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1950-04-03 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第17号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十五年四月三日(月曜日)     午後零時三十三分開議  出席委員    委員長 鍛冶 良作君    理事 安部 俊吾君 理事 須家 喜六君    理事 高木 松吉君 理事 内藤  隆君    理事 吉武 惠市君 理事 梨木作次郎君    理事 石田 一松君       井手 光治君    内海 安吉君       尾関 義一君    岡延右エ門君       本村 公平君    篠田 弘作君       島田 末信君    田渕 光一君       塚原 俊郎君    永田  節君       西村 直己君    松本 善壽君       加藤 鐐造君    坂本 泰良君       稻葉  修君    小野  孝君       横田甚太郎君    小平  忠君  委員外出席者         証     人         (ウオロシロフ         地区引揚者)  亀澤 富男君         証     人         (イズベストコ         ーワヤ地区引揚         者)      上村 宗平君 四月三日  委員井手光治君、黒澤富次郎君、福井勇君、福  田一君、大西正男君及び大森玉木辞任につき、  その補欠として永田節君、木村公平君、内海安  吉君、松本善壽君、小野孝君及び稻葉修君が議  長の指名委員に選任された。 同日  委員内海安吉辞任につき、その補欠として井  手光治君が議長の指名委員に選任された。     ――――――――――――― 本日の会議に付した事件  日本共産党の在外局胞引揚妨害問題     ―――――――――――――
  2. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これより会議を開きます。  日本共産党の在外同胞引揚げ妨害問題について、これの調査を進めます。亀澤証人より引続き証言を求めることといたします。
  3. 安部俊吾

    安部委員 証人にお尋ねいたしますが、きのうの証言のうちに、あなたは十五、六歳のときからマルクスに非常に興味を持つてマルクス主義に関する書物を読んだ、こういう御証言がありましたが、そのときはどこの学校にいらしたのですか。
  4. 亀澤富男

    亀澤証人 靜岡県立工業から浜松高工に参りました。
  5. 安部俊吾

    安部委員 そして、あなたは満洲の官吏になつたそうですが、どういう方面官吏でありましたか。
  6. 亀澤富男

    亀澤証人 私は家庭の事情浜松高工を中退いたしまして、茨城県内原に加藤完治氏が開かれました国民高等学校、その学校栄養部を出ました。要するに職員幹部であります。そして満洲に渡りまして、興農部、また開拓班関係食品関係北方農業の食生活というものに関與いたしました。
  7. 安部俊吾

    安部委員 その間も引続き証人共産主義に関する本を愛読し、あるいは共産主義者であつたのですか。
  8. 亀澤富男

    亀澤証人 共産主義者ではありません。
  9. 安部俊吾

    安部委員 あなたはきのうの証言のうちに、入ソ以来アクチーヴであつた。いわゆる民主グループの一人であつたとおつしやつたのでありますが、それは入ソ後共産主義に共鳴するようになつたのですか。あるいは最初はそういうことに関係なかつたのですけれども、十五、六歳のときからマルクス主義に関して、いろいろな関係の本を読んだ。そういう点からその民主グループ一員になつた、それが動機であつたのですか。
  10. 亀澤富男

    亀澤証人 もちろん私がマルクス主義というものを研究することによりまして、非常に興味を持ちました。でありますからソ側政治部員将校の勧めによりまして、パンフレツトを読む機会を與えられましたことによつて、それに入りました。
  11. 安部俊吾

    安部委員 収容所日本人捕虜団は、団本部とか、あるいはその下に中隊、小隊、組というものがあつたそうでありまして、そのうちの日本人捕虜が、ひより見の者であるとか、アクチーヴであるとか、反動であるとかいうふうに区別されたそうでありますが、それらの人々の行動、あるいは作業に対する態度とか、そういうものに関して、証「の知つている範囲でお話を願いたいと思います。
  12. 亀澤富男

    亀澤証人 ただいまの質問作業的に区別があるかということですか。それとも本質についてですか。
  13. 安部俊吾

    安部委員 本質についてです。
  14. 亀澤富男

    亀澤証人 ただいま団本部ということを言われたのですが、この団本部というものがあつたのは、いわゆる民主主義運動の第一期でありまして、第二期、第三期にはありませんでした。ですから団本部がございました当時の民主主義運動におきまするアクチーヴ反動民主グループ、あるいはひより見、一般大衆区別は、初期発展段階、そういつたものから解釈しますが、それでさしつかえないですか。
  15. 安部俊吾

    安部委員 いいです。
  16. 亀澤富男

    亀澤証人 その当時団本部におきまして、一番初め民主主義グループ研究会が生れました。つまりマルクス研究会でありますが、それがソ連側の好意とわれわれの努力によりましてでき、それが懇談会に発展し、民主主義グループになり、民主主義グループが強固に発展して、団本部がなくなつたわけであります。その当時におきまするアクチーヴというものは、ほんとうに主軸となつて行動した者はインテリ層でありますが、その当時のアクチーヴというものは一応理論をわきまえ、大衆に対して指導できる人間アクチーヴとして存在しておりました。その当時における反動というのは、作業サボでもなければ何でもない、そのときの反動定義は、フアシズム、ミリタリズム、キヤピタリズムの思想を持つた者、あるいは言動する者に対して反動という定義を使いました。
  17. 安部俊吾

    安部委員 あなたはソ連指導命令を忠実に遵奉したというようなことでアクチーヴになつたのですね。そうしてソ連側から俸給の支拂いは受けましたか。
  18. 亀澤富男

    亀澤証人 われわれは責任労働団体に加入しておりましたから、どういう方面におきましても金銭の給與は一切ありませんでした。
  19. 安部俊吾

    安部委員 勤労者城塞とかソ同盟強化というようなことが、その收容所において盛んに唱えられたというようなことを聞きましたが、それはどうですか。
  20. 亀澤富男

    亀澤証人 共産主義城塞とかソ同盟強化というような言葉が言われて来ましたのは、第二期の段階であります。第一期の民主運動段階におきましては、どこまでも主眼点反軍闘争天皇制の打倒ということが第一期に起りまして、第二期になつて、初めて平和な民主主義城塞ソ同盟強化することが、すなわちわれわれの階級強化することであるというふうになりました。時期としましては昭和二十二年の七、八月ころから盛んになりました。
  21. 安部俊吾

    安部委員 反軍闘争というのは、時期的にはその前ですか、その後ですか。
  22. 亀澤富男

    亀澤証人 反軍闘争が叫ばれましたのは、昭和二十一年の二月か三月ごろと記憶しております。
  23. 安部俊吾

    安部委員 そうして反軍闘争というのは、旧軍人を排撃した。そうしてつるし上げなどというものはそれに関係ありましたか。
  24. 亀澤富男

    亀澤証人 反軍闘争という言葉は大体二十一年の二、三月ごろ用いられましたけれども、これがつるし上げ的な経過をとりましたのは二十二年の末期であります。ただその当時におきますわれわれの收容所内から、フアシズムというものを全部取去れというところに、この反軍闘争出発点があります。
  25. 安部俊吾

    安部委員 反動を追及することによつて作業成果があげられる。作業成果があがらぬのは、要するに反動を追求することにわれわれが緩慢であるゆえであるということで、盛んにつるし上げをやつたことがあるのでありますが、どういうのですか、その状況を話してください。
  26. 亀澤富男

    亀澤証人 ただいま言われましたところの、作業というものが反動分子存在によつて云々という問題は、昭和二十三年の初期に始まりましたことであります。それまではそういつたことはあまり叫ばれなかつたのであります。われわれの相互監視自己批判相互批判というものが緩漫で、そういつた闘争サボつておるためにそういつたサボが出て来るというので、今度われわれの闘争方針といたしましては、自己批判相互批判を徹底して、相互監視をすることによつて――われわれもその当時反フアシスト委員会結成をしておつた段階でありまして、正面切つて反動というものは一人もいませんでした。でありますから、そういつた反動分子というものが傾向として現われるのは大体作業サボである。そういうことにおきまして作業サボ、言いかえればこれはわれわれ陣営の者ではないというふうに考えたわけであります。
  27. 安部俊吾

    安部委員 そうして生産者大会とか、あるいは労働英雄というようなことがありまして、病人でもあるいは非常に疲労困憊しておる、あるいは栄養不良の者でもかり立てて、非常にはげしい労働に服させたという事実があるのですね。その状態を話してください。
  28. 亀澤富男

    亀澤証人 ただいま患者の問題が出たのでありますけれども、われわれが昭和二十三年当時におきましてその問題をどういうふうに取扱つたかといいますと、たとえばけがをすると、そういつた人間は、その人間自体サボである。ほんとうにその人間生産に対して意欲を持ち、ソ同盟に対して感謝しておるならばけがをするということはあり得ない。ほかのことを考えて、ほんとう闘争に熱中していないからそういうけがを受ける、そういつた定義づけをせられたのであります。病気になるということは、特殊な場合を除いては、あとは全部反動的な、あるいはまたその本人患者として早く日本に帰れるようにするために仮病を使つておる、または病人らしく装うのだというふうに言われたのであります。生産者大会というものは、結局要するに五箇年計画を四箇年で遂行せよとか、四箇年計画を三箇年で遂行せよということを、スターリンに対する誓いをやるわけでありますが、この生産者大会というものはあらゆる面においてたくさん取上げられまして、個々的な例は話す必要はたいが、大会はしよつちゆうやつたけれども、言いかえれば生産者大会というものは、ある意味から行きましたならば、具体的にどういうふうわれわれは協力したならば生産が向上するかといつた問題についての一種研究会でありました。
  29. 安部俊吾

    安部委員 体力に相応して善意をもつて相当に作業の成績を上げても、アクチーヴというものから、あれは非常にサボつておる、あれは反動であるというような密告があれば、非常に徹夜しても動かなければならぬというような状況があるのではないですか。
  30. 亀澤富男

    亀澤証人 シベリア民主運動をやつた者の心理状態というものでありますが、つるし上げなかつたつるし上げられるのだ、極端に言えばそういう形になるのでありますけれども、お互いに感情の相剋から、その本人実質いかんは別として、その本人が過去においてインテリくさかつたとか、または英雄主義的であつたとかいうような、そういつた色をもつて見るわけであります。要するに色めがねをかけてものを見れば色がつくと同じで、結局完全な人間というものはあり得ないのでありますから、その場合において、個人感情的なものによつて自己批判を浴びせられ、つるし上げられたわけです。ほかの收容所へ行つて酷な労働に従事しなければならなかつたといつた場合もあつたのでありますけれども、その人間つるし上げを受けた場合におきましても、その收容所においてなくてはならない人間である。彼は現在は反動である。しかし彼はインテリであり、最高学府を出ておる、またほかの方面においても、技術的にも作業的にも権威者であるという場合においては、その人間の知恵のすべてを吸收して、それをボルシエヴイキーのふるいにかけて、そうしてわれわれは取入れなければならぬという意味において、つるし上げにもいろいろな形態がありました。でありますからそういつた感情的な問題から、または反動分子としてつるし上げた者の中にもそういつた傾向があるのであります。ですから反軍的なつるし上げと、またはそういつた單なるそうらしいということによつてつるし上げられた場合とは、本質的にすべてが違つておりました。
  31. 安部俊吾

    安部委員 あなたのおられました收容所においては、病人になつたり、あるいはけがをした、そういうふうにして死んだり、病院に入つたという人はたくさんあつたろうと思いますが、その率はどのくらいですか。
  32. 亀澤富男

    亀澤証人 率といいますのは、第一期、第二期、第三期とわかれるのでありますけれども、第一年当時においては、大体一割程度の死亡率がありました。場合によつては三割という所もありますが、われわれの收容所においては大体一割であります。第二年の段階になりましてそれが六分くらいになつております。第三年にはほとんどゼロにひとしかつたのであります。
  33. 安部俊吾

    安部委員 それらの人に対してはどういうような待遇を與えましたか、あるいは衛戊病院のようなもりがあつて医者資格のある者、あるいは看護婦によつてその病人医薬を與えられたのか、あるいはまた死んだときどういう方法で埋葬したか、そういう点について詳しいお話を承りたい。
  34. 亀澤富男

    亀澤証人 その問題も第一期、第二期、第三期とわけてお話します。第一期の場合においては、これはわれわれの收容所の例でありますが、冬なんかのこぎりまきわりを持つて歩きながら倒れ、または現場行つてのこぎりを使つておりながら空腹と疲労と衰弱のために眠つて凍死した例もたくさんありまして、夏ころに八十人くらい死ぬだろうという予定で墓を掘つたのでありますが、それをはるかに越して二百人の余死んだのであります。その場合においてソ連側に要求しましても、冬のことで穴を掘る使役に出してくれないので、病院側としても非常に困りまして、軽作業とか、歩ける患者に穴を掘らせたけれども、冬のことで掘れず、結局兵舎の横に積んでおいたのでありますが、はなはだしいときには兵舎の屋根より高くなつたのであります。それを翌年の春になつて青年行動隊が主になりまして、一つの穴に三つくらい埋めて、上に棒くいを立てたのでありますけれども、第一期の場合は非常にソ側受入れ態勢が悪かつたために、医薬品とか被服が欠乏しておつたために、地区的にはどうかしりませんけれども、われわれの場合においてはほとんど薬というものは與えられなかつた状態ひとしかつた。與えられたにしても、日本医薬から見ましたならば、二十年も三十年も遅れておるような薬品であつたのであります。その薬品ソ同盟製品の場合が多く、部分的には日本製品、ドイツの製品を使つておりましたけれども、医者の判断にもある通り、三分の一しか効力がないといわれております。しかし大部分は病院では死んでおりません。現場で死んでおります。  それから第二期の段階になりまして、われわれの民主運動というものはある程度まで高揚され、民主運動の專門部の中に医務部というものが設けられまして、それによつてわれわれの自治管理というものが徹底した結果としまして、非常に医薬治療等は徹底されまして、死亡率も非常に減少したのでありますけれども、それとともに、われわれ自体がいかにして生きるかという、生きる希望といいますか、目的といいますか、そういつた雰囲気に押されまして、第一年にはある意味から言つたら意思の弱い人間、からだの弱い人間というものは間引されて行つて死んだのでありますけれども、二年目は丁重な葬儀をなしたのであります。それは第一期も第二期もほとんど土葬であります。  第三期になりましてから、ほんとう民生運動とともに闘つて死んだ者の場合には、われわれ民主グループ葬というものを営みまして、正式に葬儀をやつたわけであります。ところが非グループ員であつたり、またはグループ員のようなかつこうをしても非常に怪しげな存在であつたという者に対しては、ただ重なる戦友が五、六人寄つて葬儀を営んだにすぎないのであります。この点は積極的に党活動民主活動をやつた者は、一週間なら一週間の喪に服しまして、徹底的なる葬儀をしたのであります。
  35. 安部俊吾

    安部委員 喪に服したということでありますが、それは慰霊祭とか葬式のようなものを執行いたしまして、そうして何か僧侶もしくはお経でも読むような人が来て、仏教なりヤソ教なり、そういう宗教によつて何か葬式に関するような儀礼がありましたか。
  36. 亀澤富男

    亀澤証人 今宗教の問題に触れましたけれども、われわれ唯物論定義は、霊というものに対しては、その故人が生前なしたところの社会的功績社会的貢献に対して言うべきであつて肉体そのものに対しては全然観念を持つておりません。それで本人が死んだ場合、これは共産主義者として闘つて死んだ場合におきまして、その喪に服したというのはどういう形態をとるかといいますと、その本人が死んだ。その人は志半ばにして不幸病に倒れた。われわれはその人の気持を尊重して、その人の分も闘争しなければならぬ。そういうことによつて、それが一つ生産闘争カンパとなり、輿論闘争カンパとなつて現われて行く。ですから喪に服すということは、何もしめやかにすわり込んでお経を唱えたりするのではありません。われわれは生前その人が持つてつたものを百倍にも二百倍にも発展させてやろうというのであります。
  37. 安部俊吾

    安部委員 そうずれば、死亡者の姓名とか、どこの部隊に属しておる者であるとか、郷里はどこであるかというようなことの、何か記帳した帳面とかあるいは記録がありましたか。
  38. 亀澤富男

    亀澤証人 お伺いしますが、それは日本側の場合でありますか、ソ連側の場合でありますか。
  39. 安部俊吾

    安部委員 ソ連側でも日本側でも、收容所における指導者というようなものの間にそういうものがあつたかどうかということです。
  40. 亀澤富男

    亀澤証人 そのカルテはソ同盟側にはできております。日本側も作成しておりましたけれども、それは日本に持つて帰れませんでした。
  41. 安部俊吾

    安部委員 そういうような悲惨な境遇にあり、そういうような非常な苛烈な労働に服しておつても、なおかつソ同盟はわれわれの労働力などは当てにはしないのだ。われわれはソ連に対して感謝意味において、またスターリン元帥感謝意味において働くのだというようなことを言つてスターリン大元帥に対する感謝署名運動というものがおつたそうでありますが、証人はこれに関して署名運動に大いに努力したのですか。あなたはアクチーヴとして……。
  42. 亀澤富男

    亀澤証人 大体スターリン署名感謝運動地区的に起りましたのは昭和二十三年の六月ごろであります。でありますから、われわれはその闘争カンパをやりましたけれども、実際に署名には参加しておりません。ぼくは十月に帰つておりますから……。
  43. 安部俊吾

    安部委員 一昨日委員長から質問がありましたが、もう少しそれをはつきりしたいと思うのでありますが、あなたの手記に、自分共産党徳田書記長ソ連中央政治局に対して、反動分子を帰すなと要請した、そういうことに関して中隊長から自分の耳で聞いた、そういうことが書かれてあるのでありますが、はつきり承りたいのは、そういうことを実際にあなたは聞きましたか。ソ連将校があなた方に対して会式に伝えた場合に、あなたははつきり自分の耳でその中隊長から聞いたことがあるのですか。
  44. 亀澤富男

    亀澤証人 ありました。
  45. 安部俊吾

    安部委員 それは場所はどこで日にちはいつですか。
  46. 亀澤富男

    亀澤証人 昭和二十三年九月四日午前十時半ごろと記憶しております。
  47. 安部俊吾

    安部委員 終ります。
  48. 内藤隆

    内藤(隆)委員 亀澤証人に二、三点お伺いしますが、平塚運動というものを御承知ですか。
  49. 亀澤富男

    亀澤証人 平塚運動は一九四九年、昭和二十四年五月ごろですか、自分は帰つたのちの問題でありますけれども、平塚運動というものは、單なる地区名称でありまして、これに関した運動は個々の地区的にはずいぶん起きておりましたけれども、これはいわゆるスタハノフ運動ですが、スタハノフ運動は行われ、また研究されておりました。ですから平塚運動は、最も作業能率の上らない、作業ノルマ作業基準量の測定の非常にむずかしい建築作業場で二〇〇%、三〇〇%というパーセンテージを上げたことは、結局それはそうやるために個人の団結力指導力が集まつているわけであります。そういつた意味において平塚運動は知つております。
  50. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そうすると平塚運動というのは、要するに引揚者中の、いわば日本製スタハノフ運動ですか。
  51. 亀澤富男

    亀澤証人 いやこれはどこまでもボルシエヴイーキ的なものであります。
  52. 内藤隆

    内藤(隆)委員 もう一つ文化工作隊というのがあつたようですが、御承知ですか。それはどういう制度でしたか、これも簡單でよろしゆうございます。
  53. 亀澤富男

    亀澤証人 文化工作隊というのが起りましたのは、たしか昭和二十四年の二月か三月ごろと記憶しておりますが、ぼくもずつと文化工作を担当しておりましたが、その当時は文化工作隊という名称は使いませんでした。文化工作隊という名称が生れた本質は何か、どうして文化工作隊という名称が生れたかということは、そのときの客観的事情によりましてわれわれには一応解釈できるのであります。文化工作隊というのは、人間変革目的とする文化工作であります。それまでの文化運動というのは、階級的憎悪を起させる、要するに闘争劇に重点が置かれたのであります。ですから文化工作隊が生れたのは、そのときにおいては、今までの闘争劇階級的憎悪というのでは大衆はあきたらない。なぜあきたらないかというと、大衆自体の政治的、また理論的、実践的な面が非常に高揚されまして、そういつたものをする必要がなくなつて来た。そうして完全なボルシエヴイーキとか指導者が組織するところの文化、そうして人間変革をするんだという目的のもとに文化工作隊が生れたのであります。
  54. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そうすると文化工作隊というのは、人間変革をやらすことが主たる目的であつた、こう承つていいですか。
  55. 亀澤富男

    亀澤証人 そうであります。
  56. 内藤隆

    内藤(隆)委員 一昨日の証人証言中に、民生グループ日本共産党直結されておるという証言がありましたが、その直結ということをもう少し具体的にお話を承りたい。
  57. 亀澤富男

    亀澤証人 ただいまの言葉で、一つだけ訂正さしていただきたい点があります。それは民主グループは、当時におきましては、日本共産党指導され学ばなければならなかつたとは言いましたけれども、直結するものであるとは言いませんでした。ただ反フアシスト委員会段階においては、われわれは日本共産党直結するのであるということを言つたが、具体的に例をと申されましたけれども、われわれ反フアシスト委員会結成当時において学んだのは日本新聞であります。すなわちシベリアのアカハタであります。われわれが日本新聞を研究し、日本共産党動きといつたものを取入れまして、日本共産党はこうだ、こういうことをこうやつておるが、これは間違いじやないか。こうしたら効果が上つた応じやないか。または日本共産党がこういうふうにやるが、これをこうやればもつと効果が上るのじやないか。こういう具体的な例、または日本新聞、そういつたものをスローガンとして、われわれはすでに一種の理論的にも実践的にも党員たる資格を持つておるという前提のもとに、われわれは共産党の準団体として発足するのであるといつた意味において、反フアシスト委員会結成されましたが、その闘争指針としては、日本共産党動きを研究したわけであります。
  58. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そうすると、要するに日本新聞を通じて、日本共産党動きなり指導精神なりを見て、それであなた方は日本共産党との直結を持つているという意味に考えておつたのですか。
  59. 亀澤富男

