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1950-04-01 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第16号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十五年四月一日(土曜日)     午前十一時十三分開議  出席委員    委員長 鍛冶 良作君    理事 安部 俊吾君 理事 菅家 喜六君    理事 小玉 治行君 理事 内藤  隆君    理事 吉武 惠市君 理事 小松 勇次君    理事 梨木作次郎君 理事 石田 一松君       井手 光治君    尾関 義一君       岡延右エ門君    黒澤富次郎君       佐々木秀世君    篠田 弘作君       島田 末信君    田渕 光一君       塚原 俊郎君    西村 直己君       福井  勇君    福田  一君       加藤 鐐造君    坂本 泰良君       横田甚太郎君    岡田 春夫君  委員外出席者         証     人         (ハバロフスク         地区引揚者)  吉田 幸平君         証     人         (ウオロシロフ         地区引揚者)  亀沢 富男君     ————————————— 本日の会議に付した事件  日本共産党の在外同胞引揚妨害問題  証人出頭要求に関する件     —————————————
  2. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これより会議を開きます。昨日に引続き吉田幸平証人より証言を求めることといたします。吉田さんにあらためて申しますが、あなたはきのう何か石田委員から打合せたかということを聞かれたので、そういうことはないと言われたようですが、それと調査員と会うということと違いますけれども、調査員に会われたことなんか、ありのまま言つてもらわぬと、かえつておもしろくないのですが、何かそういうことで間違つておられるんじやないか。もし調査員と会われたことがあれば、それはありのままをお話願いたいと思います。
  3. 吉田幸平

    吉田証人 きのうそう言つたということそれ自体が、自分ではまずいと思つております。少し日にちの観念、そういう関係からそのことに関して食い違つておりますことを訂正しておきます。石田氏に申し上げたことは取消しておきます。
  4. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あれば、だれといつごろ会つたか、大略でよいのですが……。
  5. 梨木作次郎

    梨木委員 議事進行について——今の点は石田委員が質問したところでありまして、今石田委員がおられませんので、またその点について石田委員としていろいろ不審な点を問いただしたい点があるかもしれぬと思いますから、石田委員証人の調べが済むまでにおいでにならなければしかたありませんが、そうでなければ最後にまわしていただいて、石田委員が見えてからその点を補充的にお伺いくださるように希望します。
  6. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでもよいでしよう。それじやそういうことにしましよう。
  7. 小松勇次

    小松委員 証人がお忙しい中を二日にわたつてこうしてお伺いすることは、証人にたいへんに御迷惑だと思いますが、引続いてお尋ねしたいと思います。なるべく私は皆さんからお尋ねのあつたことを重複しないように、避けるつもりでありますが、重要な点は、あるいはなおはつきりいたすために重複するやもしれませんが、あらかじめ御了承願いたいと思います。証人は長い間ソ連に抑留せられておりました。その間方々の收容所を転々とされたようであります。何箇所ぐらい收容所を移動されたか、どこの收容所に移動されたか、そして一番長く收容された場所はどこであつたか。
  8. 吉田幸平

    吉田証人 きのう申し上げたように、ハバロフスクの南の本線、極東鉄道から六十キロ密林の中に入つたハバロフスク州のオボール、それからコムツモール、それからエバラン地区へ入つてムーリー、それからソビエトガワ二一港(ポートガワニ)それからホルモルという地区エバランという収容所、それからゴーリーという收容所、それからハバロフスク、大体それが歩いた大きい収容所名前です。その中で一番長くおつたのは、オボール收容所に四五年から四七年の六月まで一年半、それからハバロフスクの一年、コムソモールの八箇月、それが一番長かつた
  9. 小松勇次

    小松委員 各收容所におきましては、あなた方に対する待遇はみな同じようでありましたか。
  10. 吉田幸平

    吉田証人 それは收容所によつて違います。いわゆる民主運動発展過程における——反動闘争と唱えられておつた、そういう収容所民主運動過程が違うことにおいて、反動に対する扱いは全部違つております。民主運動流れの中における反動闘争というのは、大体の流れは同じであります。
  11. 小松勇次

    小松委員 収容所においては反動分子と見られるものと、民主グループというような人たちとの待遇違つてつたのですな。
  12. 吉田幸平

    吉田証人 そうでございます。
  13. 小松勇次

    小松委員 それはどういうわけで違つてつたのですか。またそれは隊長だけの意思によつてそういうぐあいに待遇を差別したのであるか、あるいはソビエトの方針によつてそういう待遇を異にしたのであるか、そういう点について、お感じの点をお話願いたい。
  14. 吉田幸平

    吉田証人 ソビエトとしては軍事捕虜という立場から、たとえば糧秣の問題について述べますが、軍事捕虜という立場からは同じものを支給してくれるであろう。しかしながら日本人アクチーヴというのが、炊事の班長を通じて、いわゆる反動闘争ため糧秣を減らして支給する。あるいは食器なども洗わずに支給するというように、精神的にまず食い物で参らせる。それは糧秣に対する一つの例でありますが、四七年の暮れごろから、特にそういつたものが目について来ました。
  15. 小松勇次

    小松委員 そうすると、四十年ごろというと、オボール待遇が一番あなた方に対して惨酷な取扱いをしたというように解釈してよろしいわけですか。
  16. 吉田幸平

    吉田証人 入ソ当時のオボールの前半は最もひどかつたのでありますが、後半は、反動に対しての糧秣はさほどではありませんでした。いわゆるコムソモリスクソビエトガワ二一、エバラン、そういうところに入つてからは、そういう反動に対しての差別待遇は特に強かつたと思います。
  17. 小松勇次

    小松委員 なおお尋ねいたしまするが、昨日のお話では、アカハタ記事向う新聞にいろいろ転載されて、それをあなた方に閲覧さした。あるいは内地通信をいろいろの会合で読んで聞かしたというような話を聞いたのでありまするが、そういうように内地からの特殊の通信をあなた方に読み聞かせるというような場合には、どういう方があなた方に読んで聞かしたのですか。
  18. 吉田幸平

    吉田証人 それは種類によつて違いますが、ロシヤの新聞、たとえばプラウダ、あるいは太平洋の星などにソ連記事として出たような場合には、政治部員がそれをわれわれに読み聞かしたこともありますし、あるいはアカハタ新聞転載記事、あるいは日本新聞に出ているような特殊記事、そういうものは日本人の反ファシスト委員会アクチーブというものが交代でわれわれに読み聞かしてくれたこともあります。
  19. 小松勇次

    小松委員 内地からのいろいろの通信で、特にあなた方を感激さしたというような通信がありましたか。
  20. 吉田幸平

    吉田証人 感激というと、どういう意味ですか。
  21. 小松勇次

    小松委員 たとえば、あなた方の引揚げを大いに促進する要請をしたというような通信内地からあつたというようなことはありませんか。
  22. 吉田幸平

    吉田証人 別に聞いておりません。
  23. 小松勇次

    小松委員 日本共産党から、抑留者引揚げ促進要請があつたというようなことは、あなた方はお聞きになりませんでしたか。
  24. 吉田幸平

    吉田証人 それは一回聞いたことはあります。
  25. 小松勇次

    小松委員 そうしてなおまた日本共産党なり、あるいは日本共産党徳田さんでもどなたでもよろしいが、そういう人から、反動分子はなるべくソビエトに長く置いて、そちらで思う存分使えというような意味要請があつたというようなことは、あなたは全然聞いておりませんか。
  26. 吉田幸平

    吉田証人 それは聞いたことはあります。いわゆるそちらでしつかり勉強して、民主主義者となつてつて来いというような意味のことは、私はよく聞いたことがあるのです。
  27. 小松勇次

    小松委員 早く引揚げさしてくれろというようなことのあつたことは、全然聞いておりませんね。
  28. 吉田幸平

    吉田証人 一回引揚げ要請に関しての日本共産党手紙が、向う新聞に出ておつたことを記憶しております。そのほかは記憶しておりません。
  29. 小松勇次

    小松委員 共産党書記長徳田さんから、特に反動分子に対しては、これを民主化するまで帰還させるなという要請があつたということは聞いておりますか。
  30. 吉田幸平

    吉田証人 いわゆる徳田書記長手紙というものに、それが出ております。
  31. 小松勇次

    小松委員 それをあなたはどなたからお聞きになりましたか。
  32. 吉田幸平

    吉田証人 それはハバロフスクの十六分所におつたときに、民主委員長から聞きました。十八分所ではそれが黒板に掲示されておりました。
  33. 小松勇次

    小松委員 黒板に掲示されたのをあなたはごらんになつただけですか。
  34. 吉田幸平

    吉田証人 それを見ましたし、あるいは民主委員長全員点呼のときに、その記事を読んだということもありました。
  35. 小松勇次

    小松委員 その記事を読んだのは一回だけですか。毎日のようにそういうことを読み聞かせるのですか。
  36. 吉田幸平

    吉田証人 そういうわけではありません。こういうような日本共産党からの手紙であると読んで、爾後食堂あたりに掲示されておりましたし、十八分所に転属して行つた場合にも、野坂參三氏からの手紙記事が出ておつたことを記憶しております。
  37. 小松勇次

    小松委員 あなたはそういう手紙記事を見たときに、どういう感じを持たれましたか。
  38. 吉田幸平

    吉田証人 いわゆるシベリア民主運動というものは、ソ側捕虜共産化のプランに基くものであるとはいいながら、いわゆる側面からの援助者としての日本共産党と、赤い糸で結ばれておるということを見のがすことはでき得ないということを直感しております。
  39. 島田末信

    島田委員 私は二、三点お伺いしたいと思いますが、昨日からの証言を聞いておりますと、シベリア在留の邦人が望郷の念にかられて、帰国ためにはいかなる犠牲拂つてもいいという悲壮なる決意のもとに、あるいは民主運動であるとか、あるいは平塚運動などに努力したというふうに聞かれるのであります。この帰国の権利を得るために、あるいは民主運動に参加したとか、あるいは平塚運動に邁進したということのその熱意の示すところは、一に帰国を急ぐということにあつたように聞かされたのでありますが、しからば反動と目される人々帰国を遅らされたというような事実がありましたら、お聞きしたい。
  40. 吉田幸平

    吉田証人 私個人の問題としては、帰国するため名前が発表された。しかしながらいよいよ営門を出るるときに、かねがね反ファシスト委員会から、この人間デモクラートではないと目された人は、ABCDというように向うMVDの人から名前を呼ばれて抽出されまして、結局残されたということを私自身四回経験しております。それから見ていただいて、状況を判断していただけばおわかりになると思います。
  41. 島田末信

    島田委員 それからスタハノフ平塚運動の大体のことはきのう聞きましたが、これは従来われわれが聞いておるスタハノフ運動の本来の精神からやや離れて、きのうの御説明では何だかやせ馬のしりをたたくような、いわゆる能率増進めちやめちやにやつて、そういう仕事の中からいわゆる帰国條件を得ようというような、何だか帰国運動目的であつたように見られたのであります。しからばこの平塚運動を熱心に実行したために、それが帰国にどういうふうに役に立つでおるか。もし実例がありましたらお聞かせ願いたいと思います。
  42. 吉田幸平

    吉田証人 特に去年でありますが、平塚運動のいわゆる労働の英雄といわれた人たち——前職が憲兵警察特務機関、あるいは細菌部隊でない人たちで、平塚運動参加者は去年大体全員帰国の第一條件として選抜されました。
  43. 島田末信

    島田委員 それほど皆さん帰国を急ぎ、またあらゆる犠牲拂つてでも早く帰国の仲間入りをしたいというような心境は悲壮なものであつたろうと思いますが、そういう際に、いわゆる民主運動に参加し、あるいは平塚運動に参加して一つ帰国條件を得るということは、あるいは心になくても、そういうことを一応やつてのけて、そうして帰国さしてもらいたいということが人情だつたろうと思います。それにもかかわらず、あなたがいわゆる反動分子として目され、また転向をせずにあくまで反動入りをしておつたというようなその御心境をお聞きしたいと思います。
  44. 吉田幸平

    吉田証人 中にはいわゆる史的弁証法、ああいつた教育のもとに自分世界観をその世界観に持つて行つた人たち、そういう人たちは別問題としても、自分世界観がそうでなく、いわゆる帰国をするためには着物を着て帰るのも一案であろうという見方から参加されておる人もずいぶんあると思います。私自身は、帰国ためにそういうことを選ぶことは私の自尊心が許さないといいますか、世界観そのものが違うのだという気持から、反動として来たのであります。
  45. 島田末信

    島田委員 そういう心境は、一にソ連式民主主義に対する不満、あるいはソ連式世界観に対して納得できないというか、非常に食い違いがあつたろうと思いますが、その最も納得できない食い違いの点がどこにあつたかということを簡単に説明願いたいと思います。
  46. 吉田幸平

    吉田証人 理論現実と一致していないということをまず感じます。こまかいこととしては、唯物論あたりの映像というような問題に関しましてはいろいろおりますが、この問題は抜いて、ともかく現実理論というものが、私の見た客観的なものと一致していないということが一番大きな見方であつたと思います。
  47. 島田末信

    島田委員 これ以上具体的にお聞きしようとは思いませんが、しからば反動分子と見なされておりましても、帰国はいずれできるであろうというようなことは考えておりましたか。
  48. 吉田幸平

    吉田証人 もしこのまま帰れなかつたらシベリヤに死ぬ。死んでもやがてたれかが伝えてくれるであろう。だが心理としては帰りたいというので一ぱいなんです。ですからやがては帰れるだろうと……。
  49. 島田末信

    島田委員 あなたはポツダム宣言に、捕虜あるいはそういう在留同胞が、いずれ平和の時代になれば帰還できるということを宣言されたことは、お知りでありますか。
  50. 吉田幸平

    吉田証人 知つております。
  51. 島田末信

    島田委員 次に青年行動隊というものが出ましたが、これはどういう任務でつくられましたか。
  52. 吉田幸平

    吉田証人 任務としては、カドール養成ということが一番目的だと思います。ヴルシエヴイーキ的カドール養成、二番目は作業能率増進、そういう方向に持つて行く推進力としての団体、そういうものと記憶いたしております。
  53. 島田末信

    島田委員 その青年行動隊皆さん帰国に対して、民主化しておるとか、あるいは反動の残滓がまだあるということで、一応帰国者に対して選択差別するというような行動がありましたか。
  54. 吉田幸平

    吉田証人 日本人がですか。
  55. 島田末信

    島田委員 ええ、その事実をひとつ……。
  56. 吉田幸平

    吉田証人 四七年の十一月、コムソモリスクの第六分所というところにおりましたときに、食堂帰国に関する申請権といいますか、それを日本人アクチーヴが持つということを檄した檄文が張り出されました。それ以後日本人帰国問題に関して、ソ連側軍事捕虜という立場からMVDが人員を発表しておる。日本人アクチーヴというものが、イデオロギー的に民主化されてないという人間を調べておりまして、日常行動、あるいは不満のあつたということから、そういうリスト日本人がつくつておるのであります。そういうリストを出して人名が発表された場合に、政治部員あるいは向うMVDに通達して削ります。私が先ほどお話したコムソモリスクにいる部隊というものは、帰国するものをソ連軍事捕虜という立場からせつかく発表されてあつても、イデオロギー的に民主化されていないという意味において残されたわけであります。
  57. 島田末信

    島田委員 私が多少調べた範囲では、その後民族独立名前をかぶせて、民族独立青年行動像という名前活動しておつたというように聞いておりますが、その民族独立という名称はいつごろつけましたか。またどういう内容でそういう名称がついたか、御存じあれば承りたいと思います。
  58. 吉田幸平

    吉田証人 青行隊民族独立青行隊名前をかえたのは、四八年の秋ごろだつたかと思います。沖縄軍事基地化、あるいは横須賀の軍事基地化等アメリカ軍事基地化というものが露骨になつて来たということを日本新聞で発表しておること、いわゆる日本が植民地化されつつあるときに、民族は滅び去つて行くという輿論が日本新聞には相当出ておりましたので、そのころからハバロフスク日本新聞社あたりでは、各支所に青行隊とか、あるいは突撃隊、あるは独立青年同盟名前を打つてつたのを、民族独立青年行動隊というように名前をかえて来たように記憶いたしております。
  59. 島田末信

    島田委員 内地におきましても、日本共産党民族独立ということを非常に提唱した時期がありましたが、その時期と、民族独立青年行動隊民族独立名称をくつつけて活躍した時期がやや一致しておるのではないか。われわれはそういうふうに推察いたしておりますが、これにつきましてあなた方が、実際に在留しておられた方として、日本共産党のそういう一つ動きと、民族独立奇年行動隊という名称のもとにおいての時期と、この民族独立に対する活動の概念というか、あるいはその目標というか、そういうものの一致点が見出されるのではないかとわれわれは想像されるのでありますが、その点について何か事実上お認めになつた点があれば、聞かせていただきたいと思います。
  60. 吉田幸平

    吉田証人 先ほどお話したように、沖縄軍事基地化アメリカ植民地化政策、そういつたアカハタ転載記事も出ておるのでありまして、そういつた意味から、内地で叫ばれたのと、大分向う民族運動との流れは結びついておるのではないかと考えます。またアクチーブが、われわれの民主運動動き日本に直結するのだということを特に強く叫んでおることから、私はそういうふうに思うのであります。
  61. 島田末信

    島田委員 そこに一脈相通ずるということは、むしろ日本共産党のそういう動向がただちに現地に示されて、そういう活動が行われたというふうにみなしてよろしゆうございますか。
  62. 吉田幸平

    吉田証人 もつと具体的な例をあげれば、野球の巨人軍の水原という選手シベリアにおるときにアクチーヴであつた舞鶴に上陸してすぐ転向声明書を発表して、どこかのスタジアムで野球選手として出発した。このようなアクチーブはわれわれの組織破壊者であり、そうして寝返りをうつ人間であり、最も組織の中の人間としてたたき出さなければいけない。反動としておる連中よりもなおひどくやらなければいけないという記事がすぐ日本新聞に出ましたし、これなどは大きく、初号活字日本新聞に出された。組織者組織裏切者として、まず組織内の強化とともに、反動闘争というものが激化しておる。そういう意味内地の方のあるいは三鷹事件、平事件舞鶴事件のような事件が、みな日本新聞を通じて関連して考えられます。吉村隊事件のような事件も、日本新聞には出ております。これに伴つて内地状況とともに、捕虜反動とともに、あるいはひより見と目される人たちに、民主運動反動闘争としてのつながりというものが、非常に鋭敏に感じたことを記憶しております。
  63. 島田末信

    島田委員 次に反動と目された人々民主化するために最も代表的にとられた手段というもの、また帰国を急ぐため反動と目された分子転向を示した最も代表的なものと申しますか、これを事実に基いて、どういうふうに転向をして行つたか。結局帰国したいがために、反動と目された分子がまず民主化されるためにいろいろとられた手段、その手段のもとに、自分が帰りたいために今度は反動から民主化への転向行つた事実、そういうものをひとつ……。
  64. 吉田幸平

