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1950-04-04 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第18号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十五年四月四日(火曜日)     午後零時三分開議  出席委員    委員長 鍛冶 良作君    理事 安部 俊吾君 理事 小玉 治行君    理事 高木 松吉君 理事 内藤  隆君    理事 吉武 惠市君 理事 梨木作次郎君    理事 石田 一松君       尾関 義一君    岡延右エ門君       木村 公平君    佐々木秀世君       佐々木盛雄君    島田 末信君       田渕 光一君    塚原 俊郎君       西村 直己君    丹羽 彪吉君       横田甚太郎君    小平  忠君  委員外出席者         証     人         (カラカンダ地         区引揚者)   山口  茂君         証     人         (カラカンダ地         区引揚者)   小笠原唯雄君         証     人         (カラカンダ地         区引揚者)   日高  清君         証     人         (カラカンダ地         区引揚者)   橋本 忠義君 四月四日  委員菅家喜六君及び松本善壽君辞任につき、そ  の補欠として丹羽彪吉君及び佐々木盛雄君が議  長の指名で委員に選任された。     ————————————— 本日の会議に付した事件  日本共産党在外胞引揚妨害問題     —————————————
  2. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これより会議を開きます。  昨日に引続き、日本共産党在外胞引揚妨害問題について調査を進めます。証人より証言を求めることといたします。  ただいまお見えの証人山口茂さんですね。
  3. 山口茂

    山口証人 そうです。
  4. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これより日本共産党在外胞引揚妨害問題について証言を求むることになりますが、証言を求める前に、各証人一言申し上げますが、昭和二十二毎法律第二百二十五号議院における証人宣誓及び証言等に関する法律によりまして、証人証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならぬことと相なつております。  宣誓または証言を拒むことのできるのは、証言証人または証人配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係のあつた者及び証人の後見人または証人の後見を受ける者の刑事上の訴追または処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するとき、及び医師歯科医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁理士弁護人公証人、宗教または祷祀の職にある者、またはこれらの職にあつた者がその職務上知つた事実であつて黙秘すべきものについて尋問を受けたときに限られておりまして、それ以外には証言を拒むことはできないこととなつております。しかして、証人が正当の理由がなくて宣誓または証言を拒んだときは、一年以下の禁錮または一万円以下の罰金に処せられ、かつ宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処せられることとなつておるのであります。一応このことを御承知になつておいていただきたいと思います。  では法律の定めるところによりまして証人宣誓を求めます。御起立を願います。  それでは山口さん、宣誓書を朗読してください。     〔証人山口茂証人を代表して朗読〕    宣誓書   良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又何事もつけ加えないことを誓います。
  5. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 署名捺印願います。     〔山口証人宣誓書署名捺印
  6. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 こちらから聞いているときは、かけておられてよろしゆうございますが、答えられるときは委員長に許可を求めて、立つて答弁しでください。それから答弁は、こちらの聞いたことに関してのみ答えてもらいたい。しかも簡明に願いたいと思います。
  7. 山口茂

    山口証人 はい。
  8. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 山口茂さん、あなたはソ連で抑留されておられたようですが、ソ連へ行くまでの経歴の概略をまず伺いたいと思います。
  9. 山口茂

    山口証人 私は本籍山形南村山郡西郷村赤坂一〇六八であります。家は農業でありますが、そこの長男坊主として生れて、上山の農学校卒業後、自家農業に従事しておりました。そうして村の青年団長をやり、二十六歳の六月に大連に渡りまして、関東局警察官を拝命しまして、勤務箇所大連水上警察署でありまして、そこの特高をやつておりました。十九年の三月十日、在満補充兵の第一回の召集にあたりまして、綏西の野砲に召集になつたのでありますが、当時憲兵が手不足なために、憲兵隊の方に転属になりまして、興安総署興安憲兵分隊転属になりまして、憲兵下士官と同じように犯罪の捜査をやつておりました。二十年の七月十二日、北鮮に新しく扶翼師団が編盛なるというので、またまた扶翼師団の方に憲兵の方から転属になりまして、あそこで陣地構築をやつている最中に停戰の大命を拝しました。
  10. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでまずどこへ入つて、どこを経て帰還になつたか。それまで。
  11. 山口茂

    山口証人 最初停職の報を聞きましたのは、北鮮羅南から少し下りました三合里というところでありますが、そこで捕虜になりました。そうして三合里の収容所に約二箇月間入りまして、それから北鮮の港に近いところの興南、ここにやはり二箇月滞在しました。そうして十二月の二十五、六日ごろでしたかに、柳亭里という小さい港があるのですが、そこに移動しました。そうしてそこで翌年の四月の末まで、ソ連は満洲並びに北鮮平和物資を全部かつぱらつた。このかつぱらつた糧秣被服昭和製鋼所の解体した機械日本窒素の解体した機械、こういうものの船積みの作業をやらされたのであります。そうして二十一年の六月に日本に帰るんだとだまされまして、船に乗つたのでありますが、着いたところがポゼツトでありました。ポゼツト集結地に約二週間ほどおりまして、ポゼツト出発は六月の二十五日であります。そして着いたところはウズベツクスタンタシケント第五収容所であります。タシケントの第五収容所にずつと長いことおつたのでありますが、昭和二十三年の九月一日、タシケントにおりました一万近くの人間がほとんど帰りまして、特殊な者だけ収容されたのであります。それは第九収容所であります。第九収容所に四箇月ほどおりまして、二十四年の一月二十三日、ウズベツクスタンアングレンという炭鉱町に転属させられました。そうしてそこで作業をやつてつたのですが、九月の四日にいよいよ内地一帰るということを言われまして、貨車に乗つたのでありますが、九日目に着いたところは今問題になつておりますカラカンダの第九収容所であります。そこには九月十三日に着いております。その第九収容所に去年の十一月の十一日までおりまして、十三日にカラカンダの第十五収容所転属になりまして、その翌年の一月の末に十五収容所を出まして、ナホトカには一月の二十日に着きました。二月の六日にナホトカを出港いたしまして、舞鶴に着いたのが二月の九日であります。
  12. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 帰られてからは別に何にもやつておられませんか。
  13. 山口茂

    山口証人 家が農業でありますから、お父さんの跡を継いで農業をやつております。
  14. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 今言われた日本に帰すとかいつてだまして乗せたというのは、たれがそれを聞かせるのか。
  15. 山口茂

    山口証人 アングレンの場合ですと、全員集めまして、お前らは今から日本に帰るのだ、それで髪を伸ばしておる者は全部つめと言われまして、伸ばしておつた髪を全部坊主にされました。そうして貨車に乗つたのであります。その前に今までもらつたことのない、つまらない服でありますが、ジユバン、袴下と、夏ですからロスケのあの薄い夏の作業衣袴をもらいまして、そうして乗つたのでありますが、どうも貨車に乗つてみますと、状態がおかしいのであります。
  16. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 帰すというのはたれが言うのか。
  17. 山口茂

    山口証人 これは崔という鮮系の通訳がおるのですが、その通訳所長の……。
  18. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 所長が言うのか。
  19. 山口茂

    山口証人 政治将校がおります。あのときタシケントから政治部の少佐が来ておつたと思います。
  20. 鍛冶良作

  21. 山口茂

    山口証人 カラカンダ行つたときの状況を申し上げます。十五日の前の日に、明日全員召集があるというので、全部に通知がありました。これを二回にわけて集合いたしまして、私がちようど第一回目の口に入つてつたので、九時四十分ごろクラブといいますか、民主グループの方で劇とか映画なんかをやる劇場があります。そこに私が行つたときは、すでに八〇%入つてつてうしろの方でした。そうしておるうちにロスケ将校が来ました。こういう階段が一メートルくらいの高さになつて傾斜になつておりまして、ここにテーブルが置いてありました。私は行つて間もないので、政治部将校の名前はわかりませんでした。
  22. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 私の言つておるのは、日本に帰してやると言つてカラカンダに持つて行つたでしよう。そのうそを言うのはたれかというのです。
  23. 山口茂

    山口証人 このうそロスケ常套手段で、いつもこれです。
  24. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これからカラカンダへ移行すると言つてもよさそうなものですが、日本に帰すと言わなくてはいかぬ理由が何かあるのか。
  25. 山口茂

    山口証人 私は帰してやると言われて、だまされて汽車に乗せられたのは初めてですが、はなはだしいのになりますと、四回くらいあります。全部帰すんだから署名しろと言つて、平服をもらいまして、日本に帰ると思つてつたところが、よその地区だつた。三回くらい帰すと言つてだまされた人間があります。
  26. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何でだますのか、それはわからぬか。
  27. 山口茂

    山口証人 われわれの考えでは、行先をはつきりしてもらつてもいいはずなんですが、とにかくあそこは秘密を重んずる国といいますか、まともなことを何一つ言つておりません。
  28. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこで今あなたがちよつど言いかかつたが、カラカンダ収容所徳田要請なるものを聞かされたということですが、そういう事実はありましたか。
  29. 山口茂

    山口証人 ありました。
  30. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何年何月何日ですか。
  31. 山口茂

    山口証人 昭和二十四年九月十五日であります。
  32. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういう内容のものを聞かされましたか。
  33. 山口茂

    山口証人 最初国際情勢という政治部将校の話がありました。それは支那の解放軍が成功した事例や、それから次に所内の作業生活規律というような話がありまして、最後にお前らに質問事項がないかということを言つたのであります。このときにちようどこれが階段ですと、私がこつちの後の方におりましたし、質問したうちの一人がこの辺におつたのですが、峯田恒次というのは興安特務機関におりまして、陸軍軍曹であります。これはちようど私と同県人であり、また私の郡なので、特に親密にしておりました。この人間が、われわれはそちこちで帰るのだ帰るのだと言うて、いつもだまされて来ている。われわれの一番関心を持たれるのは帰国の問題だということを言いました。それに続きまして、憲兵軍曹阜新憲兵隊におつたと思うのですが、これもやはり反動で友だちですが、植松という軍曹が、十一月一ぱいで返すということを五月ごろソ連政府が声明しているが、はたしてわれわれを返すかどうかということを質問したのであります。そのときは、もう所長代理が来ていました。話の途中に入つて来て、正面にすわつたのでありますが、そのときはすでに所長代理がすわつておりました。そうしたらあれが立ち上りまして、それは反動には適用しない、お前らが帰りたかつたら、りつぱな民主主義者になつて帰れ、というのは、実は日本共産党書記長徳田球一の名において、反動は返さぬで青くれというソ連政府依頼が来ている。こういうことをはつきり言いました。
  34. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 帰りたければりつぱな民主主義者になれ……。
  35. 山口茂

    山口証人 そうです。日本共産党徳田書記長です。いや徳田球一の名において、ソ連政府反動を返してくれるなという依頼が来ている。
  36. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは何か手紙でも読んだのですか、ただ口だけですか。
  37. 山口茂

    山口証人 口だけです。手紙の件は次に話します。
  38. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ちよつと先ほど言われたが、それは今言う所長代理が口で言つて、これを菅通訳通訳してあなた方に聞かせたのですか。
  39. 山口茂

    山口証人 所長代理でなくて政治将校です。菅がこれをノートしておつたのですが、その説明が終ると、ここにすわつてつたのですが、五、六歩前に出て来て通訳しました。
  40. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その要請を聞いて、そこにおつたものに相当シヨツクを與えましたか。どうでした。
  41. 山口茂

    山口証人 私が後の方におつたのですが、大分ざわざわと何かささやいたという感じが多くありました。
  42. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはどれだけほどおつたのですか。その中に入つてつたのは……。
  43. 山口茂

    山口証人 入つてつたのは、私の概算ですが、三百五十名そこそこあるいは三百五十名以内かと思います。
  44. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そのこそこそ言つているというのは、それはひどいことを言つて来たものだとか、たいへんだということか。
  45. 山口茂

    山口証人 私は前にグループに入らなければ帰れないというような頭で入つたのですけれども、アングレンに残つておる者は、警察官憲兵特務機関協和会、それから反動の大物、こういう構成なので、その人間はいくら民主運動をやつても帰れないのだ、どうせ帰るのは一緒だという頭がアングレン当時、あつたものですから、その後同盟から抜けた人間も非常に多いのです。この人間はいわゆる意思の弱い人間であります。ことにその次の日入会を申し込んでおりますから、おそらくそういうささやきをしたのも意思の弱い人間だと思います。私の知つておる人間でも、今まで入つておらぬで、その話を聞いて人つた人間がおります。
  46. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは何に……。反フアシスト委員会か、民主グループか。
  47. 山口茂

    山口証人 民主グループです。最近は同盟言つてつたようです。
  48. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何同盟ですか。
  49. 山口茂

    山口証人 民主委員会最初民主グループ言つたのですが、あとから同盟同盟言つてつたのです。たしか民主同盟だと思います。
  50. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何か徳田書記長からの要請という書簡の伝達式があつたと言う人があるが、それは今あなたが言われたのを言うのか。
  51. 山口茂

    山口証人 違います。
  52. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そのほかにまだ何かあつたのか。
  53. 山口茂

    山口証人 あります。ソ連の規定で、各共和国の国境を越えると、二十日間のカランチン言つて仕事を休ますことになつております。それで十三日につきまして、十月四日まで半分くらいの人間は休んだのでありますが、十五日に全員集合がありまして、今申し上げました所長代理の話がありました。そうして次の日も全員集合がかかつたのであります。というのは……。
  54. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 すると、さつきの話は、九月十四日だつたから……。
  55. 山口茂

    山口証人 いや十五日です。そうして十六日に全員集合がかかつたのであります。みんなに呼びかける題名は、きよう徳田書記長からの葉書伝達式があるから、全員集まれ……。そのとき私はちよつとかぜ気味つたので、私は最後に、終るころ行つてみました。そうしたら、終つてみんながどやどや帰るのとあそこの入口会つて、そのまま帰つて参りましたので、その詳細を知りませんが、その葉書食堂入口ピンでとめて張つてありました。あそこは三百五十名そこそこしか収容しきれないところで、当時九百五十名おつたものですから、その席上に出ない者のために、食堂入口に黒板があるのですが、そこにピンでとめてありました。約一週間くらいとめてありました。私はその内容を二、三回読んだのでありますが、はつきり字句の記憶はありませんが、みんな社会主義優越性を十二分に学んで帰つて来てくれ、こういう意味の葉書でありました。差出人は徳田球一という字が、はつきりこれは書いてありました。
  56. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 伝達式というのは、その葉書を見せる式だつたのか。
  57. 山口茂

    山口証人 そうです。
  58. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 見せたあとで、そこに張つておいた。
  59. 山口茂

    山口証人 私が聞いた話ですけれども、何かかつて日本詔書奉読式、そう言つてはあまり大げさになりますけれど、その集まる前の話では、政治部将校から徳田球一がよこした葉書クラブ指導者伝達をする。そうして指導者がそれを読み上げて、そこでみんなに一つのアジをやるわけです。われわれの徳だ書記長からこういう要請が来ておるから、われわれはそれにこたえなくちやいかぬというようなアジをやつたそらであります。これは出席した人に聞いたのであります。
  60. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 久保田善藏という人は知つておりますね。
  61. 山口茂

    山口証人 久保田善藏知つたのは、二十四年一月二十三日、私がアングレン転属になつてから知つたのであります。
  62. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ナホトカでも一緒つたんですか。
  63. 山口茂

    山口証人 あれが久保田善藏だということをアングレン当時聞きましたが、何せ彼は民主委員長をやつてつて、いわばわれわれとは反対の立場にあつた方ですから、一言も口はきいたことはありません。初めて口をきいたのはナホトカに来でからであります。
  64. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ナホトカではどういうことがありましたか。
  65. 山口茂

    山口証人 ナホトカに来て、久保田善藏という人間に対して私がずつと見てみますに、いわゆる世渡りが上手だという一言に盡きると思います。向うにおつて民主グループ宣伝部長をベグワードでやつたそうですが、アングレンに来て間もなく、ソ連側の命令によりまして、民主委員長が交替になりました。そのあとがまにすわつたの久保田善藏であります。
  66. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ナホトカに来てからはどういうことがありましたか。
  67. 山口茂

    山口証人 もうちよつと言わせてください。そこで民主委員長が首になりまして、それからカラカンダに来たときには、いわゆるひより見主義というような態度でおりました。しかしナホトカに来てからの久保田氏の反動ぶりは相当強硬なものがありました。それでグループの方でも相当久保田を警戒しておりました。やはり私と同じように、ナホトカに来てからは相当辛辣な反ソ反共的な言動をを吐いておりました。
  68. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 久保田氏が船に乗つてから、日の丸梯団の結成を提唱したそうですね。
  69. 山口茂

    山口証人 そのことについて申し上げます。ナホトカに私がおつたときに、私の反動性というものを久保田は十二分に知つてつたはずです。ナホトカでは朝起きるときから、やれ吉田内閣を倒せとか、そういう不可思議な歌と踊りをやつてつたんです。
  70. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 久保田さんがですか。
  71. 山口茂

    山口証人 いや、グループの者がです。それでわれわれはそれをやらぬのです。久保田氏も歌も踊りもやりませんでした。ナホトカに来てから、久保田氏の方から私にいろいろな話をするようになつたのでありますが、ある日のこと、ナホトカに着いてから七日か八日目ころだつたと思いますが、山口さん、話に来ませんかと言つて、彼のバラツクに私を案内したのであります。そこで久保田が私に言うのには、大連当時のいわゆるやくざの前田という私の兄貴が、現在京都でダンス・ホールをやつている。この男は終戰直後五十万の金を持つてつているはずだから、この人間に金を借りて、京都でおれは久保田一家の地盤を築く。それで船内から久保田一家をつくつて行きたい。それであちこち物色しているから、山口さんはその相談役になつてくれんかというようなことを依頼を受けたのであります。その後久保田氏が私に言うのには、とにかくあんたが船に乗つてから、まず第一番に事務長のところに飛んで行つてくれ、そうして今度乗船する者はハバロフスクを主眼としたもので非常に民主主義の観念が強い。それで船長を船の中でつり上げもするだろう、また糧秣なんかも、船の者にまかしておつてはごまかされるから、これもわれわれの手でやるということを言つて恐怖心船長らに持たすような話をしてくれんかという話でありました。そうしてその話をした後に、実はこの船に久保田善藏という大連で暴力団をやつてつた者が子分二十名くらいを連れて乗り込んでいる。この久保田軽めば、ほかからとやかく言われることがなくて済む。そういうことを事務長に話に行つてくれということをぼくに言つたのです。そうしていよいよ久保田事務長なり船長なりとここで会う。それで久保田船長会つた場合に、二十名の者は別個にきれいな船室をもらつて、うまいものを食べて、タバコなんかもよけいもらつてやるからということを私に相談したのであります。そうして舞鶴収容所に着いてからも、みな隔離されておるが、船長の方から手をまわしてもらつて、自由に外出させてもらえるようにおれがとりはからつてもらう、そういうことを私に言うたのであります。きようも来ておりますが、小笠原唯雄さん、それから尾崎光明という憲兵軍曹、この人たちアングレンで八箇月ばかり同じ工場に行つておりました。これは二十何名の職場でありますが、この職場職場の中でも一番反動の粒ぞろいの人間だけでありました。普通の職場行つて反ソ、反共的な言動を吐きますと、すぐ中傷されるのでありますが、反動ぞろい職場でみなかつてなことを言つておりました。そのとき私は尾崎軍曹によしたとい人数は少くても、二十名でも三十名でもよいから、赤に苦しめられた人間だけで日の丸を持つて上陸しよう。上陸したらただちに皇居遙拜をやつて、われわれが健全なからだで日本の土を踏めたということを御報告しよう、そういう話をアングレン当時から私はしておりました。尾崎軍曹とはナホトカに来てからも二、三回その件で会つております。それなのに久保田から私がそういう依頼を受けたので、非常に困つたのであります。もともと私はそうした不純なものに賛成するという気持は全然ありませんでした。それでさつそく尾崎に、困つた、実は久保田が来てくれと言うから行つたら、こうこうこういうふうに久保田は考えておるのだということを私は話したのであります。それからもう一人話しました、山口民二という阜新の市長をやつた方でありますが、この人にも、きよう久保田から呼ばれてこういうことを依頼を受けた。われわれは二十名でも三十名でも、赤に対抗して日の丸をつけて上陸しようと思つておるのに、ここで久保田一家ができ、われわれの日の丸ができ、ここに一番大きな勢力であるところの民主グループ、こういう三角関係になる。これはまずいというふうになりまして、單にこれは赤と対抗するために、船中だけだから合流しようじやないかというふうに話がまとまつたのであります。それでわれわれとしても、久保田は前に中村八つちやんとでばぼうちようで果し合いをやりまして、けんかするとすぐさま刄物三昧というので、みな非常にこわがつてつたのであります。それでいわゆるはれものにさわるように、なるべく近寄らぬような気味でおつたのであります。それで久保田向うにまわしたら、われわれとしても非常に不利だという頭があつたのであります。どうせこれは船内だけだから合流しようというので合流したのであります。
  72. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それが船内のいわゆる日の丸梯団と言われるものですね。
  73. 山口茂

    山口証人 そうです。
  74. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこで舞鶴におりてから、徳田要請について日の丸梯団なるものが参議院べ懇請して来たそうですが、その状況をできるだけ簡單に……。
  75. 山口茂

    山口証人 その前にカラカンダ反動を帰してくれるなという依頼徳田球一から来ておる。その直後私はこういうふうに感じました。これは関連性がありますからしやべらしてもらいます。このソ連政治将校はおつちよこちよいだというふうに考えたのであります。その直後であります。たといそういう依頼ソ連政府行つてつても、この大衆を集めた中で公表をすべきではない、これはお互いに秘密にすべきであるというふうに感じたのであります。それでこれも反動でありますが、このことを青森の高松少尉にも話したことがあります。舞鶴に来てから、たしか私が口火を切つたのじやないかと思いますが、それははつきりしておりません。本部におりました宮城の佐々木五郎、あれが闘争委員長をやつておりましたから、たしか私がそれに話したんじやないかと思うんですが、カラカンダ当時から、すでに私は日本に帰つたらこれを問題にしてやるという決心を持つておりました。高松少尉と九州の上田力という人がおるのですが、この人に、私はさつき申し上げましたようなことを言いました。その点はつきりしませんが、私が口火を切つたように考えておる。のであります。それで久保田がそれじやあそれを口火にしようと言つて、山森に原稿を書かしたのであります。そうしたらあすこの共同新聞ですか、新聞記者が来て、盛んに原稿なんかを写して行きました。ところが小笠原——これは憲兵中尉で、当時日の丸梯団の副団長でありますが、これを全国にあれするには、この文章ではあまり拙劣である。文句がまずいというので、そら急がぬでいいのだから、もう少し内容を審議しようと言つて、そうして内容、文句をつくりかえたのであります。その当時小笠原さんは私に、どうも久保田氏は自分のことを盛んに宣伝しようとしているように見えるということを申しておりました。そうして全員を集めまして、この原稿を日の丸梯団全員の名において、衆議院と参議院の方に懇請書を提出するということになりまして、私は当時三中隊長であつたけれども、本部のだれがそれを持つて行くかというようなことについては、全然相談を受けておりません。それで久保田氏と柳沢が一日早く出たはずです。
  76. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 さらにこれに関して署名運動か何かやつたことがあるんですか。
  77. 山口茂

    山口証人 私が県に帰つてからでありますか。
  78. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これはあなたがやつたのか。
  79. 山口茂