    亀澤証人 今ちよつとぼくの説明が足らなかつたかもしれませんが、反フアシスト委員会の誕生、結成という理由はどこにあつたかといいますと、これは民主民族戦線の旗のもとに結集せよ。日本民族を救うためには、あらゆる階級、要するに中小商工業者も、プチブルも、インテリも、労働者、農民も、すべての者を包含して、われわれは米英に対して日本植民化を救うのだというために、反フアシスト委員会が生まれたのであります。それをやるためには具体的にどうしたらいいか。すなわちこれは日本共産党と密接に手を握つてやるべきだという意味において、われわれは日本共産党直結ということを言つたのであります。
  60. 内藤隆

    内藤(隆)委員 今のお言葉にあつた米英に対抗し、これに抗争するか闘争するか、それはあなた方のグループ自体で考えたのですか。何か他の方面からそういう指示なり指導なり命令なりかあつて、そういう立場をとつたのですか。
  61. 亀澤富男

    亀澤証人 それはわれわれ自体が外で考えましても、当然キヤピタリズムの親玉である米英に対して敵であるということは考えられますけれども、やはりこの問題の指導者となつて前進、推進させたものは、日本新聞であります。それとともにソ連側政治部員であります。     〔石田(一)委員「議事進行に関し   て」と呼び、発言を求む〕
  62. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 じきに済みます。そのあとで……。
  63. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そうしますと日本新聞が、要するにあなた方の指導一種の聖典といいますか、バイブルということになつてつたという証言がありましたが、日本新聞の書いたことを中心として、それによつてあなた方は動いた。その日本新聞に徳田球一君、野坂參三君、伊藤律君ですか、そういう人人の原稿がよく載つてつたということは、一体どういう経路でその記事が日本新聞に送られたか。あなたは日本新聞の編集に関係があつたという意味において、この原稿なりあるいはまたそういう文章がどういう径路を経て日本新聞に来たかということを、詳細に御説明願いたいと思います。     〔石田(一)委員委員長、議事進行に対する緊急動議を出すんじやないか」「動議が先決だ」「やかましい」と呼び、その他発言する者多し〕
  64. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 すぐに終りますから……。
  65. 亀澤富男

    亀澤証人 申し上げます。日本共産党の原稿だとか、またはアカハタの記事、または日本共産党が発行したパンフレツト、そういう記事が日本新聞にどうして載つたか、その径路は自分にはわかりません。しかし私が帰つて来まして、アカハタあるいは共産党のパンフレツト、そういうものを見まして、それがどの程度密接に日本新聞と結ばれておつたか。あるいはまたある意味から言つて日本共産党は知らぬ、それはソ連がかつてにやつたのだと言われるかもしれませんが、しかし自分が考えた範囲におきましては、大体アカハタの記事に関することは、自分は統計をとつてありますけれども、二日ないし三日おきに発存した日本新聞には、必ずアカハタの記事が載つておりました。毎号必ず載つております。     〔石田(一)委員「動議は先決じやないか」と呼び、その他発言する者あり〕
  66. 内藤隆

    内藤(隆)委員 これはすこぶる重大な問題であります。     〔発言する者多し〕
  67. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 発言中ですから、それが済んでからやります。そう長くないんだから……。     〔発言する者多し〕
  68. 内藤隆

    内藤(隆)委員 シベリアで発行されている日本新聞に、二日か一日遅れてアカハタの記事がそのまま載つたということは、重大な問題です。あなたは一体どういう径路で、どういう機関でそれが載つたと考えておられるかを聞きたい。
  69. 亀澤富男

    亀澤証人 ただいまちよつと間違いがあつたようでありますけれども、二日、一日と言つたのは、これはある一つの事件だけでありますけれども、大体ぼくの見ましたのは、二日か三日おきに発行された日本新聞の記事はアカハタからの取材がある。必ず符号アカハタの記事が載つてつた。その経過は四、五日ないし十日で、時事解説は年月ぐらいのものをまとめて、日本新聞に載つております。それから一日か二日ぐらい遅れたのは、どういうものがあるかといいますと、たとえば日本共産党徳田書記長が九州の佐賀県において手榴弾の襲撃を受けた事件、またはイタリアのトリアツチの見舞電報、毛澤東の見舞電報といつたものは、そちらの方を経ずに、中国を経たということはない。と思うのは、徳田書記長が襲撃されて、その直後に日本新聞日本共離党中央委員会の声明が載つております。それは徳田書紀長のカンパが行われた二日後であります。ですから徳田書記長が襲撃されて、四日後に日本共産党の声明として日本新聞には載つております。     〔発言する者多し〕
  70. 内藤隆

    内藤(隆)委員 ともかくも客観的情勢から見て、ああいうような重大な問題が四日、五日の間に日本新聞に載つたということは、われわれ想像できないほどの河かそこにたくらみがあるように考えられてしようがしない。この点は証人を追究してもこれ以上は知らぬと思いますから、この点はそれでよろしいと思います。  それからもう一つ、あなたが証人として当席へおいでの前に、何らか共産党の諸君から威圧というと語弊があるが、何か交渉されたことはありませんか。
  71. 亀澤富男

    亀澤証人 全然ありませんでした。
  72. 内藤隆

    内藤(隆)委員 実は先日私は……(発言する者多く、聴取不能)……から聞いたのですが、共産党の方から証人に呼ばれる人の姓名、あるいは住所を事前に知らせてくれといつた注文があつたそうであります。また新聞なりその他を見ますと、共産党が、当店へ証人として来る者に対して、ひとつの威圧を加えておるという事実もあるようであります。共産党が何らかの必要があつて証人の住所姓名――姓名はいいけれども、住所を詳しく聞いて来たのか、この点委員長は少しく調べてもらいたい。幸いにここには威圧等はなかつたそうであります。他のこれから出て来る証人に事前にさようなことがあつたら、証人証言というものをわれわれは信じ得ない一つの事実が出るかもしれない。これは重大問題であるから、十分にお調べを願いたい。これで終ります。
  73. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 証人に対してはそういうことはなかつたのですか。
  74. 亀澤富男

    亀澤証人 私が参議院に呼ばれて上京しておつたら、共産党の方が一日か二日置きに来られて、また私が静岡に帰りまして、三十分後に共産党の方がたずねて来られました。
  75. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういうことを言つたか。
  76. 亀澤富男

    亀澤証人 それに対してぼくは、現在衆議院の考査委員会に証人として呼ばれておる。だから、そういうことは帰つてからにしてくれといつてお断りしました。
  77. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そうすると、さいぜん証人共産党のさような訪問は受けたことはないと最初におつしやつたから、私は多くを追究しなかつたのですが、ただいまの証言によりますと、いわゆる参議院におられるときも再三再四来ておられるという事実がある。これは大問題であります。これは共産党の組織と細胞を用いて、証人を事前において威圧するようなことがあつては、証言の信憑性を疑わざるを得ない。この点十分お調べを願いたい。     ―――――――――――――
  78. 石田一松

    ○石田(一)委員 この際議事進行に関する緊急動議を提出いたします。それは鍛冶委員長は、過日の衆議院の運営委員会において、院内で検事の捜査権を許した問題について、運営委員会の決定を見るまで、本委員会の神聖と権威を保つために、他の理事委員長の席を交替して、この議事を進められんことをこの際動議として提出いたします。
  79. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ただいまの石田君の動議に対して、何か御意見のある方はありますか。
  80. 篠田弘作

    ○篠田委員 ただいまの石田君の動議は、先般の運営委員会において野党側が提出したのでありますけれども、それは党に帰つて相談をするということによつて、野党側の意見としてもまだまとまつておりません。これは石田君がよく知つております。すなわち各党において十分党議にかけて審議をし、そうしてあらためて来るべき運営委員会にかけるということになつておるのであつて、問題は運営委員会の問題でありますと同時に、野党の態度がきまつておりません。それを、ただいま重大なる証人を呼んでおる際に、その考査委員会においてそういうことをやるということは、まつたく間違いであると考えますので、石田君の動議に対しては不賛成を唱えますから、この際採決をお願いいたします。
  81. 梨木作次郎

    ○梨木委員 ただいま出されました石田君の動議は、きわめて重要だと思うのであります。過般の議院運営委員会で問題になつた鍛冶委員長に関する事項というのは、国会の中へ司法官が捜査をするためにやつて来たことを、委員長の地位においてこれを容認したという、国会の尊厳に対する重大な侵犯を、議院の名において行つた事柄であります。これは国会の権威を議員みずからが傷つけたということになるのであります。かような不見識な議員、しかもそれが委員長のポストについてこの考査委員会の運営をなされるということをわれわれが容認することは、考査委員会そのものの権威までも踏みにじることになるのでありまして、従いまして、鍛冶委員長がその地位にあつて、この考査委員会を運用されるということは、きわめて不適当であると思うのでありますから、この意味合いにおきまして、委員長はその席を退席されまして、他の理事がこの委員会の運営をされるように取運ばれることが最も必要であろうと思うのであります。その意味合いにおきまして、石田君の動議に賛成するものであります。
  82. 小野孝

    小野委員 私は、今石田君からこういう緊急動議が出されるに至つたことをまことに遺憾と思います。私はきよう、われわれの方からそういう動議が出るまでもなく、委員長は自発的にその席を他の同僚の諸君に譲られておるものと期待して出て参つたのでありますが、こういう動議が出たことはまことに遺憾であります。問題の実情及びこれに対する各派の態度はまだ定まつておりません。われわれは後日にその態度を保留しておるのでありますけれども、しかし問題の渦中に入つたことだけは事実であります。その事実がある以上は、委員長みずからのためにも、また委員長を出した自由党のためにも、その席を譲られる方が適当であろうと思います。今日の動議に対しては、おそらく自由党の諸君は多数をもつてこれを否決されるでありましようけれども、少くともこの次のときには、自発的にその席をしりぞかれることを、私は鍛冶君のためにも、自由党のためにも切望にたえません。
  83. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは採決いたします。石田君の動議に賛成の諸君の起立を望みます。     〔賛成者起立〕
  84. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 起立少数。よつて石田君の動議は否決せられました。
  85. 西村直己

    ○西村(直)委員 証人に二、三お尋ねいたします。  日本新聞日本側の最高責任者、あるいは編集長、そういつた運営機構をお聞きしたい。  それからいま一つ、これは日本人自体の手で発行されたか、ソ同盟の手で発行されておつたか、その点をお聞きしたいと思います。
  86. 亀澤富男

    亀澤証人 日本新聞の編纂長は大場三平のペン・ネームを使つておりますけれども、これがソ連側の編集長といいますか、そういつたものであることは、これは日本人捕虜周知の事実であります。でありますから、日本新聞に現われますところの世界情報、ソ連事情というものは、これは「太平洋の星」から提供されております。日本新聞は「太平洋の星」の指導のもとに運営を開始した新聞でありますから、これは日本側が出したものか、ソ連側が出したものか、この限界は非常にむずかしいと思います。これはソ連側がつくるわけでありますけれども、私も日本新聞社に入つてくれないかといつて委嘱を受けたこともありますけれども、大体これは満州日日新聞の輪転機、社員全部を使つて、高川、相川、村方、上井といつた人たちが主軸になつてつたのでありますけれども、客観的事実によつて申し上げますれば、これはソ連側の実質的な援助によつて日本人側がやつたものと自分は認めております。
  87. 西村直己

    ○西村(直)委員 一昨日の証人の言によりますと、表題の見出しの下に、日本軍事捕虜に対する新聞というような解説かついておると聞きましたが、その事実はありませんか。
  88. 亀澤富男

    亀澤証人 その事実は認めます。
  89. 西村直己

    ○西村(直)委員 次に、亀沢証人が参議院において――先ほども触れました徳田要請に関連する問題でありますが、証人は二回徳田要請の問題については見られておるのでありますが、たとえば万国赤十字云々というはがきの問題が一つ、それからいま一つは、ソ連の警備隊長の問題、その文面の記憶等を御証言願いたい。
  90. 亀澤富男

    亀澤証人 昭和二十三年の五月一日前後と記憶しております。これは、ソ側政治部員のキーシイロフ大尉のもとに使つておりますところのエリセーフという軍費が私のもとに参りまして、そのはがきを掲示板に張つてくれ、日本共産党からこういうことを言つて来たということを受けまして、そうして私がその手紙を掲示いたしました。それは水色の厚紙でありまして、そうして万国赤十字社のスタンプが入り、米軍と日本ソ連と、三つの国の消印のスタンプの入つてありました手紙であります。そうして、これは実物の手紙のひな型でありますが、お元気にてソ同盟強化のため邁進され、りつぱな闘士として帰国され、反動に対してともに闘う日の来るのをお待ちいたしております、といつた内容でありました。なおこのはがきは、日本人捕虜に、在ソ生活三年間の間に、三回にわたつて配布されましたところの、日本の妻子に対して使うようにといつた、万国赤十字の手から配付されたはがきでありまして、われわれ自体がこの手紙を政治的に、親兄弟よりも日本共産党に出そう、われわれの同志に出そうといつた目的でもつて、それを政治的に日本共産党中央委員会または各個人にあてて出した数は相当多数に上るものと認められます。  それから第二回目は一九四八年、昭和二十三年九月四日、先ほど自分証言しましたあのキーシイロフ大尉が私を呼んだのであります。この話をいたします前に、大体二週間ばかりさかのぼつて説明しなければなりませんが、どうしてキーシイロフ大尉がこの手紙を私たちに見せたか、またなぜそういつた行動を彼がしたかということに対して、彼はそのときも弁解いたしましたけれども、大体私たち反フアツシスト委員会というものは昭和二十三年五月末結成されまして、当時沿海州における最も民主的な大隊であるといつてソ側にもほめられ、また日本新聞にも載つたものであります。また最も反軍闘争つるし上げを熱烈にやつたものでありまして、そういうわれわれ收容所に帰国命令が下つたのは、八月二十六日の夜だと記憶しております。それはあとでわかつた事実であります。その帰国命令の来た日に、何名帰れといつて命令が来たのであります。そうするとその何名以外の人間は、全部は帰れないわけです。そこでその人間を入選したわけです。そのときソ側がいつも言つて来るのは、成績の悪い兵隊、言いかえれば反動的な人間を残せと言つて来るのが、いつもの例であります。でありますからその場合においても、特にそういつたことを言つて来たのではないかと思いますけれども、自分は中央委員ではありませんから、そのことは知りませんけれども、その人名は考課表に載つた人間、向うが言つたのかこちらが言つたのか知りませんけれども、要するに最も反動的な、不純な、非協力的な人間が奥地へ転送されたわけであります。そうしてその人間は去年の月初め帰つております。われわれより大体帰国が一年遅れております。それからあとは一騎当千の、日本へ敵前上陸するのだといつた特に青年層が大部分でありましたけれども、そういつた者が残つて、帰国が近いうちにあるのではないかという希望を持つてつたわけであります。そうして九月四日にキーシイロフ大尉が私を官舎に呼びまして、それは将校当番が呼びに来たのでありますけれども、その当時私は美術的な仕事をときどきやつてつたものでありますから、キーシイロフ大尉の家に行きまして壁に模様を入れてくれと言われ、その模様を書くべく準備をしました。ところが彼は自分を呼んで、こんなことを言つてもお前たちはほんとうにしないだろうが、またお前たちはこんなことを言う必要はないだろうが、今こういうことを言つて来たという意味において、彼は個人的に、彼としては自分が三年間手がけたところのわれわれが実に優秀な、平和と民主運動の闘士として帰国するにあたつて、非常な喜びからそういうことを言うたのだろうと自分状況判断するのでありますけれども、内容は大体四枚でもつて構成されたところの印刷体の文章であります。そうして封筒の上書きには收容所長、ロシア語でナチヤーニク・ラーゲルと書いてありました。そうしてその四枚のたしか一番しまいだと私は記憶しておりますが、距離が大体一メートルぐらいしか離れておりませんでしたが、彼は差向いになつてそれを読みながら、日本語とロシア語と半分まぜて言つたのであります。私は政治的にも非常に接しておりまして、ロシア語も相当な程度に会話の方も上達しておつたのでありますが、彼としては、かんで含めるように私に読んで聞かせてくれました。その内容も、私はちらつとそれを見ながら、彼の言つておることと内容は一致しておるものであるということは、私は認められました。その内容は、われわれが日本新聞においてすでに二回も三回も見た事実の問題でありますが、ただそれは日本共産党徳田書記長のサインのもとに出て来たのであります。今までの日本新聞は、日本共産党からではありませんでした。その内容というものは、貴国の好意によつて優先的に送還されたところの身体虚弱者、素行不良者は言動著しく反民主的にして、党活動に大なる支障を来すものである。ゆえに願わくは貴国の好意によつて、思想的、肉体的に健全な者を送還されることを希望するというので、そうして「日本共産党徳田書記長」とタイプに打つてありました。
  91. 西村直己

    ○西村(直)委員 第一の手紙の方から少し詳細にお伺いしたいと思いますが、これはあなたが壁に張られたわけですね。
  92. 亀澤富男

    亀澤証人 はい。
  93. 西村直己

    ○西村(直)委員 万国赤十字の一般に配られたものに対する返事ですね。
  94. 亀澤富男

    亀澤証人 はい。
  95. 西村直己

    ○西村(直)委員 内地から返事をもらえるような仕組みになつておる万国赤十字の水色のマークのはいつたもの、そのままですね。
  96. 亀澤富男

    亀澤証人 はい。
  97. 西村直己

    ○西村(直)委員 それは墨で書いてありましたか、ぺンで書いてありましたか。
  98. 亀澤富男

    亀澤証人 それはぺンで書いてありました。
  99. 西村直己

    ○西村(直)委員 それは徳田書記長となつておりましたか、徳田球一となつておりましたか。
  100. 亀澤富男

    亀澤証人 徳田書記長となつておりました。
  101. 西村直己

    ○西村(直)委員 いま一つ、私聞き落したのでありますが、その消印は米とソとどこですか。
  102. 亀澤富男

    亀澤証人 日本であります。
  103. 西村直己

    ○西村(直)委員 ソ同盟強化のためという意味は、そのときにアクチーヴの人とか、あるいは反フアシスト委員会で活動しておつた人たちは、どういう意味にこれをとりましたか。
  104. 亀澤富男

    亀澤証人 それは当然あるべき問題であつて、その手紙長つてわれわれが感じたことは、今までは大体昭和二十二年から日本共産党は要求しておる、日本の人民は要求しておるといつたことを何回も耳にしました。そのほかに伊藤律から手紙が来たとか、春日正一から手紙が来たということを何回も聞いたのでありますが、現実にわれわれが遭遇したのはそれが初めてであります。でありますから当然であることながら、それを見たことによつて、われわれの生産競争といつたものが激化されたことは、これは大きな事実であります。特にわれわれがリアリストとしてリアリズムに生きておる以上、これは大きな結果だつたと思います。
  105. 西村直己

    ○西村(直)委員 私は証人証言をこう承ります。証人自体が中心に入つてつてソ同盟強化のためという点は、これは当然そのときの証人。立場の義務であろうと思うので、これは当然だと思います。これはその当時反動の諸君は見たのでありますか、見ないのでありますか。
  106. 亀澤富男

    亀澤証人 その一九四八年五月一日前後には、反動ということは非常にむずかしいのでありますけれども、その当時反動正面切つてうたつた者に一人もおりません。でありますから要するに仮装民主主義者、仮装共産主義者の者が受けたところの影響は実に大きかつたであろうと自分は思います。ただ彼らに言わせれば、何だそんなことは、ふふんといつたことで、気にもしておらないでしようけれども、現実にそういつた書簡を見せつけられて――さらにわれわれがそういう手紙をもらつたとき、その晩カンパをやりました。大衆総会を聞きまして、そこでもつて日本共産党徳田書記長の要望にこたえるために、りつぱな闘士となることを誓うという大衆総会をその晩持ちました。
  107. 西村直己

    ○西村(直)委員 第二の方の、收容所長から病弱者、身体の故障ある者、あるいは素行不良なる者は内地に帰してくれては困るという意味の文章を読んで聞かされた。そのときにはすでに内地には、たとえば水原であるとか、あるいは法務中尉の柴田と申しましたか、ああいつた諸君が帰つて、内地においてソ連日本人の反フアシスト委員会なり、民主グループなり、あるいはソ同盟関係の政治教育の状況について相当暴露をやつたあとでありますか。
  108. 亀澤富男

    亀澤証人 反ソ、反共デマという、要するに復員者が帰つてそういつた言動を犯しておるということが、日本新聞に大きく取上げられたのは、昭和二十一年二月末と私は記憶しております。それは柴田法務中尉も言つておるのでありますけれども、それと関連して、当時の新聞に、大体これはわれわれも知つておりますけれども、一番初めに帰した素行不良者はどういうものであるかと申しますと、これは收容所を脱走した、もしくは刄傷沙汰をやつたボス的な連中であつた、こういう人間であります。要するにこの素行不良者というものは、これはフアシズムの思想を持つた者とか、ミリタリズムの思想を持つた人間ではありません。または前歴者でもありません。それとともに身体虚弱者が日本へ帰つて来て反ソ反共デマを振りまいているということは、柴田法務中尉というのが大きく取上げたのであります。
  109. 西村直己

    ○西村(直)委員 柴田法務中尉というのが内地に帰つて来て、いわゆるボルシエヴイーキ的な立場から言えば反ソ反共デマを言つて歩いた、これは日本新聞に大きく出たのでありますか。
  110. 亀澤富男

    亀澤証人 そうであります。柴田法務中尉は大体二十二年の暮れに帰つております。
  111. 西村直己

    ○西村(直)委員 帰つて間もなく出たのでありますか。
  112. 亀澤富男

    亀澤証人 そうであります。
  113. 西村直己

    ○西村(直)委員 そういう現地においていわゆる反動と言われた諸君が内地に帰つて来て、現地の悲惨なる事実、あるいは政治教育のやり方、捕虜心理の上に立つて強制的な政治教育をやつてボルシエヴイーキ化して行く、要するにソビエトの言葉でいう人間変革、こういつたようなことが絶えず出て来る、こういうようなことはただちに内地における反ソ反共デマと称して、日本新聞に折り返つて来るのでありますか。
  114. 亀澤富男