    吉田証人 例をあげれば、私の收容所で、元関東軍司令官高級副官をやつた村上という少佐がいます。この人は士官学校生徒隊長であつた人であります。十三分所におるときに、全員つるし上げカンパ、あるいは経済闘争、人身的な攻撃、そういうものに負けて、いわゆるここに転向声明式というものが行われたのであります。時代流れ世界流れというものを眺め見たときに、今までの日本人民族優越性とか、あるいは八紘一宇考えは間違いであり、やはり歴史の歯車のまわるのを目撃し、新しい民主主義者として出発しなければならない。そこで日本新聞を通じ、あるいはそういつたテキストを読むことにより、あるいはつるし上げ何十回、あるいはそういう精神的、肉体的なこと、あるいは個人的な説得、あるいは消極戰法、あるいは積極戰法、恐喝あるいは誘導等、いろいろな手段がその人自身考えがかえられて、ここに宣誓となつて全員の前に宣誓文を読み上げて転向して行くのだ。それがために、転向した以上は、自分が浮び上るためには、民主主義者として出発するためには、逆に少佐として反動である人たちつるし上げカンパの一線に立つて反動である人たちをたたかなければならない。あるいは参謀であれば、参謀時代にどんなことをしたか、罪状を暴露する。参謀級になりますと、相当いろいろな対ソ攻撃あたりの内幕まで知つておられる人たちは、お互い参謀同士罪状を暴露し合う。かつて聯隊長人たちも、みな罪状の暴露をしてたたき合いをやつておる。高級将校同士がしまいにたたき合つて、かつて参謀であり、聯隊長である人たちがみなデモグラートとしての宣誓をなすとともに、お互いお互いをたたいて行く。そういつた意味証言としては、十三分所では各高級将校、各参謀によつてつくられた関東軍罪悪史というものがここにインタビューして行つたのであります。いわゆる参謀高級将校デモクラートと称する人たちによつてつくられた関東軍罪悪史というものが、ここに編纂されて行つたのであります。もしそういつたものを排撃し、あくまで非転向のままでおるというものには、この民主運動最後過程では、單なるイデオロギー闘争でなくて、現職摘発闘争への形態にかわつております。憲兵警察細菌関係、そういう人たちの軍事的な意味における現職摘発といいますか、罪状摘発イデオロギー闘争がそういうふうな形態にかわつて行くのでありますから、かつてそのポジションにあつた人たちは、自分たちのいわゆるすねの傷を隠すといいますか、そういう意味において、本心でなくてもデモクラートという意味において出発し、ここに一つの証明として関東軍罪悪史、あるいは私自身收容所で言うならば、本田というかつて歩兵連隊長が画がうまかつだので、反動攻撃ために漫画を連続描いて、食堂にはりつけるというような事態が起きて来たのです。
  65. 島田末信

    島田委員 あなたは最後反動分子とみなされたまま、いわゆるスターリン感謝にも加わらず帰国しましたが、そういういわゆる自分の態度を維持したまま帰国が許されたということについて、どうして帰国が許されたかひとつ話してください。
  66. 吉田幸平

    吉田証人 私自身帰国できるということは、当分はだめである。ポツダム宣言捕虜そのものの国際的な何も考えて、やがては帰れるだろう。だがこうしてシベリアに埋れ木になるかもしれない。自分自身としては絶望というか、実際問題としてそう思つておりました。しかし自分世界観までまげてそういうことはしたくない。私自身が去年十二月二十八日に晩飯を食つてつたら、すぐ一時間後に帰国の準備をして出発しろ、集合しろというので、何のことかわからないが、ナホトカ行つてナホトカから帰されるであろうという予想のもとに、全然帰国ということは考えておりませんでした。とにかく行くだけ行け、営門でも名前がピツク・アツプされており、個人所持品を検査して、書いたものは全部取上げられて、とにかく汽車に乗つたのであります。ナホトカ行つても、やはり捕虜生活中いろいろお世話になつたという感謝状が採択されて、署名捺印があつたのでありますが、私たち署名捺印をいたしませんので、ナホトカ收容所長少佐が署名しない者だけ集めて、かつてそういう者を見たことがないから、書くようにと大分強要されたのであります。それでもやめた。それがために、だめだというのであきらめておりました。しかしながらいざとなると名前を呼んでくれましたし、船に乗るときには名前も出ておりましたので、何というか、夢のようでありました。私自身が帰り得たということは、これはやはり国際的情勢というようなものがある意味において動いておつたのではないかと考えております。
  67. 吉武恵市

    ○吉武委員 私は簡單にお尋ねいたしたいのでありますが、あなたは昨日大体向うにおける民主運動の内容についてお話をされまして、わかつておりますが、それはどういうような発展過程でやられたかということを、参考のためにお聞きしたい。あなたが一番最初に言いました入ソしてから帰られますまで昭和二十年九月二十二日に入ソされて、二十五年一月に帰られましたその間で、いわゆる民主教育らしい教育を受けられたのはいつごろからでありますか。入ソせられてからすぐですか、大分たつてからですか。
  68. 吉田幸平

    吉田証人 入ソした四六年の三月ごろから五月でしたか、木村搬文という、全関東軍将兵に告ぐという、あれが出てから特に強くなつたと記憶しております。
  69. 吉武恵市

    ○吉武委員 友の会のでき始めたのはいつごろからですか。
  70. 吉田幸平

    吉田証人 木村搬文というものができて、間もなく友の会というものがつくられたのであります。
  71. 吉武恵市

    ○吉武委員 それができたころには、あなた方の分団は人数はどのくらいだつたのですか。
  72. 吉田幸平

    吉田証人 私自身收容所は七百名くらいだつたのです。
  73. 吉武恵市

    ○吉武委員 一友の会ができて、最初入つてつた者は何人くらいありましたか。
  74. 吉田幸平

    吉田証人 收容所によつて違いますが、私のところでは百名くらいだつたと思います。
  75. 吉武恵市

    ○吉武委員 民主グループというのができたのは、それからどれくらいたつてからですか、友の会から民主グルーブという名前にかわつたのは……。
  76. 吉田幸平

    吉田証人 四七年の夏から秋にかけて、民主グループ名前にかえられたと記憶しております。
  77. 吉武恵市

    ○吉武委員 そのころあなたの分団では、どのぐらいそれにかわつて来ましたか、民主グループに……。
  78. 吉田幸平

    吉田証人 いわゆる自治生活としての友の会には、大体半分くらい参加しておるように記憶しております。
  79. 吉武恵市

    ○吉武委員 反ファシスト委員会というものにかわつたのはいつごろですか。
  80. 吉田幸平

    吉田証人 二十二年八月から……。
  81. 吉武恵市

    ○吉武委員 今の民主グループというのと反ファシスト委員会というのは接近しておりますか。
  82. 吉田幸平

    吉田証人 流れは同じでありますが、名称だけがかわつて行つただけであります。まだ友の会とか、民主グループの間では各人の自由的な発言もありましたが、それ以後において、いわゆる八月以後はプロレタリア的に完全に切りかえられました。
  83. 吉武恵市

    ○吉武委員 それから帰られる昨年の夏から暮れごろまでの間、いわゆる民主グループと反ファシス委員会に属する者は、七百名のうちでどれくらいになりましたか。
  84. 吉田幸平

    吉田証人 それから収容所をずつと動きましたので……。
  85. 吉武恵市

    ○吉武委員 そうですが、ほかの集団へ入りたり何かして……。
  86. 吉田幸平

    吉田証人 そうです。次から次へと他の收容所にかわつております。ほかの收容所は二十二年暮れ以降はほとんど全員参加しております。
  87. 吉武恵市

    ○吉武委員 その全員参加した気持は大体どうですか。いろいろないわゆる圧迫があるとか、差別待遇があるとか、そういうものに耐えかねてということが一つでありましようが、もう一つは、そうしなければ帰れない、いろいろな徳田要請その他日本新聞記事等を見て、どうも民主教育——は共産教育ですが、共産主義的な頭に切りかわらなければ帰れないというので、実は内心そうでもないが入つて行くという傾向が露骨に見えましたか。
  88. 吉田幸平

    吉田証人 露骨に見えました。
  89. 吉武恵市

    ○吉武委員 それで最後まであなた自身は反対をして入らなかつたのですね。
  90. 吉田幸平

    吉田証人 そうです。
  91. 吉武恵市

    ○吉武委員 そういうのは相当おりましたか。
  92. 吉田幸平

    吉田証人 二十三年の三月ムーリーの将校收容所で、日本隊長をめぐる選挙運動が行われて、自治生活の中で大隊長の選抜ができて、反動と目される人から一人、デモクラートと目される人が一人、ここで選挙闘争をやつて、選挙カンパの結果は、五百何名いた将校收容所ですが、二百六十三名のいわゆる反動と目される人が草地という人を選挙して、デモクラートと目される人に、わずか五票か六票の差で反動と目される方が勢力があつてつたのであります。それがためにその選挙をソビエト側は弾圧して無効にしましたが、その当時、二十三年の三月、全地区には大体反動と目されるのは将校收容所あたりはもちろん、一般收容所にも数えるほどしかありませんが、私のいた将校收容所では、二百六十三名というような反動と目される人間がまだ当時おりました。
  93. 吉武恵市

    ○吉武委員 それではもう一点お聞きしたいのですが、昨年の五月ごろから八月ごろまでにかけての間に、今までの向うでの民主教育の中で、特にかわつたような感じを受けられたことはございませんか、著しく様相がかわつたとか、あるいは日本新聞等においても、論調が非常にかわつて来た、そういう何か特異なものはありませんか。
  94. 吉田幸平

    吉田証人 つるし上げカンパ、極左的偏向というものは、日本新聞野坂參三氏の極左的偏向批判というような……。
  95. 吉武恵市

    ○吉武委員 いつごろですか。
  96. 吉田幸平

    吉田証人 メーデーが終つたころで……。
  97. 吉武恵市

    ○吉武委員 昨年の五月ですか。
  98. 吉田幸平

    吉田証人 昨年の五月か六月と思います。これは大きく日本新聞の二面全部に、野坂氏の極左的偏向についてということが出ておりました。いわゆる引きまわし主義だとか、いろいろな最近における行き方、いわゆる極左的偏向に対する注意が非常にこまかく出ておりました。それからその民主運動自体が極左的であるという自己批判のもとに、人をたたくことはまずいというような自己批判というものがここになされて、ある意味における極左的偏向というものは徐行的な傾向をたどりました。
  99. 吉武恵市

    ○吉武委員 わかりました。向うでのそのかわり方と、もう一つは、日本新聞に現われた論調に、日本の内容を知らせる記事が相当出ていたという話でしたが、その記事の中で、昨年の五、六月ごろから夏までの間に、非常にかわつたような記事はごらんになりましたか。たえば、日本でいろいろな事件が起りましたね。それが向うの方ではどういうふうに反映しておりましたか。
  100. 吉田幸平

    吉田証人 労働攻勢という問題で、国鉄を含む産別傘下の労働攻勢というものは、相当濃厚になつて来ているという、労働攻勢の記事。それから三鷹事件、平事件はそのころでなかつたと記憶しておりますが、舞鶴事件あるいは京都事件、そういうような記事が出て、野坂批判というものと関連して、民主主義運動の流れというものは、極左的偏向の愼しみ、いわゆる帰還船の中で船長をつるし上げたとか、そういうことはやはり間違いであるというような、極左的流れというものが、徐行されて来ております。
  101. 吉武恵市

    ○吉武委員 三鷹事件なり平事件というものは、どういうふうに出ましたか。
  102. 吉田幸平

    吉田証人 日本新聞では、労働攻勢の中のある事象として、つまりベースにからみつく問題であるというような、分析的なことが行われておつたように思います。
  103. 梨木作次郎

    梨木委員 あなたの在ソ中の経歴を見ますと収容所を非常にたくさんまわつておられるようでありますが、こういうことは、ほかの抑留者についても、これほどしげしげかわるということが普通あつたのですか。
  104. 吉田幸平

    吉田証人 あまりありません。
  105. 梨木作次郎

    梨木委員 これは非常に異例ですね。
  106. 吉田幸平

    吉田証人 それは收容所の閉鎖とともに動いた場合もありますし、民主運動の対抗部隊としての存在という意味でかわされた場合もあるし、地区閉鎖とともに動いたこともあります。いろいろ動いた実情は、そういつた特異性によつて動いたのであります。
  107. 梨木作次郎

    梨木委員 ソビエトから帰つて来た人々に聞いて見ますと、こういうように点々とかわつた人は、これは普通ではないととだ、おそらくこれは戰犯の容疑を持つている人であるために、こんなにたくさんかわつたのだろう。こういうように言う人があるのですが、あなたは聞かないでおつたかもしれないが、ソビエトの方からは、あなたに戰犯の容疑があるということで点々とかわつたような結果になつたのではありませんか。
  108. 吉田幸平

    吉田証人 もし私自身ソビエトでいう戰犯であるならば、一回ないし二回は取調べが行われなくちやならないと思います。だが私自身は、帰国するまでかつてソビエトの軍事的なMVDから、一回も取調べを受けたことはありません。
  109. 梨木作次郎

    梨木委員 その次にお伺いしますが、この私たちの手元に渡されている文書で「ソ連日本新聞、露骨な思想の強制」という見出しで「スターリンの人間変革の誓文」という題で、三月四日に大阪朝日の夕刊に、これに関する記事を寄稿されたようなことはありますか。
  110. 吉田幸平

    吉田証人 はあ、寄稿しました。
  111. 梨木作次郎

    梨木委員 事務当局に伺いますが、これは証人からお手元へ入手されたものか、それともどういう径路でこの資料が入手されておるのか、これはちよつと入手径路がわからないので、証人に聞く前に聞きたいのですが……。
  112. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これは本人からじやないそうです。新聞記事にあるということを聞いて、こつちで取寄せたものです。
  113. 梨木作次郎

    梨木委員 それでは証人に伺いますが、三月四日の夕刊朝日のあなたのこの寄稿を、あなたはごらんになつているのですね。
  114. 吉田幸平

    吉田証人 見ました。
  115. 梨木作次郎

    梨木委員 この内容は、あなたが寄稿したものと同じものでありますか。
  116. 吉田幸平

    吉田証人 私は実際はもう少し長いものを書きました。
  117. 梨木作次郎

    梨木委員 圧縮してあつても、内容は……。
  118. 吉田幸平

    吉田証人 それは私の客観的な見方です。
  119. 梨木作次郎

    梨木委員 そうすると、これは非常に詳しく日本新聞のことを書いてありますが、まず最初にお伺いしたいのは、この中に書いている事実は、あなたが直接見聞したことなんですか、それとも他人から聞いたことを総合してこういう記事をまとめたのか、これはどうなんですか。
  120. 吉田幸平

    吉田証人 自分で見た新聞社の内容、あるいは実際太平洋の星に使役に行つた場合聞いたこと、見聞事項をみな含んだものであります。
  121. 梨木作次郎

    梨木委員 直接見聞したものもあるし、人から聞いたものもある……。
  122. 吉田幸平

    吉田証人 そうであります。直接日本新聞社の記者から聞いたものもあり、ツリロコフ大尉に会りたこともあります。
  123. 梨木作次郎

    梨木委員 それではお伺いしますが、日本新聞社の中へあなたは入つたことはあるのですか。
  124. 吉田幸平

    吉田証人 日本新聞社には入つたことはありません。外側から……。
  125. 梨木作次郎

    梨木委員 そうすると、この日本新聞社の中に、たとえば輪転機があつたとかいうようなことを書いてありますが、これは人から聞いたことなんですか。
  126. 吉田幸平

    吉田証人 外側からガラス越しに輪転機が動いておるのが見えるのです。
  127. 梨木作次郎

    梨木委員 ガラス越しに輪転機があつたことを見たのですか、間違いないですね。
  128. 吉田幸平

    吉田証人 はい、間違いありません。
  129. 梨木作次郎

    梨木委員 それから新聞社の中へは、抑留されている日本人は自由に出入りできるようになつておりましたか。
  130. 吉田幸平

    吉田証人 できません。二枚の証明書がいります。
  131. 梨木作次郎

    梨木委員 あなたはコバレンコフ中佐には会つたことはありませんか。
  132. 吉田幸平

    吉田証人 コバレンコフ中佐には会つたことはありません。
  133. 梨木作次郎

    梨木委員 その次に伺いますが、この日本新聞の編集機構と題する証人の書いたこの記事の中に、コバレンコフ少佐が大場三平というペンネームで論説を担当しておつたという記事があるが、これは証人がこういう事実をどうして知つたのですか。
  134. 吉田幸平

    吉田証人 これはあくまで私の状況判断であります。
  135. 梨木作次郎

    梨木委員 あなたの判断、あなたの推察ですね。
  136. 吉田幸平

    吉田証人 そうでございます。
  137. 梨木作次郎

    梨木委員 それではその次に伺いますが、六十三名かの人間日本新聞で働いておつた。それから日本人は合計七十名働いておつた、こういうことも書いてありますが、これはあなたは見たのですか。
  138. 吉田幸平

    吉田証人 これは聞いた話です。
  139. 梨木作次郎

    梨木委員 だれから聞きましたか。
  140. 吉田幸平

    吉田証人 まだハバロフスクに残つています。
  141. 梨木作次郎

    梨木委員 何という人ですか。
  142. 吉田幸平

    吉田証人 北野秀男。
  143. 梨木作次郎

    梨木委員 そうすると、それは戰犯ですな。
  144. 吉田幸平

    吉田証人 戰犯じやありません。
  145. 梨木作次郎

    梨木委員 今残つている人々は、われわれの聞いているところでは戰犯容疑者というように伺いますが、北野さんという方は戰犯の容疑者ではありませんか、こう伺つたわけであります。
  146. 吉田幸平

    吉田証人 容疑者ではありません。
  147. 梨木作次郎

    梨木委員 次にお伺いしますが、ここに書いてある編集の責任者が、諸戸文夫のペンネームで知られた淺原基敏、それから記者には新聞行政責任者で四八年末以降日本経済事情、日本共産党動きなどを書いていた東大社研出身の相川某、天皇制打倒のスローガンを掲げるのに反対し、プチブルとして非難され、後帰国した小針延次郎、東大工科卒元工兵大尉で論説担当の宗方肇、日本共産党政治局委員袴田里見の実弟袴田、その他高野、墨田、渡辺、石田の各記者、印刷、植字、文選工ら合計七十名からの日本人がいたという、この事実ですな。たとえば淺原基敏氏が編集責任者であつたということ、こういうふうな事実、今読んだような事実は、これはあなたがどういう経過で知り得たわけですか。
  148. 吉田幸平

    吉田証人 経過と言いますと……。
  149. 梨木作次郎

    梨木委員 あなたは直接この中へ入り込むことはできないから、どうしてこういう事実を知つたのですか。
  150. 吉田幸平

    吉田証人 そういつたことは、收容所日本人で実際日本新聞社に入つた者から聞いたものもありますれば、実際に行つた者もおりますし、聞いておりますし、一人でなくて全部、私個人が知つている問題ではなくて、捕虜の方どなたに聞いていただいても……。
  151. 梨木作次郎

    梨木委員 そうすると、いろいろな人から聞いたことを総合したということになりますね。
  152. 吉田幸平

    吉田証人 そういうことになります。
  153. 梨木作次郎

    梨木委員 あなたが直接見聞したことでない……。
  154. 吉田幸平

    吉田証人 日本新聞にも、日本新聞の記者が必ず自分の書いた記事には自分名前を出しております。
  155. 梨木作次郎

    梨木委員 その次にお伺いしますが、この日本新聞というのはどういう性質の新聞なんですか。これは一番初めに質問がありまして、お答えがあつたようでありますが、ちよつと聞き漏らしたものですから。日本新聞というものはどういう性質の新聞かを、あなたが知つておられる程度のことをおつしやつていただきたい。つまり日本の抑留されている人たちが出しているものか、それともソビエトの方で出しているものなのか、そういうことです。
  156. 吉田幸平

