憾であるということをもつて私の質問を終ります。
  868. 内藤隆

    内藤(隆)委員 あなたは要するにクリスチヤンとして、常に神とともにおる入だと思つていたが、神の愛をすらあまり御理解にならないということを発見して、キリスト教のためにはなはだ遺憾に私は思います。そこであなたが最初京都帝大を出てから応召されたが、すぐ帰されたので、非常に残念に思つたという証言がありましたが、この残念という意味はどういう意味ですか。
  869. 相原和光

    ○相原証人 その当時の気持言つておるわけであります。その当時の日本国民として、兵隊に応召されて帰された場合には、残念だと思うのは当然だと思います。
  870. 内藤隆

    内藤(隆)委員 その当時の日本国民の一員として残念に思つたという、なるほど忠誠な気もあつたんですね。  それからもう一つ、宗教は阿片だといわれているロシヤに、一体あなたがクリスチャンということを名乗つて、それで待遇を受けたというような御証言がありましたが、一体これはどういうことを意味しておるのですか。それはどういう階級から待遇を受けたのですか。ロシヤの官憲からでも待遇されたのでしようか。または農民やあるいは兵士からも大いに理解され、歓待されたのですか。
  871. 相原和光

    ○相原証人 ロシヤでは宗教がただ自由だということです。
  872. 内藤隆

    内藤(隆)委員 実際今自由だという形をとつておりますが、スターリン政権の当初において、いわゆるレーニンは宗教を阿片だと言つておる。そのロシヤにおいて宗教が今自由になつておるのは、これはロシヤの農民なり、あるいはまたロシヤの兵士というものが無知なんだ。そうして神を非常に尊敬しておる民族性なんだ。その民族性に反対した共産党は政策をとつてつたことが失敗であつたから、スターリンはそういうことをやつておるにすぎない。そのくらいはあなた御存じでしよう。
  873. 相原和光

    ○相原証人 私は全然反対です。
  874. 内藤隆

    内藤(隆)委員 それではもう一つ、あなたはキリスト教の立場から、つるし上げを初めはいやだと思つたが、最後にはこれもいいこと、だというようにおつしやいましたが、いかがですか。
  875. 相原和光

    ○相原証人 キリスト教はいわゆる博愛主義です。しかしながらキリストもやはり敵に対しては断固として闘いました。
  876. 内藤隆

    内藤(隆)委員 これはおかしい。私もキリスト教の信者ではないが、キリスト教の教育を受けた者です。一体人をさばき得るものは神以外にだれがあるのだ。これがキリスト教の根本の教えだ。この教えを知らずしてクリスチャンとはおこがましい。
  877. 相原和光

    ○相原証人 それではあなたはキリストが宮潔めをねらつた事実を御存じですか。
  878. 内藤隆

    内藤(隆)委員 君は答弁を用いてはいけない。君と討論をする必要はない。キリストの精神は敵を愛するところにあるわけでありますが、一体つるし上げとは何ですか。つるし上げとは批判だ。裁判でしよう。いわゆる神以外にさばき得るものがないという教えを信じておるあなたが、つるし上げもまた可なりと言うに至つては、あなたの証言というものは三文の価値もないのだ。
  879. 相原和光

    ○相原証人 答弁しますか。
  880. 内藤隆

    内藤(隆)委員 答弁の必要はない。
  881. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 議論にわたつてもしようがないから……。
  882. 内藤隆

    内藤(隆)委員 あなたの証言のうちに調査官という名称が出て参りました。これはどうも今までの証言中になかつた一つの名称でありますが、この調査官というのは一体何をするお役でありますか。どういうことをやりましたか。
  883. 相原和光

    ○相原証人 ソ同盟における調査官は、各收容所に一名ずつおられます。そしてその調査官というのは、いわゆる日本におけるならば、その收容所内において窃盗、強盗、あるいは何か秩序を乱す、こういつたことに対しての取締官です。
  884. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そうすると警官のようなものですが、それじや警官とつけるべきですが、ことさらに調査官とつけたことは……。
  885. 相原和光

    ○相原証人 それはやはり同じ軍人です。私はそうむずかしいことを言われてもわかりません。
  886. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それではこう聞こう。この調査官はロシヤ語で何と言いますか。
  887. 相原和光

    ○相原証人 オペラジールだつた考えます。耳から入つておる言葉だからよくわからないのですが……。
  888. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 略語を何か使つておりませんかね、たとえばMPというように、OPとか……。
  889. 相原和光

    ○相原証人 知りません。
  890. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そうすると、この調査官という初めて出て来た名称は、あなたの記憶するところでは強盗なり、あるいはまた殺人なり、そういうものが起つてはいかぬ。あるいはまた收容所内の秩序が破壊されてはいかぬということを監視しておる警官のようなものだとおつしやるのですか。
  891. 相原和光

    ○相原証人 警官のようなものではないのです。初めお話したように、私は何と訳すか適訳は存じません。ただ私はおそらく調査する人だから調査官だ、こう簡單に私は訳しておる。
  892. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そうすると向うの在住の皆さんの中では、調査官という名前はなかつたのですか。
  893. 相原和光

    ○相原証人 收容所によつて違います。
  894. 内藤隆

    内藤(隆)委員 收容所によつてその名称が違つてつたわけですね。
  895. 相原和光

    ○相原証人 はい。
  896. 内藤隆

    内藤(隆)委員 それからもう一ぺん最後にお伺いしますが、これは佐々木委員からも聞かれたことで、重複を避けます。さいぜん委員長は、あなたに四九年の九月十五日の午前中、どういうことがあつたかということを聞いたとき、あなたのおつしやつた証言は、ずつと今までの証言と一致しておる。私はまことに正項なことをおつしやる人だと実は感心しておりました。そうして委員長はこう尋ねた。それでは十一月中に帰すということが一体これはほんとうかとうか、いつ帰すかという質問がなかつたかということにあらずして、あなたはみずから植松というへが私のうしろにおつてとこうおつしやつて、それだけだつたかと聞いたら、委員長は何ら誘導尋問も、暗示も何も與えていないのに、あなたは反動にはこの声明は適用しないと最初に言つた。こう証言しておられる。そこで私の聞きたいのは、これは今佐々木委員がお伺いしたところが、はなはだ記憶が朦朧とするような、佐々木君をして十分間前の記憶すらないのかと言わせたほどあなたは今のこの言葉を取消さんとしておる。しかるにこれはすこぶる重要性を持つております。なぜならば菅通訳の手記の中には、この冒頭のかんじんな言葉が欠けております。これが私たちが菅通訳——あの不慮の死をとげられた菅通訳の手記なるものを信頼し得ない一つの大きな原因になつております。この意味におきまして、あなたは反動にはこの声明は適用せぬということを最初に言つたということを、もう一慶ここに確認してもらいたい。みんな言つております。共産党系の、いわゆる共産主義思想を持つた人以外の者は、みんなこれを述べておる。あなたも今だれも聞かぬのに、あなたみずからの口をかりて、神は君の口をかりて真実を言わしめた。しかるに君は神の名においてこれを否定せんとする。何ということだ。
  897. 相原和光

    ○相原証人 お答えいたします。今反動には適用されないという言葉が問題になつておりますが、私はその言葉は決して重要なことではなかつた。このように思います。
  898. 内藤隆

    内藤(隆)委員 重要ではない、しかしともかくも、確認したものと認めます。
  899. 相原和光

    ○相原証人 私はこれは重要な問題だと思います。この反動には適用されないという言葉のあの人が言つた意味が、あなたが考えておるようなものとは全然別なものだということなのであります。
  900. 田渕光一

    ○田渕委員 私はこの連日の証人の中でなぐなられた菅さんと、相原証人を一番信頼するものでありますということを申し上げます。なぜならばなくなられた菅君はギリシャ哲学の心理学者、あなたはクリスチャンであります。また最高学府を出られておる。そこであなたに最も人格的にお聞きしたいのですが、興奮することなく、あなたもよくお考え願いたいのであります。あなたがさつきから言われた言葉の中に、菅君が四月五日、この委員会で私がずつと質問して参りましたときに、この委員会で伺つたときに、こう言つたのです。菅君あなたは、証人はこれを期待しておるとか、希望しておるとか、あるいは要請しておるとかいうことについてどう考えられるかと心理的にだんだん聞いて参りますと、人によつては要請と訳せるものであるということを菅君自身おつしやつた。この点については非常に苦しんだと思いますが、だんだん心理的に伺つて行きますと、希望とも訳されますし、期待とも訳されますし、要請とも訳せるでしよう。やわらかくも訳せるだろうし、強ぐ要請とも訳せるだろうと言つたのですが、これを証人はどこまでも希望と期待というふうにしかとらなかつたのでありましようか。それをお伺いしたい。
  901. 相原和光