    山口証人 そうです。この徳田喚問問題が大きく取上げられた。そのときに私がひよつとラジオを聞いたら、その問題に対して日本共産党では、それは事実無根だ。これは共産党に対する謀略だという声明をしたように記憶しております。それで私は、そうしたものをはつきりカラカンダで聞いておるだけに、これに対して非常に憤慨したのであります。結局これは証拠がないんだし、証人の数をよけいにすることが必要だ、こう感じたのであります。それで状況から言いまして、当時九百名おつたわれわれの第九収容所の中で、大体七百名近くの八開が、私らの船の前の船で帰つて来ております。その人間は全然署名をしておりません。それで前の船で帰つた山形県内の人間に、私ははがきを出して呼びかけたのであります。上山温泉の川嶋屋に十二名のうち十名集まりました。それではがきを出すときに、もし都合が悪くて来れない場合には、委任状をくれと言うて通知したために、一人は電報、一人ははがきで全部委任状をよこしております。それで先に四十四名署名しておりますが、これを全国に先がけて証人の追加運動をやろうと言つて、私がやつたわけであります。これをやることによつて、全国にばらまかれておるところの、その話を聞いた人間であつて、しかも署名していない人間が続々と私と同じような運動をやるのではないか、そういうねらいのもとにこれをやつたわけであります。
  80. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたはこれを衆議院議長あてに書いて出したようですが、これは今言われたのと違うのですか。これは山形県の人ばかりですね。
  81. 山口茂

    山口証人 そうです。
  82. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これはみな自筆で署名したんだろうな。
  83. 山口茂

    山口証人 自筆であります。
  84. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そのほか、そういうものをだんだん募ろうと思つてつた、こういうわけですね。
  85. 山口茂

    山口証人 私がやつたのは、山形県内のものを全部まとめました。しかしまだ話を聞いて署名をしていない人間がありますから、これはわれわれといわゆる思想が違う人間でありますから、もちろんこれに署名するはずがありません。ですからそういう人間には呼びかけずに、いわゆる私と考えを同じくする人間、こういう者のみを集めまして署名しました。
  86. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これはその人たちだけですね。
  87. 山口茂

    山口証人 そうであります。
  88. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 十二人ですね。
  89. 山口茂

    山口証人 そうです。
  90. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこで、ここに書いてある日本共産党書記長徳田球一の名において、反共思想及び非共産主義者を日本に帰さずに教育を徹底してくれと、徳田球一より依頼された云々、これは間違いありませんか。
  91. 山口茂

    山口証人 間違いありません。
  92. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 先ほど言われたのもこの意味だつたのですね。
  93. 山口茂

    山口証人 そうです。
  94. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 よろしゆうございます。何かはかにお聞きになりますか。
  95. 西村直己

    ○西村(直)委員 一点だけお聞きいたしますが、先ほど二回目に話された、十六日に徳田書記長のはがきの伝達式があつたが、あなたは出なかつた。だが食堂入口にはがきが張つてつた。そのはがきについて記憶をひとつたつていただきたい。そのはがきはどういうはがきであつたか。たとえば万国赤十字の名において日本の留守家族に配られてあつたそのはがきか、それとも他のはがきか。その点記憶を呼び起してください。
  96. 山口茂

    山口証人 はがきには全部裏、表がありますが、あて名を書いたその方を見ますと、そういうことがわかるのですが、その方は全然裏にしまして、文句の方だけピンでとめてあつたものだから、全然ひつくり返して見ません。というのは、そういつたものに対してわれわれが裏でもひつくり返すということになると、それは相当大きな問題になるのです。
  97. 西村直己

    ○西村(直)委員 そうすると、そのはがきは大きさは普通のはがきですか。
  98. 山口茂

    山口証人 大きさも現在日本で使つておるものと全然かわりはありません。
  99. 西村直己

    ○西村(直)委員 これは記憶があるかどうかわからぬが、墨で書いてあつたのですか。それとも万年筆で書いてあつたのですか。
  100. 山口茂

    山口証人 万年筆であります。これははつきりしております。
  101. 西村直己

    ○西村(直)委員 これはもちろん日本文で書いてありましたか。
  102. 山口茂

    山口証人 日本文であります。
  103. 西村直己

    ○西村(直)委員 漢字と平かなを合した……。
  104. 山口茂

    山口証人 はあ。
  105. 島田末信

    ○島田委員 昭和二十四年の九月十五日のカラカンダ収容所で、政治将校から皆を集めて言われたということでありますが、その政治将校はもちろんロシア語で言うたのでしようね。
  106. 山口茂

    山口証人 政治将校はロシア語であります。それを菅が朗読しておりました。
  107. 島田末信

    ○島田委員 ロシヤ語自体はあなた方には了解できませんでしたか。
  108. 山口茂

    山口証人 私はロシヤ語は、普通の單語の少しくらいはわかりますが、そういつた込み入つたものは全然わかりません。
  109. 島田末信

    ○島田委員 それでは原語と通訳とが全然一致しておつたかおらなかつたかということは、はつきりわからなかつたのですね。
  110. 山口茂

    山口証人 そういう点についてはわかりませんが、しかしあの菅という男はアクチーヴの人間ですから、向うの言うことを曲げて通訳するということは全然考えられません。
  111. 島田末信

    ○島田委員 大体原語通り通訳されたものと考えるわけですか。
  112. 山口茂

    山口証人 そうであります。
  113. 島田末信

    ○島田委員 あなたの記憶にある限り、そのはがきの内容をできるだけ詳細にお述べを願いたい。
  114. 山口茂

    山口証人 それはみんなの眼にとまるように張つてつたのです。というのは食券をもらいまして食堂に入りますと、その入口で判をもらうのです。これは一箇月分線が引いてあるのですが、そうしてそこでずつと並んで、ここに炊事がありまして、ここで飯をもらうのですが、ここに黒板があるから、たいがいの人間ははんごうをぶら下げてそこを通るのです。その黒板に張つてつたのですから、みんな見ておるはずです。私の記憶としましては、ソ連におる間、しつかり社会主義優越性を身につけて帰つて来いというような意味だつたと記憶しております。私も二、三回それを見たのですが、こういう大きな問題になるのでしたら、あるいは。暗記して来るか……。(笑声)
  115. 島田末信

    ○島田委員 それから徳田要請、いわゆるそのはがきを見たり、政治将校から言われたときに、いろいろ動揺したというお話ですが、それに対して不平不満を持つた方々は、大体収容された人員のうちでどれくらいの率だつたと思いますか。
  116. 山口茂

    山口証人 結局不平不満を持つたのは、私なんかそのとき半ばすてばち的な気持になりまして、反動山口と言えば、大体知らない人はないくらいでありました。それがいまさらそういうような話を聞いたからといつて、絶対帰れない。しかしいずれ帰れるには帰れるだろう、まあくそでもくらえというすてばち的な気持になつたのでありますが、そこで意思の弱い人間が、次の日あたりたしか申込みをとつたのではないかと思いますが、相当入つてつたと思います。そういう人間が動揺していました。私の知つている人間でも、現にその話を聞いた人間が出人おります。それできのう私に手紙をよこしまして、実は考査委員会の方から電報をもらつておるのだけれども、からだの都合が悪くて行けない、よろしく頼むということでありましたが、現に私の知つている人間で、それまで入つておらないで入つた人間が、私と同じ郡におります。
  117. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 大体あなたの方は、反動としてやられておるもののところで聞かされたのでしよう。
  118. 山口茂

    山口証人 その中にはグループ員も反動も全部おるわけです。九百五十名を大体二回にわけて活をするという予定でしたけれども、ロスケのやることはたいていそんなことです。たとえば二回でやると言つても、一回で終らして、あとは来ないむのにお前伝えろというやり方ですから、そのときもその式でありました。
  119. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 はがきのことですが、もちろん文句はよく記憶していらつしやらないだろうと思いますが、その字体はこまかい字で書いておられましたか。それとも相当大胆に書くような字でしたか。私も徳田君の字はよく知つているのですが、どういう特徴があるかわかりませんか。
  120. 山口茂

    山口証人 その字体は私ははつきりわかつています。こつちの方に七列か八列で、伸び伸びした字で、漢字なんか、少し角のとれた借書で、伸び伸びした字でした。
  121. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 非常に伸びた字を書くのが徳田君の特徴ですが、字は割合うまいなあという感じはありませんでしたか。
  122. 山口茂

    山口証人 そうですな。まああの程度書けるんでしたら、うまいと思います。
  123. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 それからもう一つお聞きしたいのは、そうすると、あなた方が日の丸梯団というものを結成したのですが、あなた個人の考えとしては、日の丸梯団というものは純真な気持でおやりになつたが、また一方久保田善藏という男は、それを利用しようとかかつたということをあなたは考えられますか。
  124. 山口茂

    山口証人 久保田自身も船内ではそこまでおそらく考えていなかつたと思います。ところが船の中で、すでに看護婦さんから、この前帰つた船でも日の丸梯団というものを組織いたしまして、みんなここに日の丸梯団の腕章をつけたということを聞いて、それじやみんなもここのところにつけようということになつたのですが、それが舞鶴に来て、新聞記者が飛んで来たり、いろいろするうちに、日の丸梯団の待つ大きな意義というものが久保田自身もはつきりつかめたのではないかと思います。それでこれをバツクにして、ああいういわゆる世渡りのうまい男でありますから、ここでひとつ名前を売つて、事業資金でも何とかできるような顔になろうという下心があつたことは、十二分に私は推察できます。
  125. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 もう一つは、あなたが帰られましてから積極的に、徳田要請というものは日本国民として引揚者に対する一つの妨害運動であり、こういうものはけしからぬという考え方で、先ほど来何名かの署名までとられたのですが、そういうことをやつているときに、あなたの山形県における共産党の方から何かお話があつたり、あるいはそれに対しての妨害——でもないと思いますが、何か話合いがありましたか。
  126. 山口茂

    山口証人 それについて、山形県知事が忙しいので高山副知事に、私がうちに帰つてから七日目に、在ソ中、これは事実でありますが、私はお前みたいな反動は十五年帰さぬとはつきり言われております。それで帰つて来たら、とことんまでおれは共産党と闘うという決意を表明に行つたのであります。そうしたら、すでに私が行く何に、日の丸梯団の大隊長で帰つて来た山口が、今度何か政治運動をやるらしいが、何か手続をしているかというようなことを、私が行く前にすでに高山副知事の方に言つているそうであります。それから四、五日しまして私はまた行つたのでありますが、そのときに高山さんいわく、あなたのところに共産党から脅迫状か何か行きませんでしたか、こう言うのであります。いや、この点は私の父なんかも心配していますが、私の考えでは、もし来たつて、たとい私の家へ押しかけて来ても、言論はあくまでも自由であるし、私は川年、五箇月社会主義の国ソ連であのぶざまな姿を見て来ているから、絶対共産主義に反対だ。言論も自由であるし、君らのおせつかいは受けないと言つて、つつぱねるつもりでおつたのです。ところが高山さんは、あなたのようにはつきりした態度で臨んでおるといかぬのだなあ。実は私の知つている範囲内で、相当尾行されたり、おどかざれたりした人間がいる。そういう話をしておりました。私が山形に着く。早々、百三十万県民ありがとうというメツセジやら、それから山形駅前でいわゆる日の丸梯団を代表してあいさつした私しれ向うの方のあいさつと、駅前で大分やつたのです。というのは、酒田駅まで山形県の代表の方が迎えに来たのですが、その代表の方が、実は山形駅で十分間乗りかえの時間がある。それで私の方としては、山口さんの方から県庁の役人とかいろいろな人が来ておるから、あいさつをしてもらいたいという話を聞きまして、承知しました。しかし赤の方でも何とか言いはせぬかと言いましたところ、案の定、こつちでもあいさつしたいということになつたのであります。それじやというので、県の方が中に入つて、わけて短く二人でやつてもらうということにたつたのでありますが、酒田から鶴岡とまわつた間、途中でおりましたから、赤の方が十二、三名と、日の丸の方が五名しかおりませんでした。これが駅前に並びまして、最初向うの代表の細谷君があいさつしたわけであります。そのあいさつの内容は、われわれがこうした健全なからだで祖国の土を踏めるのも、ひとえにソ同盟の闘いのおかげである。こういうあいさつをしたのであります。私がそのあとにまわりまして、日の丸梯団を代表してあいさつをすると言うて、二十世紀の生けるしかばね、いわゆる重労働にむちうたれ、豚や牛の食い物を食わされたという私がほんとの二とを言つたのであります。そうすると細谷君がぐるつとうしろを向いて、今のは違うと言う。何だ貴様、文句があつたら来いと駅の前で私はやつたのであります。そんなことが新聞に書かれたために、私の態度というものは山形に清く早々鮮明になつております。そんな関係で、そうした脅迫とか、そういうものは全然出て来ておりません。
  127. 木村公平

    ○木村(公)委員 証人にお尋ねいたしますが、直接に徳田要請にあるいは関係がないかと思いますが、あなたがソ連へ連れて行かれて帰られるまで、絶えずいわゆるソ連の言うところの民主化に迎合すれば帰してもらえるというような気持を抱かれたことであろうと思いますが、いろいろの職場において、日にち等はもちろん不明であつてもかまいませんが、たとえば仕事をしているうちに、だれかアクチーヴになつた者からこう言われたとか政治部員からこう言われたとか、あるいは絶えず同僚のうちで、自分は本心は共産党員じやないけれども、共産党と口を合せなければ帰れないから、君も一つどうだ、共産党に入党しないかといつたような、具体的な二、三の話を伺えませんか。
  128. 山口茂

    山口証人 私がタシケントの第五収容所におつたころでありますが、この私のおつたタシケントの第五収容所というのは、タシケント市内でも一番反共思想が強いというので、それまで仲よしクラブというのをつくつて、これはソ連側でそういうグループをつくれと言われるので、しかたなくつくつてつたのでありますが、ところが中央の方から来まして、このタシケントの第五収容所は、タシケント内でも一番反共思想が強いというので、今までの仲よしクラブを全部解散しまして、ここに中央部から淺野という男と、本間という二人の強烈な民主主義者が乗り込んで来まして、それからやり出したのでありますが、私のそばには、横浜の高工を出た男で、大畑正二という男がおります。これは年も私と同じでありますが、この男は壁新聞の絵とか、民主新聞の宣伝の絵を描いて、仕事に出なくて、収容所に残つてつたのでありますが、これが私の寝台のそばへつきつきりでありました。夏時分になつて二階の方にかわりましたら、その男も私のそばにかわるという状況で、何とかして私の反ソ、反動言動をとろうと思つて、三箇月くらい私の寝台のそばにつききりでありました。もう一人、青年同盟の者で、名前は忘れましたが、これがはつきり言うております。実は淺野から、山口言動を探れという命令を受けて、私の職場にもぐり込んだと言つておりました。それから大体ソ連では民主運動をやらせたい。民主運動が高揚しますと、作業成績も上つて来るのであります。ソ連ではとにかく二つのねらいを持つて、この民主運動に拍車をかけさせたのであります。というのは民主運動が高揚しますと、やつらの頭は、ソ同盟を強化しなくてはならぬ、ソ同盟の強化なくして日本の民主化はあり得ないのだというふうに教え込まれておりますから、あの牛や豚の食うようなものを食つて、自分のからだのすり減るのもかまわぬで仕事をやるのです。そうしたために、仕事はどんどん量が上つて来ます。それと並行しまして、民主運動が高揚して来るのであります。一番最初タシケントの市内に十四の収容所がありましたが、ここのつかさなるものは管理局長と言つております。その管理局長が、お前らが帰りたかつたら仕事をやれ、そうして早く民主主義者になれということをはつきり言うております。これは各収容所に示達してあります。それでおととしの五月に病弱者が帰りました。そして六月から——これは指導者の淺野がはつきり言うたのでありますが、今度の五月のダモイは病弱者だからしかたがない。しかし六月から続行されるところの輸送には、必ずおれが民主主義運動の急進者を先に帰すと言つております。そうして六月、七月に帰るのを見ておると、なるほど赤の急進分子だけであります。それでいよいよこのグループに入つて積極的にやらないと帰れないのだという感じをみな持ちました。これは絶対間違いありません。六月、七月と帰つたメンバーを見ますと、いずれもクロサント出の、それからクロサント出でなくても、日常の教育とか、いろいろの面において積極的に運動をやつた人間だけであります。
  129. 田渕光一

    ○田渕委員 証人に伺いたいのですが、四年何箇月かの間に、共産党からはがきとか、手紙とかが来たのを見せられたのは、得だ書記長のはがきだけでありますか。
  130. 山口茂

    山口証人 カラカンダに来た、それ一回であります。
  131. 田渕光一

    ○田渕委員 そういたしますと、大体文字の書き方までわかつて来たのでありますが、はがきは、日本の今使つておるようなはがきで、七行くらいであつた。その裏に徳田球一と書いてありましたか。
  132. 山口茂

    山口証人 七行くらい書けまして、二行くらい余白があつたのです。さつき申し上げましたように、はじが、書く方を全然とめてありますから見えませんが、この余白に徳田球一ということを、ちようどはがきのまん中から下ぐらいに、はつきり書いてありました。最後の部分は二行ぐらいあいておりました。そこに書いてありましたから、ひつくりかえさぬでもはつきり徳田球一という字がわかつたのであります。
  133. 田渕光一

    ○田渕委員 もう一つ伺いたいのですが、少くとも内地から手紙が来たとか、はがきが来たとかいうことについては、非常に長くそういう通信がとだえておるのですから、たとい共産党であろうと何であろうと、内地のはがき、内地の文字というようなものにあこがれ、あるいは非常に関心を持つので、相当記憶が強いのではないかと感ぜられるのですが、た体そのときにあなたの頭にお入りになつたのは——絶えずはんごうで飯をもらいに行くときに、三日も四日も見ているのですから、大体こういうような字に似ておつたというようなことは、字をお見せすれば、それによく似ておつたというような御記憶がございましようか。
  134. 山口茂

    山口証人 今字を書いて教えてもらいますとですか。
  135. 田渕光一

    ○田渕委員 そうです。
  136. 山口茂

    山口証人 記憶があります。
  137. 田渕光一

    ○田渕委員 そこで、大体文字の書体もわかると思いますが、文言は、要するに社会主義を十分体得して帰れ、あるいは共産党か社会正義か、それははつきりしないとしましても、そういうことであつて反動分子は帰すなとか何とかいうことは書いてなかつたのですか。
  138. 山口茂

    山口証人 そのはがきには書いておりませんでした。
  139. 田渕光一

    ○田渕委員 大体民主グループに入らない強固な御意思の方ばかりで、非常にけしからぬことを言つて来たということは、想像はつくのでありますが、これに対して当時あなたの脳裡に入つたことは、けしからぬことを言つて来たということと同時に、徳田球一というような名前も、またその字も、徳田球一ということは聞いておつても、徳田球一というやつはこんな字を書くのかなあというような気がしたという御記憶はありますか。
  140. 山口茂

    山口証人 私はあのはがきを見まして、徳田球一がはがきをよこしておる——前の日に聞いておりますけれども、あそこで次の日に見ましたときに、徳田球一あたりがやはりわざわざ書くのだろうか、あるいは秘書あたりが書くのだろうかというような疑念も持ちました。
  141. 田渕光一

    ○田渕委員 けつこうです。
  142. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは梨木作次郎君。
  143. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなたは先ほど経歴の中で、特高をやつてつたと言われましたが、これはどこでやつてつたのですか。
  144. 山口茂

    山口証人 それは特高じやありません。命令は出ておりません。船舶警乗であります。これは関東局の残務処理所というものがありますから、そこまで行つて聞いてもらつたはつきりいたします。
  145. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あまり早く言つてもらうと、混乱してわからないのですが、私のもらつた資料の中には、元特高と書いてあるのですが、どうですか。
  146. 山口茂

    山口証人 大連水上警察署は特殊な関係にあるのです。というのは、あそこで芝果、威海衞、龍口、天津、青島、上海、台湾、この七つの航路の客船に乗りまして、その船客を調べます。そうした中に特高課というものが警部以下九十名近くおります。その中でいわゆる犯罪捜査を専門にやるのが特高の特務であります。私のは船舶警乗といいまして、船に乗る仕事であります。係は特高でありますが、船に乗るのが仕事であります。
  147. 梨木作次郎

    ○梨木委員 やはり特高の仕事をやるのですか、思想警察のようなことを……。
  148. 山口茂

    山口証人 思想警察は特務が專門にやります。
  149. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それをあなたがやつてつたわけじやないのですか。
  150. 山口茂

    山口証人 それはやらぬで、私は船の方を担当しておりました。これは関東局の残務整理所に行つたらわかるのじやないかと思います。
  151. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうすると特高の中には入つてつたが、乗船の方を調べるので、思想の調べではなかつた、こういうのですね。
  152. 山口茂

    山口証人 そうです。
  153. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その次に伺いますが、私の方の資料の中には、補助憲兵とありますが、これはどういうことをやつてつたのですか。
  154. 山口茂

    山口証人 これは召集になつた中から、あの当時関東軍憲兵隊の手が足らぬという状況にあつたのじやないかと推察しますが、在満補充兵で十九年に相当警察が余りましたので、それが全部憲兵隊転属になつたのであります。そしてまあ受付をやつたり、駅取締りをやつたり、階級はあくまでも二等兵でありますから……。
  155. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうすると、やはり憲兵の仕事を実質上やつておられたわけですね。
  156. 山口茂

    山口証人 補助であります。
  157. 梨木作次郎

    ○梨木委員 補助であるが、仕事の内容は普通の憲兵と同じような仕事をしておつたわけですね。
  158. 山口茂

    山口証人 それは違います。下士官にならぬと、人を拘束したり、取調べができませんから、あくまでも補助であります。階級は二等兵であります。
  159. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その次に伺いますが、この中に興安憲兵隊とありますが、輿安憲兵隊の中で、補助憲兵の仕事をやつたのですか。
  160. 山口茂

    山口証人 そうです。單独行動もできません。全部下士官がついて……。
  161. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それから先ほどあなたが山形へ帰られまして、十二名の方々を集めて何か会合をやられたように言われましたが、これは場所はどこですか。
  162. 山口茂

    山口証人 場所は上山町の川嶋屋旅館であります。
  163. 梨木作次郎

    ○梨木委員 ここへ集つて、この書面をつくられたのが三月十二日ですね。
  164. 山口茂

    山口証人 そうです。
  165. 梨木作次郎

    ○梨木委員 このうち、先ほどのお話では委任状を送つて来た人がありますね、この中に入つていますか。
  166. 山口茂

    山口証人 入つております。
  167. 梨木作次郎

    ○梨木委員 委任状の人はだれとだれですか。
  168. 山口茂

    山口証人 尾形政己と峯田重吉であります。
  169. 梨木作次郎

    ○梨木委員 この文句はだれが書かれたのですか。
  170. 山口茂

    山口証人 鈴木秀悦君が書きました。
  171. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなたはこの考査委員会に呼び出される前に、考査委員会のどなたか調査員のような方にお会いになつたことがありますか。
  172. 山口茂

    山口証人 それはこの書類を持つて来たとき、ここにおられる方とちよつと会いました。
  173. 梨木作次郎

    ○梨木委員 いつお会いになりましたか。
  174. 山口茂

    山口証人 三月十五日です。
  175. 梨木作次郎

    ○梨木委員 三月十五日にこちらにお持ちになつて……。
  176. 山口茂

    山口証人 そうです。いや十四日です。十三日の夜行で出発しましたから十四日です。訂正します。
  177. 梨木作次郎

    ○梨木委員 十四日に東京に着いて、この事務局の方に会い、それからほかの議長さんかだれかに会いましたか。
  178. 山口茂

    山口証人 議長さんか何か知りませんが、たしか議長さんではありません。議長室の次の部屋ですね、あそこでどなたですか、名刺をいただかないのでわかりませんが……。
  179. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 生越君のところに行つたらしい。生越君のところからぼくのところに来た。
  180. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それでは議長に面会を申し込まれたわけですか。
  181. 山口茂