    亀澤証人 そういつた事実は明瞭であります。ただ柴田法務中尉ほど――要するにかれが知識人であり、また法律を研究した人であるという意味において、かれの反響は非常に大きかつたと思います。でありますから、そのほかにもどういう人が帰つて反ソ反共デマを振りまいたかということは、数回聞いておりますけれども、ただ柴田法務中尉ほど大きく出たことは初めてであります。それとともに、そこにおいてシベリア民主運動においては、つるし上げ形態なるものが初めてできたわけであります。
  115. 西村直己

    ○西村(直)委員 言いかえれば柴田法務中尉等の知識階級である人が内地へ帰つて来て、シベリアの実情を暴露する。とたんにソ同盟強化のため、からだの悪い者や身体虚弱者、素行不良の者を日本へ帰してくれては困る、もつと元気な者を帰してくれという手紙をあなたは露文で見せられて、同時にそれが契機となつてシベリアにおけるつるし上げ運動が激化した、この三段関係は一応関連性ありとあなたはごらんになりますか。
  116. 亀澤富男

    亀澤証人 それは当然関連のあるべき問題であると思います。
  117. 西村直己

    ○西村(直)委員 次に問題がかわりますが、捕虜の弱い心理に対して強制的な政治教育をやり、一方において帰国、いわゆる当時の抑留者のあこがれであつたダモイという理想に対しまして、現実には帰国の権利はだれがきめて行つたかという問題であります。
  118. 亀澤富男

    亀澤証人 それは反フアシスト委員会等におきましては中央委員であります。そしてこの審議にさらに拡大委員が携わるのであります。民主グループ当時におきましては、民主グループの專門部員であります。
  119. 西村直己

    ○西村(直)委員 証人の言はこう受取つてよろしゆうございますか。反フアシスト委員会の中核体、あるいは拡大委員会の中核体のメンバーが帰国の決定権を持つている。一方とらわれたる、しかも帰りたいというきわめて弱い心理的な気持をどこかにひそめているところの、あるいはボルシエヴイーキに賛同した者、あるいはひより見主義的な者、あるいは反動的な者、こういう者に対して帰国の権利を振りまわすということ自体は、言いかえますれば常識、いわゆる平常なる状態、自由に解放されたる状態において行われ得た心理状態であるかいなかという点について、あなたのその当時における状況お話願いたいのであります。
  120. 亀澤富男

    亀澤証人 ただいま帰国の問題について、西村委員から相当言われたのでありますけれども、この帰国という問題をめぐつてシベリア民主運動というものがすべて発足しているのでありますけれども、決定権は日本側にあります。さらにそれを、大体われわれは実際これに文献とか、ある場合にちよつと聞いたことがありますけれども、ソ連側政治部員日本側委員に対してこういうことを言つて来るのであります。二百人ある部隊へ転属さしてもらいたい、非常に成績の悪い人間をやつてくれということは、かれはいつも言いました。そうすると大体こちらの中央委員としては、細胞組織というものを組織してあるのでありますから、だれが不純分子であるということはわかつておりますから、それは五分間か十分間で解決がつくのであります。とともに、われわれが当時において個人感情から排斥した者も、思想的な面は別にして、ある委員が個人的な感情的な問題で排斥したことはありましたけれも、当時われわれ日本人の非常に帰りたいというがむしやらな気持をかれらに利用されまして、朝起きるから夜寝るまで、はしの上げおろしにまでわれわれは相手を警戒し、ほんとうつるし上げられるということによつて個人の思考力を麻痺される、そういう状態に置かれたわけであります。でありますから、おれは仮面をかぶつて民主運動をやろうという者は、すべて反動意味しております。ほんとうにボルシエヴイーキの段階においては、正面切つた反動であるか、もしくは反動でないという二つしかありません。仮装民主主義者というものは、長く続いても二月か三月であります。そこまでわれわれはは雰囲気を盛り立てて行つたのであります。帰国という問題は、そういう帰るという前提のもとに出発したのでありますけれども、それが後には人間的変革にまで持つて行かれたのでありますから、シベリア民主運動の第三年目からは、帰国という言葉正面切つて使われませんでした。捕虜が帰国という言葉を使つた場合には、反動分子として制裁を受けたのであります。帰国という問題はデリケートでありまして、一年、二年目においては帰国するための民主運動であつたが、三年目においては帰国するための民主運動ではなくなつて来たわけであります。表面的にはボルシエヴイーキ的な立場から物事を批判し、判断できる人間でなければならぬということに、一応の主力が置かれたわけでありますから、帰国という言葉は、第三年目には絶対に表面に出て来ませんでした。
  121. 西村直己

    ○西村(直)委員 そこで日本新聞には、かなり長く帰還者読本、あるいは帰還者に対する手紙というものが、主として野坂參三という人の名前で載つてつたと思うのでありますが、この内容について語つていただきたいのであります。
  122. 亀澤富男

    亀澤証人 帰還者読本、あるいは帰還者に対する手紙という論文と申しますか、そういうものを書かれたのは、日本共産党の政治局員の方々が大部分であります。その内容にうたつてあることは、一口にざつくばらんに言いますと、今日本は革命の前夜にあるのだ、諸君たちは一人十万の党員を獲得するような同志となつてつてくれ、そうしてわれわれとともに闘おうというようなことがおもな内容であります。
  123. 西村直己

    ○西村(直)委員 この帰還者への手紙を書いた政治局員というのは、名前は出ていないのですか。
  124. 亀澤富男

    亀澤証人 今言いましたのは政治局員の方々でありまして、名前は出ておりました。
  125. 西村直己

    ○西村(直)委員 どういう名前ですか。
  126. 亀澤富男

    亀澤証人 政治局員は全部出ておりました。
  127. 西村直己

    ○西村(直)委員 帰還者への手紙は、内地におきましても、共産党の本部からりつぱな印刷物になつて、それぞれ帰還者へ渡すように町にも売つておりました。その大体の内容は私もここに持つているのでありますが、要するに、あなた方はソ連に救われたのだ、新しい人生観あるいは理想に燃えて帰るのだ、日本の革命の前夜は近づいている、一ぺん救われた生命なんだから、ないと思つて革命のためにやれ、日本新聞に出たのも大体こんな内容と了承してよろしゆうございますか。
  128. 亀澤富男

    亀澤証人 そうであります。その当時のアクチーヴの者に言わせれば、何もそういう日本新聞に書いてなくともわれわれはそれに対しての判断、行動はできたわけです。この日本新聞というものをなぜ受けたか、ただ一般大衆にとつては最も親しみ深い唯一の体裁であつた。そのほかのパンフレツトはことごとく大衆には親しみにくいものであり、共産党新聞を見ましても、あるいはその他のパンフレツトを見ましても、大体日本の高等学校を出た程度の者でなければ判読できないというものであります。ですから彼らが日本新聞ほんとうに仕事の余暇をさいて読むといつた意味において、今西村委員の言われたと同様の言葉日本新聞に載つてつたけれども、われわれとしてはその問題は、日常茶飯事の問題でありまして、大して感じなかつたわけであります。
  129. 西村直己

    ○西村(直)委員 そこまでいわゆる人間変革をさせられておる段階においては、私は当然であろうと思うのであります。ところで帰還者の手紙はもちろんでありますが、政治サークルその他におきまして、あなた方も日夜文化運動等を通じて訓練する。同時にまたあなた方自体に対しても、ハバロフスクで講習会を開いたり、いろいろしておつたろうと思います。これらについて日本に帰つて革命の戰略、戰術、こういつたものについていろいろ指導があつたのでありますか。
  130. 亀澤富男

    亀澤証人 ありました。それをちよつと具体的にお話いたします。その前にまず私がこの文化運動を通じてどういう方面に持つてつたか。それについて、自分のその当時の闘争方針をちよつと述べてみたいと思います。  まず社会主義社会の優越牲、これが第一番にあげられます。そうしてスターリン憲法を中心に、ことごとに資本主義社会との相対の対比のもとに行われました。その次にソ同盟の対外政策について、要するに世界植民地化、新戰争の放火者として米の対外政策が摘出されたわけであります。そしてソ同盟をして平和擁護、民族独立の哨兵、城砦とする。次に人民民主主義国家、平和革命のお手本として東南欧諸国の人民民主主義国家の一つの解剖、研究、その次に日本共産党闘争天皇制の暴露、そうしてその批判のもとに人民政府樹立の強調であります。そしてその具体的闘争としては共産党と社会党との合同闘争、次に国際プロレタリアとの連繋、そしてこれを強化するためにソ同盟城砦の強化労働生産競争に参加する。そうして日本へ帰つて集団入党。そうしてソ同盟の真実を伝える。反ソ、反共デマの粉砕、吉田買弁内閣の打倒、そうして階級的立場に立つた者以外は絶対排撃するといつた方針でありまして、一般大衆に対するところの文化面、政治面を通じての闘争面であります。しかしわれわれのアクチーヴといつたものに対するところの政治部の将校、もしくは反フアシスト委員長会議、または講習会におけるところの闘争方針は、これよりさらに高度なものであつたのであります。どういうものをパンフレツトとしてわれわれは習つたかといいますと……。
  131. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ちよつと証人、それは何ですか、その時分に書いたものですか。
  132. 亀澤富男

    亀澤証人 これは違います。ただ意見をまとめるために自分が書いたものであります。
  133. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ずつと前に……。
  134. 亀澤富男

    亀澤証人 いやきのうであります。
  135. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 むずかしいことでなくて、なるべくあなたの記憶に基いて……。
  136. 亀澤富男

    亀澤証人 アクチーヴに対する教育方針、教育の内容、どういうものをパンフレツトにとつたかその概略を申し上げますと、一番パンフレツトに取上げたものが「国家と革命」であります。これは原書レーニンの書であります。マルクスの「資本論」「スターリン略伝」、「レーニン略伝」であります。それから「日本共産党史」「レーニン主義の諸問題」「スターリン全集」「レーニン全集」「ソビエト・ボルシエヴイーキ共産党史」「十月革命における二つの戰術」これはスターリンの書であります。それから「スターリン大会報告演説」「スターリン憲法」「ソ同盟の国家構造」「戰後スターリン五箇年計画」「日本共産党綱領」「農民に訴う」レーニンの書であります。「スタハノフ運動について」「ブルジヨア民主主義とは」「右翼社会民主主義とは」「コルホーズとソルホーズ」「資本主義発達史」「東南欧民主主義諸国の民主主義について」「弁証法的史的唯物論」こういつたものを順次習いました。これによりまして定義づけ、そうして具体的にこれをやるためにはどういう行動をとつたらいいかということについて研究したわけであります。
  137. 西村直己

    ○西村(直)委員 アクチーヴに対する教育と、それから一般のボルシエヴイーキ化したところの大衆に対する方針は大体わかりましたが、さらにそれを具体化したようなことについては、指示なりあるいは研究はなされなかつたのですか。たとえば天皇島に敵前上陸をする、そして舞鶴に上つたときはどこでストライキをやる云々、こういうような具体的な問題は御相談あるいは研究、あるいは指示はなかつたですか。
  138. 亀澤富男

    亀澤証人 われわれの大衆に対する指導方針は、どこまでもボルシエヴイーキ的な人間に変革する、要するにボルシエヴイーキの殉教徒、盲信者をつくり上げることがわれわれの指導方針であります。それとともにわれわれが日本に帰つて農村へ入り、工場へ入り、あるいは都市へ入つてどういうふうに運動するか、これがわれわれ最も研究した点であります。文化運動について、文化運動をどういうふうにしたらよいか、何日に何回どういうことをやるかというようなことはやらなかつたのでありますが、ただ具体的な例としてどういつたことをやるか。そういうことは、われわれは戰術としては習つたのですが、これを個々的にどういうふうに持つて行くか、たとえば日本で革命をする場合に警察をどういうふうに処理するか、また革命後においてどういうふうに憲法をしかなければならないかというようなことについて、客観的に習つたのであります。
  139. 西村直己

    ○西村(直)委員 その内容につきましては後日に質問を留保いたしまして、あなたは舞鶴に上つたのですか。
  140. 亀澤富男

    亀澤証人 そうであります。
  141. 西村直己

    ○西村(直)委員 舞鶴に上られたときに、日本共産党、あるいは日本共産党党員の諸君は、あなた方に対してはどういう態度をとつてつたか。
  142. 亀澤富男

    亀澤証人 私は日本共産党の方と舞鶴の駅前で大体三十分にわたつて話しました。そうして日本共産党がいかにわれわれに期待しておるか。そうしてここでもいいからサインしてくれ、入党してくれと言われました。しかしこの日本の祖国を見たときに、われわれはこの日本という国を、民族を破壊することは大きな罪悪だと考えたのであります。ですからそのときにはサインしませんでした。
  143. 西村直己

    ○西村(直)委員 そうしてあなたは帰られて一応入党はされぬでおりましたが、その後に日本共産党、あるいは少くともアクチーヴあるいはボルシエヴイーキ化された帰国者が、あなたに対して地下的に、あるいは表面的に御連繋を求めて来られた事実はありますか。
  144. 亀澤富男

    亀澤証人 日本共産党が私に対して演劇学校の講師になつてくれとか、または入党してくれというお話はずいぶんありましたが、それはお断りいたしました。それから私が最も興味とする問題は、中央委員であり拡大委員でありオルグであつた人たちが、私が書簡を出しても返事をくれなかつたことであります。ただ一通くれたことは何を意味しておるか。シベリアの問題は一切水に流してくれ、そうしてわれわれは現在唯物論と唯心論の岐路に立つている、われわれはもう少しものを考えたいといつた意味の手紙を送つて来ております。
  145. 西村直己

    ○西村(直)委員 唯物論と唯心論の岐路に立つておるというようなお話でありましたが、その手紙をよこされたのは向うの中央委員でありますか。
  146. 亀澤富男

    亀澤証人 これはわれわれとともに帰国して来た者であります。でありますから、われわれとともに帰国した者で、現在活発に政治活動をやつておる者はないと思います。
  147. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 中央委員というのは、ソ連における民主グループの中央委員ですか。
  148. 亀澤富男

    亀澤証人 反フアシスト委員会、すなわち千二百人の中央委員であります。
  149. 吉武恵市

    ○吉武委員 関連質問で……。証人が先ほどアクチーヴとしての指導方針として列挙されましたのは、それは何ですか、中央委員その他からこういうふうにさしずをされた項目ですか。あなた自身がある基本的なものに沿うて自分でお考えになつたのでありますか。
  150. 亀澤富男

    亀澤証人 その問題につきまして私のつるし上げ――つるし上げといつても残酷なものではなかつたのですが、亀沢というのは福本イズムである。――福本イズムはおわかりでしようか。要するに福本イズムというものは政治的な理論、実践、行動というものを経験し、かつ一定のレベルに達しなつた場合には、革命指導者として革命をすることができないというのが福本イズムであります。亀沢はそのイズムを持つている。そういうふうにソ側政治部員からはげしく言われたのであります。中央委員会でつるし上げを食いました。君の方針をかえなかつたらいかぬ、われわれは大衆を利用するのだ、われわれの目的は世界の民族の單一化である。そういつた観点から見て、君の方針は間違つている。自分はこれをすなおに認めまして、すなわち日本共産党のやつているところのボルシエヴイーキ的人間変革、プロレタリア的な、階級的な立場から出たところの自己批判、盲信者、殉教者、こういつた人間をつくり上げる。言いかえれば機械の奴隷、ロボツトといつたようなもの……。
  151. 島田末信

    ○島田委員 亀沢官は、私はおはずかしい話ですが、こういう同志の制裁が恐しかつたのです、ということを手記の中で告白されておりますが、その同志の制裁ということはどういうことなのですか。
  152. 亀澤富男

    亀澤証人 われわれは三年間いて、ぼくもある程度ボルシエヴイーキ的な人間になつたと思いますが、ボルシエヴイーキがいかに強固なものであるか、共産主義というものがいかに強固なものであるか、言いかえれば世界最大の諜報機関であり、秘密結社である。そういつた意味から申しまして、ソ同盟民主運動をやつた者がおつかないのは、日本共産党よりもボルシエヴイーキ、要するに幻兵団的なものが出て来るわけでありまして、そういうものの制裁がおつかなかつたわけであります。
  153. 島田末信

    ○島田委員 あなたは在ソ中日本新聞の解読者とか責任者にもなるし、出版関係における編集長もやられたり、あるいは青年行動隊の副隊長をやられて、また文化祭の準備委員長というふうな要職にあつたようでありますが、そういう立場から、いわゆる反動分子は帰すなというためにいかなる行動をとられたか、あなたの体験談の代表的なものをおつしやつていただきたい。
  154. 亀澤富男

    亀澤証人 今の委員の方にちよつと質問したいのでありますけれども、反動分子を帰すなという私どもの闘争方針でありますか。
  155. 島田末信

    ○島田委員 あなた自身が反動分子を帰さないためにいろいろとられた行動、その体験談をひとつ承りたいのです。
  156. 亀澤富男

    亀澤証人 反動分子を帰すなという妨害は、私はいたしません。私はその当時におきまして、一人でも多く共産主義者になるべく努力はした。ただ帰さないという運動は私はいたしません。一人でもいいからこの運動に結集してくれ、一人でも傍観者、不純分子、ひより見主義者があつてはならぬ。しかし帰さぬという運動は全然いたしませんでした。私の頭の中におきましては、一人でも早く全部の者がある一定の水準に達して、一人一万人の党を結成するリーダー格になる人間をつくりたいというのが私の希望であります。ちよつと見解の相違であります。
  157. 島田末信

    ○島田委員 あなたのお話では、そういう非常に熱烈な同志を一人でも多くつくつて帰国させたいという気持であつたらしいのですが、あなた以外のアクチーヴであるとか、青年行動隊というか、反フアシストの会に所属せられた方々は、私が聞いた範囲では、いろいろ競争して、実際に民主主義者をもあるいは反動のごとく扱つてみたり、あるいは反動の少し色のついた者は当然排撃して、帰国を遅らせるということがあつたように承つておるのですが、そういう事実はありましたか。
  158. 亀澤富男

    亀澤証人 その事実は認めます。一つ具体的例を述べますと、反フアシスト委員会について大衆はこういうようにしたい。その場合に私はこう思う、こう希望する、これはしようがないといつた言動を吐いた場合、その人間はすぐその場で峻烈なる批判をされる。でありますから、ほんとうにはしの上げおろしにも関心を持たれたわけであります。
  159. 島田末信

    ○島田委員 それからあなたはいわゆる同志として非常に活躍せられたということを承つておるので一応お聞きしたいのですが、ソ同盟の政治は、私がいろいろお聞きしたような面で、農民を非常に搾取する機構、統制の下に政治が行われているというように聞いております。実際農民生活はそういう立場に置かれておるのであります。
  160. 亀澤富男

    亀澤証人 農民を搾取しているという言葉定義はちよつと当らないと思います。それは日本人自体の考え方であります。なぜならばボルシエヴイーキの政策といたしまして、特に農民というものは最もレベルが低いのでありますが、ほんとうの低廉なる労働力として彼らを扱つておるにすぎません。ですから特別に農民を搾取するという言葉はちよつと違うかと思います。要するに最も低廉なる無知蒙昧な人間として、低廉な労働力として彼らは国家に奉任しているということです。
  161. 島田末信

    ○島田委員 それからソ連におきましては、人民という言葉をよく使つておるように承つておりますが、しかもその人民というものはボルシエヴイーキを奉ずる者である。それ以外の者は人民でないという差別観に立つておるように承るのですが、あなた自身の体験からどういうふうにお考えになりますか。
  162. 亀澤富男

    亀澤証人 人民と国民の言葉の相違でありまするが、要するに国民というのは、弁証法的史的唯物論の国家の発生というところからこの問題は提起されなければならない。これは時間がかかりますから問題を省きますけれども、要するに国家構成はどうして生れたのだといつた、そういう定義のもとに出発して彼らは人民と国民の区別をつけたわけですが、要するにソ連自体におきましても、やはりボルシエヴイーキ的人間と非ボルシエヴイーキ的人間にあります。非ボルシエヴイーキ的限界はどこにおいてつけるか。というと、党政策に対して熱烈なる支持者でない、ただ要するに従順について行く無関心であるというものが非ボルシエヴイーキ的人間なので、それは国民的人間である。定義の上ではそういうことになる。なぜならば、国民というのは政府の言うことを聞いてただ従順に働いている。人民はそうでなく、要するにボルシエヴイーキはプロレタリアの独裁である。人民は結局各人自由な意見を発言して、自分の立場を代表して国家を運営するんだ。だからこの党に対して傍観者であり、無関心であり、従順、すなおに行くというは国民的存在で、非ボルシエヴイーキ的存在であるというわけです。しかしある一面においては、党としてはそういう従順な人間をつくり上げているというわけで、その限界というものはあいまいなわけです。
  163. 島田末信

    ○島田委員 先ほどのあなたの御説では、あなたと一緒に帰られた千二百人の同志、仲間は現在共産主義的な活動をやつておりますか。
  164. 亀澤富男

    亀澤証人 私が帰つた当時は百人だけであります。あとの千百人は去年十月帰つております。
  165. 島田末信

    ○島田委員 両方とも現在活動はしていないということと、あなたも福本イズムに出発しておるというお話ですが、活動すべき一つの基礎的理論、そういうものが十分にここできわめられた場合に、活動を開始するためにそういつたことを研究中であるというように解釈してよろしゆうございますか。
  166. 亀澤富男

    亀澤証人 私としてその答えは答えられません。私自体その活動をするとかしないとかいうことは……。
  167. 島田末信

    ○島田委員 よろしゆうございます。
  168. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは三十分間休憩いたします。     午後二時九分休憩      ――――◇―――――     午後三時十二分開議
  169. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 休憩前に引続き会議を開きます。
  170. 内藤隆