    吉田証人 それは赤軍及び内務省の方から発行しておる新聞だと思います。
  157. 梨木作次郎

    梨木委員 赤軍並びに内務省双方の管轄下にある、こうおつしやるのですが、どうしてそういうことがあなたはわかるのですか。
  158. 吉田幸平

    吉田証人 日本新聞の下に書いてあるドリヤ・ヤポンスコゴ・バエンヌイ・レプンヌイ・エデイツア・フ・エス・エス・エス・エル、ソビエトにおける日本人軍事捕虜ために発行せる新聞ということが、日本新聞と書いた下にロシヤ語でちやんと入つております。そして編集責任者コバレンコフの名前まで入つております。
  159. 梨木作次郎

    梨木委員 日本新聞抑留者一人一人に一枚ずつくらい配付されておつたか。それとも何人に一枚くらいの割合で配付されておつたか……。
  160. 吉田幸平

    吉田証人 年によつてだんだん違つて行きますが、一番多かつた四九年の後半期にかけては、三人に一枚、状況によつては一人に五枚くらいもらうこともありますし、所と場所によつて配付数が違いますが、平均三名から五名くらいに一枚の割当でなかつたかと思います。
  161. 梨木作次郎

    梨木委員 三名から五名くらいに一枚のときは、何年ごろですか。
  162. 吉田幸平

    吉田証人 四八年から四九年ごろです。
  163. 梨木作次郎

    梨木委員 その先はどのくらいでありましたか。
  164. 吉田幸平

    吉田証人 五名から七、八名に一枚くらいの割合じやなかつたかと思います。
  165. 梨木作次郎

    梨木委員 そうするとあなたは、日本新聞の発行部数は約五十万、もつと多いときは八十万というようにおつしやつていますが、それはどういう事情でこういうようなことがわかるわけでありますか。
  166. 吉田幸平

    吉田証人 それはやはり聞いた話を総合判断いたしたわけであります。
  167. 梨木作次郎

    梨木委員 だれから聞きましたか。
  168. 吉田幸平

    吉田証人 みんな話をしております。これは捕虜の人に聞いていただいたならば、大体みんな知つておると思います。あるいは発行部数はもつと少い——三、四十万だという人も、百万を突破しておつたという人もおるし、その人によつて違います。
  169. 梨木作次郎

    梨木委員 今あなたは四八年から四九年は、三人か五人に一枚ずつとおつしやつた。かりにこれを中をとつて四人に一枚としまして八十万としますと三百二十万抑留者がおつたという計算になりますね。
  170. 吉田幸平

    吉田証人 発行部数は、実際にはもつと減る場合があることも考えられます。
  171. 梨木作次郎

    梨木委員 これは聞いた話でありますね。
  172. 吉田幸平

    吉田証人 見たり聞いたりした総合判断であります。
  173. 梨木作次郎

    梨木委員 次にお伺いしますが、スターリンへの誓い、これにはどういうことが書かれてあつたか知つておりますか。
  174. 吉田幸平

    吉田証人 私の読んだ範囲内の記憶では、労働兵士としてああいつた反軍闘争、民衆運動に入つた歴史がちやんと書かれてあつて、祖国ソビエト人間変革を遂げて、日本帰国の上は集団入党し、一人百万人の組織者たること、ソビエトの真実を伝えること、そういうようなことが大きく出ておつたことを記憶しております。
  175. 梨木作次郎

    梨木委員 日本へ帰つたならば、集団入党するというようなことが書かれておりましたか。間違いありませんか。
  176. 吉田幸平

    吉田証人 人間変革を遂げ、スターリンの戰士として、日本へ帰つた後は一人百万入の組織着たること……。
  177. 梨木作次郎

    梨木委員 しかし集団入党するというようなことが書いてありましたか。
  178. 吉田幸平

    吉田証人 集団入党は出ておつたと記憶しております。
  179. 梨木作次郎

    梨木委員 それは聞違いないですね。
  180. 吉田幸平

    吉田証人 記憶しております。
  181. 梨木作次郎

    梨木委員 これはスターリンへの誓いということでありますが、スターリンへの感謝文じやありませんか。
  182. 吉田幸平

    吉田証人 スターリンへの誓いとして私は聞いております。日本新聞にもスターリンへの感謝署名決議文という題の下に、スターリンへの誓いと出ておりました。
  183. 梨木作次郎

    梨木委員 日本新聞にはそう出ておるが、実際に行つたものは、スターリンへ感謝文じやないのですか。日本新聞の見出しはあなたのおつしやる通りかもしれませんが、事実行つたものはあなたごらんになつたのですか。
  184. 吉田幸平

    吉田証人 書いたものを見ました。
  185. 梨木作次郎

    梨木委員 その中にスターリンへの誓いとあつたのですか、感謝文としてあつたのですか。
  186. 吉田幸平

    吉田証人 感謝決議文というような題名になつておりました。そして日本新聞の中には、誓いという言葉が出ておつたことを記憶しております。
  187. 梨木作次郎

    梨木委員 一緒に入ソした人たちの間で、入ソ当時非常に死亡者が多かつた。二百何名とかいるということでありますが、何名でありましたか。
  188. 吉田幸平

    吉田証人 千名入つて二百五十名……。
  189. 梨木作次郎

    梨木委員 その後あなたが帰るような時分には、死亡者はどういう状態にかわりましたか。
  190. 吉田幸平

    吉田証人 作業上のけがで死ぬ者が大分出ました。あるいはまた病気で入院して死んだ者もありますが、入ソした当時のように、あんなに死んで行きませんでした。
  191. 梨木作次郎

    梨木委員 そのパーセンテージは……。
  192. 吉田幸平

    吉田証人 そのパーセンテージははつきりしたことはわかりませんが、そういつた問題に関しては、入ソ当時とは比較になりません。減つて来ております。
  193. 梨木作次郎

    梨木委員 入ソ当時それだけの死亡者があつたのは、終戰前から終戰後の非常に混乱のときにおいて、いろいろな食料事情とか、戰争中のいろいろな過労とか、そういう事情が手伝つて死亡者が多かつたのではありませんか。
  194. 吉田幸平

    吉田証人 入ソするまでの事情が悪かつたから、死ぬのが多かつたのではないかと言われるのですか。
  195. 梨木作次郎

    梨木委員 そういう事情も手伝つておるのではないかと言うのであります。
  196. 吉田幸平

    吉田証人 私自身収容所は、汽車に乗つて行つたのですから、やはり食い物が悪かつたことが大きな問題ではないかと考えます。
  197. 梨木作次郎

    梨木委員 食べ物が少かつたとか悪かつたとかいう点は、ソビエトの兵隊たちと比べてどういう状態でありましたか。
  198. 吉田幸平

    吉田証人 ソビエトの兵隊は穀物なんか食つてつたと記憶します。われわれよりかよかつたと思つております。
  199. 梨木作次郎

    梨木委員 思つていますというので、現実には見なかつたのですか。
  200. 吉田幸平

    吉田証人 現実によいと思います。場所によつでは同じであつたという人もおりましようが、私の収容所では、ソ側の兵隊はわれわれ日本人よりよくありました。
  201. 梨木作次郎

    梨木委員 ほかから聞いた話では、同じような食事状態であつたということも聞いておる……。
  202. 吉田幸平

    吉田証人 それはそういうところもあつたと思います。
  203. 梨木作次郎

    梨木委員 入ソする際に、あなたの方の部隊なら部隊を統卒しておつた最高の責任者ですね。そういう人たちと一緒に入ソしておりますか。それともどういうぐあいになつておりますか。
  204. 吉田幸平

    吉田証人 作業大隊が編成されて、私の連隊は二個大隊が半分にわかれたのであります。大隊長は私の作業の大隊長になつて、編制のまま入つたのであります。
  205. 梨木作次郎

    梨木委員 大隊長も一緒に……。
  206. 吉田幸平

    吉田証人 はあ。中隊長隊長と編制のまま入つたのであります。
  207. 梨木作次郎

    梨木委員 あなたの方の将校は、将校として待遇を受けられておりましたか。
  208. 吉田幸平

    吉田証人 私たちはそういうことを要求しませんでしたが、初めは向う側では、寝るところは別にしなければいけないとか、そういう着意を拂つてくれたこともありますが、私たちはあまりそういうことを強く要求しませんでしたし、向うも強制的にやれとも言いませんでした。そういうことを聞くことは聞いております。
  209. 梨木作次郎

    梨木委員 この将校に対する不満というか反抗といいますか、そういうものが一つの動機になつて反軍闘争といいますか、そういうものが起つておるように聞いておりますが、それはどうですか。
  210. 吉田幸平

    吉田証人 もちろんほかの收容所は将校が非常に悪かつたということはよく聞きますし、現実に将校がピンをはねておるということも聞いておりますが、私の収容所はむしろ将校みずからが死んで行つた人もありますし、私の收容所ではなかつたと信じております。反軍闘争過程で、民主運動の第一條件として反軍闘争が起き始めたのは四六年の……。
  211. 梨木作次郎

    梨木委員 それはよろしゆうございます。ほかではやはり将校がピンをはねたりなんかして、そういうことが直接の動機になつて……。
  212. 吉田幸平

    吉田証人 もちろんそういうこともあるでしよう。
  213. 梨木作次郎

    梨木委員 あると聞いておりますか。
  214. 吉田幸平

    吉田証人 聞いております。
  215. 梨木作次郎

    梨木委員 反動というのは、あなたも前にちよつとお答えになつたようでありますが、簡單に言うと、向うではどういうように理解されておるのですか。
  216. 吉田幸平

    吉田証人 いわゆるボルシエヴイーキ的世界観を持たない人間反動であるという……。
  217. 梨木作次郎

    梨木委員 ボルシエヴイーキ的世界観を持たない人間反動——つまり歴史の歯車を逆に動かそうとする、そういう考え方を持つている者は反動である、そういうふうに理解されておるのですか。
  218. 吉田幸平

    吉田証人 それは何といいますか、一誘導戰術の過程においては、そういうことはわれわれもたくさん聞きましたが、結論を求めるのは、世界観の問題を要求しておるのだと思います。
  219. 梨木作次郎

    梨木委員 あなたは、自分ではおれは反動だと名乗つておられたわけじやないのですね。
  220. 吉田幸平

    吉田証人 そういうわけではありません。
  221. 梨木作次郎

    梨木委員 ほかの人からそう言われておつたわけですね。
  222. 吉田幸平

    吉田証人 そうです。
  223. 梨木作次郎

    梨木委員 そうすると、あなたはいわゆる反動と言われるが、それはつまり依然としてやはり日本の軍国主義的な、以前やつたああいう政策と制度を支持するもののように理解されると思いますが、あなたはそう理解され、また自分もそう信じてそういう態度をとつてつたのですか。それともそうではないのですか、その点を……。
  224. 吉田幸平

    吉田証人 私たち反動と言われる中には、いわゆるミリタリズム的な傾向の濃厚な者もあり、アナーキズムもあり、ニヒリズム、リベラリズムの流れを持つておる人もあります。要するにボルシエヴイーキ的な世界観でない人間現実にいわゆる五箇年計画の作業に参加し得ない、あるいはイデオロギー的にそういう世界観を持たない人、それからほかの自分世界観を持つ人、そういう人は皆反動であります。
  225. 梨木作次郎

    梨木委員 あなたはどの部類に入りますか。
  226. 吉田幸平

    吉田証人 私はそれは必要ないと思います。私自身世界観ですか……。
  227. 梨木作次郎

    梨木委員 あなたは反動という中には、ミリタリズムを支持する人もあれば、ニヒリズムあるいはそれ以外のものもおつた言つたが、その中で私が聞きたいのは、あなたは軍国主義を支持する、あるいは日本の以前の天皇制を支持する、そういう部類に入る反動と理解されても、それを容認するのですか。
  228. 吉田幸平

    吉田証人 私自身は認めません。
  229. 梨木作次郎

    梨木委員 認めませんということはどういうことですか。
  230. 吉田幸平

    吉田証人 私自身別の世界観を持つております。
  231. 梨木作次郎

    梨木委員 あなたは軍国正義や天皇制の支持者じやないのですか。
  232. 吉田幸平

    吉田証人 私自身イデオロギーの問題、私自身世界観の問題あるいは社会観、そういつたものはあくまで個人の自由であり、ここでそういつたことをあなたに述べる必要は認めないと思います。
  233. 梨木作次郎

    梨木委員 あなたは私の問いに対して証言を拒否なさるのですか。
  234. 吉田幸平

    吉田証人 拒否するわけではありませんが、そういう問題を提起されることに関して、私自身証人という立場から……。     〔「そんなことは証言の必要なし」と呼ぶ者あり〕
  235. 梨木作次郎

    梨木委員 私は必要があるから聞いておるのであります。
  236. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 さようなことは証言の範囲と認めません。証言というのは、知つておる事実を言えということで、個人の思想まで強制的に言えということはむりです。言うなら言うてもよいが、言わないものを言わせる、そんなことは認めません。
  237. 梨木作次郎

    梨木委員 私は申し上げますが、この証人が……。
  238. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは証人が答えるならばよいけれども、答えないと言つておる。これは証言の範囲でないから、拒否とは認めない。
  239. 梨木作次郎

    梨木委員 こういうことは関係があるのです。なぜ私がそういうことを聞くかと申しますと、この証人がどういう世界観を持ち、どういう思想傾向の人であるかということを聞くことによつて、この人がきのう以来述べておる陳述の信憑性に重大な関係があるから聞いておるのです。決してむりではない。
  240. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 だから証人が述べるならばいいが、述べないからといつて、それを証言拒否とは認めません。そんなことは証言の範囲でない。     〔「委員長独断だ」と呼ぶ者あり〕
  241. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 証言というものはそんまものじやない。
  242. 梨木作次郎

    梨木委員 きのう以来自由党の諸君の質問は何だ。そういう質問を許しておきながら、私の質問に対して委員長がそういう宣言をするとは何だ。それこそあなた方は、この委員会をまつたく自由党の私物化しようとする証拠じやないか。
  243. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 梨木君、貴下は弁護士じやないか。
  244. 梨木作次郎

    梨木委員 弁護士だから、そういうことはよく知つおるから聞いておるのです。証言の信憑性に関する事項です。
  245. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 本人が述べるならばとめません。述べないからといつて証言拒否とは認めません。
  246. 梨木作次郎

    梨木委員 あなたが断定を下すから証人が述べないのだ。     〔「委員長不信任だ」と呼ぶ者あり〕
  247. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 個人の思想や個人考えをむりに聞く証言というものはありはしない。
  248. 梨木作次郎

    梨木委員 証言の範囲でないと委員長が宣言するのはもつてのほかだ。     〔石田(一)委員「委員長不信任の動議を出した」と呼び、「それじや討論採決しろ」と呼ぶ者あり〕
  249. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは委員長不信任の動議が出ましたから、私は退席いたします。     〔委員長退席、小玉委員長代理着席〕
  250. 小玉治行

    ○小玉委員長代理 それではただいま委員長不信任の動議が提出されましたので、私が指名によりまして委員長としての職務を行います。まず石田君より委員長不信任の動議の趣旨の説明を求めます。
  251. 石田一松

    石田(一)委員 私はただいま提出いたしました本委員会の鍛冶委員長に対する不信任案の動議の提出理由を簡單に御説明申し上げます。昨日来の委員長の本証人を喚問する場合における各委員への発言の順序、並びに昨日私がこの証人に対して質問をいたしました場合に、種々食い違いがあつたことに対して、委員長みずから証人に知識を與え、しかも原口君というこの考査委員会の事務員なんかと会うたでしようというような暗示を與え、証人を常に有利に導こうとしておるかたわら、われわれ野党の発言を極度に制限しようとしております。ただいま梨木君が証言を求めておる途中、証人は共産主義以外の、ミリタリズムとか、あるいはリベラリズムとか、数種の思想体系が反動と目されておつたということを証言したので、この述べられた証人自身は数種の思想の中のどこの体系に属しておるので反動と目されたのかという質問をいたしましたところ、証人はそのことについては自分の思想体系であるし、いかなる思想を持つことも自由であるから、これに答える必要を認めないということを証人が言つたのであります。梨木委員は聞く必要があるから聞くのであると申しましたところ、與党の委員より、それは証言以外だというようなやじが飛びましたところ、委員長はその言葉に乗つて証言の範囲を越えるものであるから、それは答弁しなくてもいいということを言つたのであります。証人が現在持つておる思想関係がどういうものであるかというとを一応われわれ委員が知ることは、証人がなされた証言に対する信憑力の点においても重要だと思います。このことを聞くということが証言を求める範囲外であるなどというに至りましては、これは委員長としての資格は全然なく、また超党派的であるべき本委員会に対して、へんぱなる委員長の発言であると考えるのであります。この点において私はただいま委員長の不信任の動議を提出したものであります。
  252. 小玉治行

    ○小玉委員長代理 本件について討論を許します。西村直己君。
  253. 西村直己

    ○西村(直)委員 私はただいまの石田君の意見には反対でございます。従つて鍛冶委員長の不信任の動議に対して反対の理由を申し上げます。ただいま石田君の意見によりますれば、昨日来の委員長の議事運営はきわめてへんぱであり、あるいは証人に暗示を與えたというような詭弁を弄されたのでありますが、私どもここに列席いたしておりますところの委員の大多数は、そういう事実を絶対に認めておりません。きわめて公正に運営されておる。ことに今日においては、梨木委員の発言も許されております。また昨日は冒頭において緊急動議の形態において、梨木委員は三十分にわたつて大演説を繰返しておるような攻勢ぶりを発揮されております。また石田委員から、特に委員長証言の範囲外であるという独断行為に出たということを言つておられますが、そもそも証人がここにおいて証言をなさることは、議院における宣誓のもとに、証人の陳述義務に基くものであつて、それは憲法に基いておるものであります。憲法第十九條において「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」という基本原則が立つておるのであります。しかも証人は今日思想の点について質問を受けましたときに、あなたは反動と言われたかどうかということに対して、ボルシエヴイーキ的な傾向を有しない者はすべで反動である、従つてその反動は、それ以外にはきわめて広汎な思想の自由に基いていろいろな形態がある。自分はとにかく反動として扱われた。ボルシエヴイーキに参加してないというならば、あとは本人の思想の自由であります。それを侵してはならないという憲法の基本原則を侵して証言を求めるがゆえに、証言の範囲外であると委員長が言われたことは、まつたく正しいと思います。この理由によつて私は反対いたします。
  254. 小玉治行