    山口証人 いや、私かこういう懇請書を持つて来たと言いましたら、案内してくれました。
  182. 梨木作次郎

    ○梨木委員 どこへ……。
  183. 山口茂

    山口証人 あそこの受付であります。
  184. 梨木作次郎

    ○梨木委員 面会の受付ですか。
  185. 山口茂

    山口証人 そうです。
  186. 梨木作次郎

    ○梨木委員 面会はどなたに申し込まれたのですか。
  187. 山口茂

    山口証人 私は実は徳田要請問題について、証人の十二名の方に署名をしてもらつてつて来ました、こういうことを言いましたら、ちよつと待つてくださいと言つて、あそこの係の方がつれて来てくださいました。
  188. 梨木作次郎

    ○梨木委員 議員面会所でまず面会を申し込んだんじやたいのですか。
  189. 山口茂

    山口証人 申し込みました。
  190. 梨木作次郎

    ○梨木委員 どなたに……。
  191. 山口茂

    山口証人 議長であります。手紙のあて名が議長でありますから、議長であります。
  192. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうしたら、議長は会つてくれましたか。
  193. 山口茂

    山口証人 会つてくれません。
  194. 梨木作次郎

    ○梨木委員 鍛冶委員長に会いましたか。
  195. 山口茂

    山口証人 会いました。この書類を出しましたら、どなたかわかりませんが、鍛冶委員長の部屋に一緒に行きました。
  196. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それは三月十四日のことですか。
  197. 山口茂

    山口証人 そうであります。
  198. 梨木作次郎

    ○梨木委員 間違いないですね。
  199. 山口茂

    山口証人 間違いありません。
  200. 梨木作次郎

    ○梨木委員 事務局の方に会つたのは、それだけですね。
  201. 山口茂

    山口証人 そうです。
  202. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その前に、調査の方に会つておりませんか。
  203. 山口茂

    山口証人 会つておりません。十七日の日に竹内さんですか、あの人と県庁で会いました。
  204. 梨木作次郎

    ○梨木委員 どこで会いましたか。
  205. 山口茂

    山口証人 山形の県庁内の民生部長の部屋であります。
  206. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それだけですね。
  207. 山口茂

    山口証人 それだけです。
  208. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなたが食堂の壁のところに張つてあるのを見たとおつしやる、徳田球一氏のはがきですね。これは万国何とかいうあの赤十字社の発行しているはがきですか。
  209. 山口茂

    山口証人 それがさつき御説明したように、はがきに裏表がありますね。あて名を書く方は張つてありまして、文句を書く方だけ出ておつた。だからどういうマークが入つてつたか見ません。
  210. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうすると、表にあて名を書いたところはあなたは見ていないのですね。
  211. 山口茂

    山口証人 見ておりません。
  212. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうすると、そのあて名はどこへあてたはかきかわからないわけですね。
  213. 山口茂

    山口証人 何か人から聞いた話ですが、第九分所と書いてあつたそうであります。
  214. 梨木作次郎

    ○梨木委員 はがきの文字は、先ほど平がなと漢字のまじつた文章であるとおつしやいましたね。
  215. 山口茂

    山口証人 そうです。
  216. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それから徳田球一という名前は、やはり漢字で書いてありましたか。
  217. 山口茂

    山口証人 漢字で書いてありました。
  218. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それからその次にお伺いしますが、あなたのいわゆる徳田要請の話のあつたという日、九月十五日ころですが、集まつたのは三百人くらいたとおつしやいましたね。
  219. 山口茂

    山口証人 三百五十名くらいだつたと思います。
  220. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そのうちであなたが覚えておる方々で、民主グループの人の名前は覚えておりませんか。
  221. 山口茂

    山口証人 はつきりわかりますのは、佐古それから仕事を休んでこれを専門にやる連中が残つておるのです。
  222. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それは帰つて来ておる……。どこかわかりませんか。
  223. 山口茂

    山口証人 わかりません。そこに指導者三名おるのですが、いわゆる民主委員長が待永です。
  224. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それは委員長ですね。
  225. 山口茂

    山口証人 その当時委員長です。たしか宇野は団長をやつてつたと思います。
  226. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その翌日の分も大体わかりませんか。これはあなたは参加しなかつたとおつしやいますが……。
  227. 山口茂

    山口証人 行つて見ると、ぞろぞろ帰りがけておりました。
  228. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その次に少し先ほどの点をお伺いしますが、日の丸梯団を結成するようになつた経過ですが、これはまずあなた独自の日の丸梯団を結成するに至つた、その時分からつくる計画を持つてつたのですか。
  229. 山口茂

    山口証人 持つておりました。
  230. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そのあなたの独自の計画、その後久保田善藏がやり始めた。これはあとで区別して、あなた独自のことを話してもらえませんか。
  231. 山口茂

    山口証人 アングレン小笠原唯雄さんが職場長で二十名持つてつたんですが、非常に反動性の強い人間だけでありました。それで尾崎という憲兵軍曹に私は、二十名でも三十名でもいいから、日本に帰るとき日の丸をもつて上陸しようということをすでに話してあります。それで私は船に乗つて白布がないと困る。それで敷布でもかつぱらつて行こうかと思つたこともありました。しかしジユバンを破つてでも日の丸の小さいものはできるという気持でおりました。ナホトカに参もましてから尾崎とは四、五回隠れて会つておりました。日高さんの方はまた別に計画をしておつたんです。日高さんの方は、日高さんと私と尾崎なり小笠原さんなりが四人あれすれば一本立ちするものができるのですが、私の方は尾崎軍曹、日高さんの方は別に日の丸をつけて帰る人間を集めようという腹を持つてつたらしい。二つの方も統合がとれなかつたのです。何せナホトカでは、われわれの行動というものが非常に制限されておりました関係上……。
  232. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そこでお伺いしますが、大体そうなつて来てこの二十名というのはアングレンですね。アングレンで二十名ばかりの……。
  233. 山口茂

    山口証人 それははつきりだれとたれとだれとは言つてないのです。
  234. 梨木作次郎

    ○梨木委員 約二十名ですね。
  235. 山口茂

    山口証人 それは二十名でも三十名でもいい、とにかく……。
  236. 梨木作次郎

    ○梨木委員 アングレンにおつたのは大体どのくらいです。
  237. 山口茂

    山口証人 あの当時アングレンにおつて共鳴しておつて、とにかく山口さんやろうと言つてつたのは小笠原さん、尾崎さんあたりです。
  238. 梨木作次郎

    ○梨木委員 四、五人ですね。
  239. 山口茂

    山口証人 そうです。ところがそれで同じ職場行つて話したのがそれであつて、いわゆる反動です。そういう人間は集まれば一緒に集まつて来ると思つたが、その人には職場が違うために話せないんです。
  240. 梨木作次郎

    ○梨木委員 尾崎さん、小笠原さんは前職は何ですか。
  241. 山口茂

    山口証人 わかりません。尾崎は憲兵軍曹であります。
  242. 梨木作次郎

    ○梨木委員 小笠原も憲兵ですか。
  243. 山口茂

    山口証人 あの人は転科して行つたはずです。普通の一般の将校から憲兵隊に転科して行つた
  244. 梨木作次郎

    ○梨木委員 やはり憲兵ですね。
  245. 山口茂

    山口証人 そうです。
  246. 梨木作次郎

    ○梨木委員 大体日の丸梯団の方々は憲兵とか将校の人が多いですか。
  247. 山口茂

    山口証人 というのは結局ソ連が残したのは憲兵、警察、特務機関協和会、それから反動の大物、こういうのを残しておる。だから必然的にそういう人間が集まるのは当然です。
  248. 梨木作次郎

    ○梨木委員 だから日の丸梯団の人はそういう人たちが大部分なんですね。
  249. 山口茂

    山口証人 大部分で、半分以上おると思います。現職にある苦と満洲国の抑留者、そういう人間も大分入つております。
  250. 梨木作次郎

    ○梨木委員 四十四名が久保田氏が提唱した例の参議院べの懇請したのですか。これに署名したのは何人なんです。
  251. 山口茂

    山口証人 その点は私はそれに署名しておりません。私は中隊長をやつてつて舞鶴の五日、六日間というものはそんなに仕事があるのかと思われるほどいろいろな調査事項が多くて、一日中かけずりまわつておりました。それで署名しようと思つてつて署名はいたしません。それで今度のやつは私は署名しております。
  252. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その四十四名の人々の名前なんかについてはわかりませんか。
  253. 山口茂

    山口証人 おも立つた人間はわかります。
  254. 梨木作次郎

    ○梨木委員 前職はやはり憲兵……。
  255. 山口茂

    山口証人 それは憲兵、警察が多いと思つております。協和会はございません。七割くらいではないかと思います。
  256. 梨木作次郎

    ○梨木委員 徳田問題について、この四十四名がだれかに調書をとられておるというような事実は、あなたは知つておられますか。
  257. 山口茂

    山口証人 それは全然わからぬです。
  258. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ちよつと梨木君、四十四名というのは証人はわかつておりますか。
  259. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それでは聞きましよう。徳田球一氏が反動は帰すなというような要請をソビエト同盟に対してなした。こういう事実があつたことを述べた調書というものは、四十四人のものができておるというようなことが伝えられておるのです。だからそれについて今伺つたわけです。
  260. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 参議院に出たものと違うのでじよう。
  261. 梨木作次郎

    ○梨木委員 参議院のは違うらしいですが、新聞によりますと、対日理事会のシーボルト議長は、四十四名の者がそういう事実を確認しておるというようなことが伝えられておる。その調書をつくられた経過をもしあなたが知つておられたならばお伺いしたい。
  262. 山口茂

    山口証人 それは私中隊の方におりましたからわかりません。それは本部の人はわかるかもしれませんが、私は中隊の方で後日を持つてつたものですから、そういうこまかい経過はわかりません。
  263. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それでは次に伺いますが、日の丸をどういうぐあいにしてつくられましたか、船の中でつくつたんですか。
  264. 山口茂

    山口証人 そうです。
  265. 梨木作次郎

    ○梨木委員 どうしてつくられました。生地とか材料はどういうぐあいに……。
  266. 山口茂

    山口証人 それはむりにガーゼをもらいました。
  267. 梨木作次郎

    ○梨木委員 だれから……。
  268. 山口茂

    山口証人 看護婦さんからもらいました。
  269. 梨木作次郎

    ○梨木委員 ガーゼとそれから……。
  270. 山口茂

    山口証人 ガーゼだけであります。
  271. 梨木作次郎

    ○梨木委員 ガーゼだけでは日の丸はできませんな……。
  272. 山口茂

    山口証人 大きいのが一枚か二枚だつたと思いますが、船の中におりますと、日の丸梯団の者には乗組員も好感を持つてくれます。それで私もそうでありますが、ちようど話しておりましたら同県人の者がたずねて来まして、そうしてタバコを三つくれました。私もここに中隊長と書くきれがほしかつたので、その人間にくれと言いました。そうしたら三角巾一枚もらいましたので、私はここに三中隊長と入れまして、腕章の余りを隊員の日の丸をつくるきれにしました。
  273. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その日の丸は、インキか何かなければできないでしようが、そのインキをどうしました。
  274. 山口茂

    山口証人 それは船から借りました。
  275. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それから船の中では、そのほかに徳田要請問題について署名運動が行われましたか。
  276. 山口茂

    山口証人 船の中では行つておりません。
  277. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうすると署名運動が起つたのはどこですか。
  278. 山口茂

    山口証人 舞鶴です。
  279. 梨木作次郎

    ○梨木委員 舞鶴でおりてから収容所の中でですか。
  280. 山口茂

    山口証人 そうです。
  281. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうするとその収容所の中で、別に徳田氏が反動を帰すなという要請をした事実はないという、反対のことを確認する文書に署名を求める運動、こういう運動が行われた事実を知りませんか。
  282. 山口茂

    山口証人 知りません。あすこの収容所は、日の丸梯団と、それから向うグループというものが、はつきり区分されましたから。
  283. 梨木作次郎

    ○梨木委員 区分されたから、あつたかどうかもうわからないのですね。
  284. 山口茂

    山口証人 わかりません。われわれは向うのグルーブの中にも知つておる人もおるけれども、ここに日の丸をつけた以上入つて行けぬし、向うでも入つて来ませんし、そうした点の連絡は全然ありません。
  285. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そこでその次に伺いますが、あなた方は舞鶴へおりてから、何かいろいろソビエト地区においての行動について取調べを受けたような事実はありませんか。
  286. 山口茂

    山口証人 私も八回ばかり取調べを受けております。
  287. 梨木作次郎

    ○梨木委員 どういう取調べを受けておりますか。
  288. 山口茂

    山口証人 いわゆるソ連のスパイをつかまえたろう、それから解放軍のスパイをつかまえたろう、この一点張りであります。私はそれは何もやつていない、つかまえていないということをつつぱりましたら、その係官は、お前は天皇裕仁からただで俸給を貰つてつたか、こういうことを言いました。
  289. 塚原俊郎

    ○塚原委員 係官というのはだれですか。
  290. 山口茂

    山口証人 ゲーペーウーであります。通訳憲兵でありました。
  291. 梨木作次郎

    ○梨木委員 舞鶴憲兵に調べられたのですか。
  292. 山口茂

    山口証人 舞鶴でなくカラカンダであります。
  293. 梨木作次郎

    ○梨木委員 ソ連にはゲーペーウーがまだあるのですか。
  294. 山口茂

    山口証人 現在コミツサールといいます。
  295. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それから舞鶴では身体検査を受けられるようなことがあるのですか。
  296. 山口茂

    山口証人 舞鶴におりてから、全部着ていたボロのきたない衣服を脱ぎました。それ以外に身体検査ということは、日本に着いてからは特にありません。あつたのソ連だけであります。至るところあります。
  297. 梨木作次郎

    ○梨木委員 帰られてから、この日の丸梯団人たちと何か連絡をとつておられる事実はありますか。
  298. 山口茂

    山口証人 私は連絡をとろうと思つたのでありますが、私自体山形県内で何か一つ組織をつくろうと思つておりましたが、こういうふうにして走りまわつておるので、全然連絡しておりません。
  299. 田渕光一

    ○田渕委員 もうちよつと伺いますが、去年の一月下旬から九月までウズベツクスタンの炭鉱におられたと伺つておりますが、その炭鉱の中でどういうふうなことをされておりましたか。
  300. 山口茂

    山口証人 あすこのウズベツクスタンアングレンというところは、日本人の捕虜七千名と、それから囚人によつて新しく開かれた炭鉱町であります。それで七千名おつた当時は、大部分が炭鉱に入つたそうであります。しかし全部帰りまして、去年は一番多いときで千名であります。そういう関係で、炭鉱には入らないで、あすこの川が氾濫しますので、その河川工事とか、また私は製材に行つておりました。セメント工場とか建築などいろいろ種々雑多な仕事がありました。カラカンダに来てからは、いやおうなしに炭鉱にぶち込まれました。
  301. 田渕光一

    ○田渕委員 七千名から使つておる炭鉱といいますと、相当大きな規模と思われますが、た体労働條件はどんなでございましたか。
  302. 山口茂

    山口証人 私がアングレンに行きましたのは、去年の一月二十三日であります。その前のことはタシケントにおつた関係で、詳しくわかりません。
  303. 田渕光一

    ○田渕委員 朝は何時ごろとか、あるいは一晩交代、二晩交代でやつておるとか——大体日本人の捕虜が七千人と、囚人はどのくらいおつたのですか。
  304. 山口茂

    山口証人 囚人は、あすこに私らが行つたときは、ちようどわれわれの収容所がここにありますと、その並びなんですが、朝七時ちよつと過ぎに整列しまして、そうして作業別に出て行くのですが、こつちのわれわれの職場の者は全部歌いませんが、向うグループの方は、盛んに出発前から歌う。整列当時から、しかも早く整列して、偉大なスターリン、聰明なスターリン、こういうスターリン讃歌を歌つておりました。そうしていよいよ、時間になると、門がぎつと開いて出かけます。ところが片一方の囚人の方は楽隊です。こつちの方は赤旗の歌とか、スターリン讃歌を歌いましたが、向うは楽隊で非常におもしろい光景でありました。その収容所に二千名くらいもおつたのではないかと思います。その向いの方に女の囚人の収容所があつたそうです。
  305. 田渕光一

    ○田渕委員 七千名から入つた日本人の捕虜が、完全で帰つたのは幾人くらい、あるいは幾人くらい炭鉱でなくなつたかということをお聞きになりませんか。
  306. 山口茂

    山口証人 私の聞いた話では、あすこは露天堀です。露天堀ですが、現在使つてない旧抗がありまして、そこにノルマで責められて、食いものも悪いし、そこの穴に飛込んで死んだという話を聞いております。それがいよいよダモイの話が出ますと、おれも帰してくれというような声が穴の中からするというような話も聞きました。そこに飛び込んで死んだのがいるのです。こんな苦しいことを長年するなら、一思いに死んだ方がいいというので、穴の中に飛び込んで死んだのが、いよいよ去年のころから帰るという話が出たら、おれも連れて帰つてくれという声が穴の中からしたという話も私は聞きました。
  307. 田渕光一

    ○田渕委員 これは日本の炭鉱などに対して非常に共産党がいろいろなことをやるものですから、参考に伺つておくのです。だから簡單でよろしいですが、つまり穴の中でというのですが、露天堀と抗道堀と両方がありますか。
  308. 山口茂

    山口証人 露天堀の方は、私は全無行つておりませんが、これは話に聞きますと、露天堀というものは土を上げてすぐ爆破してやる。ところが私の入りましたカラカンダの炭鉱は、三百メーターくらいエレベーターで入つて行つて、こんな小さなランプ一つで行動するのです。しかもロスケの労働者が三分の二くらいおりましたが、これらは全部ランプのいいのを、明るいのをとつてしまつてわれわれには非常に暗いランプで、しかも。仕事のノルマの上らぬ炭鉱にぶち込む。石炭が十二分に掘れる炭鉱にはロスケの労働者が行つておるが、建設途上の炭鉱には普通の労働者はノルマが上らぬために行きたがらない。そうしたところに日本人をやる。タシケントなんかでも、こういう大き川なれんが工場があるのですが、これが機械二台でやるためにひつきりなしにこれを百メートルくらい運ばなければならぬ。この職場をわれわれは地獄職場と呼んでいました。ところがこういうところにロシア人の労働者は行つておりません。日本人だけであります。だから私の考えでは普通の労働者が忌みきらう、ノルマも上らぬ仕事に日本人をやつたというようにしか考えられません。
  309. 田渕光一

    ○田渕委員 食事とかあるいは厚生施設ということで聞いたことはありませんか。
  310. 山口茂

    山口証人 ソ連のですか、われわれのですか。
  311. 田渕光一

    ○田渕委員 日本人捕虜に対して向うの設備、あるいにけがしたときは医者はどんなにするか、あるいは浴場の設備とか厚生施設、あるいは勤労状態などをお聞きになつたことはございませんか。
  312. 山口茂

    山口証人 からだをこわすことにつきましても、大体ソ連では神経痛、脚気、こういうのがロスケの中にきわめてまれらしいので、われわれがそうしたものになつても全然認めてくれません。そうしてつえをついても作業に出されておりました。大体ソ連はおかしな国でありまして、ノルマというものがあります。ところがある一定の夏の時期にマラリアがはやる——アングレンというところは非常にマラリアが多いところであります。ところが三十八度以上にならなければ入院させないのであります。かぜで三十七度八分ぐらいあつて作業に出されます。それならそれでいいのですが、ここで季節的にマラリアが出ても、入院患者の数に制限があるので、患者が多かつたら三十九度になつて作業に用される場合がある。少いときのノルマを見ればわかるのです。入院患者の数を制限してあるのですから、実にむちやな話です。
  313. 田渕光一

    ○田渕委員 三十八度、三十九度というような熱でも作業に出る。そうして非常に苛酷な労働條件にいじめられるのたから、必ず一日に何トンなら何トン掘れという割当があると思いますが、これを遂行して行く、そのためになくなつたという人はどのくらいありますか。栄養不良と苛酷な労働のもとに病気を押してむくのだから、坑内だとか、現場でばたばた倒れて行つたと思うが、そういうことをお聞きになりませんか。
  314. 山口茂

    山口証人 一番死んだのは敗戰直後のどさくさまぎわだと思います。私は北鮮におつた関係でそういう点は多少惠まれた感じですが、私の友だちから聞いたところによりますと——山形県人ですが、日の丸で帰つて来ましたが、この人の話では、チタ付近で一番ひどい。は五百名おつて、そのうち三百名が死んだそうです。また私がタシケントの第五に行つたとき、みんながひよろようになつておりました。これを縞馬部隊と称しておりました。ゲルマンの押收品で、腹のところにしまの入つたさるまたをはいている、これが見る影もなくやせてしまつておる、その人らの話を聞くと、われわれが行くと、ものすごいりつぱな体格の者が来たと思えたそうです。それだけわれわれが見るとほんとうにやせているなというふうに思いました。とにかくその第五收容所の所長であるアルシヤーノフ、これはソ連の国家で規定された糧秣を全部くれても——最近は全部くれておりますが、われわれの仕事から比較すると全部くれても腹六分で少い。その糧秣を申分くらいごまかしてしまつた。二十一年の当時ですか、宮井大尉という人が大隊長をやつておりましたが、それがロスケ所長を呼びまして、あれを見てくれ、——そのとき便所まで行くにもふらふらして行けませんでした。あれを見てくれ、あれほど食べものが惡くふらふらしているのだ、あんなに疲れている人間を帰つてから使うだけはやめてくれということを宮井大尉が涙をのんで所長に頼んだのであります。それから今度帰つて来ると思いますが、一番みじめを見ましたのは大連あたりの特高とか、そういう前職であつて、前職のままひつぱられた人間がウラルの森林伐採に持つて行かれております。この話を聞きますと、まことにこれは涙なくして聞けない話であります。
  315. 田渕光一

    ○田渕委員 簡單でけつこうですが、そういう話で、どういう伐採状況をやつていたか、お聞きになつたことをひとつ……。
  316. 山口茂

    山口証人 伐採状況はわかりません。あそこは非常に寒いのに着物も着せない。それに食べものたるや実に高橋さんの話を聞きますと、伐採に行く途中にロスケの人家があるそうでありますが、そこにじやがいもの皮を捨ててあるのを気違いのようになつてつて、それを洗つてカン詰の空カンでたいて食つたそうであります。われわれの食事は、朝はほんとうのスープで、小さなじやがいもが二つか三つ入つておるだけで、お前のは四つ入つているが、おれのは二つしか入つていないということをいろいろ言い合つたくらいです。その当時飢えと寒さでばたばたと死んで行つた。私はこの席上で高橋の口から——この高橋もいずれ帰つて来るでしようから、高橋の口から皆さんにはつきり申させてもよろしいと思いますが、その高橋の話では、夜便所に行つてつて来ないなと思うと、便所で飢えと寒さのために死んでおつたそうであります。そういうふうにばたばたと死ぬので、大隊長が、お前ら便所に行くときには必ずそばの人間を呼び起して行け。そして起された人間は、そばの者が便所に行つて五分なり十分なりして帰つて来なかつたときは見て来い。そういうことまでやつたそうであります。そのくらい飢えと寒さのために死んだそうであります。
  317. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなたはさつきこれを持つて来られたのは三月十四日とおつしやいましたが、それに間違いありませんか。私の方の調べとちよつと違うのですが……。
  318. 山口茂

    山口証人 私は三月十三日に上京しておりますから、十二日に集まつて書いて、十三日の夜行で来まして、十四日に出しております。そして十七日に民生部の部長の部屋で竹内さんと会つております。
  319. 梨木作次郎