    ○相原証人 私はどこまでも希望、期待ですね。要請とは一つも受取らなかつた
  902. 田渕光一

    ○田渕委員 それからあなたのうしろにおつた植松君が、そういうことを聞いたときに、そういうようなぐあいで何らの動揺もなかつたというふうに伺つておりまするが、幾人かの証人の方方は、みなばからしくなつてしまつた、まことにここに来たら帰れるものだと思つてつて来たところが、反動は帰さないということになつてしまつたので、ぶつぶつ言つたということを言つておるのですが、そういうようなこと、全然一言もそれに対して期待を裏切られたと言うような人はなかつたのでありましようか。
  903. 相原和光

    ○相原証人 私たちは確かにみな帰れると思つてつたわけであります。十一月末までには帰れると思つてつた。帰還列車だろうと喜んでみな乗つてつた。ところが汽車が別の方向に走つたので、みな大騒ぎをしたのであります。そうしてカラガンダに着きまして、帰れるか帰れぬかということは一番の関心事だつたわけであります。私たちはそのときに、一体われわれは戰犯容疑者のある一団なのか、それとも九万五千の中なのかということが一番議論された問題なのであります。それがこのようにだんだん日にちがたつてつたわけであります。そのうちにこれは帰れないだろうという見込みを——いわゆる戰犯容疑者としてわれわれは残されておるのだ、特にカラカンダに集まつたたちはどういう人であるかといえば、憲兵、警察官、特務機関、協和会、高等法院というような前職関係の人が全部ですから、それで帰るということが一番問題になつてつた。それでわれわれもこれは帰れないだろう、こういうふうに思つていた。本年はお前ら越冬準備をしろという話をされました。これから冬に向うのであるかち、諸君たちは家の窓ガラスをどうしろとか、屋根に土を上げろとか、越冬準備の話をされたのでがつかりしたわけです。今言つた植松君に対する答えに対しては鼻で笑つたのです。また民主分子になつたら帰れるとか、作業を一生懸命やつたら帰してくれるのだというが、これはまた例の話の一端だなあとつた。それよりもわれわれの現実の問題、一番痛切な問題は越冬準備をするように言われた方がもつと痛切だつたのであります。
  904. 田渕光一

    ○田渕委員 私はあなたが最高学府を出られて、ことに苦労をされ、本年三十四歳、満三十二歳、私はこれを思い出すのです。あの最も封建的な時代である鎌倉幕府時代に、日蓮上人が三十二歳で立正安国論を幕府にたたきつけたときに、相当の信念を持つて護国の精神を論いておるのです。ところがあなたはちようどその年輩でおられる。ことにそのとき宗教は違うとはいえ、やはり人道を説くところのクリスチャンであるとすれば、それは十分理解もあり、今日のこの態度、また教養、修養からいつて、正しいことは正しい、不正は不正ということが仏法を説き、キリスト教を説く者の精神でなければならぬと思います。そういたしますと、ソ連の限られた一局所の收容所にあるところの單なる民主主義——ソ連でいう民主主義は完全な共産主義であります。それはごく狭められた共産主義であり、完全なものではない。広い全ソ連邦全般に行われておる共産主義というものをあなたは知る由もないのであります。ごく狭い範囲で反動分子だけは帰してはいけない。共産主義でない者はことごとく反動分子である、そういう狭義の観念から説かれておる共産主義と、ソ連邦のあの奥地の何億という人民に行われておる共産主義とは違つておる。それをあなたは知るはずはない。收容所共産主義だけを民主主義と論かれるのです。この速記を通じ、人はほんとうに完全な民主主義をはき違える場合があるのであります。われわれの言う民主主義ほんとうに人類永遠の福祉のための民主主義である。あなたのおつしやるのは一方の共産主義を論かれておる。狭い收容所の一方の共産主義でなければ帰すなということを、徳田書記長が言うて来ておる、こういう点から非常にあなたは狭い意味で解されておるのか。それともほんとうの宗教、世界人類を救うところの人道上のクリスト教から見た民主主義か。それを伺いたい。
  905. 相原和光

    ○相原証人 今御質問くだされた問題は、やはり二つの部面にわけてお答えしなければならないと思います。それはあなたの言われた最初の問題と、次に言われた問題とは違つております。まず最初あなたが言われたのは、ソ同盟の共産主義は反動は帰さない。こう申されましたのはその通りですね。
  906. 田渕光一

    ○田渕委員 そうです。
  907. 相原和光

    ○相原証人 しかしソ同盟はそんな国ではないということです。それは私自身がはつきり知つて来たのですよ。なぜか、帰つて来たからです。みんな最後まで肩章をつけていた人たちもやはり帰つて来た。向うで徹底的に反ソ、反共をやつていた人たちもみんな帰つて来ている。ソ同盟という国が反動だから帰さないというような、そんな小さな国ではないということです。民主主義とはそんなものではないということです。まず最初の問題で、ソ同盟が反動だから帰さないということはないということですね。反動も帰すということです。現実に帰つて来ておる。第二番目の……。
  908. 田渕光一

    ○田渕委員 收容所だけの共産主義だ、ソ連邦全部の民主主義をあなたは見ておられないわけです。拘束されて……。
  909. 相原和光

    ○相原証人 その次を申しますと、もちろん私たち收容所内におりました。しかしながら私たちが歩いて来た道は、ソ同盟におけるごみ箱のようなところですよ。いわば最も僻遠の地であり、流刑地であり、そこにおる人たちはどういう人たちかと言えば、解放囚人である。みなクラークの人たちである。いわゆる最も悪いところに行つて来た、最も悪いところを見て来た私がソ同盟に民主主義があるということを言うわけです。
  910. 田渕光一

    ○田渕委員 そこで証人にお伺いしますが、反動が帰つて来たからソ連の民主主義共産主義はいいものだ。こうおつしやつていますが、証人が非常に学力もあり、修養もあり、宗教家なんです。ポツダム宣言にはただちに帰せということを書いてあり、当然帰さなければならぬものを、四年もたつて帰しておることはポツダム宣言に違反しておるかということを佐々木委員が聞いたら、ポツダム宣言違反ではないと言つておるが、あなたはポツダム宣言の條項というものをお読みになりましたか。
  911. 相原和光

    ○相原証人 私もポツダム宣言の中の條項にいわゆる捕虜は、今あなたが言われたように、日本の軍隊はただちに本国に帰還せしめ、そして平和的な産業に復帰せしむべし。こういう條項があつたということを、何條ですか私はしりませんが、覚えております
  912. 田渕光一

    ○田渕委員 そう覚えておられるなら、反動であるあなたも帰つて来た——。あなたはアクチーヴであつた、反動ではない。あなたは反動も帰しているということをおつしやつておりますが、この四年間もポツダム宣言を履行しなかつたソ連を、あなたはポツダム宣言においてどう思うかと言つたら、何ら佐々木委員に対してお答えがない。まつたくこれはポツダム宣言違反である。ソ連に対しては、日本ほんとう戰争をしておらない。あなた方現地で御存じの通りです。上海事変以来、中華民国に対しては迷惑をかけたということを新聞紙を通じ伺つております。事実であるないはとにかく、いろいろな残虐行為が行われたと聞いております。その国の蒋介石が、一人の人間もたたいてはいかぬ、ただちに母のふところに帰してやれと言うているのは中華民国の蒋介石です。ところが何ら鉄砲も向けないところのソ連は、われわれ同胞、何十万、何百万の兵隊を連れて行つて、ポツダム宣言の條項に違反して四年も帰さないで、四年目に帰した。これがあたりまえで、ポツダム宣言に違反しておらないとあなたはおとりになりますか。あなたは大きな宗教家であります。そうして最高の学府を出た教育者として、ことに三十二歳という思慮分別のしつかりした精神のあるとき、往年の日蓮上人を思い出してここにはつきりしていただきたい。
  913. 相原和光

    ○相原証人 一番最初に佐々木委員の方から御質問があつたときに一主観においてということを申し上げました。結局これはあなたの主観の問題と私の主観の問題になります。私は捕虜になつて、そうしてもちろんいろいろ苦労もしました。しかしながら決して私はソ連に対しておそく帰つて来たということに対してそれはもちろん家内や子供たちや、ほかの者に迷惑をかけたということは、ほんとうに済まないと思いますが、いわゆるこれがブランクだつたとか、マイナスだつたとかいうことには考えていない。
  914. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それ以上は議論で、しようがないじやないか。考えが違うからしようがない。
  915. 田渕光一

    ○田渕委員 考えは違うと思いますが、私は普通の証人ならそこまで追究せぬのです。クリスチャンというものは、神に誓うてほんとうに良心的であり、良識的でなければならない。それでアクチーヴから除名までされているあなたでしよう。その方が、今日共産主義に加盟したとか、あるいはソ連共産主義になつたとか、あるいは共産党の迫害があるからというような、さつきあなたが冒頭に言われたのはそれです。しかし日本の治安ははつきりしているのだから、決して共産党やあるいは右翼の迫害があるわけではありません。かような意味において、はつきりポツダム宣言違反なら違反で、主観だとかあるいは客観を聞くのではないのです。大勢の人たちはポツダム宣言不履行だということを、世界の人類が認めている。それをこれほどお伺いしても、ポツダム宣言の條項にソ連は違反しておらぬ。われわれはポツダム宣言に違反されず、まるまる太つてスターリンに対して感謝して帰つて来たというような証人もあるのです。これは菅君のような心理学者、あるいはあなたのような宗教家から、しつかりしたところを聞きたい。これは決して偽証罪とか何とか、そういう意味でなく、ものを明瞭にするために、あなたがほんとうに良心的に、良識的に、何ら煩わされないところから述べてもらいたい。ポツダム宣言というものを日本が無條件に聞いたなら、ただちに帰してくれるということを書いてある。
  916. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 わかりましたか。答えますか、証人
  917. 相原和光