    ○小玉委員長代理 梨木君。
  255. 梨木作次郎

    梨木委員 私はただいま提出されました委員長不信任の動議に賛成するものであります。その理由といたしましては、直接的にはただいま私が証人に対して質問した事項、これに対して証人はお答えがなかつた。それではあなたは証言を拒否なさるのかということを質問したところが、それに対しましていろいろなやじが飛びまして、そのあげくのはてに委員長は、今の質問は証言事項以外に属するから、答弁は必要がないのだというようなことで、証人証言拒否を容認するような態度をとられたのであります。しかしながら私が証人に聞こうとした点は、証人日本の過去においてとつた軍国主義、あるいは天皇制を支持する立場にあるのかどうかという点を聞いたのでありまして、この点は、こういう態度をとる者がいわゆる反動と言われておる。でありますから、この点についてあなたはどういう立場にあるのかということを聞いた。このことは昨日来証人は、自分反動と言われておつたその立場から、いろいろな証言がなされておるのである。でこの証言は、この委員会において傍聴された方はだれでもがわかつておるように、まつたくの反共、反ソ的な内容を持つたものであることは明白であります。従つてこの供述の真実性というものは、こういう立場からなされた供述というものを信用するかどうか、その人の思想傾向やその立場というものをはつきりさせることによつて、その客観性、真実性というものが明らかになつて来るのであるまして、これは証人証言の信用性を確かめる上におきまして最も重要な関連のある事項でありますから、このことを許さないでは決して証人の陳述から客観的な真実を発見することは不可能であります。だからこれは当然許されなければならないのであります。もしもこういうことが許されないといたしますならば、この委員会というものは明らかに証人証言だけを取上げることによつて、自由党があらかじめ予定したような結論を引出すためのものであると、そういうように言われても弁解の余地がないわけであります。だからして私は諸君がもしもこの委員会からほんとうにたれもが納得するようなそういう結論、そういうような態度、努力をやつておるということを示すためにも、あのようなへんぱな委員長というものはやめることが当然だろうと思うのであります。特に私は第二点として、この委員長不信任の動議の理由といたします点は、昨日この調査の追加要求が議題になつたとき、私が討論のための発言を求めたが、委員長はこの発言を許さなかつた。自由党の諸君にこの調査の追加要求の議題について討論を許しておきながら、反対的な立場にある私のこの追加要求の討論を許さない。それらは一貫して、委員長のきわめてへんぱな態度の現われであることは明白であります。(「関係がない」「やめろ」と呼び、その他発言する者あり)特に、諸君は関連がないなどと言いますが、では昨日からきようにかけての自由党の諸君の質問は何ですか。まつたくの反共的な、反ソ的な、そういう質問ばかりしかやつておらないじやないか。そうしてわれわれが最も事実の真実性を発見するために必要な質問をしたことに対して、それを委員長が許さないというようなことは明らかにへんぱなやり方であります。特に慣例上から言えば、きのうで自由党の諸君の質問は打切られておるにかかわらず、きようになつてまだ質問を許しておる。こういう点もはなはだへんぱであります。以上三つの理由によりまして、この委員長不信任の動議に賛成するものであります。
  256. 篠田弘作

    ○篠田委員 梨木君の発言に関連して、議事進行に対しての緊急動議を提出いたします。国会法によつて呼ばれたところの証人に対して、委員の梨木君が証人を指さして、かくのごとき——ということを言うのは、委員としての権限を逸脱しておるものであつて、要するに証人に対する侮辱であると私は考えます。これを梨木君が取消しをするかしないか。もし取消さなければ懲罰の動議を出します。
  257. 小玉治行

    ○小玉委員長代理 討論は終局いたしました。それではただいまより採決いたします。石田君の委員長不信任の動議に賛成の諸君の起立を願います。     〔賛成者起立〕
  258. 小玉治行

    ○小玉委員長代理 起立少数。よつて不信任の動議は否決されました。     〔石田(一)委員「不信任を表明された委員長自体が採決の席上におるとは何ごとだ。」「ばかなことを言うな」と呼び、その他発言する者あり〕
  259. 小玉治行

    ○小玉委員長代理 それでは本席を委員長と交替いたします。     〔小玉委員長代理退席、委員長着席〕
  260. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 先ほど採決の際に、私はたまたま委員席に坐つておりましたが、表決にには加わつておりませんので、念のためこれを申し上げておきます。それでは篠田君の動議についておはかりいたします。
  261. 篠田弘作

    ○篠田委員 速記録を今調査中でありますから、速記録を調べてからにしますが、国会法によつて宣誓までをさせた証人に対して、一議員がいかに興奮したとはいいながら、また立場が違うとはいいながら、その証人を指さして、かくのごとき——という言葉を使つたということは、本委員会の権威を傷つけるものとして、この問題に対して梨木君に取消しを要求します。もし取消しをしない場合には適当な処置をとります。
  262. 梨木作次郎

    梨木委員 今篠田委員が指摘されたような表現を私は使つたかどうか、よく記憶しておらないのでありますが、もしそういう表現があつたとするならば、これは取消します。
  263. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 なおこれはあらためて申し上げるまでもないことですが、証言を求めるものは、証人が経験したる事実を聞くものであります。意見を聞いたり、思想を聞くことは——聞かれてもいい。また証人が黙つてのべられるなら、これはかまいませんが、述べないものをしいて述べさせたり、述べないからといつて証言拒否にならぬことは、これは法律を知つておる者ならばおわかりと思いますが、あらためてここで申し上げておきます。
  264. 梨木作次郎

    梨木委員 その次にお伺いしますが、徳田書記長から收容所あての何か文書が来た。それでりつぱな闘士となつて帰国され、反動に対しともに闘うことをお待ちしておりますという趣旨の手紙が来たということをあなたは言われましたが、その文章をあなたはごらんになつたかどうか。これは現物ですか。
  265. 吉田幸平

    吉田証人 赤十字社の手紙ではありません。それを書き写し及び転載され、もつと大きく伸ばされた二種類違う文書で見ました。
  266. 梨木作次郎

    梨木委員 そうすると赤十字社の例のはがきではなくて、それから転載された何か文書なんですか。
  267. 吉田幸平

    吉田証人 そうです。
  268. 梨木作次郎

    梨木委員 それを見せられたのですか。
  269. 吉田幸平

    吉田証人 そうです。
  270. 梨木作次郎

    梨木委員 それにはどう書いてありましたか。
  271. 吉田幸平

    吉田証人 手元にお渡ししてあります。それをお読みくださつたらおわかりになると思います。
  272. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなた読んでください。
  273. 吉田幸平

    吉田証人 「お手紙ありがとう。お元気にてソ同盟強化のため邁進され、りつぱな闘士として、帰国され、反動に対しともに闘う日のあるのをお待ちしております。日本共産党徳田書記長」これを読まされ、聞かされ、また現実に出ておるのを見ました。
  274. 梨木作次郎

    梨木委員 たれかが読んだのですか。
  275. 吉田幸平

    吉田証人 そうです。
  276. 梨木作次郎

    梨木委員 それを読んだ場所と時は……。
  277. 吉田幸平

    吉田証人 ハバロフスクの十六分所、去年の九月だつたと思います。
  278. 梨木作次郎

    梨木委員 どういう機会ですか。
  279. 吉田幸平

    吉田証人 点呼のとき。
  280. 梨木作次郎

    梨木委員 それはそうするとはがきじやないのだから、收容所にあてて来たものか、收容所の中にいる捕虜に来たものか、そういう点の詳しいととを……。
  281. 吉田幸平

    吉田証人 はつきりわかりませんが、私自身の推察ですが、日本新聞社に来たのを、日本新聞社が各地区各分所にそういつた言葉を控えさして、收容所でやつたんだと思います。だからあるいはどつかにはそういつた正式な手紙が来ておるものだと思います。
  282. 梨木作次郎

    梨木委員 そうすると、どこへ来たのかしらぬけれども、どこかへ来たものを日本新聞あたりが転載したものだと思うと。
  283. 吉田幸平

    吉田証人 そうです。
  284. 梨木作次郎

    梨木委員 あなたがそう考える。
  285. 吉田幸平

    吉田証人 そうです。現実に消印のある手紙ではないのであります。
  286. 梨木作次郎

    梨木委員 それと昨年の五月ごろ、日本共産党徳田書記長からソビエト同盟の共産党の中央委員会あての引揚げ促進に関する書簡ですね、それを見たとおつしやるのですね。
  287. 吉田幸平

    吉田証人 はあ。
  288. 梨木作次郎

    梨木委員 それだけですね、引揚げ問題について共産党の徳田書記長からの文書というのは、あなたの知つておられるのは。
  289. 吉田幸平

    吉田証人 それからアカハタ転載記事
  290. 梨木作次郎

    梨木委員 というのはどういうのですか。
  291. 吉田幸平

    吉田証人 野坂氏あるいは志賀義雄氏あたりの談話及び帰還者読本あたりのテキストに、日本共産党よりの手紙というのが出ておりましたから……。
  292. 梨木作次郎

    梨木委員 それはいつごろの日本新聞ですか。
  293. 吉田幸平

    吉田証人 去年の夏から秋にかけてでございます。十月、十一月、十二月ころからときどき出たことを記憶しております。
  294. 梨木作次郎

    梨木委員 何号の日本新聞かわかりませんか。
  295. 吉田幸平

    吉田証人 それは覚えておりません。
  296. 梨木作次郎

    梨木委員 その内容の詳しいことも覚えておりませんか。載つたという談話の内容です。
  297. 吉田幸平

    吉田証人 たとえば徳田書記長の談話の中には、いわゆるソビエトは現在上昇過程にある、ソビエト現実を見て、なおソビエトの民主主義というものがわからないのは、気違いかもしくは病人であるという談話で、日本新聞に出ておりました。
  298. 梨木作次郎

    梨木委員 それから野坂さんとか志賀さんのやつは……。
  299. 吉田幸平

    吉田証人 野坂さんのはハバロフスク十八分所で、去年の十一月の初めだつたと思いますが、いわゆる一旦満洲の広野において捨て去つた生命を、新しい革命のためにまた投げ出せというような記事が出ておつた。それから直接帰国問題に関する反動闘争、そういうものは大体その後と記憶しております。
  300. 梨木作次郎

    梨木委員 その次に日本新聞には、日本経済事情の分析に関する記事が出たとおつしやいますが、その内容を、覚えておられる点を、簡單でけつこうですが、おつしやつてください。
  301. 吉田幸平

    吉田証人 きのうも少し簡單述べましたが、目に映ずる事象、そういつたものをとらえて書いてあつたように記憶しております。
  302. 梨木作次郎

    梨木委員 あなたは帰つて来られまして、まだ就職されておらないとおつしやつたね。
  303. 吉田幸平

    吉田証人 はあ。
  304. 梨木作次郎

    梨木委員 就職の見込みはどうですか、あてがありますか。
  305. 吉田幸平

    吉田証人 今のところわかりません。これからです。だがそういつた就職の問題は、個人的な問題ですから……。
  306. 梨木作次郎

    梨木委員 あなたは帰つて来られましてから、引揚者の方々の生活事情、どういうような生活をしておられるか、たとえば就職状況あるいは住宅の問題、これらについて知つておられることを——引揚者が内地引揚げて来られた後における生活事情で、あなたの知つておられる範囲のことを……。
  307. 吉田幸平

    吉田証人 就職に関してですか。
  308. 梨木作次郎

    梨木委員 職は與えられておるか、住宅の事情はどうなつておるか。
  309. 吉田幸平

    吉田証人 就職に関して、あるいは引揚者の就職状況に関しては、現実に一人々々に当つて調べたこともありませんし、帰還者に会うことそれ自体が私は数えるほどしかありませんから、直接帰還者がどういう就職状況にあるか、あるいはどの方面にいるか、そういうことに関してははつきり調べておりません。
  310. 梨木作次郎

    梨木委員 内地新聞を帰つてごらんになつておるでしよう。その新聞を通じておわかりになりませんか。
  311. 吉田幸平

    吉田証人 非常に就職難であるということがわかります。
  312. 梨木作次郎

    梨木委員 けつこうです。
  313. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 西村直己君。
  314. 西村直己

    ○西村(直)委員 簡單に要点だけ御質問いたします。証人は井上清というアクチーヴを御存じでありますか。
  315. 吉田幸平

    吉田証人 知つております。
  316. 西村直己

    ○西村(直)委員 それはスターリンへの誓いと称せられておるものに対して何か非常に功績があつたか、あるいは刺繍をやつたり……。アクチーブとしての活動を述べていただきたい。
  317. 吉田幸平

    吉田証人 井上清というのは、ハバロフスク二十一分所で彼はいわゆるインチンダントの補助者として被服工場、被服倉庫、修理工場、そういつた面の担当者でありまして、彼は東京のたしか城東区か江東区の人ですが、入隊前に刺繍工をしておつた人で、スターリンへの誓いに関して刺繍工として——スターリンへの誓いの感謝決議文は二十六メートルの長さのもので、いわゆる民主運動の歴史の流れ、そういつたものを中川というのがつくつたのでありますが、それに対する刺繍工として六名ばかり選抜されて、いわゆる前職関係がないという理由で日本新聞社の中に入ることができたのであります。たしかに刺繍工が二人、とにかく刺繍関係に携わつた人が五人おるわけです。その人はやはりMVDの証明書及び赤軍の証明書を持つて日本新聞社に出入りし、なおスターリンへの決議文に献身的な刺繍をやつたのであります。その結果、日本新聞社の方からその労働に対する感謝といいますか、そういう意味において、こんな大きな懐中時計をかれはもらつております。五名もらつております。その中の一人です。彼はその時計を持つて今度帰国しました。
  318. 西村直己

    ○西村(直)委員 これはあなたが直接聞いたのか、あるいは井上清という男はあなたとは常時近いところにおつたか、その状況はどうですか。
  319. 吉田幸平

    吉田証人 ハバロフスクにいるときには、彼はいわゆるアクチーヴとして、またそういつた工場の責任者として動いておりましたが、私どもは反動と言われたために、彼と直接話をしたことはありませんが、ナホトカにおいてかれの横にずつと寝ておりました。彼が時計をもらつたこと、及び民主アクチーヴとしてどういう活動をしたかを、彼からいろいろお話を聞きました。
  320. 西村直己

    ○西村(直)委員 問題が少しかわりますが、私が手に入れました帰還者の手紙を読みますから、証人は同じハバロフスクにおりまして、同じような事態があつたかどうか、聞かしてもらいたいと思う。        国立甲府病院内            渡邊市太郎   拝復昨朝ハガキ拝見いたしました。引揚者問題に対し、御努力下さつて居る事心より感謝いたします。小生もこの問題に関し、出来るだけの努力をいたすつもりでおります。ここに抑留生活の一端をお知らせいたします。昭和二十二年二月頃十九地区——ライハワー、アクチーヴ徳田書記長よりの手紙に「現在真の民主主義者反動の帰るのを欲して居らない故に真の共産主義者となり帰国する様に」とあつた。それは自分も見、又時のアクチーヴが中西——埼玉県出身者と思う——と石母田——出身地不詳——内地実状報告会に於て発表してくれた。   同二十二年八月ハバロフスク五分所で分所長——ソ連——との「質疑応答の夕」の席上、日本人の矢吹という男が質問して、   矢吹「吾々は何時帰れるか」   分所長「真のミニストになり、ソ同盟強化のラボーター作業——に精進する様に、その様にした時初めて帰国が許される、しかし今帰国させたくても、米日反動が船を送らない」   矢吹「これだけの大きな国では米日反動が船を送らない時はソ同盟より船を出してくれたらどうか」   分所長答えて曰く「ソ連は如何なる国とも條約で定めた事は実行する。したがつて船は米国で送る事になつて居るからソ連は出さない。だから真のコミニストになる様努力しておれ。それを徳田書記長も待つておるし、日本の真のコミニストもそれを切に望んで居る。真のコミニストになり、ハラシオボクー、——良く働く人——になり一日も早く帰る様に努力しろ」   昭和二十三年八月三十日、ハバロフスク八分所においての事は新聞に投書の通りです。   以上これにいてわれわれが抑留生活中にいかにソ同盟を強化せよと云われ、強制労働させられたか、又一椀のおカユ、一片のパンで病弱体に労働を強いられたかは、必要とあらば抑留生活中の事を詳しくお話に参上いたしてもよろしうございます。昭和二十三年一月ハバロフスクにおいて、抑留者收容所の火災の際、一瞬に日本人百十九名独乙人一名が死亡した事件等もありました。   自分は幸い病気全快し、本日二十九日一応退院いたします。転出先は、長野県諏訪郡下諏訪町久保、溝上源市方です。   在抑同胞を一日も早く帰国できますことなら貴殿の元に参上はもちろん、如何なる事にも協力いたすものです。          敬具   追伸、火災の際百十九名の死亡は、山梨県世話課に小生昨年八月帰国の際、ただちに届出あり、またハバロフスクにおいて死亡者の埋葬(穴掘り、墓標立て)等に立会つております。  これらにつきまして、いわゆる徳田という人からこういうようなことを言つて来たことは、大体あなたの断片的な証言でわかつておりますが、ハバロフスクにおいてこういう火災があつて日本人百十九名が燒けたかどうかということについて聞きたい。
  321. 吉田幸平

    吉田証人 それはハバロフスクの第五分所という收容所です。現実にその火事は目撃しておりませんが、聞いた話では、中が燃えて兵隊が外へ出た。命令で装具を取出せというので、中に取りに入つた。そのときに屋根が上から落ちて百十何名か死んだ事実はあります。それから各收容所における火災予防に関しての命令が地区司令から出ております。それに対する防火用水とか、防火用の設備、それから火災予防演習を毎週何回やれとか、そういつたきびしい火災予防に対する命令が出て、火災予防監視班とか、消防班、そういつた編制が行われ、消防隊の編制も行われ、しばしば火災予防演習もあり、現実に百十名というたくさんな人が死んだ事実はあります。
  322. 西村直己

    ○西村(直)委員 今の文書はいずれ委員長まで参考にお届けいたします。なおいま一つ証人にお伺いしたいのは、証人は岐阜市出身でございますね。
  323. 吉田幸平

    吉田証人 はあ。
  324. 西村直己

    ○西村(直)委員 岐阜に東海新聞というのがありますか。
  325. 吉田幸平

    吉田証人 あります。
  326. 西村直己

    ○西村(直)委員 それを見ますと、徳国要請はなかつたという、反対のための署名運動が行われておるように聞いております。その内容は、共産党岐阜県地区委員会だと思いますが、タイプに打つたか何かの文書で、在ソ中收容所においては、日常生活というものは差別待遇は絶対になかつたということが第一点。反動なるがゆえに帰国が遅れたことはない。それから收容所が閉鎖された場合は必ず帰国させた。こういう声明書に署名してくれと言うて、共産党の地区委員会の諸君がまわつて歩いておるということを報道しておりますが、あなたはそういうことをお聞きになりましたか、あるいはごらんになつたか、あるいはあなたのところにおいでになつたか、この点をお聞きしておきたい。
  327. 吉田幸平

    吉田証人 はつきり日にちは今わかりませんが、二十四、五、六日の間に、タイプに打つたものに声明書として、いわゆる高砂丸引揚者久保田何とかに応ずる徳田問題に端を発した、この徳田要請問題というものに関して、われわれ引揚者は、ソビエトにおいて思想、見解というものの差はあれ、日常生活に差別待遇は受けなかつたということと、それから反動なるがゆえに帰さなかつたということは、現実反動がこうして帰つておるではないかということ、それから地区が閉鎖された場合には、地区には全然管理局もなくなるのであつて、その地区を閉鎖するとともにそれを残したということはあり得ない。ソビエトとしては捕虜に対するそういう取扱いをしなかつたということについて、あなたは引揚者の名においてこれに賛意を表され得るか、いなかということを求められました。いわゆる声明書と書いて、これは私の目で見、私は言われたのであり、タイプで打つた記事であり、その下には縦に住所氏名、そういうものが入つて、引揚者の名前がたしか十七、八名か、十名ぐらい書いてあつたと思います。そういうことに関して私は、あくまでもソビエトにおいては、ある意味において意見を異にし……(「なれ合い質問だよ」と呼ぶ者あり)こういう問題があるので、私は署名しないというので断つて来ましたが、あなたは感情的にものをそう解釈されるのは間違いじやないかということを言われまして、署名を求められましたが、あくまでも私はそれを断りました。それは声明書と出ておつたと記憶しております。
  328. 西村直己