    ○梨木委員 私の調べたところでは、議員面会所であなたが面会を申し込んでおるのは三月十二日なのですが……。
  320. 山口茂

    山口証人 それは違います。
  321. 梨木作次郎

    ○梨木委員 間違いありませんか。三月十二日に面会を申し込んでおる事実があるのですが……。
  322. 山口茂

    山口証人 それはうそです。はつきり間違いありません。
  323. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうすると、十四日に議員面会所で面会を申し込んでおりますね。(「つまらぬことを聞くな」と呼ぶ者あり)つまらぬことじやない、証言の信憑性に関してです。  もう一点、あなたのみならずソビエト地区に抑留されて苦労なさつておられるのですが、一体こういうような捕虜になつた方が、非常に苦しい目にあわされるようになつたこの原因は、どういうことから来ておるかということを、お考えになつたことはありませんか。
  324. 山口茂

    山口証人 ソ連が人道を無視した待遇をしたからです。
  325. 梨木作次郎

    ○梨木委員 人道を無視した待遇をしておる——それでは抑留されるに至つたのは、こういうことから来ておるわけですか。捕虜になつたからですね。そうでしよう。
  326. 山口茂

    山口証人 そんなことはあなたからも聞かれなくても私はわかつておる。しかし……。
  327. 梨木作次郎

    ○梨木委員 いや、わかつておるといつても、あなたに聞くのですから、あなたの知つておることだけ言つてもらえばいいのです。
  328. 山口茂

    山口証人 戰争に負けたのだからやむを得ない。国の償いで行きました。
  329. 梨木作次郎

    ○梨木委員 戰争に負けたからしかたないと思つて捕虜になつたのですね。それでは戰争はどうして起つたかあなたは……。(発言する者多し)それではあなたは召集されたのですね。
  330. 山口茂

    山口証人 そうです。
  331. 梨木作次郎

    ○梨木委員 召集したのはだれですか。
  332. 山口茂

    山口証人 そんなことは聞かないでもあなた自身わかつているでしよう。
  333. 梨木作次郎

    ○梨木委員 私はわかつておるが、天皇の命令でしよう。
  334. 山口茂

    山口証人 もちろんそうです。
  335. 梨木作次郎

    ○梨木委員 天皇の命令であなたは応召して、天皇の命令で戰争しておる。これも知つておりますね。
  336. 山口茂

    山口証人 わかつております。
  337. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうすると、あなた方が捕虜になつたのも天皇の命令で、戰争に負けて捕虜になつたのですね。
  338. 山口茂

    山口証人 そういうことは在ソ四年、いわゆる民主グループが朝から晩までそういうことを言つてつた。あなたの今言うようなことは四年五箇月、いわゆるあなたの味方であるグループの者が毎日言つておりました。そんなことは耳にたこができております。
  339. 梨木作次郎

    ○梨木委員 一体あなたは引揚げについて、内地に帰るについても、責任はたれにあると思つておりますか。
  340. 山口茂

    山口証人 もちろんソ連です。
  341. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それじや日本の政府の方では責任がないとおつしやるのですか。
  342. 山口茂

    山口証人 ありません。
  343. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうすると、こういうことになつておるのをあなたは御存じないですか。
  344. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それ以上は議論になつてしまう。
  345. 梨木作次郎

    ○梨木委員 これは証人のソビエト地区からの引揚げということは、ソビエト同盟と連合軍最高司令部との協定によつてつているのです。その輸送責任は全部日本が負うている。こういうことになつているのです。あなたのおつしやるところを見ると、全部ソビエト同盟に責任があるようにおつしやるが、これはあなたの考えですね。
  346. 山口茂

    山口証人 これはわれわれに宣伝啓蒙する極端な日本新聞というのがあります。その新聞で二十二年の二月ごろですか、米ソの輸送協会が結ばれたということを知つた
  347. 梨木作次郎

    ○梨木委員 いつごろですか。
  348. 山口茂

    山口証人 二十二年の二月ごろじやないですか。内地におつたのではないから、はつきりわかりません。それで月五万の輸送協定を結んだ。月五万ずつなら、少くとも一箇年以内にわれわれも帰れると思つた。ところがまる四年と五箇月、とうとうことしまで置かれました。というのは輸送協定をサボつておるとしか私は考えられません。しかもあの当時日本新聞を見ますと、マツカーサー司令官は碎氷船まで許すというようなことも記事が見ておりますが、ところが来てみますと、ナホトカなんかは凍つておりません。あくまでもソ連はわれわれの労働力が欲しいために、とやかく言うて帰さないのだというふうに私は結論的に思つております。
  349. 田渕光一

    ○田渕委員 それでソ連の捕虜の取扱い方などは、連日にわたる各証人、また今の証人が言われる通り人道を無視しております。梨木君は今、だれによつて召集されたかとか、だれによつてこういうことになつたかとか聞かれたが、この問題について、私は参考に梨木君に申し上げておく。日露戰争のときにステツセル将軍に対して、時の乃木将軍が佩劍を許すようにと明治天皇に申し上げた。ところが、それはそうしなければならぬ。敵といえども決して個人がしたのではない。国のためにしたのだ。個人に対しては何ら関係はない。一日も早く帰してやらなければいかぬからというので、ただちに豚五十頭に、あひる何百羽というものを旅順に送つている。それから四国へ連れて来てからも、当時の帝政ロシアの捕虜に対しては、まつた日本は万国赤十字社からほめられるような待遇をしておる。こういうように、今日敗れたりといえとも、日本はまつたく人道的にやつた。その当時あれだけの待遇をしているのに、そのソ連が今日やつて来たことは、まつたくわれわれとしては人道を無視しているものであり、われわれ人間社会に置けないソ連だと思つております。これだけを私は梨木君に申し上げておきます。
  350. 安部俊吾

    ○安部委員 証人一言聞きたいのですが、あなた方が収容所におきまして、どなたかから、国際法においてはどういうような捕虜の待遇をしなければならぬかとか、あるいはジユネーヴのコンベンシヨン、議定書によりますと、その中には、いやしくも交戰国はたとい俘虜であるとか、捕虜であつても、これは待遇を優遇しなければならぬ。自分の国の兵隊と同様な食物を與え、しかも利敵行為をやらしてはいかぬ。利敵行為とは、あるいは鉱山において働かしてはいかぬ。あるいは軍需品を製造するところの工場に使用してはいかぬ。あるいは軍用道路の建設に使つてはいかぬ。あるいは捕虜は前線に置いてはいかぬ。鉄砲のたまの届くところに置いてはいかぬ。そういうような規定がありまして、それは各交戰国において遵奉されたのであります。ところが、先ほどあなたの御証言によりますれば、非常にこれと雲泥の差があつて、ほとんどロシアにおいてはそういうような戰時国際公法の規定を遵奉しておらぬ。またジユネーヴのコンベンシヨン、議定書も度外視しておる。それからまたポツダム宣言における、可及的に早く捕虜をその本国に帰さなければならぬということも、ほとんど蹂躙しているようであります。その点に関しまして、あなたの体験したところによつて、その間にどういうギヤツプというか、離れがあつたか、全然ロシアというものはそういうものを度外視し、残酷な、暴戻な態度をもつてつたという事実があるならば、簡單でよろしゆうございますから、その点に触れて御証言願います。
  351. 山口茂

    山口証人 私も北鮮におつた当時、だれがどこから手に入れたかわかりませんが、国際法規という木をだれか持つておりました。北鮮におつた当時から、すでにロシアに持つて行かれるのじやないかというような不安もあつたし、またたいくつでもあつたので、私はその国際法規の中の捕虜取扱規定を若干かじつてソ連に入つたのです。それによりますと、将校は特殊技能を持つてつて、自分から自発的に仕事をさしてくれと願つた場合は特別だが、そのほかは将校には仕事をさしてはいかぬとか、あるいは下士官は何ぼ、兵隊は何ぼというふうな金をもらうように規定されておりました。ところが、そういうことは全然実行されておりません。衛生設備はさつき申し上げた通りであります。そうしてソ連の技術というものは非常に幼稚でありまして、あそこの軍医あたりでも日本の衛生兵程度であります。ほんとうにわれわれの力になつたのは、日本の軍医さんがおつてくれるから非常に力強かつたのであります。私の考えとしましては、ああした国際法規の捕虜取扱規定、それもほんとうに生かじりでありますが、それに対してソ連は実に残酷だ。なぜわれわれに人間の食うものを食わせないのだということを盛んにわれわれが話合いました。ところがある人は、ソ連はこの国際法規、国際連盟に入つていないから、おそらくこれを実行しないだろうということを言つておりました。
  352. 安部俊吾

    ○安部委員 それでどこでも交戰国には万国赤十字社のヘツド・コーターがあるわけですが、赤十字の人が収容所に参つたことがありますか。衛生状態を調査するとか、あるいは食糧事情を調査するとか、あるいは被服の問題、どういう着物を着ているかとか、あるいはバラツクの状態などはどうであるか、そういうことを視察に赤十字社の職員があなたのキヤンプに参りましたか。
  353. 山口茂

    山口証人 赤十字社から来たということは全然記憶ありません。来ておりません。たまたま個々の収容所がたくさんありますと、それを統合する管理部から係が半年に一回くらい来ます。そのとぎ食糧事情なんかも、はんごうの中をちよつと見るのであります。ところがロスケは抜け目がないので、いつ来るかということがわかりますと、その書だけ少し食べもの、甘酒でありますが、これをかためにする。そうして検査をごまかすということを平気でやつておりました。向うから巡視が来ると、ほんとうにグチャグチャなのがかたくなるのです。そうすると夕飯かまた少くなるのです。
  354. 安部俊吾

    ○安部委員 最後に時間がありませんから、ただ一点だけ……。あなた方は反動と呼ばれ、あるいは民主グループと呼ばれ、いろいろそこに烙印を押される者があるのですが、大体捕虜はやはり捕虜として、どういうような思想を持つてつても、どういうようなイデオロギーを持つてつても、平等に取扱われなければならぬ建前があるのですが、そういうことに関して収容所長なり、あるいはその他の政治将校なり、あるいはそこの捕虜を監督する最高司令官、そういうものに何か請願もしくは陳情したようなことがありましたか。われわれが同じ捕虜であつても、たとえば共産主義を信じない者でも信じる者でも、平等に取扱わるべきものであるが、どういうわけでこういうふうに差別待遇をされるかということを、だれか陳情でもしたことがありましたか。あるいは陳情すれば、それがために非常に残酷な取扱いを受けるというようなおそれがありましたか。
  355. 山口茂

    山口証人 陳情は私の知つている範囲内では聞いておりません。ただあすこのだれをああいう職場にまわすということは、いわゆる指導者が——大体収容所の構成というものは、民主運動が始まつてから全部民主グループが占めておりました。そういうわけで、ひどい職場にあいつをやるということはかつてにやつております。それから陳情というものは私のところではやつておりませんが、よその地区ではやつたところもあるそうです。
  356. 安部俊吾

    ○安部委員 その結果はどうですか。
  357. 山口茂

    山口証人 結果は特別に悪い収容所にまわされたとか、あとは僻地にまわされたとか、そういう話を聞いております。
  358. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ちよつと聞くが、さつきソ連人はよくうそをつくと言つたが、それはソ連人ですか、共産主義者ですか、どつちですか——共産主義者は何か戰術とか何とかいうことでうそを言うことはありませんか。
  359. 山口茂

    山口証人 政治将校あたりも、はつきり帰すと言いながら何回もだまされて来ているし、普通の労働者もうそを言うことは平気であります。全部であります。
  360. 田渕光一

    ○田渕委員 証人が非常にはつきりした反動として烙印を押されて来、また伺つてはつきりしたのでありますが、在ソ中に、いわゆるポツダム宣言というものによつて早く帰されることも、奴隷化されないことも、また思想の自由も保障されていることも御承知でありましようがポツダム宣言など聞かないでもいい、あれはアメリカとイギリスと中華民国でやつているんだ、ソ連はそんなことにタツチしていないのだという片鱗でも1向う将校なりあるいはあなた方の反対である民主グループの連中が、ポツダム宣言など聞く必要はないのだというような、ポツダム宣言に触れたような話をしたことはなかつたですか。
  361. 山口茂

    山口証人 そういう話は聞いておりません。
  362. 田渕光一

    ○田渕委員 証人は大体戰争が降伏に入つたのは、ポツダム宣言をわれわれが承認して降伏したのであるというようなことは思わなかつたのですか。ただ無條件にめちやくちやにやつつけられて負けてしまつたのだというふうにしか感じていなかつたのですか。
  363. 山口茂

    山口証人 さつきのあれを訂正します。ポツダム宣言を受諾させられたということを知つておりました。
  364. 田渕光一

    ○田渕委員 そのポツダム宣言の九條とか十條というのは、非常に捕虜に対して重大な問題でありますが、この條項の文字、解釈というようなものをお聞きにはたりませんでしたか。
  365. 山口茂

    山口証人 そういうわれわれに都合のいいところは向うで説明しません。ただ日本が民主化をサボつている、ポツダム宣言にはこうなつているが、現在の吉田反動内閣はこれをサボつているということを聞きましたが、われわれにためになるような條項は全然聞いておりません。
  366. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは済みました。  三十分間休憩いたします。     午後二時五分休憩      ————◇—————     午後三時二十八分開議
  367. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 休憩前に引続き会議を開きます。  ただいまお見えの方々は、小笠原唯雄さん、日高清さん、橋本忠義さん、以上一名ですね。これより日本共産党在外胞引揚妨害問題について証言を求むることになりますが、証言を求める前に、各証人一言申し上げますが、昭和二十二年法律第二百二十五号議院における証人宣誓及び証言等に関する法律によりまして、証人証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならぬことと相なつております。  宣誓または証言を拒むことのできるのは、証言証人または証人配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係のあつた者及び証人の後見人または証人。後見を受ける者の刑事上の訴追または処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するとき、及び医師歯科医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁理士弁護人公証人、宗教または祷祀の職にある者、またはこれらの職にあつた者がその職務上知つた事実であつて黙秘すべきものについて尋問を受けたときに限られておりまして、それ以外には証言を拒むことはできないことになつております。しかして、証人が正当の理由がなくて宣誓または証言を拒んだときは、一年以下の禁錮または二万円以下の罰金に処せられ、かつ宣言した証人が虚偽の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処せられることとなつておるのであります。一応このことを御承知になつておいていただきたいと思います。  では法律の定めるところによりまして証人宣誓を求めます。御起立を願います。     〔証人小笠原唯雄君各証人を代表て朗読〕    宣誓書   良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又何事もつけ加えないことを誓います。
  368. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 証言を求むる順序は、小笠原さん、日高さん、橋本さんの順序で承りますから、小笠原さん以外の方は、いま一度もとの控室でお休みを願います。  こちらから聞くときはすわつていてもいいですけれども、答えるときは委員長の許可を得て立つて陳述してもらいたい。それから答弁は、こちらの質問したことのみ要旨を簡單にひとつお願いします。多岐にわたらぬようにお願いします。
  369. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 はい。
  370. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 小笠原唯雄さんですね。
  371. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 はい。
  372. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 お幾つですか。
  373. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 数え年三十九歳。
  374. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの経歴を簡單に……。
  375. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 どの程度でありましようか。
  376. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 簡單なところでよろしゆうございます。
  377. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 学校を卒業したのが昭和十一年、それから山川県の宇部中学校の教諭をしておりました。
  378. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 学校というのは東洋大学ですね。
  379. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 そうです。それから昭和十六年七月召集、勤務先は牡丹江七連隊、当時の階級少尉、十八年中尉進級、二十年六月新京憲兵隊副官、二十年五月憲兵転科以後新京憲兵隊副官、二十年十一月ウズベツクスタンアングレン到着、二十四年九月タジツクスタン、カラカンダ到着、二十五年十二月カラカンダ出発、二十五年二月九日舞鶴上陸、以上であります。
  380. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 二十四年十二月カラカンダ出発ですね。
  381. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 はい。
  382. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それで着は二十五年の……。
  383. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 二月九日舞鶴着。
  384. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 在ソ中収容所において、あなたはいわゆる反動と言われてい先ということですが、そういう事実はありますか。
  385. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 御質問の趣旨がはつきりわかりませんが、言われたことでありますか。
  386. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そう言われておつたかというのです。
  387. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 言われております。
  388. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはどういうことから反動と言われたのです。
  389. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 私が民主運動に携わらなかつたゆえだろうと思います。
  390. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたは初めから終りまで携わらなかつたのですか。
  391. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 はい。
  392. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういうわけで携わらなかつたのですか。
  393. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 これは私見になりますが、ロシアにおいて行われたところの民主運動というものは、これはロシアの御用運動だと、こういうように私は解釈いたしました。
  394. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それで、あなたの考えている民主運動というものと違つてつた、こういうことですね。
  395. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 そうであります。
  396. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこでカラカンダにおいて、日本共産党書記長の徳田氏からの要請というものを聞かされたと、こういうことですか。そういう事実はありますか。
  397. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 事実であります。
  398. 鍛冶良作

