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1950-04-10 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第23号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十五年四月十日(月曜日)     午後一時四十二分開議り  出席委員    委員長 鍛冶 良作君    理事 安部 俊吾君 理事 菅家 喜六君    理事 小玉 治行君 理事 高木 松吉君    理事 内藤  隆君 理事 吉武 惠市君    理事 梨木作次郎君 理事 石田 一松君       尾関 義一君    大橋 武夫君       岡延右エ門君    木村 公平君       田渕 光一君    塚原 俊郎君       西村 直己君    坂本 泰良君       稻葉  修君    大森 玉木君       横田甚太郎君  委員外出席者         証     人         (ハバロフスク         地区引揚者)  高山 秀夫君 四月十日  委員橋本登美三郎君辞任につき、その補欠とし  て大橋武夫君が議長の指名で委員に選任された。     ————————————— 本日の会議に付した事件  日本共産党在外胞引揚妨害問題     —————————————
  2. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これより会議を開きます。日本共産党在外胞引揚妨害問題について調査を進めます。  一昨日に引続き、高山証人より証言を求めることといたします。
  3. 梨木作次郎

    梨木委員 議事進行について……。去る五日、当委員会で取調べを受けました菅季治君がその後自殺を遂げたという問題に関連いたしましては、当委員会で、この菅季治君がどういう理由で自殺したかにつきまして、その真相調査しなければならぬということは、菅季治君が当委員会において調査しようとする、いわゆる徳田要請問題についての重大な証人であります。従つてその証人証言信憑性にも関係して来ることでありますので、当委員会としましても、この真相調査することになつてつたわけでありますが、その後事務当局において調査をしたその結果がどういうことになつておるか、これを委員長の方から御報告を願いたいのであります。
  4. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 国家警察本部へ依頼して、調査をしてもらうことになつておりますが、なおあらためて詳しい報告をするということで、二度目の報告はまだ参つておりませんので、きようでもなお請求して、至急できるだけ早くやりたい、かように考えております。
  5. 梨木作次郎

    梨木委員 その際遺書が六通ばかりあつた。一通は世の人々へ、これは発表されておる。あとの五通につきましては、それぞれあて先へ送つたために、まだ写しが手元に入手されておらないという報告でありましたが、これもまだ入手されておらないのでありますか。
  6. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 おりません。
  7. 木村公平

    木村(公)委員 関連してちよつと申し上げておきたいのであります。けさの某新聞によりますれば、先般不幸不慮の死を遂げられましたる菅季治君は、某国スパイ容疑の濃厚な人であるということが、明瞭に同僚であつた人からの口より語られております。このことは本委員会といたしましてもまことに重大でありまして、万一菅君が某国スパイであつたといたしますれば、その残されたる証言もまた再検討する要があると思いますので、委員長におかれましては、けさの某新聞をさらに御検討ありまして、管君をして某国スパイだと語つております人を、本委員会にあらためて証人として喚問いたされるよう、御考慮を煩わしておきたいのであります。
  8. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ただいまの木村君のは御希望と思いますから、これを了得いたしまして、いずれ相談の上、決定することにいたしましよう。
  9. 横田甚太郎

    横田委員 このことは單に菅君の問題だけでなく、菅君が死なれただけで気の毒だと思つておるのです。であるにもかかわらず、きようの新聞記事をもつて、一部の人が言つたことをただちに材料にしてあげ足をとるようなことは、しかばねにむちうつやり方である。大体この委員会やり方自身がけしからぬ……。
  10. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 横田君、発言を許しておりません。
  11. 横田甚太郎

    横田委員 なぜ許さない……。
  12. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 希望と心得ておるので、まだ決定はいたしておりません。  高山秀夫さんですね。あなたの現在の御職業と年齢は。
  13. 高山秀夫

    高山証人 自分は現在帰還者楽団の楽長をやつております。満三十九歳であります。
  14. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの履歴、それからソ連へ入られてからの径路、これはほんの概略だけでよろしゆうございますから、ひとつ述べてください。
  15. 高山秀夫

    高山証人 一九一〇年七月二十八日、つまり昭和三年に青年学校を中退いたしまして、入隊まで百姓をやつておりました。そして昭和六年の一月十日、姫路野砲兵第十連隊に入隊いたしました。そして昭和六年の十二月、満洲事変に反対いたしまして憲兵隊に検挙され、昭和七年の十二月二十四日、治安維持法によつて、懲役二年、四箇年の執行猶予。それから一箇年戰地に行つておりました。それから後ずつと二箇年百姓をやつておりまして、昭和十年渡満いたしまして、昭和二十年七月二十二日綏西一〇二部隊に応召されました。それからムーリー開戰になりまして、そうしてムーリー陣地におりました。捕虜になりましたのは二十年八月二十日、東京城付近であります。そして九月二十日にコムソモリスクの第一分所に入所し、二十一年六月十二日までコムソモリスクにおり、十二日にハバロフスクの第二分所に所属し、日本新聞に入りました。それからポール四地区、五地区あるいはナホトカに勤務いたし、一九四七年の暮れまで日本新聞におりまして、それから第十六地区議長として昨年の十月二十二日帰国までハバロフスクにおりました。以上自分の略歴であります。
  16. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 日本に帰られたのはいつですか。
  17. 高山秀夫

    高山証人 昨年の十一月五日に帰つて参りました。
  18. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたは引揚げが割におそくなつたのは、何かそこに理由がございますか。
  19. 高山秀夫

    高山証人 私はソビエト政府命令がなかつたために帰れなかつたのであります。
  20. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはわかつておるが、何か重要な仕事でもしておつたがために命令が出なかつたということはないですか。
  21. 高山秀夫

    高山証人 そういうことは全然わかりません。
  22. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 今日本新聞関係しておつたとおつしやるが、そうすると今証人の言われるのは、二十一年十二月から日本新聞関係せられておつたのですか。いつからいつまでですか。
  23. 高山秀夫

    高山証人 六月十二日から翌年の十二月三十一日までです。
  24. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 日本の年号でいうと昭和二十一年でしよう。二十一年六月十二日から翌年の十二月までですね。
  25. 高山秀夫

    高山証人 そうです。
  26. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 日本新聞でどういう仕事をしておいでになりましたか。
  27. 高山秀夫

    高山証人 日本新聞宣伝部に所属しておりました。
  28. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 編集の方も関係つたのですか。
  29. 高山秀夫

    高山証人 編集の方は全然関係ありません。
  30. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 宣伝だけですか。
  31. 高山秀夫

    高山証人 そうです。
  32. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 宣伝部はおもにどんなことをやるのですか。
  33. 高山秀夫

    高山証人 宣伝部では映画を收容所に持つてつたり、あるいは新聞を持つて行つて解説をしたり、そういうことをやつておりました。
  34. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 日本新聞の使命はどういうところにあつたものですか。どういう目的でできたものですか。
  35. 高山秀夫

    高山証人 それは赤軍が、日本軍の将兵に與える新聞というように書かれておつたと思います。
  36. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこで、社はどういう組織でできておりますか。たとえばどういう人々がやつてつたとか、どういう班があつたとか……。
  37. 高山秀夫

    高山証人 私はもう四七年の暮れに出ましたので、どういう組織であつたか記憶いたしませんが、私は宣伝部に所属しておりました。印刷とか編集とかいうのがあつたように記憶します。
  38. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 主としてこれに執筆したり編集したりする者は、ソ連軍がやつておりましたか、日本捕虜の中から出てやつてつたか。それらの関係はどんなふうになりますか。ほんの大まかでいいですが……。
  39. 高山秀夫

    高山証人 各地收容所からいろいろな経験、そういうものが通信されておりました。そういう所からとつておりましたし、それから私も書きましたし、いろいろ他の人たちも書いておつたようでありますが、今記憶ありませんです。
  40. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 主要なる仕事をやつておる者は、日本人俘虜の中から選ばれた者がやつておりましたのですね、編集部員とか記者とかいうようなものは。
  41. 高山秀夫

    高山証人 やはりソビエトの人もおりましたし、日本のわれわれの仲間もおつたわけです。
  42. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 発行部数は幾らくらいのものでしたか。
  43. 高山秀夫

    高山証人 発行部数は全然私たち記憶にありません。
  44. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 大体これくらいという見当は……。
  45. 高山秀夫

    高山証人 大体入ソ当時は二十名に一枚くらい。それからハバロフスク地方では十名に一部ずつくらいであります。それから帰るようになりましてから、二名に一枚あるいは三名に一枚というような状態で配付されておつたようであります。
  46. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 総括した数はわかりませんか。
  47. 高山秀夫

    高山証人 わかりません。
  48. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 この記事の出所は、今あなたは各地の通信とおつしやるが、そのほか日本アカハタ記事なんか連載したようですが、主としてどういう所から取材しておりましたか。
  49. 高山秀夫

    高山証人 私のおりました当時は、東京放送、主として真相箱というのがあつたように記憶しますが、それとか、あるいはタス通信、それからソビエトのプラウダとかイスヴエスチヤという新聞、その他出版物、そういうものから取材しておつたように記憶いたしております。
  50. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 アカハタ記事は非常にたくさん転載されたというのですが、それはどうですか。
  51. 高山秀夫

    高山証人 アカハカの記事も転載されたのを読んだように記憶しております。
  52. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 この新聞は在ソ日本人俘虜にとつての唯一の指針であつたと言う人がおりますが、大体そんなものでしたか。
  53. 高山秀夫

    高山証人 最初は赤の国だ、なぞの国だというので、いろいろな宣伝将校の間から行われて、どんなものが来ても読んじやいかないといつて、これを禁止するとか、あるいは新聞が配付されても、これをタバコの巻紙に破つて配るというようなぐあいで最初は全然読ませなかつたのです。また私たちもそれを読もうとは思いませんでしたが、捕虜になりましてから活字というものをほとんど見ないので、ぜひ読みたいといつて将校にこれを要求して、われわれの方に配つてもらつて、それから各自に配付するというような状態つた。今まで日本が負けたとか勝つたとかという問題については、全然知らされていなかつたし、われわれ捕虜になつた当時も、今度は停戰であつて、われわれは捕虜でないので、しばらくソビエトへ預けられておるんだというような状態つたのですがその日本新聞を読むことによつて戰争に負けたのだ、無條件降伏をしたのだ、ポツダム宣言の受諾によつてわれわれは捕虜になつたのだということがはつきりわかつた。これは日本新聞というものは、将校らの言うよりこの方が正しいのだということが徐々にわかつて参りまして、それからだんだんみんなが日本新聞の真実に興味を持つて読むようになつたわけです。今申し上げたように、真相だとか、あるいは熊沢天皇だとか、そういうようないろんな記事がだんだん報道されるようになりまして、天皇制問題等も出たように記憶しますが、そういうものを読むことによつて、従来の軍隊教育されておつたものより、これの方が正しいということをみんなが知るようになつて日本新聞を非常に喜んで読んだ。しまいには新聞がなければさびしい、酒ばかり来ても、二日に一回ずつ来ておるが、みんな新聞が来ておるか、こういう状態であつて、非常にみんなから喜ばれ、親しまれておつたということが言えると思います。
  54. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 日本人捕虜の間に民主運動というものが次第にやかましくなつて、これが非常に発展して行つたようですが、その過程について、大きなところだけを承りたいと思います。
  55. 高山秀夫

    高山証人 御承知のように、終戰の当時は皇土防衛というので、関東軍は大体朝鮮の方に引下がるような準備を進められておつたのですが、私たちは七月二十二日に関東軍の最後の根こそぎ動員というやつで召集されて、東満方面の第五軍の正面第一線ムーリー陣地に入つてつたわけですが、開戰はたしか九日の午前三時ごろだつたと記憶します。これも最初はデマだ、非常召集ぐらいだろうというので、みんな召集兵は寝ておつたのですが、いよいよ本物だというわけで、飛び起きて戰鬪準備するという状態で、第一線では全然戰鬪が起きるとかなんとかということは考えていなかつたわけです。そういうような状態であつたにもかかわらず、第一線からは全然具体的な指示がない、そういうような状態でありまして、各部隊とも個々に行動をとつて行くというような状態で、いろいろな悲劇あるいは犠牲が出たわけです。私たちも山の中で二十日間ばかりうろうろしておつて、遂に東京城付近捕虜になつてソビエト軍に初めて救われた、そういうような気持で入ソしたわけであります。大体二十年の八月の下旬から九月、十月、十一月ごろにわたつて各地とも入つたように記憶しております。そうしてソビエトに入りましてからも、軍の将校は、今度の戰争軍事協定による停戰である、敗戰ではない、こういうように私たちをごまかして来たわけです。そうして日本軍が完全に復員するまでは、やはり天皇命令によつて任命された将校命令は絶対的な権限を持つものである。これに従わない者は、日本帰つて軍法会議にかけるというような状態で、軍隊以上の圧力が加えられて来たわけであります。ただそれだけなら問題はなかつたのですが、それに名をかりて、ソビエトから配給された物資、食糧だとか被服だとかいうものが将校の手によつてごまかされ、しかも将校作業を免除されておりまして、彼らは作業に出て行かない。そうして毎日当番使つて、私の入つた收容所の例をあげましても、大体コムソモリスリ第一收容所は三千名ばかりおりまして、私の大隊は将校が百名で、一割程度の将校があつたと思います。柴という佳木斯独立工兵隊中隊長であつたのが大隊長で入つてつたが、ここでは彼らは毎日のように碁、将棋マージヤン、そういう状態で、しかも当番使つて非常に栄耀栄華の生活をやつておる。兵隊は入ソまでに山の中でいろいろ不自由な食うや食わずの生活をやつてつて、体力的にも非常に参つておるし、今まで負けたということはない、しかも捕虜というものが一番屈辱だというように教育されておつた兵隊が、精神的なよりどころといいますか、それを失つてつたくだんだん弱つて来る。そういうような状態のときにあつて、彼らは依然として帯劍将校の名によつて、私たちの上に虐待のむちを加えて来たわけです。特に初年兵、満洲における初年兵、あるいは補充兵というのが、非常に食糧におきましても作業におきましても苦しい状態にあつたわけです。私たちも七月二十二日召集でありましたから非常に圧迫されたわけです。そういう状態でありまして、結局私たち生きるか死ぬるか、生命を守るためにはどうしても初年兵や補充兵団結して、こういう横暴な状態将校に対して鬪つて行かなければいけない。こういうようなぐあいで、大体入ソいたしました十月革命記念日の前後から、そうした運動が私らの收容所に起きて来たわけです。そういうような私たち運動に対して、私らの分所では東京農大の助教授だつた高山昇吉君、これが私たちと一緒に反軍鬪争に来たのでありますが、これが将校に反抗を示すというので、ただ入口で礼の仕方が惡かつたというのにけちをつけて、遂に入院上り高山君をたたき殺した。これは第五軍の参謀をやつてつた本宮要という高知県出身の男です。それから上島中尉、長内という、これらの連中鬼本宮鬼渡邊と言われて非常にみんなから恐怖されておつたが、これが遂に自然発生的に起きて来る兵士大衆運動圧力を加え、高山君を遂に徹底的にがんじがらめに綱で縛つて、たたき殺してしまつた。そういうような悲惨な事件もあつたわけです。しかし私たちはこれをやる以外生きて行けない。どんな犠牲があつても、苦しい生活に追い込まれておるお互い兵士たちは、生活を守るために、自分生命を守るために鬪おうじやないかというので鬪争を続けて来たわけです。これはただ單に私の收容所における一つの事件だけではなく、各地区分所において一様に起つた状態であります。いわゆる兵士大衆の間における自己の生命を守る当然の要求として起きた運動であり、それは自然発生的に各地区において同時に展開されるに至つたわけです。そうした運動方向内容を與えたものとして、四六年の五月ごろだつたと思いますが、日本新聞友の会というのが結成されたわけです。これによつて全地方的に、各分所におけるそういつた運動が、友の会支部の形で結成されて来たわけであります。これには最初そうした者たちのみが集まつてつたのですが、将校、あるいは憲兵特務機関警察、こういうような連中もだんだん入るようになりまして、それらのすべての大衆を指導して行くためには、どうしても新聞解説だとか、あるいは壁新聞を出して行くとか、そういういろいろなことをやらなければならないので、民主グループ結成が必要となつて来たわけです。ここに民主グループ結成が行われた。そうしてそれによつて天皇制批判だとか、あるいは天皇制財閥の話だとか、そういうような日本新聞に報道され、いろいろな記事が載せられたのを研究して行く。兵隊の今までの自然発生的な運動内容方向を與えたのが、最初に起きた友の会であつたということが言えると思います。  次にはそのようにいたしまして運動は漸次発展して来ましたが、将校連中、あるいは憲兵特務機関警察官というような連中は、どうかして兵隊のこういう運動を妨害して行きたい。しかし正面からやつて行けないというので、いろいろ形をかえて民主運動の中にそうしたスパイ分子を潜入させたわけです。これらの連中民主運動の陣営から粛正し刷新しなければ運動の発展はあり得ない。そういう立場から四六年の暮れから七年にかけて、こうした憲兵隊特務機関連中のにせ民主主義者に対する刷新鬪争が展開されました。そうして民主運動指導権というものが労働者農民によつて占められた。分所においてまじめに働く、分所の文化的な生活を営んで行こうという熱意に燃える労働者農民青年が選ばれて来るに至つたわけです。そうしてこれらの運動を通じて分所大衆の九〇%を占むる労働者農民出身者運動に参加して、従つて運動をさらに発展させるためには、従来のごとく、一部の民主グループだけの運動ではいけない。広汎な大衆組織して行かなければいけない。そのためには大衆選挙によつて分所大衆のために最も自己犠牲的に鬪つてくれる者を、みんなの自由意思によつて選ぼうじやないか、そういう声が大衆の中から起きて来たわけです。それによつて選ばれたのが反フアシスト委員会、これであります。これは四八年の三月ごろだつたと記憶いたしますが、それによつて分所大衆の直接、平等、祕密による選挙によつて自由意思の原則に基く選挙によつて分所大衆を指導する者をみんなの手で選んで行くということが決定されたわけです。これが反フアシスト委員会結成であります。大きい段階といたしましては以上の点があげられる、このように思います。
  56. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 わかりました。  そこで反フアシスト委員会では、始終人間変革という言葉を使われておつたそうですが、これはどういうことを意味しておつたのですか。
  57. 高山秀夫

    高山証人 人間変革というのは、私たちは大東亜共栄圏のために、天皇のために死ね、それが一番正しいんだというように、いわゆる奴隷兵士教育を徹底的にやつて来られたのです。われわれの言う人間変革とは、他人を搾取したり、抑圧したり、他人ビンタをくれたりするような、そういう他人を侵略するとかいうものでなく、みんな仲よく文化的な生活をやつて行こう、世界平和のために鬪つて行こう、そういう人間お互いになろうじやないか、これが民主主義者、今までの奴隷兵士から民主主義者になろうというのが、私たちの言う人間変革である、このように理解しております。
  58. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 奴隷兵士から解放ということはわかりますが、仲よく平和な団結をやろうということなら、何もあえて変革とまで言わぬでもいいと思います。それはすつかり生れかわつた人間をつくることでなければならぬと思いますが、それはいかがですか。
  59. 高山秀夫

    高山証人 その委員長の言われる……。
  60. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 今あなたの話を聞くと、仲よく平和的な団結をつくつて行こうと言われたのですが、これは、今までのあなたの言葉で言えば、奴隷的兵士であれば、そういうことはできなかつたかしらんが、仲よく平和的な団結をつくつて行こうということであれば、何も人間変革をしなくても、普通当然のことのように思われるが、変革というからには、何かすつかり性格の生れかわつた人間になるようなことに考えられますが、それはいかがですか。
  61. 高山秀夫

    高山証人 それはこういうことです。結局大東亜共栄圏天皇のために死んで行けという、いわゆるフアシヨ教育がわれわれには行われたわけです。それではいかない。私たちお互い労働者農民が仲よくしよう、他人を搾取したり他人ビンタをとつたりすることでなく、みんな仲よくやつて行こう。しかし今までしみ込んでおるからなかなか一朝一夕にかわつて行かない。高山の例をとつて言えば、何も高山の顔をかえるとか、あるいは姿をかえるというのではなく、そういうイデオロギーをかえて行こうというのが人間変革とわれわれがとなえるところであります。
  62. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうでなければいかぬと思います。イデオロギーをかえることでしよう。
  63. 高山秀夫

    高山証人 民主的なですね。
  64. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこであなた方の方で、これは人間変革ができたと認められるのは、どういう標準で言うておられましたか。
  65. 高山秀夫

    高山証人 板垣君の例をあげて説明したいと思います。板垣君のお父さんは陸軍大将板垣征四郎ですから、言うまでもないことですが、士官学校を出ておる最も忠実な天皇の股肱として鍛えられて来た青年将校の一人です。彼は五十八期だつたと記憶しますが、そういう青年が、今までのように碁や麻雀や将棋をやつて、そうしてみんなの食糧をごまかして、そうして兵隊ビンタをとつて行くというような、こういうやり方は誤力だ、今まで正しいと思つていたが、これはどうも矛盾しておるということを考えた。そうしてぜひひとつまじめに、みんなとともに分所のためにやつて行きたい。でぜひ青年行動隊に入れてくれと、こういうように言つて、彼の自発的な考えで行動隊なんかに入つて来られた。それからさらにかつて樺太地方参謀長をやつてつた森田大佐、彼は荒木の婿の芝生英雄という男がおりましたが、これに対して彼は、もう全然作業も何もやらなかつた男ですが、こういう人のあぶらを吸うようなやつが、いわゆる人民の敵だ、われわれはかつて肩章にものをいわせてやつて来たけれども、こういうやり方は正しくないと言つて、彼自身が批判会をやり、中佐、大佐連中将校收容所においてそうした批判会が持たれた。こういうことも日本軍隊では考えられなかつたことであります。こういうようなことが大きな人間変革であつたと考えます。  それから楽壇の例をあげますと、笹治新一君なんかは、開拓団の一人として召集されたのですが、彼はほとんど小学校もろくに出ておらない男だつたのですが、これらの連中がわずか四箇年の間に楽譜も読めるようになつたり、発声法も覚えたし、自分作詞作曲をやるようになつた日本では貧乏なために、学校へ行つて勉強することも許されなかつた。そうして……。
  66. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 私の聞かんとするのは、さつきあなたがイデオロギーをかえることだと言われたが、そのイデオロギーがどういうイデオロギーにかわれば変革者と言われるのか、それを聞きたかつた。すべて人間変革のできたというのが、イデオロギーのかわることだと言われるが、どういうふうにイデオロギーがかわつた変革者とあなたは認めるか。
  67. 高山秀夫

    高山証人 変革者と認めるかと言われても、そう簡單にはなかなか行かないと思います。だから今申し上げたようなことが人聞変革だということを具体的に申し上げたので、これ以上は皆さんの御判断におまかせしたいと思います。
  68. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは形だけで、またイデオロギーとなると違うと思いますが、まあいいでしよう。  帰還者読本というものが出たそうですね。それは御承知でしよう。
  69. 高山秀夫

    高山証人 知つています。
  70. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 帰還者読本はだれによつてつくられて、内容はどういうものでしたか。
  71. 高山秀夫

    高山証人 日本新聞編集の名で、昨年の十月の中ごろから六、七回にわたつて出たように記憶しております。
  72. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 内容はどういうことなんですか。
  73. 高山秀夫

    高山証人 内容は、日本の現在の状況、失業者あるいは重税等で苦しんでいる労働者農民の悲惨な生活、そこへ帰つて来た帰還者の状態、それから日本に帰つてからは、ポツダム宣言によつて日本の非軍国化と民主化のために鬪おうじやないか、そういうものであつたと記憶しております。
  74. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 主として野坂參三氏の書かれたものが内容になつてつたようですが、その点はいかがですか。
  75. 高山秀夫

    高山証人 その点は、日本新聞編集局の名で出ておりましたので、だれのであつたか、われわれにはわかりません。
  76. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 みんな野坂さんの論説が日本新聞に載つた、それを書いたのだと言つているが、それはあなた御承知ないですか。たいていの人はそういつている。
  77. 高山秀夫

    高山証人 わかりません。
  78. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 わからぬというのは、ほんとうにわからぬのですか。言いたくないのですか。
  79. 高山秀夫

    高山証人 いや言いたくないのではない。記憶にあることは何でも申し上げたいと思つております。真実に基いて述べたことであります。わからないのであります。
  80. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 この帰還者読本に従つてやるとすれば、日本へ帰つてどういうことをなすべしと教えてやつたのですか。
  81. 高山秀夫

    高山証人 それは言うまでもなく、日本は今度の敗戰によつてポツダム宣言を受諾したわけですから、ポツダム宣言による日本の非軍国化と民主化のために私たちは鬪おう、そうして平和擁護と民主化のために鬪おうという意味のことが、書かれてあつたように記憶しております。
  82. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 在ソ俘虜の間に平塚運動というものが起つたそうですが、その大要をまず承りたい。
  83. 高山秀夫