    ○西村(直)委員 それは單なる団体ですか。それとも岐阜県の地区委員会という名前がはつきり出ているのですか。来た人はだれでありますか。
  329. 吉田幸平

    吉田証人 名前は忘れたのですが、めがねをかけた人です。
  330. 西村直己

    ○西村(直)委員 文書は……。
  331. 吉田幸平

    吉田証人 文書は、岐阜県共産党何とか支部と終りにありました。
  332. 篠田弘作

    ○篠田委員 先ほど参謀や、あるいは聯隊長のような戰争の中心的役割を演じた人も、向うの圧迫にたえかねて偽装的な、言いかえれば転両者となつてソビエト的な民主主義者になつて、かつての友だちをあばき、これをつるし上げたというようなことを言われましたが、あなたは数回にわたつて帰国を拒否されたにもかかわらず、自分の信念を通して来られたということは、まことに見上げた態度だと思いますが、そのときになぜそういう態度を終始一貫あなたがおとりになつたかという問題についての先ほどのあなたのお答えの中で、実際と理論が非常に違うと言われたと思います。その実際と理論という意味は、実際においてソビエトのあなた方の生活の中に、あるいは民衆の生活の中に、公平というもの、平等というもの、あるいは自由というものがないという点から出発しておられるのか。あるいはまたこれはあなたの思想を聞く意味ではありませんけれども、あなたの持つておる世界観、あるいは唯物弁証法とか、唯物史観であるとかいうような唯物論との間に、そういうものだけでは解決しないという何かあなたの観点に立たれたのか。その点をひとつお聞きいたします。
  333. 吉田幸平

    吉田証人 それもあくまで私の見た事実だけを披瀝しておきます。ソビエトのスターリン憲法には、自由及び言論の自由、結社、出版といつたものの自由が明記されておりますが、私たちの目に映る囚人が非常に多いということであります。聞いた話では、人口一億八千万のうちの約一割五分から一割七分くらい、千七、八百万は囚人であり、シベリヤの極東に送られております。現実に囚人列車、有蓋貨車に鉄條網をひつぱつて、照明燈を照らして機関銃がすわつた囚人列車が何十両となく、極東へ極東へと行くの私たちも目撃しましたが、そうした囚人とある場合に話すと、そういつた人たちは、スターリンのソビエトを誹謗し批判して、われわれに訴えるのであります。スターリンの憲法には非常に自由と書いてあるが、おれはかつてカザン大学におつたときに、日本語科に籍を置いたけれども、日本の国家機構の批判をやつたところ、それがたまたま日本的資本主義の傾向があるというので、流されて行くのだということを、カザン大学の学生に聞いたことがありますが、そういう意味から、私自身の観察では、囚人のほとんど八〇%が政治犯であり思想犯ではないかというところから、いわゆるスターリン憲法で唱える自由と、囚人の考えた自由と違うのではないか。これは一つの事例を出したのであります。
  334. 篠田弘作

    ○篠田委員 それから帰国をしたい一心からにせ転両者になつた人と、実際に転向して共産主義者になつておる人があると思いますが、その区別はあなた方にはつきりいたしますか。
  335. 吉田幸平

    吉田証人 それはわかります。この人は同じ赤旗を振つてつるし上げをやりますが、陰にまわつて済まぬとあやまりに来る人があるのであります。
  336. 篠田弘作

    ○篠田委員 野球の水原君は向うにいるときは、アクチーヴであつたという話でありますが、もちろんこれは偽装転両者であつたことはよくわかりますが、水原君はやはり向うにおるときには、つるし上げとか、あるいはそういうような実際行動に出たことがありませんか。
  337. 吉田幸平

    吉田証人 私は水原とは同じ收容所にいたことがないから、現実において彼の生活を話すことはできませんが、彼は私どもの兵団の下士官であつたことは知つております。入ソする前からも入ソしてからも、同じ收容所におつたのでないから知りませんが、やはり日本新聞を通じて、日本新聞があれだけ彼を大きくたたかなければならないということは、シベリアにおいて相当のポジションにあつた、いわゆるアクチーヴであつたということは現実に予想されるのであります。たとえば彼が舞鶴に上つて反動になつた日本新聞には……。だがしかしながらいわゆるスポーツ・マンとして、ある意味において日本の人気者としての存在というものが、大きく作用したんだと思います。
  338. 篠田弘作

    ○篠田委員 それから日本新聞その他の宣伝機関におきまして、日本の社会情勢あるいは経済情勢というものが非常に悪化し混乱しているというようなことは、もちろん十分に宣伝されていると思いますが、またそういう部面もあつたのでありますが、そういう問題について、その新聞に宣伝されている通りに、あなたなりあるいは他の者が信用しておつたか。あるいはそれを非常に割引いて考えておつたか。そういう面は收容所によつて異なると思いますが、あなたのおつた收容所ではどういう傾向を持つておりましたか。
  339. 吉田幸平

    吉田証人 日本の経済事情に対するみんなの見方でございますか——日本新聞では非常に戰後日本糧秣、要するに食物の状態が非常に悪化して、現在餓死者が続出の傾向にあるということを、われわれも聞いて知つております。戰争に敗れ去つた日本は完全に糧秣的に苦しくて、いわゆる徹底した悲惨な生活、これこそ軍閥の残して行つた副産物である、現実にわれわれが経験するものであるといつて、いわゆる軍閥へのアジテーシヨンとしては、日本の経済事情に対して猛烈に書かれたことを記憶しております。
  340. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうじやない。それに対してあなたはその通りだと思つたか、それほどでないと思つたかということです。
  341. 吉田幸平

    吉田証人 ある意味においては、日本新聞をまともに信ずるわけに行かなかつたのでありますが、状況判断としては、相当深刻化してはおる。だがしかし、現実に米七千万石というものができ得るやいなや。あるいは現実にあの日本新聞では、二十二年あたり六千五百万石という発表が出ておりますが、何とか切り抜け得るのじやないか。米一升の値段が三百何円から二百何円に下りつつある傾向も見えましたので、日本新聞の書いている以上に悲惨なものではないだろうという予想をしておりました。ある面においては、日本新聞に出てない面においては、もつと苦しい状態もあるであろう。だがそういつた面においては、切り抜け得るのじやないかというような予想をしておりました。
  342. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ようございますね。——横田甚太郎君。
  343. 横田甚太郎

    ○横田委員 戰い終つて五年、自由党がお手盛りにおつくりになつた反共教室のような考査委員会で、反共の闘士そつくりの証人に質問……(「よけいなことを言うな」その他発言する者あり)よけいなことじやない。第一は証人証言の真実性を疑うのであります。その一点は、きのうからの証人証言を聞いておりますと、証人の声はまるで         —————
  344. 横田甚太郎

    ○横田委員 戰い終つて五年、自由党がお手盛りにおつくりになつた反共教室のような考査委員会で、反共の闘士そつくりの証人に質問……(「よけいなことを言うな」その他発言する者あり)よけいなことじやない。第一は証人証言の真実性を疑うのであります。その一点は、きのうからの証人証言を聞いておりますと、証人の声はまるで自由党の応援弁士そつくり……(「何を言うか」その他発言する者あり)だからここで問題になつて来るのは……(「それが質問か」と呼ぶ者あり)ああ、質問だよ。(「そんな質問があるか」その他発言する者あり)たとえばここに文書がある。この文書は日本新聞の編集機構というのが書かれているのであります。(発言する者あり)おれはそこへ行つてやるよ。——ここでやるよ。(「やめろ」その他発言する者あり)
  345. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 事実を聞いてください。そんな主張はいいから、事実を聞いてください。(発言する者あり)
  346. 横田甚太郎

    ○横田委員 きのうから何だい……(「自分の席でやれ」その他発言する者あり)自席でやるから、委員長、静粛にするね。
  347. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 質問をしてもらわぬと、前置きが長いからそういうことになる。     〔発言する者多し〕
  348. 横田甚太郎

    ○横田委員 きのうから何だい。     〔発言する者多し〕
  349. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 静粛に……。静粛に……(発言する者あり)静粛に……。
  350. 横田甚太郎

    ○横田委員 第一に、日本新聞の編集機構のことでありますが、吉田幸吉氏手記として書かれている。これは大阪朝日新聞の三月四日の夕刊に所載されている。そのうちに、日本新聞の機構のことが書かれているのですが、この新聞の社長ということが書かれているのです。この点についてわれわれは疑いを持つのですが、ソビエト新聞について、社長というものがないのに、社長と書かれるようなソ連に対する認識。それから一ページめくりますと、終りに、四七年後半に入ると、天皇制をめぐつて論議が表面化している。四七年後半と言えば、私は六月以降のように思うのですが、そこにコバレンコフ氏は四七年四月に帰つているように、私は参議院の証言で思いますが、この点においてこのように証言自身に非常な食い違いがある。真実性をわれわれが疑わざるを得ないようなことが多々あるのですが、この点に対するお考えは一体どうでしようか。
  351. 吉田幸平

    吉田証人 コバレンコフは四月に帰つておりますか。
  352. 横田甚太郎

    ○横田委員 私は帰つているように思うのですが、帰つていませんか。
  353. 吉田幸平

    吉田証人 私は八月、全議長会議においてコバレンコフがやはり破れて、そうしてその暮れに帰つたということを聞いております。それからもし社長という言葉が、ソ連の機構に関して間違つた見解であるというならば、私は言葉の誤りですから、訂正しておきます。
  354. 横田甚太郎

    ○横田委員 それからきのうから聞いておりますと、非常にお気の毒に思うのは、ぼたもちの話とか、日本の米の話とか、日本の思い出を語られるということは、日本から行つている人たちは早く帰りたいと思うので、その声だけでも一つのスローガンとなりまして、みんなが寄つて来ると思うのです。ところが寄つて来ないで、そういうこと自体が常に反動的と思われるようになつて来た。一例をあげてみますと、あなたはお入りになつたときに大尉でしよう。入られた方には上等兵、一等兵、もつと下の人もおつたですね。戰争時代からこの人たちはあなた方をかたきとしておつた。しかし戰争中においては犬馬の労を誓つて、あなた方の靴をみがき、食物もあなた方に持つて行く。こういう部下であつた。それがどういう過程において、早く帰りたいと思う人たちが、お前たち反動だ。こう言うような気分になつて行つたのですか、それを伺いたい。
  355. 吉田幸平

    吉田証人 それは民主運動流れの中で、一番大きく問題として考えられなければいけない問題であつて、四七年の八月ごろまでには、まだそういうことを語ることができたのであります。まだ各人の自由の発言というか、それがお互いにできたのでありますが、いわゆる全議長会議、そういつたものから、そういう理論の説得の時期から、カンパの時期に切りかえられています。いわゆる二十二年暮れの年末カンパにおいて、かつての旧将校から、初年兵のときに私的制裁を受けた、それが逆の立場で、兵隊から将校が床なめとか、便所掃除とかをさせられて、完全に收容所というものの機構が切りかえられて、急にそういつたものが見えて来たのであります。それと同時に、この下部組織の細胞組織がちやんと確立されて来て、各人の発言、それからミーチングなら、ミーチングというものまで、統計をとる收容所まであつて考えていないことも発言しなければならないという人も出て来ておつたように、私は記憶しております。特に全員ハバロフスクの議長会議、及びコバレンコフ、淺原の日本新聞時代に、天皇制打倒、人民政府樹立というスローガンには、非常に反対があつたそうです。たとえば編集部自体でスローガンを発表しても、印刷工、文選工がなかなか活字を組まなかつた日本新聞時代においてもそれがなかなかもめた時代があつた。それを民主運動流れというものが、各地方にカンパを指導して歩いた。日本新聞の方からカンパのひな型を各地方に普及して、また将校をつるし上げるにはこういうふうにやれ、ひより見にはこういうふうにやつてやれという、いわゆるつるし上げカンパを指導して歩いた。それで完全に下部組織の確立によつてお互いお互いを警戒するというか、にらみ合うというか、そういうものに切りかえられて行つた。それがために、ぼたもちを考えることは、全然退嬰的な考えである、青年はすべからくこのことのために全能力をあげなければいけないというふうに切りかえられて、ここで客観的に眺めて、思想の流れ、民衆の形態というものが、非常に急激な上昇の形を示して行つた。そういうふうにしてカンパと、理論的なものも相当高度に広範囲にやられていますから、そういうふうに完全に切りかえられた人と、切りかえられないけれども、ひとまずそういつたものに入らなければいけないという人が出て来ている。具体的な話は長くなりますから、それでわかると思います。
  356. 篠田弘作

    ○篠田委員 ただいま横田委員の発言中に、証人証言——————であるとか、あるいは—————————     ————————————— というような、想像によるところの発言がありました。これは証人を侮辱し、同僚議員を誹謗するものでありまして、ひいては本委員会の神聖を傷つけるものであると考えますから、取消しを要求いたします。取消しを承認しない場合には、しかるべき処置をとつていただきたい。
  357. 横田甚太郎

    ○横田委員 篠田君は懲罰動議を出すと言うならば、もつと冷静な頭で判断して出してもらいたい。これはたとえば、真実性云々の点においては、もしいけなかつたら、もう少し何とかしましよう。しかし私の言葉の中に、あなたは—————————————————ということを言われたが、そのことは速記録を調べてもらいたい。そのことを基礎にして、私がそれを言うたから懲罰に付するとは何だ。あなた自身こそ懲罰に付さるべきだ。
  358. 篠田弘作

    ○篠田委員 懲罰動議を私は出しておりません。私は横田委員の発言の中に、証人を侮辱し、同僚議員を誹謗するものがあるから、取消しを要求しているのであります。懲罰を今のところ要求しておりません。
  359. 横田甚太郎

    ○横田委員 それは速記を翻訳してもらつて、私が———————————         ————— そんなことを言つたかどうか、調べてもらいましよう。
  360. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ——の点は取消すそうです。そのほかの点は調べまして、不穏当な点があれば、あとで速記録を調べた上で……(発言する者多し)
  361. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 ただいま篠田君から、要するに発言の取消し方を要求されたのに対して、横田君のは正式な発言じやないのです。委員長のところへ出て来て、かつてな発言をするということは不規則発言です。しかもそれを委員長が取消すそうですなどと言う。取消しは嚴正なものでなければならない。個人から取消すなら、それでまた篠田君も了承するでしようから、そういうふうに議事の運行を整然とやつてもらいたい。それを私は要望する。     〔「賛成」と呼ぶ者あり〕
  362. 横田甚太郎

    ○横田委員 それでは——云々の点は取消しましよう。そのかわり篠田君が私を誹謗したことがありますから、それをお調べになつて、もしその事実がありましたら、取消しを要求いたします。
  363. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは、あとの点は速記録を調べて、その上でしかるべくやりましよう。
  364. 横田甚太郎

    ○横田委員 今の証言を聞いておりますと、日本人であつて異国に行つた人たちが、二つに割れたということは非常にお気の毒だと思うのであります。その二つに割れたということは、皆さんがお入りになつたとき、いわゆる捕虜が輸送されたときに、もう二つに割れておつたのですか。旧軍隊機構そのままを向うへ持つて行つて、その軍隊機構であなた方を管理しようとしたのですか。その点を承りたい。
  365. 吉田幸平

    吉田証人 やはりこの民主運動の中で、かつての天皇制軍隊の機構といいますか、そういうものはだめだということを言つてまず将校を離し、兵隊を收容所に入れかえて、まず昔の機構をみな捨てたのであります。それから反軍闘争を開始したのであります。
  366. 横田甚太郎

    ○横田委員 将校であられるところのあなたは、たとえば中隊長であつても大隊長であつても、一定数の日本の兵隊を預かつておられた方だと思うのであります。そういたしますと、あなたたちはその人たちの出征に際しましては、身命までを天皇陛下から預かつておられたと思うのであります。お入りになりましてからでも、やはり戰陣訓に貫かれたりつぱな将校でありまして、あなたの身がどうなろうとも、まず部下を帰してやりたいという運動をされたのでありますか。もしそれに対する運動があつて、その運動がいけないというのなら別ですが、そういう運動をしないところの将校に対しては、これはいかぬというような部下の怒りの声が出たということはないでしようか。
  367. 吉田幸平

    吉田証人 多分、收容所によつては出たところもあると思います。私の收容所では記憶しておりません。
  368. 横田甚太郎

    ○横田委員 そうすると、その将校なる人は敢闘の精神に燃えて、身を鴻毛の軽きに置き、一身をなげうつて自分の身はどうなつてもいいと、部下をかばわねばならないところの精神に貫かれていたところの帝国軍人だつたのですね。その方が部下を思うために、将校の收容所におきまして、どういうように部下を帰してやるという行動をあなた方はおとりになつたか、そのことを承りたい。
  369. 吉田幸平

    吉田証人 私自身は、初め昔の機構のまま入つたのでありますが、途中から将校收容所に、いわゆる懲罰收容所というところへ追い出されたので、ここには全然私としては部下はなく、あくまで個としての存在しかありませんでしたが、ある收容所では、兵隊のために現場監督をたたき切つて自分で腹を切つて死んだ将校も知つておりますし、あるいはロシヤ人を切つて——その当時私たちは武装解除で刀までとられましたが、ある收容所では、将校の刀を兵隊にも許して持つたところもあります。一地区では作業場で、苛酷な労働の末に、将校が刀で現場監督をたたき切つて自殺した者もおりますし、あるいはチタ地区では、やはりそういう将校が、作業場で部下のためにたたき切つて自殺した将校も聞いております。当時の状態としては、私自身としては帰国ため云々という前提の起きる前に、すでに将校收容所に出されましたから、その民主運動と部下の人たちとの関係ということに関しては、あまり密接なものは持つておりません。個としての民主運動をやつておりました。
  370. 横田甚太郎

    ○横田委員 反動派に対するいわゆる民主派と申しますか、言葉に語弊があつたら、あなたは適当にしてください。いわゆる反動派に対する民主派なるものは、たとえばあなたの言葉を聞いておりますと、あなた方にはこうりやんを食わす、しらみのついた着物を着せる、頭も刈らない、風呂に入れない、こういうような悪いことばかりやつてつて日本の国に帰らすということをやらなかつたのですか。この点をひとつ承りたい。
  371. 吉田幸平

    吉田証人 反動闘争ばかりやつて帰国運動をやらなかつたと言うのですか。結局われわれに対しては、帰国反対運動というものが展開されたわけです。かれら自身——早く帰らすというのはあくまでソビエト側が申すことでありますから、日本人として早く帰してくれということは言いつこない。言つたつて向うは命令で動くのだから、命令が出た場合に、反動に対する帰国反対決議文というものを書いて、全員署名捺印の上で大きな反対決議文を食堂にぶち下げて、そうしてなおかつ政治局なり何なりに言つて創られたのが私たちなのであります。かれら自身帰国促進運動などが展開されたことは記憶しておりません。
  372. 横田甚太郎

    ○横田委員 次の点は、いやであつたらお答え願わなくてもいいのですが、たとえばあなたが満洲におられたとき、そこで一部の部下を持つておられた。それをソビエトの軍隊に直接渡さなければならない理由が私にはわからないのです。日本のいわゆる戰争理論によりますと、みんな生きて帰つてはいけないようになつておるのですね。それをそのまま渡さなくちやならないようになつたところのものは、あなたの判断でなしに、上からの命令で自然にそういうふうになつたのですか。
  373. 吉田幸平