  399. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 はい。
  400. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは何年何月何日、どこで……。
  401. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 二十四年の九月十五日であります。時間はおおむね十時ごろだと考えます。九分所の民主クラブであります。
  402. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どれほど集まつて、だれから聞かされたのですか。
  403. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 当時収容所にはアンダレン、それからタシケント方面から移動したところの俘虜が大体六百名だろうと考えます。十三日に到着いたしました。それでソ側の将校から半数ずつクラブに集まれ、こういう指示を受けました。集まつたのはおおむね三百名前後でなかろうかと考えます。当時の状況をさらに続けてよろしゆうございますか。
  404. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どうぞ。
  405. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 当時は着いたばかりでありますので、各人が装具の始末とか、そのほか相当ごたついておりました。とりあえず三百名くらいのものがクラブに集合したのでありますが、そのときにソ側で出席をなさつた将校は二人であります。当時はソ側の将校所長は輸送途中だということを聞きました。所長の代理という方と、それから政治部将校と、これだけがソ側では出席をなさつております。日本人側としては、ただいま申し上げましたように三百名、その中で菅という通訳通訳をいたしました。なお司会は佐古という人であります。最初佐古という人が、われわれはここの収容所に新しく移動して来たのだが、いつまでこういう生活が続くかわからない。われらは早くこの規律を確立をして、そして態勢を整えなければならない。これがために収容所将校からもいろいろ指示があるはずである。こういう司会のもとに始つたのであります。まず最初所長代理からいろいろのことを聞かされました。一言に盡しますれば、お前たちの規律はよろしくない。一時も早く規律を確立しなければならない。それから政治部将校からは世界の情勢、特に民主勢力についての話がありました。それからこの収容所におけるところの、今後の民主運動についてもお話があつたように記憶しております。それから政治部将校は、こういうような情勢下において、一時も早く文化活動を展開しなければならない、こういうような話があつたのであります。それで正式のソ側からの指示、注意というものは済みまして、そのあと政治部将校から、俘虜の中で何か質問する事項があるかどうか、こういうことを言われました。最初つたのは濱田金八郎という男で、この男が立つて、われわれはほんとうに文化活動を展開したいのだ。しかし楽器もない、あるいは劇をするのにも材料が集まつておらない。こういうようなものはどうしてくれるのだ。こんな質問がまず第一に発せられました。これに対して政治部将校は、そういう心配はいらない。いろいろ準備を整えてあるから、お前たちの方でやる気さえあればすぐに便宜をはかろう。それからさらに被服問題について質問が行われております。だんだん寒くなつた。われわれはこの形でこの冬はとても過ごすことはできない。何とか考えてくれろ。特に防寒ジユバンをくれろ、あるいは手套をくれろ、あるいはくつをどうしてくれろ、こういつたような要求事項がありました。これについてもそれぞれ回答がありました。最後に問題になりましたところのこの要請問題でありますが、峯田という男が、われわれがこのカラカンダへ移されたのは、タシケントへは、お前たちは中間集結地として移動するのだ、こういうふうに言い含められて来たのである。ところがカラカンダへ来たら、この状況ではどうやら冬越しの準備をしなければならないような気がする。これはどういうことだろう。特にわれわれは三回も四回もこういうような目にあつた、というのは今度は帰るのだ、今度は帰るのだ、そう言われて汽車からおろされるのがとんでもない場所である。われわれはほんとうに何回となくごまかされて来た。今度もそういう気持で一ぱいである。われわれはいつ帰れるのだ、こういうことを質問いたしました。そのときに所長代理政治部将校を促しまして、政治部将校は、お前たちの帰国の時期については言うことはできない、こういうように答えました。その次に植松という男、前後いたしますが、峯田という男、それから植松という男、これはまだカラカンダ地区に残つております。その植松という男が、そうは言つても二十四年の三月にソ連では声明書を出しておるではないか。戰犯の疑いのある者を除いた九万五千というものは、十一月までに帰すという声明書が発表になつておるはずである。あれはうそなのか、こういうように質問いたしました。それについて政治部将校はあのことは反動には適用しないのである。お前たちが反動である限り日本へは帰れないのだ、というのは日本の共産党である徳田書記長からロシアに向つて、そういうように言つて来ている。それで帰国をするしないということは一にお前たち自身の事柄である。ほんとうによく働いて、ノルマを遂行して、ほんとうの民心主義者になつたときにお前たちは帰ることができるであろう。こういうように結ばれました。そのあとこれも政治部将校から、実は二回にわたつて話をしようと考えたのだが、これでやめる。あとの三百名の者には話をしない。たからお前たちが幕舎に帰つたらこのことを話を聞かなかつた者によく伝えておけ、こういうことを付言されて解散になりました。
  406. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 徳田書記長からそう言つて来ておるという、それだけですか。もつと内容を具体的に、こういうことがあるとか、手紙でも読まれたとかその点はどうですか。
  407. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 それは全然ありません。
  408. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ただ反動には適用しないのだ、このわけというのは、反動は帰すなということを徳田書記長から言うて来ておる、こういうのですか。
  409. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 そうです。
  410. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはもちろん将校がロシヤ語で言つたのでしようが、だれが通訳をしたのですか。
  411. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 菅という通訳であります。
  412. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなた方が聞いたのは、菅の通訳からそういうことを聞いたのですか。
  413. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 そうであります。
  414. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そのことを聞いて、そこの収容所におつたものは非常にシヨツクでも受けましたか。いかがですか。
  415. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 私の考え方から申し上げますればい大した反響はなかつたように考えます。というのは、この民主運動が起つてから、反動というものはとにかく日本に帰る資格はないのである。お前たちは日本には有害なのだ。これは常に民主運動に携わる者が口にすることであります。そのときに収容所の中でことさら沸き立つたというようなことはございません。ただ問題なのは、もちろんわれわれは民主運動に携わつておりませんので、クラブ等に出入りをし、直接ロシア側の将校からこういうようなことを聞かされたのは初めてなのでありますが、今市し上げますように反動は帰してはいけない。こういうことは常にもう言われておることであります。ただ私が問題にいたしますのは、そのときロシアの将校から徳田書記長という言葉が出たこと、それから日本共産党という言葉が出たこと、これだけは、私は少くとも強く響きました。
  416. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そのほか日本の共産党員でそういうような意味の通信なり意見なりを述べたことをお聞きになつたことがありますか。
  417. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 多分三月ごろでなかつたかと考えます。
  418. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 二十四年の……。
  419. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 はい。いや違います。われわれがカラカンダへ着いてからしばらくしてでありますから、今のは間違いであります。九月のしまいあるいは十月。はつきり申し上げることはできませんが、共産党の方から収容所の者だ向つて通信、はがきが来ております。これは食堂の壁に張つてあります。内容はしつかり私は記憶をしておりません。ただあなた方がしつかりした民主主義者になつてつてくれろというような事柄であつたかと、うろ覚えに記憶しております。
  420. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはたれからですか。差出人は……。
  421. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 差出人ははつきり申し上げることはできません。覚えておらないのであります。
  422. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 徳田球一と書いたはがきを見た人があると言うが……。
  423. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 私はそれを見ておりません。
  424. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 だけれども共産党ということはどうしてわかつた
  425. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 これは差出人の方に日本共産党、それから何か書いてありました。特に何々細胞というようなことを差出人の所に書いてあつたかと思います。中に一名女の人が出されております。これも党員であることははつきりしております。
  426. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 日本新聞に何かそういうような意見を述べておつた人があるということを聞いたのですが、それはごらんになりませんでしたか。
  427. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 反動を帰すなということでありますか。
  428. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうです。
  429. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 私は日本新聞でそういうような記事を見たことはありません。
  430. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなた方帰られるときに、船に乗つてからいわゆる日の丸梯団というものをつくられたそうですが、その経過を聞かしてもらいたい。
  431. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 六日の夕方乗船をいたしました。大体大部分の者は、タラツプを上ると同時に甲板上でいろいろデモを行つております。私どもは将校だけ集められて、一箇所にかたまつておりました。その夜十時ごろだつたと思います。日の丸梯団の結成をする、それでお前一つ副団長をやれ、こういう交渉を私は受けました。それから、もちろんおれはそれはいいことだと思う。しかしどういうようにやつて、どういうように一線をはつきり画するんだというような事柄については、まだあなたからそういうこまかい話を聞いておらない。だから今すぐここでもつて即答することはできない、こう言つて一応わかれました。
  432. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 たれからですか。
  433. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 山形県出身の尾形さんですが、しばらくしましたところがまた参りまして、とにかくみんな集まつているから一応来てくれろ、こういうことでありますので、行つてみました。ところがもうすでに団長もきまつている。それから副団長が二人だ。一人は日高さん、もう一人必要なので、お前なれ、こういう交渉を受けました。そのときに私はすぐ日高さんに、団長が久保田さんというのは、これは一応考えなくちやならないのじやないか、こう私は申し上げました。ところが日高さんの当時の考え方としては、しかし今ここで非常に混乱ということも予想するし、将来非常にむずかしいということも考えられる。しかしここを切り抜けてわれわれのかたまりをつくるのには、やはり久保田さんが一番いい、そう考えられる。しかしそのことについては私は慎重でなければならないと考える。しからば久保田さんのかわりにたれを持つて行くかということについてはむずかしいことであろうけれども、これもどこまでもよく考えなければいけないのだということを、私は日高さんに申し上げました。結局、結論として日高さんが言われるのに、久保田善藏をきめた当時の状況は、集まつた七、八名の者が全部久保田さんを支持しているんだ。だからとりあえず久保田さんでいいじやないか、こういうことを言われて、それではよかろうということで、私は副団長を引受けました。そのとき一部の人はもうすでに自分の船室に帰つて、われわれははつきりしたところの団体をつくるんだ、いわゆる日の丸というものをつくるんだ、こういうことを呼びかけておりました。翌日になつて船長さん、復員官、こういうよらな人にも、私は直接参りませんでしたが、日高さんとか久保田さん、そのほか二、五名の方が行かれて、われわれははつきりわかれたいということを申し伝えました。しからばよかろう、明朝すぐ船室を別にするからということを言われたそうであります。翌日非常にごたついておりましたが、われわれの仲間だけ一画を区切つて、その中に将校がいました。なおそのときに、これも私は自分で直接仕事をしておりませんが、私どもの反対側に立つた人々が、とにかくお前たちはわかれるならわかれるでいい。しかしこれ以上呼びかけをしてくれるな。お互いに同志の獲得はやめようという申し合せが、団長と団長の間でできたそうであります。次の日は大体前の晩ほんとうに先走つた人々の呼びかけに応じて集まつた者——おおむね三百六、七十名だつたかと思いますが、その者だけが一つの区画に集合いたしました。結成式はその日の十二時ないし一時ごろだつたと思いますが、行いました。以上日の丸ができたいきさつであります。
  434. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 舞鶴におりてから、日の丸梯団中で何かおもしろくないことがあつたという話ですが、それはいかがですか。
  435. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 それはおもしろいとふおもしろくないという問題ではないと思います。それは私と久保田氏の間柄のことを言つているんではなかろうかと、今自分で考えます。そのほかのことは何もなかつた。それから日の丸に入つている人で、ロシアにおつた当時自分の仲間を痛めつけ、それから自分がうまいことをしたという人を、今の言葉で言いますとつるし上げを行いました。この二件だつたと思います。今私が言うところの、ロシアにおいての行動がまことにまずかつたこと、それから非常に先走つていろいろの記事などを出したがるというようなことがありましたので、もつと慎重でなければいけないということが一件。これで二件。もう一つ、大きな声をはり上げてやり合つた私と久保田さんの問題、この三つだつたと思います。それ以上何もありません。
  436. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それじや久保田という人は、ソ連にいる間は民主グループとしてあなた方を痛めつけた人だつたんですか。
  437. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 私は直接には彼には痛めつけられておりません。
  438. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ほかの者はどうですか。
  439. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 なお私は、久保田さんとはほとんど個人的なつき合いをいたしておりませんので、このことについては私から申し上げられません。
  440. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 先走るというのはどういうことですか。
  441. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 これは舞鶴へ上陸してすぐでありますが、取調べのために隔離された男が一人おりました。名前は今はつきり出て来ないのでありますが、これがいろいろ新聞の記事を書きまして、それを直接新聞記者に手渡した、こういう事柄がありました。これはわれわれが一つの団体をつくつて行動していることから考えたならば、そういうことは愼まなければいけないということでありました。
  442. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなた方の方で、舞鶴へ上陸したときに、この徳田要請に対して参議院へ調査の懇請をしようじやないかということの話がまとまつたそうですね。それでどういうことをなさいましたか。
  443. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 原稿は多分岸さんが一番先に書いたのじやないかと思います。それでこれを正式に取上げるということになりまして、もうすでにその原稿は新聞記者の手に渡つたということを私は知りました。それからそれはいけない。そんな軽率なことじやいけない。これは十分懇請の内容というものを練る必要もあるし、それから将来どういうような影響がこれによつて出て来るだろうかというようなことも考えにやいけないし、さらにこの問題は少くも大きく問題が取上げられるだろうし、そういうような事柄から、ほんとうにこいつは全部の者が腰を落ちつけてしつかりしたところの態度で取上げられるべきだ、こう考えまして、その原稿を私が一応見まして、直すべきところ、それから入れるべきところ、こういうような訂正をいたしまして、実際につくつたのは私であります。
  444. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 簡單なことですが、二、三点証人にお尋ねいたします。あなたは当委員会に出頭する前に、お国で共産党の諸君とお会いになつたことはありませんか。
  445. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 一回もありません。
  446. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 あなたのところへ訪問して来たような事実はありませんか。
  447. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 ありません。
  448. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 ただいま証言中にありましたが、食堂の壁に張つてつたはがきは、これは聞き違いかしりませんが、女の名前のものもあつたそうですね。その女の名前は記憶ありませんか。
  449. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 記憶ありません。
  450. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 何枚張つてつたのですか。
  451. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 三枚ないし四枚でなかつたかと思います。
  452. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 それは、どういうふうなはがきでしたか。色なり、またマークでもありましたか。
  453. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 はつきり申し上げられません。
  454. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 女だということはどうしておわかりになつたのですか。
  455. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 字が非常に普通のはがきとは違つた感じを受けて、それから私はうしろを見たのであります。それで差出人がまさしく女でありました。何々代と書いてあつたことは確かでございます。
  456. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 その女の人も党員だとおつしやつたのですが……。
  457. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 何々細胞だれの何と書いてありますので、これは党員であるということははつきり申し上げられます。
  458. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 日高に対して、日の丸梯団をつくるときに、団長を久保田にきめることは考えものだということをあなたがおつしやつたそうですね。その考えものだという何か理由がありますか。久保田に対する人格なり、在ソ中の彼の行動なり、何かこれに反対する理由がなければならぬと思いますが、どういう理由ですか。
  459. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 彼は二十三年の暮れか二十四年の正月だつたと思いますが、ベグワードからアングレンへ参りまして、彼が参つてすぐに民主委員長になつております。なお彼が民主委員長になつてほんの半月か一箇月たつたくらいのときに、ベグワードの民主運動をやつて非常にまずいことがあつた。というのは、帰国のどさくさにまぎれて、全部に渡つたところの人のタバコを吸つてしまつた。あるいは共有金の一部をどうのこうのしたというような問題が起りまして、彼は民主委員長をそのときやめさせられておるのであります。その前の事柄につきましては、私は全然行動を共にしておりませんので申し上げられません。こういうような事柄は、結局少くも日の丸梯団指導者の位地につけるべき人ではない、私はこういうように考えました。
  460. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 そうすると久保田なる人は、在ソ中の行動から考えてみると、日の丸梯団の団長の器でないと思つて、考えものだとおつしやつたのですね。  それからもう一つ、舞鶴へ上陸されてから三件ほどのごたごたが起つたが、そのうちの一つで、日の丸梯団の団員中に、在ソ中に同胞をいじめた者もおつた、それをつるし上げた。それは何という男ですか。
  461. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 これも調べればすぐ出て来ると思いますが、今はつきりこの場所でもつて申し上げるほど記憶がありません。
  462. 梨木作次郎

    ○梨木委員 参議院へ調査を要請するということの署名運動が、舞鶴へおりてから久保田さんらによつて提案されたということを聞いておりますが、それはどのくらいの署名が集まりましたか。
  463. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 四十四名でなかつたかと記憶しております。これはしつかり人数を当ればよかつたのでありますが、私は大ざつぱに勘定したので、そのとき四十四名だつたというように記憶しております。
  464. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その四十四名の中にあなた入つておられますか。
  465. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 入つております。
  466. 梨木作次郎

    ○梨木委員 四十四名の方々は何かそういう事実について調書をとられまして、これをどつかへ提出したというような事実を聞いておられませんか。
  467. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 もう少し具体的に……。
  468. 梨木作次郎

    ○梨木委員 私たちは新聞で承知しておるところによりますと、反動を帰すなというようなことを徳田書記長がソビエト同盟言つてつたというような事実があるということを述べた調書というものが存在しておるということを、対日理事会のシーボルト議長から新聞を通じてわれわれは承知しておるのですが、その問題についてお伺いしたいのは、そういう調書をどこかでとられて出したという事実があるかどうか。あなたはその四十四名の一人だと伺うので、それをお聞きしたい。
  469. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 調書をとるというのはどういうことですか。
  470. 梨木作次郎

    ○梨木委員 だれかから調べられて、これこれこういう事実があつたかどうかということを聞かれて、そこで署名捺印をするかどうかしりませんが、そういうような調べをされたことがありますか。
  471. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 わかりました。署名には二通りあつたのであります。一つはいわゆる懇請書につけて出すところの署名、これはわれわれ幹部が全部に呼びかけて、実際に聞いた人は求て署名してくれ、こういうふうに署名の要旨をまわして署名をしてもらいました。もう一つはアメリカの進駐軍の翻訳部の方から呼び出されまして、こういうことがあつたかどうか、まさにあつたならば署名をするかどうか、いやなら署名しなくてもいい。今私が申し上げました宣誓内容と、おおむね同じような宣誓書が来ました。これを読んでわれわれは、少なくとも私は正しいと考えたことをはつきり書いて参りました。ほかの人も結局同じ要領だつたと思います。
  472. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そうすると、今あなたがここで委員長から問われて答えられたようなことを述べられたわけでありますか。
  473. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 そうであります。
  474. 梨木作次郎

    ○梨木委員 ほかの四十四名の方々もそういうように調べられたようでありますか。
  475. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 そうであります。多分そうだろうと思います。おおむね個人的に、参議院に出したところの懇請書に四十何名かの署名があります。これに基いて、アメリカ軍の方では日本語で書いてあるところの名前に従つて呼出しをしたものだと考えます。
  476. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そこでそういう署名運動があなた方らによつてなされた。それと並行して、一方ではそういう反動を帰すなというようなことを徳田書記長要請した事実がないという事実を知つておる人はひとつ署名してもらいたいという別の署名運動が、舞鶴収容所あたりで行われた事実は御存じありませんか。
  477. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 存じません。
  478. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それではあなた方らのそういう署名運動をなすについて、何か、当局側からそういうことをしてはいかぬ、政治活動に類したようなことはやつてはいかぬというような通達があつたというような事実はありませんか。
  479. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 ありません。
  480. 梨木作次郎

    ○梨木委員 自由にやれたわけですか。
  481. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 これは全然私どもは自由な立場でやつて参りました。このことに関しては、だれからも口をいれられたことはありません。
  482. 梨木作次郎

    ○梨木委員 もう一ぺん念を押してお伺いしておきますが、そうすると、参議院に出た調査懇請の内容は、大体あなたがいろいろ手を入れて、結局大体あなたがつくつたようなことになつているのですか。
  483. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 そうであります。
  484. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それからあなたがごらんになつた収容所に、日本から来たはがきでありますね。このはがきの文字でありますが、文字は片かなですか、平がなですか。まずそれをお伺いいたします。記憶しておられますか。
  485. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 記憶がありません。
  486. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 日本字であつたことは間違いないね。
  487. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 日本字であつたことは間違いありません。しかし大して上手な字ではありませんでじた。
  488. 梨木作次郎

    ○梨木委員 三つともですか。
  489. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 大体において字は上手でなかつたと思います。
  490. 木村公平

    ○木村(公)委員 あなた方の収容されていらつしやる中の一グループは、いわゆる労働組合の專従職員みたいなものが二、三人日本人の中におつて、それは別に作業も受けないで、たとえば宣伝文書を書いたり、あるいは新聞の編集を手伝つたりするような、いわば今の労働組合の專従職員に類するようなものがあるのですか。
  491. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 あります。
  492. 木村公平

    ○木村(公)委員 そうすると、そういう人たちは、ロシヤ風に言えばいわゆる民主化されておつたわけですから、他のものよりはおおむね優遇されておりましたか。
  493. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 完全に優遇されておりました。
  494. 木村公平

    ○木村(公)委員 そういうような諸君、あるいはその人たちからほめられたり、あるいはその人たちに見込まれたりすれば、早く帰れるというような具体的事実は、お感じになつたことはありますか。
  495. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 昭和二十三年は、この民主委員といういわゆる指導者、この民主委員会が帰国者の選考をいたしております。もちろんこれは、その日本側から出たところのものについてロシア側で再検討をいたしますけれども、まず一番先に人選というものは民主グループで行われております。これははつきり申し上げられます。
  496. 木村公平

    ○木村(公)委員 それからもう一点お尋ねしたいのですが、ソ連日本人の捕虜数十万人を自己の軍事作業に動員して、そうして過労のためにあるいは殺したり、あるいは粗食のために栄養失調の結果死んだというようなことがあります。これは歴史上かつてなき暴虐なソ連側の責任における行為なんですが、そこでその残虐な待遇を受けられた捕虜の一人として御感想を承りたいのですが、たとえば一日も耐えられないような重労働をしながら、ときには食を與えられない、欠食というような事態があなた方の場合に招来されたことがありますか。
  497. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 まずアングレン当時のことを申し上げます。多分昭和二十一年じやなかつたかと思いますが、ノルマ食というものをやられました。これは当時私はいわゆる組長を仰せつかつてつておりました。全部本気になつて働くのであります。ところがロシアできめたところのノルマというものは、ロシア人を対象としてきめられた制度だと思います。これが体力的にも違うところの日本人にそのままあてはめられますので、非常にむりなことが起つて来るのであります。特にアングレンにおりました当時は、私の組は全部土工に従事しておりました。相当みんながんばつてやるのであります。しかしながら一〇〇%はおろか、六〇%ないし七〇、この程度のパーセントをあげると上々な働きぶりだ、こういうような状況であります。ところが毎日毎日自分の組で働いたところのパーセントを監督に署名をしてもらつて持ち帰るのでありますが、これによつて一〇〇%以上とつたならば多く食わせる。それから八〇%だつたら一番少い。次に一〇〇%だつたら若干よけいにくれる。それから一〇〇%から一二〇%まではさらに多くくれる。それ以上やつたものはうんとくれる。こういうような方法をとられました。これがために、同じように働いてむしろノルマが上らないという仕事場は常に非常に苦しいのであります。がんばつてがんばつてつたところがこのくらいのパンで、隣の方の非常に仕事の條件のいいところにまわつたところのものは、比較的楽をしていいパーセントがとれる。そのものはありあまるほどのパンを食い、肉も食わされておる心こういうような状況が現出しました。まことにこれは困つたことである。このままこの状態が続いたならば、明いものは完全に参つてしまう。われわれはこういうようなやり方ではいけないのだ、何とかしてロシアの将校の目をごまかしてでも平等にしよう、こういうように心がけて参りました。このことは、大体二十三年の春だつたと思いますが、解消されまして、元通りに全部のものが同じものを食べることができるようになりました。
  498. 木村公平

    ○木村(公)委員 そこで結論的に申しますと、日本人が向うで捕虜になつておる、その捕虜諸君の受けられた感じは、結局われわれは何でもいいから民心化される、あるいは民主化されたような顔をしなければ日本には早く帰れないということを、ほとんど全員がそういう印象だけは受けておつたことになりますか。
  499. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 そうであります。
  500. 木村公平

    ○木村(公)委員 そうすると、たとえば民主化されたとかされないとかいうことをロシアの方で発見するために、スパイなんかを日本人の間に多く存置させておつたような事実がありますか。日本人同士の間に、あなたの行動をスパイするものを、アクチーヴとか何とかいう名前で入れて、広くあなたの言動を監視する、あるいは甲には乙をつけ、乙には丙をつけるというふうに、常に他人の行動を監視して、それを早く告げて来るものはアクチーヴと認める、あるいは他人の反動性を発見したものは優遇する、あるいは他人の反動性を幾つか発見したものは早く帰すとか、言葉でなく、そういうようなことが行われることによつて自分は早く帰れるのだというような印象を受けられた人をごらんになつたこと、あるいはあなた自身がそういうような印象をお受けになつたことはありませんか。
  501. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 印象でなくて、これは完全にそういうような組織を持つておりました。ただその組織が活動することによつて反動が帰れなかつたか、あるいはしつかり民主運動をやるものが帰れたか、その結果は私は申し上げられません。これはわからないのであります。但しそういうような組織をもつて活動しておつたことは確かであります。
  502. 木村公平

    ○木村(公)委員 そうしますと、こちらで民主化されたと称して、おどつたりはねたりしている人の思想の深さの問題になつて来ますが、その思想は、あたかも熱病のように一時的にかかつたもので、すぐさめる程度のものか。それとも三年、四年と訓育されたあなた方の御体験によれば、相当根強く植えつけられておるものですか、どうですか。あなた方のお感じ、ことにあなたは学校の先生ですから、そういう点については御観察が深いと思います。
  503. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 私は考えます。少くとも共産主義的な考え方を身につけたということは言い得ると思います。ただし、それが今あなたが申されましたように、ほんとうの共産主義者になつたかならないかということは、これははつきりいたしませんけれども、少くもものを見るのが非常に共産主義的な見方になつた。これはもうその見方というものは、身についたところのもので出ると私は考えます。
  504. 木村公平

    ○木村(公)委員 ありがとうございました。
  505. 横田甚太郎

    ○横田委員 簡單にお尋ねいたします。反動民主グループとのわけ方、これは一体どういうふうに分類して行くのですか。これはわけて行くのは、あなたたちがわけるのか、その点をひとつお聞きしたい。
  506. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 これは、ソ連将校は公然タツチをしてお力ません。ただ反動と呼ばれるのは、民主運動に参加をしない者、これが反動なんであります。実にロシアで呼ばれるところの、簡單な根拠の上に立つたところの言い方であります。私はこのことにつきまして、私見でありますが、申し上げてよろしゆうございますか。
  507. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 まあ簡單でいいでしよう。
  508. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 それじや、やめておきます。
  509. 横田甚太郎

    ○横田委員 証人が言うときに、何ぼ共産党から尋ねたからといつて、断らぬように。けちをつけられた質問はしませんが、その次には、そうすると大体反動と戰犯とはどんな関係にあるでしようか。いわゆる山田さんのように戰犯というのがありますね。そんなものとはどんな関係がありましたか。
  510. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 日本人の間では、全然区別はありません。日本人の間では、戰犯と反動というものをわけるところの何ら根拠がないからであります。
  511. 横田甚太郎

    ○横田委員 戰犯と言い、民主グループと言い、日本人自身がわけたのですね。
  512. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 そうであります。
  513. 横田甚太郎

    ○横田委員 それから次に、あなたは第二次高砂丸でお帰りになつたのですね。
  514. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 そうです。
  515. 横田甚太郎

    ○横田委員 その高砂丸の中で、日の丸梯団ができたことについて聞きたいのですが、一乗船されましてから、その船の中には、引揚げ促進のためにソ連の大使館に陳情に行つておるところの写真、あるいはまた交渉しておるところ、そういうような記事がたくさん出ておつて、船中において、一九四一年十二月八日の日本人の気持になつて帰ろうというようなことを五、六人が言うて歩いた。それに賛成する者は集まつてくれ、こういうことはあつたでしようか、なかかつたでしようか。
  516. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 船中ですでに写真が出ておつたのでありますか。
  517. 横田甚太郎

    ○横田委員 はあ。ナホトカから船にお乗りになりましたね。その船の中には、日本の引揚げを待つところの家族の方々が、ソ連の大使館に対して早く帰してくれといつて交渉に行つておるような写真が掲載されておりましたか。
  518. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 全然ありません。
  519. 横田甚太郎

    ○横田委員 それはまたあとで伺います。一九四一年十二月八日の日本人の気持になつて帰ろう、これに賛成の方は集まつてくれということを言われたのですか、言われなかつたのですか。
  520. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 そんなばかなことは、私に関する限りないと申し上げるし、あるいはもしあつたとするならば、私はそのことは知らないのだ、こういうように申し上げるよりしかたがありません。私は全然そういうことはなかつたと思います。
  521. 横田甚太郎

    ○横田委員 日の丸で送られて、日の丸を奨励されておるところの日本にお帰りになつて、そうしてまた日の丸を象徴したところの日の丸梯団というものをおつくりになつたのですが、その点を……。
  522. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 そのことに関しては、われわれはことさら日の丸というものをつけたのではないのであります。ただ彼らと一線を画するために、最もはつきりしたところの気持で帰るためには、彼らととにかく行動を別にしなければいけない。どういうふうにすれば別になるだろうか、はつきりした目じるしがないのであります。そのときに、だれか考えつきましたのが、ちようど看護婦さんが持つておるほうたいをもらおうじやないか、赤チンをもらおうじやないか、それで自然にできたのが日の丸なんであります。
  523. 横田甚太郎

    ○横田委員 それじや、ソ連の内部に現在残つておる戰犯と言われる人たちも、あなた方がソ連におつたときに一緒にやられたのですけれども、そういう人たちは戰犯であつても、戰犯には刑期がある。刑期が終れば必ず帰れるという自信を持つておる人が多いでしようか、あるいはそんな自信を持つておりませんか。
  524. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 これは実際刑を食らつた人に聞かれるのが至当なんであります。ただ私に聞かれるので、私の考え方を申し上げることになりますが、樺太でもつて刑を食らいまして、それからシベリアの方に送られた人々が相当来ております。これは私どもアングレンでも行き会いましたし、タシケントでも行き会いました。この人々から言わすれば、われわれはいつになつたら帰れるのか、そんな見当はつかない。刑が終りたんだから当然国へ帰すべきだ、われわれは帰れる、こういうように思うのが普通なんでございますけれども、ロシアの諸君方は、とにかく全然そんなことは考えられぬ。われわれは考えられない、こう言つております。
  525. 横田甚太郎