    ○相原証人 その帰る問題ですが、四年間かかつた。そうしてこういつた捕虜の帰るという問題は、日本政府ではなくて、いわゆるアメリカ、あるいは中国、あるいはソビエトとそれぞれの協定が結ばれて私は帰されたのではないか。このように思います。日本の政府がやつたものとは私は思いません。そうして私としては、いわゆる国際條約に基いてこの捕虜送還というものがなされたのであろう。このように私は思います。
  918. 田渕光一

    ○田渕委員 中華民国あるいはその他イギリス、アメリカは、帰すべくく、コースを日本に向けております。ところがあなたが帰れると思つた東の方へ行くのが西の方へ、そうして違う方面へ違う方面へと連れて行かれる。それで帰すべく努力をしていたのですか。完全な共産主義者にならなければと、奥へ奥へ、カラカンダまで連れて行かれたではありませんか。これがソ連がポツダム宣言に違反せずして、帰すべく完全にやつたんだということですか。日本の政府が迎えなかつたと言うけれども、日本の政府は砕氷船を送つてまで帰すことを要請しております。どうですか。中華民国はただちに現地から帰して来ている。ソ連はあなたが帰れると思つたコースと違う、あらゆる方面に引きずりまわして、完全な共産主義にならなければ帰さなかつた。これはポツダム宣言違反ではないですか。主観とか客観とかでなく、あなたのりつぱな宗教家としての心境を、この点だけを聞きたい。これで打切りますから、これに対する答弁を求めます。いかがでございますか。     〔「共産党がこわいから言えないのだ」その他発言する者あり〕
  919. 相原和光

    ○相原証人 私は共産党を恐れておりません。何ら恐れておりません。この問題についてポツダム宣言の條項違反と言われておりますが、それならば私の友だちたちはみんな失業している。この人たちを……     〔発言する者あり〕
  920. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そんなことを言うからいけない。答えないなら答えないでいいのです。違反でないと思うなら違反でないと思うでいいのです。
  921. 相原和光

    ○相原証人 私はポツダム宣言違反ということを知らないのです。
  922. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 思つていないそうです。  大橋君。
  923. 大橋武夫

    ○大橋委員 ちよつとただいまのに関連して伺います。あなたがソ連に入られた当時を思い出してみると、一体どのぐらいの期間に帰されると思われましたか。
  924. 相原和光

    ○相原証人 私たち向うに行つた当時、兵隊は三年、下士官は四年、将校は五年、これはもちろんうわさですが、そういうように言われまして、将校の人たちもそういうようなことを漏らされたのです。そうしてわれわれは、これは兵隊だから三年で帰れるな、あるいは将校は五年くらいかかるだろう、このように思いました。
  925. 大橋武夫

    ○大橋委員 そうしてその時分、三年より早くは帰れないと思つておられましたか。
  926. 相原和光

    ○相原証人 思いました。
  927. 大橋武夫

    ○大橋委員 それから、もつと早く帰りたいという希望はなかつたですか。
  928. 相原和光

    ○相原証人 それは一日も早く帰りたかつたです。
  929. 大橋武夫

    ○大橋委員 そうして今帰つて来られて、四年たつてつて来られた今、もつと早く帰れる方法はなかつたかということを考えられませんか。
  930. 相原和光

    ○相原証人 もう一度……。
  931. 大橋武夫

    ○大橋委員 ソ連の方の好意的なはからいがあれば、もう少し早く帰れそうなものだつたんではなかろうかというようなことをお考えに全然なりませんか。
  932. 相原和光

    ○相原証人 私はソビエトの国が私たちに対して、いわゆる民主主義ということはこれはどういうものかということを、やつぱり教えたのではないかと思います。
  933. 大橋武夫

    ○大橋委員 そうすると、ソ連が民主主義を教えるために四年間かかつた。そうしてあなた方が民主主義ちようど完全にマスターするのに四年間かかつたために、ちようど今ごろ帰つて来られた、こういうわけですね。
  934. 相原和光

    ○相原証人 私はそういつたことに関してはわからないのです。
  935. 大橋武夫

    ○大橋委員 あなた御自身の今のお感じとしては、それでは思つたより早く帰れたと思い葦すか。それとも思つたよりおそく延ばされたと思いますか。それともちようどいいところで帰つたと思われますか。
  936. 相原和光

    ○相原証人 私たちはそれは一日だに家に帰りたいと思わないことはなかつたのです。毎日家に帰りたいと思つてつた。私たちの一番思うことは家のことであり、妻子のことであつた
  937. 大橋武夫

    ○大橋委員 害そうすると思つたよりおそくなつたのですか、期待よりおそくなつたのですか。
  938. 相原和光

    ○相原証人 その通りです。
  939. 大橋武夫

    ○大橋委員 それで期待よりおそくなつたということについては、これはだれを恨むこともない、自然の成行きなんであつて、別にソ連のなさり方によつてこういう目にあつたとは全然考えておられませんね。今日あなたも御帰国になつて、あなたがこちらへ来られる間のいろいろな御家族の御協力とか、あるいは国民の引揚げ促進についてのいろいろな努力があつたことを十分御存じだと思う。これらを考慮に入れて、あなたがお帰りになつた時期はもつと早く帰れたのではないかということは、現在全然考えておられませんか。
  940. 相原和光

    ○相原証人 もう一度お願いいたします。
  941. 大橋武夫

    ○大橋委員 あなたは今日無事帰国されて、そうして向うに抑留されておる間に、あなたを待ちあぐんでおつた日本の国内の国民的努力についてお聞き及びになつたことはありませんか。
  942. 相原和光

    ○相原証人 あります。
  943. 大橋武夫

    ○大橋委員 それでそれらの事柄を総合してもつと早く帰つて来るということを、日本人は全体として期待しておつたということも御承知ですね。
  944. 相原和光

    ○相原証人 はい。
  945. 大橋武夫

    ○大橋委員 それらの期待にもかかわらず、あなた方が非常に遅れたということについて、それはソ連のなさり方というものと全然関係がないことである、ソ連としてはできるだけの努力をされたがこれだけ遅れたんだ、こう思つておられますか。
  946. 相原和光

    ○相原証人 私にはわかりません。
  947. 大橋武夫

    ○大橋委員 いやあなたのお感じを聞いておるのです。あなたはそういうことを全然考えてみたこともないのですか。これはわかるかわからないかの問題ではないのです。どういう感じを今持つておられるかということなんです。自分の現在の感じが今わからないのでは、これは気違いです。
  948. 相原和光

    ○相原証人 私はソ連は、帰すことに対しては一生懸命だつたと思います。なぜならばナホトカに来たときに、船の来るのを一生懸命に待つてつた。それなのにかかわらず船が来なかつたのです。
  949. 田渕光一

    ○田渕委員 もう一点だけ伺います。今大橋委員の問われたことと一応関連するのですが、あなたがきよう冒頭においておつしやつたように、やはり菅君のようなことがあつてはいかぬというので、御家族もこの委員会に傍聽に来られ、身辺を見守られておる。こういうぐあいに御帰還になつても夫婦愛というか、あるいは親子の感情、これは日本の情愛です。当然です。私はやはりあなたは父母に会いたい、兄弟にも会いたい、日本に帰りたいということをあこがれておつたことは事実だろうと思います。またあなたのお父さんやお母さんは、あなたが四年間遅れたために白髪になられたかもしれない。あるいはそのうちになくなられたかもしれない。早く帰つて来さえすればこういうことはなかつたであろうということをお感じにはなりませんでしたか、それが一つ。  もう一つ簡單に伺いますれば、あなたが四年間遅れたために、御家庭上にいい変化があればいいけれども、悪い変化があつたとするならば、そこに日本人としての血が通う以上は、もう少し早く帰ればよかつたのではないか。アメリカもイギリスもオーストラリヤも中華民国もみんな帰しておるのに、ソ連だけが遅れていまだに帰していないのだ。これでも大きな宗教を論かれるあなた方キリスト教信者として、御家庭上から考えても、帰られることが遅れたということに対しては何ともお考えになりませんか。
  950. 相原和光

    ○相原証人 一般の人たちは昨年末をもつてつたと思います。そうして私たちはいわゆる戰犯容疑者として本年帰つて来た、その容疑が解かれたから本年帰つて来たのです。現在向うに残つておる人も——たち自身もそうだつたのですが、各收容所を閉鎖されて次から次へと移つておる人だけです。その数もせいぜい二千か三千くらいしかいないのではないか、このように私は思います。
  951. 田渕光一