    吉田証人 あくまで命令によつて動いたこと以外にありません。
  374. 横田甚太郎

    ○横田委員 それからいわゆる民主派なるものは、あなたにいろいろな物的あるいは精神的な威圧を加えたと言つておりますね。そういつた意味合いにおいて、たとえば炊事当番の連中が、あなたに渡さなければならないところのパンとか、あるいはそれ以外の食物を削つてつた、こういうような意味合いは、ソビエト政府が捕虜全体に渡すところの量が足りなかつたのですか。足りないから、あなた方の分を減らせばほかが飽食暖衣する。あるいはそうでない、足りないからそういうふうにやつたのですか。それとも十分な量はあつたけれども、何か刑罰的な意味でやつたのですか。
  375. 吉田幸平

    吉田証人 ソビエト側としては、何名に対する何ぼという国家ノルマはきめておりますから、それをはかつて出しております。国家ノルマは第一から第九表まであつて、労働に従事する人とか、あるいは重労働で苦労する人とか、そういうふうないろいろなかつこうがあります。将校給與とか、将官給與というノルマがありますが、向うは一応トータルの上では渡します。そうして日本人の炊事係、炊事班長に渡します。それはしかし、現実反動闘争という民主運動の基底は、憎しみとうものがなくては民主主義ではない、反動を倒さずして民主主義はないというスローガンですから、何か反動闘争をやつておらぬと、自分自身反動つるし上げられます。だから反動運動の闘争をやらないといけないことになります。
  376. 横田甚太郎

    ○横田委員 あと小さい質問になつて済まないのですが、その民主化運動というものは、われわれ日本考えますと、公平にやらねばならぬ。日本共産党なんかは摘発をやつているのです。共産党の宣伝をやるとやかましいから言いませんけれども、ソビエトにおきましては、入つて行つた軍隊が民主化の報告をでつち上げるために、あなた方に当然ソ連から支給しておるものも食わさずに、削つてつたということが民主化の実績を上げたことである、そういう民主化運動をそういう人はやつてつたのですか。
  377. 吉田幸平

    吉田証人 そういうことをやつてつた事実はあります。
  378. 横田甚太郎

    ○横田委員 そうすると、そういうふらちなことをやつた民主化運動の責任者をあなたは御存じですか。
  379. 吉田幸平

    吉田証人 知つております。
  380. 横田甚太郎

    ○横田委員 それをひとつ何人でも言つてください。
  381. 吉田幸平

    吉田証人 言います。何名ぐらい……。
  382. 横田甚太郎

    ○横田委員 代表的なものでいい。
  383. 吉田幸平

    吉田証人 まず飯のピンはねをしたのは天野元少尉、山梨県出身、兼平という北海道出身の元中尉、それなんかは、完全にピンはねした日本人の炊事班長です。
  384. 横田甚太郎

    ○横田委員 時間の関係もありますので、簡單に伺います。なぜあなたはソ連に抑留されたと思いますか、もし答えられたら答えていただきたい。ソ連に抑留されるようになつた原因ですね。
  385. 吉田幸平

    吉田証人 抑留されるようになつた原因、私は命令のまま動いたというふうにお答えしておきます。
  386. 横田甚太郎

    ○横田委員 その命令は一体どこから出たのですか。あなたははじめ内地におられたのでしよう。そこをやめて満洲に行かれ、ソ連にお行きになつてソ連にお入りになつたのですか。
  387. 吉田幸平

    吉田証人 やはり天皇制軍隊の一員である私は、そういう命令系統に従つて捕虜になりました。
  388. 横田甚太郎

    ○横田委員 そういたしますと、あなたたちに向つて引揚げの責任を持たなければならない方はどなただと思いますか。たとえば共産党だとか……。たとえばあなたは天皇制軍隊機構によつて満洲へ行かれた。それでその結果としてソビエトに入らざるを得なくなつて来た。こうなんですね。こう解釈していいのですね。
  389. 吉田幸平

    吉田証人 敗戰というものでそうなつたのです。
  390. 横田甚太郎

    ○横田委員 そういたしますと、当然引揚げというものに対して責任を持たねばならないのは、一体どんな機関であつて、だれだということをお考えになつているか。
  391. 吉田幸平

    吉田証人 それはあなたのお考えで……。私は述べることはやめます。
  392. 横田甚太郎

    ○横田委員 その点があいまいだから、私は反動と言われるのではなかろうかと思うのです。なぜかと申しまして、自分の部下を連れておつたときには、あなたはやつたかどうか知りませんが、横つらを張つていばつてつたところの偉い軍の幹部たちが、戰争に対してはだらしなく、ソビエトに入つてつて自分たち自分たちで食うものをごまかしておいて、下の者には食わせないでおいた。こういうふうな小さな事実を言つておりますと水かけ論になりますが、要は引揚げを責任を持つてやり切らねばならない機関というものは、ソビエトなんですか、それともまた日本政府なんですか。そこをはつきりしていただきたい。
  393. 吉田幸平

    吉田証人 ポツダム宣言では何條だつたですか、帰国せしめ、平和産業に服務せしむべしと言いますか、あれをやはり履行してもらいたかつたと思つています。     〔発言する者あり〕
  394. 横田甚太郎

    ○横田委員 まあそうあわてないで……。それで引揚げ促進ためには、たとえばあなたがソビエトならソビエトと皆に教えられてかりに言つたとします。それはどうでもいいが、とにかくいずれにいたしましても、ソビエト日本とは今日のような状態にある、しかもアメリカまでが介在いたしまして、私たちが議会におきましては帰してもらいたいということを何回も言つておる。帰してもらうためには何人の数が必要なんですかと言つているのです。うそだと思つたら速記録をゆつくり読みますが、それによりますと、日本政府といたしましては、責任のあるところの数を発表しておらない。これは倭島さんが何回かにわたつて引揚げ委員会で言つておるが、簡單に言いますと、だからそういうような條件のもとにおきましては、あなたは引揚げ促進ためには一体どういうようなことをしてもらいたかつたとお思いでしようか、その点を聞きたい。
  395. 吉田幸平

    吉田証人 要は早く帰してもらいたい一心一つです。
  396. 横田甚太郎

    ○横田委員 早く帰してもらいたいがために、国内においてはどういうふうな運動が起り、また同時にソ連地区においてはどういうようにやつた方がいいとお思いでしたか。そうしないと政策が一つも立たない。その上に引揚げ問題を促進とか何とか言つて、国内では政争の具にしている。これを効果を上げるためには、向うにおつてつぶさに困つておられたあなたが、こういうようなことをやつてもらいたかつたということをはつきりさせるために、あなたはどういうような政策をお考えになつているのですか。
  397. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 わかりますか。わからなければいいです。
  398. 吉田幸平

    吉田証人 それはやめます。言われたことが私にはわからないのです。
  399. 横田甚太郎

    ○横田委員 りくつを言うと、またさつきみたいになりますから、おとなしくしていればいいのです。それから日本共産党というものが、今この委員会で議題になつておりますように、引揚げ問題を非常に阻害したようにあなたはお考えですか。それでどういう点が阻害したようにあなたはお考えでしようか。
  400. 吉田幸平

    吉田証人 日本共産党の側面的援助といいますか、アカハタ転載記事の持つ、あるいは今まで私が述べて来たように、この帰国問題に結びつく捕虜共産化教育というものが、私自身としては非常に大きく影響したと考えております。それがためにまず民主運動犠牲者が自分であり、なおかつ帰国反対運動の犠牲者は自分である、自分はそう考えておるのであります。
  401. 横田甚太郎

    ○横田委員 今ソ連に何人おると思つておられるのですか。わからなかつたら答えなくていいのですから……。
  402. 吉田幸平

    吉田証人 私の捕虜收容所だけは、ハバロフスクで去年の十二月の終りですが、二千名ばかりおりました。そのほかあつちで何名、こつちで何名だと聞くだけで確実なる数はわかりません。すでに帰還された方からお聞きになつたでしようが、捕虜の間における通信連絡というものは禁ぜられておりますし、ただお互いの情報をそのおつた收容所からこつちに何名、あつちに何名おつたということを聞くだけです。日本において帰国問題がどの程度議会において取上げられ、あるいは日本の輿論としてどの程度になつているかということについても、私たちはラジオも日本新聞も見ることができませんし、ただ向う日本新聞を通じて、小さな窓から日本内地のことだけの状況を判断しているのであつて、大きな問題に関しての記事が出ておつたときには、たとえば去年の九万五千の帰還問題に関してのプラウダに発表になつた記事は翻訳されておりました。あるいは東部ドイツの捕虜の帰還問題に関しては出ておりましたが、内地においていかなる帰還促進問題が行われたか、そういうことは私たちわかりませんでした。
  403. 横田甚太郎

    ○横田委員 わからないことはわからないでいいのです。私は日本人でありまして、日本に生れて、あなた方より不自由な刑務所に長くおつたから、わからないことはよくわかつておりますからそれでいいのです。聞きたいのは、きのうの証言中に、二千名ほどの人があなたと一緒にソ連捕虜になつた。そのうち二百五十名なる人が三箇月の間に死んでしまつた。そういたしますと、あと残つている人たちは三箇月中に健康を回復したのでしようか。どんどん死んでしまつていなくなつたんでしようか、それともあなたはわからなくなつたんでしようか。
  404. 吉田幸平

    吉田証人 その問題は死んで減りましたし、ある人員は入院したり、よその収容所から来て人員の交流はしばしばやるのであります。きようここにおつたが、一箇月のうちにこつちの収容所の者があつちに行くとか、名前こそ私は指揮官であつても、現実下の人とのつながりというものはないのであります。だからきようはあつち、あすはこつちというふうに動きますから、からだが悪いと入院をどんどん励行させましたから、どのくらい死んだという確実なことはわかりませんが、事実減つて行きました。給與と密接な関係があつたと思つております。
  405. 横田甚太郎

    ○横田委員 最後に、引揚げ問題は非常にこじれておると思う。米ソの間において非常な対立がある。アメリカはわれわれ共産党員には見えない国なんだ、それ以外の人たちソ連は見えない国だと言う。捕虜人たちにこまかく聞いてみたところで、これはどこまでが真実性だかわからないと思う。こういうような状態のもとにおいて、引揚げ問題のこじれているときに、日本人としてはどういうふうにしたならば引揚げ問題がうまくすらすらと運んで行くか、いわゆる促進ができるか、あるいはいるとかいないとかいうことがわかるか、こういうようなことについて、帰つて来られた当の責任者として、幾多の辛苦をなめて来られたあなたとして、どういうふうに考えておられますか、その点を承つておきたいと思います。
  406. 吉田幸平

    吉田証人 要は早く船を出して、国へ帰してもらいたいということです。
  407. 田渕光一

    ○田渕委員 横田委員の質問に関連して……。証人が入り当時約一千名率いて入られた。たちまち二、三箇月のうちにその四分の一の二百五十人がなくなつた。まことにお気の毒にたえないのでありますが、このなくなつた方がどういうぐあいに死体を処置され、またソ連はこれをどういうぐあいに弔うてくれたか。私は日本人日本民族としておよそ生まれるとき、結婚、最後の死、この嚴粛な事態の処置がどんなぐあいに行われたかということを目撃したことを伺いたいのが第一点。なぜかというと、ソ連において同胞がなくなつた、その死人の姓名がわからない、数がわからないのは、ここに原因して来る。それからどういうぐあいにされたかという点を伺いたい。たえずきりきりまわしておるということは、結局死んで行つた人の名前を隠蔽せんがためにぐるぐる残つている者を各地区にまわしてしまつたのではないか、こういう点が二点。それからいわゆる反動と目されたあなた方と民主グループにおるものとどういうぐあいに——たとえばなくなつた方がいかに祖国の父母を思い、妻子を思い、どんなぐあいに頼んでこれらが死んで行つたか、こういう状況をお疲れでありましようが、ひとつ詳しくお話し願いたいと思います。
  408. 吉田幸平

    吉田証人 あくまで私の見た現実だけを述べておきます。栄養失調なり、あるいは発疹チブスの伝染によつてたくさんの人が死んで行きました。私は死体を埋めるときに、箱をつくろうとしたのですが、向うは箱をつくる必要がないというので、ジユバン袴下を身体から脱がして、ふんどし一つにして墓場に埋めました。ホールの病院では、死体収容室には下から上に何重にもまつ裸の凍りついた死体が積んであつた。ぐつと押すと、ぼきんと骨が折れる。そういう固まつた何十という死体が積んであつた。そこでは穴掘隊という小隊が編成されまして、それをノルマとして小隊は働いておつた。凍つた土を掘つて、毎日五十くらい埋めておつたのではないでしようか。私ハバロフスク行つたとき見たのですが、日本人捕虜の短かい墓標が六千くらい並んでおりました。死体はまつ裸にされてお経を唱えることもなしに葬り去られて行つたのであります。そうして人名表なども、私たちの方で死んだ人の名前を持つて歩くのに一苦労して、私自身は腰のひもに縫いつけておいたのでありますが、たまたま去年の夏、洗濯場にほしておいたときに、装具検査があつて、それを取上げられて、私自身はそれを持つて帰られなかつたという現実があるのであります。なお入ソして一箇月くらいでしたか、私の收容所で逃亡兵が四名ばかりありまして、鉄條網の近くに電柱があつて、そこで撃たれたのであります。腹を撃たれて横になつた死体を警戒兵が鉄條網から外に出したのでありますが、その夜その死体をこつちにとろうと思つたが、彼らは渡さない。腹だけ撃たれてあき家の中にぶち込まれておつたから、まだ意識がはつきりしておりましたので、お前は現実に逃亡したのか、逃亡しなかつたのかと聞いたのでありますが、彼らは決して逃亡しない、小便中に撃たれたと言つてつた。そういうのが四人くらいあつた向う証言では、彼らは逃亡を企図しておつた、逃亡してはまずいから撃つたのだと言つてつた現実に彼らは逃亡しなかつた現実に逃亡しなかつた人間が撃たれて死んで行くのを、内地の人に伝えでもらいたいと言つて三十分ぐらいで死んで行きました。これは戰軍兵出身の兵隊でありましたが、そのように残念がつて死んで行つたのであります。そのように死んだものの名前すら持つて帰られなかつたのであります。
  409. 田渕光一

    ○田渕委員 もう少し伺いますが、ハバロフスク地区で六千人くらいの墓標を見たというのでありますが、これはあなた方が建てたのでありますか、それともソ連当局が墓標を建ててくれたのでありますか。
  410. 吉田幸平

    吉田証人 私はトムニンの收容所におつたときに、監理局の将校二名と墓掃除に行きました。やがてその地区は閉鎖になるであろうと予想されておつた日本人は穴を掘つて埋めて、大きな木を建てて故何々、何年何月どこそこで死んだと書きますが、向うのは宗教的に違いますのか、全然短かいものを建てるのであります。そしてそれに一連番号を付す。その一連番号がトムニンの墓掃除に行つたときには、墓の員数と人員が合わなかつたのじやないでしようか。一つの墓に三段つくつて三つ墓標を立てて、番号が一、二、三と書いてあつた。それを現実に私たちが見ておりますと、墓場の員数と墓標の員数とが合わない。ある意味において帳簿の整理はできておるが、現実の柱と合わないものがあるのじやないでしようか。
  411. 田渕光一

    ○田渕委員 あなたの部下の二百五十人の死体を埋葬するときに、たとい一言でも南無阿彌陀仏、南無妙法蓮華経、あるいはアーメンでもよろしい、唱えたかつたが、唱えれば反動とか、宗教を信じておると言われるがために唱えられないで、心の中から彼らを祈つて埋葬してやつてくれましたか。それをひとつ……。
  412. 吉田幸平

    吉田証人 初め指揮官であつた当時、死んだ人の前には手を合せて拝み、火葬して遺骨を持つてつた人もおります。そしてわれわれ仲間の和尚さんを呼んでお経を読んだのであります。四七年八月以降カンパとかつるし上げの起る前の状態においては、各收容所、各地域において差はありますが、お経を知つておるような人はやはり読んでくれました。私自身も入ソ当時は、般若経の一つも読んだことを覚えております。それがカンパが盛んになつて、ボルシエヴイーキ的なものに結びつけて行つた以上、日本人の間でも、お経を読みたくても読めないという現実が出て来ました。去年八月平塚運動が盛んになつたときに、アムール、黒龍江でれんが工場の作業で、れんがの下の土をとつたために、上のれんがが落ちて死んだ人があります。その死体は收容所の物品倉庫に一晩入れられたのですが、われわれにはたれが死んだとも何とも言わず、事故があつたそうだということだけわかりました。それはあくる日自動車でどこかへ持つて行つたことを記憶しております。そして次の日ですか、れんが工場の砂とりで一人死んだから危害予防に注意せよというような注意がありました。その程度で何らそこにはお経もなければ、そのまま持つて行かれただけであります。
  413. 田渕光一

    ○田渕委員 まことに聞くも涙ぐましいことばかりで、ソ連の白樺の肥料になれというようなぐあいに取扱われてなくなつて行つた英霊に対して申訳ないのであります。あなた方が捕虜同士で埋葬されたことはともかくとして、万国赤十字あるいは国際法によつてこのことがあると思うのでありますが、ソ連当局が年一回とか二回とか、あるいは日本で言うならば春の彼岸、秋の彼岸というような時期に弔うとか、あるいは国が違い思想が違つても、結局個人としては国家のためにやつて来たのだ、それらに対してどういうような方法を講じなくてはならぬというような片鱗でもありましたかどうですか。
  414. 吉田幸平

    吉田証人 私が墓掃除にソ連将校と一緒に行つたときに、われわれに少々草を刈らせて、墓標の整理をしたということくらいが捕虜監理局のとつた処置じやないかと思います。ただ墓場一つにくい三つ植えなければいかぬというところに、大きな疑問を持ちましたが、監理局としては、やはり死んだ人の墓の員数を合せる、そういうことでやつたものではないかと思います。特別にソ連側として死んだ人の慰霊祭とか、そんなことは一つもありません。
  415. 田渕光一

    ○田渕委員 それはソ連当局の、たとえば捕虜收容所長であるとか、あるいはその監理している者の命令によつて、そういうことが支所なら支所で言われて、それからあなた方がやられたのか、それともあなた方で自発的にやつたのか。
  416. 吉田幸平

    吉田証人 いや向うから来たのです。
  417. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 岡田君、長いですか。長いなら休憩しないと……。
  418. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 二言、三言です。
  419. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それでは岡田春夫君。
  420. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 簡單にお尋ねいたします。先ほどの証言の中で、将校收容所の方へあなたが引き抜かれて行かれたというお話でしたが、これは大体いつごろで、それからどういう理由で引き抜かれるようになつたのですか。
  421. 吉田幸平

    吉田証人 二十二年の四月です。反動としてひつこ抜かれたわけです。
  422. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 それからもう一つはきのうの証言で、大体三つの段階にわけて入ソ中の運動の経過をお話になつたのですが、第一の段階で反軍闘争友の会ができた。この反軍闘争友の会を中心にして、いわゆる反軍闘争が行われて行つた。これは大体次の民主運動に移つで行くわけですね。その民主運動に移つて行つた時期は大体いつごろですか。
  423. 吉田幸平