    ○横田委員 それじや、舞鶴の引揚寮のことをちよつと伺いたいのですが、あそこへ私も国会から国政調査に参つたのです。そのときには入れたのです。二回行つたのですが、そのときには、あなたの帰つた高砂丸じやないのでありますが、問題の起つた高砂丸でありまして、この高砂丸はおりるおりないで、えらいもめた。その間にいろいろいきさつがあつたのでありますけれども、それではいけないというのうで、国会から、これは正式のことではなかつたのでありますが、中山さんが行かれた。堤さんが行かれた。私も行つた。そのときに共産党以外はみな入れた。共産党が国会の紹介で、リード氏であつたか、だれだつたか忘れましたが、GSの係官の紹介で行つたのですが、私の場合にはほうり出された。それで私はお聞きしたいと思いますが、引揚者の中におきましては、ポツダム政令というものが出ておりましたので、一切の引揚者の政治活動は禁止されておつたと思いますが、新聞なんかによりますと、何か非常な対立があつたと書かれておるのですが、寮の中におきましても、そういう何か対立がましいことがあつたのでありますか。それとも船からおりて引揚寮にお入りになつてお帰りになるまで、輝寺に入つたように、じつとしておられたのですか。その点承りたいのです。
  526. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 決して禪寺に入つたような、じつとした状態ではありませんでした。まず第一にわれわれは船の中で、われわれの意識というものをはつきりしなければいけないと呼びかけました。さらにわれわれの反対側に立つ者のうちから、くずれてわれわれのところに入つて参りました。こういう人人にわれわれが默つていてはしかたがないというので、われわれはこういう人々に話をしました。少くもわれわれは、一番先にこういうような純粹な気持でおつたのだ、あなた方はそれに賛成するのかしないのか、ただうちに帰れるから帰れぬからというような考えからわれわれと一緒に行動してもらうのならば困る、われわれはそういう気持じやないのだということを私はやりました。
  527. 横田甚太郎

    ○横田委員 これは証人の方々でなくて、委員の方が怒られることになるのですが、委員の方々は冷静に聞いていただきたい。私たち共産党員は、日の丸の氾濫しておる時代に日の丸に反対してほうり込まれたのですが、赤旗を見ますときに、自由党の人が赤旗をきらうように、われわれから日の丸を見ると、戰争のときの日の丸りような気がするのです。そこであなたたちの日の丸梯団の考えは、そういう日の丸とは全然関係のないものと思いますか。
  528. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 戰争が終つてからのわれわれの態度というものは、あくまでも民主化された日本でなければならないと考えます。われわれ日の丸梯団の者が日の丸を胸につけたから、最も右翼的な、あるいは国家主義的な集まりだと考えられるのは、これは大きな誤りである。このところをひとつよく考えていただきたい。
  529. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それ以上は議論になりますから、よろしいでしよう。高木松吉君。
  530. 高木松吉

    ○高木(松)委員 抑留されてからこちらまで来る間の生活状態は、どんな生活をされたか。牛馬のような生活をされたということを聞いておるが、その具体的事実を明らかにしてもらいたい。
  531. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 これは結局その人の体力、あるいはものの考え方、これに起因すると思います。
  532. 高木松吉

    ○高木(松)委員 いや、ちよつと待つてください。人間の生活というのは、ある程度客観的にきまつておるものであります。主観的の体力とか、気持の持ち方によつて多少の差はあつても、客観的にものを見ることができる。われわれはあまり残酷な生活をさせられるような状態に置くものを、牛馬のようにこき使うとか、牛馬のように追い詰めているとかいう言葉を使つておりますが、抑留生活の生活実体がそうであつたということを数々聞かされております。証人からも聞いております。そこでその具体的の事実をはつきりと申し述べていただきたい。
  533. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 まず労働の時間から申し上げます。八時間ということになつております。しかし実際に働く時間が八時間であるためには、仕事場の関係から、収容所を出るのは六時半ないし七時、それから八時間ぴつちり働いて帰つて来る。また帰りには帰るだけの時間があるわけであります。それで実際に収容所を出て、帰つて来るまでは十時間以上になります。次にまた常に問題になるのがノルマでありますけれども、このノルマができるできないということは、収容所側にとつては大きな問題なのであります。何とかして金をかせがないことには、収容所の経営は成り立たない、これがためにあらゆる方法を魅してノルマ遂行を言うわけであります。言うということは結局それをしいるということであります。なお何ぼやつても成績が上らない者は、帰つてからいろいろの作業収容所側から言いつかります。これは大体一時間ないし二時間程度の仕事、それからあの国の規則として、一箇月に四日間休みを認めておるというのは原則だけであります。実際にわれわれはそういうような目にあつたことはありません。大体休める日、日曜日というのは、平日は常に使われる、実際に自分のからだになつて休めるのは、まあうまく行つて半日、それからわれわれは仕事の最中に一服いたします。休んでいると、そういうのを見たときに、まず大部分の監督は、すぐにそれをとがめます。ロシアの人々は、のべつまくなしに働くという習慣があるのであります。ところが日本人は、一時間働いたら十分ないし十五分休んで一服をするという習慣があるのであります。日本人がそれをやると、それはサボつているんだと言われて、いやでもおうでも足を上げなければ、けつを上げなければならないという状況であります。  なお今度は被服の問題になつて来ますが、これも寒いときに、適時適切な被服などが行き渡ればいいのでありますけれども、相当程度のいいものが当ればいいのですけれども、少くも私に関する限りは、新しいりつぱなものが支給になつたことは、くつにたとえれば私ども一定しかもらつておりません。帰つて来るときに一足、その前に一足、私はたつた一定であります。  それから今度は食の方でありますが、われわれは働かなければならない立場なんだからどこまでも働く。しかし働くためには腹いつぱい食わしてくれ、こう言うのでありますが、ロシア人の考え方はそうではない、食いたかつたら働け、働いたら食うのだ。われわれはそうではない、まず食わしてくれ、そうすれば働くから。全然逆でありまして、腹ぺこで労働をやらされるということ、これは四年間通じて皆非常に苦痛に感じたところではないか、私なんかはそういうふうに考えております。
  534. 高木松吉

    ○高木(松)委員 そういうことを聞きますと、栄養失調、過労、寒気のために相当の人命をなくしておると思いますが、それを目撃した事実はありますか。
  535. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 栄養失調のことに関しましては、二十一年、二十二年夜盲がはなはだしく出ました。それでふらふらしてしようがない。このときに炊事に行つて、牛の骨をもらつて、その髄を皆食べました。そうすることによつて夜盲なども逐次よくなつて来る。これは栄養生調を物語る最もいい一つの例ではないかと考えます。  それから凍傷のことに関してでありますが、私のおりましたアングレンというところは比較的暖かなところでありまして、非常に少い凍傷ではありましたけれども、患者は出ております。そうすると医務室の方では非常に警戒をいたします。凍傷を起したり、病気になつたり、けがをするのは完全にサボだ、お前たちは働くのがいやだから凍傷になるのだ、あるいは指を切り落すのだろう、あるいは足をとつてしまうのだろう、こういうことをそのたびごとに言われております。
  536. 高木松吉

    ○高木(松)委員 そこで話が出ましたからお尋ねするのであるが、病人に対する待遇などはどういう待遇をしておりましたか。
  537. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 これは医務室を設けてあります。そこに勤務する者はロシア側のお医者が一人、それから看護婦、日本側の医者が一人、それに衛生兵、こういうような者で編成されております。それでロシア側から支給になるところの食べものは普通のわれわれとは量が違います。この量を今はつきり申し上げることは私は記憶がありませんからできません。とにかくわれわれは別の量で受取るということはたしかであります。とにかくロシア側では病気になるということを非常にきらいまして、たとい病人になつても、医務室としては医務室のノルマがありまして、それ以上の病人が出てもそれを休養させるということは非常に困難な状態にありました。それで熱の出ている者、あるいはからだの全然動かないような者を、われわれはほんとうに自分の肩にひつかけて仕事場に連れて行つて休ましたという例もあります。なおロシアでは、病人かどうかということを判断するのは、一に体温計によるのであります。とにかく熱かなければどんな病気でも病気として取上げられない、こういうのが実情でありました。
  538. 高木松吉

    ○高木(松)委員 病人に対するそういう取扱いのために、結局生きらるべき者でも死んでしまつたという事実を目撃したことがありますか。
  539. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 私は医者でありませんので、そういうことについてはお答えができません。
  540. 高木松吉

    ○高木(松)委員 医者でありませんから、医学的に追究するのではありません。ただそういうような風評なり、各自常識的にそういう話合いがあつたかないかをお尋ねいたします。
  541. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 一つこういう例がありました。二十三年の夏だつたと思います。この男は生来慢性の胃腸をわずらつておりました。それで長いこと医務室に通つてつたのでありますが、ロシア側の将校から、お前ばどこも悪くないのだ、お一別は非常にヒートリーだ、お前は非常にずるいということであります。お前は非常にずるい。こういうことを言われまして、その男は非常に憤慨をいたしまして、ロシア側の職員、それから日本人側の職員の留守を見はからつてちようど晝のときでありましたが、あの解剖用のメスをもつて自分の動脈を切つて自殺をいたしました。はつきり申し上げられる例としてはそそんなものだと思います。
  542. 高木松吉

    ○高木(松)委員 ソ連側の死者に対する取扱いの実相をお話をいただけませんか。
  543. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 私と一緒に働いている人々の中では、死んだ人がありませんので、はつきりしたことを申し上げることはできませんが、聞いた話でよろしければ申し上げます。死ぬというと全部解剖にふされます。解剖室はおおむね私のアングレン収容所では風呂場であります。そこで解剖にふされまして、棺の中に入れられるときには、どれだけのものを着せられたか、はつきり申し上げられませんが、とにかく服などは全部とられております。これは日本人の考え方としては、たとえ死んだ者でも何か着せてやるというのが普通なのでございますけれども、上に着ている服など、それから袴下もとられたのではないかと思います。だが何かは着せたと思いますが、とにかくそういうような状況で埋められます。これはもう全部日本人側で柁に入れて墓に持つて行つて埋める。なおこの葬式には、ロシア側の職員は一回として顔を出したことがないのであります。このことについてわれわれは民主委員を通じて、少くもロシアのために働いておつて、過失であろうと何であろうと死んだのだ、ほんとうに気持があつたら、こういうようなところにもロシアの方々に顔を出してもらいたい、あるいは出てもらうのが普通じやないか、こういうようなことを民主委員に話をしたことがありましたが、一回もロシア側の将校あるいは職員、そういう人人は顔を出したことはありません。
  544. 高木松吉

    ○高木(松)委員 最後に結論としてお尋ねしたいのだが、あなた方の抑留生活の実態を見て、そういう事実が人通上許されるものと考えられますか。この点に対するところのあなたの確固たる観察は……。
  545. 小笠原唯雄

    ○小笠原証人 私は人道上許されません。
  546. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは済みました。御苦労さんでした。  次の証人を呼んでください——。答えるときは委員長の許可を得て答えてください。答弁は質問に対する要旨だけ簡單に答えていただきます。日高清さんですね。
  547. 日高清

    ○日高証人 はい。
  548. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 お幾つですか。
  549. 日高清

    ○日高証人 三十四歳です。
  550. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 兵隊に行かれる前の経歴、その後のお帰りになるまでの足取りを概略でよろしうございますから……。
  551. 日高清

    ○日高証人 それでは簡單に質問に答えます。原籍は福岡県糸島郡可也村稲留四百十四番地。現住所に原籍地に同じ。生年月日、大正四年八月二十一日、家業農業、いえに育ちまして村の小学校を卒業、爾後県立中学校に進みまして卒業、満洲大同学院の教授半田敏治氏に満洲に呼ばれまして、支那語の勉強をいたしました。爾後昭和十一年一月十八日福岡第二十四連隊に入隊、甲種幹部候補生に合格、爾後ハルピン歩兵第四連隊において見習士官勤務、終了後満洲国軍政部職員として奉職、爾後満洲国陸軍興安学校に入校、卒業と同時に満洲国日系軍官として同興安軍官学校に奉職、爾後終戰まで八年間同軍官学校の教官として奉職いたしました。昭和二十年八月十五日大東亜戰争の終戰と同時に公主嶺において捕虜となりまして、同年十一月一日アムール渡河、ソ連に渡り、ウズベツク共和国ベグワード地区二百八十八収容所第一分所に収容をされたのがちようど十一月二十五日だつたと記憶しております。その後二百八十八地区の第五分所、さらにタシケント第九分所、同アングレン地区第六分所を経てカラカンダ九十九地区、九分所、さらに十五分所へ行き、本年一月の二十日ナホトカ収容所に収容されて、二月九日高砂丸において上陸したものであります。終ります。
  552. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 カラカンダ地区においでになつたときに、日本共産党書記長徳田氏からの要請があつたといつてソ連当局から皆さんへ聞かされたことがございますか。
  553. 日高清

    ○日高証人 ございます。
  554. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そのときの大体の模様、それから内容を聞かしていただきたい。
  555. 日高清

    ○日高証人 場所を省きます。時期は昭和二十四年九月の十五日十時ごろだつたと考えております。場所は九分所のクラブ、その集会の席上におきまして、今質問をされた日本共産党徳田球一氏からの反動分子を返すなという達しが政治部将校よりありました。あつたことは事実であるということをはつきり証言いたします。
  556. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういう内容のことを聞かされましたか。
  557. 日高清

    ○日高証人 集会の内容をざつと申しますと、最初政治部将校から世界の情勢、特に民主勢力の拡大現況、日本の民主化の状況、こういうことについていろいろお話があつた後、われわれ捕虜の質問に入つたときにおきまして、峯田、次に植松というのがおのおの帰還問題について質問をいたしました。その峯田、次に植松。特に植松の質問におきましては、ソ同盟政府は本年の十一月末までには、戰犯として取調べ中の一団を除いて、全部返すということを五月の十五日ごろ発表した。われわれをいつ返すのであるかという單刀直入な質問をいたしました。そのときに政治部将校の、名前ははつきりと当時は存じませんでしたが、たしかし級中尉だつたと思います。それが立つて次のように答えました。日本共催党書記長徳田球一氏からの要請によつて、みなは良心的に民主主義者になつて勉強しなければ、絶対に民主主義者にならないものは返さないようにということを言つて来ておるからということを、力強く説明をしたことをはつきりと私も聞いたわけであります。それによりまして、今までいわゆる反動扱いをされて来たところの若い人は非常に動揺を来しまして、私のところにも、今まで非常に親交をかわしておつた数人の百年も若干動揺いたして、この際要求されるままに一応民主主義者、いわゆる共産主義者というものになろうと思いますが、ならなければ帰れないのではありませんかということを、人目を忍んで聞きに来たというような事実もあります。以上が当時の状況の概要であります。終ります。
  558. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは何か文章なり、またそういうものを読んで聞かせたのですか。そうではなくて、ただそういうことを口で言つただけでありますか。
  559. 日高清

    ○日高証人 文書を読んだのでなくて、そのときは政治部将校が口述をもつてわれわれに述べた、こう私は思つております。
  560. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 だれが通訳して聞かせたのですか。
  561. 日高清

    ○日高証人 通訳は菅季治という通訳——その当時菅はカラカンダ地区のたしか民主委員をやつておりまして、カラカンダ地区では工作委員言つてつたのでありますが、ほとんど九十九地区の特権は握つてつた思つております。その菅季治氏が通訳を兼ねまして、政治部将校の話の内容をわれわれに伝えたような次第であります。
  562. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そのほかにも何か文章なりまた論説というか、所説なり等でそういうようなことを日本共産党の人人から言うて来たという事実はありませんでしたか。
  563. 日高清

    ○日高証人 九月の十五日の翌日、たしか十六日だつたと思いますが、日本共産党徳田球一氏の方から手紙が来ておるから、手紙伝達式をやるから全員集合せよ、こういうふうに私たちは呼びかけられたのでありますが、前日の集会の内容もいろいろありましたので、私はからだが悪いということにかこつけて、その伝達式の式場には世なかつたのであります。爾後たしか食堂つたと思いますが、その手紙が張り出してあつたように思います。私はその内容には目をつけなかつたので記憶しておりませんが、たしかそうした意味の手紙が張り出してあつたようにうわさもされておりましたし、私も遠目に見せかけたようなことがあります。
  564. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 式のあつたことはあつたのですね。伝達式があつたことは間違いないですね。
  565. 日高清

    ○日高証人 式が十六日に確かにあつたということははつきりしております。
  566. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 伝達式というのはどういうようなことをやつたのですか。
  567. 日高清

    ○日高証人 徳田球一氏から来たところの書簡を基準にして、激励の辞を民主委員あるいはアクチーヴ諸君が述べる、そうして思想的な啓蒙をやるというのが目的ではなかつたかと私は考えております。
  568. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 徳田氏の手紙以外に何か手紙なり印刷物なり見たことはありませんか。
  569. 日高清

    ○日高証人 そのほか私ははつきり確認したものはありません。しかし日本新聞におきましては、一応そうした記事が載つてつたように記憶しております。
  570. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 だれかの談話とか、原稿とかいうことですか。
  571. 日高清

    ○日高証人 特に私が記憶いたしておりますのは、終り方ですが、野坂參三氏のいろいろな社説ともうしますか、解説と申しますか、そういうものが帰還者読本となつて日本新聞に掲載されておつたというような記憶を持つております。
  572. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 大体どんなようなことが書いてありましたか。
  573. 日高清

    ○日高証人 書かれている内容は、現世界の現況と日本国内の状態というものと、われわれ在ソ生活中に学ばなければならない、また帰還にあたつてこの覚悟というようなことが主要なるテーマとして書かれておつたように思います。
  574. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなた方お帰りのときに、船に乗つてからいわゆる日の丸梯団というものを結成することになつたそうですが、その動機から結成するまでのことの概略だけを聞かしていただきたいと思います。
  575. 日高清

    ○日高証人 内容が非常に複雑であり、長くかかりますので、ごく概要を申し述べたいと思います。  一九四九年十一月、われわれはすなわち昭和二十年の十一月ベグワード地行区第一収容所に収容された直後、私はソ連の企図しておるところの思想攻勢を非常におそれまして、内心ひそかにこれに対するところの対策委員会というようなものが必要でないかということさえ考えたことがあつたのであります。しかしそれは民主運動の進展と、旧日本軍幹部のだらしなさというものから、そうした思想対策云々というようなことはできなくなりました。私は静かに流れ行くままに、いろいろラーゲル内の思想動向をながめておつたのでありますが、そのうちに若干の心ある者は私のところにやつて来まして、このままではというので、心ひそかに憂えておつたような次第であります。だんだん民生運動が進展いたしまして、非常に皆が動揺を来し、ラーゲル内も混雑の極に達しつつあつたというときにおきましても、やはり日本民族を憂え一日本の国を憂うる者が、強固な意思と熱意を持つて私のところに非公式に、内密裡に、深夜あるいは休日の夕刻あたり連絡に参つておりました。これらとはいろいろな思想的な問題、あるいはラーゲル内の現況に対するところの問題解決というようなものを、私の思想を交えて話しておつたわけであります。これらを発覚されまして、ソ連の官憲からは日高一派、あるいは日高一党というようなものを指摘されまして、ひどい追究をされたような次第であります。これでは危険といいますか、おもしろくないというので、そういうことは一切やめようといつて表面はやめておりましたものの、やはりそうした気持の持主は私を中心にいろいろ集まつて来たような次第であります。一九四八年九月二十六日、第五分所に二百八十八地区の管下の四つの収容所が集められたときに、そこにソ連関係から、あるいは民主グループ委員から黒龍会と言われておつた眞下中尉を一派とするやはり反共分子十八名のつどいがありました。これらと私のいわゆる日高一派といいますか、日高一党といいますか、こういうものがそこで合流をしまして、われわれは偽りのないかたい信念、かたい思想を持つて、そして在ソ間在ソ生活がいつまで続くかわからないけれども、この気持で闘い抜きたいというかたい握手をかわしたことをはつきりと記憶しております。その後タシケントアングレン等へ行きますと、わが党の士といいますか、反共主義者が非常に多くありました。アングレンでも私たちに共鳴する者、私たちの気持を容認してくれる者が多数おりまして、いよいよ私たちのグループは数を増したような次第であります。それからソ連関係からいろいろと私も思想問題で取調べを再三受けましたし、また私の前職関係について取調べを受けたので、このままに放置しておいたならば非常に危険な状態にわれわれはさらされ、前職でなくても思想でひつかかつて帰ることができないようになるからと戒め合い慰め合いつつ、一九四九年の九月を迎えたような次第であります。爾後カラカンダに集結を命ぜられまして、やはりウズベツク共和国のそうした反動と言われておつた者、前職者、これが集合いたしたような次第でありますが、カラカンダにおいてもやはり私たちと気持を同じくする者があつちこつちおりまして、またそこで一段と私たちの勢力と申しますか、私たちの同憂の士と申しますか、これらがつどい合つたような次第であります。どうしてもこの気持でもつてわれわれは日本へ帰りたい、純真なこの気持で、偽りのない気持で、ほかの者はどうあつても、われわれは帰りたいという気持がやがてはナホトカに集結したあかつきに、こうした日の丸梯団という、偏りのない純真な日本人の気持で帰ろうという動機をつくつたものであると、こう思います。  ナホトカに集結している間におきましても、陰に陽に、特に表面化することを警戒をしつつ、秘密裡にわれわれの同志はつどいまして、そして乗船と同時にわれわれはわれわれだけのグループをつくつて日本に上陸をしなければいけないという大体の打合せをいたしたような次第であります。乗船と同時に闘争を開始しまして、あらかじめわれわれが打合せておつた組織というものをつくり上げまして、この帰る梯団を何としようというところでいろいろな発言がありましたが、これを日の丸梯団としてわれわれは組織し命名しようということに決定されたわけであります。
  576. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何かそのときに、結成に当つて久保田君を団長にするとかせぬとかいろいろ議論があつたそうですが、それはどういうことなんですか。
  577. 日高清

    ○日高証人 団長で帰つて来ました久保田氏に対しましては、率直に申しますと、彼の在ソ間における生活態度、あるいは満洲生活における彼の経歴というようなもの、あるいは彼の性格というようなものに大衆のいろいろな反駁がありまして、久保田氏ではわれわれはついて行けない、あれが団長をやるのであつたならばわれわれは日の丸梯団に入らないという声が非常に高まつて参りました。そうして私にその団長をやつてくれということを、抑留者からも軍事捕虜からも言つて参りましたが、私どもとしては、久保田氏にこの際船の中でもよろしいからやらせた方がいろいろな面において無難であるし、スムースに行く、こうにらみましたので、久保田氏をむりに推薦いたしまして、やつてもらつたような次第であります。
  578. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それらの人は舞鶴におりてから、この徳田要請に関して参議院に調査方を懇請しようというので懇請書をつくつたそうですね。そのいきさつは……。
  579. 日高清

    ○日高証人 懇請書作成の動機は、舞鶴に上陸をして寮に収容されておつたときの問題だと思つております。で、ある日の丸梯団の一人が、こういう事実があるのをゆるがせにしておくわけにはいかない、今残つている者のためにもどうしてもこれを明らかにして一日も早く帰れるようにしなければいけないという提議がありまして、これを久保田氏が取上げまして、私に何とかそれをつくり上げろということを言われたのでありますが、私はちようど進駐軍関係からの取調べを受けるために隔離をされまして、その問題に触れることができなかつたのであります。たしか私のあと、小笠原氏がつくり上げられたんじやないか、私がおらなかつたために、小笠原氏がつくり上げられたんじやないかと私は記憶しております。その件でははつきり知りません。
  580. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ほかに何かありますか。内藤君。
  581. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 ただ一点お伺いしますが、日本新聞は、あなたは抑留生活中何回ほど読まれました。
  582. 日高清

    ○日高証人 抑留生活中ほとんど私は配布される新聞に目を通しました。
  583. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 日刊ですか、毎日……。
  584. 日高清