    高山証人 平塚運動は、大体昨年の五月ごろだつたと思いますが、第五地区の平塚分団において、従来平塚分団ではどろ掘りをやつてつたのですが、一一〇%前後しか六十名くらいの職場で上げ得なかつたものを、車を改良して一五〇%以上六十人ばかりで上げるようになつたソビエトにおいては、結局捕虜でも労働したら金をくれるわけですし、それによつてマガジンとかレストランというものも設けてありますから、定量以外にそういうものが買えるのです。みんながまじめに働いて行けば、非常にゆたかな生活が保障されるわけです。日本のように労働時間を延ばすとか、労働を強化してやつて行くのでなくて、八時間の労働時間内において、自分の創意工夫、技術的な改良によつて、どんどん能率を高めて行く。それによつてさらに給料をよけいもらつて、みんなの生活をゆたかにして行こう、こういう運動が平塚分団で起きたわけです。それは各收容所ともそういう状態になりましたので、これがあらしのような勢いで各地区に、日本新聞の第四面を通じて、その創意工夫が載せられて、だんだん各地でこの運動が展開されていつたということが言えると思います。
  84. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どうも今までのたくさんの証人から聞いた言葉と、あなたのとは違うのですが、あなたのは技術の向上ですね。そうじやないのでしよう。いわゆる人間変革のひとつとして、特にノルマ以上の働きをやらなければならぬということを教え込む運動じやなかつたのですか。
  85. 高山秀夫

    高山証人 もういつぺん……。
  86. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 人間変革と同じように、心の入れかえをやつて、ノルマ以上に上げなければわれわれはいけないのだ、そういう精神運動がもとで、それによつてその仕事の量が上つて行く、こういうことのように聞いておりますが、それはどうですか。
  87. 高山秀夫

    高山証人 日本においては、労働者というものはばかで、きたない服を着て、割棟長屋に住んでいるように教えられて来たのですけれども、向うにおいては、各人の労働は全体の幸福のためにつながる。そうして平和的な労働は高く評価されます。よくまじめに働いた人は、物質的にも精神的にも優遇れるわけです。だから労働の感じというものは、全然日本においてわれわれが経験したのとは違つてつたわけです。そうしてみんな何とかして同じ労働時間で、同じ條件で、しかも能率を上げて行こうというので、どんどんやつたわけです。私の地区においても、第二十分所において、森組であつたと思うのですが、タイヤを今までは手ではいでおつたのを、タイヤはぎ機をこさえて、転把をまわしてひつかけてはいで行くというような簡單な機具を考案することによつて、従来の十倍以上の能率を上げた。そういうことによつて給料も非常にたくさんもらうというような状態でありますから、そうした技術面における創意くふうがだんだん取入れられて、同一條件のもとにおいて、さらに能率を上げて行く。こういう運動であつたわけです。だからみな非常に喜んで研究し、能率を上げて行つたわけです。
  88. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 いやそれもあつたろうけれども、根本は思想的変革のように聞いておるのですが、それはまあそれとして、それではスターリンヘの感謝決議、そうしてスターリンヘの誓いということがあつたそうですね。これはどういうことですか。
  89. 高山秀夫

    高山証人 四七年に帰国が開始されてから、各地区とも帰るときは、長い間おせわになつて無事で帰れるというので、スターリンに対してみな感謝文を置いて行こうじやないかというのが、みなの中から、それぞれ各地区、各分所において行われておつたわけです。それで昨年は特に、もう今年は一般の帰国の最後だ、四箇年もおせわになつて、こうした元気な姿で帰れるので、みなで感謝しようじやないかというのが結集されて、スターリンヘの感謝の手紙を出したわけです。
  90. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その決議の内容の荒筋をひとつ説明してもらいたい。
  91. 高山秀夫

    高山証人 内容は記憶いたしません。非常にいろいろとおせわになつて、四年の間おせわになつて、私たちは帰つて行きます、今後も日本の人民と仲よくやつて行きたい。そういうことであります。
  92. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 スターリン元帥のおかげでわれわれは助かつたのだから、今後はスターリン元帥に一切のものをささげてお盡しするという決議だつたのでしよう。
  93. 高山秀夫

    高山証人 そういうことは記憶にありません。——いろいろなやじが飛んでいますが、私たちがせわになつて帰るのですから、いろいろとおせわになつた、そうして今後とも友誼のためにやつて行こうという、そういう感謝文なんです。     〔発言する者あり〕
  94. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 実はそういうのなら、私はここでことさらに聞かないのです。ソ同盟を強化することがわれわれの生きる道だ、こういう内容があつたのじやないですか。
  95. 高山秀夫

    高山証人 私の自由意思に基いて述べさせていただきたいと思うのですが、その点ひとつ……。     〔発言する者あり〕
  96. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 静粛に願います。お互いにそういう荒つぽい言葉は使わぬことにしましよう。十分御注意願います。
  97. 高山秀夫

    高山証人 私お願いがあります。非常に誘導尋問的に、自分の意思を述べようとするのが、あつちこつちでやじられるのですが、そういう場合に、あまりおどかさないようにしていただきたい。菅君のように、自分も心臓が非常に弱いし、また頭が混乱しますから。
  98. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 証人に申し上げます。われわれは決して誘導するのでも、圧迫するのでもないが、ほかの証人のみな言つておることと、一人だけ違うことを言われるから、だめを押さざるを得ないのです。
  99. 大森玉木

    ○大森委員 議事進行について……。ただいま梨木君から私に対して無知という言葉があつた。私も衆議院議員である。そこで議員を無知という表現をされるということになると、議員を侮辱したことになるので、この点を取消しをするか、委員長においてはこれを適当な処置をしてもらいたい。
  100. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ちよつと速記をとめてください。     〔速記中止〕
  101. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは速記を始めてください。続いて証人に伺いますが、ごとしの一月一日から三日にかけてアカハタの紙上に引揚者の座談会というのが載つてつたのですが、あなたはそれに出席して意見を述べておられるようですね。
  102. 高山秀夫

    高山証人 はい。
  103. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 座談会で、あなたは在ソ中非常にいい生活をして来たというようなことを言つておられるようですが、他の多くの証人は、在ソ中非常に悲惨な生活をし、数年間暗い生活を送つて来たと、こう言つておるのでありまするが、こういうように、あなたとほかの証人と正反対な言葉があるが、一体あなたはほんとうにいい生活つたと思つておいでになりますが、またあなた一人がよかつたからといつて、ほかの者がみないいということはまた違います。まず第一番によかつたか惡かつたか承りましよう。
  104. 高山秀夫

    高山証人 私はソビエトの民族的な差別のない待遇にまず第一番に感激しました。そしてソビエトの市民と同じように私たちを扱つてくれた、その点にわれわれは非常に感謝したわけです。
  105. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはあなた一人の考えですか、それとも在ソ日本人数十万がみなそうであつたとお思いになりますか。
  106. 高山秀夫

    高山証人 それはそれぞれ帰国のときに感謝文を置いて行つた数等から考えて、また新聞等を読みまして、その数は多かつたように思います。そして惡かつたというのは非常に少かつたように思います。
  107. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ここに日本新聞の一九四七年八月五日付の写真がありますが、この写真の中のこれはあなたですか。これはどういうときの写真です。
  108. 高山秀夫

    高山証人 間違いありません。
  109. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういうときの写真です。
  110. 高山秀夫

    高山証人 これは四七年の反フアシスト民主運動代表者会議のときの写真であつたと記憶しております。
  111. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 日本新聞一九四九年六月十六日付五百八十八号に徳田球一氏の「日本における民主主義運動」なる論文が訳載されておるのでありますが、この論文はコミンフオルム機関紙「恒久平和のために、人民民主主義のために」に掲載された論文であるとここに書いてありまするが、これは間違いありませんか。もしおわかりでなかつたらお目にかけますが……。
  112. 高山秀夫

    高山証人 その実物を見せてください。     〔証人に書類を示す〕
  113. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その通り間違いありませんね。
  114. 高山秀夫

    高山証人 今の質問の要旨を簡單にひとつお願いいたします。
  115. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これはコミンフオルム機関紙の「恒久平和のために、人民民主主義のために」というのに載せられたものであろう。こういうのです。ここに書いてありますが……。
  116. 高山秀夫

    高山証人 どつから載つたか知りませんが、徳田さんの写真でそうした記事が載つたように記憶しております。
  117. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 「恒久平和のために、人民民主主義のために」という新聞紙の名前ですよ。「紙一九四九年六月一日号より訳載したものである」こう書いてありますよ。そのことを聞いておる。
  118. 高山秀夫

    高山証人 その当時の記憶では、とにかく載つたということはありますが、どこから載つたか、自分は記憶がありません。
  119. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これはコミンフオルムの新聞であるということは御承知ないですか、あなたは……。
  120. 高山秀夫

    高山証人 自分はそれは知りません。
  121. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 こう書いてありますよ。これを読みますと、「この論文は諸共産党および労働者党情報局機関紙「恒久平和のために、人民民主主義のために」紙一九四九年六月一日号より訳載したものである」と、こう書いておる。このことを聞いておるのです。
  122. 高山秀夫

    高山証人 記憶がないのです。
  123. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ところが……。
  124. 高山秀夫

    高山証人 大体載つたという記憶はあるのですが、どこからどういうふうに載つたか記憶がありません。
  125. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 きのう矢浪氏はその通りと言いましたが、あなたは記憶がないのですか。
  126. 高山秀夫

    高山証人 私は十六地区の反フアシスト委員会の方におりましたので、新聞関係がどういうぐあいになつてつたかということは知らないのであります。真実……。
  127. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これはコミンフォルムの機関紙の名前であるということも知らぬですね。
  128. 高山秀夫

    高山証人 記憶にないのです。
  129. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 こういうことを聞いたこともないですか。コミンフォルムの機関紙にこういうものがあるということを——記憶にありませんか。
  130. 高山秀夫

    高山証人 ありません。
  131. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ないと言われればしかたがない。きのう矢浪氏はそれを肯定しましたよ。  それじや次に一九四九年七月十五日先行の日本新聞六百号に社説として日本人民の輝ける前衛」と題する文が軌つておりますが、この点は御承知でありますか。お目にかけましようか。
  132. 高山秀夫

    高山証人 記憶にないのです。
  133. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 「日本人民の輝ける前衛」とここに書いてある。左側に大きく書いてある。ありますね。
  134. 高山秀夫

    高山証人 あります。
  135. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その中には「輝ける日本共産党創立二十七周年のこの日わがソ同盟帰還者は、その最愛の党と敬愛する指導者、友、同志徳田に、嚴粛に次の如く宣誓す。最後までレーニン、スターリンの偉業に忠実ならんことを、民主民族戰線の頑強不屈の鉄の鬪士たらんことを、人民解放の崇高なる事業に全力を捧げ、必要とあらば、生命をもなげ打つてかへりみぬであろうことを。」かように書いてあります。覚えておいでになりますか。そこに書いてあるのです。
  136. 高山秀夫

    高山証人 当時自分は、今申し上げたように新聞編集には関係ないので、非常に帰還のために忙しかつたし、どういう論文が載つてつたか、大体党創立記念日に論文が載つたということは考えられるのですが、どういう内容であるかということは現在記憶にありません。
  137. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 今読んでみて思い出せないですか。
  138. 高山秀夫

    高山証人 何分これは字が小さくて見えない。
  139. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 今おれの読んだ通りだ。拡大鏡で見られてもいい。私の読んだ通りです。
  140. 高山秀夫

    高山証人 記憶にありません。
  141. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 私はこれによつてあなたに聞きたい。あなたは新聞におつて指導者の地位におられたから……。
  142. 高山秀夫

    高山証人 そのとき、私は申し上げたように、四九年ですから、新聞の指導期ではないのです。だから記憶にないのです。     〔「立つて言え」と呼ぶ者あり〕
  143. 高山秀夫

    高山証人 立つて言えと言うようですから、——私は四七年の暮れに新聞社を出まして、十六地区の反フアシスト委員会の方に関係しておりました。ですから新聞にどういう論説が載つたか——今写真を見て思い出したのですが、党創立記念日のときに論文が載つたという記憶はあるのですが、その内容については現在記憶にありません。
  144. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それじや今申し上げましたようにあなたの考えだけ——これに対するあなたの認識だけを承ることにいたしましよう。第一番に承りたいのは、「日本共産党徳田に対して宣誓す。」とありますが、これは書記長たる徳田君に宣誓せられたのでありますから、われわれは在ソ日本人捕慮が日本共産党に対して宣誓したるものと解釈できると思いますが、あなたはどう考えておいでになりますか。
  145. 高山秀夫

    高山証人 それは書いた人の主観でありまして、私がどう考えるかというて、私は何も徳田さんにそういうことを宣誓するあれも何もありませんし、わからない。
  146. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 私の言うのは、もちろんそういうことを聞いているのではない。あなたはこれを読んだときにどうお考えになつてつたか。その点を聞いているのです。何も今の考えじやない。
  147. 高山秀夫

    高山証人 今申し上げたように、どういう内容が書かれておつたかも記憶にないようなことですから、それに対してどういうぐあいに考えたか述べよと言つても、それは非常に困難な問題だ。
  148. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 こういう大切なことを読まれたことがあれば、あるいはここで読めば、記憶に思い出されるかと思うが、思い出せませんか。
  149. 高山秀夫

    高山証人 思い出せません。
  150. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それじやもう一つ聞きましよう。あなた方としては覚えのないことはないと思うが「必要とあらば、生命をもなげ打つてかえりみぬ」とあるのですが、この点について何か思い当ることはありませんか。
  151. 高山秀夫

    高山証人 何も記憶にございませんし、思い当ることはございません。
  152. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ないと言われればやむを得ない。こういう重大なことはわれわれはないことはないと思うけれども、しかたがない。  次に一九四九年七月十六日、日本新聞六〇一号に「党創立記念日に誓う」という題で、これは諸戸文夫氏の書いたもののようですが、こういうのは覚えはありませんか。
  153. 高山秀夫

    高山証人 プロレタリア的な勇気と革命的な人生観の徹底という見出しは今思い出しましたが、その内容に至つては記憶にありません。
  154. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 覚えがあればいいです。その中にはこういうことがあります。「すでに同志野坂は、一九四八年七月周知の檄の中で「諸君の大多数は、戰前の革命運動に参加した経験をもたない」こと、「従つて資本主議下における革命運動の苦しい鬪争の経験をもつていない」ことを挙げ、懇々として、かんでふくめる如く教えられたのであつた」「同志野坂は特に檄していう「諸君はでき上つた党に入るという気持ちでなく、旧い党員と協力して党を作り、大きくし、強化するという覚悟をもつてつてもらわねばならない」と。かくして同志野坂は「わたくしは諸君によき共産党員であると共に、よき民主民族戰線の組織者であることを期待する」といつたのである。」かように書いてあります。そこでわれわれが承りたいのは、同志野坂の一九四八年七月周知の檄とありまするが、この檄というものを覚えておいでになりますか。
  155. 高山秀夫

    高山証人 ハタの記事アカハタの転載というので載つてつたように記憶しておるのですけれども、その点はつきりとしたあれを持つておりません。
  156. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 この檄というのは何か見られた覚えはありませんか、アカハタに載つてつた……。
  157. 高山秀夫

    高山証人 それを転載されたように……。
  158. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その内容は。
  159. 高山秀夫

    高山証人 アカハタから転載したことだけは覚えております。
  160. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 次に「私は諸君によき共産党員であると共に、よき民主民族戰線の組織者であることを期待する」こう言つておられる。これは共産党員であるとともにというから、帰つて来るときにはりつぱな共産主義者になつてつて来てくれという意見であるとわれわれは解釈いたしまするが、あなた方はどうこのときに感じておられたか、この点を承りたい。
  161. 高山秀夫

    高山証人 それは自分の記憶では、アカハタ記事は帰つて来られたこちらにおる者の活動を批判せられておつた論文のように考えます。ですから党に入つおる者がいろいろな偏向があつて、それを野坂さんが批判せられた。あとでそれを日本新聞に転載して参考にしたのだ、このように私たちは考えております。日本の問題です。さらに向うで共産党に入るということは、それはやはり共産党の原則から言つても向うでは入れない。われわれ軍事捕虜で向うへ行つてつたのですから、こつちへ帰つてから組織へ入るか入らないかは……。
  162. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 いや共産主義者であれということですよ。そうして先ほどからくどくど言つたのですが、日本新聞ソ連における日本人捕虜に対する唯一の指針だつたソ連における日本人捕虜に対して言い聞かしておることだから、われわれはそれで聞くのですが、何も内地へ来てのことを言つておるのではない。かような教育方針をとつてつたろうということを聞いておるのですが、それ以上わからぬとおつしやられればやむを得ない。  もう一つ承りたい。一九四九年七月二十四日日本新聞六〇四号に「進撃の朝に向う党創立記念日」と題する集結地第二信というものが載つておるが、これは覚えはありますか。
  163. 高山秀夫

    高山証人 もう一ぺん主要なところを読んでください。
  164. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 「六〇〇号勝利の日をこの日迎へる日本新聞を、わが旗として守り、一九四九年帰還の歴史的大行進の中に、それがアカハタに引きつがれるまで、否引つがれて後も、むらがる敵のデマと挑発を粉さいして、このシベリア民主運動を守らんの大衆的決意と愛情……」とこう書いてあります。  それから次に「各梯団代表の決意表明は、同志スターリンヘの感謝文署名の誓ひも新たに、今こそ日本共産党への忠誠と全員入党の叫びとなり、この叫びは大会決議として日本共産党へのメツセージの満場一致採択となり、さらに在ソ全同志への檄文となつた。」かようにあります。そこでわれわれが承りたいのは、日本新聞よりアカハタに引継がれるとありますのは、これは日本新聞はシベリアにおけるアカハタと同一のものと皆解釈してやつておられたもののように思うが、あなたはどうお思いであつたか。
  165. 高山秀夫

    高山証人 これはさつきも申し上げたように、党創立記念日を迎えるにあたつての、日本新聞のこの論説を書かれた人の決意であつて、それが全体にどうであるかということは言えないと思います。私自身としては、日本新聞アカハタに引継ぐかどうかということは、全然わからないのです。
  166. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これは社説ですね。だからそういう考えで日本新聞をやつておられたのだと思うが、あなたはどうお思いでしたかとこう聞いているのです。
  167. 高山秀夫

    高山証人 それは自分には今申し上げた通りわかりません。
  168. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その次には「日本共産党への忠誠と全員入党」とあるのですが、これはさつきあなたが言われた、シベリアではそんなことは別だと言われるが、日本へ帰つたら全員入党するということを教え込んでおつたものとわれわれは考えますが、いかがですか。もつと言つてみれば「日本共産党への忠誠」とこういうのですから、もうすでに日本共産党に党員としての心構えで忠誠を誓える者にならなければならぬと教え込んでおつたものと思いまするが、いかがですか。
  169. 高山秀夫

    高山証人 高山が帰つて来てからは、その論文を書かれた人が、そういうふうに考えるというので書かれたのだろうと思います。私は別にそのようには考えていないのです。入党は各人の自由意思でありますから、入党する者もありますし、日の丸梯団で帰る者もありますから、その新聞の受取り方によつて違うと思います。その新聞の社説は、その書かれた人の主観によつて書かれておると思いますから、それはいろいろ違うと思います。私もそれをどうこうということは、現在のところわからないのです。
  170. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これはあなたの意見——あなたはそれに深い関係があつたと思うから、あなたのそのときの認識を聞いているので、われわれは読めばすぐわかるのですから、それ以上はよろしいでしよう。  いま一つ最後に一九四九年八月四日、日本新聞六〇九号「売国フアツシヨ打倒の進撃へ」と題する檄文が載つておりますが、これは御記憶ありませんか。これは相当ソ連において有名な問題であつたようですから御記憶はありましようが、水原君に対する攻撃の文章です。
  171. 高山秀夫

    高山証人 水原君の記事が載つておることだけは記憶しております。
  172. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その点です。ではその要点を……。この檄文の中に「水原なる民族の敵の腰巾着の出現は、決して偶然ではない。滅亡にあえぐ米日反動はかくの如く手段を択ばぬ狂乱を続けている。しかもデマ中傷の犯罪はまさに未聞の醜惡達している。われわれの生命かけた署名運動にあびせたこの泥足こそわが人民を植民地奴隷につき落さんとする敵の四九年度帰還者への桃戰なのだ。聖なる怒に燃え鉄腕をもつて、これら腰巾着どもをわが帰還戰列からたたき出せ、」かように載つております。御記憶ありますか。これは水原君というのは、今野球の巨人軍の監督をしている水原であることは御承知でしような。
  173. 高山秀夫

    高山証人 感謝署名運動はさきにも申し上げたように、みなの自由意思で、決して強制したり何かすることなく、自由意思でやつて行けというので、十六地区でも経験があるのですが、ほとんど大佐、中佐、少佐というのがぜひ署名させてくれ、われわれはあくまで強制さしたというような感じがいささかでもあつてはいけないからというので、この点愼重を期して、あくまで自由意思の原則だからというので、とにかく特に戰犯、細菌戰の非人道的な行為をやつた者だとか、特務機関長だとか、憲兵隊大佐だとか、十六地区におつた者はだれでも知つているのですが、ぜひこれに署名させてくれと言つて手を合せて拝んで来るような状態であつた。それによつて自分の過去を合理化せんとする卑屈な彼らの考えなんです。そういうようなものがやることは、ほんとうに感謝署名運動に誠実な気持をもつてやろうとする者の意思に反するから、そういう者は遠慮する方がいい、やらない方がいいということをわれわれは繰返し繰返しそれらの連中に言つたわけです。ほんとうに水原君もこれに署名しているのですから、もしほんとうに彼がそういうことをやるまいと思つたら、全然やらなかつただろうと思う。それで日本へ帰つて強制されたとか何だとか言うことは、これは実際自分の良心を裏切つた恥ずべき行為だ、われわれはかように解釈しております。
  174. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはよいですが、われわれの聞かんとするのは、この感謝署名運動をした以上は、日本へ帰つたならば必ずそれに従つて行動しなければならぬという拘束力があつたかどうか、その点をまず……。
  175. 高山秀夫

    高山証人 そういうことは全然ありません。今申し上げたように、自由意思に基いて、四箇年の生活を終えてわれわれはこのようにまるまる太つて元気で帰るのだから、感謝しようじやないかというみなの気持ですから、それだからした者もいるし、しない者もいるでしよう。
  176. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それで日本へ帰つて来て、その感謝の誓いに反した行動をすれば、これは敵と呼ばれるのですか、ここに書いてある「米日反動」「敵の腰巾着」米日反動だとこう言つておられるが、そうするとそれに反した行動をすれば、あなた方からは米日反動、これを敵視されるものとわれわれは解釈してさしつかえないものでしようか。
  177. 高山秀夫

    高山証人 それは委員長の御自由でありますが、今申し上げましたように、自分が責任をもつて署名したものを、向うで強制されたというようなことを言うのは恥ずべきで、良心を持つた者の言うことじやないと、私はこのように解釈しております。
  178. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 今あなたは自由なる意思で署名されたと言うが、ここには「われわれの生命かけた署名運動」とありますよ。自由にしたのではない、命をかけた運動だと言つておられるのですが、これはどうですか。命にかけた署名運動の結果だとこう言つておる。この点は今あなたの言われるのと違いますが、どちらがほんとうでしよう。
  179. 高山秀夫

    高山証人 私はこのように理解しております。今申し上げましたように、その論文を書かれた人は、そのように理解したかもしれぬが、私自身もハバロフスク民主運動議長としてやつて来たもので、委員長に今はつきり上げましたように理解しているのですが、これはこう言わねばならぬと言つても困難な状態だと思います。
  180. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これはとにかく唯一の指導機関であつたのですから、それでそう言つているのですから、あなたはそうおつしやつたが、それ以上は議論になりますから……。  その次に「これら腰巾着どもをわが帰還戰列からたたき出せ」このことは、民主主義者でない反動であれば、帰してはならないとわれわれは読みとれるのですが、あなたはどうお考えになつておりましたか。
  181. 高山秀夫

    高山証人 今申し上げましたようにかつて人民を抑圧した憲兵あるいは特務機関長、こういうような連中が手を合せて拝んで来るから、そういう者の良心を偽つた署名はさすな、それが第一、第二には戰争犯罪人、支那の方へ細菌をまいたような、ああいう細菌部隊のような戰犯なんかは、その責任を徹底的にわれわれは追究しようじやないか、こういうことを意味するものだと考えております。
  182. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 水原は戰犯であり、またあなた方の言う反動の標本であつたのですか。
  183. 高山秀夫

    高山証人 水原君の場合は、私は今申し上げましたように、彼自身が筆を持つて頼んで署名しておるにもかかわらず、こつちに帰つてそういうことを言うのは恥ずべき行為だ、そういうぐあいに言つたのです。
  184. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 こういう者ならこういう戰列に入れるのじやなかつたのだ、今後たたき出すのだ、こういう言葉に聞えます。聞えるどころじやない、そう書いてあるが、いかがですか。
  185. 高山秀夫

    高山証人 それは委員長の理解で、そのように理解されることは御自由ですが、私は今申し上げた通り理解しておるわけですから、見解の相違であります。
  186. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうするとあなたの理解が正しくて、私の理解が間違つている、こういうことですか。そういうふうに聞えます。
  187. 高山秀夫

    高山証人 そうですね、そういうふうに考えております。
  188. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 えらいことだな。それ以上は……。
  189. 木村公平