    ○田渕委員 どうもわからないが、この程度で終ります。
  952. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなたは先ほどの証言の中で、在ソ中自分はクリスチャンであるということを公然と言つてつた。そのことについてソビエト側から何らの圧迫もなかつたソビエトにおいては宗教の自由が保障されておるというふうにおつしやいましたが、その宗教が保障されておる具体的な例を、もし知つておられたら聞かしていただきたい。
  953. 相原和光

    ○相原証人 私がおりましたペグワードにおいてはウズベック人がおりました。それでウスペック人自体の宗教はマホメット教です。そのマホメット教を信じておる人は会堂もありますし、僧侶の人たちもおりますし、また今度タシケント、あるいはほかの大きな町に来たときにはハリストス、いわゆる正教の教会もありまして、礼拜も行われております。
  954. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それからその次に伺いますが、菅通訳というのは、これは先ほどのあなたの証言では、九月の十五日かの日に菅君が通訳をした、そのときに初めてあの人が菅通訳だなということを知つたのですか。
  955. 相原和光

    ○相原証人 そうです。
  956. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その後菅さんと何らかの折衝、交渉、そういうものは持つておられましたか。
  957. 相原和光

    ○相原証人 その後一回菅さんが日本の民主主義について話されました。その講演を聞いて非常に感心しました。
  958. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そこで次に伺いたいのですが、この菅さんはあなたのおられたカラガンダではどろいう仕事をしておられたか。つまり人によつてはこれは非常な熱心なアクチーヴであつて、特にある人の言うところによりますと、これはカラガンダ地区における政治工作の方面の最高指導者であつたというようなことも伝える人があるのでありますが、あなたの知つておられるところではどういう仕事で、どんな地位にあつたかということを伺いたいのです。
  959. 相原和光

    ○相原証人 あの人の政治工作については、私自身あとから行つたのですから存じませんが、最高の指導者ではなかつたということです。私の知つておるのは、あの人は通訳だつたということです。そうしてその当時開設された地区の政治学校講習会の講師だつた。通訳だつた。これだけです。
  960. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 通訳と講師とは違うじやないですか。
  961. 相原和光

    ○相原証人 いや、講師兼通訳というものもあります。
  962. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 單なる通訳じやなかつたでしよう。
  963. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その講師というのは何ですか、講師に出る人はそこの政治的な指導者ということになるのですか。いろいろな知識、各方面の知識を伝えるためには、いろいろな専門家を呼んで聞くということはあり得ると思うのであります。だから必ずしも指導者ということにはならぬと思うのでありますが、その点はどうなるのですか。講師であつたということは、結局そこの最高の——最高の指導者ということはあなた今否定されましたが、講師であつたということは、そのことがすぐにそこの政治的な指導的地位にあつたということになるのですか、ならぬのですか。
  964. 相原和光

    ○相原証人 最高の指導的な地位ではありません。
  965. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それならいいのだけれども、講師だから指導者の一人であつたということについては、それは当然だろう。
  966. 相原和光

    ○相原証人 もう一度願います。
  967. 梨木作次郎

    ○梨木委員 講師であつたということは、そこの政治的な指導者というようなことになるのですか。それともそう言うのは事実と違うということになるのですか。
  968. 相原和光

    ○相原証人 やはり講師ですから、指導者の一人になると思います。
  969. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それでは伺いますが、この菅さんという人が自殺されました。その報道をあなた耳にされまして感じられたことを、率直に聞かしてもらいたい。
  970. 相原和光

    ○相原証人 私がもしも菅君と一緒に証言台に立つてつたならば、菅君は自殺しなくても済んだじやないかと思います。
  971. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それはどういう意味ですか。
  972. 相原和光

    ○相原証人 なぜならば、菅君が自殺するような必要はなかつたからです。
  973. 梨木作次郎

    ○梨木委員 ということは……。
  974. 相原和光

    ○相原証人 私そう思います。ということは、要するに菅君が言われたことですね。私はつきり申し上げます。この問題がどういう人たちから提起されたかという問題です。そしてこれらの人たちが引揚げの問題に対して、共産党あるいは徳田書記長云々という名前を出して問題にしたことによつて、彼を死に至らしめたということです。私の立場上、私の知つておるところからは、こういうことがないにもかかわらず、つくつたたちによつて自殺して行つたといことです。
  975. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはどういうことですか。よくわからぬ。——いやそれはよろしい。
  976. 相原和光

    ○相原証人 共産党が引揚げ問題に対し妨害を行つておる、あるいは徳田書記長が反動は返すな、そのような言葉をば向うに送つたというようなことは絶対にあり得ないと私は信じます。
  977. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その次に伺いますが、先ほどあなたは日の丸梯団の団長の久保田さんのことにちよつと触れられましたが“あなたの知つておられる範囲では、日の丸梯団に加盟しておるような方々をどういうふうに見られますか。
  978. 相原和光

    ○相原証人 私は日の丸梯団に入つた人全体を言うのではありません。しかしながら日の丸梯団の幹部になられた方々、組織者になつた方々は決して正しい人たちではなかつたと私は思います。
  979. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなた帰つて来られましてから、ソ同盟のみならず、海外の引揚者の方々の生活がどういうようになつておるかということを知つておられることについて述べてもらいたい。引揚げて来られた方々は生活状態がどうなつておるか、職や住居が十分に保障されておるかどうか、その点をあなたの知つておる範囲で答えていただきたい。
  980. 相原和光

    ○相原証人 引揚げて来られた方々の生活並びに職というものは、あれほど日本において引揚げ問題が言われておるにもかかわらず、私の妻子に対して、あるいはほかの人たちに対して十分ではなかつた。はなはだ遺憾だつた。このように思つております。
  981. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 妻子に対して……。
  982. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その妻子に対してとはどういうわけですか。
  983. 相原和光

    ○相原証人 要するにまだ引揚げていない方々、また留守家族の方々に対しての政府の施策がもつと親切であつてほしかつたということであります。
  984. 横田甚太郎

    横田委員 一点だけお尋ねいたします。われわれ日本に長いことおりました者には、ポツダム宣言云々と言うている政府自身、またそれを云々している人々自身がポツダム宣言の何を守つているのかというような現状のもとにそれが論議されているので、それが問題になりますところの第九條の「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的目生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ」と書いてあるのですが、このいわゆる完全に武装解除の点です。この点について、あなたがわからなかつたら答えてもらわなくてもいいですが、ソビエトにおいては、捕虜生活をしておつて、完全な武装解除というものをどういうふうに解釈しておつたか、それを承りたい。もう少し簡單に申しますと、たとえばこの第七條におきましても「右ノ如キ新秩序が建設セラレ」こう書いてあるのですが、これは軍国主義あるいは日本の今庄での天皇主義的なあり方がいけないということ、それを除いた新秩序、これが問題になつていると思うのです。それが今やられていないから、依然として占領下にあると思うのです。こういうような場合におきましては、アメリカといえどもやはり日本の民主化いまだしと思うから向うの軍隊がいる。それだからソビエトにおきましても、捕虜とかそういつたたちの中に、これをそのまま日本に帰したならば、武器を放棄したけれども、再びもう一回対ソ戰争をやりたいというような気運が充満している、こういうような気持がなかつたか。もつと簡單に申しますならば、アメリカ人ですら仮想敵国を持つている、日本においてもかつては仮想敵国を持つてつた、こういうことが言えると思う。ましていわんや現在においては思想戰があり、あるいは神経戰がある、こういうような現状のもとにおいては、完全なる武装解除という点について非常に意見の相違があつたのではなかろうか、こういう点をちよつと伺いたいのです。
  985. 相原和光

    ○相原証人 もう一度お願いいたします。
  986. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あまり長いから簡潔に……。
  987. 横田甚太郎

    横田委員 完全武装解除云々の解釈の相違から来ておる問題だと思う。だからその点についてソビエトにおいて完全武装解除とは一体どういうものを意味しておつたか。わからなかつたら答えてもらわなくてもよい。
  988. 相原和光

    ○相原証人 私はやはり日本民族が東亜の民族に対して犯した罪悪に対して、何らの反省も行わないような人はいげないと思います。
  989. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは済みました。御苦労さんでした。  ただいまお見えの証人は一木春夫さんですね。これより日本共産党在外胞引揚妨害問題について証言を求めることとなりますが、証言を求める前に、各証人に一言申し上げますが、昭和二十二年法律第二百二十五号議院における証人宣誓及び証言等に関する法律によりまして、証人証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならぬことと相なつております。  宣誓または証言を拒むことのできるのは、証言証人または証人配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係のあつた者及び証人の後見人または証人の後見を受ける者の刑事上の訴追または処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するとき、及び医師歯科医師一薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁理士弁護人公証人、宗教または祷祀の職にある者、またはこれらの職にあつた者がその職務上知つた事実であつて黙秘すべきものについて尋問を受けたときに限られておりまして、それ以外には証言を拒むことはできないことになつております。しかして、証人が正当の理由がなくて宣誓または証書を拒んだときは、一年以下の禁錮または一万円以下の罰金に処せられ、かつ宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処せられることとなつておるのであります。一応このことを御承知になつておいていただきたいと思います。  では法律の定めるところによりまして証人宣誓を求めます。御起立を願います。  それを読んでください。     〔証人一木春夫君朗読〕    宣誓書   良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又何事もつけ加えないことを誓います。
  990. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 署名捺印願います。     〔証人署名捺印
  991. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの御職業及び年齢は。
  992. 一木春夫