    内藤(隆)委員 休憩前に私は亀沢証人に簡單に質問した点でありますが、これは考えてみますと、相当に重要性を持つことでありますから、重ねて承りたいと思います。日本新聞にアカハタの記事あるいは共産党政治局員の話などがそのまま載るということが、時間的に見てあなたは二日ないし五日程度、こうおつしやる。ここに私非常に重要な問題が含まれているように考えられます。たとえばこれは巷間伝えるところでありますから、私はその真実性を存じませんが、ソ連への通信基地が日本の青森の海岸にある、あるいはまた北海道の某地点にあるということを、二、三私聞いているのでありまして、その通信なり原稿なりが短波で行くのか、あるいはまた飛行機で行くのか、あるいは密輸船で運ばれるのか、もつと具体的に申しますと、ソビエトの大使館の勢力をもつて、何らかそこにやられているのか、あなたは日本新聞の編集同人として、この間に何か聞き込んだことが、長い月日の間になかつたでしようか。この点をひとつ記憶を呼び起こしてお答え願いたいと思います。
  171. 亀澤富男

    亀澤証人 たただいまの質問に対しまして、私がある程度まで確実性をもつてお答えいたしますことは、アカハタ、そのものがソ連に来ておつたということだけで、それ以外のことは自分としてはわかりません。自分自体はアカハタは見ませんが、ただアカハタを見たという人間は何人もありました。
  172. 内藤隆

    内藤(隆)委員 そうすると、アカハタの部数は相当の数のように思われますが、どれほど行つたのでしようか。
  173. 亀澤富男

    亀澤証人 それに対して自分はわかりませんけれども、一部や二部でないということは、はつきり言えると思います。
  174. 内藤隆

    内藤(隆)委員 それではその間の事情日本新聞編集同人として、あなたと席を並べておられたどなたかに聞けば、わかるようなことはありませんか。
  175. 亀澤富男

    亀澤証人 私は日本新聞の編集のための連絡員でありまして、ハバロフスクにおりませんでした。でありますからその間わかりません。
  176. 内藤隆

    内藤(隆)委員 よろしゆうございます。
  177. 篠田弘作

    ○篠田委員 亀沢証人にお尋ねいたしたいと思いますが、証人シベリアにおられましたときには、アクチーヴとして相当中心的な活動をしておられたというふうに聞いておりますが、そうしますと、もちろん相当徹底したところのいわゆるソ連式な民主教育をお受けになつたと思いますが、この点はいかがでありましようか。
  178. 亀澤富男

    亀澤証人 三年間徹底的に受けました。
  179. 篠田弘作

    ○篠田委員 そうしますと、証人が三年間徹底的ないわゆるソビエト的民主教育をお受けになつたその目的は、日本へお帰りになりましてから、日本のいわゆるソ連式民主革命と申しますか、民主主義の実現と申しますか、そういうことに貢献される、あるいはその指導者たらしめるための教育であると考えますが、いかがでございますか。
  180. 亀澤富男

    亀澤証人 そうであると確信します。
  181. 篠田弘作

    ○篠田委員 そうしますと、ソビエトにおける証人に対する教育の目的が、日本に帰つてから日本共産主義革命を行うための教育であるとするならば、それに対する相当の作戰と申しますか、ソビエトの意図というものもまたお受けになつたと思うのであります。ソビエトの日本に対する共産主義革命のプランと申しますか、計画というものに対して、どういう内容を持つたものであるか、お知りになつている範囲内において、あるいはお聞きになつた範囲内において御答弁を願いたいと思います。
  182. 亀澤富男

    亀澤証人 われわれが日本に帰つて革命をやるといつた前提條件に基きまして、われわれが無二の参考書としましたのは、ボルシエヴイーキ党史であります。そのほかに、二つの戰術とか、農民問題とか、個々的には研究いたしましたけれども、その根本の問題は、まず第一に日本を混乱と破壊に陥れて、経済危機を招来する、それによつてわれわれは革命を蜂起し、指導するのだ、要するにこういうことになります。
  183. 篠田弘作

    ○篠田委員 そうしますと、日本共産党の諸君は議会主義ということを認めて、彼ら自身も衆議院に三十六名の議席を持つているわけであります。しかしわれわれがマルクス、レーニズムを研究した範囲内におきましては、マルクスあるいはエンゲルスの時代においては、いわゆる議会政治というようなものによつて共産主義革命が実現されるというふうに考えている。マルクスもエンゲルスも、その国にはその国の事情がある、あるいは労働運動にしろ、革命運動にしろ、そういうふうに言つてもおりますし、また考えてもおつたことは明らかでありますが、レーニンはこれに対して、革命というものはそういう議会主義的な、欺瞞的な、民主主義ではできないものである。言いかえれば、暴力主義によらなければほんとう共産主義革命はできない、こういうふうに述べている。これはいろいろな文献があります。そういう意味から申しまして、ただいま証人の言われました、日本共産主義革命というものはまず第一に日本を混乱に陥れ、経済界を破壊し、あるいはこれを混乱せしめて、その基礎の上に立つて日本の革命を行おうということは、言いかえれば議会主義によらない、暴力主義的な革命をやるという教育をお受けにたつたものと考えますが、その点いかがでございますか。
  184. 亀澤富男

    亀澤証人 今暴力革命という言葉が出たのでありますが、われわれはこの革命について二つの見方、すなわち平和革命と暴力革命、それについて、向うの政治局員と論争し、またわれわれ自身も研究いたしましたが、日本において平和革命ができ得たか、また将来においてそれができる問題であるかといつたことを討論いたしました。また教育されました。その結論として得たのは、日本において平和革命、クーデターによる政変革命ができるならば、それは日本が降伏したそのときである、現在となつては平和革命というものは絶対不可能である、われわれは武力革命以外の何ものもないのだというふうに革命教育の結論をつけたと、自分は記憶しております。また今委員の方がマルクス、レーニン主義といつた問題にちよつとお触れになりましたが、現在のボルシエヴイーキというものは、レーニン主義の施行者でもなければ、マルクス主義の励行者でもありません。單なるそれの利用者に過ぎません。現在ボルシエヴイーキというものは、われわれの判断によれば、理論によつてでき上つたものではありません。実践によつてでき上つたものである。理論は利用しているにすぎない。現在スターリンはその実践したものの中から理論をつくり出しております。
  185. 篠田弘作

    ○篠田委員 先般日本共産党の幹部であるところの野坂參三君に対して、コミンフオルムからいわゆる批判が起りまして、野坂君は、全面的に自分のいわゆる愛される共産党という考え方は間違つてつた、こういうふうに申しまして、声明も出し、また国会において彼の所信をあらためて述べたのであります。ところがそれから数日たつてまたコミンフオルムから意見が発表されまして、三月のいつごろでありましたか、日本のアカハタに載つたのであります。そのときに、はつきりと敗戰国並びに植民地あるいは従属的国家というものの民主主義的な解放というものは、人民解放軍なくしては絶対にできないという論説が掲載されておつたのでありますが、ソビエトにおける教育の中に、日本に帰つて人民解放軍をつくる、あるいはまたその解放軍の一員として、あるいはその先駆者として何らか働かねばならないといつた問題、あるいは解放軍をつくらなければほんとう日本民主主義的な革命というものはないのである、そういうふうな説というものは、あなたが向うにおいでになつたとき、お聞きになつたことがあるかどうか、その点を承りたい。
  186. 亀澤富男

    亀澤証人 その問題につきましては、要するにコミンテルンの――国際共産党ですね。すべてその問題についてわれわれ自体行動するといつた観念は全然持ちません。どこまでもこれに世界のわれわれ働くプロレタリア、それを指導する共産党の連繋のもとに活動すべきものである、そういつた観念からすべてわれわれは研究し、かつ学んで参りました。
  187. 篠田弘作

    ○篠田委員 私がお尋ねしておるのは、そういう原則論ではなくて、先般コミンフオルムから発表された意見がアカハタに転載されておつたのでありますが、もう一度申し上げますと、植民地、敗戰国あるいは従属国家におけるところの人民の解放というものは、人民解放軍というものを持たなければ絶対にできない。言いかえれば、議会主義などというようなものによつてはできないということが転載されておつたのでありますが、その人民解放軍というような問題について何か向うで教育され、あるいはお聞きになつたような点はないかということをお尋ねしたい。
  188. 亀澤富男

    亀澤証人 議会政治は重なるその過程へ移行する際に利用にすぎませんので、人民解放軍と今言われましたけれども、それに対して私が習いましたのは、どこまでも人民解放をやる場合に、中国なり北鮮なりと手を握つておるといつた、各国連繋のもとに行うということについて、われわれは具体的に研究したのであります。われわれ自体によつて解放軍をつくつてやるということは習いませんでした。
  189. 西村直己

    ○西村(直)委員 関連いたしますが、今北鮮の人民軍と手を握るとか云々という問題が証人の口から出ておりますが、おそらく向うで相当真剣に日本革命について研究になつたものと思うのであります。従いまして私は、午前中に証人に御質問申し上げました日本革命の戰術の点についてであります。しかもそれは原則論でなくて、私は具体的なる方法論について御研究になつたろうと思う。たとえば北鮮あるいは中共、あるいはソ同盟、いわゆる人民解放軍との連繋の問題についてどういうふうな戰術を、あるいは戰略を御研究になつたか、その研究の状態お話願いたいと思います。
  190. 亀澤富男

    亀澤証人 西村委員、もう少しこまかく質問していただきたいと思います。
  191. 西村直己

    ○西村(直)委員 たとえばもつと端的に申し上げますならば、先ほど証人がちよつと簡單にお触れになりました革命の前後における警察の措置というようなものにつきまして、どういうふうな戰略というものを御研究になつたか、あるいは場合によつては中央委員会なり、その他の上層部から指導を受けられたか。
  192. 亀澤富男

    亀澤証人 簡單に言いますれば、(「詳しく言つてください。」と呼ぶ者あり)十月社会主義革命におけるところのボルシエヴイーキのとりました戰術、その措置、それをわれわれは唯一の問題として研究いたしました。農民問題につきましては「農民に訴う」というパンフレツトがありますが、それによつてつたのであります。具体的にまず警察の問題について述べます。まず警察の組織の中へわれわれのスパイを入れる。要するに警察であるとか、またはもし軍隊ができておる場合には軍隊、あるいは軍需工場というようなものは、われわれ働くところの人民、要するに階級の者が従事しておるのだ。だからまず警察そのものを破壊する。そして通信機関を破壊する。そして発電所をつぶす。まず破壊的な面から見ますと、それが第一にあげられました。そうして警察とか軍需工場とか、陸海軍というものに対して、階級的なものに少しでも早く持つて行く。そして通信機関を破壊し、発電所を破壊する。また農民に対しては、一定の土地を與える。要するにコルホーズの形態をただちにとるといつたような――パンフレツトをごらんになればおわかりになると思いますけれども、どこまでもあのボルシエヴイーキのやつたところの十月革命、その第一次革命と第二次革命、それがわれわれの基本方針になつたわけであります。でありますから、その意味におきましても、新しくその戰術がかわつたということはほとんどあり得なかつたのであります。
  193. 西村直己

    ○西村(直)委員 たとえば農民については一定の土地を與える。これらになると議論になりますから私はやめますが、コルホーズ化するとか、そういうような意味でありますか。そういうような農村に対するたとえば革命工作、それも事前においての工作、事後においての工作、あるいはあなたの主としてアクチーヴとしての専門であつたところの文化工作、この方面について指導を受け、あるいは研究をされたか、その内容をお聞きしたい。
  194. 亀澤富男

    亀澤証人 文化問題につきましては、今まであつたところのあらゆるブルジヨア文化の残滓を持つた文化というものは一切排撃する。そうして日本古来の古典的意味を持つたところの民族文化を利用する。これは民族文化をやるのではない、利用するのです。最終的には世界統一的な方向に持つて行くけれども、この段階においては民族文化を利用する。そしてあらゆるブルジヨア文化の残滓を持つたものは放逐し、今後においては絶対に取入れない。またそれと同時に、われわれはやれば何でもできるのだという信念を大衆に持たせる。そういう意味で農村において、また漁村において、一人々々だれでもいいからステージに上らせる。まただれにでもいいから脚本を書かせる。そういうことによつてやれば、何でもできるのだ。おれの書いたものは新聞に載つたのだ、おれだつて舞台に上つてせりふを言えたのだ。また映画を見ましても、おれだつてこの映画は何を訴えんとしているか、何をこの映画は目的としているか、これは現実的か非現実的かといつた政治的感覚、政治的批判力の向上といつたようなことから、やれば何でもできるのだ、われわれこそこの社会の主人公であるのだ。はつきり言いますと、そういう方向に文化運動を持つて行く。
  195. 篠田弘作

    ○篠田委員 日本共産主義革命の実践ということは、先ほど言われましたように、決して議会によるものでもなければ何でもない。議会というものは言いかえれば一つの仮装の舞台であつてほんとう日本状態を混乱あるいは破壊に陥れることが第一の條件である。こういうふうに先ほど述べられましたが、その破壊する場合において、共産党員自身が先頭に立つて破壊をするのであるか、あるいはまた共産党員は裏に隠れておつて大衆を煽動して破壊をなさしめる。そういう一つの戰術的な基本方針というものがあると思うのでありますが、その点は何か御存じのことがありますか。
  196. 亀澤富男

    亀澤証人 その問題につきましては、革命という段階に達するときには、すでに共産党は非合法的政党である、また当然非合法的な政党にならざるを得ないであろうという前提のもとにおきまして、共産党は表面には立ちません。そうして細胞のフラクシヨン活動によりまして、無事の大衆を煽動し、ゲリラ的混乱に進める、要するにストライキとか、ああいつた形態から発生するということになると思います。
  197. 吉武恵市

    ○吉武委員 ただいまの点に関連して御質問したいのですが、あなたがお帰りになつたのは、二十三年分秋にお帰りになりましたか。
  198. 亀澤富男

    亀澤証人 さようであります。
  199. 吉武恵市

    ○吉武委員 そういたしますと、御承知かもしれませんが、昨年の七月八月にかけて省電ストライキ、あるいは広島日鋼事件、平事件等が重なつてつたのです。これらに対して、先ほどのお話に、向うで日本に帰つて日本革命の前線に出るための民主教育を受けられたと言われますが、それからごらんになつてどういうふうにお考えになりますか。大体その筋書きが行われたとごらんになりますか。全然別個のものとお考えになりますか。
  200. 亀澤富男

    亀澤証人 今去年のことを言われたのですが、ぼくはそのもつと前からのことを言いたいと思います。それは皆様方も御承知と思いますが、日立のゼネストがありました。あれは共産党が裏面において活動したということにおいて、最も典型的な意味に声いて成功であつたと思います。あれがぼくの習いましたところのものであります。日立のゼネストであります、これはわれわれが向うにおいて研究したものであります。
  201. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういう点です、特徴は。
  202. 亀澤富男

    亀澤証人 要するに共産党が一般の非党員に対して、ストライキからそれを発展さして警官と衝突さした、ストライキから暴動に発展したというあの形態であります。そういうように持つて行かしたという細胞活動、それについてであります。あの当時におきましては、日立の問題は非常に大きく日本新聞に掲げられまして、完全な成功としてうたつておりました。
  203. 吉武恵市

    ○吉武委員 そうしますと昨年七月に起つた事件は、あれは新聞だけで詳細御存じないから、あるいは関心が打てたかつたのかもしれませんが、今のお話を承ると、日立における争議がそういうことであるとするならば、昨年七月に行われました省電ストなり、あるいは広島の日鋼事件は、それ以上のものであると私どもは考えられるのであります。すなわちそのやり方というものは、工場の中でストライキをやる、そうして工員は、何か知らぬけれども集められて、入つて来るというとカン詰にされて、そうして工長その他を一日中徹夜させてつるし上げをやつて、そうしてアジる、そうしてそれがだんだん地域闘争と称して、付近の町あるいは村等に呼びかけて市役所あるいは警察に押しかける。そうしてさらに県庁にデモをやつて行くという、私どもといたしましてはストライキから地域闘争、そうして権力闘争という共産党方式を典型的にやつたと思うのでありますが、その実際の詳しいことを御存じないかもしれませんが、今の日立の争議がそうであるといわれますと、昨年の事件はそれ以上のもののように思われますが、御存じなかつたですか。
  204. 亀澤富男

    亀澤証人 ただいまの問題は、これは地域闘争というよりも、これは波状闘争というのです、要するに波の流れであります。波の押し寄せるごとく行う。これが波状闘争で、われわれのとつた大きな戰術でありますけれども、あらゆる機会、あらゆる場所でもつて組織し指導するというのが、われわれの習つた信條であります。スローガンであります。それにおきまして、ささいなところのストライキといつたものも、ストライキ自体に重点を置いて、そうして波状的に全国に広めて行く、昔の段階におきましては地域闘争といつたのであります。地域的闘争が是であるか、波状闘争が是であるかということは、ずいぶん問題になりまして、そうして波状闘争といつて取上げたのは二十三年からであります。
  205. 篠田弘作

    ○篠田委員 そうしますと、経済闘争における波状的な攻撃というものは、これはサンジカリズムの持つ特徴であると考えますけれども、現在における共産主義的な革命の方法というものは、いわゆるサンジカリズム的な方向にまた逆もどりしているというふうに考えられるが、それはいかがですか。
  206. 亀澤富男

    亀澤証人 同感であります。
  207. 田渕光一

    ○田渕委員 私はきのう議院運営に出ておつたために、不幸にして証人がいつごろ入ソされたかを聞く機会を失つたのでありますが、一九四五年八月十五日、ポツダム宣言によつて日本が全面降伏したのだということを聞かれて、武装解除されて入ソしたのですか、そのまま持つて行かれて、向うで、武装解除されたのですか、まず伺いたいのです。
  208. 亀澤富男

    亀澤証人 私がソ同盟の手に抑留されましたのは二十年の九月九日であります。それからその間ずつと満州国の牡丹江におきまして、ソ連軍経営の第二十陸軍病院に主計官として勤務しました。もちろん武装は解除せられております。九月九日東京城において武装解除を受けました。
  209. 田渕光一

    ○田渕委員 終戰当時証人の軍の階級はどの地位におられましたか。
  210. 亀澤富男

    亀澤証人 私は満州国の官吏でありまして、開戰と同時に召集を受け、満州第二千六百三十九部隊、すなわち野戰自動車兵器廠、これは牡丹江に司令部があります、そこに集結すべしとの命令を八月九日いただきました。しかしわれわれが臨江県に到達いたしましたときには、すでに牡丹江に敵が入つておりました。それでわれわれは牡丹江に入ることを断念して横道河子から山に入つて、山伝いに敦化、朝鮮国境に出る目的で南下しているところを捕虜になつたのであります。
  211. 田渕光一

    ○田渕委員 そこで南下しておるときにソ連に武装解除せられたのでありますか、それとも入ソしたときにはそのまま連れて行かれて武装解除せられたのか、あるいはソ連国境外で武装解除せられたのかということを伺いたい。
  212. 亀澤富男

    亀澤証人 二十年の九月九日東京城においてソ連軍に武装解除せられました。そうして翌年の四月十八日に入ソいたしました。
  213. 田渕光一

    ○田渕委員 二十年九月と申しますと、終戰が二十年八月十五日ですから間もありませんが、当時証人は武装解除せられるときに、ポツダム宣言によつて日本が降伏したのだということを言うて聞かされ、またポツダム宣言の條項というものなどを聞かされたことはございましようか。
  214. 亀澤富男

    亀澤証人 われわれはポツダム宣言については相当研究いたしました。入ソ後も、また武装解除を受ける当時においてもであります。但しそのポツダム宣言を後にボルシエヴイーキ的に教育せられました。
  215. 田渕光一

    ○田渕委員 ポツダム宣言の九條に「各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得セシメラルベシ」ということがあります。また十條には「宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」とはつきりうたつてある。しかるにかようなことを後にも研究し、当時も知つておられるのに、かようなことがソ連領内で、いかにその環境がつるし上げ、あるいは民主グループの圧迫を受けようとも、こういうようなことが一つも問題に出ませんでしたか。
  216. 亀澤富男

    亀澤証人 われわれの事態がすでに思考力を持つだけの余裕がありませんでした。
  217. 田渕光一

    ○田渕委員 いずれも思想信念のしつかりした方々が当時幹部になつておられた。それがいろいろ言つておるのですが、これだけポツダム宣言が完全に鮮明されておる。このポツダム宣言を日本が受諾して降伏したのであるのだから、少くとも思想の自由ということは、あなた方として自由であるということくらいは――当時ソ連側に言うことはもちろんできないでありましようけれども、だれかこの捕虜のうちの一人や二人は、ポツダム宣言はどうだというようなことをソ連当局に言うような人はいなかつたのですか。
  218. 亀澤富男

    亀澤証人 われわれがそういうことを言うことは、われわれ自体日本へ帰れないことになります。
  219. 高木松吉

    ○高木(松)委員 証人が在ソ中体験したこと、体験を通じて想像したこと、それから日本に帰つて来て日本で体験したこと、体験から想像して結論を得たことで、日本共産党は国際共産党もしくはソ連の手先になつて国内で動いているのであると結論づけるような事実はありましたか。
  220. 亀澤富男

    亀澤証人 今ソ連の手先と言われましたけれども、共産主義にとつてソ連は祖国であります。でありますから、その想像せられるとか思われるとかいう問題は全然問題外であります。どこまでも共産主義者ソ連が祖国であります。
  221. 高木松吉

    ○高木(松)委員 それでわかりましたが、そうすると、この祖国との間に相当の連絡を保つて日本共産党行動をとつている事実はお認めになりますか。
  222. 亀澤富男