    木村(公)委員 ちよつと証人にお伺いいたしますが、あなたは共産党に入党していらつしやるのですか。
  190. 高山秀夫

    高山証人 もつと大きい声でお願いします。
  191. 木村公平

    木村(公)委員 日本共産党に現在入党していらつしやつているかどうかということです。
  192. 高山秀夫

    高山証人 今木村委員の方から、入党しているかどうかと言つているのですが、私が入党しては惡いかいいか、その点をひとつ教えていただきたいと思います。(「そんなことを反問する必要はない。」と呼ぶ者あり)私は共産党に入党しております。     〔「それでいいじやないか」「まるで特高じやないか」と呼び、その他発言する者あり〕
  193. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 静粛に……。
  194. 木村公平

    木村(公)委員 次に証人にお尋ねいたしたいのですが、証人ポツダム宣言の第九條に明記されておるところの法文を御存じですか。
  195. 高山秀夫

    高山証人 捕虜問題が書かれておつたと思うのですが、今はつきり記憶しておりませんから、お持ちでしたら参考に見せていただけば思い出します。
  196. 木村公平

    木村(公)委員 ポツダム宣言の第九條の大要の意味は、日本人の兵隊で武装を解除された場合には、なるべく早く日本に帰して、平和的な生産に従事せしめることができるようにという意味です。そのことはおそらく数箇年間ソ連領において教育をされたあなたが御存じないことはないと思いますが、かりに御存じなければあらためて申し上げますが、さような意味が第九條の大意であります。そのことに対して、わが国の武装を解除されたる数百万の捕虜の諸君が、数箇年間にわたつて苛酷なる重労働を強制されておるという事実をまのあたり見ながら、このことをポツダム宣言第九條の違反とお考えになるかならないか、あなたの主観を承りたいと思います。
  197. 高山秀夫

    高山証人 もう一ぺんあなたの質問の要旨を要約して、私に説明してもらいたいと思います。
  198. 木村公平

    木村(公)委員 しからば簡單に結論を申し上げますが、ポツダム宣言第九條をあなたは御存じかどうかと質問したことに対して、よくわからないというお話でありましたので、ポツダム宣言第九條というのは、大要を申し上げますれば、日本人並びに日本兵隊が武装を解除された場合には、比較的早く日本に帰して、そうして平和的生産に従事するようにさせなければならない、させることが当然であるという意味です。しかして連合国各国はことごとくこれを遵守しておることは、あるいはあなたも御承知かと思うのでありますが、ソ連領においてのみ、現在においても三十数万の同胞が未帰還であるということも言われておりますが、一時は数百万の武装を解除せるわが国の親愛なる兵士諸君が、ソ連領のポツダム宣言違反だと疑われるような行動によつて抑留されておつたのでありますが、あなたは数年間ソ連領に滞在しておられたのであるから、現実に見ていうつしやるはずだ。この事実を見て、はたしてポツダム宣言第九條の違反であるかないかということに対して、いかなるお考えを現在持つていらつしやるか伺つておきたいのであります。
  199. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 第九條を見せてあげましようか、そこにあるから……。     〔証人に書類を示す〕
  200. 高山秀夫

    高山証人 向うでは、捕虜の帰還は、ソビエト政府並びに連合軍総司令部との相互協定に基いかい行われるものであるとわれわれは聞かされたし、そのように理解して来たわけです。ですから今木村委員の質問された要旨については、いいか惡いかということは私にはわからないのであります。
  201. 木村公平

    木村(公)委員 それならそれはよろしい。先ほどあなたの証言のうちに、人間変革ということの解釈がありましたが、その御解釈によりますれば、従来の日本軍隊においてしばしば行われましたところのいろいろの、たとえばあなたの言葉をそのまま用いますが、ビンタを用いる、あるいは将校たちが兵のものを窃取するとか、その他軍隊内において行われたいろいろなことを変革することがいわゆる人間変革であるかのごときお言葉があつたように記憶いたしますが、しからばあなたは従来の日本軍隊日本の社会組織とは同一とお考えになつているか、その点をお尋ねいたします。
  202. 高山秀夫

    高山証人 木村委員の質問にお答えいたします。人間変革の問題について、第一それは先ほど申しましたように、軍隊においてビンタと人殺しと、それから人の物をごまかすことしか教えられなかつた。そういうやり方をやるから收容所が暗くなるのだ、そういうものをなくして、人を愛し、そして民主的な原則に基いて他人の人格を尊重し、そして最も平和的な收容所をつくり、そしてそういう人間になろうではないか、これが今申し上げていたように人間変革であり、目に一丁字もない人が作詞作曲ができるような、そういうりつぱな者となり、しかも日本では字も習えなかつたような人がかなサークルで字を教えられて本が読めるようになる、これが第一の人間変革、第二は……(発言する者あり)証人の発言中ですから……。
  203. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 向うの質問に対する答弁をしてください。
  204. 木村公平

    木村(公)委員 私の質問の要旨は、あなたのお考えになつているところの旧軍隊組織日本の社会の組織とは同一であるか、その点だけをお答え願いたい。
  205. 高山秀夫

    高山証人 それは天皇制社会の最も非人道的な、人を搾取し、ビンタをとり、抑圧する、それが集中的に現われたものが軍隊だ、だから日本の従来の天皇制社会の集約せられたものが軍隊である、こういうようにわれわれは考えております。
  206. 木村公平

    木村(公)委員 そこでもう一点お伺いいたしますが、軍隊組織日本の社会の一つの縮図であるから、軍隊組織日本社会組織とは同じものであるということに承つてよろしうございますか。
  207. 高山秀夫

    高山証人 日本の社会と同一の基盤に立つているし、それは同じものです。さらに軍隊においては……。
  208. 木村公平

    木村(公)委員 同じものだとおつしやればそれでよろしいのです。  続いてお伺いいたしますが、しからば先ほどの証人証言の中には、人間変革に対するまだ結論的なお答えがなかつたようでありますが、言葉を簡潔に表わせば、あなたの言う人間変革とは、すなわち共産主義化させることを言うのではないかと思われるのです。いかがですか。
  209. 高山秀夫

    高山証人 今申し上げたことがよくわかつていただけなかつた。民主化ですね。民主化というのは何も共産主義というものとは違つて、もつと広い意味です。
  210. 木村公平

    木村(公)委員 民主化はすなわち共産主義化ではなかつたのですか。それが聞きたいのです。
  211. 高山秀夫

    高山証人 私の言うのはもつと広いのです。
  212. 木村公平

    木村(公)委員 私の言うのは、共産主義というものと民主化とは、あなたの言う限りにおいては一緒じやないかということを承つたのです。そう承つてよろしいのですか、一緒ではありませんか。その一点を聞いているのです。
  213. 高山秀夫

    高山証人 共産主義と民主主義というのは、民主主義の方がもつと範囲が広いと私は理解しております。
  214. 木村公平

    木村(公)委員 それならばさらに一応引続いてお尋ねいたしますが、あなたがかつて在社いたしましたるソ連日本新聞の中には、たとえば編集あるいは取材等によつて論功行賞というようなことが行われたことはありますか。たとえば編集が上手であつた、取材方法がよろしきを得た。いわゆるよろしきを得たということはいろいろ見方があるでしようけれども、ソ連の方から見て取材がよろしきを得たとか、あるいは編集がよろしきを得たということで、その取材記者あるいは編集者に対して、特によかつたというところに論功行賞のごときものが行われた事実があるかということを承りたいと思います。
  215. 高山秀夫

    高山証人 たとえば文芸コンクールなんかで、日本新聞の三百号記念に小説の原稿のコンクールがあるとか、そういうような場合に本をもらうとか、そういうことが行われたように記憶しております。
  216. 木村公平

    木村(公)委員 さらにお伺いいたしますが、御承知の通り終戰ソ連領には数百万人に及ぶ日本の善良なる、武装解除されたる同胞たちが抑留されておつたのでありますが、その同胞たち自分の意思に反して、ソ連の軍備拡張のためにノルマを強制されて、重労働を強制されて、ほとんど帰るまで自己意思を働かせることなしに終つたのでありますが、この数百万のわが同胞たちが、かつては敵であつたソ連領の軍備拡張に使われておつたという事実を見て、あなたはこれに対していかようなるお考えを持つていらつしやつたかどうか、この点についてちよつと参考のために承つておきたいと思います。——この点の御感想が承りたい。
  217. 高山秀夫

    高山証人 もう一ぺん今の質問の要旨を簡單に……。
  218. 木村公平

    木村(公)委員 御承知の通り、ことにあなたみずから体験していらつしやるのでありますが、終戰後わが国の同胞たちは、数百万名ソ連領に自己の意思によらずして強制的に抑留されたことは、御承知の通りであります。しこうして武装解除せられたる後も強制的にソ連領の軍備拡張のために、帰るまで使われておつたということは御承知の通りでありますが、その事実をまのあたりあなたは日夜見ておりながら、この事実に対していかようなお考えを持つていらつしやつたかどうかということを、一言承つておきたいと思います。
  219. 高山秀夫

    高山証人 捕虜ソビエトに入つたということは、今申し上げたように連合国の協定によつたものだとわれわれは理解しております。  それから数百万というように言われるけれども、その数字もわれわれは全然どの程度のものか——向うでは五十九万数千というように、日本新聞でいわれておつたように記憶しておりますが、私自身の経験からすれば、決して労働を強制されておりませんし、その点どのように答えていいかわかりません。
  220. 木村公平

    木村(公)委員 あなたがいろいろ強弁をなさいましても、今日まですでに当委員会にはあまたの証人が呼ばれて来ておる。それからひとり当委員会証人のみならず、全国各地には帰還せるわれわれの同胞がたくさんおられる。おそらくどの帰還者から聞きましてもどの証人からこれを学びましても、嬉々としてソ連領においてソ連の軍備拡張のために働いたという者は一人もありません。ただあなた一人が今日この場において、自分は自己の自由意思をもつて働いたとおつしやるけれども、今までのあらゆる人があらゆる機会において、自分自由意思ではなかつた、ただ食糧を得んがために、あるいは早く帰らんがために、やむことなく客観的情勢に強圧されて、いわゆる客観的無言の強制に強圧されて、やむことを得ず、自由意思を捨てて強制労働に服して来たと言うのでありますが、このことはきわめて重大でありまして、自由意思にあらざるところの強制労働というものが今日ロシアにおいて行われておることをわれわれは深く胸に抱いているのであるが、あなたはこれらの現実をまさか御存じないとは言いますまいが、これらの現実をごらんになつたときに、ふと頭に浮んだ感想はどんな感想か。いいことか惡いことか、悲しいことか嬉しいことか、これは正しいことか不正なことか、結論的な感想を一言承つておきたい。
  221. 高山秀夫

    高山証人 私は今の発言では、自由意思によるとは言わなかつた。それは自由意思によるものは将校であつた。これが第一。草知という関東軍参謀を初めとする、こちらにも新聞で見ると呼ばれた吉田君あるいは小笠原君とか、ああいう憲兵だとか、かつて将校、日の丸梯団の人たち自由意思の原則に基いて帰るまでしなかつた。それを見てもソビエトは決して強制してはいない、彼らが自由意思に基いて、働かしてくれと言うまで放つておかなければいけない、強制してはいけないと言つた。ということは、吉田君自身もそのように言つたから、吉田君から聞いてもらえばわかると思う。それから私たち兵士、下士官は八時間労働は自活作業としてやる、捕虜としてやるという義務があるということですから、われわれはそれに基いてやつたので、強制的にこれをやれというようにおどされたということは、私たちは全然ございません。
  222. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 さいぜんあなたは木村委員の質問に答えて、共産党員であるということを明言されましたが、いつ時分入党されましたか。
  223. 高山秀夫

    高山証人 質問者に私はこのあれを聞く自由が與えられますか。——そうですが、証人は答えるだけですか。それでは何も入党したことはどうこうということはないから答えますが、私は十一月五日に上陸しまして、そうして約二十日間GHQの方に抑留されておりまして、二十九日に解放された。それで出て来て二日か三日して党本部に加入……。
  224. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 わかりました。そうすると、向うから引揚げて来て後に入党したのですね。
  225. 高山秀夫

    高山証人 もちろんそうです。
  226. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 その前にはあなたは入党していなかつた
  227. 高山秀夫

    高山証人 もちろんそうです。するところはありません。
  228. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 それは間違いありませんか。
  229. 高山秀夫

    高山証人 断固間違いありません。
  230. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 それからあなたの証言では、将校は碁や将棋や麻雀で遊んでおつたということを再三宣伝的に言われた。一体、碁や将棋や麻雀の器具はどこから持つて来たか。
  231. 高山秀夫

    高山証人 碁や将棋や麻雀は、兵隊の中に器用な者がおりますから、作業から帰つて来て、しかも課外作業をとつて将校命令でつくらした。これがまず第一。
  232. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 麻雀も…。
  233. 高山秀夫

    高山証人 そうです。それからもう一つ……。
  234. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 それならわかつた。それなら一体、この将校というものは捕虜でしよう。将校といえどもソ連側から監視を受けておるのでしよう。そうでしよう。
  235. 高山秀夫

    高山証人 その通り。
  236. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 立つて言え。そうですが。
  237. 高山秀夫

    高山証人 しかり。
  238. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 そうすれば、その監視をしている向うの監視員がこれを大目に見ておつたのか。遊んでおるのを……。
  239. 高山秀夫

    高山証人 ソビエトの管理がどうであつたか、こうであつたかということは、どうぞソビエトの方に聞いていただきたいと思います。ただわれわれが長い作業から帰つて来て、それをやらなければ減食し、重労働につけるというような横暴だから、われわれはそれを恐れてやつたわけです。しかし麻雀は收容所内においてはやつていけないということは、收容所規定においてはつきりされてからは、禁止されたわけです。しかし入つた当分約半年くらいは、毎日明けても暮れても麻雀ばかりやつておりました。わかりましたですか。
  240. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 わかりましたかなんて、いうぬことをつけ加えるな。それからあなたの捕虜生活は市民とひとしい待遇を受けておつたと言われますが……。
  241. 高山秀夫

    高山証人 もちろん、市民と同一の取扱いを受けたというのは、ソビエトの民族的な全然差別のないということを意味する。
  242. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 俘虜の一人であるあなたを、市民と同一に取扱つたという理由は何ですか。
  243. 高山秀夫

    高山証人 それは市民と同一ではない。ソビエト市民と全然差別がなかつた。われわれは身分的には捕虜です。しかしソビエト人たちは国境を越え、捕虜のわれわれに対してもソビエトの市民と同じように、何ら民族的な差別なく取扱いを受けた、こういう表現であります。
  244. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 それからおそらくあなたは特殊な立場にあり、共産党、あるいは共産主義思想に非常な熱意を持つておられるから、向うはあなたに特別の好意を見せて、ソ連をいわゆる祖国と称するような、帰つて来れば、そういう忠誠を誓うほどの党員になるような熱心な人、要するに私をして言わしむれば、一種の俘虜の貴族のような扱いを受けたのではありませんか。
  245. 高山秀夫

    高山証人 万人の知るところであります。われわれはそういう差別待遇をする将校に対して反抗の鬪争をやつて来たのですから、私たちはみな平等に、みな平和に、みな明るくやろうというために努力をして来たわけです。ですからそういう特権的なことはわれわれはやりません。もしやつたとすれば憲兵であり、警察であり、特務機関である。
  246. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 そういうことは聞いていませんよ。君がだんだんまるまるとこのように太つて来たとか、いろいろな宣伝をせられから、あなたは特別にソ連を祖国というほどに忠誠を誓つておるので、俘虜貴族のごとく扱われておつたのじやないかという点を聞いておるわけであります。
  247. 高山秀夫

    高山証人 私は一介の捕虜としての待遇以上を受けておりません。
  248. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 そうすると、従来ここにたくさんの証人が出て来、私も俘虜生活をして来た人の実に悲惨な実情を聞いておるのだが、あなたはそういうことはなかつたとおつしやるのですか。
  249. 高山秀夫

    高山証人 私にはそういうことはありません。そこで、ここでいろいろ証人に聞かれたと言いますが、吉田君、小笠原君、あるいは岡本君なんかは草知一派と、ソビエトに対して復讐戰をやろうということを、向うで公然と言つてつたのです。そういう人たちは正しいことを言わないとわからない。
  250. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 アメリカの力をかりてソ連に復讐しようということを在ソ中に言いましたか。
  251. 高山秀夫

    高山証人 その人たちははつきりと言いました。
  252. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 おそらく捕虜生活において、アメリカの力をかりてソ連に向つて反抗すると言えば、帰すはずはないじやないか。これは戰犯として扱われます。そんなことを言うな。
  253. 高山秀夫

    高山証人 それは確かに現実に彼らは言つておるのですが、それは彼らの自由ですから……。
  254. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 あなたの話を聞いておると、まるまるとお太りになつて、まるで共産党の天国のような実にりつぱなソ連でございましよう。しかしながら私の手元に入つておる材料はどうか。まことにさんたんたる、涙なくして聞くことのできない事実があります。私の手元によこした人はこういう事実がある。本籍は千葉県香取郡滑河町西大須賀一八五七番地、現住所京都市上京区小山堀池町二〇番地の永長馨という人が、参議院の在外同胞引揚問題に関する特別委員長あてに、ハバロフスク第十六地区一八九三病院第二病棟十号室における昭和二十四年十月三日午後四時のでき事をここに詳細に書いて来ておる。これをひとつ読みましよう。  相磯幾三(四十一才元牡丹江にて飲食店営業終戰と同時にソ連に強制抑留、現在家族は熱海在住)は昭和二十年十月カラガンダ第九地区へ入所昭和二十一年夏頃より始まつた民主運動に参加せざりしため、反動として同年十月より特別重労働に従事、急速度に身体が衰弱し、昭和二十二年二月道路作業中酷寒雪中に真赤な血を吐き斃れ、しばらく病院に收容された。抑留者であり病人である彼は一番先に帰還すべきはずのところ、思想的変革をしていないので帰されず、何度となく病院から故郷へ帰る人々を見送つた。後遂に昭和二十三年六月赤化思想の本場ハバロフスクに送られた。ハバロフスク病院における彼の生活態度はたいへんまじめであつたが、一本気であつたため、共産主義プロレタリア独裁に対する反感を隠し切れず、再三吊し上げられ、病人である彼を不寝番、室清掃にまで酷使したのである。そのため彼は昭和二十四年四月病勢惡化し、再度多くの血を吐き、重態となつた。同年十月彼のもとに熱海の実弟より懷しのはがきが届いた。その文面には「敗戰国とはいえ物も出まわり、占領軍下の日本は平和で幸福です。家族一同も一日も早く帰国されるよう祈つております。」とあつた。そのはがきを政治部員(ソ連将校上級中尉)から病院民主グループ委員長石田へ、さらに宣伝部長崔景勝に渡された。崔はそのはがきを本人に渡すとき多くのアクチーブを連行し、十号室の病床に来て曰く「大きな声で読め」と。そしてその書面に対し批判を下すとともに、本人を徹底的に吊し上げた。そのため相磯は思いつめ、黒パンや蕪麦の食事にすら喉を通らなくなり、急速度に衰弱惡化した。そこで私は見かねて、ソ連軍医リトウク大尉に私「牛乳をくれ、グリコーゼを注射してくれ」と再三、再四懇請要求したところが、軍医「思想が革新できていない者に注射をしてもむだだ」どはねつけた。さらに私は、私「何故ですか」と反問した。するとリトワク軍医大尉は、軍医「徳田は共産主義者しか待つていない、その他の者は帰国の必要ないと言つているからだ、歴史は教えている資本主義は滅亡すると云云……」その後相磯は四十グラムの砂糖(彼と私の一日分の配給量)をなめながら、昭和二十四年十一月七日「幽霊になつても必ずこの復讐はしてやる」と最後の言葉を残し恨をのんで異郷の丘に消えて行つたのである。そのころ病院の患者一同は日本共産党野坂參三氏より来た手紙「帰還者読本」の宣伝教育をしいられていたのである。  こういうことなんです。そうすると今あなたの証言を聞いておると、まことに食糧も豊富、労働は強制されず、しかもいわゆる民主的に、民族意識をすつかりなくして、あなた方俘虜をすら市民として扱い、地球上にソ連ほどりつぱな天国がないように私は聞いた。ところがどうです。事実は病院で最も迫害せられ、人道的に行かねばならない病室において、かような事実がある。これでもあなたはさいぜんの証言をそのまま持ちますか。
  255. 高山秀夫

    高山証人 旧関東軍約五十数万帰つておるのですから、全部の意見を聞いていただければ、どちらが正しかつたか——二十人、三十人の意見でなしに、全部の意見を聞けばわかると思うのです。これだけでは……。
  256. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 五十万、六十万帰つて来ておる者全部に聞け、こういうべらぼうな発言をする。全部の意見が聞けないから国会があるのでしよう。しかるに五十万、六十万から聞けと言う。これはすでに真実性のない証拠であります。
  257. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 まあ、これはあなたの御意見として承つております。
  258. 安部俊吾

    ○安部委員 ただいまも内藤委員から指摘されましたが、ソ連におきましては、抑留生活中非常にあなた方を優遇したというように、あなたは証言されておるのでありますが、私の集めたいろんな資料によりますれば、ソ連には百二十五の俘虜收容所があつた。その俘虜の死んだ者のパーセンテージが非常に多い。二十万九千三百人くらいの戰時捕虜のうち、五万一千三百三十二人が栄養失調及び伝染病のために死亡した。そういうような報告がありまして、その死亡率は二四・五%に達しておるのである。こういう非常に高い、ほとんど四分の一に達する死亡率なのでありまするが、また特に悲惨であつたところは、二十数箇所の收容所というものは一万一千名のうち三千名が死亡したというような的確な報告もあるのでありまして、このことは対日理事会のシーボルト議長からも報告されておつて、そうしてそれは新聞紙上にも掲載されたのであります。しかもその隊は、満洲からソ連領土に長い距離を行進させる場合においても、着る物もろくなものもなかつた收容所も不完全であつて食糧の割当も話にならないほど少かつたために、多くの捕虜が捕えられてから間もなく死亡した。また收容所には適切な医療衛生設備もないので、栄養失調、伝染病が発生し、その上ノルマ制度で働かねばならなかつた等のために、終戰後人命が続続と奪われた。引揚者の話では、ソ連当局では、多数の捕虜の世話をするほど準備がないのみならず、また横になることもできないような、きわめて狹いところの收容所にカン詰めのように詰め込んで、そうして奴隷あるいは苦力でさえ経験しないような苛酷な労働を強制した。代表的な一例としては一九四六年五月に、フングナメ付近に收容された約二万六千人の日本民間人のうち、七千名が餓死または凍死した。こういうような、その報告も的確な報告であるのでありますが、しかしあなたのその証言は、ほとんどこれと正反対の証言をしておるのであります。またその肉体的條件に応じて課されたものは、強健な者、普通な者及び軽労働にしがたえられない者、そういう者に対しての労働の種類が、あるいは森林において伐採等の苛酷な労働に従事する、あるいは貨車の荷役、鉱山、道路の建設及び鉄道の修理、土木工事、発掘工事あるいは沖仲士、その他の重労働に属する作業に、しかもノルマ制度でもつて体力を行使したために、そういうような激烈な労働にたえられないで、あるいは健康を害し、あるいは死んで行つた者がたくさんある。しかしそれに対して、何らの医薬も與えない、りつぱな医師の診断をする機会を與えなかつた、こういうような話でありまするが、あなたはこれに対して、こういうことは聞いたことはありませんでしたか。
  259. 高山秀夫

    高山証人 まず具体的に食糧について、食糧はもちろん私も、全部そうよかつたと言うわけではりありません。ソビエトの……。
  260. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 いや、今安部委員が言われたようなことを、あなたは聞いたことはありませんか。知らぬかどうかということです。
  261. 高山秀夫

    高山証人 ですから食糧の……。
  262. 安部俊吾

    ○安部委員 死亡率が多かつた。しかも百人ならばその四分の一に達するほど死亡者があつた。それからまたノルマという制度のために、虚弱の者でも強健な者と同様に働かねばならなかつた。それぞれ苦力のりように、奴隷的な、非常に苛酷な労働に従事しなければならなかつた従つて食糧も惡かつた、栄養失調のために死んだ、あるいは苛酷な労働のために死んだ。あるいは寒いときには適当な設備がなかつたために、凍死した者が多かつた、こういうようなことは聞かなかつたか。
  263. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そういう事実があつたか、なかつたか。
  264. 高山秀夫

    高山証人 ハバロフスク地方ではそういう事実はありません。具体的に数字を上げて説明さしていただければわかると思うのです。それから私自身が、実は二十三年の二月三日に死んでいるという通知が、岡山県の世話課から来て、家では大騒ぎをしていたわけです。それが私が帰つて来たので非常に喜んだわけです。そういう事実をあげれば、幾らでもできるのじやないですか。
  265. 安部俊吾

    ○安部委員 あなたは説明するのに横の方に行つて、質問の焦点を巧みに避けてしまうが、顧みて他を言うというのではなく、あつたかなかつたかという質問に対して、直截な答弁をしてください。
  266. 高山秀夫