    ○日高証人 日本新聞は毎日は参りません。たしか順調に来て、一箇月に私は十回くらいわれわれのところには渡つたと記憶しております。
  585. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 それは抑留者の一人一人に渡るほど新聞が来ましたか。
  586. 日高清

    ○日高証人 たくさん来るときは一人一人に渡りますが、大体は二十人に一枚とか、あるいは十人に一枚とかいうような割合で参つたように思います。これに関しましては、ハバロフスクに近い所はよけい来たと思いますが、遠隔の地、特にウズベツク共和国あたりは非常に少かつたと記憶しております。
  587. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 そこであなたの証言中に、野坂參三の文章があつたという御証言がありましたが、どういう内容であつたか。特に帰還後のいわゆる抑留者の心がけといつたようなものを書いてあつた証言されましたが、それについていま少し記憶を呼び起して、詳細なことを承りたい。
  588. 日高清

    ○日高証人 これは四九年の末期における新聞だつたと記憶しておりますが、野坂參三氏の書かれた内容として、帰還者に必要な帰還者読本として、日本新聞に掲載されたものであつた、こう記憶しております。その内容はさつきも申し上げましたように、世界民主陣営の現況、それから日本国内の状況、特に日本における現在の政府の態度、それから勤労者、農民の姿、それから農村の土地改革の問題、それから重税の、いわゆる納税の制度の問題、吉田政策はどうであるかというような、日本国内の問題、これに対するところの私たち帰還者、在ソ生活者の決意、態度、任務というようなものが書れてあつたよう思つております。
  589. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 その帰還者の任務というのは、どういうものですか。
  590. 日高清

    ○日高証人 われわれはあくまでプロレタリアートとしての立場から、正しい見解を持つて、上陸後は闘争しなければいけないというような意味のことが書かれておつたように思います。
  591. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 それからもう一点、これは昨日の証人からもちよつと聞いておいたのですが、舞鶴へ上陸しますと、非常に民主クラブの連中がデモをやつたのですね。ところが、それがたいへん国民の反感をかつた。そこで野坂參三の名において、ああいうデモは将来やらずに、仮面をかぶつて上陸をした方がいいというふうな、何か指令的な文書はごらんにならなかつたのですか。
  592. 日高清

    ○日高証人 それについては何も確証は持ちませんが、そういう指令があつたということをうわさされておつたことは聞いております。
  593. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 それは日本新聞には見なかつたけれども、野坂參三の名においてそういう指令が来たということを、お聞きになつたのですね。
  594. 日高清

    ○日高証人 野坂氏の指令において、そういう態度に出ろとか、指令があつたというようなことは、はつきり聞いておりません。上陸後におけるところの……。
  595. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 日本共産党の名においては、何か参りましたか。
  596. 日高清

    ○日高証人 私の見解では、そういう折合とかあるいは連絡というものは、日本共産党、あるいはその他の党関係の人からの名において来ておることは、これははつきり言えると思います。
  597. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうすると、あなたのところは遠かつたから日本新聞は来たり来なかつたりしたようですね。
  598. 日高清

    ○日高証人 そうであります。不円滑です。
  599. 高木松吉

    ○高木(松)委員 ただいま帰還者読本の問題を内藤委員からお話になりましたが、野坂參三氏の書かれた帰還者読本の内容の大綱は大体言われたが、いま少し詳細に、あなたがお読みになつて、現在記憶にあられる程度のことを詳細にお述べになつていただげませんか。
  600. 日高清

    ○日高証人 これについては、不勉強で内容の詳細のことは述べることができないのであります。
  601. 高木松吉

    ○高木(松)委員 いや、あなたが知る範囲の詳細なことを述べていただきたい。
  602. 日高清

    ○日高証人 今答えましたので、私の知つておる範囲というのは大体終つております。
  603. 高木松吉

    ○高木(松)委員 今のは、大体の項目をあげられたのだが、私の聞きたいことは、その項目をあげられたことについて、野坂君がいろいろ書いてあると思う。その書いてある事柄、野坂氏が何をねらつてあなたがたにこういう読本を出したかというようなことを承知いたしたいのです。読んだ立場において、どういうことをその当時感ぜられたか……。
  604. 日高清

    ○日高証人 的確な答えを申し上げることはてきないのでありますが、結局は党勢力の拡大のための一つの宣伝、煽動であつたと、私はこう思います。
  605. 高木松吉

    ○高木(松)委員 それでは具体的に私から伺いますが、記憶を呼び起してお答え願いたい。抑留者が、いわゆるソ連側の言うような民主化をされなければ日本では受け入れられないというような意味の文章の内容はございませんでしたか。
  606. 日高清

    ○日高証人 結言としては、民主化されなければ受け入れないというよりは、日本に上つても価値がないというような意味のことは、たくさんに盛られておつたように記憶しております。
  607. 高木松吉

    ○高木(松)委員 日本に上つても価値がないということは、日本に来ても使い道にならないということですか。
  608. 日高清

    ○日高証人 答えます。日本のいわゆる共産党の要求するものは、りつぱな民主分子である。いわゆるりつぱな共産分子である。日本の現況が要求しているものこそりつぱな共産分子であるということを、強調してあつたように思います。
  609. 高木松吉

    ○高木(松)委員 そこでお伺いしたいのは、完全に民主化されなければならないという言葉の表現によつて現わされる内容は、共産主義者にならなければだめであるという、断定的なものでありますか。
  610. 日高清

    ○日高証人 新聞の面におきましては、それだけはつきりした記事は、私は読んでおりません。カラカンダ地区における十五日の集会におきましては、それははつきり証言いたしますが、帰還者読本の内容におけるそうしたところの要請は、はつきりとここでは証言できません。
  611. 高木松吉

    ○高木(松)委員 私の聞かんとすることは、その言葉が現わす内容、完全なる民主主義とは、完全なる共産主義をさすのであるかどうかということです。
  612. 日高清

    ○日高証人 肯定いたします。
  613. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ほかにありませんか。
  614. 梨木作次郎

    ○梨木委員 舞鶴へ上陸されまして、先ほどのあなたの証言によりますと、進駐軍に隔離されたとおつしやいましたが、これはどういうことを調べられたのでありますか。
  615. 日高清

    ○日高証人 答えます。これは私が以前奉職しておりました興安軍官学校というのが、ソ連におきましては一つの謀略学校ではないかというような見解を持つてつたわけであります。従つてそれに関して私がソ連で取調べを受けたので、それに対するさらに取調べを進駐軍でやられたわけであります。
  616. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そこで舞鶴でいわゆる徳田要請問題について、参議院の調査を懇請しようということで、署名運動というものがなされたわけでありますか。
  617. 日高清

    ○日高証人 ありました。
  618. 梨木作次郎

    ○梨木委員 それに署名した人は何人くらいでありましたか。
  619. 日高清

    ○日高証人 私はたしか属名の数は四十四枚あつたと記憶しております。事実は、何かロシア語の関係で一人あつて、四十三名だつたというようなことも言われておりますが、私の記憶は紙が四十四枚あつたように思います。
  620. 梨木作次郎

    ○梨木委員 そこでその四十四名の方方は、またそれぞれ進駐軍に呼ばれていろいろ調書とられたというようなことを、あなたは御存じありませんか。
  621. 日高清

    ○日高証人 一応四十四名の者は、進駐軍から調査を受けました。
  622. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなたも……。
  623. 日高清

    ○日高証人 私も受けました。
  624. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなたはどういうふうに調べられてどう答えましたか。
  625. 日高清

    ○日高証人 いわゆるカラカンダ地区におけるこうした徳田球一氏の要請問題に関して、事実であつたかなかつたかということを非常に具体的に調べられました。
  626. 梨木作次郎

    ○梨木委員 今お答えにたつたようなことをあなたは答えたのですか、
  627. 日高清

    ○日高証人 そうであります。
  628. 梨木作次郎

    ○梨木委員 舞鶴であなた方の連動が起るや、それと対抗するかのごとく、祖国人民に訪うという文書で、そういういわゆる徳田要請問題という要請のような事実はなかつた、なかつたということにひとつ署名してもらいたいという運動が起つた事実は御存じありませんか。
  629. 日高清

    ○日高証人 私はそれは存じておりません。
  630. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなた方はこういう連動をなさるについて、何か集合のようなものを集会ですな、こういうものをなさつた事実はありませんか。
  631. 日高清

    ○日高証人 それに関しては、私は別室におりましたので存じません。
  632. 梨木作次郎

    ○梨木委員 しかしそういう運動をするについて、当局から何か禁止的なさしずというもの、やつちやいかぬという措置がとられたとか、やつちやいけないというようなことを言われた事実はありませんか。
  633. 日高清

    ○日高証人 署名運動でございますか。
  634. 梨木作次郎

    ○梨木委員 ええ、あなた方が参議院に対してこういう署名運動をすることに対して、そういうことをしちやいかぬというようなことを当局側から言われた事実はありませんか。そういうことはやつちやいかぬということを禁止された事実はありませんか。
  635. 日高清

    ○日高証人 存じません。
  636. 梨木作次郎

    ○梨木委員 高砂丸に乗つておられる時分に、日の丸梯団を結成しようというようなことになつて、いろいろそういう日の丸梯団の結成に賛成する人を集めるために、船中でスピーカーを使つて集合するように呼びかけたという事実はありませんか。
  637. 日高清

    ○日高証人 それに関しましてはお互いの協定で、これは復員官、船長を中心とし、日の丸梯団の幹部五名、それから何と申しますか、今村梯団の幹部五名が集まりまして、そういうことはお互いにやめるという協定をしておつたのでありまして、お互いにやつておりません。
  638. 梨木作次郎

    ○梨木委員 内地へ、お帰りになつてからの内地のいろいろな婦人の問題とか、パンパンがたくさんふえたとかいう問題について、あなたが感じられた感想を簡單におつしやつていただけませんでしようか。
  639. 日高清

    ○日高証人 簡單に答えます。現在の東京を見ました私の直感といたしましては、非常に青年男女あたりがだらしない生活と申しますか、だらしないかつこうをして歩いておる者がある。あるいはまた用もないのにぶらぶらしておる者がある。これら敗戰後における日本国民としての自覚の足りないものがある。また指導者、為政者としても、これに対するところの早急の処置をなさるべきである、こういうふうに両方に責任があると私は痛感いたしております。
  640. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなたは向うで他人から反動と言われた、こうおつしやるわけですが、それはいわゆる民主グループというように聞いておるのでありますが、民主化に反対されるわけなのですか、そういう点は……。
  641. 日高清

    ○日高証人 はつきりお答えいたします。私は民主主義者としては、ひけをとらない生活をロシアにおいてやつて来ました。中隊長をやりましても、私がまつ先に背の下士官、兵隊と一緒に働いたことも、皆に聞いていただけばわかると思います。しかし民主主義にもいろいろございまして、私の反対した民主主義なるものは、共産主義が反対でありまして、その点ははつきりしていただきたいこう思うのであります。
  642. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その次に伺いたいのですが、内地へお帰りになつて、内地の状況を見て、あなたの考える民主主義ですな、その観点から見ても、民主化されているとお考えになりますか。その点どうです。
  643. 日高清

    ○日高証人 はつきり申しますと、これは私のはつきりした感じでありますが、ロシアの現存の民主化というものは、共産党の独裁、特にスターリンの独裁である。私はこう思つておるのであります。日本における民主化は、私たちが見ておつた戰前の日本とは数段の違いがありますが、これではまだ満足ではない。しかしロシアの民主化に比べては、多分に私は日本の現在の民主化というものは、ほんとうの正しい線に沿つて民主化されつつあるのではないか、こういう結論を持つております。
  644. 梨木作次郎

    ○梨木委員 あなたは参議院の引揚委員会で日本の現状を非常に心配されて、この状態では日本の独立を守り、日本を民主化するためには何党とも一緒になつて闘う、ときには共産党とも共同闘争をやつて行くつもりだ、こういうように述べておられたように聞いておるのでありますが、その点についてあなたのお考えを伺いたい。
  645. 日高清

    ○日高証人 その席上で私もはつきり申しましたが、民主化はされておるが、しかし現在の日本の諸政党に対しては満足しておらないということは、はつきり私は言つたことを肯定いたします。
  646. 高木松吉

    ○高木(松)委員 今、証人からまつたくだらしのないような様相が日本にあるんだ、これに対してはいささか不愉快だし、遺憾であるというお話がありました。われわれもその点に対しては同感ですが、こういう問題が日本に今なおあるのは、せつかく日本を秋序正しく真の民主化にしようとしておるのにかかわらず、必要以上のストを煽動したり、政策の妨害をしたりするようた、とんでもない者がおるために、こんなような結果になつておるというような深い観察をなさつたことはございませんか。
  647. 日高清

    ○日高証人 上陸後まだ一箇月でありまして、諸資料も集まつておりませんし、私のような青二歳が政治面に口を出して批判を下すのはおこがましいと思いますが、民族を憂え、ほんとうに日本の再建をこいねがう一人であればこそ、私は次のように意見を簡單に申し述べたいと思います。  日本民族の小乗的な気持というものが、多分にこうしたところの日本の国内の様相をかもしておると思うのであります。過去日本の歴史をひもときまして、日本人は戰国時代群雄割拠して、民族同士お互いに闘争をやつた。そうしてあわれなところのあの結末を引出した。現在におきましても、諸政党はありましても、大衆的に断を下すときは、諸政党が一致団結をして、日本復興のために、民族団結のために進むべきであるというようなところを、私は諸政党の先生諸氏にお願いするわけであります。
  648. 石田一松

    ○石田(一)委員 私は最初にお断り申し上げておきますが、証人に心証を害されないように、私はなるべくおとなしくやりますが、共産党員ではございません。最も中正を旨とする、中庸の道を行かんとする国民協同党所属の私は代議士であります。  そこで私が証人にお伺いしたいことは、過日の証人証言の中に、巨人軍の監督の水原君が日本へ帰還して参りまして、帰つたとたんに今までソ連で働いていた当時と正反対の行動をおとりになつた。このことが日本新聞にたいへん大きく取上げられて、裏切り行為である、裏切り者であると非常に大きく取扱われていた。それでこういうことではもう少し民主教育をしなければならぬというような方向になつて来た、こういうことをおつしやつておる。日本新聞であれだけ大きく取上げられているのだから、もと自分の中隊にいたのか大隊にいたのか知らぬけれども、その当時は知つておるが、ソ連に入つてからは知らない。そこで水原君は相当有力なアクチーヴであつたと思う。こういう話があつたのですが、あなたはそういうことの御経験はおありですか。日本新聞でそういうことをごらんになりましたか。
  649. 日高清

    ○日高証人 知つておりますが、私の在ソ間の生活については、証明する人がたくさんありますから申し上げません。私は入ソした二十年の十一月一日から帰還して来る二十五年の二月の六日まで、水原氏のような態度をとつたことは一度もありませんし、やつた行為も全然記憶にありません。私は徹頭徹尾ソ連における民生運動に共鳴をして来なかつたもので、ソ連におけるいわゆる反動として四年三箇月の生活をやつて来たのであります。
  650. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 今聞かれたのは、日本新聞の記事を見られたことがあるかというのですが、それはどうですか。
  651. 日高清

    ○日高証人 水原氏の新聞記事でございますか——記憶にございません。
  652. 石田一松

    ○石田(一)委員 わかりました。私がお伺いしたいのは、ソ連に収容されておるときのあなたのことを今私は申し上げたのではありません。水原君がそういうことがあつたというので、たいへん日本新聞で大きく取上げられたという証人証言がありますので、そのときにあなたが特にその新聞をごらんになつた事実があるかどうかということを聞きたかつたのですが、もしごらんにならなければけつこうです。  そこで私があなたにもう一ぺんお伺いしたいのは、たとえば水原君に限らず、収容中まことに祖国ソビエトといつて、たいへんソ連主義主張に同調したかのごとくカモフラージしていて、日本に帰つたとたんにがらつと反動というか、全然違つた思想傾向をもつて行動をする。そういうことがあつたために、これが日本新聞で強く批判されたという事実はどうですか、どなたでもかまいませんが……。
  653. 日高清

    ○日高証人 見たことは私はありません。
  654. 石田一松

    ○石田(一)委員 それではあなたが新聞をごらんになりませんでもようございますが、その収容所の指揮官とか将校とかいう人たちから、かくかくというものは日本へ帰つてから裏切り行為をしたから、不届きであるというようなことを言われたことはございませんか。
  655. 日高清

    ○日高証人 水原氏のことに関しまして、新聞で見たのではありませんが、ナホトカでスターリンへの感謝文の署名運動をやられるときに、アクチーヴの人から、たとえば水原のようなものはこの署名者の中にあつてはいけないというようなことを、はつきりと言い渡されたことは記憶しております。
  656. 石田一松

    ○石田(一)委員 私が証人にお聞きいたしたいと思います真意に、ソ連収容所にい七四年間、祖国へ帰りたいために、向うの強制する勉強なり何かを、向うの言われる形のごとく粧つて受けて、しかも一日も早く祖国へ帰りたいという捕虜生活をされた方の気持は十分わかるのであります。それを責めようとするのではありませんが、その人が祖国日本に帰つて、とたんにソ連にいたときよりも反対の行動を大きくとつたために、そのことが、現在ソ連にいまだ帰らないで残つている人たちの帰還を、一日でも遅らせるような事実にはならぬかということであります。そのことを聞いておるのであります。
  657. 日高清

    ○日高証人 それに関しましては、私ははつきりした見通しを持ちません。
  658. 石田一松

    ○石田(一)委員 あなたがはつきりした見通しをお持ちにならない。こうおつしやいますが、ただいまスターリンへの感謝の署名運動をやるときに、この署名をするものは、祖国へ帰つて水原のごとき行為をやつてはいかぬ。こういうことを言うということは、もしそういうことをするというおそれがあつたならば、これから帰る者も帰さぬということ、私はそういう……。(発言する者あり)われわれがここにやつておる考査委員会は、一人でも多く、全部が引揚げてもらいたいという気持で、この委員会でこういうことをやつておるのです。にもかかわらずこの委員会において、ソ連にあつては有力なるアクチーヴであつたものが日本に帰つて来たとたんに反動色を発揮した。そのために、その人の発言。ために現在残つておる反動と目される人の帰るのが、一日でも二日でも延びはしないかということであります。日本に帰つて来たから自分たちはいいが、あとに残つている人のことを考える余裕があるかどうかということであります。それを私はあなたに承る。であります。(「証言に関係がないよ」と呼ぶ者あり)証言に関係がない。だから感じを言つておるのであります。秋はそのことを聞いておるのです。そういう事実がある。現在残つておるものの帰還を一日でも遅らせるようなことになりはしないか。そういうおそれはないかということを私は聞いておるのですよ。
  659. 日高清

    ○日高証人 ……。
  660. 石田一松

    ○石田(一)委員 そうすると証人はそういう感じは全然ないとおつしやいますか。
  661. 日高清

    ○日高証人 申し上げます。その問題につきまして私ははつきりした考えは持ちません。あまりにソ連における民主運動、あるいは署名運動というようなものが形式的というか、強要というか、いろいろないきさつがあつたので、そういうことについては私はあまりはつきりした根拠というものがないのであります。
  662. 石田一松

    ○石田(一)委員 事実でなくて、あなたの考え方を聞いてたいへん失礼でございますけれども、私が聞こうと思つたことは、その重点的な問題は、われわれが今こうしてやつておるということも、いわゆる徳田要請なるもののために、もし一日でも二日でも長く置かれたという事実があつたとすれば、重大問題である。こういう観点においてやつておるので、徳田要請以上に、向うでアクチーヴとして純然たる共産主義者になつていた人が、内地に引揚げてもいましばらく黙つておれば、あとの人もそつくり帰れたのに、何かにおどらされてひつくり返つてあまり宣伝をしたために、あとに残つた人がお気の毒に帰れなくなる。こういうようなこともあると思つたから聞いたのであります。そういたしますと、証人はそういうことは考えられない。こういう決断を與えられたと了解してようございますか。そういうこともあるかもしれないけれども、しかしあなたとしては考えられないとおつしやるのか。そんなことは絶対にないとおつしやるのか。そのことをちよつと聞いておきたい。
  663. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その点については考えがない。考えておらぬと、そうでしたね。
  664. 日高清

    ○日高証人 はい。
  665. 横田甚太郎

    ○横田委員 ソ連に捕虜としておられたのが四年三箇月。その間に正確なものはわからないでしようが、大体あなたの判断から申しますと、もし日本共産党ソ連に対して反動は帰すな、あるいはそれ以外の人は早く帰しで、やれ、そういうような通信がかりにあつたとしたら、それが一体向うにどういうように響くか、そんな通信がどういうふうに向うを左右するか、こういうような点についてのお考えをちよつと伺いたい。
  666. 日高清

    ○日高証人 ごく簡單に答えます。そういう連絡があつたということは、まず第一にラーゲルにできました民主委員会なるものが、帰還者の人選決定権を第一綱領としてあげたということです。いわゆる帰還者の人選については、民主委員がこれを掌握するということをはつきりと回報いたしました。それから二番目には、早く帰れる前歴を持つた者でも、思想的に民主主義者、いわゆる共産主義者になつておらない者は帰国を一年、二年延ばされ、非常に遅らされたということは事実であります。
  667. 横田甚太郎

    ○横田委員 それはソ連政府が遅らしたのですか、それともまた日本人の捕虜自身がそういうような色わけをするのですか。
  668. 日高清

    ○日高証人 それはソ連政治将校日本人捕虜民主委員側との密接なる連絡のもとに行われた行為であると思います。
  669. 横田甚太郎

    ○横田委員 今度は共産党の政策が引揚げの点について一体どこが阻害しておるか、あなたの気持を聞きたい。簡單に申しますと、この引揚げ問題に対しては、共産党は決して引揚げて来られることをやめてくれ、帰つて来るなということを言つておるのではない。日本の諸政党の中におきましては、引揚げをしなちやならぬ原因がなぜ起つた、戰争だろう、戰争に対する責任の追究に対しては共産党は必ずしも一致した態度はとつておりません。その点においては他党の間においてはかなり一致した点があります。引揚げに対する援護の問題におきましては、共産党も他の政党もすべて一緒であろうと思います。だからそういうような意味合いにおきまして、引揚げ問題はあらゆる政党が希望しておる。議会においてもそれが実際においてやられておるはずです。ところが日本共産党の政策の中に引揚げを阻害するようなものがあるように宣伝されるようになつた今日の情勢から見て、当然お帰りになつた一人として、共産党の政策から割出してやる行動の中に、どういうような点がその引揚げ問題を阻害するか、その点を聞きたい。
  670. 日高清

    ○日高証人 簡單に答えます。共産党なるものは、私はソ連に対して一番密接なる連絡がとれておると思います。また意見も疏通する一つの政党であると思います。私の耳に入つておるのは、昨年の五月五日に初めて日本共産党ソ連の共産党本部に対しまして、日本人捕虜帰還運動促進を手紙か電報かで働きかけられたように思つております。共産党にそういうお気持がありましたならば、四九年というような時でなくて、どうして四六年、四七年、もつと早くそういう処置をとつていただかなかつたか、そういうところに一つの大きな疑問を持つております。
  671. 横田甚太郎

    ○横田委員 そういたしますと、ソ連の政治の行き方に対して日本共産党が一番近いところの思想的な傾向にあるとすれば、日本共産党はもつと早く引揚げを促進してくれるように働いてくれたらよかつた、四九年ではおそい。そういうような意味合いにおけるところの引揚げの阻害があるように思われるのですか。
  672. 日高清