    吉田証人 各地区で違いますが、大体四六年の三月ごろから少しそういつた気配が見え、五月に木村檄文というものが出て、友の会が編成されて行つたわけで号から……。
  424. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 それじやあなたのいわゆる将校收容所に引き抜かれて行つたというのは、大体反軍闘争友の会が民主運動に移りかけたときに、将校の方へ引き抜かれて行つたわけですね。
  425. 吉田幸平

    吉田証人 はあ、そうです。
  426. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 そうしますと、反軍闘争友の会をやつてつたころに、あなた自身が何か反動分子であるというふうに、向う一般の兵士から相当そういうような非難が出ておつたのではありませんか。
  427. 吉田幸平

    吉田証人 私個人ですか。
  428. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 ええ。
  429. 吉田幸平

    吉田証人 私個人としては、あまりそれは自己批判といいますか、何ですか、ソ連側から完全にブラック・リストに載せられておつた人間である。それからやはりそういつたサークルがぼつぼつ起りかけておりますが、ほかの将校はみなそのサークルにも聞きに行つておりましたが、私は行つておりませんでしたので、かれは完全な頭の固い男だ、もう少しこの流れというもの、收容所というものを見てくれなければ困るというようなことが、民主主義者の方から出ていたことは知つておりますが、実際問題、行政的な、労働とか、收容所経営、そういうようなものからして、何も受取つたことは覚えておりません。
  430. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 しかしあれでしよう。あなたの先ほどからの証言を伺つておりますと、反軍闘争友の会の前後ですね。このころにおいては、いわゆる満洲から、あなた方は兵団のままで連れて行かれたわけですね。満洲から兵団のままで連れて行かれるとすると、その場合には、あなたは大尉の資格において兵卒を何人か連れて行つておるわけですね。反軍闘争友の会ができる前までは、あなたがその一つの集団の責任者として行つているわけですね。この集団の責任者のあなたに対して、その集団の中の兵隊の方から、何らかどうしてくれとか、あるいはあなた自身反動であるとかいうような話が出て来たために、それによつていわゆる反軍闘争友の会ができたときに、将校の收容所の方に連れて行かれたのではないですか。
  431. 吉田幸平

    吉田証人 それは解釈の仕方でしようが、作業現場で部下のために闘わないとかいうようなことを言われたこともあります。中隊長なり大隊長は、向うの事務所に行つて、もつと強くがんがんやつてもらいたいとか、腰が弱くてだめだとか、腰が強過ぎるとか、向うからパーセントがとれないからだめだとか、いろいろな抗議が出ております。しかし民主運動に対して、民衆はそんなにまで大衆化されておりませんし、やはり限られたある一部の人の——友の会自体はそういつた事態ですから、そんなにまでイデオロギーと結びついてのものはありませんでした。私はそれよりも直接ソ連側と、それから当時木村檄文という——木村大隊長というのは、私の收容所に大隊長で来ました。ですからそれが大分ソ側に私を売つたものと思つております。
  432. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 もう一つ。あなたの証言の中に、地名を忘れましたが、何とかという所で、あなた方将校だけの収容所のときに、ハンストを行われた、こういうことがありました。そのハンストというのは收容所全体が行つたのですか。
  433. 吉田幸平

    吉田証人 私たちいわゆる反動と彼らが言う者だけでやつたのです。
  434. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 そうするとその收容所というのは、将校だけの收容所でありましようか。
  435. 吉田幸平

    吉田証人 それは将校が半分と前職関係憲兵警察特務機関、そういつた人たちがおりました。
  436. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 そうするとその収容所の中で、大体ハンストに入つたのは何人くらいですか。
  437. 吉田幸平

    吉田証人 七十名くらいです。
  438. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 その七十名くらいの中で——あなたの御記憶があればですが、ハンストに入られた七十名の人は大体兵卒であつたか、将校であつたか。
  439. 吉田幸平

    吉田証人 全部将校です。
  440. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 将校ばかりですか。
  441. 吉田幸平

    吉田証人 はあ。
  442. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 そうすると……。(発言する者あり)もうすぐ終ります。簡單です。最後にお伺いしますが、これは一番重要な点ですが、再三ほかの人からも質問があつて、あなたが証言されておられると思うのですが、はつきりしておかなければならない点は、日本では徳田球一氏が、反動分子は帰すなと言つたということを向うの方から、あなた方が向うにおられたときに、言われたということが実際一番問題になつているわけです。こういう事実がほんとうにあつたのかなかつたのか。あなた御自身お聞きになつたのかならなかつたのか。きのうの証言をもつてすれば、あなたのところには何か徳田球一氏の手紙日本新聞に出て、反動分子は気違いであるとか何とかいうことはあつたけれども、しかしながら帰すなということはなかつたように証言をされておりますね。この点をもう少しはつきりここでしておいていただきたい。
  443. 吉田幸平

    吉田証人 反動を帰すなという……。
  444. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 ということは言つておりませんね。
  445. 吉田幸平

    吉田証人 ということは言つていないけれども、手紙とかその他のものから見て、あるいは暴言を吐かれておることから見て、大体状況を判断できるのじやないか。
  446. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 そうするとあなたの判断として、帰すなというように感じたといろ意味でしたね。
  447. 吉田幸平

    吉田証人 そうです。
  448. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 それで手紙には、帰すなということがあつたわけではないのですね。
  449. 吉田幸平

    吉田証人 手紙には、ともに闘うということが書いてありました。
  450. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 手紙には、日本新聞に……(「言うた通りじやないか」と呼ぶ者あり)そうですか。もう一つ日本新聞アカハタのことがずいぶん書いてあつたということを言つておりましたね。
  451. 吉田幸平

    吉田証人 はあ。
  452. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 それから日本新聞の中に、反動分子、あるいはその他そういう人々に対して、ボロくそにいろいろ書いてあつたときのう御証言でしたね。これは日本新聞記事であつたか、アカハタ記事を転載したものであつたか、その点をはつきりしていただきたい。
  453. 吉田幸平

    吉田証人 アカハタから転載の記事もありましたし、日本新聞社自体で書いた記事もありました。
  454. 岡田春夫

    ○岡田(春)委員 そうですが。それではこういう点も、もう少しあれしたいのですが、皆さんあまり時間が長くなつて困るようですから、先ほどあなた御自身——一番重要な点なんですが、徳田球一氏自身が帰すなというような点は、見ておられない。しかしあなた自身は、向うにおいては反動分子といろ烙印を押されておる。そこでその立場から見ると、徳田球一氏の書いておる手紙は、帰すなとは書いてなかつたけれども、帰すなという意味と解釈したと、こういう意味でありますね。
  455. 吉田幸平

    吉田証人 暴言を吐かれでおりますし、そういつたことからそういう推察をいたします。
  456. 小玉治行

    ○小玉委員 ちよつと一点だけ……。あなたは肉体的、精神的、あらゆる迫害にあつて民主化されず、結局反動分子という刻印を押されておつたわけですが、しかも四回も帰るということをそのためにストップされた。にもかかわらず今日あなたが帰れたというのは、ソ連側から見ればこれは度しがたいものだ、いかに民主化教育を嚴重にやつてもあなたは転向せぬ、こういう転向せぬものをソ連に置いても無意味である。あるいはなおこの転向しないものを置いておくことは、逆にいわゆる民主化運動を妨げる、非常に阻害するというような見地から、結局あなた方の帰還というもの、反動分子と目されるものの帰還を許すということになつたのではないかというふうに私はちよつと想像してみたのですが、あなたのお感じと申しまするか、また現実と申しまするか、それはどういうふうに考えておるか、承りたい。
  457. 吉田幸平

    吉田証人 帰還命令が出た場合に、ソ側から日本アクチーヴは何で反動を帰すのかと言つて来ます。そういつた場合に、私たちは今度帰るときまつた場合に、あの人たち民主化されず、置いても働かないから帰すのだ、民主グループはそういうことを言います。
  458. 小玉治行

    ○小玉委員 結局異端者で度しがたいものだ、そういうふうなこと……。
  459. 吉田幸平

    吉田証人 いよいよ私ちが決定になつた場合には、アクチーヴはそんなことを漏らしています。
  460. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 向う民主グループがいろいろな組織をつくつて、そうして反動に対抗し、そのため反動分子とみなされる人が帰れる時期に、いろいろな反対運動が起きて帰れなかつたということですが、今までのあなたの証言から考えて、民主グループ人たち日本のいわゆる共産党と言われる政党と相当な連繋があり、また何らかの関係を持つていられるとあなたは考えておられますか。
  461. 吉田幸平

    吉田証人 彼らはしばしば言います。われわれの運動は日本共産党に直結しているものであると……。
  462. 佐々木秀世

    ○佐々木(秀)委員 そうしますと、要するに民主化運動をしておる人たち日本共産党と完全に関係があるということは、その人たちから証言されたと思うのです。そうするとその人たち行動というものは、日本共産党のいわゆるいろいろな指令とまでは行かないかもしれませんが、いろいろな方針に従つて反動分子帰国を遅らせるということを、あなたは考えられますか。
  463. 吉田幸平

    吉田証人 いわゆる日本新聞というものはすべての組織つたと思つております。日本新聞がどんな新聞であるか解剖されたら、それはわかると思います。
  464. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 さつき石田委員がおられなかつたから延ばしておつたあのことを、ひとつ答えてください。簡単でいいですから……。
  465. 石田一松

    石田(一)委員 今私の名前が出たから聞きますが、それは何を答えるのですか。
  466. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 調査員と打合せしたということはないけれども、調査に来られて会つたことはあるというのです。そのことをこまかく聞くということです。
  467. 石田一松

    石田(一)委員 昨日私が聞きましたことは、そんなこまかくも何も……。
  468. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 何か打合せというので答えられなかつたというから……。
  469. 石田一松

    石田(一)委員 それについては、私が何度も何度も聞いたけれども、ただそれだけしか証言がなかつた。それを違うということを委員長は御存じなんですか。
  470. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはわかつておる。調査員が会つていることは事実なんだから……。それは本人が言つたのだからよいじやないか。
  471. 石田一松

    石田(一)委員 それはおかしい。そうすると、私のきのう聞いていた証言では聞き足りないから、そこのところはもうちよつとわかつておるから、それであなたの方から証言を求めておいて、私の言つたのよりか何か違つた事実をつけ加えさせる、こういうことですか。
  472. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 考え違いをしておつたらしい。調査員に会つたことは間違いない。そういうことです。
  473. 石田一松

    石田(一)委員 それならまだ実は私が質問したいことがある。一つだけ質問させてください。これは昨日の証言では、電報は三十一日までに来いという電報だつたので、二十八日に向うをたつて、二十九日に着いて、事務局に行つたとおつしやる。それは間違いがありませんね。
  474. 吉田幸平

    吉田証人 間違いありません。その前に原口調査員に岐阜で会つておりますから、そのことを——日時の観念がありませんでしたので、前言を取消しておきます。
  475. 石田一松

    石田(一)委員 そうすると、あなたは三十一日までに来いという電報だつたから、それで二十九日に来て、事務局に行つた。こうおつしやるのですね。それは何か錯覚じやありませんか。思い違いではありませんか。おかしいですよ。
  476. 吉田幸平

    吉田証人 二十六日の日に原口調査員が岐阜に来られまして……。
  477. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ちよつとお待ちください。証人は昨日は、原口が二十七日に来られたと言つておりました。
  478. 石田一松

    石田(一)委員 そうするとまた違うのですか。
  479. 吉田幸平

    吉田証人 二十六日に来られて、二十七日の夜出るのが出られなくて、二十八日の夜出ました。
  480. 石田一松

    石田(一)委員 そうするとあなたは二十七日に出るのが出られなくて、二十八日夜出た。そうすると二十七日電報をお受取りになつたのですね。今の証言ではそうなりますね。
  481. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 いやこういうのだ……。
  482. 石田一松

    石田(一)委員 あなたはそういうことを言つてはいけない。証人証言を求めておるのだ、証人が答えたらそれでよいのだ——支離滅裂じやないか。
  483. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 なぜこの問題が出たかというと、あなたが……(石田委員「その記憶を聞いておるのだ」と呼ぶ)実際出張した調査員に何日に出張したかということを報告してもらうということで、調査員から私の方へそれが出ておる。そこで私はそういう事実があつたかどうか聞いておるのです。
  484. 石田一松

    石田(一)委員 もう一ぺん聞きますが、二十七日出ようと思つたが、出られなかつた。二十六日に調査員が来た。二十七日に出られなかつたので、二十八日に出た。そうすると二十七日に出ようと思つたのが、二十七日に電報が来たから……。
  485. 吉田幸平

    吉田証人 大体調査員が来られましたので、私も上京しようと思つて、二十八日に正式なものを受取つたわけであります。
  486. 石田一松

    石田(一)委員 二十八日の何時ごろですか、電報を受取つたのは。
  487. 吉田幸平

    吉田証人 お晝ごろだつたと思います。
  488. 石田一松

    石田(一)委員 そうするとそれは間違いありませんね。はつきりしてください。
  489. 吉田幸平

    吉田証人 二十八日です。
  490. 石田一松

    石田(一)委員 こちらから電報を打つたのは五時一分に発電しておる。それが二十八日晝に電報を受取るというのは、こちらから電報を打たなかつたということになる。
  491. 吉田幸平

    吉田証人 それは調査員に聞いてもらつたらわかります。
  492. 石田一松

    石田(一)委員 それはあなたがいいかげんなととを言つておるからこういうことになる。三十一日まで来いという電報だから二十八日来たとおつしやる。その電文は三十一日午後一時本委員会に出頭せられたし考査委員長という電報である。三十一日午後一時に来いと指定しておる。三十一日までに来いといつたから、二十八日に事務局に行つて必要な証言をしたという、おかしいじやありませんか。
  493. 吉田幸平

    吉田証人 原口調査員にそのことを調べてもらいたい。
  494. 石田一松

    石田(一)委員 あなたに聞いておるのだ。もう一ぺん聞きますが、きのう私が聞いてから、それから後また事務局の者とお会いになつたね。
  495. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは会つていない。
  496. 石田一松

    石田(一)委員 日にちを事務当局にお聞きになつたのは……。
  497. 吉田幸平

    吉田証人 日にちは大体自分でずつと記憶をたどつてみたんです。
  498. 石田一松

    石田(一)委員 ではお会いにならないんですか。
  499. 吉田幸平

    吉田証人 だれにも会いません。
  500. 石田一松

    石田(一)委員 だれにも会わないですか。
  501. 吉田幸平

    吉田証人 ゆうべは会つていません。けさ来たときに、委員会はどこへ行つたらいいかということを聞いたのです。
  502. 石田一松

    石田(一)委員 けさ来たときには、事務当局にお会いになつたんですね。
  503. 吉田幸平

    吉田証人 事務局へ行つて、こちらの証人の部屋に……。
  504. 石田一松

    石田(一)委員 おかしいな。原口氏一人しか行つていない、こういうことであります。とにかく私は一言申し上げておきますが、要するに原口という人を、理事会でもいいから、参考人、あるいは証人として呼んでいただくということを再確認してください。原口君あたりの証言、あるいは参考意見を聞きまして、しかる後にこの証人証言を聞かなければ、こういうふうにきのう、おとといの記憶が全然薄らいでいるにもかかわらず、三年も四年も前のことがすらすらと述べられるこの事実が、奇怪しごくなんです。この点についてはまことに疑問が多々ありまして、われわれがこれを判断する上においても、証人の信憑性を疑いたくなる。その点で原口調査員証言を求めた後に、あらためてこの証人証言を求める、こういうことにとりはからつでもらいたいと思います。
  505. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 もう一つ聞きますが、原口氏は二十六日に行つて、二十七日にもあなたのところで会つているんじやないですか。
  506. 吉田幸平

    吉田証人 二十七日の朝ちよつと来られました。
  507. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうでしよう、二度会つておられましよう。
  508. 吉田幸平

    吉田証人 はあ。     〔「なんだ二度会つておるじやないか」と呼び、その他発言する者あり〕
  509. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはよく記憶を呼び起してください。今立調査員と、その前にあなたは東京へ出られたことがありますね。参議院の何かで……。
  510. 吉田幸平

    吉田証人 GHQに呼ばれて、この前の徳田要請問題のときに私傍聴しました。
  511. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その前に今立君、これは名前はちよつと知らぬが、あなたの方へいつ出るからという電報が行つてつたということはありませんか。
  512. 吉田幸平

    吉田証人 あります。
  513. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ところが電報は来たけれども、あなたは東京へ出て来られてから、今立という人と会われたことがあるでしよう。     〔「なんだ事前の相談じやないか」と呼び、その他発言する者あり〕
  514. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そういうことは何でもないことだ。言うてもらわなければならぬ。
  515. 吉田幸平

    吉田証人 個人的に、私の学生時代の先輩でもあつた関係で、就職方を強く依頼しておりましたので、そういつた問題を出すのはどうかと思つて控えておつたわけです。
  516. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 調査員から、実際にこういうことがあつたからと言つて来ておるから、その調査員の言うことがほんとうかどうか聞いておるのです。——それでは済みました。御苦労さんでした。それでは午後三時まで休憩いたします。     午後二時三十四分休憩      ————◇—————     午後六時七分開議
  517. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 休憩前に引続き会議を開きます。  ただいまお見えになりました証人は亀沢富男さんですか。
  518. 亀沢富男

    ○亀沢証人 はい。
  519. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 これより日本共産党の在外同胞引揚妨害問題につき証言を求めることになります。  証言を求める前に、各証人に一言申し上げますが、昭和二十二年法律第二百二十五号議院における証人宣誓及び証言等に関する法律によりまして、証人証言を求める場合には、その前に宣誓をさせなければならぬごとと相ぬつております。  宣誓または証言を拒むことのできるのは証言証人または証人の配偶者、四親等内の血族もしくは三親等内の姻族または証人とこれらの親族関係のあつた者及び証人の後見人または証人の後見を受ける者の刑事上の訴追または処罰を招くおそれのある事項に関するとき、またはこれらの者の恥辱に帰すべき事項に関するとき、及び医師、歯科医師、薬剤師、薬種商、産婆、弁護士、弁理士、弁護人、公証人、宗教まだは祷祀の職にある者、またはこれらの職にあつた者がその職務上知つた事実であつて黙秘すべきものについて尋問を受けたときに限られておりまして、それ以外には証言を拒むことはできないことになつております。しかして、証人が正当の理由がなくて宣誓または証言を拒んだときは、一年以下の禁錮または一万円以下の罰金に処せられ、かつ宣誓した証人が虚偽の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処せられることとなつておるのであります。一応このことを御承知になつておいていただきたいと思います。  では法律の定めるところによりまして証人宣誓を求めます。御起立を願います。     〔証人亀沢富男君朗読〕    宣誓書   良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又何事もつけ加えないことを誓います。
  520. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 署名捺印を願います。     〔亀沢証人宣誓書に署名捺印
  521. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 こちらから聞くときはかけておられてよろしいですが、答弁せられるときは立つて答弁せられるように。それから答えは、こちらから聞いたことに関する答弁だけにしていただきたい。簡明に願います。  亀沢富男さんですね。
  522. 亀沢富男

    ○亀沢証人 はい。
  523. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたは応召前に何をおやりでした。
  524. 亀沢富男

    ○亀沢証人 満洲の東満三江省勃利県勃利街におきまして、満洲国の官吏をしておりました。
  525. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それから入ソされた後、今日までの概略をお聞きしたい。
  526. 亀沢富男