    高山証人 食糧の問題は具体的に数字を上げて……。
  267. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 食糧のために栄養失調で倒れた者が多いと言つておるが、そういう事実があつたかどうか。
  268. 高山秀夫

    高山証人 私が今申し上げたように、全体的に申して、ハバロフスク地方にはそういう事実はなかつたように記憶しております。
  269. 安部俊吾

    ○安部委員 そういうことはなかつたのですね。(「なかつたように記憶していると言つているじやないか」と呼ぶ者あり)黙つておれ。お前に聞いているのつじやない。  そこで、あなたはいろいろなことを言つておるが、内藤委員が指摘をしたように、善意な証言でないように思う。非常にでつち上げたようなことがたくさんあると思う。あなたは真実のことを言つておらぬように思うのです。  それではもう一つ——これはあとでだんだんと聞きますが、日本新聞にいろいろ記事があつたわけですが、その中に、共産党なるものが日本においていろいろな行動をしたのですが、たとえば終戰来、宮城前の広場で食糧のデモがあつて、何方という人が共産党によつて動員されて——その何割かが共産党から與えられた日当によつて狩り出された日雇い労働者、あるいは婦人、子供のあつたことは、それはだれも知らぬということはない。また二・一ストにおいて、日本の動脈の産業を麻痺させて、共産党をおもなものとして一挙に政府をつぶそうというようなことがあつたということが、日本新聞に掲載されましたか。
  270. 高山秀夫

    高山証人 そういうばかなことは聞かなかつたです。ただラジオで、いろいろと東京の状況が詳しく入つてアカハタの歌の講習会をやり、非常に民主化されたというので、われわれ非常に喜んだことはありますが、そういうことは全然聞かなかつたです。
  271. 安部俊吾

    ○安部委員 日本新聞が、一方的な共産党に都合のいいような記事は掲載し転載するが、ほんとうの日本共産党というものが、きわめて暴戻な無軌道なる行動をしておるという記事は掲載されなかつたのですか。証人、どうです。
  272. 高山秀夫

    高山証人 もう一ぺん。
  273. 安部俊吾

    ○安部委員 共産党に便宜なような記事日本新聞に掲載されておつたが、共産党に関して不利益なようなことは、それがたとい実際日本にあつても、そういうことは記載されなかつたのですね。
  274. 高山秀夫

    高山証人 日本新聞というのは、真実を伝えるというのが唯一の生命でありますから、よいことでも惡いことでも……。
  275. 安部俊吾

    ○安部委員 よろしい。真実を伝えるのが日本新聞の使命であるなら、日本にはこういうようなことがあつた。昨年の夏に平事件と、いうものがあつた。あるいは広島に製鋼事件というものがあつた。福島に列車転覆事件というものがある。あるいはまた無人電車、いわゆる人民電車事件というものがある。あるいはまた三鷹事件というものがあつた。そういうことに関する記事が、日本新聞に掲載されましたか。
  276. 高山秀夫

    高山証人 私はそれは全然なかつたように記憶しております。」
  277. 安部俊吾

    ○安部委員 ただいま証人は、日本新聞は真実なることを掲載するというが、こういうような天下周知の、世界的に伝えられ報道された大事件に関しては少しも掲載することはなかつたけれども、たとえば伊藤律氏の声明であるとか、あるいはまた徳田球一氏の論文であるとか、先ほど委員長が写真を提示してあなたに質問したように、そういうようなものは多く掲載されたということは否定しないですね。
  278. 高山秀夫

    高山証人 三鷹事件も、あるいはそのほか下山事件も、全然転載しないというのではなくて、今の委員の質問したような意味では転載しなかつた。われわれはただ東京放送で聞いて、こういう事件が東京にあつたということを転載したのを、新聞で読んだように記憶しておるのです。
  279. 安部俊吾

    ○安部委員 あなたは收容所におきまして、あるいは議長になつたとか、あるいは日本新聞という最も権威のある新聞宣伝部長になつたというようなことで、各收容所を旅行した、あるいは支配したというようなことを、参議院の存外同胞引揚問題に関する特別委員会証言しておるのでありまするが、そういう点から申しましても、密告、つまりスパイのような、同胞が同胞を売るようなことはなかつたのですか。たとえば反フアシスト委員会委員というようなものは、われわれ同胞が、しかもその郷里には、造次顛沛にも忘れることのできない、陰ぜんを上げて一日も早く帰つてもらいたいということを神かけて祈つてつた者がたくさんある。しかもそういうわれわれ同胞の念願というものを裏切つて、あいつは共産主義を信じないのだ、ソビエトに対して、命がけでスターリンに対して感謝することをあえてしないのだ、だからこういう者は帰してはならぬと進言した。つまり同胞を裏切つた、同胞を売つた、そういう卑劣な人がたくさんあつたような情報があるのであります。また証言の中にもそういうことがあるのでありますが、あなたはそのことについて何も見聞をしたことはなかつたのですか。はつきり言つてください。
  280. 高山秀夫

    高山証人 シベリアにおいては反動、つまり山田乙三とか、ああいう戰犯の追究はやりましたが、人民が人民を売るというような問題は全然ありません。
  281. 安部俊吾

    ○安部委員 全然ないというのですか。それならば、たとえば作業に行つた、ところがそれがノルマに達しなかつた、からだの加減が惡かつたか、あるいは毎日の労働のため疲労して、どうしてもノルマに達しなかつた。ところが帰つてから、あのやつは反動だ、あれはサボつた、そうして四〇%ぐらいしか仕事をしないのだ、あれらのためにわれわれは非常な迷惑をこうむるのだ。またあるいはあやまつてけがをした者に対して、労働の過激のためにけがをしたということを日本に帰つて宣伝して、ソ連の惡口を言うから、ああいう者は何とかしなければならぬということで、たくさん寄つて質問をする。質問をされればお前は反動だと言われる。反動と言われて、そういう烙印を押された者は、友だちもそういう人間と交際すれば、あれも反動だと言われて非常に迷惑するので、一日も早く日本に帰つてみたいという念願から、そういう友だちも敬遠主義をとつて、その人にはあまり話もしなくなつた。たくさんの証人からそういう証言があるのでありますが、あなたはこういうこともあえて聞いたことがなかつたのですか。
  282. 高山秀夫

    高山証人 ハバロフスクでこういうことがありました。佳木斯特務機関をやつていた有田という少佐だつたと思うのですが、彼は作業に来ても何もやらない。しかも反動は——憲兵警察特務機関というものは、大体人の搾取の上に立つておるのであるから、作業というものは全然やりたくないのです。それで下士官でも兵でも、そういうところに出ると、自分の足になたを打込んだりするようなことをやるわけですから、自分の身を自分で傷つけて作業を忌避するようなことは正しくないから、やらせまいじやないか、そうして彼は今日こういうことをやつたということをよくみなで監視して、やらせぬようにしようじやないか。お互いにそういうことでけがするのでは困るから、そういうことはやりましたが、今委員の言われたようなことは、私は全然知りません。
  283. 安部俊吾

    ○安部委員 それから食糧の問題ですが、たとえば栄養失調のために非常に衰弱して、自分のキヤンプあるいは寝床から便所にも行けないという者も狩り立てて、強制労働に従事せしめたという証言もあつたのでありまするが、あなたはそういうことは聞いたことがありませんか。
  284. 高山秀夫

    高山証人 ソビエトでは、急にけがをした者以外は、大体病院あるいは收容所にある——收容所にはりつぱな衛生施設というものがありますので、そこの中に收容しております。收容所において動けないような者が作業する、また病気で動けない者か收容所におるということ自体が、全然デマです。ちやんと收容所内の医務室、あるいは病院に收容されておつた者にわれわれは考える。
  285. 安部俊吾

    ○安部委員 あなたの收容されておるところに、どれほどの病院がありましたか。そしてそこに医者が何人おつて、看護婦が何人おつたですか。
  286. 高山秀夫

    高山証人 各分所ソビエトの医務室には軍医——これは大尉、少尉いろいろ階級は異なつてつたと思いますが、それが男と女と二人ずつぐらいと看護婦、それから日本軍側の旧軍医、こういうような人四、五名で構成されておつたように記憶しております。それから十六地区の病院は、若干距離が離れておりましたので、よく私は知りませんが、二、三百名から五百名ぐらいの收容能力を持つた病院で、ソビエト側の軍医が十数名と、日本側のそれに手伝いする軍医たちも相当数おつたように記憶しますが、何名ということは現在記憶しておりません。衛生施設は非常に清潔、整頓がよく行き届いておつたようにわれわれ考えております。
  287. 安部俊吾

    ○安部委員 四、五名の医者といつたのは、医者のほかの助手、たとえば代診する者とか、医者の免許のない、医者という職業に従事するほんとうの資格のない者を加えて四、五名というのですか。また医者だけが四、五名おつたのですか。先ほどあなたの言つた病院においては。
  288. 高山秀夫

    高山証人 正式なドクトルと看護婦、それからもとの看護兵、そういう者を含めて各分所に数名おつたように記憶しております。
  289. 安部俊吾

    ○安部委員 その四、五名いる病院のある收容所には、日本人は何名ぐらい收容されておりますか。何千人ぐらいおつたのですか。
  290. 高山秀夫

    高山証人 十六地区では大体二、三 百名から四、五百名、三百名から五百 名程度が大体一般だつたと思う。それから二十一分所は千名ばかりおりましたが、それは例外で、ここには特別な病院がありましたから、その点はつけ加えておきたいと思います。
  291. 安部俊吾

    ○安部委員 死亡した者の遺骨とか、そういうものを日本に持つて来ることを許されたか。あるいはあなたの收容された分所においてどれだけの死亡者があつたか。そうしてそれらの死亡者は、あるいは今日においても、いつ行つても墓を掘れば発掘できる。そしてそういうものの遺骨を持つて来ることができるか。そういうことの点に関して、詳細にあなたの見聞したところを証言してください。
  292. 高山秀夫

    高山証人 入ソ当時若干の死亡者が出たと思いますが、これはさきにも申し上げたように、まつたく山の中ばかり飲まず食わずで一箇月も二箇月も歩いておつた。それからソビエトに行つた、そういうことが相当原因したのだ。ソビエトから配給された食糧なんかは、敗戰ソビエト自体も相当困難しておつたにもかかわらずわれわれに配給されたやつが、反動将校によつてごまかされて行くということで、若干の死亡者があつたことは事実です。それから分所においての死亡というのは、ほとんど分所では今申し上げたように、急病以外は死ぬことはない。そういうような病人は、必ずホールの病院あるいは二十一分所の病院に入院させるということが原則になつておりますから、変死以外は、その当時死亡というのは大体ないわけです。それから四八年度の十六地区での死亡率というものは、大体病気あるいは作業中事故のため死んだのが若干あつたと思いますが、はつきりした記憶はありません。それはもう地区全体で、二十名足らずのものだと思います。
  293. 安部俊吾

    ○安部委員 そうすると、遺骨とかあるいは埋葬の状態に対してはどうですか。
  294. 高山秀夫

    高山証人 ハバロフスクにおいては、ハバロフスクの郊外の飛行場のそはのちよつと高いところに、非常にりつぱなソビエト人の墓地があります。その横のところに日本人の墓地がありまして、それには必ず墓標が立つておるわけですから、行つて発掘すれば、どういう状態つたということはよくおわかりになると思います。
  295. 安部俊吾

    ○安部委員 大体証人にいろいろ聞いても、ほとんど真相をつかむことが困難と思います。あまりこれは質問しても無意義と思いますが、ただ最後に聞きたいことは、あなたは共産党員でありますが、徳田要請問題が参議院の在外同胞引揚問題に関する特別委員会調査されることになつた。あるいはまた……、(「問題がはずれておる」と呼ぶ者あり)だまつておれ、はずれておらぬ。
  296. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 静粛に。
  297. 安部俊吾

    ○安部委員 それでこの衆議院の考査委員会で徳田問題、あるいは日本共産党在外胞引揚妨害問題に関して審査するということに関して、そういうことが新聞に掲載され、あるいはそういうことをお聞きになつてから後、共産党の本部に参りましたか。共産党の本部に参つて、そして共産党といろいろあなたは申合せし、あるいはいろいろな尋問や、そういうことを相談したことがありますか。
  298. 高山秀夫

    高山証人 そういうことは、私たちは真実を述べるのですから、何も打合せする必要は全然ありません。私は共産党員ですし、党本部へ行つて、上京して来ました、それだけです。それでしつかり真実を述べてやつたらよかろうというので、何もそんな打合せをするような必要はない。真実を述べるのですから……。事実というのは一つしかない。
  299. 安部俊吾

    ○安部委員 徳田要請問題に関しては、何かお話はありませんでしたか、どういうことを述べるかというような……。
  300. 高山秀夫

    高山証人 いや、そういうことはないですね。
  301. 安部俊吾

    ○安部委員 たいへんあなたの答弁は、共産党員であるからでありましようが、共産党を全面的に弁護する。特にシベリアにおける收容所の問題で、ほとんど他の証人とは総反対な証言をしておるのです。どうもその点は私はなはだしく了解しにくい点があるのであります。従つて来るまでにいろいろ申合せがあつて、徳田要請問題とか、あるいは妨害問題に関して全面的に弁護的な証言をするというような申合せがあつたかのような疑いを持つてつたので聞いたのですが、なければそれでけつこうです。
  302. 高山秀夫

    高山証人 それをどのように理解するかは各人の自由意思だと思いますが、私はそういうことは全然打合せる必要はないと思うのです。事実は一つですから、真実を述べると言つて宣誓をはつきりしたように、私が進んで委員長にお願いして私が述べたと同じように、私は何もそういうことについて言うあれはないです。
  303. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 吉武惠市君。
  304. 吉武恵市

    ○吉武委員 私は証人に簡單にお尋ねいたしますから、端的にお答えを願いたい。先ほどあなたは、入ソされて最初日本新聞におられて、宣伝部長として活動されたと記憶しておりますが、間違いございませんでしようか。
  305. 高山秀夫

    高山証人 間違いありません。
  306. 吉武恵市

    ○吉武委員 それから反フアシスト委員会議長をやられたことも間違いございませんな。そこで現在あなたがお帰りになつて日本共産党に入られてお立場をはつきりされておることでありますから、もうそう隠し立てしないで率直にお答え願うことがかえつて時間が節約されていいと思いますので、私も端的にお尋ねをいたします。この在ソ間の日本新聞は、ソ連政府の命令によつでできておつたものでありますか。
  307. 高山秀夫

    高山証人 日本新聞は、はつきりと下の欄のところに、赤軍が日本人捕虜に與える新聞として銘打つて出ておつたように記憶しております。
  308. 吉武恵市

    ○吉武委員 そうしますと、この日本新聞ソ連にあつた日本捕虜に対する新聞として設けられたということになりますと、この新聞の使命はどこにあつたのでありますか。ソ連として、この新聞を発行されました使命がどこにあつたのでありますか。ねらいどころです。
  309. 高山秀夫

    高山証人 それは私にはよくわからないですが、ソビエトの方にはわかつておるでしよう。われわれは、今申し上げたように真実を伝える、そうして奴隷兵士を民主化するために、ポツダム宣言のほんとうの精神を正しく伝えて、日本の民主化のためにやるという以外はないわけです。それ以外のことはわからぬわけです。
  310. 吉武恵市

    ○吉武委員 そうしますと、あなたは日本新聞宣伝部長として活動されたのは、ソ連から命令を受けてその地位になられただけですか。命令を受けてなられると同時に、日本新聞の趣旨を宣伝されたことは、あなたの自分のお気持に合つておやりになつていたのか、それともただ命令であるから、意に反しておやりになつたのであるか、いずれでありますか。
  311. 高山秀夫

    高山証人 私は日本新聞にぜひ入れてもらいたいということを希望して、自分自由意思に基いて入つたわけであります。
  312. 吉武恵市

    ○吉武委員 わかりました。そうすると今その後の問い、すなわち御希望でお入りになりまして宣伝部長として活躍されましたことは、あなたの意思と合致しておりましたか、それともあなたの意思には反したけれども、日本新聞の種々の命令によつて党の活動をされたか、いずれでありますか。
  313. 高山秀夫

    高山証人 私は日本奴隷兵士を民主化するという意味において、私の目的、それからあれとは全然合致しておりました。
  314. 吉武恵市

    ○吉武委員 わかりました。そうしますと、先ほどお尋ねしました日本新聞の使命がどこにあつたか知らないと言われますが、そういう新聞を出したいろいろな理由は、これはソ連政府がやつたことですから、その背後は御存じないといたしましても、日本新聞自体が毎日々々掲げ、そうしてあなたを宣伝部長として活動させたその趣旨というものがあるわけであります。それは今簡單な言葉で、いわゆる民主化のためにという簡單な言葉で言われましたが、それをもう少し具体的にお聞きしたいのです。
  315. 高山秀夫

    高山証人 奴隷兵士で、実際何といいますか、もう歌なんかでも、つうつうれろれろと軍歌しか知らなかつたああいう人に、ほんとうに人を愛するという気持はどういうものであるか、あるいは今度の戰争は実際にどうして起きたものか、正義の戰争であつたか、不正義戰争であつたか。他国を侵略せんとしてやつた、いわゆる日本帝国主義の本質を正しく伝えて、再び戰争の起きないように、そうしてポツダム宣言に基くほんとうの日本の民主化、そして日本に軍事基地を設けたり、日本が再び戰争の惨禍の中に巻き込まれることのないように冷たい戰争犠牲者であるわれわれは断固として今後平和のために戰おうではないかということで、われわれはその意味において日本新聞の目的とはつきり合致したということであります。
  316. 吉武恵市

    ○吉武委員 それではさらにお尋ねいたしますが、奴隷兵士としてではなくという点についてはわかりますが、さらに真の民主主義者となるというその真の民主主義者というのは、あなたの先ほどからの証言を聞いておりますと、それは真の共産主義者になることが真の民主主義者であるというふうに思われますが、違つておりますかどうか、その点をお聞きしたい。
  317. 高山秀夫

    高山証人 民主主義というのは、さつきからしばしば申し上げておるように、共産主義よりもさらに広汎な意味を持つものであるということは、私は繰返し申し上げておるはずであります。
  318. 吉武恵市

    ○吉武委員 わかりました。そうするとあなたの言われる民主主義の中に共産主義が含まれておるが、しかしそれ以外のものもあるのだというお話でしたが、そうするとあなたは日本新聞内において宣伝部長として活躍をされた場合に、共産主義以外の民主主義的な点ではどういう教育をされましたか。
  319. 高山秀夫

    高山証人 質問の要旨がよくわかりませんが……。
  320. 吉武恵市

    ○吉武委員 あなたは日本新聞及びその他の行動において、奴隷兵士でなく、真の民主主義者になることを教育したと言われたのであります。そのあなたの言う民主主義とは、共産主義よりも幅の広いものであるというお答えであつた。しからばあなたが日本新聞において活動された部面において、共産主義以外の民主主義的な教育というものは、どういう教育をされましたか。
  321. 高山秀夫

    高山証人 まず人をたたいたり、人を圧迫したり、そういうことでなしに、将来みんな仲よくやろう、労働者農民、そういうものがみな仲よくやろう、そして再び戰争のないように、平和のためにやろうではないか。そういう宣伝がわれわれの一貫した宣伝方針でありました。
  322. 吉武恵市

    ○吉武委員 わかりました。それは共産主義であろうとなかろうと、いずれの世の中においても決していいことではないから、けつこうでありますが、それだけですか、あなたのいう民主主義というのは。
  323. 高山秀夫

    高山証人 そうして搾取のない、明るい、ゆたかな民主的な日本をつくろう、そういうことです。
  324. 吉武恵市

    ○吉武委員 わかりました。あなたの搾取のないということは、共産主義者の言つておることと同じではありませんか。違つておりますか。私の尋ねておるのは——端的におつしやれば簡單なんです。あなたの言われる真の民主主義とは、おれたちは真の共産主義こそ真の民主主義だと言われれば、それで簡單ですが、しいてあなたがおれたちのやつた真の民主主義運動は、共産主義よりも幅の広いものであると言われますので、そういう幅の広いものの考え方というものをお尋ねしておるわけであります。私の時間の節約のために、端的に——先ほどから申しましたように、共産主義がよいか惡いかは、これはおのおの人の考え方です。ですから私はそれに触れるのではない。あなた方がソ連においてやられた教育それ自体がどんなものであつたかということがはつきりすればけつこうなのです。おそらく私は、あなた方がやられました日本新聞及びその他のいわゆる民主主義教育なるものは、真の共産主義者をつくることであつたと思うのですが、そう一言言われれば簡單なんです。どうですか。しいて隠す必要はないではありませんか。
  325. 高山秀夫

    高山証人 隠すとか隠さないとかいうことをずいぶん言われておりますが、私は国民の前に真実を申し上げたい。今言つたように、再び戰争を起したり、他国を侵略したり、人のビンタをとつたりする、そういう悲惨なことをやめて、ほんとうにお互いが仲よく、今後平和的な、文化的なそうしてゆたかな社会をつくろうじやないかということを呼びかけておつたわけですから、これが御理解できなければ、やはり日の丸梯団の言つたように、戰争をやろうじやないかということしか言えない。真実はそれ以外にないのです。どのように言つたらいいのか、その点は……。
  326. 吉武恵市

    ○吉武委員 わかりました。もう大体あなたの御答弁を聞きまして、これ以上お尋ねする必要はないのですが、そこで在ソ中の日本人捕虜に対する民主教育として、先ほどあなたは友の会が生まれた、そして民主グループというものができ、後に反フアシスト委員会ができたと言われた。先ほどのあなたの証言の中に、日本新聞最初友の会をつくらせたと言われますが、これは日本新聞としておやりになつたのでか。
  327. 高山秀夫

    高山証人 みんなの自然発生的な運動から、日本新聞に投書され、それを日本新聞が四面に紹介する。そういうような形で各地に起きた自然発生的な反軍鬪争が、漸次日本新聞にそういう記事が出ることによつて、おのおの教訓として行くというような形になつて来たわけです。下から盛り上つて来たわけです。
  328. 吉武恵市

    ○吉武委員 わかりました。下から盛り上つたかもしれませんが、下から盛り上つた友の会というのが、あの広い広汎なシベリア地区において各收容所ともに、同じ時期に同じように出て来たということを考えると、單なる自然発生とは考えられないで、これが統一的に組織的に指導されたものとしか考えられませんが、どうですか。
  329. 高山秀夫

    高山証人 その点も解釈の自由だと思いますが、日本でもやはり至るところ労働者農民が、食えないときはストライキをやる、これは何も指令ではなく実際にわれわれの生活を守るためにどうしてもやらなければならないものです。われわれは食うか食われるかで、生きるためにはそれをやるしかない。その気持が各收容所で、だれも言わないでもはつきりと出て来たものです。
  330. 吉武恵市

    ○吉武委員 わかりました。争議であれば自然発生的に起るということもあり得るのですが、友の会という同じ名前の会合が諸所方々に同時的に出て来るということは、これは明らかに組織的な指導によるものとしか思えない。これはこれ以上はお尋ねいたしません。  さてその友の会、あるいは民主グループにおいて教育されたところの民主教育のテキストというものが、この前の証人の龜澤君によりますと、ほとんどマルクス、レーニンに関するもの及び、ソ連の革命当時のいろいろな教訓が教材として示されたということでありますが、それらを考えますと、先ほど私が申しました日本新聞及び日本新聞が指導されました友の会民主グループ及び反フアシスト委員会の民主教育なるものは、大体共産主義教育が全部であつたと思われますが、間違いございませんか。はつきり言つてもらえばよいのです。
  331. 高山秀夫

    高山証人 さつきからはつきり申し上げておる通りであります。共産主義教育というのではなく、奴隷兵士をそういう文化的な人間に仕上げようというのが日本新聞の目的であつたのです。その点は先ほどからしばしば申し上げておる通りですから、これ以上私は言うことはありません。わかりましたか、委員長
  332. 吉武恵市

    ○吉武委員 そうしますと、もう一度私は念を押しますが、あなたの言われたことはわかるが、その言われた内容というものは、共産主義教育であつたということに帰するのであります。これ以上はもう言葉のあやになりますから差控えます。  次にあなたは一九四九年の八月四日の日本新聞に論文を掲げられておりますが、これについて御承知でありましようか。
  333. 高山秀夫

    高山証人 その主題を言つてください。
  334. 吉武恵市

    ○吉武委員 題目は「革命的警戒心を強化せよ」こういう題目で、高山という名前が入つた論説が書かれております。
  335. 高山秀夫

    高山証人 書いたようにも記憶しておりますが、一応その原文を見せていただきたい。……革命的な警戒心ですか、政治的な警戒心を旺盛にせよという論文は書いたように記憶しますが、その内容は今記憶にありません。
  336. 吉武恵市