    ○一木証人 現在は農業です。年は満二十五歳です。
  993. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの経歴それからソ連へ入られてからの径路を大筋でいいから言つてください。
  994. 一木春夫

    ○一木証人 昭和十五年五月満蒙開拓義勇隊として内原に入所しました。それから昭和十五年の終りに満洲に入り、三江省湯原県農明の第一義勇開拓団に編入されました。それからずつとその地において個人経営になるまでおりまして、二十年の八月一日現地召集を受けました。そうして鞍山の二〇一飛行大隊警備中隊に初年兵として入りました。それから二週間して十四日、武装解除を受けました。鞍山市街の高射砲隊の裏に移つてから、ずつと製鋼所の解体作業に従事しておつて、大隊が編成されたのは十一月初めであります。たしか十日ころだと記憶しております。そして奉天、海拉爾経由入ソしました。入ソ先は十二月十日タシケントというところに行きました。私たちは初年兵であつたために、入つてから休む間なかなかすつぶろくな雑役に使われて、そのころから左官、れんがつくり、雑役、大体この三つの仕事をしております。四七年の十月の終りアノグレンというところにその一個分所が全部移動しました。そして四八年ですから昭和二十三年の七月まで雑役及びセメント工として従事しております。それからその七月に帰還命令を受けて、アングレンの第三梯団だと記憶しておりますが、それと一緒にナホトカに帰つて来ました。そしてナホトカで二十三年の八月の一日からおもに左官の仕事をしました。そして現在に至つております。二十五年の二月六日帰還直前まで仕事をしておりました。
  995. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ナホトカで……。
  996. 一木春夫

    ○一木証人 そうです。
  997. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうするとナホトカで長いのだね。
  998. 一木春夫

    ○一木証人 長いです。
  999. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 四八年の七月からことしの春までおつた、そういうことですか。
  1000. 一木春夫

    ○一木証人 そうです。
  1001. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 本年二月に帰つた
  1002. 一木春夫

    ○一木証人 二月六日。
  1003. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 第二高砂丸。
  1004. 一木春夫

    ○一木証人 そうです。
  1005. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 今あなたは開拓義勇団に入つておられたというが、在ソ中に開拓義勇団に入つておる者が反動だと目されがちであつたというのでありますが、そういうことはありましたか。
  1006. 一木春夫

    ○一木証人 義勇隊に入つている者が反動なのでありますか。どういう意味か知らぬが、そんなことを言つたらみな反動になつてしまう。
  1007. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そういうことはなかつたですか。
  1008. 一木春夫

    ○一木証人 そういうことはありません。自分も義勇隊出身であります。
  1009. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたは反動視されておつたのではありませんか。
  1010. 一木春夫

    ○一木証人 もちろん最初の間は反動視されておりました。
  1011. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうじやなく、あなたの行動が反動視されてむしかたがなかつたか。
  1012. 一木春夫

    ○一木証人 そんなことはないと思いまする
  1013. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういうところから反動視されたか。
  1014. 一木春夫

    ○一木証人 反動視された……。反動の意味がよくわからないが。
  1015. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 けれどもあなたが反動視されたと言うから……。
  1016. 一木春夫

    ○一木証人 当時だつたらみな反動視さ、れてておつたと思います。
  1017. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこであなたはいわゆる帰還命令を受けてナホトカまで来ておりながら、ナホトカに一年半以上おつたわけですね。それはどういうわけだつたのですか。
  1018. 一木春夫

    ○一木証人 仕事していたからです。
  1019. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 帰還命令が来て、ナホトカに船が来れば帰るのがほんとうですよ。その後帰つているのがあるでしよう。しかるに残されたのは何かわけがあつたか。
  1020. 一木春夫

    ○一木証人 左官の仕事をしていたから……。
  1021. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 左官として間に合うから残されたのですか。
  1022. 一木春夫

    ○一木証人 そうです。
  1023. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何かこういうわけでおれだけ残したとは思わないか。
  1024. 一木春夫

    ○一木証人 それは自分は希望しておりました。たれか残らなければ仕事ができないので、たれか残らなければならないということになつておるのです。
  1025. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どうして。
  1026. 一木春夫

    ○一木証人 仕事をするので……。
  1027. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何か特別にやらなければならぬ仕事があつたのですか。
  1028. 一木春夫

    ○○一木証人 ええ。
  1029. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何ですか。 一木証人 大した仕事でないので、建築の基礎打ちそれもざつぱな仕事だつたのですが、組長といつたらおかしいが、そういう責任のある仕事をしておりました。それからぺーチカの方をやつておりました。ロシヤペーチカの二つの半分も築かないうちにそういうことになつたのです。当時は船が来なくて、約二万ほど周辺におつたわけです。ちようど船が来たのがたしか八月十五日ごろだと思います。それまではどの人たちもみんな働いておつたわけです。それだけです。
  1030. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたはタシケントからアングレンの間で、いわゆる民主グループというものはどこにでもあつただろうが、それの中にも入つておりましたか。
  1031. 一木春夫

    ○一木証人 入つておりました。
  1032. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 入つて、いわゆるアクチーヴになつてつたのか、それともどうだつたのか。
  1033. 一木春夫

    ○一木証人 アクチーヴになつておりました。
  1034. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何かあなたは反動分子とかひより見とか言われて批判された事実はなかつたかね。初めからいずつと入つていたのですか。
  1035. 一木春夫

    ○一木証人 ずつと初めから入つていたのです。批判はいつも受けております。
  1036. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなた自身が……。
  1037. 一木春夫

    ○一木証人 ええ。しかし批判はつきものです。一つやれば一つ批判されます。
  1038. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 批判されてそれからアクチーヴになつたのか。それまではアクチーヴじやなかつたんだね。
  1039. 一木春夫

    ○一木証人 それはそうです。
  1040. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 批判というのはいわゆるつるし上げか。
  1041. 一木春夫

    ○一木証人 いや断つておきますけれども、その当時の民、主グループのアクチーヴというのは、非常に運動に専門的とか、そういう意味でなくして、反軍闘争時代のものです。よく仕事をやり、また横暴な将校、特に自分のところには鞍山の伊藤大隊長、中尉だつたが、これなんかが、ソ連の命令だからお前ら死ぬまでやつてくれと、横暴なことを言つてつた。これらに対して私たちも、ある程度まではやれるけれども、人間である以上はそれ以上はやれないし、それ以上はむりだということで抗議する。そういう程度のアクチーヴであつたと思います。だから民主運動がだんだん発展するに従つて、アクチーヴの質も内容が異なつております。しかし当時自分はアクチーヴであります。
  1042. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ひより見主義とか反動とか言われたことはないのですね。
  1043. 一木春夫

    ○一木証人 四八年の二月ごろ、ひより見の反対の極左だという批判を受けたことがあります。
  1044. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはどこからか。
  1045. 一木春夫

    ○一木証人 あまりやり過ぎたからでしよう。
  1046. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは日本人の仲間だつたね。
  1047. 一木春夫

    ○一木証人 つるし上げはしておりませんが、日本人の仲間で特に横暴な下士官、それから将校に対しては徹底的に抗議もし、また仕事上の競争もしております。
  1048. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたはカラガンダ地区へは行かなかつたか。
  1049. 一木春夫

    ○一木証人 カラカンダ地区は全然知りません。
  1050. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 帰つて来るときには、船の中で日の丸梯団というものができたそうですね。
  1051. 一木春夫

    ○一木証人 できました。
  1052. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その中へはあなたは入つておらなかつたのか。
  1053. 一木春夫

    ○一木証人 自分は帰つて来るときには、今村梯団の副梯団長として帰つて来ております。
  1054. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 今村梯団というのは何だね。
  1055. 一木春夫

    ○一木証人 今村梯団というのは日の丸梯団の反対の梯団です。久保田善藏氏の三百四名、その以外の梯団の一員であつたわけです。
  1056. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこであなたは舞鶴に来てから、日の丸梯団に対しての抗議カンパの署名運動に加わられたということですが、それは事実ですか。
  1057. 一木春夫