    ○亀沢証人 昭和二十年九月九日、満洲国東京城におきましてソ連軍の捕虜となりました。そうして昭和二十年十二月、満洲国掖河第二陸軍病院——これはソ連軍経営の病院であります。この病院に主計課勤務員として勤務、そうして昭和二十一年四月、ソ連軍とともにシベリアに入りました。そうしてウオロシーロフ地区ルイチキにおりました。そうして二十二年六月ラゾウに転属しました。二十二年十月ワイズビジエンコ、二十二年十二月にレエンチホフカに参りました。それから以後帰国するまでレエンチホフカにおりました。
  527. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなた方の収容所において、いろいろ移りかわりがあつたようですが、民主グループというものができたそうですね。
  528. 亀沢富男

    ○亀沢証人 はい。
  529. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはどういうことでできました。
  530. 亀沢富男

    ○亀沢証人 それは大体友の会というものから民主グループに進んだのでありますが、友の会、これは各収容所によつていろいろ名前が違いましたけれども、われわれの收容所におきましては、日本新聞の提唱によつて友の会となりました。私どもの友の会が生まれましたのは、二十一年十二月です。
  531. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その前は、あなた方は何と言つておりました。
  532. 亀沢富男

    ○亀沢証人 その前には、私たちはそういつた組織を持ちませんでした。二十一年十二月にレエンチホフカにおいてできたのであります。そうしてそれが翌年の四月に民主グループにかわつたのであります。どうしてかわりましたかというと、初め友の会というものができました当時におきましては、われわれ全体の意見をソ連側に対して要求するという、そうした一つの機関、それと同時にもう一つは、われわれ收容所において、明朗生活を営む上に、そういつた所内の美化、衛生とか懇親をはかるという意味におきましてできたものであります。それが二十二年四月になりまして、大体個々的には民主グループ、要するにマルクス主義の研究会というものが、友の会が発足当時からできたのでありますが、民主グループとして発足いたしましたのは二十二年の四月であります。そうして民主グループのスローガンとして掲げましたのは、反軍闘争ということに闘争の主眼が置かれました。要するにそういつた友の会当時のマルクス主義研究会というものを、ソ連側が指導しまして、それとともに日本新聞の言うところの天皇制打倒、反軍闘争ということと結びつきまして、そこに密接なる民主運動の展開が始まつたわけであります。
  533. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 民主グループができた。そこであなたは民主グループの一員となつて、いわゆる反動分子というものとの闘いをやられたということですが、そういう事実がありますか。
  534. 亀沢富男

    ○亀沢証人 あります。
  535. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ところが帰られてからその心境はかわつて、それと反対の態度に出られたようでありますが、これはあなたの手紙のようですが、これを読んでみると、そのことがよくわかるのですが、これはあなた、どこにお出しになつたのですか。
  536. 亀沢富男

    ○亀沢証人 それは昨年参議院の在外同胞引揚特別委員会であります。
  537. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはどういうところから、こういうように心境がかわられたのですか。その前に、あなたはほんとうに民主グループになつておられたのですか。
  538. 亀沢富男

    ○亀沢証人 なつておりました。
  539. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうしてまつたくかわつたわけですな。そのかわつたのはどういうわけですか。
  540. 亀沢富男

    ○亀沢証人 ちよつとその前にお話しますが、私がこのマルクス主義に興味を持つたのは、十五、六のときからであります。そうしてわれわれは入ソする前から、このマルクスの広範な理論に対して非常に興味を持ち、また青年としてのいろいろなあこがれを持つておりました。そうして入ソして日本を救わんとして、その道をマルクス主義、ロシア共産党によつたわけであります。われわれが日本に上陸いたしまして、なぜ転向しなければならなかつたかという問題につきまして、私は日本に上陸して、いかに日本の祖国が美しいものであつたか。またわれわれに対して示した、日本人たち人間としての、われわれにほんとうに御苦労であつたという気持に対して、自分たちが学ばされた理論から行きますれば、結局世界を統一した一つ民族一つの言葉、一つの文化によつて結ぶところの、単一民族を形成するのが、われわれ共産党の終局的の目的である。そういう意味におきましては、結局この日本の国、日本民族というものをつぶさなければならない。しかしわれわれはこの美しい日本をつぶさなければならないかと思うとき——こういうことはほんとうに外国におつた者こそが初めて日本の美しさ、いかに自分が祖国を愛しておつたかということがはつきり言えると思うのです。そうして自分日本に上陸すると同時に、日本共産党のとつておる態度がいかに大衆に愛されていないか。どうして大衆に愛されていないかという問題を考えたときに、自分ははつきりと、自分考えをかえなければいかぬと思つたのであります。それから約一年、この事実について客観的に研究したのであります。これが現在このような行動をとるに至つたのであります。
  541. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 さつき聞くのを忘れたが、帰還されたのはいつでした。
  542. 亀沢富男

    ○亀沢証人 昭和二十三年の十月一日でありました。
  543. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 大分早かつたのですね。民主グループから、さらに反ファシスト委員会というものが持たれたということですが、それはどうですか。
  544. 亀沢富男

    ○亀沢証人 ありました。
  545. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはどういうことからそうなつて、そうしてどういうことをやつてつたか。
  546. 亀沢富男

    ○亀沢証人 反ファシスト委員会という組織ができましたのは昭和二十二年十一月でありますけれども、それが全地区にでき上りましたのが昭和二十三年の五月から六月ごろであります。そうして反ファシスト委員会が一番初めにあげましたスローガンは民主民族戦線の旗のもとに結集せよ。要するに日本を米国の植民地化より救うためには、あらゆる階級、あらゆるものを動員して、われわれは米国に対して闘わねばならぬという意味において、民主民族職線の旗のもとに結集せよということが、この結集に際して掲げたスローガンであります。本質的には反フアシスト委員会というものは、全員シベリア共産主義運動でありますとか、そういつたものによつて訓練され組織されて、各個人々々がほんとうにオルグとして、または細胞として、共産党員としての活動ができるという段階にならなかつたら、言いかえれば全収容所員が共産党党員、もしくは共産主義によつて徹底的に闘争するという資格といいますか、それだけの雰囲気が構成されなかつたら、反フアシスト委員会はできなかつたわけであります。そうして反ファシスト委員会目的は、今まではソ連にわれわれはあらゆる部面において援助してもらつた。しかしこれ以後は、われわれ自体は完全に組織された一つの団体として、言いかえれば日本共産党の準団体としてわれわれは行動しなければならぬ。その意味において指導者はソ連でなくて日本共産党である。ソ連におけるわれわれ反ファシスト委員会日本共産党に直結するものである。そういつた構想のもとにわれわれは行動して来た。でありますからわれわれは日本新聞というものから日本共産党というものに対して、共産党は今度はこう言つた、これは誤つておる。これはいい。こういつたものについて論じたのであります。でありますからソ連側政治部員は、それに対しては非常にわれわれの自治性といいますか、自主性というものを認めまして、ソ連側はすべてのものに対して、決定権は表面的には持ちませんでした。
  547. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 目的はそういうことでできたかしらぬが、事実においては反動分子を特別待遇して、もしくは帰還を遅らしむる委員会になつたという人がおりますが、その点はいかがですか。
  548. 亀沢富男

    ○亀沢証人 反フアシスト委員会といいますか、要するに先ほど自分が言いましたように、全員が共産党員たるの資格がなければならぬ。言いかえれば、今までの民主グループをさらにあらゆる面において大きく組織し、生産競争を激化し、政治サークルに、文化面に、あらゆる闘争を激化して、われわれ個人々々に物事を思考するだけのひまを與えない。そういつた者をつるし上げなければ、つるし上げるぞといつた非常な緊迫したところの雰囲気を醸成しておつたのであります。そうしてお互い周囲を警戒し合うということでやつて来たのでありますが、要するに反フアシスト委員会の最も大きな目的は、全員が共産党員たるの資格がなかつたら、反フアシスト委員会はできないのでありますから、表面的には反フアシスト委員会は、一つ組織された共産党の準団体でありまして、反動と名乗つたものは一人もおりません。隠れたところの、ひより見的なそういつた不純分子、もしくはアナーキストとか、あらゆるイズムを持つた人間、それを発見するという意味において、あらゆる方面におきまして準備されたところの組織であると思います。
  549. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたの手記にもずいぶん書いてあるが、そのため反動分子と見られたものは、いろいろな虐待を受けた事実はあるわけですね。
  550. 亀沢富男

    ○亀沢証人 あります。
  551. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなたは日本新聞関係しておられたそうですね。
  552. 亀沢富男

    ○亀沢証人 私大体在ソ三年間、日本新聞の解説責任者、または新聞輪読会、そういつたものについて責任を持つてつておりましたけれども、それとともに日本新聞の編集員でありました。編集員というのは連絡員であります。
  553. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 新聞社に入つてつたんじやないですね。
  554. 亀沢富男

    ○亀沢証人 違います。
  555. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 連絡員ですか。
  556. 亀沢富男

    ○亀沢証人 はい。
  557. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 社における編集の方法、方針等は御承知ですか。
  558. 亀沢富男

    ○亀沢証人 客観的には存じておりますけれども、しかしそれに対して的確な資料を持ち合せておりません。
  559. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それから大体どんなような方針で日本新聞がやられておつたと聞いておりますか。
  560. 亀沢富男

    ○亀沢証人 太平洋の星と連繋してやつておるとか、大場三平、というペンネームを持つておるロシヤ人であるとか、そういつたこと、発行部数三十万、一番出したときは八十万出したとか、客観的事実しか知りません。地区的に非常に離れておりましたから……。
  561. 鍛冶良作

  562. 亀沢富男

    ○亀沢証人 日本共産党との関係におきましては、私の記憶する範囲においても、相当な資料というものは出て参りますけれども、大体二日か三日おきにアカハタ記事は転載されておりました。
  563. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 アカハタ記事以外に、日本共産党からいろいろの記事なり、論説なりが送られたようなことはありませんか。
  564. 亀沢富男

    ○亀沢証人 送られておりました。
  565. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういうものが載りましたか。始終載つてつたことは御承知ですね。
  566. 亀沢富男

    ○亀沢証人 はい。
  567. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 たいてはどういうような人の名前が出ておりましたか。
  568. 亀沢富男

    ○亀沢証人 その場合においては非常に文学的な作品であるとか、またはルポルタージュであるとか、そういつたものであつて、そのほかにおいては中央委員ですか、伊藤律さんの名前とか、春日庄次郎さんの名前とか……。
  569. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そのほかにお覚えになりませんか。
  570. 亀沢富男

    ○亀沢証人 よく載つてつたのはその範囲でありますけれども、そのほかに野坂參三氏なんかのも二、三見ました。
  571. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それで日本新聞というものは、収容所の各捕虜に対してどのくらいの影響力を持つておりましたか。
  572. 亀沢富男

    ○亀沢証人 要するにわれわれが新聞に臨んだ態度は、指導者であり、組織者である。この言葉で足りると思います。ですから日本新聞は、われわれの無二の聖典であります。
  573. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ほかに頼るべき文化的なものはなかつたわけですね。これを唯一にしておつたというわけですね。
  574. 亀沢富男

    ○亀沢証人 初めの段階においては……。われわれが帰つた後の段階においては、いろいろな向うの翻訳ものといつたものなどで輪読会を組織いたしまして、啓蒙したということを聞きましたが、われわれの段階においては、日本新聞が一番大衆的であり、かつまた効果的であると思いました。
  575. 鍛冶良作

    鍛冶委員 先ほどあなたがおつしやつたが、反フアシスト委員会なるものは日本アメリカの植民地化から防ぐ、こういうことになるようにおつしやつたが、そうしてみると、ソ同盟のうちでは、要するに反米の教育、反米闘争の指導、こういうことが行われておつたんですね。
  576. 亀沢富男

    ○亀沢証人 はい。第三次世界戦争の挑発者、米英主義者を地球上から抹殺せよ、これがスローガンであります。
  577. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 さらにその上に、日本アメリカに隷属しておる限りは、日本そのものに対しても闘いをいどむというようなこともあつたんですか。
  578. 亀沢富男

    ○亀沢証人 それは当然言えることじやないでしようか。要するに米国資本にあやつられるところの日本の資本家、そういうものに対して闘争をいどむということは当り前のことであります。
  579. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 次に今新聞記事としてごらんになつた以外に、日本共産党の幹部から捕虜人々に対しての通信その他をごらんになつたり、聞いたりせられたことはありませんか。
  580. 亀沢富男

    ○亀沢証人 あります。
  581. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういうものをごらんになりました。
  582. 亀沢富男

    ○亀沢証人 私が見ましたのは、昭和二十三年の五月に、ウオロシー口フ地区一帶にわたつて参りましたところの、日本共産党徳田書記長からの、万国赤十字社のスタンプの入つたところの往復はがきであります。
  583. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういう内容のものでしたか。
  584. 亀沢富男

    ○亀沢証人 これは通信規定でありますが、片かなで、お元気にてソ同盟強化のため邁進され、りつぱな闘士として帰国され、反動に対してともに闘う日の来ることをお待ちいたしております、そういつたようなものでありました。
  585. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは徳田書記長としてですね。
  586. 亀沢富男

    ○亀沢証人 そうです。
  587. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そのほかには。
  588. 亀沢富男

    ○亀沢証人 伊藤律さんとか、またそういつた人名前で来ておつたことを、二、三聞きました。
  589. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 伊藤律そのほかだれです。
  590. 亀沢富男

    ○亀沢証人 はつきりした人の名前は、それだけであります。結局自分日本人捕虜としまして、その当時自分の妻子もしくは親に出せといつたせつかくの貴重なる万国赤十字社の厚意によつて出されたはがきというものを、われわれ自体が、日本共産党の指導者に対して使わなければならないような雰囲気に追い込まれておつたということは、非常に悲しむべき状態だと思います。
  591. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ところがあなたのこの手紙を見ますと、書簡を提出せし理由は、現在国会で問題とされている日本共産党徳田書記長ソ連中央政治局に対し、反動分子を帰すなと要請したと言われているそのことにつきましてでございます。私は自分の目で見、自分の耳でソ連の中隊長政治部員より、直接個人的に聞き見たのであります、こうなつておりますが、これはどういうことでありますか。
  592. 亀沢富男

    ○亀沢証人 その事実もありました。
  593. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それはどういうことですか。
  594. 亀沢富男

    ○亀沢証人 それは二十三年の九月四日であります。やはり同じウオロシーロフ地区のレエチチホフカ收容所の中隊長キシロフ大尉から、個人的にその書簡を見せていただきました。しかしわれわれの状態におきまして、その書簡を見せてもらつたからどうのこうのというのではなくて、中隊長自身はわれわれの帰国命令を知つてつたようでありまして、われわれはその帰国命令が来てから一週間後に当地を出発しました。
  595. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 どういう内容のものでしたか。
  596. 亀沢富男

    ○亀沢証人 それは、貴国の厚意によつて優先的に送還されたところの身体虚弱、素行不良者の言動が署しく反民主的にして、党活動に大なる支障を来すものである、ゆえに願わくば貴国の厚意によつて、思想的に肉体的に強固なるものを送つてくれるようにといつたことを希望した手紙でありました。但しそれは印刷した手紙でありまして、ただこれを読んでくれ、徳田書記長が言つて来たのだと言つて、キシロフ中隊長が私に見せたのであります。
  597. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 その手紙徳田氏から来た手紙そのままでありますか。
  598. 亀沢富男

    ○亀沢証人 いや印刷体であります。
  599. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 日本文ですか。
  600. 亀沢富男

    ○亀沢証人 いやもちろんロシヤ語です。
  601. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうすると、徳田氏から来た直接の手紙ではありませんね。
  602. 亀沢富男

    ○亀沢証人 ありません。私も少しロシヤ語がわかるのでありますが、キシロフ中隊長が、その手紙を見せながら、ロシヤ語と日本語とまぜて私に語つたのでありますけれども、距離が一メートルぐらいで、私もその内容を見たのでありますけれども、大体においてキシロフ大尉の言うのと同じ意味のことが書いてありました。なおそのほかに三枚と記憶しておりましたが、大体四枚の青い用紙でありまして、あて名は收容所長になつております。
  603. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは手紙の原文でしたか。
  604. 亀沢富男

    ○亀沢証人 それは封筒の上書きであります。
  605. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは日本語ですか。
  606. 亀沢富男

    ○亀沢証人 もちろんロシヤ語であります。
  607. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 ロシヤ語で日本から出たそのままのものですか。
  608. 亀沢富男

    ○亀沢証人 いや違います。日本から出た通信ではありません。
  609. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そうすると、日本から来たものを、ロシヤ語に直して持つて来て見せたわけですね。
  610. 亀沢富男

    ○亀沢証人 まあ私のその当時の状況判断でありますけれども、これはおそらくハバロフスクもしくはモスクワから、各政治部員に対して、日本人捕虜教育のために送つた文書だと思います。だから徳田要請はその文面からすればあつたということになります。しかしその周囲の状況から見まして、自分自体としては、当然あるべきことであると、そのこと自体は何にもふしぎに思わなかつたのであります。今ここでその問題について、それは印刷体であるかという委員長の質問でありますけれども、それは政治部がそういう書簡をわれわれ捕虜の政治教育のために利用したということは考えられます。それは印刷体でありましたから、各收容所政治部員に送つたものと考えております。
  611. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 思想的、肉体的に健全なものにして帰してくれ……。
  612. 亀沢富男

    ○亀沢証人 帰すなとは書いてありません。ただ思想的、肉体的に健全な者を帰してくれというのでありまして、要するに、一番初めに送つた素行不良者と身体虚弱者の言動は著しく反民主的であつたということは、日本新聞にも載つておりました。
  613. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 そういう者を帰さずに、健全になつた者を帰してくれというのですね。
  614. 亀沢富男

    ○亀沢証人 はあ。
  615. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 あなた方帰られるときに、ソ連に対して誓いか何かを、させられたとか、したとかいうことがありますか。
  616. 亀沢富男

    ○亀沢証人 それは何回もして、別にこれこれと言つて取上ぐべきものじやないと思います。われわれは、五箇年計画を四箇年で遂行しろ、もしくは現在やつている仕事は何時間でやれという誓いは、一週間に一ぺんぐらい立てております。
  617. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 それは自分で自発的にやるのか。
  618. 亀沢富男

    ○亀沢証人 各収容所で、アジプロでやつたのであります。大体各收容所におきましては、一箇月もしくは一週間の仕事の割当量が来ております。それに対してわれわれは毎日のように誓いを立てたのであります。
  619. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 帰国にあたつて特にやりませんでしたか。
  620. 亀沢富男

    ○亀沢証人 やりませんでした。
  621. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 本会議の都合上、吉田、上村両証人の尋問はこれを延期し、本日はこの程度にいたしまして、明後日十一時より続行いたしたいと思いますが、御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  622. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 御異議なしと認めます。
  623. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 なお三日に証人として出頭を求めることに決定しておりました山口茂・久保田善藏、小笠原唯雄、日高清、橋本忠義の五君は、四日に出頭を求めることに変更いたしたいと存じますが、御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  624. 鍛冶良作

    鍛冶委員長 御異議なしと認めます。それではさよう決しました。  亀沢証人、上村証人に申し上げますが、本会議との関係もあり、時間も大分遅くなりましたので、お待たせいたしましてまことに恐縮ですが、明後日三日午前十一時に出頭を願うことに決定いたしましたので、さよう御了承願います。  それでは本日はこれにて散会いたします。     午後六時四十二分散会