    ○吉武委員 そこで私はもう時間がありませんから、簡單にお尋ねいたしますが、この論説の中に、こういう言葉があります。「わが同志の戰鬪的スローガン「全員入党」はいうまでもなく正しい。しかしそれは四八年の「入党宣言」のむし返しであつてはならない。圧倒的多数の同志はすでにかく決意を固めているのである。諸事実は、まさに反フアシスト委員会の任務が「入党それ以後」の大衆的訓練にあることを教えている。」なおそれに続いて、多くの委員会は入党宣言に止つていないか。「入党それ以後」をめざす確乎たる鬪争が、地に足のついたものでなく、観念的のものに終つていないか。われわれは本欄に指摘した党創立記念日に誓うプロレタリアの革命的人生観を云々という論文が載つておるのでありますが、あなたはこの反フアシスト委員会議長として、そうして高山という名でこの論文を掲げられている。その中の全員入党はいうまでもなく正しい。それだけではいけないのだ。それ以後の訓練が大事だという論説でありますが、全員本党というものは何でありますか。
  337. 高山秀夫

    高山証人 去年ですね。
  338. 吉武恵市

    ○吉武委員 そうです。去年の八月四日の日本新聞であります。
  339. 高山秀夫

    高山証人 それはこのように記憶しております。大体ずつと第一船の高砂丸以来、全員入党というスローガンを掲げて来ておるということが、しばしばラジオで放送されておつたわけです。私はたまたま日本新聞に行つてそのことを聞いたので、いろいろとそういう意味のことは載つておるが、やはりそれは行動によつて決定されるものであるという意味のことを言つたので、それをただいろいろと入党宣言だとが、いろいろのから文句を並べておるのは正しくないという意味で書いたように考えております。
  340. 吉武恵市

    ○吉武委員 そうしますと、この全員入党とは日本共産党に全員入党するということであります。そうすると、あなたは先ほど必ずしも否定はされなかつたが、端的に賛成をされないで終つたのですけれども、あなたがいわゆる反フアシスト委員会議長として教育をされたその教育の中には、明らかに全員日本に帰つた日本共産党に入党をするのが正しいという教育をされたと思われますが、そう了解してよろしゆうございますか。
  341. 高山秀夫

    高山証人 全員入党せよというようなことを教育したというようなことは、われわれは全然考えません。今申し上げた通りです。
  342. 吉武恵市

    ○吉武委員 そうすると「わが同志の戰鬪的スローガンと「全員入党」はいうまでもなく正しい。」ということはどういうことですか。
  343. 高山秀夫

    高山証人 それはスローガンです。
  344. 吉武恵市

    ○吉武委員 いや、それをあなたがそういうふうに論説に書かれているから、それをやられたわけでしよう。だからあなたは端的に、もう自分は共産党員だ、こう言つておられるのだから、はつきり言つてもらえばいいのです。事実内地におきましては、昨年の八月ごろから秋にかけて、帰つたものは、今までの引揚者と違う、舞鶴に上れば家族の出迎えをもけと飛して、そうしてほとんど大部分の者が東京に出て来て、代々木に行つて全員入党の手続をして帰つたというのは、もう日本国民周知の事実です。これをあなたが向うで論説を書かれたこの「わが同志の戰鬪的スローガン「全員入党」はいうまでもなく正しい。」という言葉を合せて考えまするならば、明らかにあなた方は在ソ間においていわゆる民主教育と称して、そうして共産主義教育を行い、その上日本に帰つたならば、日本共産党に全員入党すべく教育をされたものと断ぜざるを得ないのであります。私はさらにお尋ねをいたしたいのでありますが、ここにありますように、「「全員入党」はいうまでもなく正しい。しかしながらそれは四八年の「入党宣言」のむし返しであつてはならない。圧倒的多数の同志はすでにかく決意を固めているのである。諸事実は、まさに反フアシスト委員会の任務が「入党それ以後」の大衆的訓練にある」これを考えますると、あなた方は同時に單なる日本共産党に入党するということではなくて、帰つたならば、入党した上それ以後の訓練——これがすなわちあなた方の言う、民主教育の結果として日本に革命を行わんとする意図に出たものであるということが明瞭でありますが、どうですか。
  345. 高山秀夫

    高山証人 今までの天皇制のああいう社会から民主的な革命を行うということが、私は正しいと考えておるから、そのことを言つたのです。
  346. 吉武恵市

    ○吉武委員 その革命の手段につきましては、いろいろお考えでありましようが、私はこれ以上は申しません。
  347. 小玉治行

    ○小玉委員 私はちよつと簡單にお尋ねいたしますが、あなたは日本新聞宣伝部長をされておつたというのですが、その日本新聞編集される上において、日本から入る文献ではどういうものがありましたか。お聞きしたい。
  348. 高山秀夫

    高山証人 今の自分の記憶では、毎日新聞だとか、朝日新聞だとか、あるいは太平という雑誌だとか、読売新聞、時事、いろいろの新聞が入つて来ておつたように記憶しております。
  349. 小玉治行

    ○小玉委員 アカハタは……。
  350. 高山秀夫

    高山証人 アカハタも入つて来ておりました。
  351. 小玉治行

    ○小玉委員 雑誌類では……。
  352. 高山秀夫

    高山証人 太平という雑誌だけ今記憶にあります。
  353. 小玉治行

    ○小玉委員 改造、中央公論は……。
  354. 高山秀夫

    高山証人 中央公論も入つてつたように思います。
  355. 小玉治行

    ○小玉委員 それはどういう径路を伝わつてつてつたのですか。
  356. 高山秀夫

    高山証人 その入手径路については私はわかりません。
  357. 小玉治行

    ○小玉委員 日本内地から送つたものと思われるのですが、一般的にさような文献があの遠隔な地まで参るについては、これは非常に手続がいろいろあると思いますが、着いたときには、どこが発送先になつてつて発送されるのですか、そういうことはわかりませんか。
  358. 高山秀夫

    高山証人 わかりません。
  359. 小玉治行

    ○小玉委員 あなた方の理解するところでは、それは結局内地から送るのは、ソ連当局がそれを入手して、そうして送るのであるか、あるいは日本の雑誌社あるいはまた日本の共産党、そういうところから送るのであるか、そういう点についてどういうふうに感じておつたかということを、お聞きしたい。
  360. 高山秀夫

    高山証人 それは今申し上げた通う、私たちにはわかりませんでした。
  361. 小玉治行

    ○小玉委員 発行の時期と、あなた方がそれらの文献を入手される時期的の関係ですが、大体日本で一月なら一月に発行した雑誌、新聞は、どれくらいの期間を置いてあなた方の手元に届いておりますか。
  362. 高山秀夫

    高山証人 私のおつたときは大体三、四箇月ぐらいであつたように記憶しております。
  363. 小玉治行

    ○小玉委員 それでアカハタ以外の、いろいろな今言つた毎日とか、朝日とか、改造、中央公論、太平というような雑誌があつたそうですが、そういう記事日本新聞には載せておつたのですか。
  364. 高山秀夫

    高山証人 いろいろと載せておりました。一例をあげれば、熊澤天皇記事だとか、あるいは真相だとかいう記事がたくさん載つて、非常に喜ばれていました。
  365. 小玉治行

    ○小玉委員 熊澤天皇では困るのですが、熊澤天皇はばかげた話です。そのほかにもそれらのアカハタ以外の材料から掲載したという記事を御承知ですか。実例について……。
  366. 高山秀夫

    高山証人 現在の渡部義通氏の「ゆがめられた肇国史」というのが、たしか太平ではなかつたかと思いますが、そういうのが非常に喜ばれておりました。
  367. 小玉治行

    ○小玉委員 それは小説でしよう。
  368. 高山秀夫

    高山証人 「ゆがめられた肇国史」といつて、今までの、天皇は天の岩戸とかいうようなおとぎ話より、科学的な唯物史観に基いた……。
  369. 小玉治行

    ○小玉委員 それのみがアカハタ以外の文献から得られる日本真相ではないわけだが、今お聞きしますと、熊澤天皇とか、従来の日本天皇制を笑うというか、軽視するような記事のみしか載せないのであつて、その以外の記事で掲載された事実があるかどうかということをお伺いしたい。
  370. 高山秀夫

    高山証人 それを非常に印象的におもしろく読んだので、記憶があるので、それ以外は記憶いたしません。
  371. 小玉治行

    ○小玉委員 そうしますと、そういう天皇制を軽視するとか、誹謗するとか、嘲笑するとかいつたよう記事についてはあなたは記憶があるけれども、その他の事実については記憶がないとおつしやるのですか、
  372. 高山秀夫

    高山証人 そうです。
  373. 小玉治行

    ○小玉委員 そうすると、結局掲載されないのだが、そうしますと……。
  374. 高山秀夫

    高山証人 いろいろあつたかもしれぬですけれども、現在のところ私の記憶にはないのです。
  375. 小玉治行

    ○小玉委員 ないのでしよう。事実としてはそういうものは載せないのじやないですか。
  376. 高山秀夫

    高山証人 それは私の記憶にないのです。
  377. 小玉治行

    ○小玉委員 あなたはこの日本新聞の使命として、いわゆる日本兵士の奴隷化からこれを民主化するということが一つの使命、それから日本内地の真相を伝えるということがこの日本新聞の使命だ、こう申しておるのですが、單にアカハタ記事であるとか、熊澤天皇記事であるとかいうものしか載せない。これでは日本新聞はあなたの言う真実を伝えるというものとはおよそかけ離れておると私は思うのですが、いががですか。
  378. 高山秀夫

    高山証人 決して他の記事を載せないというのじやないですが、現在記憶にないと申し上げておるわけです。
  379. 小玉治行

    ○小玉委員 しかしあなた方としては長くソ連におつて日本の事情というものについては非常に興味をもつて聞きたがつておる、知りたがつておるわけです。とすれば、單にアカハタ記事のみならず、また熊澤天皇というような記事のみでなく、日本には多くの重要なる記事があるわけです。そのうちで單に熊澤天皇のこととか、今言つたあなた方に、共産党に都合のいいことのみは覚えておるけれども、そのほかのことは覚えておらぬというのは、結局私は載せないものだというように断定せざるを得ないのですが、いかがですか。
  380. 高山秀夫

    高山証人 今しばしば申し上げておる通り、いろいろ載せたと思いますが、ただそれが今私の記憶によみがえつて来ないのであります。
  381. 小玉治行

    ○小玉委員 いろいろ載せたならば、内地のことで非常に聞きたいのですから、熊澤天皇記事を覚えておるならば、ほかの記事についても同様に覚えておるのが普通であると思う。
  382. 高山秀夫

    高山証人 今言われたので思い出したですが、芦田内閣が全部監獄に入つだ、監獄内閣だというようなことは記憶にあるのですが、ほかにありません。
  383. 小玉治行

    ○小玉委員 それのみが全部ではないと思います。——よろしゆうございます。
  384. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 西村君いいですか。
  385. 西村直己

    ○西村(直)委員 いいです。
  386. 塚原俊郎

    ○塚原委員 証人にちよつとお伺いしますが、証人日本新聞関係されて、編集関係については証人の思う通りのことがやれましたか。それとも全部向うの検閲を受けなければならなかつたか。どの程度に主体性が確立していたか、自主性を持つていたか、ちよつとお聞きしたい。
  387. 高山秀夫

    高山証人 私の書いたのは若干ありますが、私の書いたのはそのまま載つたように記憶しております。
  388. 塚原俊郎

    ○塚原委員 たとえば先ほどから証人が言われているのですが、ほかからの新聞の転載というものは、おそらく日本人の編集者がそれぞれ編集されるのだと思うが、これを載せてはいけないとか、これは載せろというような、ソ連の政治将校とかいうような、その辺の制肘とか指導というものは相当あるのですか。
  389. 高山秀夫

    高山証人 私はただ單に宣伝部のものですから、編集がどういうぐあいにして行われたかということについては知りません。
  390. 塚原俊郎

    ○塚原委員 宣伝に関してだけでけつこうです。あなたがこういうことを宣伝したい、こういうこともやつてみたいというような場合に、あなたの意見が全部取入れられたですか。
  391. 高山秀夫

    高山証人 私は私の自由意思でやりました。
  392. 塚原俊郎

    ○塚原委員 向うはそれに対して何ら容喙しない、あなたの思つた通りのことがやれたのでずか。
  393. 高山秀夫

    高山証人 私はさつき申し上げましたように、ポツダム宣言の嚴正実施に基いて民主化ということをやつてつたのですから……。
  394. 塚原俊郎

    ○塚原委員 あなたがいろいろ計画するでしよう。その計画は向うで全部載せてくれましたか。
  395. 高山秀夫

    高山証人 大体私のやつた計画に基いて許可していただいたように記憶しております。
  396. 塚原俊郎

    ○塚原委員 先ほど吉武委員の質問に関して、あなたはいわゆる共産主義以外の民主主義の教育というものも宣伝に相当やつた、そういうことについてもソ連の政治将校はお認めになつたわけですね。共産主義以外のもつと大幅な民主主義というものをあなたは取上げた、それもソビエト側はお認めになつたのですか。
  397. 高山秀夫

    高山証人 平和擁護だとか、戰争反対のための鬪争とかいうことについては、全面的にわれわれを支持してくれました。
  398. 塚原俊郎

    ○塚原委員 共産主義以外のあなたのお考えを実施する際に、ソビエト側はお認めになつたですか。
  399. 高山秀夫

    高山証人 われわれの運動は民主主義運動で、共産主義運動じやないから、つまり奴隷兵士から民主化に移す、それですから全面的に……。
  400. 塚原俊郎

    ○塚原委員 それはけつこうです。共産主義以外のものを向うは全面的にお認めになつたかどうか。
  401. 高山秀夫

    高山証人 共産主義以外の広汎な民主主義なるものを認めていただいたのであります。
  402. 田渕光一

    ○田渕委員 高山証人は一九四七年から日本新聞をどいたので、その後のことは知らぬとおつしやつているのですが、四七年の何月に日本新聞をどかれたのですか。
  403. 高山秀夫

    高山証人 十二月の末です。
  404. 田渕光一

    ○田渕委員 そういたしますと、伺いますが、二月一日の土曜日の発行二百十四号に、所内の反ソ及び反動分子の徹底的撲滅ということがスローガンにあるのですが、この反動分子というものは、共産主義にあらざるものをあなたの方では反動分子といつているのだが、そのあなたのさつきおつしやつた、ともあれわれわれの共産主義というものは、今の日本の共産党の共産主義よりももつと幅の広いものだ。たとえば奴隷、あるいは将校ビンタをやるとか、資本家の搾取をやらせない社会をつくるとかいうことは、これは憲法がかわつてそういうことはあり得ない、日本戰争を放棄しているのですからあり得ないのですが、あなたがさつき言われた中に、とにかくそういうような反動分子の徹底的撲滅というようなことは書かない、そういう思想が片鱗もないように、ほんとうの人類愛のようなことを言われているのですが、少くとも所内において反ソ、反動分子の徹底的撲滅ということをあなたが宣伝しておられる。そして今塚原委員の質問に対して、自分宣伝というものがある程度取捨できたんだ。なるほど日本新聞にはソ連命令ソ連の責任の名において書いておるけれども、編集する者は日本人であり、宣伝する者は日本人である。そういうことから所内の反動分子の徹底的撲滅ということは、あなたが先ほどから説かれておる広汎な人類愛というものと反しませんか。
  405. 高山秀夫

    高山証人 それにお答えしますが、天皇を中心とするあの細菌戰を企てたり、あるいは他民族を血の海に陥れたあの南京の虐殺事件を計画したり、あるいはコレヒドールの死の行軍をやつたり、こういう戰争犯罪人をわれわれは断固追放せよということを言つたわけです。それがわれわれの反動分子の責任を徹底的に追究せよということなんです。ですから、ほんとうに人類の平和を愛し、ほんとうに日本の民主化を愛する者としては、戰争犯罪人を断固追放せよということは、ポツダム宣言にもはつきり明記されておるので、これはわれわれの基本的な権利だ。その点を言つておるのです。それが気に食わぬというのなら……。
  406. 田渕光一

    ○田渕委員 私は気に食うとか気に食わんとかいうのではない。日本敗戰後憲法がかわつて戰争を放棄しておることはあなたも御存じのはずだ。一九四七年の二月一日の発行当時は、宣伝部長としてあなたが全責任を持つてつておられた。所内の反動分子というものを徹底的に撲滅するというのは、戰犯をあなたは反動と言つておられるというが、あなた方の言う反動分子というのは、完全なる共産主義者でない者を、ことごとく反動分子と言つておる。
  407. 高山秀夫

    高山証人 そのように理解されることは御自由ですが、われわれが反動と言つたのは、今申し上げたように、具体的には戰犯人です。人民をあのように苦しみに追い込んで、大連あたりに行つてつた山田乙三とか、七三一部隊組織計画したところの関東軍の軍医部長とか、徹底的に人類の平和を破壞し、人類を悲惨のどん底に追い落して行く者を追究しよう。これこそがほんとうの人類愛だと考えておる。その意味において言つたわけです。
  408. 田渕光一

    ○田渕委員 そこで伺いますが、日本の新憲法下においてはその御心配はなかろうと思います。しかし在ソ当時において、あなたが反動分子と言つたのは、決して戰犯を言つたのでなくて、完全なる共産主義者になり得ない者を反動分子として、これに迫害を加えたのであるということを、今日まで数人の証人言つておる。それで反動分子というのは、戰犯人をさして言つたと解していいのですか。
  409. 高山秀夫

    高山証人 あなたがどういうように理解されるか、戰犯分子をわれわれは特にここで言つたわけです。
  410. 田渕光一

    ○田渕委員 捕虜の收容を受けておる身分で、戰犯は何も取調べたりしなくても、戰犯は国際法で調べるわけです。そうすると、あなたはスパイ的に戰犯を裏から洗つていたというように、反動分子というものを取扱つたと理解してよろしゆうございますか。
  411. 高山秀夫

    高山証人 あなたの質問の要旨は非常に不明確なので、もつと具体的に、しかも簡潔に願いたいと思います。
  412. 田渕光一

    ○田渕委員 私は証人は最も頭がいいと思つて、ごく簡潔に申しておるつもりですが、あなたの言うておられる徹底した民主運動というものは、反動分子の徹底的な撲滅にあつた。その反動分子というものをあなたは戰犯とおつしやる。戰犯は何もあなたが取調べなくても、連合国家が必要に応じて調べます。内地へ帰つて来ても戰犯は呼び出されるのです。それをあなた方が徹底的に撲滅しなくてもよかつたのじやないかと思います。ところが先ほどから説かれるところの人類愛という大きな精神から言うならば、戰犯をことごとくあなたが摘発するような機関にそれを使わなくてもよかつたのじやないか。もちろん戰犯を調べるのは、あなたの権限外だと思うが、戰犯を洗うことが反動分子の撲滅であつたかどうか、これを伺いたいと思います。
  413. 高山秀夫

    高山証人 こういうことなんです。それは憲兵隊とか特務機関長とかいう連中が、ぜひわれわれも民主運動に入れてくれ、こう言つてもぐり込んで来るわけです。だから君たちはどういうことをかつてつたか。ほんとうに民主運動をやろうとするならば、自分たちの過去を良心的に述べてみろ、そうして彼はいろいろと言うから、それは非常に正しくないじやないかということが、大衆の間から自然発生的に出て来たわけです。ほんとうにびんたを食い、天皇命令で押えつけられた兵隊が、そういうでたらめな無責任なことを聞けば、非常に憤慨することはあたりまえです。
  414. 田渕光一

    ○田渕委員 それから伺いますが、ずつとわれわれはここ数日伺つて来た証人のうちで最もあなたは頭のいい方であり、精神もしつかりして、りつぱな方だと思いますので伺いたいのですが、あなた方が言つた完全なる共産主義者、完全なる民主主義者というものがまるまると太つて帰られて、スターリンに対して感謝の決議を送り、長々おせわになりましたと言つて帰られましたが、その反対にあなたの言うような完全なる共産主義者でないところの、あなた以外のつまり反動分子であるといわれた人が、何万人もシベリアの白樺の肥料となつて死んで行つたということを、今日までの証言で聞いておる。それに対して、やはり日本人の血を受けたあなたとして、どういうふうに考えられるか。これはあなたがおつしやつた証言と、ここで述べられた他の証人証言と大いに食い違いがあると思うのですが、徳田要請の完全なる共産主義者、これはまるまると太つたでしようが、この共産主義者になり切れないで、いわゆるあなた方の言う反動分子は、ばたばたと倒れて行つたということに対して、あなたはどういう感じを持たれたか。それを伺いたいと思います。
  415. 高山秀夫

    高山証人 私はそういうことを見ないから知らないのですが、私が太つたと言いましたが、長命でも、谷村でも、あるいは岡本、吉村、みなごらんなさい。反動もまるまると太つてつて来ておるじやあげませんか。
  416. 田渕光一

    ○田渕委員 私は証人の良心を伺うわけでありますが、シベリアでばたばたと倒れて来た同胞が、かりに反動であつた。それが死んで行つたのは当然だとしたら、その余波を受けたところの内地に残つた遺家族というものに対しては、あなたはどういう感じをお持ちになつておりますか。それを伺いたいと思います。
  417. 高山秀夫

    高山証人 死なれた方の数については、全然私は知らないのですが、いずれにしても死なれた方はどういう理由であろうとも、私たちは気の毒だと思つております。ただわれわれが殺したというようにあなたはお言いになりましたけれども、そういうことがあつたら、ソビエトにおいては刑法によつて処罰されます。
  418. 田渕光一

    ○田渕委員 ゾビエトにおいて処罰されることはもちろん当然でありましようけれども、数日来ここへ来た証人は、とにかく完全なる共産主義者にならない者は、反動分子として絶えず精神的な苦痛を受けた。いわゆるあなたの言う人間革命です。つまり精神の入れかえをさせるために、共産主義というギブスに入れて、精神の変革をさせた。それになり切れないものはばたばたと死んで行つた。こういうことを言つておるのですが、これに対して死んだ人は気の毒だ、こう今お答えになりましたが、日本に残された遺族に対してどういう御感想をお持ちになりましたか。
  419. 高山秀夫

    高山証人 民主運動のギブスに入れて死んだと言われておりますが、そういう事実はないのですから、それに対して気の毒であつたかないか、そんなことは論外だと思います。われわれはそういうことは全然わからないのです。
  420. 田渕光一

    ○田渕委員 証人の良心を私は伺うのでありまして、たといあなたが死んでないと思うても、何千人という者が死んでおるという事実を、証人が宣誓して証明しておるのです。そういう死んだ方の年寄り、たとえばじいさんばあさん、いたいけな子供や妻がどういうふうにこれを思うだろうという、あなたの良心を伺つておる。気の毒だという一片の憐慇の情があるかどうかということを、私はあなたに伺つておる。
  421. 高山秀夫

    高山証人 今申し上げたように、ギブスに入れて殺したとか、共産主義の型に入らない者を殺したとか、そういう事実はないのですから、その事実にはお答えできない。ただ向うで病気でなくなられた人に対しては、たとい一人でも二人でも、それは非常に気の毒だと思つております。
  422. 田渕光一

    ○田渕委員 私の伺つているのは、もちろんなくなつた方に対してはお気の毒でありますが、内地に残されておつて、きよう帰るかあす帰るかと待つておるこの潰族、死んだ人の潰族に対して、あなたはどういう御精神でおられますか。これはあたりまえだ……。
  423. 高山秀夫

    高山証人 それは今申し上げたように、気の毒ですが、しかし私はここで皆さんに真実を訴えたいのは、あの第一線の陣地でばたばた倒れて行つた人たちの留守家族が、あるいは戰死したのがまだわからないような、そういう無責任な日本の政府に対して、燃えるような憤激を覚える。そういう点を私ははつきり人民の前に、国会は、政府はやつてもらいたい、このことを要求したいと思うのです。
  424. 田渕光一

    ○田渕委員 証人に伺うまでもなく、日本政府はこの死亡した者の氏名の要求をソ連にしておりますが、ソ連はしないのであります。日本政府の責任ではないのでありますが、これは証人はなんとお考えになりますか。
  425. 高山秀夫

    高山証人 それはわかりません。
  426. 西村直己

    ○西村(直)委員 関連して簡單に御質問をいたします。実は何回各委員からお聞きいたしましても、言葉というものは非常に便利でありまして、あくまでも民主々々という言葉でお通しになるが、しかし平清盛が衣の下にちよつとよろいをお隠しになつておるような姿がちよいちよい現われている。その一つをごらんに入れますと、ここに委員部からいただいた資料に、一九四七年二月六日の木曜日発行第二百十六号の日本新聞に、反動の定義を、あなたが編集責任に加わつてつた当時の新聞に、はつきり書いてある。豆字引という題で、これは大衆宣伝の意味でわかりいいようにお書きになつたと思いますが、これとあなたのおつしやる反動イコール戰犯という意味とは全然違う。そうなると、あなたは前言をお取消しになるか、あるいは偽証におなりになるかどちらかというのです。それをはつきりしたいと思います。「反動、社会の歴史は必然的な一定の方向に発展して行く。たとえば封建時代——資本主義——社会主義への発展は、社会の必然的な正しい発展である。」いわゆるマルクス、レーニン主義です。「この歴史の流れ、発展を食いとめようとすることを反動と言い、反動分子などという。」こうはつきり書いてある。あなたが実際おつくりになつた新聞です。(「偽証だ偽証だ」と呼ぶ者あり)これはどうでありますか、前言をお取消しになるか、これをお認めになるか、はつきりしてもらいたい。
  427. 高山秀夫