    ○一木証人 事実です。これについて一応それの経過を申し述べたいと思います。たしか船が来たのは六日の午後であつたと思いますけれども、その出航の一晩前に、久保田善藏氏と若干口論をしております。というのは、宿舎内において久保田善藏氏が中隊長に推されたわけです。久保田善藏氏はカラガンダ中隊の邦人中隊——一般捕虜、軍人捕虜、戰犯に類する捕虜を全部区別されておりました。その邦人捕虜中隊の中隊長に推されております。中隊長に推されたときの彼氏の言が非常にあいまい模糊だつた。たとえば、今度われわれは帰つたならば、ほんとう日本の民主化のために闘わなけんばならない。言うだけじやだめだ。やらなければだめだというような漠然とした投げ與え方をしておつたようです。これに対して自分が、もう少し闘争目標とか、あるいはそういう中隊長の就任の辞ははつきりみんなにわかるように言つたらどうかと言いましたところが、俄然久保田氏を取省く一派がこつちに食つてかかつて来たわけです。という意味は、あなたは軍人捕虜であつて、何つつがなく五箇年間服務しておる。ところが私たちは囚人ラーゲルに似たところに生活して来ておるので、民主主義というものを理解じかねる。そこで相当の口論になつて、そのあげく、あとからあいさつをするという捨ぜりふを残して行きました。その晩約二時間後、九時ごろと記憶しておりますが、久保田善藏氏が一人で自分の寝所にやつて参りました。自分の寝所は久保田氏の隣であつたと思いますが、来るなり、自分は一木という名前をアングレンで聞いておつた自分はタシケソトの十一分目において民主運動をやつて来、またわれわれの囚人ラーゲルの中で民主的に闘つて来た。おれは民主委員長までやつて来た男だ。きようの君の発言は水準の低い大衆に対しては非常に悪い影響を及ぼす。私は少くともこの人たちがソ同盟に対して反感を持たないような線まで考えておる。このようなことを久保田氏は言いました。それは大いにけつこうである。さらに久保田氏は、私は帰つてからもやくざ的なものであるけれども、やくざにも二通りある。ある意味において正しいやくざとして活躍したいということを私の前でとうとうと述べております。二月六日乗船すると、ただちに吉田政令を渡されましたが、しかしだれしも船が出る以上は、五年間のロシヤの地に対して何らかの感情を抱くものと自分は見ております。その間に彼らはどういうことをしたか知りませんが、私たちが船に乗つて、宿舎の割当を事務長に今村梯団長がとつてつたわけです。そうしたところが御承知のように高砂丸というのは、船は大きいけれども、百名とまとまつた一個中隊は乗せられない船なんです。みんなばらばらです。いろいろ調査の必要もあるから、なるべく二分団にわけて乗せろと事務長に二時間にわたつて部屋の割当をやつておりました。部屋の割当が早く終つてくれればいいがということを思つておりましたが、もう三マイルも出ないうちに部屋の割当が終つた。部屋の割当が終ると同時に、久保田氏が来ていわく。入つて来るとともに、おいとんでもないところをおれたちにくれたとどなつて来た。どういうわけか。部屋が便所が遠くて、おまけに疊が敷いてない。これは交換してくれ。そういうことは船長に言つてくれと言いまして、すつたもんだして、結局邦人中隊の百六十七名と交換するということを、中隊の同志に諮つて交代したわけです。そうしたら、その晩に刊ちようど十時ごろだと思つています。臼井という復員官が来て、梯団長及び副梯団長その他一名来てくれ、用件はどういう意味だと言いましたところが、用件は久保田さんが何か話があるそうです。内容がよくわからないからもう少しはつきり言つてくれと言つたら、久保田さんが、あなたたちの梯団と一緒に行つて、行動したくないというようなことを言つておりました。そして復員官としても一緒に立会つてもらいたいと言うので、たしか一等船室へ、こちらから五名行きました。自分と今村梯団長ともう一人は藤本という人だと思います。それから向うから三名、久保田氏に、もう一名は記憶しておりませんが顔の四角ながんじようそうな男でした。これと五名、そのほかに復員官が五、六名。そうしてその部屋で、結局久保田氏いわく、私たちはあなたたちと行動をともにできない、それはどういうわけかと言うと、思想上の違いがあるために、このまま行くならばあなたたちと血の雨をふらすことになる、こういうことを言つた。血の雨をふらすことになると言うほどあなたたちの思想はあぶないものか。これを全然別個にわけるということはいまだ。そういうことを聞いたためしがない。これに対して復員官はいわく、船長に話をしてもこれはわけようと思えばわけられる、なぜならば、吉田政令に基き、安穏な航海をしなければならぬために、どうしても不稔だというならば、この船の中でこつの梯団にわけるということを復員官の方から言つたわけです。こちらの方としては、全然そのような危害を加えるというふうなことは言つてないのにかかわらず、久保田氏の方から危害を加えるようになるとか、おれの下の子分たちがあばれ出すかもしれない、そういうようなことになつては困るからといつたような事件を持出すことになつたために、もしたそういう危険人物がいるなら、危険人物を監視してもらいたいということを言いましたところが、復員官は依然として聞きません。そうしてここに日の丸梯団という名前ではありませんけれども、久保田梯団と今村梯団というようにわけたわけです。このときの條件は両者とも現在人員に従つて、全然加えもしないし抜きもしない。いわば左翼と右翼ですね。抜きもしないという約束のもとに、ここで調停を終つたわけです。そうしてそのあくる日の朝になつたら、俄然その久保田氏の梯団の者は胸に白いカーゼの上にこちよんと赤いしるしをつけた。これははなはだ日の丸と見るにはあまりにおそまつな品物でした。これを胸につけております。そして呼称も日の丸梯団という名前を使つている。こういうことに対しては全然われわれは耳新らしいことであつたわけです。  さらにこの問題に関して、船内においても復員官はさらに要請している通りに、集会及びいろいろな集団的行動というものをとつてはいけないということを再三言つております。こちらはそれに対して数回となく協議を徹底せしめ、このようなことがないように諮つております。この点については久保田氏の方で一つの集会なるものを持つて、感想、すなわちソビエトの真実とはかくいうものであるというふうな、いわく一口に言つて反ソ的なもの、そのような演説を盛んにやつて、かつてファシズム的な気焔をあげております。これに対して若干の中隊が故障を申し入れろというような動静に出ておりますけれども、これはとどめておりました。そのようなかげんで、ここに日の丸梯団というのができた。  それから別に入つた資料では、当時船内に配給されておつた若草もちとか称するボンタンあめ式のもちを包んだきれの薄板にこういうことが書いてあります。それはある人が廊下で船員からもらつたと称するもので、それには一月の二十三日——大体二十三日ごろだと記憶しますが、一月二十三日一千二百の同志は胸に日の丸のバッジをはめ一日の丸の旗高く掲げて舞鶴に入港りた、いざ同志よ、続け、こういう内容のものです。そうしてこの久保田氏たちが全然日の丸梯団というようなことを意識しておらずに、あるいは意識して行つたかどうかそれは知りませんが、忽然として船の中ででき上つたということに関して、私たちは唖然とした目を向けざるを得なかつたのであります。それからその後、船が舞鶴に着くと同時に、私たちは大体どういうかうを日本がかわつているかという好奇心で一ぱいでありました。ところが船が着くなり、船のまわりを新聞社のランチと称するものがぐるぐるまわつたわけです。そうしてあの写真機でパツパツととつて行きました。そのときに、日の丸梯団は何名だ、日の丸梯団は今度は多いか、あるいははなはだしいのになれば猪狩大尉は帰つて来たか、だれだれ中尉はおらぬかというような非常に積極的な叫び声、これが聞えたつわれわれも唖然とならざるを得なかつた。ところが、そのときには今村梯団は梯団の人員も多いし、また夜間でもあつたために、日の丸梯団は日の丸をあげることができなかつた模様だと考えます。それからそのあくる日、九日の朝もランチが来て、そうして久保田氏は卒先してランチと話をしておりました。ナホトカに何名残つたとか、カラカンタにいるとかいないとか、あるいは日の丸梯団は何百何名だとか、そのうちに何直向名獲得するとか、このようなことを言つております。そうしてその騒動のまま、九日の午前中に日の丸梯団は、三百何名上陸し、その後相次いで今村梯団が入つております。大体船中における日の丸梯団と称するのはそのようなことで、憶測で申し上げるならば、私は前の船に日の丸梯団と称するものがすでにあつた、そのことを船の中でだれかがどういう径路かによつて久保田氏らに伝えた、このように考えております。
  1058. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それより私の聞くのは、あなたの抗議カンパ署名というようなことを聞きたかつた
  1059. 一木春夫

    ○一木証人 抗議は舞鶴にあがつて、すぐ梯団の中隊長級以上の者は第五寮という所に移されました。全部の入つている梯団は、日の丸梯団が第三寮、それから今村梯団が第二寮でありましたが、正確に言えば九日の晩に、占領軍命令をもつて中隊長級以上の人たちは五寮に移れという指示が来たわけです。非常にふしぎな指示でもあるし、こういうことが再々行われているものであるかということを再度聞き合せて、十日の朝まで延期してくれということを頑強に聞いたわけです。で十日の朝に延期されました。そうして十日の朝になつて、やむことなく占領軍命令なるがために、一時相当騒動しましたが、中隊長級以上の百四十名は第五寮に移されております。その後、ですから今村梯団は二分されたわけですし、また第一寮に五十名か六十名移されております。このようにして今村梯団が三つの寮に移されて、その間ずつと占領軍の翻訳室及び調査室と称する所で何回となく調査を受けました。この間においてみんなが抗議カンパを持つたということは、日の丸梯団がたとえば京都新聞あるいはその他に、われわれの梯団が何か事実無根のことを、何にもやつていないことをやつているかのように言つた例があります。そのためにそんなことはないということを抗議しているわけです。それからさらに今村梯団が糧食の要求についであめ玉三個だとか何かを要求したということを朝日新聞かに書いてありました。こういう要求もわれわれの方ではしていないにもかかわらず、こういう要求がしてあると書いてある。さらにいろいろと今村梯団に対する中傷誹謗を公然と日の丸梯団の方からやつているということによつて、全員の中からこういう抗議カンパが上つております。これにはもちろん自分も賛成しております。
  1060. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 虚偽の宣伝をしたから、それを打消すために、宣伝にただ対抗する宣伝をするだけですか。さらにそれがこれからの何か行動をも約したのではないですか。
  1061. 一木春夫