    亀澤証人 はつきりと認めます。
  223. 高木松吉

    ○高木(松)委員 それは抽象的にははつきりとお認めになつているが、具体的に、どういう点ではつきりと認められるか。また理論的には、今証人の言つたように祖国とともに動くという、国際的に共産党がいわゆる祖国とともに動くという具体的な事実には、どういうことでございましようか。
  224. 亀澤富男

    亀澤証人 まず第一番に、政治教育に重要な役割を果しました日本新聞であります。これはある一面から言いましたならば、ソ連日本からアカハタを持つて来て、かつてに載せたと言えばそれまででありましよう。談話もしくは日本の声明もしくは発表、パンフレツト、小説というようなものが相当載つたのですが、そういう面から見ますと、はつきり日本新聞の面だけから見ても、お互いに協力し合つたはつきり言えると思います。それから万国赤十字社の通信の問題につきましてもそうであります。それでもはつきり言えると思います。それから第三番目に、レエチホフカの官舎で自分が書簡を見た。それは問題自身がぼく一人だつたために線が弱いかもしれませんが、これは二十二年のときから、われわれの間に口癖のように言われておりました。徳田要請は当然知り過ぎるほど知つてつた問題であります。ただ実際に私が書簡を見なかつただけの問題にすぎません。そういうことが、どうしてそういうことになつてつたかということを考えてみますときに、当然関連があつたと考えます。
  225. 高木松吉

    ○高木(松)委員 そうしますと、日本共産党日本の国内で活動するに必要なあらゆる援助というもの、たとえば日本国内において物質的の問題とか、その他精神的の指導とかいうようなものは、いわゆる祖国ソ連あるいは国際共産党のさしずとか援助によつてやられておるものでしようか。この点に対してのあなたの実際上の事実から――事実を見れば事実、事実を通しての観察が結論づけられれば、その観察の結論をお伺いしたい。
  226. 亀澤富男

    亀澤証人 もう一度お願いいたします。
  227. 高木松吉

    ○高木(松)委員 共産党があなたのおつしやつたような日本において活動をするのには、物心両面の援助なくしてはできない。そこで物質的援助とか、精神的指導とかいうものが国際共産党及びソ連からなされておる事実がありましようか。事実は具体的にあなたの目に映らなくても、あなたの知能で判断して、その事実はあり得ないという結論をつけることができましようか。
  228. 亀澤富男

    亀澤証人 一つの現われとして当然関係あると思います。われわれは日本へ帰つてソ連と協力して米英を地球上から抹殺するという誓いを立てて帰つて来ました。これだけでも十分説明できると思います。われわれだけでは絶対にアメリカは倒せないのです。
  229. 高木松吉

    ○高木(松)委員 それはわかりましたが、今の事実も精神的指導でありますが、具体的に物質的になお今のような指導形態なり、また形にどうあろうとも、精神的に指導しているというような事実が――あなたが見たり聞いたりしておれば、その見たり聞いたりした内容を私は知りたい。それから今のお話では、見たり聞いたりの内容から、あなたの観察を結論づけたように拜承するのだが、見たり聞いたりした面から具体的の事実はありますまいか。
  230. 亀澤富男

    亀澤証人 あまり確固たるものはありませんけれども、われわれ自体日本共産党の中央委員、または共産党の先駆者の写真を掲げ、すべての問題、すべてのカンパにおいてそれを飾り、そして自分たちのクラブにそういう肖像画を掲げた。それを提供したのは全部ソ連であります。そういうことから見まして、われわれは驚いたのでありますけれども、二十年初期におきまして、そういう資料は全部これはモスクワから来ております。ですけれども、具体的に現在どういうようなものだということは、われわれ自体、アカハタの入手径路さえわからなかつた状態でありますから、ちよつとわかりません。
  231. 高木松吉

    ○高木(松)委員 それでは具体的にお尋ねしますが、とにかくソ連地区から北海道その他の日本地区に対して密航船をよこしたり、その他の方法で日本との交通を秘密にやつて連絡したというような事実はお聞きになりませんか。
  232. 亀澤富男

    亀澤証人 その後もこういうことを言いました。われわれによく、お前たちは日本におられなくなつたときにはやつて来い、喜んでお前たちをかくまつてやるから。それはスターリン憲法に認めておるということを彼らははつきり言いました。
  233. 島田末信

    ○島田委員 私に、亀沢君のようにソ連で筋金入りの鍛練をして来た方のお説を承つておりますと、先般のようにコミンフオルムか警告を受け、注意を受けるような、日本共産党の現在表に現われておるような連中では、暴力革命を将来指導しようにも、この連中はほとんどその原動力となる資格はないように考えられるのでありますが、あなたが内地へ帰られて見た判断を聞かせてもらいたいと思います。
  234. 亀澤富男

    亀澤証人 私も今の委員の方の意見に賛成であります。ただもしそれをなし得るとしたら、徳田書記長以外何者もないと思います。
  235. 島田末信

    ○島田委員 ソ連を祖国としておる日本共産主義運動に携わつておる者が、そういうたよりない連中であるといたしますれば、ソ連といたしましても、やはり一つの構想を持つておりはせぬかと思う。たよりになる連中がありましようか。
  236. 亀澤富男

    亀澤証人 ぼくの考える範囲においては、ボルシエヴイーキ的な人間というのは、私の知る範囲においては、徳田書記長もしくは伊藤律さん、木村さんの範囲でありまして、春日さんにしろ、宮本さんにしろ、野坂さんにしろ、神田さんにしろ、当然チトー派だと思います。
  237. 島田末信

    ○島田委員 あなたの言われるように、数氏の人間以外に頼むに足らぬということでありますれば、日本の暴力革命というものははなはだ縁遠いような気がしますが、この点、はたして日本の実情というものはそういうものであるかという一つの疑問を持つのでありますが、これに対して何かあなたのいわゆるその筋金入りの見識でもつて、今の日本の実情において十分原動力となる一つの細胞なり、あるいは陣容というものはあり得るというお考えはおありでございましようか、あればお示し願いたいと思います。
  238. 亀澤富男

    亀澤証人 ただいまの御質問でありますが、ぼく自体が考えますのには、現在あり得ないでしよう。またそれを解決するのは中共であると考えます。それほど現在の中共の動きはボルシエヴィーキにとつては注目の的であります。
  239. 島田末信

    ○島田委員 あなたは先ほどソ連における在留同胞の帰国というものは、これはもう望郷の念にかられた――帰心矢のごとしというほど帰りたいという気持は、皆さん同様だと思います。しかしソ連民主主義の訓練を受けた者として、これは決して仮装的なものではない、またカモフラージユされた偽装的なものではない、実際に真劍に鍛練を受けたというお話でありましたが、そういう方々が日本に帰つて、真劍に鍛練を受けたことが、いろいろその間にはまた帰られた実情において考え方がかわられることもありましようし、また根強くそういう考え方がこびりついておるという方もありましようが、この引揚者自体が、実際その点日本の将来のいわゆる建設、再建の上においてどういう役割を果すおつもりかということを、いろいろその方針の上において持つておられるか、実際に見聞きせられ、また体験せられた上からお聞きしたいと思うのですが……。
  240. 亀澤富男

    亀澤証人 架空をもつて現実をぶちこわす共産党のあり方に対しては、復員者の大部分は、日本へ帰つてのボルシエヴイーキ的な活動は拒否すると思います。
  241. 西村直己

    ○西村(直)委員 日本新聞には相川春樹というペンネームの人はおりましたか。
  242. 亀澤富男

    亀澤証人 おりました。
  243. 西村直己

    ○西村(直)委員 これほどの程度の活動をしましたですか。
  244. 亀澤富男

    亀澤証人 この人の活動というものは、宗像とか、ああいう人たちに比べたら非常に線が弱かつたのであります。シベリア生活の全般を通じては、この人は日本新聞に活動しておりませんでした。
  245. 西村直己

    ○西村(直)委員 最後までしかしアクチーヴとしての活動はしておつたのですか、それともひより見主義者として途中から葬られたのですか。
  246. 亀澤富男

    亀澤証人 それはボルシエヴイーキの動きによりまして相川さんがオミツトされたということは、私ははつきり感じました。党の戰術であります。
  247. 西村直己

    ○西村(直)委員 党の戰術というとどういう意味ですか。
  248. 亀澤富男

    亀澤証人 一番初めに日本反軍闘争といつたものから出発して、天皇制打倒といつた段階がありましたけれども、われわれがここで注目すべきことは、ボルシエヴイーキ自体天皇制打倒に対してあまり真劍には彼らは考えておらなかつたのであります。彼らに言わせたら、天皇はできるだけ利用しろ、そういう意味に持つて来たのであります。それに対して相川さんは、天皇制打倒を唱えたのであります。そこに軋轢ができたわけであります。
  249. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは済みました。御苦労さんでした。  ただいまお見えの証人は上村宗平さんですね。
  250. 上村宗平

    ○上村証人 そうです。
  251. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは日本共産党の在外同胞引揚妨害問題について証言を求めることにいたします。  証言を求める前に、各証人に一言申し上げますが、昭和二十二年法律第二百二十五号議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律によりまして、証人証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならぬことと相なつております。  宣誓または証言を拒むことのできるのは、証言証人または証人の配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係のあつた者及び証人の後見人または証人の後見を受ける者の刑事上の訴追または処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するとき、及び医師、歯科医師、薬剤師に薬種商、産婆、弁護士、弁理士、弁護人、公証人、宗教または祷祀の職にある者、またはこれらの職にあつた者がその職務上知つた事実であつて黙秘すべきものについて尋問を受けたときに限られておりまして、それ以外には証言を拒むことはできないことになつております。しかして、証人が正当の理由がなくて宣誓または証言を拒んだときは、一年以下の禁錮または一万円以下の罰金に処せられ、かつ宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処せられることとなつておるのであります。一応このことを御承知になつておいていただきたいと思います。  では法律の定めるところによりまして証人に宣誓を求めます。御起立を願います。     〔証人上村宗平君朗読〕     宣誓書   良心に従つて、真実を述べ、何事もかくさず、又何事もつけ加えないことを誓います。
  252. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どうぞ署名捺印を願います。     〔上村証人宣誓書に署名捺印〕
  253. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 こちらから聞くときは腰かけておられてよろしいですが、発言せられるときは委員長に発言を求められて、立つて発言せられるように願います。それから答弁は、こちらから聞いた範囲にとどめて簡明にお願いいたします。
  254. 上村宗平

    ○上村証人 はい。
  255. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたは応召前には何をしておいでになりましたか。
  256. 上村宗平

    ○上村証人 事務員です。
  257. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どこですか。
  258. 上村宗平

    ○上村証人 名古屋市中川区日本耐火スレート会社。
  259. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 兵隊へ行つてからソ連に入るまでの経歴は……。概略でよろしゆうございます。
  260. 上村宗平

    ○上村証人 昭和十九年の二月、京都四十部隊、その年の七月、千島擇捉、二十年の九月シベリヤのソビエト・ガワニーに上陸、それだけでございます。
  261. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 二十年の九月。
  262. 上村宗平

    ○上村証人 そうです。敗戰の年の九月です。
  263. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それまで千島におつたのですか。
  264. 上村宗平

    ○上村証人 そうです。十九年の八月から二十年の八月まで千島におりました。
  265. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それで兵隊の階級は何ですか。
  266. 上村宗平

    ○上村証人 砲兵上等兵であります。
  267. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ソ連へ入つて、そしてどこにおいでになりましたか。どこからどこをお歩きになりましたか。
  268. 上村宗平

    ○上村証人 まず沿海州からイズベストコーワヤ地区
  269. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それだけですか。
  270. 上村宗平

    ○上村証人 そうです。ハバロフスクの大体北の方になるのです。大体ハバロフスク地方ですが、ハバロフスクのすぐそばです。そばといつても、その地図のは間違いないのです。
  271. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ソ連に收容されている間に、あなた方の仲間で反フアシスト委員会というものができたと聞いておりますが、あなたのところでもできましたか。
  272. 上村宗平

    ○上村証人 反フアシスト委員会はできております。私自身も議長でありました。反フアシスト委員会議長は大体概算して五百名ほどおります。それはロシアの共産党、あるいは日本共産党というようなものの中央委員にまねて、中央委員とも称しておつたのです。最高指導部の一人です。
  273. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこで、その反フアシスト委員会というのはどういう目的でできて、どういうことをやつておりましたか。
  274. 上村宗平

    ○上村証人 反フアシスト委員会は、まず日本人捕虜の民主教育、いわゆる共産主義教育の指導の本元なんです。そうしてその反フアシスト委員会日本人の帰国に対する上申権を持つておりました。
  275. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 教育して、いわゆる反動分子と見られるものがおればどういうことになるのですか。
  276. 上村宗平

    ○上村証人 反動分子、それは反フアシスト委員会は考課表を一人々々につくつております。そうしてそのものの運動に対する方向、あるいは持つているイデオロギー、そういうようなものを調べて、そうして反動とみなされるもの、そういうものはより以上の教育をつけるか、あるいはまた、とうていこの男は共産主義者になれないと思うときは、他の分所に追放するか、またはソ連の政治部に連絡をとつて処置をしてもらうというようなことをやつておりました。
  277. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたは今聞くとその反フアシスト委員会の議長までもやつておられたが、それが一ぺんに落ちちやつて、懲罰大隊へ送られたそうですが、そのいきさつを承りたいと思います。
  278. 上村宗平

    ○上村証人 私は懲罰大隊を出て来てから、反フアシスト委員会の議長になつたのです。
  279. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それではその前に行つた事情は……。
  280. 上村宗平

    ○上村証人 最初沿海州地方のこの民主運動の創始者の一人であつたのです。そして友の会ができた当時、友の会を沿海州のムーリン地区、その地区結成したのも私たちでした。そうして第一回の代表者会議にも出席いたしました。その後この友の会が発展して民主グループにかわつた民主グループにかわつて来たところ、初めのうちの民主主義というものはいわゆる一般の概念における民主主義です。共産主義民主主義ではなかつた。ところがだんだんと後に共産主義にあらずんば民主主義にあらずというぐあいにかわつて来て、それに対して私は反対したのです。共産主義のみが民主主義ではない。それで一九四六年の九月に友の会ができて、それから四六年の十一月になると民主グループに発展して、四七年の五月ごろになりますと、徹底的に共産主義というものにかわつて来てしまつた。それでそれに反対したために、この地区委員長の石橋七郎、それと意見が合わず、石橋七郎が憲兵隊に通報して、そうして私は懲罰大隊に行くことになつたのです。そうしてその懲罰大隊に行つたときのリストは、この者は天皇制護持論者である。そうして民主運動の最高指導者の一人であり、かつ講師というような重要な職務を担当しながら、口に資本主義を唱える。だからこれは隔離をする必要があるというのでありました。
  281. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 やはりあなたは、実際は何か資本主義思想を持つてつたかどうか知らぬが、そういうことを表わしたことはあつたのですか。
  282. 上村宗平

    ○上村証人 私自身はみずから自由主義ということを言つてつたのです。何も共産主義とか、あるいはまたもちろんフアシスト的なものは私はきらいなんです。帝国主義を望むものでもないけれども、左翼共産主義になるものでもないということを言つたことがあります。それは指導者会議のときにも言つた。その後懲罰大隊から出て来て、民主グループ文化部長になつた。そうして後にまた反フアシスト委員会に四八年三月にかわつた。その六月の改選のときに私は反フアシスト委員会委員に当選して、その委員内の互選によつて副議長、そうして啓蒙宣伝部長になつた。それから議長がハバロフスク議長会議に出席した後、自分が議長の職務をとつた
  283. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 懲罰大隊はどういうことをするものなのですか。
  284. 上村宗平

    ○上村証人 そのときの懲罰大隊というものは大したことはありませんでした。私たちに言わしてみれば、反動分子ばかり集まつておれば、思想上のことや何かでもとやかく言われないし、思つたことも言えるし、ちよつと愉快なものでした。これは非常に心配する人は心配した。話によれば三年間は絶対に帰国できないというふうに言つてつた。だから悲観する者は悲観し、楽観する者は楽観しておつた。なあに国際法でそんなことはできるものではないと私たちも楽観した者の一人です。
  285. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 仕事というのは……。
  286. 上村宗平

    ○上村証人 仕事は、反動分子けが集まつておる懲罰大隊というものは、ムーリンの二百十三分所の隣の分所、二百十三分所を普通懲罰大隊と言つてつた。しかしほんとうの二百十三分所には普通の人たちがおつた。その隣に初めのうちはさくを設けたりして厳重に見張りもつけておつた。そうして食事とかその他一切のものが別々に支給されておつた。私たちの入つてつたところもそういうものは別々になつてつた。そうして作業場も違つてつた。その作業そのものは大体伐採がおもでした。そうして後にその分所の懲罰大隊というものは解散になつたのです。そのやつた方向が非常に間違つておるというので、ムーリン地区にあつた憲兵隊の方でこの解散を命じたわけです。おもに日本人同士の勢力争いというようなものも原因しておつたというので、解散になつたようなわけです。
  287. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 解散になつたらまた一般のものと同じところにもどつて来たんですね。
  288. 上村宗平

    ○上村証人 そうです。ことに沿海州地方の反動分子三百名を集めた反動牧容所、一旦反動としてつるし上げた者を沿海州地方にまたばらまくことは、今の教育の方向から言つてもおもしろくない。そのときに沿海州地方の政治部長はニコライ少佐であつた。このニコライ少佐が他の地区へ移動さした方がいい、その意見によつて私たちはイズペストコーワヤ地区に行つたのです。
  289. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 特に重い仕事をやらせるとか、食事を悪くするとか、待遇が悪くなるとか、そういうことはありましたかありませんでしたか。
  290. 上村宗平

    ○上村証人 私たちのときは経験しなかつたのです。別に待遇が悪いとか、そういうことはありませんでした。後にこの運動が最も激化して来て、四八年ごろには反動分子を隔離するような收容所があつた。そこでは確かに日本人同士が仕事の上で、お前は反動だからもつとやれといつたようなことはありました。
  291. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたは懲罰大隊からほかに移されて、今度はほんとうの反フアシスト思想にかわつたわけですか。
  292. 上村宗平

    ○上村証人 私の解釈する反フアシストというものは、フアシストに反対する者はすべて反フアシストである。だからその意味自分としてはアンチ・フアシストだつたのです。
  293. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 だけれども委員会の議長になるときは……。
  294. 上村宗平

    ○上村証人 やはり自分はそのフアシストには反対するのです。そうして反フアシスト委員会成立のときの言葉は非常に穏健なものであつた。つまり一切のフアシストに反対する者を糾合して反フアシスト委員会を組織するというぐあいになつた。しかし後に共産主義というものでなければ反フアシスト委員会でなくなつたので、それがまた私と意見が相違して、自分は、この者は絶対的に極反動であるという烙印を押され、四八年の暮れから私は議長の職をやめて、その前日に私の反動カンパのあるときも、私はだれだれを帰国させようという帰国者選定会議にも出席している。しかしその裏面ではどうしても私を置けないというので、裏面工作がしてあつた。そしてこの反動分子ばかりおつたところのウルガルの四百十分所というのがある。そこには大体思想的に元議長をやつてつたとか、あるいは反フアシスト委員会委員の重職にあつた者が来ておつた。しかしまた自分はそこから解放されて、そこでこの者が二度と政治運動をしないならば一般分所に置いてもさしつかえないというので、私はまた一般分所に入つたのです。
  295. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうすると、結局ほんとうのボルシエヴイーキにはなり切れなかつたわけですね。
  296. 上村宗平

    ○上村証人 そうです。
  297. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 スターリンへの感謝署名運動というものがあつたそうですが、これはどういうことで起つて、どういうことをやりましたか。
  298. 上村宗平

    ○上村証人 スターリンへの署名運動の起きたのは、大体ハバロフスクの日本新聞社で計画されたのは三月ごろから計画しておつたのです。
  299. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何年の……。
  300. 上村宗平

    ○上村証人 一九四九年です。一九四九年の六月から大体イズベストコーワや地区署名に入つたのです。四九年の六月の十八日ごろにはすでにナホトカ付近に集結しておる帰還者の梯団も署名しております。それから二十日ごろにはイズベストコーワヤ四地区ほとんど全体にわたつて署名しております。これは四箇年の間に、まずわれわれが帝国主義者の手先として職場におつた。その職場におつたところが、ソ同盟という軍隊が来て、そうしてわれわれを帝国主義の手先どもから解放してくれた。それでわれわれは解放されて、ゆたかな社会主義国に自分たちは何の不自由もなく生活することを許されておる。これは非常に感謝しなければならない。ゆえにスターリン大元帥感謝し、そうして資本主義の残滓を持つた人間から共産主義者として生れ直ることができた。いわゆる人間変革をなし遂げることができた。これは一にも二にもスターリン大元帥と、そうしてスターリンの教え子たちであるボルシエヴイーキ党のお陰である。これに対してわれわれは何か具体的なことを表現しなければならない。しからばその人間変革とはどのようなものであるかというと、われわれは結局国際共産主義者、国際プロレタリアートの一環として、つまり階級観念をはつきりすること。それから帰つたならばソ同盟の真実を伝える。そうしてこのソ同盟との友誼をますますかたくする。そうして帰つたならば、一人一万の日本共産党の組織者としての資格を備えておくこと。そうしてスターリン大元帥に忠誠を誓つて――これは確実に誓いの言葉を述べておる。この誓いの言葉というものは、スターリンがレーニンの死んだときにレーニンのひつぎの前で誓つた言葉がある。あのスターリンの誓いの言葉の大体日本版と言つてもいい。私たちは誓いますというような言葉で誓つておる。そうして最後に第三次世界大戰、つまり新戰争が挑発される。そうすると新戰争の挑発者に対してわれわれは銃口をさかしまに向けて、その新戰争の挑発君たちの頭蓋骨を粉碎するためにスターリン戰士として戰うでしよう。大体このようなことでした。
  301. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 だから集団として、共産党へ入党すると書いてあつたんじやないですか。
  302. 上村宗平

    ○上村証人 全員入党ということは、これは合言葉になつておりました。
  303. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そう書いてあつた……。
  304. 上村宗平