    高山証人 特にということを私はつけ加えて、われわれは特に反動分子は戰争犯罪人として追究せよということをはつきり言つております。それから……。
  428. 西村直己

    ○西村(直)委員 証人証言を求めておるのでありますから、お答えだけいただきたいのであります。意見などを自由闊達に述べられては困ります。もう一ぺん申し上げますが、この豆字引にはつきり、大衆のためにお書きになつた解釈はお認めになりますか。それとも前言を、今までの誤りをお取消もになるかどちらですか、これをはつきりしておいていただきたい。あなたはこの間相川君が宣誓書をお読みになつた、そうしたら、私は代理の宣誓朗読はいやだ、自分自体が読みたいと言つて宣誓された、男らしく真実を言うといつて宣誓された。言いかえれば、あなた方の社会におきましては、卑怯者去らば去れという歌があるじやありませんか、やつてください大胆に……。あなたはいわゆるシベリアにおいて、シベリアの抑留者の反フアシスト委員会議長であつた。言いかえれば、抑留者の諸君は、あなたを日本人の間におけるスターリンだと言つてつたくらいです。     〔偽証だ偽証だ」「それでは前のやつも偽証だぞ」「それなら証拠を出せ」と呼び、その他発言する者あり〕
  429. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 静粛に願います。高山君答えますか。
  430. 高山秀夫

    高山証人 それは学問的にはそういうふうに理解されるかもしれませんが、私はそのように理解しておつた、それが偽証になるとかなんとか言うて、ずいぶんおどかされるのですが……。
  431. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その反動とは戰犯であるという……。
  432. 高山秀夫

    高山証人 私は反動とは戰犯人であるというふうに解釈しておつた
  433. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 今でも。
  434. 高山秀夫

    高山証人 ええ。
  435. 西村直己

    ○西村(直)委員 しかし証人編集責任に参加しておつた時代の新聞に、大衆に対する宣伝のために、はつきり豆字引に、常識で考えてもわかるように、それに反動の解釈をして、これが反動であり反動分子であると書いてある。しかもこの間も議論になつたように、日米反動どもの腰巾着は、帰還線列からたたき出せ、あるいは徳田要請問題においては、反動は帰すなといういわゆる反動の意味、しかもそれは常識的に、あのシベリアにおいて抑留された全員が受けている反動という言葉というものが対象になるのであつて、この席においてこの証人が言われる反動の概念というものが問題になつているのではないのである。(「意見については答えるな」と呼ぶ者あり)意見じやない、このような事実を聞いている。     〔「ここは討論するところじやない」と呼び、その他発言する者あり〕
  436. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 静粛に願います。高山君、答えられますか。
  437. 高山秀夫

    高山証人 今申し上げたように、学問的には、専門語から言えば、そういう範疇に入ると思うのですが、私たちが反動と言つたのは、戰犯を追及せよということであつたということを申し上げているのですから、これ以上論議の余地はない。私はこれ以上申し上げることはできません。
  438. 西村直己

    ○西村(直)委員 具体的に言うならば、水原君の場合でも、彼を反動と言つて新聞記事として書いた場合に、水原君が戰犯だつたのでしようか。言いかえれば、日本に帰つてから彼は軍国主義を謳歌している人間でありましようか。あなたが編集の責任者だから聞いている。     〔「編集の責任者じやないと言つているじやないか」と呼ぶ者あり〕
  439. 高山秀夫

    高山証人 今の委員の方は非常に混乱しておると思います。私は決して編集責任者でも何でもない、私は日本新聞宣伝部の責任者であつたということを前から申し上げているので、編集責任者であるということは、議事録を調べていただけばわかると思いますが、決して言つてません。
  440. 西村直己

    ○西村(直)委員 編集責任者というきわめて狭い意味におとりになれば、彼は責任を逃げるでありましよう。しかしながら日本新聞の大きなる政治スタツフの中に入つておる。しかも内地におきましては、彼は全抑留者の反フアシスト委員会議長、言いかえればソビエトにおけるちようどスターリンのすわつているところのいすにすわつておると言つておる。しかもその男が、たとえば日本新聞から出て行つた後の檄文におきましても、すべて檄文には、地方反フアシスト委員会ビユーロー、あるいは地方代表者会議参加者一同、民主グループ一同という署名に加わつておる。これをもつてしても彼が責任がないとは言えない。しかも彼の言葉によれば、ここに書いてある、大衆にわかるようなこの言葉をごまかして、反動はただ戰犯だ、こう言つてここで証言されておる。そうであるならば、彼は前言をお取消しになるか、これを率直にお認めになるか、どちらかでないと、私は二者択一でないと思うのであります。
  441. 高山秀夫

    高山証人 なんぼそう言われても、偽証罪と言われようと何と言われようと、私はそのように考えておつたのですから、どうぞ自由にしていただきたいと思うのです。それ以上言うことはありません。
  442. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それならここに書いてあることをあなたは否定しますか。
  443. 高山秀夫

    高山証人 それですから、学問的な立場から言えば、その範疇に入る。歴史の正しい発展を阻害するものが反動だということに入るでしよう。しかし私が言つている点は、今私の言つた考えは反動は戰犯分子である。
  444. 吉武恵市

    ○吉武委員 そうしますと、証人にお尋ねしたいのだが、あなた自身は反動をどう考えられるかは別としても、在ソ間における民主教育の中において、反動とは、先ほど豆字引として日本新聞に掲げられたこの定義をもつて反動とみなすということはどうですか、反対ですか。
  445. 高山秀夫

    高山証人 どうもそういうむずかしいことは、私は一介の農民ですからわかりません。
  446. 吉武恵市

    ○吉武委員 あなたは日本新聞宣伝部長として民主化運動をやられた、その責任者である。その責任者が日本新聞に掲げた反動の定義、このものを否定されるかしないか。
  447. 高山秀夫

    高山証人 私は今申し上げたように、学問的にはその範疇に入る。歴史の正しい必然を阻害せんとするものが反動になる。私が反動と言つたのは、そういう戰犯分子であるということは明瞭に言つておるのですから、これ以上のことは言うことはないのです。それから先はどうにでもしてください。
  448. 吉武恵市

    ○吉武委員 それではわかりました。とにかく在ソ間における日本新聞その他民主教育によつて反動といつたものは、ここに掲げられたものであるということが確実にわかりました。
  449. 西村直己

    ○西村(直)委員 それからいま一つ、第二点としてお聞きしたいのは、日本新聞の役割というものをあなた方はニユースの提供と考えておられたかどうか。     〔発言する者多く、議場騒然〕
  450. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 静粛に。委員外で発言しては困ります。
  451. 高山秀夫

    高山証人 今何を言われたか、さつぱりわからないのです。
  452. 西村直己

    ○西村(直)委員 証人にお聞きしますが、日本新聞というものは、單に二ユースなり論説なりを載せるだけの新聞であつたかどうか。新聞というものの普通の常識から解釈するならば、ニユースを提供するのですね。それが新聞ですね。あなたの場合、日本新聞というのはどういう意味ですか。それをもう一ぺんはつきりしてください。
  453. 高山秀夫

    高山証人 今言われた意味がどうも抽象的でわからないのですけれども、私が今解釈してお答えするなら、ブルジヨア新聞とはああいうように事実を歪曲して書くものであるが、ソビエトにおける新聞というものは、実際人民の生活をゆたかにし、文化的にして、実際のことを掲げる新聞である、こう言うことが言えると思います。
  454. 西村直己

    ○西村(直)委員 それでは私は一応そういうふうに了解いたしましたとして、それは端的に言うなら、言いかえるならば組織者であり、宣伝者であり、教育者であるという言葉にとつていいですか。新聞即ソビーエト在留同胞に対して組織者であり、宣伝者であり、教育者である、そう解釈してよろしいですか。それはあなたの通用語だ。それを証人からはつきり承りたい。
  455. 高山秀夫

    高山証人 ちよつと三分間考えさせてください。——今申し上げましたように、真実を書くということが組織あるいぼ宣伝、教師であるというように理解されるのならそれでもいいと思いますが、私はそれに対してはどうお答えしていいかはつきりわかりません。
  456. 西村直己

    ○西村(直)委員 そうしてそれの中心目標は何であつたかということは、あなたの言葉で言うならば、民主教育ですね。その点はあなたの言葉をかりて民主教育というなら、あなたはそうだとおつしやいますか。もう一ぺん……。
  457. 高山秀夫

    高山証人 いまさつき申し上げた通り、日本新聞奴隷兵士をりつぱな民主的な人に、文化人にするというのが目的であります。
  458. 西村直己

    ○西村(直)委員 それは言いかえれば、ボルシエヴイーキ的な指導と解釈してよろしゆうございますか。
  459. 高山秀夫

    高山証人 それは、解釈されることはどのように解釈されようが、われわれは今言つたように、再び戰争を起さないように、そうして人民を抑圧したり搾取したりしない平和な日本をつくろうということです。
  460. 西村直己

    ○西村(直)委員 われわれという言葉を使うと、あなた一人じやない。そうするとあなたの同志であつたところの、しかもおとといそこの証人台に立たれた相川君は、みずからはつきり書いておる。日本新聞はボルシエヴイーキ的指導の中心であつたとはつきり書いておる。そうして組織者であり宣伝者であり、教師であると書いてある。しかも括孤入りで書いてある。あなたはこれを肯定するか、否定するか、ボールシエヴイーキ的指導の中心であつたということを……。
  461. 高山秀夫

    高山証人 それは私にはわかりませんが、とにかくいまさつき申し上げたように、非常に喜ばれて読まれたということだけははつきり言えると思います。
  462. 西村直己

    ○西村(直)委員 第三点として、これは御意見でけつこうでありますが、この間菅証人がおなくなりになつた、この事件に対して、あなたの共産党員としてのお立場からの意見を聞かしていただきたい。意見が聞かれなければやむを得ませんが……。
  463. 高山秀夫

    高山証人 私はきようこの嚴粛な証人台に立ちまして、偽証であるとかなんとかいつて、真実を述べんとする言葉がずいぶん歪曲されて理解されたということに対して、非常に精神的な圧迫を受けた。私自身、菅君と同じようにしばしば精神的な混乱に陥つた。こういうことをやられるから、人民の言論が抑圧され、事実が歪曲され、菅君に対しては非常に気の毒だと思う。
  464. 西村直己

    ○西村(直)委員 私はこの証人からこういう言葉を聞くのは意外でありまして、実はこの人は全シベリアにおける反フアシスト委員会議長として、相当な辣腕を振われた方であることは、多くの帰還者が異口同音に言つておられるのであります。しかもそれは非常なつるし上げの妙手であつた。しかもソビエトのシベリアにおけるつるし上げというものは、こういう委員会のようななまやさしいものではない。それ自体が全然違う。はしの上げおろしに対して絶えずソビエト人間的な変革をやる、それは労働力の搾取であると同時に、共産主義教育の進展であります。そのつるし上げとは全然違うこの委員会で、ただつるし上げられたから死んだと言うならば、私は別の材料を新しく提供いたしたいと思うのであります。これは委員長の手においてお調べ願いたいと思うのでありますが、参議院において例の管君を証人として呼ばれたときに、山森君と亀澤君、三名の人が私は証人台に立つたことを聞いておるのでありますが、それが控室に入つてつたときに、あの控室の番人がぼんやりしておるときに、ある帰還者が入つて来て、菅君に向つて、君をしつかり監視しておるから、しつかりやれ、こういう言葉を吐いて去つた事実を、私は聞いてあるのであります。監視をしておるからしつかりやれという言葉、これをいかにとるかということをこの機会に私は申し上げておきたい。これはあえて証人から意見は聞きません。  それからもう一つ私はお聞きしたい点があります。高山証人ポツダム宣言違反でない、こういうふうに言うが、抑留者が残つており、また五年間も遅れている。これを私は国会を通して全国民に訴えたいと思うから、高山証人からはつきりお伺いしたい。
  465. 高山秀夫

    高山証人 それはこういう意味なんです。私の言わんとしたことは不十分であつたかもしれませんが、要するに私たちは、帰国はソビエト政府と占領軍司令部との相互の協定によつて行われるものである。だから遅れたか遅れないか、それはマツカーサー司令部とモスクワの政府に聞かなければわからない、こう申し上げたわけであります。何もポツダム宣言に基いて云々というのではない。それは私にはわからないのであります。
  466. 西村直己

    ○西村(直)委員 わからないではなくて、たしか先ほどのあなたの御答弁は、米ソの協定で遅れたんだと、こういうふうに御説明になつたように思いますが、その点はどうですか。
  467. 高山秀夫

    高山証人 米ソの協定によつて輸送が行われているのだから、私たちは遅れたか遅れないかそういうことはわからない。何を基準にして遅れたのか遅れないのか、そういうことはわからない。
  468. 西村直己

    ○西村(直)委員 あなたは内地へ帰つてからは、共産党員である以上米ソの協定ははつきりわかつていると思いますが、帰還が遅れたがゆえにやかましい問題になつて、シーボルト議長を中心に多数の声明が出た。お帰りになつた以前の状態はあなた方は御存じないと思うが、しかし内地へお帰りになつて、なぜ帰還が遅れたかということに対しては、どういう解釈をなされますか。
  469. 高山秀夫

    高山証人 私は今申し上げた通りです。私の例を言えば、舞鶴へ上ります船の中でこういうことがあつた。それは、復員業務に関係のあること以外ソビエトの軍事施設がどうであるとか、あるいは飛行場だとか、戰車の数だとか、そういうものを書かなければあげないというので、まず船から上陸することが一日遅れました。それからさらに翻訳室だとかいろいろなところへ連れて行かれて、私は不当に監禁されて、そのために、舞鶴において一日くらいで済むのが三日も四日もかかりました。そうしてそれに正しく答えないというので不法にもMPがつき、私が承諾しないにもかかわらず、GHQですか、あそこに連れて行つて二十日間も置かれたわけです。私はかようにして日本へ帰つてから約一箇月も、何のためにどうしてやられるのかわけのわからぬような理由でもつて帰郷が遅れた。そういうことが言えると思う。ただソビエトから帰る問題については、何のために遅れたか、ソビエト政府とマツカーサー司令部との相互の協定で行われているのだから、遅れたか遅れないかどうかということは基準が私にはわからないから、わからないと申し上げたことはずつと同じわけです。
  470. 西村直己

    ○西村(直)委員 その問題はおきまして、今一点最後にお聞きしておきたい。あなたはシベリア地区の二年間反フアシスト委員会議長であつたから、おそらく全シベリアの抑留者の大体の動向はおわかりになつたと思うが、あなたの見た目では、現在国民が非常に関心を持つている抑留者が、戰犯以外に残つておるかいないか、その点を御説明願いたい。
  471. 高山秀夫

    高山証人 この数も、三十七万だとかなんだとかいろいろ言われておりますが、基準についてはわかりません。私たちの狭い範囲内で知つている限りでは、大体昨年の暮れまでに一般の者は帰つて、戰犯容疑者あるいは何らかの形での戰犯者以外の者は、現在はもういないのではないか、そのように考えております。ついでに数の問題が出たのでお答えしたいと思いますが、これは私、昨年の十二月二十三日参議院の証人喚問のときにもお答えしたのですが、三十七万というと、関東軍の大体半分くらいと理解してよいと思うのですが、私の村でも現在帰らない者はほとんどいない。この間四谷区で引揚者の座談会がありましたとき、私未帰還者の数を調べたのですが、それでもせいぜい二、三十名であつた。そういうことから考えまして、三十七万の数はまるつきりでつち上げられたデマである。数においてはどの程度かわかりませんが、そういうことが言えるではないかと思います。
  472. 西村直己

    ○西村(直)委員 大事な点でありますから、ちよつと時間をいただきます。三十七万数千という数字が行方不明であることに食い違いがあるということは、国民の間に大問題となつている。おそらく徳田要請の根源はそこにあると思うのですが……。(「政府が答えないからだ」と呼ぶ者あり)黙つている。
  473. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 静粛に。
  474. 西村直己

    ○西村(直)委員 ほかの証人に言わせますと十万ないし数万の人がまだいると言う。たとえばシベリアは非常に広いけれども、汽車で閉鎖しない抑留所の近所を通ると、戰犯でない日本人が目に映るところで二、三十人はいるというのが帰還者の真の言であります。全シベリア地区を計算すれば五万になり七万になり、多いのでは十万人になるという人もありました。それから現実に調べればすぐわかりますが、たとえば外務省の通訳であるとか、あるいは技術者というものが、戰犯でないのにいまだに帰つていないという事実、これに対しまして、あなた方はおそらく戰犯以外は残つていないだろうというふうに確信をなさいますか。
  475. 高山秀夫

    高山証人 全体については今申し上げた通りわからない。ただ十六地区内においては、私が帰るときは五千五、六百、しかも十六地区はほとんど主要な戰犯の集まつた所だつたのですが、その中からさらにことしになつて二回帰つていますし、あとからも帰るようでありますから、残つてつても数千名内外じやないか、私はそのように考えます。
  476. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 十六地区だけですね。
  477. 高山秀夫

    高山証人 シベリア全部でせいぜい数千名じやないか、そのように理解しております。
  478. 西村直己

    ○西村(直)委員 かりにそうしますと、死亡者があつた場合に、あなた方はたくさんな墓を見ておられると思う。ハバロフスクにおいては非常に墓があるということを証人言つております。しかるに赤十字條約には、捕虜が死んだ場合は名簿をつくつて、その死亡通知を出すということがうたつてある。それをソ連がなさらぬということに対して、あなた方はふしぎに思いませんか。死亡者は全然発表になつておりません。そうして三十何万という数字が全然わからぬことになつている。この点について、あなたは共産党員としてどういうようにお考えになりますか。
  479. 高山秀夫

    高山証人 向うでは死亡したら三通ないし五通くらいの死亡診断書がとられて、日本の軍医も立ち会つてはつきりとしまわれているという事実をわれわれは知つております。ですから、全部のいろいろなあれが終つたらはつきりソ連の方から発表するのではないか、かように私は考えているので、どうかこうかということについては私は知りません。
  480. 西村直己

    ○西村(直)委員 よろしゆうございます。
  481. 石田一松

    ○石田(一)委員 私は証人証言を求めます前に、ただいま西村委員は、去る五日本委員会に喚問をされた菅証人の六日夜の自殺事件に言及をされまして、亀沢何がし外一、二名の参議院並びに本委員会等に出席した証人の姓名をあげられまして、この亀沢外の証人たちが参議院の控室で菅君に対して、監視をしているぞ、しつかりやれよというようなことを言つていた事実をぼくが聞いたと。これはあたかも菅証人の死というものが、亀沢君らのこの監視をしているぞ、しつかりやれと言つたこの言葉のために、この言葉に脅迫されて自殺をしたかのごとき趣旨にわれわれには聞きとれるのであります。しかもその内容は、速記録を見ませんとよくわかりませんが、委員長に十分これは調査をしてもらいたいというような要求をなされたと私は聞きました。これはまことにゆゆしい重大発言であると私は思うのであります。なぜかと申しますと、われわれは先般来この問題が実際に究明をされ……。
  482. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 証人に対する質問じやないのですか。
  483. 石田一松

    ○石田(一)委員 質問の前に一応関連がありますから申し上げておるのであります。
  484. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何です。
  485. 石田一松

    ○石田(一)委員 これは西村委員がこのことを発言されており、それを委員長からお許しになつておりますから……。それに関する重大問題でありますから、一応申し上げておきます。これはまことに重大な内容を含んでおると思うのであります。しかも今朝の朝日新聞等を見ましても、あらゆる方面に菅君が出したという書置き全部を総合して見ましても、参委あるいはこの委員会における証人の喚問のあり方等について相当深い疑問を持つていた。このことだけは事実なのであります。しかもそれはもちろんこうした理由もあつたかもしれません。しかしまたわれわれはこの委員会で先般来この問題を取上げることを要求したにもかかわららず、多数をもつてこれは否決されておるのであります。私はこの問題が解決されるまで、爾後の証人を喚問してはいけないという動議を提出いたしましたが、これは否決されたのであります。しかもただいま質問の途中においてこういう重大な発言がなされ、しかもこれらの事実を調査する要求が出されるということになると、少くとも爾後の証人を喚問するまでに、この西村君の発言自体をわれわれは重大視して、この問題を調査することが先決問題であります。しかも菅君は上級中尉のロシヤ語で発言したことを日本語に翻訳したという唯一の通訳であります。その通訳がもう死んで再び口をきかないのであります。この通訳がここにおいて証言をしたその速記録をわれわれが十分検討し、しかもこの速記録について西村君のただいまの発言等を十分に考察して、この問題をただいま西村君自身から委員長に要求されたのでありますから、與党の側というとまことに失礼でありますが、自由党の一委員から要求された事実でありまして、これはもちろん自由党の多数の諸君も了承の上に発言なされておることと思います。であるならば先般私がこの問題について動議を提出した場合には、多数でもつて否決をしておき、しかも質問の最中にこの大きな問題を出して、さながらこれが亀沢君以下二、三のものの脅迫によつて菅君が死んだと思わしめるごとき速記を残したということは、重大問題であります。この問題を究明する前の証人の喚問は絶対に中止さるべきであります。このことを絶対に私は主張いたし、この動議を提出いたします。これについて委員長の冷静なる判断、しかもこの取扱いは動議として提出をいたしますから、これを十分御討議の上、この動議の採決を願いたいと思います。
  486. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 私はただいま石田君には、証人に対する質問を許したのであります。動議のための発言は許しておりません。証人に対する質問をしてもらいましよう。
  487. 石田一松

    ○石田(一)委員 そういたしますと、もう一ぺん委員長に質問いたしますが、証人に対して証言を求める途中において、こういう重要問題を途中にはさんで委員長に要求をしながら、証人証言を要求してかまいませんか。
  488. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはただ意見として私は聞いております。單なるその間において言われた意見として……。
  489. 石田一松

    ○石田(一)委員 要求されております。
  490. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは要求されても、とるかとらぬかは別です。
  491. 石田一松

    ○石田(一)委員 それはたしか速記録を見ると……。
  492. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 單なる意見として私は聞いておる。
  493. 石田一松

    ○石田(一)委員 さらば單なる意見であれば、私は動議を撤回してようございます。しかしこれは西村君に特に私は委員長を通じて勧告というか、今の菅君の死に関する発言は、少くとも委員長の職権または議長の職権において、不穏当と認めるならば速記録から取消すというふうに取扱われた方がいいのじやないかと思いますが、いかがでございましようか。
  494. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 証人に対する質問が済んでからでもやられるならばいいですが、今証人を調べている最中なのですから……。
  495. 石田一松

    ○石田(一)委員 証人証言を求められる最中に、西村君はこのことを発言しております。
  496. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 証人に聞くときにそういう意見を述べられたものと、私は解釈しております。
  497. 石田一松

    ○石田(一)委員 私はこの発言は西村氏としてまことに惜しむべき発言であると思います。実に当委員会の良心がいずれにあるか。しかも菅証人の死に対して先般委員長が哀惜にたえないとおつしやつたことも、西村君のこの一語によつて哀惜だか何だかわからなくなつたということです。
  498. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そういう議論はやめてもらいましよう。証人に対する質問をしてください。
  499. 石田一松

    ○石田(一)委員 では先の動議を撤回いたしましよう。菅氏の死んだことに関して、証人証言を求める途中において、こうした意見だかしらぬが、重大な発言を許されるならば、われわれちよいちよい利用さしていただきます。  先ほど他の委員からの質問の中に、日本で発行される雑誌とか新聞というようなものが、日本新聞社に何箇月か遅れるでしようけれども入手される。その入手の方法は一宣伝部長である証人ではわからない。こういうお話でしたが、たとえば共産党の機関紙であるアカハタなどは、宣伝部長であるあなたにそのままを渡されるのですか。それとも新聞の切抜きとか、あるいは何かの抜萃ということで渡されるのですか。
  500. 高山秀夫

    高山証人 今の委員の方にお答えしますが、それは日本新聞に転載されてわれわれは見るわけであります。
  501. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その転載前のことを聞いたんだが、それは知らぬか。
  502. 高山秀夫

    高山証人 われわれはそれは見ておりません。
  503. 石田一松

    ○石田(一)委員 そうすると、アカハタから転載したということが明らかについておるそうですが、この日本新聞には、それらの記事の取扱いについては、宣伝部長としては全然あずかりしらぬということでありますか。どういうふうに転載されるということ……。
  504. 高山秀夫

    高山証人 それは普通の新聞社があつて、それが宣伝、こういうように考えられると違うと思います。新聞社の一角に宣伝部というのが別にありまして、映画を持つて来たり、新聞の解説をしたり、そういう仕事をやるのであります。ですから私自身が宣伝部長で、すぐその編集に参加する。そういうことはないわけです。
  505. 石田一松

    ○石田(一)委員 そういたしますと、入手のその経路はもちろん日本新聞社自体に尋ねなければならないことでありますが、これは日本新聞社自体がこれを入手するのでございましようか。それとも政治局とか何とかいうようなもので入手するのでございますか。その辺のことは御存じありませんか。
  506. 高山秀夫