    ○日高証人 そうです。
  673. 高木松吉

    ○高木(松)委員 最後にたつた一つですが、明確な御回答を願いたいのです。要するに国際公法、ポツダム宣言、これらに照らしてソ連の抑留の事実はまつたく背反しております。こういう事実を隠蔽しておくことによつて、私どもはソ連に対する反省を促すわけに参りません。どうしても世界の輿論と国内輿論に訴え、あるいはわれわれ考査委員会が事実を明らかにすることが必要であると思いまするが、あなたが今日までの体験において、また日本に来て日本の諸情勢を見て、これを公表することがいいと思いますか。公表することによつてかえつてソビエトの反省を促して、いわゆる残留せられている抑留者を一日でも早く帰すのに効力があるとお思になりますか。この点をはつきりお答え願いたいと思います。
  674. 日高清

    ○日高証人 結論的に申しますと、ソ連の現況を暴露していただくことによつて、世界の輿論と日本国民のいわゆる輿論と相まつてソ連に訴える、要求をすること、これが何よりも私は強い帰還促進運動の要素であると思います。
  675. 高木松吉

    ○高木(松)委員 よくわかりました。
  676. 梨木作次郎

    ○梨木委員 今横田委員から共産党のとつている政策の中で、どういう点が引揚げ促進を妨害することになるかという質問に対しまして、共産党はソビエト同盟と最も近い関係にある政党だと思う。その政党が昨年の五月ごろに、初めて帰還促進のための書簡をソビエト同盟の中央委員会に対し、出した。これはおそ過ぎる。この点を不満に思つておる。このように私は聞きとつたのでありますが、そこで実はこの点につきましては、あなたは共産党が実際国内において、たとえばソビエト同盟の代表部なり、あるいは連合軍総司令部なり、それから政府に対していろいろ引揚げ促進の活動をやつておるわけであります。たとえば一九四六年二月二十日に、共産党の今はなくなつておりますが黒木重徳君、共産党の中央委員であります。この人が一番先に提唱いたしまして、当時の各政党に呼びかけまして、日本劇場で引揚者留守家族大会というものを開いて、そして引揚促進のための要請を政府に対してもやつたし、連合軍総司令部に対してもやつておるのであります。それからその次には一九四八年四月二十九日においても、第二回の引揚者大会を京橋の公会堂でやつておるのであります。そのときには司会をやつたのが共産党の黒木重徳という人なのであります。一九四六年七月十九日には、さらに引揚者全国大会というものが神田の共立講堂で行われ、これにも司会者は共産党員の久留という人がやつております。一九四六年四月、ソビエト同盟帰還者大会というものが、これも京橋の公会堂で行われておる。それから一九四七年二月の共産党の第六回大会におきましても、これは引揚促進のための決議をやつておるのであります。それから一九四七年十二月十九日にキシレンコフ将軍に対して徳田書記長が面会して、内地におる留守家族の方々の代表と一緒になつて懇請しておる。こういうような事実がたくさんあるのであります。ですからこの点は一九四九年五月ごろになつてつただけではないのでありまして、今共産党が引揚げを妨害しておるということが調査の対象になつておるのであります。この点をあなたは御存じないから一応不満をお持ちになつたような答弁が出たのだろうと思いますが、そうだつたとするならば、それ以外に何かあなたは共産党が妨害しておる事実があるかどうか。お気づきの点があつたならばおつしやつてくだされば、われわれもまだ引揚げて来られない方もたくさんあると聞いておりますから、これはやはり日本の政党としまして善処しなければならぬと思つておるのでありますが、そういう点についてのあなたの御要望なり、また共産党に対する要望なりを聞かしていただければたいへんけつこうだと思います。
  677. 日高清

    ○日高証人 ありがたく聞きますが、その結果としまして徳田要請というようなものが持ち上つて来ているのであります。しからばその帰還促進運動をどういう内容で、どういう方法で、どういう成果があるようにやられたかということに対して、私は疑問を持つわけであります。
  678. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ほかにありませんか。——じや済みました。御苦労さまでした。  橋本忠義さんですな。
  679. 橋本忠義

    ○橋本証人 そうです。
  680. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 お幾つですか。
  681. 橋本忠義

    ○橋本証人 三十です。
  682. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの兵隊前の前歴をごく概略だけまず承つておきたい。
  683. 橋本忠義

    ○橋本証人 奈良県五條中学、満州の南満工專中退、それよりただちに満鉄に入社、それから昭和十七年の一月大阪二十三部隊入隊、同年三月満州東安省国境守備隊に転属、その間部隊がかわりまして、停戰当時は朝鮮の平壌鉄道大隊におりました。
  684. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それから入ソして……。
  685. 橋本忠義

    ○橋本証人 入ソは、停戰と同時に、ソ側の進駐とともに鉄道大隊を編成し、翌年の昭和二十一年六月中ごろまで北鮮一帯の鉄道作業に従事、後成興港を経由してソ連のポシーエツト港上陸、その後ウズベヅクスタン共和国のベグワードという町の近くに送られまして、そこにおおむね足かけ三年おりまして、それからタンケツト、アンクレンにかわりまして、カラカンダナホトカ、そして今年の高砂丸で一月二十三日舞鶴上陸になつたのであります。
  686. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたは在ソ中戰犯容疑者として尋問されたということですが、そういう事実があつたか。またどういうわけでそういうことになつたか。
  687. 橋本忠義

    ○橋本証人 ありました。それは満鉄に勤めておりました関係上、最初満鉄におりましたときにロシア語を習いましたので、このロシア語のことから、ちようど満鉄の新京に勤めておつたという向うの推定のもとに、満鉄の調査室勤務という中傷を受けまして、そういうふうに目されたのであります。
  688. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それで結局疑いが晴れて何でもなかつたのですか。
  689. 橋本忠義

    ○橋本証人 そうです。
  690. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それから在ソ中はすべていわゆる反動と目されて生活して来ましたか。
  691. 橋本忠義

    ○橋本証人 そうです。
  692. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その後あなたはさとるところがあつて、今度は民主グループへ入つて反動でなくなつたのですか。つまりずつと反動で押し通して来たか、それとも民主グループへ入つてアクチーヴにでもなつたか。
  693. 橋本忠義

    ○橋本証人 アクチーヴになつたことはありません。
  694. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ずつと反動と言われながら来たのですか。
  695. 橋本忠義

    ○橋本証人 ベグワードにおりましたときには反動という極印を押されましたが、その後民主グループに入りましで、別に活溌な運動はやりませんでしたが、そのまま民主グループという名のもとに作業をやつておりました。
  696. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 心から入つたのか、それともやむを得ぬから入つたのか、どつちか。
  697. 橋本忠義

    ○橋本証人 民主運動というのは、日本の平和を維持し、日本がこれから民主的な国家になつて行くという見地ですから、入りました。
  698. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうすると、あなたの民主グループへ入つたということは、あなたの考えている民主主義のために入つたのであつて、共産主義になりきつてしまうという意味で入つたのではないですね。
  699. 橋本忠義

    ○橋本証人 そうではありません。
  700. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 昨年九月ごろカラカンダにおいて、日本共産党書紀長徳出球一氏からの要請があつたということを聞かされたことがありますか。
  701. 橋本忠義

    ○橋本証人 あります。
  702. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはどこでどういうときに聞かされたか。
  703. 橋本忠義

    ○橋本証人 カラカンダの第九分所でありますが、九月の中ごろ、日にちは記憶ありませんが、十五日か十六日くらいだと思います。朝点呼がありまして、点呼が終つたときに、新しいラーゲルの事情とか、ソ側のラーゲルの職員の関係とか、そのほかいろいろ話があるから、クラブに集合してくれという話がありまして、それで九有名ないし千名の人間が全部クラブに入ることは不可能でありますから、二組にわかれて、自分は第一回としてクラブに入りまして、所長並びにソ側の将校からいろいろな話があり、最後質問事項はないかと言われ、われわれの生活部面、作業部面についていろいろの質問をいたしました。そうして最後になつて峯田という男が、われわれはこうして帰国を目的とするためにこの中間集結地であるところのカラカンダに来た、われわれの目的は何といつて日本に帰ることである、それで日本に帰るのはいつごろになるかという質問をした。それから引続いて植松という人が、これは自分のところのすぐ近くの人でありますが、この人もまたこれと同じような質問をしております。これに対して所長代理がその質問を受けたのでありますが、隣にすわつてつたソ側の政治部将校が、もちろんソ連は君たちを返さないとは言わない、少くとも君たちが民主主義者となり、しつかりした共産主義的な思想を持つようになれば日本に帰れるのであつて反動分子のような者は、日本共産党は帰つてほしくないと言つておるということを話されました。
  704. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは日本共産党徳田書紀長からそういう要請がある、こう一言いましたか。
  705. 橋本忠義

    ○橋本証人 徳田書記長の名前は自分は記憶しません。日本共産党ということは記憶しております。
  706. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 帰してもらいたくない、こう言つたのですね。
  707. 橋本忠義

    ○橋本証人 そうです。
  708. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは手紙か何かを見て読んだのですか。それともただ口言つたのですか。
  709. 橋本忠義

    ○橋本証人 政治部将校ですか。
  710. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうです。
  711. 橋本忠義

    ○橋本証人 そのまま言うたと記憶しております。
  712. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何も持たずに……。
  713. 橋本忠義

    ○橋本証人 そうです。
  714. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうしてそれをだれが通訳してくれたのですか。
  715. 橋本忠義

    ○橋本証人 通訳は菅という人です。
  716. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そのほか日本共産党の幹部なりその他から、手紙とか文書とかで同様な意味のことを言うて来ておつた事実はありませんでしたか。
  717. 橋本忠義

    ○橋本証人 自分が記憶しますのは、それと同月の終り方か十月の初めごろであつたと思いますが、同じく九分所のクラブにさようなことで打合せに行きますと、机の上に、枚数ははつきり記憶しません、四枚ないし五枚だつたと思いますが、日本共産党からはがきが参つておりました。そしてそれが机の上に何げなくほうつてありましたから、何かなと思つて自分は見たのでありますが、一通は日本共産党書記長徳田球一として、上の方に代という字が書いてありました。そのほか日本共産党の代々木としてありましたから、おそらく本部であろうと思いますが、それから女の人の名前で二通くらいかと思います。あと一通はどうも記憶ありませんが、自分の記憶の範囲ではそれだけであります。
  718. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どんなことが書いてあつたか。
  719. 橋本忠義

    ○橋本証人 文面はいずれも、日本は終戰後非常に渾沌とした状態にある、民主的な日本を建設せんがためには、一に諸君がソ連で体得したところのそういう運動、経験あるいは思想を日本において生かして、そうして実地にやることによつて成果が期し得られるのだから、諸君はりつぱな身体と健全な思想のもとにしつかり体得して帰つてもらいたい、こういう文書であつたと思います。
  720. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 壁にはりつけてあるはがき、そういうものを見た記憶はございませんか。
  721. 橋本忠義

    ○橋本証人 それは話では聞きましたが、自分は見たことはございません。
  722. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなた方の方でも、集会所は幾つにもわかれてあるのですか。
  723. 橋本忠義

    ○橋本証人 張つてつたの食堂に張つてつた言つておりますが、私は……。
  724. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 食堂には行かなかつたですか。
  725. 橋本忠義

    ○橋本証人 私は作業のあるときは朝晩必ず行かなければならないところでありますが、自分はそれを見たことはございません。
  726. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 張つてつたということを言つた人はあるのですね。
  727. 橋本忠義

    ○橋本証人 張つてつたということは、向うで聞きました。
  728. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それならばもう一つ聞くが、その徳田要請を聞かされた次の日に、さらに日本共産党からの手紙伝達式というものをやつたと言う人があるが、それをあなたは知りませんか。
  729. 橋本忠義

    ○橋本証人 知りません。
  730. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 聞いたこともないかね。
  731. 橋本忠義

    ○橋本証人 聞きません。
  732. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 知らないならよろしゆうございます。  あなたは第一高砂丸で帰られて、その船の中でいわゆる日の丸梯団を結成されたそうですね。
  733. 橋本忠義

    ○橋本証人 はい。
  734. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その結成の径路と、あなたがそれに対してやられたことを、概略でようございまするから述べてください。
  735. 橋本忠義

    ○橋本証人 日の丸梯団は、船に乗りました翌晩だつたと思いますが、向うで発行しておるところの日本の新聞、あるいはその他でいろいろ聞いてみますと、船が舞鶴に着いたが、ハンストなどで船から上陸しない。あるいは舞鶴のところでハンストをやる、あるいはわざわざ迎えに来てくれた小学生中学生かしりませんが、迎えに持つて来た花束を捨てて、ほつぺたをなぐつた、こういうような事件を向うで聞いておりました。そこでわれわれはほんとうの日本人として国に帰つて日本人としてあたたかい気持でわれわれを迎えてくれるのであるから、われわれもやはり日本人としてあたたかい気持のもとに向うの復員事務、あるいはそのほかの事務に協力して、そうして穏便にそれぞれのふるさとに帰ろうじやないか。もちろんこの船の中に乗つておる者の中には、いろいろの思想を持つておる人もおるだろう。しかし思想はポツダム宣言にもある通り、それぞれ自由を許されておるのだから、自分のふるさとに帰つて共産主義的な、あるいはそのほかの思想に走ろうが、それはおのおのの意思だからよいだろうが、とにかく舞鶴に上陸して復員事務が終るまでは全部穏便に、迷惑をかけないように帰ろうじやないか、こういう趣旨のもとに日の丸梯団を組織したわけです。
  736. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 船の中で迷惑をかけるようなことをやつてつた者がほかにあつたんですか。
  737. 橋本忠義

    ○橋本証人 今まで何回となく、復員者がそういうことをやつたということを聞いていましたから……。
  738. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなた方の船の中でもそういう乱暴なことをしたり、あばれたりしたものがおりましたか。
  739. 橋本忠義

    ○橋本証人 あばれたりした者はおりませんでした。
  740. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 黙つてつたら、そういうことをやるような者がおつたんですね。
  741. 橋本忠義

    ○橋本証人 と思います。
  742. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこであなたはそれに対してどういうことをやつておりましたか。
  743. 橋本忠義

    ○橋本証人 ちようどそのときに私はある中隊の小隊長をやつておりまして、そういう話が出て来たので、それはよかろう、お互いにそういう方面に協力して明るく帰つて行けるんだつたら、非常にありがたいことであるというので、ただちにそれに共鳴して、日の丸梯団の結成に微力ながら協力したわけであります。
  744. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 橋本証人は戰犯容疑者として尋問されたことがあるということを証言で聞きましたが、ソ連の鉄のカーテンの向うで、戰犯並びに戰犯容疑者をどんなふうに調べて、いかなる態度をもつてこれに臨んでいるかということは、全然われわれは知ることができない。幸いあなたは戰犯容疑者としてお調べを受けた。おそらく私は河手という戰犯あるいは容疑者がいまだにソ連にいるものと見ます。その家族の方々は、その調べ方の内容をほんとうに聞きたがつているんじやないかと思う。幸いと言うと語弊がありますが、ともかく戰犯容疑者として苛酷な調べを受けておられるということをただいま聞きましたが、どういう組織で、どういう態度でやつているか、少し詳細に、これを速記を通じて国民が知り得る程度に御発表を願いたいと思います。
  745. 橋本忠義

    ○橋本証人 自分が一番最初に取調べを受けたのはベブワードの第一分所におつたときでありました。取調官のソ側の将校はヒヨードルフ少尉と言い、通訳は朝鮮人系統の金通訳と言いました。お前は満鉄のどういう仕事をしておつたか。自分は資材的な仕事をしておつた。そうじやない、お前は調査所動務で対ソ情報をとつてつた、そういう仕事に携わつてつたろう。決してそういうものじやない。ではお前はなぜロシア語を習つたか。ロシア語を習うのはあなたたちは存じないかも知れないけれども、われわれが日本で中学校とか大学で英語とかドイツ語を習うのと同じように、満鉄でも支那語とかロシア語、そういう語学を教えている。それで自分はロシア語が一番興味が深かつたから、それを専攻した。しかしお前はそのロシア語という武器をもつて、対ソ的な侵略戰争の諜者として働こうとしておつたんじやないか。いや、決してそうじやないというような質問がありました。
  746. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 私の問うておるのは、そういう戰犯を取調べる裁判所のような組織が向うではできておるのですね。
  747. 橋本忠義

    ○橋本証人 そうです。そういう組織となると、自分にはよくわからないのですが、組織は各収容所でそういう各係の憲兵の取調官がおりまして、いろいろ尋問しまして調査というものをとります。それによつて収容所の地区には管理局というりものが置かれまして、そこにまたそれを総括したところの取調官がおります。それに取調べた調書を選りまして、向うから指示を受げるのだろうと思います。それによつて向うから、それに大したことはないと思えば、それで終るのですが、どうもこれはまだまだあるというように目されますと、また再三の調査を受けまして……。
  748. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 営倉へでも入れられるのか。
  749. 橋本忠義

    ○橋本証人 もちろんその間は営倉に入れられます。
  750. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 それは隔離されてしまうのですね。
  751. 橋本忠義

    ○橋本証人 もちろんそうです。
  752. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 それから取調の憲兵なり係官の態度は、何か苛酷なことをやるのですか。
  753. 橋本忠義

    ○橋本証人 もちろんなぐります。
  754. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 拷問するわけですか。
  755. 橋本忠義

    ○橋本証人 足げにかけたり、あるいは拳銃を突きつけたりするわけです。
  756. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 そういうことをもう少し詳しく……。
  757. 橋本忠義

    ○橋本証人 取調べを受けたときなぐられました、そうして足げにされましたが、自分は営倉に二日入りまして、二日の間一食いただきました。
  758. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 量はどのくらい……。
  759. 橋本忠義

    ○橋本証人 三百五十グラムの黒パンと若干のスープをいただきました。
  760. 高木松吉

    ○高木(松)委員 スープの内容はどうか。
  761. 橋本忠義

    ○橋本証人 内容はもちろん味つけとして塩は入つておりますが、乾燥トマトとかにんじん、そういうような野菜が少し入つておりました。
  762. 内藤隆

    ○内藤(隆)委員 この点を詳しく聞いておりますと、時間がかかりますから……。要するにソ連の戰犯取調べの態度はまことに非文明な、しかも非合法な、人道に反した拷問の態度を持つてつたということだけは言えますね。
  763. 橋本忠義

    ○橋本証人 そうです。
  764. 高木松吉

    ○高木(松)委員 ソ連において民主化ということの言葉の内容は共産化ということですか。どうも今日まで証人から承ると——民主化というのは、共産化のみが民主化ではありません。しかるにソ連内における民主化という言葉の使い方は、共産化ということに局限されておるように承知されておりますが、どうですか。
  765. 橋本忠義

    ○橋本証人 自分もそう思います。
  766. 西村直己

    ○西村(直)委員 時間もありませんから、一、二点だけ簡單にお伺いいたしますか、麦そいはおわかりにならぬ点はおわかりにならぬでけつこうであります。日本共産党は戰犯一万六千、それから九万五千帰される。それ以外にはソ連には残つてないと言つておりますが、あなたは、現在ではほとんど帰国して、ソ連の国内に残つておる日本人は戰犯者だけであるとお考えになりますか。
  767. 橋本忠義

    ○橋本証人 自分は現実にどういうものであるということを見たものではありませんから、こうだということは断言しかねます。ほとんど戰犯者だと思いますが、そのうち若干そうでない人も含んでおるのじやないか、こういうふうに思います。
  768. 西村直己

    ○西村(直)委員 戰犯者以外の者がやはりある程度残つておるというように、あなたの御体験を通じて考えておられるわけですね。
  769. 橋本忠義

    ○橋本証人 そうです。
  770. 西村直己

    ○西村(直)委員 それから死亡者には、先般発表になりましたソ連側の発表では全然ふれてないわけでありますが、死亡者があつたのかないのか。この場合におきまして、あなたは終戰末期は北鮮で過ごされたようでありますから、周囲で死亡者が比較的少かつたかもしれませんが、あなたの知つておる範囲では、死亡者というのはどの程度ありますか。抑留されて死んで行つた人です。北鮮でもよろしゆうございます。あるいは入ソしてからでもよろしゆうございます。
  771. 橋本忠義

    ○橋本証人 北鮮におりましたときは鉄道の作業でございましたから、苛酷な作業はそうなかつたわけでありまして、それでも四名か五名死んでおります。入ソしまして一番死んだのはポシーエツト港に上陸しまして、それから約八キロぐらい行軍して、その向うの方に天幕露営の一つの収容所がございますが、そこへ入りまして、そこで気候のふなれと、食糧が日本人のからだにぴつたり来ない関係上、どんどん倒れて行きました。自分らの大隊だけでも二十人ないし三十人は死んでおるだろうと思います。
  772. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どれくらいの隊で……。
  773. 橋本忠義

    ○橋本証人 あそこが輸送の集結地のようになつておりますから、北鮮から運ばれて来た者が一応全部あそこへ集まつたので、これは人から聞いた話でありますが、戰友の死んだ死骸を海の近くの山の所へ持つて行くと、その辺に死骸がぷんぷんとしてあつたということを言つておりました。これは直接に見たのではありませんから、どうかと思いますが、全部を総合した数字は自分にはわかりません。
  774. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 大体のパーセンテージはわかりませんか。
  775. 橋本忠義

    ○橋本証人 見当がつきません。
  776. 西村直己

    ○西村(直)委員 その点はよろしゆうございます。いま一つ、あなたは北鮮において鉄道関係で輸送に従事しておつたということですが、終戰後北鮮におきまして、北鮮にあつた日本機械器具その他のものを相当ソ連領内にあなた方は運ばされたと思うのでありますが、その間の状況をひとつお話を願いたい。
  777. 橋本忠義

    ○橋本証人 一番大きなのは、私が直接運んだのではありませんが、自分が清津の埠頭におつて、満洲にある豊満ダム、あれをソ側は解体いたしまして、どんどん向うから運んで来ました。それには日本人の機関士、あるいは満人、朝鮮人というような人たちが従事しておりました。
  778. 西村直己

    ○西村(直)委員 あの豊満ダムの解体に関して、どのくらいの人間が動いたのですか。
  779. 橋本忠義

    ○橋本証人 それは知りません。自分らは清津の埠頭におりまして、入つて来る貨車の車掛でありまして、入つて来る貨車からその資材をおろしまして、ソ側の船が埠頭に入つて来て、グレーンで船に積載するのに、積載が容易に行くようにその資材をうまく整頓して並べておく仕事に従事いたしましたが、また朝鮮と満洲の境に水豊という発電所がございますが、あの資材も若干解体したのではないかと思います。解体した現場は見ませんが、あの重量物を持つて行くのについて、定州から水豊に入つておるところの鉄道の枕木は非常に古くなつておるから、あの重量物を運搬するのにはこの枕木ではとうてい持たない、その枕木の交換をやるのだと言つて、われわれは枕木の交換あるいは軌條のとりかえというような作業をやりました。
  780. 梨木作次郎

    ○梨木委員 さつき、私ちよつと聞き洩らしたのですが、机の上に四通ばかりはがきがあつたというお話ですが、これはどこの机でいつの話でありましたか。
  781. 橋本忠義

    ○橋本証人 カラカンダの第九分所で、九月の末か十月の初めだつたと思います。
  782. 梨木作次郎

    ○梨木委員 どこでごらんになりましたか。
  783. 橋本忠義

    ○橋本証人 カラカンダの第九分所のクラブの机の上です。
  784. 梨木作次郎

    ○梨木委員 だれの机の上ですか。
  785. 橋本忠義

    ○橋本証人 ラーゲルの者がクラブにいろいろな本を見に行つたりしますが、何か置いてある机の上です。
  786. 梨木作次郎

    ○梨木委員 その手紙の字ですが、これは片かなですか、平がなですか、覚えておりませんか。
  787. 橋本忠義

    ○橋本証人 一部漢字と平がなです。
  788. 梨木作次郎

    ○梨木委員 よろしゆうございます。
  789. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 済みました。御苦労さまでした。  本日はこれにて散会いたします。明日は午前十時から開会いたします。     午後六時三十分散会