    ○上村証人 はあ。
  305. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはひとりでにそういうことを收容所の者たちがみんな言い出したのですか。それともだれかの指導によつてそういうことが起つたのですか。
  306. 上村宗平

    ○上村証人 これはあくまでもハバロフスク中央ビユーローの指令です。
  307. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 中央ビユーローというと……。
  308. 上村宗平

    ○上村証人 大体日本人が中央ビユーロー、地区ビユーローというものをつくつてつたのです。
  309. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは中央ビユーローからどういう形で出たのですか。
  310. 上村宗平

    ○上村証人 中央ビユーローから各地区のビユーロー、それから支部のビユーローに向けて、スターリン大元帥に対する感謝署名運動、最初は感謝署名の草案ができたのです。その草案をこれでいいか悪いか、各收容所に諮つたわけです。
  311. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは中央ビユーローから出たのですね。
  312. 上村宗平

    ○上村証人 そうです。それでその草案を認めて、これならいいということになつた。それには何回も何回も各收容所大会を持つたわけです。その大会の結果、この原案をあるいは削除し、あるいは附加するところがないかというぐあいに――大体長さ三十メートルにわたる相当厖大なものですから、これは読んでおつても小休止しなければなかなか一ぺんに読み終ることができないくらいのものなんです。それはとてもここで一言に盡すことはできないものです。
  313. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それで残らずそれに署名したわけですか。署名しない者も大分おりましたか。
  314. 上村宗平

    ○上村証人 それは大体去年も九万五千名も帰つて来たのだけれども、署名者は六万六千名と言われておつた。だから参加しない者もあつたでしよう。だけど、私の知つている範囲内においては、別に拒否したというものは知らなかつたけれども、とにかく遅れた地区とかいうところでは、そういうことはやらなかつたかもしれぬです。しかしこれは日本新聞にもはつきり出ておることだし、全般的に知つていることなんです。
  315. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 日本共産党の幹部からいろいろ手紙がソ連抑留者の方へ来たという話ですが、さような手紙をごらんになつたことはありますか。
  316. 上村宗平

    ○上村証人 それは日本共産党からの手紙というものは、一九四八年にも、一九四九年にも来ております。それで四九年の秋ごろでも、日本共産党からの手紙というぐあいにして、捕虜の通信用紙ですね、あれに書いたのをたれかが写生をして、そして收容所の掲示板に張つてあるのを見ました。それからあとは野坂參三氏ですか、あのいわゆる帰還者読本として全部が勉強した、ああいうような長い手紙もあります。
  317. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういう人の手紙でした、あなたのごらんになつたのは。
  318. 上村宗平

    ○上村証人 私の帰還者読本というのは、大体野坂參三氏です。
  319. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その掲示板に出された手紙は。
  320. 上村宗平

    ○上村証人 それは日本共産党という大まかな名前だつたと思います。
  321. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 徳田書記長とか河とかいうものではなかつたのですか。
  322. 上村宗平

    ○上村証人 徳田書記長の手紙というのは、一九四九年九月に各收容所長あてへ来たものであるといつて、朝の整列時間のときに、所長とそれから政治部の将校との立合いの上でそれは言い渡されたのです。だから、それを見たのではありません。
  323. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 各政治部へあてて来たのですか。
  324. 上村宗平

    ○上村証人 各收容所長あてです。
  325. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは手紙の原本をそのまま見せられたのですか、写しででも……。
  326. 上村宗平

    ○上村証人 もちろん写しだと思います。
  327. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 日本語ですか、ロシア語ですか。
  328. 上村宗平

    ○上村証人 日本語です。これは日本人が大体言つたんですから――日本共産党書記長から各收容所長へこのような手紙が来ておるというので、朝全員に達したわけです。もちろん日本人が達するのですから、日本語で達したわけです。
  329. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 日本語で書いてあるものを、日本人があなた方に読んで聞かせたのですね。何という人から読まれたのですか。
  330. 上村宗平

    ○上村証人 それは反フアシスト委員会委員長の永山武光です。
  331. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういう内容のものでした。
  332. 上村宗平

    ○上村証人 それはりつばな共産主義者となつてみなが帰るようにということ――共産主義という言葉は使つてないですが、りつぱな民主主義者となつて帰るように、そしてりつぱな民主主義者にならざる者、あるいはまた作業に対して十分な成績をあげることができない者、そういう者はソ同盟の懲罰に付して、長くとどめおくようにという内容でした。
  333. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そういう書いたものを読んだのですか。
  334. 上村宗平

    ○上村証人 そうです。
  335. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その人は、ただこういうようなものが来ておると話したのですか、あるいは読んで聞かせたのですか。手紙を読み聞かして……。
  336. 上村宗平

    ○上村証人 その原稿は、手紙の原稿であるかどうかわからないけれども、とにかく收容所の大体ワクターという人の出入りするところがあるのですが、その出入りする入口のところで読んだんです。
  337. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 收容所長というと、それはソ連の兵隊ですね。
  338. 上村宗平

    ○上村証人 ソ連将校です。
  339. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そこへ来たのを、日本委員長日本語に訳して、それで読んだということですね。
  340. 上村宗平

    ○上村証人 そうです。それは日本語に訳したのか、日本語で来ているのか、わかりません。
  341. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 原本は見なかつたわけですね。
  342. 上村宗平

    ○上村証人 そうです。
  343. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それで、そういう手紙によつてどういう影響があつたとお思いになりましたか。
  344. 上村宗平

    ○上村証人 それはその手紙が来てからの何では、ちようど徳田書記長からの手紙といつてつたのと前後して、ロシア憲兵隊が、私たちの地区でいうところの最後の反動分子狩りというものがあつたわけです。それで結局前職者であるとか、あるいは今もつてまだ反動分子であるとかいうものを、ソ同盟の憲兵隊が来て、そして大隊長室ですね、そこへ呼んで、私たちの收容所でも二人、それからその付近の收容所からみな二人か三人ずつひつぱられて集められて、これが強制労働收容所へ連れて行かれたということを、反フアシスト委員会言つておりました。
  345. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 強制労働收容所というのはどこにでもあるのですか。
  346. 上村宗平

    ○上村証人 まず一つ地区一つぐらいはあります。結局私たちの経験した沿海州だつたならば、二百十三分所です。
  347. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 永山武光という人はまだ帰つて求ませんか。
  348. 上村宗平

    ○上村証人 帰つて来ております。去年の十月二十四日に英彦丸で帰つて来ております。
  349. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どこにおるかわかりませんか。
  350. 上村宗平

    ○上村証人 九州の人間であつて、二十五歳ということはわかつております。舞鶴で調べればわかると思います。
  351. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ほかに何かありますか。
  352. 安部俊吾

    安部委員 証人に伺いますが、証人は收容された期間におきましてどういう教育を受けたんですか、それを詳細にお聞かせ願いたいと思います。
  353. 上村宗平

    ○上村証人 まずシベリア運動日本共産党直結するものであるということ、そしてわれわれは日本共産党員たる資格を持たなければ帰国する資格はないということ、帰つたならば、あくまでも組織者とならねばならないということ、そして共産主義者でないものはすべて反動分子である、反動分子日本へ帰す必要はない。また反動分子日本共産党の敵でもあるが、国際的な意味から言つてロシアの敵である。ロシアはわれわれの祖国である。われわれの祖国に対して弓を引くようなものはシベリアの土にしてもさしつかえないものである。とにかくりつぱな民主主義者というものは共産主義者である、共産主義者にならないものはとにかく帰国の権利がないというのが根本だと思います。
  354. 安部俊吾

    安部委員 英国式の民主主義であるとか、あるいはアメリカの民主主義とかいうものを信ずる――そういう原則を信ずる人間でもやはり反動と言われたのですか。
  355. 上村宗平

    ○上村証人 もちろん言われたです。とにかく共産主義以外のものはすべて反動なんだ、共産主義者以外のものはすべてが反動分子、たとい共産党に多少は同情的な見解を持つているけれども、しかしそのイデオロギーがこの方向であるとかいうものはみな反動なんです。教育の根本方針としては、白か黒か。中間はあり得ないということ、中間のものならすべて反動とみなす。なぜならば、中間というものはどちらへでもつく可能性がある。だから、そのようなものは反動分子であるというのです。
  356. 安部俊吾

    安部委員 共産主義者であり、あるいは民主グループとか、反フアシスト委員会委員とかいうものは特別の食糧を得、きわめて軽い、非常にはげしい労働でない方面にまわされて、そして着物も相当いい着物が着られる、あるいは暖房設備のあることろの部屋を持たせる、そういう特権が與えられたのですか。
  357. 上村宗平

    ○上村証人 與えられております。但し反フアシスト委員会議長、それから啓蒙宣伝部長、それから講師団長、地区支部等の宣伝オルグ、こういう者はすべて作業は免除されておりました。そして被服も一級のものを着ておりました。しかし食糧関係は特に差別することはできないけれども、たとえばわれわれは俸給をもらつてつたのです。しかし議長級は作業を担任するところの大隊長よりも上の百ルーブルという俸給をもらつてつた。であるからその百ルーブルの範囲内で買つて食べることができるから、結局人よりはいいものを食べたでしよう。
  358. 安部俊吾

    安部委員 そうしてその反対に、共産主義者でない、まじめに労働に従事して、りつぱに自分のでき得る範囲内で協力して成績を上げた、そういうようなまじめなグループは、やはり共産主義者でないがために特に差別待遇を受けて、食糧が悪かつた、あるいは病気になつて医者にも見てもらうことができなかつた病院に收容することもできなかつた、しかもつるし上げによつて、そしてお前はサボタージユをしたとか、お前は特にスターリンの憲法というものを認めないとか、收容所における非常なトラブルーメーカー、何かいろいろな自己を起す者であるとか、お前らのためにわれわれはかえつて日本に帰国するのが遅れたと、こういうようなことがあつたのですか。
  359. 上村宗平

    ○上村証人 その際にもお前らのために帰国が遅れたということは言わないのです。お前らのような者は帰す必要がない、帰国というのはりつぱな民主主義者になつてからだ。むしろ指導者の側から言えば、ソ同盟に長く置いてもらうことがありがたいというのです。沿海州地方なども、大体一九四七年に帰そうかというような話があつたのですが、断つたの日本指導者なのです。ここの民主運動は遅れている、だからもう少し置いてもらいたいというように、率先して点数取りをした時代があつたのです。お前たちを置いておくというソ同盟のあたたかい配慮を解さぬ者は反動だというのです。日本はいいなあと言うと、反動だというのです。日本に早く帰りたいと言うと、お前反動だというのです。だから今の質問はちよつとはずれております。
  360. 安部俊吾

    安部委員 それではこういうふうにも考えることができるのです。逆にたとえば日本に帰りたいために、擬装して民主グループのメンバーであるとか、あるいは反フアシストのメンバーになつたり、あるいはアクチーヴになつたり、本心は必ずしも共産主義がいいのではないが、日本に帰りたい念願でそういう擬装をした。けれどもそれは日本に帰りたいと言つてはいかぬから、ロシアに長くとどまり、ソビエトのために働きたい、こういうことを多くの人が言えば、逆に早く帰れるようなことがあつた、こういうようなこともあつたのですか。
  361. 上村宗平

    ○上村証人 ありました。それは確実にあります。そして大部分が擬装共産主義者になつたことも事実であります。
  362. 安部俊吾

    安部委員 そしてあなた方が教育を受けたテキストブツクのようなものがいろいろありましようが、特に権威のあるものは日本新聞であるということを、昨日も他の証人より証言がありましたが、日本新聞というのは、第二面、第四面はほとんど日本共産党の機関新聞であるアカハタの転載であるというような証言もあつたのでありますが、あなたもそういうふうに、日本新聞というハバロフスクで発刊するところの新聞に、アカハタの記事がきわめて迅速に転載されたという事実があると思いますか。
  363. 上村宗平

    ○上村証人 あります。アカハタは大体二百号から五百号までくらいはほとんど欠番にならないくらいに連続に入つております。そうしてアカハタ二百十三号、二百十四号、二百十五号というぐあいに、何号からとつたということも明細に書いてある。日本新聞はアカハタ新聞といつていいくらいである。
  364. 安部俊吾

    安部委員 その番号によりまして、日付というものは、やはり日本のアカハタ新聞に掲載されたものがそう遅れて掲載されなかつたのですね。その間がどれほどの期間でありましたか。その期間のずれは、たとえば一週間後に掲載された、あるいは十日後に掲載された。日本のアカハタに掲載された記事は日本新聞にどれほど遅れて掲載されたのですか。
  365. 上村宗平

    ○上村証人 大体一九四九年の例をとつてみますと、一九四九年に帰還梯団が六月の下旬からどんどん帰つております。そうして一九四九年六月下旬に帰つて来ると、人体その船が舞鶴に着く、今度の分子はどういう分子が入つて来た、今度の分子はどういう戰術をもつて政府のいわゆる帰還業務に対するボイコツトをなしたとか、あるいはその梯団の一部は京都の駅に行つてどのような戰術をとつた、あるいは寄り道をしても代々木の共産党本部に行つたとかいうことは、大体一週間か十日間のうちに入つておりました。
  366. 安部俊吾

    安部委員 それではあなたが收容所にいる間にも、日本に起つたいろいろの共産党に関する記事はよく読まれたのですね。たとえば人民電車の問題であるとか、あるいは三鷹事件の問題であるとか、あるいは福島県の平の騒擾問題であるとか、そういうようなことをアカハタに記載されたものを、あなた方日本新聞に転載された記事を読んだことがありますか。
  367. 上村宗平

    ○上村証人 読んでおります。すべて今仰せられた記事は皆ありました。むしろ私たちは日本におつたと同じくらいに、そういう方面の記事なら知つております。
  368. 安部俊吾

    安部委員 それはどういう方法で転載されるか、あなたが知らなければ想像、あるいはほかの人の話題に上されませんでしたか、その新聞が日本共産党から送られるものやら、あるいは電報でそういう記事か何か通信社から送られるものやら、あるいはどういうわけでそういう関連があつたかということに関しましては、話題に上り、そういう話はこういう方法で連絡してあるのだという話を聞いたことはありませんでしたか。
  369. 上村宗平

    ○上村証人 まずラジオ、それからアカハタ新聞が直接に入る。それだけです。
  370. 安部俊吾

    安部委員 それではあなたが先ほど委員長質問に答えられたその証言、各收容所長がソビエトの将校であるが、それが人の出入りするところに置いて、そうして日本共産党書記長の徳田球一氏の書面でありまするか、あるいはそういうような要請であるか、あるいは勧告であるか、とにかく先ほどあなたの証言されたような反動分子は帰してはならぬ。あるいはまた作業に十分に精励して、そうして向うの要求する程度の成績をあげておらぬ者は帰してはならぬとか、そういうことはやはりアカハタの記事が転載されるように、十分日本共産党とソビエトの官憲あるいは收容所の司令官、その部下の收容所長であるとか、あるいは参謀であるとか、そういうものとりつぱに関連があるということをあなたは認めておられますか。
  371. 上村宗平

    ○上村証人 それは認めております。この共産党から来る書簡というものは、確実にどのような方法で来るか知らないが、とにかく手紙が来ていることは事実である。そうして今度の帰還者はこのような態度をとつた。しかしそういうような態度をとられると、シベリアから帰つた帰還者というものはこういうものだと一般に見られるおそれがあるから、今度はこのように改めてほしいなどと、野坂參三氏から手紙をよこされております。それが日本新聞に野坂氏の手紙として、はつきり示されておりました以上、これは確実に入つております。
  372. 安部俊吾

    安部委員 あなたが先ほど証言したのに関連するのでありますが、教育の点におきまして、もしもあなたが日本に帰つて来ましたならば、まず共産党本部に行かなければならめ。そうして入党の手続をとらなければいかぬ。その上にまたあなたが一万なりあるいは二万なり、責任を持つて同志を糾合して入党せられる。それからまた暴力革命によつて、警察署その他新聞社とか、あるいは放送局というものを占領する。そうして共産党内閣を実現する。そういう点に協力せんければならぬというような教育、もしくは講演の内容があつたでしようか。その点に関して御証言をお願いします。
  373. 上村宗平

    ○上村証人 そのような過激なことは書いてないんです。もちろん暴力革命を今のように具体的に、放送局を占領しろとか何とかいうことはないんです。しかし現在の闘争方針が波状戰術であるとか、あるいはすわり込み戰術であるとか、または地域闘争であるとか、闘争方針は明らかに記されておりました。しかしハバロフスクの指令として来ることは、今日本共産党は、平和革命を唱えておる。しかしその平和革命必ずしも最後までの平和革命ではない。武力革命あるいは暴力革命に移る手段としての平和革命である。だからあえて暴力革命というものも辞さないという意味での平和革命であるということは、指導しておつたのです。
  374. 安部俊吾

    安部委員 あなたは過激とおつしやるが、そういう言葉ほどのものでもなかつたけれども、日本の経済状態食糧事情であるとか、あるいは交通の問題とか、あるいはその他の日本の経済状態を撹乱して、できるだけ日本の当時の内閣を難局に陥れ、そのすきに乗じて何か革命をやろうというようなことの教育を受けましたか。
  375. 上村宗平

    ○上村証人 それは大体が、今日本は革命の前夜にあるというのです。おそらく革命というものは必然的に起る。だから労働者労働者の組合を通じて、そうして農民は農民の組合を通じて、必ずその革命運動に挺身しなければならない。労働者の場合は労働組合といわすに、ちよつと忘れましたが、労働者はとにかく労働者の組合というような、共産党指導するところのあらゆる種類の組合に加入して、そうして革命の細胞となるようにというぐあいでありました。どのように経済状態を撹乱するかという指導はいたされておりませんでした。
  376. 安部俊吾

    安部委員 ソビエトに大分残つておる人がたくさんあるんだ。しかるに日本に帰る人が少かつた。これは今問題になつておりますけれども、帰還者の中には、非常に日本に対して心証を悪くしておる者がある。ソビエトの方では、日本に帰還することを促進する相当の善意をもつて手段を講じておるんだが、日本の政府の方で怠慢で船をよこさぬ。かるがゆえに、われわれの帰還は遅れたんだというようなことを盛んに宣伝された。またそういうふうに実際信じて来た人もあつたようでありますが、あなたはそういうことに関して、どういうふうな宣伝をされておりましたか。また帰るときは、実際日本の政府が怠慢で船を送らなかつたというようなことを信じて参りましたか。
  377. 上村宗平

    ○上村証人 一九四七年の夏ごろから、指導者間に一般に言われたことは、ソ同盟としては、一日も早く日本の兵隊を帰したい。帰したいが、日本が船をまわさない。またたまにまわして来ても、その船は五、六千人を收容できる船であるにかかわらず、二千名の食糧しか持つて来ない。だから帰還が遅れておる。一九四七年の暮れに日本新聞には、一日も早く帰したいんだが、日米の反動どもは日本人の帰国を望まない。なぜ望まないかというと、日本人が帰つて来ることによつて、失業というものはさらにふえて行く。だからそのような状態に置いて、日本人の帰国を無視しておるという状態が、現在の日米の反動どものやつておる手だ。そうして四八年ごろになつて来てからは、それと大体同じような宣伝を繰返して、四九年の冬季送還のときは、アメリカは碎氷船をまわすと言つて来ておるが、しかし去年ロシヤが帰そうと思つたときに、アメリカは船が大事だからと言つて、帰国を拒んだ。だからソ同盟の政府は、船よりも人命が大切だから、ことしの冬季は帰さないというぐあいにしたということも、日本新聞はつきりと載つておりました。しかし私どもがナホトカに来てみてわかつたことは、ナホトカの設備が二千名の乗船しかできない設備になつておる。收容所は二千名が單位になつておる。これでは数千名帰そうと思つても、乗船ができないということをわれわれは初めてそこではつきりと認識したのです。食糧は二千名分しか持つて来ない。船舶輸送というものに対してこんな宣伝をされる。こんなばかなことがあるかということを、みんな知つておるわけであります。六千名の乗船できる船であるのに、二千名で帰すというあほうなことはない。しかしみんなあほうになつてつて、あほうでない者は反動だから、全部それをうのみにしてしまつた。結局船は大きい船が来るが、二千名分の食糧しか持つて来ないから、われわれは帰れない。あれを六千名ずつ帰しておつたら、われわれはもうことし中に帰つておるはずだ。しかし実際には、船は大きい船が来た。けれども二千名を單位として乗せておつた。ナホトカの設備が二千名以上は乗せられないのです。
  378. 安部俊吾

    安部委員 あなたはナホトカに来るまでは、そういうような宣伝は真相であつたというように信じておつたのですね。ナホトカに来て、初めて実際の真相がわかつた。こういうわけですか。
  379. 上村宗平

    ○上村証人 そのような宣伝は、初めから信じておりません。だから運動指導者になつても、これは危險な分子だ。何か事があつたら落さねばならないと始終言われておつた。私は反動と言われてもかまわない。しかしわれわれの妻子、弟妹は、自分の糧食を削つても、夫が、子供が、親が帰るときは、自分の食糧なんということを言わないで、帰す方法を講ずるだろう。食糧問題でわれわれが帰れないということはあり得ない。あくまで国際的問題だ。ロシアという国に帰す気がなかつたから、私は帰れない。私は最高指導者の一人です。だから私は質問も受けました。帰国に関しては、みんなの関心がまことに深かつた。われわれはソビエト側との折衝もあるし、いろいろのことも聞いた。しかし私が質問受けたときの私の返答は、このような返答でした。しかしこのことは、日本共産主義指導者に対しては、反動的な言辞になるのです。
  380. 安部俊吾

    安部委員 もう一点お伺いしたいのですが、それではそういうような日本に関する事情は、ソビエトの官憲あるいは将校が、必ず日本から情報を得なければ、そういう宣伝をすることはできない。誤つたことにしても、あるいは真実のことにしても、何か日本から情報を得なければ、そういうことを日本新聞に掲載することができるわけがないのであります。そうすれば、やはりアカハタの記事が日本新聞に転載されるように、それは日本共産党と、收容所の所長とか、あるいはその他の機関の人と関連がある。日本政府の方が食糧を積まないから帰すことができなかつたということは、やはり日本共産党の情報によつてそういうことが伝えられ、そういう記事が新聞に掲載されたのだということをあなたは確認いたしますか。
  381. 上村宗平