    高山証人 わかりません。
  507. 石田一松

    ○石田(一)委員 これは先日もある証人に聞いたのですが、あなたの收容所生活中、一九四八年の六、七月ころから八月ごろ、あるいは一九四九年の六、七月ごろから九月ごろ、この間におきましてあなたはあなたの郷里から、もちろんあなたは死んだことになつているそうですから、お手紙は行かないと思いますか、あなたのお友だちなんかで、捕虜用のはがきによつて日本政府の発行したはがきで、東京のある局の消印を押したはがきを受取つた日本人捕虜がありますか。
  508. 高山秀夫

    高山証人 十六地区内ではそういうことはなかつたと思います。
  509. 石田一松

    ○石田(一)委員 捕虜用のはがきとか、捕虜に特に当時許された通信の自由を守られるために使われるはがきというものがあつたはずであると思いますが、そういうはがき、あるいは手紙、切手に消印されるスタンプは、幾種類くらいのものが着いていましたか。
  510. 高山秀夫

    高山証人 それは私の記憶では日本語が一つ、英語が一つ、ソビエト語か一つ、合計三つあつたように記憶しております。
  511. 石田一松

    ○石田(一)委員 そうするとただいまお尋ねしましたように、特に捕虜用のはがき、あるいは通信の封緘はがき等で、日本政府の発行したはがきでないということは間違いありませんか。
  512. 高山秀夫

    高山証人 それは間違いありません。
  513. 石田一松

    ○石田(一)委員 実はせんだつてこの安員会に証人に来られました——私の記憶に間違いがなければ、たしか小島さんという証人は、カラガンダにいらつしやいまして、昨年の九月半ばごろ、ふとごみ捨て場をぞのいて見たり、はがきが一枚おつこつていた。しかもそのはがきを取上げて読んでみると、日本共産党本部と書いて、日本のはがきが来ていた。消印は東京の消印であつた。こういうはがきがおつこつていたと友だちに見せたら、前收容されていた連中が落して行つたんだろう。他の友だちが、消印はどこだと言つたら、消印は東京だ。ああそうかと言つて、はがきが来たと言えば、消印はどこの消印であつたかというのが、要するに捕虜たちの間ではそれほど重要であつた。東京のどこの局の消印であつたか記憶がない。しかもポケツトにこれを相当期間自分で持つて歩いていたにもかかわらず、東京の何局の消印であつたかということの記憶がない、こうおつしやるのです。日本のはがきで、東京のある局の消印だけでははがきが收容者に渡らないということだけは間違いありませんな。
  514. 高山秀夫

    高山証人 捕虜通信、それからそのほかのものでも、必ず三つの判があるということ、それ以外のものはないはずです。
  515. 石田一松

    ○石田(一)委員 わかりました。先ほど来あなたの証言を聞いておりますと、捕虜に対するソ連の待遇というものは、まことによかつたというが、一般ソ連人に対するのと同じようにされていた。そのためにスターリンヘの感謝署名運動というものまで起きた。こういうことでありまして、この署名運動の署名者の数を見ても、いかにこれが厚遇されたかということがわかる、こうおつしやいましたが、あなたの証言の中に中佐とか少佐とか、戰犯級のものが手を合せて、ぜひ署名させてくれと言う。それは署名して一日も早く帰りたいという卑劣な下心である。そういう者はなるべく署名させないようにした。こういうことをおつしやるのですが、これが署名されたのは自分の意思によつて署名されたものではありましようけれども、スターリン首相に対する署名の数をもつて、ただちにこの君名した人たちが全部あなたと同じよりに、実に優遇をされたということの判断にはならないと思いますが、いかがでしようか。
  516. 高山秀夫

    高山証人 署名をしたから、優遇するとか何とかいうことではありません。
  517. 石田一松

    ○石田(一)委員 いいえ、私の言いますのは、先ほどある委員が、それは君だけで、ほかの多数は冷遇されたのだという反問があつたところ、証人は、しかしあのスターリンに対する感謝署名運動の数を見ても、いかにみながその捕虜生活に満足していたか、感謝していたかがわかる、こういう意味の御証言があつたのです。それで私の問いますのは、先ほどあなたのおつしやるように、中佐とか少佐とかいうような戰犯級の者でさえ、一日も早く帰りたいと手を合せて拝むくらいなのですから、それ以外のいわゆる民主グループの者とか、ほんとうは心からなつていないような者もあるでしよう。表面には出さないが、一日も早く日本に帰りたいというので、うまくやつていたのがあるでしよう。そういうのが相当多数署名の中に入つておるのです。ですからこの署名の数をもつて、ただちに全部が全部ソ連で優遇されたという証拠にはならないと思いますが、どうでありましようか。
  518. 高山秀夫

    高山証人 その通りでございます。
  519. 石田一松

    ○石田(一)委員 そういたしますと、あなたの先ほどおつしやつたのは、相当の部分が感謝しておるのであつて、署名の中には相当感謝していないのもいる。こういうわけでございますね、
  520. 高山秀夫

    高山証人 そうでございます。
  521. 石田一松

    ○石田(一)委員 そこで私はあなたの先ほどの証言は、あなたの知つておる範囲においては優遇された。他のことは一応あなたの推察ということになるわけですね。
  522. 高山秀夫

    高山証人 感謝文に署名した者が優遇されたというようには、私は……。
  523. 石田一松

    ○石田(一)委員 そうじやないのです。感謝文に署名した数では、それだけが全部ソ連で優遇されたと言うことはできない。
  524. 高山秀夫

    高山証人 そうです。
  525. 石田一松

    ○石田(一)委員 中には手を合せてむりにやらせてもらうのもあるのですから、また水原みたいな者もあるのですから、心から感謝していない者もある。ですからその数ほどは、捕虜生活が満足するほどのものではなかつたのですね。
  526. 高山秀夫

    高山証人 そうです。
  527. 石田一松

    ○石田(一)委員 私は決してあなたが行きもしない、見もしないようなところの証言を求めようとするのではないのです。あなたは先ほど推察で、スターリンに対する署名感謝の運動を見てもわかるということで立証されようとしたのですが、それがそうでないと旧すると、あなたの先ほどの捕虜が厚遇された、まるまると太つてつた、こういうことは、あなたの知る範囲の問題であつて捕虜全部がそうであつたとは言い得ない、こういうことは言えますか。
  528. 高山秀夫

    高山証人 そうでございます。
  529. 石田一松

    ○石田(一)委員 それから私はこのことを非常にこの間から気にしているのです。ちよつと意見がまじるかもしれませんが、かんべんしてください。入ソ当時、将校下士官に収容所の指揮権をゆだねられた。こういうことは間違いありませんね。
  530. 高山秀夫

    高山証人 ええ。
  531. 石田一松

    ○石田(一)委員 それでまかせられたこの将校が、自分は幹部であるという考えを、捕虜になつたということで一応ゼロにして、同じ日本人同士なんだという気持にもしその当時なり得たならば、ビンタをくれたり、食堂のピンをはねたり、病人の食糧をごまかしたりすることをしなかつたならば、おそらく私はつい二、三日前までその将校とともに命を投げ出して、無條件降伏も何も知らないで、満洲のすみつこの方で、たまもほとんどなくなつているのに戰つていらつしやつたのですから、将校の態度自体にあなたたちに対するほんとうの日本人としてのあたたかみというものが示されたならば、反軍闘争というものは起きなかつたのじやないか、こういうことを考えるのですが、私はこのことが大きな原因じやないかと思うのでありますが、あなたはどうお考えになりますか。
  532. 高山秀夫

    高山証人 先ほど申し上げましたように、入ソ後も帯劔将校で、われわれは軍事捕虜ではなく、一時停戰協定で出来ておるのだ。だから日本に帰るまでは、われわれは天皇の命ぜられた軍隊のままで行かなければいけないのだ。そうして麻雀をやり、碁や将棋をやり、暖いところで当番をつけて、ごちそうをたらふく食つて、そういう生活を大部分の将校がやつてつたわけですが、そういうことが悪いと目ざめて、そうして民主運動に入つて来られた将校もたくさんわれわれは知つおります。関東軍の暗号班長をやつてつた吉田広大尉、あるいは真岡の海軍武官府ですか、あそこにおつた大平少佐とか、それから自動車隊をやつてつた師崎という大尉とか、こういうりつぱな将校もたくさんあつて、われわれと一緒に民主化のために闘つたたくさんの将校を知つております。
  533. 石田一松

    ○石田(一)委員 それで私は証人に聞きたいことは、ただいまのような捕虜自体のなかに、こうした反軍闘争、いわゆる反幹部という感情が沸き立つていた。主観的な、要するに條件が整つておるところに持つて来て、しかもソ連の政治局で発行されておるところの日本新聞、あるいは聞かされるもの、見るものがすべて——一応あなたたちの言をそのままいれますと、相当に民主化されざるを得ないような客観情勢が備わつていた。すなわち主観的な條件も、客観的な條件も、おそらく一応の判断、理解力をもつておるものならば、民主主義運動、あるいは反フアシスト運動に追い込まれなければならないような條件がことごとく備わつていた。そのさ中にあつて、あなたが全体会議をおやりなつたような、そうした委員会までこれが発展して行つたことは、私はこれは日本人みずからがまず最初将校を入ソ当時すぐ指揮官にする、そこの実権、指揮権をまかせるという、いわゆるソ連政治部当局のまことに頭のさえたところで、うまく実際的に、実物教育的にこの運動が自然に持ち上るように持つて行かれた。こういうふうに私は思うのですけれども、私のこの考え方は、実際をごらんになつたあなたたちとしてどう考えますか。
  534. 高山秀夫

    高山証人 やはり千名單位の作業隊で、将校が昔のままに小隊長、あるいは中隊長というふうにして入つて行きましたのですから、ソビエトではおそらくその人たちに依拠する以外にはなかつたと思います。ただわれわれの運動は、そのような條件が與えられたとか何とかいうことでなくして、将校が非常に横暴のことをやるので、それをやらなければ将校に殺されてしまう。初年兵や補充兵らがみな固まつてこういうでたらめなことをやることをやめさせようじやないか、配給されたものはみんなで平等にわけようじやないか、当番なんかは使わずに、彼らに自分のことをやらせようじやないか、こういう自分生命を守るための必然的な運動として、各分所で起つて来たわけです。
  535. 石田一松

    ○石田(一)委員 それではこれは問題が飛ぶのでありますが、これも一つの感情的な問題になるかもしれませんが、あなた先ほど山田中将ですか何ですか、細菌戰犯の問題が出ましたが、こういうものはいわゆる反動として徹底的にこうだとおつしやつたんですが、それが真のわれわれの望む民主化である、そういうことをおつしやつたのですが、もちろん民主化の過程においては、こういう犠牲者が出ることは当然のようにも私たちは考えますが、一応人間的な考え方で、今度の日の丸梯団とあなたたちと対立のような関係があると思うのですが、これが非常に日本人の感情というものから——理論というものを超越した感情というものから、根強くきざしておる、こう思うのですが、今あなたのおつしやつた山田元中将かに対するあなたのお言葉は、それはその罪というものに対してのあなたの強い反撃であつて、その人といえども、もしできることならばソ連における刑務所につながれているよりか、人間的には日本の刑務所につながれて、その刑期を十分国民のすべてのものが監視しながらやつて行く。こういうふうになされてもいいんじやないかという、いわゆる感情論になりますが、そうした考えがあなたの気持の中には微塵もないのか。そんなものは徹底的に葬り去つてしまつて、この世から抹殺をするんだというふうな強い御意思なのか。人類に対する反逆者であるから、残虐をあえてした細菌戰犯者であるから、こういうものは抹殺してしまつていいのだ、そういうふうなお考えなのか。その点をちよつと聞きたいと思います。先ほど証言がありましたから……。
  536. 高山秀夫

    高山証人 私は彼と一度会つたことがあるのですが、われわれはいつ帰るのか、一日も早く帰してくれ、こういうことを彼が言われたのです。少くとも関東軍の司令官として、多くの兵隊たち自分の無責任で殺した。そういう人が、そうしてまた兵隊が全部帰つていないときに、私は三軍を叱咤した将軍の声としては、兵がどういう状態にあるかということがあの人たち言葉から聞けるのじやないかというふうにも期待しておつたのですが、その言葉を聞いて愕然とした。自分がこういう立場に置かれても、まだ自分のやつた犯罪行為に対して肩章をぶら下げて、そうして幾十万の兵隊の血のにじんだ肩章をぶら下げて、傲然と兵隊の上にあぐらをかかんとするようなものは、断固として追究すべきである。戰争犯罪人は徹底的にその罪を追究しなければならない。現在もこのように考えております。
  537. 石田一松

    ○石田(一)委員 それは罪そのものですか。
  538. 高山秀夫

    高山証人 そうです。
  539. 石田一松

    ○石田(一)委員 私はどうもこの委員会において証人を喚問する、証言を求める姿の中に、何かしら今吹きすさんでおる冷たい戰争をみずから好んで国会内に持ち込んで、しかも堂々と速記録にとどめてやつているような感じがいたします。いまあなたのいわゆる主義とか、主張とか、理論を超越して、人間的な魂の底には、罪は徹底的にやるんだ、しかしその人間的なものに対するところの、いわゆる残虐というような気持は毛頭ないと思うし、もしあなたの御真意がそうであるならば、せんだつてもやはり日の丸梯団のある証人も、それと同じことを言つておる。しかも私はここでそうした感情的な、ほんとうの心の底では同じことを思つておるが、ただ立場が違うためにこうした問題を取上げて、今ここでこうしたことの証言を求めること自体が、ちようど先ほど委員長の方からお出しになりました資料の中のジヤイアンツの監督である水原君のような、いわゆる日本新聞記事になりまして、再びこれが日本新聞に出るというようなことを私は非常に危惧しておるものであります。そんなことを言うと、これは敗北主義も敗戰主義も徹底的に足腰立たないほど負けたことだけは間違いないのであります。それを負けもしないような顔をするところに間違いが生ずるので、私はこうした問題について、あなたが新聞関係であつただけに特に証言を願いたいと思うのは、このこと自体が冷たい戰争に省き込まれておる形である。しかも一方に片寄つて、この冷たい戰争を助長するような姿になりつつある。しかもソ連における捕虜に対して、反動は返すなと言つた徳田共産党書記長の要請があつたのかどうかという核心には触れないで、ソ連における捕虜の待遇がどうであつたかとか、ある証人の言によりますと、ロスケというようなことをここで言うのです。しかも委員長この言葉を注意なさいと言いますと、委員長は黙つていて、しかも証人はおれはずつと前からロスケと言つておるのだからロスケだ、これです。私は実にこの委員会の空気に危険なものを感ずるのですが、あなた自身もし今ソ連にまだ残つておる捕虜が、いわゆる連合軍あたりのおつしやる数ほど多数あつたとしたら、私はこれらの人の引揚げに相当の支障を来すと思うのでありますが、あなたはどうお考えになりますか。
  540. 高山秀夫

    高山証人 今御意見を聞きまして私自身痛感したのですが、かつて日の丸を——私は日の丸をとやかく言うものではありませんが、かつて東條一味が日の丸を先頭に掲げてやつた事実を今思い出してもらいたいと思います。日の丸梯団というのは、いうまでもなく草地大佐、これは関東軍の第一作戰課長ですが、これらが、かつてドイツが復興したのは将校が中堅になつて盛り返した、われわれもまたドィッのあの復興にならつて日本の将来の再建も将校が中心になつてつて行かなければならないというような、彼らは一連の命脈を持つてつたわけです。そうしてその中心には草地とか、あるいはヨーロッパ方面においては牧達夫だとか、あるいは芝生英雄、これは第五軍の作戰主任参謀をやつてつた、あるいは津森中佐、長命だとか、こういう連中が一連のつながりを常に持つて、そうして日本の復興は戰争以外にはない、われわれは再びソビートに復習をやるのだということを彼らは公然と言つておるわけです。そういうような連中が多数証人に立つておりますが、そういう者がどうして正しいことを言いましようか、われわれは絶対に戰争に反対し、日本の憲法の第二章に規定されておるものをほんとうに日本に実現しなければいけないと思います。現在日本にいろいろな軍事基地が設けられておりますが、そういうことに私は絶対に反対して、日本を冷たい戰争の惨撃から守ることこそが、われわれ冷たい戰争犠牲者である帰還者の最大の任務である、このように考えます。でありますから、いついかなるときにおいても戰争を挑発せんとするこれらの連中に対しては、断固たる処置をとらなければいけない。そうしてしかも今度の戰争で、われわれは天皇命令戰争に追いやられたのです。ですから当然その責任は、天皇が最高司令官であり、その責任者である天皇がこれを負わなければいけないし、戰争の指導者であつたところの三井、三菱、住友、安田これら一連の連中戰争責任者を追究しなければならない、このように考えております。しかも彼ちの証言が、一部の委員の方からはさもそれが正しいかのごとくに言われておりますけれども、私たちはこれは戰争への一つの大きな危険をはらんでおるものであるということを痛感せざるを得ないのであります。
  541. 石田一松

    ○石田(一)委員 今あなたのおつしやるような日の丸梯団の影響が、いまだソ連に、連合軍の発表するがごとき多数の人がもしいるとしたならば、幾らかでもその人たち引揚げに対していい影響を與えるか、悪い影響を與えるか、私は絶対にいい影響を與えないと思う。帰還が一日二日でも延びこそすれ、早くなることはないと思うが、あなたは新聞関係におられた立場として、どういうようにお考えになるか。  もうひとつこの際言つておきますが、ただいまあなたのおつしやつた証言の中の天皇に関する部分だけは、一応了承できません。このことだけは意見が違うのですから……。
  542. 高山秀夫

    高山証人 その意味では、このようにしてやるということは、いい影響は與えないように私は理解します。
  543. 鍛冶良作

  544. 梨木作次郎

    梨木委員 先ほどあなたは、帰つて来る前に自分はもう満洲で死んだことになつてつた、こういうふうに言われましたが、戰死の通知はどこで死んだことになつて、いつあなたの留守宅へ公式な通達が来ているのか、これをまず伺いたい。
  545. 高山秀夫

    高山証人 それは二十三年の三月ごろ、タシケントの分所で熱病で死亡した。こういうのが四八年の九月ごろ、私のうちに岡山県の世話課から届いておつたように記憶いたします。
  546. 梨木作次郎

    梨木委員 そうすると四八年の九月ごろ、あなたがタシケントの病院で熱病で死亡したという通知が、あなたの留守宅へ来ておつた、こういうわけでありますか。
  547. 高山秀夫

    高山証人 そうです。
  548. 梨木作次郎

    梨木委員 そこであなたが帰つて来られまして、その公報は間違いであるという、ことについて、当局とどういうような交渉をされ、また一体タシケントの病院で熱病で死んだという公報がどういう基礎に基いて現われたのか。これらの点について真相を究明された事実がありますか。
  549. 高山秀夫

    高山証人 岡山県の世話課の課長をやつている服部大佐は私と同郷であります。岡山県久米郡う削町の出身であります。私は実は死んだようになつてつたのですが、帰つて来たので、お父さんやお母さんがびつくりした、このことを話したのです。そうしたら、実は舞鶴の復員庁で調べたら、岡山県には君以外に高山秀夫というのがいない、それで確度は乙だけれども通知したのだ。留守家族というものは、自分の子供が死んだかどうか非常に心配しているのに、それではあまりにも無責任ではないか、その責任を、私は昨年帰りまして、十二月だと思いますが、服部さんに対して抗議したことがあります。
  550. 梨木作次郎

    梨木委員 ちよつと今のところ聞き漏らしたのですが、服部大佐は舞鶴でどうしたというのですか。
  551. 高山秀夫

    高山証人 舞鶴の引揚援護局の方の資料が県の世話課に来て、世話課からそれを君の宅にやつたのだ、こういうことなんです。
  552. 梨木作次郎

    梨木委員 そうすると、こういうように実際は生きておる者が死んだようなことになつてつて、このようなことはあなたが帰つて来られて、いろいろ折衝されたということですが、前にもそういうことは相当ありそうでしたか、そうでありませんか。その辺のところをお伺いしたいのです。
  553. 高山秀夫

    高山証人 私の知つておる範囲では、秋田県にいる吉田広君も戰死公報の通知が行つてつた。そういうようなことも私聞いております。
  554. 梨木作次郎

    梨木委員 その次にお伺いします。が、先ほど高山昇吉という方、東京農大卒業の方でありますが、この人が将校に敬礼をする仕方が悪かつたというので、それが直接の動機になつて将校連中から暴行を受けたあげく、殺されたということを言われましたが、それをもう少し詳しく話をしてもらいたい。
  555. 高山秀夫

    高山証人 私たちが入ソいたしました当時、しばしば申し上げましたように、私の大隊は三個大隊で約三千名でありました。芝生というのが私の大隊の大隊長でありました。それから渡邊少尉、これは飛行少尉です。それから宮本少尉、これは私の中隊長です。それから本宮要、これは隣の私の中隊であります。それらの百名ばかりの将校が非常に横暴をきわめておつたのです。麻雀や碁や将棋で明け暮れをし、当番使つて暖かいところで兵隊食糧をごまかして行く。そういうような状態で、私たち生命を守るための民主運動が起きて来たわけです。それで私たちコムソモリスクの収容所に入つたのは、九月の末だつたように記憶しております。高山君は勤奉隊を連れて、東満方面に入つてつたのでありますが、すぐ敗戰になつて、私らと同じように久田見の收容所に入つて、それからコムソモリスクに入つたわけです。そうして隣の中隊におつたわけです。とてもこれじややつて行けぬから、一つやろうじやないかというので、私たち志を同じゆうする者が寄つて、いろいろとこうした反動将校の横暴に対して闘う。そうした問題をしばしば検討したことがあるわけです。彼は非常に弱かつたもんですから、たしか十月の中ごろだつたと思いますが、彼は医務室に入室いたしまして、かぜで約一週間か十日前後入室したように記憶しております。そうして彼は退室して帰つて来て、日にちははつきりわかりませんが、十月の下旬だと思いましたが、将校のところにあいさつに行つたわけです。御承知のように、軍隊は退院、退室のときは上官に申告することになつてつたので、彼も一応軍隊組織の中に入つているわけですから、申告に行つたわけです。そうしたところが、かねがねわれわれとそういう会合を持つておるということを察知しておつたので、彼を非常に憎んでおつた。われわれは非常に憎れていた。そういう関係で、敬礼の仕方が悪い、そういう礼は軍隊にないからやり直せということを命ぜられて、彼はまた外に出て、そうしてノックして入つて来たわけであります。そうしたら、それも悪いからもう一ぺんやれというので、数回やらされたわけであります。そうしたところが高山君は、私はもともと軍人ではありませんし、軍隊の敬礼はどのようにやつてよいのかわからないから、私に軍隊の敬礼というものを教えていただきたい、こういう意見を出したわけです。そうしたところが、中隊長のおれに対して、貴様反抗するのか、なまいきだというので突き飛ばしたわけです。そのとき山本という軍曹かだれかが彼を連れて来ておつたのでありますが、非常に不都合だというので、彼は飛び下りて、軍隊式にびんたをとつたわけです。そうしたら高山君はたたかれるもんですから、本宮中尉のびんたをとめるために、自分のからだをたたかれまいとして腕をささえたところが、上官に立ち向つて暴行を働いたというので、そこにおつた梅本、上島、長内、こういう連中が数名寄つてげた——われわれは向うでげたをこしらえておつたんですが、それで盛んにぶんなぐつたわけです。そうしたあげく、貴様みたいな者は、日本では三十六、七から四十くらいのやつが、そういう自由主義的な考えを持つているから、今度の戰争が負けたんだ、もつてのほかだ、貴様らが教育するからそういうことになつたんだというわけで、彼を非常に罵倒したわけです。そうして軍閥があるとかないとか、あるいはいろいろそういう問題をめぐつて若干そこで討論されて、結局なまいきだというので、今度はこのくらいのことではためだというので、なわでふん縛つて、がんじがらめにして、さらにこん棒をもつてぶんなぐつたわけです。結局病気上りで非常に弱つてつたもんですから、その晩から三十八、九度の熱を出しまして、それがもとで十月の二十四日か五日ごろだつたと思いますが、高山君は遂に死んだわけです。これがいわゆる高山助教授の虐殺事件として、民主運動の初期を血で染めた悲惨な事件であります。
  556. 梨木作次郎

    梨木委員 高山さんの遺族の方へは、こういう事実は通知されておるかどうか。あなたは知つておられますか、知つておりませんか。
  557. 高山秀夫

    高山証人 帰つて来てから、東京の友だちに聞いたんですが、東京農大の方へ通知したけれども、家族の行方はわからないということで、具体的には聞いておりません。
  558. 梨木作次郎

    梨木委員 そうすると、この高山助教授に暴行を加えた人たちは、こちらへ帰つて来ておりますか。それともまだ帰つて来ておりませんか。
  559. 高山秀夫

    高山証人 そこにおつた者では、梅本少尉が一人帰つているんではないかと思います。そのほかの本宮要中尉、上島中尉、長内というのはその罪がはつきりして——われわれはしばしばわれわれの仲間を殺したのはこういうやつだという具体的な事実を上げて、ソビエト政府にお願いしたのですが、二年くらい取上げられなかつたと思いましたが、四八年の秋ごろわれわれの方から、この問題を明確にしてもらいたいというので、裁判の方に出した。四八年の十二月の下旬だと思いますが、本宮、上島、長内、この三名は、私も証人としてそのときの裁判に立会いましたが、ソビエトの刑法で処罰されました。
  560. 梨木作次郎