    ○一木証人 どういう行動ですか。
  1062. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 いや、それがあつたかないか、あつたらその話を……。
  1063. 一木春夫

    ○一木証人 当時そこでやつたのは、ただ今村梯団に対して久保田善藏氏の言うことがすべて誤りであるということ、真実を伝えていないという意味において、われわれはその念で一ぱいで抗争しておりました。
  1064. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何かそういう誤りであつたということの文書を書いて出すだけのものだつたのですか。
  1065. 一木春夫

    ○一木証人 もちろんそうです。
  1066. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その後何かそれを元にして今村梯団の者が日本でいろいろな行動をするとか、そういうことは何も加わつておらなかつたかね。
  1067. 一木春夫

    ○一木証人 そんなことは何もやつていないはずです。三分されたわけであります。
  1068. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 今村梯団の正しいことを宣伝するだけのものだつたのですね。
  1069. 一木春夫

    ○一木証人 そうです。
  1070. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その後京都とかなんとかで騒いだり何かしたことはないのですか。
  1071. 一木春夫

    ○一木証人 京都ですか、京都では全然騒がないで、おとなしく帰つて来たはずです。
  1072. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それから日本新聞というものは出ておりましたね。ソ連で。
  1073. 一木春夫

    ○一木証人 出ております。
  1074. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは非常にあなた方の指導の役割を持つてつたというが、事実でしようね。
  1075. 一木春夫

    ○一木証人 日本新聞は唯一の、捕虜の間にあつていろいろと世界の情報、それから正しいことを伝えておつた自分はこのように確信しております。
  1076. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ところでこの日本新聞の第四面は、いわゆる反フアシスト委員会の指令なんだ、こういうことでみんなこれを遵奉しておつたという話ですが、そういう事実はありましたか。
  1077. 一木春夫

    ○一木証人 私たちはその件に関して、委員会制度を持つておりません。ナホトカは委員会制度ではありません。
  1078. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ナホトカだからですか。
  1079. 一木春夫

    ○一木証人 そうです。
  1080. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 第何地区とかみんなあつたでしよう。
  1081. 一木春夫

    ○一木証人 それは、ナホトカに各地区から入つて来るときには、すでに委員会というものはできて入つて来るわけです。ですからナホトカにはないわけです。ナホトカはどんどんかわつてしまいますから、そんなものをこしらえておつては間に合わないのです。
  1082. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなただけは特別にナホトカに長くおつたのですね。
  1083. 一木春夫

    ○一木証人 そうです。
  1084. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ナホトカに来ない前は、アンダレンですか。
  1085. 一木春夫

    ○一木証人 アンダレンには委員会はありました。あつたけれども、これはたしか形だけの、産声をあげたばかりのような性質のものではなかつたかと思います。
  1086. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 だけれども、日本新聞の第四面に書いてあることは、常に民主運動の指令である、こう言つてみな非常にこれを遵奉しておつたのじやないですか。
  1087. 一木春夫

    ○一木証人 アンダレンにおるときには、そのようなことはないと思います。
  1088. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そういうことは聞いておりませんね。
  1089. 一木春夫

    ○一木証人 アシグレンとハバロフスクとは、ずいぶん場所も違うし條件も違う。また民主運動の方は、アンダレンの方では四八年になつて活気づいたという状況ですから、全員がそういう状況であつたということについては、アンダレンにはありません。
  1090. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ほかにありませんか。
  1091. 梨木作次郎

    ○梨木委員 舞鶴へ上つてから、久保田善藏氏らが反動を帰すなというような要請を、共産党の徳田書起長がソ同盟に対して行つた、この問題について調査方を参議院へ懇請しようという、その懇請文に署名を求めておつたような事実はありませんか。それは知りませんか。
  1092. 一木春夫

    ○一木証人 舞鶴ですか。
  1093. 梨木作次郎

    ○梨木委員 舞鶴です。
  1094. 一木春夫

    ○一木証人 舞鶴ではたしかそのようなことはちらつと聞いたと思つております。しかし何か別な意味で、すなわち久保田善藏氏一派のグループを結成するための署名運動ではないか、このように見ておりました。さらにその署名文が、何かダイブライターで打つてつたというようなことを言つておる同志がありましたが、はつきりした確認もしていませんし、そのような点は申し上げかねると思います。
  1095. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうですが。実は私が聞いたところでは、久保田氏がそういういわゆる徳田要請問題について、参議院へ調査の懇請をする、そのための署名運動をやつてつた。それに対抗して、そういう事実はなかつたのだ、なかつたということを承認する人々に対して、また反対の署名遅効というものが舞鶴でなされたというように言う人もあるのですが、あなたはそういうことは知りませんか。つまりもつと簡單に言えば……。
  1096. 一木春夫

    ○一木証人 わかりました。これは十六日出発の日に、第一寮におつた藤井光男という同志が占領軍の方に、何らかの意味において呼ばれて言つたわけです。そうして占領軍の方ではわかつているけれども、寮の方ではわからないために、各寮とも藤井光男、藤井光男ということを何回となく呼んでおつた。一寮にもいない、二寮にもいない、もちろんきのう出発したはずはないし、それからさらに五寮にもいないということで、出発一時間前まで騒いでおりました。ところがひよつこり帰つて来ました。どうして行つたかと言うたら、ゆうべ一晩どこかの調査室におつた。待遇などについては異常はなかつたようですが、本人は、何かの署名運動あるいは署名をやつていたことについて聞かれた、このことについては自分は記憶しております。ですから寮が三分されておつて、各寮ともいろいろな提案なり、あるいはいろいろなことをしておつたと思います。
  1097. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それでは、第一寮におつた藤井光男という人が、久保田に対抗して、徳田要請の事実はなかつたという署名をとつてつた。そのことに関連して、当局側に呼び出された、こういうことなんですか。
  1098. 一木春夫

    ○一木証人 そうだと思います。
  1099. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうすると、あなたはそういうような久保田のやつているような運動と反対の運動が、公然か非公然か知りませんが、かなり活発に行われたような事実は知らないのですか。
  1100. 一木春夫

    ○一木証人 他寮のことは知りませんが、しかし私たちの寮には、第二回目に中隊の幹部がひつぱられて来まして、計二百各近くの人員が集まつたわけでありますが、そこで一つの抗議カンパ、一つの集会をやろうものなら、すでに部屋の中に警官の方が四、五名入つておられますために、何もやれません。事実上の監禁であつた自分はこのように記憶しております。
  1101. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうすると、集会というものはほとんど公然と持つ自由というものはなかつたわけなんですぬ。
  1102. 一木春夫

    ○一木証人 そうです。
  1103. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それに対して久保田氏らは舞鶴でもそういう集会を持つ自由があつたようにあなたは見ておられますか。その点どういうように……。
  1104. 一木春夫

    ○一木証人 もちろん見ております。
  1105. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それは事実見ておりますか。
  1106. 一木春夫

    ○一木証人 見ております。
  1107. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そこのところをひとつ話してください。
  1108. 一木春夫

    ○一木証人 なぜならばたとえば船の中で、八日目の日に朝から集会を持つて、いろいろ演説をやつている声は、実際に私が耳にしたことであるし、どの中隊がらも、それに対して抗議をするというような、中には非常に感情的に走つてまでも訴えて来た人たちもたくさんあります。実際耳にしているし、その内容ははつきり言つて、かつてのフアシヨ的な内容であつたわけです。
  1109. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それは船の中で……。
  1110. 一木春夫

    ○一木証人 船の中です。
  1111. 梨木作次郎

    ○梨木委員 舞鶴に上陸してからは……。
  1112. 一木春夫

    ○一木証人 舞鶴に上陸してから、特に郷土室と称するものがあります。各県からの代表が来ているところだそうでありますけれども、この中においては、たとえば日の丸梯団の同志は、公然とそのようなことを付近の人に呼びかけております。そのために長野という新聞と京都新聞ば、殊にそこから取材をしておつたようです。特に京都新聞は、そこで座談会を持つたというようなことも言つておりますし、また聞くところによれば、日の丸梯団では一日に一回集会的なものを必ず催しておるということは、おそらくこの中に入つて来た人たちはだれも知つておると思います。
  1113. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうすると日の丸梯団は、そういう集会だとか、いろいろ帰還者に呼びかけるような自由を持つてつたが、あなた方は、つまり徳田要請を否定する人々は、集会の自由を持つておやなかつた、こういうことになるわけですか。
  1114. 一木春夫