    ○上村証人 船の云々ということは、日本新聞に載つておるのは、日本政府が船をよこさない、ナホトカの周辺には今五、六万人の人が集結しておる、だのに船が来ないものだから帰すことができないということが日本新聞には載つておりました。日本新聞の記事がアカハタの転載だとすれば、これはアカハタと関連があると思います。
  382. 安部俊吾

    安部委員 もう一つ、そうすればその情報が、ともかくもこれは論理的帰結として、どこからか情報が来なくちやいけないのだから、その情報はやはり日本共産党から出たものだということは、論理的帰結でそういうふうに結論するほかないと思うのですが、あなたはどう思いますか。
  383. 上村宗平

    ○上村証人 それはどのように結論をつけられるかははつきりわからないのです。ただわれわれの知つておる範囲は、日本新聞日本が船をまわさないから帰れないのだ、それだけしかわからないのです。
  384. 安部俊吾

    安部委員 日本新聞というのはハバロフスクの新聞ですね。
  385. 上村宗平

    ○上村証人 そうです。
  386. 西村直己

    ○西村(直)委員 今の問題に関連いたしますが、先ほどの委員質問の中にありまして、それから証人が答弁された問題でありますけれども、帰国をしたいということは腹の中にひそめて共産主義者になつているのだ、また上部の指導者の人たちも共産主義者になれ、君たちはソ連によつて解放され救われるのだ、共産主義者になつて行くのだ、またならなければいかぬ、また帰国という問題はむしろ場合によるとあまり言うと反動とされてしまうこういう御証言がありましたね。
  387. 上村宗平

    ○上村証人 ありました。
  388. 西村直己

    ○西村(直)委員 その場合にあなた方としては、日本共産党というものが引揚げを促進してくれるのだなというふうにお感じになつてつたかどうか。日本新聞ではそういうような意味指導されていた。しかし日本共産党は、あくまでもわれわれ果人の仲間として一日も早く帰つて来ることを望んでいるのか、あるいは共産主義者にならなければ望んでいないのか。そこらのところはどういうふうにあなた方おとりになつておられたか。
  389. 上村宗平

    ○上村証人 日本共産党が引揚げ促進のために盡してくれたとは思えない。そうしてまたポツダム宣言というものも非常にはき違えた宣伝がしてあつた。たとえば去年の暮れに帰るとき、ポツダム政令が出たときにも、ポツダム政令と称さないで吉田政令と称しておつた。そのようにポツダム宣言というものに対しては、日本人捕虜共産主義者にならない場合には帰さなくてもいいのだというようなポツダム宣言の解釈をしておつた。ところがわれわれがポツダム宣言を読む場合には、可及的に家庭に復帰するようにというふうに考えられる。しかしながら民主主義者、すなわち共産主義者にならなければそれはファシズムの残滓があるのだから、フアシズムの残滓があるうちは、徹底的にりつぱなものになつてしまわないと帰国をさせなくてもよいというような解釈もとつてつたわけです。
  390. 西村直己

    ○西村(直)委員 現地において、日本新聞を中心にして教育を受けたあなた方の仲間がそうであると同時に、日本新聞を通して、当然それは日本共産党としてもそう考えているだろうということは、あくまでもあなた方は前提にお考えになつていたわけでありますか。言いかえれば引揚げの問題については、あなた方は共産主義者にならなければ帰る権利もないし、また帰つてはいけないのだというふうに教育をされておつたわけですね。腹の中では帰りたい人がたくさんあつたでしようが、形の上、あるいは中にはそれがほんとうにそうだと思込んでしまつた者もある。しかしそれを教えてくれるのは日本新聞の情報ですね。それにはアカハタなり野坂參三君なりのいろいろな談話が載つている。そうしてたまたまそこへ徳田書記長の名前での手紙なんか読まれる。そうすると日本共産党はあくまで共産主義者を迎えるのだ。それ以外は迎えないのだ。あなた方の仲間の連中は一様にそういうふうな気持になつておられたのでありますか。
  391. 上村宗平

    ○上村証人 日本人全体の考えが、とにかく共産主義者でない者は帰れないというふうに徹底的に考えておりました。そうして帰る者の中には、やはり共産主義者になつたという誇りを持つてつた者もあります。とにかく共産主義者にならないと帰れないということで、いろいろばかをつくつて共産主義になつた者もあります。共産主義者以外は帰国の権利がないようです。
  392. 西村直己

    ○西村(直)委員 そうすると、日本の国内において、形の上においては日共の諸君が引揚げ促進運動をやるがごとき形になつてつたことを、あなた方御承知でしよう。形式だけ引揚げ促進のような形、たとえばソ連代表部へ共産党の代議士の方も一緒に行つたじやないか、共同で盛んに引揚げ促進に、共産主義者であろうとなかろうとわれわれは努力しているのだ、そう日本国内では言つておられた。しかしあなた方はそういうふうにはとつていないわけですね。一般に対しては共産主義者にならなければ帰さないのだということは言つてないのだと思います。船がないから帰さないのだ、船を出さないのだから帰してくれないのだ、吉田内閣がそうするから帰せないのだと言つて、一段日本人には訴えておる。われわれは積極的にソ連代表部まで行つて陳情までしているのだと言つている。あなた方はそういうようなことは日本新聞を通じてはお聞きになつておられないのですか。
  393. 上村宗平

    ○上村証人 もちろんその共産党の引揚げ運動というようなことは、あまり聞いてはいないのです。しかし民主主義者以外の者の帰国を日本国民は現在望んでいないのだ、そしてまた日本共産党民主主義者以外の帰国を望んでいない、われわれはあくまでもりつぱな民主主義者にならなければ帰ることはできない、こういうぐあいに言つておりました。
  394. 西村直己

    ○西村(直)委員 それで大体わかりました。現地における引揚げに対する宣伝方針も、初めは船がないからだと言つてつた、後にはおそらく日本政府の数字の発表が間違つておるということにしたんじやないかと私は思つておりますが、どうですか。最初は船の問題を非常に言つてつた、次にはそれが消えて来て、船の問題は言つてない、引揚げの数字が発表になつていない、確固たる数字でどのくらい行つておるのか日本政府は確信を持つていないじやないか、そして引揚げろ、引揚げろと言つておる、この点はどうでありましよう。
  395. 上村宗平

    ○上村証人 そのようなことは言つておりません。数字については全然触れておりません。
  396. 西村直己

    ○西村(直)委員 船の問題だけ……。
  397. 上村宗平

    ○上村証人 船の問題だけです。もう一つ補足します。それは日本政府に対して、まつたく引揚げ態勢ということに誠意がないから帰れないというぐあいです。
  398. 内藤隆

    内藤(隆)委員 あなたの証言中にもありましたが、懲罰大隊と強制收容所というものがある、これはどう違つているのでしよう。
  399. 上村宗平

    ○上村証人 それは大体同じものなんです。地区によつて懲罰大隊と言つて最後まで呼んでいるところもありましたし、また強制労働收容所という言葉を使つておるところもある。後には懲罰大隊という言葉が妥当でないというので、強制労働收容所と言つたり、またその言葉自体も妥当ではないというので、遅れた分子の收容所とか、あるいは特殊收容所とか、いろいろな名目を使つておりました。
  400. 内藤隆

    内藤(隆)委員 ボン隊というのは御承知でありますか。そういう名前をもしお知りならば、それについて内容等を……。
  401. 上村宗平

    ○上村証人 ボン隊というのは存じておりません。
  402. 内藤隆

    内藤(隆)委員 それからあなたの証言中に、日本共産党直結しておるということがありましたが、その点をちよつと御説明願いたい、民主グループですね。
  403. 上村宗平

    ○上村証人 ソ同盟における運動というものは即日本における運動と同じであるということ、そして、われわれは日本共産党の党員の一員としての活動をしなければならないということ、そしてまたお互いにその日その日の日常生活活そのものも日本共産党員という自覚でやれということ、まつた共産党直結したものです。
  404. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはだれからかそういうことを指導されたのですか。
  405. 上村宗平

    ○上村証人 もちろんハバロフスクの指導部から出ておりました。そして各地区のビユーローを通じて分所員全般が知つてつたわけです。日本共産党直結するということは、大きなスローガンになつて出ておりました。
  406. 内藤隆

    内藤(隆)委員 それからさいぜんの証人は、捕虜であるからすべての俸給だの手当というものは支給された覚えがないと言つておられる、あなたは今の証言中に、手当をもらつておるということを言つておられた、その点はどうですか。
  407. 上村宗平

    ○上村証人 先ほどの証人は私よりも一年早く帰つております。それであの証人のおつた地方は、一九四八年中に俸給が大体まわるようになつたところもあつて、早いところは一九四八年からもらつております。またおそいところだと、先ほどの証人は帰国するまでに俸給がもらえなかつたなら、それはもらえるような手続がしてあつても、遅れたためにもらえなかつたかと思います。
  408. 内藤隆

    内藤(隆)委員 最後に一点お尋ねしますが、野坂參三君の手紙が日本新聞に再々出ておつた。ことに引揚者が舞鶴へ上陸してからの態度等が、いろいろ変転しておりましたが、一般国民からその態度がはなはだ不満の意をもつて迎えられたというようなこともあつたときに、野坂參三の名において、態度をかえて上陸するようにという記事が載つたと聞きましたが、そういうような記事がありましたか。
  409. 上村宗平

    ○上村証人 あります。もう少し前からさかのぼつて言いますが、一九四七年に法務中尉の柴田義正氏が帰つております。そのときに、柴田義正氏が帰つて来て、パンフレツトなどにソ連收容所生活などをつぶさに書いております。それが日本共産党に不利になり、またソ同盟に対しても不利であつた。それがそのまま即時日本新聞によつて現われて、今柴田義正というような反動はこのようなことを書いた、われわれは柴田義正のような人間を再び日本に帰してはいけないのだというような記事が載つてつて、この柴田義正のような人間を探し出せというようなことになつて、少しでも反動的の言葉を使つたものは、そのころから政治的警戒心という言葉が使い出されて、そういう言葉日本新聞に載つてつたけれども、たとえば私の場合は、反フアシスト委員会というような、われわれの陣営内にもぐり込んでおるところの反動どもの手先ではないか。そのようにして政治的警戒心を旺盛にして、嚴重にそのことを探つて、そして反動分子というものは徹底的に隔離しなければならない、またつるし上げなければならないというようにして、われわれ在ソ同胞にはたちまち報復の手段が講ぜられた。一九四九年には、今巨人軍か何かの野球の監督をやつておる水原選手が帰つたそのときに、スターリン署名運動に言及しておる、そのときも、水原ごときものを帰してはならない、それもほとんど何日という日を経ずして出た。そしてまたその後帰還梯団がどんどん帰つて行くと、今帰還梯団は子供が花束をささげる、そのささげた花束が、これは反動のまわし者じやないかと言つてつて捨てた者がある、しかしそのようにして国民の反感をかつてはいけない、だから今度はもつと静々粛々と帰還するようにというぐあいな何かが出ております。
  410. 内藤隆

    内藤(隆)委員 この点はすこぶる重大な証言であると私は考えざるを得ない、すなわち野坂參三あるいは共産党は、日本新聞を通じてこういう指令を発したと見なくちやならない。いわゆる引揚者に対する戰術指令を発しておつたものと私は認定しますが、あなたどう思いますか。
  411. 上村宗平

    ○上村証人 指令かどうかわからないけれども、とにかく日本共産党指導というものは、的確にわれわれは実施しておつたと言わなければなりません。
  412. 内藤隆

    内藤(隆)委員 これは指令かどうかは証人はわからぬとおつしやるが、たしかにこれは指令であり、命令であり、新聞を通じての戰術の一つのやり方なんです。私どもは、これは一般引揚者の方に響いておるものだと見るので、まことに私は重大な証言を得たと考えております。
  413. 上村宗平

    ○上村証人 ちよつと……。この日本新聞は、それは指令と見て一向にさしつかえない、日本新聞によつて闘争テーマというものがつくられております。だから日本新聞はわれわれの教師であり、教科書であり、そしてわれわれの指導方針なんです。だから日本新聞に書いてあることは、われわれは遵奉しなければならない、そして日本新聞の――ちよつと忘れたからあとにします。
  414. 高木松吉

    ○高木(松)委員 お疲れになつたでしようが、重大な点がありますからお尋ねします。  まずごく簡單なことから明らかにしていただきたいのでありますが、あなたはいつからいつまで抑留されておりましたか。
  415. 上村宗平

    ○上村証人 一九四五年九月から、一九四九年の十月の下旬までであります。
  416. 高木松吉

    ○高木(松)委員 そうすると、何年何箇月になりますか。
  417. 上村宗平

    ○上村証人 四箇年二箇月です。
  418. 高木松吉

    ○高木(松)委員 その間における抑留者の生活状態というようなものを、つぶさにお述べになつていただけませんか。
  419. 上村宗平

    ○上村証人 一九四五年ごろは、もちろん入つた当時であり、ソ同盟としてもまことに混乱した状態にあつて、それでわれわれの被服とかそういうものに対しても、非常にお粗末なものばかりであつて、そしてまた食糧状態といつても、なかなかソ同盟の市民でさえも十分にあてがつていなかつたときであるから、われわれ捕虜というものは、もうただ餓鬼道に落ちたような状態になつてつた。そしてそのために栄養失調を起して、多数の人たちが一九四五年の冬から春にかけては死亡して行つた。そしてそれが四六年ごろになると、ソ同盟の政府でも、とにかくこの捕虜の死亡の記録というものは、いまだかつてないものに違いない、だからわれわれはこの日本人の死ぬということについては、非常に関心を持たなければいかぬ。つまりこのように死亡率がたくさんであつてはいけないというようなぐあいで、ソ同盟の方でも、日本人の死亡ということに非常にあわてて対策を講じておりました。それでも一九四六年から七年にかけて、ウクライナ方面に飢饉があつて、なかなか食糧事情は十分に行かず、ほとんど副食物もなくて、あるときは大豆ばかりで暮し、あるときはまた高梁ばかりで暮し、あるときはとうもろこしばかりで暮すというぐあいで、ほとんど偏食してしまつて、そして三分の一ぐらいの栄養失調を出した收容所もあります。それが今度四七年から八年ぐらいになると、食事が大体均衡した食事をとるようになつた。四八年ごろになると、その與えられた食事の範囲内で、日本人がいろいろとくふうをしてやつていた。また四八年ごろになると、被服の状態も大体よくなつて来ております。四九年ごろになると、食糧そのものは大して質のいいものでもなければ何でもないけれども、しかし日本人が非常にくふうをして、食生活とかあるいは被服というものは、改善をしで行つたことは事実であります。
  420. 高木松吉

    ○高木(松)委員 食生活はわかりましたが、一体抑留者に課する労働というような問題は、どんなふうに扱われておつたのでしようか。
  421. 上村宗平

    ○上村証人 労働はロシア語でいうノルマ、つまり基準量があります。その基準量はベルトーチカ、つまり貨車の積込みを一つ例をとると、貨車の積込みには大体四クボ四十の土を掘つて貨車に載せなければならない、これはまず日本労働者でもなかなかできないだろうと思います。そのようなのが基準量になつております。それをぜひともやらなければならないが、これはロシアの一人前の労働者でもなかなかできないと言われている。たとえば囚人とか強制労働所におけるロシア人自体でさえも、このノルマは遂行できない。そういうような基準量をあてがわれて、しかも五箇年計画を四箇年でやらなければならない。四箇年でやるならば、一二五%以上を遂行しなければできないというようなぐあいで、とにかく、なぜお前たちはこの基準量だけやらないかということが、毎日々々ロシア側の作業主任とか、あるいは建設隊からの強い命令であつた。そして日本人指導者は、それをどのようにしてでもやらなければならない。そこでこのノルマはたしかに大きい、また労働力の比重から言つてこのようなことはむりかもしれない、しかしむりだからやらないという反動どもは、日本へ帰つたときのいい宣伝材料になる、ロシアの基準量というものは、とうてい個人でなし遂げ得ないような厖大なものだが、そのようなものが労働の国のロシアの実態だと言われてもしようがないから、頼むからやつてくれというような状態でした。しかしそのノルマの遂行ということは、ほとんどできないというのが普通でした。そしてまた日本人は非常に勤勉であつて、ロシア人は今まで土なら土、砂利なら砂利、穴なら穴をどれだけというような基準量があつて、それを改訂したような基準量がある。それで、つまり日本人はロシア人の労働力に比べてはるかにまさつており、はるかに勤勉であるということが証明づけられて、ロシア人等も、これほど従順な捕虜はないといつたそうです。
  422. 高木松吉

    ○高木(松)委員 労働の基準量をきめて、やり得ない者に対する懲罰とか虐待とかいうものはなかつたのですか。
  423. 上村宗平

    ○上村証人 あります。基準量を突破した者は、労働の英雄というような称号を與えられておる。そしてまたその者に対しては、やはり特別料理なども與えられることもある。また労働のパーセンテージの低い者は、一〇〇%から八〇%はどれだけ、八〇%から六〇%はどれだけ、六〇%以下はどれだけというふうに、段階をつけられたことも確かにあります。そして減食処分や、労働の基準量以上にやつた場合には増食の賞、つまり労働を賞するというようなぐあいです。それから労働の英雄というような称号をもらつたり、あるいはまた平塚運動者というような名前をつけられた者は、被服とかいろいろなものに対して、特権的なものがあつたことは事実であります。
  424. 高木松吉

    ○高木(松)委員 そこで人道上から許すべからざるような状態に置かれたような事実はありませんか。たとえば健康を害するとか、病気とかいろいろなものを前提として、働き得ないにもかかわらず、むりに人道上許すべからざるような行動のとられたことはありませんでしたか。
  425. 上村宗平

    ○上村証人 病気の場合、三十八度にならなければ休ましてくれないということ、これが三十七度ぐらいの微熱の患者などは、やはりそれを推してでも出なければなりません。また腹が痛いといつても、そこが社会主義の矛盾いうとおかしいけれども、とにかく病気にも一定の基準量がありて、この病気では三日以上は休ませないという基準量がある。またそこの收容所で、たとえば千人なら千人の人間がいるとすると、それに対して一五パーセント以上の患者を出したら、そこの軍医なり担当医師は首になるというように、病気というものもちやんと基準量の範囲内の病気をしなければならない。そのような事実が確かにあるし、また人道上と言えば、四十度以上の嚴寒においても作業させられたというようなことは――初めは沿海州で三十度以上の嚴寒の場合は休ませるというようなぐあいになつてつて、それが実施されておつた。しかし一年置き二年置きして行くうちに、日本人も非常に強くなつて、耐寒力ができて来て、四十度以上の場合は仕事をさせてはいけないということを上司の方できつく達しられておつたけれども、しかしそれはやはり言われておつただけであつて、四十度以上の場合も作業をした。そのために凍傷にかかるというようなこともありました。
  426. 高木松吉

    ○高木(松)委員 肉体的、精神的虐待のために、発狂したり自殺したりした人はありましたか。
  427. 上村宗平

    ○上村証人 あります。一九四八年の六月にはウルガルの四百十分所と、その隣の四百十四分所で、それはいろいろと――おもに運動方面のことで非常にいじめつけられて、発狂して首をつつて死んだ事実があります。それからまた反動分子とせられた者が、それが非常に苦しいために自殺をはかつたというようなことはあります。ウルガルの四百十四と四百十の事実を私知つております。もう一つ四百二十七分所では、一九四九年のたしか正月ごろでしたが、やはり反動分子というぐあいにつるし上げにあつて反動になつた以上は死んだ方がましだというので、進行中の列車から飛びおり自殺をするつもりで飛びおりたけれども、しかしけがだけをして命は助かつた人があります。
  428. 高木松吉

    ○高木(松)委員 あなた方が自由に読める新聞というものは日本新聞だけですか。
  429. 上村宗平

    ○上村証人 日本新聞だけです。
  430. 高木松吉

    ○高木(松)委員 機関紙というのは何ですか。
  431. 上村宗平

    ○上村証人 機関紙というのは、各收容所にある新聞のことを機関紙と言います。それは各收容所の反フアシスト委員会で機関紙をつくつてつたわけです。私も機関紙の担当をしておりました。
  432. 高木松吉

    ○高木(松)委員 そうすると日本新聞と機関紙を通じてのみ知識、いわゆる情勢や何かがあなた方に知らされているわけですか。
  433. 上村宗平

    ○上村証人 そのほかに三十種類くらいのパンフレツトがあります。それらがすべて四箇年の間日本人を教育したのです。そのいろいろのパンフレツトがあつて、そして農民には農民問題、あるいは労働問題とか組合問題とか、そのほかだつた日本情勢、国際情勢、またはコスモポリタンに対する見解、あるいは国際共産主義に対する見解、それから中国事情とか、すべての者がパンフレツト、あるいはこういうようなパンフレツト以外の分厚い本によつて、ほとんど人の背丈ぐらいのものをみんな勉強したわけです。
  434. 高木松吉

    ○高木(松)委員 それを通じて、いろいろな材料からあなたが見たソ連の抑留者の数というものは、はつきりいたしますか。
  435. 上村宗平

    ○上村証人 数字は明細にわかりません。
  436. 高木松吉

    ○高木(松)委員 大体でも……。
  437. 上村宗平

    ○上村証人 それは中央部とか指導部で言つてつたのは、捕虜の数は八十万くらいということは言つてつたですけれども……。
  438. 高木松吉

    ○高木(松)委員 それから現在幾らくらい残つているように思われますか。
  439. 上村宗平

    ○上村証人 私の考えるところでは十万ぐらいです。
  440. 高木松吉

    ○高木(松)委員 そこまで来たので、私はどうしても聞かなければならぬ重要な点に来たのです。これははつきりとあなたの見聞きしたこと、及びあなたが見聞きしたことを通じて感じていた結論というような意味合いでお述べになつていただきたいのだが、ソ連の態度から、いわゆる世界を流れているソ連の勢力とアメリカの勢力との対立を読みとることができましたか。
  441. 上村宗平