    梨木委員 終戰の際に日本将校、つまり関東軍将校でありますが、そのとられた態度、これらの点について、あなた方兵隊から見て、どうもけしからぬというような態度についての最も露骨なひどい点がありましたら、二、三話していただけませんか。
  561. 高山秀夫

    高山証人 私の收容所では、今申し上げたような高山助教授の事件があつたわけです。それから気合い棒をつくりまして——これはこん棒です。毎日のように宿舎をまわりまして、いろいろと兵隊が一緒に集合することすら日直士官の許可なくしてはいけないというので、気合い棒で盛んにぶんなぐつたわけです。それの犠牲者の一人として高山君が出たわけです。私たちも入室してしばらくたつてからと思うのですが、使役に出て、屋根に上れと言われたのですが、屋根に上ると足がふるえて、やはり健康でありませんから、できないと言うと、文句を言うなというので、物も言えぬくらいたたかれたことが、私自身経験があります。  それからニコライエフスクの手前の所で、阿部大隊というのがありましたが、これは佳木斯部隊がそこにおつたのでありますが、同じように将校のために二、三十名の兵隊がたたき殺された事件があります。それから第七地区のタイセットというところでは、これは四七年だと思いますが、遠藤という大尉がここの長でおりまして、同じように上野の精養軒のようなところをこしらえて、彼らだけ栄耀栄華をし、そうして彼らが実際の権力を握つておるのですから、われわれのやることに対して反対するものは帰国させないというので、まつたくさんたんたる状態であつたわけです。そうして汽車に乗せられて来る途中もちやんと指揮者をこしらえて、そこに反動的な将校が乗つてつたわけです。そうして兵隊に当然配給されるパンだとか、あるいは油だとかいうものがタバコにかえられたり、あるいは甘味品にかえられたりして、まつたく二百グラムぐらいしか與えられない。そうして大衆が怒つて、ナホトカに着いて正しい給與、つまりパン三百五十グラム、雑穀四百五十グラム、野菜八百グラム、それから油が七十グラム、肉が七十五グラム、魚が五十グラム、砂糖十八グラムという、こういう給與を受けてびつくりして、こういうのが正しい給與だつたのか、それではわれわれはごまかされておつたというので、非常に憤慨して、将校の責任を追究したというような幾多の事例を知つております。
  562. 梨木作次郎

    梨木委員 終戰時に軍隊は一つの組織が、大隊なら大隊の組織があつたわけですね。これが入ソするまでの間に相当この人員いろいろな原因で減少しているのじやないかと思うのでありますが、その減少した主たる原因、それとそれから後において、入ソするときに部隊の数字がはつきりこれだけのものは捕虜として入ソするというような手続関係、この二点について伺いたいのですが、まず最初終戰時における関東軍の、当時どれだけの軍隊がおつて、それが入ソまでにどれだけ減つておるか、その減つた原因はどこから来ておるか。これはさつきあなたはムーリン陣地で抵抗されたというような事例をおつしやいましたが、そういう具体的な事例と関連して、知つておる程度のことを聞かしてもらいたい。
  563. 高山秀夫

    高山証人 関東軍の終戦当時の数はどうであつたがは知りませんが、私は七月二十日に召集されて、ムーリンの陣地の構築に入つてつて、そこで終戰になつたわけであります。大体関東軍の司令官は、戰争は起らないという前提のもとに駐満大使として大連の方に旅行しておつた。これはあとで瀬島中佐から聞いたのですが、そういうような状態で全然準備されてなかつたわけです。しかも急遽大連から新京に帰つて来る、そうしてすぐ通化の方に移動するというような状態で、第一線に対する総軍司令部からの軍命令というものは全然ばらばらだつたのです。そうして各部隊ごとに行動して行くというような状態で、非常に多くの犠牲を出しております。私のおりましたムーリン陣地は、全戦線中で最も激烈な戰闘が行われた第五軍の正面部隊でありますが、大体ムーリンからずつと牡丹江あたりに下つて来るのに、屍が累々としておるというような非常に悲惨な状態でありました。そうしてさらに東京城から牡丹江まで約三日かかるのですが、そこを行軍して来たのですけれども、畑のすみの方で虫の息で倒れておる者、あるいはもう変色して水の中で死んでおる者、こういう者が非常にたくさん間断なくあつた言つてもさしつかえないほどの犠牲が出ております。師団司令部は一番先に自動車に乗つて第一線兵隊をほつたらかして逃げてしまつた。連隊長も逃げてしまつておる。それだからあとに残つた兵隊は、すべて自分たち行動して行かなければならないというような状態でありまして、非常に多くのわれわれの仲間がそうした不的確な命令指揮のために、また将校あるいは将軍の自己保身に汲々として兵を顧みなかつたというようなことのために犠牲が出ておる。これは瀬島中佐から聞いたのですが、通化から新京に帰つて来て、関東軍司令官の山田乙三以下幕僚長会議を開いて、そうして終戰天皇の放送に基いて停職するかどうかを約三日間も論議されたそうです。そうして十七日かに山田乙三の命令で、瀬島中佐と松村少将がマルノフスキー元帥のところへ飛行機で無條件で降服を受諾するという軍使として行つたそうです。そのときに関東軍の損害は約八万七千、このようにかれ自身が——関東軍の当時のいろいろな不十分な情報を收集したものであるけれども、八万七千の戰死者が出ておつたということをマルノフスキー元帥に報告したということを、瀬島中佐が言つておりました。それはまた日本新聞にも出たように記憶しております。
  564. 梨木作次郎

    梨木委員 そうすると終戰の放送があつて、十七日まで戰争をやめるかどうかについて、関東軍の高級幹部が相談しておつた。その間は戰闘というものはあつたのですか、なかつたのですか。その間における死傷者はあるのですか、ないのですか。
  565. 高山秀夫

    高山証人 それはともかく停職などデマだ。そういうことを言うやつは敵のまわしたスパイだというような有様でした。孫呉あたりでは内田という中尉が中島中佐に殺されたことがありました。皇軍を信じろ、これは敵を腹中に入れるためにやつておるのだ、そんなことはデマであるというので、至るところで戰闘をやり、あるいはどんどん逃げて行つた。ですから山の中に入つた者は、三箇月も五箇月も戰争が終つたということを知らなかつた部隊がたくさんあつたわけです。私たち捕虜になつて、初めて天皇命令によつて今度ポツダム宣言を受諾して、無條件降服をしたのだということを知つたわけです。私たち捕虜になつたのは八月二十八日だつたと思いますから、そのころまではまだ戦闘状態にあつたわけです。
  566. 梨木作次郎

    梨木委員 そうすると八月十七日に関東軍の方が正式に降服を申し出た。そのときまでの損害が八万七千で、その後捕虜になるまでには相当の被害があつたということをあなたも知つておられるわけですね。
  567. 高山秀夫

    高山証人 私たちは東京城へ下つて、そうしてさらに敦化の方に下つて行けという命令をもらつて、毎日山の中を行つたわけです。東寧から出て来た、逃げ遅れた開拓団の婦女子と前後して下つてつたわけなのですが、その間大密林芸で食物も全然なかつたのです。私たちは砲兵隊ですから馬を持つておるわけです。きようはどの馬を殺す、あすはどれを殺すというように、毎日馬を殺して、その馬を食糧にして、そのためにからだがはれて仕方がないので、山ぶどうの葉を食つて行くという、そういう生活をして来たわけです。ですから、下つて行く途中に、いろいろな部隊が下つて行くわけですから、たくさんの死んだ者、また私たちの中からもだんだん倒れて行つた、そういう事例を知つております。
  568. 梨木作次郎

    梨木委員 そこで捕虜として向うに入ソするときに、人員だとか、こういうものはたれが調べて、そうしてこれだけのものは捕虜になるということで向うに申し出か何かをして、そうしてここで幾ら幾らの人間、これが今後ソビエト捕虜としての扱いを受けるというようなことになつたのじやないかと思いますが、その間の手続関係はどういうぐあいにやつたのですか。
  569. 高山秀夫

    高山証人 ソビエト日本将校の間でどういうぐあいに行われたかは、私は知らないのですが、ただ私らの大隊では、柴田中尉というのが、今度ソビエト日本天皇から、軍事協定で一応われわれを預かつたのだ。そして大体千名單位で日本に帰つて行くのだというので、大体千名單位で編成されたわけです。われわれは防寒服は支給されるし、それからいろいろ食糧なんかの事情も、ウラジオに行くにしては多いのでおかしいと思つてつたのですが、帰ることは間違いないというわけで、千名單位でソビエトに入つてつたわけです。そしてウオロシロフが分岐点になつて、南に行けばウラジオ、北に行けばハバロフスクというわけですが、それでもそこで一書夜泊つて、南に行くか北に行くかずいぶん騒いだ。われわれはもうしばらく帰れぬだろうと考えておつたわけですが、将校は絶対に帰ると言う。そうして汽車がどんどん北に行つた。そうすると直接にウラジオに行かないで、まわつて行くのだということで、コムソモリスクに着いた。コムソモリスクから今度船で帰るのだと言つて将校は帰国の問題ばかり出して、われわれをごまかしていたわけです。そしていよいよ十月も来、冬も来たら、三月に帰るのだ、五月に帰るのだ、六月に帰るのだというようにして、だんだん帰国問題にからんで、反動将校がごまかしていたわけですが、その間どういうぐあいになつてあれが行われたかどうかということは、私は知りません。
  570. 梨木作次郎

    梨木委員 ハバロフスクにあなたがおられた当時、ハバロフスクに残つておる人たちは、大体戰犯容疑者と言われておりましたが、あなたの知つておる限りは、主としてどういう戰犯の容疑者が残つておりましたか。
  571. 高山秀夫

    高山証人 まず山田乙三以下関東軍の将官連中、それから七三一部隊、つまり石井四郎中将が長で、ハルピン郊外に平房というところがありますが、あそこにものすごい細菌部隊があつたわけです。そこに勤務しておつた連中、唐沢冨雄少佐とか、そういう連中、それから第五軍の、諜者を常にソビエトに入れて、鉄道を破壊したり何かしておつた荒木の婿の芝生英雄だとか、そういうものがおりますし、それから三四五部隊で、特に諜者としてソビエト行つたような者、あるいは空軍情報部といつて、飛行機でもつてソビエトに入り、そうして向うで無電でこちらの特務機関の方に連絡するという、そういう空軍特殊情報、それから特務機関、それから憲兵憲兵は国内の治安に当つたものはどんどん帰つておりますが、特に諜者を使つてソビエトに対して破壊工作をやつた者、あるいは警察官では、国内の治安に当つた警察官は別として、いわゆる特高、それから満人なんかを向うに入れて、そうして向うのいろいろな調査をするとか、そういうことに当つたような特殊部隊、こういうものが私のおつた当時は、ハバロフスクにおつたわけであります。
  572. 梨木作次郎

    梨木委員 この細菌部隊の首脳部と言われた石井というのは、われわれの聞いておるところによりますと、内地に帰つて来ているということですが、これはどうしてこういうぐあいに帰れたのか。あなたは向うでそういう情報を何か聞きませんでしたか。
  573. 高山秀夫

    高山証人 石井部隊というのは、飛行機を十台ぐらい持つて、支那方面の作戰にも二回も細菌をばらまいたそうです。関東軍に所属しておるけれども、大本営から直接命令をもらうんだ、そうして東條から直接石井中将が命令をもらつてつておる祕密部隊だ、こういうように唐沢少佐が言つております。終戰当時あそこの施設がなかなかこわれなくて、工兵隊があとで行つてぶちこわしたというような状態つたのです。石井中将はそこをそのままほつぱらかしておいて、自分の幕僚を全部つれて飛行機で日本に帰つたと、唐沢富雄少佐は言つておりました。それで彼は非常に憤慨して、実際の責任者は石井である、もしわれわれが許されて日本に帰るようになれば——石井こそ戰争責任者である、支那でも二回やつた。あるいは満洲国の建国十周年のときに、新京の郊外でペストが非常にはやつたことがある。あれは石井中将が自身で万年筆にペスト菌を入れて、どのようにきくかということをあの人込みの中で実際にやつたのだ。それから四八年の二月ごろだつたと思いますが、ハルピンで発疹チフスが非常にはやつて、ハルピンの市民は全部予防接種をやられた。それも細菌部隊がハルピンの市民、ことに満洲人を実験したのがひろまつた。そういうことも石井中将の命令でわれわれがやつたのだ。われわれにも責任はあるけれども、その責任者である石井を追究せねばならぬ。やつの帰国に対しては非常に憤慨にたえない、こういうことを言つておりました。彼は終戰と同時に、飛行機に乗つてただちに日本に帰つたのではないかというふうに、私は聞いております。
  574. 梨木作次郎

    梨木委員 石井部隊が祕密部隊だということは、どういうことですか。
  575. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 関係があるか知らぬが、なるべくひとつ簡單に質問してください。大分話が引揚問題からはずれたようですから……。
  576. 安部俊吾

    ○安部委員 議事進行について……。証人は陸軍上等兵と聞いておりましたが、その通りでありますね。
  577. 高山秀夫

    高山証人 そうです。
  578. 安部俊吾

    ○安部委員 その陸軍上等兵なるものが、そんなに軍の行動に関して詳しく知るわけがないと思うのです。これは單に聞いたことであつて、あるいはうわさを集めたことであつて、信憑するに足らぬと思うのです。この点に関して梨木委員が尋問するということは、あまり関係がないと思うのです。そういう軍事行動に関して、一上等兵の証言はあまり権威がないと思います。その点、梨木君の尋問はきわゆて簡単に願いたいと思います。
  579. 梨木作次郎

    梨木委員 あなたが帰国されるにつきまして、帰国の船の中で、いろいろな軍事的な調査をさせられたために、これに対して拒否をする、拒否をした者は上陸させないというような事実があつたと先ほど言われましたが、その軍事的な調査というのはどんなことを調べられたか、それを聞きたい。
  580. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 答えもひとつ簡単に。
  581. 高山秀夫

    高山証人 まずカードがこのくらいありまして、復員調査というのですか、その中に、捕虜になつて、それからどこの、どういう收容所を経て帰つて来たということは、われわれは復員業務に必要なことですから記入したわけでありますが、さらに別にハバロフスクの地図を書けとか、あるいはハバロフスクの君のおつた收容所、それは戰車工場なら戰車工場は一体どういう生産能力を持つておるのか、あるいは君のおつた飛行場にはどういう飛行機があつて、どこに飛行施設があつたか、こういう問題。あるいは工場労働者の数と生産能力というものについて記入せよと言われました。われわれはそれは知らないからできないと言うと、復員業務を拒否するなら上陸させない、こういうわけです。
  582. 梨木作次郎

    梨木委員 大体私の質問はこれで終ります。
  583. 田渕光一

    ○田渕委員 証人に伺いますが、第六收容所の同志会というものはどういうふうなぐあいにしてでき上つたか、つまり友の会のように下から盛り上つた会であるかどうかということを伺いたい。
  584. 高山秀夫

    高山証人 第六收容所の同志会というのはどこでございますか。
  585. 田渕光一

    ○田渕委員 ここに書いてある。一九四七年二月一日の土曜日発行の二百十四号、先ほど問題になりましたものです。その「民主運動短信」に「第六收容所同志会は先般より檄文署名運動を展開中であつたが……檄文中の決議事項は、天皇制の打倒、所内反ソ及び反動分子の徹底的撲滅、日ソ友好関係の促進である。」この決議文です。
  586. 高山秀夫

    高山証人 私の関係した收容所でありませんから、私にはわかりません。
  587. 田渕光一

    ○田渕委員 そうすると、私はもう一つ伺つておきたいのでありますが、先ほど西村委員からの再質問のときに、あなたは反動分子とは戦犯者であると言つておられましたが、ポツダム宣言の中に、連合国は日本戰争犯罪人を引渡せとはつきり言つておる。戰犯者は連合国が裁判をやつて、嚴粛な判決もあつて適当な措置をするのだが、あなたの方で戰争犯罪人を徹底的にやつたということは、証人ソ連からの命によつてつたのですか。
  588. 高山秀夫

    高山証人 だれからも命令を受けません。
  589. 田渕光一

    ○田渕委員 だれからも命令を受けないのに、何で事を好んで戰犯者の徹底的追究をやつたかということになると、この反動分子の定義が、証人の言う定義と食い違つて来るのであります。これをはつきり伺いたい。
  590. 高山秀夫

    高山証人 われわれはポツダム宣言によつて日本の非軍事化と民主化、また戰争犯罪人を徹底的に追究しなければならぬということがはつきり規定されている。今後の日本の国のあり方というものはそうあるべきたと考えておつたので再び冷たい戰争に追い込まんとする意図を持つておる戰争犯罪人は、断固追究しようではないか。今まで押えつけられておつた者がみな沸き立つて来たのですから、だれからも命令されたわけではなく、みんなの意思に基いてやつたのです。
  591. 田渕光一

    ○田渕委員 先日菅証人は、反動分子乏は完全な共産主義者でない者であるというふうに、この委員会で述べられておるのです。証人は反動分子とはどこまでも戰犯を追究したのだとおつしやられる。菅証人とあなたとの解釈は違うのでありますけれども、あなたの言われる戰犯の追究ということは、ポツダム宣言の第十條に「われらは日本人を民族として奴隷化せんとし、または国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものにあらざるも、われらの俘虜を虐待せるものを含む一切の戰争犯罪人に対しては、嚴重なる処罰を加えらるべし。」と厳粛にうたつておる。日本軍隊で武装を解除された捕虜戰争犯罪人を摘発するとか、あるいは追究するということは、ポツダム宣言に何もない。何で好んでそういうことをされたのか。証人戰争犯罪人を追究するのだとおつしやつておるが、実際の反動分子とは完全な共産主義者でない者をいうのだということとの食い違いが、われわれにはどうしても納得できない。戰争犯罪人の摘発もそうであるけれども、あなたは日本新聞によつて、どんどん共産主義を訓練されておる。これと相いれない者を反動分子としたのだとあなたは解釈できませんか。念のためにこれをもう一度伺いたい。
  592. 高山秀夫

    高山証人 われわれが戰争犯罪人を断固やれ、やろうじやないかというのは、今まで天皇命令でがんじがらめにして、軍律でしめつけられて来たわれわれが、しかも無責任に再び戰争をやるの、だというようなことを言つたら、だれだつて怒らざるを得ないですよ。むしろわれわれはそういうものを、ポツダム宣言に基いて日本の非軍事化と民主化のためにやろう。そうしてそういうでたらめなことを言う者に対してやつたら、日本の国家はおそらくわれわれをほめてくれるだろうと考えおるのですけれども、われわれが戰争犯罪人を追究したことが悪いように聞えてしようがないですよ。
  593. 田渕光一

    ○田渕委員 終戦時、あるいは戰時中における日本軍隊将校のふまじめな者は断固として追究することには、われわれ決して無関心ではない。そういう者があつてはいかぬのだ。内地におる自分らも絶えずそういうことはやつていた。決してわれわれはあなたを攻撃するのではないのです。ただそういう者はもちろんやらなければならないと思いますが、それはおのずとポツダム宣言によつて連合国がやるじやないか。それをことさらにあなたがソ連において何で反動分子の範疇に入れなければならぬかということです。
  594. 高山秀夫

    高山証人 それはわれわれはポツダム宣言に忠実に、日本の民主化と非軍国化のためにやろうという気持ですから、これは御自由に解釈していただいてけつこうです。
  595. 鍛冶良作

  596. 横田甚太郎

    横田委員 簡単に伺います。その前に議事進行についてちよつと言わしてもらいたい。確かにこの真相小説の十八集が当然参考資料になる。私が引用したのを信憑性がないと言つて、あそこにおられる頭のいい西村委員から、非常な皮肉を言われたのですが、今日お配りになつたのは……。
  597. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 証人に聞くのでなければ、証人を帰しますよ。     〔発言する者あり〕
  598. 横田甚太郎

    横田委員 それでは尋ねますが、私は引揚対策委員会におつて舞鶴へ行つたときに、私が困つたのは、ソビエトから帰つて来られる方が舞鶴へ来たならば、日本の土を見る、港を見る。だが、すぐ上りたいであろうにもかかわらず、上らない。ふしぎに思つた。上つた人は喜んで帰る。そういうときには、何か船から舞鶴の引揚寮に上るのにじやまになることがあるのですか。それを聞きたい。
  599. 高山秀夫

    高山証人 これはわれわれも追究したのですけれども、まつたくあそこは日本の領土じやないということを感じたです。あそこには二世とか、MPだとかいうものが来て、われわれが船から上るときに、三百人くらいずつ一列に並んで来るのですが、それをぐるぐるMPの乗つたのがデモンストレーシヨンをする。そういう形で威嚇するわけですね。それから上つて来ると同時に風呂に入れと言つて、われわれの立会いもなく検査をやる。そうしてそれを拒めば占領軍命令だという。それから大阪から警察官が約八百名くらい動員されておつて……。
  600. 横田甚太郎

    横田委員 証人に承りたいのは、そのことを聞くと、自由党の人がやじりたいのですから、そうではないのでありまして、船から降りられるときに何か書かして降りられないのだそうですね。
  601. 高山秀夫

    高山証人 そうです。
  602. 横田甚太郎

    横田委員 それであなたたちが書くのがいやだとか応だとかでもめる。その書く事項とは何か伺いたい。
  603. 高山秀夫

    高山証人 それは今言つたように、飛行場の数だとか、あるいは工場の生産施設とか、それを書かなければ復員業務拒否だと言う。われわれは知らないから書けないのです。
  604. 横田甚太郎

    横田委員 それからお帰りになつてから二十日間ほどどこかにおられたのは、どこにおられたのですか。
  605. 高山秀夫

    高山証人 それは九日の夜の九時だつたと思うのですが、自分以下十二名の日本新聞関係のある者がRTOの汽車に乗せられて、MPとアメリカの将校が一名と、それから通訳と復員庁の役人と警察官五名だつたと思います。これがついて特別列車に乗せられて東京駅に着いて、駅に着くと同時にジープに乗せられて、元の陸軍省の復員局の第二外来宿舎に入れられ、これは警視庁の巡査が八名、藤原巡査部長以下八名が書夜交替でここから一歩も出ることはならない。便所へも行けない。毎日のように郵船ビルに連れて行かれて、向うの軍事施設、あるいは日本新聞組織だとか、そういう問題について言え、言わなければ軍法会議にかける。そして私は暴行をも加えられたことがある。そういうような状態で約二十日間そこに監禁せられておつた
  606. 横田甚太郎

    横田委員 そのとき一昨年までは三泊四日、昨年からは四泊五日になつているということを、引揚げ業務に携わつているところの係の人たちが言いましたか、寮の中におる間それを言つたですか。
  607. 高山秀夫

    高山証人 最近の帰還者は非常にほんとうのことを書かない、だから帰さない。言うまでは幾らでもここにとめて帰さないというようなことで、おどかされたわけです。
  608. 横田甚太郎

    横田委員 あなたは四泊五日で一切の引揚げ業務が終つて、自由に家に帰れるのだということを知つておりながら、そういうふうな目にあつておられたのですか、知らずにそれをやつておられたのですか。
  609. 高山秀夫

    高山証人 われわれはそこで当然復員業務が終つたら、三日ぐらいしたら帰れるのだ、このように理解しておりました。
  610. 横田甚太郎

    横田委員 その間の食うものはどんなようなもので、衣服、住居、日当、そういうことを承りたい。もしそこで給料などをもらつたりしておりましたならば、戰前において憲兵であり、あるいは将校であつて、働くのをきらいな人たちが帰つて仕事がない。もし給料をもらつたりするならば、こういうようなことを職業にするような傾向が現われるのじやないか。私は中央公論の三月号の日の丸梯団の書つぷりを見て、何かくさいと思つたのですが、その間における食い物、住居あるいは日当、そういうようなものがあるのかないのか、ちよつと聞かしていただきたい。
  611. 高山秀夫

    高山証人 それは二十日間おりまして、大体一万七千円ぐらいじやなかつたかと思うのですが、あそこで飯代を約三千円ばかり、途中で金がないものですかちわれわれが借りたやつ、そういうやつが約千円で、四千円ばかり差引かれたと思います。そこでその問題を聞いたのですが、これは終戰処理費から当然君たちの日当としてもらえるものだというように言つておりました。あそこはものすごい、毎日五、六十人ぐらいずつ来て調へられておるようです。
  612. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 証人に対する質問はこれでいいのですか。
  613. 横田甚太郎

    横田委員 あとでまた……。
  614. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 じや済みました。長い間どうも御苦労さまでした。
  615. 横田甚太郎

    横田委員 議事進行について、あすなさいますか。大分重なつておる。これも重なつておりますし……。
  616. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あさつて板垣証人を呼ぶために、板垣君の書いたものだから参考になるだろうと思つて、十冊やつただけで……。
  617. 横田甚太郎

    横田委員 あすならやらせますね。
  618. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何のことかわからない。そんなことを抽象的に言つて……。それじや本日はこれで散会。     午後六時五十五分散会