    ○一木証人 はなはだもつてそのように考えざるを得ないような條件ばかりでありました。
  1115. 梨木作次郎

    ○梨木委員 船の中でいろいろな思想調査や、それからまたソ同盟におつてつて来たいろいろな軍事施設のようなものについての調査はございませんでしたか。
  1116. 一木春夫

    ○一木証人 立会いでの詰問というのはありませんが、書類の上で何ラーゲルとか、それからいろいろなものを書き込まなければならないような仕組みになつております。特に占領軍から渡される上陸カードについては、その中にソ連收容所、地名とか何かまで書けというふうになつております。これは一般に向うでは社会主義的に生活して来ておるために、こまかいことまで記憶しておりません。しかし良心的に書けというために、ここにいろいろと問題が起きたわけです。特に軍機密的な、調べもしないでいいことを書かなければならぬということは、その上陸カードと、さらに死んだ人なんかを知つているだけ書け、しかし知つているといつても、一人とか二人ならだれも記憶していますが、それ以上のことはみんな記憶していないと思います。それが終らなければ良心的でない、上陸ができないようですというようなおどし文句には会いました。さらに調査という面においては、舞鶴で私自身アメリカ新聞記者と称するウォール嬢に呼ばれまして、前後三時間近くにわたつていろいろと内容を詰問されました。それは自分のおい立ちや、また義勇隊に入つた当時の考え方から、最もフアシヨ的に積極的にやつていた二十年当時、それからさらに入ソしてからの心境、また大きく国際情勢、中国問題、あるいは日本の民主化ということに関して、さらにアメリカ占領軍に対する考え方についてまでも、鋭く深く掘り下げて詰問されております。特にこの五寮におつた二百名の同志はほとんどの人が全部そのような調査をされております。
  1117. 梨木作次郎

    ○梨木委員 共産主義を支持するかしないかというようなことも聞かれておるのですか。
  1118. 一木春夫

    ○一木証人 もちろん聞かれております。そうしてちようど私が詰問されるときに、そのウォール嬢なる者が、たしか京都新聞だと記憶しておりますが、京都新聞の十二日ぐらいの新聞に、ウォール嬢語るとして、すなわち共産主義化して来た人はソ連へ選り帰さなければならないということを書いてあつたのです。これに対して私はそのときにウォール嬢に聞いたのです。共産主義化というのはどの程度か知らないけれども、かつては私たちが義勇隊に入り、そして現地で召集され、その当時において一生懸命に戰つて来たつもりであるし、また敗戰になつてその犠牲として入ソもした。もちろん社会主義の国において、働くことにおいて社会主義をいいと思わない者はないと思います。しかし帰つて来たからといつて共産主義者である者は帰さなければならないというようなことを、もちろんその人は新聞記者であるがために平気で言えたかもしれないけれども、これは取上げれば大きな政治的な問題になるのではないかと思います。このことについてはそり人につつ込みました。しかし日本人関係では共産主義者は帰さない、そのようなことは言つておるのも聞いておりませんし、ましてや徳田問題の共産主義者でない者は日本に帰さない、そういうことは耳にだにしておりません。
  1119. 梨木作次郎

    ○梨木委員 舞鶴でも何か調査があつたのですか。
  1120. 一木春夫

    ○一木証人 もちろんです。舞鶴ではアメリカ占領軍管轄による調査があります。自分は前に高木中尉という人と、それからそのウオール嬢と言われる人に前後二回の調査をされました。全部思想調査です。
  1121. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そのほかにありませんか。
  1122. 一木春夫

    ○一木証人 そのほかにありません。
  1123. 梨木作次郎

    ○梨木委員 よろしゆうございます。
  1124. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 田渕光一君。
  1125. 田渕光一

    ○田渕委員 きのう北海道からおいでたわけですか。
  1126. 一木春夫

    ○一木証人 そうです。
  1127. 田渕光一

    ○田渕委員 そこで私は今十年前を思い出すのです。私たち四十ぐらいでしたが、あなたが内原の訓練所に入られたのが尋常小学校を卒業されてからでございましたね。
  1128. 一木春夫

    ○一木証人 そうです。
  1129. 田渕光一

    ○田渕委員 そうしてあの十四、五歳の子供を先頭に立てて、軍楽隊でずつと行つて入満された。あの当時を私思いまして、私も七、八つの子供を連れて送つて、まことに何とも感慨無量であつたのです。そういうことを今聞いて来まして、あなたが物心ついた十五から入満されて、五年間あちらで開拓しておられた。まことにその当時の志と事情がかわりまして、その後二十になりまして入ソされて五年、十年というものをほんとうに物心のつく時代を過されて、御無事で帰つて来なさつたのですが、私がいろいろの証人にも今日まで伺つて来たのですが、あなたが職業が左官をやつておられたというのと、それからいろいろな心理学者とか、宗教家とか、学識のある人からいろいろ聞いたことと、あなたがまつたく率直におつしやつていただくことにおいて、この点を私はほんとうに信じたいと思うのです。それでどうかありのままでけつこうですから、おつしやつていただきたいのですが、入ソされてあなたがタシケントでれんがどか左官とかの作業をやつておられたのが、内地の作業はどんなのかよくわかりませんが、苦しいとかあるいは非常につらいとかいうようなお感じがありませんでしたか、どうですか。これを率直に伺いたいのです。
  1130. 一木春夫

    ○一木証人 その点は、自分はかつて義勇像時代も訓練されておるし、それから入つても初年兵であつたために、かえつて仕事に行く方が楽であつた。仕事をきついと思つたこともありませんし、仕事をやる面においてみんなから、私は一言や二言文句を言つても、みんなが認めてくれておりました。仕事はきついと思つたことはありません。
  1131. 田渕光一

    ○田渕委員 それからナホトカに来てたいへん長くおられたというのは、それは先ほど、だれかが残らなければ結局基礎工事とか左官の仕事がある。あの当時内原の訓練所に行つて入満された子供の御家庭は、長男を置いて、二男なり三男なりが行つておる。こういうことから、うちには兄貴がおるし、父母も丈夫だから、ぼくは残つてみんなを早く帰してやつた方がいいというような意味で残られたのか。あるいは、もう帰つてもおもしろくないから、ここにおつてみな帰るまでひとつしてやつた方がいいというような御心境でナホトカに残られたのでしようか。それも伺いたい。
  1132. 一木春夫

    ○一木証人 率直に申し上げます。自分はすでに十九年に妻帶したわけです。自分がまだ若いころです。それで二十二年のちようど帰国寸前に、六月に自分は手紙をもらつております。その手紙をもちつたときに、すでに妻が死に、家族が非常に苦しんでおる。また満洲からすつからかんで帰つて来て、親類からもあまりよく待遇を受けていないというような手紙を受けたために、これは個人的な問題ですが、非常に一時個人的に性格をがらりとかえて、一人で悶々としておつた。そのような心境から残つたし、またナホトカで残つたという気持は、若干でもアクチーヴをやつておるという都合上、卒先して私たちが残り、あとの人たちのためにも、また帰る人たちのためにも、努力すべきが至当である。このように考えた、たつた自分個人の考えからやつたことです。
  1133. 田渕光一

    ○田渕委員 そこでもう一つお伺いしたいのですが、まあ遅れたことに対して、そういう御心境で残つてくださつたことに対して思い余るものがあるのですが、内地に帰られてから振返つて見て、こんなであつたらもう少し早く帰つて来たらよかつたとお思いなさつたか、あるいはあちらの方がよかつたかというようなことが、これもごく單純に、ほんとうに着色なく考えた御心境はどうでございましようか。
  1134. 一木春夫

    ○一木証人 この点について自分の現在の心境を申し上げます。自分は十五年に入るときに、たしか現在衆議院か参議院でやつておられる高橋橿六という人に非常におせわになつたわけです。そして当時福岡県からもあまり出なかつたけれども、五名か四名でもつて福岡県から出たわけです。これも一家を再興するというような、当時の若干間違つたいろいろな気持からやつたことですけれども……。それから入ソして、私たち実際問題として日本戰争に負けた。また自分たちの家族の生活程度というものが全然かわつてしまつた。そのような逆境に置かれて、そして現有ソ同盟から帰つて来ても、また土地を申請するにしても、無職でおらなければならない状態であります。そして現在北海道において根室から約八時間の奥、そしてさらにその奥の三里も山の奥で、主食の配給はありますけれども、十分な食生活をしておりません。さらにまた現在考えるところに海外同胞引揚委員会あるいは引揚げ問題に関しては、過去のことばかりにこだわらずに、できるだけあたたかい気持で引揚者に対して接していただきたいし、さらにまた今の職業あるいは今後のことについて、委員会の方で努力していただきたい、自分はこの気持で一ぱいであります。
  1135. 田渕光一

    ○田渕委員 よろしゆうございます。
  1136. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 じや済みました。ごくろうさんでした。  それでは本日はこれにて散会いたします。     午後七時三十一分散会