    ○上村証人 それは読みとるというよりも、明確な指導がなされておつたのです。今世界は相反する二つの陣営にわかれておる、その一つ共産主義陣営、ソ同盟を盟主とするところの陣営である、そのあとは反動陣営、つまり英米を主として動くところの陣営である、この二つの勢力というものは必ず両立し得ない、そうしてわれわれは、今ソ同盟の陣営内にはせ参じて、米帝国主義者を打倒しなければならない。そして昨一九四九年の七月には議長会議をやりました。この議長会議に出席する者は約三百名、大体シベリアに六十万ないし八十万と言われておつた俘虜のうちで、議長というのは推定で五百人くらい、そのうちの三百名ほどが出席して、一九四九年の七月ハバロフスク会議と称して、そのときにあわせて青年会議も催されました。つまり代表者会議、この議長会議において――これは日本新聞には出せないけれども、われわれはこのスローガンを全面的に押し出して、われわれの今後の闘争方針を立てなければならぬ。それは米帝国主義の打倒ということである。これは重要な問題だつたから、記事とか活字には出せない。けれどもスローガンとしては出さなければならないというのが米帝国主義者打倒です。そしてわれわれは次の戰争が起つた場合には、スターリン戰士としてソ同盟側に参戰するというぐあいに……。
  442. 高木松吉

    ○高木(松)委員 そこであなたが数々の職責を盡し、今お話になりたような文書を通じて、日本共産党ソ同盟とがどういう関係にあるとお思いになりますか。具体的事実へと、お思いになる結論とをお話になつてください。
  443. 上村宗平

    ○上村証人 それはソ同盟の政治部の将校たちが来たときに、ムーリン市の劇場で沿海州地方生存者大会が開かれた。そのときに沿海州地方の政治部長のニコライ少佐が出席して、われわれの帰国はどのように取扱われるかということを聞いたところが、彼が言うには、日本共産党の政府ができたときには帰れるだろう。しかしそれまでのところは、われわれとしても何とも言えない。こういうぐあいに言つた。そしてロシヤ軍の政治部の将来たちが言うには、いつでも代表者会議とか、あるいは議長会議とかいうものに臨むたびに、とにかく諸君たちは日本共産党の一員として働く人間になつて帰らなければならない。日本共産党シベリアで教育を受けたところの諸君を期待しているのだ。だから諸君はぜひともりつぱな共産主義者になつて日本共産党の期待にそむかないようにやるようにというぐあいの激励演説をたびたびやつている。そうしてまたナホトカで帰還するときも一諸君が日本共産党の一員としてりつぱに活動することをわれわれはこの地において望んでいるということも言つている。そうしてまた日本共産党が国際共産主義の立場から、またソ同盟としても国際プロレタリアート、あるいはまたプロレタリアートの国際連帶性ということが盛んに強調された。特に日本とかロシアとか言う必要はない。共産主義を唱える場合には、ソ同盟日本区別の必要はないとはつきり言われておる。だからソ同盟共産党は即日本共産党言つてもさしつかえないということが言えます。
  444. 高木松吉

    ○高木(松)委員 そうしますと、ソ同盟は少くとも米英の帝国主義に対して闘うという宣言をしていることがはつきりいたしましたが、そこでその大きな目的のために、あなたが今日まで関係し、見聞きしたその事実から、日本共産党ソ同盟とともに目的を同じゆうして活動しているという事実がありましたか、そういう感じはありましたか。
  445. 上村宗平

    ○上村証人 その事実というとわかりませんけれど、しかし日本共産党ソ同盟共産党との結びつきということは、結局日本共産党の、たとえば徳田書記長が狙撃された事件がある。イタリアのトリアツチがやはり狙撃されておる。トリアツチが先だつた。トリアツチが狙撃されたときに、今度われわれのおやじの徳田書記長があるいは暗殺されないとも限らないというようなことが日本新聞の記事に載つてつたのです。ところがやはりそれが実現して、われわれがさきに予言しておつたけれども、今これが実現したというようなことが書いてありました。それは一九四八年の八月でした。
  446. 高木松吉

    ○高木(松)委員 そうしますと、日本新聞、機関紙、その他のものを通じて、日本共産党の党員または書記長たちが、いろいろの要請とか、意見とか、勧告とか、指導とか、指令とかいうような、形はどうであつても、実態がそういうようになつて現われておりますが、これは日本共産党ソ連との間に連繋して、日本共産党ソ連と相はかつてかくのごときことをしたのであるということを是認することができますか。
  447. 上村宗平

    ○上村証人 ハバロフスクの日本新聞指導しているのは、やはりソ同盟の政治部なのです。だからそのソ同盟の政治部の検閲のないものは、日本新聞として出すことはできない。そうしてみると、日本共産党の意思というものは、アカハタを通じ、日本新聞となつて現われている。それをまた認めるものは、ソ同盟の政治の指導部であるということが言えます。
  448. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ちよつと先ほどあなたは、あなたの考えではまだ約十万ほど残つている、こう言われましたね。それは戰犯者ですか。
  449. 上村宗平

    ○上村証人 大体ソ同盟は、戰犯者としては一万五千名を残すということは昨年言つておりました。一万五千名の戰犯者があるということ。しかしわれわれの知つておる戰犯者というものは、戰犯容疑者であつてほんとうの戰犯者というものはわれわれにはわからない。しかしわれわれは非常にソ同盟に対して、ソ同盟の真実性を伝えねばならないけれど、しかしロシア人というものは案外うそを簡單に言う。そうしてロシア人というものは、一日でできると言つたら三日なんだし、三日と言つたら十日ぐらいとかというぐあいに、何でもその通り真に受けることはできない。一万五千の戰犯と言つたら、われわれの常識から行つたら、五万というぐあいにすぐ推定しなければならない。そしてまだ一、二万残るかもしれないと言われたら、まだ五、六万の技術者とか、あるいは反動分子と言われた者とか、特に去年帰ることができなかつた病気とか何とかいう者は、やはり来年に持ち越されたというぐあいにソ同盟の方では明言している。だからわれわれのいろいろな想像とか、あるいはまたマガダムの地区では現在四千名帰つたけれども、しかしまだ二千名ほどの人が收容所生活をしておるというような情報をいろいろと聞いて、日本にいる日本人よりもソ同盟におつた日本人の方が、ロシアの実情とか、あるいはどこの地方と言つたら、これが大体わかるのです。日本新聞を通じてわれわれは、われわれの祖国はソ同盟として来たのですから、祖国の実情は日本のことよりもよくわかるわけです。だからおよそ十万くらいということは、もしその数字を調べようと思つておる人だつたら、ロシアから来た人は一致する意見なんです。
  450. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 この間共産党の人々は、今残つておるのは、全部戰犯ばかりだというようなことを言われたが、そんなことは……。
  451. 上村宗平

    ○上村証人 私は戰犯以外の人が残つておることを知つております。
  452. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 間違いないね。
  453. 上村宗平

    ○上村証人 はい。戰犯以外の人が残つており、それは住所とか姓名を言つてもさしつかえありません。
  454. 島田末信

    ○島田委員 一、二お聞きしたいと思います。よく友愛という言葉が使われますが、われわれも友愛に生きておる方で、たとい共産党員だろうが、あるいは帝国主義者だろうが、一個の人間としてはお互いに愛し合う、尊敬し合うということは、われわれ考えておるのでありますけれども、いろいろお話を承つておりますと、ソ連におきましては、いわゆるボルシエヴイーキは、それ以外の反動と称せられる人々に対しては、心から徹底的に憎しみを持つというふうに見られやすいと思うのだが、その実情はどうなんですか。
  455. 上村宗平

    ○上村証人 その通りです。もう絶対に憎しみを持たなければならない。それはわれわれが帰国後の闘争方針の中にも教えられておる。お前たちはことし、もう一週間か十日で帰つて行くのだ。その帰つてつたときに、もし自分の兄とか親とかが警察官をやつておる場合には、その者と徹底的に闘争せよ。共産主義者に親子の愛情はいらない。徹底的にその者と闘争して、これに対する思想的の転換をさせるか、あるいはさもなければ終生これを敵として扱えというぐあいになつてつて、友愛なんという言葉は、共産主義者だけに通ずるところの友愛であつて、非共産主義者に対しては、徹底的に敵として扱わねばならぬ。
  456. 島田末信

    ○島田委員 そういうお話を承つておりますと、日本におきましてわれわれが国会で、各派が一致して、引揚者をぜひ早く帰してもらいたいというふうな決議をします場合にも、共産党もこれに加わつて決議をする場合がありますけれども、今のお話では、共産党がもし決議に加わつたといたしましても、その趣旨とするところは、いわゆる同志を早く帰してもらいたい。反動分子は帰してもらいたくないというのがその行き方でないかしらんと考えるのだが、あなたの見方から言つてどうなんですか。
  457. 上村宗平

    ○上村証人 まつたくそれに同感です。
  458. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ほかにありませんか。
  459. 田渕光一

    ○田渕委員 お伺いしたいのですが、証人に、入ソ前の一般軍及び在外同胞の健康状態と、それから入ソ後において著しく落ちたというような点等を伺いたいのですが、一般に私が想像いたしますのに、南方の方は、戰争末期は、敵の潜航艇で非常に食糧の輸送なり、あらゆるものがとだえた。ところが関東軍あるいは北満、あちらにおられた方は、最後の何を安心して、あつちだけ守つておるというような意味で、まずわれわれが想像するのでありますけれども、南方方面に行つておられた方々よりも、ソ満国境あるいはその近くにおつた方々の方が一健康状態が多少ともよかつたのではないか、その方々が入ソ後ただちに凍傷に襲われ、あるいは衣食住の何らの待遇を受けないために、どんどんなくなつて行かれたりではないか、こういうようなことを思いますので、入ソ前の一般的な健康状態はどのくらいであつたか。入ソ後どのくらい経つて健康状態がずつと落ちてばたばた倒れて行つたか。内地の方ではもう朝な夕な神仏祖先に同胞の引揚げということを祈念して、機会あるごとにソ連大使館にも行き、冬には碎氷船までも送つて、やつてもらいたいとソ連政府に対して猛烈な運動をしておつたが、そういうことはあなた方の耳に入らなかつたか。あるいは不利なことは知らされないと思いますが、風のたよりにもあなた方はそういうことを聞かなかつたかどうか、この三つを伺いたいと思います。
  460. 上村宗平

    ○上村証人 入ソ前は、大体シベリアへ收容された者たちの健康状態は惠まれておつたと思う。千島部隊にしても、ほとんど戰闘もしないでおつて、非常に優秀な給養を受けておつた。また関東軍にしてもそれに準ずるものであつた。入つてあとは、おもに栄養失調で倒れて、その年の二、三箇月のうちに、人のやせようとか、顔の色は極端に悪く、実際骨と皮ばかりになつてしまつた。また生活様式が、風呂へも入れなければ、しらみや何か幾らはつていてもジユバンのとりかえができないという状態であつたから、入ソ後の一年くらいは実に悲惨であつたということが言えると思う。それで、日本の政府は一向にわれわれのことをかまつてくれないという印象を私は持つておりました。日本政府は、われわれが帰つて来たらじやまだと思つているというような印象を、日本新聞を通じて受けておりました。とにかく一人でも帰つて行けばそれだけ失業者がふえて、食わせるものをつくらなければならぬので、そのような人間は入れる必要はないと思つているというぐあいにわれわれは考えておつた。それでわれわれは日本政府を恨み、日本人自体をも恨んでおつた。われわれは長年戰争で苦労して、あと三年も、四年も置かれておるが、日本政府は踊りや歌に浮かれてしまつて、われわれのことは一切見てくれないという観念を持つていたのです。
  461. 田渕光一

    ○田渕委員 私たち、これは個人としても、あらゆる教育を受けるであろうが、一たび帰つ来て、たとえ三日あるいは五日、長くても一月、家庭のあたたかみを持つたならば、いかに共産主義の訓練を受けて来ても、この家族的な愛情によつて心配することはない。しかしその後の措置が悪ければ、あるいは教育を受けて来たことも、どうもそうじやないかしらんと思うようになるので、この危險な思想が善化されずに悪化する方に入つて行く。だから努めて愛情で迎えなければならぬということは、家庭でもそうであり、どこでもそうであつたと思うのであります。とにかく引揚げて来た方々が、一部を除く限りは日本の家庭の愛情によつて民主主義グループに入つてつた人も、橋を渡り、部落へ入ると転向されて、非常に喜んであつたのでありますが、今伺つたのはまつたくその通りだろうと思うのです。われわれが朝な夕な引揚げ促進についてあらゆる努力をしたことが全然通じていなかつたということを今伺つて、そう思つたのであります。ただ私は、そういうぐあいに思つているところに、徳田書記長が書記長名義でもつて帰すなということを言つたときには、そういうふうに思つている方々にどうもぴんと来ない。そして祖国はこういうようにしているのだ。こういうように迎える努力をしているのだということが幾らかでもわかれば、そういうものが来たときには、必ずけしからぬやつだ、裏切り者だというような感情が起きるのはあたりまえでありますが、証人徳田書記長のこういうものをお聞きになつたときに、まずその直感――けしからぬことを言うやつだとか、あるいはそうかしらんとかこういうようなことで感じた点を、率直にお述べ願えれば聞かしていただきたいと思います。
  462. 上村宗平

    ○上村証人 私自身としては、実際に徳田書記長は十八年の獄中生活を送つて来たというので、個人的に人格を尊敬しておつたのです。また共産党指導者そのものに対しても、大きな迫害を受けても粘り強くやつてつたということ自体に対して尊敬しておつた。私自身はマルキストではないけれども、しかしとにかく社会改良主義者というような部類に入るかもしれない。それで共産党に対しては、私自身イデオロギーは真の共産主義者とは違うかもしれないけれども、指導部にとにかくこれまでおつた私自身なんですから、そこにはやはりイデオロギー的にもある程度通ずるものがあつたに違いない。絶対的に敵か味方か、黒か白かと言われた場合には、そうでないかもしれないが、そうでない場合には、私自身用いられておつたし、また公の職にもあり、いろいろな点で指導の面にあつたことは事実なんです。しかし徳田書記長に対する尊敬の念というものは、收容所長のところで、民主主義者にならざる者、あるいはまた作業に対して十分ならざる者は懲罰に付してでも帰国させないようにしてくれ、長くとどめておいてくれということを聞いてから失つてしまつた。そのとき私は一転機したと言つてもさしつかえない。そのとき私の胸には非常に打つものがあつた。それでは共産党はわれわれの引揚げを促進しているのではない。帰還の妨害をしておるのであるとはつきり思つた。  もう一つ、友愛ということについて前の方の御質問ですが、日本共産党指導方針としてわれわれが日本新聞から学んだところでは、今日本共産党中小商工業者、それから民族資本家をも含めて民主民族戰線を結成している。しかし共産党目的階級以外のものではない。やはり中小商工業者も敵であり、民族資本家に至つてはまさにその敵だ。しかし現在の日本を支配しているものは天皇制機構だ。この天皇制機構を打倒しなければ日本の革命はできない。日本天皇制の支柱になつておるものは日本の巨大財閥である。この巨大財閥を倒すためには中小商工業者をもその一環として、それを倒したあとにおいて倒さなければならぬ。レーニンは二つのごみがあると言つた。その二つのうちの一つはツアー制であつて、他の一つはブルジヨアジーだ。日本でそれに相当するものは天皇制であり、また民族資本家以下中小商工業者だ。今車は一つしかない。まずこの一つを倒しておいて、大急ぎで引返して来てあとの一つを倒す、そしてわれわれの共産党、いわゆるボルシエヴイーキの独裁をするのだ。こういうぐあいに指導しておりました。
  463. 田渕光一

    ○田渕委員 もう一つお伺いしたいのは、ソ連人は人間社会から見ればあわれむべきものだ。われわれは報復手段を講じようとかどうとかいうのではありませんが、人間としてソ連人はまことにあわれむべき民族だというのは、すぐる尼港事件、バルチザン事件、今回起つている事件、これなどを見て、宗教を信ずるわれわれとしては非常にお気の毒に思うのであります。むしろ不完全な民族である、こう思うのであります。われわれの祖先は七、八百年前に、忽必烈が日本へ攻めて来て壱岐、対馬で残虐な行為をしたが、台風と申しましようか、暴風雨で船がくつがえつて、十幾万の蒙古人がなくなつた。この当時、すでに蒙古から来た方々の霊を慰めるために、蒙古人の供養塔というものを建てておつた。それが太平洋戰争の最中に大東亜会議というものを開いたときに、蒙古を呼ばなかつたというので、蒙古の徳王が日本の政策に協力しなかつた。そこで徳王を連れて来た人がありまして、これが博多へ上つたときに日本が今回の会議に君を呼ばなかつたことをお怒りのようであるが、われわれの祖先が六百年前にこういうことをしておるのだ。十幾万のなきがらの霊を供養するために供養塔を建てておる。こういつたときに涙を流して喜んで、日本人とはこういうものかというので、大東亜会議に呼ばれなかつたということが、一ぺんでかわつてしまつたという事実があつたのであります。これが日本民族のいいところであると思います。しかしわれわれが生れかわつて、何百年か後にソ連領に行くことがあつたとすれば、尼港事件から引続き今回のわれわれの同胞のほんとうに気の毒な白かばのこやしとなつた方々、思想のために圧迫を受けたこの方々に対して、そういうふうに何か喜ぶべき、涙を流すようなものがつくられておるか。たとえ一片たりともそういうようなことが目撃されたかどうか。あるいはそういうようなものがなかつたかどうかということを、将来のために伺つておきます。私は仏教を信じ、霊魂不滅を信じておるものでありますから、幾年かの後に、再び生き返つていずれ行く人もあるだろう。そのときにわれわれの友人、あるいはわれわれの兄弟がまことに苦しい、恨み骨髄に徹したというものが浮かばれると見るべきものがあつたかどうか。たとえ一片でもよろしい。一つの石ころでもよろしい。そういうことがあつたかなかつたか。なければないでよろしい。それをお聞きしたい。
  464. 上村宗平

    ○上村証人 唯物論者にはそういうことはありません。大体が民族というようなことも必要はなくて、日本民族とかロシア民族とか、スラブ民族とか非スラブ民族とか、トルキスタン民族とかいうことをいう必要さえもない。日本人的な考えというものは、どういうことであろうともつるし上げられる。大体民族というようなことを何すると、共産主義者はチトーみたいなことになつてしまう。だから一切そういうことは成立ちません。人間が生きるとか死ぬとかいうことも、人間そのものが物質である。脳髄がこわれれば心臓がとまつてしまうのですから、それに対して墓を建てたり、その人の記念というものは必要ない。ただふしぎなことにはレーニン廟があるということは、われわれには理解できない。
  465. 塚原俊郎

    ○塚原委員 一点だけ伺いたいのですが、遅く来ましてあなたの略歴を聞かなかつたのですが、おそらく召集されて兵隊に行かれたと思うのですが、その通りですか。
  466. 上村宗平

    ○上村証人 その通りです。
  467. 塚原俊郎

    ○塚原委員 あなたが軍隊時代に、いろいろな操典とか作戰要務令とかいうものを教育されたと思うのですが、抑留生活に入つてからは、向うのマルクス、レーニンの著書や、スターリン憲法その他いろいろな教材を中心として教育を受けたと思うのですが、あなた自身、あなたのまわりのものが、あなたが感じたところでけつこうですが、それぞれ教育を受けるところの態度、真劍味というものは、日本の軍隊の時代に教育を受けたときと、抑留時代に向うから教育を受けたときと、どういうふうな差があるかということを聞きたいのです。
  468. 上村宗平

    ○上村証人 日本の軍隊以上、初年兵以上の生活をしているのです。われわれが勅諭を覚えたとき以上の真劍味のある態度で、勅諭を覚えなくても父母のところへ帰れないということはありません。ところが試験というか、ベセーダというものがあつて、それに合格しなかつたものは帰れないという事実があります。だからその真劍さというものは日本の軍隊以上、なお労働に対しては一〇〇%、一二五%以上を遂行しなければならない。帰つて来たら四時間ぐらい勉強する。日曜といつても一日試験なのです。それはおそらくシベリアで体験したものでなければわからない。少くともその真劍味は民主主義者でなければ帰国の価値なし。たとえば各国の国際共産主義の立場にのつとつて、ブルガリアとか、イタリアとか、東欧民主主義国のチエコスロバキアとか、ルーマニア、アルバニアというような国の共産党の党主を覚えて来いとか、あるいは書記長を覚えて来い。それ以外にフランスやイタリアの書記長を覚えて来い。勅諭を覚えるのくらいとたかをくくつていた人も、それらのことを覚えるのにたいへん苦労しておつた。また国家機構、憲法第何條を覚えて来いというぐあいで、一生懸命覚えたものです。
  469. 塚原俊郎

    ○塚原委員 帰りたいという気持から真劍になつて覚えて教育されているうちに、これは非常にいいものだと思い込んだ方もたくさんあると思うのですが、あなたがお考えになつたところで、それだけの教育を受けて、一体何パーセントくらいのものがほんとうにそういうものに心酔したか。また何パーセントくらいのものがただ帰りたい一心で一生懸命に勉強したかということが、もしおわかりでしたらお答え願いたい。
  470. 上村宗平

    ○上村証人 向うでは共産主義の支持者は八五%といつてつたけれども、実際のところは一〇%にも満たないと思います。そのうちのほとんど全部というものが、大してそれに対する影響というものはないと思います。
  471. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ほかにありませんか。――それでは済みました。御苦労さまでした。  本日はこれにて散会いたします。明日は午前十時から開会いたします。     午後五時四十五分散会